人外魔境
地軸二万哩
小栗虫太郎
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──折竹氏、中央亜細亜へゆく。世界の屋根、パミール高原中の大魔境「大地軸孔」をさぐるため、近日ロンドンを出発、英印連絡空路により、アフガニスタンのグワダールへ赴く予定。
とこんな記事が、ロンドン中の新聞を賑わしたのが、十日ほどまえのこと。英帝皇后ご同列の米大州ご訪問や、アラビアオーマン国の王子ご新婚などに併せ……ともあれ、スペースを食った大物記事の一つ。それが、十日ばかり後に大難関に逢着し、あれよあれよという間に折竹参加という、大報道価値がかき消えてしまうとは……
というのは、次のような声明書、「大地軸孔」行きを断念するという意外な折竹の発表が、朝刊締切後の深更の各社をおどろかした。
──ドイツルフト・ハンザ航空会社の主唱になる「大地軸孔」探検に小生は不参加の意を表明す。なお、同探検隊が小生の攻撃計画を採用するも、それにはなんの異議なきものなり。鍵十字旗の、魔境に翻えるを祈りて。
これには、各社ともアッと目を剥いたのである。なんてこった、じぶんが計画をたて隊長にまでなりながら、まさに出発という間際にスイと身を退くなんて……これまで度胸六分の戦車的突進を誇りとした彼を思えば、ますます分らなくなってくる。きっと、これには事情があるのだろう。ただ心境の変化、電撃的翻意くらいで、そう易々と片付けられるものではあるまい。と、事の真相を測りかねた各社の猛者連が、翌朝折竹の宿へ目白押しに押しかけてきた。
彼が泊まっている「マルバーン・ハウス」というのは、ロンドンの西郊チェルシー区にある。この区はロンドンの芸術家街といわれ、都心を遠くはなれた川沿散歩道のしずけさ。が、いま部屋のなかは喧囂たる有様だ。「タイムス」「デリー・テレグラフ」をはじめ各国の特派員。なかには、前作、「第五類人猿」のアマゾン奥地探検のとき関係のあった、「世界新報」というペルー新聞までがいる始末。
心境の御変化はどういう理由で……あなた個人の、身辺的事情?……それとも、土地柄政治的原因で……と包囲攻撃のなかで静かに莨煙をたて、折竹は憮然とガウンの紐をいじっている。やがて、鎮まるのを待って、ニッと笑い、
「別に、どうこういうような派手派手しい理由はない。風……。僕の翻意の原因は、風にある」
「へえ。風がね」
とロイド眼鏡をひからせてまっ先に乗り出してきたのが、「スター紙」の山岳通マクブリッジ君。
「つまり、仰言る意味の風は、季節風でしょうね。しかしそれはとうに計画のなかへ織り込みずみじゃありませんか。季節風の影響のない五、六月中に、探検を完了するというのが既定の計画だとしたら風の影響などは何もないじゃないですか。むしろ、驚異の征服をなし遂げた、引き上げ時にですね、季節風の猛雨くらいあるほうが、劇的でいいですよ。征服者折竹の風貌いよいよ颯爽となり……映画班も悦ぶし、われわれも助かる」
「ハッハッハッハ、人の苦しみを悦ぶのは、ジャーナリストくらいだろう。だが、季節風以外にも、風の問題はあるよ」
と、きっぱり言われてもパミールの辺りで、風の問題といえば季節風以外にはない。はてなと、誰にも見当がつかないところへ、
「なんだ、諸君は分らんのかね」
と、一わたり折竹がぐるぐるっと見廻して、
「風にもよりけりで、いろんな風があるが……、なかでも一番下らんやつに、臆病風というのがある。そいつが、『大地軸孔』だけはぜひお止めなさい。暗剣殺と三りんぼうをゴッタにしたような、あすこへ行けばかならず命はない──と、僕に切実にいうもんだからね。こっちも、考えてみると成程そのとおり。よく、こんな計画でゆく気になったもんだと、再吟味の結果、慄っとなったほどだよ」
最初はくだけた口調で冗談まじりだったのが、しだいに引き緊ってき、悲痛の色さえ帯びてくる。また聴くほうは聴くほうでガンと殴られたように、暫くのあいだなんの声もなかったのだ。
あの、折竹がどうしたというのだろう。猪突六分、計画四分という、彼の信条はどこへ行ってしまったのか。と、過去の彼にくらべればあまりな変り方に、まったく、真実「大地軸孔」というところは、彼がいうように征服不可能なのかと、誰しもそう信じてしまったのである。
しかし、ソ連、インドにはさまれた「大地軸孔」の位置。新疆、パミールからかけて南下しようとするソ連勢力と、必死にインドをまもろうとするイギリスの防衛策。ちょうどその間へ自然の障壁のように「大地軸孔」をふくむアフガニスタン領が伸びている。してみると、いま独逸航空会社が純学術的探検の名目で、この秘境を暴露しようというのが、黙過されるだろうか。ソ連には、ここが明かになれば対印新攻撃路。おそらく天与の好機と、期待しているにちがいない。がそれに反してイギリス側には、この秘境暴露がひじょうな痛手になるのだ。
インドへの道──その間に横たわる大秘密境「大地軸孔」。そうだ、きっと英官辺からの圧迫があったのだろう──と、折竹翻意の理由をこう睨みたい気持が、誰の胸にも疼いていたのであるが……。国際紛争裡におどる快男子折竹の姿は、まだ彼も言わず、作者も秘、秘である。ではこの、大地軸孔とはいかなる魔所であろうか。
北にパミール高原、西南にはヒンズークシ、南東にはカラコルム。おのおの、二万フィート級以上が立ちならぶ大連嶺が落ち合うところが、いわゆる「パミールの管」のアフガニスタン領である。ではここが、なぜ永いあいだ未踏のままであったかというに、それは、「大地軸孔」をかこむ〝Kyam〟の隘路に、世界にただ一つの速流氷河があるからだ。温霧谷の、魔境の守り、速流氷河。
グリーンランドの北端にあるアカデミー氷河群に、一日四十メートルをながれる韋駄天氷河があるけれど、これはおそらく、その速度の十倍以上であろう。囂々とひびいて摩擦音を轟かせ、地獄の大釜がたぎるような氷擦の熱霧をあげながら、日速四百十九メートルといわれる化物氷河の谷。また、温霧谷という名のわけも、これでお分りだろうと思われる。
「つまりだね」
と、折竹が技術的な説明をはじめる。
