狼園
坂口安吾



   その一 冷血漢


 温い心とは何物だらう? それからまごころといふことは? 愛といふことは?

 私の父は悪者ではない。それから叔父も、妹も、三人の特別の関係のある女達も。そのうへ此等の人々は私に対して危害を加へないばかりか、私の幸福を祈つたり、私が俗物ではないことを私以上に確信したり、私が私自身に対してさへ労はることを絶対に許さない苦悩に対して労はりの情をさしむけやうとしてみたり、私の愛情に依頼したり、それに裏切られた寂寥に打ちしおれたりする。やりきれないことだ。

 この人達が私に向つて答へを求める権利があるといふことを、私は一応承認しやう。私は屡々しばしば形式的な返事さへ出し惜しみをする傾きがある。自分乍ら毒々しいと思ふほど、苦りきつた顔もしがちだ。按ずるに答への義務があると思へばこその話で、路傍の人に対してなら、厭な顔もみせない代りに、返事もしないで通りすぎてしまへばいいのだ。いや、それどころか、路傍の人に対しては時々ひどく親切だ。聞手の頭が痺れるほどの綿密さで、間違ひのない道順を教へるために数分の労力を費したり、右と左に別れる時には厭な思ひをさせないためにわざわざ微笑を泛べることも、その程度の無駄な厚意は齲歯むしばが疼く時でさへ気分によつてはやりかねないのだ。私のこんな親切が自分の場合にかけられた覚えのない妹は、驚いたり疑ぐつたり自分一人の断定を下すために急いだりする。あらはに不満を表はして、私が常々肉親に対して誠実な答へと信頼が欠けてゐると難じたこともあつたのだが、陰へまはると、たとへば叔父や友人に向つて、うはべの冷酷と微笑を忘れた堅い顔はもはや性格化されたペッシミズムの結び目に当る宿命の瘤で、つつまれた心の温かさは人にも稀れであるといふ。この種類の、又この深さの解釈は屡々女性が行ひがちだ。彼女等の現実的な眼光は甚だ辛辣に扮装の下を射抜いてくるが、ある限度の深さへくると、この冷酷なまで現実的な眼光が俄かに徹底的な浪曼主義者に豹変しがちなものである。そのうへ偏見と知りつつ固執することの真剣さが、女性にあつては当然の反省すら超躍しがちだ。妹は私の秘められた思ひが人にも増して温かであると言ひふらす。生憎なことに、その解釈の感動的な快さが妹の心を虜にして、信条に近い確信にすら変つてゐるのだ。気の毒な妹よ。然しお前の考へは明らかに不遜な誤魔化しを犯してゐる。根柢的に間違ひだ。私の秘められた心は、残念乍ら温かなものではないのだ。私ですら私の心に幾度となく温かなものを誤診した、誤診しやうと努めすらした、誤診と知りつつ信じることの快さに浸り得た幼稚な然し幸福な忘れられない華やかな(ああ! 皮肉なことに、これが皮肉な用語ではない)追憶すら今も歴然と胸にあるのだ。お前の場合と事違ひ、私の場合は、呑気であつても必死であつた。肉親や人情のつながりに休む気安さはなく、あらゆる関係と存在自体の真相を摸索しつづけたつもりでさへ、誤診することの快さを逃げきることのできない時があつたのだ。私は再びそれを幸福な時代と称ばう。さて、私はこれを卒直に言ふよりほかに仕方がないが、私の心は常にただ冷酷である。ただ狡猾である。(私はしかく言ひたくない。今となつても未練がましくやがて時々は訂正もしたい。)

 私は自分の行動を他によつて律せられることが厭だ。一応かういふ解釈を与へておかう。自律的な行為の限りは豚に笑顔を見せることも平気であるし(私は突然思ひ出したが、昨日の話だ、散歩の路で行き会つた山羊のメイメイの一々に、この山羊は私にひどく厚意を寄せたが、一々振向いて微笑を返さずにゐられなかつた。そればかりか、戻るに当つて、予定してゐた綺麗な路を犠牲にして、同じ野道を選ばずにゐられなくなつた。これは一つの笑ひ話にすぎないが、生憎これが年中のことだ)鴉と握手を交すことにも一向苦痛は感じないし、自尊心の傷けられた記憶もない。私は寧ろ軽い意味で愉快なのだ。かういふ私の行動が温い心の表れであるといふのなら、そして多くの人々がこの卓説に賛意を表してくれるなら、私は早速有頂天に叫んでやらう。俺こそ世界一の温い心の持ち主だぞと。呵々。私は路傍の何人とも(況んや豚に於ておや)交りを結ぶに垣根を構える卑屈な要心は用ひないが、心にしみがうつるほどの交りの深さに達すると、私は突然背中を向ける習慣である。以上の話から判る通り、私は常にむらだつざわめきの中に住み、小鬼に似た孤独のまなこを光らしてゐるが、私はかかる寂寥に怖れはしないと叫んでおかう。若しも人が、又父が、妹が、当然の権利のやうに私の答へを求めるなら、私は忽ち顔をしかめ、心の底では癇癪に浪立ちながら叫ぶだらう。俺は孤独だ。俺のほかの誰であつても、俺の心にきいてくれるな。ほつといてくれ!

 私は路傍の冷めたい人に、浮気女のそれのやうに、温い言葉を恵んでやらう。親しい人の愛の籠つた言葉には、冷めたい眼差を伏せるばかりだ。私の心は石のやうに冷めたく、さうして、ひらかないのだ。そのうへ冷静な計測器でもある。

 私は路傍の豚に対して背中を向けることもできやう。親しい友達に対しても背中を向けることができやう。肉親に対しても、また恋人に対しても背中を向けることができやう。然し同時にあらゆる人に背中を向けることができるか? 全ての甘さに頼る余地のない世界に、絶体絶命の孤独の心を横たへることができるだらうか? その予想は余りにも怖ろしい! それはこの現実に決して有り得ないばかりか、ただ予想として、可想の世界としてのみ実在もし、同時にその言語に絶した恐怖をかざして私の心に挑みかかりもするのである。悲しい哉、私の心臓はこんな架空な果の知れない恐怖に対して堪えきれるほどの強大な魔力が授けられてゐない。怖ろしい想像を弄ぶこと、それに怯えて立ちすくむことを私は避けたい。私はこの物語の中に於て、私の心を解説するのが主要な目的ではなかつたのだ。私はむしろ書きたい多くの人物と、出来事と、それの雑多な関係の中に投げ入れられた様々な物の様々な姿を見直す必要があつたのだ。私はまづ私の一人の叔父に就いて語りださう。

 私の叔父(父の弟)、芹沢東洋は、日本画家として相当の盛名を博したこともある男である。このところ数年間は執拗な神経衰弱に祟られて全く絵筆を執らないが、神経衰弱の原因は御多分に洩れぬ情事問題を別として、絵画そのものに対しての本質的な疑惑、不安におちこんだことが、原因に非ず或ひは結果であるにしても、とにかく懊悩の一つの根幹をなしてゐる。懊悩の根柢をなすものの第三が私──然しこのことは改めて語り直さう。私は先づ、齢不惑を越えること七歳の中老人が、年甲斐もなく恋にやつれて、飄然と行方定めぬ一人旅に出立したといふところから、この物語りを始めやう。

 考へてもみたまへ。私は中年の恋を嗤ひはしないが、青白い夢を忘れていい筈の男が、恋に狂はず、恋のもつ感傷に狂ふといふのは滑稽な話だ。正面からの体当りはどんな愚かしい場合でも嗤ふ余地はないものだが、この老書生は悲恋の古風な詩人的哀愁に酔ひ歎いて、行方定めぬ一人旅に出やうといふのだ。この男が出立に際して私に残した却々なかなかの名科白は次のやうなふるつたものだが、私は放浪にでやうと思ふと口をきるその前から、今にも涙を流しさうな悲愴な面持をしてゐたものだ。私は放浪にでやうと思ふ、と、選りに選つて臆面もなく大きな文句を言ひだしたのも話のほかだが、その次に、旅にでた一二ヶ月は便りを書く気持にもなるまいと思ふが必ず安否を気づかつてくれるなときた時には、グイと笑ひを噛み殺さずにゐられなかつた。正直のところ、若しも私がとめさへすれば、叔父は旅行を中止したかも知れなかつた。私がとめることを予期した上で、流れる感傷の快さにつひふらふらと旅にでるなぞと言ひだした、勿論私はそこまで残酷に言ひ切れないが、心に起つた実際を振返つてみると、あの場の前後の行掛り上私は一応留めねばならない義理に駆られた事実がある。然し私は、叔父の不在が私のある種の計画に願つてもない好条件を生むことになるので、いささかよみすべき道義的な想念の萌芽を文句なしにもみつぶしてしまつたのだ。予期に違はず、早くも出発して三月目に、旅の第一信が私の机上にとどいた。叔父は上州万座といふ月並な温泉にゐたのである。

 叔父の第一信を手にしてから一時間とたたないうちに、私は蕗子の訪問を受けた。まさしく玩具の人形のやうな、然し立派な肉体をもつた二十八歳のこの女は、芹沢東洋にかこはれた日陰に咲く花であつた。

 叔父はその旅先から綿々たる感傷を連ねた長文の消息を蕗子へ宛てて送つたのだ。それを蕗子は叔父の書置きと誤読した。それらしい明確な文句は一つないにも拘らず。然し蕗子は叔父が旅立つ直前から、彼女と私の関係を叔父に気付かれてゐるのだと疑ぐりだしてゐたために、叔父の取り乱した焦燥や、あはただしい旅立ちが、この問題を原因にした懊悩から由来してゐると信じかけてゐたもので、年甲斐もない東洋の一様ならぬ哀調を流した告白的文章にぶつかると、超躍的な戸惑ひをしたのであつた。勿論叔父の文章も正気の沙汰ではないのである。私は笑ひたくなるよりも、腹が立つてきたのだつた。もとより正直に立腹もしてゐられない。この女の莫迦さ加減を黙過してゐなかつたら、この女の短所をおだててゐなかつたら、己れの短所に甘える余地を剥奪したら、妹をあざむくことは容易であつても、肉体を許した女を欺くことはできないのだ。

 私はここで余計なことだが一言附け加へたい蛇足がある。女のちよつとした感じによつて、物腰によつて、或ひはわづかにある瞬間の表情の美に惹かれたばかりで、私は女に夢中になることができるのだ。ヤ行の稚拙な発音に不思議な魅力を覚えただけで、何の取柄もない愚劣な女に暫く惚れてゐたことがあつた。然し私は唯一の女に惚れることができないのだ。一生は愚かなこと、わづかに瞬間が二つ移動するあひだには、恐らく二人の女のために心を奪はれてゐるだらう。そのこと自体は不幸でもなく特に幸福でも有り得まいが、一人の女に惚れきれないといふことが、余りにも明確に冷血な淫慾を知ることが、時々私を不安にするといふことを諸君は信じて呉れるだらうか? 私は蕗子と別れることに古着を棄ると同じ程度の感慨すら覚えぬことを知りすぎるほど承知してゐる。一週間の、一夕の、一時間の傷心が、別れの哀れが、なんの多足たしになるだらうか! その容貌に、その肉体に、その魂に、全く特別の用はないばかりか、蕗子が叔父の思ひものである点からも、別れることがむしろ私に有利の事情を生むばかりだ。それから新らしい恋のためにも。しかも私がそれを敢てしないのは、そこに私の淫慾をはなれた未練と恐怖があるからである。唯一の女に惚れきれないこと、それが特に私の不幸とも思はないが、斯様に牢固たる一生の予知を持つことが、私には並々ならぬ負担の思ひが強いのである。一言にして言へば、私は、一人の女に惚れきれないと信ずるがために、あらゆる女を手離すことが怖ろしいのだ。私が蕗子を手離さぬことも全く如上の理由の通りで、ただ一人の絶対の女を求めることが絶望の限り、蕗子は蕗子としての、雌鴉は雌鴉としての他に代えられぬ一つの絶対性を持つではないか。これは至純の愛から見れば全く論議の外である。蒐集狂の一スタンプ一切手一レッテルの存在価値がどの理由から一人の蕗子に劣るであらう! 然しんな大まかな独断的な放言は、心の底の微細な襞を誤魔化すために振り下した切れ味の悪い斧のやうにも見えるだらう。誰の心を探つてみても、袋小路や抜道のやうな恐れや策略があるものだ、と。然し私は、とりとめもない心の話に生憎こだはつてゐられない。解説に費す百万の語も心のまことの姿から遠距とおざかるためにしか用ひられないものである。恐らく行為が、まことに近い解釈を与へる唯一の手掛りとなるだけだらうから。私はそれを言訳にして、話を先へ進めやう。

 遊ぶためにしか存在しない女、しかも決して羞しめられてはゐない女、然し又人並以上の誇りも持ち合せてはゐない女、蕗子の場合がさうであるが、こんな女は莫迦のやうにたわいはなくとも、トラムプの女王のやうなゆとりと重さはあるものだ。この女が私の住居へ華美な姿態を現はすたびに、近所の眼には、私の形がジャックに見えたに違ひない。美麗な衣裳に包まれた空虚な頭脳とぼんやり対座してゐる時に、屡々私自身すら自分が一枚のジャックにすぎないもののやうな奇妙な想念に襲はれて苦笑を洩したものであつた。

 その日私は、ひとつの貴重な約束の時間を、あと二時間の後にひかえてゐた。約束の場所へ出向く時間、多少の準備、それらの空費を差引くと、残る時間は多いものではないのであつた。冷静な又狡猾な頭脳の動きも、華麗な空虚をただ追払ふことだけで、勢一杯になつたのだ。

「叔父が自殺をするだらうなんて、考へられないことだ。第一、これはハッキリ断言できることだが、私と君の問題は叔父に気付かれてはゐないのだ。然し叔父を哀れな一人旅におつぽりだしておくのが気の毒だといふ理由で、君が万座へ叔父を迎へに出向く必要があるかも知れない」と、私は一語づつ噛みわけるやうな要心をもつて言ひだした。

 私は話の途中から、もはや焦燥のために坐つてゐることもできなかつた。立ち上つて壁にもたれ、衝撃のために表情を忘れた空虚な女王を見下しながら、全身の注意をあつめて力の籠つた言葉をついだ。言葉の落付きにも拘らず、私の心は動揺のために、全くうはの空であつた。

「明朝万座へ出発しなさい。女中を連れて。さうすることが必要だ。、そして、数日山の湯宿に泊るのがいい。それから叔父を同道して戻つて来たまへ。出発は朝の一番上野発。仕度を急ぐ必要がある。地図や、それから旅に必要な品物を私がこれから買ひ求めて、夜の八時に君の家で会ふことにしやう。そのとき、ゆつくり話をしやうよ」

 心に衝撃を受けたことと、愛人に会へたことと、その意見をはつきり聞くことができたために、一層の疲れが蕗子の失はれた表情の中に浮きたつてゐた。それ以上の私の言葉はもはや必要ではなかつたのだ。なぜといつて、それを咀嚼する根気もなく、何よりも全く理知の必要でない状態だつた。そしてただ本能によつて、私の強い抱擁だけを求めたい熾烈な希ひを、茫漠としたその蒼ざめた表情の中に、幽かながら根かぎりの努力をもつて表はした。私は蕗子を抱擁した。それから直ちに自動車に乗ると、蕗子をその家に送りとどけ、ついで私は重要な約束を果すために踵を返して横浜へ向つた。──


 芹沢東洋に三つの住所があつた。余談にわたるやうであるが、話を運ぶ都合上暫く脇道へそれて、芹沢東洋の為人ひととなりに就いて若干の言葉を費す時間を与へていただきたい。

 私の生家、栗谷川家は、越後平野の変哲もない水田によつて囲まれた五泉ごせんとよぶ小さな機業町に、代々機業を営んでゐた。景気不景気が同業を営む町全体に同じ浮沈を与へがちなこの町でも、栗谷川家はその代々の血管を流れる一様ならぬ投機癖のために、同じ浮沈を三倍にも五倍にも引受けるのが通例であつた。私の生家はもはや数代の昔から「ほらふきの家」と称ばれ、「山師の筋」とも称ばれ、時々は負けぎらひな「羽をむしられても喚きつづける鴉」のやうな精悍な気性を誇り得たことはあつても、むしろ概ね投機の打撃に打ちひしがれて尾羽打ちからした鴉のやうな乞食暮しをすることが多く、町民達の生きた「見せしめ」に引用されたり、笑ひ話の種になるのが普通であつた。さういふ一家の歴史の中でも芹沢東洋は特別ひどい逆境のさなかに生れた。二人兄弟の次男であつた。

 十一歳の春、芹沢東洋は小学校もおわらぬうちに、縁故によつて京都のとある染物店へ丁稚奉公に送られた。

 十六歳の時、主家の縁戚に当る富裕な一未亡人にその画才を認められた。爾来この婦人をパトロンヌとして専心絵の修業に没頭することとなつたのだが、今に残る噂によつても、果してその画才を認められたものか、その容貌を認められたものか、判然としないと言はれる。それからの芹沢東洋は、名声のあがるところに必ずパトロンヌと金にめぐまれ、女と金と名声はあたかも三位一体のやうに彼の身辺を離れることがなかつたといふ。血気壮んな年齢に盛運を満喫したこの男は、調子に乗りながらもザジッグ的な厭世感をどうすることもできなかつた。彼はその年頃にシヨペンハウエルを最も熟読したと語つてゐる。不惑に近い齢を迎へて、最後のパトロンヌと入婿の形式をもつて結婚した。彼が芹沢姓を名乗るのは、この故にほかならない。女には先夫の子供が三人あつた。牝牛のやうに精力的で、悦楽のためにしか生きることを知らうとしない女の本能の迫力の前に、いためられすくめられた半生の姿をまざまざとかへりみながら、焦燥や怒りや悲しみを始めて痛切に感じたのだつた。女に愛された数々の記憶はあつても、心底から女を愛した覚えのない寂寥なぞも、いはば贅沢な感傷であるが、胸を流れた。それと同時に、又同様に、数々の絵を描き残しはしたが、ここに我ありと絶叫して悔ひないていの作品を嘗て物した覚えのない寂寥が、恰も女と表裏の関係をなすが如くに感傷の底につきまとひ、その焦燥や怒り寂寥悲しさを鋭いものにさせてゐた。

 て、蕗子は芹沢東洋が自分から働きかけた始めての女であつた。蕗子の愛をかちえた時、様々の難儀の後に、たとへば蕗子の家族との錯雑を極めた折衝なぞを乗り越えて、漸く蕗子を囲ふことができたときには、それが単に一女性の愛をかちえたことではなく、絵に就いても言ふまでもなく生活の全面に於て新らたな光りと出発を獲得したのだと熱狂して人にも語り、自らも固く心に信じたのは、一時の亢奮ではあつたにしても、贋物ではないのであつた。言ふまでもなく当時の彼の一方ならぬ寂寥や怒りや焦燥や悲しさから無我夢中に飛びついた一獲物ではあつたにしても、彼の心は偽りなしに、むしろ狂的なひたむきをもつて、全面の生活が、生命力が、ここに新らたに始まるのだと意気込んだのは無理に強めた空虚なかけ声ではなかつたのだ。勿論その正体は枯草のやうなものでもあつた。半年一年とたつうちには、始めの意気込みが過重な負担に変り、やがては形を変えてのつぴきならぬ絶望にさへ変つても、然も芹沢東洋は蕗子への愛と新らたな出発への光明をあくまで信じつづけてゐたほどであつた。

