哲学入門
三木清




 哲学に入る門は到る処にある。諸君は、諸君が現実におかれている状況に従って、めいめいその門を見出すことができるであろう。ここに示されたのは哲学に入る多くの門の一つに過ぎぬ。しかし諸君がいかなる門から入るにしても、もし諸君が哲学について未知であるなら、諸君には案内が必要であろう。この書はその一つの案内であろうとするものである。

 哲学入門は哲学概論ではない。従ってそれは世に行われる概論書の如く哲学史上に現われた種々の説を分類し系統立てることを目的とするものでなく、或いはまた自己の哲学体系を要約して叙述することを目的とするものでもない。しかし哲学は学として、特に究極の原理に関する学として、統一のあるものでなければならぬ故に、この入門書にもまた或る統一、少くとも或る究極的なものに対する指示がなければならぬ。かようなものとしてここで予想されているのは、私の理解する限りの西田哲学であるということができる。もとより西田哲学の解説を直接の目的とするのでないこの書において、私が自由に語った言葉は、すべて私自身のものとして私の責任におけるものである。

 すべての学は真理に対する愛に発し、真理に基く勇気をび起すものでなければならない。本書を通じて私が特に明かにしようとしたのは真理の行為的意味である。哲学は究極のものに関心するといっても、つねにただ究極のものが問題であるのではない。我々が日々に接触する現実を正しく見ることを教え得ないならば、いかに深遠に見える哲学もすべて空語に等しい。この書が現実についての諸君の考え方に何等かの示唆を与えることができるならば、幸である。

 本書の出版にあたって岩波書店小林勇、小林龍介両君並びに三秀舎島誠君に多大の世話になったことを記して、感謝の意を表する。


  一九四〇年三月


三木清


序論


出発点


 哲学が何であるかは、誰もすでに何等か知っている。もし全く知らないならば、ひとは哲学を求めることもしないであろう。或る意味においてすべての人間は哲学者である。言い換えると、哲学は現実の中から生れる。そしてそこが哲学の元来の出発点であり、哲学は現実から出立するのである。

 哲学が現実から出立するということは、何か現実というものを彼方に置いて、それにいて研究するということではない。現実は我々に対してあるというよりも、その中に我々があるのである。我々はそこに生れ、そこで働き、そこで考え、そこに死ぬる、そこが現実である。我々に対してあるものは哲学の言葉で対象と呼ばれている。現実は対象であるよりもむしろ我々がそこに立っている足場であり、基底である。或いは一層正確にいうと、現実が対象としてでなく基底として問題になってくるというのが哲学に固有なことである。科学は現実を対象的に考察する。しかるに現実が足下から揺ぎ出すのを覚えるとき、基底の危機というものから哲学は生れてくる。哲学は現実にいて考えるのでなく、現実の中から考えるのである。現実は我々がそこにおいてある場所であり、我々自身、現実の中のひとつの現実にほかならぬ。対象として考える場合、現実は哲学の唯一の出発点であり得ないにしても、場所として考える場合、現実以外に哲学の出発点はないのである。

 哲学はしばしば無前提の学と称せられている。しかるにそれが現実から出立するというとき、現実というものが前提されるといわれるであろう。けれど哲学にしても空無から始めることはできぬ。いわゆる無前提とは前提がないということでなく、最も必然的な前提に立つということでなければならぬ。現実は任意の前提でなく、いかにしても逃れ得ない前提である。現実から遊離した哲学も、その遊離することにおいてなお現実に制約されているのである。現実に出発点を取るということは、哲学の一つの立場をあらかじめ取るということではない。それを立場というならば、それは哲学における唯一の立場である。対象としてでなく、基底として、場所として、現実はかような意味をもっている。しかしながら、かように必然的なものが単に必然的なものに止まる限り哲学はないであろう。哲学は基底の危機から生れるのであって、そのとき必然的なものの必然性は揺り動かされ、ひとつの可能性に過ぎなくなってくる。最も必然的と思われているものが単に可能的なものではないかと疑われてくるところに、必然性の可能性へのこの転換のうちに、哲学的意識は現われるのである。かようにして自己の前提であるものをみずから意識し反省してゆくことが、哲学の無前提性といわれるものの意味でなければならぬ。ひとつの現実として現実の中にある人間が現実の中から現実を徹底的に自覚してゆく過程が哲学である。哲学は現実から出立してどこか他の処へ行くのでなく、つねに現実へ還ってくる。その際、必然性は可能性の否定的媒介を通じて真の現実性に達するのであって、哲学的に自覚された現実性は必然性と可能性との統一である。

 哲学的探求の初めにおいて現実はもとより全く知られていないのではない。全く知られていないものは問題になることもできぬ、問題になるというには既に何等か知られているのでなければならぬ。しかしそこにはまた何か知られていないものがあるのでなければならぬ、全く知られているものには問題はない筈である。かようにして知っていると共に知っていないところから探求は始まるのである。哲学者は全知者と無知者との中間者である、とプラトンはいった。全く知らない者は哲学しないであろう、全く知っている者も哲学しないであろう、哲学は無知と全知との中間であり、無知から知への運動である。不完全性から完全性へのこの運動は愛と呼ばれた。哲学は、それにあたるギリシア語の「フィロソフィア」という言葉が意味するように、知識の愛である。それは知識の所有であるよりも所有への行程であり、従って哲学することを措いて哲學はないのである。

 哲学の以前、我々は常識において、また科学において、現実を知っている。しかしながら、哲学は常識の単なる延長でもなければ、科学の単なる拡張でもない。哲学的探求は知っていると共に知っていないところから始まるということは、もと単に、知ってい知っていないのは事物の部分であって、まだ知っていない部分について知り、その知識をすでに知っている部分の知識に附け加えることで問題がなくなるというような関係にあるのでなく、持っている知識が矛盾に陥ることによって否定され、全く知っていないといわれるような関係にあるのである。現実の中で、常識が常識としては行詰り、科学も科学としては行詰るところから哲学は始まる。哲学は常識とも科学とも立場を異にし、それらが一旦否定に会うのでなければ哲学は出てこない。ソクラテスの活動が模範的に示している如く、そこには知の無知への転換がなければならぬ。無知と知との中間といわれる哲学の道は直線的でなくて否定の断絶に媒介されたものであり、知の無知への転換を経た知への道である。それ故に哲学は懐疑から発足するのがつねである。しかしながら哲学は常識や科学を否定するに止まるのではない、それらとただ単に対立する限り哲学は抽象的である。それが常識や科学を否定することは却ってそれらに媒介されることであり、それらを新たに自己のうちに生かすことによって、哲学は真に現実的になり得るのである。


人間と環境


 ところで現実というとき、先ず考えられるのは我々の生活である。この現実を顧みて知られることは、我々が世界の中で生活しているということである。我々がそこにいて、そこで働くこの世界は、環境と呼ばれている。環境というと普通に先ず自然が考えられるが、自然のみでなく社会もまた我々の環境である。むしろ我々がそこにある世界は何よりも世の中或いは世間である。「世界」という言葉はもと自然的対象界でなく人間の世界を意味した。環境は我々に近いものであるとすれば、人間にとって人間よりも近いものはなく、環境は我々に遠いものであるとすれば、人間にとって人間よりも遠いものはない。

 人間と環境とは、人間は環境から働きかけられ逆に人間が環境に働きかけるという関係に立っている。我々は我々の住む土地、そこに分布された動植物、太陽、水、空気等から絶えず影響される。人間は環境から作られるのである。他方我々はその土地を耕し、その植物を栽培し、動物を飼育し、或いは河に堤防を築き、山にトンネルを通ずる。人間が環境を作るのである。即ち人間と環境とは、人間は環境から作られ逆に人間が環境を作るという関係に立っている。この関係は人間と自然との間にばかりでなく、人間と社会との間にも同様に存在している。社会は我々に働きかけて我々を変化すると共に我々は社会に働きかけて社会を変化する。人間は社会から作られ逆に人間が社会を作るのである。

 人間は環境を形成することによって自己を形成してゆく、──これが我々の生活の根本的な形式である。我々の行為はすべて形成作用の意味をもっている。形成するとは物を作ることであり、物を作るとは物に形を与えること、その形を変えて新しい形のものにすることである。人間のあらゆる行為が形成的であるというのみでない、人間は環境から作られるという場合、自然の作用も、社会の作用も、形成的であるといわねばならぬ。もとより我々は単に環境から作用されるのではない。逆に我々は環境に作用するのである。環境が我々に働きかけるのは我々が環境に働きかけるのに依るということもできる。自己はどこまでも自己から自己を形成してゆくのであって、そうでなければ自己はない。しかし自己は環境において形成されるのである。生命とは自己の周囲との関係を育てあげる力である。一方どこまでも環境から限定されながら同時に他方どこまでも自己が自己を限定するという即ち自律的であるというところに生命はある。「生あるものは外的影響の極めて多様な条件に自己を適応させ、しかも一定の獲得された決定的な独立性を失わないという天賦を有する」、とゲーテも書いている。我々は環境から作用され逆に環境に作用する、環境に働きかけることは同時に自己に働きかけることであり、環境を形成してゆくことによって自己は形成される。環境の形成を離れて自己の形成を考えることはできぬ。

 人間は現実的存在であるというが、現実的なものとはそこにあるものである。そこにあるとは世界においてあるということであり、世界はさしあたり環境を意味している。しかし次に現実的なものとは働くものでなければならぬ。働かないものは現実性にあるとはいわれず、ただ可能性にあるといわれるのである。働くということは関係に立つということである。現実的なものはすぐれた意味においてあるといわれるのであるが、「ある」とは、ロッツェがいったように、「関係に立つ」ということであり、関係に立つとは働くということである。あるとは知覚されることであると考えられるとすれば、知覚されるということもまたかような関係の一つに過ぎない。しかるに物と物とが現実的に関係するためには一つの場所になければならぬ。人間は世界の中にいて、そこにある他の無数の多くのものと関係に立っている。

 人間と環境の関係は普通に主観と客観の関係と呼ばれ、私は主観であって、環境は客観である。主観とは作用するもの、客観とはこれに対してあるもの即ち対象を意味する。主観と客観は、主観なくして客観なく、客観なくして主観なく、相互に予想し合い、相関的であるといわれている。しかしながら両者の関係をただ相関的であるというのは不十分である。私自身は私にとってどこまでも環境とは考えられぬもの、反対に私にとって環境であるものはどこまでも私自身とは考えられぬものである。客観からは主観は出てこないし、主観からは客観は出てこない、両者はどこまでも対立的である。人間と環境の関係を主観と客観の関係と看做みなすことにはなお種々の注意を要するのである。いま取敢えず次のことを記しておかねばならぬ。

 従来の主観・客観の概念は主として知識の立場において形作られている。主観とは見るもの、考えるもの、客観とは見られたもの、考えられたものを意味するのが通例である。そこで主観といえば意識と解される、知るものは意識の作用であるといい得るからである。しかるに人間と環境との関係はもと行為の関係であり、行為の立場においては、働くものは単なる意識でなく身体を具えた人間である。行為は意識の内部におけることでなく、行為するとは却って意識から脱け出ることであり、我々が意識から脱け出るのは身体に依ってである。行為するとは身体をもって自己の外にある存在に働きかけることであるが、自己の外にあるというのは単に自己の意識の外にあるということでなく、自己の身体の外にあるということでなければならぬ。行為については、ひとは行為の主観とはいわず主体といっている。かように何よりも行為の立場において形作られる主体の概念は、従来の主観の概念とは区別さるべき理由があるであろう。我々は主体として単なる意識でなく存在である。しかるに従来の主観・客観の概念は意識と存在との対立を意味し、存在はすべて客観の側に追いやられ、主観はあらゆる存在を剥奪されている。もちろん、主体は存在であるといっても、その存在は客観的に或いは対象的に捉えることのできぬ主観的なものである。その存在は、客観化された場合、もはや本来の存在でない、それは反省的知識のために主体が自己を譲渡して対象としたものに過ぎず、主体そのものはどこまでも内面的な存在である。しかるにいわゆる主観には内面的存在性が欠けている、その存在は自己の譲渡によって自己が自己の前に投射した客観に専ら相対的であり、従って真の主観性を失っている。いわゆる主観は真の主観性ではない。従来の主観・客観の概念においては、主観は自我といわれ、これに対して客観は非我と呼ばれたが、非我は他我即ち他の人間でなくて物の世界のことであった。そこでは主として自然的対象界が問題であり、人間の世界、歴史的・社会的現実は問題でなかった。我に対するのは汝でなく、単なる物に過ぎなかった。しかるに単なる物に対する自己は真の自己であることができぬ、我は汝に対して初めて我である。更に従来の主観・客観の概念においては、自己は主観として存在でなく、一切の存在は客観と見られる故に、自己は世界の中に入っていないことになる、世界は自己に対してあるもの即ち対象界と考えられ、自己はどこか世界の外にあるものの如く考えられている。かような主観は一個の抽象物であって現実の人間ではない。現実の人間はつねに世界の中にいるのである。我は世界の中にいて他に対しているのであるが、我に対するものは何よりも汝である。我は汝に対して我であり、汝なしには我は考えられない、そして汝は単なる客観でなく主体である。即ち主体は主体に対している。主観は客観に対して主観であるに反して、主体は根源的には客観に対してよりも他の主体に対して主体である。そこに主観の概念とは区別される主体の概念の本来の意味がある。いわゆる主観は、それが個人的自己と考えられようと超個人的自己と考えられようと、どこか世界の外にあって孤立的であるに反して、主体は主体に対して主体であり、従って元来社会的である。

 もとより主体は単に主観的なものではない。我々は身体を有するものとしてすでに単に主観的なものであり得ないであろう。身体は自然的なもの、客観的なものである。しかしまた身体は物体とは異る主体的意味をもっている。物が自己の外にあるというのは身体の外にあることである、さもないと行為というものは考えられない。主体は単に主観的なものでなく、むしろ主観的・客観的なものである。それは客観に対する主観の如きものでなく、客観に媒介されたものとして主体である、客観を我が物とすることによって真に独立になったものが主体である。人間も世界における一個の物にほかならず、その意味において我々の最も主観的な作用も客観的なものということができる。人間の存在のかような客観性を先ず確認することが必要である。真に客観的なものとは単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものである。

 ところで環境は私に対してあるものとして普通に客観と看做みなされている。けれど翻って考えてみると、環境は私に対してあるというよりも私が環境の中にあるのである。環境は対象でなく、私がそこにおいてある場所である。環境のかような性質はその世界性格と称することができる。もっとも、環境は一面閉じたものの性質をもっている、私がそこに住む環境は、この町、この国、更にいわゆる世界にまで拡げて考えても、つねに閉じたものである。環境が主体を中心とする円の如く表象されるのもそのためであって、円はその周辺をどれほど拡げても開いたものとはならぬ。しかるに閉じたものは世界とは考えられない、世界の根本性格は開いたものということである。閉じたものと開いたものとの差異は量的でなくて性質的である。閉じたものが一点を中心とする円の如く表象されるとすれば、開いたものは到る処中心を有する円の如く表象されるであろう。環境は単に閉じたものでなく、その世界性格において開いたものの性質をもっている。即ちそれは閉じたものであると同時に開いたものである。環境は、私に対してあるのでなく私がその中にあるものとして、対象或いは客観とは考えられない。主観的なところを有する私の存在をうちに包むものは単に客観的なものであることができぬ。我々がそこにいる社会は単なる客観でなく、それ自身の意味における主体である。社会も身体を有し、風土的自然は社会の身体と考えられる。私に対してあるといわれるのは環境でなく、私と一つの環境においてある他のものである。それは私と同じく個別的なものであり、そして環境は一般的なものである。個物は個物に対し、一つの環境においてある。かような個物はすべて我に対する汝の性格を担っている。環境の意味での自然においてある個々の物も単なる客観でなく、むしろ汝の性格において我に対している。汝は我に対して独立なものである、客観とか客体とかといわれるのも、それが主体から全く独立なものであることを意味している。行為は独立なものと独立なものとの間に成り立つ、しかもかように関係するにはそれらは一つの場所においてあるのでなければならぬ。我々がその中にある一つの個別的社会、例えば民族とか国家とかも、主体として他の主体即ち他の個別的社会に対し、それらは一つの環境、いわゆる世界においてある。かような世界も歴史的なものとしてそれぞれの時代に個別的であるとすれば、多くの世界がそれにおいてある世界即ち絶対的環境、もしくは絶対的場所、もしくは絶対的一般者ともいうべき世界が考えられねばならぬ。世界は世界においてある。世界がそれにおいてある世界は絶対に主体的なものであり、一切のものはこの世界から作られ、この世界の表現である。主体的ないし主観的ということを直ちに人間或いは意識と結び付けて考えてはならない。それはすべて形成作用のあるところに認められる関係であって、形成作用は表現作用であり、表現はつねに内と外との、主観的なものと客観的なものとの統一という意味をもっている。一切のものは世界の主観的・客観的自己限定或いは特殊的・一般的自己限定として生じ、世界においてある。世界が世界においてあるという場合、その世界即ち無数に多くのものの総体としての世界と絶対的場所としての世界とは客体と主体というようにどこまでも対立すると共にまたどこまでも一つのものである。相対と抽象的に対立する絶対は真の絶対でなく、真の絶対は却って相対と絶対との統一である。かくて世界は多にして一、一にして多という構造をもっている。人間は世界から作られ、作られたものでありながら独立なものとして、逆に世界を作ってゆく。作られて作るものというのが人間の根本的規定である。


本能と知性


 人間は環境に適応することによって生きている。適応とは対立するものの間における均衡の関係を意味している。その適応の最も単純な仕方は本能である。動物は本能に生きるといわれるが、人間も多くの場合本能によって環境に適応しているのである。本能は身体的なものであり、身体の構造と結び付いている。同じ種の昆虫においても、幼虫、蛹、蛾と、身体の形が変るに従って、その本能も変るのがつねである。かように本能は身体の構造或いは形と結び付いているが、身体の構造は、近代の進化論が説く如く、生活する主体の環境に対する適応の結果として作られたものである。生物の形はただ偶然に出来たものでなく、その棲息する環境との関係から限定されたものである。水中に棲む魚は鰭を、空中に棲む鳥は翅をもっている。それらの形はそれらの生物の本能を表現すると共に、生活する環境を表現している。人間の身体の構造も同じように考えることができる。適応といっても単に受動的なものでない、ただ消極的に環境に適応してゆく場合、生命は萎縮してしまうのほかない。人間の環境に対する適応は作業的に、行為的に行われるのであって、身体の諸部分はそのための道具の性質をもっている。それらは器官と呼ばれ、器官とは道具のことである。身体は客観的なものであると共に単なる物体とは異る主体的なものであり、主観的・客観的なものとして道具と考えられるのである。

 かようにして身体の構造はすでに技術的な意味をもっている。それはひとつの技術的な形である。生物の形は技術的な形であり、自然も技術的であるということができる。技術の本質は主観的なものと客観的なものとを媒介して統一するところにある。この統一は形において現われる。技術にはつねに道具があるが、道具は主観的・客観的なものとしてそれ自身また技術的に形作られたものである。技術において、客観的なものは主観化されると共に主観的なものは客観化される。人間は環境に働きかけてこれを変化し、客観的なものは人間化或いは主観化され、同時に人間の主観的な欲望ないし目的は環境化或いは客観化されるが、その媒介となるものが技術である。主体が環境から規定されながらそれに解消されることなく主体として自己を維持し得るのは技術によってである。技術的であることによって主体は客観を我が物として真に主体となるのである。主観的なものと客観的なものとの技術的な形における統一は先ず身体の構造において現われる。それは自己の保存とか種の保存とかという主観的な欲求と客観的なもの環境的なものとの統一を示している。本能は環境に対する適応の仕方の一つであり、身体の構造に結び付き、従って本能にしても決して単に盲目的なものでなく、むしろ本能は「自然のイデー」である。

 しかしながら本能による適応には限界がある。動物は環境と有機的に融合的に生きるといわれるように、本能的な適応は、それが存在する限り、完全である。本能による適応は直接的である。しかるにそのために、環境に重大な変化が生じた場合、それはこれに対して十分に適応することができぬ。本能は環境を広く、遠く、自由に見ることができない。本能もすでに技術的であるといっても、それは身体の器官に制約され、身体は無限の形をとり得ず、一旦出来上って固定した形は我々の活動に対して桎梏にさえなるのである。また身体の器官は道具と見られ得るにしても、身体は我々の自己であって、この道具は主体から離れた独立なものではない。従って本能による適応は直接的であるが、主体と道具とは一つである故に、主体は道具に束縛され、人間は器官の奴隷となるのである。

 本能のかくの如き制限を超えるものは知性である。知性も技術的であり、否、本来技術的であるのは本能でなくて知性である。知性は身体から自由になることができる。知性は自律的である。自律的とは他のものに制約されることなく自己自身の法則に従い、自主的或いは自発的であるという意味である。自律的なものは自由なものである。知性も環境に対する適応に仕えるものであるが、それは先ず自己に固有な手段によって自己の世界を構成する。知性は環境の作用から結果するのでない固有の構造を具えている。知性は生物学的環境の圧力の結果であるよりも遥かに多く新しい環境の存在の条件である。知性は自律的であることによって身体を道具として自由に使い、かくて身体の器官も道具の意味を発揮することができ、身体的欲望についても知性は本能よりも一層よく満足させることができるのである。しかし器官の技術のほかに固有な意味における道具の技術がある。そして技術的知性の特徴は、身体の器官とは区別されるかような道具を作るところにある。人間は「道具を作る動物」である、人間のこの特性は、人間が知性を有するということに基いている。固有な意味における技術は道具を作り、道具を用いて物を作る技術である。器官と道具との区別は、器官が有機的(生命的)なものであるに反して道具は無機的なものであり、器宮が身体と直接に一つのものであるに反して道具は身体の外に作られるものであり、器官がなお主体に属するに反して道具は客観的なものであるというところに認められるであろう。身体の器官もすでに道具と考えられるとすれば、技術的知性の特徴は道具を作る道具を作るという点にある。もっとも、道具は純粋に客観的なものでなく、人間の主観的な目的と物の客観的な法則との統一を現わしている。けれどもこの統一は客観的な物の形において実現され、かようにして道具は主体から独立なものである。道具を用いる技術によって我々の環境に対する適応は直接的でなく媒介されたものになる。本能による適応が直接的であるに対して、知性による適応は媒介的である。それは知性が身体に束縛されないで自律的であるところに由来している。知性とは構成されたものによって所与のものを超える力である。技術は与えられたものの上に新しいものを作る、技術は生産的であり、世界を革新しまた豊富にする。人間は技術によって新しい環境を作りつつ自己を新たにするのである。環境を変化することによって環境に適応するという人間の能動性は知性によって発揮される。知性は人間の行為のより高い形式を可能にするのである。

 技術は先ず物質的生産の技術或いは経済的技術を意味している。それが我々の生活にとって基礎的に重要なものであることはいうまでもないであろう。けれども技術の概念をそれにのみ限ることは正しくない。技術というと直ちに物質的生産の技術を考えることは、世界というと直ちに自然界を考えることと同様、近代における自然科学的思惟の圧倒的な支配の影響に依るものであって、偏頗な見方といわねばならぬ。人間の技術があるばかりでなく、「自然の技術」がある。自然も形成的なものとして技術的であり、人間の技術は自然の技術を継ぐということができる。人間の技術にしても、物的技術があるばかりでなく、人格的技術がある。ひとが他の人間を形成してゆく教育の如き場合はもとより、自己自身を、自己の身体をも自己の精神をも、形成してゆく場合にも、技術がある。自然に対する技術があるばかりでなく、社会に対する技術がある。社会の組織を作ることや国家の制度を作ることは技術に属し、政治の如きもすぐれた意味において技術である。人間のあらゆる行為が技術的である。そしてそれは人間がつねに環境においてあることを思うと当然のことであって、技術によって主体と環境という対立したものは媒介され統一されるのである。かようにして種々の技術があるとすれば、アリストテレスが考えた如く、それらの技術のアルヒテクトニックを、その目的・手段の関係における階層構造を考えねばならぬであろう。そこには総企画的なものがなければならず、これは全体の形を作るものとして知性の最高の技術に属している。

 ところで本能の立場に止まる限り環境は単に閉じたものである。それが開いたものになるのは知性の立場においてであり、知性によって環境の世界性格は顕わになるのである。知性が環境を客観的に認識することができるというのもそのためであり、そしてそれは知性が自律的であることによって可能である。知性の自律性はまた、自己自身が作り出したものに対してさえ自由であり得るところに認められるであろう。言い換えると、知性は技術を手段に化するのである。知性は技術の上に出ることができる、それは技術の中に入りながら技術を超えることができる。人間は技術をもって環境を支配することによって独立になるのであるが、その技術をも手段に化し得るものとして真に独立である。けれども技術を単に手段と見ることは正しくないであろう。いかなる技術も形のある独立なものを作り出すものとして自己目的的である。一つの技術を手段に化するには他の技術が必要である。下位の技術の目的となるような上位の技術があり、総企画的なものがなければならぬ。技術の目的は、主観的なものと客観的なものとを媒介して統一する技術そのもののうちにあるのであって、主体の真の自律性は単なる超越でなく、技術の中に入りながら技術を超えているという内在的超越でなければならぬ。

 そして自律的といわれる知性も、それ自身技術的であり、固有の道具をもっている。言語とか概念とか数とかは、そのような知性の道具と見られるであろう。知性の道具は物質的なものでなく、観念的ないし象徴的或いは記号的なものである。論理というものも、アリストテレスの論理学が「機関」(オルガノン)と呼ばれ、ベーコンが近世において「新機関」を工夫したように、技術的である。知性は自己自身に道具を具えており、思惟の諸道具は思惟の諸契機にほかならぬ。知性は構成されたものによって所与のものを超える力であるが、知性の機能に属する一般化の作用もかような性質のものである。思惟の技術は本質的に媒介的である。その一般化の作用によって作られる概念は、特殊をその根拠であるところの普遍に媒介することによって作られるのである。思惟の媒介的な本質は、概念から判断、判断から推理と進むに従って、次第に一層明瞭になってくる。知性の自律性は合理性として現われる、合理的とは思惟によって自律的に展開され得ることである。そして知性はカントの意味においてアルヒテクトニッシュである。カントに依ると、アルヒテクトニックとは「体系の技術」であり、知識は一つの理念のもとに、全体と部分の必然的な関係において、建築的な統一にもたらされることによって科学的となるのである。しかしながら存在と抽象的に対立して考えられる思惟の自律性は真の自律性でなく、客観を我が物とすることによって思惟は真に自律的になることができる。知性が技術的であるということも、本来、客観を主観に、主観を客観に媒介するということでなければならぬ。思惟は自己に対立するもの即ち経験に与えられたもの、客観的実証的なものを自己に媒介することによって真に論理的になるのである。論理の運動は物の本質の運動とならねばならぬ。現実を離れて論理はなく、論理は現実のうちにあるのである。


経験


 環境について知識を得る日常の仕方は経験である。我々は先ず経験によって知るのであって、経験は知識の重要な源泉である。けれども経験を単に知識の問題と見ることは種々の誤解に導き易く、それによっては経験的知識の本性も完全に理解されないであろう。経験を唯一の基礎とすると称する経験論の哲学が、経験を心理的なもの、主観的なものと考えたのも、それに関聯している。知識の立場においては、経験の主体即ち知るものは心或いは意識であって、経験はそこに生じそこに現われるものと考えられるであろう。しかしながら現実においては、経験は何よりも主体と環境との行為的交渉として現われる。経験するとは自己が世界において物に出会うことであり、世界における一つの出来事である。経験は元来行為的なものである、経験によって知るというのも行為的に知ることである。経験するとは自己が環境から働きかけられることであって、経験において自己は受動的であるといわれるであろう。経験論の哲学が感覚とか印象とかを基礎とするのも、そのためである。かように受動的状態を重んずるのは、対象を自己に対して働かさせようとするものであって、経験論の動機も実証的或いは客観的であろうとするところにある。経験は客観的なものを意味し、自己が実際に出会うもの、客観的に与えられたものが経験である。しかし他方経験はつねに主体に関係付けて理解される、経験は経験するものの経験であり、経験する主体を離れて経験はない。経験論が経験を主観的なものと考えるに至ったのも、それに依るのである。ただ経験論は、この主体を単なる意識と考えることによって経験を心理的なものとしたばかりでなく、更にその意識を単に受動的なものと考えた。しかも実は、単に受動的であっては客観性に達することも不可能であったのである。経験は主体と環境との関係として行為の立場から捉えられねばならぬ。感覚も身体的な行為的自己の尖端として重要性をもっているのであり、感覚にも能動的なところがある。もっとも、行為といっても単に能動的であるのではなく、環境の刺戟に対する反応として環境から規定されている。けれども反応することは我々の能動性に属している。即ち経験は受動性であると同時に能動性である。我々の行為はただ或る意味においてのみ環境の刺戟によって惹き起されるに過ぎぬ、なぜなら我々の活動そのものが我々の活動を惹き起す環境を作り出すことを助けるのであるから。刺戟によって生ずる反応は同時に刺戟を変化する。主体は単なる環境に対して反応するのでなく、むしろ環境プラス主体に対して反応するのである。客観的状況といわれるものも実は単に客観的でなく、同時に主観的である。行為もまた単に主観的なものでなく、同時に客観的なものであり、環境の函数にほかならぬ。

