老嫗面
坂口安吾



 初夏のうららかなまひるであつた。安川はタツノの着物をつめこんだ行李を背負つて我家へむかつた。安川のうしろには、タツノが小さな手荷物をさげ、うはづつた眼付をしてぼんやり歩いてゐた。タツノのうしろには彼女の三人の朋輩が、一人はあくどい紫色の女持トランクをぶらさげ、あとの二人は異体えたいの知れない大包のみそれぞれ一端をつるしあげながら、からみあつてねり歩いてきた。露路の奥から子供の群が駈けだしてきて声援しながら見送るほどの盛大な引越であつた。


 小さな酒場の女主人が駈落した。誰知らぬうちに店の権利を売つてゐたので、翌日から主人が変り、三人の女給が難なく居残ることになつたが、駈落した前主人の姪にあたるタツノの処置に人々は困つた。

 タツノは肺を病んでゐた。二十一才であつた。癇癖が強く、我儘で気まぐれだつた。ひとつのことに長く注意のつづかぬたちで、話の途中にぷいと席を立つてしまふし、腹を立てると食事を摂らずに部屋の暗い片隅に一日坐りとほしてゐた。鞠のやうにはずみきつた時間のあとでは、馴れた人も見破れないまことしやかな嘘をついて人々に迷惑をかけ、自分は半日泣きつづけてゐる習慣だつた。

 新しい女主人はタツノを見ると一目から嫌ひになつた。胸の病が分つたときには、運わるく疫病神に出会つたやうに目をつぶつて逃げのびて、三日のうちに出ていつてくれと隣の部屋から金切声できやん〳〵喚いた。タツノに恋人のなかつたことが、今となつては人々の頭痛の種になるのであつた。

 安川はかねてからこの酒場の常連で、タツノの事情を知つてゐた。戸の隙間から風がふらふら流れこんできたことと同じやうな様式で、ひとつこの娘を引取つて養つてやらうといふ凡そ無意味な考へが安川の頭一杯にふくらみきつてしまつた晩、彼は妻君の松江の前で、途方もなく立派なことをするやうな勇みきつた愉しさで自分の決意をまくしたててゐたのであつた。「勝手におしよ」と妻君は言つた。蓋し名言。安川も苦笑を洩した。そのくせ「そんなら勝手にするよ」と早速きめてしまつたのは、子供同志の諍ひで相手の揚足をとるでんであるが、五尺の男児みすぼらしい様子であつた。まさかに之が実現しようと思はなかつた松江は、異様な行列が門前にとまり、近所合壁の連中が裏木戸へ走りだして首をつきのばした瞬間も、自分も同じ高見の見物であるかのやうな好奇心を忘れなかつた。然し派手な着物をきて鼻先から額に汗をにぢませた女共が遠慮会釈もなくかまちの上へどつこいしよと荷物を投げ込み、犬屋の店先であるかのやうに口々に吠え、而して遂にわが良人おつとなる人物が汗にまみれて疲労のどん底にありとはいへ、真剣なることアトラスのごとき重々しさで大きな行李をかつぎこんでくる様を認めた時に、松江は思はずきやッと叫んで台所へと退散した。無意識のうちに下駄をつつかけ、ただフラ〳〵と外へでた。半分は餓鬼共の遊び場であり、半分は塵芥棄場でもあるところの異臭芬々ふんぷんたる広場へでると、あたかも青空の広さをめがけて突き走るもののやうに熱い涙がこみあげてきたのであつた。


 安川夫妻は母の家に寄食してゐた。正確には兄の家と言ふべきであるが、兄は死に、嫂も死に、三人の子供のみが残された家では、母が金をまもつてゐた。安川は自分の母をおたき婆あとよんでゐた。はじめ松江がおたき婆あとよんだのである。おたきは松江をきらつてゐたので、松江はおたきを憎んでゐた。安川は松江の立場が可哀さうだと思つたので、自分も忽ちおたき婆あとよぶのであつた。

 安川と松江がまがりなりにも一戸を構へてゐた時のこと、窮迫のさなかに折悪しく安川は盲腸炎にかかつた。心当りの金策に失敗した松江は、万策つきておたき婆あを訪れた。自分と不和であるにしても、実の子供の盲腸炎を見棄てるはずはないと思つた。おたき婆あは兄の子供にのこされた多少の貯財のほかに、それより多額の臍繰りをたくはへてゐた。

 おたきは老眼鏡をかけて新聞を読んでゐた。松江の話の最中も、話の終つた後も、同じやうに眼に新聞を寄せつけて口をへの字に結んでゐた。同じ頼みを松江は三度くりかへした。おたきはいくらか気色ばんで立上ると、奥の部屋から富山の売薬袋をもちだしてきて、入用の薬をこの袋から探しだして持つて帰れと早口に言つた。堪へうる限りの忍耐の結果が、一円の金ですらなく、売薬にすぎないことが分つたとき、逆上のあげく失神しさうな自分を感じ、一時も早く鬼の前から逃げ去ることを希ひながらひたすら道を歩いてゐる自分の姿に松江はやうやく気付いたのだつた。

 その後安川がおたきに会ふと、それごらん、誰の世話にならなくとも丈夫な身体になつたぢやないか、人の力をたよつては立派な男になれませんと、まづ第一におたきは教訓を垂れたのだつた。

 安川はその後いよいよ食ひつめて、おたきのもとへころがりこんできたのであつた。子供が母にすがりつく素直な気持はみぢんもなかつた。仇敵に食を恵まれても恐らく温情は感じるだらう、刑務所へぶちこまれてまんまと食にありついたら一切くだらぬ傷心に心をみだされるうれひなく食事々々を空気の如く虚心自然にくひうるであらう。おたきの家に起居することは即ち刑務所に起居する際の刺戟なきこと白雲のごとき絶対平和な日常をぬすみうることと同じである。おたきの与へる食事ほど物質的な食ひ物を、刑務所の弁当を外にしては想像することができなかつた、誰の世話になるといふひけめもいらない。おたきが彼等を養ふために苦労と迷惑を重ねるにしても彼等はてんで平気であつたし、然しおたきは恐らく苦労も迷惑もしないであらう。まよひこんだ野良猫に魚の骨をくれてやる気持であらう。さうしたら、彼等が野良猫であればいい。野良猫のやうに飯を食ひ、なまじひに人間なみの過分に多感な飯の食ひ方をしないだけでも幸せだ。利用する気持のほかには情も愛もないのであつた。これを換言すれば、利用する気持のほかに愛も情も起させない、これほども見事に精神にひつかかりのない避難所は、刑務所の外に想像の余地がなかつたのである。