「温霧谷の、速流氷河をどうして登るかという点で、僕はハタと詰ったんだ。普通の氷河なら、ザッと十マイルばかりを六十年もかかる。ところが、温霧谷の先生ときたら、化物以上だからね。猛速、強震動を発し、登行者を苦しめる。突然、数丈もある氷塔が頭上に落ちてくるだろう。また、なにもない足下に千仭の氷罅が空くだろう。なんていうのがザラだろうという訳も、すべてあの氷河の猛速の禍いだ。それに、氷擦のはげしさで、濃稠な蒸気が湧く。それが原因となる氷河疲労に、マア僕らは二時間とは堪えられまい」
「驚いた。あなたにも似ない、大変な弱音ですね」
と片隅のほうで嗤うような声がすると、
「そうとも、化物氷河と闘えるもんじゃない」
と、折竹が即座にやり返す。そしてその、温霧谷の速流氷河を十五マイルばかり登ったあたりに、大地軸孔がおそろしい口をひらいている。
作者はいま、便宜上「大地軸孔」などといっているが、その〝Kara Jilnagang〟というのは中央アジア一帯の通称で、「黒い骨」というのが正確な意味になる。で今、もしもその辺りを絶好の月夜にながめたとしたら……。雪嶺銀渓、藍の影絵をつらねているワカン隘路のかなた、銀蛇とうねくる温霧谷氷河の一部が、ときどき翳るのはおそろしい雪崩か。いや、その中腹にくっきりと黒く、一本の肋骨のようなものが見えるだろう。それが地獄の劫火ほの見える底なし谷といわれている、黒い骨の「大地軸孔」。
そこは、たぶんめずらしい〝Niche rift〟ではないのか。つまり、壺形をした渓という意味で、上部は、子安貝に似た裂罅状の開口。しかし、内部は広くじつに深く、さながら地軸までもという暗黒の谷がこの「大地軸孔」の想像図になっている。ではここが、なぜ世界の視聴をいっせいに集めているのか。というのは、怪光があるからである。
ときどき、地底の住民の不可解な合図のように、火箭のような光がスイスイと立ちのぼってくる。時には、極光のように開口いっぱいに噴出し、はじめは淡紅、やがて青紫色に終るこの世ならぬ諧調が、キラキラ氷河をわたる大絶景を呈するのだ。しかし、このパミールに絶対に火山はない。あるいは、その底には奇怪な住民がいて……というのがますます奇想をつのらせる、「大地軸孔」の怪魔焔の謎。
「いずれは、僕より上等な探検家がでるだろうからね。そのとき、その先生に『大地軸孔』を降りてもらう。下せど下せど綱は底触れず、頭上の裂罅も一線とほそまり──なんていうのが、地下鉄売りの赤本にあるよ」
最後に、折竹は淋しそうに笑い、その日の会見はそれまでになった。人々が去ったあとのがらんとしたなかで、暫く彼は物思いにふけっていた。やがて、ベルを押して部屋付女中を呼び、
「君、昨日あのザチという婦人は、来なかったかね」
「いらっしゃいませんわ。でも随分、あの方変った服装をしていらっしゃいますわね。顔隠しをしたり皮鞋をはいたり……やはりあの方は近東の方でしょうね」
「そうらしい」
と、折竹は憮然とうなずいた。彼にいま、そのザチという婦人が、頻々と訪れてくる。氏素姓も知れず国籍もわからぬが、姿顔といい気高さに充ち、どこか近付き難いところのある四十恰好の婦人だと──一度顔隠しをのぞいた部屋付女中がいうのである。
もちろん、彼はその女には逢わない。こんな、近東人らしい婦人と接近などした日には、ますます彼の周囲には厳戒が加えられ、厭な日々が続かなくてはならないからだ。実際「大地軸孔」参加発表以来の英官辺の神経は、びりびり彼にも響いてくるほど、鋭いものになっている。第一、彼に接近するものは給仕人をはじめ、残らずそれを機会に変えられたような始末。そんな情勢のなかでその婦人と会ったなら、ますます此方のほうで事を構えるようなもんだと、──彼はザチという婦人を極力避けていたのだ。
すると、そのザチが痺れをきらしたように、つい二、三日まえ手紙を寄越したのである。それをみたとき、まるで悪夢裡のような言いようのない驚き、また同時に、もしもこれが芝居ならと思っても、奥底知れない怪婦人ザチの正体を、どうにも彼は見破ることができないのだ。さて、その手紙は次のようなものである。
魔境の土をまもるため、お願いがございます。どうか「大地軸孔」のしたの平和な民どもの、静かな生活をお乱しくださいませんように。私たちは、じぶんの土を護るため、侵入者をふせぐため……ある必要な手段をとるに先立って、一応お願いいたします。
いま、血をみずにすみますことは貴方さまのご一存で、「大地軸孔」ゆきをお止めになることですわ。これは、貴方さまのため、私どものため、ぜひ枉げても、お聴き入れねがいたいと存じます。
魔境からの女、やはり「大地軸孔」のしたには住民がいるのか。暗黒中の生活はどういうものだろう、どんな文明をもち、どういう衣食住をし、あの一生陽の目をみない大暗谷にいるのか⁈ と、まだ夢を追うような醒めやらぬ気持のなかで、折竹はつくねんと考えていたのだ。
しかし気が付くと、どうやらこれが眉唾のもののようにも思われてくる。「大地軸孔」のしたの晦冥国の女なんて、どうもこりゃ芝居がすぎるようだ。きっと、その女を躍らしている闇の手があるのだろう。と、思うが見当も付かない。結局、ザチのことは半信半疑に過ぎてゆくのだった。とその時、部屋付女中が窺うような目をして、
「あの方を、ほんとに旦那さまは、ご存知ないのですか」
「知らんねえ、一向イランやあの辺の人には、近付きがないからね」
「そう、じゃ私、勘違いしてたのかしら……」
「どんな事だ」
「じつは、私、こう考えていたんですの。どこか、近東の古いお寺から、旦那さまが宝物をお盗みになった。その跡を蹤けてはるばるあの方が、『月長石』のように追ってきたんじゃないかしら……。宝物を返せ、さもなくば殺してしまうぞ──って、いま、旦那さまは嚇されてるんじゃない⁈ ホホホホホホ、お怒りになっちゃあたくし、困りますわ」
こんな冗談から、なにか引きだそうとする部屋付女中の態度も、折竹には不愉快な一つだ。しかし彼は、なぜ「大地軸孔」ゆきを断念したのだろう。こういう、英官辺の厭がらせのためか……それとも真実「大地軸孔」は征服不可能なのか。いや、彼のゆくところ砕けざる魔境はない。では、それはどういう理由だろう。