 我々は経験によって環境に適応してゆく。環境に対する我々の適応は、本能的或いは反射的でない場合、「試みと過ち」の過程を通じて行われる。この試みと過ちの過程が経験というものである。経験するというのは単に受動的な態度でなく、試みては過ち、過っては試みることである。経験という言葉は何か過去のものを意味する如く理解され易く、既に行われたことの登録、先例に対する引き合せが経験の本質であるかの如く信ぜられている。経験論の哲学も経験を「与えられた」もののように考えた。しかし経験は試みることとして未来に関係付けられている。試みるというのは自主的に、予見的に行うことであって、かような経験には知性が、その自発性が予想される。自発的な知性がそこに働くのでなければ、試みるということはない。経験は試みることとして直接的でなく、すでに判断的であり、推論的であるとさえいい得るであろう。もちろん経験は単に思惟的でなく、却ってその本質において実験的である。すべての経験は実験である、ただ経験には科学における実験の如き方法的組織的なところが欠けており、従ってそれは偶然的である。実験が技術的であるように、経験もすでに技術的である。経験において、我々は試みては過つ、過つということはいわば経験の本性に属している。本能はそれ自身に関する限り過つことのないものであるが、経験においては過ちがある。しかもそこに経験の価値があるのであって、過つことによって我々の知識は本能の如く直接的なものでなく反省を経たものになってくる。誤謬の存在によって我々の知識は媒介されたものになるのである。試みと過ちの過程において我々は正しい知識、正しい適応の仕方を発明する。経験は発明的である。それが発明的であるということは、経験が主観的・客観的な過程であることを意味している。試みと過ちとは主体と客体とが相互に否定し合う関係であり、かような対立の統一として経験的知識は成立するのである。

 しかし経験は行為に関するものとして、そこに行為の形が形成されてくるであろう。この形は技術的な形である。形は全体性であり、行為の形は行為が主体と環境との間における成全的活動であるところに生ずるのである。環境は主体に作用し逆に主体は環境に作用し、二つの作用が関係することの間における結合として行為は成全的活動であり、この結合は機械的でなく、創造的綜合である。しかも行為が形をもつということは、主体と環境との作用の間におけるこの結合が主体の側において、まさに行為そのものにおいて成全するところから生ずるのである。主体は単なる環境に対して反応するのでなく、却って環境プラス主体に対して、言い換えると主体によって変えられた環境に対して反応するという意味において、その反応は循環反応と称せられる。行為は循環反応として自己創造的な斉合性をもっている。行為の自律性もそこに考えられねばならぬ。行為の形はその自律性の表現であり、もし行為が自律的でないならば、行為は形をもつことができぬ。しかし行為の自律性を環境から離れて単に主体から考えることは抽象的である。形は主観的なものと客観的なものとの統一である。主体と環境とは互に他を新たに作り、両者の関係も新たに作られ、行為の成全作用は創造的である。環境に対する主体の適応は発明的であって、行為の形も無意識的にせよ発明に属している。それは技術的な形として機能的意味をもっている。それは機能を組織したものであり、機能を表現するものである。

 しかるに経験において行為の形が作られる場合、そこに習慣が作用するであろう。習慣は均衡の形式であり、主体と環境との間における持続的な適応として生ずる。行為が習慣的になることによって行為の形は作られる。習慣は発動機械の、行為の図式の構成である。我々の行為が習慣的になるのは、主体が身体的なものであって、自然から抽象された精神の如きものでないということに依るのである。習慣は「第二の自然」と呼ばれているが、それは機械的必然的なものではない。習慣も行為的なものであり、習慣を破ることができるものであって習慣を作ることができる。その自然のうちには自由が喰い入っており、しかしまたその自由のうちには自然が流れ込んでいる。経験から習慣が生じてくる。経験は試みと過ちによる適応であり、これは習慣形成の一つの主要な形式である。既にいった如く経験は未来との結合を含むが、それはまた過去との結合を含み、むしろこのために経験といわれるのである。経験は我々の積んでゆくものであり、積まれたものが経験である。そこから習慣が生ずるのである。習慣的になることは行為が自然的になること、惰性的になること、従って受動的になることであるが、同時に行為はその自発性において高まる。我々の行為が習慣的になることが全くないとしたならば、我々の生活はいかに不自由であろう。習慣は受動性であると同時に自発性である。習慣は有機的生命の受動性のうちに浸透してそこに樹てられる自発性の発展である。

 ところで経験は働くことであると同時に知ることである。働くことによって我々は知るのである。経験は試みと過ちの過程において或る一般化と或る綜合とを行う。種々の知覚は記号となり、また統一にもたらされる。その際、習慣が作用する。習慣は知性のうちにも入っている。経験論の哲学もヒュームにおいて見られるように習慣に重要な意味を認めたけれども、その習慣論は観念聯合の機械的な説明に拠っている。それは意識の不変的な「要素」を考え、要素の機械的な結合から一切の心理現象を説明しようとした。しかるに習慣においては知覚の変化が認められる。我々が親しんだ環境では、物は、この環境に我々が初めて接した場合とは違って知覚される。行為に必要な知覚は練習の最初と最後とで違っている。習慣的になると無意識になるといわれるのも、厳密に考えると、知覚の変化が生ずることである。習慣の仕事は練習の前の階梯の一層容易で一層迅速な反覆に還元されるものではない、それはより高い統一を形成するのである。習慣において寄せ算と引き算の遊戯、成功した経験の増強と誤謬の消去を見る代りに、そこに再編成、新しい綜合、全体の機能の構成を見なければならぬ。習慣もまた創造的である。それは創造的行為と同じ根のものであり、人間的活動の基本的な構造に基いている。もっとも習慣は他方模倣的である、それは自己が自己を模倣するところから生ずる。習慣は創造的であると同時に模倣的である。経験は行為的に知ることであるが、人間と環境との適応が持続し、行為が習慣的になるに従って、知識も同じように習慣的になってくる。これによって知識も組織された形をとり、同時に或る自然的なものとなり、直接的なものとなるのである。


常識


 経験の右の如き性質から、社会的に考えると、常識というものが出来てくる。常識は社会的経験の集積であって、我々の行為の多くは常識に従って行われている。常識は先ず行為的知識である。常識は実際的といわれるが、実際的とは経験的・行為的ということである。行為は環境における行為として技術的であり、常識は技術的知識であるのがつねである。実際的ということはまた日常的ということを意味し、常識は平生の生活に関わり、日常的ということがその特徴をなしている。常識は日常的・行為的知識である。そして次に常識は社会的な知識である。常識は個人的経験の結果でなく、社会的経験の結果である。個人にとってはそれはむしろ社会から与えられたものとして受取らるべきものである。この場合社会というのは何等か閉じたものの性質をもっているのがつねである。それは或る家族、或る部落、或る国というが如き、ベルグソンのいわゆる閉じた社会であって、人類というが如き開いた社会ではない。ベルグソンに依ると閉じた社会は諸習慣の体系と看做みなされ得るものであるが、常識はかような社会において習慣的に行われる知識であり、常識そのものがまたかような社会の紐帯となっている。常識は閉じた社会に属するものである故に、一つの社会における常識はしばしば他の社会における常識と異っている。常識の通用性はそれぞれの社会に局限されているのがつねである。「ピレネーのこちらでは真理であるものも、あちらでは誤謬である」、とパスカルはいった。常識の通用性は局限されているが、しかしその社会に属する限り誰もそれをもつことを要求されている。第三に常識は何か直接的に自明なものと思われている。それがいかなる道筋を経て出来てきたものであるか、その根拠がいかなるものであるかを反省することなく、或る自明なものとして社会的に認められているのが常識のつねである。即ち常識は実定的なものである。常識のこの性質は、常識と科学的知識とを比較してみればわかる。科学的知識の性質は、それを問に対する答と考えると明瞭になる。問に対する答は、「然り」か「否」である、肯定か否定である。肯定は否定に対する肯定であり、否定は肯定に対する否定である。その肯定は否定によって媒介されたものでなければならぬ。科学的知識はつねに問に生かされ、従って探求を本質とするものである。しかるに常識は問のない然りであり、否定に対立した肯定でなくて単純な肯定である。常識は探求でなく、むしろ或る信仰である。常識は実定的なものであり、或る慣習的なものとして直接的な知識である。そして社会における慣習が法的な強制的な性質をもっているように、常識もその社会に属する者に対して法的な強制的な性質をもっている。それは常識が特に行為的知識であることと関係しており、常識は個人に対する一つの社会的統制力として働く。非常識であることは、無知を意味するのみでなく、社会的に悪とも考えられるのである。更に常識は有機的な知識である。それは決してばらばらなものでなく、それ自身の仕方で組織されたそれ自身の斉合性をもっている。一定の社会において一つの常識は他の常識と衝突することなく、もし衝突するものであれば常識とはいわれない。常識的な行為はその社会の全体との関係において不都合の起らないのが普通である。一つの常識はつねに他の常識と結び付き、これを予想している。常識のかような斉合性は科学の求める論理的斉合性とは性質を異にし、その際その常識の根拠、一つの常識と他の常識との論理的関係は反省されていない。常識の斉合性は慣習のもっている斉合性と同じ性質のものである。それは常識が社会の有機的な関係と結び付き、それに相応する有機的な知識であることに基いている。社会の有機的な関係というのは、社会のうちに均衡が保たれている状態であって、この場合個人と社会との間には適応が持続的に存在している。その均衡から習慣が生れ、それに従って常識が作られる。社会のうちに均衡が存在する限り常識は通用する、また社会は現存する均衡を維持するために人々が常識的であることを強制するのである。

 常識の右の如き性質は逆に何処から常識が破られるに至るかを示しているであろう。常識は先ず日常的な知識であった。そこで常識は非日常的なものの経験によって動揺させられる。哲学が驚異に始まるといわれるのも、そのためである。ひとり哲学のみでなく、すべての精神的文化は、非日常的なものの経験或いは日常的なものの非日常的な仕方における経験から生れるのである。日常的な知識は習慣的な、その意味において自然的になった知識である。その常識が破られるところから特に精神的といわれる文化が出てくる。非日常的なものの経験或いは日常的なものの非日常的な仕方における経験は、経験の深化と呼び得るものである。第二に常識は閉じた社会と結び付いた知識であった。そこでまた常識は経験の拡大によって、言い換えると、自己が有機的に結び付けられている環境以外の新しい環境の経験によって破られる。自己の経験する世界の拡大するに従って常識は動揺させられる。或る社会において常識として行われることも他の社会においては常識として通用せず、一つの社会の常識と他の社会の常識とが矛盾するのを知るとき、自己のもっている常識に対して疑惑が生ずるようになる。第三に常識は有機的な知識として社会における均衡の状態に相応するものであった。その均衡が破られるとき、常識もまた動揺させられる。社会が有機的時期から危機的時期に入るとき、常識では処理し得ないようなことが次々に起って来る。有機的時期とは社会において均衡の支配的な時期であり、危機的時期とは反対に矛盾の支配的な時期である。後の場合、個人は社会の習慣的な有機的な関係から乖離し、経験の個性化が行われ、それと共に批判的精神が現われてくるのである。しかるにかような危機は、一定の歴史的時期において集中的に大量的に現われるのみでなく、あらゆる場合に存在している。習慣は絶えず破られるであろう。しかし旧い習慣が破られるにしても、新しい習慣が直ちに作られる。人間は習慣なしにやってゆくことができぬ。習慣が必要であるように、常識も欠くことのできぬ重要性をもっている。

 ところで有機的と危機的とは、社会における均衡と矛盾との関係を意味し、社会がもと対立するものの統一であることを示している。常識は閉じた社会のものであると私は述べたが、いかなる社会も単に閉じたものでなく、同時に開いたものである。ベルグソンは、閉じたものと開いたものとはどこまでも性質的に異るものであって、閉じたものをいかに拡げても開いたものにはならぬといっているが、社会は元来このように対立するものの統一である。人間は閉じた社会に属すると同時に開いた社会に属している。我々は民族的であると同時に人類的である。かようにして、常識というものにも二つのものが区別されるであろう。それは一方、すでにいった如く、或る閉じた社会に属する人間に共通な知識を意味する。この場合、一つの社会の常識と他の社会の常識とは違い、それぞれの社会にそれぞれの常識がある。しかし他方、あらゆる人間に共通な、人類的な常識というものが考えられる。それは前の意味における常識と区別して特に「良識」と称することができる。例えば、「全体は部分よりも大きい」というのは常識である。それは「自然的光」によってすべての人間に知られるものであって、直接的な明証をもっている。それは知性の自然的な感覚に属している。我々の生活のあらゆる方面においてこの種の常識がある。この場合、常識の光と科学のそれとは根本において同じであるが、常識としてはそれが直接的であって反省されていないという差異がある。かようにして一般に常識といわれるものには固有の意味における常識と良識とが含まれ、両者はしばしば対立して現われる。余りに常識的であることは良識に反し、また余りに良識的であることは常識に反する。そこに既にいった二つの社会に同時に属するという人間の根本的性質が認められる。現実の社会は閉じたものであると同時に開いたものであり、開いたものであると同時に閉じたものである、その理解が我々の真の常識、また真の良識でなければならぬ。


科学


 常識はそれ自身の効用をもっている。常識なしには社会生活は不可能である。常識に対して批判的精神が現われるが、それと共に人間は不幸になり、再び常識が作られ、これによって人間は生活するようになる。けれども常識の長所は同時にその制限である。そこに科学が常識を超えるものとして要求されるのである。

 先ず常識が実定的であるに対して科学は批判的である。実定的な常識が固定的な傾向をもっているに反して、批判的な科学は進取的な傾向をもっている。しかし科学が批判的であるということは更に積極的な意味において理解されねばならぬ。常識はその理由を問うことなく、自明のものとして通用する、それは単なる断言であって探求ではない。常識に頼ることは安定を求めることである。それには懐疑がないが、科学には絶えず新たな懐疑がある。懐疑があって進歩があるのである。探求というのは問を徹底することであり、特に理由を問うことである。単に「斯くある」ということを知るのみでなく、「何故に斯くあるか」ということを知るところに真の知識がある。物を批判的に知るというのはその理由を知ることでなければならぬ。科学は理由或いは原因の知識である。

 次に常識が閉じた社会においてあるに対して科学は開いた社会においてある。科学はその本性上人類的普遍的である。科学は時と処を超えて通用する即ち普遍妥当的といわれる知識を求める。そしてそれは個人の自由な精神の活動に俟つのである。科学は、歴史の示すように、民族のうちにおいて個人が自己の自立性を自覚し、独立な人格が現われたところで生れた。それは批判的精神の出現を意味している。個人の自由はさしあたり主観的な肆意しいとして現われるであろう。科学はもちろん個人の肆意しいに基くのでなく、客観的であることを求めている。客観的とは普遍妥当的ということである。そこに個人の主観的な自由は否定されて、自己のうちにおける普遍的なもの、超個人的なもの、理性と呼ばれるものの自覚がなければならぬ。理性の自覚に基いて人間は真に自由になる。単に個人的な立場はもとより、単に民族的な立場に止まる限り、客観的知識に達することはできぬ。もちろん現実の人間は単に人類的でなく、民族的である。しかしその立場が個人の自覚に即して一旦否定されるのでなければ科学的になることはできぬ。人類的立場が直接的であると考えるのは正しくない、それは否定を経て現われてくるのである。常識がなお特殊的な知識であるに反し、科学は一般的なものについての知識、法則の知識である。

 第三に常識は行為的或いは実践的立場における知識であった。しかるに科学は理論的、従って観想的であることを特徴としている。科学ももと実践的要求から生れたものであるにしても、一旦これを否定して飽くまでも理論的になるところに科学は成立する。そこには生活における有用性を離れて、知識のために知識を求め、真理のために真理を究める純粋な理論的態度がなければならぬ。ただ実用の見地或いは政策的立場に立つ限り、科学の求める客観的知識に達し難い。科学は自由な研究を必要とするのであって、常識において直接に結び付いている行為の立場は、科学においては一旦否定的に分離されねばならぬ。科学は何よりも理論的知識、即ち論理的に組織された一般的な知識である。

 このように科学と常識とは異っている。もとより常識は科学化されねばならないし、また科学は常識化されねばならない。かくておよそ常識が科学的になるところに文化の進歩がある。けれども常識がいかに科学的になるにしても、常識と科学との間には性質上の差異がある。なぜなら両者の差異は単に知識の内容に関するのでなく、却って知識の在り方に関するのである。同じ内容の知識でも常識と科学とでは在り方が違っている。常識には単に「前科学的」といい得ぬ独自の性質と機能とがある。それをただ科学の前段階、低い程度の科学とのみ見ることは、いわゆる実証哲学もしくは科学主義の抽象的な見方に属している。科学は科学としてよりむしろ技術を通じて常識化されるといわれるであろう。科学は技術化されて日常生活のうちに入るに従って常識のうちに入ってゆく。電燈や電車が作られて電気は常識となり、電気について知らないのは非常識とされるようになる。常識はもと行為の立場における知識であり、科学も技術において現実に行為の立場に移されるからである。常識と科学とが在り方を異にするということは、科学の常識化が不可能であるとか無意味であるとかということではない。科学が常識化されることは、常識の進歩のためにも科学の発達のためにも大切であるが、ただそれには特殊な方法が必要である。科学が常識と異るからといって科学を尊重しないのは非常識であり、他方常識を科学によって残りなく置き換え得ると考えるのも非科学的である。

 科学はしばしば抽象的であるといって非難されている。それは哲学に対してのみでなく、常識に比してすでに抽象的であるといわれるであろう。しかしながら抽象的なものの重要な意味を理解することが肝要である。抽象的なものに対する情熱なしにはおよそ文化の発達はない。直接に具体的なものは真に具体的でなく、却ってそれ自身抽象的である。真に具体的なものは抽象的なものに媒介されたものでなければならぬ。常識も科学に媒介されて具体的になることができる。科学が普遍的な立場に立って法則を求めるということは、それによって却って真に個人にも民族にも仕えることになるのである。また科学が一旦行為の立場を否定して純粋に理論的になるということは、それによって却って真に行為と結び付くことになるのである。個人にしても民族にしてもそれぞれ個別的なものであるが、単に特殊的なものでなく、同時に一般的なものである。個別性は特殊性と一般性との統一である。一般的な知識は個別的なものの認識にとって必要であるばかりでなく、つねに個別的な条件のもとに個別的な主体によって行われる行為にとっても必要である。科学が明かにする客観的真理に従うことによって、我々の行為は有意味にまた有効に行われることができる。科学は技術の基礎であり、科学の発達が技術の発達を可能にする。単に応用のみを目的とする場合、科学の発達はなく、従って技術の発達も不可能であろう。

 しかしながら、科学が一旦行為の立場を否定するからといって、科学と行為とを全く分離して考えるという誤謬に陥ってはならぬ。科学も元来人間の実践的或いは技術的要求から生れたものである。科学の根柢には自然に対する支配の意志があるといわれている。しかるに「自然は、それに服従するのでなければ征服されない」。科学は自然を支配するために自然についての客観的知識を求めるのであって、それが自己を行為の立場から分離するのも、主観的なものの混入を避けてひたすら客観的な知識に達するためである。しかしながら他方科学は、その客観的知識に達するために、却ってむしろそれ自身の仕方において行為的であることを必要とするのである。言い換えると、科学もそれ自身技術的で操作的である。技術にとって科学が基礎であるように、科学にとって技術は基礎であり、技術の発達が科学の発達を可能にした。望遠鏡や顕微鏡の発明なしには近代科学の発達は考えられないであろう。科学ももと環境においてある人間の生活の中から生れたものである、それは構成することによって適応する知性の産物である。それはすでに技術的な我々の経験の発展にほかならない。常識は経験のそれ自身の仕方における組織であったが、科学も同じく経験の他の仕方における組織である。常識においては経験は自然的に、無意識的に組織されるに反して、科学においては経験は意識的に、方法的に組織される。方法的に規制された経験が実験と呼ばれるものである。実験が科学の重要な方法であるということは、科学もその根柢において技術的であることを示している。科学は思惟の技術を必要とするのみでなく、更にすぐれた意味において技術的である。実験は行為的に知ることであり、その主体は操作的主体として行為的である、単に見るものでなく、働くことによって見るものである。知識の主体にしても、いわゆる主観の如きものでなく、現実の人間の存在である。知るということも、存在と存在との関係である。単なる意識に対してでなく、存在に対して初めて、存在は、その秘密を明かにするのである。経験や常識においては知識と行為が直接的に結び付いているに反して、科学の立場においてはそれが一旦引き離され、他方同時に自覚的に、方法的に結び付けられるのである。

 科学が経験的ないし実験的であるということは、実証的であることを意味している。科学は実証的でなければならず、実証性は科学の欠くことのできぬ要素である。しかるに科学が実証的でなければならぬということは、現実のうちに我々が純粋に合理的に演繹することのできぬものが存在するということを前提している。合理的に思惟されるものは一般的なものである。しかるに現実のうちには特殊的なもの、非合理的なものが存在している。そこに非合理的なものが存在するところから、科学は実証的であることを要求されるのである。けれども現実が全く非合理的であるとすれば、実験することも無意味でなければならぬ。実験は現実が合理的であるということを予想し、その合理性の発見を目的としている。しかし科学の求めるものが合理的なもの、一般的なもの、法則的なものであるからといって、それが個々のもの、特殊的なものを全く無視するかのように考えることは正しくない。科学も実は個物の独立性を認めることによって成立するのである。唯一つの例外があっても法則は否定され改変されねばならぬということは、個物の力を示している。かように個物の独立性を認めるところに、近代科学の特色とされる実証性がある。それ以前の合理主義の哲学即ち一切のものが純粋に合理的に演繹され得るとする思想に対して、近代科学が経験を重んずるのもそのためである。もとより現実のうちに合理的な統一が存しないならば、実証的であるということも無駄である。かようにして現実が合理的であると同時に非合理的であり、特殊的であると同時に一般的であるというところに、科学的研究は成立する。それは科学が合理性と実証性、或いは論理性と経験性から成るということを意味している。科学性は合理性と実証性という相反するものの統一である。

 さきに述べたように、経験は単に受動的なものでなく、受動的であると同時に能動的であった。経験の発展として、科学における実証性と合理性は、その受動性と能動性に相応している。経験は試みることとしてそこに既に自律的な知性が参加している。経験における試みが手当り次第の偶然的なものであるに反して、実験における試みは計画的であり、あらかじめ一定の思想、一定のイデーをもって臨むのである。そのことは合理性に対する要求を示している。イデーなしには実験することができぬ。一定の思想をもって現象に問いかけ、現象をしてこの問に答えさせることが実験である。そして与えられる答について論理的に思考し、これによって現象を合理的に把握してゆく。その場合、答は必ずしも最初の思想と一致しないで、むしろこれを否定することもあろう。そのときはそれに応じて我々の思想を変え、新しい思想をもって更に現象に問いかける。かようにして我々と現象との間にいわば問答が行われる。問はあらかじめ論理的に考えられた思想をもって臨むことである故に、合理性の側を現わし、これに対して答はいつでもその思想を否定し得るものとして実証性の側を現わすとすれば、合理性と実証性とは対立し、その間に対話が行われる。そのとき合理性と実証性とは弁証法的関係にあるといわれるのである。弁証法という語はもと対話を意味するギリシア語の「ディアレゲスタイ」に由来している。対話においては互に他を否定し得る独立な者が対立し、問答を通じて一致した思想に達すると考えられるが、そのように弁証法は対立するものの一致を意味している。科学性は合理性と実証性との弁証法的統一である。その合理性は実証性を離れてなく、その実証性は合理性を離れてない。科学的精神は合理的精神であると同時に実証的精神である。合理性と実証性とは対立するものである故に、科学的研究は一つの過程として運動するのである。新たに発見された事実を説明する法則を求めるために、或いは特殊的法則を包括する一般的法則を求めるために、研究が行われる。特殊的なものは科学を進歩させる力となっている。特殊的なものと一般的なものとの対立によって科学は発達する、或いは、非合理的なものを否定的媒介とすることによって科学はその合理性において発展するのである。かように科学が弁証法的構造をもっているということは、現実の世界が弁証法的なものであるということに相応している。合理的であることは演繹的であることであり、実証的であることは帰納的であることであると考えられ、科学は演繹的であると共に帰納的であり、帰納的であると共に演繹的である。演繹は一から多へであり、帰納は多から一へである。現実の世界は多にして一、一にして多であり、一即多、多即一という弁証法的なものであるところに、科学の弁証法的構造の根柢があるといわねばならぬ。

 ところで科学が行為の立場に立つことは、客観的な知識に達するために必要なことであった。単に見るのでなく、働くことによって、我々は真に客観的に見ることができるのである。しかし科学は直接に物を作るのでなく、物を作るのは技術である。技術的に作られたものはすべて形をもっている。技術においては、先ず客観的な法則の知識、次に主観的な目的があり、両者の統一が求められるが、この統一は物を変化して新しい形を作ることにおいて実現される。科学の理念が法則であるに対して、技術の理念は形である。形は主観的・客観的なものであり、また抽象的一般的なものでなく、一般的なものと特殊的なものとの統一として具体的なものである。科学的精神が用心深く、試験的で、自由を尚び、つねに批判的で、進取的であるに反し、技術的精神には何か固定的で保守的なところがある。技術は習慣的になり、習慣的になることによってその意味を発揮する。言い換えると、技術は制度的になるという性質をそれ自身においてもっている。技術の存在の仕方には常識の存在の仕方と類似するところがあるであろう。科学は技術化されるに応じて常識のうちに入ってゆく。科学において自然と対立した人間精神は、形のある独立なものを作る技術を通じて自然に、歴史的自然に、還るともいわれるであろう。人間の技術は自然の技術を継続する。科学と技術とは、科学も行為的であり技術も知識的であるにしても、なお理論と実践として対立している。しかもすでに論じたように、両者は抽象的に分離され得るものでなく、却って一つに結び付いている。理論の発達によって実践は発達し、実践の発達によって理論は発達する。そこに対立するものの統一、理論と実践との弁証法的統一が存在する。そしてそれは、科学と技術においてのみでなく、すべての文化と行為において見られる関係である。


哲学


 科学と哲学との区別は、普通に次の如く理解されている。先ず科学は原因の知識であった。哲学も科学性をもたねばならぬ以上、原因或いは理由の知識でなければならぬ。ところで科学は物の原因を研究するにしても、自己自身の拠って立つ根拠は反省することがない。それは物の因果関係を研究するか、およそ因果性とは何かということについては反省しないのである。因果性とか空間とか時間とかという如きものは、科学は前提するに止まっている。かようにして科学の前提となっているものを究め、その根拠を明かにするのが哲学である。即ち哲学は科学批判に従事するのである。批判というのはそのものの拠って立つ根拠を明かにし、その基礎を置くことである。しかしながら、科学の根拠を明かにすることはそれ自身科学の仕事に属するといわれるかも知れない。科学者は自己の研究の過程において自己の原理であるものについておのずから反省し始めるであろう。もっとも、その場合、科学者はもはや科学者としてでなく哲学者として研究しているのであると考えられる。けれども何故に、科学の根拠について研究することが科学者の仕事に属しないのであろうか。それは科学的研究の発展にほかならないといわれるであろう。かようにして、科学の根拠を明かにすることが哲学の仕事であるとすれば、それには何か科学の科学としての立場においては不可能であるというものがあるのでなければならぬ。そしてその点の認識が哲学にとって肝要なのである。

 次に科学は存在を種々の領域に分ってそれぞれの領域について研究する。科学は存在を全体として考察するのでなく、その特殊部門を研究する。物理学は物理現象を取扱い、生物学は生命現象を取扱うというように、科学は分科的であり、専門的である。それが特殊科学とか個別科学とかといわれるのもそのためである。しかるに哲学は全体の学である。それは存在を存在として全体的に考察するのである。しかしながら、科学もつねに全体を目差しているといわれるかも知れない。科学者も世界を包括的に統一的に説明しようとしている、彼等も世界についての全体的な観念、即ち世界像というものを与えようとしている。物理学者は物理的世界像を、生物学者は生物学的世界像を形作ろうとしている。生命現象は物理的に説明されず、更に心理現象は生物学的に説明されないとしても、それら物理的、生物学的、心理的現象を一定の関係において統一的に説明し得る科学的世界像を求むべく努力されている。従って哲学が全体の学であるということは、ヴントなどの考えたように、単に諸科学の綜合という意味であることができぬ。諸科学の綜合はむしろ科学自身の理念に属している。それ故に哲学が全体の学であるとすれば、存在の全体というものには科学の科学としての立場においては遂に捉えられないものがあることを意味するのでなければならぬ。そしてその点の認識が哲学にとって大切なのである。