 安川が子供のときの話であつた。台所から茶の間まで飯櫃を運ぶことを命じられた。子供には重すぎたので、一足毎がひきずられて行く形であつたが、運悪く敷居に爪さきを引つかけたので、飛び込むやうな激しさで前へのめつた。飯はどつと畳の上へ流れでたが、彼は生爪をはがしたために、悲鳴をあげてころげまはつた。おたきの眼には四散した飯のほかには子供の怪我も映らなかつた。一途の憎悪が稜角をたてて盛りあがり、少年の一生に拭ふべからざる悪鬼の印象を与へたのだつた。おたきは子供の後襟をいきなり掴んで物置の中へひきずりこんだ。奥へめがけて力一杯押しとばしておき、遮二無二錠を下すのだつた。おたきのいつわらざる本心が咄嗟にあらゆる計算をふみはづしてその全貌を暴露してゐた。一日の米に価ひしない子供であつた。頭のしんへ突きぬける傷の痛さに泣き狂ひながら、子供は母の心を知り、茫然己れを失ふやうな竦む思ひを感じつづけた。こぼれた飯の惜しさにも価ひしない見棄てられた傷が、自分にかくも堪へがたい苦痛を与へてゐることが、奇妙な皮肉に思はれて、自虐的な滑稽感とめくるめく憤怒を覚えた。

 その後子供は憎しみにも倦み疲れはてて生長した。憎しみの代りに倦怠だけがあるほどだつた。母の問ひに答へる時ほどつッけんどんな場合はなかつた。同じ問ひを路傍の人にかけられた時は、まだ親しさと温かさとを心にこめて答へるのだつた。たとへば十年会はなかつたおたきに会つて、会はない時のくらしぶりを話してごらんと言はれるのだつた。すると彼はその問ひに答へることほど自分を卑しくすることはないと思ふのだつた。会はなかつた十年間どんな暮しをしてゐようと大きなお世話だ、どんな暮しをしてゐようとおよそ脈絡はないのだから。赤の他人が通りいつぺんの挨拶で同じ問ひを浴びせるなら通りいつぺんの気軽さで答へる手段もあるだらう。同じものを母の形でやられては腹が立つてくるばかりだ。顔の血の気も消えうせて、舌ざはりまで言葉が砂であるやうに空虚になる。十年ぶりに会つた子供は、そこで一語も答へずに、ぷいと立つて庭を眺めに行くのであつた。

 そんな冷酷な仕打ちを受けてもおたきの顔色は動かなかつた。同じ冷酷な仕打ちを子供に向つて加へるときと同様に、仕打ちを受けてもその顔色は動かないのだ。おたきの不動の表情が安川にとつて最も苦痛な恐の対象になるのであつた。おたきの不動の表情と母なることの事実とに、どういふ秘密のつながりが隠されてゐるのであらう? それを思ふと、子供の心に、ひたすらな盲目な恐怖がわいた。

 安川がおたきのもとへころがりこんで間もない時のことであつた。おたきがいつもと変らない無気味な静かさを宿した声で、牛乳配達は朝の早い商売で、朝起きは三文の得といふとほり早朝の澄んだ空気は身体にも良く、疲れた心にも爽やかだから、人間商売を選ぶなら彼等ほど恵まれたものはないだらうと言ふのであつた。それはどういふ意味だらうと安川は思つた。恵まれた商売だからお前も牛乳配達になれといふ意味であらうか? もともと安川は牛乳配達であらうと自由労働者であらうと商売に軽重をつける気持はもたない男で、生来の怠け癖と非力からさういふ働きを愛さなかつたまでであるが、いよいよ仕方のない時はさういふ仕事をしていいと考へてゐた。然し金に困らない母の口から同じ言葉をきかうとは! それは我慢がならないし、まさかにそれは有り得ないと彼は思つた。屈託した毎日をくらす母だから、色々気まぐれな思ひもあつて、さういふ思ひの無意味なひとつにすぎないだらうと考へたのだ。有耶無耶うやむやな事迄にお茶濁して、その日はそれですんだのだつた。

 翌る日の夕方だつた。散歩にでようとして門をでると、折から車をひいてくる牛乳配達に行き会つた。彼は変な親しさを見せて笑ひかけてくるのであつた。昨日のことは忘れてゐたので、安川は気にもとめずに顔をそらして歩きだした。とつぜん牛乳配達は追ひつくやうに急ぎながら声をかけた。君はこの家の書生かね居候かね、と。安川はうんと答へた。君はうちの店に働くのだらうと男は言つた。いや、ほかの仕事があつたから、君の店はよすことにしたと安川は答へた。そして二人は別れたのだつた。

 安川は怒りと悲しみにむしろ茫然としたのであつた。昨日話をもちだす前に、母はすでに牛乳屋と殆んど確定的な契約を結んでゐたに相違なかつた。しかも何気ないあの空々しい話ぶりよ! しかも更に妖怪的な凄味のあるのは、安川が有耶無耶のうちにおたきの意志をうち消しててんで相手にならないのに、強ひてすすめもしなければ反対もせず同意もせず、あへて悲しみも見せなければ絶望もせぬあの白々しい無表情な顔付だつた。さりげないあの顔付の背後には牛乳屋との思ひもうけぬ契約が秘められてゐたと分つたいま、更に無限の思ひもうけぬ実力を予想せずにはゐられなかつた。それは古い物語の妖婆の業を思はせた。それと母との脈絡を空しく探しあぐねるとき、ただ単に母なる名前に打ちひしがれた五才の幼児であるかのやうな、無残に非力な絶望を思ひあてずにゐられなかつた。

 安川は母への復讐を考へた。これみよがしに牛乳屋との契約を破つてみせても、あの白々しい無表情の顔の前では、単に敗北を強めることにすぎないだらう。安川の怒りと憎しみは大きすぎたし、これを「おたき」と言ひきつては当らぬうらみがあるのだが、「母」に甘える幼児のやうな理智を越えた我儘もあつた。その夜彼は家宝のひとつの大雅の軸をもち出して五百円の金に代へた。これみよがしにさうすることが、むしろ復讐であるよりも、復讐の名前に隠れて悔いるつらさを免れようとするためだつた。彼が連夜の耽溺を、しかも母はなほ冷然たる無表情でむかへつづけた。

