安吾武者修業
馬庭念流訪問記
坂口安吾
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立川文庫の夢の村
私たちの少年時代には誰しも一度は立川文庫というものに読みふけったものである。立川文庫の主人公は猿飛佐助、百地三太夫、霧隠才蔵、後藤又兵衛、塙団右衛門、荒川熊蔵などという忍術使いや豪傑から、上泉伊勢守、塚原卜伝、柳生十兵衛、荒木又右衛門などの剣客等、すべて痛快な読み物である。子供たちはそれぞれヒイキがあった。私は猿飛佐助が一番好きであったが、剣術使いの方では主人公ではなしに馬庭念流という流派にあこがれていたのである。
立川文庫の馬庭念流は樋口十郎左衛門が主人公である。けれども、この主人公の物語よりも、他の剣術使いの物語の中に現れてくる馬庭念流の扱われ方のほうが甚だ独特で面白いのである。
剣の諸流派の中で、馬庭念流だけが一ツ別格に扱われている。馬庭という片田舎の小村に代々その土地の農民によって伝えられてきた風変りな剣術がある。その村では村民全部が剣術を使う。むろん村民は百姓でふだんは野良を耕していることに変りはないが、かたわら生れ落ちると剣を握って念流を習っているから、それぞれ使い手なのである。
諸国の腕自慢の輩が武者修業の途中にちょッと百姓剣法をひやかしてやろうというので馬庭村へやってくる。野良の百姓に村の道場はどこだと尋ねて、この村の先生はクワの握り方と剣の握り方の区別ぐらいは心得ているだろうな、なぞと悪態をついて百姓をからかう。すると百姓がやおら野良から上ってきて棒きれを探して振りしめて、
「お前さんぐらいならオレでも間に合うべい。打ちこんできなさい」
というような挨拶をのべる。何をコシャクなと武者修業が打ってかかるとアベコベに打ちのめされて肥ダメへ墜落するようなウキメを見てしまうのである。
立川文庫の場合に於ては、一般に風変りなもの、たとえばクサリ鎌や小太刀や宝蔵院の槍など、別格視されるとともに、異端視され、時には敵役に廻されたり負け役に廻されたり、あまりよい扱いを受けないのが普通で、子供たちの多くもクサリ鎌使いなぞは好まないのが普通であるし、また好まなくなるのが当り前の取り扱いを受けてもいるのである。ところが馬庭念流はそうではない。甚しく別格に扱われているけれども、常にひそかな親愛をもって扱われているようで、いわば万人がそのふるさとの山河に寄せる愛情のようなものが常にこの流派にからんで感じられるような気がするのである。馬庭念流を使う敵役なぞは出てこない。それを使うのは善良温和な百姓なのだ。頭ぬけた使い手には扱われていなくとも、どんな剣の名人もこの村で道場破りはできないのだ。
村の農民によってまもられ伝えられてきた剣法。日本の講談の中で異彩を放っているばかりでなく、牧歌的な詩趣あふれ、殺伐な豪傑の中でユーモラスな存在ですらある。
私は馬庭という里は架空の地名ではなくとも、百姓剣法馬庭念流はいわば講談作者のノスタルジイの一ツで、立川文庫の夢の村にすぎないのだと思っていた。まさに少年時代の私にとっても愛すべく、また、なつかしい夢の村であった。そして、夢の中でしか在りえない村だと思っていたのだ。
たまたま私は一昨年から上州(群馬県)桐生に住むようになり、郷土史を読むうちに、馬庭が実在の地名であるばかりでなく、馬庭念流が今も尚レンメンと伝えられ、家元樋口家も、その道場も、そして剣を使う農民たちも、昔と同じように今もそうであることを知って茫然としたのである。
今の呼び方では群馬県多野郡入野村字馬庭。字である。戸数は二百戸ほど。高崎から上信電鉄でちょッとのところである。