 第三に科学は価値の問題について中立的である。それはただ記述し或いは説明することに努め、価値判断はそれの外にある。それは感情的な主観的な評価を排して、物を飽くまでも知的に客観的に把握しようとする。科学は単に記述するのみで説明するものでないというのは、言い過ぎであるにしても、それは決して目的の言葉において説明するものではない。「何故に」ということが、もし物の意味ないし目的を問うことであるとすれば、科学は「何故に」ということに答えるものでなく、単に「いかに」ということを明かにするのである。科学の示す新しい事実、新しい観念、環境支配の新しい可能性をもって何を始めるかは、それを用いる人間の意欲に依存し、そしてこれは彼のもっている価値の尺度に依存する。行為の目的に対して科学は手段或いは道具を提供するに過ぎぬ。しかるに哲学はまさに価値とその秩序に関わっている。哲学の問題は価値の問題であるといわれるのである。しかしながら、科学も価値に無関心であるのではなかろう。それは何よりも真理に深く関心している。真理は価値であり、従って知識もそれ自身のうちに価値の問題を含んでいる。また価値の秩序をいかに考えるかということは、知識に依存するところが多いのである。理論と実践、観念と行動を全く分離することはできぬ。科学が価値判断を排するのは主観的なものの混入を防ぐためであるが、哲学もまた、価値を問題にするにしても、単に主観的であることは許されない。もちろん、純粋に客観的な立場においては評価はなく、物の意味も理解されないであろう。けれども意味とか目的とか価値とかも、単に主観的なものであり得ず、そしてそれが現象のうちに客観的に現われる限り、価値も科学の対象となるのである。道徳学、芸術学、宗教学等の存在はそのことを示している。従って哲学が価値を問題にするという場合、その取扱いは科学におけるそれとは異り、しかも価値そのものの本質が哲学的な見方を要求しており、更にこれが単に主観的な見方でないということがなければならぬ。そしてその点の認識が哲学にとって重要なのである。

 それでは、知識、存在、価値等、すべての問題について、科学と哲学とはその見方においていかに相違するのであろうか。科学的な見方のほかに、およそ何故に哲学的な見方が要求されるのであろうか。

 科学は物を客観的に、対象的に見てゆく。科学の求めるのは客観的な知識或いは対象的な認識である。しかるに物を知るには知る作用があり、そこに知られたものと知るものとが区別される。認識には作用と対象とがある、対象は客観であり、作用は主観に属している。科学はひたすら客観をそのものとして知ることに努力するのである。もっとも、科学も知るもの、知る作用即ち主観或いは主体について研究するといわれるであろう。けれども科学が知るものについて研究する場合、知るものは対象として、客観として捉えられるのであって、そこに更にこれを知るもの、知る作用がなければならぬ。見られた自己はもはや見る自己ではない。主体はいかにしても客観化し得ぬものである。それは対象的存在でなく作用的存在であり、ラシュリエの言葉を借りると、判断の述語としての存在でなく繋辞としての存在である。主体をそのものとしてどこまでも主体的に見てゆくというのは科学のことでなく、そこに哲学がある。科学が客観的な見方に立つに反して、哲学は主体的な見方に立っている。主体的に知るというのは、対象的に知ることでなく、自覚的に知ることである。そこで翻って主体とか自覚とかの意味を考えてみなければならぬ。

 主体とは働くものである。知るということにおいて、知られたものに対して知るもの、知る作用が主体のものである。それは意識であり、主体とは意識にほかならぬといわれるであろう。しかしさきに論じたように、知識の主体も行為的である。行為の主体は単なる意識でなく却って存在である。存在といっても、それはもとより客観的なものでなく、客観的にどこまでも捉えることのできぬところがあるから主体といわれるのである。その際、存在が先ずあって、それについて作用が考えられるのではない。かように考えることはすでに客観的な見方に属している。そこではむしろ作用と存在とが一つである、存在があって作用があるというのでなく、作用があって存在があるというのでもない。意識の起原にしても行為の立場から理解され得るのである。主体が環境の抵抗に逢って、これを支配し自由になるに従って、意識は発達する、意識の発達には、環境の刺戟に対する主体の反応の自由が現われ、主体の運動が単に反射的でなく自発的或いは自律的であることが必要な条件である。ベルグソンのいう如く、意識の範囲は生命の自由な活動の範囲と一致している。主体的なものは行為的なものである。主体的立場とは行為の立場にほかならない。そこで我々は行為について一層深く考えてみなければならぬ。

 行為は運動である。しかしそれは水が流れるとか風が吹くとかという運動と同じに考えることはできぬ。それらの運動は客観的に捉え得るものであるが、行為は、それをどこまでも客観的に見てゆく限り、行為の意味がなくなってしまう。行為は単に客観的に捉え得ぬ主体的意味をもっている。行為の対象であるもの即ち客体は、私が何を為すにしても、つねに既にそこにある。私が今この手帳を取ろうとする、そのときそれは既にそこにある。かように客体はつねに「既に」という性格を担っている。客体の担うこの過去性は、普通にいう過去と同じでない。この手帳は現にそこにあるのであり、現在そこにあるものをも「既に」そこにあるものとするのが行為の主体的立場である。また未来に属するものも、見られたもの、考えられたもの、知られたもの即ち一般に客体としては、既にそこにあるということができる。このようにして客体はすべて或る根源的な過去性を担い、いわゆる過去現在未来に属する一切を既にそこにあるものとしてこれに対するのが主体である。主体はいかにしても既にそこにあるとはいい得ぬものであり、真の現在である。この現在は、過去現在未来と区別される時間の秩序における現在でなく、それを超えた全く異る秩序のものである。この現在においてあることによって、過去も未来も現在的になる。過去や未来が我々に働きかけるというのも、この現在においてである。それは過去現在未来が同時存在的にそこにおいてある現在である。行為は既にそこにあるといい得るものでなく、既にそこにあるのは為されたものであって為すものではない。行為はつねに現在から、普通にいう現在とは秩序を異にする現在から起るのである。行為が主体的なものであるというのはそのことである。かくして行為は過去をも未来をも現在に媒介する、そこに行為の歴史性があるのであって、我々のすべての行為は歴史的である。

 ところで行為が現在から起るというところに行為の超越性が認められるであろう。行為の超越性というのは、それが過去現在未来を超えた全く異る秩序の現在から起ることを意味している。人間の運動は特に行為といわれ、かようなものとして人間は超越的である。人間の主体性はその存在の超越性を離れては考えられない。超越は人間的存在の根拠であり、超越があるによって人間は人間であるのである。超越は先ず人間における客体から主体への超越である。これによって我々は単なる客体でなく主体である。しかるに人間における主体への超越は同時に人間に対する客体の超越の根拠である。我々の環境にあるすべてのものは我々に対して超越的である。言い換えると、それは我々の全く外にあり、我々はそれに対していわば距離の関係に立っている。我々は自己に対してさえ距離の関係に立ち、かようにして自己をも客観的に捉え得る。我々に対して客体が超越的である故に、我々はそれを客観的に認識し得るのである。物に遠いことが却って物を近く捉え得る所以である。客体の超越は、我々が主体として超越的であることによって可能になる。我々における主体への超越は同時に我々に対する客体の超越であり、超越はかように二重であって一つである。人間の存在は客体を全体として超越している故に、存在するものの一切を全体として把握することも可能になる。我々が主体として超越的でなければ行為はなく、また対象が客体として超越的でなければ行為はないであろう。行為は二重の超越によって、しかもそれが一つであるによって、可能になるのである。

 さて主体は単なる意識を意味しないが、しかし意識において主体は主体的になるのである。主体の主体性即ち行為の自発性と意識の発達とは伴っている。主体が主体的に表現される所は意識である。行為はもとより客観的に表現される、けれどもそれが主体的に表現される所は意識を措いてないのである。自己意識或いは自覚によって、主体は真に主体的になるのである。デカルトが「私は考える、故に私は在る」といった如く、我々は自己の存在を意識し、意識する自己を意識することができる。もっとも自覚はデカルトの考えた如く単に知的な事実であるのではない。「我々は存在し且つ存在することを知る、そしてこの存在と知とを愛する」とアウグスティヌスがいった如く、我々の自覚存在には感情が伴うのがつねである。人間は「考える蘆」であるというパスカルの言葉は、情意的自覚を現わしている。デカルトの「私は考える、故に私は思惟する物もしくは実体である」ということに対し、メーヌ・ドゥ・ビランは、「私は行動する、私は意欲する、即ち私は私において行動を意識する、故に私は原因であることが知られる、故に私は原因もしくは力として在る、即ち現実的に存在する」ということを原理とした。彼はこれを内的感覚の原始的事実と称した。自己意識は主体の自発性の意識である。「意欲は精神の単純な、純粋な、瞬間的な作用である、それにおいて、もしくはそれによって、この知的にして能動的な力は外部に現われ、且つ自己自身に内面的に現われる」、とまたメーヌ・ドゥ・ビランが記しているように、行為は外部に表現されると共に内部に表現される。かように二重の表現を有するということ、単に外に現われるのみでなく同時に自己自身に内面的に現われるということが、主体の特徴である。人間は外的人間であると共に内的人間である。行為は外に経験されるのみでなく内に経験される。経験を外的経験とのみ考えたところに、いわゆる経験論の制限があった。外的感覚のほかに、メーヌ・ドゥ・ビランのいったような内的感覚がある。人間は自覚的存在である。自覚的なものであって真の主体であり、自覚によって真に主体の主体性は成立するのである。

 この自覚の意味は一層厳密に考えられねばならぬ。自覚というのは自己が自己を知ること、自己が自己を意識することである。しかしながら自覚の意味は単に自己が自己を意識するということに尽きるのではない。自己は自己を振返って見ることができ、この振返って見る自己を更に振返って見ることができる。かように自己は無限に自己を反省し得るというのは重要な事実であるけれども、もしそれが単に意識の内部において自己が自己に関係付けられることに過ぎないとすれば、それは純粋に内在的なことになってしまう。もしそれが純粋に内在的なことであるとすれば、何故にそれが、少くとも行為にとって、重要な関係をもっているのか、理解し難いであろう。自己が自己を知るという自覚の意味は、自己が自己を超えるということでなければならぬ。自己が自己を超えるというところに自己が自己を知るということもあり得る。自覚の事実は人間存存の超越性によって可能になるのであり、そこに真の主体性が成立するのである。自覚というのは単に自己が自己を知ることでなく、自己が自己を知ることに即して自己の根拠であるものを知ることである。もし自覚が単なる自己意識に過ぎないとすれば、その内容は単に自己であり、またそれはただ意識に関することと考えられ、かようにして自覚を基礎とする哲学は、従来しばしばそうであったように、内在論或いは意識哲学に終ることになる。それは自覚の事実がこれまで主として知識とその主観の問題の見地から見られたことにも関聯している。自覚の事実も行為の立場において捉えられねばならぬ。自覚の内容は自己であると同時に他者であり、そして自覚は単に意識に関わるものでなく、存在に関わるものである。単なる自己反省でなく、自己への反省が同時に他者への関係付けであるというところに、自覚の本質がある。他者とは自己の存在の根拠であるものを指している。伝統的な哲学の考えた如く、現実的存在においてはその存在と存在の根拠とが区別され、自己の存在の根拠が自己の存在に超越的であるということが現実的存在の根本的規定であるとすれば、人間に固有なものといわれる自覚は、自己の存在の根拠の意識であるのでなければならぬ。単なる自己意識でなく、自己意識が同時に根拠の意識であるというところに自覚の本来の意味があり、その根拠の意識によって自己意識も成立するのである。自覚は超越によって可能になるのであって、主体的とは、単に主観的ということでなく、却って自己の存在の根拠を自覚し、これと内面的な関係を含むということである。自己意識としての個人的自覚は人格の認識根拠となるにしても、その存在根拠であることはできぬ。しかも我の存在の根拠であるものは、同時に汝の存在の根拠であることなしに、我の存在の根拠であることもできない、我は汝に対して初めて我であるから。我々は我々の存在の根拠であるものから社会的に限定されてくるのである。かような存在の根拠が最も深い意味における世界にほかならない。主体的立場というのは個人的立場でなく、社会的立場であり、世界的立場を意味している。この世界は客観としての世界ではない。客観としての世界においては、主体である人間はその場所をもたない。見られた自己はその中に入っているにしても、見る自己はそれに対して何処か外にあると考えられねばならぬ。しかしながら、「世界は深い」とニーチェもいった如く、世界は主体である人間を内に包み、これを超えて深いのである。主体がそれにおいてある世界即ち絶対的場所は、どこまでも主体的なものでなければならぬ。それは主体である人間がそれに対しては客体と考えられるような主体である。それは「既に」そこにある世界でなく、却っていわゆる世界がそれにおいてある世界であり、真の現在である。哲学は対象的認識でなくて場所的自覚である。人間は世界から作られる、世界は創造的世界である。創造とは独立なものが作られるということである。人間は作られたものでありながら、独立なものとして、みずから作ってゆく。人間が作るのは、みずからも創造的なものとして、世界が世界を作るのに参加することである。人間は形成的世界の形成的要素である。我々が作るのは、世界が世界を作ることにおいて、そのうちに、作ることである。それ故に我々の行為は、我々の為すものでありながら、我々にとって成るものの意味をもっている。行為は同時に生成の意味をもっている。行為が出来事の意味をもっているのは、これに依るのである。人間の行為は世界における出来事であり、かようなものとして歴史的である。歴史とはもと出来事を意味している。主体的立場は歴史的立場であり、世界史的立場でなければならぬ。

 かようにして哲学が主体的立場に立つというのは、要するに、現実の立場に立つということである。真に現実といわるべきものは歴史的現実である。人間は歴史的世界における歴史的物にほかならない。我々の一切の行為は、経済的行為の如きものであろうと、芸術的行為の如きものであろうと、或いはまた科学的研究の行為の如きものであろうと、すべて歴史的世界においてあるのである。主体的立場は行為の立場であるといっても、主知主義を排して主意主義を取るというが如きことを意味するのではない。行為の問題は、主観主義の哲学において考えられる如く、単に意志の問題ではない。いかなる物であろうと、物を作るということが、行為の根本的概念である。人間のあらゆる行為は制作の意味をもっている。それはすべて技術的なものであり、知識的でなければならぬ。主体的立場は形成的人間の立場であるが、人間は歴史的世界において形成されて形成するのである。歴史とは出来事であり、それは行為が同時に生成であることを意味している。従って行為の立場といっても、主観主義的な、いはゆる行動主義の如きものではない。我々の行為はつねに歴史的に限定されている、言い換えると、それは主観的・客観的なものである。主体的立場というのは単なる主体の立場でなく、却って主体を超えた主体の立場である。人間は「超越的人間」である、超越によって人間は人間であり、人間の一切の作用は可能になる。けれどもそれはいわゆる超越的意識或いは先験的意識と混同さるべきでなく、人間はその全体の存在において超越的であるのである。しかも超越的とは、世界の外にあるということでなく、却って「世界」に関係付けられているということである。そして主体と客体とが抽象的に対立するのでないように、超越は同時に内在であり、内在的超越であると共に超越的内在である。かようにしてまた、哲学は対象的認識でなく場所的自覚であるといっても、その主体的な見方は客観的な見方に媒介され、これを内に含むのでなければならぬ。場所的自覚とは現実の中で現実を自覚することである。

 ところで科学の主観もすでに行為的であった。科学も行為の立場を予想するにしても、それを主体的に自覚してゆくということは、科学のことではない。科学は世界をどこまでも客観的に見てゆくのである。その主観が行為的であるのも、客観的知識に近づくためであった。科学の与えるのは世界像であって世界観でなく、しかるに哲学の求めるのは世界観である。世界像は客観的な見方において形作られるものであるに反して、世界観は主体的な見方において形作られるのである。前者は世界の対象的把握であり、後者は世界の場所的自覚である。世界観は科学よりもむしろ常識のものである。常識は行為的知識として、論理的反省を経ていないにしても、或る世界観をもっている。日常の生活において我々は多くの場合、常識的世界観によって生活している。格言や俚諺の如きものは、かような常識的世界観を言い表わしている。世界観は世界の主体的な自覚である故に、そこには情意的な見方の含まれるのがつねである。哲学において知るものは人間の全体的存在である、哲学は「全体的人間」の立場に立っている。自覚はあらゆる作用がそれによって可能になる超越と一つのものとして、意識の作用のうちの一の作用に過ぎぬものでなく、むしろ「作用の作用」として、そこでは悟性も感情も意志も結び付くことができる。世界観は我々の知的要求と共に我々の情意的要求を満足させるものでなければならぬ。常識が哲学に求めるのはかような世界観である。そして常識が哲学に対して知識や理論よりも哲学者とか賢者とかという人間理想を求めるということは、哲学を行為的知識として理解しているからである。哲学は生の立場に立つことにおいて常識と同じである。しかしながら哲学はまた学でなければならぬ、それは飽くまでも論理的でなければならぬ。哲学は学の要求において科学と同じであり、科学の媒介が必要である。科学の客観的な見方は哲学の主体的な見方に対立するが、かように自己に対立するものを自己の否定の契機として自己に媒介し、これを自己のうちに生かすことによって、哲学は真に具体的な知識になり得るのである。哲学の仕事は、新カント派が考えたような意味での科学批判、即ち単に科学の論理的基礎を明かにするという形式的な仕事に尽きるのでなく、科学的世界像に媒介された世界観を樹てることを究極の目標としている。もっとも、科学の哲学への媒介は科学批判を通じて行われねばならぬであろう。批判というのは、その前提であるものを反省してそれに基礎をおくこと、いわゆる基礎付けであり、基底付けである。そして科学の基礎付けも基底としての世界からなされ得るのである。知識の問題を存在の問題から分離することはできぬ。学的であるべき哲学は論理的でなければならぬが、論理といっても、抽象的に形式的に考えられるものでなく、論理は現実の構造のうちにあるのである。最も具体的な現実は歴史的現実である。同じ歴史が繰返すと考えるとき、そこに自然があり、自然とはいわば習慣的になった歴史である。哲学の論理は根本において歴史的現実の論理でなければならぬ。哲学はどこまでも現実の中になければならず、その点において常識を否定する哲学は却って常識と同じ立場に立っている。哲学は科学の立場と常識の立場とを自己に媒介することによって学と生との統一である。


第一章 知識の問題


真理


 知識はいかにして成立し、いかなる性質のものかということは、哲学における一つの重要な問題である。この問題を研究する哲学の部分は認識論と呼ばれている。認識というのは知識というのと同じである。ただ認識論という名称は、他の多くの名称と同様、一定の歴史的含蓄をもっている。認識論は近世においてロックやヒュームに始まり、カントによって確立されたといわれ、現代の新カント派は、認識論と哲学とを同一視し、認識論のほかに哲学はないと主張した。しかしながら特定の立場を離れて考えると、知識の問題はギリシア哲学以来絶えず研究されてきたのである。この問題に関する哲学的考察はまた知識学とも知識哲学とも称せられている。更にそれは論理学の名のもとに論ぜられることがある、思惟の学としての論理学は実質的には認識論でなければならないと考えられるのである。認識論は「知識の起源、本性並びに限界」に関する研究と定義されている。

 知識の問題の中心をなすのは真理の問題である。知識とは真なる知識のことであって、偽りの知識は知識ともいわれない。知識は真理であることを要求している。真理は知識の価値を意味し、これに対して虚偽は反価値である。真理と虚偽とは理論的領域における価値と反価値との対立を表わす言葉である。真理とはいかなるものであろうか。

 知識は個人的なものでなくて一般に認められるものでなければならぬ。ただ自分はそう考えるというのでは単なる意見であって、知識ではない。自分にとってはそうであるが他の者にとってはそうでないというものは真理とはいい得ない。真理はあらゆる人によって承認さるべき要求を含んでいる。或る時にはそうであるが、他の時にはそうでなく、或る処ではそうであるが他の処ではそうでないというものも真理でなく、真理は時と処を超えて通用するものでなければならぬ。知識はかような性質をもつべきものであって、普遍妥当性といわれるのがそれである。真理とは普遍妥当的な知識にほかならない。普遍妥当性とは、時と処に拘わらない普遍性、またすべての人が必ず承認しなければならぬ必然性を意味している。一般に価値とはかように普遍妥当的なものをいうのである。普遍性と必然性、或いは普遍妥当性は真理の徴表である。

 ところで知るということは一つの心理的事実であるが、かようなものとして見ると、知識はつねに普遍性と必然性をもっているとはいわれないであろう。或る者が真理として主張するものも、他の者は承認しないことが多い。真理はしばしば万人に反対して叫ばれるのである。すべての人に承認される真理というものはむしろ存在しないのが普通である。個人としても、昨日まで真理と確信していたものに対して、今日は懐疑的になることがある。一つの知識も、或る人には一層多く必然的と思われ、他の人には一層少く必然的と思われるであろう。かように、心理的事実としては、知識はつねに普遍性と必然性をもっているとはいえない。そこで知識の普遍妥当性は、カントの言葉を借りていうと、事実の問題でなくて権利の問題であると考えられるのである。それは知識が事実として普遍性と必然性をもっているか否かに関わるのでなく、すべての知識は権利として普遍妥当性を要求することをいうのである。真理は、実際は何人も承認しないにしても、あらゆる人によって承認さるべき権利をもっている。真理のこの要求は、事実いかんに拘らず、厳粛である。権利の問題は事実の問題でなくて当為の問題である。それはつねにそうあるという意味でなく、つねにそうあるべきであるという意味である。存在(ある)と当為(べし)とは区別されねばならぬ。価値は普遍的に妥当するものであるが、妥当するということは存在するということと全く違ったことでなければならない。そこに心理主義に反対する新カント派の論理主義の主張がある。心理主義は物を心理的事実の立場から見てゆくに反して、論理主義はそれを論理的意味の立場から見てゆこうとするのである。

 いま右のように考えることによって明かにされたのは、形式的真理概念である。真理の形式的概念は普遍妥当性である。いわゆる論理主義は形式主義にほかならぬ。それは知識が形式的にはいかなるものであるべきかを明かにするにしても、実質的にはいかなるものであるかを明かにすることなく、却って知識の問題から存在の問題を駆逐することになるであろう。真理は普遍妥当性であり、これは当為或いは価値を意味し、価値は妥当するものであって存在するものでなく、妥当の領域と存在の領域とは全く別のものであり、知識が普遍妥当性をもつためには、判断において承認もしくは否認される認識の対象は、存在でなくて価値でなければならぬと主張された。しかしながら真理の意味を実質的に規定しようとするとき、存在の概念は欠くことができないであろう。知識は存在に関係付けられたものとして知識である、何等かの存在との関係を含まないような知識はない。そこで伝統的な定義は真理を、物と観念との一致と規定している。カントもこれを認めなかったのでなく、彼もまた、真理は「認識とその対象との一致」であるといっている。認識とその対象或いは存在との一致が認識の客観性或いは対象性を形作る。しかるに他方から考えると、知識が客観的なものでなければならぬということは、それが主観的個人的なものでなく、普遍的必然的なものでなければならぬことを意味している。かようにして、知識の客観性或いは対象性は二重の意味に解されることができる。即ちそれは、一方知識の普遍妥当性を意味すると共に、他方知識が客観或いは存在に関係付けられていることを意味している。そこでもし後の意味を離れて前の意味をのみ強調すれば、形式的な論理主義における如く、存在の概念から抽象して真理の概念を規定することも可能であろう。しかしながら知識の客観性はむしろ言葉通りに知識が客観或いは存在に関係付けられていることと理解されねばならぬ。存在との関係を含まないような知識はあり得ない。知識の客観性は、カントのいった如く、「客観的実在性」のことでなければならぬ、従ってそれは存在に関係付けられているということでなければならぬ。知識が主観的でなく普遍妥当的であるということも、それが客観に関係付けられることによって可能になるであろう。

 しかるに客観に関係付けられることによって、知識に客観性或いは普遍妥当性が与えられるためには、客観が超越的なもの、言い換えると、主観から独立なものであることが必要である。対象の超越なしには知識の普遍妥当性はない。このように考えてゆくと、真理の基準は対象にあることになり、進んでは、真理と称すべきものは第一次的には我々の観念でなく存在であり、この存在に関係付けられることによって、我々の観念はむしろ第二次的に真理といわれると考えられるであろう。真理は知識に属するよりも先ず存在に属している。知識が真理であるのも、存在の真理に関係付けられることに依ってである。実際、人々は普通に、真理のもとに知識の真理よりも物の真理を理解している。「真理を知らねばならぬ」というとき、真理とはあるがままの存在、物の自己自身においてある存在を指している。真理とは存在の在り方、それがそのものとして顕わであるという在り方を意味するのである。真理を単に知識に属する性質と考えることは問題の正しい把握を妨げ易いであろう。スコラ哲学者は、物の真理或いは存在における真理と、知性の真理或いは知識における真理とを、区別した。真理を存在の真理というように考えることは、超越的真理概念である。知識における真理は仮に内在的に考えられ得るとしても、存在における真理は超越的に考えられるのほかない。一層正確にいうと、存在は客観として超越的であることによってそのものとして顕わであること即ち真理であることが可能である。かように超越的なものに関係付けられることによって知識の真理も可能になる。真理の問題は超越の問題であり、それは先ず客観或いは対象の超越に関わっている。

 真理についての自然的な見方は模写説と呼ばれている。模写説は、観念と存在との一致が真理であると考える。もっとも人々の自然的な見方は、真理を必ずしも先ず知識について考えるのでなく、むしろ存在について考え、真理はもと存在のうちにあると見ているのである。模写説に依ると、心の外にある物が心に写され、それが物と一致しているとき真理である。模写説は超越的真理概念をとっている。即ちそれは、意識を超越して独立に存在するものを認め、これとの一致において真理を考えるのである。模写説に対しては、我々がどれほど真面目に我々の表象と物との一致を確かめようとしても、つねにただ表象と表象との一致が知られるのみで、表象と物の一致は決して知られないという非難がある。我々は直接体験の表象と記憶表象或いは想像表象とを比較し、両者を同一の対象に関係させることはできるが、この対象そのものと表象とを比較することはできないといわれている。そこで超越的なものを排して純粋に内在的に考えてゆこうとする内在的真理概念が現われる。それはひとえに表象相互の一致として真理を規定しようとするのである。しかしながら超越的真理概念は極めて執拗なものであって、内在的な見方のうちにも隠されて横たわっている。この場合、二つの表象が相互に一致すべきであるという要求は、両者が共に同一の対象に関係しているということに基礎をもたねばならない。二つの表象が相互に等しいとされるのは、それらが第三の、それ自身は表象ならぬものに等しい故でなければならない。科学において形作られる表象は経験によって得られる表象と一致すべきであるというとき、そこにはその根柢として、両者において同一の実在が精神に現われている筈であるという思想が働いている。かように超越的真理概念は到る処その影をとどめている。真理が内在的なものと考えられぬことは論埋主義者も認めているのであって、彼等が心理主義を排斥するのは実は認識の対象の超越性を主張するためである、その際彼等が認識の概念から存在の概念を駆逐することになったのは、存在を意識に与えられた観念と見る彼等の主観主義的前提の結果であり、かようにして彼等は、認識の対象は存在でなく超越的価値であると考えるに至ったのである。

 真理は知識の真理として、存在においてでなく思惟においてあるものとして、一定の構造と性質のものでなければならぬといわれている。すでにアリストテレスは、本来の意味における真及び偽は、結合と分離もしくは肯定と否定に関わり、従って判断にのみ属すると考えた。表象とか直観とかは本来の意味においては真或いは偽と語られないのである。またライプニッツは、真理の本質は主語と述語の連結のうちに横たわり、その結合は主語のうちに述語が含まれることであると論じている。しかるに、真理である言表或いは命題の構造と性質がいかに考えられるにしても、命題の真理は一層根源的な真理即ち存在的真理に根柢をもたねばならぬ。真理はただ判断に属するというのでなく、却って判断が存在と一致する限りにおいて判断に属するのである。我々が汝は色が白いと語ることが真である故に、汝は色が白いのでなく、却って汝は色が白い故に、かく語ることによって我々は真を語るのである、とアリストテレスもいっている。真理とは存在がそのものとして顕わであることである。しかるに存在がそのものとして顕わであるためには、存在は超越的でなければならぬ、言い換えると、私から独立であること、私に対して距離の関係に立っていることが必要である。客観の超越なしには真理は考えられない。

 しかるにさきに述べた如く、客観の超越は主体の超越によって可能になるのである。物が客観として超越的であるのは、我々自身が主体として超越的であるためである。我々における主体への超越が同時に我々に対する客体の超越である。物が客観として超越的であるのでなければ、我々は物を客観的に認識することができず、我々が主体として超越的であるのでなければ、物は客観として超越的であることができない。主体は内において自己が自己を超えることによって真の主体となる。超越は人間の作用のうちの一つの作用に過ぎぬという如きものでなく、却ってそれによって他の一切の作用が、従って認識の作用もまた、可能になるところのものである。超越は主体の本質であり、主観性の根本構造である。主体というものが先ずあって、それが他の作用と並んで一つの作用として超越をもなすというのでなく、そもそも主体であるということが超越においてあることである。人間存在の超越性によって、一切の存在するものをそのものとして顕わにすること即ち真理が可能になる。物から遠くあることによって物に真に近づくことができる。認識主観はかように超越的な主体でなければならぬ。知識は客観性をもたねばならぬ故に、主観は単に個人的なものであることができない。そこでカントは認識主観を意識一般と考えた。意識一般というのは超個人的な主観、超個人的な我のことである。それはひとつの抽象物に過ぎず、現実の我、現実の主観ではないといわれるであろう。そこで意識一般は当為であるとか規範であるとかと答えられる。けれども主観という以上、それは働くものでなければならぬ、働くものは現実的なものでなければならぬ。現実の人間は超越的なものとして、内において自己が自己を超えるということがあり、超個人的といわれるような意味をもつことができる。主体の超越において認識主観としての意識一般も考えられるのである。かようにして根源的には主体の超越によって初めて存在はそのものとして顕わになるとすれば、真理は本来知識の真理を意味するということもできるであろう。

