左近の怒り
坂口安吾



左近の上京


 夏川左近さこんは久方ぶりで上京のついで古本あさりに神田へでた。そのときふと思いだしたのは大竜だいりゅう出版社のことだ。終戦後の数年間、左近は密輸船に乗りこんでいた。荒天しけつづきのつれづれに、そのころの記録をつづり「密輸船」という題をつけて大竜出版社へ送ったままになっている。かれこれ一年ぐらい前のことである。むろん原稿を送りこんでいきなり本にしてもらえると思ってもいないが、ちょうど神田へでたついでだから冷やかし半分に大竜出版社を訪ねる気持になったのである。

 小さな店構えだ。誰もいない。大声で案内を乞うと、漫画の中の小僧のようなのが奥からチョロチョロとでてきた。

「なんの御用?」

「ボクは一年ほど前に密輸船という原稿を送っておいた夏川左近という漁師ですが、社長か誰かに会えませんか」

「キミ原稿書いたの?」

「そうだよ」

「いま、何してんの?」

「漁師だよ」

「フーン。漁師か。なんて原稿だっけ」

「密輸船」

「ア、そうか。テキは海賊だな」

 小僧はチョロ〳〵ひッこんだ。それから四分の一時間もすぎてから、小僧と一しょに若い娘がでてきた。事務員らしい。まだ子供らしさの多分に残っている少女であるが、知的な目がパッチリかがやいていて、目がさめるような清楚な感じがする。

「原稿さがしてましたので、お待たせいたしました。私、読んだ記憶があるんですけど、いまちょッと見当りませんのでね。お待ち下されば、さがしますけど」

「そうですね。せっかく書いたんだから、さがしていただいて持って帰りましょうか」

「では、どうぞ、上ってお待ち下さいませ」

 二階の奥へ通された。そこに五十がらみの小男がいた。左近の顔をチラチラうかがっていたが、娘と小僧が原稿さがしに別室へ去ると、立って近づいて、左近の前へドサリと原稿を一山投げだした。

「方々からこんなに原稿送ってくるんでね。キミ一人じゃないんだ。見てごらん。面白いぜ。しかし、出しても売れねえや」

 手にとってみると、一つは「強盗一代記」次のは「節食健康法」とある。

「それ書いたのは有名な強盗なんだ。キミの密輸船くらいじゃアね」

「なるほど。上には上がありますね」

「キミもしかし相当な悪事を重ねたね」

「悪事ではありません。海はボクラの家というだけです」

「キミはいくつだい」

「満二十八」

「海軍出身かい」

「予科練です。父母が戦災で死にましたので、終戦のとき、同じような仲間と徴用の漁船で逃げだしたまま密輸やりだしたんです」

「いまは?」

「網元の家にゴロ〳〵して、漁師ですよ」

「そうか」男はタバコを吸って考えていたが、

「キミの原稿を本にするわけにはいかないが、どうだい、ここで働いてみないか」

「あなたは誰ですか」

「社長さ。大竜出版社社長吉野大竜」

 男は威張って見せたが、小さい大竜だ。左近は笑いたいのを噛み殺した。

「オカの勤めは経験がありませんからダメですね」

「キミなら勤まるんだ。実はね。打ち開けて云うと、社員がみんな逃げたんだ。買収されたんだな。わが社は最近政界官界財界の裏面をバクロしたバクダン的手記を出版することになったのでね。社員が居なくちゃア手も足もでないんだ。うっかりボクが使い走りにでるとぶん殴られる怖れがあるし」

「誰がぶん殴るんですか」

「政界官界財界のボスのコブンだな」

「社員ならぶん殴られないのですか」

「そうでもないらしいがね。先方の言うことをきかないと、やられるかも知れないね。しかし、キミなら顔を知られていないから当分は大丈夫だよ」

「オカは物騒だなア」

「キミみたいな人がそんなことを云うもんじゃないよ。ホレ、この通り。たのむ!」

 大竜はイスから立ち上って手を合せて拝んだ。この際、拝みたくもなろうというものだ。骨の髄まで大海の潮がしみこんだ赤銅色。ひねもすノタリ〳〵というとおだやかな様子だが荒天の無限のうねりを蔵している逞しさ。大竜とうとう左近の手をとって押しいただいて、

「キミの出馬によってこの日本全土が灘となって浪だつ。天下の熱血がわきたつのだ。たのむ! この大竜を助けてくれ。日本の熱血をかきおこしてくれ」

 そこへ娘がお茶を、小僧が原稿「密輸船」を持ってやってきた。しばし大竜熱の演技に気をのまれて見とれている。大竜は気がついて、

「これなる美女は西江大将のワスレガタミ、わが社の専務、西江葉子クン。またこれなるは常務理事タコスケ、牛肉屋のセガレだ。この二人は重役だから逃げられない。オイ、重役、キミたちからも頼んでくれ」

「よろしく、たのむよ」とタコスケがいかにもオツキアイというマに合せの声で云ったが、葉子はだまっていた。落城寸前の大竜出版社に見切りをつけたらしい哀れさがただよっている。

 左近は考えた。彼の船は三陸沖のサンマを追って帰ってきていま修理にかかっている。一月ぐらいはあまり用のない身体だ。左近は重役が気に入ったのである。葉子がただの女事務員でタコスケがただの給仕ならこうはならなかったかも知れないが、二人が重役で、平社員はキレイサッパリみんな逃げたというのが気に入った。ちょうどその本のでき上るころまではヒマな身体だから、この哀れ奇怪な重役どもに一ピの力をかしてやろうかという気持になった。

「そうですね。ちょうどヒマだから、その本ができるまで、つきあいましょうか」

「ありがたい!」

 タコスケが今度は本気によろこんで、とびあがって叫んだ。

「毎晩の宿直にボク音をあげたよ。今夜からウチへ帰って手足をのばして寝られるよ」

「キミは今夜から店へ泊りこんでくれ。仕事は明日からだ。夏川左近氏の入社を祝い、晩メシはスキ焼といこう」

 二人の男が歓声を発してそれぞれ仕度に駈け去ったあと、葉子が云った。

「バクダン投げこまれても知らないわよ」

「そんなに狙われてますか」

「社員がみんなやめるほどですものタダゴトじゃアないわ」

「ボクが入社して迷惑なんですか」

「迷惑のはず、ないわ。ぶん殴られてカタワにならないでね」

 淡い愛情のこもった目で左近を睨んで、葉子も去った。まんざら迷惑でもないらしい。監視艇の機関銃の目をくぐって密輸の荒波をきりぬけてきた左近は街のアンチャンのバクダンぐらい浜のアブと同じぐらいにしか珍しくもなかった。しかし浜の人たちに上乗じょうじょうの東京ミヤゲができそうだ。と考えて、彼自身もまんざらでない気持であった。


追われる女


 翌朝、タコスケの書いた地図をたよりに左近は都心をはなれた氏家うじいえ印刷会社へでかけた。住田嘉久馬すみだかくまのバクダン・メモの出版についてはそもそも印刷所に寝返りをうたれて弱ったのである。いったん引きうけても、翌日か翌々日になると、ほかの仕事の都合でと急にことわりを云ってくる。おどされたり買収されたりするのである。親しかった印刷所がみんなその始末であった。やっと引きうけてくれたのが、氏家印刷だ。しかしこれもいつ寝返りをうつか分らない。左近の仕事は刷りあがるまで泊りこんで督促することであった。

 タコスケの分りにくい地図をたよりにどうやら到着してみると、小ヂンマリした印刷所で二十人ばかりの若い者がガッチャン〳〵働いている。刺を通じると印刷インクだらけの工員が現れて、

「ぶん殴られずに来たらしいな。まア、はいれ」

「社長にお目にかかりたいのですが」

「オレが社長だよ。アッ! キミは夏川左近じゃないか」

「エ? あなたは?」

「忘れたかい」

「いえ、インクだらけで見当がつきませんよ。ア。なんだ。氏家少尉殿ですか」

「キミが大竜出版の社員かね」

「今日からそうなんです。実はこれこれの次第でにわかにそうなったのです。しかし、氏家さんが印刷屋とは知りませんでしたね」

「終戦のとき基地に不要の印刷機械が三台あったのを貰ってきて商売をはじめたら何となくモノになっちゃったんだよ」

「ハハア。ボクらの密輸船と同じ式の印刷会社ですか」

「キミが大竜出版の社員ならオレも考え直さなくちゃアなるまい。もともとこの出版にはインチキがあるとオレは睨んでるんでね。大竜出版は知らないらしいが、著者の住田嘉久馬がインチキなのだ。結局高い値で売りつける肚だね。出版に至らぬうちに立消えになるものとオレは睨んでいるのさ」

「それではバカバカしいですね」

「その通り。立消えになればオレは金がもらえないし、たぶん大竜出版も一文もとれないだろうと思うんだ」

「やるだけ損ですね」

「しかしキミが大竜出版の社員なら、やろうじゃないか」

 氏家太郎はニヤリと笑った。感謝していいのかどうか左近はわけがわからない。

「社員というほどレッキとしたものじゃアないんですがねえ。無理していただくと、どうも、こまるな」

「キミならぶん殴られても平気らしいから引きうけるのさ。住田嘉久馬が金を払わなかったら、キミとオレで出版して密輸船へずらかるんだな」

「なるほど」

 なんとなく面白そうな話になった。さっそく組みにかかった。印刷屋の職工は玄人よりも校正がうまいぐらいで、いろいろ手伝ってくれるから、無経験の左近も難儀しない。漁師は新聞なぞは読まないものだ。ラジオは漁船の必要品だが、ニュースに聞き耳をたてることもメッタにないから、バクダン・メモの内容はことごとく左近の新知識である。オカにはいろいろのことがあるものだ。これを娑婆というものであろうか。吉野大竜が左近の力作「密輸船」におどろかないのは無理がない。

 初校を了って住田嘉久馬に再校を乞う段取りとなった。ぶん殴られる段取りも近づいたような形勢であるが、住田嘉久馬という怪人物に会えると思うと人食い鮫や大蛸に対面するよりも興味がある。左近はゲラの包みをポケットにねじこんで、勇みたって広大な住田邸の正面玄関を訪れた。アンコーのような怪書生でも現れてくるかと思うと、ショボ〳〵した老婆が現れて、

「裏から来るんだよ。ほんとに、まア、礼儀を知らない。用がすんだら、さっさとおかえり」

「待ってますから、至急やっていただいて下さい」

「校正なんぞいつごらんになるか分るかね。電話をかけて知らせるから取りにおいで。裏口から来るんだよ」

 住田嘉久馬に会うどころの話じゃない。娑婆はことごとく勝手がちがう。再校がでるまでは用のない身体になったから、左近は大竜出版へひきあげることになり、印刷所で夕食を御馳走になって帰途についた。灯りの少い夜道を駅に向って歩いていると、うしろから若い女が追ってきて、いきなり彼の腕をとり、

「お久しぶりね、吉田さん」

「人ちがいですよ」

「黙って! お友だちのフリをして。おねがい」

「ボクは金を持たないよ」

「ね。おねがいですから、お友だちのフリをして。私、追われてるんです」

「キミはカンちがいしてるんだ。追われてるとすればボクだぜ。さては」

「ちがうッたら。私が追われてるのよ。ワケがあるのよ。ワケはあとでお話しするわ。おねがいだから、お友だちのフリをして。私のウチまで送ってちょうだい」

 わけのわからぬことになった。ボスのコブンがぶん殴りにくるのに、こんな手のこんだことをするはずがない。してみると、この女にはたしかに左近に無関係の、深いワケがあるに相違ないが、人に追われるについては左近にも心当りが大有りだから、どうもまぎらわしくていけない。

「ほかの吉田さんをつかめばよいのに、なんだってボクをつかまえたんだろうね」

「ブツブツ云わないでよ」

「云いたくなるワケがあるんだよ。ボクの方にもね」

 女はだんだん淋しい道へと左近の腕をとって急いで行く。さてはやッぱりこうして女に淋しい所へ導かせて殴ろうとの算段かなと左近は考えたが、女の顔を見るといかにも心配そうな顔で、人をだましているような顔ではない。オカの女、と云っても海には女がいないが、したがってつまり女というもの全体が海の男には見当がつかない。パンパンだか令嬢だか女全般について区別がつかないのである。しかし、この女のミナリは上等のようだ。香水の匂いもする。益々パンパンだか令嬢だか区別がつかないが、ただ一つ区別のつくことは西江葉子のような清楚な娘ではないということだけだ。葉子よりは年上らしいが、これまた海の男が目をみはるような美人であることはたしかである。

「ここが私のウチよ。だまって!」

 女は前後を見まわして人の姿がないのを見とどけると、門のクグリ戸をあけて左近を先に押しこんだ。住田嘉久馬の邸宅ほどではないが、これも立派な邸宅だ。

「ここで待っててちょうだい。裏からまわって入口の戸をあけますから」

 女は左近を待たせて闇の中に姿を消したが、やがて玄関に灯りがついて、女が入口の戸をあけた。彼を応接間へ通してイスをすすめて、

「ちょッと食べる物つくってきますから、待ってらッしゃいね」

「ボクは食事すみました」

「でも何かつきあってね。私、おなかペコペコなのよ。食べてからでなければお話もできないわ」

 女は立ち去った。その応接間には仏像があった。ほぼ等身大の仏像だ。その仏像を見ているうちに、左近はふと気がついた。例のバクダン・メモの中に仏像の話がでてくるのである。むろんこの仏像ではない。なぜなら、それは一尺八寸の仏像だからだ。その持主は仏像の中に秘密書類を隠しているのである。彼の妾の芸者だけがそれを知っている。しかるに意外にも住田嘉久馬がそれを知っているのである。ここがこのメモの圧巻の箇所で、住田がこの人物の秘密書類の隠し場所を知っているということは、要するに秘密の全部、秘密書類の全ての内容をほぼ知りつくしているということを言外に匂わしているからだ。発表されたメモを読んで慌てて隠し場所を変えてみてももう手おくれだと嘲笑している。

 仏像のどこにどのような仕掛けがあって物を隠せるのかそれはメモに書かれていないから左近も知らないが、なるほど秘密の隠し場としては面白い。左近は応接間の仏像を調べてみたが、この仏像にはそういう仕掛はなさそうだ。もっとも素人にたちまち見破られるような仕掛では秘密の隠し場所にもならない。

 三十分あまり待った。するとこの邸の門外にざわめきが起り、数名の人がどやどやと邸内へ乱入したのである。

 さてはいよいよ追手が来たな、と左近は思った。女の追手か、自分の追手か。自分の追手ならずいぶん手数のかかるワナをはるバカだ。たかが一介の漁師相手だもの、いきなり取りまいてぶん殴ればすむ話ではないか。