 その後彼は屡々しばしば家宝を公然と金に代へて遊興にでかけた。もはや大義名分はなかつた。彼は遊びの虫だつた。それをも母はなほ冷然たる動かぬ顔で見流しつづけてゐたのであつた。それは母なる恐怖を超えて、神か悪魔の審判を思ひつかせる冷めたさと凄さがあつた。もとより神の審判といへ、遊びの虫をとめるよすがになる筈もない。

 かうして最後にきたものが、肺病やみの娘をひきとる気まぐれな一件だつた。


 さてタツノ等の行列が鳥類のそれであるかの如く喚きちらしておたきの面前を通りすぎても、おたきは古沼であるかのやうな無表情のひややかさで、一語の怒りをもらすでもなく、庭の景色に見入つてゐた。


 松江は良人に愛想をつかしてゐたのであつた。今にはじまることではなかつた。貧乏暮しもいやであつたし、貧乏をぬけきる見込みもなささうな、安川の弱気な性格が鼻についてきたのであつた。おたきの家へころがりこむときまつたときには、つくづく情けない思ひがした。人の気苦労も知らぬげに、世の憂鬱を一人占めにしたかのやうな思ひ入れも憎かつたし、実は欲望にすぎないものを身勝手な手数をかけて深刻めかし、連夜の耽溺がはじまつてからは、松江の屡々思ふことはたゞ復讐といふことだつた。復讐の手段に思ひつくのは、ほかの男と幸福にくらし、安川に思ひ知らしてやることだつた。

 松江は日中の多くの時間、ほとんど昼夢に耽つてゐた。何も知らない娘のとき結婚を申出でた男があつた。男に不足があるわけではなく結婚に興味がないので拒絶した。その後安川と知り合つて親の許さぬ同棲をしたのだ。男は著名な会社に務めて地位も上り、今も独身でゐるといふ噂であつた。その噂を松江は確信するのであつた。松江の昼夢は描くのだ、男が自分を奪ひにくる、自分の幻の生々しさが男に独身を通させたのだ、強奪してもと男は思ふ、もはや我慢ができないのだ。そして二人は幸福になる。──然し松江は気付くのだつた。どの空想も二人の幸福を結びにしてめでたし〳〵に終ることはないのである。われ知らず昼夢に沈み、はたと自分に返る時は、それは必ず逞しいまで憎しみをこめて安川に思ひ知らしてゐる時だつた。新婚の幸福の図は稀薄であり記号の如く痩せてゐるのに、安川に思ひ知らせる憎しみの図は肉感の逞しさ生々しさに溢れてゐた。所詮は夢であることの虚しさ。彼女はそれに気付くとき、心静かな日は安堵し、心に波の騒ぐ日は狂気の如く現実を憎んだ。

 安川の親しい友に遠山といふ男があつた。安川は彼をまことの悪党とよんだ。それは一種の愛称だつた。己れを愛すことのほかには誰を愛しもできない男。己れに向ける厳しさのために、彼は孤独を得たのであつた。自己のみ一人の人間で、他人は物にすぎなかつた。さういふ意味の冷血を意味するところの悪党だつた。

 遠山の苛烈な姿が松江の苛酷な現実へ影絵のやうにやがて移り住んできた。日毎々々の松江の昼夢に彼女自身も過程に気付かぬ変化がきて、古い男のそらごとのやうな幻想は消え、遠山を描く秘密の夢が育つのだつた。松江はそれを恋であるとは思はなかつた。なぜなら恋はやさしいものだ。さうして恋は清らかなものだ。百合や薔薇がふさはしいのだ。彼女はそれを信じてゐた。それだのに自分の描く二人の夢はみだらで汚く息がつまつた。肉体だけがのたうちまはつた。それを思ふと松江は無性に口惜しくなるのだ。盗まれた、何もかも、乙女も生活も金も恋も清らかさも。それをみんなあの男安川がしたのであつた。安川は悪者悪党悪魔だつた。あの悪党がわたしをこんなにしてしまつたのだ。わたしの睡つてゐるうちに汚い魂にすりかへたのだ。


 タツノ一行の襲来にはじきだされた松江は、雑草の繁みをよけながら、広場の中をぐるぐるまはつて口惜し泣きに泣いてゐた。あの悪党はひとをどこまで虐めつけたら気がすむといふのだらう。昔は人を死刑にしても憎み足りない気持の時は屍体に侮辱を加へたといふが、安川が自分に与へる侮辱にはまさしく自分の×××××××××××××××××××××××××××××、蛇にいちばんふさはしい残忍さだけ感じられて、その恐しさにぶるぶる顫へてしまふのだつた。

 逃げださう、と松江は思つた。どこへ逃げてもどうせ目当はないのだから、夜が落ちればいやでも帰らねばならないのだが、逃げたいといふ気持だけは追はれるやうに激しかつた。とにかくそれを処理しなければ我慢がならないのであつた。遠山のところへ逃げて行かう。行つてみんな話してやらう、あの悪党のしたことを、と松江は思つた。彼女に元気と悲しさが、ふと改めて流れてきた。

 遠山の住む汚い下宿は土足で階段を登るのだつた。その階段はどんなにソッと歩いても、気の遠くなる思ひがするほど金属質のたまらぬ音がひびくのである。その跫音あしおとのうるささが、松江に一生忘れることのできないやうな怖い思ひを感じさせた。

 遠山は不在だつた。はりつめた気がいちじに弛んだ思ひがした。それでよかつたと自分に言つた。とにかく此処まで来たことで気持は充分済んでゐると思ふのだつた。然し手紙を書き残さねばならないやうな心残りが、ぼんやり頭にからみついて離れなかつた。松江は廊下の窓に凭れて、外の景色を眺めてゐた。そこへ遠山が帰つてきた。

 松江は遠山に会つてみると、その時までとはまるで違つた自分自身を見出した。彼女は泣きもしなかつた。一部始終を語りながら、ひとごとのやうに時々苦笑をもらすのだつた。けれども時々薄い涙が瞳を掩ふた。

