安吾巷談
東京ジャングル探検
坂口安吾
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わが経来りし人生を回想するという年でもないが、子供のころは類例稀れな暴れん坊で、親を泣かせ、先生を泣かせ、郷里の中学を追いだされて上京しても、入れてくれる学校を探すのに苦労した。私が苦労したわけではないが、親馬鹿というもので、私はだいたい学校というものにメッタに顔をださなかった。たまに顔をだすと、たちまち、先生と追いつ追われつの活躍となり、しかし結局先生を組み伏せるのは私の方であるし、当人の身にもツライことで、たのしいものではない。
追いだされるのは仕方がない。当人の身にはホッとして、これで悪縁がきれた、まったくである。不良少年というものは、行きがかりのものだ。当人が誰よりツライのである。けれども、親馬鹿だ。改めて歴とした中学へ入れようとしても、受けつけてくれるものじゃない。結局ヨタモノだけの集る中学へ入学する。そういう中学があったのである。
悪縁が切れたから、改心しようと思って、改心したツモリであったが、どこにも行きがかりというものがある。学問はできないけれども、スポーツは万能選手で、たのまれてチョロ〳〵と競技会へ出場すると、関東大会でも優勝するし、全国大会でも優勝する。九州の落武者の大ヨタモノの相撲の選手が糞馬力で投げてみたって、十二ポンドの砲丸が七八米ぐらいしか飛ばないものだ。私がヒョイと投げると十一米ふッとぶのである。柔道すると、大ヨタモノがコロ〳〵私にひッくりかえされる。いくら学問が出来ないたって、こういう連中の中では頭角を現すから、私は改心したツモリであったが、いつのまにか、大ヨタモノの中央に坐っていた。
九州の落武者の多くは、壮士的ではあるが、ヨタモノとは違う。彼らは概ね自活していた。新聞配達とか、露店商。これは今でも学生のアルバイトだが、当時はそうザラではない。夜中にチャルメラ吹く支那ソバ屋もいたし、人力車夫、これがモウケがよかったようだ。雨が降りだすと、ソレッと親方から車をかりて、駅や劇場へ駈けつける。雨天だけの出動で一ヵ月生活できるから、ワリがよかった。
この連中は年齢も二十をすぎ、いっぱし大人の生活をし、女郎買いに行ったりして、一般の中学生の目には異様であるが、ヨタモノとは違う。
硬派、軟派の本ヨタは、年齢的には、むしろ普通の中学生に多かった。
落語で云うと、コレ定吉、ヘーイ、というような筒袖の小僧ッ子が、朝ッパラから五六人あつまって、一升ビンで買ってきた電気ブランをのんでいる。三人ぶんぐらいの洋服や着物を曲げて、電気ブランを買ってきたのである。
小僧ッ子が酔っ払うと、目がすわる。呂律が廻らなくなることは同じことだが、理性は案外シッカリしていて、ちょッとした大言壮語するぐらいで、大人のように取り乱した酔い方はしないものだ。酔うと発情するような傾向もないし、シンから疲れているようなところもないせいかも知れない。
じゃ一仕事してこようや、と云って、酔いの少いのが、三人ぐらい、曲げ残りの制服や筒袖をきて、でかけて行くのである。腰にまいたバンドが武器だ。筒袖はメリケン・サックというものを忍ばせている。
よその学校のヨタがかったのや、軟派をおどかして金をまきあげることもあるし、セッパつまると、大人にインネンをつけることもある。小僧ッ子とあなどると案外で、ヒョウのような目で突然おそいかかって、メリケンをくらわせたり、バンドをふりまわしたり、警察へアゲられても、仲間のことは一言も喋らず、三四日してニヤニヤと出てくるのがいる。十六七の小さい中学生なのである。
彼らは賭場へのりこむこともある。貸元の賭場ではなくて、車夫だとか、自由労働者とか、本職でもなしズブの素人でもなしという手合の半常習的なレッキとした大人の世界へのりこんで行くのである。
子供とあなどってインチキなことをやると、少年の行動というものはジンソクなもので、居直ったと思うと疾風ジンライ的にバンドを構え、メリケン・サックを閃めかして大人にせまっている。
私は一度だけ、彼らがそんなことをする現場に居合したことがあるが、彼らは私に遠く離れて彼らの仲間と思われぬようにしているようにと注意を与え、細心なイタワリを払ってくれて、仲間になれとか、見張りしてくれとか、そんなことは決して云わなかった。
九州のオッサン組と本ヨタ組は完全に没交渉であったが、私はどちらからも大事にされて、甚だケッコウな身分であった。
九州のオッサン組は年をくっていたが、無邪気でもあり、同時に、低脳でもあったが、ヨタ組は若くて、しかし老成しており、学業は出来ないが、判断は早く、行動はジンソクだった。両者に共通していたことは、スポーツのような子供っぽいことには深く興味を持ち得ないことだけであった。両者がケンカすると、若年のヨタ公が勝ったであろう。なぜなら、しつこさ、あくどさがあった。軟派の現場をとらえ、相手の女学生を輪姦するというようなことは確かにやっていたし、その日常も現実的で、花札のインチキなどを、身をつめて練習していたものである。
後年、私が三十のころ、流浪のあげく、京都の伏見稲荷の袋小路のドンヅマリの食堂に一年ばかり下宿していたことがあった。
はじめ私が泊ったころはタダの食堂、弁当の仕出し屋にすぎなかったが、六十ぐらいのここのオヤジが碁気ちがいだ。毎晩私に挑戦する。それが言語道断のヘタクソなのである。石の生死の原則だけ辛うじて知っているだけで、九ツおかせてコミを百だして、勝つ。つまり、全部の石が死んでしまうのである。それでもオヤジは碁が面白くて仕方がないというのだから、因果なのは彼にしつこく挑戦される人間である。
バカバカしくて相手になっていられないから、そんなに碁が打ちたいなら、幸い食堂の二階広間があいてるから、碁会所をやりなさい。碁会所は達人だけが来るわけではなく初心者もくるから、初心者相手にくんずほぐれつやったらお前さんも溜飲が下るだろう、とすすめて碁会所をひらかせた。
オヤジは大変な乗気で、碁道具一式そろえ、初心者きたれ、と待ち構えていたが、あいにくなことにオヤジと組んずほぐれつの好敵手はいつまでたっても現れず、誰も彼を相手にしてくれないので、オヤジのラクタン、私もしかし今もってフシギであるが、これぐらいヘタクソで、これぐらい好きだというのは、よくよく因果なことである。
そのうちに、ここがバクチ宿のようなものになった。
稲荷界隈を縄張りにしている香具師の親分が見廻りに来てここで食事をするうち、ここの内儀に目をつけた。四十ぐらいの、ちょッと渋皮はむけているが、外見だけ鉄火めいてポンポン言いたがる頭の夥しく悪い女だ。善良な亭主を尻にしいて、棺桶に片足つッこんでからに早う死んだらえゝがな、というようなことをワザと人前で言いたてたがる女だ。
香具師の親分ときいて、このバカな内儀が何年間つけたこともないオシロイなどぬりたくり、チヤホヤしたから、それからは親分が見廻りにくるたび御休憩の家となり、親分御食事中はほかのお客はお断り。門前払いだ。