 物を知るためには我々は誠実でなければならず、さもないと真理は知られない。誠実とは己れを空しくすることであり、それによって存在はそのものとして我々にとって顕わになる。己れを空しくするとは内において自己が自己を超えることであり、それによって自己は却って真の自己となる。誠実或いは真実は物のまことに対して人間のまことのことである。人間のまことは物のまことを知るための条件である。しかるに人間のまことは、まこととして、それ自身において積極的にひとつの真理概念を現わしている。それは主体が自己を隠すことなく顕わであることであって、客観的真理に対する主体的真理を意味している。客観的存在の真理があるのみでなく、主体的存在の真理がある。主体は単に客観的に知られ得るものでなく、主体的自覚によって知られるのであるが、その真理は客観的真理とは区別されねばならぬであろう。真理を単に客観性と同じに考えることは正しくない。客観的真理と主体的真理とは、その対象においても、その認識の仕方においても、異っている。ハイデッゲルの語を借りて、前者を存在的真理、後者を存在論的真理と称することもできるであろう。自覚は超越によって可能になるのであるから、主体的真理も超越を根拠としている。純粋に内在的な真理というものはなく、外に一致すべきもののない知識も内において超越的なものとの関係を含むのでなければならぬ。対象的認識でなく場所的自覚である哲学の真理はそこから考えられるのである。客観的真理が世界についての真理の問題であるに反して、主体的真理は世界における真理の問題である。

 真理は超越的なものであるといっても、ただ客観的にあるものではない。我々から単に独立であって我々に決して関係付けられることのないものは、存在といわれるのみで、真理とはいわれないであろう。真理はもと存在に属すると考えられるとしても、この存在が我々の主観に関係してくるところに真理といわれる意味がある。真理は単に自体における存在でなく、自体における存在が我々にとっての存在となるところに真理の意味があるのである。主体の作用によって存在はそのものとして顕わになるのであって、主体の超越はその根柢的な条件である。そこで真理とは本来知識の真理をいい、存在の真理は知識の真理に従って比論的に名付けられるに過ぎないと考えることができる。知識は主体と客体との関係のうちにあって、その関係から真理は真理になるともいわれるであろう。存在における真理というものはいわば即自態における真理に過ぎず、それが知識における真理となることによって対自態における真理となり、その知識に従って主体が行為することによって真理は再び存在における真理となり、即自対自態における真理となる。世界についての真理は主体を通じて世界における真理となり、それによって現実的に真理となる。真理は究極は世界における真理の問題として主体に関係しており、真理が何よりも知識の真理を意味すると考えられるのも、根源的にはそれに基いている。真理は働くもの、人間を変化し、存在を変化するものでなければならぬ。「生産的なもの、それのみが真理である」、とゲーテはいった。客観的真理は主体的真理に関係付けられることによって、その根拠もその意味も明かにされる。人間のまことによって物のまことは顕わになり、物のまことに従って働くことが人間のまことである。真理は単に知識の問題でなく、同時に倫理の問題である。真理は我々をび起すものとして表現的なものでなければならぬ。やがて我々が知識は主観的・客観的に形成されるものであるといおうとするのも、根本においてはそのためである。


模写と構成


 知識は主体と客体との関係において成立するが、そのいかなる関係において成立するであろうか。普通の考え方はすでに触れた模写説である。模写説は人間の自然的な世界観に一致し、そこに強味をもっている。それは、我々の心がその外にある存在を模写することが認識であり、真理は物と観念との一致であると考える。模写説は心の外に物があると素樸に考える素樸実在論であり、かように考えることは独断であるといわれている。けれどもすでに論じたように、模写説は超越的真理概念をとり、客観が超越的なもの、我々から独立なものであることによって知識は成立すると考える点で、正しい動機を含んでいる。しかしそれは翻って、我々に対する客観の超越は我々における主体への超越によって可能になるということを考えない点で、独断的であるといわねばならぬ。

 普通に模写説は我々の心が鏡の如く物を写すと考えると理解されている。仮に我々の心が鏡の如きものであるとしても、この鏡の性質が問題であろう。鏡は一般に物を写し得る性質をもっているにしても、その鏡が曇っていたり、歪んでいたりすることもあり得る。もしそれが曇っているとすれば、或いは歪んでいるとすれば、そしてその歪みが個人々々で違っているとすれば、真理に達することはできない。そこで模写説においても、我々の心の性質を吟味することが必要になってくる。事実、ロックやヒュームは人間精神の本性について研究したのであって、かような批判的研究のために、認識論は彼等に始まるともいわれるのである。これに対し、我々の心の能力を吟味しないで、我々の心は無制限に認識し得るものと考えるのは、独断論と見られている。

 ところで我々の心は鏡の如きものに比することができぬ。我々の心は自覚的であるが、鏡はそうではない。我々の心は自己反省的である。しかるに鏡は、そこに映る影が果して物を正しく写しているかどうか、反省することがない。鏡が単に受動的或いは受容的であるに反し、認識の主体は能動的でなければならぬ。知ることは選択することである。認識は模写であるとしても、与えられた一切のものを模写することは不可能であり、たとい可能であるとしても無意味であろう。認識するとは、与えられたもののうち、本質的なものと非本質的なものとを区別し、選択することであって、これはすでに主体の能動性に属している。認識は模写であるという場合、物が我々に対して自己の本質的なものをつねに直接に現わしているということがなければならぬ。しかるにその保証は存在するであろうか。もし現象と本質とが直接に同じであるとすれば、一切の科学は不要であろう。認識するとはむしろ、我々の心が物の与えられた表象に働きかけ、これによって物の本質を顕わにするということでなければならない。言い換えると、我々の心が存在を模写するにしても、受動的な直観においてでなく、その加工によって生ずる思惟の生産物においてでなければならぬ。即ち摸写が与えられたものをただ受動的に写すことを意味する限り、模写説の成立する余地はない。我々がそれを摸写するといわれるものは、既に与えられているものでなければならぬ。しかるに知識において見ることは予見することである。見ることが予見することであるによって、知識は、本質的に未来に関係付けられている行為に役立つことができる。ところで予見されるものは未だ与えられていないものであるから、これを模写するとはいわれないであろう。かようにして認識が模写であるということは、認識の究極の意味に関わり、認識はその究極の意味において存在と一致しなければならぬということになるであろう。もっともこの場合、模写ということは文字通りには考えられない。そこには思惟の加工があるのであるから。認識するとは加工することである。しかし思惟のいかなる加工物も、その究極の意味においては存在と一致することを要求されており、従って存在に制約されている限り、認識には模写的意味があるといい得るであろう。認識における思惟の活動は無制約でなく、直観に制約されている。直観に制約されるというのは存在に制約されることであるとすれば、直観には物を写すという意味がなければならぬであろう。模写説においては直観が、感覚の如きもの、もしくは何等かの知的な直観が、重んぜられるのがつねである。デカルトは知覚に、感官による知覚と知性からの知覚とを区別したが、経験論的ないし実証論的立場における模写説は前者を、合理論的立場におけるそれは後者を、認識の根柢においているといえるであろう。

 模写説は、認識はつねに客観に制約されると考える点で、真理を含んでいる。客観に全く制約されない認識というものはない。しかるに物を写すには一定の条件が必要である。我々は光の中において初めて物を写し得ると考えられるであろう。いわゆる「光の形而上学」は古くから意識的に或いは無意識的に認識理論の基礎となっている。プラトンは善のイデアを太陽と比較し、それは認識される対象に真理を賦与し、認識する主観に認識能力を賦与すると考えた。光の形而上学はキリスト教の影響のもとに発展し、認識は神の光に照明されることであるという思想となったが、かような超越的なものを排した場合にも、デカルトに見られる如く、いわゆる自然的光によって明晰で判明な知覚は与えられ、この直観的明証が真理の基準とされたのである。感性知覚の如きものにも物を写すという意味がある以上、それは単に盲目的なものとは考えられないであろう。かくの如く客体がそのものとして顕わになるということは、さきに述べたところに依ると、主体の超越によって可能になる。主体の超越がなければ認識が模写であるということも考えられない、模写説も根源的に主体的条件のもとに立っている。

 しかし前から論じてきた如く、認識が模写であるということには種々の困難がある。その困難は、我々の観念は物の模写でなくて記号であると考えることによって除かれ得るように思われる。特に知識はただその究極の意味において存在の模写であると考えてゆけば、それは存在の摸写でなくて記号であると考えて好いであろう。模写説においても、ロックの場合の如く、感覚はしばしば物の代表と見られている。代表ということを一歩進めると記号である。記号は模写の意味を離れた代表である。かようにして知識は模写であるという説に対して、知識は記号であるという記号説がある。模写説が常識的世界観に符合するところに強味をもっているのに対して、記号説は科学的世界像に符合するところに長所をもっている。それに相応して模写説と記号説との間には、知識の見方についてのみでなく、存在の見方についても相違がある。記号において表わされるのは物であるよりも物の関係である。そして近代科学の特色は、物を物としてそれだけに研究するのでなく、物と物との関係を研究すること、或いはむしろ物を関係において研究することにある。近代科学は物概念において思惟するのでなく、関係概念において思惟するのである。古代的思惟においては、物といわれる実体があって、関係はそれに附帯するものと考えられた。しかるに近代科学においては、物は関係に分解され、関係から物が構成される、関係は法則として現わされ、物は諸関係の網の結び目の如く考えられる。物の知識は模写でなければならぬとしても、関係の知識、法則の知識は模写でなく、むしろ記号であるといわれるであろう。概念、数、公式等はそのような記号である。

 しかしながら知識は記号であるとしても、記号は何物かの記号でなければならず、記号されたものに対する関係を離れて記号は記号の意味をもつことができず、ましてその記号が知識の意味をもつことは不可能であろう。物理の法則が数式をもって表わされるにしても、物理学は数学に解消されるのでなく、その数式の物理的意味が問題である。記号は記号としていかに任意のものであり得るにしても、その内実の意味においては客観に制約されているのでなければ知識であり得ない。その客観からの制約を広く知識の模写的意味と称するならば、知識はつねに何等か模写的意味を含まねばならぬ。

 科学は現象を説明するのでなく記述するのみであるという説は、知識が記号であるという説に近く立っている。知識が記号であるとすれば、それは現象を説明するのでなく記述するに過ぎないということになるであろう。キルヒホフの言葉に依ると、自然科学の任務は、自然現象をできるだけ完全に、できるだけ簡単に記述することである。かような場合、認識の目的は最も経済的に思惟することにある。科学は最小限の思惟消費をもってできるだけ完全に事実を記述することを目的とする、とマッハはいっている。マッハやアヴェナリウスに依ると、概念、公式、方法、原理等は、できるだけ勢力を節約して経済的に環境に適応することを可能にするものであり、その価値は思惟経済上の価値によって決定される。思惟経済説は、有用なものが真理であり、真理の標準は有用性にあるとする実用主義(プラグマティズム)の一種である。科学が概念構成によって、また法則の発見によって、多様な現象を包括し、要約し、人間の勢力を節約させるという思惟経済上の価値をもっているということは事実である。けれども単に有用性の見地から考える場合、知識は相対的なものになってしまわねばならぬであろう。知識は有用であるから真理であるのでなく、真理であるから有用であるのである。「人間の思惟は客観的真理を正しく模写するとき、経済的である」。「認識は、客観的な、人間から独立な真埋を反映するときにのみ、生物学的に有用であり、人間の行動にとって、生命の保存にとって、種族の保存にとって有用であり得るのである」、と唯物論者も模写説の立場からいっている。

 もっとも、記号説も或る正しいものを含んでいる。知識は単なる模写でなく、何等か記号的な或いは象徴的な意味をもっている。知識は一般に言葉において表現されるが、そのことが知識にとって偶然的な、外面的なことでないとすれば、知識は本質的に何等か記号的な或いは象徴的な意味をもっているのでなければならぬ。数学の如きも物理学にとっての言葉と見られ得るであろう。思惟と言葉とは不可分のものであって、言葉に表現されない知識は知識でないということもできる。認識もまた人間の形成作用、表現作用のひとつである。知識を象徴的なものと見ることは、知識を主観的なものにしてしまうことではない、単に主観的なものは象徴的とはいわれない。象徴とは主観的なものと客観的なものとの統一であり、知識も主体と客体との関係から成立するものとしてかような性質のものであると考えられるのである。もちろん、知識が象徴的であるというのは、芸術が象徴的であるというのと同じではない。しかし一方知識においても、自然科学から歴史科学、更に哲学に至るに従って一層象徴的なものになるといい得ると共に、他方芸術においても、フィードレルの考えたようにその目的は美であるよりも真理であるともいい得るのである。象徴的なものは表現的なものである。真理と言葉(ロゴス)とが同じに考えられたように、真理とは表現的なものである。表現的なものは単に主観的なものでなく、却って超越的意味を含むものである。かように表現的なものとして真理は我々に呼び掛けるのである。知識は言葉において表現されることによって主体から離れた独立なもの、公共的なものとなり、知識も文化に属している。知識は単に我のものでも単に汝のものでもなく、公共的なものとして、客観的なものでなければならぬ。

 真理は対象と観念との一致であると考えるのは古い伝統である。これは模写説の主張であるのみでなく、カントの如きもこれを認めている。彼にとっての問題は、いかにしてそのような一致に達し得るかということであった。その場合、模写説においては、我々の認識は対象に従わねばならぬと考えられる。しかるにカントに依ると、我々の認識が対象に従うのでなく、逆に、対象が我々の認識に従うことによって、その一致は可能になるのである。これがカントのコペルニクス的転𢌞と称せられるものであって、あたかもコペルニクスによって天動説が地動説に転換されたように、それまで客観を中心としていた認識論が主観を中心とすることになったのである。模写説が客観主義であるに反して、カント主義は主観主義である。しかしそこにはまた真理概念の転換がいわば隠されて横たわっていることを指摘することができるであろう。模写説においては、真理は第一次的には存在に属し、知識の真理はこれに関係付けられることによって第二次的に真理であると考えるのが普通であり、そうすればそこに認められる原型的と模像的との関係を模写の関係と考えることもあながち不当とはいわれないであろう。しかるにカント主義においては、真埋はひとえに知識の真理と見られているのである。

 カントのコペルニクス的転𢌞の意味は誤解されてはならない。それは、真理は物と観念との一致であるという真理概念を破棄しようとするのでなく、却ってその一致はいかにして可能であるかを明かにしようとするのである。その一致は、我々の認識が対象に従わねばならぬとするときには保証されず、逆に、対象が我々の認識に従わねばならぬとするときに保証されると主張するのである。そしてカント自身がいっているところでは、この考え方は近代科学の方法に相応するものである。近代科学の最も重要な方法は実験である。学問の方法として古代においてソクラテスが概念を発見したのに対して、近世においてリオナルド・ダ・ヴィンチは実験を発見した。実験は単なる経験と異っている。経験は我々が対象から触れられることとして受動的なもの、模写的なものと見られるに反して、実験においては我々は能動的であり、構成的である。実験において自然科学者はあらかじめ一定の観念をもって臨み、自然を強要して彼の問に答えさせる。実験において経験は単に与えられたものでなく、実験者の観念によって構成されたものであり、経験は実験者の観念に従うのである。経験を構成することによって経験するというのが実験である。かような事情に相応して、カントは、主観は対象を構成することによって対象を認識すると考えたのである。我々はこれを模写説に対して構成説と呼ぶことができるであろう。

 カントに依ると、知識は感覚に与えられたもののうちに統一がもたらされるところに成立する。感覚に与えられたものは多様なものであり、知識の内容をなすものである。しかし内容だけでは統一がなく、知識とはならぬ。知識が成立するためには、内容に形式が加わらねばならず、知識はすべて内容と形式とから成っている。感覚は物そのものに触発されて生ずるものであり、物そのものに制約されている。これに反して内容を統一する形式は主観に属し、主観の綜合の形式である。認識は感覚に与えられた多様なものを主観が自己の形式によって統一するところに成立するのである。「我々が直観の多様なもののうちに綜合的統一を作り出したとき、我々は対象を認識する」、とカントはいっている。認識の対象は主観にとって与えられたものでなく、却って主観の構成するものである。例えば、この赤い鉛筆である、それは感覚に与えられたものを主観が実体或いは物(鉛筆)とその属性(赤い)という形式によって統一したものである。実体と属性というのは主観の綜合の形式であり、範疇と呼ばれている。また例えば、雨が降ったので地面が濡れたという現象の因果関係を認識する場合、我々は直観に与えられたものを原因(雨が降る)と結果(地面が濡れる)という形式によって統一したのである。因果概念も主観の統一の形式であり、範疇に属している。かようにして我々が対象において認識するものは我々が対象のうちへ移し入れたものである。我々の認識が対象と一致するのは、対象が主観の構成したものであるためである。しかるに認識は普遍妥当性をもたねばならぬ故に、主観の統一は普遍的で必然的な統一でなければならぬ。従って主観は個人的な我であり得ず、超個人的な我でなければならぬ。かような超個人的な主観をカントは意識一般と称した。認識は意識一般の綜合的統一によって生ずるのである。

 ところで意識一般というものは現実の人間の意識でなく、これに対しては単に形式的な意味をもつに過ぎぬといわれるであろう。それは心理的なものでなく、どこまでも論理的に考えらるべきものであり、かようにして意識一般とは表象の普遍的で必然的な結合の規則にほかならないと考えられる。しかしながら単に形式的なものは働くことができぬ、働くものは現実的なものでなければならぬ。現実的なものは世界のうちにあるのでなければならぬ。しかるにカントの主観は世界を構成するものであるが、世界は客観として主観に対しておかれ、従って主観そのものは世界のうちに入っていないことになる。現実の人間は世界のうちにいて、そこで働き、そこで考えるのであって、認識にしてもかくの如き人間の活動にほかならぬ。もとより人間にどこか超個人的なところがなければ知識は可能でないであろう。けれどもこの超個人性は単に形式的に理解さるべきでなく、却って現実の人間における主体的超越として現実的に理解されねばならぬ。人間が超越的であるというのは、世界の外にあるということではない、それは却って現実の世界が単に客観としての世界とは考えられないということを意味している。カントの考えた世界は客観としての世界に過ぎなかった。そのことは彼の問題としたのが主として自然科学的世界であって、歴史的・社会的実在でなかったということにも関係しているであろう。模写説に対する構成説の特色は、主観の能動性を強調するところにある。主観は対象を構成することによって対象を認識すると主張されるのである。その主観の能動性の強調は、近代科学の根柢には自然に対する支配の意志があるといわれることとも繋っているであろう。そこでは自然は単に見られるものでなく、これに働きかけ、これを変化すべきものであった。

 いずれにしても認識に構成的なところがあるのは確かである。科学の方法である実験がまさにそのことを示している。しかしながら知識は単に主観的なものでなく、客観的なものとして、客観に制約されている。そこに直観の問題があるのであって、カントも知識の内容は直観から与えられると考えた。感覚は主観が物そのものから触発されて生じ、思惟が自発的であるに反して、直観は受容的である。認識の形式は主観に属するが、その内容においては客観に制約されるのである。「認識の形式は内容的客観的真理を認識のために形作るに決して十分でない」、とカントはいっている。かようにして知識が客観に制約される限り、知識には模写的意味がなければならぬ。カントが直観の形式(空間と時間)と思惟の形式即ち範疇とを区別したのもそのためである、と解釈することができる。彼の認識論において感覚の根源として物そのもの、いわゆる物自体が残されているのも偶然ではないであろう。もっとも、主観の能動性を絶対的に考える主観主義の立場にとっては、主観から独立に物自体の存在を許すことは不徹底であるといわねばならぬであろう。そこでフィヒテは、感覚は自我がその抵抗としてみずから定立するものと考えた。自我は本質的に実践的であり、実践は抵抗に打克ってゆくことであり、抵抗なくして自我は実践的であり得ない故に、自我は自己に対する抵抗として感覚を定立するというのである。また思惟の能動性のうちに論理主義の徹底を求めようとする新カント派のコーヘンは、思惟に与えられたものは課題として与えられたものであり、感覚も思惟の原理に従わねばならぬと考えた。しかしながらかようにして主観の能動性は徹底されるにしても、主観が万能となることによって存在は却って観念になってしまわねばならぬであろう。フィヒテの立場は人間を無限なものとし、神の立場におくことである。これに反し、カントが感性を受容的なものと考えたのは、人間の有限性を認めたことであるといえるであろう。人間が無限なものであるならば、我々の思惟はカントのいわゆる直観的悟性もしくは知的直観であることができ、認識の形式と共に内容をもみずから生産することができるであろう。フィヒテはかような立場に立った。しかるにカントに依ると、我々の悟性は原型的知性でなくて模像的知性であり、その内容をみずから生産することができぬ。カントが感性を受容的なものと考えたのは、認識に模写的意味を認めたことであるといえるが、一般に模写説は人間の有限性の理解の上に立っている。人間が有限なものであるとすれば、存在と知識との関係は模写的であると考えられるであろう。もとより人間は単に有限なものではない。人間が真理を認識し得るというのは単に有限なものではないからである。真理はむしろ人間をその有限性から解放するものである。人間は有限であると同時に無限である。

 すでにいったように、知識の客観性は、形式主義者の考える如く単に表象の普遍妥当的な結合を意味するに止まらないで、知識が客観に関係付けられていることを意味している。そこには客観の超越がなければならぬ。しかるに物が客観として超越的であるということは同時に我々が主体として超越的であるということである。超越性を離れて客観性はなく、また超越性を離れて主観性はない。客体の超越と主体の超越という二重の超越によって認識は可能になるのであり、それは同時に行為の可能になる条件である。意識の外に物があると考えるのは素樸な見方であるというのは、存在するとは意識に与えられることであると考える観念論の偏見に過ぎず、かような偏見は物と我々との関係を主として知識の立場から見てゆくことに関係している。行為の立場において主体といわれるのは単なる意識でなく、身体を具えた自己である。我々自身、いかに特殊なものであるにしても、世界における存在の一つにほかならない。意識の外に存在を認めるか否かが唯物論と観念論とを区別する基準であるとエンゲルスはいったが、かくの如く考える場合、唯物論は観念論と同じように知識の抽象的な立場に立っているのであって、自称する如く実践の立場に立っているとはいわれないであろう。行為の立場においては物は単に意識の外にあるのでなく、却って身体の外にあるのでなければならぬ。認識も世界における存在と存在との関係である。我々と物との基本的な関係は行為の関係であって、認識の問題も行為の立場から捉えられねばならぬ。

 認識は一方主観から規定されると共に他方客観から規定されている。それが主観から規定される限りにおいて認識は構成的であり、それが客観から規定される限りにおいて認識は模写的であるということができる。認識は模写的であると同時に構成的であり、模写と構成との統一である。かように対立するものの統一として認識は形成であるといわれるであろう。行為の立場において見るとき、認識もまたひとつの形成作用である。ここに形成説と名付けようと欲するものは、構成説と模写説との統一であり、主観主義と客観主義との統一である。それが何を意味するかが、次に確かめられねばならぬ。


経験的と先験的


 すべての知識が経験に始まるということは明かである。そこで我々は経験の問題に戻って考えてみよう。知識はすべて経験から来るという説は経験論と呼ばれている。ところで前に述べた如く、経験論の哲学は経験を主観的なもの、心理的なものにしてしまった。経験は主体に関係付けられて経験といわれるのであるが、その主体が心或いは意識と考えられたのである。経験するとは意識に与えられるということであった。しかし経験論の哲学はもと、経験を重んずる近代科学の影響のもとに興ったのであって、経験において客観的なもの、実証的なものを見るのでなければならぬ。かようにしてそこでは感覚とか印象とかが重んぜられるのがつねである。経験論に対する合理論においてはこれに反し知識の源泉が理性に求められる。経験論者ロックに依ると、我々の心は白紙の如きものであり、一切の観念は経験から来るのであって、我々の知識はただそのような観念に関係し得るのみである。肯定判断においては一致せるものとして、否定判断においては一致せざるものとして、相互に関係させられるものは、ただ我々の観念であり得るのみである。その一致もしくは不一致の把捉が知識であるが、この把捉は判断であり、すべての判断は言葉において命題として表わされる。かような命題の真理については、その言葉がそこに思念された観念相互の間にあるのと同じ肯定的もしくは否定的関係にあるとき、真であるということができる。しかしそれは名目的真理に過ぎず、その判断の実質的な真理性は何処にあるかと問われるであろう。この問に対しては、我々の観念と我々の心の外に存在する物とが、言葉と観念との間にあるのと同じ関係におかれ、観念の結合は、観念によって現わされた物の結合と一致しているとき、真であると答えられるであろう。ロックは観念は「物の記号或いは代表」と考えた。このいわゆる代表説は心の外に物の存在を前提する模写説の一変形である。しかしながら、もしも観念が心に直接に現われる唯一の対象であるとしたならば、いかにして我々は我々の観念とその原物とを比較し、かくして我々の観念と物の実際との一致を確かめ得るであろうか。「心は知覚以外の何物をも自己に現前するものとして有せず、そして恐らくはそれと物との結び付きの何等の経験にも達し得ない」、とヒュームはいっている。実際、もしも物があるということが経験されることであり、経験されるということが意識に与えられることであるとすれば、存在は観念のほかの何物でもないということになるであろう。バークリの有名な言葉に依ると、「存在するとは知覚されることである」。桜の実はその色、香、味、等の表象複合に過ぎず、その存在は知覚されるということと同じである。「実に物と感覚とは同一のものである」、とさえバークリはいっている。しかるに知覚するのは私の心であるとすれば、この観念論即ち存在を観念と見る立場は、ひとり我のみが存在し、他のものはすべて我の観念に過ぎぬという独我論に終らねばならぬ。バークリがなお自我という心的実体を認めたのに対して、ヒュームは、一歩を進め、バークリが桜の実についていったことは自我についてもいわれ得ると考えた。我々の内的知覚も自我の実体について教えるものでなく、ただその活動、状態、属性を示すのみであり、これらのものをすべて取り去るならば、そこには自我について何物も残らない、自我もまた「観念の束」に過ぎぬ。しかるにかようにして一切が観念であるか観念の複合であるとすれば、この純粋な内在論にとって知識の客観性の基準はないということになるであろう。

 経験論は知識の普遍性と必然性を基礎付けることができない。知識が経験からのみ来るものとすれば、それは単に蓋然的なものになってしまう。我々は太陽が東から出て西に没することを経験的に知っている。それは従来の経験においてはいつもそうであったにしても、明日も必ずその通りであるとは経験の立場からはいい得ないのであって、ただ我々は明日もそうであろうと習慣的に信じているだけである。このようにヒュームは物の因果関係の知識も習慣に基く信仰に過ぎぬと論じた。我々が経験するのは甲の後に乙が起ったということである。それだけでは甲が乙の原因であって、甲によって必ず乙が起るということはできない。しかるにその場合甲によって乙が起ると我々が考えるのは、甲の後に乙が起ることを我々が繰返して経験するところから、習慣によって甲の後には必ず乙を表象し期待するように内的に強要されているためである。一つの表象が他の表象をび起すこの心理的必然性が実在的必然性として把捉されたものが因果の観念である。もしそうであるとすれば、物の因果関係についての我々の知識は主観的なもの、蓋然的なものになってしまう。かようにして普遍的な必然的な知識はないということになり、経験論はヒュームにおいて懐疑論に陥ったのである。

