わが精神の周囲
坂口安吾



     まえがき(小稿の主旨)


 私がアドルム中毒で病院を退院したのは、この四月二十日頃であったと記憶する。退院に際して担当の千谷さんから、秋までは仕事をしないように。転地してノンビリ遊んで暮しなさい、という忠告をうけた。私もなるべくこの忠告に従いたいと思ったが、私が鬱病の傾向を起したのは、昨年夏からのことで、それからズッと殆ど仕事をしていない。私は病気と闘った。旅行。覚醒剤。そして、睡るためのアドルム。

 昨年夏から、この春の入院まで、私が精神の衰弱と闘いながら書きつゞけたのは「にっぽん物語」又は「スキヤキから一つの歴史がはじまる」という妙な題で新潮に発表されたもの、並びに未発表の続稿、合せて千枚ちかいものがあるだけ。この未発表の部分は未定稿で、よほど手を入れなければ発表のできないものであった。しかし、未定稿の部分を加えても、私の意図している小説の三分の一にも達していない。

 この小説の妙な題名は、私が入院中に無断発表されたため起ったもので、この小説の主たる題名は今もって私の念頭に定まるものがない。私は題名などのことで考える意志がないからであった。

 つまり「にっぽん物語」というのは、この小説に主たる題名がないところから雑誌社が無断掲載に際して自ら作ったものであるが、それならばそれで押してくれゝば宜しいものを、気が咎めたのか、主たる題名を小さく、「スキヤキから一つの歴史がはじまる」という題を大きくつけた。

 私が雑誌社へ渡した部分は、この小説の第一章の「その一」だけで、せめて雑誌社としては、第一章の題をもって主たる題名に代えたかったであろうが、これまた不都合なことに「一九二八─」という未定の題名が第一章につけられており、使いものにならなかったのである。そこで、仕方なしに、第一章中の「その一」をもってきて、主たる題名の如くに大きく扱った。それが「スキヤキから一つの歴史がはじまる」という妙なものなのである。第一章中の「その一」だけの題だから、こんな奇妙な題名もありうるが、さもなければ、こんな題をつけるバカがいる筈のものではない。この部分は、新潮の三、五、六、七月号に分載された。

 私にとっては、題名は「にっぽん物語」でもよかったのである。それは雑誌社も承知しており、私は常々、よい題名がありさえすれば、なんとつけても宜しい、と云い云いしていたことであった。だから妙に遠慮せず、ハッキリと「にっぽん物語」と題をつけてくれた方がよかったのである。新潮社が遠慮すべき点は、ほかに在った。それは、私の承諾を得ずに、発表してはいけない、という一事であった。

 私は今まで、全部の完成を見ぬうちに発表した長篇は、すべてが中絶という運命にあった。これは作者の個性的な性癖の一つで、仕方がないものであろうと思う。その反面、全部の完成を見るまで発表を控えたものは、二年三年の難航はあっても、それぞれ完成しているのである。私はその運命を怖れた。そして、新潮の社員に、題名などは何でもいゝが、全部の完成を見るまで発表を控えて欲しいという一事だけ、特別に言いつゞけていたのであった。借金のことなど、雑誌社にも言い分はあることだし、発表された今となっては、もう仕方がない。女々しく取乱すよりも、私として最も大切な一事は、従来の運命をくつがえして、すでに発表されたこの小説をあくまで完成しなければならない、ということであった。

 ところが困ったことに、私がなんと焦っても、私一個の焦りだけで、この小説を書きすゝめることが出来ない障碍が行く手にあった。それは京都の言葉であった。第一章の「その二」及び第二章の殆ど全部が、京都が舞台になっているからであった。私も十三年ほど以前に、「吹雪物語」を書いていたとき、京都に一年半滞在していた。それだけに多少の心得はあったが、反面、京都弁のむつかしさも心得ていた。特にこれを個性的に表現することがむつかしい。私の人物にモデルがあれば、言葉の癖をとらえることも易しいが、すべてが架空の人物であるから、それらの人々に京都弁を喋らせて、各自に言葉の個性をもたせることは容易の業ではない。

 第一章の「その一」を書き終えたのは去年の十一月であったが、この定稿を新潮社へ渡して、「その二」を書きすゝめてゆくうちに、もどかしさに、たまらなくなった。京都弁を表現し得ないもどかしさに。

 私は昨年の暮に東京をたち、この正月を京都で送った。すでにもう小説は「その二」を終って、第二章にはいっていたが、私が病状を決定的に悪化させたのは、この旅行に於いてであった。

 私は東京で京都育ちの何人かを助手に雇えばよかったのである。ところが、当時は、そう考えてはいなかった。なまじいに助手を雇うと、仕事は容易であるが、助手の個性に左右されて、目的を逸しはしないか、と考えたからである。私は京都の標準語を習うことが目的でもないが、特に私流にアンバイして、作中の各人物に個性的な言葉を与えなければならないからであった。

