雨宮紅庵
坂口安吾



 伊東伴作は親代々の呉服商であつた。学問で身を立てようとしたこともあつたが、一向うだつがあがらないので、このごろは親代々の商人になりすましてゐた。

 或日雨宮紅庵といふ昔馴染が、見知らない若い女を連れてきて、この人は舞台俳優になりたいさうだが世話をしてくれないかと伊東伴作に頼んだ。なるほど伊東伴作はその方面に二三の知人がないではないが、女優を推薦するほどの柄も器量もある筈がなし、それに打見たところ女は容姿こそ十人並以上の美しさと言へるが、これといふ特徴がなく、外貌の上ばかりではなく内面的にも全てがその通りの感じで、却つて白痴的な鈍重さが感じられるほどの至つて静的な女に見受けられるから、自分には女優を推薦するほどの手蔓もなし器量もないのでと言つて断つた。ところが雨宮紅庵は伊東伴作の気持には一向平気なもので、すこしもぢもぢしたが、それも心底から間がわるさうな様子ではなく、却つて図々しさを暗示するやうな押しつけがましいものに見えた。さうして、必ず舞台女優でなければといふわけではなく、レビュウの踊子でもいいんだからと、独語でも呟く工合にブツブツ口の中で言つてゐたが、又その次には違つた調子で、グイと膝をのりだしながら、ダンスホールのダンサアだつていいんだから一通りのソシアルダンスを覚える手蔓だけでも与へてくれないかと言ひだしたりした。

 雨宮紅庵は三十七歳であつた。これといふ定まつた職業も持たず、とりたてて言ふべきほどの希望といふものも持つやうには見えず、すくなくとも希望をいだいて励むといふ風情は何事に就ても見受けられず、妻子もなく、財産もなく、時々住む家もなかつた。その代り、将棋と囲碁は田舎初段の腕前があり、嘗ては新聞のその欄を担当したり碁会所の師範代とも居候ともつかないことをやつてみたりしたこともあるが、その道で身を立てる気持は微塵もなかつたので長続きがせず、文学、美術、音楽、何を語らしてもとにかく相当の見識はあるのであつて、手相指紋骨相なぞにも玄人めいた蘊蓄があるかと思へば天文地質生物学なぞといふものに凝つてみたり、今時には珍らしく漢詩に精通してゐると思ふと二ヶ国ぐらゐの横文字も読めるといふ風に、とにかくその趣味は多方面にわたり、かつその全生活が趣味以上にでなかつた。趣味以上にでるためには必然その道に殉ずるていの馬鹿も演じとかくの批判も受けなければならないのが阿呆らしくもあり怖ろしくもある様子にみえた。人の弱身に親身の思ひやりがあり且甚だ誠実であるといふので、窮迫の時も友達に厭やがられず愛されたものだが、その誠実や思ひやりの由来するところは、要するに人の慾念の醜さを充分に知悉し自身もその慾念に絶えず悩まされてはゐるが、さうして慾念を露出しそれに溺れる人生こそ生き甲斐のあるものではないかと考へてみるが、自身は世間に当然許された破戒さへでかす勇気がないといふ、自意識過剰の逃避性からきてゐるやうにも思はれた。

「ダンス?」伊東伴作は鸚鵡返しに怪訝さうな面持をして呟いた。

 伊東伴作はダンスホールに縁遠い人柄で、酔つ払ひでもしなかつたら冗談口一つ言へないやうな男だつた、さうしてういふ多彩にして溌剌たる世界には多分に没交渉な生活を営んでゐるが、それを充分知つてゐる筈の雨宮紅庵が、臆する気配も見せずういふことを切りだしたので吃驚びつくりした。

「いや、たつてといふわけぢやないんだ」と、紅庵は再び表面うわべだけもぢ〳〵とためらふ気振けぶりをみせたが、

「別の部屋で、ちよつと君に話したいことがあるんだけど……」

 と言つた。そこで二人は別室へ這入つた。

「あの人は君の恋人か?」と、別室で二人になると伊東伴作はまづ訊ねた。

「いや、さういふものではない」と、わざと周章あわてたやうな吃り方で紅庵が答へた。

 ただかねて知りあひの女であるといふだけで、恋愛の交渉は微塵もなく、また、心底ひそかに燃やしてゐるといふ気持さへないのだと雨宮紅俺は同じことを繰返し繰返しくど〳〵と述べた。まるで故意に言はでもの言訳をするやうなくどさにも見えた。くどさを愉しむやうな秘密臭い厭味も感じられた。そのくせ、ただかねて知りあひの女であるといふ他には、どういふ筋の知りあひで、どこの誰といふことさへハッキリ言はうとしなかつた。つまり女が見るやうな姿の女で、名前は蕗子とよぶといふ、そのほかのことは全く伊東伴作には判らなかつたのである。

「君、あの女の生活を暫く保証してやつてくれないか?」

 雨宮紅庵が改まつて切りだしたことは然ういふことだつた。

「月に三十円か四十円でいいのだ。三畳の間借りで事足りるんだからね。そのうちに女の方でなんとかするだらうよ。僕にその資力があれば自分でさういふことにしたのかも知れないが……」

「つまりあの人を二号にしろと言ふわけか?」

「いや、さういふわけぢやない。女の生活を保証してやつても、必ずしも二号ときまつてゐるわけはないからね。然し二号でもいいのだ。男と女だから話がそこまで進んでも、それは仕方がないぢやないか」