 カントにとってもその認識論の根本問題は経験であった。彼はヒュームによって独断の眠から醒まされたと告白している。彼もすべての認識が経験と共に始まること、またそれが経験の制約のもとに立たねばならぬことを認めた。しかるに、「我々のすべての認識は経験と共に始まるにしても、だからといってそれはすべて経験から生ずるのではない」、とカントはいっている。もしすべての知識が経験から来るものとすれば、普遍的な必然的な知識の存しないことは、経験論が教える通りである。知識の普遍妥当性の根拠には何か経験から生ずるといわれないものがあるのでなければならぬ。このものは、経験から生ずるものがア・ポステリオリ(後天的、経験的)といわれるに対して、ア・プリオリ(先天的、先験的)と称せられる。カントに依ると、知識の内容は経験的なものであるが、その形式は先験的なものである。知識の形式は主観に具わるものである。しかし合理論において考えられる如く、思惟はそれ自身によって知識を生ずるのでなく、経験に関係付けられなければならない。たとい思惟は経験の範囲を越えてそれ自身の認識を自由に拡張し得るにしても、かような知識は真の知識でなく、知識は経験の制約のもとに、従って感覚の制約のもとに立たねばならぬ。カントが先験的というのは経験を超絶したものでなく、却って経験を基礎付けるもの、言い換えると、普遍的な必然的な経験を可能にするものである。すでに述べた如く、カントに依ると、我々は対象を構成することによって対象を認識する。経験の対象は、直観に与えられた多様なものを主観がその先験的形式によって統一するところに生じたものである。因果の範疇の如きもかような先験的形式に属する故に、我々の経験における因果の認識は普遍性と必然性をもつことができる。我々は経験を因果の範疇で構成することによって経験における因果関係を認識するのである。「我々の経験のうちにはその先験的起原をもたねばならぬ認識が混合している」、とカントはいっている。経験は単に経験的なものでなく、却って経験的なものと先験的なものとの綜合である。かようにしてカントの立場は経験論と合理論とを綜合するものと見られるであろう。彼の立場は批判論と呼ばれているが、批判というのは、事実の問題と権利の問題を区別し、いかにして普遍妥当的な知識は可能であるかを明かにすることである。カントは知識の普遍妥当性の根拠を主として知識の形式の先験性に求めたのであって、その批判論は先験主義であり、従ってまた合理的色彩が強いといわれるであろう。知識の先験的形式はそれによって直観に与えられた内容を統一する主観の形式である故に、彼の批判論はまた主観主義である。カントの主観はもとより個人的な経験的自我でなく、超個人的な先験的自我であり、その根本的な作用は先験的統覚と呼ばれている。あらゆる表象は我の意識に属する以上、「我考う」ということに伴われ得るのでなければならぬ。我考うということがあらゆる我の表象に伴うというのは我が自覚的であるということである。その自覚は我は我であるという分析的統一でなく、与えられた多様な内容に即して成立する綜合的統一である。直観の多様はこの先験的統覚のもとに範疇によって統一され、我にとって対象として現われる。「意識の綜合的統一は、従って、あらゆる認識の客観的制約である。しかもそれは単に客観を認識するために、私自身が必要とするばかりでなく、あらゆる直観が私に対して客観となるために、そのもとに立たねばならぬ制約なのである」。先験的統覚は客観が客観として私に対して現われる条件である。言い換えると、自我は客観をその存在に関して可能ならしめるのでなく、その客観性に関して可能ならしめるのである、自我は存在を産出するのでなく、その対象性を成立させるのである。かようにして客観がその客観性において顕わになるには主体の一定の条件が、まさにその先験性或いは超越性が必要であることを明かにしたのは、カントの功績といわねばならぬ。ただ彼の自我はすべての人に共通なものと考えられた抽象的な形式的な自我にとどまっている。

 カントの批判論は経験論の懐疑論的帰結を克服しようとするものであるが、なお経験論と同じ前提に立っていると見られるところがある。彼においても、経験論においてと同様、経験は何よりも知識の問題として知識の立場から捉えられた。そこで彼においても認識の主体は意識と考えられ、経験に与えられるとは意識に与えられることであった。カントにおける不可知論といわれるものも、これに関聯している。即ち彼に依ると、意識に与えられるものは、先ず空間と時間という直観の形式に入るものでなければならぬが、かようなものは現象であって、現象の背後にある本体というべき物そのもの、いわゆる物自体は空間と時間の形式を脱している。我々の認識は経験の制約のもとに立たねばならぬ故に、物自体は認識にとって限界をなし、我々はそれを知ることができないと考えられるのである。なるほど我々が物の本体を知っているかどうかは、単なる知識の立場においては決定し難いことであるかも知れない、けれど行為の立場においては明瞭である。我々のもっている知識に従って我々が物を変化し物を作ることができるならば、我々は物そのものを知っているのでなければならぬ。そこで実践が真理の基準である。「総体の、生ける、人間的実践が認識論の中へ押し入り、真理の客観的基準を提供する」、といわれている。知識は実践においてその真理性を証するのである。自然に対する人間の働きかけの範囲が広ければ広いほど、自然に関する人間の知識も一層広く、一層正しくあることができる。「単なる自然としての自然でなく、人間による自然の変化こそ、人間の思惟の最も本質的な、最も重要な基礎である」。マルクスは、感性も単に直観としてでなく、実践的な人間的感性的活動として捉えられねばならぬと書いている。もっとも、真理の基準を単に実践に求めることは、知識の内在的な基準を否定し、その自律性を否定することになるであろう。知識はそれ自身の基準をもっており、行為と対立している。しかし両者はまた統一をなしている。経験というものがまさにそのことを示している。経験論の偏見を離れてみると、経験は単に知識の事柄でなくて行為の事柄である。経験するとは働くことによって知ること、知ることによって働くことである。近代科学における実証的精神というものの本質もそこにあるのであって、その実験的方法は経験の自覚であるということができる。

 さきに述べた如く、カントは自己の哲学的方法を自然科学における実験的方法に比較した。彼が経験のうちに先験的要素を認めたのも、それに関聯して考えることができる。実験において我々はただ偶然に経験するのでなく、方法的に、組織的に、計画的に経験するのである。その場合我々は一定の観念をもって臨み、この観念に従って現象を意識的に作り出すことによって、現象を観察する。即ち実験は単に経験的でなくて先験的な要素を含むといわれるであろう。先験的とは経験から超絶して経験と無関係なもののことでなく、却ってそれによって経験が可能になるものである。「だからこの自然研究者を真似た方法は、純粋理性の諸要素を実験によって証明されもしくは反駁され得るもののうちに求めるところにある」、とカントは書いている。理性の先験的な要素は実験によって証明されもしくは反駁され得るもの、即ち経験のうちに含まれているのである。経験は単に経験的なものでなく、同時に先験的なものである。単に経験的であることは真に経験的であることでなく、単に実証的であることは真に実証的であることではない。しかるに実験は操作であり、認識の主体もすでに行為的であるといわねばならぬ。実証的知識は一定の操作によって獲得されるものであり、概念はその獲得のうちに含まれる操作と当値であって、操作的概念と称せられる。例えば一メートルという長さの概念は、この長さの測定を離れてなく、その測定と同義である。ブリッヂマンは物理的概念は操作的概念であるといっている。操作は客観的に知ることを目的としているが、操作はまた主観的に制約されている。知識は主観的・客観的なものである。それが操作的に得られるというのは技術的に得られるということである。認識も形成作用の一種である。概念は操作的概念として形成されたものである。実験に依るといわれない認識においても、認識の対象は認識の方法に制約され、逆に認識の方法は認識の対象に制約され、方法と対象という対立物の統一として認識は形成される。先験的と経験的、合理的と実証的、構成的と模写的、主観的と客観的というように対立したものは認識において形成作用的に、弁証法的に統一されるのである。カントの先験的方法は実験的方法を真似たものであるにしても、認識の静的な分析にとどまって、その現実的な歴史的な過程を明かにするものではない。

 カントの批判論は、経験を主として知識の問題として捉えることにおいてのみでなく、直観に与えられたものをばらばらのものと考えることにおいて、経験論に類似している。ヒュームは観念を原子の如く分離した個々非連続的なものと見て、かような要素の機械的な法則による結合から複雑な心理現象を考えた。同様の前提がカントにも附き纏っている。彼においても、直接に与えられたものは「直観の多様なもの」、「現象の雑沓」である。もしそうであれば、我々の知識の関心する普遍的なもの、統一的なものは、我々に与えられたものそのもののうちにはなく、我々自身がそれに与えたものと考えられねばならない。「我々は物についてただ我々自身がその中へ入れるもののみを先験的に認識する」、とカントはいっている。統一的なもの、普遍的なものはすべて主観の側に帰せられることになる。カントの批判論が構成説であり、主観主義であり、先験主義である理由がそこにある。もちろん、主観の形式である範疇も対象に適用され得るものとして範疇であるから、その限りカントの範疇も主観的・客観的なものといわれ得るにしても、そのものとしてはどこまでも主観に属している。これは直観に与えられたものを単に多様なものと見る立場においては必然的なことである。しかるにジェームズはヒュームの原子論的見方に対して、単に要素のみでなく、要素間の関係そのものもまた経験されるといい、その立場を「根本的経験論」と名付けた。分離と共に結合が、非連続と共に連続が経験される。表象というものも一において多を表現することである。直観において我々に与えられたものは「盲目的」なものでなく、それ自身すでに表現的なものであり、意味をもったものである。意味というのは単に主観的なものでなく、客観的なもの超越的なものである。我々の認識作用は全く無意味なものに対して始まるのでなく、表現的なものに対して始まるのである。あたかも画家があらゆる任意の対象を画くのでなく却って芸術的意味を表現するものとして彼に呼び掛けるものを画くように、物理学者もあらゆる任意の対象を研究するのでなく却って物理的意味を表現するものとして彼に呼び掛けるものを研究する。ラッセルがいった如く、物理的認識において「有意味の事実」というものは重要な関係をもち、何が有意味の事実と考えられるかは歴史的に変化している。それは一定の物理法則に関して表現的な事実をいい、物理学者は主としてかような事実について研究するのである。表現的なものの呼び掛けに応えて起る主体の活動が一般に表現作用であり、芸術的活動のみでなく、我々のすべての行為は表現的であり、認識も表現作用の一つにほかならない。我々の行為は単に自己から起るのでなく、世界からび起されるのである。理性はただ主観のうちにあるのでなく、却って物のうちにあるのであり、客観的表現的なものが理性である。真に自己自身に内在的なものは超越的なものによって媒介されたものである。ロゴスは理性を意味すると共に、言葉を、客観的表現的なものを意味する。科学も元来環境において生活する人間の行為として起ったものであり、環境としての自然は単なる客観としての自然でなく、表現的な世界である。我々は表現的世界のうちにあり、我々の行為はこの世界から喚び起される、認識作用もまたかくの如きものである。表現作用は表現的なものに対して起る。認識が表現であるということは模写であるということでなく、構成であるということでもない。表現作用は形成作用であり、主観的・客観的な作用である、それは模写的であると同時に構成的であり、構成的であると同時に模写的である。認識を形成と考えることは、それを単に主観的なものと考えることではない。却って客観は操作的な主体に媒介されることによって自己の本質を顕わにし、真の客観性において示されるのである。すべての技術は物をしてその本質を発揮させる、認識も形成としてかようなものである。認識が主観的・客観的な形成作用であるということは、認識が発見或いは発明であることを意味している。主観的と客観的との統一はその際生産的である。真理は単にあるものでなく、歴史的に発見或いは発明されるものである。論理の如きものも歴史的に発展してきたのである。我々が機械を創造するように、我々は真理を発明するともいい得るであろう。かようにして認識が形成であるということはそれがもと表現的な歴史的な世界におけるものであることを意味している。


関係


 現象を説明するにあたって先ず二つの方向がある。一は物概念による説明であり、他は関係概念による説明である。物概念と関係概念とは思惟の方法或いは思惟の理念における二つの根本的な方向を現わしている。そして古代的思惟から近代的思惟への推移は、物概念から関係概念への推移であるということができる。

 物とは何であるか。物は一定の性質、一定の量を有し、また一定の関係に立っている。性質や量、関係等は物そのものでなく、物に附帯してあるものである。物とはそれら性質、量、関係等の基底に横たわるものである。かようにその基底に横たわるものは哲学上の言葉で実体といわれる。物概念は実体概念である。実体は性質等が変化してもつねに同一にとどまると考えられるものである。アリストテレスに依ると、実体とは「第一次的な存在」である。性質とか量とかの範疇で現わされるものはそれ自身において独立に存在するものでなく、実体に附帯して存在するに過ぎぬ。性質とか量とかは実体があって初めてそれについて語られるのであって、実体は性質、量、状態、関係等よりも本性上より先なるもの、第一のものである。実体概念によって考えるというのは、このように第一次的な存在が何であるかを明かにすることであり、実体とこれに附帯するものという秩序において考えることである。かような考え方は我々の自然的な考え方、日常的な世界像に一致している。そして認識論上の模写説がまたかような自然的な考え方に一致しているのである。認識が模写であるというのは、どのようなものの模写でもが認識であるということでなく、物の実体的本質の模写が認識であるということでなければならぬ。例えばプラトンに依ると、真の知識はただ真の存在(彼のいうイデア)についてのみ成立し得るのであって、これに反し存在と非存在との混合である現象の世界については単に意見があり得るのみである。

 ギリシアにおいて形成されたいわゆる形式論理において、概念とはかような物の本質、実体を現わすものである。概念は我々の感覚に与えられた個々の特殊的なものから、それらに共通に属するものを取り出すことによって作られる。その場合思惟の機能は感覚の多様なものに対して、主として、比較すること、区別することである。特殊的な対象の間を往来する反省は抽象作用に導き、これによって特殊的な対象における類似の要素は他のすべての類似ならぬ要素の夾雑物から解き離されて純粋にそれだけとして抽出される。概念は感覚的実在に対して無関係なものでなく、この実在そのものの一つの部分をなしている。それは感覚的実在のうちに直接に含まれているものが抽出されたにほかならぬ。かようにしてこの概念構成によっては我々の自然的な世界像の統一は何処においても妨げられることなく、危くされることがない、その点に形式論理における概念構成の固有の長所があるといえるであろう。

 近代のいわゆる認識論が実体概念の批評をもって始まったということは特徴的である。ヒュームはそれを次の如く批評した。物というものを分析すると、種々の観念に分解されてしまう。そこには色の観念とか大いさの観念とか堅さの観念とかがある。それらの観念とは別に物というべきものはない。従ってヒュームに依ると、物とは観念の束に過ぎぬ。しかるになお物というものがあるかのように考えるのは、或る一定の観念が繰返し結合して経験されるところから、習慣によって我々はそこに物というものがあるかのように信じているのである。もしこのように物が観念結合の習慣に過ぎないとすれば、その知識は普遍性も必然性ももたないことになるであろう。実体は観念の結合であるにしても、その結合は普遍的で必然的なものでなければならぬ。しかるに経験論は観念結合の普遍妥当性を明かにすることができない。そこでカントは実体を一つの範疇、言い換えると思惟の先験的形式と考えたのである。物とは直観に与えられた多様なものが実体と属性という範疇によって構成されたものにほかならず、我々は物を構成することによって物を認識するのである。カントのいわゆる先験論理は経験構成の論理である。それは経験の対象を可能ならしめると共に対象の認識を可能ならしめる論理であった。

 ところで既にいった如く、カントの構成主義の認識論は近代の自然科学的思惟に影響され、これに相応している。アリストテレスにおいては、実体が先のものであり、関係は性質、量、状態等と共に実体に附帯するものとして従属的な地位にある。関係は本来の本質概念に対して依存的なものにとどまっている。概念構成についてのアリストテレスの説における指導的な見地は、属性に対する実体の優位の関係のうちに存している。しかるに自然科学的思惟においては実体概念に代って関係概念が指導的な地位を占むるに至った。実体概念と関係概念との間に想定される価値関係の相違に従って、アリストテレス的論理とカント的論理との二つの典型的な形態が区別される。自然科学的見方においては物は関係から構成されるのであり、諸関係の網のいわば結び目である。

 近代自然科学に特徴的な認識論はカント主義者であったヘルムホルツの記号説において見ることができる。知識は記号であるというとき、記号は物的な類似でなくてただ双方の側の構造の函数的対応を要求するのである。記号のうちに捉えられるものは記号された物の特殊な固有性でなく、それが他の類似のものに対して立っている客観的な関係である。我々は我々の表象によって現実そのものをその孤立した自体において存在する性質において認識するのでなく、現実がそのもとに立ちそれに従って変化するところの規則を認識するのである。我々が一義的に見出し得るのは現象における法則であり、この法則は函数概念において現わされる。関係概念によって考えることは函数概念によって考えることである。法則性は我々にとって現象が理解され得るものになる条件であり、法則性は我々が物そのものに移し得る唯一の属性である。かようにしてカントのいった如く、自然とは「現象の、その現存在に従っての、必然的な規則即ち法則に従っての聯関」にほかならず、言い換えると、空間と時間とにおける現象の規則性である。物は諸関係に分解され、諸関係、諸法則から認識されるのである。ここに物概念或いは実体概念に対する関係概念或いは函数概念の優位が成立する。そこで精神についても、従来の心的実体を考えた心理学に対していわゆる「心のない心理学」が唱えられ、また物理学においても「物質は消滅した」とさえいわれるようになった。しかしながら自然科学からあらゆる物的要素を排除し得るかの如く考えることは間違っている。関係概念的見方は、我々はただ存在要素の間の関係をのみ思惟的に把握し得るという意味でなく、我々はただ関係の範疇を通じてのみ物の範疇に達し得るという意味である。

 しかるに現代に至って、自然科学的認識に対する歴史的認識の特殊性が注目され、両者における概念構成の相違が主張されるようになった。自然科学の認識目的が法則であるに反し、歴史学の認識目的は法則でなくて個性であるといわれる。ヴィンデルバントは自然科学と歴史学との区別を論じて、自然科学が法則定立的であるに反し、歴史学は個性記述的であると述べている。個性というのは個人のことばかりでなく、社会にしても文化にしても個性をもっている。すべて歴史的なものは個性的である。自然科学においては個々の特殊的なものは一般法則の例としてそのもとに包摂される。しかるに個性は一般法則の例に過ぎぬようなものでなく、それぞれ他に換えることのできぬ独自性を具えている。また自然現象は繰返すと考えられるに反し、歴史的なものは一回的なものである。更に自然科学が対象を意味とか価値とかから離れて取扱うに反して、歴史的なものはすべて意味とか価値とかに関係して考えられる。生理学の対象としては仮に天才と狂人とは同じであるとしても、文化価値に関係させて見れば全く違い、天才は芸術的価値というが如き文化価値の見地から歴史学の対象となるが、狂人はそうでない。かような個性は法則に対して何かといえば、形であると一般に答えることができる。すべて歴史的なものは形をもっている。ここに形というのは単なる形式のことでなく、内容を内から生かしているもの、内容そのものの内面的統一をいうのである。しかし形は、もとより単に内的なものでなく、外に現われたもの、表現的なものである。表現的なものとは内と外とが一つのものである。それは意味をもったものであるといっても、その意味は単に内的なものでなく、物の形において現われたものでなければならぬ。形はそれぞれ特殊的なものである。けれどもそれは単に特殊的なものでなく、一般的なものと特殊的なものとの統一である。個性といっても単に特殊的なものでなく、特殊的であると共に一般的なものであり、その統一は具体的には形において与えられている。歴史学の認識しようとするのは個性でなく、型(タイプ)であるともいわれている。型は或る一般的なものである。けれどもそれは形式論理における類概念の一般性とは異っている、型はむしろそれぞれ個性的なものである。型というのは歴史的な形にほかならない。或いは歴史科学は単に個性を捉えようとするのでなく、却って法則、例えば、歴史の発展段階の法則の如きものを求めるのであると主張されている。しかしかような法則も、歴史の法則として、形の変化に関わっている。古代社会には古代社会の、封建社会には封建社会の、近代社会には近代社会の、形がある。歴史とは形の変化にほかならない。歴史的範疇というものも法則でなくて形である。普通に歴史と考えられるのは人間の歴史であって、自然は人間の歴史の舞台であるといわれているが、自然は人間の歴史的行為にとって環境である。歴史的なものはすべて環境においてある。環境としての自然は自然科学において考えられるような客観としての自然でなく、それ自身すでに歴史的なものであり、表現的なものである。我々は環境から作られ逆に我々が環境を作ってゆく。人間は環境を変化することによって自己を変化する、環境を形成してゆくことによって自己を形成してゆく。形は主体と環境との作用的聯関から作られてくるものであり、従って変化するもの、歴史的なものである。環境における人間の行為はすべて技術的であり、形は技術的に作られてくるもの、技術的な形である。ここに環境というのは、単に自然のことでなく、社会や文化も我々にとつて環境である。

 形は一方或る実体的なものである。形は単なる形式ではなく、内容を内から生かすものであってしかもどこまでも外のものである。形は物をその固有性において現わすのである。しかしながら形は他方或る関係的なもの、函数的なもの、機能的なものである。形は主体と環境との作用的聯関から作られてくるものとして技術的な意味をもち、機能を組織したもの、機能を表現するものである。形は働くものでなければならぬ。形は時間的に変化してゆくものであるが、単に時間的なものは形とはならず、形はまた空間的に固定したものである。それは時間的であると同時に空間的であり、生成と存在との統一である。かようなものとしてそれは歴史的なものである。一言でいうと、形は実体的であると共に関係的であり、形概念は実体概念と関係概念との統一である。

 歴史的なものの認識は形の認識であるとすれば、認識が形成であることはこの場合特に明瞭であろう。形成という言葉はもと形に関係している。歴史は記述であるといわれるのも、形は究極において記述されるのほかないためである。自然科学のうちにおいても生命を取扱う生物学の如きが純粋な説明科学とならないで記述的であるのも、すべて生命あるものは形の統一をもっているのに依るであろう。説明と記述との相違は根本において関係概念と形概念との相違であるということもできる。形は全体性であり、創造的綜合として形成されるのである。形は環境と主体との作用的聯関から作られてくるのであって、環境的に限定されると共に主体的に限定され、一般的なものと特殊的なものとの統一である。従ってそれを分析的に見て、一般的限定の方向において捉えるならば、歴史的なものも説明されることができる。歴史学が単に記述的でなく説明的であろうとするのは当然である。しかし歴史的なものは、それをどこまでも一般的なものから説明してゆけばもはや歴史的なものでなくならねばならぬ。そのとき主体はただ環境から規定されたものとなり、主体の意味を失ってしまう。主体にはどこまでも自己が自己を限定するという自律的なところがなければならぬ。歴史的なものの支点はつねに形である。形は単に客観的に捉えられ得るものでなく、却って形は主観的なものと客観的なものとの統一である。歴史的認識は純粋に客観的であることができず、主体的認識でなければならぬ。歴史は内から主体的に認識される、従ってそこでは知性のみでなく情意の協同が必要である。型といっても形式論理における類概念の如きものでなく、類概念が客観的に構成されるものであるに反して、型は主体的に形成されるものである。自然科学の方法が説明であるに対して歴史学の方法が理解であるといわれるのも、同じ関係においてである。歴史的なものは表現的なものであり、表現的なものにおいては主観的なものと客観的なものとが、内部と外部とが一つである。それを認識する方法が理解であり、理解の方法の学問的に組織されたものが解釈学と称せられている。解釈は、外から内を理解することであると共に内から外を理解することであり、一般的なものから特殊的なものを理解することであると共に特殊的なものから一般的なものを理解することである。ディルタイが解釈学におけるアポリア(難問)といったかような関係は、単なる循環でなく、理解というものが弁証法的に対立するものの間における形成作用でなければならぬことを示している。理解そのものがひとつの形成的創造である。歴史的認識は主観的・客観的な作用として形成作用でなければならぬ。歴史は記述であるといっても、単なる模写でなく、構成的なところを含んでいる。もっとも理解とか記述とかということは多くの場合観想の立場に止まっている。しかるに歴史はもと行為の立場から把握さるべきものである。歴史のうちに一般的なもの、法則的なものを求めるということも、行為の立場において要求されることである。自然を変化するには自然の法則を知らねばならぬように、社会を形成してゆくにも法則の認識が必要である。歴史の認識は形の認識であるといっても、歴史学、或いは文化科学、或いは精神科学、或いは社会科学と呼ばれるものが、一般的なもの、法則的なものを認識しようとすること、理論的であろうとすることを否定するのでなく、むしろ反対である。そこにも理論がなければならぬ。社会科学において歴史と理論とは区別されている。しかも歴史的な形は一般的なものと特殊的なものとの統一であるとすれば、歴史の認識が芸術とは違って科学的概念的である限り、歴史的な概念構成にとっても、一般的なもの、理論的なものは欠くことのできぬ基礎である。社会科学は歴史・理論・政策の三部から成るといわれるが、政策は特に明瞭に行為の立場を現わしている。政策においては一般的なものと特殊的なものとの統一が求められ、この統一は究極は形において与えられる。歴史・理論・政策は形概念において統一され、形から出て形に還ると考えることができるであろう。現実の行為にとっては形の構想が必要である。理論をそのまま行おうとするのは抽象的な公式主義であり、真の実践家は理論の一般性と現実の特殊性とを形において構想的に統一するものでなければならぬ。歴史記述において古くから型的な人間、型的な文化が絶えず目標とされたということも、多くの場合実践的な関心に基いている。ひとは過去の歴史のうちに現在の行為のための型を求めた、型は行為の模範的な形と考えられたのである。

 形というものは、従来の哲学においては殆どつねに観想の立場から見られた。それが特に芸術に関係して理解されたのも、そのためである。しかし形に対する我々の関心は芸術的な関心に限られないであろう。天才とか英雄とか指導者とかと呼ばれる典型的人物、そのほか一般に歴史における典型的事実に対して人々がつねに深い興味を懐くということは、行為の形に対する彼等の実践的な関心を示すものである。形概念の見方は芸術主義と混同されてはならぬ。それはむしろ芸術をも、従来の哲学においての如く単に鑑賞或いは享受の立場から見るのでなく、形成作用の一つとして、広く行為の立場から捉えることを要求するのである。次にこれと関聯して、形概念の見方は単なる直観主義であるのではない。芸術の如きにしても単なる直観からは作られないであろう。芸術もまた技術である。すべて物を作るには知識が必要である。行為的直観は概念的知識に媒介されたものでなければならぬ。単に見るのでなく作るという立場に立つならば、一般的なもの、法則的なものの認識は形成作用にとって欠くことのできぬものである。結果は直接的なものであるとヘーゲルはいったが、直接的なものは媒介を経て出てきた結果である。

 かようにして形概念は何よりも技術に定位をとるのである。技術にとっては先ず客観的な法則の認識が要求されている。科学は技術の基礎である。自然の法則に反して人間は何物も作ることができぬ。しかし自然の法則はつねに働いているにしても、この机、この椅子の如きものは森の中から出てきはしないであろう。技術があるためには自然の法則に人間の目的が加わらねばならず、技術はこの主観的なものと客観的なものとの統一を求めるのである。しかし主観的なものと客観的なものとの統一がただ頭の中で考えられるだけでは技術とはいわれず、技術はこの統一を行為的に実現するのである。技術は物を変化し、物を作る、技術は生産的である。技術によって作られたものはすべて形を有し、形は主観的なものと客観的なものとの統一を現わしている。あたかもそのように、あらゆる歴史的なものは主観的・客観的なものであり、形のあるものである。それは技術的に形成されたものである。文化も技術的に作られ、社会の制度や組織の如きも技術的に作られる。すべて歴史的なものは技術的に形成されたものとして、環境的に限定されると共に主体的に限定され、主観的であると同時に客観的なもの、一般的であると同時に特殊的なものである。歴史的認識は究極において形を目的とするところから、すぐれた意味において形成作用であるといい得るが、飽くまでも客観的であることを期する自然科学的認識でさえもが、右に述べたように主観的・客観的な形成作用と見られ得るというのは、元来それをも歴史的なものとして捉えるからでなければならぬ。自然も環境の意味においては単なる客観としての自然でなく、すでに歴史的なもの、表現的なものであり、自然の認識も、それを環境として生活する歴史的人間の行為として始まるのである。自然科学における主観も操作的であり、行為に媒介されるのでなければ、その求める客観性に達することもできない。また自然科学における法則も個々の事実から発見されるのであって、特殊的なものに媒介されるのでなければ、その求める一般性に達することもできぬ。しかし自然科学が客観的な一般的な法則を求めてゆくに対して、それを基礎とする技術に至って再び現実的に形に結び付くのである。技術によって生産されたものは主体から独立なものとなり、我々の生活にとって新しい環境となるのである。

 ところで右の論述によっておのずから明かになったことは、存在論、認識論、論理学の統一である。アリストテレス的論理は形式論理といわれているが、それはもと単に形式的であったのでなく、形相を実在と見るギリシア的存在論と密接に結び付き、そしてそれは認識論においては模写説的立場に立っている。形相とは物の形をいい、イデアとかエイドスとかという言葉で表わされた。個々の人間は生れては死ぬる、けれども人間の形相は一にして同一であり、つねに変ることなく、すべての人間は人間である限りこれを具えている。形は物の本質、真の存在と考えられた。かようなものについては形式論理における矛盾律ないし自同律は単に形式的でない実質的な意味をもっているであろう。アリストテレスは矛盾律の定式において、それ自身としてそれ自身において限定され、両義性を排する、物における不可分の点に達しようとしたのであって、物におけるかような不可分の点とは物におけるイデア的なもの、形相にほかならぬ。また形式論理における推理、いわゆる三段論法において最も重要な位置を占めるのは中概念であり、推理においては中概念が自己同一に止まることが原則的に要求されている。かような中概念となるのは、アリストテレスに依ると、本質或いは形相である。「本質が三段論法の原理である」、と彼はいっている。しかるにカントの先験論理は、その認識論における構成説と密接につながり、その場合に考えられた存在は客観としての自然、法則的な自然である。カントはニュートンの物理学をモデルとしてその認識論を建てたといわれている。先験論理は形式的な論理でなく、「対象の論理」である。それは対象を構成することによって対象を認識するという立場に立っている。形式論理は与えられたものを分析してそのうちに含まれる本質を抽象してくる分析論理であるに対して、先験論理の根本概念は先験的綜合である。ギリシア哲学においては真の主観は発見されなかった。それを発見したのはカントの功績である。しかしカントの主観は世界に対してその外にある。歴史の世界においては主観がその中に入っていなければならぬ。物質的過程といわれる経済的生産においても人間がその中に入っている。弁証法はヘーゲルのいう如く「内容の論理」であるが、その内容というものの中には主体が入っており、弁証法は元来主体と客体との間に成立し、或いはむしろ主観的・客観的なものの論理である。歴史的世界において真に客観的なものは単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものである。