 私は助手を雇わずに、京都のまんなかへ潜在して、出来るかぎり多くの人物と語り合い、多様な言葉を観察して、その中から、私流に幾つかの言葉の個性を発明しようと考えた。そして私は京都へ向った。そして、この旅行が失敗に終った。言葉の発明に失敗したわけではないが、最も単純に、体力的に敗北してしまったのである。今年の元日以来スチームが通うようになったが、昨年の暮には、東海道線にはスチームが通じていなかった。車中の寒気にふるえ、絶え間なく流れでる洟汁と、こみあげる吐き気に苦しんだ。京都へついた私は、まったく船酔いに似て、寒気と吐き気に苦悶し、半死半生のていであった。京都の旅館へついて、そのまゝ正月の一週間をねこんでしまった。体力的に消耗しきって、落武者の如く東京へひきあげたが、この旅行への期待と希望が大きかっただけに、私の落胆は甚大であった。しかし私は勇気を落さず、不自由を忍び、京都弁につかえながら、第二章を書きすゝめた。だが、私の頭は、もう、うまく廻転してくれなかった。覚醒剤とアドルムを過度に服用しはじめたのは、この時からであった。東大神経科へ入院したのは二月十七八日ごろのことで、そのときは、喋ることも、歩行もできず、たゞ幻視と幻聴に苦しみつづけていた。すでに歩行も不可能であるから、兇暴期もすぎていたが、たゞ、私の忘れていないことは、一度も自殺を意志しなかったこと、たゞ生きること、そして、仕事の完成だけを考え、何よりも自殺の発作を怖れつゞけたことであった。千谷さんから、二ヶ月で必ず治してみせます、と云われたときに、私はたゞ恢復しうる感動で、胸がいっぱいであった。

 こうして、四月二十日ごろ恢復退院したが、千谷さんの忠告にも拘らず、生活費を得るために、多少の仕事をせざるを得ない。どうせ仕事をするくらいなら、私はむしろ、この小説に没入した方がよかった、と、今は思う。その方が、胸の虚しさも晴れ、むしろ精神の安定を得ることができたであろうと思う。私はしかし、なるべく疲れずに、仕事をすることを考えた。そういう中途半端なものが、芸術の世界で許されるものではなく、私はテキメンに自らの空虚さに自滅したようである。

 千谷さんから呉々くれぐれも云われたように、当時の私はまだ恢復が充分ではなかったところへ、暑気に当てられ、決して多くの催眠薬を服用したとは思わぬうちに、春の病状をくりかえしていた。私は春の七八分の一程度の服用量だからと安心しているうちに、すでに中毒症状に陥ちこんでいたのであった。

 まえに田中英光君が同じ中毒で愛人を刺した事件があったところへ、又、私の中毒再発であるから、ジャーナリズムが呆れたのはムリがない。意志薄弱とか、狂気の文学などと二三の批評を新聞でよんだが、果して、そういうものだろうか、私は抗議も言い訳もしないが、たゞ私の小説を読んで欲しいと言うだけである。

 新潮に連載された「にっぽん物語」を読んでみたまえ。又、これから某誌に連載されるその続稿をよんでくれたまえ。この小説は、私が鬱病(精神病の一種であるが)と闘い、消耗する精神や体力の火を掻き起しつゝ、争い、そして、書きつゞけた小説で、すでに歩行も、喋ることも不可能な時に至っても、尚、精神病院の鉄格子の中でふるえる手で、時には自分にも得体の知れない文字によって書き綴りつゞけた小説なのだ。幻視と幻聴の中で書き綴った小説なのである。

 これ以上に健康な小説が、有ろうとも思われぬほど、健全ではないか。私の精神や肉体は異常であったかも知れないが、私の仕事は健全そのものであり、いさゝかも異常なところは見られない。私はたゞ、消耗する体力と闘いながら、一途に人間を追及しただけで、その人間像に異常なところが在るとすれば、それは私が異常なためではなくて、あらゆる人間が本来異常なものであるためだ。

 私の精神が異常であるのは、私の作品が健全のせいだ、と言いきれないこともない。私の健康さの全部のものを作品に捧げつくして、その残りカスが私というグウタラな現身うつしみなのだよ、と誇示し得ないこともないのである。諸氏よ、精神異常者の文学だの、意志薄弱の文学などという前に、私の「にっぽん物語」を読んでみたまえ。そして、それから、君の言いたいことを言ってくれたまえ。(なお「にっぽん物語」という題名は、あらたに某誌へ続稿を連載する時には、私自身の新しく選んだ題名に変更するつもりである)

 以上が本文の主旨であるが、以下、私は漫然と、私の精神の周囲を散歩してみようと思う。


          


 伊豆の伊東へきて、もう九日になった。ちょうど一週間目に体重をはかったら、私は伊東へきて四キロふとり、六十七と八を上下する体重になっているのである。ここへ着いた翌日は六十四キロであった。六十七・五キロと云えば、ちょうど十八貫、私の生涯でこれほどふとったことはない。