 暫く話が途切れたあとで、

「君があの人の生活を保証するやうになつてから、そこは男と女だから、二人の話が自然にそこまで進んだとしても、それはそれでいいぢやないか」

 紅庵はここでも故意に言ひ強めるやうな脂つこいくどさを漂はせながら、同じことを重ねて言つた。自分の言葉に酔つたやうな様子でもあり、非常に穿つた親切さうな様子でもあり、幾分勝ち誇つたやうな皮肉さうな様子もあつて、まるで試験台に乗せられてゐるやうな気持がした伊東伴作には、一つ一つの気配がピシ〳〵とこたへた。すると紅庵は、さういふ伊東伴作の内兜うちかぶとを見透したやうな穿つた調子で再び言葉をつぎたし、

「一人くらゐ隠し女を持たなかつたら、一人前の男ぢやないよ」

 と、いかにもしみ〴〵した顔付で言つたのが、伊東伴作の気にさはつたが、じり〳〵した気持を起しながらも、伴作の心の流れは紅庵の言葉の魅力に自づと傾きだしてゐた。伴作はさういふ心のまとまりのない廻転に正直に身をまかせ、暫く沈黙に耽つてゐたが、

「ほんとに君はあの女に気がないのかな」

 と、紅庵を冷やかすやうに笑つて言つた。笑つて言ひはしたが、伊東伴作の言葉の奥には甚だ真剣な激しいものが漲りかけてゐて、あれだけの女なら二号にしても悪くはないなと立派な計算が完了されてしまつてゐた。

 それにしても、恋愛といふ面倒な言葉はとにかくとして、あれだけの女なら大概の男が浮気心を起すのは恐らく普通のことだらうから、あの女に気がないと言ふ紅庵は論ずるまでもなく嘘をついてゐるのだと思つた。けれども伊東伴作は紅庵の思惑に気を廻さうとしなかつた。さうすることがただ面倒に思はれたのだ。騙されるなら騙されたで一向に構はない、あれだけの女を三十円や四十円で買へるなら遊びとしても安いもので、要するに騙されてゐるつもりで、こつちもせいぜいあの女を弄べばいいわけだと考へた。伴作は三十五歳だつた。妻子もあつた。

 三人は連れだつて外へ出た。歩きだしてから女に向つて、俳優とかダンサアはとにかくとして生活費の方は引受けるから一応宿を定めてみてはと話してみると、女はまるつきり感情を表はさない顔付で、別にうんとは言はなかつたが、否定の素振りをみせないことによつて承諾の気持を表はした。はじめから、どうせ話がそのへんで落付くことに覚悟をきめこんでゐたやうな様子でもあるし、何も知らない痴呆のやうな様子もあつた。白痴ぢやないのかと、伊東伴作は一時本気でさう疑らずにゐられなかつた。

 ちやうど貸間ありの札を貼つた二階をみつけ、雨宮紅庵の奔走で手廻りの品だけは忽ちのうちに調ととのつてしまひ、出前をとつて夕食を終ると全く夜が落ちてゐた。気をきかしたつもりであらうが、雨宮紅庵は無理にも伴作をそこへ残して、自分は半ば周章てた形で帰つてしまつた。

 伊東伴作は蕗子に素性をきいてみたが、紅庵の知人の妹で、今では殆んど身寄りがないと言ふほかには、これも多くを語らなかつた。機会をみて身体に触ると、尠しも逆らはなかつた。罪悪といふ内省が絶えないためか癇癪を起すやうな気分となり、自棄やけじみた荒々しさで無礼なくらゐ露骨に野蛮に蕗子の身体を取扱つても、意志のない人形のやうに自由になつた。その夜更け夢見心持で我が家へ帰つた伊東伴作は、その一夜が白々と明けても、夢見心持から覚めきることができなかつた。全てが実際あつたやうに思はれない気持がつづいてゐた。

 翌日の正午頃には、ぢり〳〵と押へきれない焦燥がつのつてきた。それでも三時頃までは店へでたり又ぶら〳〵と居間へ戻つて寝ころんでみたりしながら、苛々する時間をつぶしてゐたが、三時の音で立ち上つて蕗子の下宿を訪れた。行つてみると雨宮紅庵がそこにゐて、蕗子と話しこんでゐた。

 紅庵は自分の部屋にゐるやうな寛ろぎかたで、すつかり腰を落付けて勿体ぶつて喋つてゐたが、伊東伴作は嫉妬の苦痛を感じなかつた。寛ろいだ話しぶりにも拘らず、その口ぶりにも動作にも紅庵の宿命的な内攻生活から派生する一種陰惨な暗いいたましさが漂ふばかりで、蕗子との肉体の交渉なぞは毛頭想像の余地がないばかりか、潜在的な姦淫の焔がちらちらと洩れ、それが却つて彼の姿を悲しいものに思はせるのであつた。けれども紅庵自身の方はさういふ風に寛いで、気楽に陽気に喋つてゐるのがひどく愉しい様子だつた。夜がくるまで全く落付いて喋つてゐたが、夕食が終ると又もや半ばうろたえながら帰つていつた。