上州には今から千何百年前の石碑が三ツある。多胡碑、山上碑、金井沢碑と云って、いずれも歴史上重要なものであり、私にとっては一見の必要あるものであったが、呆れたことにはこの三碑がまるで馬庭をとりまくように散在していた。多胡碑の里から火事がでて馬庭へ飛び火したこともあるそうだ。馬庭の旧家高麗さんは頭をかいて、
「隣り村の火事と安心して見物にでかけた留守に私の家の屋根が燃えはじめていました。上州のカラッ風は油断ができません」
そして、こう教えてくれた。
「私の父も念流の目録まで受けた人ですが、私は剣は使いません。馬庭で一番古いのが私の家で、その次に樋口家が移住して、ごらんのように隣り合って家をたて村をひらいたのだそうですが、そんなわけで私の家だけは無理に剣を習わなくてもよいのだと父が言っていました。他の家は必ず剣を習わなければならない定めになっていたのです。戦前まではそうでした」
一村すべて剣を使うということも架空の話ではなかったのである。樋口家の馬庭移住は天正のころ、織田信長のころだ。今から三百七八十年前である。したがって附近の三碑ほど大昔からひらかれた里ではなかった。しかし、樋口家が土着した瞬間から、この里は剣の里であった。野良を耕す人々の剣を使う里。そして今もそうだ。立川文庫の夢の里は昔そのままの姿で実在していたのである。
名人又七郎
例年の一月十七日が樋口道場の鏡開きで、門弟すべて参集し、また客を招いて型を披露するという。つまり寒稽古の始まる日だ。その終るのが三月十七日で、まる二ヵ月の長い寒稽古だが、昔からの定めだという。要するに農閑期でもある。そして重だつ門弟はとにかくとして、一般の里人が剣を習うのはこの期間なのである。
関東平野の一端が山にかかろうとするところ。倉賀野から下仁田をへて信州の八ヶ岳山麓へ通じる非常に古い街道。この街道筋には上州の一ノ宮や大きな古墳なぞが散在して、いかにも太古からの道という感が深い。
この街道をちょッと行って、小さな丘の陰、こんなところに道があったかと思うようなところで街道をそれる。するとキレイな川が流れていて、その川の向う側が馬庭なのだ。竹ヤブが多い。
道場の門をくぐると村の子供たちが群れている。そして門内にアメ屋、フーセン屋、オデン屋、本屋、オモチャ屋など七ツ八ツの露店が繁昌しているのである。全然村のお祭りである。道場びらきなぞという厳めしさとは全く縁のない村祭りの風景であった。それも門前でなしに門内に店が並んでいるのだから、田舎の子供の園遊会のようなものだ。道場がせまいので、庭で武技を行うのである。
念流の伝授以来二十四代もうちつづいて、里人すべてを門弟にしている旧家だから、大家族、大教祖の大邸宅を想像するのは当然だが、立派なのは道場だけで、実に質素なただの百姓屋である。ただの中百姓屋だ。
何百年の武の伝統と里人すべての尊敬をうけながら、終始一貫里人と同じ小さな百姓屋にただの百姓ぐらしをしてきたとは痛快じゃないか。これこそは馬庭念流というものの真骨頂であろう。まさに夢の里だ。道場以外は百姓用のものばかりで、どこにも武張ったところがなく、威厳を見せているところもない。痛快なほど徹底的にただの百姓屋である。村の旦那の風すらもないただの百姓屋であった。しかも、それにも拘らず、村をあげてのお祭りだ。門弟や里人の念流と樋口家に対する態度は、まさしく教祖や神人に対するそれで、村の誇りであり、彼らの生き甲斐ですらもあるように見うけられるほどだ。実質的にかくも大きな尊敬をうける教祖や神人がこんな質素な住居にいるのはこの里だけのことであろう。
樋口家は木曾義仲の四天王樋口次郎兼光の子孫である。次郎兼光の妹は女豪傑巴だ。もっとも、樋口の嫡流は今も信州伊奈の樋口村にあって、馬庭樋口はその分家である。