 追手はドヤドヤ家の中まで乱入した。応接間のドアがあいて、立派な紳士が彼の前にヌッと立った。彼は左近を睨みつけて、

「キミは何者だね」

「キミは何者だ」

「云うまでもない。当家のアルジだ」

「ボクは当家の娘にたのまれて、ここまで送ってきた者だ」

「当家の娘はここにいる」

 男のうしろから若い女が顔をだしている。なるほどその男によく似ている。生意気そうな娘であった。

「その人の姉か妹だろう。台所で料理をつくっているから、きいてみたまえ」

 そこへまたドヤドヤと音がして、一人の青年が二人の女をしたがえて駈けこんできた。青年はいきなり男の前にバッタのように頭をさげて、

「申訳ありません。若い女の電話にだまされまして、それに迎えの自動車が来たものですから、つい電話を信用しておびきだされてしまいました」

「どんな電話だ」

「旦那様方のお車が衝突して皆さんケガをなさったから全員至急有楽町まで来いというお電話でして、有楽町で降されまして、どこできいても衝突のあった様子がありませんので、さてはとさとりまして」

 どうやら左近もさてはとさとった。女賊にだまされたらしい。左近はきいた。

「あなた方、門のクグリ戸をあけて入ってきましたね」

「当り前だ」

「クグリ戸があいたんですね」

「あかなければ入れない」

「してみると、女は逃げましたね。ボクらがクグリ戸から入ったとき、女はカンヌキをかけたんですから。仕方がない。警察へ電話をかけてボクをつかまえて下さい」

 左近はあきらめよく云ったが、しかし腑に落ちないことが一ツあった。それはなぜ女が左近をつれてきたかということだ。泥棒なら誰にも顔を見せずに忍びこむのが当然だ。わざわざ人に顔を見せるとは変な話ではないか。それとも用心棒のつもりだろうか。泥棒の用心棒とは珍しい。

 アルジは彼を残して姿を消したが、十分ほどして現れて、他の者を退席させた。

「キミの話をきこう」

 左近と向い合ってイスに腰を下した。左近は思わず苦笑した。

「あんまりバカバカしい話で二度とは云う気がしませんよ。警察でまとめて申しましょう」

「警察には知らせておらぬ。その女に心当りがあるからだ」


美人スパイ


 アルジは左近の話をきき終って、考えこんだ。案外物分りはよいらしく、左近の話を信用してくれた様子である。

「キミはその女の顔を覚えているね」

「覚えていますとも」

「二十一二の美人だろう」

「ま、そうですが、泥棒ならどうしてボクをつれてきたのでしょうね」

「それは賊の正体を知らせるためさ。賊が誰かと分れば警察に知らせないのを知っているからだ」

 左近は感服した。どうやらワケがあるらしい。あの女に何かを盗まれても仕方がないワケが。どうもしかし悪いめぐり合せで女のお見立てにあずかったのがバカバカしい。

「あなたが吉田サンですか」

「なぜだ」

「ボクに吉田サンと呼びかけましたよ、その女が」

「キミがイギリス人ならミスター・チャーチルと呼びかけたかも知れないさ」

 アルジは冗談を云って苦笑した。奇妙な賊に見舞われた直後にしては、落付きのある人物だ。彼は鋭い眼で左近を刺すように見つめながら、

「キミを男と見こんでタノミがあるが、この女賊に盗まれた物を取り返してもらいたい」

「理由が分れば取り返すかも知れませんが、ボクは警察へつきだされて話がわかってキレイになるのが何よりですね」

「キミは現在の東京が往年の上海だということを知らないようだね。世界の各国から腕ききのスパイが寄り集っているのだ。不幸にしてキミが片棒かついだ盗難の品はそれに関係があるものだ。すでにその品物は女賊の手からある人物の手に移っているだろう。その人物が各国のスパイと取り引きをはじめる。外国の手に移ってしまえばそれまでだ。その人物の手もとにあるうちに取り返さなければならないのだ。これがキミの役目だね」

 娑婆には思いがけないことが有りすぎるようだ。物に動じぬ左近だが、いささか娑婆の目まぐるしさに当てられ気味だ。あの女がスパイとは。なるほどスパイが美人とは物の本に読んだ覚えがあるが、その当人に片棒をかつがせられたとは光栄の至り。どうやらこの実録はバクダン・メモと強盗一代記の中間ぐらいの実力がありそうだから、今度こそ大竜氏も出版してくれるかも知れないが、しかし、そのためには女賊の盗んだ品を盗み返す必要がある。片棒かつがせられただけでは話にならない。しかし、泥棒は苦手であるから、さすがの左近も閉口した。

「要するにその仕事は泥棒らしいね」

「取り返すのだ」

「泥棒にはちがいないでしょう。泥棒しないで取り返せるのは警察だけだから、そこへまかせなさい」

「警察へまかせられるならキミに頼みはしない。知られてはこまるのだ。この盗難を知っているのはキミだけだから、あえてこの役目をキミに果してもらうのだが、キミを脅迫したくはないが、キミの返答次第では命をもらう必要も生じるかも知れない。つまり、それほど重大な秘密なのだよ」

 なんとなく情味と威厳のこもった言葉だ。非常に口が達者な人物のようだ。左近が泊りこんでいる網元もこんな口の達者な親方で、泣き落すのと脅かすのとの中間ぐらいの適当な言葉で野郎どもを働かすのに妙を得ている。このへんは海もオカも同じようなものらしい。

 左近にはどうもこまった悪病があった。住田嘉久馬と同じように、なんとなくムラムラと実録をメモリたくなる文学癖があってこまる。かの美人スパイとの腕くらべなぞは文学的興味をそそってこまるのである。

「どの程度の泥棒ですか」

「あるいはバクダンを仕掛けて金庫を爆破する必要があるかも知れないね」

 甚しく文学的興味をそそる御返事だから、左近は思わず相好をくずした。これには物に動じぬらしいアルジも薄気味わるそうな顔をそむけた。

「金庫を爆破すれば、ボクがつかまるでしょうが」

「そこを適当にやるのだ。キミの身体なら、できそうだ。殺してはこまるが、二三人適当に眠らせる必要はあるだろう」

「天下のお尋ね者だね」

「万一の場合の用意はぬかりがない。キミの生涯の安全はまちがいなく保障する」

「どんな風に保障しますか」

「キミが承諾してくれれば、その方法を指示する」

「ついでに女の住所姓名を教えて下さい。腹の虫がおさまらないから」

「それだけは教えられない。また恐らく誰もそれを突きとめることはできないだろう」

「それほど神秘的ですか。あのマタハリが。なアに、ボクが突きとめて見せますよ。ツラの皮をひンむいてやろう」

「キミの見ることのできない世界がこの東京にはあるのだね」

「その文句が気に入ったね。よろしい。しからば彼女の盗んだ品を盗み返してあげましょう」

 そこで左近は改めて先刻さっきの青年に紹介された。そのカリの名を千葉とよぶのである。アルジのカリの名は神奈川、左近のカリの名は山梨と定まった。左近は明晩八時に某所で千葉ウジと会い、そこで金庫爆破や適当に眠らせる品々などを受けとって目下盗品の在る場所へと案内される手筈になった。作業が不手際に終って天下のお尋ね者になりかけた場合の逃げ先などはそのとき指示をうけることになっている。まんまとマタハリクンにおびきだされた千葉ウジが相棒でその指示に従うとなってはタヨリないことおびただしいが、山梨ウジもまんまと片棒かつがせられたトンマな点甲乙ないから文句も云えない。

 なんともシャクにさわってたまらないのはマタハリクンであるが、本気で憎みきれもしないのは、敵の手際があざやかすぎたせいかも知れない。


白雲荘の怪


 どうせ実録をメモって大竜氏の高評を乞うことになろうと予定しているから、左近はクッタクがない。今晩の爆破計画に至るまでシサイに葉子やタコスケに語ってきかせたのである。大竜氏は商用と、ぶん殴られから身をまもることを兼ねて、関西へ旅行にでていた。葉子とタコスケが目をまるくしておどろいたのは云うまでもない。

「本当かい? その話。信じられないや」

「私も信じられないわ」

「信じてくれない方がいいね。ボク自身も信じたくないんだよ。バカバカしい話だからね」

「そのアルジの本名はなんてのさ」

「要するに神奈川氏だな。帰るとき表札を探したが、でていないね。白雲荘という看板のようなのが門にぶらさがっていたよ」

 その日の午後、印刷のことで打ち合せの必要があって、葉子は氏家印刷へでかけた。その戻り道に白雲荘を探してみると、それが確かにあったのである。

「白雲荘ッて、どなたのお住いでしょうか」

 葉子はその近所のタバコ屋や何かで訊いてみたが、誰も知る者がない。誰かの別荘で、ふだんは留守番ぐらいしか住んでいないようだという話であった。

 附近を訊きまわって葉子が再び白雲荘の門前を通りかかったとき、一台の高級自動車がスルスルと滑って来てその門前へピタリと止った。中から降りたのは洋装の美人である。何かで見たようだと思ったが、見定めるヒマもなく女はクグリ戸から消えこんでしまった。高級自動車は戻って行く。中年の運転手一人。同乗してきた人はいない。葉子は自動車のナンバーを頭にシッカと書きとめた。女優だろうか。歌手か何かだろうか。どこかで写真を見かけた顔のような気がするのだ。そしてそれは左近に片棒かつがせたという女賊の面影に通じるものがあるような気もしたのであった。

「左近さんのお話は本当なのだ。あの女の人が女賊かしら? そうだとすると、どういうことになるのだろう。自動車は戻って行った。白昼自動車を横づけにして……」

 葉子の頭は混乱した。とにかく急いで戻らなければならない。あまりにも異様すぎる。左近の身に何か危険が迫っているような気がする。海のことしか知らない左近は葉子にでも気がつくような平凡な人生にすら不案内かも知れないのだ。駈けこむように大竜出版へ戻った葉子は、

「白雲荘は実在したわ。昨夜ゆうべのこと、もっとよく教えてちょうだい。近所の話ではふだんは人の住まない別荘なのよ。ところが私が門前にいたとき、緑の高級車が横づけになって美しい女の人がクグリ戸をあけて邸内へ消えたのよ。あなたの女スパイッてどんな人? 五尺二三寸のスラリとした人じゃない? 女優のように美しい人」

「五尺二三寸のスラリとした人か。ま、そんなふうだな。女優のような美しい人か。ま、そんなところかな」

「おかしいじゃないの。その人が白昼自動車でのりつけるなんて。ね、だから私はこう思うのよ。その女賊って人があの別荘の本当の主人じゃないのかしら。その人があなたに云ったように。そしてドヤ〳〵のりこんできた人たちがその人の敵じゃないのかしら」

「ウーム。それは思いつかなかったなア。なるほど、それもあるかも知れないが、しかしだね、彼女がクグリ戸にかけたカンヌキが外れていて一同がそこから悠々乱入したのはどういうわけだろう。その前に彼女がそこから逃げている証拠に相違ないと思われるが」

「そこが変ねえ。じゃア彼女が白昼堂々と自動車を乗りつけたのは?」

「それを彼女ときめちゃうから変なんだ。彼女かどうか知りもしないで」

 とタコスケがズバリと一言急所をついた。三人のうち最も冷静なのはタコスケなのである。紙芝居の推理眼で育ったタコスケ、街のタンテイの素質がある。

「自動車のナンバー調べる方法ないかしら。どこかで見たような顔だわ。どうしても思いだせない。夏川さん、似てる人、思いつかない?」

「映画を見たこともないから」

「ねえ、夏川さん。スパイ事件が警察に知られてこまるのは盗まれた物が秘密の物だからでしょう。犯人が女賊でなくとも届けることができないはずよ。してみれば、夏川さんがまきこまれる意味はなくなると思うのよ」

「それが何よりフシギだね。ボクにもそれが頭にからみついて放れないが、あの女をとっちめてやるには、この事件にまきこまれてみるより仕様がないからね」

「第一だね。ふだん留守がちの別荘にそんな国宝的な秘密の品をおくのはおかしいね。ボクの推理によれば、これには深刻なるカラクリが隠されてるね」

 タコスケがまた名タンテイのウンチクをかたむけてみせた。

「だからさ。ボクの意見としては、夏川さんが女に仕返しするんだったら、白雲荘を監視する方が近道らしいや」

「ま、いいさ。まかしておきたまえ。ボクに爆破させるのが誰の金庫でどんな品物だか、それを見とどけるのが何よりの近道だよ」

 左近はギリギリのことを考えているのである。海の男にこう落付かれてはどうにもならない。二人がとめるのもきかず、タコスケの臨時の宿直を願って左近は八時に約束の場所へでかけてしまったのである。


緑色の高級車


 午後七時四十五分。銀座裏の飲食店街にある中華料理芳々亭の隅のテーブルにただ一人、今しもワンタンメンを食べ終ったのは西江葉子であった。ここが午後八時左近のいわゆる都内某所に於ける千葉ウジとの会見場所だ。葉子は大胆不敵にも二十分も前からここへ来て待っている。もっとも、待つ人は左近ではない。葉子の兄の西江洋次郎である。七時三十分にここで落ち合う約束だった。

 葉子はふだん洋次郎とは往来していなかった。なぜなら洋次郎は母親泣かせで、母親の言葉で云えばフハイダラクした人物だったからである。彼はキャバレーの女性と同棲し、彼女の働く店でボーイ頭のような仕事をやっていた。腕ッ節は強いのである。

 葉子は最後のドタン場で左近の「犯罪」を阻止する決意をかためていた。しかし一人では心細いから、兄の店へ駈けつけてひそかに応援を頼んだのだ。洋次郎は七時半にここへ来てくれることになっていたのである。

 午後七時四十六分。芳々亭へはいってきた洋装の美人があった。一直線に葉子のテーブルへ進んで行った。頭をあげた葉子はその女を一目見て声をのんだ。昼間白雲荘で見かけた女だ。

「覚えてらしたのね」

 女は親しみをこめて笑った。しかしすぐ真顔にかえって、

「夏川さんが危険なのよ。悪物のワナにかかってひどい目にあうところなの。すぐに、急いで」

 女は葉子のテーブルの伝票の上へポケットからつかみだした千円札を一枚ポイと投げ重ねて、葉子の腕をとるようにしてせきたてた。葉子は考えるヒマもなかった。女と一しょに外へ出た。露路をまがって並木通りへでると、例の緑の自動車が待っていた。二人が乗りこむと車はたちまち走りだした。

 七時五十分。背の高い青年が芳々亭へ現れた。洋次郎である。彼は葉子の去った反対側の露路を通って来たのである。給仕女をとらえて、

「二十ぐらいの娘が一人で来ていなかった?」

「お見かけしませんでした」

「二十分ぐらい前にいたはずだが」

「お見かけしませんでしたよ」

「そうかい」

 洋次郎は援助をもとめにきた葉子と七時ごろキャバレーの前で会って七時半の会見を約したのだ。彼のキャバレーから芳々亨まで歩いても五分ぐらいの距離しかない。七時半にボーイたちにあとをたのんで出ようとすると、マスターによばれた。用があって十分ばかり、出てくるから戻るまで留守番をして電話その他の用をたのむと云いつかったのである。マスターが戻ってきたのは七時四十五分であった。