──探検とは、国という砲身のはなつ弾丸なり。
この言葉を、彼は忘れていたわけではないけれど、いまロンドンにいてイギリス人の生活をみていると、しみじみその言葉が胸うつように響いてくるのだ。いまイギリス人は、わずかを働いて多くをとっている──その、余裕綽々ぶりはなにに由来する⁈ インド、濠州、南阿、カナダ──みな一、二世紀まえの探検の成果だ。
するとじぶんに、民族の血をとおしてした探検があったろうか。時代がちがうとはいえ最小の効果でも、国にたむける意味の探検があったろうか。文化の貢献者という美名にあこがれて、ただそれだけのために働いていたのではないか。と思うと、泣きたいような気持になる。これまで彼がしたすべての事が、いまは些細な塵のようにしか見えなくなったのだ。もう、大地軸孔へ行く気力などはない。
まして、独逸航空会社は純文化的意味だというけれど、この「大地軸孔」探検はそんなものではないらしい。近東空路を、はるばるアフガニスタンの首府カブールまで伸ばしてきた、独逸航空会社には一層の野心があるのだろう。英ソの緩衝地帯である「大地軸孔」一帯を精査して、ナチスの楔を南新疆にうちこもうというのではないか。また一方、この探検が成功すれば利益を得るものに、対印新攻撃路をにぎれるソ連がある。いずれにしろ、これは他国を益するにすぎない。ご免だ。くだらん英雄になってお先棒に使われるよりは、暫く故国へ帰って、ゆっくりと休もう。と、彼はついに参加を思い止まったのである。
窓をあけた。近ごろは、こうして窓をあけ往来をながめることが、彼には習慣のようになっている。ザチ──。あの「大地軸孔」の女と称する神秘的な婦人が、もしや彼に会おうとして、うろついていやしないだろうか。会いたくはない。が、どんな婦人だか、一目だけみたい。いまは、彼の脳裡からとり去ることが出来なくなったほど、ザチのことは強烈なものになっている。
(事実、「大地軸孔」のしたには、住民がいるのだろうか。いや、あの女はまやかし者にちがいない。じぶんに、「大地軸孔」攻撃の興味を湧かさせようと、あるいはソ連からでも仕立てられて来たのではないか。G・P・U女──。マア、底を洗えば、そんなところだろうが)
土を守る、探検を妨害する──なんぞといいながら逆効果をねらい、かえって「大地軸孔」へじぶんを惹きよせようとする。きっと、ザチはソ連の女だろう、と、折竹はそういうように考えていた。しかし、どこにもザチらしい婦人はいない。ただ、テムズを越えてみえるバタッシー公園の新芽の色が、四月はじめの狭霧にけむり、縹渺として美しい。
翌朝は、ロンドンの郊外クロイドンの飛行場。アームストロング・ウィットウァース機の車輪一度地をはなれれば、鵬翼欧亜の空を駆り日本へと近付いてゆく。が、まず彼は事務所にいって、同乗の旅客表をしらべたのである。しかし、ザチの名はなかったのだ。
「たいていは、アラビアオーマン国の王子ご新婚式に出むかれる、新聞社の方々や外交関係でございます」と、折竹に旅客掛りが説明をする。
「ご婦人⁈ それはお一人ですが、ハッキング卿夫人で。いいえ、外国の方は貴方さまばかりで……」
やがて、機はふんわりと空中に浮び、朝の湿気のもとに広茫とひろがっているクロイドンは、はや見えずになってしまった。左様なら、また、信念を充すものがくるまで、探検よさらば。と、翌夜捲きこまれる奇怪な運命があるのも知らず、彼は胸をくもらせ、無限の感慨にひたっていたのだ。やがてパリ、イタリアのブリンディッシ、アテネ、アレキサンドリア。
翌日は、バグダット、バスラを過ぎアラビヤ半島の突角にある〝Sharjah〟へ着いたのが深更の二時。荒い城壁にかこまれた、沙漠中の空港。すると、機体を下りたった彼のそばへ、歩み寄ってきた男がいる。まず、その男は慇懃な礼をして、
「ポルトガルの御使節、エスピノーザ閣下にいらせられましょう」
「へえっ」
と彼はびっくりして、叫んだ。
「日本人だ。いくら、日本と葡萄牙人が似ているからって、間違うにもほどがある。まして、俺は閣下じゃない」
「ご冗談を」
とその男は引きさがる気配がない。
「オーマンの、華の御儀へご参加になるエスピノーザ閣下であることは、手前よく存じております。また、お気さくの方で下々のことまで、よくおわきまえでいらっしゃる事も……」
「ハッハッハッハ、上にも下にも、下情しかしらん男だよ」
となんだか折竹も面白くなってきたところへ、とつぜん彼の咽喉がぐびっと鳴り、顔の表情が凍てついたようになってしまった。銃口が、彼の下腹部にぴたりと付けられている。
「これが、エスピノーザ閣下を遇する方法かね」
さすが、折竹の声は顫えもせずに、発せられる。そうして、眼前の男をつくづくながめると、それは狐のような顔をしたイギリス人。さてはと、彼は何事かを覚ったのである。そこへ、その男が圧するような声で、
「折竹さん、一言ご注意しておきますが、われわれには力がある。どうです、ここで荒らだって、からだを失くしますかね。イギリス保護領のこの空港には、いたる所に銃口が伏さっている。マア、暫くご辛抱願いましょう」
アラビヤ兵の白衣が点々とみえていたのが、眼隠しをされ、まっ暗になる。男は、彼を自動車にのせ、一時間ばかり運んでいった。やがて、家らしいものに着くと、眼隠しをとられる。彼のまえには顎骨のふとい、大きな男がぬうっと立っているのだ。五十ばかりでほとんど表情がない。それが却って、悚めるような凄味。
「儂は、ある任務の男で、セルカークといいます。今夜は、あなたとは大変不本意な会見で……」
「驚いたですよ。マア、大抵なところでご大赦に願いたいですな」
といまは度胸もすっかりすわった折竹は、臆す色もなく生洒々として、
「時に、ここは何というところで……」
「なるほど」
とセルカークは冷酷そうな笑いをうかべ、
「ご自分の、墓になる所だけはご存知なくてはなりますまい。ジェベル・カスルン。付近には製油所があります」
それなり、暫くはなんの声もなかったのである。夜の沙漠の冷々としたなかで、にぶい灯りが二人を照らしている。ちょっと、折竹のからだが顫えたようにみえた。墓──⁈ なん度胸に問うてもおなじ意味の答えを、彼はぼんやりと味わっていた。死ぬ、そうとすれば、どんな理由で……。