足利三代義満のころ、まだ南北朝の抗争のうちつづいたころであるが、奥州相馬の棟梁に相馬四郎義元という剣の名人があった。この人が後に入道して念和尚と名を改め、諸国を行脚して剣を伝えて歩いたが、行く先々で鎌倉念流、鞍馬念流、奥山念流なぞと諸国に念流を残し、最後に信州伊奈の浪合に一寺を造って定着し、ここで多くの門弟に剣を伝えた。この浪合で印可皆伝をうけたものが十四名あって、その一人に樋口太郎兼重があり、これが馬庭念流の第一祖である。
三世のころ、上杉顕定に仕えて上州小宿へ移ったが、八世の又七郎定次のとき馬庭へ土着し、ここから百姓剣法が始まるのである。今は二十四代である。
したがって、馬庭念流という独特のものは八世又七郎に始まると見てよい。彼はまた馬庭念流二十四代のうちで最も傑出した名人でもあったようで、念流本来の極意書が樋口家に伝わるようになったのも又七郎の時からである。
又七郎が馬庭に土着して道場をひらいたころ、高崎藩に村上天流斎という剣客が師範をつとめていた。どっちが強いかという評判が高くなって、ついに藩の監視のもとに烏川の河原で試合することとなった。天流斎は真剣、又七郎はビワの木刀で相対したが、又七郎の振下した一撃をうけそこねて天流斎は即死した。天流斎のうけた刀と、又七郎の打ちこんだ木刀とが十字形に組んだまま天流斎の頭を割ってしまったので、これを十字打ちと伝えている。ちょうど宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で勝負を決したのと同じころの出来事である。
又七郎は諸方から仕官をもとめられたが一切拒絶して土に親しみ、独特の百姓剣法がここにその性格を定めたのである。又七郎が天流斎の頭をわったというビワの木刀が今も樋口家にあるが、ひどく軽くて、短い。宮本武蔵が重い木で五尺にちかい木刀を振りまわしたのに比べて、全くアベコベの木刀だ。近年、門弟の一人が振り廻して遊んでいるうちに石に当って折れてしまった。
「惜しいことをしたなア。若い者はノンキな奴ばかりで」
と四天王の老人が笑いながら折れた木刀を見せてくれたのであるが、別に惜しそうな顔ではない。むしろノンキな若い者を慈しんでいる笑顔であった。
類型絶無の剣法
立川文庫によると、野良から上ってきた百姓が棒キレを探してヘッピリ腰で身構えるので、この土百姓めと武者修業がプッとふきだしてただ一打ちにと打ってかかるとヒラリと体をかわされ、のめるところを打たれて肥ダメへ落ちてしまう。百姓剣法とはいえ、ヘッピリ腰の構えなんてあるはずがないと考えていたが、事実がまさにそうだから、おどろいてしまった。
これを馬庭念流で「無構え」という。他流の構えと雲泥の差がありすぎる。これを説明するには写真を眺めていただく以外に手がないのである。
右足を前へだして膝をまげ、左足を後へひいて踵を浮かして調子をとっている。これだけで存分に風変りなところへ、剣を横ッチョへ寝かせてブラブラ調子をとっているのだから、武者修業がプッとふきだすのは無理がない。まるで肥ビシャクを汲みあげたところといった構えである。
しかし、シサイに見物していると、これぐらい実用向きの怖ろしい剣法はないということが段々とわかってくるのである。彼らはいつも四五間の間をとって構えている。突然とびだして一撃で勝負を決しようというのだ。真剣勝負専門の構えなのだ。
突然とびだすに一番調法な構えである。両足を前後いっぱいに開いて膝をまげたこの構えは、疾走するランニング選手の疾走しつつある瞬間写真によく似ている。疾走する姿を定着させ、全身にハズミをみなぎらせて瞬間の突撃をもくろんでいるのである。横ッチョに寝てブラブラしている剣が突然敵の頭上へおどりかかるのだ。その一手である。突きもないし、横なぐりも殆どやらない。たぶん、真剣勝負とはそういうものなのだろう。馬庭念流には真剣勝負専門の一手あるのみで、余分の遊び手やキレイ事が全然ない。百姓剣法なぞとは大マチガイで、これぐらい真剣勝負に徹した剣法は類がなかろう。