 葉子が来ていないとはフシギであるが、夏川左近という人物が千葉ウジなる人物と会見するのは八時だというからそれまでどこかで様子を見ているかも知れない。洋次郎はフハイダラクしているが、葉子は彼のひそかに自慢の妹だった。バラのように香り高く、水仙のように清らかで、高い品性と知性にみちているのだ。フハイダラクしている故に、妹を誇りやかに思う慈しみが一層強かった。

 七時チョッキリに千葉ウジが手さげカバンをぶらさげて現れた。一番おそかったのは左近である。仕方がない。海の男が銀座八丁の中から一軒の中華料理店を見つけだすのは大仕事なのだ。八時三分だった。芳々亭の扉を排して現れた左近は店の中を見まわした。そのときである。向いのシルコ屋から飛びだしてきて、左近の腰にタックルするように飛びついた小人があった。タコスケである。彼は叫んだ。

「グズグズしてちゃアいけないよ。葉子さんが誘拐されちゃったじゃないか」

「誰に?」

「例の女だよ。例の緑の自動車へ葉子さんを乗っけて行っちゃったんだ」

「追わなかったのか」

「聞き覚えのナンバーの緑の車を見てハッとした瞬間なんだよ。葉子さんが女に押しこまれて走りだしたんだよ。しかしね。ボクの親友の円タク運チャン、ミスター三郎が追跡しているから、行先はやがて分るよ」

 その時はもう千葉ウジの姿はいずこともなく消え失せていたのだ。思わずタコスケの前へ駈けつけて、歯をくいしばって二人の話をきいていたのは洋次郎であった。彼は歯を噛みくだきそうな形相で、思わず呻いた。

「しまった! はかられたか。よし、行こう。キミはタコスケだね。キミは左近クン。知ってるよ。オレは葉子の兄の洋次郎だ。葉子にたのまれて来たのだが、残念! 一足おそかった!」

 三人はひとかたまりに、とびだした。


敵か味方か


 同じころ、すでに都心をはなれた淋しい道を走っているのは葉子と謎の女をのせた自動車であった。女は葉子の親しい友だちか姉のようにやさしかった。

「もうお分りでしょ、行先は。白雲荘よ」

 葉子はうなずいた。そして、きいた。

「あなたは、どなたなの?」

「白雲荘の女主人よ。女スパイなんかじゃないわよ」

 女の笑顔につりこまれて葉子も思わずほほえんだが、そのとき運転手が女に目くばせしてバックミラーを目で示したのに気がついた。誰かが追跡してくるらしい。

「私ったら、誰かに追跡されるタチらしいわね」

 女は平然と笑っていった。左近の時とちがって今日は自動車に乗ってるせいか、落ちついている。

「夏川さんは白雲荘にいらッしゃるのですか」

「いいえ。白雲荘で悪者のタクラミをくつがえす計略をねるんですけど……変ね。追跡の自動車、ずいぶん接近してきたわ」

 まったく甚だ不遠慮に接近してきた。三十メートルぐらいの距離だ。そして緑の自動車をヘッドライトで遠慮なく照す。女は平然たるものだ。それは悪い事をしていないアカシのようにたのもしくはあったが、葉子はまだ気をゆるすわけにいかないのである。

「安心してらッしゃい。私がついていますから」

 葉子はそれにうなずく代りに、

「どうして夏川さんや私の名まで知ってらッしゃるんですの?」

「知るわけがあるんです。いまに分りますよ。私はあなた方の味方よ」

 しかし女はついに追跡の自動車にたまりかねたらしい。美しい顔をビリビリとケイレンさせて、運転手に命じた。

「とめてちょうだい。そしてね。なぜ追跡するのか、きいてちょうだい」

 緑の自動車は静かに止った。新しい高級車だから大そう滑りがやわらかで、葉子の乗りなれたバスや円タクとは乗心地が天地の差であった。追跡の車はぶつかりそうになって止った。葉子がふりむいてみると、追跡の車の助手台から降りたのは、顔見知りの人物だ。タコスケの牛肉店に働いている若い衆の安サンである。運転台から降りてきたのは牛肉店の隣のガレージの運ちゃん三郎であった。両名、ボロタクの両側に降り立って、一方が攻撃されたら一方が応援に馳せ参じるマンマンたる闘魂を示している。それを見ると、葉子は女に向って急いで云った。

「私の見知りの人たちですわ。あなたの運転手とめてちょうだい」

「あら、そうなの。大丈夫よ。私の運転手、平和主義者だから。どうなさる。あなた、あの車で帰りたい?」

 葉子はうなずいた。さすがに大きな声で云う力はなかったが、

「夏川さんは白雲荘にいらッしゃるんじゃないんですもの。夏川さんのいらッしゃるのは、どこなんですか。そこへ行きたいのです」

「そこは女だけでは行けないところです。危険な場所よ。でも、いいわ。あなたはあの車で帰りなさい。夏川さんは私がきっと助けだしてあげますから。まだ四時間半ほど間があるから、安心してらッしゃい。そしてね、どんな場合でも私を疑らないようにね。あなた方の本当の味方は私だけよ」

 女はドアをあけて葉子を降した。そのとき運転手が不キゲンな顔で戻ってきて、

「ケンカ腰ですよ。ずいぶん礼儀知らずの連中で、こッちを誘拐犯人扱いしてるんですよ」

「もう、いいのよ。葉子さんがよく説明してくださるでしょうから。じゃ葉子さん、ゴキゲンよう。安心してらッしゃいね」

 葉子とボロタクを残して緑の自動車は立ち去ってしまったのである。

「あの車、私たちの味方なのよ」

「そうかねえ。もっとも、こちとらは何が何やら話の筋道がまだ飲みこめねえ最中なんだがね。タコスケの奴、せきたてるばッかりで、何が何やら分りゃしねえや」

「タコスケさん、どうしたの?」

「銀座にはりこんでる模様ですよ。奴は生れつきタンテイのマネが好きなんだ。むやみに張りきって仕様がないよ。ガソリン代の貸しだって去年から六千円もあるんだぜ」

「女の人のお顔みた?」

「チラッとね」

「どこかで見たような気がしない? 映画女優かなんかに」

「そうだねえ。なんとなく、そんな顔だね」

「タコスケさん、どこで待ってるッて云ったんですか」

「大竜出版で落ち合う約束でね。落ち合えなくとも黒板でレンラクの約束さ。奴はそのへんのこと、キチンキチンしてやがるよ。ああ張りきられちゃアかなわねえや」

 大竜出版へ戻ると、ちょうど左近とタコスケと洋次郎がひとかたまりに駈けこんできたところであった。


その名は玉子


 各人各様の情報をヒレキしあってみると、事態は危険であり、また甚だしく奇怪の様子であった。さすがにそれを的確に見てとっているのはフハイダラクしているだけに洋次郎であった。彼はウロンげに目を光らせて、

「葉子の話とは食いちがうようだが、その女こそ敵の親分的存在かも知れないね。葉子が女に連れ去られるについてはボクが時間におくれる必要があるだろう。マスターの奴、七時四十五分までボクに留守番させたのは女の方とレンラクがあってのことにきまってる。銀座のキャバレーなんてのは白雲荘的な伏魔殿と密接なレンラクがあるのが当然なんだ。ボクだって仲間にたのまれて、それに似たことは、やりつけてるんだよ。第一、左近クンの話の様子では昨夜ゆうべの女が白雲荘へ行けるはずはないじゃないか。白雲荘の女主人なんて大ウソだ。あるいは女主人かも知れないが、彼女が女主人なら、昨夜白雲荘のアルジを自称した連中とグルでなければ話が合わないよ。女の顔をボクが見れば化けの皮をはいでやることができるかも知れないが、しかしだね、ウチのマスターをうごかすことができるような組織だと、とてもボクくらいじゃ歯がたたない相手らしいね。そしてタクラミの根が意外に深く大きいらしいよ。左近クンに金庫を爆破させて盗み取ろうとした物はよほど重大な何物かだね。タコスケがあんな慌てて駈けこまなければ千葉ウジが相当に具体的な何かを左近クンにもらしたかも知れないが、事情が事情だからタコスケを咎めるわけにもいかないがね」

「チェッ! 誰より血相変えたのはお前じゃないか」

 とタコスケが赤くなって怒ったのは名タンテイの誇りを傷けられたせいらしい。

 左近も千葉ウジをとり逃したのは残念だと思ったが、洋次郎の話では給仕女が葉子なぞは来ていないとシラを切ったというから、ここも伏魔殿の出張所で、とうていここで千葉ウジを捕える見込みがつかなかったことは察せられるのである。

 しかし左近は女も敵の一人だということを洋次郎のように割りきる気持にもなれなかった。この娑婆は海の底よりもよほど複雑怪奇にみちているらしいから、女主人が敵の土足のジュウリンにまかせて自宅から退却したり、翌日はまたノンビリと自宅に戻っていることができたりしても、これは戦争にだってよくあることだから必ずしもフシギだとは云えない。要するに彼女の味方のエンゴ射撃が鞏固きょうこな時には自宅に戻ってノンビリできるのが当然なのである。

 しかし、女が夏川左近の名を知っていたのは、なぜだろう? 東京のあらゆる住人の名を知っていても、彼の名こそは知られないのが当然なのである。これが何よりのフシギだ。そして左近を助けるとはなぜだろう? つまり自分が左近をマキゾエにしたために彼を危険にさらすことになったから助ける義務があると考えているのだろうか。それなら話が分らないことはない。しかし、その意味で助けてくれるつもりなら、そして名前を知っているなら、大竜出版へ名乗りでて事情を明かにすべきではないか。単身敵地へ乗りこんできて芳々亭から葉子を連れ去るよりは、その方がむしろ安全のはずだ。このへんのところが不可解である。しかし、どういうわけか、左近はこの女を憎みきるわけにいかなかった。

「女が敵か味方かはどうでもいいようだね。とにかく白雲荘という女の住居が分っているのだから、乗りこんで訊いてみるのがいいようだな」

 左近がこう云うと洋次郎は呆れ果てて、

「貴公は海の底しか知らねえらしいな。神奈川ウジなる人物が貴公に名言を説いてるではないか。東京は往年の上海だ、とね。まさにこれが真実なんだ。ボクなんぞはまさに上海のチンピラさ。白雲荘へ乗りこんだが最後、キミの足跡はそこで永遠に消えてしまうのさ。夏川左近なんて漁師が東京のマンナカで消えてなくなったって誰も騒ぐはずはないね」

「東京はそんなところかね」

「東京が昔の上海だと知ってる者だけがその恐しさも身にしみて知ってるのさ。ボクの言葉を信用したまえ。とにかく今は味方だよ」

「分りました。まもりますよ、お言葉を。まるで東京は戦場だね。ボクはもう戦争には行きたくないからな」

 左近はこう云ったが、その戦場が特に怖しいわけでもなかった。しかし永遠に足跡を消してもらいにわざわざ出かけるにも及ばない。だが、どうも、敵のコンタンがのみこめないのだ。自分が倉庫を爆破して奪いとるはずの物は何物であったか。それを命じた神奈川ウジは何者であるか。それを考えると甚だ寝ざめのわるい心持だ。そしてまた胸クソわるい心持もするのである。要するに腹もたつし、イヤな気持だ。

「神奈川ウジが何者で、爆破するはずの金庫がどこの金庫で、その中の品物が何であったか知る方法はないものですかね」

 左近がこうきくと、洋次郎は困ったように顔をしかめて、

「それなんだよ。知らずにすめば、むしろその方が我々にシアワセなのだ。ひょッとすると、否応なくそれを知らなければならないとこまで追いこまれるかも知れないぜ。そのときは我々一党、命がけの問題さ。そこまで追いつめられる危険が多分にありそうな気がするのだが、そのときは命あっての物ダネだから、アッサリ手をあげる分別がカンジンさ。特に女、子供はね。桑原々々」

 洋次郎は特に妹のために心痛しているらしいが、そのへんは上海人もなんとなく殊勝である。左近も自分の片意地によって人々に迷惑を及ぼしてはならないということを何より深く自戒する気持が生じた。

「今度のことは全くボクから生じたことだから、皆さんに迷惑が及ばないようにどんなことでもしたいと思っていますが、その方法にはどんなことがよろしいかね」

「そのことは相手の出方を見る以外に仕方がない問題だね」

「しかし葉子さんが再び誘拐されでもすると万事手おくれになりゃしませんか」

 その問題はさすがの洋次郎もたまらないのである。軽率に返事もできなくて、沈痛な面持で考えこんでしまった。

 しかし葉子が先刻さっきから一言も発せずに考えこんでいるのは、自分の命の問題なぞではない。謎の女の顔なのである。たしかに何かで見かけたことのある顔なのだ。敵でも味方でもかまわないが、とにかく女が何者であるか、思いださずには居たたまれない焦燥を感じる。有り合せの雑誌を探しだして、女優、歌手、ダンサー、ミス何々、当てもなく女の写真を追ってみるが、どれでもない。しかし、どこかで見た顔だ。

 彼女はボンヤリ一冊の綴じこみをとりあげた。手近かには、もうそれぐらいしか本がない。ほぼ諦めて習慣的に写真の顔を追っていた葉子が思わずアッ! と大きな声をだした。

「この人だわ! あんまり手近かなところだし、それにいつも和服の写真でしょう。だから分らなかったのよ!」

「手近かなところッて、近所の人?」

 タコスケがせきこんできくと、葉子は高々と一同に綴じこみを示して、

「バクダン・メモ関係の綴じこみよ。その人の名は、玉子! バクダン・メモの花形芸者、玉子サンよ。絶対に、そうだわ。夏川さん、見てちょうだい」

 左近はその写真をジッと見た。女の顔を見わけるのは苦手だが、十マイルさきの潜水艦を見わけるコンタンと闘志をかためて睨みつづけた。フシギや、マンマンたる自信をもって鑑定に成功したのである。彼は静かに断定した。

「たしかに玉子にまちがいありません」


洋次郎のたのみ


 四日すぎた。住田嘉久馬の再校がでないので、左近は用がない。けれども、葉子の身にもしものことがあってはとの懸念から、玉子や白雲荘のことは忘れることにしていたのである。商用の旅から戻った大竜は再校がでないのに業を煮やして、しきりに電話で催促するがラチがあかない。たまりかねて住田嘉久馬に面会を求めたけれども、居所が分らぬという返事である。住田の事務所へ押しかけて行ったが、ここでも居所不明という返事にすっかり腹を立てて、

「明日は自分らで再校して紙型をとっちまうんだ。遊んでたんじゃ商売になりゃしない。明日から出動だぜ」

 と一同に云いのこして去った。それから葉子が夕食をこしらえる。三人で食事を終えてから葉子はタコスケの家へ帰るのだ。なぜなら、一件以来、葉子はタコスケの家へ泊ることになったからだ。