やがて親分が酔っ払う。親分と内儀だけ奥に残して、乾分たちは退散し、食堂のオヤジも二階の碁席へ追ッ払われる。オヤジは腰がまがって、二階へ上ってくる時は、一段ごとに手も突きながら、ウウ、ウウ、ウウ、と這ってくる。関さんという碁席の番人で、これもヘタクソなのを相手に、血迷った馬のような青筋をたてて、ただもう猛烈な速力で碁を打ちはじめるのである。ハハア、香具師の親分が来てるな。追っ払われたな、ということが、常連にはすぐ分るのである。
碁席を当日休業にして、この広間で、跡目披露をやったこともあるし、モメゴトの手打式などもあった。袋小路のドン底の羽目板が外れて傾いて、食堂の土間には溝のあふれた匂いがいつもプンプンしているようなところで、こんなところで跡目披露や手打式をやるようでは、よッぽど格の下の親分であったに相違ない。落伍者や敗残者だけが下宿するにふさわしい家で、便衣隊の隠れ家には適しているが、まア、便衣隊の小隊長格の親分だったのだろう。
こうなってからは、碁席の方へも、乾分のインチキ薬売りや、そのサクラや、八卦見や療養師や、インチキ・アンマや、目附の悪いのがくるようになり、彼らが昼間くる時はカリコミがあった時で、一時しのぎに逃げこんでいるのだから、ソワソワと落付かず、碁はウワの空で、階下でゴトリと音がするたび、腰をうかして顔色を変える。
私はこの連中から、花札や丁半のインチキについて、実地に諸般のテクニックを演じて見せてもらった。こればかりは実演して見せてもらわないと分らない。指先の魔術である。寄席でやる奇術師のカードの魔術、すくなくとも、あれと同等以上の指先の錬磨がないと、インチキ賭博はやれない。札が指と手の一部のように、指の股に、掌に、手の裏に、袖に、前後左右、ヒラヒラ、クルクル、自由自在、目にもとまらぬものである。特に対面には全然わからない。当人の向って左側の者にだけ、シサイに見ていると魔術が分るから、ここには仲間をおかないとグアイがわるいようだ。
私は麻雀については知らないが、見ていると、のぼせあがって、ひどく忙しく、やっている。まるで忙しくやらないと麻雀打ちのコケンにかかわるかのように、ただもう四人の手がめまぐるしく往復しているのである。おまけに捨てたパイの上を水平に這うようにして各人の手が忙しく往復しているのだから、余分のパイを二ツ三ツ隠しておくのはワケがない。ちょッとの練習でいくらでもインチキがやれそうだ。だから素人が知らない人と賭け麻雀などはするものではない。
私の一生は不逞無頼の一生で、不良少年、不良青年、不良中年、まことに、どうも、当人がヒイキ目に見てもロクでもない一生であった。それでも性来、徒党をくむことを甚しく厭み嫌ったために、博徒ギャングの群にも共産党にも身を投ずることがなかった。
云い換えれば、私の一生は孤独の一生であり、常に傍観者、又、弥次馬の一生であった。
しかし、私が傍観してきた裏側の人生を通観して、敗戦後、道義タイハイせり、などとパンパン、男娼、アロハアンチャン不良少年の類いをさして慨嘆される向きは、世間知らずの寝言にすぎないということを強調しておきたい。いつの世にも、あったのである。秩序ある社会の裏側に常に存在してきたのだが、敗戦後は、表側へ露出してきただけなのである。
しかし、日本の主要都市があらかた焼け野原となって、復興の資材もない敗戦後の今日、裏側と表側が一しょくたに同居して、裏街道の表情が表側の人生に接触するのは仕方がない。まだしも露出は地域的であり、そういうものに触れたくないと思う人が触れずに住みうる程度に秩序が保たれていることは、敗戦国としては異例の方だと云い得るだろう。
裏側と表側の接触混合という点では、パンパン泥棒の類いよりも、役人連の公然たる収賄、役得による酒池肉林の方が、はるかに異常、亡国的なものであると云い得る。
清朝末期に「官場現形記」という諷刺小説が現れた。下は門番小使から上は大臣大将に至るまで、官吏の収賄、酒池肉林、仕事は表面のツジツマを合せるだけで手の抜き放題、金次第という腐敗堕落ぶりを描破したもので、この小説が現れて清朝は滅亡を早めたと云われている。
しかし今日の我々が「官場現形記」を読むと、官界の腐敗堕落の諸相は清朝のものではなくて、そッくり日本の現実だ。日本官界の現実は亡国の相であり、又、戦争中の軍部、官界、軍需会社、国策会社も、まったく清朝末期の亡国の相と異なるところがない。
街頭にパンパンはいなくとも、課長夫人の疎開あとには戦時夫人がいたし、戦時的男女関係はザラであった。万人には最低の生活が配給されていたが、軍人や会社上司の特権階級は、今日との物資の比例に於ては同じように最高級の酒池肉林であったことに変りはなく、監督官庁の役人は金次第で、あとは表面の帳面ヅラを合せておけば不合格品OKだ。
そのくせ新聞は一億一心、愛国の至情全土に溢れているようなことしか書かないけれども、書けないからで、もしも今日同様なんでも書ける時代なら、道義タイハイ、人心の腐敗堕落ということは、先ず戦争中に於て最大限に書かれる必要があったのである。
新聞が書きたてることができず、誰も批判を発表することを許されなかった時代には、報道をウノミにして事の実相を気付かず、批判自由で新聞が書きたてる時代に至って報道通りのことを発見して悲憤コーガイ憂国の嘆息をもらすという道学者は、目がフシ孔で、自分の目では何を見ることもできない人だ。
口に一死報国、職域報国を号令しつつ腐敗堕落無能の極をつくしていた軍部、官僚、会社の上ッ方にくらべれば、敗戦焼跡の今日、ごく限られたパンパン男娼の存在の如きは物の数ではあるまい。前者は有りうべからざるものであるが、後者は当然あるべきことで、しかもその数は決して多すぎるものではなく、今日の敗戦日本は意外に秩序が保たれていると見なければならない。けだし日本の一般庶民が性本来温良で、穏和を愛する性向の然らしむるところであるらしい。監督官庁の官僚や税務官吏が特に鬼畜の性向をもつわけでなく、一般庶民と同じ日本人なのであろうが、どうも日本人というものは元々一般庶民たることに適していて、特権を持たせると鬼畜低脳となる。今日に於ては、官僚の特権濫用の鬼畜性と一般庶民の温良性との差は甚しいものがある。批判禁止の軍人時代とちがって、批判自由の時代に於ても特権階級の専横は軍人時代と同じ程度であるから、いかに性温良とは云え、泣く子と地頭に勝てないという日本気質の哀れさは、当代の奇習のうちでも万世一系千年の伝統をもち特に珍らかなもののように思われる。アキラメや自殺は美徳ではない。税金で自殺するとは筋違いで、首をチョン切られても動きまわってみせるという眉間尺の如くに、口角泡をふいて池田蔵相にねじこみ喉笛にかみついても正義を主張すべきところであろう。
どうもマクラが長くなり、脱線して、何が何やら分らなくなってしまった。こんなことを云うつもりではなかったのだが、ヘタな噺し家は、これだからこまる。高座で喋りながら逆上するようでは芸術家の資格がないと心得ていても、税務署に話がふれると、目がくらむのである。
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終戦後、東京いたるところの駅前にマーケットができて、カストリをのませる。よってヘベレケに酔っ払う人種があつまり、パンパンとアロハのアンチャンがたむろする。
マーケットというところは元々売買取引するところだが、終戦後は、ここで女を買うことも間に合うし、顔を貸りられて身ぐるみまきあげる取引もあり、一つとして足りない取引がなく、みんなここで間に合うこととなった。