 私は京都で、たった二日のうちに、十五貫から十七貫五百になったことがある。これは脚気かっけでむくんだせいである。むくむのも目方のうち、とは、その日まで気がつかなかったが、むくみにしても、にわかに二貫五百ふとると、我ながら堂々と、たのもしく、ズッシリとわが身の重みを感じるものである。モットモ脚気というものは、足が挙らなくなるものだから、そッちの方で甚大な重みを感じることも事実だが、鏡にうつしても堂々たるもの、但し、二日で二貫五百もふとると、人相まで一変してしまう。私の人相が、にわかに、出羽海に似ていたので、たいへん感服したものであった。但し脚気の薬をのんだら、たった三日で、もとのペシャンコになってしまった。その時以来、十七貫までふとったが、それ以上にふとったことはなかったのである。

 私は十八貫という体重を発見して以来、その一日は、幻想的な思索にしずんだ。これは、まったく、異常である。しかし、どこかに理由がなければならないだろう。

 私は温灸おんきゅうのせいかも知れないと考えた。この温灸は伊東へついた翌日、尾崎士郎の奥さんが教えてくれたのである。

 私が二年前に伊東へ遊びに来たとき、尾崎士郎が妙なお灸をすすめた。

「キミ、頭のテッペンへお灸をやってみないかね。跡なんか、つきやしないよ。ガーゼをしいて、その上へお灸をもすんだ。熱くもなんともないんだ。ホカホカするだけでね。頭の疲れがとれて、よく眠れるんだ」

 今にして思えば、それがつまり温灸であった。私はお灸と温灸の区別どころか、お灸そのものすらも、当時は知らなかったのである。

 私はさッそく、その翌日から、この温灸を試みた。さる婆さんが、やっているのである。四十前後の二人の中年婦人のお弟子を従えて現れるのである。

 私の胃袋のあたりへ、ちょッと手をふれたと思うと、

「これは肝臓。お酒はいくら飲んでもよろしい。私の温灸をやれば、一週間で治る。こゝへ当てる」

 と、温灸の場所を弟子に指図した。それから、女房のミズムシを発見すると、

「あゝ、奥さん、ミズムシだね。このミズムシはタチがわるいが、私の温灸なら、三日で治る」

 彼女は女房の年齢や身なりから判断して、私の女房ではなく、酒場の女とか、芸者とか、パンパンという性質の女だろうと見たようであった。

「あなた、奥さんですか。お嬢さんでしょう?」

 つれてきた弟子がトンキョウな声できく。万事がこの伝でカケアイ漫才なのである。別な角度からサグリを入れるワケである。居合わした数人の人たちが笑いだして、

「奥さんだよ、バカな」

 と云っても、半信半疑、むしろ、益々、女房に非ず、と判断したようである。

 弟子は○○式温灸の来歴を書いた書物をとりだして、

「この先生の温灸にかゝれば、万病が治るよ。肝臓でござれ、ミズムシでござれ、肺病なんか、特に三日から一週間で治ってしまうよ。それ以上にきくのが、性病。淋病、梅毒、あんなもの、この先生の温灸じゃ、病気のうちにはいっていないよ」

 ポンポンとタンカをきるこの弟子は、むかしは生長の家の信者であったという。師匠はこの弟子を「火の玉」とよんでいた。もう一人は温灸をやりながらアンマをとる婆さん弟子で、昔は日蓮の信者だという。この方はおとなしかった。

 火の玉は居合わした人々の人柄から判断して、胸の病いと性病患者がいる筈だと判断したようである。万事がこの伝でカケアイ漫才をやりながら、サグリを入れたり、ミズをむけたりするのであった。

 私は私の病気を案じて附き添ってきてくれた高橋正二という商船学校出身のイキのいゝ青年に、

「君はジン臓が悪いそうだから、やってもらえよ」

 高橋はお灸がすきなのである。むかしジン臓を病んだことも事実であった。

「そうですね。じゃア、やってもらいましょう」

 しかし老婆は、見るからに健康児童の高橋を病人とは見なかった。ちょッと背へ手を当てて、

「この人は、こゝにいる人たちの中では第一番に健康。私は診察せなんでも、一目見れば、アヽ、この人はどこが悪い、ピタリとわかる。この人は、こゝに弱点がある。この尾テイ骨、こゝのところへ温灸を当てなさい」

 火の玉は灸をあてながら、

「この先生のお灸も大したものだが、又、足でふむアンマが独特な技法なんだよ。急所急所を足でふみつけて行くんだけれど、それだけで病気が治る人もあるよ」

「あとでサービスしてあげる。サービスしても、せなんでも、一人百円。人助けのためにしていることだから、難病が三日で治った、先生、ありがとう、こう云われゝば、胸がはれる。何百万円つんだとて、気のむかん時には、してはやらぬ。東京の人はひねくれておる。素直なところが欠けておる。これが何より治療にわるい。私の言う通り、される通り、ハイ、ハイ、云うとれば、どんな病気も治してあげる。あんたがどんな偉い人かは知らんが、この婆アに足で頭を踏みつけられた、腹が立つ、帰れ、ハア、帰りましょう、ハイ、サヨナラ、それだけのことじゃ」