 芹沢東洋の囲ひ者となる時まで、蕗子は女子大学の学生であつた。生家も決して貧しくはなく、当然良家へ嫁して然るべき娘が、甘んじて不惑の書生の二号におさまるといふ異数の出来事を回想しても、私は当時の異常な情熱に燃え、熱狂に自失して最前線を疾走する傷ついた兵士のやうな猪突的な力強さで、蕗子の家族と折衝し、蕗子を励まし、又自らの妻子への自責の念と正面から戦ひぬいた叔父の姿は直ちに思ひだすことが出来るにしても、その表情と血の気の失はれた、なにやら一途に思ひつめた白痴的な、単に考へてゐる人形としか思はれない蕗子の冷めたい額付のほかには、叔父の情熱に比較しうる何等の激越な出来事も動作も蕗子に就いて思ひだすことが出来ないほどだ。この決して平凡ならぬ境遇の変化に直面しながら、蕗子の心にどのやうな思案の数々が去来したか、私の見るところをもつてすれば、私自身に手掛りの掴みやうがないばかりでなく、恐らく蕗子を除く何人にも想像の余地がないのだと言はざるを得ない。然しながら蕗子は蕗子なみの考へ方によつて、むしろ或ひは決然たる断案の示すところにもとづいて、甘んじて芹沢東洋の二号たることを選びだしたのであらう事実も、亦私はこれを否定することができないのだ。

 この非凡なる凡庸婦人を相手にして全霊を傾けた愛情を捧げ、新らたなる出発の光明に向つて飛び立たうとすることは、雲峯を押し煙幕に飛びかかると同じやうに手応へがなかつたに違ひない。出来合ひの聖母マリヤか架空の佳人を守護天使にしてひそかに溜息をまぎらす方が、むしろ絶望の息苦しさを多少ともまぬかれたに相違ないのだ。古風な詩的情操を多分に持ちすぎた不惑の画家は、蕗子にひそむ聖霊を信じ、それにからまる自らの新らたな光りを、然しあくまで信じつづけてゐたのだつた。地に足のない信念が知らないうちにどんな大きな心の重荷に変つてゐたか、どんな深い絶望に変つてゐたか、そしてそれがだういふ形で現れたか?──即ち芹沢東洋は突然生れて第二回目の恋をした。生憎のことには、再び私の恋人に。……

 私は先程芹沢東洋に三つの住所のあることを一言述べておいた筈だ。即ちその一つは言ふまでもなく妻子の住む本邸であり、他の一つが蕗子の住居であることも断るまでもない話として、最後の一つが特に静かな郊外に建てられたアトリヱであつた。このアトリヱには留守番の形で、私と私の妹が住んでゐたのだ。

 当然本邸に附属して建てらるべきアトリヱをだうしてわざわざ遠い郊外へ運びだしたか? これには芹沢東洋の深謀遠慮と、充分の必要があるのだつた。このアトリヱは愈々蕗子が彼のものに定まつたとき、倉惶そうこうとして工を急がせアラヂンの城の如くに建てられたものだ。かう言へば直ちにそれと気付かれた読者もあらうが、要するに、絵の制作は第二として、妻子の眼には怪しまれず毎日蕗子を訪れるためには、不便な郊外に独立したアトリヱを建てることが必要であつた! そして又当然アトリヱに居るべき筈の東洋が実は年中不在であつても、不時の急場に誰怪しまれぬ言訳けもしてくれ仕事の応接もしてくれる腹心の留守番が必要であつた。その腹心がほかならぬ私であるのはいささか笑止の次第であるが、甥でもあり、孤独の叔父には年齢の差が問題でなく二十歳はたち頃から唯一のコンフィダンでもあつたところの私をおいて、この重任を果すべき人物は地上に二人と有りえない。当時私は文科大学を卒へたばかりで職業もなく、そもそも私は小学校を卒業するから専ら叔父の出費によつて生育したものである。

 当時芹沢東洋は絵画そのものの本質的な疑惑、或ひは思想的な懊悩によつて、絵筆を握る勇気さへ失はれがちな有様であつた。従而したがつてこのアトリヱはアトリヱ本来の面目を果すことが極めて稀れで、専ら主人の不在によつて存在理由も生じるといふ奇妙な役割を果してゐたが、然し一週に三回の午前中、十名ばかりの若い娘に絵の手ほどきをするといふ私塾の用に使はれてゐた。元来芹沢東洋は、そのペッシミズムから、責任をもつて弟子の教育に当るといふ余計な心労を厭うてゐて、絵によつて身を立てやうといふ弟子を専ら断はることにしてゐたが、或時近親の娘を託されたことが機縁となり、嫁入り前の茶の湯なみの稽古とか、有閑婦人の閑つぶしといふ責任のいらない場合に限り弟子をとることにしてゐたのだ。芹沢東洋が第二回目の狂乱的な愛慕を寄せた伊吹山秋子は、それらの娘の一人であつた。従而、いはばアトリヱの主ともいふべき私が、伊吹山秋子と特殊な関係を生じることになつたのも、決して偶然ではなかつたのだ。

 叔父が秋子にひそかな思ひを寄せはじめたことは、その時々の偽りきれない表現から、相弟子達は無論のこと、私にも分つた。その頃から叔父の生活様式が変化して、授業が終ると早速引上げる習慣の叔父が、弟子を相手にいつまでも無駄話をするやうになり、娘子軍じようしぐんの一隊を引率ひきつれて、散歩や映画を見廻ることが連日のことになつてきた。勿論叔父の目的が一人の秋子にあることは誰の眼にも明らかで、娘子軍の話題にもそれが公然のことになると、一大隊の連日の散歩も自然芹沢東洋と伊吹山秋子の二人をとりまくやうな形にもなり、二人の噂は東洋を知る全ての人に伝はるほどになつてゐた。私はなぜか心穏かではなかつた。

 さういふ一日、その日は授業のない日であつたが、秋子がふらりとアトリヱへ現れて、昨日忘れ物をしたんだけどと言ひながら暫くアトリヱにブラブラしてゐたが、やがて私をつかまへて、丁度切符があるんだけど音楽をききに行かないかと誘ふのであつた。それが全ての始まりであつた。私の見るところをもつてすれば、彼女に寄せた私の曖昧な思慕の情をいち早く看破した秋子は、却つて私を誘惑する気持になつたものとしか思はれないのだ。いはば私は受動的な形であつたが、ひとたび秋子との恋愛に希望を持ちはじめた私は、心中顛倒する歓喜の絶頂におしあげられたことを告白しなければならない。狡智に富んだ冷血漢であることを自認する私も、その時々の恋情には忘我の狂暴な状態をもつて、喜びもし悲しみもすることがあるのであつた。秋子は然し冷静であつた。私を様々な様式で待ちくたびれさせた。私はその頃絶望に沈んだ。

 私達は月に二度以上の会合を持つことが殆んど無かつた。すくなくとも秋子はそれ以上の機会を私に与へやうとしなかつた。さうして私がそれに馴れ、その上の無理を決して強要しないことを知ると、却つて驚いたほどであつた。月に二度の会合に、私達は音楽をきき、スポーツを見、展覧会をのぞいた。そんな月並な散歩のほかには、全く何事も起らなかつた。私はその頃全くそれだけの逢ふ瀬でさへ満足しきつてゐたのだ。ただ秋子に会へることだけで。話ができることだけが。肩を並べて歩けるだけで。私のそんなまるで騎士的な又子供めく思慕の至情が、そのころまでは淫婦的な気持もあつた秋子の態度を逆に改まらせることになつた。私の思ひあがつた観察であることを怖れるが、けれども私はそれを固く信じてゐるのだ。秋子は叔父との関係をひそかに反省しはじめた。その内省に苦しみはじめた。そして内省の苦しさを私に気付かせまいとするために、一層懊悩の深まることが私に分るのであつた。私に会ひたい気持が次第につのる一方には、会ふ機会を却つておくらすやうに努めた。会ふたびに次第に口数がすくなくなり、常に考へる表情になり、陽のあるうちにいつも別れを急がうとして、音楽をきいた日は音楽をきいただけで、散歩の日は散歩だけで、決してそれ以上は求める筈のない私の態度を、逆に彼女がそれを私に強ひるかのやうなきびしさを見せて、秋子はやがて私の前では高潔な娘のやうに振舞ひはじめてゐたのであつた。私の自惚れた言ひ方によれば、秋子は私の前に現れて高潔な処女に再生したのだ。

 芹沢東洋の塾生の一人に、秋子とは少女の頃から友達の日下部あぐりといふ女があつた。女の友は屡々裏切るために存在するといふ一例を示すためであるかのやうに、あぐりは私と一座する機会を屡々つくつては、それとない話し方で秋子の秘密を伝へやうとするのであつた。秋子には、叔父のほかに、俳優くづれの横浜に住む峠勇といふ情人があつた。峠に関する秘話の仔細は全てあぐりの口によつて、極めて婉曲な様式で然し仔細に伝へられたもので、その話を更らに裏書きするために、あぐりは巧妙な機会を掴んで秋子の古い友達を私に紹介もしたのであつた。秋子には峠のほかに、別れた男が数名あつた。そのうへ秋子はやがて姙娠したのである。この事実を私にいちはやく伝へた者もあぐりであつたが、悲しむべきこの事実を悲しい哉やがて私も認めぬわけにいかなかつた。私は落胆もしたし、絶望もした。眠られぬ夜がその頃つづいた。私は発狂するのではないかと、おののく一夜があつたほどだ。なぜといつて、考へてみたまへ、秋子が峠の子供をみごもつた頃、已に彼女は私に対して並々ならぬ厚意を示してゐたではないか! 高潔な娘の姿を示しはじめた後ではないか! 苦しみのために、私は泣いた。

 私が絶望のために四囲の正確な姿を見失つてゐるころ、秋子は然し異常な決断をもつて行動を起しはじめてゐたのであつた。みごもりながら秋子は峠と絶交した。絶交しやうと努力した。つづいて叔父に対しても冷めたく振舞ひはじめたのだ。叔父に混乱が起つたのはその時からのことだつた。さうして、混乱の中ではただ一つ研ぎ澄まされた疑心によつて、薄々は気付いてゐた私と秋子の交遊に最悪の断定を空想すると、全くもつれた紐のやうに苦しみはじめたのであつた。然し叔父の混乱に対して、意外なところからエピロオグ的な思はぬ鉄槌が落ちてきた。峠勇が突然アトリヱへ現れるといふ興味ある劇的一場景があつて、叔父の混乱に荘厳な結末──あの目当のない放浪に旅立つといふ契機を与へたのであつた。

 その日は丁度授業の時で、アトリヱには娘子軍が勢揃ひもしてをり、勿論秋子も居合はした。取次に現れたのは私であつた。受取つた名刺の中の名前を読むと、私は危ふく叫びをあげるところであつた。それから改めて奇妙な来訪者を見直した私は、彼の両肩が壁のやうに岩乗がんじように張り鼻血が流れても呻き声をたてさうにもない冷酷な敵意を感じると、ふとむらむらと顔の中央に物も言はず一撃を加へてやりたい衝動を覚えた。然しそれは余談である。私は叔父に取次いだ。ある女の一身上のことで、といふ峠の言葉を伝へることが、むしろ冷汗の流れでるほど言ひにくく、叔父に対してただ気の毒に覚えたのはどういふ理由であつたらうか? 一瞬叔父は顔色を変えたが、直ちに落付きをとりもどした。

 さて、ここに一つの珍妙な寸劇を書き加へて、我々のメロドラマが実は甚だ間抜けなものであることを読者共々笑ひながら慶賀したい。この建物はホールの右側に応接室があり、左側に画室があつた。私は再び現れて応接室の扉をあけ「どうぞこちらへ」と言つた筈だが、素朴な訪客は私の言葉に一向かまはず突然私の思ひもよらない方角へ落付払つて歩いていつた。彼は画室の扉を開けた。最も陳腐な悪役の気取りを思ひ泛べていただきたい。彼は開け放した矩形の上へ立ちはだかつて画室の内部をじろじろと見廻しながら、豪放な笑皺を口べりに刻みながら、大きな声で呟いた。「フフム。これがアトリヱか。却々綺麗な女がゐるぞ……」と。

 私は咄嗟にむらむらすると、背面からやにはに足払ひで蹴倒してしまふ気持になつた。然しいざその瞬間になつたところで、蹴倒した後の大袈裟な騒ぎがたまらなく惨めな自分に思はれたのだ。二三の戯画的な不快な映像が流れるうちに、はづみをつけた左足で私は自然に力一杯豪傑の片足を踏みつけてゐた。顔を歪めた豪傑に「失礼」と私は言つた。「君の行く部屋はあちらです」

 豪傑は怒りのために飛びかかる力を盛りおこさうとしかけたが、弱気の男が行動的に走つた場合のひたむきな殺気を私の構えに読みとると、急にぐらりと態度を変えて、悠々と肩をゆすつて応接室へ歩いていつた。小犬にかまはない猛犬のやうに。

 私達を追ひかけて、画室の中から一人の女のけたたましい笑ひ声が沸き走つた。私は心に「しまつた!」と叫んだことを記憶してゐる。その笑ひが豪傑の荒々しい心を呼び覚ますことを私は怖れはしなかつた。私はただこの出来事が秋子の胸を突き荒すことを悲しんだのだ。笑ひ声をきいた時、私の身体は可愛い女の苦悶の呻きをきいたやうに冷めたくなつた。然し笑ひは秋子が発したものではなく、あぐりの声であることが分つたとき、私の最大の憎しみがあぐりに向けて閃いたことも忘れられない。その笑ひをきつかけにして、秋子は一直線にアトリヱの中央を横切ると、私のうしろから応接室へ這入つてきた。芹沢東洋は一番おくれて現れた。彼はむしろ茫然とした様子だつた。なぜといつて、秋子にこんな隠れた男のあることを知らないために、始めのうちは何のことやら皆目事情を呑み込むことができなかつたであらうから。

「あたしに恥をかかすなら、一思ひに殺しなさい!」と、低い声だが力一杯の怒気を含めて秋子は言ひ放つた。なみだのこみあげる気配が肩にも背にも表れてゐた。

「人前で恥をかくぐらゐなら、あたしは死ぬ方がましです!」と、秋子は泪をおさへながら怒りにふるへて言ひつづけた。

 私はむしろ茫然とした。こんな時、女は一途にこんな考へを持ち、こんなことを言ふものだらうか? 私は先づかやうな疑問に打たれたことを打ち開けやう。根本的に男と違ふ生物を私は始めて見出したやうに吃驚びつくりした。秋子に惹かれる一つの理由が分つたやうな思ひもした。一つの美と一つの尊厳を感じたことも事実であるが、その反動に、秋子の怒りが悲しみが直ちに私の心となつて言ひやうもなく遥かな奥に切々と悲痛なうねりが流れたことも否定はできない。

「なんの用できたのです! このうへあたしに恥をかかすつもりなら、あたしを殺してからにして下さい!」と秋子は殆んどききとれぬ声で叱咤した。

「家内は姙娠五ヶ月で、ちよつとヒステリイ気味のやうですな」と峠は秋子にとりあはずに、煙草をゆつくり点け終つて叔父に言つた。

「秋子は僕の家内です。勿論御存じのことでしたね。いや、僕はこのうへ何も言ひたくありませんな。言ふ必要はないでせう。言ふべきことがありますかな。秋子は僕の家内です。それで、さて、それから何か言ふ必要がありましたかな?」

「君はいくら欲しいのですか?」と芹沢東洋は思ひきつた顔付で言つた。

「けだもの!」秋子は殆んど掠れた響きで呟いた。

「五千円。それくらゐのところでどうでせう? 僕は北支那方面に野心と抱負があるのですよ」

 斯様な愚劣な情景に多くの頁を費すことを私は止めやう。私の目配せがなかつたら、たとひ値切りはしたところで叔父は若干の金銭を即座に渡しかねないところであつた。万事私が今後の相談にあづかる約束を結んだうへで、この豪傑は落付払つて帰つていつた。

 寸劇の最後に、私の決して忘れ得ない一印象を書き洩してはならない。

 豪傑を送りだして応接室へ戻つてきた私は、泥細工の達磨よろしく固まりついた叔父の姿と、壁に倚り壁に顔を押し当てて、その壁面のある一ヶ所に空しいまなこと五本の指をぼんやり遊ばせてゐる秋子の姿を認めたのだ。私の戻つた気配を知ると、秋子は突然喋りだした。やつぱり壁面の薄暗らがりを凝視しながら、私達には横顔を向けて、物憂げに、然し一つの金属的な硬鋭なものを閃めかして言ひだしたのだ。

「あたしのお父さんたら、赤んぼのあたしに鬼のやうな怖い顔でおどかすことが好きだつたわ。あたし泣き叫んでいやがつたけど。……お芝居じみた荒々しい出来事なんて、ほんとは悲しくも可笑しくもありやしないわ。あたしもう子供ぢやないんだもの……」

 私の胸は突然化石したやうだつた。私は今にも叫びをあげやうとしながら、怪しむやうに秋子を凝視みつめた。もしも叔父がゐなかつたら──然し所詮日本人の私には思ひもよらぬ表現であるが──秋子をひしと抱きしめて何事か絶叫したい思ひであつた。

 私は秋子の横顔をみつめ、そのみづみづしい襟脚をむさぼるやうに眺めつづけた。その襟脚は冷めたい小さな花びらのやうに私に見えた。腐つた肉。どうして女の肉体は時々救はれたやうに見えるのだらう? 私は心に呟いた。腐つた肉が腐らない肉よりも純潔に見え高貴に見えるのはどういふわけだ! さういふ事実にでつくはすたびに俺の心はひやひやする。その魔力が俺に苦手だ! 泥沼の中にだけ宝石は隠されてゐるといふ事実ほど俺の心を易々ひきづりこむ魔力はほかにない。それでいいのかと思ふたびに、俺はひつくりかへるほど吃驚してぞッとするのだ。女のこうべに薔薇の花をかざすことが俺はきらひだ。俺は女に鞭をふりあげ、血みどろの身体をひきづる方が好きなのだ。そのくせ薔薇の花を見るたびに、一時に冷え、竦む心を痛烈に感じてしまふのはどういふ理由だ?──

 私は秋子の襟脚を茫然と凝視めるうちに、劣情が地獄のやうなくれないに燃えひらめいてゐることに気付きながら我に返つた。狂ひたつ劣情の下積みの部分に、もはや私には判別のつかない様々の考へが意志が流れどよめき、こんぐらがつてゐるやうすだ。痺れるやうな重さだけが分るのであつた。私はほッと息をして叔父を探した。そして叔父を食ひ入るやうにみつめながら私は突然口走りはじめた。

「あんな愚劣なよた者に今後絶対にくちばしを容れさせない解決法が一つあります──」私は言葉の途中から自分の喋つてゐることが殆んど分らない状態だつた。「僕と秋子さんと結婚することにするのです。フィアンセだ。あいつが横から喙を容れる権利はもはや絶対にありやしない……」

 叔父は化石して私をみつめた。

「フィアンセといふ体裁にするだけの話ですよ」私は苦笑した。「あいつが引込んだらフィアンセの方も解消さ。そんな余興でもしなかつたら、貴方の代理で、一々あんな奴と莫迦真面目に取引してゐられますか!」

 言葉の調子と一緒に、なぜか不思議な莫迦々々しさが全身の張力を抜きとるやうにこみあげてきた。突然私の喉をつきあげて、莫迦笑ひがこみあげてきた。

「みんな余興だ。ワハヽヽヽヽ」

 私はバタンと扉をしめて、庭の芝生を横切ると、武蔵野の森をめざして散歩のために走りでた。


 その夜であつた。叔父は再びアトリヱを訪れ、そして放浪に旅立つことを言ひだしたのだ。

 ここで私は、私の心に起つた不可解な変化に就いて一言しなければならない。私は武蔵野を散歩しながら、もはや人々の立ち去つたアトリヱへ戻つて、物憂い白昼をすごしながら、静かな夜をむかへながら、私の決意は然し激浪の荒々しさで秋子と私との結婚の事を追ひまはしてゐた。その一事のみを熱のこもつた痺れる頭で追ひつづけてゐたのであつた。その時の心事を一言にして言へば、私はもはや秋子なしには生きられない思ひがしたのだ。然るに叔父の訪問を受け、対談の時をすごすうちに、話が愈々秋子のことに移つた頃には、私は秋子を一途に憎み蔑んでゐる自分の心を明確に意識した。この激変には一切の理由づけが無役に見える。私に分つた唯一のことは、理性では如何とも制しきれない根強い感情の波が、ひたむきに秋子を卑しみ蔑んでゐたこと、それのみであつたのだ。結婚の意志が失はれたのは愚かなこと、秋子の肉体があの時間から淫売婦の肉体に思はれたといへば、その蔑みの激しさは他言を費す要もあるまい。試みにあの夜の出来事を思ひだしながら書いてみやう。