私は同じ地点で二度スリにやられたが、身ぐるみはがれたことはない。一度、当時はまだ銀座が殆ど復興していなかったが、私が焼跡へでて小便していると(マーケットに便所はないです)左右からサッと二人の怪漢が近より無言のままサッと胸のポケットに手をさしいれて引きぬいて、サッと消えた。私が用を終って振りむいた時には、人の姿はどこにもなかった。
手際の良さ、水ぎわ立った奴らだと感服したのだが、彼らは失敗したのである。私の小便の終らぬうちにと、彼らは急いでいるから、サッとポケットの物をひきぬくと改めもせず掻き消えたが、怪漢の一人はチリ紙をぬきとり、一人は鎌倉文庫手帖というものをぬきとったにすぎないのである。こういう教訓を書き加えるのは、芸術家として切ないのだが、手際がよすぎるということもいけないのである。
私がマーケットに於て被害をうけたのは、以上だけで、常連としては極めて微々たる被害だが、一人で飲むということが殆どなかったせいかも知れない。
どこのマーケットでもアンチャンあるところ身の安全は期しがたいが、特に新宿のマーケットはカストリ組の危険地帯随一と目されている。
しかし、新宿は戦争前にも、東京随一のアンチャン地帯であり、酔ッ払いの危険地帯であった。
私が中学生のころは浅草がひどかったが、震災後、親分連が自粛して、浅草の浄化運動というようなものを自発的に、又、警察と協力的にやりだしたので、私が東京の盛り場をノンダクレてまわる頃には、浅草は安全な飲み場の一つであった。
いつまでもアンチャン連が生息横行していた盛り場は、新宿が筆頭で、私もずいぶん、やられたものだ。当時、ここでひとりで深夜まで飲むことが多かったからだ。しかし、深夜には、たいがいバーでのんでいるから、バーのマダムや姐さん方は正義派で、お客をまもってくれるという良俗があり、新宿で本当にタカラれたこともなく、血の雨を降らしたこともない。新宿のヨタ公は、戦争がタケナワとなり、飲み屋がなくなるまで、残っていた。
しかし、盛り場ではないから一般には知られていないが、戦争前に私がズッと住んでいた蒲田はもっとひどかった。
中央線沿線は書生群のアパート地帯だが、当時の蒲田は安サラリーマンと銀座勤めの女給のアパート地帯で、アパートの女給は男をつれこみ、酒場や料理屋の女はまったくパンパンで、公然と許されてはいなかったが、今日の裏街といえどもこれ以上ではないのである。もっとも、銀座もひどかった。
当時はコップ酒屋がどこにもあったが、蒲田は安サラリーマンと労働者の街だから、夕方になるとコップ酒屋がドッとあふれる。大は四五十人つまるところから、小は四五人で満員の十銭スタンドに至るまで、お客は主として四十歳以上の、その日稼ぎの勤労者である。
蒲田のヨタモノはこの連中をタカるのだから悪質であった。
どんな風にタカルかというと、ヨボヨボの労務者が一人、又は二三人でのんでる横へ、ドッカと坐ってのみだす。やがて話しかけて(話しかけないことも多いが)
「このオジサンに一杯」
といって、一杯酒をとりよせて、まア飲みねえ、うけてくんな、と押しつける。
うけなければ、なぜうけないとインネンをつけるし、うければ、なぜ返さぬ、とインネンをつける。返せば、又一杯押しつけて、返させる。途中に帰ろうとすれば、なぜ帰るとインネンをつける。見込んだら、放さない。
洋服のサラリーマンよりも労務者にタカルことが多かったが、一見乞食のような服装の老いたる労務者や馬力人夫などが、最もタカラれ、結局その方が確実にイクラカになる理由があってのことだろう。
こんなタカリは毎晩一パイ飲み屋の何軒かで見られたものだが、店の主人も店員も客のためになんの処置もしてやらない。こういう時には男手のないバーなどの方がはるかにシッカリしているもので、マダムとか、ちょッと世なれた女給たちはヨタモノを退散させてくれるものだ。歴とした店構えの酒屋などの主人に限って、後難を怖れて、客のために何の処置もしてくれない。又、四五十人もいるお客は顔をそむけて素知らぬフリでのんでいる。うっかりそッちを向いてもインネンをつけられる怖れがあるからで、事実ヨタモノはヨボヨボのジイサンなどをひどくイジメて、正直者がとりなしてくるのを待ち構えてもいるのである。
私もここでは五人相手に大乱闘やったことがある。酔っていたから、ずいぶんブン殴られた。なんべんノビたか分らないが、ノビた数だけ突如として起き上ってとびかかって、いつまでも終りがないので、五人の親分というのが留めにきてくれた。翌日鬼瓦のように青黒くはれた顔をしているところへ、中原中也が遊びにきて、手を打って喜び、二三時間ぐらい(つまり彼の酒場へ通う時刻がくるまで)アレコレと腫れた顔の批評をして、帰っていったが、私は怒ることも笑うことも喋ることもできなかった。顔の筋をうごかすことができなかったのである。しかし一つの腫れた無言の顔を相手に、三時間もアレコレと意地の悪い批評の言葉がつづくところはアッパレ詩人というべきであろう。この時以来、私の鼻と口の間の筋が一本吊って、時々グアイがわるい。
当時の蒲田のヨタモノは二種類あって、一つは並のヨタモノであるが、一つは大船へ引越した松竹撮影所が蒲田へ置きすてていった大部屋の残党だ。
私のアパートの隣室が彼らの巣で、主として自分らの情婦をつかってツツモタセの相談をやってる。それが筒抜けにきこえる。いよいよ最後の仕上げに総勢出動のあわただしい音も、ガイセンの音も、祝盃の音も、みんなきこえて、最後に殊勲の女を情夫が愛撫する音まできこえ、首尾一貫、居ながらにして、現代劇を味っているようであった。そのツツモタセのたかってくる金が三円か五円ぐらいで、いちど十円の収穫があったとき、女が、十円札だわねえ、はじめてだわ、とシミジミ云っているのがきこえ、変に悲しい思いにさせられたものである。パンパン時代の今日の方が、むしろ女の肉体の価が高い。当時は蔭で身を売る女の数が今よりも多く、ハッキリ旗印しをあげることができなかったから、タダであったり、チップであったり、要するに値段がなかった。今のパンパンは収入の点では昔日の比ではないのである。
新宿は蒲田ほど露骨ではなかったが、盛り場としては、戦前から最も柄の悪いところであった。
しかし戦後の新宿はたしかにひどい。今は伊東に住んでいるから新宿へ行くこともないが、以前はよく行った。古い友人のやつてる「チトセ」という店は屋外劇場の方で、ここはアンチャン連の居ない地域であるが、今は取り払われでなくなった和田組のマコの店、ここへ行くと、すさまじかった。
しかし酔っ払って帰る時はいつもマコが駅まで送ってくれたから無事であったが、さもないと、どうなるか分らない。マコはナジミの客はみんな駅まで送ってやっていたから、私の友人はここであんまり被害をうけなかったようだが、しかし編輯者などで、ここのマーケットで裸にされたというようなのは相当数いるのである。
そういうのは前後不覚に酔って、いつやられたか当人も知らない場合が多く、私がこのマーケットへ飲みに行っていたころも、入口出口の要所の店には、帰り客の酔態を監視している何人づれかのアンチャンが必ずタムロしていたものである。
このマーケットは取り払われたが、その四囲のマーケットは残っており、アンチャン連の存在は今もって変りがない。