 同じやうな日が四五日続いたのちの一日、紅庵が同じやうなうろたえ気味で帰つてしまつた後になつて、蕗子は伊東伴作に言つた。

「引越さして下さらない? ここは気兼ねがあつて厭だわ」

「家が一軒欲しいのか?」

「いいえ、一部屋でいいの。ここでさへなければどんな汚い部屋でもいいわ」

 伊東伴作は考へた。一人の女に執着を持ちはじめた男の鋭敏な感覚によつて、引越しの提案がなんらかの点に於て彼に甘へる意味を持ち、同時になんらかの点に於て雨宮紅庵につながる意味があると思つた。紅庵に対して幽かながらも日増しに冷淡の度を加へるらしい蕗子の気配を、その日までにそれとなく気付いてゐたのだ。なんとなく甘へるやうな蕗子の様子から判断して、雨宮紅庵のことはとにかく、引越の理由に就てもつとえぐられることを待ち構えてゐるのではないかと伴作は思つた。

「この部屋は、部屋としては却々なかなか居心持がいいぢやないか」と白々しく言つてみると、

「ええ、でも、雨宮さんの知らないところへ越したいと思つてるの」

 と、果して蕗子はさう答へた。

「それはどういふわけだい? 雨宮が君を口説きでもしたのかい?」

「いいえ、そんなこと有り得ないわ。あの人はそんな気の利いたことのできない人よ。悪い人ぢやないんだけど、毎日だとうるさいもの。貴方と私の生活が今日から始まることにして、それ以前のことには尠しもふれない生活がしたいの。昔があると、しつこくつていやだわ」

 ──どういふ昔なんだい? と訊きたくなつた心持を伊東伴作は簡単にそらした。昔なんか問題ぢやない、これは浮気だ、たとひこれが自分の人生の重大事であり詮じつめれば中心をなす生活にしても、これは矢張り浮気で遊びで悪戯だ。女の昔の生活のことまで気に病むやうな心構えにとらはれてゐると、せつかくの悦楽が苦労の種に変るやうな莫迦をみる、それもみんな心構え一つのことで野暮な深入りはしないことだと考へた。

 心当りのアパアトへ行つてきいてみると、探す苦労もなく忽ち部屋がみつかつたので、雨宮の知らないうちに其処へ移つた。雨宮が面喰つて訪ねてきたら、実は昔のない生活を始めたいといふ女の希望であり自分の考へもさうだから、暫く蕗子の生活から遠距とおざかつてくれるやうにと正直に打開けて話すつもりであつた。ところが秘密の引越しが、雨宮紅庵の内攻に疲れた尖鋭な神経に応へたものか、それつきり音沙汰がなく、却つて伊東伴作の方で気に病みだして、定めし一人で悒鬱ゆううつがつてゐることだらうが訪ねて来ればいいものをと待ち構えてゐても、全く姿を見せなかつた。くさつてゐるに違ひなかつた。

 ところが二週間とたたないうちに、今度は逆な出来事が起きた。伊東伴作の知らないうちに蕗子がほかへ引越してしまつた。さうして行き先が分らなかつた。


          


 アパアトの管理人の話をきくと、引越しには一人の男が手伝ひに来て何くれと世話をしてゐたと言ふのだつた。男の眼付がひどく窪んだ感じであつて頬骨がひどく目立つ顔付だつたといふ話や、かすりの着物で帽子を阿弥陀に被つてゐたといふ話から考へてみると、そつくり雨宮紅庵に当てはまる人柄としか思はれなかつた。そこへ別な手掛りがあつた。ちやうど引越しの前日あたり、伊東伴作が蕗子の宿へ出掛ける時間に、雨宮紅庵に紛れのない人物がその道順の途中に当る露路の奥にうろ〳〵するのを認めたといふ、店の者の語る噂を偶然小耳にはさんだのだ。

 伊東伴作は腹が立つた。騙されてもいいと思つてゐたが、たいした騙しやうのできる紅庵でないと見くびつてゐたところから、さういふ悟つた考へ方も湧いたのである。それにあれからの毎日が騙されるやうな様子ではなかつた。蕗子の下宿で寛ろいでゐた紅庵の姿を思ひだしても、あれはあれだけの愉しみに酔つてゐたとしか思はれない姿で、それ以上に計劃的なあくどい気配を感じだすことはできなかつた。紅庵の訪問を嫌つて引越しをせがんだ蕗子の様子もそれだけのもので、ほかの企らみがあるやうに思へなかつたし、引越してからの毎日は新妻のやうに新鮮で、親愛の情は言ふまでもなく落付きのある明るさが目立つて表はれてきた様子からみても、あの生活に蕗子の心が籠つてきた証拠はあつても人を騙す暗い蔭は認める由がないやうだつた。わけの分らないことなので無暗に腹が立つばかりだが、腹が立つと益々みんな分らなくなつてきた。アパアトへ越して後は留守のうちに紅庵が来たといふ形跡もなかつたやうだし、蕗子の方から紅庵に引越先を教へてやつたならとにかくとして、道に待ち伏せたうへ伴作の後をつけて行先を突きとめたとしか思はれない形跡から考へてみても、前後の様子が曖昧至極になるばかりで、筋道が立たず、腑に落ちないことばかり多いのだつた。騙され方の筋道が通らないので、腹の立ちやうまで煮えきらないやうになつてくるし、さういふ腹の立て方まで癪にさはつてくるのだつた。

 すると三日目に、雨宮紅庵がのこ〳〵現れてきた。

「君が蕗子を隠したのだらう。分つてゐる。なんのための小細工なんだい? 僕のあとをつけてきてアパアトを突きとめたことも分つてゐる」

 雨宮紅庵の顔をみると矢つ張りやつてきやがつたといふガッカリしたやうな気持の方が先に立つて、腹の立つことまで薄らいだのだが、とにかく改めて怒りを燃やしながらなじつた。