「その女なら知つてますよ」と遠山は言つた。「その酒場なら僕も一緒に時々飲みに行きましたから」

 そして彼はさとすやうに語りはじめた。

「それは御二人の夫婦生活を乱すやうな重大性をもつものではありません。あの女は安川の恋愛の対象でなく、性欲の対象ですらないでせう。第一これが恋人だつたら遮二無二隠す才覚に耽るでせうから、公然とうちへ引取るといふことが、つまりそれだけでしかないことを明瞭に語つてゐます。安川のさういふことをやらかしさうな危なさは、僕も前から感じてゐました。安川はあせりすぎてゐるのです。あの男の性格には英雄主義的な熾烈な生き方をもとめる傾向が人並すぐれて強く働いてゐますから、あの男の人生観、もろもろの抽象的煩悶は結局政治的関心へまで発展せずにはすみません。彼はずつと古くから共産主義に心を動かされてゐるのですが、彼を育てた個人主義的な教養と内省とが行動に走ることの一面の欺瞞を許さないため、いまだにぶすぶす内攻してゐるていたらくです。彼はまた富や名誉を手にいれたいと欲しながら、早くも富貴の虚しさに絶望するだけの苛酷な批判精神を植ゑつけられてゐますので、また恋をもとめてゐるくせに、その恋を実際掴みもせぬうちから已に恋のくだらなさに絶望もしてゐる退屈もしてゐるといふ状態です。いはばあの男は理智と本能の渾沌たる矛盾撞着の中に棲みくたくたに疲れきつてゐるやうなもので、たよるべき一つの信念とか真実を探りあてることができないのです。彼はまた文学に生きようといふ狂気にちかい情熱すらもつてゐますが、何を書くべきかといふ疑ひのために、さめる筈のないその情熱をさめたやうに感じることしかできないほど絶望もしてゐるのです。つまり彼は、僕とて同じことですが、まづ何よりも生きる意味が分らぬといふ状態なんです。そこで彼は生きてゐる自分自身を見出すために、何事かやりださずにはゐられないと焦せるのです。それは焦慮にすぎないながら、生存の本質を賭けたもので、殆んど必死でもあれば盲目的な激情を駆り立てさせもするでせう。そのくせ彼の最もやりたいこと、やる意味もあり値打もあること、やらねばならぬこと、つまり政治や文学は、それのもつ意味や値打に対する混乱と懐疑があるために、実は最もやりにくいといふ皮肉な状態にあるのです。もともとその混乱と懐疑から、この焦躁も生れてきたわけですから。そこで彼は、さういふ彼の混乱や懐疑にてんで引つかかる筈のない凡そ愚劣であり無意味である課題だけを、それが無意味であり無価値であるためにれいれいと自分におしつけることができ、又情熱の最後の一滴まで傾注して行ふこともできるといふ奇妙な状態にあるわけなんです。彼はタツノにてんで惚れてやしませんよ。恐らく殆んど関心すらもたないでせう。不用の時には犬ころのやうに投げ棄てたつて悔いも感傷もおこらないほど無関心のタツノの筈です。いはばタツノを引取ることは、ひとつの無意味を引取ることにほかなりません。つまりそこが彼自らも気付かざるこの行動の急所であり鍵でもあります。彼は自分に無意味な課題をおしつけやうとしてゐるのです。それによつて生存する自分自身の姿を見たり、または自分の生命とでもいふものを意識しようといふのですよ。無意味によつて意味らしきものをつくりだすこの惨めなカラクリのほかに、我々はさう易々と自分自身の生存を生命を意識する方法をもとめることができないのです。しかも彼には仲のわるい母親もあり、あなたもあります。あなたや母親がタツノに親切な筈はないから、彼はタツノを養ふために家庭といふ古い秩序と戦つたり、とにかく大きな努力を払ふ必要があります。家庭の破壊を賭け、ひいては自身の破壊すら賭けることの苦痛と混乱によつて、生きる意味と情熱を認識しようといふ、これも亦彼自らの気づかざる、あるひはむしろ知りすぎるほど知りぬいた、悲惨なカラクリのひとつでせう。最も無意味な課題によつて秩序や習慣と争ひ、ただ情熱と混乱をもたらすことが必要だつたにすぎないのです。軌道を忘れた浪曼精神の魔術ですよ。然しこんな情熱や浪曼的心緒が永続する筈はありませんから、むしろ彼に逆らはずほつたらかしておいたなら、情熱のやりばに困つて悲鳴をあげてしまふでせう。さうすることが賢明です」

 遠山の説く分析が思ひあたらぬことはなかつた。否むしろ遠山の語つた程度の良人の心理は知りすぎるほど見抜いてゐる松江だつた。たとへばタツノが安川の愛の対象でないことは、安川がタツノに就て彼女に語つたそもそもの日から、語る口ぶりからだけで充分わかるのであつたし、タツノを一目見たときにそれが裏書きされてゐた。安川はタツノを愛してゐないのだ、それは松江の確信だつた。

 遠山の語る長い分析をきいてしまふと、それが全然耳新しくないばかりか、自分の方がもつとはつきり知つてゐたのに松江は始めて気がついたのだ。さうして松江はさつき広場を泣きよろめいてさまよつたことも、一途に逃げたい激しさに駆られたことも、それが良人の姦淫を憎む気持であつたことに却つて吃驚びつくりするのであつた。ありもしない姦淫を! それの分つた今となつても、然し憎さは変らなかつた。

「だつて安川は卑怯です。変な女をつれこむことが恋愛に無関係であるにしても、わたしをいぢめるためなんです。いゝえ、わたしは分つてゐます。わたしを辱しめるためなんです」

 と松江は言つた。そして溢れる涙をふいた。松江は自分の喋つた事実に口惜し涙を流しながら、喋つた事実が思ひ違ひにすぎないことをはつきり気付いてゐる気がした。

「それは思ひ違ひです」と、再び松江に分りきつてゐることを、遠山は言ふのであつた。

「それはあなたの我儘です。かういふ出来事があなたにとつて口惜しいことは分つてゐますが、口惜しさをさうまで甘やかすのはあなたのためにとりません。自らの手で自分を不幸にすることですから。安川は、要するに、そんな女を引取つたりしなければどうにも足掻きのつかないどん底まで追ひつめられてゐるのです。勿論あなたに、それをいたはる義務や責任はないでせうけど」

「ええ、わたしいたはるなんて真つ平です。わたしがしたいと思ふのは復讐することだけですわ。だつてわたし、いぢめぬかれてきたんですもの。一生を棒にふつてしまつたのですわ」

