巴里の獨立祭
與謝野晶子



 七月十三日の晩、自分は獨立祭の宵祭の街の賑はひを見て歸つて、子供の時、お祭の前の夜の嬉しかつたのと殆ど同じほどの思ひで、明日着て出る服や帽を長椅子の上に揃へて寢た。夜中に二三度雨が降つて居ないかと聞耳を立てもした。けれど、それは日本の習慣が自分にあるからで、高い處に寢て居る身には、雨が地を打つ音などは聞えやうが無い。マロニエの梢を渡る風がそれかと思はれるやうな事がままあるくらゐである。そんなに思つて居ながら、夜更かしをしたあとなので、矢張朝が起きにくい。それに、此處は四時前にすつかり空が明るくなつてしまふ。神經質の自分には、到底安眠が續けられないので、眠い思ひをしながら何時も起き上るのである。顏を洗つて髮を結つた時、女中のマリイがパンとシヨコラアを運んで來た。まだ八時前で、平生ふだんよりも一時間ほど朝の食事は早いのである。

「お祭を見に出るか」

 と良人が云ふと、

「ウイ、ウイ」

 と點頭きながら答へるマリイの目は嬉しさに輝いて居た。

「祭は午後でないと見に行つても面白くないのだよ」

 と良人に云はれた時、自分はまた子供らしい失望をしないでは居られなかつた。讀書をして居ると十時前にマリイが廻つて來た。何時もは午後四時過ぎでないと來てくれないのである。良人が市街の地圖を出して、何處が一番賑やかなのかと聞くと、プラス・ペピユブリツクだと云ふ。其處は巴里市内の東に當つて革命の記念像が立つて居る廣場である。マリイは十一時頃に晴着のロオヴを着て出掛けて行つた。自分はトランクの上の臺所で晝御飯の仕度にかかつて、有合せの野菜や鷄卵たまごや冷肉でお菜を作つた。お祭だと云ふ特別な心持で居ながら、やはり二人ぎりで箸を取る食事は寂しかつた。一時半頃に服を更へて家を出た。