「実はそのことで来たんだよ。びつくりしたらうと思つて、早く君に知らせやうと思つてゐたが、生憎の用で来れなかつた。実は今日もまだ色々と忙しい用があつて……」

 紅庵はひどく周章ててしどろもどろの言ひ訳をしたが、腹の底では伊東伴作が本気で怒つてゐないのを見抜いて、案外落付いてゐるやうだつた。

「それに、君も教へてくれないし、あの人も言つてくれないものだから、まさかに君とあの人の関係が二号といふやうなことに進んでゐると思はなかつたので、さう素ばしこい君だとは思はなかつたから、それほど心配もしてゐまいと多寡を括つてゐたのがいけなかつたんだ。それを知つてゐれば一応君にことはつてから引越しも運んだらうし、用向きを蹴飛ばしても早く教へに来た筈なんだ」

 紅庵は別に恨みがましい様子でもなく、ただすら〳〵とさういふ言ひ訳をしたのだが、この言葉は後々まで伊東伴作の頭に残つて離れなかつた。ただ女を養つておくといふだけの男が毎日々々午後三時から深夜まで女の部屋に居浸りといふ莫迦な話もないもので、誰が見ても男の二号であり女の旦那であることは分る筈だ。紅庵が独身者で情痴の世界にうといにしても信じられない話で、殊に紅庵は潜在的な性慾に疲れた人がもつところのその方面には特に鋭い電気のやうな感応と想像力を具へてゐるから、常人よりもよつぽど素早く二人の関係が見抜ける筈だと思はずにゐられなかつた。なるほど紅庵自身の方は女の部屋へ喋りにくるだけで満足することもできるのだから、自分の心境にあてはめて、伊東伴作と蕗子の間もそれくらゐのものと案外軽く見てゐたやうに思はれないこともないが、あの旺盛な感応力があるためにすつかり内攻に疲れてしまつた紅庵の広く深い精神生活を考へてみると、そんな子供騙しのやうな言ひ訳はきかないことで、やつぱり常人以上に素早く二人の肉体の交渉に気付いた筈だと断定せずにゐられなかつた。その紅庵がなんで又白々しく二人の関係に気付かなかつたと言ひだしたのだらう? 生真面目のやうで案外底意地の悪いところもある紅庵だから、神妙に言ひ訳するやうな顔をして実は冷やかし半分の気持が腹の底にあるのかも知れぬが、それはそれとしておいて、このうつかりした言葉の中には紅庵のほんとの気持が隠されてゐるのではあるまいかと伊東伴作は考へた。

 つまり雨宮紅庵は惚れた女を連れ出しはしたもののかくまふ場所に窮して、安全な隠れ家を探したあげく、伊東伴作に女を一時まかせておくといふ手段のあることを発見した。といふのは、伊東伴作も幾分紅庵に似たところのあるディレッタントで頭の中には過剰すぎる考へごとが渦まいてゐても実行力はないといふ、すくなくとも紅庵の考へでは自分の親類筋の一人のやうに見当をつけた形跡がある。伊東伴作に女の身柄を預けておくぶんには、女の身体が汚されるといふ心配はまづないやうに計算したのではないだらうか? 女を連れてくる早々、男と女のことだから自然に二人の関係が身体のことに進んでみてもやむを得ないことぢやないかと無理なくらゐ言ひ強めたのも、今となつて考へてみると、つまりお前にはさういふことができないのだと多寡をくくつて冷やかしてゐた文句のやうにとれないこともないのであつた。多寡をくくつて冷やかすといふほど露骨なものではないにしても、肉体の交渉をおよそなんでもないことのやうに言ひ強めた心理の底には、逆に肉体の交渉が紅庵にとつては最大の関心事であつたことを示すところのものがあると解釈しても不当のやうには見えなかつた。さういふ風に考へてみると、毎日夜がくるたびに伴作を蕗子の部屋へ残しておいて、自分は甚だ気を利かしたやうな勿体ぶつた様子をしながら、そのくせ案外うろたへ気味で帰つていつた、紅庵の姿を思ひだすと、さういふ姿の半分くらゐが例の通り半ば意識し計算した身構えではあるにしても、計算をはみだしたところにこの男の全悲劇が錯雑を極めたもつれかたで尻尾をだしてゐるやうに見え、それを思ふと伊東伴作は悒鬱だつた。どの程度に蕗子を好きかは分らないが、彼に隠してアパアトへ越してからの紅庵のうろたへ様は目にみえるやうで、その紅庵が思ひ余つた揚句、こんどは逆に伴作に隠して女を引越さしたとはいふものの、隠しきれずに斯うしてのこ〳〵現れてくる姿を思ふと益々伊東伴作の悒鬱は深まつた。悒鬱ついでに蕗子と手を切つてしまはうかと考へたりしたが、肉の執着に代えてまで悒鬱と心中する気持にはなりきれるものでなかつた。肉の執着がはつきり分ると生半可の悒鬱は消え失せて、紅庵の姿が莫迦々々しく思はれてきたばかりか彼の遣り口が改めて癪にさはつてきたりした。

「どういふわけで唐突に引越す必要があつたのだ?」と伴作は訊ねた。

「実はね、あの人のうちの方であの住所に気付いた形勢があつたんだ。僕でさへ知らなかつた住所に気付くのは可笑しいと思ふかも知れないが、偶然気付く理由があつたんだ」

「それならなにも僕のあとをつけて住所を突きとめるやうな面倒をするまでもなく、僕に相談してくれた方が早道の筈ぢやないか」

「君の言ふことは理窟だよ。当然さうすべきやうな事柄でも、案外さうもできない事情といふものがあるものだよ。元はといへば女を連れだした僕から起きたことなんだから、君に面倒をかけずに僕の手でなんとかしようとしたことも一因なんだ。とにかく僕は君とあの人の関係がそこまでいつてゐることに気付かなかつたものだから」