人間が何千年の時間をかけて社会秩序というものを組みたてても、ひとたび我々の直面した敗戦焼跡の如きものがあって、無政府状態が訪れた際には、歴史は逆転して同じフリダシへ戻ってしもう。曰く、暗黒時代である。
盛り場を縄張りとする愚連隊が、無政府状態の敗戦直後に先ず縄張りの復興にのりだしたのは自然であるが、これを正規の復興に利用し、政党費までこの連中の新円に依存しようという量見を起した政党の無定見、一時しのぎのさもしい根性、未来の設計に対する確たる見透しや理想の欠如というものは、ひどすぎた。
歴史に徴しても、無能な政府というものは、主として一時しのぎのさもしい量見で失敗しているものだ。
自分の政敵を倒すために他人の武力をかりて、かえって武力に天下をさらわれてしまう。平安貴族の没落、平家の天下も、源氏の天下も、南朝の悲劇も、無為無能の政府が一時しのぎに人のフンドシを当にしたせいだ。
敗戦後のいくつかの政府は、歴史上最も無能な政府の標本に属するものであったが、占領軍の指導で大過なきを得たのであった。
歴史をくりかえすのはバカのやることだ。歴史は過ちをくりかえさぬために学ぶ必要があるのである。
数年前からボス撃滅を叫びながら、今もって各地はボスの勢力下にあり、却々もって撃滅どころの段ではない。代議士、府県会議員、市町村議員にも多数のボスが登場しているし、ボスでない議員もボス化し、困ったことには役人官僚もボス化しているから、盛り場のチンピラ・アンチャンなどは、まだまだ可愛い方だと云わなければならない。
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私は一九五〇年四月十五日という土曜日に、許可を得て、新宿駅前の交番に立番し、つづいて上野公園の西郷さんの銅像下の交番に詰め、お巡りさんの案内で、上野の杜の夜景を見せてもらった。
新宿の方は殆ど驚かなかった。なぜなら、我々が酔っ払った場合、又は酔っ払った周囲に於て有りがちなことが、ドッとまとめて起っていたにすぎないからである。
しかし天下名題の新宿だけあって、交番の忙しいこと、その半分は酔っ払いの介抱役で、死んだように酔っ払って交番へかつぎこまれ、何をされても目をさまさずコンコンとねむりつゞけているのがいる。何を飲んでこんな風になるのだか、その昏酔状態というものは尋常一様のものではない。二十二歳の新調のギャバジンの背広をキチンときたサラリーマンだった。介抱窃盗現れるのもムリがない。介抱窃盗というのは、介抱するフリをして身ぐるみ持ってくのを云うのだそうで、新宿のマーケットでは酔っ払いが主としてこの被害を蒙るのである。
もっとも、これには非常にまぎらわしい場合がある。グデン〳〵に酔って知らない酒場へひきずりこまれる。ひきずりこまれるというのは客ひきの女給が街頭に無数に出ていてタックルするからだ。勘定が足りなくて、時計や上衣をカタにとられて追いだされる。
酔っ払い先生がこれを自覚していれば良いのだが、ふと気がついて、所持品や時計や上衣のないことにだけ気づいた場合がヤッカイで、介抱窃盗にやられたのだか、勘定のカタにとられたのだか、本人が分らないからヤッカイである。
こんなのがきた。
酔っ払っているのは四十五六のどこかの課長さんだ。これを交番へひきずりこんだのは喫茶店のマダムで、年は三十二だと云ったが、大柄で、骨が太く、顔にケンがあり、噛みつかれそうな偉丈夫だ。男は痩せて小さくて、女丈夫に腕をとられて、文字通り、ひきずりこまれてきたのである。マダムも酔っていた。そして一人の女給をつれていた。
「無銭飲食です。勘定をとって下さい」
と、すごい見幕でつきだした。
その勘定というのがタッタ百円なのである。女給が街頭に出張していると、男が酔っ払って通りかかったのでタックルした。もうお酒はのみたくないというので、女給がすすめて牛乳二杯とらせた。男が一杯、女給が一杯。それが百円である。
「一杯五十円の、二杯ね。お砂糖入り牛乳ですよ。だから、五十円」
女丈夫はお砂糖入りをくりかえし強調した。
男はカバンを持っていたのである。勘定を払う段に、カバンが失くなっているのに気がついた。いくらか酔いがさめかけたのである。しかしまだ全然呂律がまわらない。
「カバンが失くなったから払えない。払わんとはいわん。ぼくはこういう者です」
男は名刺をとりだしたが、ヨロけてフラフラ、ウイッといって前へのめりそうになったり、今喋っていることを明朝覚えているとは思われない。
お巡りさんは名刺と定期券を合せて調べたが、たしかに本人の名刺だ。
けれども女丈夫は承知しない。所持金がないと知りながら、今すぐ払えという激越な口吻だ。つまり上衣か何かカタにとりたてるコンタンらしい。巡査も呆れて、
「たった百円のことじゃないか」
と叱りつけたが、女はひるむどころか、
「じゃ、明日の何時に交番の前で払うと、お巡りさんが証人になって、責任をもって下さい」
と図々しいことを言いだした。勝手に責任を押しつけられてはお巡りさんも堪らないから、
「名刺を貰ってるんだから、信用したら、どうかね。ニセの名刺じゃないことが証明ずみなんだから。こちらの方も悪意があるわけじゃない。酔っ払ってカバンを失くしたために払えないことがハッキリしとるじゃないか」
「イエ、ぼく必ず払う。明日の朝七時。ここで払う」
と男は胸をそらして威張ったが、呂律がまわらず、ヨロメキつづけている。今の約束も明朝忘れているだろう。
女もこれ以上ガン張るのは不利と見たらしく、
「たった百円ですからね。よろしい。この人を信用しましょう。私は信用してひきとりますから、この人のカバンを探してあげて下さい」
そう云ったから帰るかと思うとそうでもない。帰りそうにしては、険しい顔をキッと押し立てて、
「この名刺を信用して、ひきとりますが、この人のカバンを探してあげて下さい。たのみますよ」
今度は男のカバンを探してくれということをシツコク言いだして、いかにもそれも押しつけるように、たのみますよ、とくりかえす。
その執拗さに巡査も腹を立てて、
「君のカバンでもないのに、何をしつこく頼むことがあるか。君に頼まれなくとも、我々はそれが職務だから、余計な世話をやかずに、用がすんだら、ひきとりたまえ」
「カバンを失くして気の毒だからさ。じゃ、百円、あすここへ届けて下さい」
と悍馬のような鼻息で、女はひきあげた。
ところが、それから二三十分すると、交番の四五間横の駅の玄関の柱に、女が何か大事そうに抱えて、交番の巡査にこれ見よがしにたたずんでいるのである。
そのフロシキ包みは、ちょうどカバンぐらいの大きさだ。むろんカバンのはずはないが、いかにも疑ってくれという様子で、あまりにシツコく、また、憎々しいやり方である。
巡査もいまいましがって、女を交番の奥へつれこみ、フロシキの中をしらべると、案にたがわずカバンではない。しかし一計を案出して、
「あのお客がだね。カバンを君の店で矢くした、君の店まではたしかにカバンを持って行ったと言ってる。君を疑るわけではないが、相手が酔っ払いでも、君の店で失くしたらしいと云う以上、一応君の店を調べなければならないから、案内してくれたまえ。君を疑ってるわけじゃないから、悪く思うなよ」
と、このお巡りさん、年は若いが、なかなか言い方が巧妙である。