 この婆さんの温灸というのは、由来書の通りに云えば、菅平高原から採取している十何種かの高山植物と、動物のホルモン等々をねり合せた黒色のウニのようなものをガーゼの上へ一センチぐらいの厚さにつみ、その上へモグサを山ともりあげて燃すのである。黒色のウニのようなものが多分に液汁を含んでいるから、それが燃えない限り、さのみ熱くはなく、熱くなると、やめるという仕掛けで、終るまでに一時間ぐらいはかゝるかも知れぬ。ここをやると眠くなる、と、頭のテッペンや頸筋へも温灸をやった。

「これをやると赤血球白血球一万ふえる。何よりホルモンが貴重な薬を通じて移るから、これをやると、女が十人あってもまだ足らないというほど精力が溢れる。あんたの頭は毛が薄いが、ハゲは三日で、黒い毛が生えるようになる」

 大きなことばかり云っている。どうせ医者の薬も治しゃせぬ、という病気に憑かれてのことであるから、これも余興、朝晩四日やった。一向に効き目がない。睡む気もさゝないのである。日蓮の婆さんは温灸をやりながらアンマをしてくれるし、師匠の婆さんは温灸が終ってから、足や背中やクビ筋などを足でふむ。いずれもツボをはずれていて、何をやっているのやら、バカバカしいものである。

 朝は日蓮の婆さんが肝臓をやり、夜分は師匠と火の玉が睡るための温灸をやりにくる。日蓮の婆さんは温和で、気違いじみたところや、宣伝めいたところがなく、

「奥さんのミズムシは長くかゝりますよ。タテ孔のできたミズムシはタチが悪いですよ」と正直なことを云ったり、私の肝臓については、

「旦那さん、肝臓にお酒は悪いですよ」

 と、当然なことをマジメに言う。ハッタリ漫才の二人組とは逆なことを言うのである。二人組の言うこと、為すこと正気の沙汰ではないから、

「どうだい。あんた方、催眠術というものを知っているかい。オレがあんた方に催眠術をかける。あんた方がオレに温灸を施す。どっちが利くか試合をやろうじゃないか」

「催眠術って、ねむらせるんですか」

「眠らせもするが、もッと、ハデにやろうじゃないか。別に火や水を使うワケではないが、オレが術を行うだけで、あんた方の全身、火に焼かれているように熱くしたり、凍ったように冷くしたり、してみせようか」

 火の玉も師匠の婆さんも、にわかに面色が改まって、返事をしなかった。

 その翌日、もう来なくともいゝと電話をかけさせたのに、やってきて、今日は今までとは別な特別のネリ薬を持ってきたから、と、女房にしつこく云う。来るなと云えば、ハイ、サヨナラ、どころの話ではない。むりに温灸をもしはじめて用意にかゝった様子であるから、私が隣室から、

「もう来るなと電話で云った筈だよ。なんべん来ても、ハイ、サヨナラ」

 と、ひきとらせた。それでも諦めず、一時間ほどすぎて、日蓮の婆さんを差し向けてよこした。この婆さんの方に私が好意を持っていることを嗅ぎだしたからであろう。

 これほどケンもホロロに追い返さなくとも、いゝようなものだが、なんともカケアイ漫才がうるさくて、見えすいた商売気やハッタリが鼻についてならないのである。ある日は、私を海岸の散歩に誘い、汀をピシャピシャ歩くほど気持のよいものはない、明日夕方の五時に迎えに来るから、と、私が何度イヤだと云っても、二人のカケアイ漫才で、そのシツコサたらない。思うに、海岸には写真屋がたくさん出ているから、そんなものでも撮して宣伝の具にしようとでもいう魂胆だったのかも知れない。そういうシツコサが鼻持ちならなくなったのである。旅先の徒然に、手ごろな慰みだと思っていたが、慰みで終るような軽快なところがなかったのである。

 いつか、尾崎士郎の家で、来合せた人が、「それは士郎さん、ふとるんだったら温灸に限る。けど、こいつは病的なふとりでね」

「そうかね。ほんとに、ふとるかね」

「テキメンにふとる。けど、病的だから、これは止した方がよい」

「ふとるんだったら、病的だろうと、なんだって、ふとりたいね」

 と、尾崎士郎は執拗にふとりたがっていたものである。その日のことを思いだしたから、一週間に四キロふとったのは温灸のせいだろうか、と私は考えたのである。

 伊東へ来て、一週間。七日のうちに、色々なことを、めまぐるしく、やった。しかし、どれとして、ふとるようなことはしていない。即席の効能としては、痩せる性質のことが主であった。


          