 いま我々のいう形成説は存在を歴史的なものと見ることと結び付いている。歴史的世界の論理はヘーゲルが洞察したように弁証法である。アリストテレス的論理は形の論理であったが、弁証法も或る意味において形の論理であるということができる。しかしそれは先験論理の媒介を経た形の論理である。アリストテレスにおいて形は変化しないものと考えられたに反して、ここでは形も変化するもの、歴史的なものとして捉えられる。ギリシア的に見て、人間が生れたり死んだりしても人間の形相は生ずることも滅することもなく、永遠に自己同一に止まるとすれば、形相は現実の人間から抽象して考えられることができるであろう。しかるに歴史的に見ると、一人の人間と共にその人間の形は滅んで新しい形が生れ、一個の社会と共にその社会の形は滅んで新しい形に代られる。ギリシアにおいて生物の種は不変と考えられたのに対して近代の進化論は種の変化を説くように、形は歴史的なものとして変化し発展するものである。アリストテレスが運動を通じてつねに自己同一に止まるものを捉えようとしたに反して、弁証法は歴史の運動を形の変化として捉えるのである。弁証法は運動の論理である。運動は矛盾があるによって起る。「同一のものが同時にあり且つあらぬことは不可能である」というのがアリストテレスに依る矛盾律の表現であるが、この矛盾律は運動に適用されることができぬ、なぜなら物が運動するとは同一の点に同時にあり且つあらぬということであるから。物は、それが此の今には此処にありそして他の今には彼処にあるということによってでなく、却ってそれが同一の今において此処に且つ此処にでなくあるということによって、それが此の此処において同時にあり且つないということによって、運動するのである。「矛盾は一切の運動及び生命性の根源である。物は自己自身のうちに矛盾を有する限りにおいてのみ、運動し、衝動と活動を有する」、とヘーゲルはいっている。矛盾を容れぬ形式論理に対して、矛盾こそ物の生命的なものであるというのが弁証法の根本思想である。矛盾し対立するものは相互に否定することによって相互に媒介する。弁証法は否定による媒介の論理である。しかしながら弁証法を単に媒介の論理と考えるとき、それは反省の論理に止まって行為の論理とはならないであろう。行為は一方どこまでも媒介的であると共に他方どこまでも直接的なもの、直観的なものである。直接的なものが媒介的であり、媒介的なものが直接的であるというところに、行為があり、真の弁証法がある。弁証法は反省の論理でなく、現実の世界そのものの論理である。もっとも、我々の行為にとっても反省が必要である限り、ヘーゲルが抽象的な「悟性の論理」として軽蔑した形式論理も重要な意味をもっている。また我々の行為は客観的なものに関係付けられている以上、抽象的といわれる一般的法則の認識もそれにとって大切である。抽象的なものを軽蔑することは却って非弁証法的であるといわねばならぬ。弁証法は対立するものが一つのものであることを主張する。しかしながらこの同一性は形式論理の自同律にいう同一性とは異り、矛盾するものが止揚されて一つに綜合されるところに成立する。止揚という弁証法の言葉は、先ず無くされること、次に高められること、そして保たれることを意味している。矛盾するものは否定され、同時により高いもののうちに綜合されて保存されるのである。そこには否定の否定がある。しかも対立するものが一つであるということは、媒介的なものが直接的であり直接的なものが媒介的であるというところに成立するのである。また弁証法は矛盾の綜合における発展の論理であるが、この場合発展の意味は正しく理解されねばならぬ。普通に発展というと、自己のうちに含まれていたものが顕わになってくること、自己の内在的な本質が顕現的になってくることと理解されている。しかるにこの含蓄より顕現へという過程は、可能性より現実性への過程としてまさにアリストテレスがその論理によって捉えようとしたものであって、そこには何等矛盾というものはなく、従って弁証法はない。自己の実現するものは元来自己が可能的にあったものと同一であるから。アリストテレスにとって運動は可能性より現実性への過程を意味した。弁証法は単にかくの如き内在的な連続的な発展であることができない。そこには自己に内在的なものが同時に超越的なものであるということ、また超越的なものが同時に自己に内在的なものであるということがなければならぬ。自己から起る行為が自己に超越的な自己の存在の根拠である世界から起るものであり、行為は同時に出来事であるのでなければならぬ。人間の作るものが同時に人間を超えた意味をもっているのでなければならぬ。自己の本質として自己のうちにあると考えられる理性或いはロゴスが単に自己のうちにあるものでなく、却って物のうちに、客観的表現的なもののうちにあるものであり、このものにび起されて行為することが真に自己の内から行為することであるというのでなければならぬ。かようにして内在が超越であり超越が内在であるというところに弁証法はある。行為が同時に出来事であるということが歴史的ということであって、弁証法はかような歴史の論理である。


知識の相対性と絶対性


 知識は普遍性と必然性即ち普遍妥当性をもつものでなければならぬ。さもないと真理とはいわれない。真理は普遍妥当的なものとして絶対的なものである。しかるに事実を見ると、かくの如き絶対的真理はむしろ存在しないのであって、甲が真理として主張することも乙は真理として承認せず、甲自身においても昨日真理と考えたことを必ずしも今日真理と考えるわけではない。かようにして事実としては普遍妥当的な絶対的真理の存在は疑わしく、むしろ否定されねばならぬであろう。そこでカントは事実の問題と権利の問題を区別する批判的方法によって、知識の性質を論理的に明かにしようとしたのである。この論理主義は、知識を心理的事実として見てゆく心理主義に反対する。心理主義によっては知識の本質、その普遍妥当性、その真理性を明かにすることができぬ。もっとも、論理主義は知識の普遍妥当性をただ形式的に明かにするのみであって、抽象的であるといわれるであろう。しかしながら知識の普遍妥当性に対する要求は我々の先験的な自覚に属するのであり、この自覚なしにはいかなる真理探求もあり得ないであろう。

 それにしても、事実としては、絶対的真理は存在しないようである。人により、処により、時代によって、真理とされるものは違っている。真理は絶対的なものでなく、相対的なものに過ぎぬように思われる。もしそうであるとすれば、一般に真理はなく、知識は可能でないといわねばならぬ。真理はその本質上単に相対的なものでなくて絶対的なものであり、知識は真理として単に主観的なものでなくて客観的なものである。かようにして相対主義は懐疑論になる。懐疑論とは普遍妥当的な知識は存在せず、従って真埋は存在しないという主張である。論理主義者は懐疑論を反駁して次の如く論じている。懐疑論者は真理はないと主張するが、彼はかように主張することによって彼のこの主張だけは真理であると考えているのであり、従って少くとも一つは真理があることを認めているのであって、さもないと彼が懐疑論を唱えることも無意味にならなければならない、それ故に懐疑論は自己矛盾である。この批評は形式的には正しいにしても、抽象的であることを免れないといえる。論理主義者も歴史的事実としては絶対的真理の存在しないことを認めねばならぬであろう。他方懐疑論者も彼がみずから考えるように懐疑的であるかどうか、疑問である。彼等は実際においてはむしろ常識に従って生活しているのが普通である。懐疑論が常識主義になっているのは歴史においてつねに見られることである。事実、すべては疑わしいという立場においては我々は生きてゆけないのであって、生きている以上、何か確実なものがあること、拠り所となり得るものがあることを認めているのである。懐疑論は真理はないと主張することにおいて自己矛盾であると批評されるが、懐疑論は何等主張するものでなく、却ってピュロンがいった如く、判断中止が懐疑論者の態度であるといわれるであろう。しかしながら判断中止によっては我々は行為することができぬ。行為するとは決断すること、意志決定をすることである。それ故に懐疑論はたかだか観想の立場において可能であるのみであって、行為の立場においては全く不可能であるといわねばならぬ。もっとも懐疑論という立場を離れて、懐疑そのものを考えると、懐疑には重要な意味がある。すべての知的探求は懐疑に始まるのである。これまで真理と信じられていたことを疑うところから新しい探求は始まり、知識の進歩が可能になる。我々が行為的であることから知識的であることに移るのは懐疑においてである。懐疑によって独断を破り、正しい認識を得るということは、行為にとっても大切である。懐疑は探求の動力である。しかしながら探求は懐疑によって促されるにしても、探求そのものは何等かの真理のあることを予想している。さもないと探求するということはおよそ無意味でなければならぬ。「もし我が汝に出会ったことがなければ我は汝を求めはしないであろう」、とパスカルはいった。絶対的真理があるとの自覚がなければ、知的探求は始まらないであろう。もっとも、懐疑論は経験を尚ぶところに重要性をもっている。古代の懐疑論も、近代の懐疑論も、経験に訴えて論ずるのをつねとした。純粋に思惟によって絶対的真理に達し得るとする合理主義に経験の立場から反対した点に、懐疑論の真理性がある。しかし懐疑論は経験の意味を深く理解しなかったために懐疑論に陥ったのである。特にそれは観想の立場に止まって、経験を行為の立場から把握しなかったところに誤謬がある。

 それにしても、経験的事実として知識が相対的であることは争われないように見える。相対主義には何等かの真理が認められねばならぬ。経験的に見るということも種々の意味があるであろう。論理主義に対するものは心理主義である。心理主義にも個人心理的見方と社会心理的見方とがあり得るが、いずれも発生的に考察するのである。論理主義者は自己の批判的方法を心理主義の発生的方法から区別している。発生的な見方は自然科学的な客観的な見方である。心理的に見るということもその場合自然科学的に見るということである。しかるに同じく発生的に見てゆくにしても、歴史的に見てゆくことはそれとは違っている。真に歴史的に見ることは単に客観的に見ることではなく、却って主体的に捉えることである。歴史的考察は心理主義と同じでない。歴史的なものは単に心理的なものではないのである。しかるに論理主義者は歴史的に見てゆくことをも心理主義の如く考えて一様に非難している。カントにおいては歴史的ということと心理的ということとが同じ意味に理解されている、彼はまだ歴史の本質について深い認識に達していなかったのである。

 しかるにまさに歴史が絶対的真理のないことを我々に教えるようである。知識はそれぞれの時代に相対的である。哲学にしても時代の子である。懐疑論も、絶対論でさえも、その時代の産物であるといわれるであろう。かように、すべてのものは歴史的に制約されていると考えるのが歴史主義の立場である。歴史主義は相対主義であり、そしてすべての相対主義の如く、それは懐疑論と虚無主義に陥ると批評されている。実際、もし真理がそれぞれの時代に相対的であるとすれば、絶対的真理は存在しないことになるであろう。しかしこの場合先ず注意すべきことは、心理主義が普通に個人主義的、主観主義的であるに反して、歴史主義は何等か超個人的なもの、民族とか時代とかというものを基礎とするのがつねである。歴史の主体は個人であることができぬ、それは何等か超個人的なもの、いわゆる客観的精神の如きものでなければならぬ。客観的精神は個人的な主観的精神に対し、個人がそこから現われそのうちに立っている民族の如きものであり、「このものが各人において客観性を形作る」、とヘーゲルに従っていうこともできるであろう。かように超個人的な客観的なものを基礎とすることによって歴史主義は、相対主義であるとしても、主観主義的心理主義とは異っている。もし事実として絶対的真理はないとすれば、論理主義はそれを当為ないし規範として、即ちあるものとしてでなくあるべきものとして考えることになるであろう。歴史主義はかような当為の思想を主観主義であるとして、これに反対するという意味においてまた客観主義である。「あることなくして単にあるべきものは何等真理性を有しない」、とヘーゲルはいっている。歴史主義は歴史において最も客観的なものを見るのであるから、それが知識の歴史的制約を考えることは単なる相対主義とは区別されねばならぬ。それは相対主義を含むが、相対主義に還元されてしまうのではない。その立場は我々のすべての知識が相対的であることを承認するけれども、それは絶対的真理がないという意味においてでなく、我々の知識のこの真理への接近の諸限界が歴史的に制約されているという意味においてであるといわれるであろう。かようにしてマルクス主義に依ると、絶対的真理は無条件に存在するが、我々の認識は歴史的社会的に制約されているから一度にそれに到達することができない故に相対的真理であり、しかし絶対的真理は「もろもろの相対的真理の総計」にほかならず、科学の発展におけるおのおのの段階はかような全体に新しい一粒を附け加えるのである。人類はその歴史的発展の全体において、この発展のそれぞれの段階において発見された相対的真理の総和として、絶対的真理に到達する。「ただ総体の人間のみが自然を認識する、ただ総体の人間のみが人間的なものを生活する」、とゲーテもいった。ヘーゲルも絶対的真理を全体的真理と考えた。真理は全体的なもの、具体的なものであり、それは一度に自己のすべてを現わすのでなく、却って歴史において、その発展の過程の全体において初めて剰すところなく自己を現わすのである。かようにして一般に歴史主義は、発展の概念を導き入れることによって、一方知識の相対性を承認すると共に、他方絶対的真理を保証しようとしている。その際更に歴史主義は、諸時代の知識の間に一定の聯関、発展的聯関が存在すると見るであろう。この点で、それはまた懐疑論が知識の相対性をばらばらに考えるのとは異っている。ヘーゲルは知識の発展のうちに論理的聯関を認め、一つの時代の真理は一面的であり、従って抽象的であり、その限り非真理であるために否定され、それに対立するものが現われるが、このものも前者に単に否定的に対立する限り一面的で抽象的であり、やがてその否定の否定としてそれらの真理契機を自己のうちに高めて綜合する一層具体的な真理が現われるというように、弁証法の論理に従って発展すると考えた。かくて相対的真理は部分的真理として全体的真理の体系のうちにおいて意味を与えられることになるであろう。

 知識の相対性と絶対性の問題は歴史のうちにおいて捉えられねばならぬ。しかしかように考えるにしても、その歴史とはいかなるものであるかが問題であろう。もし歴史が単に客観的なものであるとすれば、人類が何時かわからない時において達し得ると想像される全体的真理は絶対的なものであり得るにしても、我々が現に把握する知識が絶対的意味をもつということは不可能であろう。また歴史の発展が純粋に内在的で連続的なものであるとしたならば、それぞれの時代の真理が絶対的意味をもつということは不可能でなければならぬ。しかるに絶対的意味をもたないものは真理とはいわれない。我々の捉え得るものが絶対的意味をもつのでなければ、我々が真理を探求するということには絶対的意味がなく、我々はただいつか後の時代に達せられるかも知れない絶対的真理のために道具となるに過ぎず、真理の探求も我々にとって人格的価値をもつことなく、その場合かような真理に従って行為することにも絶対的意味がないことになるであろう。客観的に見てゆくと相対的であるのほかないように見える知識の絶対性が示されるためには、主体的な見方が必要である。事実としても、知識の絶対性が問題になるのは主体的な立場においてであり、主体的な知識に関してである。客観的な知識に関しては、相対的であるのはむしろ当然のこととされ、それを率直に認めることが学者にふさわしい態度であるとされている。自己の説を絶対的と主張する科学者は疑いの眼をもって見られるであろう。しかるに哲学の如き、客観的に見ると最も多く異る思想が存在するものについて却って知識の絶対性が問題にされるのである。そのことは知識の絶対性が主体的に捉えられねばならぬことを示している。哲学は行為の立場における主体的知識である。主体的に見てゆくということは、歴史の外部から歴史を単に主観的に見るということではない、却って歴史はその本質において主体的に見られねばならないものである。科学の如き客観的な知識の探求も歴史的人間の行為としてはかように見られねばならず、それによってその探求に絶対的意味が認められる。客観的に見てゆくと相対的であることを免れないにしても、行為の立場に立てば、その時その状況において絶対的意味をもっているのである。行為の立場においては、永遠の将来が、その将来において初めて現われる絶対的真理が問題であるのでなく、まさに現在が、この現在の問題を解決し得る知識が絶対的な問題である。行為が必要とするのは抽象的に絶対的な真理でなく、その行為的瞬間において絶対的な真理である。真に絶対的なものとは抽象的に永遠なもの、無時間的なものではない。しかし瞬間といっても、普通に考えられる時間の点の如きものでなく、むしろ永遠の原子であり、時間と永遠との統一である。既に述べたように、行為は現在から起るが、この現在は過去から現在、現在から未来と表象される時間の現在でなく、却って過去現在未来がそこに同時存在的にあると考えられる現在であり、永遠の今である。一切のものはこの現在から生じ、この現在においてある。真に歴史的なものとは単に歴史的なものでなく、歴史的であると同時に超歴史的なものである。「おのおのの時代は直接に神に属する、そしてその価値は決してそれから生れ出るものに基くのでなく、その存在そのもののうちに、それ自身の自己のうちにある」、とランケはいった。それぞれの時代はそれぞれ絶対に独立なものとして非連続的であり、非連続的であると同時に連続的である。世界は多であって一である。それは歴史的にどこまでも動いてゆくと同時にどこまでも止まっている、動即静、静即動といわれるのである。一切のものは世界から作られ、世界を表現し、世界においてある。それらは多であって同時に一なるものとして表現的である。一切のものはそれぞれ独立でありながら互に他を指示している。表現的なものは多様の統一であり、一即多、多即一ということを原理としている。表現的なものは超越的意味をもっている。人間もまた世界の外にあるものでなく、世界の一物として世界においてある。認識というものも歴史的世界における歴史的物としての人間の表現作用の一つにほかならない。我々の行為は自己から起ると共に世界から起るのである。我々が自然を見る眼は自然が我々を見る眼である。それは表現的世界からび起される表現作用に属している。かようにして我々の認識は絶対性をもつことができるのである。もとより我々の知識に相対的なところがあることは争われない、しかし相対と抽象的に対立して考えられる絶対は真の絶対でなく、真の絶対とは却って相対と絶対との統一である。世界は歴史的創造的世界として、ヘーゲルの考えた如く、先験的に論理的に構成され得るものではない。我々の認識作用も歴史的創造的であり、既にある真理をただ発見するというのでなく、あたかも機械が我々の発明に属する如く、発明的なものである。

 ところで知識と行為との関係を強調するものに実用主義(プラグマティズム)がある。実用主義は経験論の発展であるが、経験を行為的なものと見るところに特色がある。かくて実用主義は真理を動的過程的に把握するのである。それは発生的な見方に立っている。主知主義者が真理を本質的に固定的なもの静的なものと考えるに反して、実用主義者は先験的な原理、閉鎖された体系、いわゆる絶対者を認めない。「真理は真と成る、もろもろの出来事によって真となされる。それの真理性は常にひとつの出来事であり、ひとつの過程である、即ちそれが自己を実証してゆく過程、それの実証・過程である」、とジェームズはいっている。我々の観念はそれが喚び起す行為や他の観念を通じて我々を経験の他の部分へ導いてゆく。この結合と移動が一点から一点へと進行し、どこまでも調和と一致が存する場合、その観念は証明を得ることになる。かくの如く実証された指導が真埋・過程の原型である。我々は我々が言葉においてもっている知識の実際的効果を試さなければならぬ。真理というのはかような実際的効果、紙幣に対する正金の値である。或る観念もしくは理論の真理性はその論理的帰結によってでなく、その実践的帰結によって判定される。知識は解決であるよりもむしろ一層多くの仕事に対するプログラムであり、特に現存の存在が変化され得るような道への指示である。そこで理論は道具となる。実用主義は強張った理論をたおやかにして仕事に着かせる方法である。或る思想の意味を展開しようと思えば、我々はただそれがいかなる行為を作り出すに適しているかを決定しさえすればよい、その行為が我々にとってその思想のもっている唯一の意味である。実用主義は方法として、特殊な結論でなく、却って一定の態度である、第一の事物、原理、範疇、必然性から眼を背けて、最後の事物、結実、帰結、事実へ眼を向けるところの態度である。かくて実用主義の足場は経験である。それは経験が一の全体として自己包括的で他の何物にもり懸らないと考える。知るものも知られるものも共に経験の部分にほかならぬ。我々の経験の部分である観念は、我々を助けて我々の経験の他の部分と満足な関係に入らせる限り、真となる。我々が真とする思想は、まさに我々の経験の一契機である故に、経験の中で働くことができ、我々はその思想の指導によって経験の中に入り、このものと有利な結合をなし得るのである。そこで実用主義は現代の多くの「生の哲学」と共通の原理に立っている。生の哲学の根本原理は生を生そのものから理解することであると、ディルタイはいったが、あらゆる超越的なものを斥けて純粋に内在的な立場に止まろうとするのが生の哲学の一般的傾向である。実用主義にとっては認識もまた我々の生の機能の一つであり、その真理性はそれが我々の生にとって有用であるということにある。「真理は、普通に想像されるように、善から区別された、そしてそれと対等な範疇でなく、善の一種である」、とジェームズはいっている。しかるにかように超越的なものを排して生の内在的な立場に立つ実用主義は、真理を人生に対する有用性と考えることによって、知識そのものに関しては却ってその内在的基準を認めないことになるであろう。知識にはその論理性の如き内在的基準があるのである。そして知識は有用である故に真理であるのでなく、逆に、真理である故に有用なのである、といわねばならぬであろう。更に既に論じたように、経験にしても単に経験的なものでなく、経験的なものと先験的なものとの統一であり、単に内在的なものでなく、内在的なものと超越的なものとの統一である。純粋に内在的な立場においては行為というものも考えられない、行為は二重の超越によって可能になるということを、我々は繰返し述べてきた。真に自己に内在的なものは超越的なものによって媒介されたものであり、超越的なものによって媒介されたものが真に自己に内在的であるというところに、人間的生はあるのである。しかるに生をただ内在的に見る実用主義にとっては、知識の有用性は単に心理的ないし生物学的意味のものとなり、従って相対主義に陥ってしまう。もっとも行為の立場においては、知識は何等か実用的なものと考えられねばならぬであろう。実用性を全く無視することは、知識を単に観想の立場において見ることである。真理は生産的なものでなければならぬ。けれども生産的ということは、歴史的に生産的という意味に解されねばならぬ。歴史は単に内在的なものでなく、単に心理的なものではない。実用主義に欠けているのは歴史的見方である。実用主義は今日、行為を環境における行為として捉えることによって次第に歴史的見方に近づいてきたが、なお真に歴史の意味を把握しないで止まっている。

 しかしながら実用主義が知識を行為に関係付け、真理は発明されると考えたということには、正しいものがある。これまで、普通に、真理は既に存在するものとの一致と定義されている、しかるにジェームズは、それを未だ存在しないものとの関係において定義するのである。真理は、彼に依ると、既に存在する或るものを模写するのでなく、存在するであろうものを告知するのであり、将に存在せんとするものに対して我々の行為を準備するのである。哲学は真理が後方を見ることを欲するという自然的性向をもっている。しかるにジェームズにとっては真理は前方を見るのである。言い換えると、他の多くの説は真理をば、それを初めて定式化する人間の特定の行為に先立つ或るものと見ている。あたかもアメリカがコロンブスを待っていた如く、真理はそれを見出す人を待っていたかのように考えられている。真理は以前から存在するものであって、我々の仕事はただその隠されていたのを発見するというだけである。しかるに実用主義にとっては、あたかも我々が自然の力を利用するために機械を創造する如く、我々は実在を利用するために真理を発明するのである。新しい真理は発見でなくて発明であるというのが、真理に関する実用主義の根本的見解である。この見解には確かに正当なものが含まれている。しかしながら真理を発明と見ることは、それを真に歴史的に見ることでなければならぬ。発明といっても固より単に主観的なものであることができぬ。すべての発明は発見の要素をもっており、またすべての発見は発明の要素をもっている。即ち認識は主観的・客観的なものであり、かようなものとして右にいったように形成である。


知識の倫理


 我々は既にしばしば知識と行為との関係について述べてきた。知識と行為とは単に外面的に結び付くのでなく、内面的に結び付いている。認識する主観そのものが行為的である。この見方は我々を知識の倫理の問題に連れてゆくであろう。

 知識の倫理の問題は認識の根柢には意志があるという主張から導かれることができるであろう。この主張は認識は判断であるという説につながっている。それに依ると、本来の意味において知識であるのは表象でなく、判断である。判断のみが本来の意味において真もしくは偽といわれるのである。判断は表象でなく表象の結合である。しかし判断は表象の結合であるというのみでなく、判断には肯定と否定或いは承認と否認があり、このものが判断の特徴をなしている。ブレンターノに依ると、判断は表象の結合と同じでなく、表象にとっては認識とか誤謬とかは内的に無関係であって、判断に固有な承認もしくは否認に関して認識もしくは誤謬は存在するのである。もっともアリストテレスが考えた如く、真偽は本来は判断についてのみ語られるが、類比的には表象についても語られるとすれば、表象と判断との区別は、表象がそれ自身としてつねに単純に真であるに反して、判断は誤謬に陥り得るというところに認められるであろう。従って虚偽ないし誤謬の問題は知識の根本問題であり、いかにして誤謬は存在するかの問題が認識論にとって試金石であるとさえいうことができる。デカルトに依ると、誤謬は二つの原因の協同から、即ち知性と同時に意志が働くことから生ずる。知性のみによって観念を捉え、この概念について判断を下すとすれば、そこに誤謬は見出されない。意志の能力は或ることを為しもしくは為さぬことができるということ、或ることを肯定しもしくは否定することができるということにある。それは知性によって我々に供せられたものを肯定しもしくは否定するとき我々が何等外的な力によって決定されていないと考えて行動するという事実に存している。そして誤謬は、意志の及ぶところが悟性よりも広く、私が意志を悟性の範囲内に拘束しないで、私の理解しないものにまで拡げることから生ずるのである。かようにして判断に固有なものが肯定と否定、承認と否認にあるとすれば、認識は意志に関わり、そこに誤謬の根源もあるということになる。ベルクマンは、判断における肯定と否定を、主語と述語の間の単に表象された関係をば判断に化するところの、批評的態度と考えた。そこから彼は、判断を単なる理論的態度と見ないで、実践的性質を帯び、意欲的能力の共存する精神の発現と見なければならぬという結論に達している。ヴィンデルバントに依ると、真理はもと、言語的には文章において表現され、論理的には判断と称せられる表象の結合にのみ関わっている。しかるに判断は心理的過程として極めて特色ある構造のものであり、そこでは我々の心の全体が、その理論的機能並びに実践的機能が、最も判明に、最も完全に現われる。判断するというのは、単に表象を結合することでなく、この結合を妥当なもの或いは真として主張することであり、他方否定判断においては、この結合を偽として拒否することである。かようにして判断のうちには種々の内容を一定の関係において思惟する知的契機のみでなく、この関係を肯定もしくは否定する意志的契機が含まれている。意志決定なしには判断は成立せず、従って意志は認識に対して責任があることになる。認識の根柢には「真理への意志」がなければならぬと主張されるのである。

 もしかくの如くであるとすれば、認識にもその倫理がなければならぬということは明かである。それは認識論において主知主義をとるか主意主義をとるかということとは差当り無関係である。主知主義のデカルトにおいても、我々が誤謬に陥るのは我々が意志を悟性の明晰判明に理解するもの以外に拡げて判断を下すことから生ずると考えられるのであるから、我々の意志を悟性の範囲内に拘束するということが知識の倫理として要求される筈である。かように意志を制限することが知識の倫理であると考えるところに認識論上の主知主義の特色が認められるであろう。知識の倫理の問題はまた認識の主体が単に表象的・思惟的なものでなく全体の人間であると主張する立場とも差当り無関係である。認識が思惟の作用に属することは争われないにしても、思惟は現実において人間の他のもろもろの心的活動と結び付いて存在することが明かであるとすれば、思惟が完全に働き得るためには、他のもろもろの心的括動が一定の状態におかれることが必要である。それは主知主義者の考える如く他のもろもろの心的活動がすべて鎮静に帰せられねばならぬということに限られない。或る一定の心的活動は抑止されねばならぬにしても、他の一定の心的活動はむしろ活発にされねばならぬと考えることもできる。かようにして我々の心のうちに一定の秩序の生ずることが認識にとって必要であり、徳とはまさにかくの如き心のうちにおける秩序を意味している。また客観主義の立場において、認識することは対象に純粋に身を委ねることであると考えても、主観のかような態度は決して単に投遣りの態度でないことはもちろん、単に受動的な態度でもなく、道徳的な心の準備を必要とするのである。更にヴィンデルバントのいう如く、本来の認識である判断には知的契機と共に意志的契機が含まれるとすれば、意志の一定の状態ないし態度が認識のために要求される筈である。いわゆる真理への意志は知識の倫理の問題でなければならぬ。