「そのことだつて責任の一半はあなたにもあります。なぜつて、二人が一緒にくらしてゐるうちは、とにかく一方を全的に許容してゐる理窟以上の事実だからです。とにかく余り、神経をたかぶらせないのが得策ですよ」

 と、遠山は笑ひながらつけたした。

 結局松江は遠山を訪ねて、知りきつてゐることだけを、彼の口からたしかめたにすぎなかつた。救ひも慰めもある筈がなかつた。然し松江はまるで役目を果したやうにホッとしてゐるのであつた。たしかに役目も果してはゐた。なぜなら家へ帰ることが、もはやそんなに苦痛ではなかつたのだから。


 松江は毎日タツノのことで安川と言ひ争つた。安川がタツノを愛してゐるといつて責めるのだつた。二人の間に醜行があつて、引取るほかにどうにも仕方がないやうな破目になつてゐるのだらうと問ひつめるのだ。さういふ松江の顔色は血の気が失せてまつさをだつた。思ひつめた半狂乱の様子であつて、安川の些細な言葉に激動を受け、食ひつくやうに詰め寄せてきた。あまり執拗であるために、安川は神経的な嫌悪を感じて、彼も亦半狂乱に苛立つた。さういふ結果が安川は力一杯松江の頬をなぐりつけ、益々松江が気違ひめいた気の強さで、わんわん泣き、拳をふるつて殴り返してくるのを見ると、もう安川も夢中であつた。彼は松江に馬乗りになつて頸を絞め、足をあげて蹴倒した。松江は全く狂乱しきつて抵抗した。

 そのくせ松江は安川がタツノを愛してゐないこと、肉体の関係もないことを知りすぎるほど知りぬいてゐた。遠山にも同じことを指摘されたし、よしんば誰の助けもない自分一人の判断だけでも、恐らくなんの疑惑もなく同じ確信がもてた筈だ。二人に醜行のないことを知りすぎるほど知つてゐながら、そのくせ自分の神経は休むまもなく苛々と二人の醜行を怒つてゐる、どういふわけだか分らないと松江自身が呆れるのだ。これが嫉妬といふものだらうか? それにしても嫉妬の根拠であるものが事実無根にすぎないことを自分ではつきり知つてゐるのが滑稽だつた。そんな風に思つてゐても、もののはずみで安川にタツノのことをなじりはじめた段になると、もはや夢中で半狂乱になつてゐた。これもみんな日頃自分をいぢめぬいてきたせゐだ、その憎しみの激しさがこんな形で現れるのだ、今に気違ひになるんぢやないかと松江は頻りに思ふのだつた。

 然し松江は気付かないのだ。二人に関係のないことを知りすぎるほど知つてゐながら、その関係があるやうな強迫観念にせめられるのは、実は松江が遠山に不倫の恋をしてゐるからだといふことを。

 松江は自分の不倫の恋を自分でせめてゐるのであつた。安川が同じ不倫を犯してゐれば松江の自責の圧迫は軽くなるのだ。


 安川は松江に不倫をなじられるたびに、事実無根であることをはつきり言へる自分の心の動き方を顧て、これまでの算へきれない女の事情に比べれば、タツノに限つて×××××ですらないことがはつきり分つてくるのであつた。彼の場合にこんなことは稀だつた。それをすかさず利用して、鬼の首でもとつたやうに、事実無根であることを図に乗りすぎたと思はれるほど得々と、あまりいい気に言ひきつてゐる自分の姿が滑稽にすら見えるのだつた。そのうちに連日連夜の同じ答がうるさくなつて、まるで鼻唄をうなるやうに答へる習慣になつてゐたが、彼の心の張り方も同じ惰性でもはや鼻唄のたぐひであつた。鼻唄がむしろ彼の本性を教へてくれたのであつた。いつと分らぬ時間のうちに、タツノの痩せた肉体も、また熄みがたい×××対象であると彼は知つた。

 もともと彼はタツノを愛してゐなかつた。然し不快な存在ではなかつた。いかに彼が酔狂でも、不快と知つて引取る筈はなかつたのだ。彼はタツノを引取る結果、疲れはて追ひつめられた日常に一道の朝の光が射してきて、色さめはてた内部外部に新鮮な蘇生の息吹がもどるやうに考へた。然しタツノの人柄は、恐らく衆目の見るところ、それにふさはしいものではなかつた。タツノは陰気で意地わるで意地つぱりで我儘だつた。髪は赤ちやけて縮れてゐた。不思議に眼だけ未明の沼を見るやうな鈍い大きな静寂を宿してゐて、それは永遠にただ朦朧と見開らかれ、睡りの後も、死後すらも、はりつめた不動の海を常にたたえて本の裏や紙の間の思はぬ場所にぼんやり残り、何を見つめてゐるともなく何か見つめてゐるやうな遠い思ひがするのであつた。タツノは無残に痩せ衰へて、手首は日陰の草の茎でもあるやうに透きとほる悲しい青さをたたえてゐたし、頬骨は痛々しいまで突出して、肉の落ちた顔の色は蝋人形の鈍い死色を宿してゐたが、面長のその輪郭に安川は幼稚と高貴を読んでゐた。とはいへ女の魅力はなかつた。然し安川はそれでよかつた。誰の眼に美しからぬものであらうと、すべては彼の受け取りやうにあつたのだから。さうして彼の見るところでは、宿なしの肺病やみの意地わるの陰気な娘を引取つて養ふといふことがらが、やつぱり蘇生の朝の光を迎へるもとであるやうな勇みきつた思ひがしたのだ。第一彼は亢奮した。思ひつきにすつかり酔つてしまつてゐた。彼はタツノに話しかけ、タツノの方には返事もないのに、自分一人のそれもなんだかわけの分らぬ激情のために不意に涙を滲ませてゐる自分に気付き、然し彼は訝かる思ひも感じなかつた。

「あの杜の青々とした深さをごらん」二人そろつて散歩にでて、彼はタツノに指しながら言ふのであつた。「ほら、鳥がとんでゐる。ああ、あの麦の穂にはきれいな羽虫がとまつてゐるよ」

 そして彼はとつぜん泣いてゐるのであつた。さういふ自分が嘘つきで、浅薄な感傷家で、鼻持ちならぬロマンチストであることを、彼は思ひもしなかつた。あるがままの姿に於て、すべてが純粋に受け容れられる素直さのみが分るのだつた。失はれた少年の日の思ひ出のほか、いつの日か再びそれを知りえようと思はれた素直さで。