 葉子らと入れちがいに顔をだしたのは葉子の兄の洋次郎であった。

「キミにたのみがあって来たんだけど、キミ、海へ戻ってくれないかなア」

 左近に顔を見つめられると、彼は困って、うちしおれた。

「キミが東京にいると、困ったことになるんだよ。ボクは脅迫されてるんだ。キミを海へ帰しゃいいんだよ。さもないと、次から次へもっと困ったことを脅迫されるのでね。妹の身にも危険が及ぶかも知れない。キミさえ東京から立ち去れば、万事すむんだよ」

「ワケがわからないね」

「ワケなんかわかってくれない方がいいんだよ。ボクにもワケはわからないが、この命令はのッぴきならぬものなんだ」

「誰の命令?」

「誰のだか分らないよ。だが、その命令をボクに中継するのはボクのキャバレーのマスターだ。つまりボクはこの事件にかかりあったためにこの脅迫や命令に従わざるを得ないことだけハッキリしてるんだ。それがボクらの世界の掟だね。キミが穏便に立ち去ってくれればボクも助かるし、結局この店や妹のためにもなるのさ。ここに旅費があるから。この通り、たのむ」

 洋次郎は金一封の封筒を机の上へおいて、両手をついて頭をさげた。十日ほど前には、洋次郎の今いる場所で大竜が手を合せて拝んだのを思いだして、左近は変な気がしたが、洋次郎が全然うちしおれているから、なんとなく気の毒な気持にもなった。

「タノミをきいてあげたいが、ここの社長にも同じようにたのまれたのでね。引受けた以上はボクの一存ではどうにもならないね」

「キミが東京から立ち去るのが社長のためにもなるのだよ。それを理解してくれたまえ」

「ボクが理解する必要はない。社長が理解してくれさえすればね」

「社長が了解すれば海へ戻るね」

「むろん、戻る。しかし、キミが社長を脅迫しての了解なら、海へ戻ることはできなかろうよ」

「ひどい侮辱だなア。それも仕方がないが、妹の味方の人々に悪いことをしたくないのがボクの一念なんだ。じゃア、明日の正午に、東京駅の八重洲口で待ってるぜ」

「いまからその返事はできないね」

「きっとキミもきてくれると思うよ。ボクの気持にもなってくれたまえ。妹の身にもしものことがあってはと心配でたまらないのだ」

 洋次郎は左近が返した金一封を残念そうに受けとって、泣き落しの一言をつけ加えたが、にわかに思いだした様子で、ポケットから一枚の夕刊をとりだした。

「これ読んでみたまえ。キミ自身には思いがけないことがキミをとりまいているらしいのが分るぜ。なんのことだかボクにも正体はつかめやしないが、とにかくキミは思いがけない理由で、思いがけない敵を幾組となく背負しょってしまったらしいぜ」

 それは田舎者の左近が名を知らなかった夕刊新聞であった。四段ぬきのミダシで、

「玉子行方不明。生死を案ぜらる」

 とある。拘留中の大石弁造の証人として訊問をうける予定の愛妾玉子が数日来行方不明のことが分り、当局を狼狽させてるという記事である。数日前の宵の口にジャンパー姿のヨタモノらしい若い男に腕をとられて連れ去られるのを見かけたのが最後で、それから行方が知れないから、当局ではジャンパー姿の若者を追及していると結ばれていた。

「ジャンパー姿の若者とはキミらしいぜ。え? キミは得体の知れない悪漢一味からも、警察からも、思いがけない理由で追及されているのだ。世の中って、こんなものさ。キミの潔白はキミが信じることができるだけのものだぜ」

「大石弁造はボクに金庫の爆破を押しつけた人だね。そして、たぶんキミを脅迫している張本人だろう」

「どういうワケで?」

「白雲荘の主人らしいからだ」

「どうして?」

「玉子のダンナだからさ」

「キミは新聞を読んだことがないらしいな。大石弁造は三週間も前から拘留されているのだよ。それに、白雲荘の持主が誰にしろ、その当人がキミに顔を見せるはずはなかろうさ。白雲荘の主人と名乗った人物は、キミが再びめぐり会うことができないような名もない陰の人物だね。それが裏街道の常識だよ。張本の大物がキミに顔をさらすことはありえないものさ」

 なるほど、と考えこんだ左近を洋次郎はいたわり顔に見つめて、

「とにかく、キミが東京にいると、妙に忙しくなるばかりらしいね。だから、妹の身のためにも、よろしく、たのむよ」

 と洋次郎は二ツ三ツ余分に頭をさげて、立ち去った。すると、それと入れ代って姿を現したのは葉子とタコスケだ。タコスケはニヤリと笑って、

「ボクらが出るのを待ちかまえて彼氏が店内へはいるのを見のがすようなタコスケ探偵じゃないからね。暗闇でアリの這うのも見のがさないという原子眼だ」

「なんの話?」

 葉子は心配顔だ。

「海へ帰れとたのまれたのですよ」

「脅迫なのね」

「気の毒なほどうちしおれてのタノミなのです。脅迫されてるのはあの人の方ですね。誰とも分らぬ人物に、ボクを海へ帰せという命令をうけてきたのです。キャバレーのマスターの中継でね。もう組みが終っていることだし、ボクが今さらいなくとも本の発行にさしつかえがないような時になって、妙な話ですよ。もともと一介の漁師ですもの、ボクにはなんの力もありません。ボクの存在が誰かの邪魔になるような大それたものでないことはハッキリしているはずですが、人生とは当人には思いがけないものだというのがあの人の説です。その一例がこの記事だということですが、なるほど、思いがけないことは確かです」

 二人はそれを読んでしばし呆れはてていたが、タコスケはめまぐるしく眼力をはたらかした後に、

「玉子の居所を知ってるということが夏川さん敬遠の理由ではない。なぜならば、葉子さんもタコスケ氏もそれを知っているからである。特にタコスケ氏のタンテイ眼をあなどるのはワケがわからないな。してみるとタカの知れた敵だね。それで夏川さんは、なんと返事したんですか」

「明日の十二時に東京駅の八重洲口で待ってるそうだ。社長が海へ戻ってよろしいと承知すれば戻るよ」

「なぜさ」

「ボクが東京から立ち去らなければ、あの人は次から次へとさらに困ったことを脅迫されるそうだ。そのあげく社長や葉子さんの身にも危険が迫るそうだよ」

「敵もボクには手がだせないらしいね」

「私のことなら平気だわ」

 葉子はいささかなじり気味だ。

「だってね。私たち、他人ひとから危害をうける覚えが身にないんですもの。私は誰も怖れないわ」

「危害をうける理由は一ツあるね。つまり今回の出版さ。敵は夏川さんを買いかぶっているらしいよ。つまりさ。夏川さんをこの出版に絶対必要の用心棒ぐらいにふんでるらしいや。トンマな奴なんだね」

「出版は私たちの職業ですもの。人を怖れることはないわ。途中でよして海へ帰るなんて反対だわ」

「夏川左近もヤキがまわったらしいよ。ボクがヤキをいれてやるから、一ヵ月ほどボクに見習って修業しな」

「海の男はシケを怖れないが、オカが怖ろしいのだよ。甚だオカは物騒だ。キミたちの生一本なのも尊いが、怖ろしいものを怖れることも大切だよ。社長がボクに用がないというなら、ボクはよろこんで東京を逃げだしたいや」

 左近はバカのようにカラカラ笑った。そしてもうキミたちに用がないと云わぬばかりに大手をひろげてアクビをした。葉子とタコスケは無念の形相で彼を睨みつけていたが、葉子がタコスケをうながして、消えるように立ち去った。

 これでよいと左近は思ったのである。葉子の身に何かが起っては気の毒だ。吉野大竜にしても由々しい危険が身に及びそうな気配を見てとれば手をひきたくなるに相違ない。自分の離京が人々の役に立つなら、そうするに越したことはない。この出版に執着しなければならない理由は左近にはなかったのである。葉子のために手伝う気持になったようなものであるが、そして葉子が次第にこの出版に乗気になりつつあるのは確かであるが、それだけに葉子の身に危険の迫る率も増大しているようなもので、今となっては身をひくのが葉子のためだと左近は思った。葉子のこの出版への執着は乙女心の感傷と行きがかりにすぎない。自分がそッと身をひけばオカはナギの海のように静かになるのである。


再び緑の自動車


 ところが翌朝意外にも吉野大竜は早々とつめかけて、それ出動だと大そうなハリキリようである。左近はこれが東京最後の朝飯と冷たいメシにミソ汁をぶッかけて食っているところであった。

「まだ葉子さんもタコスケも来ていませんよ」

「どうせ二人は留守番だ」

「西江洋次郎という葉子さんの兄さんが訪問しませんでしたか」

「アア、来たとも。その男だよ、オレを怒らせたのは。タンカをきってやったんだ。やせても枯れても吉野大竜、ギャングの脅迫で仕事をやめるようなチンピラじゃアねえや、とな」

「そんなに偉いんですか」

「偉いとも。はばかりながら密輸船のアンチャンを失望させるような吉野大竜ではないね」

 大竜は左近の朝飯をせきたてて、二人はただちに氏家印刷へ向った。それを見とどけてソッと姿を現したのは葉子とタコスケ、二人の後姿を見送っていつまでも大笑いだ。そのはずである。昨夜ゆうべ二人は外へでると大至急円タクを拾って、洋次郎に先まわりして大竜を訪ね、洋次郎の企みを拒否させたのだ。大竜は小心ヨクヨクたるところもあるが、オッチョコチョイの勇み肌もあって、小さいのや女の子におだてられても気をよくしてのぼせあがる性分だった。

 氏家太郎は二人を迎えて、

「ちょうどよいところへ来てくれましたね。実はボクの方からお訪ねするつもりでいたのですがね。実はね。今朝はやばやと妙な女が来ましてね。ジャンパーを着て、こんな男がここにいないか訊くんですが、それがつまり、夏川君、キミらしいんだ。変だと思ったからそんな男はいないと追い返したんだが……」

「二十二三の美人で、洋装……」

「イヤ、そうじゃない。顔も洗わずにとびだしてきたような三十ぐらいの薄汚い女なのだ。なんの用だときくと、この新聞を見せてね、このジャンパーの男を探してるんです、玉子さんの家の者だと云うんだね」

 氏家がとりだして見せたのは例の夕刊だ。彼は左近を見つめて、

「キミ、こんなことをしたのかい。住田嘉久馬にでも頼まれて荒仕事をやったのかとボクもつい思ったのだが」

「話がアベコベなんですよ。実はこれこれで逆にボクが白雲荘というところへ連れこまれたのです。そのあげくに──」

 と左近は二日にわたる怪事件、ならびに昨夜、洋次郎がきて東京をひきあげてくれと頼まれたことに至るまで語りあかしたのである。

「玉子がキミを知るはずがないじゃないか」

「その通りです」

「しかし、たしかに知ってるね。そして玉子以外の人々も知っている。なぜなら、今朝ボクのところへ現れた女もキミを知ってるはずだからだ。してみれば、キミがこの出版にかかりあってる人物と承知の上の企みだね」

「そういうことになるようですね」

「キミはまた何だって金庫爆破にノコノコでかけたのだい?」

「爆破するかしないかは誰の金庫か見とどけた上できめるつもりでした。あるいは金庫の代りに千葉ウジをなぐり倒して戻ることも考えていました。もっとも、ピストルかなんか突きつけられて否応なしに爆破させられたかも知れませんがね。その時まかせのつもりでした」

「ボクも今朝までは別のふうに考えていたのさ。つまり住田がなかなか再校をださないのは、取引きしてるからだと思っていたのだ。それを高く売りつけて出版を中止するとね。もっともボクの方へちゃんと勘定を払ってくれればボクもそれ以上固執することはないわけだがね。しかし、今朝方の女のことや、キミの話をきいてみると、住田以外の誰かが、住田ぬきでこの出版を挫折させようと暗躍しているようなフシがあるね。すくなくともその人物が住田でないことは確実だ」

「しかし住田が再校をださないばかりか、この大竜に会ってくれようともしないのはフシギだねえ。この大竜は住田に男と見こまれて出版を托されたのだぜ。はばかりながらオレも住田を男と見こんで引きうけてやった人物だ。たがいにタダモノならずと相許している二人じゃないか。してみると、住田の行方不明と玉子の行方不明はいずれも真実で、誰かの魔手がのびているのかも知れない」

「今の世にはそんなこともあるかも知れないが、しかし、住田や玉子をかどわかして隠すというのは確実な犯罪で、容疑としての疑獄よりも不利だから、利口者がやることだとは思われないようですね。密輸船あがりの夏川君に金庫を破らせて日陰者にするのとはワケがちがうようです」

「さにあらずだ。キミは単純すぎるよ。今の世はそんなものではない」

「ですが、住田や玉子をかどわかす荒業ができるぐらいなら、ボクを海へ帰らせるのにペコペコすることはなさそうですよ」

「ザコを殺して大罪を犯すのは愚の骨頂だぜ。ザコはザコらしくペコペコするだけで追い出せるなら、うまいものじゃないか」

「なるほど」

「ま、余計なセンギはどうでもいいや。吉野大竜は出版屋だ。他日三十六階の大出版ビルを建設するこの大竜、問答無益だ。それ、我々の手で校了にして、紙型をとって、刷りあげちまえ。男と男の約束だ。大竜よくやったと住田嘉久馬がいずれオレの手を押しいただいて礼を云うぜ。わかっとる」

 大竜は印刷屋や製本屋でホラをふくのが何よりうれしい時間であるから、吹いて吹いて吹きまくりながら、その日はめでたく校了にして二人はいったん店へ戻ってきた。

 ところが店内で二人を待っていたのはタコスケと洋次郎だ。両者なんとも沈痛な面持で二人を迎え、タコスケは泣かんばかりに、

「氏家印刷へ電話したら一足ちがいに出たあとでねえ。ボク、こまったよ。ちょッとパチンコへ行ってる留守に、葉子さんが消えちゃったんだ。葉子さんを連れ去ったのは緑の自動車だと近所の人の話なんです。とてもすごい洋装の美人と一しょに緑の自動車でどこかへ立ち去ったというんですよ。それはむろん玉子ですよ。今日はまたパチンコがよくでやがるんだ。葉子さんをよろこばしてやろうと思ってやりすぎちゃってね。すまん。これで、カンベンしてくれよ」

 タコスケは両のポケットやズボンのかくしからキャラメルだのシャボンだのをゾロゾロとりだした。さすがの洋次郎も目に涙をためて、

「ボクの怖れていたことが、とうとう来ちゃったんだ。だから夏川君に素直に海へ帰ってくれと云ったじゃないか。夏川君がせっかく帰る気持になってくれたそうだのに、バカ大竜の大阿呆の大トンマのホラ吹き野郎が悪いのだ。葉子を返せ」

「吉野大竜は逃げも隠れもしない。なんたるボケナスだ、タコスケめ。わが社の浮沈をかけたこの日この時、パチンコとは何たることだ。だがなア。変ではないか。玉子はかどわかされて行方不明のはずであるが」