 いま古代及び中世の哲学を振り返って見ると、近世哲学におけるのとは異り、知識の倫理について極めて熱心に説かれているのが見出されるのである。しかるに近世におけるいわゆる認識論の特色は、知識の問題からその倫理の問題を抽象しているところにあるといい得るであろう。ソクラテスは克己と愛とを真の知識を得るための道徳的条件と考えた。かような愛の思想はプラトンにおいて発展され、彼の形而上学的認識の説と深く結び付けられている。プラトンに依ると、哲学者は愛によって、生成消滅の世界に執着する人間の自然知から永遠な存在即ちイデアの世界についての真知へ高められる。そこには「魂の翼の運動」がなければならず、「魂の転向」がなければならぬ。この転向は単に知的な意味のものでなく、全体の人格に関わるものである。またアリストテレスにとっては、知識はまさに「知性的徳」として人間の生活の最高の形態であり、この徳に至るためには段階的に「倫理的徳」即ち魂の非理性的な部分に対する理性的部分の支配と秩序付けが前提されるのである。中世のキリスト教的哲学が、最高の認識は神の認識であるとする立場において、知識の倫理を重んじたことはいうまでもない。認識の道徳的条件が考えられ、真の認識に達するためには一定の徳が必要とされ、禁欲等の道徳的行為が勧められた。神の認識そのものが直ちに道徳的意味をもっていたのである。かようにして古代及び中世の哲学者たちは、認識の道徳的制約について絶えず語っている。

 その際最もしばしば愛と認識との関係が問題にされた。そして主知主義的なギリシア哲学では愛は根本において認識に依存的な機能であったのに反し、キリスト教では認識に対する愛の優位が説かれた。この差異は、前者においては、愛は真の存在に対する非存在的存在の、自己自身は愛することのないイデアに対する人間の、希求を意味したのに対し、後者においては、愛は根本においてより高いものがより低いものに、神が人間に降りてくること、身を卑しめることを意味したところから理解されるであろう。愛の優位の思想はアウグスティヌスによって心理学と認識論のうちに展開された。すべての知的作用及びそれに属する形象並びに意味内容は、最も単純な感性知覚から最も複雑な表象や思惟の構成物に至るまで、単に外的対象及びそれに由来する感官刺戟に結び付けられているのでなく、そのほかに、関心をもつという作用及びこれに規定された注意作用に、そして究極は愛憎の作用に本質的に必然的に結び付けられている。この作用は、アウグスティヌスにとって、既にあらかじめ意識に与えられた感覚内容、知覚内容等に単に附け加わってくるに過ぎぬものではない。或るものへの関心、或るものに対する愛は最も根源的な作用であり、一般に我々の精神が可能なる対象を把捉するあらゆる他の作用を土台付ける作用である。かようにして先ず、或るものについて関心をもつことがなければ、そのもののいかなる感覚も、表象も存在することができぬ。次に客観的に知覚され得る対象の範囲からそれぞれの場合に事実上何が我々の知覚に入ってくるかの選択は、その対象に対する我々の関心、従って愛によって導かれる。即ち我々の表象や知覚の方向は我々の愛憎の方向に従うのである。更に対象が我々の意識に現われる直観や意味充実作用の高昇は対象に対する我々の関心や愛の高昇に依存する結果である。「ひとは愛するもののほか知らない、知識がより深く、より完全になるべきであるならば、愛、いな激情は、より強く、より烈しく、より活発にならねばならぬ」、とゲーテも書いている。しかしかような見解は、認識を主観化し人間化してしまうことになりはしないであろうか。アウグスティヌスは彼の心理学に彼の創造説並びに啓示説と結び付いた存在論的基礎を与えている。愛と関心によって、例えばすでに単純な知覚の如き知的作用のうちに形象が現われるということは、彼に依ると、ただ出来上った対象のうちに侵入する認識主観の活動であるのでなく、却って同時に対象そのものがそれに応じて答えること、対象が自己を与えること、自己を顕わにすること、即ち対象の自己啓示である。それはいわば愛の問に対して世界が答えることであり、これによって世界は自己を開示してその完全な存在と価値に達するのである。かくてアウグスティヌスにとって世界の「自然的」認識は、その対象的制約の側から見れば、ひとつの啓示の性格をもっている。この「自然的啓示」は究極においては永遠の愛であるところの神のひとつの啓示である。すべての主観的な作用が愛によって土台付けられているのみでなく、認識された物そのものもこの愛に応える自己啓示において初めてその完全な存在と価値に達するのである。そこでアウグスティヌスは、例えば植物は人間から見られ、見られることにおいてその特殊的な、自己に閉じ込められた存在からいわば救済されるという傾向性をもっていると語っている。マルブランシュは関心や注意を「魂の自然的な祈り」と呼んだ。この場合にも祈りという言葉は、主観的な人間精神の活動の意味のみでなく、関心と愛をもって見られた対象の自己開示のうちに存する答を一緒に体験することを含んでいる。そこでパスカルは、「愛と理性とは同じものである」、といっている。

 しかるにかように知識の倫理が問題になるのは、そこに求められた知識が、マックス・シェーレルの区別に従えば、救済の知識ないし教養の知識であって、仕事の知識でないためであるといわれるであろう。シェーレルは、コントが人知は神学的段階から形而上学的段階へ、更に実証的段階へと順次に進歩してきたと考えたのに反対し、宗教的・神学的認識(救済の知識)、形而上学的・哲学的認識(教養の知識)、実証的・科学的認識(仕事の知識)は、知識の発達の三つの歴史的段階でなく、人間精神そのものの本質と共に与えられた持続的な三つの精神の態度であり、認識の形態であって、そのいかなる一つも、他に代置されることも他を代表することもできないと主張した。それらは認識する精神の三つの違った作用、違った目的、違った人間の型に属するのである。

 まことに近代科学は知識を世俗化した。そしてそれに伴って哲学も世俗化された。そしてそれと共に知識の倫理はもはや問題でなくなったように見える。しかし知識の世俗化によって知識の倫理がなくなったのでない。その世俗化そのものが実は近代の初めにおける知識人の情熱であり、彼等の知識の倫理であったのである。しかるにすべてが世俗化してしまった後には、世俗化がひとつの倫理であったことが忘れられ、それと共に知識の倫理そのものも問題にされなくなったのである。科学はどこまでも客観的に認識してゆく。そのためには自己の主観的な観念や意図に束縛されないことが必要であり、そこに倫理的態度がなければならぬ。すべての研究者は良心的であることを要求されており、そこに知識の倫理がある。知識を求める者には真理に対する熾烈な愛がなければならぬ。この愛は人生の幸福についての高い見方を必要とする。真理は個人にとって必ずしも有利なものでなく、人間を不幸にする場合さえ多いからである。そこでまた人間はしばしば真埋を蔽い隠そうとする。それ故に真理を知ろうとする者は真実でなければならぬ。そして哲学的認識における如く、単に客観的に捉えることのできぬもの、主体の自己開示に俟たねばならぬもの、かようなものの認識は特に倫理的でなければならぬであろう。

 認識のあらゆる場合において我々はつねに良心的であることを要求されている。良心は人間の客観に対する関係でなく、主体に対する関係である。倫理は主体の主体に対する関係のうちにある。良心的でなければならぬということは知識の倫理にほかならない。カントは良心を人間における内的法廷の意識と称した。しかるに良心と呼ばれる根源的な、知的で道徳的な素質は、その仕事が人間の自己自身に対する仕事であるにも拘らず、彼はそれを或る他の人間の命令で行うものと見るように彼の理性によって強要されている。なぜならその仕事は法廷のそれであるが、良心によって訴えられている者と裁判官とが同一の人間であるということは法廷の観念に適しないからである。しかしいかにして一人の人間のうちにかように二重の人格を考え得るであろうか。カントは現象と本体とを区別する彼の認識論に相応して、そのような裁判官を経験的人間に対する本体的人間と考えた。良心は単に内在的なものではない、それは人間の主体的超越性を現わしている。しかし単に内に超越的なものを考えることは神秘主義に終るか、我々を偶像崇拝者にすることである。真に内に超越することは外に真に超越的なものを認めることでなければならぬ。良心的であるということは単に内なる呼び掛けに応えることでなく、外なる呼び掛けに応えることである。外なる呼び掛けが内なる呼び掛けであり、内なる呼び掛けが外なる呼び掛けであるところに、良心がある。物が表現的に我に臨むということは、主観的な我を否定すべく我に迫ることである。知るということも、もと物的表現の世界からび起されることである。主観的な我を否定して物をそのものとして認めるところに、対象の要求に従うところに、認識がある。知るということは認めるということである。知ることが認めることであるのは物が元来表現的なものであるためである。対象がリップスのいわゆる「対象の要求」をもって我に臨むというのは、それが表現的なものであるからである。そして我々が良心的であることによって物は我々に対して真に表現的に顕われるのである。

 もとより認識にとっては単に良心的であるということだけでは足りないであろう。知識を得るにはその能力がなければならず、従って有能性が問題である。有能性は技術的意味のものである。知識を得るには方法的でなければならず、方法なしには学問はない。学問とは方法的に得られる知識である。方法は一方主観的なものである。対象は方法によって規定される。しかし方法はまた対象から規定される。方法は対象に適した方法でなければならないからである。即ち方法は主観的・客観的なものであり、かようなものとして技術的である。有能性とは方法における練達、優秀な技術を意味し、これを欠いては知識の倫理は抽象的なものに止まるであろう。しかし方法或いは技術は悪用され、真理に達するために用いらるべきものが却って真理を歪曲するために用いられることができる。そこに欠けているのは良心である。認識もあらゆる表現作用の如く形成的であり、技術的である。技術は物をしてその本質を発揮させるものである。植物は見られることによっていわば救済されるとアウグスティヌスのいった如く、物は認識という形成作用によってその真の存在と価値に達するのである。しかし更に、真理は表現的なものとして我々を行為に動かし、自己と世界とを実践的に変化させるものでなければならぬ。表現的なものからび起された認識は、それが我々の実践的な形成作用を通じて存在のうちに実現されることによって真に表現的になるのである。真理に従って行動するということが我々の倫理である。真理は知識の問題であると同時にかような倫理の問題であるところに、知識と倫理との究極の結合があるのである。


第二章 行為の問題


道徳的行為


 行為に関する哲学的考察は、実践哲学、或いは道徳哲学、或いはまた倫理学と呼ばれている。行為という場合、普通にその道徳性が問題にされ、行為はおよそ道徳的行為の意味に理解され、その際、道徳は知識とか芸術とかと異るものと考えられている。しかし既に述べた如く、知識の問題も行為の立場から捉えられねばならぬ、知識の主体も操作的なものとして行為的と見られることができ、また知識についても知識の倫理がある。更に芸術の如きも、単に享受の立場からでなく、制作の立場から捉えられねばならぬ、芸術の主体も制作的なものとして行為的と見られることができ、芸術についても制作の倫理が要求されるであろう。かように物を行為の立場において見るということは、物を歴史的世界において見ることである。歴史的世界は行為の世界である。従ってドロイセンのいう如く、歴史的世界は道徳的世界である。もとより知識、芸術、道徳の間には区別がある。知識の根本問題は真理であり、道徳のそれは善であり、芸術のそれは美であるといわれている。しかしそれらを差別においてと同時に統一において把握することが重要である。

 道徳的といわれる行為に固有なものは何であろうか。これが明かになって初めて、いかなる意味において他の種類の行為も道徳的と考えられるかが明かになるのである、認識は主体の客体に対する関係である、それは主体による客体の把捉である。科学においては人間も物と見られ、自然として取扱われる。認識の問題は我と物或いは自然との関係であるといわれる。しかるに道徳は主体の主体に対する行為的聯関のうちにあるのである。それは人と人との関係、人間的関係を指している。カントが、他の人を物としてでなく、人格として取扱え、ということを道徳的命令として掲げたのは、道徳の根本現象を明かにしたものということができる。道徳の根本概念は我と物でなく、我と汝である。

 道徳はすべて我と汝の関係の認められるところに成立する。そのことは人間を単に他との間柄においてのみ考えて、自己自身として考えないということではない。我々が人格であるのは、自己が自己に対する関係においてであって、他に対する関係においてではないといわれるであろう。しかし人間がこのように自己自身において道徳的存在であるということも、自己が自己に対して我と汝の関係に立ち得るということに基いている。私は私自身に対して汝と呼び掛ける。「汝為すべし」という道徳的命令は、私が私自身に対して汝と呼び掛けるのであり、そこに道徳の自律性がある。道徳を単に自他の間柄においてのみ考えるのでは、道徳の自律性は考えられないであろう。道徳的に自覚的であるということは、自己が自己に、自己を汝として対することである。カントが良心を、主体の主体に対する関係として、法廷に譬え、自己のうちに訴えられたものとその裁判官であるものとを考えたのも、かような関係を示すものにほかならない。良心的とは道徳的に自覚的であるということである。過去の私、未来の私、否、現在の私も、私はこれを汝としてこれに対することができる。かように自己が自己に、過去現在未来のすべてにおける自己に、これを汝としてこれに対し得るということは、人間存在の超越性に基いている。超越なしには道徳は存しない。自己が自己に、自己を汝として対し得る自覚的存在として人間は人格であり、かような人格にとって他の人間も真に汝であるのである。汝が真に汝として我に対するためには我が真に我でなければならぬ。

 ところで「汝為すべし」という道徳的自覚は、自己が自己に、自己を汝として呼び掛けることであるが、それは同時に逆に、かように呼び掛けるものがむしろ汝であり、自己が汝に呼び掛けるのでなくて、汝から自己が呼び掛けられることである。良心を法廷に譬えたカントにおいても、訴えられたものが自己であって、裁判官は「他の人間」であった。自覚は超越によって可能になるのであり、それは単に自己が自己を意識するということでなく、却って自己が自己を超えるということである。自己が自己を超えることによって、自己が自己を意識するということも可能になる。自覚において現われるのは単なる我でなくむしろ汝であり、汝によって我もび起されるのである。「我々は反射によって、即ち我々自身への強要された還帰によって、目覚める。しかるに抵抗なくして還帰なく、客観なくして反省は考えられない」、とシェリングはいった。私はひとりでに反省的自覚的になるというよりも、客観の抵抗によって自己自身に還るのである。否、客観からでなく、却って他の主体即ち汝から、我は自己自身に還るのである。汝の命令によって我は喚び起されるのである。そこに道徳的行為の客観性がある。我が良心的であればあるほど、汝の我に対する呼び掛けはいよいよ迫ってくる。もとより単に外から強制されるのであっては道徳ではない。外から喚び起されることが内から喚び起されることであり、内から喚び起されることが外から喚び起されることであるところに、道徳がある。カントは、良心を主観的強制と見、これに対して実践理性の法則に基く義務を客観的強制と見たが、道徳を単に良心の問題と考えては単なる主観主義に陥ることになり、そこには何か、義務というが如き客観的命令的なものがなければならぬ。しかしカントの道徳法の概念には歴史性が欠けている。それは時と処と人とに関わりのない一般的法則として捉えられている、従ってそれは形式的であるに過ぎぬ。しかるに行為はつねに歴史的である、特定の状況のもとにおける特定の主体に依る行為があるのみであって、抽象的一般的な行為というものは考えられない。道徳は主体の主体に対する行為的聯関としてつねに歴史的である。

 道徳的行為の歴史性は、道徳的要求における真理の性質から明かにされ得るであろう。真理は単に知識にのみ関するものでなく、道徳にも真理がなければならぬ。それのみでなく、フィードレルのいった如く、芸術においても真理がその中心問題であり、芸術的真理における実質のみが芸術作品の永続的価値を決定するのであつて、あらゆる他の性質は副次的であり、一時的な効果を基礎付けるに過ぎぬと考えることもできるであろう。そしてフィードレルは芸術的真理の問題を観照の立場でなく芸術的生産の立場から考えたが、道徳的真理はもとより行為の立場から考えられねばならぬ。道徳における真理は客体の真理、自然の真理でなく、主体の真理、人間そのものの真理である。自然の真理はそれ自体においてあるものの真理であり、人間から認識されると否とに拘らずそれ自身において存在すると考えることができるとしても、道徳の真理は歴史的真理であり、主体と主体との間に生起するものである。自体においてあるものの真理に関わる主観は、カントの意識一般の如く、抽象的一般的な、非歴史的なものと考え得るにしても、歴史的な道徳的真理はつねに現実の具体的な人間に関わるのである。それは人と人との間に起るものであり、従って起らないこともあり得る、そのとき真理の代りに虚偽が現われるのである。道徳的真理は起るものであり、従って起らないこともあり得る故に、それは命令或いは当為(ゾルレン)の形をとるのである。自然の真理は命令でなく必然(ミュッセン)である、しかし世界についての真理も世界における真理の問題と見られるとき我々に対して命令の意味をもってくる。道徳的真理が当為であるということは、それが単なる形式であるとか単なる理想であるとかということでなく、むしろ逆である。それは歴史的真理として現実的なものであり、単なる意味というが如きものでなく、却って意味と存在との統一である。道徳的真理は人間の真理であるといっても、「人間」というものの一般的本質が問題であるのではない。それは私がそれに従って他の者に対する態度を作るべき人間一般の真の像というが如きものでもない。道徳においては私自身の真理が問われているのである。その真理は主体的な真理、言い換えると、真実、人間のまことである。人間のまこととは何であろうか。我が汝からび起され、汝の呼び掛けに応えるということである。かく応えることにおいて我のまことは顕わになり、真理は起る、即ちその真理は歴史的である。それが道徳の存在の真相である。呼び掛けはつねに具体的なものであり、これに応える行為もつねに具体的である。汝から喚び起されるためには、我は純粋で、まことでなければならぬ。また我を喚び起すためには、汝は純粋で、まことでなければならぬ。本質的に歴史的な行為的な道徳的真理は、具体的には、単に我のまことにあるのでなく、また単に汝のまことにあるのでもなく、我と汝との間にあるのである。

 道徳的真理即ち真実が信頼を基礎付ける。信頼は、元来、主体と主体との間に成立つ関係である。自己の呼び掛けに対して他が必ず応えるであろうと信頼する、その際他のまことが信ぜられており、また応える側においても自己に呼び掛ける者のまことが信ぜられている、即ち信頼は人と人との間に真理が起るということを土台としている。信頼は単に他が変らぬこと、彼の人格の同一性を信ずるというが如きことではない。カントは正直という徳を、不正直であることは自己矛盾に陥るとして説明したが、すべて道徳はかように形式論理をもって説明し得るものでない。道徳的真理は我と汝という全く独立なもの、対立するものの統一の上に成立つのであるが、道徳はすべてかくの如く弁証法的なものである。ところで他の呼び掛けに応えることは責任をとるということであり、それに応えないことは無責任ということである。責任をもつというのは他の信頼に報いることであり、無責任であるというのは他の信頼を裏切ることである。信頼と同じく責任の観念は道徳的行為の基礎である。もし信頼がただ他を信頼するのみで同時に自己を信頼することでないとすれば、それは自己のまことを失うことになり、無責任なことになる。責任もまた単に自己の他に対する責任でなく、自己の自己に対する責任でなければならぬ。他に対して責任を負うことが同時に自己に対して責任を負うことであり、自己に対して責任を負うことが同時に他に対して責任を負うことであるというところに、人間のまことがあるのである。そして人格の観念と責任の観念とは本質的に結び付いている。人格とは責任の主体である。責任の主体は自由でなければならず、自由なものであって責任の主体となり得るのである。「汝為すべし」と呼び掛けられているのを知る人間は、まさにそれによってまた自己が自由なものとして、自己の道徳的自由に向って呼び掛けられているのを知るのである。自由と責任とは不可分のものである。

 ところで他が自己に呼び掛けるというのは他が表現的なものであるからである。汝として我に対するものは表現的なものでなければならぬ。汝は表現的なものとして我の行為をび起すのである。人間の真理と虚偽が、ほんととうそとして、特に言葉に関して理解されるのも、そのためである。我々の行為は表現的なものから喚び起されるのであり、かようなものとしてそれ自身表現的である。主体と主体とは表現的なものとして相対し、その行為的聯関は表現的聯関である。しばしば論じた如く、主体とは単に主観的なものでなく、むしろ主観的・客観的なものである。そして表現というのは、主観的なものと客観的なものとが、内と外とが一つであることを意味している。表現において、内部が外部に表現されるといわれる。この内なるものは単に主観的なもの、単に個人的なものであることができぬ。却って我々は己れを殺すことによって真に表現的になり得るのである。技術的に作られたものは表現的であるといわれるが、その場合、もし我々の意欲が単に主観的なもの、肆意しい的なものであるとしたならば、自然の客観的な法則がこれに向って反逆し、これと一つに結び付いて物が作られるということはないであろう。その意味で技術における人間の意欲は客観的意味をもったものでなければならぬ。ひとは技術において自己の主観的な意欲を制し、これを客観的なものにすることを学ぶのであって、技術が道徳的教育的意味をもっているのも、そのためである。我々の意欲が或る客観的なものであることによって技術は成立するのであり、人間の技術が自然の技術を継続するということも、そのためにいわれることである。それだからといって、技術は単に客観的なものであるのでなく、やはり主観的なものと客観的なものとの統一である。単に主観的なものを否定することによって我々は真に主体的になるのであり、人間のまことが現われるのである。このものは超越的意味をもっている。表現において表現されるものは単に心理的なもの、内在的なものでなく、超越的なものでなければならぬ、イデー的なものでなければならぬ。真に自己に内在的なものは超越的なものによって媒介されたものであり、超越的なものによって媒介されたものが真に自己に内在的なものであるというところに、人間の存在がある。しかしながらそのことは表現作用が単に理性(ロゴス)から起るということを意味するのではない。「デーモンの協力なしには芸術作品はない」とジイドがいった如く、我々の表現作用の根柢にはデモーニッシュなもの、大いなるパトス(感情)がなければならぬ。「世界におけるいかなる偉大なことも激情なしには成就されなかった」、と理性主義者ヘーゲルでさえいっている。デモーニッシュなものとは無限性を帯びた感性的なものである。人間の動物的衝動という言葉は、比喩的に語られているのでなければ、不正確に語られているに過ぎぬ。我々は動物的衝動をもっているのでなく、ただ人間的衝動をもっているのであり、このものは外的機能においていかに動物的衝動と類似しているにしても、性格的にはそれとは別のものである。人間的衝動はデモーニッシュであり、また人格化されている。人間が超越的であるのは単に理性においてでなく、却ってその全存在においてである。プロメテウスの神話が象徴している如く、技術というものもしばしばデモーニッシュな衝動に基いている。世界の根柢には無限の闇、無限の衝動がある。もとよりパトス的なものは無限定なものであり、しかるに表現作用は形成作用として限定作用である、そこにパトス的なものの中からイデーが生れるということがなければならぬ。パトスが衝動的であるというのも、それ自身は無限定なものでありながら、すでにそれ自身のうちに限定への、イデーへの、形への無限の希求を含むためでなければならぬ。表現におけるイデーは抽象概念の如きものでなく、パトスの中から生れたものであり、従って抽象的に理性的なものでなく、むしろ感情的・理性的なものである。形はイデー的なものであるが、単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものである。しかもイデーは働くことによって見られるもの、作ることにおいて見られるものである。それは歴史に対して先在的にあるものでなく、却って歴史的なもの、歴史において現われてくるものである。しかし真に歴史的なものは単に歴史的なものでなく、歴史的なものと超歴史的なものとの統一である。

 人間が表現的なものであるということは、簡単にいうと、人間が世界のものであるということである。その意味はあたかも、薔薇が自然を表現するといわれるのと同様である。自然とは生むものであり、薔薇は自然から生れたものとして自然を表現している。人間も世界から作られたものとして世界を表現している。この世界を自然といい物質というにしても、それは歴史的自然であり、歴史的物質である。表現的なものは歴史的に形成されたものである。人間は歴史的・形成的世界の形成物として表現的である。すべて表現的なものは個別的なものである。しかし単に特殊的なものは表現的でなく、表現的なものは一般的意味をもつものでなければならぬ。人間は世界的意味をもつものとして表現的であるというとき、世界は客観としての世界であることができない。表現的なものは単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものであり、そこには内部が外部に現われるということがなければならぬ。この内部は単に心理的・内在的なものでなく、超越的意味をもつものでなければならぬ、真に内なるものは真に外なるものでなければならぬ。

 もとより我々は無限定に世界を表現するのではない。表現するとは却って形成することであり、形成するとは限定することである。表現的なものは単に一般的なものでなく、特殊的に限定されたものである。我々は世界一般を表現するのでなく、却って個々の個別的社会を表現するのであり、個別的社会における個々の個別的関係を表現するのである。我々はそれぞれの場合において、或いは親子として、或いは友人として、或いは学生と教師として、それぞれ具体的な社会的関係を表現している。表現的なものは単に特殊的なものでなく、自己がそれにおいて他と関係する一般的なものを表現している。表現的なものは個別的なものであり、個別的なものは特殊的なものと一般的なものとの統一として、特殊的・一般的に限定されたものである。汝は表現的なものとして我に呼び掛け、我は汝からび起される、道徳的命令はつねに具体的に限定されたものである。「汝為すべし」ということはつねに一定の歴史的・社会的関係から出てくるのである。そこに表現されているのは社会的意味であり、道徳的意味充実はつねに社会的意味充実である。汝は汝自身を表現すると共に社会を表現する。社会は表現的なものであり、大なる汝である。社会はしばしば「大なる我」と看做みなされてきた。しかしかように考えることは、社会を単に我に内在的なものと考えることになるであろう。社会は超越的なものとしてむしろ「大なる汝」であり、我も汝も社会を表現するものとして我であり汝である。我と汝との行為的聯関の基礎にはつねに我と汝とがそれにおいて関係する場所としての社会がある。我と汝とは一つの環境、一つの社会、一つの場所にあって働き合うのであり、我々はつねに環境的に限定され、環境を表現している。社会は我々がそこにおいてある場所として、単に客観的なものでなく、主体的なものである。しかるに個別的社会も、単に自己自身を表現するのでなく、同時に自己を超えた社会、自己がそれにおいてある環境を表現するのであり、かようなものとしてそれは表現的といい得るのである。民族の如きも歴史的に形成されたものであり、自己自身を表現すると共に世界を表現している。世界といっても、世界一般があるのでなく、それぞれの時代における世界があるのであり、それらの個々の世界がそれにおいてある世界、絶対的場所としての世界を表現している。この世界は絶対的に主体的なものであり、過去現在未来における一切のものがそこから生じ、それにおいてある真の現在である。すべての歴史的行為はかような現在から起り、この世界を表現する。一切の歴史的なものはこの世界の主観的・客観的自己限定、特殊的・一般的自己限定として作られ、この世界においてある。かくしてあらゆる歴史的なものは歴史的であると同時に超歴史的である。我々は民族的であると共に世界的であり、民族に属すると同時に直接に世界においてあるのである。

 人間は世界から作られ、作られたものでありながら独立なものとして、逆に世界を作ってゆく。人間は形成的世界の形成的要素として、世界が世界を作ってゆく中において作ってゆくのである。我々の道徳的行為もかような世界から把握されねばならぬ。そのことは、道徳というものが従来単に主観的に理解される傾向があったのに対して、特に強調される必要がある。もちろんそれは単なる客観主義の立場に立つことではない。主体であるところの人間がそこから作られ、そこにある世界は単に客観的なものであることができぬ。世界的立場は主体を超えた主体の立場であり、かようなものとしてまた最も客観的な立場であるということができる。世界は歴史的である故に、世界的立場は世界史的立場である。人間のすべての行為は歴史的である、それが歴史的であるというのは、行為が出来事であるということ、行為が同時に生成の意味をもっているということ、我々の為すものでありながら我々にとって成るものの意味をもっているということである。人間は形成的世界の形成的要素として、人間の行為はすべてかくの如き意味をもっている。我々の行為は我々自身から起ると同時に世界から起るのである。道徳的行為の問題も単なる意志の問題でなく、形成的・表現的行為の問題である。主体と主体との表現的聯関は行為的・形成的に捉えられなければならない。それを単に解釈する立場は道徳的立場ではない。道徳の立場は本来行為の立場である。主体が道徳的に表現的であるということは行為的に表現的であるということである。他の行為をび起すものとして、また他の呼び掛けに行為的に応えるものとして、主体は道徳的に表現的である。主体と主体との表現的聯関は、ただ理解され解釈されるために、既に出来上ったものとしてそこにあるのでなく、絶えず新たに歴史的行為的に形成されてゆくべきものである。道徳は人と人との行為的聯関であるといっても、それはつねに物を媒介としている。物の媒介を離れて人と人との関係を考えることは抽象的である。しかもその物は単なる物でなく、却って表現的なものである。人と人とは表現的な物を媒介として結び付くのである。文化というものは一般にかくの如き性質のものである。文化というものは人間の作るものでありながら、作る主体から離れて独立なものとなり、作る主体に向って逆に働きかける。文化は人間から作られ、逆に文化が人間を作るのである。文化は表現的なものとして超越的意味をもっている。それは私の作るものでありながら、私から離れて、もはや私のものでなく、公共的な表現的な世界に属している。人と人とは文化を媒介として結び付いている。物の形成、文化の形成を離れて人と人との行為的聯関を考えることはできぬ。

 世界的立場はもとより抽象的な世界主義の立場ではない。世界は歴史的であり、世界的立場は世界史的立場であるが、世界は民族を媒介として形成されるのである。しかし民族はまた世界を媒介として形成されるのである。すべての歴史的なものは環境においてあり、環境から限定されると共に逆に環境を限定する。個人は民族から限定されると共に逆に民族を限定する。民族は個人の行為を媒介として世界的になることができる。民族が世界的になるということは自己の本質を失うことでなく、却ってそれは自己の本質を発揮することによって真に世界的になるのである。個人もまた自己の本質を発揮することによって真に民族的になることができ、同時に真に世界的になるのである。歴史的なものはすべて個別的なものであり、個別的なものは一般的なものと個別的なものとの統一である。個人、民族、世界は相互に否定的に対立している、しかも否定は媒介であり、否定の媒介によって物は具体的現実的になるというのが弁証法の論理である。歴史は媒介的に動いてゆくのであり、弁証法的に媒介的である故に、そこに歴史的運動があるのである。