「とにかく、危険な存在は殺らにゃなりませんでな。あなたは、アフガニスタンのダワダールで降りて、『大地軸孔』へゆくつもり……ねえ」
「いや、大変なちがいだ。このまま僕は、ずうっと本国へ帰る」
「ハッハッハッハッ、こっちでそう信じている以上、釈明は要りません。つまり、あなたをあの『大地軸孔』へは遣りたくない──その意味はお分りだろうと思います。あの辺のすべてが不明であるということが、わがインドの貴重な守りになっている。しかし、もし貴方がゆけば、どうなるか分らない。ヒルト博士らのほかの人たちはとにかく、こっちは、貴方一人の超人力をおそれている。インドを、ソ連の南下策から完全に護らにゃならない」
「ふむ」
と折竹は笑うような表情をして、
「あまり、偉そうに見られたのが、とんだ災難でしたよ。いや、デモクラシーも当てにはならん」
「お気の毒です。しかし、これが任務ですから」
とセルカークが心持頭をさげ、彼にペル・メルをすすめた。その莨煙のなかで暫くのあいだ、折竹はじっと考えていたが、
「やれやれ、おなじ事なら探検で死んだほうがいい。僕は『大塩沙漠』地下の油層をさぐるわけだったのです」
と、セルカークの頭がヒョイと上って、
「油層」
と、彼は惹かれたような表情になった。
「そうです。あなたの想像は不幸にして違っているが、僕のほうのはおそらく図星でしょう。それは、東は外蒙からサハラ沙漠まで延びているといわれる、地下の大想像洞、『大盲谷』。ギリシアのホーマーでさえが晦冥国といっていた、大盲谷が実際にあるらしいのです。むろんそれは、土地によって高低がちがうでしょうが、岩塩と、石灰岩層を貫いて流れている。しかも、その大盲谷二万マイルのうえは豊潤な油層だ」
地下の大盲谷、暗黒の二万マイル。その存在は非常に古いころから、想像されもし書かれてもいるが、もしこれが余人の口からでたのだったら、即座に一蹴されたにちがいない。いまは、セルカークも妖かしに会ったような顔。
「なるほど、その想像洞のうえは、大沙漠帯ですね。それに、所々方々に油田が散らばっている」
「そうですよ。全部油脈は岩塩油田であるか、それでなければ、石灰岩層に入っています。おそらくその大盲谷はソ連領にも伸びているでしょう。ねえ、エンバの油井は岩塩油田でしょう。また、コーカサスのは石灰岩層にあります。とにかく、岩塩を溶かし、石灰岩を溶かし地下へ滴る石油が大盲谷をつくったといわれる」
ああ、大盲谷をうねくる、石油の大暗流。いかな名画工、いかな名小説家といえど、その光景を髣髴とすることはできないだろう。しかしそれは、ただ想像だけとするならまことに素晴らしいがと……暫く経つうちに半信半疑の色が、セルカークの顔を覆うてきたのだ。
「しかし、それは実際問題ではありませんね。ただ奇想であり、頭脳の遊戯であり……。お話だけはひじょうに面白いですが」
「では、イランの大塩沙漠を、どうお考えになる」
と折竹が突き進むようにいった。
「あすこの、踏みいるものを焼く、おそろしい熱気は。万物焼尽さずんば止まない、見えない魔焔は?」
〝Dasht-I-Kavir〟──そのおそろしい塩の沙漠はイラン国の首府、テヘランの東方二百マイルのところにある。これは、マルコ・ポーロ時代からひじょうに名が高く、すべてを焼きつくす恐怖的高熱度。砂は焼け塩は燃え、人畜たちまちにして白骨となるという、嘘も隠しもない世界の大驚異。ではその、見えない魔焔がどうしたというのか。折竹は言葉を次いで、
「つまり、僕の私見をいいますとね。あれは、地下の油脈から洩れる天然ガスだと思うのです。それが、塩沙の輻射熱でパッと燃えあがったやつが、ふわふわ浮遊して歩くのでしょう。ねえ、あの見えない焔はガソリンのお化──。高オクタン価八〇くらいの、おそらく航空用燃料としたら空前のやつが、あの地下には無尽蔵にあるのです」
見えない魔焔の正体が各国ともあせっている、高オクタン価の良質油とは。が、折竹の粟粒のような汗。ここが、助かるか助からないかの瀬戸際という意気が、目にも顔にも、燃えるように漲っている。案の定、セルカークは恍りとした声で、
「航空用良質油」
とたった一言、それを、折竹が追っかけるように、
「そこで、あの沙漠に噴出孔があるか、ないか。たぶん、地軸までもというような、裂け目があるだろう。多量の天然ガスを絶えず噴きだしている、地底までの穴がきっとあるにちがいない。しかも、それが大盲谷へ達している。と、僕はこう睨んでいるのです。ねえ、地下からの採油も乙なもんですぜ」
「航空用良質油」
とセルカークがふたたび呻いた。折竹がならべるでたらめもさすが彼だけに整然たるもの。それが駆りたてる夢幻黄金境。いまやセルカークは大欲にうめいている。
「儂もむかしは、汲出機をもって、掘りあるいたもんでした。そして、良い油井に出逢ったのが、三十のときだった。ところがね、遮水管の抜き出し処置がわるく、火花をおこして焼けてしまったのですよ。ねえ、若いころは、誰にも夢がある。それが、五十になった今、蘇ってくるなんて」
と、だんだんセルカークは恐ろしげな顔になってゆく。しめた、と、折竹がほくそ笑むところへ、
「じゃ、なんでしょう。『大地軸孔』の怪焔も、おなじ意味合いのもんで」
「そうです。あれも、『大盲谷』中の一つの覗き穴です。しかし、大盲谷をうずめる全部の油量は? セルカークさん、測れますかね」
と、唆るようにセルカークの顔をみる、折竹も相当の役者ではないか。俺を放て……そして、大塩沙漠へやり、覗き穴を探させろ……そうすりゃ、セルカークは億万長者になれる。いや、億どころか、百兆、千兆。いずれは、英蘭銀行がお前の紙幣で埋まるだろう……ここだ、一生の運を掴むか掴まないか⁈
するとその時、おなじ思いはセルカークにも、こいつを、釈放したら、どんな事になる⁈ うまくいい当てて覗き穴を発見し、俺を地下採油の超富豪にしてくれるか。まったく、あの沙漠だけは「英波石油」も捨てている。そうだ、失敗りゃ、焼かれて死ぬ。馬鹿をみるのは、此奴だけの話だ。
やがて、二人のあいだに盟約が成りたった。しかし、まだ折竹に完全な自由はない。