「行方不明というだけですよ。かどわかされてときめるのは考えものですね。かどわかした犯人がボクだときめてる慌て者もいるほどだから」

「どうも、それでは話があわない。住田と玉子は同一人物にかどわかされたに相違ない」

「アナタが話を合せないだけですよ」

「ねぼけるな、バカ大竜。葉子が緑の自動車にさらわれたという事実が目の前にあるんじゃないか。妹を返せ」

「待て、待て。吉野大竜は静かに考えてみるぞ。エエと。その自動車の女が玉子だという証拠があるか」

「トンマだな。キサマ。葉子が緑の自動車でかどわかされた事実があるのだ。自動車の女が玉子でなければ葉子をつれだすことはできないはずだ」

「ちょいとドライブということもある」

「バカ」

「吉野大竜は静かに考える。たぶん夕食をたべて戻ってくるかも知れんぞ。あの娘をさらっても一文の得にもならんではないか」

「ボクを脅迫することができるし、その脅迫に絶対服従させることができる。バカ大竜の首をチョン切ってこいと云われればそのトンマ首をチョン切ることは絶対だ。よく覚えておけ」

「してみると、そこにおいて、だ。キミがワガハイを脅迫するために玉子を使って葉子をかどわかしたという推定もできるぞ。ウム。それもある」

 とたんに大竜の小柄の身体が椅子をころがして壁の下へすッとんだ。洋次郎は大柄であるし、腕ッ節も強いから、怒りにまかせたその一撃をうけた大竜、ウームと時折うなるだけ。起き上る力もない。目を白黒して、ぶたれたところをさすっている。

 タコスケと左近はふきだした。同情の余地がない。味方の二人が笑いたてるばかりで手をかしてくれないから、大竜しぶしぶ起きあがった。

「吉野大竜は殴られて昏倒しつつも考える。実業家とはこういうものだ。今朝氏家印刷へジャンパーの若者をさがして行った女がいる。玉子の家人だ。してみれば彼女らはジャンパーの若者と玉子が腕を組んで消え去った行先、即ち白雲荘を知らないのだ。しかしてだな。玉子は行方不明であるから、その妾宅や旦那の私宅や別荘等の当然居るべき場所にいないのだ。したがって玉子の隠れている白雲荘は表面的には彼女とツナガリのない人物の邸宅だ。玉子はここに隠れておる。したがって、葉子もここにいるぞ」

 大竜は昏倒中の思索を示して威信の恢復につとめたが、玉子のいそうな場所といえば白雲荘と相場がきまっているのだから、誰もおどろく者がない。

「柳の下のドジョウだね」

 とタコスケまで軽蔑した。洋次郎はシャレや冗談にとりあっていられない。左近の片腕をいきなり握りしめて、

「キミは東京を立ち去ってくれ。葉子の行方を探したってムダなんだ。奴らの仕業は腕ききの名探偵や刑事でも嗅ぎつけるには骨の折れるものなのだ。キミが東京を立ち去れば自然に葉子は戻ってくる。キミがいま去れば今夜のうちに戻るだろう。キミがいるうちは葉子も戻らないし、ボクも脅迫されるばかりなのだ。な。たのむ」

「ああ、いいとも。キミは立派な兄さんだ。キミの云う通りにしよう。しかしだね」

 左近は洋次郎の肩を叩いた。

「まず葉子さんを返すようにはからってくれたまえ。そして葉子さんの帰宅を見とどければ、ボクはその場から東京駅へ行こう」

「こまるなア。キミは彼らを知らなすぎるよ。いったん彼らが行動にうつった以上は、五分五分じゃア取引きはむずかしいよ。キミの立ち去るのが先でなければオイソレと葉子を返してくれないね」

「ボクの在京が誰にそれほど邪魔なのだろうね。ボクが立ち去れば葉子さんが返されるというワケが分らないから、キミの言葉だけじゃ信じられないのだよ。葉子さんが戻るまではボクは東京を立ち去るわけにいかないよ。キミでダメなら、ボクは自分で必ず葉子さんを探しだして取り戻す。それまでは海へ戻らない」

「とにかく葉子が戻ればキミが立ち去ることは確かだね」

「その場から東京駅へ行こう」

「とにかくマスターにたのんでみよう」

 洋次郎はションボリ去った。


海の呼ぶ声


 洋次郎は葉子をさらわれた怒りでいっぱいだった。マスターの部屋へはいると、いきなりなじった。

「妹をさらうなんて卑怯じゃありませんか。夏川左近を東京から追いだすためにボクは今日も一日奔走してたんですよ。それにも拘らず葉子をさらうとは何事ですか。葉子を返してもらいましょう」

「立ち話は落付かないよ。イスにかけたまえ。キミはビールか。ウィスキーかい」

 マスターの曾我は支那でもこの商売をやってた男だが、そんな面影は見られない。商人のように如才がなくて、人ざわりがやわらかだ。だから使用人が荒々しくゾンザイに話しかけ、主人がやわらかく優しく答えるようになるが、この商売では結局やさしく押える方がキキメがあるのだ。使用人たちは荒々しくゾンザイに甘えているようなことになる。

 洋次郎は曾我のついでくれたハイボールを一息にのみほして、

「ボクは今朝も朝っぱらから女房を叩き起しましてね。氏家印刷へジャンパーの男をさがしているようなフリをさせて行かせたのですよ。夏川左近は根が素直な荒海育ちの男ですから、納得できればおとなしく東京を出て行くのです。ただ奴を納得させることができないでしょう。仕方がないから、いろいろ手をうっているのです。女房の奴、朝ッぱらから叩き起されて大立腹でしたが、手を合さんばかりに頼みこんで変な芝居をさせてみたり、ボクもまさに必死ですよ。これだけボクがやってるのに、頃合を見はからって夏川を口説き直しに出かけてみれば、葉子がさらわれたあとじゃありませんか。どこへ隠したんですか。たった一人のボクの可愛い妹ですよ。返してもらいましょう」

「人ぎきのわるいことを云うなア。ボクがさらッたんじゃあるまいに、キミもまた逆上しすぎてるな」

「逆上しますとも!」

「ボクはただある人のいいつけでキミにイヤなことを伝える役をしているだけで、元はと云えばキミがこんな変な事件にかかりあったりしたからだ。おかげでボクまでまきこまれて、その上キミに怒鳴られちゃアあわないよ。ね。キミが今日の午前中にという約束通りにやれなかったから、こういう結果になったらしいが、それをボクのせいにしたって仕様がないよ」

「約束と云ったって、無理なことを一方的に押しつけておいて、ちょッと時間がおくれたからって妹をさらわれちゃア堪りませんよ」

「しかし、それはこまったねえ」

「元々無理なんです。夏川左近を納得させる理由がないのに納得ずくでおとなしく退散させろと云うんでしょう。ちょッとは時間がかかりますよ。しかし夏川はおとなしく退散しようと腹をきめたところまできていたのです。そこへ葉子をさらったものですから、葉子が無事に戻るまでは東京を立ち去らないと怒りだした始末です。ヤブヘビじゃアありませんか」

「しかしだね。キミがボクに何と云っても今さら仕方がないんだよ。ボクはただ今日の午前中までにという命令を伝えるように言いつかっただけなんだ。したがって、キミもまたその命令にしたがわざるを得ないだけで、命令通りにいかなかった場合のことは、その責任がボクにないことだけは明かじゃないか。そのへんを考えて、言葉おだやかに話をしてくれたまえよ」

「夏川は葉子が無事に戻ればその場から東京駅へ行くと云っているのです。葉子さえさらわれなければ、彼は自発的におとなしく東京を立ち去る腹になったところなんですよ。今ごろは汽車で東海道を走っていたはずなんですよ。はやく葉子を返していただいて、さっさと奴を退散させるに限りますよ」

「なぜおとなしく夏川を退散させる必要があるのかということはボクも知らないしキミも知らないのだから、当事者がキミの考えに同意するかどうかはキミもボクも推量はできないが、ま、キミの意見を伝えるだけは伝えましょう。おってキミにその返事を伝えるから」

「とんだことにまきこまれてボクは閉口しきっていますよ。早くケリをつけていただいて、忘れさせていただきたいものですね」

「お気の毒だが、ボクの意志ではないんだから、どうにも仕様がないよ。ま、さっそくキミの意見を先方へレンラクするから、店で働いて返事を待っていたまえ」

 洋次郎が店へ戻ると、それを待ちかまえて彼の女房が駈けよった。この店では礼子という女給だ。

「大変なのよ。今朝私が訪ねて行った印刷屋のオヤジが来てるのよ。まさか嗅ぎつけてきたわけじゃアないでしょうね」

「嗅ぎつけるはずはないが、しかし妙な暗合だな。キミは顔を見られなかったろうな」

「それは大丈夫。それに、ちょッと見たぐらいじゃ気がつかないわよ。今朝は着物だし髪もモジャ〳〵でお化粧もしていなかったんだもの」

「キミはその席へ近づかないようにしたまえ」

 洋次郎が氏家の席へ近づいて様子を見ると、二人の身ナリのよからぬ人物がビールをのんでいる。一人はジャンパーだ。云わずと知れた左近である。謎がとけたから彼もホッと安心して、その席へ立ちより、

「こまるじゃないか。夏川君。キミは敵の顔を知らないが、敵はキミを知ってるばかりじゃなく、この店の常連の中にその敵がたしかにいるに相違ないのだ。第一、ボクはいま葉子のことでマスターに談判して敵にレンラクをたのんだところだよ。東京を立ち去るはずのキミが敵の本拠かも知れない場所へノコノコ現れちゃアこまるじゃないか」

「近々東京を立ち去ることになったから、一ぺんぐらい銀座の風にも当りたくて来たのだよ。キミの店ならまさかの時の財布の心配もいらないからと友人を案内したわけさ」

「なるほど、そういうワケなら尤もだが、敵にはそれが分らないから、変にかんぐられるとこまるんだよ。ともかくここをでよう。ボクが静かな店へ案内するから」

 二人を押しだすように連れだした。なじみの小料理屋の二階へ案内して、氏家とも挨拶を交し、

「ここなら安心だ。キミのように得体の知れない大敵を向うに廻している者は身をつつしまなくちゃア危いよ。冷汗をかいたぜ。おかげで葉子に万一のことがあってはと気が気じゃなかったからな。葉子のことでレンラクがあるはずだからボクは店につめてなくちゃアいけないから失敬するが、キミもここだけで切りあげてまっすぐ大竜出版社へ戻ってもらいたいね。さもないと火急のレンラクができないから、今夜帰れる葉子が明日になったり、そのまた明日が御破算になったりしたんじゃ諦めきれないよ」と洋次郎は二人をのこして立ち去った。氏家は左近に杯をさして、

「例のメモの印刷をボクが引きうけたのはよその印刷屋が引きうけてくれないからと泣きつかれて柄になくオトコギをだしての仕儀だが、ボクのところには脅迫などは一度もなくてキミだけが妙な変事に見舞われ通しというのはフシギなメグリアワセだね。ボクが今日にわかにキミのあとを追うようにして訪問したのはキミの離京の名残りを惜しむためではなくて、キミのメグリアワセがあまりフシギだから、大竜出版社そのものに何かイワクがあるのじゃないかと見届けてみたくなったせいだ。しかし、一見したところ、大竜出版社は平凡なただの出版社にすぎないようだね。キミに東京を立ち去れという誰かの策謀は、もしやキミと葉子さんの恋愛関係というようなものが原因ではないのかね」

「そんな心当りはありませんね」

「キミは何者が何事のために策しているのか、その真相を突きとめたいと思わないのか」

「思いませんね。完全に。なぜなら、東京を立ち去るべきだからです。一度はトコトンまで突きとめてみたいような気持になりましたが、いまでは謎の女の正体が玉子と分ったことまで余計なことだと思っています。立ち去る方がよいなら、ただ立ち去ればよいのです。海へ戻れば海の風が吹いてるだけです。それがボクのふるさとだし、またボクの一生の全部ですよ。ボクは葉子さんという可愛い娘のために一切の謎のセンギをやめましたし、また東京を立ち去りますが、それが同時に葉子さんに捧げる愛情の全部なのです。葉子さんのために去り、そして悔いはありません。波の呼ぶ声がきこえています。ボクが本当に恋することができるのは、それだけということが分っているからです。誰からも、また何物からも、最後にはボクは必ず海へ戻らなければならないでしょう。完全にボクの物だと云いきれるのは海だけですよ」

 左近はその海にささげる如く、杯を眼下によせて微笑した。


玉子の告白


 葉子を緑の自動車で誘いだしたのは人々の推量通り玉子であった。

「アナタの兄さんに手をまわして夏川さんを東京から立ち去るようにと企んでるのは私なのです。そのワケをお話してアナタにも応援していただきたいと思うのよ。ワケをきいて下さる」

 玉子は葉子のデスクの前に立って、こう云ったのである。葉子はうなずいた。

「うれしいわ。じゃ、ちょッとの時間、私につきあって」

 葉子は当然の返事をしようとした。それは彼女がいま店をはなれると無人になるからタコスケの戻るまで待ってくれという返事だ。玉子を疑る疑らないに拘らず、店には誰もいなくなるから当然そう答える必要があるのだ。

 しかし葉子はすばやく決心した。もしもそう答えれば玉子はあきらめて立ち去るか、タコスケの戻るまで待つより仕方がないわけだが、あきらめて立ち去られるのが残念だ。なぜなら葉子は玉子の云うままになってみたかったからだ。そうすれば何かが分ってくるはずだ。もしも玉子が悪者とすれば、なおさら何かがつかめるはずだし、その冒険をしてみなければ結局何をつかむこともできない。

 バクダン・メモの出版のはじまりのうちは葉子はあまり乗気ではなかった。有力な人々をわざわざ敵にまわすような危い出版をやらなくともと考えていた。しかし左近が入社して、左近の身にフシギなことや危いことが次々とせまるうちに、葉子はグイグイと気組みがちがってきたのである。是が非でもこの出版を完成したいし、また敵の正体を見とどけて溜飲を下げてやりたいのだ。敵愾心と勇気が日ごとに高まる一方であった。この機会を逃しては、と葉子は思ったが、あまり玉子になめられてもシャクだから、

「いまは無人で出るわけにいかないのですけど、人が来てからでは御都合がわるいでしょうね」

 と云ってやったが、敵もさるもの。

「都合がわるくはないけれど、早い方がよろしいわね」

「御都合がわるくなければ待っていただきたいわ」

「なるべく早い方がよい都合なのよ」

「その程度の都合なら待っていただこうかしら」

「意地わるねえ。からかったりして。いますぐに、つきあって下さるつもりでしょう」

 それ以上じらすのもあくどいので葉子は立った。わざとタコスケへ伝言なぞは残さないことにして、またそれが玉子にも分るように、物陰では何もしないように注意した。体格検査のように一々玉子の目の前で身支度をしてみせたのである。