 それ以上のことになると巧みに言を左右にして、急に音楽を論じたりしながら全てを有耶無耶うやむやに誤魔化し去つたが、忙しいからと言つて匆々そうそうに腰をあげ、蕗子の住所だけ知らせて帰つていつた。

 新らしい下宿を訪ねてみると、谷底のやうな窪地の恐ろしく汚い家の二階だつた。階下には軍隊手袋を内職にしてゐる婆さんが脇目もふらずに仕事をしてゐた。その連合つれあいは郵便局の集金人で、ほかに家族はないさうだつた。

 過失を怖れ怯えた様子で出てくるものと思つた蕗子が、顔には単純な喜悦のみを漲らし、喜びの叫びをあげて飛びだしてきたので、伊東伴作は面喰つた。

「どんなに待つてたか知れないわ。どうして早く来て下さらなかつたの?」

 と、蕗子は声をはづませて言つた。

「漸く今しがた居所が分つたやうな次第ぢやないか。紅庵はとつくに居所を知らせたやうに言つてたのかい?」

「いいえ、さうも言はないけど、雨宮さんは昨日から姿を見せないもの」

「雨宮は何も話さないが、周章てて引越したほんとの理由はどういふところにあるんだい? あの男は有耶無耶の誤魔化しばかり言つてゐて、僕には皆目のみこめないのだ」

 蕗子は表情の失せた顔付をして暫く黙つてゐたが、

「みんな言つてしまふわね。隠してゐると気持が悪いわ」と言つた。さうは言つたものの又暫くためらつたのち、

「憤慨しないで下さいね」前置きして語りはじめた。

「ほんとは私にハズがあるの。ハズのところから逃げだしてきたのよ。ところが雨宮さんはあのアパアトにハズの友達がゐるつて言ふの。雨宮さんは私があのアパアトにゐることを知らずに、お友達のところへ遊びにきたんですつて。そしたらそのお友達が同じアパアトに私のゐることに気付いてゐて不思議がつてゐたつて言ふのよ。そこであのアパアトにゐたんぢやおそかれ早かれハズの耳にも伝はるからと言ふので、その人の留守のうちに一時も早く越した方がいいと言つて、あたしもすつかり面喰つてその気になつたの。その朝のうちに忽ち此処へ越してきたのよ」

「アパアトに友達がゐるなんて、そんなことは大嘘だ。紅庵は僕の後をつけてきてあのアパアトを突きとめたのだ」

「そんなことかも知れないわね。きつと黙つて引越したのが癪にさはつて、こんな悪戯をしたのでせうよ。やりかねないことだわ」

 と、なんとなく神経の鈍い感じのする蕗子がそれとなく紅庵のからくりを勘づいてゐたらしい口振も伊東伴作の予期せぬところで、いささか彼を驚かしたが、幾分ためらつたのち続いて蕗子の言ひだした言葉は愈々伴作を面喰はした。

「あの人のすることはなんとなく秘密くさくつて割りきれないものがあるやうだわ。人の知らないところで、しよつちうコソ〳〵企らんでることがあるやうな感じよ。あたしに家出をさせたのなんかも、近頃考へてみると、なんだか企らみがあるやうで気味が悪いわ」

「紅庵がわざ〳〵君に家出をさせたんだつて!」

「さうなのよ。いつたい私のハズつてのが性的無能者なの。酔つ払ふと誰にでもその話をして泣きだしちやふから、雨宮さんもそのことを知つてゐたわけよ。もうかれこれ一年近くになるんだけど、ハズが無能者だつてことが分つて以来──これは近頃思ひ当つたのよ、雨宮さんの遊びに来かたが頻繁になつたし、それに、私や私のハズに向つて話すことがいつも決まつて人間は面白おかしく暮さなければ損だといふことなの。つまり貞操だの一夫一婦だのつてことに拘泥せずに、もつと気楽に快楽を追ひ、したい放題に耽らなければ生きてゐる値打がないつていふ理論なの。勿論私にだけ言ふわけぢやあなく、ハズに向つて言ふ時の方が却つて多いし、とつても熱心に力説するのよ。それがいつものことだつたわ。聞きてが私一人のときは、話すことが一層微細で通俗的で具体的よ。つまりどこの誰それはどういふ浮気をしてゐるとか、どこの誰それは夫婦合意の上で浮気を許し合つてゐるとか、そのためにその人達の身辺が爽やかで、遊びに行つてみると如何にもこつちまで気持がのび〳〵するやうだ、なんて話すのよ。普通の夫婦でもなんだから、まして無能者を良人おつとにもつ女は当然浮気の権利があるんだつて、そんなことまでハッキリ言つたわ。とても真面目に、厳粛な顔付でハッキリ言ふのよ。聖人のやうに厳粛で、私を口説くやうな素振りなんか微塵もないし、あの人自身が浮気さうな感じなんかどう考へてもないやうだから、あの人の言葉が怖いくらゐ真理にきこえてくるのよ。本気に私を憫んで、さういふ聖人のやうな憫みかたで私の人生に忠告を与へてくれるやうに思はれたわ。雨宮さんが帰つてしまふと奇妙な人だわと思ふくらゐで、あの人の言葉なんか滅多に思ひ出しもしなかつたけど、知らないうちに、私もだん〳〵その気になつてゐたんだわね。貴方に始めて会つたでせう。あの日ハズと相当深刻な喧嘩をして、今日こそ別れてしまはうかと考へたりしてゐるところへ雨宮さんがやつてきたの。私が喧嘩の話をして別れようかと思つたほどよと何の気なしに言つてしまふと、あの人ひどく真剣な顔付になつて、そんならすぐにも家を出なさい、一緒にでませう、愉しく暮すことのできるやうな男の友達も紹介してあげるし、なんとかして生活も困らないやうにしてあげる、然し自分自身にはその資力もなし野心もないからつて言ふんだけど、あの人の態度はその時がいつよりもいつと真剣で厳粛で大きな憫れみが籠つてゐるやうで、あの人自身の野心なんか一つだつて見当らない様子だから、ほんとに頼りになると思つたのよ。まるで魔術にかけられたやうにふら〳〵家を出ちやつたの。でも貴方のおうちへ始めて伺つて、この人は女優になりたいさうだけど、なんて言ひだされた時には吃驚したわ、どうせ貴方が拒絶することを見抜いておいて、恰好だけでもつけておくために言つたことかも知れないけど、私の方ぢやそんなことをあの人に言つた覚えもなし日頃考へた記憶さへないほどなんだもの、ほんとに吃驚しちやつたわ」