「ええ、ええ。そうでしょうとも。あの人がそう云う以上は、調べをうけるのが当然ですよ」
と、女はまるでそれを待っていたようである。
きいてる私は、なんとも不快だ。この女は全部筋書を立ててやってるのである。巡査は女に案内させて調べに行ったが、もとよりカバンのあるはずはなかった。
巡査は男が女の店へカバンを忘れたと云ってると云ったが、これは巡査のとッさの方便で、男はすべてを記憶していないのだ。どこで飲んだかも覚えていない。あの女の店で酒をのんだ、と云ったりする。牛乳じゃないのか、ときくと、フシギそうに考えこんでしもう。そこでも酒をのみ、そこを出てからよそでも飲み、又戻ってきて牛乳をのんだのかも知れないし、しかし男の記憶は茫漠として全く失われているようである。
客が前後不覚とみてカバンをまきあげ、それをカモフラージュするために、百円の無銭飲食だといって交番へつきだしたのかも知れないし、カバンを盗んだように疑われそうだから交番へつきだしたのかも知れない。状況だけでは、どうにも判断がつかないし、つけるわけにもいかない。
しかし女の態度はいかにも憎たらしいし、作為的だ。そして男のカバンにこだわりすぎる。私が見ていた感じからいうと、女が犯人だとは云いきれないが、犯人の素質は充分にあることだけは確かである。世間にザラに見かける女ではない。
こういう奇怪な人物が酒場を経営し、女給に命じてお客をタックルさせ、前後不覚の客に飲み物を押しつけて売るというのが、新宿の公然たる性格なのだから穏かではない。
タックルしてくる客がお金があろうがなかろうが構わない。むしろお金のない方がいいらしいようでもある。金のカタにとれそうな外套や時計やカバンなど持ってればOKというわけだ。
どの店なのか定かに記憶のない仁もあろうし、盗られたのか、忘れたのか、カタにおいてきたのか前後不覚の仁もあろうし、外套やカバンならお金を工面して取り返しに行くだろうが、時計などだとそれなりにしてしもう。ビール一本か二本の話で、バカげた話だけれども、酔っ払いというものは身からでた錆、災難とアキラメル精神の持主でもあるから、酔ってモウケた話などはないものだ。損するものと心得て、合の手に禁酒宣言などやってみるが、性こりもないものだ。
介抱窃盗というのは明かに犯罪にきまっているが、前後不覚のお客をさそいこんで飲み物を押しつけて所持品衣類をカタにとりあげる。山賊とか安達ヶ原の婆アかなんかが宿屋を内職にしてそんなことをやってるワケじゃなくて、帝都の裏玄関、レッキとした新宿の駅前マーケットの公然たる性格だから、東京にはジャングルがあるのである。
しかしジャングルにはスリルがある。虎や狼こわくはない、というのはカンカン娘だけではなくて、酔っ払いは虎や狼にも会いたがる。安達ヶ原を承知の上で乗りこむのだから、身ぐるみはがれたってテメエが悪いんだ、なるほど、そうか。しかし、ねえ。そんなことを云うと、酔っ払いが悪くて、介抱窃盗が良いみたいじゃないか。どっちも悪いや。ア、そうか。
酔っ払いというものは、介抱窃盗にやられても、天を恨まず、人を恨まず、自粛自戒して、三日間ぐらいずつ禁酒宣言などというものをやる。まことに深く逞しき内省自粛精神と、ひきつづいて忘却精神と、猛然たる勇気と、いろいろの美徳をかねそなえ、あげて税金に奉仕している人種である。
わが身を考えると、よその酔っ払いを悪く云うわけにはいかないが、交番の中から眺めていると、酔っ払いというものは世話のやけるもんだね。
交番の巡査を選んで、話しこみにくる酔っ払いがいる。交番の七八間うしろの道にはパンパンが林立しているし、あらゆる店には女給があぶれて話しかけてくれるのを待っているのに、そういうところには目もくれず、交番の巡査のところへ話しこみにくる。交番にもたれてタバコをくわえて、ニヤニヤと、ねえ君ィ、などと三十分もうごかない。アッパレな酔っ払いがいるものだ。なるほど交番へ遊びにくるのが一番安全には相違ない。
酔っ払いの無銭飲食を引ッたててきた酒場のマダムもその傾きがあるが、交番へ人を引ッたててくる人の中には、引ったててくる人物の方がいかがわしい場合が少くないから面白い。交番をめぐる神経、心理というものは微妙にこんがらがったもので、悪党に限って、人を交番へ引ったてたくなるのかも知れん。
二人のアロハのアンチャン、もっともアロハをきているわけではない、リュウとしたニュウルックのダブル、赤ネクタイの二人づれ。酔っ払った労働者をひッたてて交番へのりこんだ。終電に近いころだ。
「切符を買おうとしていたら、こいつがね、酔っ払ってよろけるフリして、ポケットへ手をつッこみやがってね。ほれ、ここにこれが見えるからね。ふてえスリだ」
腰のポケットに何やら買物包みらしいものがのぞけてみえるが、酔っ払ってヒョロ〳〵と足もとも定まらないようなスリがあるものか。酔っ払いは怒って、
「なに云ってやんでい。よろけて、さわったら、インネンつけやがって」
「なに!」
アロハのアンチャン、交番の中でサッと上衣をぬごうとする。
「ヘエ、ヘエ、すみません」
酔っ払いはわざとペコリとオジギして、呂律のまわらぬ舌で、昔どこかで覚えたらしい仁儀のマネゴトをきった。
「スリの現行犯だから、ブチこんどくれ」
とアンチャン連、凄い目をギロリとむいて、終電に心せかれるのか、さッさと行ってしまった。酔っ払いがすぐ釈放されたのは言うまでもない。
なんのために交番へひッたててきたのか、このへんのところはマカ不思議で、わけが分らない。アンチャン方も、何が何やら無意識に、ただもうアロハ的本能で行動していらッしゃるのかも知れない。サッと上衣をぬぎかけたり、サッと逃げたり、アロハ本能というもので、相手が一文にもならなかったり、その場に限って自分に弱味がなかったりすると、相手を交番にひッたてたくなるというアロハ本能があるのかも知れない。
交番へ借金にきた変り種もあった。
さしだした名刺をみると、京橋の何々会社の取締役社長とある。なるほど、しかるべきミナリ、四十ぐらいの苦味走った伊達男である。
この先生はいくらかのアルコールがまわって心浮き浮きしているらしいが、言葉も足腰もシッカリして、酔態は見られない。この先生の出現は、時に深夜一時、終電もなくなり、さすがの新宿駅前も、まさに人影がとだえようとしている時刻だ。
「実はね。私は新宿ははじめてなんです。かねて聞き及ぶ新宿で飲んでみようと思いましてね。そんなワケで、この土地にナジミの飲み屋がないでしょう。お勘定が千円なんですが、私は現金は八百円しか持ち合せがない。しかし今日集金した三万円の小切手があるから、これでツリをくれと云ったら、ツリはやれん、小切手はこまる、現金でなくちゃいかんと云うんです。冗談じゃない。この小切手は横線じゃない、銀行さえ開いてりゃ、誰がいつでも現金に換えられる小切手でさアね。ほら、ごらんなさい」
男は三万円の小切手をとりだしてみせた。私は小切手のことは皆目知らないが、不渡りかどうか、交番で鑑定のつく品物ではなさそうだ。しかし伊達男は苦味走った笑みをたたえて悠々たるもの。
「小切手じゃアどうしてもいけないてんだから弱りましたよ。持ち合せが八百円しかないんだから、二百円貸しとけ、と言ったら、それもいけない。ナジミじゃないんだから、耳をそろえて千円払えてんですよ」