 私は伊東へ来るようになったソモソモのことを明確には心得ていないのである。数日のことが、明確には、思いだせないのである。私は又、催眠薬をのむようになっていたのかも知れない。

 覚えているのは、伊東行きのきまった前夜、蒲田の南雲さん(井伏鱒二の「本日休診」の主人公三雲博士)この人は産婦人科医で警察医だが、何の病気に拘らず、私の家の全員がお世話になるお医者さんなのである。それから、長畑さん(柿沼内科医局長。私とは年来の知友である)この御二人のお医者さんが見えていられたこと、これが第一の不思議である。偶然だとは思われない。

 私に伊東行きをすゝめたのは南雲さんであった。南雲さんは伊東に親戚の旅館もあり、二人の坊ちゃんが間借りの避暑にきていた。この間借りをたゝんで帰るために伊東へ行くから、一しょに行かないか、しばらく転地して保養した方がよい、という南雲さんの考えだったようである。

 長畑さんも私の家に一泊して、翌日一しょに伊東まで来てくれた。その翌日は大井広介の奥さんが乳癌で手術することになっていた。長畑さんと大井広介とは古くからの親しい友で、私が長畑さんを知るようになったのも、大井広介を通じてゞあった。

 大井夫人の乳癌を診断したのも長畑さん。一刻も早く手術の手配をとりはからったのも長畑さん。その手術は翌日の朝九時半から外科の手術室で行われ、是が非でも立ち合う必要のある長畑さんが、この際どい瀬戸際に伊東くんだりへ出向いてくれたのは、やっぱり私の知らない理由があってのことであろう。

 私の家には、高橋正二と渡辺彰が毎晩泊って、私の発作に備えていてくれたが、翌朝になると、講談社の原田君も泊っていたことが分った。何かゞあったのではないかと私は思う。私の記憶に明かではないが、作品社の八木岡君も泊っていたような気がする。

 伊東へ同行したのは、南雲、長畑両医師に、高橋正二と女房。渡辺、八木岡両君は後日やってきた。

 伊東へきて三日目の朝であった。旅館の縁側で私と話を交していた高橋が、

「先生、だいぶ催眠薬の影響がとれてきたようですね。言葉の発音が、しッかりして来ましたよ」

 催眠薬ときいて、私はドキッとした。私には、その記憶がないのである。

「言葉の発音が、そんなに変テコだったのかい」

「えゝ、ちょッと、呂律ろれつがまわらなかったです。言葉もそうでしたが、足の方が、ひどかったですね。伊東へ来た日、尾崎さんの前の河で、なんべん、ころんだか、覚えてますか」

 その方は覚えていた。しかし、言葉がもつれていたという意識はない。

 大井広介の娘、陽子ちゃんが遊びに来た。女房と多摩川へボートをこぎに行って、一泊した。すると翌朝、大井広介がカンカンに腹を立てゝ陽子ちゃんを迎えに来て、

「ママが乳癌と診断されて一晩泣き通していたじゃないか。手術をするんだぞ」

 と、大変な見幕であったが、愛妻家の大井広介が奥さんの乳癌にテンドウしたのは当然であろう。私は乳癌を癌のうちでは最も治療の容易なものと見くびっていたが、長畑さんの話をきいてみると、なかなかもって一筋縄では行かないシロモノであるらしい。私はお乳へラジュームを当てるか、切るにしても、ちょッと一部分と思っていたが、殆んど胸半分を切るのだそうな。

 大井広介が陽子ちゃんを迎えに来たその日までは、私の記憶がハッキリしているのである。警察の保護室に一晩とめられて、出たこと。その三日目か四日目に、檀一雄の家へ行って、敷地を調査したこと。それまで檀一雄は三夜にわたって、私を訪ねてきて、彼の家の真向いに、私の家をつくるという件を、説服したのである。その日まで、夢にも思わなかったことを、彼の強引な口説によって、にわかに私もその気になってしまったのである。

 この期間に、私の記憶のぼけているのは石川淳が見舞いに来てくれたことだけだ。これは、すでに私がお酒で酔っ払ったところへ、彼が来たせいである。檀一雄のウケウリで、今度は私が石川淳も我々の部落に家をつくることを説服した。

 家などというものを建てたいとも思わなかったし、私の力で家が建つなどとは考えたこともなかったのに、実際家が建つことを信ぜざるを得なかったのである。檀一雄の隣家は真鍋呉夫の家であるが、この殆ど無名な(家を建てた当時に於ては完全な無名であったろう)若い作家が、二百円か三百円の原稿料の、それも半分は不払いの不便を忍んで、食うものも食わずに家を建てた。真鍋君は、一時はまったく栄養失調であったという。彼の説によると、坂口安吾ごときは自分の何倍かの原稿料を貰っているから、温泉などで小説が書ける。自分はそうはいかないから、自分の書斎が必要である。そういう説であったそうだ。ところが、その後、檀君を通じて私と知るようになり、私の貧乏ぶりを目のあたり見て前説をひるがえしたらしい。坂口安吾にも家を建てさせなければならぬ、そこで檀一雄を説いて、私に家をつくらせるようにしたのだそうだ。なるほど、真鍋呉夫に家が建つ以上、私に建たない筈は有り得ない。私はこの奇蹟を信じたのである。そして檀一雄に説服された。