「それぢや君のハズつて人は、西沢といふ詩を書く人ぢやないのか?」

「ええ、さう。知つてるの?」

「フウム」と伊東伴作は思はず心の中に唸つた。

「君のハズの話は、それから君の話も、かれこれ一年ぐらゐ前から度々紅庵にきかされてゐたよ。つまり亭主が無能者で、女房の方は勿体ないほど綺麗なんだが、肉体のほんとの快楽を経験しないせいか無意識には相当ヂリ〳〵した不満を感じながら、それが性的な原因から来てゐることにさへ気付かないやうだと言ふんだね。あのままにしておくのは勿体ないから大胆に本能的な生活をするやうにと勧めてゐるが、といふやうなことを言つてゐたが、それぢやなんだね、紅庵はもうその頃から君の家へ繁々通つてほんとに浮気を奨励してゐたわけか。さういへばあの当時も、どうだい二号にするつもりなら世話をするがといふやうなことを、これは冗談半分だつたが、きいたやうにも覚えてゐる……」

 伊東伴作の脳裡には、今まで無意識のうちに気付いてはゐたが別段それを明瞭な形にまとめあげる機縁もなく必要もなかつた雨宮紅庵の裏面の姿が、一気に歴々と浮きでたやうな思ひがした。伊東伴作の記憶を辿れば、雨宮紅庵が蕗子に関心を持ちだしたのは一年以上も昔のことにさかのぼる。実際はそれ以上の、恐らく紅庵が始めて蕗子を見た時間から彼の秘密の姦淫は育ちはじめたと見ることもできよう。あの頃のことを思ひだすと、紅庵は蕗子のことを語るたびに、蕗子が自分に気のあるやうな、殆んど蕗子に口説かれかねない形勢にでもあるやうなひどく思はせぶりな話し方をするかと思ふと、蕗子の正体が白痴のやうに単純で余りにナイーヴであるために、内にあふるるやうな肉感を蔵してゐてもなんとも可憐でたうてい手なぞはつけられないのだと妙に泌々しみじみ言ひだしたり、そんなことを言つてるうちに自分の感傷にひきづられた形で、今迄の凡そ官能的な話とは逆に今度はひどく精神的なことばかりを殆んど支離滅裂に言ひ強めたりするのだつた。けれどもたとへば蕗子に一本の煙草を渡された時の、その真つ白な、腐肉のやうな光沢をたたへた、柔軟な鞭のやうな一本の腕について語りだすところの精密な描写なぞを思ひだせば、最も飢えた一人の男がその飽くことを知らない食慾を通して一皿の妖しく焙られた豊肉を眺めるやうな、余りにも痛々しすぎるほど焼けただれた官能の悲鳴をでも聞くやうな思ひがして、寧ろ甚だ陰惨なるものを感じ、面を背けずにゐられぬやうな苦しさを味ふ心持をするのだつた。もとより惚れるといふほどの真剣な気持ではなかつたにしても、親しい女友達の尠い雨宮紅庵にしてみれば、秘かに情炎の絵巻物をくりひろげる時の最も実感ある対象は日頃親しい蕗子のほかになかつたわけで、さういふ意味では彼の最愛の情婦だつたに相違なかつた。