「あんたは、当分儂のそばを、離れんでもらいたい。明後日、わしはムスカットへゆく。例の、オーマン王子ご新婚でしてな。むろん、あんたへもご参列を願うが……。マア、誰しも珍客と思うじゃろう」
それから、折竹は部屋を宛てがわれたが、その夜は眠れぬ一夜であった。月のない砂上は、ぼうっとした星明り。だが、彼はやっと助かったと、じつに躍るような気持。そのうち、彼が出方出まかせに述べたてた嘘が、どうやら真実らしく思われてきた。もともとこれは、彼の想像として腹にあったこと。ただ、大塩沙漠のあの熱気だけは、急場の凌ぎに絞りだしたのではあるが……。
その、たんなる想像が本物になる。少くともなりそうだ、と考えた。すると、一度は死ぬんだったという捨身な気持が、彼に日本人らしい犠牲の念を呼び起してきた。
(大塩沙漠へゆくことは、けっして無意義ではない。もしも覗き穴があって「大盲谷」に達していれば、俺は「英波石油」の油層の下へゆけるのだ。またもし、大盲谷の広さが真実とするならば、ソ連コーカサスへもメソポタミア油田下へも、なんとか手段を尽せばゆけないものでもない。
そうだ。故国一朝有事の際の、破天荒な電撃──。一隻の潜水艦、十人の挺身隊。もし覗き穴さえわかれば、それで事足りるではないか。油層下からの処置で、油田は渇れるだろう。また、十人の犠牲で全油田爆破ともゆける。その下地を、俺はいま作りあげようとするのだ。で俺が、もしも大塩沙漠から生還した場合、俺は国家への協力をほこれる。また、万が一の際は知られない犠牲として、俺は個人としての最高の死を遂げることになる。犠牲──。それも、知られないほど、美しい)
夜が明けかかり、砂丘の万波にようやく影が刻まれてゆく。空には、獅子座が頭をさげて西の空へ下りかけ、やがて東からのぼる東亜の太陽の前駆、白鳥、ケフェウス、カシオペアが薄明のなかをのぼってくる。それを……折竹はさし招くような意気だった。
ところが、その二日後の夜。オーマンの都ムスカットで行われた王子ご新婚式に不思議な出来事が起ったのだ。
稜嶒たる岩山のしたの町ムスカットのその夜は、イラン、エジプトご新婚の賓客をそっくりひき受け、ヨーロッパ社交界に鳴る綺やかな連中が、ふうふう暑熱にうだりながらオーマン湾を渡ってきたのだ。まず客人は、英皇太后メアリー陛下の御弟エースローン公、ドイツはモスクワ駐劄大使シュレンバーグ伯、またエジプトの女王ナズリ陛下、イタリアは皇甥スポレート侯爵。こうした方々が、白壁の小家が櫛比するこの狭衝の町、また、イラクのバグダットと肩をならべる世界一暑い首府の──ムスカットを見ちがえるように飾ってしまったのである。
その海岸の広場にある王宮といっても、簡易な三層の漆喰建であるが、ともあれ、オーマンを統べる大元首のいますところ。花火、水晶の燭架眼眩いなかに、今宵の客人がいと静かに参上する。
「もう、おいではこれだけであろう」
「ふむ、いかさますみ申したようであるが」
裸足の、二人の式部官が次第書とつき合せてみると、もうお客はこれで終っている。きょうの御儀に日本綿布の外衣をそろえた、儀仗兵も休ませなくてはならない。さあ、腹も減ったし、羊も焼けている。胡椒飯を腹さんざん詰めこもうではないか──となった時。
とつぜん、昇降階のしたでザザザザという太鼓の音。お客だ、と一同は慌てふためいて列をそろえた。とそこへ、たくみにガウンを捌いてくる﨟たけた一人の婦人。みれば、頭上には王冠を戴いている。
「失礼でございますが」
と、式部官の一人が恭々しく訊ねたのである。
「次第書にございませんので、お言葉を願います。いずれの国の、どなた様でいられましょう」
「キンメリアの女王」
「へっ」
「このオーマンは、なんという無礼な国である」
とその婦人が凜然と言い出した。
「わたくしは、前もって儀式書を頂いている。それには、使節の随員は宮廷よりの馬車に分乗し、使節の馬車に前行すべし──とありますが、随員のはおろか、わたくしのも参りませぬ。当国は格式を重んじ典礼を尊ぶ点に於いて、回教国一と聴いておりますが」
「恐れいります」
と、式部官が首をさげた時その婦人の姿は、昇降階に続く「騎士の間」に消えていたのである。その場には、侍従長やら将軍やらがいたが、凜とあたりを払うその婦人の威厳には、誰も止めるものがなかったのだ。
キンメリア──それは地図上にない国である。
折竹は、舞踏にも加わらず宮苑のなかを歩いていた。スミルナの無花果、ボスラーの棗椰子、エスコールの葡萄──。近東の名菓がたわわに実っているところは、魔宮か、魅惑の園のよう。そこへ、日時計のついた噴泉が虹をあげ、風は樹々をうごかし、花弁は楽の音にゆすられる。彼は酒気をさまそうと、ぽつねんと亭にいたのだ。
(セルカークの奴、この辺じゃなかなかの羽振りじゃないか。マア情報省の機関区長どころだろうが……、どうして領事くらいは敵わんような勢力がある)
そこへ、植込の陰からぷうんと女の匂いがした。棕櫚の花粉のついた裳裾がみえたとき、彼の横手からすうっと寄り添ってきた、女がいる。
「お久しう。折竹さん、ほんとうに暫くでございました」
いわれて、婦人をひょいと見たが、彼には全然未知の女だ。額のひろい、思索深げな顔。齢は四十に近いだろうが、﨟々として美しい。はて、どうもこれは純粋の白人ではないな。と、思ったがなんの記憶もない。
「失礼ですが、奥さまとはどこでお目にかかりましたでしょうか」
「お忘れ?」
とその婦人は婉然とわらって、
「ロンドンでお目にかかったではございませんの」
「サア」
「あたくし、ザチでございますの」
晦冥国の女王、さっき、招かれざる賓客として乗り込んだのが、ザチだった。折竹はいよいよ捕まったかと思うよりも、夢のような気持で、
「僕がここへ来たことが、どうして分ったのです」
「そりゃね、あたくしにも知る方法がありますわ。あなたは、シャルジャーで旅客機をお下りになり、それからセルカークと此処へいらっしたのでしょう」
「ふうむ。よく」