「まあペピユブリツクへ行つて見るんだね」

 と良人は云つて、ピガル廣場から地下電車に乘ることにした。人が込むだらうからと云つて一等の切符を買つたが、車は平生よりも乘客のりてが少かつた。同室の四五人の婦人客は皆ペピユブリツクで降りた。この停車場は餘程地の上へ遠いのでエレベエタアで客を上げ下しもするのである。音樂の囃を耳にしながら何方へ行かうかと暫く良人と自分は廣場の端を迷つて居た。聞いた程の人出は未だないが、ルナパアク式の興行物の多いのに目が眩む樣である。高く低く上り下りしながら廻る自動車臺の女七分の客の中に、一人薄絹のロオヴの上に恐ろしい樣な黒の毛皮の長い襟卷をして、片手で緋の大きな花の一輪附いた廣い帽を散すまいと押へた、水際だつて美しい女が一人居た。子供客は作りものの馬や豚に乘せて回轉する興行物に多く集まつてゐる。聞けばミカレエム祭や謝肉祭のやうに人が皆假裝をして歩いたり、コンフエツチと云ふ色紙の細かく切つた物を投げ合つたりする事はこの日の祭にはないのである。自分等はそれからルウヴル行の市街電車に乘つた。初めて自分は二階の席へ乘つたのである。細い曲つた梯子段に足を掛けるや否や動き出すので、其危ないことは云ひ樣もない。唯この蒸暑い日に其處ではどんなに涼しさが得られるか知れないと云ふ氣がしたのと、ルウヴルが終點であるから降りるのに心配がないと思ふからでもあつた。この祭は勞働者を喜ばす祭と云はれて居るだけあつて、高い席から見て行く街街の料理店レスタウランには酒を飮んで歌ふ男の勞働者、嬉しさうに食事をして居るマリイの樣な女の組が數知れず居た。惡い氣持のしない事である。自分等は電車から降りてルウヴル宮に沿うたセエヌの河岸のマロニエの樹下道を歩いてトユイルリイ公園へ入つた。上野の動物園前の樣な林の中の出茶屋でぢややで休んで居ると、傍で鬼ごつこを一家族寄つてする人たちも居た。コンコルドの廣場へ出ると各州を代表した澤山の彫像の立つて居る中に、普佛戰爭の結果、獨逸領になつたアルサス、ロオレン二州の代表像には喪章が附けられ、うづだかく花輪が捧げられてあるのを見て、外國人の自分さへもうら悲しい氣がした。花を手向けたい樣な氣もした。けれど其廻りを取卷いた人達は何も皆悄然として居るのではない。未來に燃える樣な希望を持つ人らしい面持が多いのであつた。それから自分等はシテエ・フワルギエエルの滿谷氏の畫室近くまで、また地下電車に乘つて行つたが、滿谷氏等はもう祭見物に出掛けた跡であつた。それから、カンパン・プルミエの徳永さんの畫室まで歩いて行つた。氏とは昨夜宵祭を見て歩いたのである。日本の話をした後で近日から自分が此畫室へ油畫の稽古に通はして貰ふ約束などをして、氏と別れてリユクサンブル公園へ入つた。そして、その近くのレスタウランで夕食ゆうげを濟して、また公園へ歸つて來た。一人一人に變化のある、そして氣の利いた點の共通である巴里婦人の服裝を樹蔭の椅子で眺めながら、セエヌ河に煙花はなびの上る時の近づくのを待つて居た。七時半頃になつて街へ出たが、まだ飾瓦斯も飾提灯の灯もちらほらよりついて居ない。サン・ミツセルの通に竝んだ露店が皆ぶん廻し風の賭物遊びの店であるのに自分は少し情けない氣がした。河岸へ出るともう煙花の見物人が續續と立て込んで居る。警固の兵士が下士に伴れられて二間おきぐらゐに配置されて立つて居た。河下へ向いて自分等は歩いて居るのである。晝間歩いた向河岸に當る邊は見物するのに好い場所と見えて、人が多い。今夜は橋の上を通る人に立留ることを許されない。また遊覽船を除いた外の船は皆岸に繋がれて居た。振返つて見ると高臺にはもう灯が多くついて瞬間に火の都となつた樣に思はれる。自分等はルウヴル宮の横の橋を渡つて北岸で見物する事にしたが、待つて居るのに丁度程よい場所がない。ふと橋の下から掛けて左右に荷揚場の石だたみが廣く河に突き出て造られてあるのに氣が附いて、良人は其處へ降りようと言つた。降り口の石段が二處に附いて居る。降りて見ると下にはまだ見物人が四五人より來て居ない。併し此處にも兵士が三人許り警固に置かれてあつた。何故だか橋を境にして左の方へは行くことを許されない。水際の石崖に腰を下すと、涼しくて、そして悲しい樣な河風が頬を吹く。十分二十分と經つ中に河岸の上の人數が次第に殖え、自分達の場所を目掛けて降りて來る人も多くなつて行く。積んだ材木の上に初めは腰を掛けて居たのが、何時の間にか其上に上つて坐る人の出來る事なども、東京の夏の夜の河岸の風情と同じ樣である。兩國の川開きであるなどと、自分は興じて良人に言つて居た。九時半頃に、それは極く小さい煙花の一つがノオトル・ダムのお寺の上かと思ふ空に上つた。風でも引いては成らないからもう歸らうと良人が言つて、十時頃に三四發續いて上るのを見てから河岸の上へ上つた。丁度さうした頃から華美な大きい煙花が少しの休みもなしに三ヶ所程から上るやうになつたのである。自分等はまたルウヴル宮の橋のたもとの人込に交つて空を仰いで居た。四種か五種の變化より無くて、日本のに比べては技巧の拙いことを思はせるのであるが、滿一時間少時も休む間無しに打上げられる壯觀は、煙花は消えるもの、樂しさとはかなさとを續いて思はせるものだなどとは、夢にも思はれない華美な珍らしい感を與へられるのであつた。二十分程のうちに其後の空に火の色の雲が出來た。最終のは殊に大きく長く續いてセエヌ河も亦火の河になるかと思はれる程であつた。今夜は辻待の自動車や馬車が大方休んで居て偶にあつても平生の四倍ぐらゐの價を云ふので、自分等は其處からゆるゆると井゛クトル・マツセの下宿まで歩いて歸つた。途中の街々のイルミナシヨンの中ではオペラの前の王冠が一番好いと思つた。寢臺へ疲れた身體を横たへ乍ら、街街の廣場の俄拵への囃し場で奏して居る音樂に伴れて多數の男女が一對の團を作り乍ら樂しさうに踊つて居た事などを思つて、微笑んで居た。門涼みをして居る人達までもじつとしては居られない氣持になつて、暗がりに手を擴げて踊る振をして居た事なども思ひ出された。女中のマリイは曉方の四時に歸つたと、次の日に話して居た。(七月十五日)

底本:「定本 與謝野晶子全集 第二十卷 評論感想集七」講談社

   1981(昭和56)年410日第1刷発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:Nana ohbe

校正:今井忠夫

2003年1215日作成

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