弟子が打ちこむと、先生がうけとめて、打ちこんだ木刀をさらにグッと押させる。打ちこむごとにこれをやらせる。打ちおろした力の強さ、押しつける力の強さをはかって上達を見わけるのだが、打ち下した木刀をさらに力いっぱい押しつける稽古など、真剣専門の稽古でなくて何であろうか。竹刀でパチパチなぐりッこの他の剣術とは類がちがうのだ。だから、高弟二名が真剣をふるって行う型は最も見事である。
江戸のころ、剣術使いをヤットー使いと云ったものだが、馬庭では今でもヤットーというカケ声を用いている。ヤットー。ヤヤヤ、トトトー。エー。オー。実戦さながらに勇ましい。面小手も昔のままの珍妙なもので、袴も普通の袴をつけ一々モモダチをとってから木刀を構える。試合がすんで礼を終えて後に至っても油断しない。自席に戻りつくまでギロリと目玉を光らせて敵の卑劣な攻撃にそなえていなければならないのである。これが馬庭念流の特別の心得で、これを「残心」と称し、残心を忘れて試合終了後にポカリとやられても、やられた方が未熟者だということになるのである。これも実用専門である。徹底的に実用一点ばりの剣法を農民が伝えてきたのだから痛快だ。しかもこの農民たちは剣をたのんで事を起したことが一度しかない。ただ先祖伝来の定めとして、田畑を耕すことと剣を学ぶことを一生の生活とし天命としているだけのことだ。
見るからに畑の匂いをプンプン漂わしている老翁たち。八十をすぎた門弟たちも数名いる。八十すぎの老翁たちはそろって剣法がそれほど上手ではないようで、五十、六十がらみの高弟から太刀筋を直されて、わかりました、とうなずいている。しかし七十余年も太刀を握って育ったのだから、いったん太刀を握って構えるや、野良の匂いのプンプンする老農夫が、突如として眼光鋭く殺気みなぎる剣客に変るから面白い。曲った腰がピンと張るのが実感されるのである。
私は剣をとった老翁たちの眼光が一変して鋭くなるのに打たれた。たしかに殺気横溢の目だ。しかも殺気横溢ということがこんなに無邪気であることを、これまでその例を知らなかった。実に鋭く、そして無邪気な眼。馬庭念流の眼だ。
この流儀は間をはかって突如打ちかかり打ちおろす一手につきるようであるが、その訓錬はゴルフの訓錬によく似ている。
ゴルフは固定しているボールをうつのであるから、ボールを最も正確に最も強く打つ最良のフォームというものが理想型としてほぼ考えうるのである。各人の体形に合せてその理想型を消化し会得しなければならないのだが、一流のプロになるには一日少くとも五百回打撃の練習をし、さらにコースをまわり、一日中ゴルフで暮して少くとも二十年、十四五でクラブを握って四十前後に最盛期に達し技術も完成すると云われている。しかし、技術的にはついにフォームの完成しないプロの方が多いそうだ。静止しているボールを打つだけで、そうなのである。
打たれまいと用心している人、そして隙あらば打ってかかろうとしている人に決定的な一撃を加えることは、それよりも困難にきまっている。馬庭念流が打ち下す一手に一生の訓錬をかけているのは少しもフシギではない。手だけが延びすぎた、アゴがでた、腰が浮いたと一打ごとに直され教えられて、八十の老翁が歯をくいしばって打ち下した太刀を押しつけている。それは他の道場の練習風景とはまるで違う。そして老翁の稽古が終ると見物の人たちからパチパチと拍手が起る。しかし老翁は例の残心の心得によってまだ目の玉を光らせ、相手を睨みつけながらモモダチを下して自分の席へもどる。そこでやっと元の百姓にもどって汗をふくのである。
「ウム。何々さんも腕が上ったなア」