 檀一雄は大工を一人雇っている。まだ十八だが、腕は良く、月給は一万円だそうだ。この少年大工は全力で働いても一ヶ月七万か八万円の材木しかこなせない。七万八万は多すぎるので、二万三万ずつ頼んでおくと、いつか自然に家が建ち、塀がつくられ、門まで出来てしまうそうだ。

 この話を尾崎士郎にきかせると、空想部落の作者は、この現実の奇蹟に驚嘆して舌をまいた。

「その真鍋君という人は偉いねえ。それは、檀一雄には、家ぐらい建つだろうよ。オレは真鍋君なんて、名前も知らなかったからね。栄養失調になってね。フーム。温泉につかって小説の書ける身分じゃないから、絶対に自分の書斎が必要である。なるほど、そうだ」

 彼の感動に誇張はなかったのである。

「その部落へボクも一枚入れてくれないかね。六七十坪でタクサンだよ。二間あれば、いゝんだ」

 檀一雄の家も二間。真鍋呉夫の家も二間。私の家の設計も二間。尾崎士郎も二間ときては、この部落には二間以上の家はない。その代り、私の家にはテニスコートをつくり、檀一雄は二十五メートルのプールをつくる。プールの横へ二間の家を造って、檀君がそッちへ移ると、今まで檀君のいたところへ真鍋君が移り、真鍋君の家のあとへは長畑さんが越してくることになっていた。私たちにとって必要なのは、信頼のできる医者なのである。すくなくとも、私には、もはや食事の如くに必要であった。

 しかし、いったい、健康とは、どういうことを云うのだろう。私が東大の神経科で見た分裂病の患者の半数ぐらいは、むしろ筋骨隆々たる人たちであった。私自身も、十八貫の肉体なのである。私はアドルム中毒で入院したが、鬱病という診断でもあった。しかし鬱病であるか、どうか、私は疑問に思っている。

 私は二十一の時、神経衰弱になったことがあった。この時は、耳がきこえなくなり、筋肉まで弛緩して、野球のボールが十米と投げられず、一米のドブを飛びこすこともできなかった。

 この発病の原因がハッキリ記憶にない。たぶん、睡眠不足であったと思う。私は人間は四時間ねむればタクサンだという流説を信仰して、夜の十時にねむり、朝の二時に起きた。これを一年つづけているうちに、病気になったようである。自動車にはねられて、頭にヒヾができたような出来事もあったが、さのみ神経にも病まなかった。また、恋愛めいたものもあったが、全然幻想的なセンチメンタルなもので、この発病に関係があろうとは思われない。神経系統の病気は男女関係に原因するという人もあるが、真に発病の原因となるのは、男女関係の破綻が睡眠不足をもたらすからで、グウグウねむっている限りは、失恋しようと、神経にひびく筈はない。

 神経衰弱になってからは、むやみに妄想が起って、どうすることも出来ない。妄想さえ起らなければよいのであるから、なんでもよいから、解決のできる課題に没入すれば良いと思った。私は第一に数学を選んでやってみたが、師匠がなくては、本だけ読んでも、手の施しようがない。簡単に師匠について出来るのは語学であるから、フランス語、ラテン語、サンスクリット等々、大いに手広くやりだした。要は興味の問題であり、興味の持続が病的に衰えているから、一つの対象のみに没入するということがムリである。飽いたら、別の語学をやる、というように、一日中、あれをやり、この辞書をひき、こっちの文法に没頭し、眠くなるまで、この戦争を持続する方法を用いるのである。この方法を用いて、私はついに病気を征服することに成功した。

 その後は今日に至るまで、かほど顕著な病状を自覚したことはない。それは私が職業上の制約をうけておらず、時に東京へ一年半、時に取手とりでへ一年、又、小田原へ一年というグアイに、放浪生活を送ったのも、自らは意識せずに対症療法を行っており、無自覚のうちに、巧みに発病をそらしていたのかも知れない。

 又、二十一の経験によって、神経衰弱の原因は睡眠不足にありと自ら断定して以来、もっぱら熟睡につとめ、午睡をむさぼることを日課としたから、自然に病気を封じることが出来たのかも知れなかった。

 睡眠不足は、恐らくあらゆる人々に神経衰弱をもたらすであろう。自ら意志して病気の征服に成功した私が、特に病的だと思いこむことは出来ないのである。

 私は今日に至って、職業上の過労から、二十一歳の愚を再びくりかえしてしまったのである。しかし、この愚を犯した責任の全部は私にあって、ほかの誰にもないのである。私は誰からも強制されはしなかった。時には責任感から過労も敢てしたが、必ずしも、そうする必要はなく、私が意志しさえすれば、無理な過労は避け得られる性質のものであった。