 最愛の心の女を人の二号に世話をする、一見甚だ奇妙のやうに思はれて、さういふことは有り得ぬやうに思はれるから、蕗子を伊東伴作のもとへ連れこんできた紅庵の気持は仕事の世話でもしてもらひ、あはよくば純粋に生活の保証だけをしてもらふといふぐらゐのところで、二号の世話を焼く意志なぞは微塵もなかつたことのやうに考へられるが、然しつら〳〵考へてみると然う単純に言ひきれぬものがあるのだつた。そも〳〵紅庵が伊東伴作をつかまへて、蕗子を二号にしたらどうかと言ひだしたのは今度が始めてのことではなく、伴作のもはや半ば失はれた記憶の奥を辿つてみると、勿論極めて無責任なその場限りの冗談としての話であつたが、かれこれ一年近く前からさういふ言葉が少くとも二度三度は紅庵の口から洩れてゐるやうである。もとよりこのくらゐの冗談は誰の口にもありうることでそれ自体としては奇も変もないが、冗談から駒がでたといふものか、これが現在はほんとの話になつてゐる事態の底を綿密に探つてみれば、雨宮紅庵自身すら気付かぬところの一つの強力な潜在意志が彼の秘密の情慾に沿うて流れ、この冗談の底に作用はたらいてゐたと思はれぬ節もないではない。つまり雨宮紅庵のある隠された心の奥では、自分のこのたびの恋情が如何様いかように熾烈の度を加へるにしても、自分と女との交渉がこれまでのところあたかかみしもをつけた道学者の如く四角張つた身構えにあり、窮屈な仮装を強ひられて身動きもならぬ状態にある限りに於て到底この上の展開に見込みがなく、又自分の引込思案な性情としては到底自らこの仮装をかなぐりすてる底の一大勇猛心をふるひおこす天来の奇蹟も望みが薄いとなつてみると、自分の恋を自分の恋の形に於て成立せしめる見込みは先づ有るまいと言はなければならないから、そこで蕗子を他人の手で堕落せしめるといふ手段によつて秘かにいやされぬ自らの情慾を慰めようといふ斯様に変態的なカラクリがひそかに作用いてゐたのではあるまいか? かうまで整然たる筋を具へた心のカラクリではないにしても、もつと曖昧模糊たる異体えたいの知れぬ混沌状態に於てなりと、とにかく蕗子を他人の手をかりてまでも堕落せしめ、情痴の坩堝の中へ落し、かうして炎上する芳醇な又みだらな気配を飽かず眺めることによつて、自らの医し難い情慾をひそかに慰めようといふ、さういふ変態的なカラクリが潜在したであらうことは必ずしも言へないことではないやうだつた。或ひは又、無能者を良人に持つ美貌の一女性が医されぬ性慾に身悶えして道ならぬ恋に走るといふ、必ずしも蕗子に限つたことではなく、従而したがつて紅庵自身に直接何等の関係はなくとも、単にさういふ事柄のもつ何やら息づまるやうなあくどい情慾の雰囲気だけが已にして彼に好ましかつたのかも知れない。所詮雨宮紅庵は何時に限らず自身の恋を自身のものとして完成することはできさうもない男であつて、他人の恋を垣間見てもそれが忽ち己れの秘密の情痴の世界に展開してくるといふやうな円融無碍むげの神通力を心得ており、同様に自分の恋情を他人の情事の姿に於てもとにかく不充分ながら満しうるといふやうな、他人の色事を垣間見て無上の法悦を覚える底の摩訶不思議の性能を具へてゐるのかも知れなかつた。

 それにしても頼りないのは蕗子その人の気質であり心事であつた。はつきりした自分のものといふ信念なり考へなりがあるのやらないのやら、どうにもしつかりした心棒といふものが皆目見当らない感じで、甚だ頼りないのだつた。けれども然ういふ心許ない女の姿が、その人に執着を持ちはじめた男にとつて却つて可憐な風情を添え、並ならぬ魅力を発揮することもあるやうに、伊東伴作の仇心もやや執着に変りはじめてゐたのだつた。

 蕗子の甚だ頼りない有様といへば、たとへばその日改まつて斯ういふことを切りだしたのである。

「自分で独立できるやうな商売を始めさせて下さらない? どんな商売でもいいわ」

 蕗子の顔は真剣だつた。

「いつまでこんな風ぢや心細いわ。自分で自分の生活だけはやつてけるやうにしておきたいの。洋裁でも美容術でも写真でもタイプライタアでもなんでもいいわ。一年くらゐで独立できるやうになるわね。私だつてその気で勉強すれば一人前のことは覚えられると思ふわ。おでん屋とか喫茶店だつていいのよ。とにかく自分の生活費ぐらゐ自分でなんとかしたいのよ」

 伊東伴作は吃驚した。この女でも自分の力で生きたいやうな能動的な生活慾があるのかと思つた。あたりまへの奥方とか二号といふものに納まつて至極ぼんやりと暮すだけで、ほかに慾も根気もないのだと思つてゐたのだ。

「君でもそんな激しい生き方がしてみたいのか?」と伊東伴作がやや驚いて蕗子の顔を見直すと、

「あたしだつて──」

 と蕗子が紅潮した顔をあげて、その言葉を掴みだすやうな激しいものを感じさせながら、

「命もいらないやうな激しい恋愛がしてみたいと思ふわ」

 と答へたので、伊東伴作は益々もつて面喰はずにゐられなかつた。そろ〳〵自分の国を出外れて、よその国へ踏み迷つてきたやうな勝手の違つた感じさへしはじめたが、面喰つて戸惑ふよりも、どうやら陶然とするやうな何やら一脈爽快味のある異国情趣に打たれたことも否めなかつた。

 ところがその翌日、伊東伴作が蕗子の宿を訪れようと思つてゐるところへ、雨宮紅庵が外面だけは相当逞しい遠慮気分を漂はせながらやつてきた。つまり今後は案内知つた隠宅とはいへ主人伴作の許しを受けない限り滅多に一人で訪れはしないぞといふやうな、鹿爪らしい遠慮気分を生臭いぐらゐプン〳〵発散させながらぬッと現れてきたのだつた。そこで二人は無論相談するまでもなくやがて連れ立つて蕗子の宿へ歩きはじめたが、歩きはじめたと思ふと紅庵が重大な進言でもする内閣書記官長といつた勿体ぶつた顔付をして妙なことを言ひだした。