「それはなんて店ですか」
「さア、なんてんだか」
男は口ごもっている。巡査はフシギがって、
「今ごろ、まだ営業してるんですか。なんて店ですか。店の者をつれてらッしゃい」
「それがねえ、じゃア交番へ行って話をつけようと云ったら、交番はいけない、とこう云うんです。あんた一人で行ってこい、とこう云うんですよ。交番はイヤだてえんですよ。どうも仕様がありませんや」
「何か品物を置いてッたら」
「ハア。品物をおくんですか」
「品物はおいてないのですね」
「ええ、おいてやしません」
男はビックリしている。新宿の性格を知らないらしい。
男はやがてポケットから百円札八枚とりだした。
「ホラね。ここに八百円、私の持ち合せ全部ですよ。すみませんが、二百円かして下さいな」
妙な話になってきた。全然ツジツマが合わんじゃないか。
小切手は信用できんという。ナジミじゃないから、二百円貸すわけにはいかん。たった二百円まけてもくれず、貸してもくれないほど信用しとらん客を、品物どころか、八百円も小切手も預らずに、お供をつけずに外へ出すとはおかしいじゃないか。
この先生にしたって、本当に勘定を払う気持があるなら、このまま家へ帰って、明朝返しにくるがいい。交番へ二百円かりにくることはありやしない。
男はしかしそんな不合理は意に介していないらしい。小切手を交番の机の上へおいて、
「ね。小切手をお預けしますよ。明朝銀行が開きさえすりゃ現金になるんですから、現金にかえてお返ししますよ。これをカタに二百円たてかえて下さい」
「交番では、そういうことをするわけにいきません」
「なに、あなた、個人的に一時たてかえて下さいな。小切手をお預けしますから」
「お金はお貸しできませんが、勘定の話はつけてあげますから、店の者をつれてきて下さい」
「それが交番はイヤだてえんで、こまったな。いいじゃないですか。二百円かして下さいな。この小切手お預けしますよ。交番だから信用してお預けするんですよ」
「とにかく店の者をつれてらッしゃい。二百円は店の貸しにするように、話をつけてあげますよ」
「そうですか。困ったなア。来てくれりゃ、いいんですが、来ないんですよ」
「じゃア何か品物をカタにおいてお帰りになったらいかがです」
「そうですなア。じゃア、そうしましょう」
男はようやくあきらめた。そして二幸の横の露路へ大変な慌ただしさで駈けこんでしまった。私は思わずふきだした。
言うまでもなく、みんな嘘にきまっている。露路の奥には恐らくパンパンが待っていたに相違ない。パンパンを拾ったら、千円だという。ところが八百円しか持ち合せがない。しかしパンパンは負けてくれない。小切手を見せてもダメだ。そこでパンパンを待たせておいて交番へ二百円かりにきたわけだ。二百円かりて小切手を預ける。これぐらい安全な保管所はない。一石二鳥というものだ。すでに飲んだ酒の勘定なら、八百円の有り金まで持たせたまま、お供もつけずに外へ出すはずがないじゃないか。
慌ただしく駈けこんだまま再び姿を見せなかったところをみると、八百円でパンパンを説得するのに成功したのだろう。
路上でねているのを拾われてきた酔っ払いが交番の前にねせてある。小便は垂れ流し、上半身はヘドまみれ、つまり上下ともに汚物まみれで、これなら介抱窃盗も鼻をつまんで近よらないだろう。とても交番の中へ入れられないので、前の路上へねせておくわけだ。まったく昏酔状態で、いつ目覚めるとも分らない。
ちょッとした交通事故が一件あったほかは、私たちがこの交番で接したのは、もっぱら酔っ払い旋風であった。応接いとまなしであった。
田川博一が私の横で深刻そうに腕ぐみして呟いた。
「もう、新宿じゃア、のまん」
悲愴な顔だが、禁酒宣言というものは三日の寿命しかないものだ。
★
さて、いよいよ上野ジャングル探険記を語る順がまわってきた。四月十五日に探険して、それから一週間もすぎて、まだこの原稿にかかっているにはワケがある。
私も上野ジャングルには茫然自失した。私がメンメンとわが不良の生涯を御披露に及んだのも、かかる不良なる人物すらも茫々然と自ら失う上野ジャングルを無言のうちに納得していただこうというコンタンだった。
上野ジャングルに於て、私が目で見、耳できいた風物や言語音響を、いかに表現すべきかに迷ったのである。読者に不快、不潔感を与えずに表現しうるであろうか。そッくり書くと気の弱い読者は嘔吐感を催してねこんでしまうかも知れんが、その先に雑誌が発売禁止になってしまうよ。
新宿交番が酔っ払い事件の応接にイトマなく、ただもうムヤミに忙しいのにくらべると、上野の杜の交番は四辺シンカンとしてシジマにみち、訪う人もなく、全然ノンビリしている。ノンビリせざるを得んのである。一足クラヤミの外へでて、ヤミに向って光をてらすと、百鬼夜行、ジャングル満山百鬼のウゴメキにみちている。処置がない。
新宿は喧噪にみち、時に血まみれ事件が起っても、万人が酔えば自らも覚えのある世界であり、事件であって、我々自身の生活から距離のあるものではない。いつ我々が同じ事件にまきこまれるか知れないという心細さを感じるのである。
上野は異国だ。我々が棲み生活する国から甚大の距離がある。何千里あるか知れないが、そこは完全な異国なのだ。
天下の弥次馬をもって任じる私が、終戦以来一度も上野を訪れたことがないとはフシギだが、しかし私が見た上野はブラリとでかけて見聞できる上野ではない。ピストルをもった警官が案内してくれなければ、踏みこむことのできないジャングルなのである。
私は上野を思うたびに、いつも思いだす人物があった。
むかし、銀座裏に千代梅という飲み屋があった。ここにヤマさんという美少年の居候がいた。年は十八。左団次のお弟子の女形で、オヤマという言葉からヤマさんと愛称されていたが、水もしたたるような美少年だ。当人は自分を女優という。私は女優です、と云うのである。男の服装はしているが、心はまったく女であった。
私はこのヤマさんに惚れられて、三年間、執念深くつきまとわれた。私は錯倒した性慾には無縁で、つきまとわれて困るばかりだ。
しかしヤマさんという人物は実に愛すべき美徳をそなえ、歌舞伎という古い伝統の中で躾けられてきたのだから、義理人情にあつく、タシナミ深く、かりそめにもハシタないフルマイを見せない。
私につきまとうにしても、歌舞伎の舞台の娘が一途に男をしたうと同じ有様で、思いつめているばかり、踊りや長唄などの稽古にかこつけて私を訪れて、キチンと坐って、芸道の話をしたり、きいたり、しかし時には深夜二時三時に自動車でのりつけて、私が出てみると、ただ悄然とうなだれていたりして、こういう時には困ったものだ。そんな時には、ずいぶんジャケンに叱りつけたり、追い返したり、時には私が酔っていて、ひどいイタズラをしたこともあった。
深夜にやってきて、どうしても私から離れないから、男色癖のある九州男児をよびむかえ、私はそッとぬけだして青楼へ走ってしまった。そこから電話をかけてみると、ヤマさん受話器にしがみついて、殺されそうです、助けに来て下さい、まったく悪いイタズラをしたものだ。
世の荒波にジッとたえて高貴な魂を失うことなく、千代梅の内儀に対しては忠義一途、人々に親切で思いやり深く、人柄としては世に稀れな少年だった。学問はなかったが、歌舞伎の芸できたえた教養があった。