 叔父は私の顔を見ると、いきなり放浪に旅立つことを喚きはじめた。その話の内容から一々の効果まであまりに計算し心に期しすぎたがために、さながら喚くといふ慌ただしい感じによつて語りだしたが、実際の態度はむしろ幾分粛然と気取りすぎた感さへある静かさであつた。その話に対しては、私に返答の余地さへ見当らないかの宛然独壇場の有様であつた。つづいて、私にそれと分る沈黙の瞬間をおいて、秋子のことを語りだした。

「私はお前とあの人の恋に気付かないわけではなかつたのだ」

 と、叔父は私がむしろ反感を催すほど、空々しい何気なさで言ひだしたのだ。私は叔父のその態度に突然硬直するほどの立腹を覚えたことも忘れられない。私は侮辱を受けたかの飛びあがるやうな衝動すら覚えた。

「気付かないどころではなく、長らく嫉妬に悩まされてゐたほどだつた──」

 と叔父はつづけた。その告白的な態度を見ると、私の苛立ちは忽ちその絶頂に達し、私の唇は顫え、拳を握りしめずにゐられなかつた。叔父は然し私の亢奮には全く気付かず、言葉をつづけた。

「この年になつて漸く私にはつきり呑みこめたことが何だと思ふ? 愛慾だ。女だ。さうさ、この年齢で醜悪な執着と思ふだらうが、私は始めて恋情が私の生活の全てであることが分つたのだ。私はただ恋によつて生きてゐる。そのことを疑ふことは出来ないのだ。そのほかにも何かがある、仕事がある、義務がある、なにか悠久な感動がある。然し女が第一だ。私は理窟なしに断言する。私の心をもみくちやに踏みにじる恋情に縋りついてゐなかつたら、私は到底生き永らへてゐられないのだ。然し私はあの人を諦らめやうと思つた。諦らめることも、私のいはゆる恋情のうちの一つなのだ。私を生き永らへしめる恋は、恋をかちえることその一つではない。恋を失ふことも、私を生かす恋情の一つなのだ」

 私はもはや我慢がならなかつた。

「生憎僕はあの人が嫌ひです!」

 と、突然私は確信に満ちて言葉をはさんだ。私は実際のところ、自分のこの咄嗟の牢固たる確信には驚きもしたし、尚甚しきに至つては、頼もしくも思つたほどの状態だつた。

「余興だと言つた言葉は伊達の科白ぢやないのです。考へてごらんなさい。どこの馬の骨だか分らない醜怪な男の腹の下で散々玩具になつた女を、世界に一人の女のやうに女房にできますか! 僕は口程もない弱虫なんです。僕一人のことだけでさへ大変な重荷だ! まして連れ添ふ女の重荷まで背負ひこむなんて──」

 丁度画室のマントルピースに載せてあつた置時計、それはアトラスが時計を支へる恰好に出来てゐたが、私はその置時計を指して急にゲタゲタ笑ひはじめた。痺れるやうな笑ひのほかには全く言葉がでなかつた。諸君はこんな幻覚に興味を持てないに相違ない。然し私はゲタゲタ笑ひながら、時計を背負つたアトラスがうんとこどつこい肩を入れ換へた動作を認めた。まるで皺のやうなクチャクチャな笑ひの中にたたみ込まれた動作であつたが、私はそれを確かに認めたのであつた。

 ──あいつ、足を蚊にくはれたな!

 私はかう解釈すると、笑ひながら、なほゲタゲタと大笑した。全ては有り得べからざる出来事であつたが、この哄笑の瞬間にはこのことのみがパノラマのやうに有り得たのである。私は古くから、この置時計のアトラスに刻まれた放心したもののやうなグロテスクに固まりついた疲労の表情が嫌ひであつた。

「あれです! あれです! 私が一番きらひな醜怪な形は!」

 と、私は程経て漸く叫んだ。

「私はお前のポーズをきいてゐないのだ。私は打開けて語るべきではないことを、ひとりその悲しさに堪えなければならないことを、さらけだして見せてゐるのだ」

 叔父の顔は蒼白だつた。なじりながら叔父の頬は顫えたが、私は然し冷然と見流してゐた。

「私は極めて卑近な、実際的な憎悪に就いて、偽りのない感想を述べてゐるのです。結果に於て肉体には理窟のあつた例しがないにも拘らず、我々の過去が単に後悔するために如何に架空な、然し高遠らしく見えるところの理窟をもてあそんだか、といふことを、私の若い経験ですら知つてゐるからです」

「いいや、お前はもつと純粋な魂をもつてゐる筈だ! 少年の叡智をまだ失つてはゐない筈だ! 私は知つてゐる! お前は墓をあばいて屍肉を姦すことはあつても、一本の野花を手折ることでも怖れと悲しみを感じる時がある筈だ!」

 熱狂して喚く叔父の様子は、その動作表情を一途に圧し殺してゐた殆んどアラーを祈る回教徒の激しい身振りを見ることと同じ印象を私に与へた。すると彼は突然ワーと泣きだした。急に四囲が静まりかへつて、彼のれさうな泣き音が、私には異様な怪獣の咆哮としか思へなかつたが、いや増しにガンガン室内にふくれあがつてきたのである。エエ畜生め! と私は思はず心に怒鳴つた。この年老いた怪獣は到頭涙にまで偽られてゐるのだな、と。

 芹沢東洋は最も急がしい動作で、泣きぢやくりながら、室内をうろつきはじめた。帽子をとるために、包みを探すために。それから扉の外へころがるやうに走りでた。私は扉の外へ追つかけて出たが、彼はあはただしく下駄を突つかけ、一度今にも転びさうな間違ひをしたが、杖を拾つて闇の奥へ消え去つた。私は見送りながら舌打ちをした。私はいはれなく泣き喚く一人の子供に立ち去られたあとのあの謹厳なる憎悪のみを懐いたのである。

 妹がとびだしてきた。私に食ひつきさうな顔付で。──然しこの話はもう止さう。こんな時、ほかの親しい人達の顔を見ることは、思ひだすことすら、いはれなく苦痛だ。私はやがてアトリヱへ戻つてきて、一人になつた。私は大切な考へごとがあつたのだ。

 私は言ひ洩らしたが、叔父は私に二千円の金を渡していつたのだ。午前訪れた豪傑に支払ふための金であつた。生憎豪傑には悪党の凄味も新鮮味もなかつた。私は豪傑を見くびつてゐたし、幸か不幸か昨今の精神状態が何事よりもむしろ人殺しに適当な荒つぽさであつたので、一文の金も支払はずに見ん事豪傑を撃退する確信があつた。一文の金も要る筈がないと私は一応断言したが、金銭よりも煩らはしさに厭気がさしたに相違なく、種々な理由で白熱的な棄鉢すてばち気味にむしろ快く溺れたらしい叔父は、その意味では豪傑も恐喝も眼中にない様子で、二千円には鼻もひつかけない冷然たる挨拶だつた。

 そこで二千円の札束を私の懐に収めた瞬間からのことである。私の頭に突然思ひがけない想念の塊りが飛びこんできたのだ。それから叔父と対座した長丁場の二六時中、怪獣が泣き喚いた賑やかな時間でさへ、この黒々とした想念の雲は、私の脳漿にからみついて離れない。私が放心しても生きてゐる、さういふねぢくれた状態であつた。

 その想念とは?──夢の中では時々こうした思ひがけない想念を糞真面目に思ひついたり追求したり実行したりしてゐるものだが、現実では殆んど経験しないことだ。例へば諸君も記憶があらうが、かりに我々が十年一日の如く海を渡る船乗りであるとして、山のことには一向に不案内であるばかりか、山に対して微塵の野心も希望も持てない人間とする。ところが我々の夢の中では、我々が嘗て夢想だに及ばなかつたダムの設計技師と変つて、希望と勇気の全てのものを山岳と科学に打ちこんでゐたりする。夢の中の設計技師は自分の職業を疑ぐりもしないし、自分の仕事と希望に対して絶対の信念を懐いてゐたりするものだ。──私の想念が、現実に於て、この場合を再現したのだ。その想念とは二千円の使途に関することであつた。二千円を受けとることになつたのが思ひがけない出来事にしても、突然沸き起つた想念は、これは又決して他の如何なる正常な又異常な状態に於ても、単に奇妙な、気まぐれな思ひつきとして以外には再び有り得ないことに見えた。私は全く吃驚した。あまりのことに、ひやりとした。しかもこの唐突極まる想念が、決して一時の気まぐれな思ひつきで終りさうな様子がなく、私の頭に黒雲のやうな次第にふくれる広がりを持ちはじめていつかな離れる模様も見えないことを知つては、手をつかねて茫然と呆れるほかに仕方がなかつた。

 叔父の後姿を見送り、食つてかかる妹をふりはなして一人アトリヱに閉ぢこもつてみると、全てはハッキリしたやうに見えた。なぜといつて、私はもはやこの想念に抵抗できない状態であつた。この想念は已にしつかりした決意の形に変つて、単にその実行を残すばかりの牢固たるものにかたまる一方であつたから、私はもはや引きずられるほかに方法のない形であつた。

 ──してみると……私は思つた。

 ──ああ、夢を見る少年のやうな気持がするぞ。してみると、私のひとつの本心が、こんなところにも在つたのか! それにしても、どの奥深い襞の中に今まで隠れてゐたのだらう! どうにも遠い夢のやうな気持がするが……

 私は実際この想念がさては私の本心だつたかと一時改めて考へてみたりしたのだつた。さう思ふほかに、あの時としては恰好のつかない状態でもあつた。私は夜もすがらまんぢりともせず、この想念の実行に頭をめぐらしはじめたのだ。

 そこでこの思ひがけない想念とは?……私は暫くそれを言ふまい。私に対してそれが唐突であつたやうに、敢て読者にも唐突たらしめやうとするわけではないが、実は私の全く一片の気まぐれな悪戯心から、愈々私が二千円を投げだす時まで、この説明を一時あづかることとする。幸ひに諒されよ。


 叔父はそれから数日の後、例の放浪に出立した。出立間もなく私と蕗子に宛て旅の第一信が訪れたこと、これを遺書と読み誤つて蕗子が私を訪れたこと、蕗子に万座行きをすすめたこと、それらは已に冒頭に述べておいた通りである。

 話は元へ戻る。私は蕗子をその家に送りとどけ、ある大切な約束を果すために横浜へ向けて走りはじめてゐたのである。

 私は前に、この約束を果すためには多少の準備が必要であつて、そのために蕗子に話しかけながらも内心ひどく苛々したことを書いた筈だ。自動車が横浜にはいると、準備、それは一つの買物であつたが、その時までは単に漠然とした焦燥でしかなかつたことが、改めて切実な問題となつて蘇つてきたのだ。私は突然車を止めると、愈々その品物を買ふことに心を決めたのであつた。何を? ありていを言へば、買物の品も実はその時はじめて選び定めたものである。一本のヂャックナイフ。私は最も無造作にその一本を買ひもとめて、再び自動車に身を投じた。あの時の気持では、私は最も常識的な、当然のことを順序正しく為しとげてゐる心算であつたが、振返つてみればかなり異常な亢奮が全ての心をさらひあげてゐたのであらう。たしかに不当に殺気立つてゐたのであつた。

 これも一つの準備であつたが、桜木町駅で秋子と待ち合す約束であつた。私は時間に遅れなかつたが、然し秋子は已にぼんやりと私の姿を待つてゐた。秋子の全身が色蒼ざめた感じであつた。私を迎へたその切なげな無表情が、物音けたたましい停車場全体を寒いものに思はせたほどだ。誇りを棄て、忍従と謙譲に身をまかした女の姿。それは私に、苦痛でもなく、悲しさでもなく、憂鬱でもない、全く名状の及ばない虚しい一つの感情を与へたやうに思はれた。

「私はこれから峠勇君に会ふ筈なのです。貴女も一緒に来て下さい」

 と、私はいきなり突き当るやうな激しさで秋子に言つた。秋子は言葉で答へる代りに、私の眼を暫くヂッと凝視めてゐた。数秒の時が流れてから、唇をかすかに動かして、殆んど気配でわかる程度に点頭うなずいたのみであつた。その始終のうち彼女の冷めたい表情は微動だにしなかつた。怖れもなく怒りもなく悲しみもない顔であつた。わづか数日以前までこの表情を私が見たら恐らく苦痛が私の胸をしめつけたに違ひない。この日は然しその表情が私の心に決して深く絡みついてはこなかつた。

 私は秋子と打ち合はす筈の多くの言葉を考へておいた筈であつた。然し秋子に会つてみると、全ての予定ももはや無役になつてゐた。あらゆる意味での「あとは野となれ山となれ」といふ気分が私の心を支配しかけてゐたのである。然し棄鉢といふよりも、確信的なものであり、責任を持たないことの反対の、万事自分で背負ひきつて一向他の容喙を顧慮せぬ底の根強い自信で、私は多く精神的な難関を斯様な我欲的な確信によつて誤魔化す習慣があつたのだ。全く無言のうちに、私達は約束の支那料理店へついてゐた。すでに豪傑が待つてゐた。豪傑はこんな場所で改めて見ると、苦味走つた、落付きのある美男子だつた。

 私は豪傑を見た瞬間に苦笑を洩した。甚だ虚無的である点を除けば、むしろ微笑と言ふべきであつた。さうして、私の心に浮んだ第一のことは、秋子に向けられた私の心が一層さめた思ひがしたといふことである。私は突然自分はわざわざなんて無駄なかかりあひをするのだらうと考へた。こんな風に物々しく豪傑と会見する必要はなかつたのにと思ひついて、自分の物好きを後悔し、急に逃げだしたいほど阿呆らしくなつた。その意味から、私は豪傑を凝視めるなり、いきなり顔をあからめてしまつたのだ。然し私は落付いてゐた。ただ、なんのために秋子を連れてきたのだらうといふ疑ひが、心の奥に瀰漫びまんしてきた。心に相当なカラクリがあるな、と私は自分に言ひきかしたのだ。突然私はなさけなかつた。

「僕はこの人と結婚することになつたのです」

 と、挨拶がすむと、私はいきなり言ひはじめた。この言葉は、今迄の内省には何等の関係も聯絡もないものである。私は用意しておいたのだ。

「不服があつたらこの場で言つて下さい。万事この場で済ましたいのです。子供は僕が育てます。そのことにも何か要求はありませんか? むしろ……」

 私はふと軽い陽気にかられながら口をすべらした。

「養育費をもらいたいくらゐのものです」

 私は自然に苦笑した。

 私は然し、斯んな話が秋子にはどんな激しい侮辱であるかにふと気がついた。まるで私はその侮辱をきかせるために秋子をわざわざここへ連れ出してきたのではないかと思ひついたりしたのであつた。まさかにうとも思へない。然し心の一部分で、私は全く混乱した。けれども私は言葉をつづけた。

「この人に関する限り、もはや貴君に何の権利もないものと思つて下さい。先日の一件のやうなことも、もはや理由の成り立たないことを認めていただかねばなりません。それに対して不平があつたら、それもこの場でききたいものです」

 私は急にいやになつた。頭がくらくらしてきたのだ。

「貴女はもう帰つて下さい! どうにも、これはとんでもないことをしたやうだ……」

 私は弾かれたやうに秋子の方を振向いて、叫んだ。勢一杯の感じであつた。とたんに心の一ヶ所で、畜生! 芝居をしてゐるな! と呟くものを聞き逃すわけにもいかなかつた。

 秋子の顔には何の動きも表れなかつた。然し私の方を見た。

「ええ、一緒にここを出ませう」

 と、秋子は私に言つた。

「こんな話のために貴方がここへ来る必要はなかつたのです。人をゆする権利なんて、始めからこの人にはない筈です」

「君……」

 と、私は豪傑に向つて言ひかけながら、変な風にあはてふためき、私の舌まで、もつれたやうに、わななきうはずつてゐた。

「どうも僕は妙なことをしたやうだ。君に会ふ必要はなかつたやうな気がするのです。会はない方がよつぽどましのやうに見えるが……」

 私は一時ぼんやりした。豪傑は我関せずの顔付で、煙草をさかんにふかしながら、全く無言でゐるのであつた。私は急に我にかへると、激越な憎しみが豪傑に向けてむらむらと沸き立つてきた。耳鳴りがして動悸が高鳴り、私の手はヂャックナイフを握りしめたい衝動のためにぶるぶる顫えるやうに思はれた。喋つたら刺す、私は冷めたくさう思つた。勿論それが私の心の全ての真実ではないのである。けれども私は刺したい殺気を抑へるために、めまひのする混乱を覚えてゐた。

「俺に会ひたかつた意味は、さつきの話で筋が通つてゐるぢやないか。会ふ必要がなかつたのなら早く帰れ」

 豪傑は私を蔑みながらひどく肉体を感じさせる強い声でその時突然私に命じた。始めて私を睨みつけたが、それは本格的な悪党の眼付であつた。私は冷静に返つてきた。

「帰るのはいいが、俺の日当を置いてけ、青二才のくせに、今後でしやばつたことをするな。世間で通るやうには通らない世界のあることを覚えておけ。お前なぞがなめやうたつてなめられないのだ。それから、お前の来るのを待つあひだここで食べた料理が十円足らずだが、払つて行け」

 これは立派な事務家だと私は咄嗟に素早く思つた。私は豪傑を見違えてゐたのだ。私は彼を実は隠された稚気を秘めた男だと思つてゐた。話によつては一緒に酒をのんで笑つて別れることも有りうると考へてゐたのだ。生憎豪傑はそんな詩人ではなかつたやうだ。彼は完全な事務家であつた。私の稚気に通じる甘さは何もない。私は自分の見立て違ひに気がつくと同時に完全な敗北を感じた。

 ──つまり五千円をゆすれるやうな派手な詩人ではなかつたのさ。あの大仕事はこの豪傑には場違ひだ。その代り一日の日当と料理代はこの男に打つてつけの商売なのだ。微塵も場違ひの感じがないし、誤魔化す隙もありやしない。それにしても料理代の十円とは吹きやがつた……

 と私は負け惜しみに肚の底でつぶやいた。私はあつさり立ち上つた。ポケットから二枚の十円紙幣を抜きだして卓子の上へおき私達は立ち去らうとした。かうして私達がまことに敗色歴然たる後姿を扉の外に消さうとした時、「秋子!」と事務家は突然鋭く呼びとめて、

「俺の子供のことに就いて、いづれお前に相談に行くぜ」

 と皮肉な言葉を浴せかけたのであつた。名将の号令もかくありなんと思はれたほどこの場の空気にぴつたりとした本格的な皮肉であつた。私は遂にかくて彼の本格的な武者振りを十二分に認めるところの仕儀となり、無残にも旗をまいて退くこととなつたのである。嗚呼! 凜然としてヂャックナイフをもとめた時の武者振りは、この際諸君の記憶から洗ひ流してもらひたい。