「タコスケが戻ってきてあわてるわ。私の姿が見当らないし、書き残したものもないから」

 玉子に笑みかけてみせた。玉子もそれに笑みかえして、

「無人の際に泥棒が盗んでいくと、アナタが疑られるわね」

「それだけは大丈夫よ。信用が特別なんですもの」

 自動車は走りはじめた。白雲荘とは方角がちがう。そして白雲荘よりももっと郊外へグングン走る。

「私はアナタの味方ですと以前あれほど云ったのに信用して下さらないようね」

「そうよ」

「どうして?」

「私の疑問に答えて下さる?」

「答えてよろしい範囲でね」

「夏川さんを白雲荘へつれこんで姿を消したのは?」

「どのみち夏川さんは狙われてたんですもの、私がその中間にたつ方が安全の保障になったから。さもなければ、もっと危険よ」

「金庫を爆破に行くことよりも?」

「そう。ですから、それを妨げようとしたでしょう」

「それを妨げたのはタコスケたちだわ。私を白雲荘へつれだして妨げられる?」

「ええ」

「具体的に答えて」

「いまは云えないワケがあるのよ」

「それでも信用しなさいと仰有るの?」

「信用して下さらなければ仕方がないと思うけど、私はアナタが疑り深いと思うのよ」

「夏川さんが東京を立ち去らなければならないワケは話して下さると仰有ったわね」

「全然疑り深いんですもの。すこし休ませてね」

 玉子はニッコリ笑みかけてからクッションに頭をもたせて目をとじた。そして目をとじても、やさしい表情を忘れていない。いつもやさしい目。やわらかな表情。おだやかな微笑。葉子はそれにウンザリしたのだ。腹をたてているくせに、いつもやさしい目。おだやかな表情。これぐらい腹黒いものもないように思われた。

 四十五分ほどすぎて、車は雑木林にかこまれた丘の上の広い邸宅の門をくぐった。その丘全部をこの邸宅が占めているらしい。車が門をすぎると犬の猛烈な吠え声が諸方からわき起った。みると巨大な犬どもだ。それが十頭以上もいる。車のまわりに集ってきたが玉子の声に吠えるのをやめ、葉子をとりまいてなおも警戒を怠らぬ面魂が怖しい。犬には親しみをいだいている葉子であったが、この犬どもには身の毛のよだつ思いがした。

 玄関からジュウタンをしいた階段を上って二階の広間へ。そこは洋室になっている。電気ストーブを入れた大きなマントルピース。豪華なイス。

 しかし、その広間にも止まらずに、長い廊下を曲ってその突き当りの二階の離れへ。洋風の寝室にバスと小部屋が附属している。その小部屋から五十がらみの目の鋭い女が現れて二人を迎えた。

「ここがアナタの寝室よ。その小部屋にはこのオバサンがいますから、用があったらいいつけなさい。進駐軍に接収されてたから、こんなグアイにムリヤリ洋室に改造して座敷の一ツを浴室にしちゃったんですって」

「私の寝室ッて、どういう意味?」

「泊っていただくことになるかも知れないから。安心してらッしゃい。私はアナタの味方よ。もう私の名は御存知ね」

「玉子さんでしょう」

「ワケがあってのことですから、辛抱してちょうだい。決して悪いようにはしませんから。ですが、この部屋から出ないようにね」

「どうして?」

「それをきかないで辛抱して下さることよ。私がアナタの味方だということを信じて」

「信じていないわ」

「こまった人ね。あなたが疑り深くって追及がきびしいから、頭痛がしちゃった」

「頭痛がするのに、やさしい表情とおだやかな眼とでいつも微笑してらッしゃるから信用できなくなるのよ。どうして無理なさるの」

 その言葉の終らぬうちに玉子の顔から微笑もやさしい表情も血の気までもひいてしまった。葉子はおどろいた。葉子の言葉にそれほどショックをうけたのだろうか。根は善良な、本当に心のやさしい人なのだろうか。

 しかし、どうやら、そんな問題ではないらしい。玉子は胸をかきむしった。ベタベタと下へくずれた。そしてジュウタンを掻きむしるようにして這いはじめた。

「苦しい。お医者……」

 玉子はききとれないような声で云った。そこまで見とどけると、オバサンはにわかに物も云わずに駈けだした。まもなく彼方で、

「ダンナさま。ダンナさま。奥さまが大変です。急病ですよ。お医者! お医者!」

 声かぎり叫ぶのがきこえた。女中が三名なだれこんできた。やがてデップリふとった大男が静かな足どりで現れた。口ヒゲを生やしているのである。一目でそれと分る顔だ。余人は知らず、葉子にとっては一目でそれと分る顔だ。新聞や雑誌の写真でナジミの顔だ。そして葉子の毎日の仕事に最も関係の深い顔なのだ。住田嘉久馬であった。バクダン・メモの筆者である。

 女中たちは葉子の寝台へ玉子をねかせた。しかし玉子はねていない。寝台の上を苦しみもだえて這いまわる。落ちそうになる。女中たちはそれを寝台の中央へ置きもどすのにかかりきっている。

「ジュウタンの上へ置くわけにもいかぬな」

 住田は落付いた声でポツリと一言をもらしたが、ふりむいて静かに部屋をでていった。自動車が医者をつれてきた。いかにも田舎の医者然とした頼りないような人物だ。つづけさまに二十本ぐらい注射した。

「ふだんお脈を拝見しておれば特別に手当ての仕様もあるのですが、奥さまはゼンソクがおありですか」

「いいえ」

「とにかく強心剤をうちつづけましょう。発作がおさまってしまえば安心だと思いますが」

 診察のヒマなどはない。這いつづけて苦しみもだえているのだから。医者はまた注射を打った。するとようやくいくらかおさまった様子である。住田はまたいつのまにか現れてジッと病人を見ていたが、

「落付いてきたね」

「ハ。どうやら。これだけ打って落付かなくてはちょッと重大ですが」

 また注射をうつ。だんだん安らかそうになってきた。そして病人ははじめて大きく一息ついた。

「どうやら、大丈夫だ」

 住田は呟きを残してまた静かに立ち去ってしまった。

 医者はそれから三四十分念入りに手当てをしたり観察したりしていたが、ようやく安心して器具を片づけはじめた。オバサンが小声で、

「お部屋をうつしてよろしゅうございますか」

「とんでもない。絶対安静です。看護婦をつけた方が安心でしょうね。一人さがしてあげましょうか」

「ダンナさまに伺ってあとでお願い致すかも知れませんが」

「イヤ、看護婦は当節めったに見つからないから、つけない方が私も世話がなくて楽だが、しかしこの容態ではあなた方の附添では心もとない。とにかく、絶対安静。これが第一です」

 注意を与えて医者は去った。オバサンは途方にくれた様子で戻ってきて、葉子に向い、

「思いがけないことになって、こまりましたねえ。他に適当な部屋がなくってね。なんとか考えて方法をとりますから、しばらくこの部屋の隅で我慢して下さい」

 オバサンのほかに若い女中が一人看護に当っている。葉子が若い女中に話しかけても、彼女は絶対に返事をしないし、ふりむきもしない。まるでツンボのようだ。葉子はバカバカしくなった。

 医者のすすめる看護婦をよぶことができないのも彼らの生活が秘密にみたされているせいらしい。この意外の変事が起らなければ、オバサン以外の女中たちは葉子の存在を知らなかったかも知れないのだ。

 葉子は神さまが自分を助けているのだと考えて、ほほえんだ。社の人たちは心配しているに相違ないが、どうやら自分も安全に戻れそうだし、何かの収穫を握ることもできそうだと考えて、心は安らかであった。

 住田嘉久馬と玉子。しかもダンナさまとよばれ、奥さまとよばれている。しかし、それも有り得ないことではなかった。バクダン・メモの最大の急所は大石弁造の秘密書類の隠し場所たる一尺八寸の仏像の胎内が妾の玉子によって住田にもらされたことにある。そして書類の秘密も住田が握ってしまったことをそれとなくほのめかしている。その書類こそは疑獄事件の動かしがたい確証だった。この疑獄に絶体絶命の確証はその一ツである。住田がそれを公表すれば、その入手経路に於て犯罪を構成することになるが、その程度の微罪にくらべれば、それによって大物連が続々とつかまる壮観の方が大変だ。住田が事実その秘密を握っているのか。それは天下の注目の的であった。メモの急所もそこにあるから、葉子もそれを心得ていたのである。

 住田と玉子は果して本当に味方同志であろうかと葉子は疑った。もがき苦しむ玉子を見下していた住田の様子はいかにも感情のないものだった。路傍のヤジウマでももっと心を動かして見ているに相違ない。そしてヤジウマほどの興味もないらしく、そッと来てまもなく静かに戻っている。あるいはこれが大物という人種の感情の表現というものであろうか。

 玉子は美貌をもって住田に近づいているスパイではないのだろうか。左近も初対面の玉子をスパイだと思っていたが、あるいはそれが真相であるかも知れない。つまり仏像の胎内に隠したものの秘密を住田から取戻すためのスパイではないのか。彼女はそれを突きとめた。住田の金庫だ。そしてその金庫を爆破して書類を取り戻す役割が夏川左近にふり当てられたのではないのか。

 こう考えると謎の多くがほとんど解けたように思われた。これが真相だ! しかし、ただ一ツ残る疑問は、夏川左近が東京にいてはいけないという理由である。これが解ければ全てが解ける。そして玉子もその秘密だけは自発的に語ることを言明していたのである。玉子の役割は奇怪であるが、また哀れでもあったのだ。権力や金力の陰に否応なく踊らされている哀れな一ツの花である。葉子はなんとなく玉子に同情をもつ気持になった。

 二時間ほどの時間がすぎて夕暮れになってきた。夕食の仕度のせいか、オバサンと女中は葉子に暫時の看病をたのんで去った。葉子が玉子の枕元につきそっていると、玉子ははじめて口をひらいて、

「自業自得ね。罰が当ったのよ」

「なんの罰?」

「数々の悪業の罰」

「アナタがスパイだということでしょう」

「スパイ? 私が」

 玉子はクックッ笑ったが、

「そうそ。白雲荘の連中が夏川さんにそう云ったのね。まさかスパイじゃないわ」

「じゃア、どんな悪業の罰?」

「たとえばアナタをここへつれてきた罰。自慢のできる目的でつれてきたワケじゃないのよ」

「どんな目的?」

「そこまでは云えないわ」

「アナタは住田さんの奥さん?」

「まア、そうね。オメカケというのが正しい表現らしいけど」

「住田さんをスパイしてるんじゃないの?」

「なんのために?」

「私がそれをおききしたいのよ」

「日陰者のオメカケだから住田に愛情なんかもたないけど、スパイでないのも確かよ。天罰をうけてザンゲしたくなっちゃったけど、夏川さんにお詫びしてちょうだいね。夏川さんが爆破するはずの金庫はこの家の中にあるのよ。そしてね。爆破しての帰り道、たぶん夏川さんはこの庭で十何頭の猛犬に噛み殺されたはずなのよ」

 葉子はゾッとして、しばしは物が云えなかった。玉子もそれ以上は語りたくないらしく、目をとじている。その顔は例のやさしい顔ではない。悲しみの漂う顔。そして疲れ果てた美しい顔だ。玉子の本当の顔だと葉子は思った。この顔を隠していつも無理にやさしく作り笑いをしていた気の毒な女。いま玉子の語っている言葉は本当の言葉なのだ。

「白雲荘ッて、誰の家?」

 葉子は思いきって訊いた。

「あなたの知らない人の別荘よ。でも、本当の持主は、ここの主人と同じ人よ」

「住田さん?」

 玉子はもはや答えなかった。

 まもなく女中が現れたので、葉子はまた部屋の片隅へ退いた。

 白雲荘の持主も住田? それはどういうことだろう。いろいろ考えてみたが、ワケが分らなくなるばかりであった。

 まもなくオバサンが現れて葉子に云った。

「お嬢さま。お帰りの車が待っております」

「ハイ」

「そして、夏川さんと申す方に必ず東京を立ち去るようにとすすめてあげて下さいね」

「どなたからの御伝言?」

 オバサンはそれに答えなかった。葉子の手をとり、玉子に挨拶のヒマも与えず連れだした。玉子はあきらめきったように目をとじていた。

 葉子をのせた緑の自動車は走りはじめた。


変な命令


 洋次郎はよばれてマスターの部屋へ行った。いつも愛想のよい曾我だが、この日はことのほかニコヤカに彼を迎えいれて、

「苦は楽のタネ。ねえ、キミ。人の苦労に報いはあるものだ。キミも今回は思いがけないことで辛い思いをしたろうが、どうやら良き報いが訪れたらしいぜ」

「妹が無事戻ればほかに文句はありませんよ」

「そのことは云うまでもなしさ。あと三十分ぐらいで妹さんは勤め先へ戻るそうだ。まずは乾杯」

 曾我は馴れた手つきでハイボールを二つ作って乾杯して、

「お互いに今回は苦労したな。ボクだって何が何やら分らないが、さる人物とキミとの中間に立たされて辛い思いに変りはなかったよ。ところで例の夏川左近だが、その方は確実だろうな」

「無論ですよ。葉子が戻れば奴は海へ戻りますよ。奴の約束はヤクザの仁義以上に信用できますから」

「それはたのもしいな。ところで夏川左近が海へ戻ったあとで、キミにしてもらいたい仕事が一ツあるのだが」

「それは約束がちがいますよ。ボクの仕事は夏川左近を追ッぱらうので終りのはずだ。どこのオエラ方の命令か知りませんが、三下だって怒る時はありますぜ」

「まアま。カンちがいしちゃいけないな。苦は楽のタネ。よき報いの訪れとは、このことだよ。この仕事には莫大の報いがある。おまけに単なる商談だよ。夏川左近を追ッぱらったあとでだね、大竜出版と氏家印刷の払いをすましてバクダン・メモの出版を中止させるのがキミの仕事だ。ネ。単なる商談さ。値切ったぶんはキミのモウケになるぜ」

「だってボクが依頼した出版でもないのに、そんなことできますか」

「そこは適当にやりたまえ。住田嘉久馬氏にたのまれたと云うんだね」

「委任状は?」

「そういうものが必要かなア。ねえ、キミ。商談ですよ。しかも、現金の支払いですよ。先方は現ナマをちょうだいするのだ。そのほかに、何がいりますか」

「それが良き報いですかね」

「当り前さ。キミの腕次第で、モウケはお気に召すままだ。キミの労苦をねぎらうためにキミに与えられた仕事だぜ。失礼な申し様だが、本来ならこれは紳士の仕事だね。軍人で申せば大佐以上、あるいは、代議士、社長。こういう紳士の役割だ」

「ボクは紳士じゃないから、しくじるかも知れませんぜ。その節、文句を云っても知らねえから」

「しくじることはありませんよ。人に現ナマを与えるのだもの。これぐらい人によろこばれる仕事はない」

 云われてみれば、その通りだ。筋道がどうあろうとも事は現ナマの支払いだから、この役目にしくじるようでは銀座のマンナカでオマンマは食えない。

「とにかく、やってみましょう」

「無論のことさ。しかし、おことわりしておくが、この仕事は夏川左近が東京を立ち去ってからだぜ。それまでは絶対にこの話をきりだしちゃアいけません」

「わかりました」

「じゃア、まず海から来た男を海へ帰らせてきたまえ。キミの妹さんがそろそろ大竜出版へ戻ってくるころだ。彼女がどこへ行っていたか、それを知りたがるのは原子力の秘密を知りたがるのと同じぐらい危険なことだな。キミばかりじゃなく、夏川氏も、その他の何者もだ。分るだろうね」