その後私が東京を去り、そのまま音信が絶えていたが、終戦二年目、私が小説を発表し住所が知れると一通の手紙をもらった。
戦争中は自分のようなものまで徴用されてセンバン機などにとりつき、指も節くれてしまったが、それでもお国につくすことができたと満足している。今は誰それの一座におり、何々劇場に出演しているから、ぜひきていただきたい、と、なつかしさに溢れたつているような文面であった。
一度劇場へ訪ねてみようと思いながら、それなりになっていた。
そのうち、上野の杜だの男娼だのと騒がれるようになり、それにつけて思われるのはヤマさんだ。歌舞伎の下ッ端は元々生活が苦しかったものだが、終戦後は別して歌舞伎の経営不振で、お給金はタダのようなものだという。とても暮しがたたないとすれば、ほかに生活力のないヤマさんが自然やりそうなことは思いやられるのである。上野の杜のナンバーワン女形出身などゝいうと彼ではないかと気にかかり、男娼の写真がでゝいるなどゝきくと、わざわざ雑誌をかりたり取りよせたり、その中に彼がいないかと気がかりのせいなのである。彼の美貌というものは、当今騒がれている男娼ナンバーワンどころのものではなかった。水もしたたる色若衆であったのである。
私は上野というとヤマさんを聯想する習慣だったが、実地に見た上野ジャングルというものは、なんと、なんと、水もしたたるヤマさんと相去ること何千万里、ここはまったく異国なのである。
公園入口に百人ぐらいの人たちがむれている。男娼とパンパンだ。そんなところは、なんでもない。上野ジャングルはそんなところにはないのである。
山下から都電が岐れて、一本は池の方へまがろうとするところに共同便所がある。
「あの便所がカキ屋の仕事場なんですよ」
と私服の下にピストルを忍ばせた警官が指す。
「カキ屋?」
「つまり、masturbation をかかせるという指の商売、お客は主として中年以上の男です。この人がと思うような高位高官がくるものですよ。つかまえてみますとね、パンパンを買う常連の中にも、社会的地位のある人がかなりまぎれこんでいるんですよ」
私たちは共同便所へとすすんだ。二十米ぐらいまでくると、シャガレ声で、
「カリコミイ──」
と呻く声。
巡査はパッと駈け寄って、懐中電燈一閃。カキ屋を捕えるためでなく、現場を我々に見せてくれるためだ。
しかしカリコミを察知されたのが早かったので、便所の入口へ駈けつけた巡査が、懐中電燈で中を照しだした時には、七人の男がクモの子を散すように、逃げでる時であった。一瞬にして八方へ散る。ヨレヨレの国民服みたいなものをきた五十すぎのジイサン。三十五六の兵隊風の男。等々。いずれも街頭でクツをみがいているような人たちだが、共同便所の暗闇の中で、泥グツをみがくにふさわしい彼らの手で、一物をみがいてもらう趣味家はどんな人々なのか、まるで想像もつかない。
「カキ屋の料金は五十円です」
と、お巡りさんは教えてくれた。
田川君と徳田潤君がつきそってくれたが、徳田君は社の帰りに一度は上野にたちよってちょッとぶらついてみないと心が充ち足りないという上野通であったが、かほどの通人にして、カキ屋の存在を知らなかった。つまり、公園入口にぶらぶらむれている百人あまりの男娼パンパンがいわゆる一般人士に名の知れたノガミで、共同便所から池の端の都電に沿うた一帯の暗黒地帯は、ピストルの護衛がないと、とても常人は踏みこめない。通人もふみこめない。ただイノチがけの大趣味家だけが、ふみこむのである。
私はみなさんをそこへ御案内するわけだが、ピストルの護衛づきでも足がすくんだ。まア、しかし、可憐なところから、お話しよう。
私たちを案内してくれた警官は天才的なほどカンの鋭い人だった。彼の五感はとぎすまされているようだ。私がまだ何の予感もないのに、彼がにわかにクラヤミの一点をパッとてらしだす。そこに確実に現場が展開されているのである。彼が失敗したのはカキ屋のときだけだった。
彼はすれちがう女をてらしだした。ズックのカバンを肩にかけている。彼は無言で、カバンの中をあけさせた。
「この女はオシなんです。上野にはオシのパンパンが十二名いるのです」
まるみのある顔、いかにもノンビリ、明るい顔だ。クッタクのない笑声。口と耳がダメなんだということを自分の指でさして示した。小ザッパリしたワンピース。清潔な感じである。
カバンの中にはキチンと折りたたんだ何枚かの新しいタオル。紙。ハミガキ類がキレイに整頓してつめられている。ビタミンBの売薬と、サックがはいっている。
上野が安住の地なのだ。ほかに生活の仕様がないのに相違ない。キレイ好きで整頓ずきの彼女は、しかしノンビリと、汚濁の上野に身をまかせている。ほかのパンパン男娼はむれていたが、彼女は一人で、まっくらなヒッソリしたジャングルのペーヴメントを歩いていた。まるでお嬢さんが一人ぽっちで銀座を歩いているように。巡査が懐中電燈を消すと、彼女はふりむいて、コツコツと静かな跫音で歩き去った。
巡査はサッと身をひるがえして植え込みの中へ駈けこんだ。間髪をいれず我々が追う。サッと懐中電燈がてらしたところ、塀際で、男女が立って仕事をしている。光が消えた。この巡査は思いやりがあるのだ。カリコミではないから、女に逃げる余裕を与えているのだ。女は塀の向うへ逃げ去った。男は狐につままれたような顔でズボンのボタンをはめ忘れてボンヤリ立っている。
「いくらで買ったか?」
「二百円」
「よし、行けよ。ズボンのボタンをはめるぐらい、忘れるな」
男が去った。すると、もう一人、義足の男がそれにつづいて、コツンコツンと義足の音を鳴らしながら立ち去って行く。どこにいたのだろう。そして、どういう男だろう。光で照らされた輪の中には、この男の姿は見えなかったのである。
巡査はそれには目もくれず、足もとの地上をてらして見せた。ルイルイたる紙屑。
「戦場の跡ですよ」
立ったまま仕事するほどの慌ただしさでも、紙は使うとみえる。五十ぐらい紙屑がちらかり、それがみんな真新しい。この一夜のものだ。クツでふむ勇気もなかった。
尚もクラヤミのペーヴメントを歩いて行くと、歩道に二三十人の男女が立っているところがある。その三分の二はパンパンだが、男もまじっていて、お客でもなければ、男娼でもない。この道ぞいに掘立小屋をつくっている人たちで、パンパンの営業とある種の利害関係をもっている人種だ。
巡査はその人群れの隅ッこで立ち停ったが群れに目をつけているのではなく、何か奥のクラヤミをうかがっている様子である。
私たちも仕方がないから立ち止る。場所が悪いや。入れ代り立ち代りパンパンがさそいにくるし、みんな見ているし、薄気味わるいこと夥しい。たたずむこと、三四分。
警官身をひるがえしてクラヤミへかけこむ。我々もひとかたまりに、それにつづく。
我々の眼の前に懐中電燈の光の輪がパッとうつッた。掘立小屋だ。一坪もない小屋。天井も四辺もムシロなのだ。地面へジカにムシロをしいて、それが畳の代りである。
ムシロの上に毛布一枚。そこに一対の男女がまさしく仕事の最中であった。仕事のかたわらに五ツぐらいの女の子がねむりこけている。
私がそれを見たのを見届けると、警官は光を消して、
「男は立ち去ってよろし。女は仕度して出てこい」