 敗軍の将は兵を語らずといふこともあるが、無役なお喋りにはなるらしい。私は全くくだらぬことを道々秋子に話しかけた。秋子の顔色は蒼白く、私の出鱈目な饒舌に取り合ふ様子もなかつたし、私の心もそこにはなかつた。私の心のこのうらぶれたチグハグが、あの「想念」を一層はつきり思ひださせたのであつた。想念は急激な速度で舞ひ戻り、めまぐるしく廻転しはじめてゐた。私はさきにこの唐突の想念が已に私の牢固たる決意と化したもののやうに述べておいた。一応はさうであつたに違ひない。然しそれが実際の行為をうながす動力となるには、このうらぶれた道々のある偶然の一瞬間が必要であつた。私は突然立ちどまつた。

「僕はここで失礼します」と私は言つた。

「今日のことは忘れて下さい。然しこれで、あの男に関したことは全部終つたと思ひます。僕の手際は愚劣でしたが、あんな芝居をするほかに、名案もなかつたのです」

「あたしは子供を生まなければならないでせうか?」

 アッと思ふ隙もなかつた──と、私はそんな風に感じたのだ。まるで眉間を打ち割られたやうに。秋子はヂッと私を凝視めて斯うハッキリと言ひ切つたのだ。

 私の偽善者めいた甘い気取りは木ッ葉微塵に踏みくだかれたやうだつた。私は混乱し、のぼせた。全く私はあの豪傑を自分や叔父との関係にばかり眺めてゐて、こんなに分りきつた、哀れな女の恐ろしい問題を念頭にかけたこともなかつたのだ! 私は忽ち冷汗すら流した。私は分裂した思考力を集中しやうと努めながら、然しあらはに顔を顰め最も分りきつたことを答へた。

「堕胎したら、今度こそあの男にやられるでせう」

 言ひ終ると私の頭はからになつた。私は自分を立て直すために秋子の視線をしつかりと見返したが、やがて秋子は視線の中にどうにもならない微笑を浮べ、そして弱々しくお辞儀をしかけた。

「では失礼しますわ……」

「さよなら」

 私はふらぶら振向いた。いきなり自動車を呼びとめて乗り込んだ。

「大森へやつてくれ!」と無意識に叫んでゐた。

 私は車の中で空想した。明日秋子から手紙がくる。文面には次のやうに書いてある。「今のうち貴君と絶交のできたのは幸福でした。貴君には、大悪党といふ言葉が、ただ一つ当てはまります」──こんなに急所をつかれ、同時に恥辱を感じることがあらうか! 私の頭は破れさうに思はれた。

 自動車は大森も工場地帯の五味つぽい草原の横でギイと止まつた。私は自動車を飛び降りてから、自分で命じてきたくせに、何のためにこんな所へきたのだらうと一時ぼんやりしたほどだつた。然し私は別に躊躇もしなかつた。一軒の見るからに品格のないアパートへ私はまつすぐ這入つていつた。ここにも私の一人の女が住んでゐるのだ。

 女の名は三千代といつた。数ヶ月前までは、ある盛り場の小さな然し客の立てこむ酒場のマダムであつたのだが、私との三年越しの関係が到頭主人に気付かれて、裸で店を追はれたのだ。弥生とよぶ十七才の異母妹を連れてゐた。三千代はたとひ彼女等の米に事欠くことがあつても(そしてそれが実際に訪れてゐたが──)その悲しみを決して私に訴へなかつた。私に叱られることだけが彼女の唯一の悲しさだつた。もしも私が死ねといつたら、そしてその心がまぎれもない私の本音と分つたら、恐らく「私を喜ばすために」彼女は自殺するだらう! 私は三千代に冷酷であつた。

 私が彼女の室へはいると、三千代は瞬時疑はしげに後へさがつたほどであつた。彼女は私の胸の前まで一飛びに走つてきて、然し私にとびつくだけの勇気がなく、顫えながら身を竦めた。

「よく来てくれたわね! 四十日ぶりだわ! 忘れなかつたのね! もう忘れたと思つてゐたわ! 時々泣いてゐたけど、恨んでなんかゐなかつたわ! 恨んだことなんか、一度だつてありやしないわ! ねえ、弥生ちやん! さうだつたわね!」

 そして三千代は竦みながら私を凝視め、がつかりしたやうに笑ひだした。

 私の顔も、私の身体も、そして私の心まで、石のやうな冷めたい無表情がつづいてゐた。然しふと、まるで私が予想さへしてゐなかつた糸のやうな細ひ涙が溢れやうとするのであつた。私は涙を隠すために空々しく横を向いたが、涙は流れるほどもなく忽ち消えたのであつた。

 部屋は乱雑そのものであつた。然し品物は何もなかつた。小さな部屋の窓べりに、寝床を敷いて、弥生がねてゐた。枕もとに薬瓶。そのほか部屋の何処といはず、食器や茶道具がころがつてゐた。弥生の足もとの方に、三千代の店に働いてゐた春子とよぶ小柄な娘がむつつりとした無表情で坐つてゐた。

「どうしたの? 弥生さんは? 病気?」

 私は心の苦しさをまぎらすために、春子に向つて話しかけた。春子は困惑を表はして、仕方がないといふやうにガクンと頸を縦にふつて俯向いた。

「ねえ、ねえ、教へてよ!」

 三千代は私の肩に縋りついた。私の顔を自分の方に向けさせた。生き生きと私を見上げた。

「教へてよ! この四十日どんな風に暮してゐたの? 楽しかつたの? 悲しかつたの? 淋しくはなかつた? 面白いことがあつて? 病気をしなかつたの? 私のことを思ひだして? いいの! いいの! 答へてくれなくつても、いいのよ! 来てさへくだされば満足なの。アハヽヽヽヽヽ。あたし嬉しくて堪らないわ! 喜んぢや悪い? あたしアトリヱの所までソッと行つてみやうかと思つたわ。でも、叱られると怖いから、止したの。今日は怒つてゐないわね? ねえ、さうでせう? ほんとに今日は怒つてなんかゐないわね?」

 私は笑ひながら頷いてみせた。そして坐つた。

「どうしたの? 弥生さんは?」

 私は再び春子に向つてそれを訊いた。春子は今にも泣きだしさうな困惑をうかべながら三千代をみつめて、「言つてもいいかしら?……」と、助力をもとめるかのやうに呟いた。

 三千代は漸く自分の言ひたいこと以外の話題に気付いた様子であつた。

「この子、喀血したの、でも、たいしたことはないのよ」

 三千代は強ひてなんでもないやうに言はうとした。私に重荷をかけないことが、この女のたつた一つの希ひのやうに。それから急に活気づいて、

「弥生ちやん、早く治りませう! さうして楽しい旅に連れていつて貰ひませう! 温泉! 海! 南洋! さうだ! こんど南洋へ連れてつて下さいね!」

 三千代は生き生きと叫びはじめた。私の心はたそがれて、物音も動きもない暗い海に変るばかりのやうだつた。私はかたまりついた冷めたい笑ひをしやうことなしに口べりに浮かべ、二千円の札束をつかみだした。

「ずいぶん長い苦しみをさせたね。これで償ひはできないが、何かの役に立ててくれ」

 私の声も泥沼の音のやうに虚しかつたにちがひない。札束をみつめた三千代の顔色は蒼ざめた。三千代は怖々と私の眼に視線をうつすと、突然サッと顫えあがり、おし隠すやうに札束の上を私の手諸共鷲掴みにした。

「これであたしと別れる気なの!」

 三千代は絶望の叫びをあげた。

「いやだ! いやだ! うそだとおつしやい! あたしが貴君にお金が欲しいといつ言つて! この生活が苦しいなんて、訴へたことがあると思つて! 卑怯だわ! あたしがいやになつたのなら、たつた一言さう言つてよ! あたし、それが貴君のためなら諦らめるわ! でも、いやだ! そんなみぢめなことが、あたしの死ぬまでありませんやうに! 神様! だましてゐてよ! そつと向ふへ行つちまつてよ! あたしいつまでも斯うして貴君を待つてゐるわ! こんな金! あたしが欲しがると思ふなんて!」

 三千代はいきなり札束をとると、絶望の放心にとりつかれた軟柔の動作で、室内一面にバラまいた。札束は部屋一面に散らばつた。

「さうよ! さうよ! お姉さん! こんなお札破いちやう方がいいわよ! アハヽヽヽヽヽ」

 一瞬の沈黙を破つてけたたましい笑ひ声が起つたと思ふと、弥生がもつくり半身を起して、狂気のやうに哄笑しながら、二三枚の札幣さつをつかんでビリビリ千切つた。

「破いちやつたわよ! 破いちやつたわよ!」

 叫びながら弥生の笑顔は石のやうに蒼ざめてきた。茫然と一つの空間に視線を据えてゐたかと思ふと、突然顔を布団の中へガバと押しこみ、火のつくやうに泣きだした。狂つたやうに背をうねらせた。

 私の心は平静を破られはしたが、然し騒がしいものではなかつた。

「別れやうなんて、さういふ意味はないのだよ。これはただ軽い償ひのための金だ。勿論お前は、これを破いても焼いてもいいのだ」

 私はできる限りの優しさと静かさで言つた。私は三千代を強い言葉で励ましたかつたが、さういふ言葉も、さういふ強さも浮きあがらうとはしなかつたので。

 さうして私が部屋一面に散らばつた札ビラを見るともなくぼんやり眺めてゐるうちに、私はその札ビラが拾はれもせず散るにまかせてあることが、全く守銭奴の心理によつて、ふと気がかりになつてきた。

 ──三千代に比べてなんて浅間敷い心だらう!(と、まるで何か辛味のやうな自嘲を感じた)札ビラの散らばつたのを見てゐるだけで、あれがこれからどうなるのかと気が揉めるのだ! まるで往来へ落ちてゐることと同じやうに。一枚だつて大金だぜといつたやうに。心の奥の出来事だからいいやうなものの、人に見抜かれたら目も当てられない醜怪なものに違ひはないて。……私はボンヤリと考へてゐた。

 すると私の心の奥に、唐突な、破裂を喜ぶ快感がもりあがつてきたのだ。その快感が浮ぶと一緒に、突然の亢奮から全身の血が逆流した。あの札ビラを一枚一枚たんねんに拾ひあつめろ! その醜悪な姿を行へ! それによつて可憐な女の高潔な魂にわびるがいい! せめて自らの醜怪さに暗黒の涙をふりそそぐがいい!……私の心はだしぬけに、かやうな狂気の喚き声をたてはじめたのだ。

 私の記憶によれば、つて斯様な精神状態を覚えたことは、これまで必ずしもなかつたとは言へないものを感じてはゐる。然し斯様な心の動きを実際の行動にうつすなんて、およそ私の趣味でもなく、性格でもありえない。私はすべて常に心に於てのみ人間なみの正義や冒険を行つてゐるだけの男だ。それが実際の行為の中に行はれることがあらうなぞと、私のどんなうかつな夢想が考へ得たことがあらうか! ところが、この日は──私が殆んどアッと呆れるひまもなく、私は不意に動きだして、我に返つた瞬間には已になにか獣めくものうい動作で、まるで一つづつ反芻しながら食ふ様で、札ビラを拾ひはじめてゐたのであつた。

 冷汗が流れ、めまひがした。到頭やつたな! 私は急に気を失つてしまひさうな気持もした。直ちに私は観念もした。然し私は泣きだしさうになつたのだつた。

 ──ゆつくり拾へ! けだもの! さうだとも一枚づつ。……暗黒の、墨汁のやうな濁つた涙がもろもろと流れでてこい! 醜怪な魂を醜怪な姿にハッキリと具現しながら、もつと惨めな獣のやうに札ビラを拾へ! その惨めさを、そして自らの心の上に焼きつけろ!

 然し私は一方の心で糞落付きに落付いてゐた。私は顔も赧らめず、表情も変えず、全ての札ビラを克明に落付き払つて拾ひ終つた。それを静かに三千代に渡した。その瞬間には、かすかに異常な動悸すら鳴つてはゐない感じであつた。

「僕を疑つてはいけないよ。僕はこの金でお前の過去を買ひはしない。一冊の古雑誌と同じやうな軽い気まぐれな土産だけだ。お前を忘れるどころか、どうやらこの四五日来、生れて始めてお前を本気で愛しはじめてゐるやうな気がする。尤もそれも、どこまで本気で、どこから気まぐれか、俺にはつきり分りやしないが。……さうだ! 俺はまた明日この部屋へ訪ねてこやう! 来ると言つて、来なかつたことは一度だつてないぢやないか!、然し訪ねる約束なんてこの日までほんとに稀にしか結んだことがなかつたね! お前を労はる言葉なんか、この日までかけたこともなかつたやうだ……」

 私の胸にあたかも真実の愛情が宿つたやうに、私は心の奥底から開らかれたやうにホッと笑つた。それは幽かな笑ひであつたが、涙ぐましく思はれるほど快くさへ感じられた。一時のあはれ! むろんそれが何の多足になるものか! 然し三千代も私の心が通じ流れたもののやうにホット笑ひ得た様子で、私は三千代のすすめるままに夕食をたべ終り、明日の来訪を約して別れた。

 もはや夜になつてゐた。私は一度街へもどつて蕗子のために五万分の一の地図なぞを買ひ、それから彼女を訪れたのはすでに九時に近かつた。私は全く事務的に明日の旅立ちに注意を与へ、それからもはや一瞬も堪えられずに、目当てもなく逃げたいやうな悲しさに追ひたてられて立ち上つた。

「帰るよ! まるで夜の海が心のやうだ! とめないでくれ! 明日だ! 明日だ! すべては明日!」

 私はまるで架空の敵と争ふやうに、見栄もなく、必死に蕗子を抑へる身振りをしてゐたのだ。

 街へ出て私はしたたか酒を呷つた。荒れ果てた心の流れるままに、疲れた心を魔窟へ運んだ。相手の女は無智で陽気で気が良かつた。嘘八百の身の上話をきかせてゐると、喋るうちに私に涙が溢れてきた。その莫迦話しに怒りもしないで、然し別に面白さうな様子もなく女はそれをきいてゐた。

「ほんとに愉しい天使のやうだ! 俺が今夜欲しかつたのはお前のほかのどの女でもなかつたのだ!」

 私が最も大袈裟に必要以上の莫迦感動を喚いてみせても、それで至極単純に機嫌をよくした女だつた。こんな場所で睡れたことのない私が二時間あまりグッスリ睡つたほどであつた。

 翌早朝上野駅へ駈けつけて、トランプの女王様の出立に間に合ふことができたのだつた。ヂャックはひどく惨めであつた。阿呆のやうに莫迦陽気で天気がよく、呆気にとられた女王に向つてベラベラ喋り、併せてゲラゲラ笑ひまくつて、白熱的に激励しながら送りだした。──何の杞憂も懐かなかつた空虚なクヰンの出立が思ひがけない悪い結果になることを、勿論夢想することがなく。──


   その二 逃げたい人々


 話はとりとめもなく混乱するが、生憎と私の筆を一層まごつかせるためのやうに、脈絡のない二三の出来事が数日のうちに輻輳ふくそうして起つた。完璧な物語りに比すまでもなく、殆んど何等の技巧も整理も施してないこのプリミチィヴな記述に於ても、改めて話を切りだすためには一応迷つたほどであつた。尤も事件の当事者としての私は、ひとつの出来事によつて、他の出来事に由来する心の負担をまぎらすこともできたといふ、この際としては天祐的な功徳もあつたが。

 私の父(即ち芹沢東洋の兄)栗谷川文五は五十五歳であつた。五尺八寸の大男で、恰もボオドレエルの肖像に似た誠実な苦悩に富んだ詩人の容貌を持つてゐるが、有体は十銭握れば三十銭のみたくなる呑んだくれで、消極的な鋭さはあるが積極的な逞しさに欠けた不平漢とも言ふべき男か、常日頃いい加減な嘘つぱちか駄法螺を吹いて孤高に肉心二つながらの貧困をまぎらしてゐた。数年前の話であるが、私はある日新聞に偶然次のやうな広告を読んだ。

「尋ね人、六十歳の老人。六尺近き大兵。骨格逞しく特徴ある怒り肩なれど、鶴の如く痩せ衰ふ。顔面蒼白、額は広く眼光鋭し。常に空間の一点を凝視し、蹌踉そうろうと道を歩く。その様追はるる予言者の如し」

 勿論父の人相書きではなかつたが、年齢を訂正すればそつくり父に当てはまる人相でもあつた。当時父は事業の重なる手違ひから半分は悲愴を気取る自棄やけを起して呑みまはり、白昼は町外れの山林に隠れて睡るやうに考へこんでゐたといふが、夜毎に旗亭へ現れて痴酔のあげく、せせらぎの水音高い河原へ降りて前後不覚に砂利の上へ倒れてしまふのだといふ、梟のやうな生き方をして今更ながら町民の笑ひの種になつてゐた。妹のそんな消息があつた頃で、他人事ひとごととは思へぬ不快な想念が私の頭をかきあらした。

 私は肉親に就て物語ることがまことに不快だ。それといふのが肉親に特別の愛や憎しみを寄せてゐるからではなく、むしろ彼等に愛も憎悪も感じることがないからである。それにも拘らず、肉親と私との事々のつながりに係はる感情が、決して自然のものでない愛や憎しみを強制する、その不自然とわづらはしさが不快なのだ。何者に成りたいか? と訊かれたら、先づ何よりも家庭を棄てる者になりたいと答へる気持を持ちだしてから、もう一昔の時が流れた。巣立つた鴉のやうに、古巣を離れてどこへでも飛び去つてはいけないのか? と言ふのではないのだ。巣を飛び去る行為は必ずしも難い筈のものではない。古巣を逃げる、然し又、新らしい巣を造つてしまへば同んなじことだ! 古巣を逃げだすといふ環境の突変によつて、古巣にからまる不自然な然し根強い感情を同時に一変せしめることができるものなら、多くの悲しみが私のまことに不甲斐ない日々から消え失せてくれるであらう。私は肉親、又家庭、それを直接言ひたいのではなかつた。古巣にからまる不得要領な歪曲された感情や行為の表出が、自然であるべき我々の全てのものを自然ならざるものとする、その苛立たしい暴力に就て言ひたいのだ。

 家庭といふ言葉からいきなり私が思ひつくのは、安らかに──古風に言へば、畳の上で死ぬ場所だ、といふことだ。死といふこと、特に自然死といふこと、このことほど馴染みすぎて胸にひびかぬ言葉もないが、この事実ほど我々の生活に決定的な唯一言を用意した怪物は決してない。然るに多くの人々はその正体の生活に実感をもつて迫らないといふところから、死を云々する輩ほど実人生に縁遠い愚劣な苦労に憂身をやつす莫迦はないと言ひたてる。由来生きた奴が同時に死に対面する現象が決して在り得ないことは分りきつた話であるが、生と死とぶつかることがない、だから生きた奴は死ぬことがないといふ名言を、飛び上りたい恐怖の心できかない奴がおかしいのだ。私は死といふことそのものに就て斯く言ふわけではないので、我々のもはや本能的なある種の精神生活乃至知的活動に対してのそれの持つ決定的な魔力の程が怖ろしいといふのであり、それの故に生と死とぶつかることがないといふ全悲劇の慟哭にも似た悲惨な自嘲が怖ろしいといふのである。読者諸君はみだりに死を云々する非能率的な手合ひ、即ち私の如き種族を「厭世人」と言ひならはしてゐるものならば誤解であつて、かかる死の魔手の前に悪戦苦闘の輩ほど最も「好世的」──厭世的のアントニイムの心算であるが──の者はない。