と唸った陰にはやはりこいつはと、折竹は警戒を感じたのである。こういう顔は、よくコーカサス人や韃靼人の混血児にある。それが、晦冥国の女王なんて神話めいたことで、俺を釣ろうなどとは、大それた奴だ。きっと、ソ連の連中のなかじゃ、いい姐御だろう──と思うと気も軽々となり、
「いつぞや、僕の『大地軸孔』ゆきにご勧告がありましたね」
「ええ、ぜひそうお願いしたいと、思うのです。覗き穴のしたにわずか固っている、未開の可哀想な連中です。別に、この世に引き出したところで、見世物にもなりません。お捨て置きになれば、有難く思いますわ」
「しかし、あなたはフランス語をお喋りになりますね。そこは大体、地上と交通のない地底の国のはず。その点がどうも解せませんよ」
とうとう、ザチはそれには答えなかった。悲しそうな目をして、じっと折竹をみている。駄目っ、駄目っと……念を押すようなそれでもないような、なにか胸に迫った真実のものを現わして、
「でも、お目にかかれて嬉しいと思いますわ。人間って──十年、二十年、交際っていても何でもない方もありますし……たった一目でも、生涯忘れられない方もありますわ。お別れいたします」
と立ちあがったが、またふり向いて、
「こんな齢になって泣くなんて、可笑しいですわね。でも、こういう時は、誰でもそうよ。誰でも、感傷が先走って、悲しくなるものですわ。もう、あなたとはお目に掛れないでしょうから」
「そうでしょう。僕も大塩沙漠へゆきますから……」
ザチは、それなり去ってしまったのである。妙な女だ、脅してみたり泣いてみたり──と思うだけで、いま大塩沙漠ゆきをうっかり洩らしたことには、彼はてんで無関心であったのだ。その数週後、イランのテヘランへゆき準備を整え、見えない焔の塩の沙漠へむかったのである。
まず、そこまでの炎熱の高原。大地は灼熱し、溶鉱炉の中のよう。きらきら光る塩の、晦むような眩ゆさのなか。
その、土中の塩分がしだいに殖えてゆくのが、地獄の焦土のようなまっ赭な色から、しだいに死体のような灰黄色に変ってゆく。やがて塩の沙漠の外れまできたのである。そこは、一望千里という形容もない。晃耀というか陽炎というか、起伏も地平線もみな、閃きのなかに消えている。ただ、天地一帯を覆う、色のない焔の海。
「そろそろ、儂らも焼けてきそうな気がするよ」
とセルカークがフウフウ言いながら、もうこれ以上はというように、折竹をみる。
「死ぬだろうよ。日中ゆけば燃えてしまうだろう」
「脅かすな」
とセルカークは心細そうに笑って、
「頼むよ。俺は君に、全幅の信頼をかけている」
「マアね、君を燃やすことは万が一にもあるまいが……、とにかく、われわれは日中を避けねばならん。夜ゆく。それで、今夜の強行軍でどこまで行けるかということが、覗き穴発見のいちばん大切なところになる。ねえ、地図でみると、台地があるね。ちょうど真中辺で、奇怪な形をした……」
「ふん、〝Yazde Kubeda〟か。その『神々敗れるところ』というペルシア語の意味から、あすこは『驕魔台』とかいわれている」
「そうだ。で、これは僕のカンにすぎないがね。得てして、ああいう所には裂け目があるもんだ。まず覗き穴は、彼処らしいといえるだろう。するとだよ、然らば黒焦げになる日中はどうするか。それは、深い穴を掘ってじっと潜っている。マアそれで、体力が続くのは一日ぐらいだろうから、夜になったら強行軍で逃げるのさ」
「驚いた」
とセルカークはパチパチと瞬いて、
「じゃ、途中で夜が明けたら、焦げてしまうんだね。決勝点を間近にみながら黒焼になるなんて、情けない事には是非ならないで欲しいよ」
そうして、夜は零度をくだる沙漠の旅がはじまった。万物声なくただ動いているのは、二人の影と頭上の星辰のみ。と、やや東のほうが白みかけてきたころだった。地平線上にぽつりと見える一点。
「こりゃ、いかん。驕魔台へゆかぬうちに、夜が明けてしまう。おい俺たちはまんまと失敗ったぞ」
まったく、痛恨とはこの事であろう。みすみす、目前にみながら此処が限度となると、両様意味はちがうが、二人の嘆きは。……宝の山の鰻のにおいを嗅ぐ、セルカークはことにそうであった。
「畜生、せっかく此処まで来てとは、なんてえこった。オクタン価八〇、最良航空用燃料もなにも、夢になりおった。オヤッ、ありゃ折竹君、なんだね」
と、指差された薄明の地平線上。突兀とみえる驕魔台のうえに、まるで目の狂いかのような、人影がみえるのだ。早速、双眼鏡でみているうちに暁はひろがってゆく。しかし、死の原のここに、鳥の声はない。ただ、薄らぐ寒さと魔性のような人影。やがて、折竹はボロリと眼鏡を落し、
「ザチ」
と、さながら放心したような呟き、
「ザチ⁈ いったい何のこったね」
とセルカークが訊いても聴えぬかのように、
「覗き穴はある。ザチはソ連の女ではなかった。真実、『大盲谷』に住むキンメリアの女王。おい、セルカーク、あれを見ろ」
いわれて、目をこすりこすり驕魔台のうえをみると、今いた──ほんの秒足らずの瞬前までくっきりと見えていた、ザチの姿が掻き消えたように見えないのだ。覗き穴、彼女は「大盲谷」へ降りたのだろう。しかし、追おうにも、暁は濃い。朝の噴射とともに熱殺界となる、此処ではどうにもならないのだった。
しかし、驕魔台のうえでザチを発見したことから、いよいよ「大盲谷」の実存性が濃くなってきた。そうしてこれには、むしろ手も付けられない塩の沙漠よりかも、「大地軸孔」のほうを攻撃してはと、なったのだ。そのころ、大地軸孔探検についての、国際紛争が解決した。英ソ双方とも監視者をだすことになり、英はセルカーク、ソ連は、極氷研究家のオフシェンコという男。また、折竹もセルカークの計いで、この探検に隊長として加わったのである。
沙漠、峻嶮、寒熱二帯の両極をもつアフガニスタン。慓悍無双といわれるヘタン人の人夫をそろえ、いよいよヒンズークシの嶮を越え「パミールの管」といわれる、英ソの緩衝地帯を「大地軸孔」へ進んだのである。いまは、高山生活一か月にまっ黒に雪焼けをし、蓬々と伸びた髯を嶽風がはらっている。
そしてちょうど、カプールを発った五十日目あたりに、温霧谷の速流氷河の落ち口にでたのだ。
「凄い。ここでは、氷だけが生物だ」