 彼はタツノの痰壺を処理することも不快ではなかつた。その献身も素直であつた。ひそかに誇る思ひもなければ、批判のメスに切り刻む必要とても感じなかつた。タツノの病気を治してやるのが、彼のたのしい義務に見え、義務を思ふと溢れる力と喜びを感じるのだつた。

 安川のタツノに寄せる献身が、松江にとつては皮肉でなしに滑稽だつた。然し献身の激しさと、ある意味の純粋さとは分つてゐた。その献身が自分にかつて与へられたためしなく、愛しもしない一人の女に執拗なほどささげられてゐることを見て、松江は嫉妬に苦しむよりもむしろ優越を感じるのだ。タツノにささげる献身は愛と××の証明でなく愛もなく、××もない証明だつた。人間関係であるよりも小児と玩具の関係のやうな思ひがした。そんな惨めな関係を、自分だけは安川に拒みつづけてきたやうな思ひがして、自分に拒まれた腹いせがこのていたらくであるやうな優越感と軽蔑を感じた。自分だけが虐められてゐたからでなく、安川も自分に虐められ、復讐されてゐたのだと考へるのだ。死んでもあいつに愛されてやるものか。あの悪党を憎みとほしてやるのだ、と涙を流して心にかたく誓ふのだつた。


 タツノはひどい嘘つきだつた。それに手癖がわるかつた。ちよつとの油断で一円二円が忽ち消えてしまふのである。金がかうして失くなつた日は、タツノは自分の犯行をすつかり自白してゐるやうに、外出するのが例だつた。その間抜けさは憎めなかつた。活動を見に行くらしかつた。下駄を買つたり、半襟を買つたり、二三十銭の指輪を買つたり、さうしてそれを昔の店の朋輩達へ見せびらかしに行くらしかつた。自分が愛されてゐることを妖婆のやうな薄気味わるい陰鬱さで、突然ぷすんと洩らしたり、さういふあとでは笑ひともつかず、得意の表情であるともつかず、さりとて自嘲でもないやうな深い鼻皺を顔にきざんで、しばらくぼんやりしてゐるといふ話であつた。さういふ話は安川にゐたたまらない思ひをさせた。

 欲しい金ならあげるから盗つてはいけない、遠慮があつてはいけないのだから、なんでも大ぴらに言ふやうに、と安川はたまりかねて或日さとした。タツノは忽ちしやくりあげて泣きだした。私をそんな卑しい人間と思ふなら私は昔のお店へかへる、私は人の金なんか一文だつてとりはしないと言ひはるのだ。

 安川はその強情にてこづつて、敢て追求しなかつた。その代り五日に一円ぐらゐづつ、ねてゐるタツノの枕の横へそつと置いてくるのであつたが、時々金の失くなることに変りはなかつた。ひどい時には一日のうちに三度四度同じことがあるのであつた。それはもう金の必要のせゐではなかつた。盗癖だけのせゐでもなかつた。さういふことのあつた日は、安川が別段それを問題にしてもゐないのに、タツノの眼付は野獣のやうに強情な冷たい反抗をあらはして、むしろ安川を追ひつめるやうに不気味にせまる感じがした。安川は不思議な思ひがしたのであつた。もしやタツノの、これは不思議な好意の表現ではないだらうか、それは有りえないことではない、と。タツノには鞭のやうに強靭な、人に馴れない野性があつた。さういふタツノが人に好意を見せるとしたら、好意のしるしに人の眼を突く鳥のやうに、タツノもこんな表現をとるよりほかに仕方がないのであるまいか。

 たとへばタツノは安川の聖女に仕へるもののやうな献身を見て、もとよりその抽象的な懊悩や葛藤なぞは分る筈がないのだから、安川が自分に寄せる異常な愛慕を信じたのかも知れなかつた。さういふ見方で安川の献身的な仕えぶりをみたならば、女神に仕える神僕か女王に仕へる奴隷のやうにも見えるであらう。うぶな男がおど〳〵と胸の思ひも打ちあけられずに、奴隷の身分に甘んじてうるさく附きまとつてくることが、滑稽でもあり得意でもあり、またいぢらしい思ひがしたかも知れなかつた。

 かういふことがあつたのだつた。ある日タツノは安川に向つて、自分の伯父に当る人が横浜のかういふ所で大きな工場をひらいてゐる、そこへ帰れば自分は女王のやうなものだ、自分はそこへ帰りたいといふのであつた。帰る宿があるくらゐなら、とつくにそこへ追ひ返されてゐた筈のタツノであつた。宿がないから安川が引取るやうな気まぐれな思ひつきにもなつたのだ。嘘にきまつた話なので、安川はそれにとりあはず、とにかくここでゆつくり養生するのがいいよと気のない返事を呟くと、タツノは急にまつかに怒つて、自分を伯父に会はせない気でゐるのかと狂気のやうに喚いたあげくが、わんわん泣いてしまふのだつた。事はそれだけで終らなかつた。タツノはなほも泣きじやくりながら、横浜へすぐ帰るとは言はないから、とにかく伯父をつれてきてと言ふのである。その近辺では名の知れた工場だから、そこへ行つて自分の話を伝へてくれれば、さつそく自家用自動車で乗りつけてくれるにきまつてゐる、今日にも行つてきてくれと、たたみかけて言ふのであつた。さういふ語気の激しさを聞いてみれば、話半分であつたにしても、横浜に伯父のゐることは間違ひがない。来る来ないは別にして、とにかく一応行つてみようと安川は思つた。

 横浜の言はれたところへやつてきて、ひどく長い踏切を行つたり来たりしたあげく、工場地帯をぐるぐる隈なく探したが、そんな工場はどこにもなかつた。昔はあつたと言ふ人もなかつた。安川は疲れきつて帰つてきた。帰つてみると、タツノはちやうど活動から戻つたところで、横浜の話なんぞは忘れたやうな顔付だつたが、伯父の工場がなかつたといふ話をきくと、怒りのためにひきつけて、手足をばた〳〵うちふりながら、ころげまはつて泣き喚いた。泣き声の調子が一段高く変つたと思ふと、急に半身跳ねおこして、机の上の本やインクを手当り次第掴みとり安川めがけて投げつけた。嘘つき! 横浜へ行きもしないで! タツノは口に泡を吹き、噛みつぶされた呟きを繰返し物を投げた。