と見物の中でささやく声がきこえる。腕が上ったとほめられてるのは頭のはげた六十五六の老人なのだ。
四天王筆頭の使い手がナギナタを相手に戦う。ナギナタの婦人は死んだ先代二十三世の妹である。四天王は立つや否や足をバタバタ間断なく跳ねてナギナタの足払いに備えている。そしてナギナタの足払いはそれによって概ね外すことができるけれども、時々ハッシと斬られて、
「参った。完全に、やられた」
ひどく正直である。私は剣道については知らないから、他流との比較を知るために、講談社の使い手の一人K君に同行を願ったのである。私は訊いた。
「他流でも、あんなことをやりますか」
「とんでもない。何から何まで類型なしです。ちょッとだけ似ているものすらもありませんよ」
間断なく足をバタバタ跳ねて走りまわりながら斬ったりよけたりしているから、てんで剣術らしい威厳がない。満場ゲラゲラ大笑いであるが、なるほどナギナタと戦うには、こんなことでもしなければ女の子に易々と斬り伏せられるに相違ない。イノチの問題だから見栄や外聞は云っていられない。ただもう実用一点ばりの剣術だ。
馬庭念流の門弟中で名高いのは堀部安兵衛だ。越後の新発田から上京すると、馬庭が順路に当るから、自然念流の門を叩くようになったらしく、三年間内弟子の修業をしたそうだ。だから、高田の馬場の仇討も、無構えのヘッピリ腰でやった筈で、さだめし相手も面くらったに相違ない。
この村が一度喧嘩をした話
馬庭の里があげて一度だけ騒動を起しかけたことがあった。その相手は千葉周作とその門弟だ。
千葉周作がまだ血気のころのことらしく、当時彼は高崎在、引間村の浦八の家に泊り、そこで剣術を教え門弟を集めていた。集まる門弟の中には念流を破門された連中も加わっていて、馬庭念流を尻目に天下一の名人千葉周作の名を宣伝してまわった。あげくに千葉一門は伊香保温泉へ赴き薬師堂へ額を奉納したのである。
念流の人たちは千葉一門の行動をかねて不快に思っていたが、額奉納で怒りが爆発した。他郷の者が薬師堂に奉納額をかけるとは馬庭念流を侮辱するものだと、その額をひきずり下して念流の額をあげるために、師匠には隠して門弟一同馬庭を脱出、伊香保に向ったのである。赤堀村の本間道場からも六十余名の助勢がくる。また諸所の村里からも念流の門弟が伊香保をさして馳せ参じ、総勢七百余名になった。
伊香保には大屋と称する湯宿が十二軒あったが、その一軒の木暮武太夫旅館に千葉一党が宿泊し、他の十一軒は念流の一党で占領してしまったのである。
岩鼻の陣屋から役人が出向き、千葉の奉納額を止めさせて事は一たん落着したが、今度は千葉一党がおさまらない。引間村の浦八方に全員集合し伊香保へ攻め登る用意にかかる。伊香保の念流一党はこれを知って夜戦の符号や合図を定め山林中に鉄砲を構えて敵を待つ。この騒動が十日つづき代官が説得に一週間もかかってようやく伊香保の念流一党を解散帰村させることができた。結局本当の衝突には至らなかったのである。
これが馬庭の里人の仕でかしたたった一度の騒動であるが、これも念流と師家に対する尊敬の厚きがためである。馬庭の土と念流とが彼らの人生の全てなのだから、代官が説得に一週間もかかったのは無理もなかろう。千葉周作の講談では千葉一党が勝ったように語られている由であるが、これは全くのマチガイで、実際の衝突には至らなかった。そして馬庭の里人にとって千葉周作の講談ほどシャクにさわるものはないらしく、四天王も立川文庫の千葉周作をちゃんと読んでいるのである。
「その立川文庫に樋口十郎左衛門というのがありましたね」と訊いてみたら、
「ハ? 存じません。当家は代々十郎右衛門でして、十郎左衛門はおりません」