男がゴソゴソと這いだして去る。ちょッと又光でてらすと、女がズロースをはいたところだ。女はワンピースの服、ストッキングもそのまゝ、ズロースだけとって仕事していたのである。
小屋の外のクラヤミに三十五六の女が茫然と立っている。田舎者じみた人の良さそうな女だ。赤ん坊をだいでいる。この女が掘立小屋の主なのである。仕事の横でねていたのはこの女の子供。だいているのはパンパンの子供。仕事中預ったのだ。一仕事につき五十円の間代。ムシロづくりの掘立小屋の住人は、パンパンから相当の小屋貸し科をかせいで、それで生活しているのである。
天井もムシロだから雨が降ったら困るだろうと思ったが、葉のしげった樹木の下につくるから、それほどでもないということであった。
でてきたパンパンは子供をだきとって、
「かんべんして下さいな。生活できないから、仕方ないんです。まだ、こんなこと、はじめたばかりなんです」
「嘘つけ。三年前から居るじゃないか」
「ええ、駅のあっち側でアオカンやってたけど、悪いと思ってね、よしたんです。そして、たかッてたんです。だけど、子供が生れたでしょう。タカリじゃ暮せないから、仕方なしに、やるようになったんですよ」
たかッていた、というのは、モライをしていたという意味だ。光の中で見ると、二十三四、美人じゃないが、素直らしい女で、痛々しい感じだ。
アオカンだの、植え込みの蔭で立ったままだの良くても掘立小屋という柄の悪いこと随一の上野だが、それだけに、ここのパンパンはグズで素直で人が好くて、三日やるとやめられないという乞食のようにノンビリしたところがあるのかも知れない。
「今日だけはカンベンして下さい。まだお金ももらわなかったんです」
「よし、よし。今日はカンベンしてやる。しかし、な」
巡査は私に目顔で何かききたいことがあったらと知らせたが、私はききたいこともなかった。
私たちがそこを離れると、二十人ぐらいの群が私たちをとりまいて、グルグル廻りながら一しょに歩いてくる。
さては、来たな、と私はスワと云えば囲みを破って逃げる要心していると、いつのまにか囲みがとけて、彼らは、私たちから離れていた。
弁天様の前の公園へでる。洋装の女に化けた男娼が巡査と見てとって、
「アラ、旦那ア」
と、からかって、逃げる。うしろの方から、
「旦那のアレ、かたいわね。ヒッヒッヒ」
大きな声でからかってくる。
ベンチにパンパンがならんでいて、
「ヤーイ。ヤーイ。昨日は、御苦労様ア」
と、ひやかす。昨日、一斉カリコミをやったのである。それをうまくズラかった連中らしい。声をそろえて、ひやかす。行く先々、まだ近づかぬうちから、みんな巡査の一行と知っている。
私はふと気がついた。私たちは四人づれだったが、いつのまにか、五人づれになっているのだ。スルスルと囲みがとけたとき、そのときから、実は人間が一人ふえていたのである。クラヤミだから定かではないが、二十二三の若者らしい。私たちが立ち止ると、彼も一しょに立ちどまる。
クラヤミのベンチに五六人のパンパンが腰かけたり、立ったり、あつまっている。その前に和服の着流しの男が立っていて、
「ぼくはねえ、人生の落伍者でねえ」
パンパンと仲よくお喋りしている。三十ちかい年配らしい。学者くずれというような様子、本郷辺から毎晩ここへ散歩にきて、パンパンと話しこむのが道楽という様子である。
趣味家がいるのだ。イノチをかけても趣味を行うという勇者も相当いるのである。世の中は広大なものだ。かかる趣味家の存在によって、上野ジャングルの動物は生活して行くことができる。
このジャングルの住人たちは、趣味家を大事にする。お金をゆすったり、危害を加えたりしない。彼らが来てくれないと、自分の生活が成り立たなくなるからだ。新宿のアンチャンは自分のジャングルへくるお客からはぎとるが、このジャングルはクラヤミで、凄愴の気がみなぎっているが、訪う趣味家はむしろ無難だ。
上野で危害をうけるのはアベックだそうだ。アベックはジャングルを荒すばかりで、一文のタシにもならないからだ。それにしても音に名高い上野の杜でランデブーするとは無茶な恋人同志があるものだが、常にそれが絶えないというから、やっぱり世の中は広大だ。
上野ジャングルの夜景について、これ以上書く必要はないだろう。私が書いたのは夜景の一部にすぎないが、いくら書いても同じことだ。懐中電燈がパッと光ると、そこには必ずアレが行われているのだから。音もなく、光もなく。地上で、木の蔭で、塀際で。どこででも。
新宿の交番は多忙で、酔っ払いをめぐる事件の応接にテンテコマイをつづける。ところが上野の交番ときては、訪う人もなく、通りかかる人もない。夜間通行禁止だからである。そして交番は全然平和でノンビリしている。
しかし、もしも一足交番をでて懐中電燈をてらすなら、これ又、応接にイトマもない。とてもキリがないことになるから、ジャングルのシジマをソッとしておいて、より大いなる事件の突発にそなえているというわけだ。
しかし上野ジャングルの平和さから我々は一つの教訓を知ることができる。上野ジャングルの構成までには、ヤクザの組織、ヤクザ的ボスの手が殆ど加えられていない。
戦争の自然発生的な男女の落武者が、ジャングルに雑居してしまっただけだ。上野は異国であり、我々の生活から遠く離れたジャングルであるが、そして百鬼うごめく夜景にもかかわらず、百鬼のおのずからの自治によって、概して平穏だ。満山クラヤミながら、概して平穏なのである。ボスの手が加わらず、ボスの落武者もいないからだ。
家もなく、又はムシロの小屋にすみ、自らのすむクラヤミのジャングルを平和にたもつ異国人こそ、悲しく、痛々しく、可憐ではないか。私は彼らを愛す。彼らの仕事には目をそむけずにいられないが、彼らはたぶん私よりも善良かも知れない。あのヤマさんがそうであったように。
上野ジャングルの夜景には、まさにドギモもぬかれたが、目を覆いたい不潔さにも拘らず、ひるがえって思えば、一抹の清涼なものを感じられる。彼らが人を恨まず、自らの定めに安んじ、小さく安らかにムシロの小屋をまもり、ジャングルの平和をまもっているからだ。
わがジャングルで金をゆすり衣服をはぎ血を流している他の盛り場のアンチャンは下の下だ。精神的には、この方が異国人に相違ない。焼跡の多くがまだ復興していないのだから、ジャングルが残っているのは仕方がないが、上野ジャングルの方は当分ソッとしておいてやっても、我々と没交渉でもあり、どこか切ないイジラシサもあるではないか。匆々たたきつぶす必要のあるのはボスとボスのつくった盛り場の組織と、アンチャンの存在だ。
底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房
1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二八巻第七号」
1950(昭和25)年6月1日発行
初出:「文藝春秋 第二八巻第七号」
1950(昭和25)年6月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年1月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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