「葉子が無事で戻りゃアほかは知ったことじゃアありませんよ」

 と洋次郎はドアに肩をぶつけるような勢いでとびだした。

 葉子が戻れば、問題は左近だ。彼は一時間ほど前に左近と氏家を案内した小料理屋へ駈けつけたが、いましがたお帰りですという返事。ここ一軒でまッすぐ大竜出版へ戻ってくれと念をおしておいたのだから、たぶん帰っているだろうと気にもかけずに大竜出版へ来てみると、ボンヤリ留守をまもっているのはタコスケ一人。

「夏川左近氏はまだ戻らないのか」

「名残の一夜だからね。察しておやりよ」

「葉子は?」

「それを訊きたいのは、こッちだね」

「ちかごろのガキは脳膜炎をわずらッた奴にかぎってマセた口をききやがる。健全な頭でなくちゃア仁義礼智信はわきまえられないものだ」

 ことごとく予期に反したから、洋次郎は逆上して殺気だっている。悪党ながら、それも妹の身を思う至情。無理もないから、タコスケ、ニヤリと笑って悪党の煩悶ぶりを鑑賞している。そこへ葉子が戻ってきた。葉子は彼女自身のことについては何も考えていなかった。彼女の行方不明が人々をどんなに心配させたかということも考えるヒマがない。ただ考えていることは夏川左近のことだけだ。左近を海へ帰したくはないけれども、どうしても東京の地にとめておいては彼の命の問題だという考えで胸がはりさけるようだった。

 玉子の告白によれば、左近が爆破するはずの金庫はあの別荘のもので、その帰路に左近は十数頭の犬に襲われて殺されるはずであったというのである。左近を海へ帰さなければ。あの薄気味のわるい婆やも緑の自動車の運転手も別れぎわに呪文のようにそう唱えているのである。左近を海へ帰したくないが、どうしても帰さぬわけにはいかないのだ。彼女自身の経てきた奇怪な遍歴の如きは頭にとどまる余地もなかったのである。葉子は部屋の中を見まわした。そこにいるのはタコスケと兄だけだ。左近の姿が見えないので葉子は思わずぞッとすくんだ。タコスケは思わず立上って、

「葉子さん! どうしたんですか!」

「夏川さんは?」

「あす海へ帰るので、氏家さんと名残りの酒をのみにでかけましたよ」

「あす海へ?」

「そうですよ。葉子さんが今晩かあすの朝には無事に戻ってくることがだいたい見当がついたからです。葉子さんの戻り次第海へ帰るという約束で、この洋次郎クンがユーカイ犯人と即時釈放の交渉をすることになったからですよ」

「じゃア、そのせいね」

 洋次郎はしみじみ淋しさを味った。どれほど妹の身を案じてみても、戻ってきた妹は彼の存在に気のない一ベツをくれただけだ。他人よりもそらぞらしい。抱きしめるどころか、妹の方へすすみでることもできないほどのそらぞらしさが二人の間を距てている。妹のため即時釈放の交渉に切ない努力をしたことすらも、夏川左近を海へ帰すという交換条件のために、妹の感謝どころか、蔑みをかっている始末だ。

 ──しみじみヤクザがイヤになったな。

 と洋次郎は腹の底から悲しくなった。妹に信頼される兄でありたいという切ない思いで胸がつぶれてしまったのである。といってみても、今さら立派なことができるだけの力もなければ才もないのは目に見えている。まことにどうも情ない。ただグチだ。

 そのとき、風のように音もなく、入口の戸を排して現れた見知らぬ男があった。


解けかけた謎


 見知らぬ男は三人の顔をジロジロと無遠慮に観察したあげく、洋次郎と葉子をその視線からふりすてて、ニコヤカにタコスケの方に向ってすすみよった。

「社長はいるかい?」

「夜間は休業だい」

「おそれいった。当店の然るべき人物に会いたいのだがね」

「このお嬢さんとボクが当店の然るべき人物だよ」

「特にキミが大物だな。一見して分るぜ。オレはこういう者だ。以後お見知りおきを願っとくよ」

 と名刺をだした。太平洋新聞社会部の谷本という記者であった。この太平洋新聞は日本の大新聞の一ツだが、今回の汚職事件については特にカシャクなく政府攻撃をつづけ、独自の捜査網によって自らその核心をえぐりだそうとしていた。汚職の当事者にとっては検察庁よりも怖ろしい相手だったのである。

 タコスケは名刺を見るとたのもしがって、

「そうかい。太平洋の記者なら歓迎するぜ」

「サンキュー。一目見たときからキミのただならぬ人物は見ぬいたんだ。お茶をのましてくれねえかな。出がけにマーケットでショーチューを二杯キュッとのむ悪癖があってノドがかわいてこまるんだ。ウーム。うまい!」

 谷本は番茶のでがらしを立てつづけに四五杯もゴクゴクのんだ。

「時に、バクダン・メモの出版はどうなってるね?」

「今日校了だよ。二三週間で街へでるよ」

「そうはいかないだろう」

「なぜさ」

「住田嘉久馬が雲がくれじゃ検印がもらえないだろ」

「さすがに知ってやがんな、新聞社は。それでこッちは困ってんだよ。校了だって戻ってこないから、こッちで勝手に校了にしちゃったんだ。なるほど検印がもらえないという心配もあるわけだね」

「大ありナゴヤだよ。とても検印はとれねえぜ」

「チェッ! アッサリ云うない」

「住田のいる場所を知らなければとれッこない」

「さてはそれをさぐりにきたな」

「オッ! 相当の眼力だ。住田とレンラクはないんだね」

「ないから困ってんだよ」

「これは明日の早版の朝刊だ。東京の朝刊にはもっと尾ヒレがつくはずだがね。住田の野郎どこへ雲がくれしやがったんだろ」

 谷本がポケットからとりだして示した新聞の社会面、そのトップに大きくでているのがその記事だった。

「この記事じゃアここの三四行が一番カンジンなんだ。いいかい。住田の雲がくれの裏には大金の動いた形跡がある、というんだな。その金額は一億五千万円と云われている。な。住田がその金を受け取ったんだ」

「畜生! メモの出版を一億五千万円で売りやがったな!」

「バカ云うな。こんなメモ、組んだだけじゃアたかだか十万ぐらいの損害じゃないか。メモの内容はすでに然るべき筋には全部知れ渡っているんだよ。この出版を怖がってるような連中は天下に一人もいやしないよ」

「だって、ほかに何も怖れる物はないじゃないか」

「この出版を怖れるとすればヨロンへの影響ぐらいのものさ。だから各紙だってせいぜいその意味でしか取りあげていなかったのさ。一億五千万円の値打のあるのはメモの中に暗示されてる一物だよ。大石弁造と玉子だけが知ってたという一尺八寸の仏像の中の秘密書類。この汚職事件の唯一の物的証拠だよ。この一物が紛失すれば、小菅の大物全部が無罪放免なんだよ。メモの出版がもしも世論を喚起するとすれば、この一物がどうなったかという一点に於てだ。メモの出版が多少怖れられるのもその理由によってだけなのさ」

 葉子は腰がぞくぞくふるえるような緊張を感じた。やっぱり、そうだ。あの別荘の金庫を爆破して夏川左近に盗みださせようとしたのはその秘密書類だ。そして夏川左近が犬に噛み殺されてしまう。そして秘密書類の行方はそこからとぎれて不明になってしまう。すると一億五千万円は夏川左近の命の値段のようなものだ。愛するが故に葉子の思念はこう働いた。愛の直感だ。

 自分の金庫を爆破させて、自分の物を盗ませる。それは常識ではとうてい見当がつかなかったが、一億五千万という金の動きの介在によってその奇怪な謎がフシギなものではなくなるのである。

 海から来たばかりの左近を敵方の者が姓名まで知ってるというのは奇抜でありすぎる。住田嘉久馬なら吉野大竜からのレンラクで知っていた。白雲荘も実は住田のイキのかかった人物の別宅であるというし、玉子は今では住田の二号であるという。さすれば全ての謎がほぼ解けるではないか。左近に金庫を爆破させようとした張本人は住田嘉久馬なのだ。そして住田が張本人でなければ、住田の犬が左近を殺す手筈はたてられない。猛犬を自由にするには主人の協力がなければならない。

 葉子は緊張で居たたまらなくなり叫びださずにいられないような衝動におそわれかけたが、必死に口を結んで、こらえていた。何も云ってはいけない。これが新聞記者に知れてしまうと、左近は海まで生きて帰りつくことすらもできないだろう。明日の朝、左近に附き添って、海まで送りとどける役目を自分が果さなければならないと葉子は心をきめた。

 谷本は胸のポケットからパイプをとりだして、器用な手つきでふかしながら、

「ところがだな。この一億五千万はまだ住田の手に渡っていないらしいんだ。なぜなら、金が渡れば、例の品物は敵方の手中に移るわけだ。これが敵方、つまり汚職方だな。そッちの手に移れば、汚職方や政府筋や検察庁方面に新しい動きが起るわけだ。それがまだ起っていないんだよ。もう一ツ、たぶんその節はキミの社へ出版を中止するようにと住田から云ってくるはずなんだ。つまりだな。金銭授受を感知するには、キミの社に張りこんでるのも一法なんだよ。オレのテレビアンテナさ。どうだい、事情が分ったかい」

「ウーム」

「わが社があすの朝刊に一億五千万の動きをほのめかすのも彼らに実行をいそがせる手段なんだよ。他社の奴が慌ててここへ駈けつけるかも知れないが、奴らには白ッぱくれて、住田から出版中止の使いが来たら、太平洋新聞へだけ知らせてもらいたいね」

「いいとも」

「ありがてえな。さすがにオレの見こんだ人物だ。キミは将来大物になるぜ」

「お茶のみなよ」

 葉子同様、全身にみなぎる緊張をぐッと押えて素知らぬフリをしているのは洋次郎であった。ほかならぬ出版中止の交渉役をたったいましがた命ぜられたばかりである。もっとも、それが住田からの命令かどうかは分らないが、ともかく太平洋新聞がアンテナにかかるのを待ちかまえている重大事であることは明白だ。

 ──しかし、ずッとオレを苦しめてきた蔭の人物が住田かなア。

 洋次郎は疑問に思った。新聞社なぞというものは、あまりにもカングリすぎる傾きがあるようだ。ギャングの世界は実はわりかた単純だ。これはやっぱり汚職方の指金と見るべきだろう、というのが彼の大体の考え方であったのである。もしも葉子のユーカイされた家が住田嘉久馬の別荘と知ったら、彼はキモをつぶして考え直したであろう。それを知らなかったのがシアワセだった。谷本はタコスケにくれぐれもたのみ、男と男の握手を交してニコヤカに立ち去ったのである。


左近の怒り


 左近は酒店をでると氏家と別れ、銀座の人波にもまれて歩いた。

 北は北海道、南は九州の果にいたるまで、淋しい漁港は何々銀座という通りがあるものだ。まッくらな銀座である。まれに一二軒ネオンのついた店があって、それが女のいる酒場であり、カツレツだのカツドンなどを食べさせるのである。東京の銀座とはまるで趣きがちがう。

 しかし左近にとっては、まっくらな何々銀座の方がなつかしい。東京の銀座がむしろ名をかりたニセモノのような気がするぐらい寂れはてた何々銀座に心がなじんでいるのである。その銀座はふだんは八時すぎると人ッ子一人通らぬような道であるが、大漁の船がはいると一晩中ドンチャカ音の絶え間がない道でもあった。しかし当節はめったに大漁がなくなったから、せっかくオカへあがっても何々銀座の焼芋屋で十円の芋を買うのが精一パイといううらぶれた銀ブラをしなければならないことが多いのである。しかしうらぶれた銀座通りをスキ腹をかかえてサッソウと歩くのはわるくない。それが海の男の生活だ。魚が相手の生活には今日の暮しがたたないからと云って何を恨んでもはじまらない。魚にめぐりあわなければ是非もないのだ。

 東京の銀座は何々銀座とちがって、道ではなくて海の底だ。深刻な色彩と複雑な模様にいろどられた深海魚は銀座人種によく似ているし、フグに似た肥満型、イシダイに似た女将型、ハモやサヨリのような外人男女も泳いでいる。ちょいと釣りたい気持になる。これがホンモノの魚ならと左近が東京の銀座でふとシンミリ考えたのはそれであった。

 左近が大竜出版社へ戻ってみると、もう洋次郎も帰ったあとで、葉子とタコスケが彼の帰りを待っていた。どうしても左近を海へ帰さなければ、そして海まで送りとどけなければというのが葉子の堅い決心であるから、それを知った洋次郎も安心して、明朝東京駅での再会を約して帰ったのだ。

「ヤア、御無事で戻りましたね。これでボクも明日は東京にオサラバだ」

 と左近はクッタクがない。葉子も女々しい様子は見せなかった。タコスケが一ツ咳ばらいに及んで、

「ねえ、夏川さん。ボクたち相談をきめたんだけど、ボクと葉子さんが夏川さんを海まで送って行きますよ」

「それはいいね。漁師町は魚くさいのが玉にキズだが、いいものだよ。二三日滞在して東京の垢を落すんだな」

「ノンキなことを云ってるよ。ボクたちは夏川さんの護衛なんだぜ。ボクがついてりゃ大丈夫だが、さもないと道中が危険なのさ。この人は何も知らねえな」

 タコスケは谷本がおいていった太平洋新聞を左近に示して、ついでに出がらしの番茶をついでやった。

「住田嘉久馬氏雲がくれ、とあるだろ。ところでだね。重大なのはこの三四行なんだぜ。住田氏雲がくれの裏面には一億五千万の大金が動いた形跡があるというのさ。つまり住田が一億五千万の金をもらって雲がくれしたというわけさ。住田の行方は太平洋新聞が必死に追っかけているのだよ。ところがだよ。葉子さんが玉子にユーカイされて連れこまれたのが住田の隠れ家ですよ。葉子さんは住田の顔も見てきたのですよ」

「住田がユーカイしたってわけかい」

「そうなんだよ。夏川さんを白雲荘へ連れこんで、金庫を爆破しなければならないようなハメにさせたのも住田ですよ。それがいま分ったのさ。いいですか。夏川さんが爆破するはずだった金庫はその住田の隠れ家の金庫ですよ。それを爆破して夏川さんが何物かを盗んで逃げる。ところがその隠れ家には十数頭の猛犬がいるんです。夏川さんが逃げる時にその猛犬がワッと襲いかかって夏川さんを噛み殺してしまうんですよ。そして盗まれた何物かはそこから行方不明になってしまう。こういう手筈だったんです。そしてその紛失した何物かは改めて住田から汚職の容疑者の手に渡る。一億五千万の代金引き換えにね」