とフシギそうに答えた。立川文庫の馬庭念流は全然読んでいないらしい。そういう本の存在も知らない様子であった。作中人物その人は自分の物語を読まないらしい。自分の人生が念流そのものであり、それに尽きているらしい。夢の里の人物には夢みる必要がないのかも知れない。
源氏の剣法
頼朝が諸国の源氏を集めたころ、そのころの源氏の豪傑たちはいずれも各々の地で百姓をしながら武技の鍛錬を怠らなかった里人であった。後世の武士とは全く異り、いわば馬庭の里人の如きものが武士の原型であり、源氏の豪傑本来の姿でもあった。だから、一撃必殺を狙う剣法が農民の手で伝えられても、必ずしも怪しむには当らない。
しかし、この剣法が余りにも風変りで、また実用一点ばりであるから、私も考えこまずにはいられなかった。今日に伝わる剣法の諸流の中で、念流は最も古いものの一つであるが、源氏の豪傑の剣法がこんなものであったかも知れないと思ったのである。
樋口家には十数巻の奥義書があり、虎の巻、獅子の巻、竜の巻、象の巻、犬の巻なぞと名がついていて、これは一子相伝で、高弟といえども見ることのできなかったものであった。この巻物の中には非常にコクメイに術について説かれたものもあり、それはゴルフの教本のように基本を説いているものもあったが、私が何より興味をひかれたのは「虎の巻」の一巻、本名を「兵法秘術の巻」と称するものであった。
およそ念流の剣法とは何の関係もないものである。八幡太郎義家時代の兵法とすらも関係はなかろう。もっともっと古いものだ。なぜなら、この秘術とは全部が咒文だからである。たとえば、敵を組み伏せても刀が抜けない時には南方を向き次の咒文を三べん唱えると刀がぬけるなぞとある。また、敵と戦い刀が折れた時にはどんな仕ぐさをしてどんな咒文を何べん唱えると刀が手にはいる、というのもある。
敵を組みしいたり、敵を前においたりしてやおら向きを変えて、妙な仕ぐさをして咒文を何べんも唱えるようなノンキな戦争は、源平時代にもすでに有り得なかったであろう。
敵の目に姿が見えなくなるという忍術同様の秘法もあり、敵に殺されない咒文、矢に当らない咒文、神様をよぶ咒文、傷を治す咒文等々、およそ念流という実用一点ばりの術の精神にも反するものである。念流そのものとは何らの関係もないものだ。
しかしながら、このような仕ぐさや咒文が真に兵法の秘法として信じられ、実用されていた時代も確かにあったに相違ない。
たとえば神功皇后や竹内宿禰なぞの時代、犯人を探すにクガタチと称し熱湯に手を入れさせ、犯人なら手が焼けただれる、犯人でなければ手がただれないと称して、これが公式の裁判として行われていたような時代である。
当時ならば出陣に当ってまず咒文を唱えて神様をよび、事に当って一々咒文を唱え、雲をよび、風を封じ、刀が折れては敵の眼前に於て咒文を唱えて刀をよび、傷をうけては咒文を唱え、傷の手当をするようなことも実際に行われていたかも知れないのだ。
立川文庫によると、忍術の咒文は「アビラウンケンソワカ」というのであるが、念流虎の巻四十二の咒文もすべて「ソワカ」で終っている。もっとも「アビラウンケンソワカ」という咒文はない。その咒文は主として梵字のようなものと、少数は漢字を当てて書かれており、これにフリガナがついているのである。一見したところダラニ風だが、私にはむろん意味がわからない。
この秘法は人皇九代開化天皇の時に支那からわが中つ国に伝わり、十五代神功皇后がこの法を用いて戦勝したが、その御子の応神天皇があまりにも秘法のあらたかのため他人に盗用されるのを怖れ、暗記の上で紙をさいて食べてしまった。このためにいったん絶えたが醍醐天皇がこの秘法をもとめて支那へ大江惟時をつかわし惟時は朱雀天皇の世にこの書を探し求めて戻ってきた。しかし世上には偽書七十二巻を作って流布し、正書は誰にも見せなかった。八幡太郎義家が奥州征伐にでかけるとき、はじめて天皇が正書を義家に授与された、ということになっている。