 ていよく急所をつかれたための照れかくしといへ、思ひあがつた心がなければこんな狂態は演じない。思ひあがるのも人柄で、高貴な風をして生れた美女であるなら時に思ひあがるのも取柄であらうが、赤い縮れ毛をふりみだした蟷螂かまきりのやうな痩せこけた女が女王のやうに思ひあがつてゐることは、概念だけでも醜悪だ。まして事実は眼もあてられない醜怪中の醜怪事だと松江は思つた。さういふ有様を見ることは、血が逆流する思ひであつた。

「ほつとき! そんな白痴のまじめな相手になる奴が大馬鹿野郎よ!」松江は恐らく彼等以上に逆上して、くひつくやうに喚き立てずにゐられなかつた。

「はじめつから大ヨタにきまつてるよ。こんなカマキリみたいな女が工場の社長の令嬢だつて! 自家用自動車が迎へにくるとは、言ひたいことを言つてやがら。のぼせあがるのもほどがあるよ。だいたい言はせておく人がまちがつてるのさ、ばか〳〵しくつて話になりやしないぢやないか!」

 松江は涙に眼がくらんだ。もしもタツノが相手になるなら、いや安川がタツノの味方をしてもいい、二人を相手に血まみれの喧嘩をする気で息をのんで突つ立つてゐた。

 安川は松江の相手にならなかつた。タツノの相手にもならなかつた。投げつけられて当つた物が多少の傷をつくつたが、怒る気にすらならなかつた。

 安川は松江が鋭く感じたことを、違つた角度でもつと鋭く感じてゐた。思ひあがつてゐるのだ。たしかに、思ひあがつてゐる。それはタツノの性格的なものではなく、まつたく一に自分との相対的なものであるのを認めなければならなかつた。やつぱり自分の献身的な仕へやうを、恋のためと誤解してゐるせゐによるのだ。さういふタツノの思ひあがつた有様は、かつて以前も感じたやうに、奴隷を見下す王女のやうなものであつた。それはたしかに滑稽だつた。然しタツノが手当り次第の本やインクを投げつけるのを、まるで白痴か不死身のやうに敢て怒りもしなければ身をよけもせず、当るものは勝手に当らせ、痛む傷は勝手に痛ませ、かうして黙つて立つてゐるのがとりわけ不快なことでもなく莫迦々々しいとも思はない自分の奇妙な暢気さに安川はふと気付くのだつた。俺はタツノの奴隷になるのが別に不快でないらしいと彼は思つた。それどころか、この状態を自然のままにほつたらかしておきさへすれば、自分の中の最も自然な傾向が、タツノを王女にまつりあげ、自分をタツノの奴隷にひくめ、動きのつかないどたんばへまでずる〳〵と落ち放第に落ちこんでゆく感じがあつた。そのどたんばへ行きついても自分は悔いることがなく、痴呆のやうにてんで平気でゐられるやうな、ひどく暢気な気持がしたのだ。

 そんな気持をとりとめもなくねまはしてゐる一方に、彼はまつたく違つたことを、ぼんやり思ひあててゐた。あたかも奴隷の敵愾心でもあるかのやうに、タツノの痩せた肉体が彼の劣情の対象となり、その醜悪な新鮮さを夢の心持で追ひまはすのが、小春日和のそぞろ歩きを思はすやうなひどくけだるい快感を与へた。この醜怪な、驕慢な孔雀の羽を頭につけた鶏のやうな女王であつた。その鶏をあぶり肉にしたやうな食慾をそそる肉感だつた。様子の違つた驕慢のために、はじめて花をひらいたやうな肉体であり、その花を無残にむしり、踏みちぎるのがこよない愉悦を彼に予約してくれる。舌なめずりといふ言葉が、この宴席をまつ心にいちばん美しく当てはまる。自分がタツノを引取つたことも、他意ない純情で応じたことも、すべて自ら心付かざるカラクリであつて、驕慢の花を咲かせるために計算された微妙な過程であつたやうな、ひどくいい気な思ひさへした。


 安川の疲れた頭に驕慢の花がこびりつき、彼は夜がねむれなかつた。けはしかつた表情が急にだらけて、ふやけたやうに纏まりがなく、厚顔無恥のあくどさや八十親爺の猥褻がありあり刻まれてゐないかと、彼は顔を見られることがひどく気懸りになりだした。

 ある日盛りのことであつた。安川が二階の書斎へ本をとりに入らうとすると、タツノがそこに昼寝してゐた。×××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××。

 安川は人一倍小心で臆病者の自分の本性を知つてゐたが、地震だ猛犬だ喧嘩だといふ咄嗟になると胸は早鐘をついてゐても反射的に居据わる度胸がついたりした。案外人にあいつは図太い神経があると言はれたりして内心いささか照れざるをえぬ破目になつたが、さういふ誤魔化しのどうにも利かない場合があつて、××××××××××といふやうなものがそれの最も本能的に甚しい場合であつた。多少とも××××××やうな対象には思はずヒョイと眼をそむける。ゐたたまらない気持がして彼は逃げだすことがあつた。それは安川の清潔さと凡そゆかりのないことで、さういふ羞恥が強いだけ助平根性も激しいわけだと彼は誰への気兼ねでもなく、自覚せざるをえないのだつた。

 タツノの××××姿をみると、安川は咄嗟に首をねぢむけた。反射的に身体が逆をふりむかざるを得なかつた。安川はひどくあわてて階段を駈け降り、逃げる気持がとまらなくて、階下の部屋を次から次へぐるぐる一巡したあげく、台所では急に水を意識して、喉のかわきと全く縁のない水のひどいまづさを噛みしめながら、グイと一息のんだりした。

 そこで彼は改めて、こんどは大きな跫音をひびかせようと意識しながら階段を登つてみたが、跫音は彼の心が思ふ高さの半分くらゐを響かせるのがせいぜいだつたし、タツノはいくらか違つた姿勢でやつぱりねむりこけてゐた。思ひきつて部屋へ這入つて本を探してこようかと思はぬこともなかつたが、すくむやうな気臆れがいきなりグッとせまつてきて、彼はまた忽ちもはやどん〳〵階下へ降りてゐた。ちらと視線が流れたばかりにすぎないはずが、まるで眼の中へ焼きこまれたと思はなければならないやうな強烈な印画で、××××××××××××××視野いつぱいにひろがり、部屋いつぱいの大きさにふくらみあがり、安川の顔へめがけてわッとおしつけてくるやうだつた。