 さて家庭といへば安らかに死ぬ場所と思ひつくといふ話であつたが、安らかに生きる(死ぬるも同じ)といふことは、腹も立てるな、心にもない生き方をしろ、嘘をつけといふことだ。家庭とは斯様な生き方のはきだめであり避難所であり、今ではかかる生き方の母胎と化した不思議な迷宮にほかならないと言ひきりたい。──私の言ひ方はあまりにも幼稚なものに見えるであらう。さういふ大人はなるほど世間に俗に言ふ「大人の言ひ方」を知つてゐるのだ。「大人げない振舞ひをして莫迦を見るな。悧巧に生きよ」といふことを。然し悧巧に生きることが果して大人の振舞ひであらうか? その悧巧さはあやまられてゐないのか? 同様にその大人とは甲羅をへた子供といふよりなほ悪い権威への極めて皮肉な迎合を意味してゐないか? 私の考へによれば、それが大人の言ひ方で悧巧な生き方であることを、「死にぶつからない生」の奴が太平楽に寝言を言つてゐるだけなのだ。私は断言するが、「死にぶつからない生」といふのは贋物です。かりそめにも生きることに於て、確実にして正確な死とぶつからない生き方は「生き方以前」といふものだ。それは真物ではなかつたのだ。率直に私の考へを述べれば、生と死は別物ではない。生きることは即ち死それ自体に他ならず、それ以外の何物でもあり得ないのだ。──

 すると大人は反駁する。死? 冗談ぢやない! 誰がそんな夢物語をきいてゐた? 生きることは死自体だと? そんな逆説は改まつて考へてみる気持もないが、いきなり話をそんなところへ飛ばされたんでは、とにかく聴いてゐる方で莫迦らしすぎる。私はとかく本質的な抽象論といふ奴が苦手だが、私は私なりにもつと身近かな、然し恐らく何事よりも赤裸々な底を割つて「実際の経験」の果を理窟ぬきで言つてゐるのさ。つまり七面倒な理窟ぬきにすぐと背後うしろをふりかへつてみたまへ、それだけでいいのだ、即ち人間といふものは元来が、どの血管、どの神経の一本までもといふほど純粋かつ徹底的に利己的な動物なんだ。生きるとはつまり自分の利益のために生きることに他ならない。然し世間は面倒だ。表だつて直接我利一点ばりに暮せる所ではないから、義理とか人情といふわけの分らぬ約束にも分相応のふるまひをしなければならず、時には私慾を忘れたやうな顔付もしなければならないが、そこで悧巧に暮らせといふのはそこのところだ。所詮世間は騙しあひだ。嘘の坩堝だ。嘘をつくといふことだけが真実なのだ。人に憎まれも厭がられもせずそれとなく幾らかの分け前をくすねてゐるのが悧巧でなくてどうなるものか! つまり腹を立てると損をする、腹を立てるなといふのではなく、腹を立てるといふこともそれはそれなりに真実でもあらうが、「損をしない」といふことが尚一層の真実なのだ。と。

 この反駁は大人達の誰からもよく聞くが、私はこれをきくことが実に甚だ不愉快だ。反駁の内容が不愉快なわけではない。恰もこの思想をもつて人間の最深処を突きとめたかのやうな得々とした成人ぶりが最も鼻持ちならないからだ。生憎のことに、この輩ほど坊主にも増して厚顔無恥な成人ぶりを得々然と気取る奴もないのである。

 まづ第一に、人間は利己的なりといふことに、私は全く反対意見をもつものだ。いつたいどうして人々はとかく人間は利己的だときめたがるのだ? もとより近代を席捲したかの実証精神の最も栄光ある所産の一つではあるにしても、そして我々の日常の内省が最も通俗的な実証精神の鏡にかけても直接甚だ端的に利己的であるにしても、一見直ちに明瞭の如きが故をもつて、直ちにこれを真実と断ずることはできないぢやないか! 端的に明瞭なるものは時に通俗かつ浅薄を意味することもまことに真を穿つてゐるぢやないか! さうではないか。つまり我々の日常を省みるに、利他的であらうとし、或ひは利己的なるものに反した意志乃至行為に対して心底常に不満の感に堪えない。そのことが一目瞭然であるにしても、だから人間は利己的だと直ちに言ひきつてそれでいいのか? 利他的ならざることが必ず利己的を意味するか? 何よりも、利己的ならざる意向に対して不満の念のあることを動かすべからざる根拠とするなら、抑々そもそも我々の不満の念が、生存の理由を決定的に根拠づける示標となるほど重大な意味をもつてゐると見てもいいのか?

 私は舌足らずの理窟にひどく疲れた。私流の断案をいきなり切りだすことにしやう。私流の解釈によれば、人間は算数的に割りだせる利益或ひは価値に対してひとつの確信をもつて判断を行ふことができるが、ひとたび算数の手掛りを失ふや否や常に不満不安の裏打ちなしに何事もなし得ないものなのだ。私はそれを次のやうに解釈する。即ち我々の「生」そのことが非算数的な、かつ一にして全なる価値であつて、非算数的な値打に対する打算への絶えざる不安不満は、つまり「生」そのことの打算に対する不安不満の影だつたのだ。人間は利他的なることの満足に確信はもてないけれど、それは利己的なることの確信ある満足を意味しない。さらに利己的を持ちだすまでのことはなく、問題はそれ以前の損得の先にあるのだ。即ち人間は死によつて生きることの根柢から存在それ自らが不安と同意語に他ならなかつた。建設? 鸚鵡返しにその反駁のでることは無論言ふまでもないことだ。然し建設そのことが即ちまづ不安からの出発ではないか。──非算数的な値打に対する打算の不安は、要するに生が死に対しての打算の不安に他ならぬのだ。……

 恐らく諸君は笑ひだす。おや〳〵思ひもよらぬ奇妙なところで又死の奴が現れた、と。まるで薬籠から家伝の秘薬をとりだすやうに、急場を救ふにこれは又何にも増して都合のいい万病丸に違ひない、と。

 さういふ諸君は、然し死に就て考へるたびに、何か生きることは様子の違つた別物のやうに奇妙な考へ違ひをしてゐるに相違ないのだ。死とは何ぞや? 幽明境を異にしたあちらのことか? 冗談ぢやない! 死は生きることの他のところを探したつてありやしない。見給へ、生きてゐる自らの相を! 生きてゐることを! 生きてゐること、それが即ち直ちに死なのだ。それが死のまことの相だ! これを逆説と言ひ給ふな。さういふ諸君は死の相を生きることの他の場所につかみだすことができるだらうか? 棺桶か? 墓地か? もとよりそんな筈はない。死は無限の暗黒、単調であり、静寂に他ならぬともいふ。それを体験した誰があらうか! むしろ斯様な理窟よりも地獄絵図に死の相を見るのが自然の感情に近いのだ。然し私は死の体験を語る者のないことを幸ひに、生きることの他の場所に死の相を見出すことができないから、結局死は生きること、そのことだと左様な揚足をとつてつめよる心算は毛頭なかつた。私は高遠な真理を言ひあてやうといふのではない。私は実は俗論派だ。然しただ、一つの見方の相違から生き方の相違が生れることを信じ、とにかく私の生きる姿が見たいのだ。

 死後の無限なる単調、断末魔の苦痛、不可知への怖れ、死を怖れるそれらの理由は或ひは真実にちがひない。然しそれも今ではどうでもいいことだ。我々の現在はたとひ時にそれらの恐怖を覚えることがあるとしても、それが直接生きることの問題にはならないからだ。我々の問題はもとより常に生きることの中にある。そして、生憎のことには我々の生きる姿は死の姿だ。今日では死のまことの姿は実は生きることそのことに他ならないと私は言ふのだ。

 私は先日、もはや夜更けであつたが、一人の新聞配達氏の来訪を受けた。私がのつそり突つ立つた玄関の扉を細目にあけて怖々と屋内を覗いてゐるその顔は、狡るさうな笑ひの皺に刻まれて苦悶の相が一緒くたにのたくつてゐた。「実は──」と彼は吃りながら漸く言つた。「急に学資がいるのですが、特別のはからひで今月の料金を払つていただけませんか?」

 その日は月の一日か二日で数日前に金を払つたすぐあとなのだ。私が黙つて突つ立つてゐると、彼の顔には急に大きな絶叫をあげて後ろも見ずに走り消えて行きたさうな懊悩が、まだ物欲しげに歪んでゐる狡猾な笑皺と一緒に醜悪に深かまつてゆくのが分つた。集金をあつめて逃げるつもりに違ひない、と私は思つた。──この面は百円の苦痛を賭けてゐる面だ。丁度百円の代償に当る面なんだ、と。私はその時奇妙なことに百円といふ数字をきめてふいに思つた。さうか、この面は百円の苦痛を賭けた面なんだな、と。待ちたまへ、と私は言つて、机の抽出しをガチャ〳〵やつたが持ち合せは四十銭で新聞代に足らなかつた。私は書棚から一冊の本をぬきだしておど〳〵した来訪者の鼻先へ突きだした。これを売つて金にしたまへ、紙片かみきれはいらないのだと私は言つた。私は彼のほつとした顔付や狡るさうに光る眼の玉や複雑に歪みかたまる醜悪な表情を見たくもないので、自分の部屋へさつさと戻つた。畜生め、百円の苦痛を賭けた面付なんて不愉快だ。俺もあんな面付までしたことがあつたがと思ひだしたり、腹が立つほど苦しくなつたばかりであつた。私は曾て、二十三四の頃であつたが、のどかな郊外の道を歩いてゐるうちに、突然百円の苦痛を賭けた惨めな泣面がせずにゐられぬ自虐的な気持に襲はれ、折から通りかかつた寺院の庫裡くりへとびこんで、難渋した旅の者だが一飯の喜捨をめぐんでくれと泣声をはりあげて叫んだことがあつたりした。別にそれを思ひだして腹を立てたわけでもないが。

 来訪者は音を殺して帰つていつた様子であつた。それで済めば文句はなかつた。数分すると、玄関の扉が静か乍ら突然あいて、物の投げ入れられた音がした。それから人が逃げて行く。出てみると、さつきの本が沓脱くつぬぎの上へ置いてあるのだ。

「この馬鹿野郎! 鼻持ちのならない野郎だ!」

 私は本を拾ひとる気持にもなれなかつた。一目ぢろりと見流しただけで眼をそむけたい思ひすらした。私は部屋へ戻つて急に寝床の中へもぐりこんだ。男の愚劣な感傷が私のいい加減なポーズを揶揄するやうに思はれもし、いつぱし自分の軌道に乗つて足を踏みしめてゐるつもりのものが、砂上に柱をたてたも同然浅間敷いぐらつき方が分つたやうな惨めな自嘲がわきおこらうとするのであつた。

「てめえが泥棒にはいつた方が俺はよつぽど御愉快だ。馬鹿野郎!」私は恐らくてれかくしから金切声で怒鳴つたりした。

 ──そいつが身を切られるやうにつらいのだ。いつぱし生き生きとした自分の生き方をしてゐるやうな思ひあがつた自己満足の幽霊のやうな足のない恰好を見るがいい。それあ生きてゐる人間のすることぢやないんだぜ。死と馴れあひのあんまり惨めな人間の姿ぢやないか。死を避けられない人間の諦観からきたカラクリの一つなのだ。人間に死があるための、もはや殆んど本能と化した一つの愚劣な知的活動のたぐひであらう。そんな風にまでしてせめて生きやうといふのだが、そんな風にまで形の変つた死の姿なのだ。生きる限り生きることにひけめを感じ、存在そのものに敗北しつづけてゐるやうな、その惨めな生き方を俺は一片ひときれもしたくない、見たくないのだ。……

 熱病のためにうはづつたかのマニヤの姿に見えもしやう。私はマニヤで結構なのだ。余りにも観念的なと言はれもしやう。それも亦望むところだ。よしんばそれが愚かな遊戯であるにしても、それ自らが全一の白熱をかたどり退きも怖れもならぬ上からは、観念の馬に打ちまたがり懐疑の鎧に身をかためたラ・マンチャの紳士に他ならぬ私の姿であれ、私は風車に打ちかかる自らの姿に向つてそれが全ての凝視を送り、敢て瞬きもすることはならない。

 私は「家庭」に於て、殊に余りにも安易に手なづけられ、張り渡された死のカラクリを嗅ぎつけずにゐられない。それは恰も、人はかうして死んで行くのだと、蒼ざめた小生意気な死神の奴がどつちを向いてもぐるりと四囲をとりまいてゐる。さういふものを家庭に嗅がずにゐられないのだ。しかも又なんと脱けだしがたい泥沼。私は然したいへん筆をすべらしてしまつた。私は物語りに立ちもどらう。

 私の母は私が小学校へ通ふうち死んでしまつた。子供が二人、私と、五つ違ひの妹がのこされた。父は再婚しなかつた。のこされた二人の子供が気の毒でといふ月並な言ひぐさなぞは恐らく用ひもしなからう、彼はただ徹頭徹尾遊蕩に暮した。私の記憶によれば、この父の代ですらなほ家運隆盛な一時期もあつて、ひところ四五十台の機械ばたを動かした頃なぞが目に浮かぶ。その頃は恐らく全町の機屋でも屈指の盛運にあつたのだらう。中学を卒へてから私は遊学のため上京叔父のもとへころがりこんだが、已にそのころ満身創痍の態にあつた傷心の叔父に懇望され、夏は山、冬は南海へといふ式にまことに道行のやうな愚劣な旅をつづけねばならず、帰省する折がなかつた。ひと春妹の縁談がおこり帰省すると、家に三台のはたがのこされてゐるばかりであつた。三台といへば、わずかに一人の女工によつて動かすだけの数である。その機が妹の結婚によつて又何台か数がふえたといふのだが、いはば妹は体良く身売りをしたのであらう。当時の父は三条の子供のやうな若い芸者にべた惚れのとんと深草の少将で、後日判明した次第によれば、妹の婿は当時父と最も昵懇連日座敷を同うした遊び仲間であつたといふ。然し父とは年齢の離れた三十前後の若者で、重なる遊蕩によつて独特の人品を具えた田舎紳士であつた。友情に軽薄な父であるが、この若者には恰も動物が動物に寄せるあの一種嗅感的関係に彷彿とした不思議な親愛と敬意を払つてゐたのであつた。

 妹は半年足らずのうちに離婚した。性病に感染し不具者になるところは免れたが、父がとんと田舎紳士の腹心で、癪にさはるほど言はでもの弁護をする、妹の泣言には一々向つ腹を立ててしまふ、悪徳の正義に就て情熱の最後の滴まで傾注した訓話を述べるといふ始末で、あげくの果には婿と手をとつて遊興に出陣する態たらくに居堪いたたまらず、妹は婚家を、同時に故里を、父を、逃げて上京した。叔父のもとへころがりこんできたのだつた。生憎乍ら兄のもとへころがりこんだ身を寄せたと書くべき自信も気取りも持てない。叔父の奔走によつて離婚となり、爾来私と共にこのアトリヱに棲むこととなつた。


 さて新らたな出来事は私が蕗子を上野駅へ見送つたその夕方からはじまる。昨日の約束もあることで、その日は三千代を訪れるつもりであつたが、とりあへず上野駅からアトリヱへ廻り、疲れた身体を休めるために豚のやうに寝床へもぐつた。長い熟睡が訪れ、目覚めた頃にはもはや黄昏が迫つてゐた。まもなく二人の見知らぬ訪客が現れたのだ。一人は四十前後の男、その連れは三十七八の女で、見るからに北国の暗い風土を彷彿たらしめてゐた。男は冗長な田舎言葉で、越後亀田在の栃倉重吉と名乗り、連れは妹の八重であると名乗りをあげた。

「旦那に一目会ひたいですが」

 と、男の浅黒い顔に突然赤味がさしたかと思はれた表情の変化のうちに、どうやら突きつめた何かを見せて私に言つた。

「父! 父はゐない」

「さうでない」栃倉重吉は焦燥に身悶えるかに気色ばんだ。彼は妹を指しながらまるで咒文じゆもんを呟くやうに早口に言ひだした。「旦那に会はねばこれが死んでしまふかもしれないのです。三日といふもの旦那を探してゐたのです。芹沢さんが教へてくれないのです」

「父は五泉にゐないのですか?」

「十日も前に東京へ来てゐるのに! 立つ晩に八重に別れも言ひに来たし、停車場へ送りもしたのだ。家は空家も同然、機場はガランとして一台の機もなし、人が寝るに一枚の夜具もあるかどうか棲める場所ではなし、旦那は夜逃げしたのです。その汽車賃も八重がなけなしの財布をはたいてつくつたものです」

 まてよ──と私はここで頭がカラになつた。私の眼に焼きついたのは彼等の異常な疲労であつた。その疲労から私は彼等の空腹をはつきり認めることができたのである。

 その一日私の心は時々秋子が気懸りであつた。その姿は中枢神経にギックリひびく恐怖の一種で有りやうは恋情のたぐひであらうか? 然し激越なものではなかつた。チラと現れ淡く消え去る微細な心の波動であつたが、その発作がすぎたあとでは三千代のことが、恰も忘れた遠い故郷を思ふがやうに、暮れやうとする海洋のむなしい広さで心に流れてくるのであつた。さうして私の心では、喜びや休息の一片の予期すらなく、ただ暮れかかる海洋にまぢらうとする切ない放心にとりまかれながら、三千代を訪れる決意を反芻しつづけてゐたのだ。

 私は三千代のことをぼんやりと思ひめぐらしてゐる自分に気付き、ふど我に返つて慌てながら訪客に言つた。

「だうぞ、まあおあがり下さい。一緒に夕飯でも食ひませう。親父はどこをうろついてゐるのだらう? あいつときたら年中自分のほんとの姿と大違ひの自分の姿を考へてゐるのですよ。ふだんは何もやれもしないが、愈々せつぱつまると三原山へ飛びこむ奴の無茶さかげんと同んなじ意気で、年中考へてゐた嘘の自分を実行しはじめる。結局我々の中途半端な生活ではそれがほんとの姿だらうか? 今頃はどこの宿で無銭宿泊をして、さあ一思ひに殺してくれと力みかへつてゐることか。その様追はるる予言者の如し。親父が東京へ現れるまで貴方方は自宅のつもりでここに泊つてかまはないですよ。さうする方がいいでせう。貴方は酒を、のみますか?」

 男は頻りに盃を辞退しながら口数のすくない食事を終つた。女は地方で「だるま」といふ村の居酒屋の女のやうな風采で、ああ栗谷川文五も人生を終らうとして斯様な女に辿りついたかの感深く、さればとて秋風落莫たる愁ひの中に一本の葉の落ちきつた柿の木を眺めるほどのまともな感慨があるでもない私は、骨董品但し下手物げてものを玩味する眼でひなびた達磨風俗に興を覚えてゐたのであつた。

「八重も色々お世話になつたのですし、旦那も落目のことですし、無理なことをしてもらをうとは思うてゐませんが──」と、栃倉重吉は田舎風の律儀なずるさによつて口べりに深い一条の笑皺を刻みながら、やや寛ろいで言ふのであつた。

「今更奥さんにしてくれの、それが厭なら手切金のと言ふ気持はみぢんも持たないのです。旦那が落目の時はこちらで一骨折られる身分ならしたいのですが、私等もその日暮しの身分で妹をやくざな働きにだしてゐる有様であつてはそれも夢のやうなことで、せめて旦那のために八重が質に入れた自分の持物を受け出す金額だけでも融通していただけたらとかう思うてゐるのですが──」