犛牛のミルクを飲み飲み、断崖のくぼみから、幹部連が泡だつ氷河をながめている。氷に、泡だつという形容はちと変であるが、この氷河の生きもの的性質を、説明するのはそれ以外にはない。
噛みあう氷罅、激突する氷塔の砕片。それが、風に煽られて機関銃弾のようになり、みるみる人夫の顔が流血に染んでゆくのだ。まさに流れる氷帯ではなく、氷の激流。ここだけは、永遠に越えられまいと思われた。
「君、ちょっと折り入っての話がある」
隊が立往生をしてから、一か月後のある夜。こっそり折竹の天幕へ、セルカークが入ってきた。彼は、周囲をたしかめてから、密談のような声で、
「取らぬ狸の、皮算用かもしれんがね。いずれは大盲谷の油層が、われわれの手に入るだろう。しかし、そうなったとき分け前が出るようじゃ、儂は馬鹿馬鹿しいと思うんだよ」
「へえ、というのはどういう意味だね」
「それは、オフシェンコのことだ」
とセルカークはいっそう声を低め、
「奴は、最後まで頑張るといっている。けさ、君とヒルト博士が大喧嘩をした後で、こっそり奴の意見を聴いてみたんだよ。するとだ、奴は馬鹿に昂然としてね。──任務だ、最後まで君らと共に──なんてえ、えらい鼻息なんだ」
その日の朝、温霧谷の速流氷河の攻撃時期について、彼と独逸航空会社のヒルトとが大激論をした。ヒルトは、速流氷河をわたる方法なしと言う。これは練達山岳家としての当然の論。それに反して、季節風の猛雨が始まったら登行をするという、この折竹の説は暴論といおうか、まことに、常識外れの馬鹿馬鹿しいものだった。そして、ついに隊は二つに割れ、わずかな人夫を残すほか、引き上げることになったのだ。
そのころは、もう七月にちかく、邪風モンスーンの跫音がくらい雲行から、吹くぞ、薙ぐぞというように、聴えるような気がする。ヒマラヤ・カラコルムに吹きつける、狂暴な西南風。大雨、烈風となる最悪の時期に、折竹は速流氷河をわたると言う。
狂ったか。見す見す死ににゆくような折竹の胸に、あるいはこの狂自然を征服するに足る鬼策が蔵されているのではないか。で、結局のこったのは折竹、セルカーク、それにソ連からの監視者オフシェンコの三人。セルカークは、また言うのである。
「それでだよ。儂も、殺るとか除くとかいうようなことは、この際したくない。一つ、君によく説いてもらって、ヒルトらと一緒に帰そうと思うんだ」
「そうか」
と折竹は暫く黙っていた。あれ以来、ますます人相にも奸黠の度を加えてきた、セルカークを憫むようにながめている。ただ、氷河の氷擦が静寂を破るなかで……。
「どうだ。たがいに運だけは、無駄にせんように、しようぜ。百億人に一人、千万年に一度、あるかなしかというような、どえらいもんだから……」
「勝手だ」
と折竹は吐きだすように、言った。
「大体、僕の計画にしてからが、九分どおりが運なんだ。妙に、度胸がいいのが玉に瑕かもしらんが、これも千万年に一度、百億人に一人ど偉い馬鹿みたいなのが出たとき、言いだすような事だ。ねえ、まず吾々は九分通り、死ぬだろう」
「脅かしちゃ、いかん」
「いや、すべては渡れてからのことだ。しかし、僕は君よりも、オフシェンコを、尊敬する。ただ任務──とは、偉い!」
不興気に出てゆくセルカークの向うに、大地軸孔の怪光があがっている。ぶよぶよ動く淡紅の幽霊のように、尖峰を染めだし氷塔をわたり……それも間もなく一瞬の夢のように消えてしまう。そういう時、折竹の胸にはザチのことが泛んでくる。地底の女王、ムスカットでの別れのときの涙。いまは彼も、懐かしくさえなっている。妨害するというが、そんな様子もない。彼女はいま、なにを思っているのだろう。
翌日、ヒルト博士らはついに去ってしまった。犛牛をつらねたながい行列を、折竹らは大岸壁のうえからながめている。季節風前によくあるクッキリと晴れた日で、氷河の空洞のほんのりとした水色や森のように林立する氷の塔のくぼみが……美麗な緑色を灯したところは灯籠のように美しい。それも絶えず欠け、しきりなく打衝りあい……氷河としたら激流にひとしい不思議さで、人よ、渡るなかれと示しているのだ。
オフシェンコは、真面目そうな、寡黙な男だ。しかし、その日はめずらしく口数が多く、折竹になにかと話しかけてくる。
「その、ザチという婦人のことは、じつにいいですね。大盲谷にさえ入れれば、お遇いになれるでしょう」
「サア、『大地軸孔』の近傍くらいじゃ、どうかしら……。広いよ、とにかく『大盲谷』は両大陸にまたがっている。それも今までは、伝説にすぎなかったんだ」
「楽しみですね。しかし、僕のはただ任務だけですから」
「じゃ君は、何処までも行くのか」
「そうですとも。国から与えられたものを、疑うようなことはしません」
セルカークの、英人らしい徹底的個人主義と、オフシェンコとはじつにいい対照だ。ところが、その数日後に天候が崩れはじめた。雷が多くなって暗澹たる積雲が、ひゅうひゅう上層風をはらみながら、この渓谷をとざしてくる。雨ちかし、温霧谷はその名のとおり大釜がたぎるように、濃霧に充ち、一寸の展望もない。
「この氷河の氷には、石灰分が多い。だから、猛雨があれば氷塔に浸みこんで、あの邪魔ものを、ボロボロにしちまうと思うよ。つまり、氷の石灰分が水に溶けるんだから、あの頑固なやつが軽石みたいになっちまうんだ。で、それが流れるから、平らになる。そこを、僕らが渡ろうという魂胆だ」
そういう、折竹の推測がついに適中した。すごい雨のあった翌朝、一掃された氷塔をみて、三人はわっと歓呼の声をあげたのだ。濃霧の暗黒の底から盛りあがる氷の咆哮を聴きながら、温霧谷の化物氷河を渡ったのである。しかしそこで、空中索道をつくるのに一日ほど費やし、それまで黒い骨とばかりみえていた「大地軸孔」の口元へ、立ったのが翌朝のこと。
いよいよ、此処──三人は感極まったような面持だ。のぞくと、まっ黒な中からひやりとした風がのぼってくる。地底の国、アジア、アフリカ両大陸にまたがる想像界の大盲谷が、いま三人によって白日下に曝されようとする。やがて、垂らした綱が二百尋ほどになったとき、底に達したらしく、かすかな手応え……。いよいよ、地底の晦冥国へ。
「やはり、石油ガス」