 この春の退院後は、もはや覚醒剤もアドルムも飲むまいと思っていたが、将棋名人戦の観戦をキッカケに、覚醒剤をのんでしまった。これとても私自身の意志したことであり、すべては私一個の責任であった。

 すでに事理は明白であるが、要するに、私は仕事のためには死もまた辞せず、という思いが、心に育っているのであろう。これを逆に云えば、是が非でも生きぬいて仕事を完成しなければならぬ、という胸の思いでもあるのであろう。逆のようだが、この二つは同じことだ。帰する所は、仕事がすべて、という一事だけだ。

 私は今に至って、さとったが、精神の衰弱は自らの精神によって治す以外に奥の手はないものである。専門医にまかせたところで、所詮は再発する以外に仕方がない。

 内臓の疾患などは、その知識のない患者にとって如何とも施すすべがないけれども、精神の最上の医者は、自分以外にはいない。私が今、切にもとめているのは肉体上の健康で、精神はハッキリ、たゞ私だけのものであることを悟るに至った。


          


 しかし、精神の健康とは、何を指すのであろうか。たとえば、「仕事がすべて」という考え方が、すでに、あるいは不健康であるかも知れない。その場合には、私は、すでに言うべき言葉はない。たゞ知りつゝ愚を行い、仕事を遂げるだけのことである。すくなくとも、芸術の方法は、それ以外にはないようである。


          


 私は伊東へくる車中で、人と喧嘩をしようとした。私は何より喧嘩などは好まぬ方で、酒に酔っ払っても、喧嘩はしたことがない性分である。この一事を見ても、相当に催眠薬の中毒があったことはマチガイない。

 伊東へつく。一行は直ちに尾崎士郎を訪ねて酒をのむ。私は酔っ払って、音無川へ水浴に行った。尾崎士郎を訪ねた時の酔余のよろこびはこれである。音無川で水浴したのも私が最初。裏の畑の野天風呂で晩秋に夕陽をあびて一風呂あびたのも私がはじまりだ。

 私がたのしみにしていた胸までの深さのところは、水底の変化で、ようやく膝を没する程度の深さでしかなくなっていた。しかし、この水の冷めたさは、冷水浴になれた私に、最上の適度であった。冷めたすぎず、また、ぬるくもない。

 しかし、私は目当の場所を往復するのに、何回ひっくりかえったか分らない。川底はタクアン石大の石で敷きつめられているから、足を踏みすべらしてしまうのである。それから三日あと、よほど催眠剤がきれたようですね、と高橋が云った日に又水浴にでむいた時には、なるほど、もはや転がらなかった。

 第一日目と第二日目の記憶がモウロウとしている。第二日目は、早朝に長畑さんが手術のために東京へ戻り、私たちは南雲さんの案内で、一碧湖いっぺきこへ遊びに行った。私はこゝでも水浴をやったが、湖底が泥土で足クビまでめりこみ、おまけに水のなまぬるさ、湖水などとは思われない。第三日から温灸をはじめ、第五日目に青山二郎のヨットをかりて遊んだ。私がヨットに乗ったのはこれがハジメテであった。

 しかし、ヨットによって猛烈に紫外線をあびたことゝ、催眠薬の作用がきれてきたせいか、この日から、終夜不眠になやみはじめた。温灸の婆さんは、この温灸をやると、人によっては当分ねむれなくなるから我慢しなさい。しかし、一定の期間がくると、今度は良くねむれる、などと前夜とアベコベのことを云って、益々私を怒らせたのである。

 つまり、この婆さんは、自讃の効能が一向に現れないといわれると、平然と前言をひるがえして、勝手な理窟をこねるタチであった。あげくは、東京の人は理窟が多い。ハイハイと言う通りにきかないから治療がきかない、などとカケアイ漫才をやりはじめる。インチキも、陰にこもって、軽快なところがないから、ショウヅカの婆アのカケアイ漫才でもきかされているように不快であった。

 伊東の海は岬の奥に湾入して、概ね波が静かであるが、音無川から流れでる石のために、海底が危険で、水の澄んだ音無川にくらべて、海底が見えず、膝小僧にぶつかるぐらいの大石が散在したりして、私は忽ち相当の負傷をした。この負傷のために今もって歩行に難渋であるが、この時は催眠薬中毒のせいではなくて、未知の海へとびこんだための失敗だった。

 夕凪ぎになるとヨットも動かなくなり、ナメクジの海上歩行で辛くも辿りつく勇士もあるし、商船学校の豪傑は宇佐美の奥へ白帆の姿が消え去るほど流されて、救助艇がでた始末である。同乗の檀一雄は豪傑が風と闘う苦心を知らず、救助艇に向って、