「私はさうぢやない。着物も指環もいらないけど……」と、女は羞ぢらう気色で横手を向きながら小さく呟いた。

「私のやうな者でも置いて下さるなら、どんな苦労をしてもいいし、裸で暮らしてもくやまない。旦那に殴られても蹴られても殺されてもかまはない」

 暫くのうち男は無言で、うつむいたなり別に表情の変化も見受けることができなかつたが、突然顔付を歪め泣顔に変り恨むやうに妹をぬすみ見た。

「あれほど呉々くれぐれも言つたではないか。お前もよく納得したことではないか。今更そんなことを言つてどうなるものか。第一旦那とは身分も違ふし、それに旦那はどういふ巧いことを言つてゐたか知れないが(かう言ひながら男はチラと私に視線を送り、その瞬間は口を噤んだが、顔を伏せて、もはや泣言か口説のやうにしめつぽく綿々と言ひはじめた)旦那衆は女遊びに馴れてゐるからわしら土百姓と違つて女を喜ばせる手管も巧いしよ、あげくに捨てられて馬鹿を見るのはお前のやうな学問もない器量も悪い女ばかりよ。これが田舎女でも芸者衆とかれつきとした料理屋の女中といふなら話は別だが、お前なんかは土百姓でも真面目な男は相手にしない素性の女で、大福に目鼻をつけた器量ぢやないか。よくせきの零落でもしなかつたらあのすき者の旦那がお前風情を相手にするものかよ。旦那は生れついての放蕩者で、かう言つてはなんだが儂らの土地でもさうたんとある人ではない、血も涙もないといふ噂もある人で、そこが場馴れた話上手でどういふ殺し文句を言つてゐるか知らないが、言葉の通りを真に受けて貰ふべきものもいらないの晴れて一緒になるのといふ夢のやうなことは考へないものだ」

「兄さんに買つて貰つた指環でも着物でもあるまいし、私がいらないといふものなら黙つてくれてもいいぢやないか。私はさうまでして旦那と別れやうと思つてゐないもの」

「俺が金のことを言うてゐると思つてゐるのか。まあいいさ。お前はさういふ馬鹿な女だ。いいか。俺の言ふ大事なところはここのところだ。旦那は生れついての放蕩者で何十年このかた近所近辺の嗤はれ者だが、持つたが病でこの齢になり乞食のやうに零落はしても浮気はやめられない。町の人には見離され昔の馴染も相手にしてくれなくなつても、それがあの人の報ひで世間の道理といふものだ。すこしでも物の道理を弁えた者ならあの旦那を相手にしないが当り前で、憫れみをかけるも阿呆といふのが普通ではないか。お前が馬鹿なばつかりにその極道の旦那に心中立てをする、世間の物笑ひになるばかりか旦那も陰で赤い舌をぺろりと出して笑つてござる、そのざまに気の付かないのがなさけないとこの俺が言うてゐるのだ」

「殴られやうと蹴られやうと騙されやうと殺されやうと私が好きなものなら」

 と、女はかすかに泣きはじめた。

「馬鹿でもずべたでも私も苦労した水商売の女だもの、私なりに男は見てゐるよ。あの旦那のいいところも見てゐるよ。それで騙されて本望なら兄さんは黙つといでよ」──

 こんな陳腐な情景を綿々と描写するのは私自身もやりきれない。然し有体に白状すれば、当事者としての私はこの情景に眼を背けたいとも思はなかつたばかりか、若干の好奇心にかられて事のなりゆきを見終りたいと思つたほどだ。然し私の心に明滅する三千代訪問の決意はそれを自由にもさせなかつた。私は彼等に眠ることをすすめておいて爽やかな夜の道へとびだした。と、私はすこし考へ違ひをしてゐたのだ。

 夜道へとびだしてみると、私の意志に唐突な変化がしかも歴然と形を占めてゐることに驚きながら気がついた。三千代を訪れる張り合ひが影も形も失はれてゐた。もはやそこへ行くことはできない。さればとて、何をする、何事をしたい当てもない。私の頭に次のやうなとりとめのない想念が流れこんでくるばかりであつた。

 第一に、あの女はお前の父の三千代ではないか! これはどうも厭なことになつてきた。然しさうだ、と私の心が呟いてゐる。

 第二に、お前の親父はあの女から着物も指環も剥ぎとつた。お前は奇妙な出来心で二千円を運んでゆく。さて、どつちのどこに誤魔化しがあるのだ? この考へは捉へやうのない混乱をもたらしてくる。と、お次はふいに秋子の顔が私の苛々した頭一杯に浮んでくるのだ。それは恰もお前の隠された本音は表面の冷淡さや憎しみにも拘らず秋子へのどうにもならぬ恋慕にあるのだといふやうに見え、私はぎくりとしながらも嘘だ! と叫ばうとして、それも無意味に思はれる冷めたい放心に落ちて行くのだ。

 斯様な心の状態では、どのやうに自分の心を駆りたててみても結局三千代を訪れることはできなかつた、それも仕方がなかつたのだ。私は例によつて例の通り見知らぬ居酒屋の暖簾をふいとくぐり、酔うては色餓鬼のやうに遊里をうろついて一夜を明した。

 私は酒の酔ひもかりて、こんなことを考へてゐたのだ。

 ──あの太々ふてぶてしい親父の奴が、弱つたやうな様子はしても、どうして弱つてゐるものか! 今に東京へ現れてくる。まさかに女がアトリヱに待ちかまえてゐやうとは夢にも思ふことはあるまい。そこであいつがどんなことをやらかすか? こいつは観物だ! そいつを俺の手本にしてゆつくり考へ直してもおそくはないて。


 私は然し三千代に対する私の態度(憐憫の情以外には多くのものを感じないその感情生活を含めることは勿論)をかなりの点まで是認しつづけてゐたのであつた。私の態度を是認するといふよりも、彼女が私に騙されてもいい、愛すふりをしてくれといふ(──本心からさう思ふ女が果してあらうか! けれども我々の現実では多くのものが常にこの程度の妥協をせめての最上としてゐることも否めない)その言葉を或る程度の本音と読んでゐたがために、結局は三千代を騙しつづけてゐる私の感情生活に比較的な正当を是認しつづけてゐたのであつた。もとより私は彼女を一枚の紙屑のやうに捨て去ることによつて、決して一文の損も受けない立場にあつた。法律上の制裁を受けやう理由もなく、恐らく新聞種になることすら有り得やうとは思はれなかつた。三千代はかねがね私に向つて言ふのであつたが、私の本心が彼女を厭ふやうになつたら憐憫の念をすて生殺しの殺生をせずに一思ひに有りのままを打ち開けてくれと。(愛すふりをしてくれといふさつきの言葉と逆であるが、激した感傷の表現にはその時々の独立した真実性もあるべきである)その宣告は何物よりも怖ろしく悲しいことは無論であるが、その日までの幸福に感謝する思ひはあつても、決して私を恨むことはないだらうといふのであつた。斯様な表現には通俗小説や映画的な多分に偽られ又無批判な陶酔気味が見受けられるが、それが彼女の行動の幾分を実際に規定する尺度となつてゐる今日、あへて私が彼女のために私流の批判を加へる必要はないのだ。私はたしかに或る程度の彼女なりに本気なものをそこに読まずにゐられなかつた。要するに外部的なあらゆる条件に於て、私は三千代を捨てることに一分の束縛も受けてはゐない。(のみならず、束縛、制裁、損失!──もとより稚気満々たる英雄気取りの気負も多分にあることをひと先づ一応は認めるにしても、私は損失や制裁を世間の常識が怖れてゐるほど怖れてはゐない)三千代を捨てる全ての力があげて私の自由意志によるものであり、私は自らの憫憐の情を必ずしも不当のものとはしてゐなかつた。

 私は二人の訪客をアトリヱに残して一夜遊里を彷徨し、翌日の正午すぎて帰宅したが、その日私の胸に受けた一つの必ずしも大きくはない心の動きを決して見逃してはならないのだ。三千代に対する態度の是認がかなり根柢からぐらつきだしてきたのであつた。

 話は至極簡単であつた。私が帰宅すると、出迎えた妹がへきなり私に言つたものだ。昨夜おそく秋子が私を訪れてきた、と。別にことづけはなかつた、と。挨拶のほかに殆んど言葉を残さずに、如何なる心も読むことのできぬ平静な然し失はれた表情をして帰つて行つた、と。

 私の心は忽ち顛倒する混乱の中へ投げ入れられた。混乱、自失、耳鳴、無言、無表情、化石の暫時の時間の後、私は書斎へはいり、この状態を沈めるために異常な長い放心を持続しなければならなかつた。

 なんのために来たのだらう……と、わけもなくただ無意識に訝つてみるそのあとで、しまつた! と私は急に理由もなく叫びだしてゐるのであつたが、その状態のこまかな描写は私にも無論のこと、恐らく読者にも無用であらうと思はれる。ただ一言附加へて言へば、秋子が私の不在によつて殆んど茫然と暗闇の道を帰る姿が、身を切られる思ひともなり、切なく胸にせまつてきたのだ。

 それは何故だ? 今それをきくな! 又私は答へまい。答へやうとも試みまい。恐らく明確に答へることは出来ないのだ。やがて私の行動が曲りくねつた過程のうちに何か答へるに相違ないから。実際のところを打ち開ければ、この微妙な心の動きをとりあげる差し当つての必要は毫もなかつたものである。然し、記るさねばならぬ理由もあつた! 私がやがて後章に於て起すであらう行動がこの場の心事に照らし合はせて如何にも奇怪であることよ。その秘密。すべて宿命を拒否し、しかも尚宿命のごときもののカラクリを最後に凝視めねばならぬとすれば──今は然しそれに就て語ることはできないのだ。

 私は斯様な饒舌のうちに、これから語りださうとする新らたな出来事に対して読者の興味を甚しく失はせはしなかつたかと怖れてゐる。実際思ひもよらぬ出来事がこの日をきつかけにして起つたのだ。


 その夕暮一通の電報が配達された。父からのもので、明日午後八時半着の急行で上野駅へつく筈だから迎ひを頼むといふ意味だつた。発信は三条。私はその文字を凝視めながら、妹の嘗ての亭主をとりまいて、父は昔馴染の三条芸者を口説きかへしてゐたのではあるまいかと疑ぐつたりした。然し三条の隣り町の見附には父の実妹の嫁いだ先もあつたのだ。

 夜になつた。妹が突然部屋へはいつてきた。手にびら〳〵と一枚の用箋をひらめかしてきたが、それを私に読めと言つて差し出した。文面は次の通り。

 ──親父の顔が見たくないので在京中は暫くほかへ行つてゐます。帰郷次第元気よく戻るでせう。呉々も御心配なく。(原文のまま)

「これはお前が書いたのか?」

「さう。それを置き残して黙つて出ちまふ筈だつたけど、やつぱり言つといた方がいいと思つて」

 妹は悪びれた様子もしてゐなかつた。とはいへ強ひてする明るさと、物憂いものに見えさへする誇張された呑気な様子が私の気持を暗くしたのは否めなかつた。

「どこへ行くのだ?」

「それだけは訊かないで。答へないことに決めてあるから」

「はやりものの女給か? 別に心やすい友達もないやうぢやないか」

「友達のうち。それだけは言つとく。言ひたくないのよ、それだけは。だから黙つて出かけやうと思つたの。私だつて大人なんだから自由にさせてよ。言ひたくないことだつて、案外ごくつまらない理由かも知れないけど、さういふことがあつたつていいぢやないの」

「誰も自由を妨げてゐないよ。無理に訊かうとも考へてゐない。俺はただ大袈裟な騒ぎがきらひだよ。疲れる、退屈だ。家出するほど大袈裟な事情なんてありやしない。お前のどこかに甘やかされ増長した計算があるのだ。考へただけでも胸糞がわるい。お前が自分すら偽り通してゐるならとにかく、さうでなかつたら他に言ひ方も、何か方法も有りさうぢやないか」

「親父の顔さへ見なければ憎くまずにゐられるもの。憎くがるのは相手が誰に限らずいやだ」

「そんなことはいい加減な嘘つぱちだ。誰だつて一思ひに家ぐらゐ飛びだしてみたいや。親父の顔に関係のあることぢやないよ」

 この言葉は即興的な、かなりお座なりなものだつた。続いて起つた出来事に対して決して何等の洞察も含んではゐなかつた。第一私は人の身をそれほど真剣に考へてゐない。のみならず、私一人の肚の中では、かうは言ひながら寧ろ女の異常神経では厭な奴の顔を見るのが身の毛のよだつ思ひがする、さういふ場合もありうるだらうと考へてみたりしたのであつた。

 妹は宣言通りその夜いづれへか出掛けてしまつた。

 翌朝七時前のことであつた。赤城長平が寝不足な顔付をしてやつてきた。私を叩き起してから、この鈍重な、動作の至つて緩慢な男は暫く私をぼんやり凝視めてゐるばかりであつたが、

「君の妹がゆふべ僕の部屋へ泊つたのだよ」

 と、彼は細い幽かな声でぶつ〳〵呟いた。私はびつくり顔をあげたが、長平はふだん通りの悄然たる泣顔の一種で、ぼんやりと私を凝視めてゐた。

「それをわざ〳〵知らせに来てくれたのか」

「さうぢやないよ」と、再び幽かに呟いた。

「僕は一晩ねむらないのだ。あの人はかなり熟睡してゐたよ。今朝目覚めると突然僕に命じるのだ。あの人が僕のところへ泊つたことを君に知らせて欲しいといふのだ。迎へに来てくれと言ふのですかと尋ねると、さうぢやない、ただ知らせるだけで充分だといふ、会ひたくはないと言ふのだ。明日からの行動はもう一々知らせることはしないし、どこへ行くか分らない、然し今日もわざ〳〵会ひには来てくれるなと伝へてくれと言ふのだよ」

 長平は朦朧と目をつむり、耳を押へた。

「耳鳴りがしてゐるな。又近頃持病がすこし激しいのだよ」

「君にどんな話を語つたのだ?」

「親父がくるので暫く家へ帰れない、それは兄貴も承知だと言ふのだ。然し僕の部屋へ泊つたことは秘密にしてくれとゆふべのうちは言つてゐたのだ。僕はとにかく圧倒されたよ。なんのために僕の部屋へ泊る気持をもつたのかと考へてみたのだ。行く場所がなかつたためか? 僕に身体を許すつもりか? 正直なところ僕はそれを第一に頭の中でなんべんとなく反芻しつづけてゐたが、結局身体に指一本触る勇気も起きなかつたよ」

「そこを見抜いてゐたのではないか?」

「さうかな? 僕は然し……」

 長平は耳から両手を離さなかつた。

「僕の正直な感想を言ふと、あの人が僕を訪ねてきた気持はある程度まで娼婦的な、言ひ寄られたらどうなつても構はない気持が多分にあつたと思はずにゐられないのだ。勿論愈々こちらが言ひ寄る段になつたら、その時はその気持が又どう変つたか分りやしないよ。然しすくなくとも訪ねてきたときの気持は。……僕はその気配にひどく圧倒されたのだ。男、特に僕如きは眼中にない、それがひとえに娼婦的な意味で、ゆふべは特に、その感じが凄いものだつたね。直接それを表明するあの人の言葉はないんだ。全てがただ感じなんだよ。それだけに無言の肉体がやりきれない圧迫で、僕はなんべんその気配にまきこまれやうとしかけたか分らなかつたのだ。僕は一晩中のべつにサミュエル・バトラのエレホンをめくつてゐたが、牧童が酒をくすねるといふたつた一つの場景につかえたきり、どの頁をめくつてみても頭も眼も空転りをつづけてゐるのだ。僕は嘗てこんなにも強烈な無言の媚態で言ひ寄られたことはなかつたし、あの人の全ての感官が無言の肉体を通じて僕に言ひ寄つてゐたのだと確信せずにゐられなかつたよ。僕の肚の底を割ると、一人の稀代な妖婦を始めて目のあたり見た感じだつた」

 淫蕩の血は私の血族に流れてはゐる、それを充分承知の上でも妹の行動は私にあまり唐突であつた。とにかく妹に会つてみるほかに仕方がない。頭の中でどのやうに解釈しても始まらなかつた。私は然し妹に会ひたい気持が全然なかつた。あいつのやりたいやうにさせるがいいさ、と私は肚に呟いてゐたのだ。家庭を逃げたがらない人間がこの世に一人とあつてならうか! それが性的な衝動によるなら、それはそれでいいぢやないか! 妹のコケティッシュな裸身がくね〳〵と否応なしに私の脳裡に蠢めきまはつてゐるのである。然しそれが特に不快でもなかつたのだ。

 私達は然し長平の下宿の方へ歩いてゐた。下宿の前へ辿りつくと、鈍重な足の運びでひきずるやうに歩きながら、背をまるめ黙りこくつて歩いてゐた長平が、ふと自分の部屋をぼんやり見上げて呟いてゐた。「ゐるかな? ゐないと思ふが……」と。その予感は的中した。私がむしろホッと重荷を下したことには、まぎれもなく長平の部屋のどこにも妹はゐなかつた。書き残したものもなかつた。私は暫く妹に会はずにゐたい思ひがしたのだ。妹の魂が汚れてゐるなら、魂の汚れと同じ線まで肉体の汚れることを望む思ひがむしろ私の心にあつた。

 ──お前もひとたび家庭を逃げる人になるなら、行きつくところまで行きついてみるがいいのだ。中途半端な娘気質の気位はむしろ御免だ。そんなお前を見ることは、救はれない私自身の血を見るやうに私に苦痛だ。淫売婦の汚れきつた肉体になつて、肉は膿をもちズダ〳〵にさけて帰つてきても私は決してお前を叱りはしないだらう。むしろ私は一息ホッとつくかも知れぬ。私達ははじめて兄妹になつたのだぜ、と。しみじみと始めて話を交さうぢやないか、と。

 私は心にそんなことを呟いてゐた。とはいへそれも感傷的な、自暴自棄な、要するに若干の悲愴を気取る甘さのせいに他ならないと言はれても、私はたしかに一応は返す言葉がなかつたのである。

 それにつけてもその宵は私達の遺伝因子が上野駅へ着く筈であつた。因子上京の報ひとたび伝はるや、因子自ら雄姿の片鱗だに現はさぬうち生殖細胞の混乱たるやくだんの如し。私は然し冷酷なまで冷静だつた。


   その三 少女予言者を訪れて


 五月十一日──と、改めて言ひだすまでのことはなく、これは前章と同じ日で、即ち妹の失踪の翌日、私が長平に呼び起されて妹の不可解な行動を確かめるために彼の下宿へ赴いたその当日、この夜は父が上京の筈であつた。

 妹の行動が私に大きな衝撃を与へたといふ言ひ方は全然当らないが、然し一人にもなりかねた私は、恐らく同じ思ひの長平と油の乗らない沈黙がちな対坐にすつかりくたびれてしまひながらも、思ひ切つて立ち上る勇気がなかつた。正午近い時刻になつて昼食のために肩を並べて外出した二人が一旦アトリヱへ立ち寄つてみると、置き残してきた珍客兄妹に異常はなく、思ひがけないことには、秋子とあぐりとこれも同じ画学生の巨勢こせきそのといふ有閑婦人の三人が我物顔にアトリヱを占領してゐた。

 巨勢きその(木曾野と書くのが本当で、父親の木曾の役人時代に生れたのだと言ふことである)は三十五六の富裕な未亡人で、金と行動が至極自由になるところから、自然十数名の画学生から党主的待遇を受けてゐたが、その割合に我無者羅でなく、ある優しさと弱々しさのつきまとふのが、がつちりした娘子軍に利用されながらも、先頭に立つた家鴨のやうな愚劣な形になることがなく、深さある人柄を感じさせるのであつた。

 ところが或る日、女画学生のズラリと並居る面前で、私は突然この弱々しい婦人から誰憚らぬ高声で極めて単刀直入に普通決して人前で言ふべきではない話を受けた。言ふまでもなく木曾野は東京に住んでゐたが、この日は何かの都合があつて静浦の別荘へ泊らなければならないと言ふのだが、汽車道の長さもやりきれないし別荘の寂しさも堪らないから、四五日滞在の心算で私に一緒に来てくれないかと言ふのであつた。

「貴方お一人だけ来ていただきたいのです。大勢来ていただいてもおもてなしも出来ませんし、陽気に騒ぐでもなく、語りながらブラ〳〵一緒に海岸を歩いて下さる方が欲しいんですわ。伊豆の西海岸は余り知られてゐませんけど、湘南の海岸に比べたら、もつと本格的な堂々とした風景ですわ。額縁の中の絵のやうに調ととのひすぎたきらひはありますけど」