「どうだね、二号をただ遊ばせておくといふ不経済な手はないが、商売でも始めさせたら。洋裁とか美容術といふこともあるが、これは店を開くまでに相当修業の時間がかかるだらうしね。喫茶店とかバーといふものはどうだらう? 儲からないまでも損といふことはないものだよ。巧く行けば結構君が遊んで食つて行けるくらゐの繁昌だつて、あながち望めないことではないね。蕗子さんほどの美人なら、あの人ひとりでも相当の客がつくと思ふが……」

 これをきくと、伊東伴作は驚くよりもやや呆れかへつた形で、

「なるほど、それで読めた!」と思はず叫んだほどだつた。

「どうも蕗子の頭からああいふ考へがでてくるのはおかしいと思つたが、それぢやあ君の意見を受売りしてたんだね。実は昨日蕗子からそつくり君と同じことを言はれたのだが」

「冗談ぢやないよ!」

 と紅庵は飛びあがるほど吃驚して、大袈裟な身振りまで起しながら猛烈に否定した。

「こんなことを言ふのは君だからのことなんだ。いや、もう先から君に内々不満を感じてゐたのだが、どうも君は僕を誤解してゐるよ。君はこのたび如何にも僕が裏へ廻つて何かと策謀してゐるやうにとつてるらしいが、それは甚だ迷惑な誤解だよ。今日のことだつて蕗子さんに訊いてもらへば分ることだが、君だからこそ心やすだてに斯ういふ進言もするわけで、いくらなんだつて君に話しもしないうちに斯んな入れ知恵を秘密つぽく吹き込むものか。いや、これで君の気持がよく分つたよ。どうも先から変な誤解をしてるんぢやないかと疑つてゐたのだ」

「さう大袈裟にとりたまふな……」

 と、こんどは伊東伴作の方で紅庵の大袈裟な気勢に少々驚きながら、おさへて言つた。

「僕がさつき君の言葉をきいて面喰つたのは、君が蕗子に入れ知恵をしたといふ事柄に就てではなく、昨日の蕗子の意見がどうやら蕗子自身の頭から出たものではないらしいといふ理由からだよ。なにしろ昨日は蕗子からその話を切りだされた時は、この女でも時にはこれくらゐの考へごとをめぐらしてゐるのかと思つて確かに吃驚したのだからね。だいたい君はひどく大袈裟に騒ぐやうだが、たかがこれくらゐの入れ知恵を、よしんば実際吹きこんだにしたところで、別段誰を陥れるといふ事柄ではなし、却つて逆に僕達の利益になることを言つてくれたわけだから、君がこれくらゐのことに拘泥こだわつて大袈裟に騒ぎだした理由といふものが、却つて僕には呑みこめないやうなものだよ」

 然し紅庵は却々これだけで納得しさうな見幕ではなく、改めて伴作の誤解といふことに就て執拗にくど〳〵と詰るやら言訳けやら詠歎やら手を代え品を代えの目まぐるしい変化で述べはじめたが、そのことはとにかくとして、その日紅庵も帰つたあとで折をみて蕗子にききただしてみると、紅庵の莫迦々々しいほど大袈裟な見幕だけでも今度に限つてさういふ策謀のないことはほぼ見当がついてゐたが、果して蕗子もさういふことは確かになかつたと答へた。けれども蕗子は暫く何やら思ひださうとするやうな様子のあとで、斯う言ひだした。

「だけど、さうね、雨宮さんはそのことを昔はしよつちう言つてゐたわ」

「昔つて、いつのことだ?」

「半年も、一年くらゐも昔のことよ。結婚なんて窮屈だから、なるべくそんな束縛を受けないやうな生き方が賢明だつて言ふのよ。つまりバーなり喫茶店なり開かせてもらつて、面白おかしく暮すやうな工夫をする方がいいつて言ふの。その話はよくきかされたわ」

「なるほど」伊東伴作は心の底で、やつぱりさうだと思はず大声で叫んだのだつた。

 昨日今日紅庵にそそのかされた事柄ではないにしても、底の底まで探つてみると、女の行動や考へ方の隅々まで紅庵の執拗な感化が行きわたつてゐるやうな気がした。執拗な感化があくどく行きわたつてゐるだけに、蕗子はなんとなく紅庵に反撥を感じ、紅庵の知らない所へ引越したいやうな考へを起したりするが、要するにその反撥の裏を辿れば、家出してからの蕗子の考へや行ひの一つ一つが紅庵の影響のもとにあり、蕗子そのものの本体まで紅庵の生臭い臭気から抜けでることができずにゐるのではあるまいかと伊東伴作は考へたのだ。蕗子がさういふ頼りない状態にあり、全く無意識に紅庵の思想の傀儡となつて動くものとしてみると、紅庵のことだからろくなことを吹きこんだ筈がなく、バーでも開いて男を探し、男から男へといふ風に面白おかしく、とでも毎日喋つてゐたのだらうが、それをそつくり実践されては堪らないと伊東伴作は怖れをなして考へた。然しいくら蕗子だつてまさかにそこまでは踊るまいとせいぜい気休めを弄んでゐると、蕗子への愛着はもはや牢固として抜くべからざる妄執に変りはじめてゐたのだつた。

底本:「坂口安吾全集 02」筑摩書房

   1999(平成11)年420日初版第1刷発行

底本の親本:「早稲田文学 第三巻第五号」

   1936(昭和11)年51日発行

初出:「早稲田文学 第三巻第五号」

   1936(昭和11)年51日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:今井忠夫

2005年1210日作成

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