「どうしてボクに盗ませるのだね」

「だってバクダン・メモで公表したから住田の手に秘密書類の握られてるのが世間に知れ渡っているでしょう。それを単にヤミからヤミに葬れば、世間の疑惑がさっそく住田に集るじゃありませんか。さては金をもらって売り渡したなと感づかれるにきまってるからね。それを誰かに盗ませる。盗んだ男が殺されてしまえば、秘密書類が紛失しても共犯者が持って逃げたと思わせることができるでしょう。しかもだね。盗んで殺された犯人が夏川さんなら大竜出版の新入社員で一応住田の秘密に通じている筋も通るばかりでなく、夏川さんの身許がアイマイで共犯の見当だってつきやしませんよ。案外ボクなんぞが共犯に疑われるかも知れないね。あるいは夏川さんが汚職の容疑者の手先で、その目的のために社員となって大竜出版に入社したと解釈されるかも知れないでしょう。なんしろ天下に身寄りのない風来坊だから、タンテイだの新聞記者がどんな解釈でもつけますよ。とにかく金庫爆破の犯人としては天下に夏川さんぐらい適当な人物はいなかったわけだね。大竜出版の唯一のしかも新入りの社員で、素性がハッキリしないんだからね。名タンテイ・タコスケの原子眼は見透しですよ」

「そこまで分るはずはなさそうだな」

「わかるはずがあるんです。悪いことはできないものさ。葉子さんをユーカイした玉子が住田の隠れ家へ到着するとにわかに急病になって倒れたんです。医者が二三十本もカンフルをうって持ち直したそうですが、看病の葉子さんに玉子が告白したんです。天罰とみて怖れたんだそうですよ。夏川さんに爆破させるはずの金庫はこの隠れ家の金庫で、爆破のあとで犬に噛み殺させる手筈だったということをね。そして白雲荘も住田の身内の別荘だと教えてくれたそうです。してみれば一目リョウゼンですよ。金庫爆破の張本人は住田その人さ。夏川さんが大竜出版の新入社員と知ってるのは住田だけですからね。そして玉子は実は住田の二号なんです。してみればこの筋書を書いた者は住田以外にありッこないのが判明するじゃありませんか。夏川さんにインネンをつけて金庫爆破を余儀なくさせるために玉子があなたを白雲荘へ誘いこんだと分るでしょう。いわば玉子は夏川さんを殺す計画の執行人ですからね。急病に倒れて天罰を怖れたのは無理もないです。彼女もまたかよわき女だからね」

「その隠れ家はどこだい」

「東村山らしいですよ。丘の上の一軒家で、下に貯水池が見えるそうです」

「それにしてもボクを海へ帰したがるわけが分らないね」

「神奈川氏や千葉氏の顔を知ってるから、東京をうろつかせちゃアうるさいと思うのは当り前さ。生かしておいちゃア危いと思ってるかも知れないよ。だからボクと葉子さんが護衛して無事海まで送りとどけてあげるんですよ」

「それは大いに心強いな」

「そうですとも。さすがに太平洋新聞は目が高いや。一目でボクを見ぬいたからね」

 タコスケはまた番茶をついでやった。

 左近は太平洋新聞のトップ記事をていねいに読んでみた。そしてタコスケの推理と思い合せてみた。葉子のユーカイ先が住田の隠れ家とあれば、タコスケの推理の通りでなければならないはずである。一億五千万円のイケニエに自分が殺されるはずであったということは、思えばバカげた気持であった。そのこと自体はむしろ滑稽なぐらいである。一介の漁師が一億五千万のイケニエに見立られればむしろ豪勢な話だ。シケで死んでも千円の見舞金もおぼつかない身分である。

 しかし左近は、はじめて心中に煮えたぎる怒りを感じた。汚職事件も腐敗ダラクの政党も我関せざる気持であったが、ただ単に事件にまきこまれたというだけでなく、汚職のカラクリ自体の中にまきこまれたとなると、汚職のカラクリというものに甚だ現実的な感情で認識を新にせざるをえない。甚だしく肉感的に観察せざるをえないのである。

 まことに汚らわしく憎むべきカラクリだ。人の二号をローラクして秘密書類を握り、メモの公表によって脅やかして、それを一億五千万で売りつける。しかもその大金の動きをごまかすために人の命をギセイにする。まことにいやらしい限りだ。一億五千万を投じても盗まれた秘密を買い戻さねばならぬという汚職の一味も鼻持ちならない。指揮権を発動して捜査の中止を命じる政府。一ツに肉感的な憎悪を覚えると、それにからまる全ての汚れに大いなる怒りを覚えずにいられなかった。海の男の心ではなかった。それは人間の怒りであった。

 しかし左近は怒りの色を隠していた。なぜなら左近はすでに大いなる決意をかためていたからだ。純情可憐な葉子やタコスケにそれを知られて心配をかけてはこまるからだ。

 住田嘉久馬の隠れ家の金庫の中には例の秘密書類かその代金の一億五千万円かいずれかがあるはずだ。彼自身が爆破すべきはずであったその金庫をたしかに爆破してみせようと左近は決意したのである。その中にある物が秘密書類なら天下に公表してやろう。一億五千万の札束なら焼きすててやろう。いずれにしても彼が爆破して盗むべきであった品物は必ず盗みだしてみせると決意した。

「明日は海へ戻るのだから、今夜は早寝しようよ。キミたちも帰ってやすんでくれたまえ。護衛の名タンテイが寝不足じゃア心細いからね」

「そうだね。九時ごろ迎えにくるからね。おやすみ」

 と二人は何も気付かずに立ち去った。


左近のりこむ


 翌朝、左近は二人が迎えにくる前に腹ごしらえをして出発した。

 東村山で下車して郵便局で十何頭の猛犬がいる邸宅をきいてみると、すぐ分った。

「裏口に呼鈴があるから、それを押して人が出て来てからでなくちゃア危くてはいれないぜ」

「ボクは犬の訓練に行くんですから心配ありませんよ」

 と左近は冗談にまぎらして礼をのべて辞去したが、さて実際問題となると冗談ではすまされない。

 呼鈴をおして人がでてきて、うまくごまかして門を通ることができればよいが、失敗すると、それまでだ。なぜならいったん怪しまれると、猛犬の関所を通ることができないからである。訓練された犬というものは命令一下とびかかる。犬と命令する人とが一しょになっては猛犬の関所は通れない。呼鈴を押して、でてきた人をごまかすことができなければ、もはや侵入は不可能だ。

 犬だけならば、まだしも通過の可能性はあるものだ。主人の命令を受けない犬は必ずしもとびかかるとは限らない。こッちの態度によって噛みつかせない可能性もありうるのである。むしろ呼鈴をおさずに静かに門をくぐるべきだと判断した。

 もちろん左近は身に寸鉄もおびていなかった。十数頭の猛犬を小さな刃物で防ぐことができるはずもない。大きな猛犬はむしろ小さなテリヤよりも扱いよいものである。こちらの心構えによって奴らの不安を押えつけることができうるものだ。

 めざす家に到着した。彼は邸の外を一周したり偵察したりして犬どもに警戒の念を起させてはこまるから、なんのためらいもなく裏戸をあけて、なれた足どりで門内へはいった。静かに戸をしめて、平静に歩く。巨大な犬どもが諸方から吠えつつ次第に馳せ集ってきたが、あくまでそれには無関心に歩いた。賭けである。無関心か、死か。それだけだ。否。死あるまでは、ただ無関心あるのみである。一片の警戒もあってはならぬ。それでも噛みつく奴があれば、一片の警戒もないうちにアッサリ死ぬより仕方がない。赤ン坊と同じことだ。

 無事戸口まで辿りついた。ここで慌てずにダメ押しの無関心。首尾よく戸をあけ戸をしめてホッと大息。これでどうやら仕事の九割は成功したのだ。警戒は犬にまかせて、女中わずかに三名、玉子の病気に看護婦すらも雇うことをためらうという秘密の隠れ家だ。もうあせることはない。

 若い女中が現れた。犬の関所を悠々と突破してきた若者に呆然たるていであった。

「奥さんの病室はどちらですか」

 彼はもう靴をぬぎかけた。女中はそれにのまれて疑心すらも起すヒマがない。

「あの、どなたさまですか」

「奥さんの使い走りしている夏川という者です。取りついでいただく必要はないのですよ。ただ病室へ案内していただくだけで分りますから」

 秘密の家に秘密の客。当然ありうることだから、むしろ女中は疑念氷解の様子である。ジャンパー姿の怪しさも当然のものとうけいれた様子。犬の関所を通過したのが何よりの説得力となっているのだ。

 女中の差しだすスリッパを悠々とはいて、長い廊下をみちびかれ、病室の前にたどりついた。

「もう分りました。あなたは退って下さい」

「そうですか」

 と女中は戻って行った。

 左近は洋室のドアをあけた。ベッドに玉子がねている。婆やが一人つきそっていた。

「今日は。玉子さん。夏川左近です」

「アッ!」

 玉子は目をあいて、左近を見ると小さな叫び声をあげた。病み疲れて蒼ざめた顔。玉子は観念したように目をとじて、再びその目を開こうとしない。

 婆やが立ち上ろうとした。左近はそれを制して、

「すわっていなさい。別にあなた方には何もしません。ボクの邪魔だてさえしなければね。玉子さん。ボクが爆破するはずだった金庫はこの家の金庫だそうですね」

 玉子は覚悟をきめたらしく、ハッキリと目をあけて左近を見つめた。病み疲れてはいるが、意外に澄んだ目である。玉子は左近をためすように見つめて、

「そうです」

 と答えた。そして視線を左近の顔から放さなかった。

「それをきいて安心しました。ここの金庫でない時にはひッこみがつきませんからね。もうお分りでしょうが、ボクは約束通り金庫を爆破に来たのです。そして約束通り金庫の中の物を盗んで帰ります。しかし、神奈川氏に渡すためではありませんよ。金庫の中の物が秘密書類なら天下に公開します。またもしすでに一億五千万の金に変っているなら焼きすててコナゴナにします。そうしなければボクの怒りがおさまらないのです」

 その顔をジッと見つめて玉子は答えた。

「よく分ります。では、みんな御存知なんですね」

「あなたが葉子さんに告白した言葉と今朝の太平洋新聞の記事とを合せて、どうやら分ったのです」

「私も分っていただきたかった。今では、そう思っています。葉子さんに中途ハンパな告白しかできなかったことを今では後悔しているのです。私はあなたを殺す仕事の手びき役をしましたし、葉子さんを苦しめました。なおその上に大石弁造への復讐心から秘密書類を奪って住田に渡し、この騒動の元をつくったのも私です。秘密書類はまだ金庫の中にあります。今日の午後、一億五千万円と交換の手筈になっていますが、私は今ではその書類が再び大石一味の手に戻ることも、住田の手にとどまることも欲してはおりません。住田らの卑怯な約束通り、あなたの手に渡り、正しい扱いをうけて天下に公表されることを祈っております。せめてもの罪ほろぼしにお手伝いさせて下さい。私がお手伝いしなければ金庫は開きません。住田はどんなゴーモンをうけても金庫の開け方を口走るはずはないのです」

 玉子の目には真情があふれていた。のみならず、その真情を伝えるために媚びている目ではない。むしろ左近の本心を見誤るまいとするために全力をつくした目であった。そして本心を見とどけた目だ。信じきった目であった。左近はそれを理解した。

「住田の部屋はどこですか」

「二階のちょうどこの反対の側に当る突き当りです」

「住田とあなたのほかには女中三名だけですか」

「ほかに犬が十六頭。とても泥棒ははいれません。この犬を怖れずに邸内へ侵入できる人は自分の正しさに自信のある人だけですわ。私はビックリしました。しかし、それに気がついて、あなたを信じもしましたし、尊敬もしました。女中は私がこの部屋へ呼び集めて、あなたのお仕事が終るまで外へだしません。金庫をあける時に私を呼びにいらして下さい」

 玉子は呼鈴を押して階下から二名の若い女中を呼びよせ、自室のカギを左近に渡して、

「この部屋にカギをかけていらして下さい」

「ありがとう」

 左近は念のためカギをかけた。病人の玉子では三名の女中を制しきれない心配があったからである。

 住田の部屋を突きとめて、外から様子をうかがってみると、彼は余念もなく何か書き物をしている。よほどメモるのが好きなタチらしい。むろんこの邸内に犬の関所を通りぬけて左近が忍び入ったことなどは全く気がついていない。

 左近はサッと戸をあけて住田にせまった。住田がふりむいた時はおどりかかってねじ倒していた。腕の関節の逆をとってねじ伏せ、他の部屋から拾ってきた紐で手と足に縄をかけた。

「安心しなさい。別に命はとりません。キミの計画通り金庫を破って秘密書類を盗んで行くだけだ。キミの計画とちがうのは、ボクがたぶん犬に殺されずにここを立ち去るだろうということと、秘密書類が大石一味の手に渡らずに天下に公表されるだろうということだ」

 左近は住田を大きな本箱にくくりつけた。住田がうごけば本箱の下敷となるばかりである。

 左近は玉子の部屋へとって返して報告した。玉子は着物を着かえ、薄化粧して待っていた。再び部屋にカギをかけて、二人は金庫のある部屋へ行った。玉子はダイヤルをまわして、金庫をあけた。

「これが秘密書類です。これだけが汚職事件の物的証拠だそうです。あなたはこれをどうなさる?」

「ハッキリした当てはありませんが、いまの世相では国民の友達は新聞だけのようですから、太平洋新聞へとどけようかと思っています」

「それがよろしいわ。では私についてらッしゃい。犬をなだめますから。あなたが新聞社へおつきのころまで、この家の者は一歩も外へ出させません」

 玉子はともすればくずれそうな足どりをふみしめながら左近を階下へ案内し、庭へでて犬をなだめてくれた。

「御無事にね」

「ありがとう」

 左近を送りだして潜戸をしめると、力がつきはてて玉子は思わず潜戸に顔を伏せたが、やがて顔をあげた時には、明るい輝きがみちていた。

「ありがとうは、私が左近さんに云わなければならない言葉だったわ。私も今からは人間になったのだ。左近さん。ありがとう」

 そして左近が太平洋新聞の応接室で社会部長や次長らにかこまれて秘密書類奪取のイキサツを語っているころ、玉子は緑の自動車ではないタクシーをよんで、いずこともなく姿を消し去るところであった。

 今から人間になるために。

底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房

   1999(平成11)年620日初版第1刷発行

底本の親本:「講談倶楽部 第六巻第九号~第一一号」

   1954(昭和29)年71日~91

初出:「講談倶楽部 第六巻第九号~第一一号」

   1954(昭和29)年71日~91

※「甚しく」と「甚だしく」の混在は、底本通りです。

入力:tatsuki

校正:北川松生

2016年34日作成

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