 私は衆人看視の中で、なんの言葉をかざるでもなくいきなり真向から右様の招待を受けたものだが、だいたい私はこの日までこの人と個人的な対談をしたことすらなかつた。呆気にとられたのは私一人のことではなく、並ゐる婦人の表情には一様に侮蔑をふくんだ驚愕がおし流されたほどであつた。然し木曾野は人々の驚愕や侮蔑が想像すらできないやうに無関心だつた。

「江の浦から水津みとのあたり折があつたら散歩したいと思ふんですけど、歩いたことすらないんですの、一緒に来ていただけたら、あたし歩きますわ、一晩でも。砂浜がありませんの。それが生憎ですけど、海岸から手にとるやうな近いところで大謀網だいぼうあみをしめてたりしてましてよ」

 相変らずザックバランに淡々と言ひまくるこの人の顔付には陰がなかつた。驚愕や侮辱の情が戸惑ひするほかにすべを失つた人々は、後々この出来事を思ひ出して興味的な話題にする根気も手掛りもないほどだつた。私は極めて因習的な羞恥感から反射的に理由のない躊躇を覚え一も二もなく招待に応ずることのできないむねを答へたのだが、むしろ私の羞恥感がこの時いかほど不自然に見え、私の心労が醜怪に見え、私自身の立場のみが見窄らしく感じられたか知れなかつた。

 さういふことがあつてから数ヶ月後、品川駅前の広場をたつた一人歩いてゐるこの人に出会つた。もとよりアトリヱでは屡々顔を合はしてゐたが、二人きりで出会ふ折はなかつたのだ。私達はお茶をのんだ。

「ナポレオンは悪性の頑癬に悩まされてゐたんですつて? 頑癬の痒さで眠れない夜寝床の上をのたうちながら大遠征を計画したんですつて? 頑癬のひろがるたびに版図も拡大したんですつての? ほんとでせうか?」

「さういふ暗合もあつたかも知れませんね」

 と私は答へたが、婦人にはチョコレートを語らしめよといふチエホフの意見の通り、この有閑未亡人のチョコレートに私は深く耳を傾けもしなかつたが、夫人は厭味のない爽快な語調で、歯切れよく語りつづけた。

「ナポレオンはインポテンツだつたんですつて? ほんとでせうかしら?」

「然し子供があるぢやありませんか?」

「ワイマールでゲーテに会つたんですつてね。そのころゲーテは六十過ぎのお爺さんでワイマールの宰相なんですつて。部屋へ這入つてきたゲーテを見ると、ナポレオンは突然これは人物だつて叫んださうですわ」

「さうですか」

「でもそんな直感はナポレオンの偉さの証明にはなりませんわね。子供のやうに独断的ぢやありませんの? まるでだだつ子のやうに」

「さうかも知れません」

「スタール夫人はナポレオンを攻撃しすぎて巴里退去を命ぜられたんですつてね。スタール夫人の印象によると、ナポレオンは暴君とも違ふんですつて。優しくはないけど残酷でもなく誰に比べやうもない人物で、親しみも同感も受けないやうな人なんですつて、此方の感情も全然先方へ通じない人、ナポレオンに会つてゐると、人間を一つの物として見てゐるやうで少しも同類と思つてゐないといふことが、圧迫する力となつて感じられたさうですわ。社交や教育で涵養された品性とは何の関係もない強い力に打たれるのが普通で、思想や意志の力とは別な、たとへば人類に対して一片の好感の閃めきもまぢつてゐない人柄から、辛辣な諷刺皮肉を与へられずにゐられなかつたさうですわ」

「攻撃よりも感激にちかい印象ぢやありませんか?」

「あたしの言ひ方も悪いんですけど。(彼女は笑つた)あたしが感激してるんですわ。スタール夫人て、バンヂャマン・コンスタンを愛人にしてた人ですわね。アドルフの作者とナポレオン……でも、さうですわね、あたしもさう思ふんですの、スタール夫人はナポレオンに感動したに相違ありませんわ。深い理由はないんですけど、ただ女の直感だけで思ふんですわ。水のやうなナポレオンに恋したつて始まりませんもの。悧巧な女の感動は愛慕になるより反撥になりがちですわね。ナポレオンが気の利いたダンディなら反撥を愛の方向に変えさせるのは造作もないことなんですわ。そんなナポレオンならつまらない男でせうけど、ほんとの愛人は恋愛の中にゐやしませんわ。恋愛なんて愚劣で退屈ぢやありませんの。拗ねてみる、憎んでみる、愛さうとしてみる、とつまらなく苛々する、鋳型の中で馴合ひの芝居に疲れてゐるやうなものですわ。あたし愛さうともしないで、いきなり男を憎んでみたいと思ふことがありますわ。憎みぬいてみたいんですの。どこまで憎みぬかせるか、反撥し通せるか、女には自分の力がないんですもの、男の力男の冷酷さが憎み通させてくれるほかに仕方がないのですわ。ナポレオンは偉大ですわね。アドルフの作者と馴合ひの鋳型の中で人並みの感動だけは得やうとしたつて、スタール夫人は面白くも可笑しくもなかつたのぢやありませんの? みんなあたしの空想なんです」

 私達は通りへでた。

 私は木曾野に冷笑されてゐるやうに自らの立場を考へてみなければならないのかと思ひつかずにゐられなかつた。然し木曾野にそんな素振りはないばかりか、自らの言葉に対して気おくれとかうしろめたさを微塵も感じぬ颯爽とした清潔さが、恰も初々しい処女のやうに私の印象に残るのであつた。私は更に考へた。これはこの人のチョコレートであらうか? それともチエホフをして私の席にあらしめたなら、この婦人に向つてすら「いいえ、ナポレオンを語つてはいけません。貴女の大好きなチョコレートに就いて語りなさい」と言ふであらうか?

 私達は電車通りで左右に別れた。私と木曾野との交渉といへば後にも先にもただそれだけで、今語り得たやうにしか語ることができないのだ。それ以上に語るためには凡そ手掛りがないのであつた。さりとて私の印象の中に神秘的な影を宿して残るといつては余りにことが大袈裟すぎる。ありていを語れば、この婦人の人柄が甚だ私の好感に訴へるところがあるとはいへ、今語り得た以上にまで印象をまとめ、その気質や性格を突きとめる誠実なる情熱が私にとつては全く必要なものではなかつたのだ。


 私はアトリヱの中に秋子、あぐり、木曾野等三名の姿を認め、明らかに当惑せずにゐられなかつた。こんな時に貴方達の顔なんて思ひだしたくもなかつたのにと私の心は呟いてゐたが、然し秋子を見出したことの名状すべからざる感動が、私を激しく混乱させ、それが私の当惑を深かめさせもしてゐたのだ。

「僕は帰へらう」と長平は尻込みしながら沈んだ声で呟いた。私はあらはに狼狽して激しい視線でたしなめるやうに長平を凝視めながら、「もう暫く。せめて夜がくるときまで一緒にゐてくれ」と哀願せずにゐられなかつた。確たる理由はないのである。宿酔の朝に全く同じ神経的な恐怖であつて、別れることがたまらなかつた。

「別室でお話したいことがあるのですけど」

 女の群から木曾野が一人離れてきて私に言つた。二人は私の部屋へ這入つた。

「秋子さんのことなんですけど。秋子さんの姙娠のこと御存知でせうか? 御両親に隠し通せることでもありませんし、男が悪いんですの。くだらない因縁をつけてきてうるさいこともあるんですけど、そんなこと一々取り合ふ必要はありませんし、たいしたことぢやありませんわね。さう言つてしまへば別段理由はなくなるわけですけど、色々とうるさいものですから、赤ちやんの生れるまで静浦の別荘へ秋子さんをお預りしやうと思ふんですのよ。生れた赤ちやん誰かの子供といふことにして届けてしまへば八方無難で、何より事がおだやかに済みますわね。栗谷川さんはどうお考へになりますでせうか?」

「さうですね。それが何より無難でせうけど……」

 私は煮えきらなく呟いたが、なぜなら私の脳裡には一つの疑念が動きだしてきたからであつた。この婦人は私がまるで秋子の愛人であるかのやうに言つてゐる。まるで私に秋子の支配権があるかのやうにすら言つてゐるのだ。それを疑ぐらずに軽卒な返事を答へていいのだらうか? さういふ疑念もさることながらこの婦人の例の如く淡々とした歯切れのよい語調の裏には、最も繊細な叡智によつて包まれた微妙な揶揄が、私の野暮な疑念に向つて已にその複雑な伏線をふせてゐるやうにすら思はれたのだつた。私は暫く沈黙して私の疑念を虚しく追ひまはしてゐたが、思ひきつて顔をあげた。

「貴女の言葉は僕にまるで秋子さんの支配権があるかのやうに聞えます。言葉を換えて、もつと僕自身の肚の底を打ち割つた言ひ方をすれば、僕の愛情がもはや疑ふ余地すらないほど明確に秋子さんに向けられてゐるものに語られてゐるやうです。そのことを僕が疑らずにゐていいのでせうか? 貴女は何か御存知のやうですね。然し僕は全く知らないのです。分らないのです。これは皮肉ぢやありませんよ。他人の方が僕の心をずつと余計知つてたつて不思議なことはないのですから。自分が自分に向つてするあくどい偽りほど割りきれない奴はありませんよ。僕は弱つてゐるのです」

「だつて貴方は秋子さんを愛してらつしやるんでせう?」

「さういふ貴女の聡明な言ひ方が僕には困るんですよ。人情の機微を知りつくした媒妁人のやうに仰有おつしやられては困るのです。僕が秋子さんを愛してゐるといふことは一応ほんとかも知れません。その一応の真実から世間並みの結婚と幸福が算出されるかも知れません。然しさういふ常識が愛に解決を与へる筈はありません。もと〳〵僕は世間並みの幸福には徹底的に魅力を感じてゐないのです。これは強がりではありません。僕は断言できるのです。僕はワイフのカツレツが特に清潔だとすら思はないのです。一応の聡明さで、ワイフのカツレツが清潔だといふ中途半端な誤魔化し方をしただけでも芥川龍之介の錯乱を認めることができないのです。秋子さんの愛に就いて僕には全く自信がありません。余計なことかも知れませんが、あの人のほかに、僕には現に二人の情婦があるのです」

 木曾野は真剣な顔付をしたが、そのどこやらに然し親しさが流れてゐた。

「いいぢやありませんか、そんなこと。秋子さんの今後の生活に責任を持つていただきたいなんて、あたし望んでもゐませんし、その心算でお話きいていただいたわけでもありませんわ。秋子さんがよしんば百人の情婦の中の一人だつて、それでいいぢやありませんか。とにかく静浦の別荘へ秋子さんをお預りすることだけは承諾してくださるんでせうね? これは現在の話ですわ。未来のことなんて考へてみたくもありませんもの」

「さういふ意味でしたら勿論不賛成をとなへる筋はないわけです。然し、ちよつと、待つてください……」

 私は何事か附け加へて言ふ必要にかられた思ひで言ひかけたが、私の脳裡は恰も中断されたやうに空虚であつて、もとより附け加へて言ふべき言葉があらう筈はなかつたのだ。然し私は言はねばならない気持であつた。この婦人に向つて何事であれ告白したい親しさに駆られたものであつたらうか? 然りとすれば私の無意識の肚裡に於て已に一つの姦淫を挑みかけてゐたことを認めぬわけにもいかぬであらうが、左様な意志を私は意識もしなかつたし、無意識のうちにそれらしい表情や態度をつくることもなかつた。私は火によつて背中から追はれるやうに口走りはじめてゐた。

「妹が昨夜家出したのです。妹の嫌つてゐる父親が今晩上京するからといふ口実ですが、むろん誰だつて一思ひに知らないところへ逃げて行きたいにきまつてますよ。今アトリヱへ僕と一緒に這入つてきた男があるでせう。赤城長平といふちよつと知られた懐疑的な新進作家なんですが、妹の奴昨夜はあの人の住居へ現れたといふのです。長平の報告によると、その一夜の妹の態度が、彼の始めて接した本格的な妖婦そのものであつたといふのですね。僕には長平の観察が決して狂つてゐないことを認めることができるのです。勿論妹がよしんば高橋お伝だつて、それがどうしたといふのです。そんなことで僕の心が悩んだり、悲しみにとざされるなら、僕はむしろ自分の純情に乾杯したいばかりですよ。そんな僕ならどんなに助かるか知れませんよ。これはキザな話ですが、僕は長平の報告をきいてこんなことを考へたのです。妹よお前の魂がそんなに汚れてゐるものならお前の肉体も同じやうに汚れてくれる方がいい。売春婦の肉体となり蛆虫を肉に宿して戻つてきても僕は決して叱らないばかりか始めてお前と兄妹になつたやうな偽りのない親しさを感じるだらう、と。これは勿論咄嗟なキザな感傷でしたよ。今ではそれだけの感傷すら持ち合はしてはゐないのです。無関心。こいつはたまらないことなんです。全然無関心に生き通せるものかといへば、どつこい決してさうは問屋で卸しませんよ。こいつが又生来中途半端なものとなると、どんな敵より凡そ不気味で妖怪的ぢやないですか? 無関心といふ奴が自分のほかにもう一人影のやうに朦朧と身近かに突つ立つてゐるのだと考へてごらんなさい。喧嘩をしても勝負のない勝負だと思ひませんか? 僕はたしかに秋子さんが好きなんです。僕の本心の一ヶ所には秋子さんに詫びたい気持が年中動いてゐるのですよ。突然あの人の前に跪いて許して下さいと叫びたくて仕方がないのです。それから先はどうならうと僕にはてんで見当もつきませんし、既定の計算もないのです。それどころかてんで見当がつかないから、いつそ一思ひにあの人の前に跪いて許しを乞ひたくて仕方がないのかも知れないのです。もとよりキザなことですよ。滑稽ですよ、だいたい何を許してくれといふのです? なんだつていいぢやないかと僕は怒鳴りたくなるのです。許さるべく努力しなければならないといふのですかね? さうかと思ふと、あとは野となれ山となれといふ奴なんです。あの人の前で許して下さいと一思ひに叫んだら、どんなに清々するだらう! 苦しさを一皮ぬぎすてたやうにホッとすると思ふんですよ。すぐそのあとで、あの人の目の前で、いきなり誰かほかの人に抱きついて接吻してもいいくらゐだと思ひませんか? いいえ、僕はほんとにやらなければならないやうな気がするのです。我々の生活ではそれが普通でなければならないのです。我々の心理を表現する生活が全くないくせに、我々がとにかく生活してゐるといふことは、考へただけでたまらなく不愉快になることですよ。表現する生活があれば、心理だつてもつと深く単純になり、生き生きとするのだ。たとへば僕が、今貴女に、然し、あはゝゝゝゝゝ」

 私の口から無礼な言葉が流れでたにも拘らず、私の想念の中にはそれらしい意欲が決して生々しく浮きあがつてはゐなかつた。そのために私の高笑ひは開け放された明るさで高らかに鳴りひびいた。私は尚も無限に語りつづけずにゐられぬ気持を持てあましながら、突然荒々しく立ち上つた。私の言葉の一々が頭の中を素通りし決して頭にたまらないのが明瞭に感じられ、思念の中絶が明確に意識されて不愉快であつた。

「我々は散歩しませう」と私は叫んでゐた。

「外は爽やかな初夏ですよ。エルテルの詩人の言葉にかういふ一句があるのです。大方の人は生きるために大部分の時を働いてゐます。さうして僅かばかりの自由が彼等に残されても、それが心配になつて、あらゆる手段を講じてその自由から脱けださうとするのです。ああ、人間の運命」

 そのとき木曾野も立ち上つた。微笑を浮べて私を凝視めながら言つた。

「あたしもエルテルの言葉を一つ覚えてますわ。

 夕暮

 僕はこんなに沢山のものを持つてゐる。而もあの人に対する感じが総べてを呑んでしまふ。僕はこんなに沢山持つてゐる。而もあの人がなければ、僕には総べてが皆無になる」

 私は再びからかはれてゐるのだと思つた。然し木曾野の表情には又してもその気配すらないばかりか、彼女の静かな笑ひの奥には私の粗雑な関心の全く触れることさへ許されない貴人の城があるやうにさへ思はれたのだつた。それらのことを感じながら、然し私は、ええそんなことはどうだつていいのだ、平安朝の宮庭やルイ王朝のサロンに行はれた単に感覚的な所謂 Finesse d'esprit と称ばれる類ひの智的遊戯が月光や薔薇によつて野性を刺殺し、或ひは恋する心臓の真実の言葉を発見せしめたとはいへ、ジュリアン・ソレルの恋の真実を決して育てることはなかつたのだと心に呟きつづけてゐた。私はもはや全く木曾野に無関心の自分に返つた思ひであつた。そのくせ冷汗の滲みでさうな混乱がなほわけもなく沸き立ちつづけてゐたのだが。

「僕は詩人にはなれないのです。ロマンスにしろデカダンスにしろ溺れきることができないのかも知れないのです。」

 と私はもはやどうにも仕方のない気持でそんなことを呟きながら扉を開けてアトリヱの方へ歩きだしたが、私の背後では又しても私に全く思量の余地のない木曾野の爽やかな呟きが「あたしも──」と答へてゐるのが不思議な弾力をもつて耳に沁みてくるのであつた。

 五名の男女は揃つて戸外へ歩きでた。

 私はアトリヱの中に思ひがけなく三名の婦人を見出したこと、その婦人等と恐らく数時間は離れる見込みの有り得ないこと、それが然し決して不快ではないのだつた。私は誰とでもゐたかつた。群集と共に笑ひ泣き怒つてゐてもいいのだつた。そのとき私に堪えがたいものは孤独のみであつたのだ。然し私は自分自ら一団の雰囲気をかもしだしたくないのであつた。私は自分の体臭に疲れてゐたのだ。宿酔の朝のやうに、さうして人々のかもしだす雰囲気に安心しきつて浸つてゐたい思ひのみが高まつてゐた。

「南雲二九太を訪ねてみないか?」

 と私は長平に向つて言つた。彼はがくんと頷いた。

「すぐこの近所のアパートに南雲二九太といふ若い哲学者がゐるのです。貴女方がカルチェ・ラタンといふあたりの屋根裏にくすぶつてゐる変屈な若い哲学者に就いて想像したことがおありでしたら、この男が幾らか似たところがあるでせう。本を読んでゐるのか思索してゐるのか乃至は昼寝でもしてゐるのか滅多に外出することがありません。本と埃でいつぱいのこの男の部屋へはいると、糸のやうに痩せた若者が真黒の仕事着をつけて、然し精悍な山犬か狂人のやうな眼を光らせて一睨みづつ貴女方の顔を射るのに会ふ筈です。それからいきなり誰の神経にも顧慮せずに猛然と喋りだすのを見出すでせう。この男の奇妙なのは非常に観念的であると思ふと、時々非常に実行家なんです。この男が行動にうつる一瞬間前まで、我々は彼が起すであらう行動に就いて絶対に予測することの不可能なのが普通なのです。彼は年中何もしてゐません。時々ふいに何事か已に行つてしまつてゐるだけなんです。そして要するに年中同じ一室にヂッと棲息しつづけてゐるに過ぎないやうなものです。その男をこれから訪ねてみませんか?」

 不賛成を説へる者は一人もなかつた。一同自分の体臭に疲れきつた感じであつた。要するに、ただ新鮮な人数が加はれば加はるだけ救はれるやうな思ひのみが共通してゐた。一団は二九太の部屋を目指して流れていつた。