 彼は再び階下の部屋をひとつびとつウロウロまはりはじめたが、さつき階下をぐるぐる一巡した時にはどこの部屋にも誰一人ゐなかつたといふ印象がいきなり頭をしめつけるほど強烈に意識にのぼり、心の構へが突然変つて、彼は部屋の各々に人気のないのをたしかめながら、息を殺して一巡した。果して誰の気配もなかつた。一応なにか、とにかく考へなければならないことがあるやうな気がして、彼は暫く茶の間の中央に突つ立ちながら耳を澄まして考へようとしてみたが、何も思ふことはなく、なにやらひどく張りきつた空虚が、めまひのやうにぐる〳〵めぐるばかりであつた。彼はとつぜん血の逆流する激しさとともに、二階めがけて駈け登つた。タツノはもはや目覚めてゐた。タツノの大きな鈍い眼がぼんやり彼をみつめたことを見たときには、彼はタツノ××××××、そして胸にだきしめてゐた。


 驕慢の花もある筈がなかつた。現実にそんな詩情はないのである。それは安川の好色癖が、動物欲の汚らしさを救ふために勝手につくつた美名だつた。

 手折らねばならぬ、踏みにじらねばならぬ驕慢の花なら、にじみでる高貴な構へが彼の心を射すくめる光となつて閃くことがあつてもよからう。そんなものは微塵もなかつた。

 タツノはまるで彼のくるのを待ちかねてゐた妖婆のやうに、鼻皺をきざんで満足の笑ひを見せるのだつた。その表情を思ひだすと彼は思はずぞッとした。そのくせ彼はうづくやうなものを、そそりたてられる思ひもした。たまらない悪臭だけが分るのだつた。

 金を盗むことにしても、さういふことのあつた日の彼に反抗するやうな或ひは彼を揶揄するやうな眼付にしても、そのほかの思ひあがつた表現にしても、やつぱりタツノの稚拙な色情のあらはれだつた。安川がタツノに××を燃やさぬうちはべつだん心にかからぬことで、よしんば××を燃やすにしてもその××のなかつたうちは、それを驕慢の花ともよんで、色も匂ひも感じることができたのである。それはむしろ驕慢の泥であつたと思ひつかずにゐられなかつた。タツノの眼付がもはや色情一方の、ほかには別の人生のない××だけの光を宿して、彼の一挙手一投足を思ひもよらぬ所からヂッと見つめてゐるやうな、無智傲慢な執念深い情痴を感じ、森の妖婆か山蛭やまひるにでも執着されてゐるやうな、毒血のしたたる思ひに悩んだ。

 日盛りに、人気のない部屋の中でふッとタツノにでつくはすと、タツノは鈍いどんよりとした瞳の底にくすんだものをみなぎらせ、彼をぼんやり見つめはじめるのであつた。安川がタツノの視線を睨み返すと、タツノは忽ち鼻皺をきざみ、最初の一日の寝姿のやうに、今にも××××××××××××××××××××だつた。安川は泣きたいやうな思ひがした。いきなりタツノの首をしめ、ぐいぐい押しつけたあげくのはてが、押入から力まかせに蒲団を一枚ひきずりだしてタツノの頭にすつぽりかぶせ、無我夢中に戸外めがけて飛びだして、道から道を逃げて走つた。

 みんな「駄目」になつたのだと彼は思つた。彼の何よりたまらぬことは、自分の毒血のあくどい臭さが鼻にからんでむん〳〵せまることだつた。どつちを向いても自分自身の汚さだけが、顔の前面一杯にワッとひろがる大きな幕をはりながら、追つかけてきてたまらなかつた。


 タツノが散歩にでた留守だつた。真夏のまひるのことであつた。安川の書斎の隅には長押なげしと長押に桟を渡して、ちよつとした物を吊すやうなぐあひに作つたものがあるのだが、彼はそこへ兵児帯へこおびを張つて首をくくつた。さうして彼は死んでしまつた。書置なぞはある筈がない。まつたくの発作であつた。

 子供の一人がそれを見付けて大声をあげた。そして人々が駈けつけた。松江と女中は力を合せて兵児帯を解き屍体を下さうとするのであつたが、気をつけの姿勢のやうに両手を膝へくつつけて、前へ向つて目礼をしてゐるやうなシャッチョコ張つた不様な屍体は、思ふやうに動かなかつた。おたきは冷い無表情でそれをヂッと見てゐたが、縄を切つて下へ落すと生き返らないさうだよ、と冷静に呟いて二人の方へ歩いてきた。いゝよ、わたしがするよ、とおたきは言つた。

 おたきは女中に子供を連れて立ち去らせた。それから残つた松江には医者を呼んでくるやうに言ひ、自分は屍体をおろすつもりか、屍体のうしろへ蝉のやうにくつついた。

 老婆のつめたい落ちつきは今日にはじまつたことではないが、脂のやうにねばりつく無表情の気配の中にもなにか解せない感じがしたので、松江は暫く立ち去りかね、やがてヒョイとおたきの方をふりむいたら、おたきは屍体の腰のあたりを両手でおさへ、首を帯からはづすために上へ持ちあげてゐるどころか、×××××××つけてゐた。あつけにとられてボンヤリした松江の顔と、おたきの顔がぶつかりあつた。おたきの顔は例の通りの脂のやうにねばりつく無表情で、なんの感情があるとも見えず、×××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××。


 野辺の送りもすんでから、松江は改めて遠山に会ひ、日のたつにつれ益々まざまざ眼先にちらつく悪鬼の相に怯えながら、首つくくりの××××××老婆の話を物語つた。

 遠山もこの話にはちよつと呆れたやうだつた。然し彼は暫くぼんやり考へ耽つてゐたあとで、

「だつて僕等が生きぬくからには、どつちみち首をくくつた誰か×××グッと引つぱつてゐるのですよ」

 と、退屈さうな顔をして、夢のやうなことを言つた。

底本:「坂口安吾全集 02」筑摩書房

   1999(平成11)年420日初版第1刷発行

底本の親本:「文芸通信 第四巻第一〇号」

   1936(昭和11)年101日発行

初出:「文芸通信 第四巻第一〇号」

   1936(昭和11)年101日発行

入力:tatsuki

校正:今井忠夫

2005年1210日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。