とまっ暗ななかで鼻をうごめかし、セルカークが聴えぬような声で呟いた。おそらく、どこかに噴出孔があるのだろう。そして、岩石が落下するときの摩擦の火花で点火するのが、例の怪光だろうと思われた。
三人は、各人各様の気持──。折竹は、故国のために油層下の道をきわめようという。セルカークは、油脈探しの前身を見事露きだして、ほとんど天文学数字にひとしい巨大な富を握ろうと……。また、オフシェンコはと……。いうなかにも折竹の、心の琴線に触れるのはザチのこと。彼はいかにしても地底の女王に遇いたかったのである。
その間も、懐中電灯のひかりが四方へ投げられている。石筍はあり天井から垂れている美しい石乳も、どんよりした光のなかでは、老婆の乳房のよう。絶えず、岩塩の粉末が雨のように降ってくる。しかし塩が吸うので毒ガスの危険はなく、三人は安堵して進むことができたのだ。
二万マイルの道、北は、新疆のロブ・ノールから外蒙へまで、あるいはソ領中央アジアへもコーカサスへも、アフガニスタン、イランをとおり紅海のしたから、この地下の道はサハラ沙漠まで、ゆくだろう。そうして、ここに地底の旅がはじまった。
「いい陽気だ」
と、折竹は口笛を吹きながら、
「暑からず、寒からず……。まことに、当今は凌ぎようなりまして──だ」
しかし、進むというが、蝸牛の旅である。一日、計ってみると、三マイル弱。まだパラギル山のしたあたりの位置らしい。それに、開口のしたあたりでは仄のりと匂っていた、石油ガスの臭いがまったく今はない。
「どうも風邪を引いたのかな」
とセルカークが気になったように、言いだした。
「折竹君、ガスのにおいが全然ないと思うが……」
「そうらしい。たといあるにしろ、小ぽけなやつだろう。採油など、覚束ないようなね」
「ふむ」
とセルカークは不機嫌らしく黙ってしまった。当がはずれたのではないかと思うが、先があること。まだまだというように気をとり直すセルカークを見て、折竹はなんて奴だと思うのだ。すると、その辺から携帯水が気遣われてきた。
とめどない、渇というような事はまだないのであるが、なにしろ、少量しか飲めないので胃は岩石のように重く、からから渇いた食道の不快さに、前途がようやく気遣われてきた。と、その暗道がとつぜん尽きたのである。白い大きな岩塩の壁が、三人の行手を塞いでしまったのだ。
じゃ、盲道だったのか──と、折竹もまっ蒼になった。ことに、セルカークの失望は甚だしく、油層も晦冥国もすべて全部のことが、いまは阿呆の一夕の夢になってしまったのである。
石油の湖水、それに泛ぶ女王ザチの画舫。なんて、馬鹿な夢を見続けていたもんだと、かえって折竹を恨めしげにみる始末。と、引き返すことになったその夜のことである。寝ている折竹のそばへ這うようにして、セルカークがそっと忍び寄ってきた。彼が、目を醒ますと慌てたらしく、
「君、君、何なんだよ。もう開口へ出るまでの、水がないんだ」
「全然か」
「いや、三人分のがない」
と言うセルカークの目がぎょろりと光る。なんだか、殺気のような寒々としたものが、この男の全身を覆うているのだ。おやッ、どうも様子が変らしい。こいつ、と思うと厭アな予感がして、
「じゃ、どのくらいあるね」
「一人分だ。俺だけは、生きて帰る」
とたんに、腰の拳銃をにぎった、セルカークの手に触れた。なにをする! と、突き飛ばされたセルカークはころころと転げ……オフシェンコに打衝ったらしく、あっと彼の声がする。と、突然の火光、囂然たる銃声。やったな、じぶんだけ生きようばかりにオフシェンコを射ち……次はこの俺と思った一瞬のこと。天地も崩れんばかりの大爆音とともに……。ああ、かすかに洩れていた油層のガスに引火したのだ。
やがて、雪崩れる音が止むと、死のような静寂。折竹は、ほっとして起き上った。
と見る、なんという大凄観か⁈ 行手を塞いでいた塩壁がくずれ、そこから流れだしたのが原油の激流。油層! と、思うまに一筋の川となり、みるみるうち倒れているセルカークを押し流してゆく。すると、壁の割れ目をじっと見ていた折竹の目が、とつぜん、輝いてあっと馳せよったのだ。そこから、泡だつ原油とともに流れだしてきたのが、一人の女の屍体。
「ザチ、ああザチ」
彼は狂気のようにさけんだ。
大塩沙漠の覗き穴から地下へ帰った、女王ザチが美袍を着、いまは死体となって油の流れにまかせている。夢ではないか。これは一体なんということだろう。暫く茫然としてなすを知らなかった折竹が、やがて、裳裾の端をつかんでぐいと引きあげた。その、懐中からでたのが、身分証明のようなもの。
──前マリンスキー歌劇場の女優、ナデジーダ・クルムスカヤである。当「国家保安部」の一員たるを証明す。
ああ、やはり──と、いま折竹はすべてを知ったのだ。晦冥国も、地底の住民もこの「大盲谷」にはない。女王ザチも、やはり最初察したように、ソ連の女だった。彼女は対印新攻撃路を求めようという祖国の意志により、まず折竹を探検に誘おうとした。その、クライマックスが大塩沙漠、たぶん、夜、飛行機で驕魔台へ降り、折竹らをみるや、覗き穴を下ったのだろう。それは、晦冥国を思わせる巧妙な手だったが……しかし、それでザチは死ななければならない。
鉄の意志──。これも犠牲を自覚した、貴い一人だ。と、彼は虔しげに礼をした。
大塩沙漠から大地軸孔まで、油層の流れにのって此処まで来たザチ。ムスカットの宮苑でした別れの意味をいおうとして……いま折竹に抱かれている唇は綻び、この運命的な再会を悦ぶかのように、ザチの目はうっとりと開かれている。
しかし、この油層下の道へは、やがて故国の手が……。折竹は凱歌をあげた。
底本:「人外魔境」角川ホラー文庫、角川書店
1995(平成7)年1月10日初版発行
底本の親本:「人外魔境」角川文庫、角川書店
1978(昭和53)年6月10日発行
初出:「新青年」1940(昭和15)年8月号
※副題は底本では、「地軸二万哩」となっています。
※校正には「人外魔境」桃源社、1969(昭和44)年1月25日2刷を参照しました。
入力:笠原正純
校正:鈴木厚司
2014年7月1日修正
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