「あなた、なして助けに来たですか」

 と食ってかゝったそうである。

 この時刻になると、伊東の海にはイワシ船が勢ぞろいをし、見張り船に誘導されて、所定の位置へ走るもの、待機のもの、明治初年の海戦を見るようである。ランチに乗って、私たちも見物にでかけた。イワシ網をしめてくると、これを狙って大型の魚があつまる。これを擬似バリで釣りあげる。豪快なものである。

 いちじるしい不眠症をのぞいては、私は益々健康児らしく、ふとる一方のようである。

 今もって私に分らないのは、伊東へ出発の前夜、南雲さんと長畑さんがなぜ来合わせていたか、八木岡君と原田君が、なぜ泊っていたか、いったい私は何をしたか、ということであった。

 私は、大井広介が陽子ちゃんを迎えに来て帰った翌日からの記憶がない。私は催眠薬をのんだ記憶もないのである。こういうことは、いまだに例のないことで、それから伊東へ出発する日の前夜まで、私の記憶が失われているのである。家族のものも語らない。私は酔っ払ったあげく、多量の粉末催眠薬をのんだのかも知れない。しかし私に自殺の意志など毛頭ある筈はないのである。むしろ、檀君と石神井しゃくじい部落を計画して以来、私は自分の生活の健康維持ということについて、いちじるしく希望を持つようになっていた。

 このようなことが、なぜ起るか、ということについて、人はあるいはこれを鬱病というかも知れない。私は単純に不眠のせいだ、と答える以外に法がない。

 伊東に来て以来、私は親しい友人たちの愛情にかこまれて、これ以上には、どう仕様もないほどの健康児童の生活を送り、一週間に四キロもふとっているのである。しかし、足りないことが、たゞ一つある。それは現在、仕事をしていないということである。私は東京を去るとき、二人の医師のはからざる出現に困惑し、意識の欠如に困惑し、たゞヤミクモに転地を急いで、仕事のことなどは念頭になく、ふだんの身なりに下駄を突ッかけて、人々にとりかこまれて、家をとびだして来たのであった。

 私はもはや少年ではないのである。一日海で遊びしれて、帰るを忘れるという気持はない。私から仕事をとり去れば、まったく、何も残らなくなってしまうだけの話だ。

 私はとりとめもなく幻想的な回想に沈んでいたが、ふと二十一歳の闘病生活を思いだして、はじめて私の精神上の疾患は、私自身が治す以外に法がないと気がついたのだ。私は不眠を怖れて仕事をためらい、最良のコンディションを待っていたが、これほど徒労のことはない。二十一歳の私はヤミクモに辞書をひき、文法書にかじりついて、あの夥しい妄想を退散せしめたではないか。不眠ならば不眠を怖れるには及ばない。ねむたさに両の目が明かなくなるまで、仕事をつゞけて、ねむたい時に、その場で寝てしまえばいゝのである。あのときの夥しい妄想や、聴力が一時的に失われたことや、運動神経まで弛緩してしまったことに比較すれば、現在の私は、はるかに健康と云える。肉体は医者にゆだねる以外に仕方がないが、精神だけは、いかなる時も自分が管理しなければならないものである。私はふと、この理に気付いたのであった。

 人間は意志することによって、又、意志するものゝ中に、自分の姿を見出す以外に法がないと云えるであろう。温灸の婆さんのカケアイ漫才の不潔さに堪えられなかった私は、いさゝか寛仁大度を失し、ユーモアを失していたかも知れぬが、見様によれば、健全でないこともない。狭量ではあっても、不健全ではないようである。

 私は私の精神を、医師や薬品にゆだねたことが失敗であった。意志にゆだぬべきであったのである。

 隣室では、檀君も徹夜の仕事をかたづけて、待っていた編輯者が、いま帰って行くところである。昨夜おそく、女房が東京から「にっぽん物語」の未定稿を持って帰ってきた。私は常に両の眼があかなくなるまで、この作品を書きつゞけるつもりである。私はもはや、いさゝかも不眠を怖れてはいない。


附記 本稿はもと別の雑誌に掲載の予定であったが、あまり多く「にっぽん物語」について語りすぎたので、群像へ廻すことにした。つまり群像は、十一月号から、私が「にっぽん物語」の続稿を掲載する筈の雑誌なのである。したがって、「まえがき」の部分で、某誌とあるのは、実は「群像」自体をさすことになるのであるが、私は故意に訂正しないことにした。

 この小文が、私の一生の記念的な転機となってくれゝば幸いであるが、私はそれを信じて疑わないものである。尚、続稿掲載に当っては、「にっぽん物語」の題名を変更するつもりであるが、今のところは、適当な題が見当らないから、この小稿に限って、「にっぽん物語」とよんでおくことにした。

(一九四九、八、三〇)

底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房

   1998(平成10)年920日初版第1刷発行

底本の親本:「群像 第四巻第一〇号」

   1949(昭和24)年101日発行

初出:「群像 第四巻第一〇号」

   1949(昭和24)年101日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:noriko saito

2009年126日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。