 すべての道徳は、ひとが徳のある人間になるべきことを要求している。徳のある人間とは、徳のある行為をする者のことである。徳は何よりも働きに属している。有徳の人も、働かない場合、ただ可能的に徳があるといわれるのであって、現実的に徳があるとはいわれないのである。アリストテレスが述べたように、徳は活動である。ひとが徳のある人間となるのも、徳のある行為をすることによってである。それでは、いかなる活動、いかなる行為が徳のあるものと考えられるであろうか。この問題は抽象的に答えられ得るものでなく、人間的行為の性質を分析することによって明かにさるべきものである。

 人間はつねに環境のうちに生活している。かくて人間のすべての行為は技術的である。言い換えると、我々の行為は単に我々自身から出るものでなく、同時に環境から出るものである、単に能動的なものでなく、同時に受動的なものである、単に主観的なものでなく、同時に客観的なものである。そして主体と環境とを媒介するものが技術である。人間の行為がかようなものであるとすれば、徳は有能であること、技術的に卓越していることでなければならぬ。徳のある大工というのは有能な大工、立派に家を建てることのできる大工であり、これに反してあるべきように家を建てることのできぬ大工は大工の徳に欠けているのである。徳をこのように考えることは、何か受取り難いように感ぜられるかも知れない。今日普通に、道徳は意志の問題と考えられ、徳というものも従って主観的に理解されている。しかるに例えばギリシア人にとっては、徳はまさに有能性、働きの立派さを意味したのである。この見方はルネサンスの時代に再び現われた。徳は力であるということも同様の見方に属している。実際、人間の行為はつねに環境における活動であり、かようなものとして本質的に技術的であることを思うならば、徳を有能性と考えること、それを力と考えることでさえも、理由があるといわねばならぬ。行為は単に意識の問題でなく、むしろ身体によって意識から脱け出るところに行為がある。従って徳というものも単に意識に関係して考えらるべきものではないのである。芸術を制作的活動から出立して考察し、その一般的原理は美でなく却って真理であるといったフィードレルは、芸術的に真であることは、意図の、意欲の問題でなく、才能の、能力の問題であると述べている。我々は道徳的真理について、同じように、道徳的に真であることは、単に意志の問題でなく、有能性の問題であるということができるであろう。

 もっとも、行為はすべて技術的であるにしても、すべての技術的行為が道徳的行為と考えられるのではないであろう。固有な意味における技術は物の生産の技術であって、かような技術的行為はそれ自身としては道徳的と見られないのが普通である。道徳的という場合、それは物にでなく人間に、客体にでなく主体に、関係している。技術的行為について徳が問題にされる場合においても、それは主体或いは人間に関係して問題にされるのである。ひとがその仕事において忠実であること、良心的であることは、道徳的であるといわれる。そのとき問題にされているのは、彼の仕事でなく、彼の人間である。しかしながら他方、いかなる人間の行為も物に関係している。我々自身或る意味では物であり、人と人との行為的聯関は物を媒介とするのがつねである。人間の徳を彼の仕事における有能性から離れて考えることは抽象的であるといわねばならぬ。

 それのみでなく、技術の意味を広く理解して、人間の行為はすべて技術的であると考えるとき、徳と有能性との密接な関係は一層明瞭になるであろう。従来技術といわれたのは主として経済的技術である。かように技術というと直ちに物質的生産の技術を考えることは、近代における自然科学及びこれを基礎とする技術の飛躍的発達、それが人間生活にもたらした顕著な効果の影響のもとに生じたことである。しかしギリシアにおいて芸術と技術とが一つに考えられたように、一切の文化は技術的に形成されるものである。そして独立な主体と主体とは、客観的に表現された文化を通じて結合される。主体と主体とはすべて表現を通じて行為的に関係する。人と人とが挨拶を交すとき、その言葉はすでに技術的に作られたものである。挨拶は修辞学的であり、修辞学は言葉の技術である。そのとき、彼等が帽子をとるとすれば、そこにまたすでに一つの技術がある。一般に礼儀作法というものは技術に属している。技術的であることによって人間の行為は表現的になる。礼儀作法は道徳に属すると考えられているように、すべての道徳的行為は技術とつながっている。礼儀作法は一つの文化と見られるが、一切の文化は技術的に作られ、主体と主体との行為的聯関を媒介するのである。経済はもとより、社会の諸組織、諸制度も技術的に作られる。自然に対する技術があるのみでなく、人間に対する技術がある。人間は自然的・社会的環境において、これに行為的に適応しつつ生活している。自然に対する適応と社会に対する適応とは相互に制約する。自然に対する適応の仕方が社会の組織や制度を規定し、逆にまた後者が前者を規定する。自然に対する技術と社会に対する技術とは相互に聯関している。そして歴史的に見ると、近代社会における中心的な問題は自然に対する技術であったが、それが産業革命となり、その後その影響から重大な社会問題が生ずるに至り、現代においては社会に対する技術が中心的な問題になっているということができるであろう。

 しかし道徳は外的なものでなく、心の問題であるといわれるとすれば、そこに更に心の技術というものが考えられるであろう。心の徳も技術的に得られるのである。人間の心は理性的な部分と非理性的な部分とから成っているとすれば、理性が完全に働き得るためには非理性的な部分に対する理性の支配が完全に行われねばならぬであろう。この支配には技術が必要である。人間生活の目的は非理性的なものを殺してしまうことにあるのでなく、それと理性的なものとを調和させて美しき魂を作ることであると考えられるとすれば、技術は一層重要になってくる。心の技術は物の技術と違って心を対象とする技術であるにしても、それは単に心にのみ関係するものではない。この技術もまた一定の仕方で環境に関係している。即ち物の技術においては、技術の本質であるところの主観と客観との媒介的統一は、物を変化し、物の形を変えることによって、物において実現される、そこに出来てくるのは物である。心の技術においても環境が問題でないのでなく、ただその場合主観と客観との媒介的統一は、心を変化し、心の形を作ることによって、主体の側において実現される。かくして「人間」が作られるとき、我々は環境のいかなる変化に対しても自己を平静に保ち、自己を維持することができるのである。その人間を作ることが修養といわれるものである。修養は修業として技術的に行われる。しかしながら心の技術は社会から逃避するための技術となってはならぬ。身を修めることは社会において働くために要求されているのである。修業はむしろ社会的活動のうちにおいて行われるのである。我々は環境を形成してゆくことによって真に自己を形成してゆくことができる。いわゆる修業も特定の仕方において主体と環境とを技術的に媒介して統一することであるにしても、心の技術はそれ自身に止まる限り個人的である、それは物の技術と結び付くことによって真に現実的に社会的意味を生じてくるのである。

 技術的行為は専門的に分化されている。そして自己の固有の活動に応じて各人にはそれぞれ固有の徳があるといわれるであろう。大工には大工の徳があり、彫刻家には彫刻家の徳がある。徳とは自己の固有の活動における有能性である。しかるにかようなそれぞれの徳が徳といわれるのは、その活動が社会という全体のうちにおいてもつ機能に従ってでなければならぬ。各人は社会においてそれぞれの役割を有している。人間はつねに役割における人間である。各人が自己の固有の活動において有能であることが徳であるのは、それによって各人は社会における自己の役割を完全に果すことができるからである。無能な者はその役割を十分に果すことができぬ故に、彼には徳が欠けているのである。かようにして徳が有能性であるということは、人間が社会的存在であることを考えるとき、徳の重要な規定でなければならぬ。ひとが社会において果す役割は彼の職能を意味している。自己の職能において有能であることは社会に対する我々の責任である。物の技術において有能であることも、社会に関係付けられるとき、主体に関係付けられることになり、道徳的意味をもつに至るのである。

 各人が専門に従って有する徳はそれぞれ異っているであろう。しかるに徳はかように特殊的なものでなく普遍的なものでなければならぬと考えられている。大工が大工として有する徳が徳であるのでなく、むしろ彼が人間として有すべきものが徳である。かような徳は、彼の専門の活動がいかなるものであろうと、すべての人間に共通である。例えば、正直であることは、大工にとって必要であるばかりでなく、商人にとっても必要である。そこに技術的徳と固有な意味における徳とが区別される。徳は人間性に関わるもの、普遍人間的なものと考えられる。それは各人の固有な活動に関わるものでなく、人間の人間としての固有な活動に関わるものでなければならぬ。プラトンが技術的徳に対して「魂の徳」といったのはかようなものである。道徳は主体的なものに関係し、人間性というのもかようなものでなければならない。枝術的徳から区別して魂の徳というが如きものを考えることには或る重要な意味がある。しかしながらまたそれぞれ固有の活動に従事する人間を離れて人間一般を考えることは抽象的である。大工の人間は彼の大工としての活動を離れて考えられず、芸術家の人間は彼の芸術家としての活動を離れて考えられない。各人の固有な徳から抽象して人間性一般の徳を考えることは無意味であろう。技術的徳とは別に徳そのものを考えることは、道徳を単に意識の問題と見て、行為の立場から見ない抽象的な見方に陥り易いことに注意しなければならぬ。ゲーテが考えたように、技術は人間に対して道徳的教育的意味をもっている。ひとは彼の技術に深く達することによって人間としても完成されるのである。

 しかしながら他方、それにも拘らず、職能的専門家と人間とが区別され、技術的徳と魂の徳というが如きものとが区別されねばならぬところに、道徳の一つの重要な根拠があるのである。そのことは道徳の根拠が抽象的な人間性一般にあるということではない。人間はすべて個性である。そして専門家として技術的徳を具えることによって、各人の個性は形成され発達させられるということは事実であろう。しかしまた自己の専門は自己の個性に応じて自己みずからが決定し得るものである。そして個性の意味は専門家の意味に尽きるものではない。言い換えると、人間の人格は役割における人間の意味を超えたものである。役割における人間の意味を超えた個性が人格といわれるものである。人格といっても、すべての人に抽象的に共通なものがあるのではない。人格はつねに個性的である。ただそれが単に役割における人間とのみ見られない超越的意味をもっているところに人格があるのである。人間が主体的存在であるというのはその意味である。人間存在の超越性において人格が成立する。人格が或る超個人的意味をもっていると考えられるのも、そのためである。そこに技術的徳とは異る魂の徳というが如きものも考えられるのであって、それは人格的徳のことでなければならぬ。人間の主体性の自覚においてペルソナ(格人)とは異るペルゼーンリヒカイト(人格)が成立するのである。ペルソナはもと俳優が自己の演ずる役割に従って被る面を意味し、従って役割における人間のことである。人間は単に役割における人間でなく、人格である。人格として人間は単なる職能的人間を超えたものである。専門家として通達することによって彼の人間は作られるといっても、彼が単に専門家に止まっている限りそれは不可能であって、そこには専門にありながら専門を超えるということがなければならぬ。そのことは人間存在の超越性を示している。そしてそのことはまた、技術が人間の作るものでありながら人間を超えた意味をもっているということ、即ちそれが単に人間的なものでなく世界的・歴史的意味をもっているということを示している。人間の技術は自然の技術を継続するというのも、そのことでなければならぬ。そこでまた人間は形成的世界の形成的要素と考えられるのである。

 かようにして人間は役割における人間であると同時に人格である。道徳は人格的関係であるといっても、人格的関係は役割の関係から抽象して考えられず、逆に役割の関係は同時に人格的関係であって道徳的である。役割における人間として我々は有能でなければならず、人格として我々は良心的でなければならぬ。しかも二つのことは対立でありながら統一である。我々の役割は社会的に定められている、役割はつねに全体から指し示され、全体と部分との関係を現わしている。職能的人間として我々は社会から規定されている。従って人間を単に役割における人間として見てゆけば、社会と個人との関係は全体と部分との単に内在的な関係となり、個人の自由は考えられないであろう。その場合、個人は社会にとって有機体の器官の如きものとなり、単なる手段として存在するに過ぎなくなるであろう。しかし人間は人格である。人格として人間は自由である。彼の自由は彼の存在の超越性において成立する。人間は社会に単に内在的であるのでなく、同時に超越的である。我々は社会のうちにありながら社会を超えている、我々が単に民族的でなく同時に人類的であるというのも、その意味である。社会からいえば、社会は個人に対して単に超越的であるのでなく、同時に内在的である。社会は我々の外にあるのでなく我々の内にあるということができる。しかしながら、真に内なるものは真に外なるものでなければならぬ、それは外なるものよりもなお外なるものとして真に内なるものであるのである。我々の内なる人類というものは単に主観的なものでなく、真に外なるものとして最も客観的なものでなければならぬ。それは抽象的普遍的なものとして考えられた人類でなく、却って人間の存在の根拠としての世界でなければならぬ。従って我々は人格として社会を超えるといっても、個人的非社会的であるということではない。我は汝に対して我であり、我の存在根拠であるものは同時に汝の存在根拠であることなしには我の存在根拠であることもできぬ。しかも真に内なるものは真に外なるものであり、外なるものを離れて内なるものがあるのではない、現実の世界とは別に世界があるわけではない。世界は自己形成的世界である、世界は世界を作ってゆく、人間は創造的世界の創造的要素である。我々の役割は単に社会から書いて与えられているのでなく、他方我々自身が自由に書き得るものである。言い換えると、それは社会的に定められていると同時に我々自身の定めるものである。我々は社会から限定されると共に、逆に我々が社会を限定する。我々は社会に働きかけ社会を変化することによって自己の役割を創造してゆかねばならぬ。我々の職能は固定的なものでなく、歴史的に、言い換えると、主観的・客観的に形成されるものである。役割における人間として我々は社会にとっての手段であるとすれば、人格として我々は自己目的である。人間は自己目的であると同時に手段であるという二重の性格のものである。

 さて右に述べたように徳と技術とが結び付いているとすれば、徳と知との結合はおのずから明瞭であろう。すべての技術は知識を基礎としている。行為が技術的である限り、行為における発展は知識における発展によって可能にされる。徳と知とを分離的に考えることは、行為を技術的・形成的行為として根本的に把握しないところから生ずるのである。ここに技術というのは、もとより単に自然に対する技術をのみ意味しない。むしろすでにいった如く、社会に対する技術が今日極めて重要な問題となっている。とりわけ政治はアリストテレスが考えたようにアルヒテクトニッシュな意味をもっている。即ちそれはあらゆる技術の目的となるような技術、他の技術に対して総企画的にその位置と関係を示す指導的な技術である。アリストテレスにおいて政治学と倫理学とは一つのものであった。人間は本性上「社会的動物」であるとすれば、政治学と倫理学とは離れたものであることができぬ。アリストテレスにとって政治の目的は、いかにして「善い国民」であることと「善い人間」であることとを統一するかということであった。人間は「善い国民」の意味において社会にどこまでも内在的である。従って仮に自己の属する社会が悪いとしても、その社会において与えられた役割を果し、その社会に仕えることが彼の義務であるといわれるであろう。しかしながら人間は同時に「善い人間」の意味においてその社会を超えたものである。自己の自発的な行為によって自己がその中にいる社会を善くしてゆくことが人間の義務であるといわねばならぬであろう。我々は社会から作られたものであると共に社会は我々が作るものである。人間は閉じた社会に属すると同時に開いた社会に属している。かように矛盾があるところから形成的発展ということがあるのである。善い国民であることと善い人間であることとが統一されてゆくに従って、民族は世界的意味をもってくる。それによって同時に世界は世界的になってゆく。世界が世界的になるということが歴史の目的である。世界は開いたものとして到る処中心を有する円の如く表象されるように、世界が世界的になるということは無数の独立なものが独立なものでありながら一つに結び付いてゆくということである。それによって個別的なものがなくなるのではない。却って「形の多様性」は自然の、歴史的自然の意志である。


行為の目的


 行為には目的がなければならぬと考えられている。行為は意志に基いて起り、意志は目的をもっている。そして一般に知識の目的が真理であるように、道徳的行為の目的は善と呼ばれるのである。そこで善とは何かということが道徳の根本問題になってくる。

 行為の目的は快楽であるとするのは快楽説である。それとつながって、行為の目的は幸福であるとする幸福説がある。幸福は何等かの快楽を意味している。ところで快楽は主観的なものであり、各個人によって快楽とするものは異る故に、快楽を目的とする場合、道徳は客観性のないものになるであろう。そこに何等か客観的な標準を求めようとすれば、快楽というものを量化して考えねばならなくなる。もし快楽に肉体的快楽と精神的快楽というような性質的差別を認め、我々の求むべきものは肉体的快楽でなくて精神的快楽であるというように主張するとすれば、それはすでに道徳の基準を快楽以外のものから取ってくることになる。快楽を無差別にただ量的に考えるのでなければ快楽説は純粋でない。しかるに心理現象は本来すべて性質的なものであって、量的に考えることを許さないのである。功利主義者ミルの如きも、幸福な豚になるよりも不幸なソクラテスになることを選ぶといっている。しかしもしかように考えるとすれば、それは快楽説の自殺でなければならぬ。次に我々は快楽を求めて快楽を得るのでなく、むしろ一時の快楽を否定することによって、真の快楽に達するというのが普通である。しかもこのように考えることも純粋な快楽説にとっては不可能でなければならぬ。なぜなら快楽説は元来あらゆる超越的なものを認めない内在論であるから、従って快楽説にとっては刹那主義が当然の帰結である。一時の快楽を否定して後の一層永続的な快楽を求めるということは、すでに行為に何等かの超越的な目的を認めることであり、少くとも快楽に性質的な差別を認めることである。更に我々の行為が身体的なものである限り、それが快楽を離れないことは当然であると考えられるけれども、身体というものも物体とは異り、どこまでも主体的なものである。我々の身体もまた超越的意味をもっている。人間が超越的であるのは単にいわゆる精神においてでなく、却ってその全体の存在においてである。人間の感性はどこまでも人間的であって、単に動物的であるのではない。即ちそれはデモーニッシュな性質をもっている。かようにして我々はつねに快楽を求めて行為するというのでなく、むしろしばしば悲劇的なもの、快楽や幸福を否定するものを求めてさえ行為する。この点において快楽説は、抽象的なオプティミズム(楽天説)に立っている。また更に快楽は多くの場合我々自身に依存するのでなく、我々の外部にあるものに依存している。それは自己の外部にある物に依存し、或いは他の人間の存在に依存している。従って快楽を目的とする行為は自律的でなくて他律的でなければならぬ。かような行為は自由であることができぬ。自律的でないところに自由はないからである。もと内在論の上に立つ快楽説においては自由は認められない。自由の根拠は人間存在の超越性である。

 快楽は生命に対する功利的価値を意味している。そこで快楽説は功利主義的であるのがつねであり、功利主義はまた快楽説的であるのがつねである。我々の生活は環境における生活であるとすれば、我々の行為が何等か功利性を目差しているということは疑われず、その限り功利主義は理由をもっている。しかるに我々にとって環境であるのは何よりも社会である。我々は本質的に社会的存在であるとすれば、我々はもと唯ひとり幸福になることができぬ。社会のうちに不幸な人間が存在する場合、我々は真に幸福になることができないであろう。従って快楽とか幸福とかというものも社会的に考えられねばならぬであろう。功利主義者ベンサムは最大多数の最大幸福ということをもって道徳の原理としている。快楽説は個人的快楽説から社会的快楽説になった。ところで先ず最大幸福という観念は、幸福を単に量的に見るものである。それはすべての快楽を量的に見る機械的な合理主義に立っている。次に最大多数という観念は、真に社会的な見方に立つものでなく、社会を個人の和と見る個人主義的な見方を基礎としている。すべての個人がめいめい自由に自己の幸福と考えるものを飽くまでも追求するとき、そこに自然に社会全体の幸福が結果すると考えるのがベンサムの社会的快楽説である。従ってその根柢には予定調和の形而上学のオプティミズムが横たわっている。

 ところでカントは、快楽とか幸福とかを道徳の原理とすることは、道徳の原理を内容に求めるものとして排斥した。道徳は普遍妥当的なものでなければならぬ。しかるに意志の内容は普遍的なものであり得ず、従ってそれを原理とするとき、道徳の普遍妥当性は基礎付けられない。快楽説や功利主義などは相対主義に陥らねばならぬ。そこで道徳の普遍妥当性は内容にでなく形式に求められねばならぬとカントは主張した。知識の場合、その普遍妥当性の根拠が思惟の形式に求められたように、道徳の場合にも、その普遍妥当性の根拠が意志の形式に求められたのである。道徳の形式は意志の形式として主観に属するのであるから、形式主義は主観主義である。かような主観主義は、道徳においては実際にどうあるかということが問題でなく、何を為すべきかということが問題であり、道徳は事実にでなく当為に関わると考えられる故に、この場合、知識の場合におけるよりも一層理由を有するように思われる。道徳は命令の性質を具えている、その命令は絶対的でなければならぬ。しかるに内容を顧慮すれば、しかじかであるならばしかじかのことをせよというように、命令は仮言的になり、断言的であることができない。そこで道徳の命令が絶対的即ち断言的であるためには、形式主義の立場に立たねばならぬ。カントはかような断言的命令として、「汝の意志の格率がいかなる時にも同時に普遍的な立法の原理として妥当し得るように行為せよ」ということを掲げた。カントの形式主義は、快楽や幸福が行為の動機となることを一切斥けて、道徳的行為は純粋に義務のために義務を行うものでなければならぬと考えるのである。そこでカントの倫理説は厳粛主義と称せられている。これによってカントは道徳における心情の純粋性を要求する。「この世においても、またこの世のほかにおいても、無制約的に善と呼ばるべきは、善なる意志のほかにはあり得ない」、と彼はいっている。彼の倫理は「心情の倫理」であるといわれるであろう。

 心情の倫理が絶対的であるのは、それが超個人的な普遍的な理性を基礎とすることに依るのである。カントに従うと、実践理性は自律的であり、自己が自己の立法者である。我々の行為は理性の普遍的法則に対する尊敬の感情から出なければならぬ。しかるに、もし道徳の基礎がかように抽象的一般的なものであるとすれば、我々が道徳法に合致すればするだけ、我々は個性であることをやめ、従って人格でもないということになるであろう。人格はどこまでも個性的なものである。それが超個人的意味をもっているということは、理性という抽象的一般的な本質に依るのでなく、却って人間がその全体の存在において超越的であるためである。善なる意志に基いてなされる行為が内容的な動機を含まず、無動機であるかのようであるのも、人間存在の超越性に依ってである。ただ主観的な動機からでなく、客観的な命令に従って行為することが道徳的である。己れをなくするとき、表現的なものはそのものとして顕わになり、我々に命令的に働きかけてくる。表現的なものが命令的なものであるのは、それが超越的意味をもっているからである。かようにして外からの命令に従って我々が働くということは、単なる外的強制に従うということでなく、却って真に内から働くということである。真に自己自身に内在的なものは超越的なものによって媒介されたものでなければならぬ。主観的な自己を殺してこのものに生きることによって、我々は真の自己となるのである。

 然るに行為は単に意識の内部における現象でなく、行為するとは却って意識から脱け出すことである。行為するには身体が必要である。我々の自己は身体的な自己である。従って快楽とか幸福とかという感性的なものも、行為にとって無視することのできぬ要素である。パスカルのいった如く、すべての人間は幸福を求めており、それには例外がない。幸福を軽んずる者も、それ自身の仕方で幸福を求めているといえるであろう。内容をもたぬ単に形式的な意志というものはあり得ない。我々の行為はつねに環境における行為であり、環境に適応してゆくことによって我々の生命は維持されるのである。それ故にすべての行為は生命価値をもったものであり、功利的なものである。スピノザのいった如く、すべての個体はその存在において能う限り持続することに努めている。我々の行為は一定の環境における行為として、単に形式的なものであることができず、内容的なものでなければならぬ。我々の意志は抽象的一般的なものでなく、現実的に歴史的に限定されたものでなければならぬ。

 ところで行為は意識の外部に出るものである以上、それはつねに社会的に結果を生ずるであろう。我々は社会的存在として我々の行為の結果に対して責任を負わねばならぬ。行為を単に動機からのみ見て、動機さえ善ければ行為は善であると考える動機説は、主観主義、個人主義であって、行為を本質的に社会的なものと考えないところから生ずる誤謬である。自己の行為を完全に為し能うために知識をもたねばならぬということも、我々の社会的責任として我々に要求されているのである。倫理は「心情の倫理」に止まることなく、「責任の倫理」でなければならぬ。責任の倫理は自己の行為の結果に対して責任を負うことである故に、それは知識を欠くことができないのである。我々は知識によって我々の行為の社会的結果をできるだけ予見して行為しなければならぬ。責任の倫理は行為の結果を重んずるのであるが、それは単に結果さえ善ければ行為は善いと考えるいわゆる結果説であってはならぬ。結果説には人格的な見方が欠けている。それは自己をも他をも人格として認めないところから却って最も無責任なことともなり得るのである。人格とは或る内面的なものであり、内面性なくして人格はない。結果を考えることを他律的として排斥するカントの倫理学において重んぜられたのは、人格の内面性である。人格は自由なもの、自律的なものであり、かようなものとして人格は真に責任の主体であることができる。我々は我々の行為において社会に対して責任をもっていると共に自己自身に対して責任をもっている。自己の人格を尊重するということは、自己が自己に対して責任をもつということでなければならぬ。倫理は心情の倫理と責任の倫理との統一である。

 しかし我々の行為は単に我々自身から起るものでなく、環境からび起されるものである。それは単に主観的なものでなくて客観的なものである。環境が我々を喚び起すというのは、それが表現的なものであるからである。環境においてあるものが表現的であるということは、我々が主観的に、例えば感情移入の作用によって、その中へ意味を投入したというが如きことではない。表現的なものの表現する意味は単に心理的なものでなく、超越的なものでなければならぬ。かようなものとしてそれが我々に呼び掛けるということは絶対的な命令の意味をもっている。その呼び掛けに対する答として我々の行為は客観的な意味をもっている。表現的なものに呼び掛けられることによって生ずる我々の行為はそれ自身表現的なものである。しかるに表現作用は形成作用である。我々は我々の行為によって我々の人間を形成してゆくのである。人間は与えられたものでなく形成されるものである。自己形成こそ人間の幸福でなければならぬ。「地の子らの最大の幸福は人格である」、とゲーテはいった。我々の人格は我々の行為によって形成されてゆくのであるが、それは単なる自己実現というが如きことではない。道徳は自己実現であると考えるいわゆる自己実現説は、一個の内在論にほかならぬ。実現とは自己のうちに含蓄的にあったものが顕現的になるということを意味している。人間には超越的なところがあり、人格というものも人間存在の超越性において成立するのである。また我々は単に自己自身によって自己を作るのではない、我々は環境から作られるのである。その環境はしかし逆に我々の作るものであり、我々は環境を形成してゆくことによって我々自身を形成してゆくのである。

 我々の行為は客観的表現から喚び起されるものとして、主体的に見ると、どこまでも無目的であるということができる。己れを空しくするに従って客観は我々に対して真に表現的なものとなるのである。しかし客観的に見ると、我々の行為はつねに限定されたものに向うものとして目的をもっている。我々の行為にはつねに歴史的に限定された目的がある。目的というものは、主体が作為して作ったものではなく、現実そのもののうちに、その客観的表現のうちにあるのである。従ってそれは客観的に認識することのできるものである。我々は現実を科学的に認識することによって、我々の行為の目的を捉えねばならぬ。それは歴史の必然的な発展の方向のうちに与えられている。しかし歴史は単に客観的なものでなく、また単に客観的なものは目的ということもできないであろう。歴史は我々にとって単に与えられたものでなく、我々がその中にあって、その形成的要素として、我々の作るものである。しかし我々は勝手に歴史を作り得るものでなく、我々の目的は客観的なものでなければならぬ。形成的世界における形成的要素として、我々の行為は本来つねに職能的な意味をもっている。その世界の我々に対する呼び掛けが我々にとっての使命である。職能は使命的なものであり、使命はまた職能に即して歴史的・社会的に限定されたものである。しかし単に客観的なものは使命とは考えられない。外からの呼び掛けが内からの呼び掛けであり、内からの呼び掛けが外からの呼び掛けであるところに使命はある。真に自己自身に内在的なものが超越的なものによって媒介されたものであり、超越的なものによって媒介されたものが真に自己自身に内在的なものであるというところに、使命は考えられるのである。かような使命に従って行為することは、世界の呼び掛けに応えて世界において形成的に働くことであり、同時に自己形成的に働くことである。それは自己を殺すことによって自己を活かすことであり、自己を活かすことによって環境を活かすことである。人間は使命的存在である。

底本:「三木清全集 第七巻」岩波書店

   1967(昭和42)年417日発行

底本の親本:「哲学入門」岩波新書、岩波書店

   1940(昭和15)年3月発行

※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。ルビはすべて、「作業指針」に基づいて付けた加えたものです。

その際、以下の置き換えをおこないました。

「恰も→あたかも 乃至→ないし 如何→いか・いかん」

入力:kompass

校正:石井彰文

2007年412日作成

2012年719日修正

青空文庫作成ファイル:

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