むろんこの由来記をそのまま信じるわけにはいかないが、すくなくともこの秘法は念流の秘法ではない。実用一点ばりの念流の精神に全く反しているからだ。
何かの理由があって、念流の開祖念和尚の家に伝わっていたのかも知れない。念和尚は俗名相馬四郎義元と云い、奥州相馬の棟梁だったというから、この巻物を伝えるような何かのイワレがあるのかも知れない。ともかくこれを剣の技術的な奥義書とならべて加えたのには別の意味があったのだろう。念流そのものは、およそこの秘咒に縁のない剣法だ。
この巻物に示されている念流の伝統は、樋口家の口伝のものとは異っていて、樋口家にとっては口伝よりも不利である。寛永御前試合に活躍したという定勝の名も、虎の巻の伝統には現れてこないのである。寛政のころ複写されたものらしいが、樋口家にやや不利であったり、講談の豪傑が出てこなかったりするので、かえって信用できるような気がするのである。これは一子相伝で、最高の高弟ですら見ることができなかったものであるから、ここには装飾の手が加わらなかったのではあるまいか。弟子が見ると摩利支天の罰が当り、目がつぶれると云われていたそうだ。
他の奥義書はよく見ていないから分らないが、技術的なものを説いたものは、これはまた甚しく具体的にコクメイに書かれていて、およそ奥義書風でなく、むしろ現代の何かの教本の如きもので、これこそは実用一点張りの念流にふさわしいものであった。全部をシサイに見れば貴重で多くの興味ある文献が含まれているのかも知れない。
私は虎の巻を見ているうちに、現代を忘れた。馬庭念流すらも忘れた。諸国の源氏が一族郎党をひきつれて急を知って馳せ向う大昔を思いだしていたのだ。馬庭念流を百姓剣法と云うのは、半分は当っているが、半分は当らない。むしろ源氏の剣法だ。諸国の源氏が野良を耕しながら武をみがき、時の至るを待っていたころの姿が、そっくりこうだったに相違ない。違っている一事といえば、馬庭ではもう時の至るを待っていないだけだ。それだけに、畑に同化するように、剣にも同化し、それを実用の武技としてでなく天命的な生活として同化しきった安らぎがある。一撃必殺を狙う怖るべき実用剣を平和な日々の心からの友としているだけなのだ。全身にみなぎりたつ殺気はあるが、それはまたこの上もなく無邪気なものでもある。終戦後は村の定めも実行されなくなって、寒稽古にでる若者の姿が甚しく少くなってしまった。
「みんなスケートやスキーを面白がりまして、そっちへ行きたがりますな」
四天王はこれも天然自然の理だというような素直な笑顔で云った。馬庭の剣客は剣を握って立つとき以外は、温和でただ天命に服している百姓以外の何者でもない。まったく夢の村である。現代に存することが奇蹟的な村だ。この村の伝統の絶えざらんことを心から祈らずにいられない。
読者の皆さんも道場びらきのお祭り風景を写真で味っていただきたい。他流の道場にみられる武芸者のいかめしさは全く見当らない。村の園遊会なのだ。ただほほえましいだけである。
底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「講談倶楽部 第六巻第五号」
1954(昭和29)年4月1日発行
初出:「講談倶楽部 第六巻第五号」
1954(昭和29)年4月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年4月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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