 薄暗い乱雑な部屋の中に、果して精悍な山犬の眼を光らせた哲学者がゐた。我々がほかの場所では見出すことのできないやうな、シャツのやうにひきしまつた黒い背広を着てゐるために、この男の痩せた身体が線で描かれた形のやうに不気味に見えた。金属のやうな冷めたい感じや傲然たる無神経や燃える眼が、檻へ入れて対坐するにふさはしい狂人のものに見えるのだ。凡そ部屋に不似合な巨大な汚い古ピアノが一台あつた。

「こんなものを買つたのか?」と長平がたづねた。

「こいつを一台買ふためには色々の欲望を断念したり大切な品物を売払はねばならなかつた。君はショパンがマヂョルカ島で作つたといふ幾つかのプレリュードやスケルツォを知つてゐるか? ショパンはジョルヂュ・サンドと一緒にマジョルカ島へ行つたのだ。あの牝牛には二十世紀の俺だつたら生理的な嫌悪を感じてやまないが、あの牝牛にひきづられ、旺盛な肉体力やら現実的な才智やらに圧倒されたショパンときては、女王の前の奴隷のやうにだらしがなかつた。マジョルカ島へ来た頃はショパンとサンドの恋愛も終曲に近い時なんだよ。ジョルヂュ・サンドが男と町へでかけたつきり夜が更けても帰つてこない、そこでショパンが絶望して、ねもやらず作つたといふのがそれらの曲だ。絢爛なほかの曲に比べると墓地できく雨だれのやうな陰鬱なものだ。音楽ぢやないのだ。つまり芸術ぢやないのだ。さうかといつてベエトオベンのクロイツェルソナタのやうな肉体や血のひしめいた懊悩を感じさせるものとも違ふ。いはば単に魂魄とか霊魂とでもいふものがどん底へ押し込められて、光もとどかない暗闇の奥で呻きだした。そんなものを感じさせるだけなんだよ。その曲を聴いたらピアノが欲しくなつたのだ」

「それを弾いてきかせないか」と長平が言つた。

「弾けないのだ。もともとピアノが弾けないのだよ。そのうちに習ひはじめるつもりだが、その曲を自分で弾きたい欲望もないのだ。きいてくれ。俺は近頃酒をのむのだ。一回に四合瓶一本づつ。毎日なんだ。夜が更ける、二時三時、すると俺は四合瓶をとりだして静かにゆつくり飲みだすのだ。決して人とは飲みたくない。この部屋の外でも飲みたくないのだ。この古ぼけた変哲もない俺の部屋が生き生きと蘇み返つてくるぢやないか。この部屋の中へ閉ぢこもつて為すこともなく失つてきた多くの時間が、然し決して無駄ではなく、それらがみんな蘇生して現実の俺の位置まで脈々と流れこんでくるのが分るのだ。不思議な魔力だよ。それ自体純粋だ。さうして、疑ふべくもない一つの現実だ。見給へ」

 南雲二九太は立ち上つて一座を見渡しながら押入れの戸をサッとあけた。驚くべき光景。押入れの上も下もギッシリと四合瓶の乱雑な行列であつた。押入れの前に位置を占めてゐた私は思はず片手を差延して一本の空瓶を執りあげやうとした。二九太は急いで私を制した。

「待つたり。溲瓶の用に使つた奴があるから」

 彼は机の抽斗から香水の瓶をとりだして、異常に綿密な注意を払ひながら一小滴づつ床へ落した。婦人達はこらへきれずふきだした。

「君に会つたら話さうと思つてゐたことがあるのだ」と、長平は相変らずの沈んだ声で二九太に話しかけた。

「僕の下宿から四五軒隣りの煙草屋の娘だがね。十五なんだよ。三ヶ月ほど前までは普通と変らない娘で、僕も見覚えがあつたが、相当悧巧さうな顔立もととのつた娘だつたよ。それがね、或日発作を起してブッ倒れたと思ふと、それからは予言するやうになつたり、千里眼の現象が現れたり、夢遊病の症候が現れたりしたのだね、顔立や肢体にも急激な変化が起つたといふことだよ。霊媒の話だとか、田舎へ行くと神がかりの女の話はよくきくことで、高大業とかおきみ婆さんお直婆さんといふ類ひの特殊な婦人の異常能力に就いてはかねてきき覚えてゐたが、いづれも妖怪じみた老婆の話で若い娘のこの種類の話はきいたことがなかつたし、なにぶん四五軒隣りに起つた生々しい話なんでね。興味を覚えたところから、十日ほどまへ下宿の叔母さんが紹介してくれるままに、会つてみたのだ」

「ちよつと、待つた(二九太は突然性急に長平を制して、上体をぐッとのりだした)その娘がはじめて発作を起してブッ倒れた時の症候はどうだつたのだ? 精神的の打撃であれ、肉体的のことであれ、明確な刺戟の強い原因があつたのか? またブッ倒れてから嘔吐を催したとか、痙攣を起したとか、呼吸困難におちいつたとか、激しく咳きこんだとか、発作後は長らく消化不良に悩むやうになつたとか、或ひは当時最初の月経時に当つてゐたといふ事実はないのか?」

「さういふことは分らないが、発作の後は、動作に神経病患者通有の荒々しさが現れたとか、性的に大胆な不道徳を現すやうになつたとかいふ噂はきいてゐるよ」

 二九太は苛々した激しさで頷きながら、性急な語調でなほも質問をつづけた。

「その後時々全身が硬直するといふ特殊な発作を起すことはないのか? これが大切なことなのだ。分らないか? それから感覚が転置するといふ異常な生理現象が起きはしないか? つまり視覚が耳朶に移るとか、聴覚が顎とか掌へ移るとか、嗅覚が足の裏へ転置するといふことなのだ。たとへば目隠しをしても手紙を読むとか、眼の前へ棒を突きつけてもあまり驚きもしないが耳朶に棒を近づけると急に威嚇されたやうに身を引いて『盲目になりますよ!』と叫んだり、同じことが嗅覚に就いても、たとへば、香水を鼻の下へもつていくが何の反応もない、足の裏へ香水をやると急速に反応を起して微笑し、鼻孔をふくらましてせはしく呼吸を早めるといふやうな現象が稀に起りはしなかつたのか? それ以来癲癇の発作が起きるやうなことはないか? それから趣味が突然一変したり思ひもよらぬものに熟練をみせるやうになつたといふ現象はないのか? たとへば非常に高級な音楽に感動するやうになつたとか? 突然乗馬とか庭球が非常に巧みになつたといふやうな現象だ。又睡眠が不規則になつて、あるときは二日も三日も熟睡するといふことはないか? それから、これも重大なことだが、金とか鉛とか鉄とかといふ金属に対して、特に鋭敏な神経的反応がありはしないか?」

「どうもそれもよく分らないが、とにかく物を透視することは確からしいね。常にさういふ能力があるといふわけでもないらしいが、たとへばひとつの亢奮状態におちこむと異常能力を発揮するらしいのだ。当らないこともあるらしいよ。千里眼の現象なぞは半分適中しないやうな状態ださうだよ」

「然しそれだけで充分だ! それは明確に Catalepsy といふ神経病の一つなのだ。日本語では一般に全身強直といふ訳名を用ひてゐるらしいが正確なことは分らない。見給へ。(彼は催眠術ヒプノチズムに関する分厚な文献を数冊探しだして我々の方へ持つてきた)ほらこの本をごらん。それから、この本もごらん。ヒプノチズムに関する限り先づ冒頭乃至は、とにかく本論にかかる前にみんな一様に一応ふれてゐるのがこの Catalepsy といふ症候に就いてぢやないか。つまりヒプノチズムを科学的に説明づけることは不可能であるが、然し Catalepsy なる神経病が存在することによつても、ヒプノチズムと人体との密接な関係を否定することはできないといふのだ。ことほど左様にこの症候は異常なものだ。勿論科学的に説明することのできないものだ。然し確かに在るものなのだ。十四五歳の少女の春情発動期に起るのが普通だが、稀には年増女、時には十五六の少年にこの症候の起つた例が文献に載つてゐる。この書物を見たまへ。これはロンブローゾの最晩年の著作で『催眠並に心霊現象の研究』といふものだ。主としてユサピアといふ霊媒に就いての実験を報告し、霊魂の存在を実証しやうとしたものだが、多数の実験の結果、それらの現象を科学的に説明することは不可能であるが、然し死後の生命の実在をそれらの実験によつても否定することはできないとロンブローゾは言つてゐるのだ。この本を出版するに当つては、世人の誤解を惧れるあまり彼の友人達が揃つて反対したらしい。実際この本に対しては、ロンブローゾの最晩年の著作ではあり、耄碌した世迷言だと見る人が多い。然し科学では説明のできない精神現象の存在に注目せずにゐられなかつた彼の情熱は、耄碌どころか、最も高度の知的巡礼者の敬虔な姿を見出したやうに僕には思へるのだ。この秘密に飛びつくことが科学の一つの重大な任務ぢやないか。生きる人間にとつてこのことほど重大な問題は少いぢやないか。ところでロンブローゾがこの著作の冒頭に取扱つてゐるのだが、矢張り御多分に洩れず Catalepsy に就いてなのだ」

「僕はこの少女の話をきいた時、どういふものかまつさきに君のことを思ひだしたよ。君に教へてやつたら興味を持つだらうとも思つたのだが、然しそのことよりも、よく似てゐるなと考へたのだよ。これは冗談ぢやないのだ。君が少女ならその Catalepsy になりさうなんだよ」

「Catalepsy は必ずしも虚弱な人間がなるものではないのだ。むしろ健全な人、健全な両親の子供が思ひもよらずなる例が多い」

「さういふ厳密な話ぢやないよ。僕の言つてゐるのはただ感じのことだが、ところが僕がその少女にいざ会つてみると愈々奇妙なことがあつたのだ。君に話したいといふのはそのことなんだが。僕の会つた日は発作もなく特に亢奮状態でもなく普通の日で、多少動作に男のやうな荒つぽい感じがあるだけで、特別奇怪な行動もなかつたのだ。ところがふいにその少女が僕の顔を凝視めてね、急に叫んだものだよ。この人の友達に私の好きな人がゐるといふのだ。私の愛人がゐる筈だと、同じことを二度叫んだよ。僕はかなり面喰つたが、面喰ひながら咄嗟に思ひついたのが矢張り君のことだつたよ。その愛人は君ぢやないかと奇妙にかう、なにかグロテスクな実感をもつてさう思はずにゐられなかつたよ」

 私達は思はず同時にふきだしたが、なにかグロテスクな真迫力を思はず感じずにゐられなかつた。然し二九太は私達の笑ひにもそのグロテスクな真迫力にも全く無関心だつた。

「その娘は可愛らしい顔立か?」と、二九太は冷然と長平にたづねた。

「特に可愛らしいと言へないが、普通の愛くるしい少女には違ひないな」

「身体はふとつてゐるのか痩せてゐるのか?」

「見たところ弱々しい身体だよ」

「行つてみやう!」

 二九太は叫びながら忽ち荒々しく立ち上つた。

「これから早速行つてみやうぢやないか! 一見の値打があるのだ。僕は実験してみやう。暗示を与へてその反応を調べてみたいのだ。我々は早速行かうぢやないか!」

 もとより私も興味を感じはじめてゐた。私達も立ち上つて早速神経病少女を訪問することに一決したが「それにしても」と長平が二九太に向つて「大勢であんまり仰々しく見物といふ恰好もよくないから、君の大学教師の名刺に物を言はせることにしやう」と言ひかけると、二九太は抽斗を掻き廻して「この方が有効だらう」と日本心霊学協会の会員証を探しだした。

 外へでると、二九太は酒店で四合瓶を買ひもとめた。

「この種の神経病患者を亢奮状態に落とすには酒を用ひるのが最もいいのだ。彼等がアルコールの飲用によつても亢奮した場合には、一般に最も強度の被暗示性におちこむものだよ。たとへば水に触れしめて、これに火といふ暗示を与へただけで、火傷せしめることができるほど猛烈なものだ」

 二九太は四合瓶をさげ、酒店の主人から借り受けた盃を握つて店をでたが、急に立ち止つて呟いた。

「盃でチビ〳〵飲ませるのは容易ぢやないな。コップで飲ます必要があるな」

 すると彼は盃を返すかはりに突然鋪道へ叩きつけて粉微塵にくだいてゐた。それから荒々しく店内へ駈けこみ「僕の必要なのはコップの方だつた」と叫んでゐたが、酒店の主人が苦笑しながら差出すコップを攫ひとつて私達の方へ大股に戻つてきた。


 目的の家へ着くと、日本心霊学協会会員証を握りしめた長平が五名の者を待たしておいて交渉のために這入つていつたが、間もなく現れて万事都合よく運んだむねを報告した。私達は煙草屋の二階の一室へ通された。娘は階下の茶の間にゐたやうであつた。約十数分の後神経病少女はその母親にともなはれて私達の面前に現れたが、この会見は僅々数分をもつて有耶無耶うやむやの終末を告げ、私達の最も期待した二九太の実験はつひにその実現をみなかつたばかりか、少女の予覚的恋愛の興味津々たる的中の一幕もなく、夢想だにせぬ陰鬱な結果を生みだすこととなつたのである。

 私達の面前へ現れた少女はその訝しげな視線によつて先づ我々を交互に焼けつくやうに凝視め続けた。その眼は次第に大胆不敵な光りを加へ、その視線が私の顔に向けられた時には、恰も眼光が次第に膠着するもののやうな執拗な厚みを感じたほどであつた。少女は全く無言であつた。突然二九太は少女の前へ進んでいつた。コップに酒をつぎそれを突きだしながら激しい視線で少女を凝視めた。

「これをのんでごらん! 頭をよくする薬だよ。君はこれを呑まなければいけない!」

 恐らく二九太は自分に具はる暗示性をたのみ、少女に具はる被暗示性を予想したうへ、暗示によつて飲酒を強制しうるものと信じたらしいのであつた。彼の暗示は然し全く効果がなかつた。少女の瞳は益々大胆な光をたくはえ、二九太の眼を微動だにせず凝視めるばかりで、返答の気配もなかつた。

 二九太は突然コップの酒をただ一息に自分自身で呑みほした。コップに再びつぎなほして、改めて少女の瞳を睨みかへした。

「これを一息にのみたまへ! 僕が今さうしたやうに! 君もこの液体をのまなければいけないのだ!」

 少女の顔は俄かに紅潮した。突然二九太の眼から自分の視線をふりはづして、再び私達を交互にきびしく凝視めはじめた。眼にはみるみる狂暴な閃きがギラギラと浮きはじめてゐた。少女は秋子の顔面にその狂人の眼差を突然とめた。焼きつける瞳をもつてグイグイと凝視めつづけた。

「お前は人殺しをするよ!」

 少女は唐突に秋子を指して叫んだ。

「お前は怖ろしい人殺しだよ! 怖ろしい心をもつた女だよ! まあ人殺しつて、こんな綺麗な何食はぬ顔をしてゐるものだね! あたしは始めて人殺しの顔をみた! こんなとりすました様子をして!」

 少女は全身に痙攣をあらはし神経的な苦悶をみなぎらした啜泣すすりなきを起した。その母親は忽ち少女を抱きかかえて階下へ降りた。私達がただ茫然としてゐるうちに、一時の気まぐれから目論まれた無邪気な訪問は、拭き消しがたい陰鬱な汚点を残して、すでに終りをつげてゐたのであつた。

 私達はいつたん長平の部屋へひきあげた。迂闊な男達にも秋子の蒼白な顔色が改めて眼に焼きついたのは漸くその時のことであつた。この部屋までどうして歩いてくることができたらうと思はれたほど蒼ざめて、唇には血の気が失せ、私達に一座して単に身体を支えてゐることだけですら異常な苦痛と闘ひつづけてゐることが分つた。私達は無理強ひに暫く横臥することをすすめたが、勝気な秋子が結局我々の言葉の通り用意した布団の上に休息することになつたほど疲労しきつてゐたのである。秋子は眼を閉ぢて横臥した。その口は苦しげにひきしめられ、蒼ざめた額に汗の粒が浮きだしてゐた。私は秋子の閉ぢられた目蓋の奥に、暗く濁つたその絶望の眼差しを歴々と認めることができるやうに思ひつづけた。

 ──いぢめつけられた可憐な女! 弱々しいすべての力を寄せあつめて進もうとしては叩きつけられる女! 様々の闘ひがあるうちで、この人の敗北の精神史ほどいぢらしい悲惨な葛藤も少ないやうな思ひがする。私達はドン・キホーテの悲劇からどうしても逃れることができないのか! 私はその悲劇を克服しやうと努めてゐるのだ。さういふ私の一生が再び愚かにもそれ自ら同じ悲劇の相をくりかへすであらう皮肉なことにならうとも、私はその悲劇を克服すべく努めつづけずにはゐられない。その私が然しこの人の絶望につかれた翳に不思議な魅力を感ぜずにゐられないのは、私の愛慾の本能が、私の意欲に勝たうとするわけだらうか? 私の意欲がまだ充分に全精神を貫くだけの力を具えてゐないためか? それとも愛慾に理窟は不用のものであらうか? この人の時々の行路に疲れて放心したやうな顔付の中には、なんといふ解きがたい苦悩を宿した絶望のかげがあることだらうか!

 私は心に呟きつづけてゐた。私は正体の不確かな不思議な感動に憑かれてゐたのだ。そして時々わけもなく涙が滲まうとするのであつた。然し私の一つの冷静な心はその時もなほむしろ傲然と呟きつづけてゐたのであつた。私はこの人を他のあらゆる女と同様に決して真実の愛をもつて愛してはゐない、と。私の心はこの人によつて決して全てが充たされもせず、救はれることもできないだらう、と。心の救はれざる恋愛がありえやうか?

 女を欺くことに馴れてゐる私も、愛を欺くことはできない。秋子を欺くことは他のあらゆる女を欺くと同様決して特別心にかかる事情がありえやう筈はないにも拘らず、この人の場合に限つて、私はこの人を愛してはゐないと常にかたくなに言ひ張る声をききつづけねばならぬのは、この人の場合に限つて、真実の愛のひときれが私の心に宿つてゐるためであらうか? そのひときれの愛情はもとより私の全てではない。そして私は秋子を欺くことによつて、そのひときれの真実の愛を欺くことが怖ろしいのか? 秋子を愛することによつて、そのひときれの真実の愛を欺くことが怖ろしいのか?

 たそがれ、三名の婦人は立ち去つた。秋子はその日から静浦の別荘で暮すことになつたのだ。

 三名の男は酒をのんだ。

「あの婦人には人に許された最も高度な純潔とその類ひ稀れな純潔の故に課せられた永劫不尽の大苦悩が秘められてゐるのだ」

 二九太は深い感動をもつて秋子に就いて語りはじめた。

「あの人のしひたげられ、ふみつけられた精神史の呻きにも似た時々の痴呆のやうな表情を見たか! あの弱々しい臆病な眼差しをみたか! 人殺しと呼ばれた時の蒼ざめきつた無表情の顔は決して宗教の救ひ得ない、然し最も荘厳なる苦悶の像にほかならなかつたよ。あの人は疲れきつて倒れてしまつた! あのくひしばつた口のせつなさ! その唇のかすかなかすかな痙攣を君達は見たか! あれは全て最も高潔な、いぢらしい悩める魂の姿なのだ! 僕はあのいぢらしい魂の奴隷となることを喜びとする!」

 秋子に寄せる二九太の狂暴な愛情が、かうしてこの日はじまつた。

 八時半。上京の父を迎へに、彼等に別れ、私は上野駅へかけつけた。(続)

底本:「坂口安吾全集 02」筑摩書房

   1999(平成11)年420日初版第1刷発行

底本の親本:「文学界 第三巻第一号~第三巻第三号」

   1936(昭和11)年11日~31

初出:「文学界 第三巻第一号~第三巻第三号」

   1936(昭和11)年11日~31

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:今井忠夫

2005年129日作成

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