巴里まで
與謝野晶子
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浦潮斯徳を出た水曜日の列車は一つの貨車と食堂と三つの客車とで成立つて居た。私の乘つたのは最後の車で、二人詰の端の室であるから幅は五尺足らずであつた。乘合の客はない。硝子窓が二つ附いて居る。浦潮斯徳に駐在して居る東京朝日新聞社の通信員八十島氏から贈られた果物の籠、リモナアデの壜、壽司の箱、こんな物が室の一隅に置いてあつた。手荷物は高い高い上の金網の上に皆載せられてあつた。浦潮斯徳の勸工場で買つて來た桃色の箱に入つた百本入の卷煙草と、西伯利亞の木で造られた煙草入とが机の上に置いてある。是等が黄色な灯で照されて居るのを私は云ひ知れない不安と恐怖の目で見て居るのであつた。終ひには兩手で顏を覆うてしまつた。ふと目が覺めて時計を見ると八時過であつたから私は戸を開けて廊下へ出た。四つ目の室に齋藤氏が居る。其前へ行くと氏が見附けて直ぐ出て來た。食事が未だ濟まないと云ふと、食べないで居ると身體が餘計に疲れるからと云つて、よろよろと歩く私を伴れて氏は一度濟して歸つた食堂へ復行つた。機關車に近いので此處は一層搖れが烈しいやうである。スウプとシチウとに一寸口を附けた丈で私は逃げるやうにして歸つて來た。其間に寢臺がもう出來て居た。十二時頃に留つた驛で錠を下してあつた戸が外から長い鍵で開けられた響きを耳元で聞いて私は驚いて起き上つた。支那の國境へ來たのであるらしい。入つて來たのは列車に乘込んだ役人と、支那に雇はれて居る英人の税關吏とである。荷物は彼れと是れかと云つて、見た儘手を附けないで行つた。三時半頃から明るくなり掛けて四時には全く夜が明けてしまつた。五時過に顏を洗ひに行くと、白い疎ら髭のある英人が一人廊下に腰を掛けて居た。ずつと向うの方には朝鮮人も起きて來て外を見て居るやうであつた齋藤氏は朝寢坊をしたと云つて、八時過に食堂へ行くのを誘ひに來た。パンと珈琲だけの朝飯に一人前に拂ふのが五十錢である。午後の二時に哈爾賓へ着いた。プラツト・フオオムに立つて居た日本人は私の爲に出て居てくれた軍司氏であつた。電報が來たと云つて齋藤氏が持つて來た。「西伯利亞の景色お氣に入りしと思ふ」と云ふ大連の平野萬里さんから寄越したものであつた。伊藤公の狙撃されたと云ふ場所に立つて、其日眼前に見た話を軍司氏の語るのを聞いた。「此汽車は私のために香木を焚いて行く」こんな返電を大連へ打つた。石炭を使はないで薪を用ひるのは次の國境迄だ相である。どの驛でも恐い顏の蒙古犬や嚴しいコサツク兵や疲れた風の支那人やが皆私の姿を訝し相に見て居た。夕方に廣い沼の枯蘆が金の樣に光つた中に、數も知れない程水鳥の居る處を通つた。白樺の小い林などを時時見るやうになつた。三日目の朝に復國境の驛で旅行券や手荷物を調べられた。午後に私の室へ一人の相客が入つて來た。服の上に粗い格子縞の大きい四角な肩掛をした純露西亞風の醜い女である。良人は外の處に乘つて居るらしい。大抵廊下へ出て其處で夫婦が話をして居るやうであつた。晩餐後に私が少し眠くなつてうとうとして居る間に其婦人は降りてしまつた。十時過に寢臺を作らせて入ると直ぐ外から戸を開けられて相客が來たやうであつた。私は見ないで顏を覆うた儘で居た。小さい子供の泣聲や咳をする聲などが夜中に度度したので、上の寢臺へ來たのは子持の婦人らしいと思つて居た。
二人になると昨日迄のやうに早く起きて寢臺を仕舞はせたりする勝手も今朝は出來ないなどと思つて、目が覺めてから床の中でぢつとして居ると、前の鏡へ上の客が映つた。寢て居ると思つて居た人が坐つて居る。白い切れを髮の上に掛けて、色の白い兒を抱いて居る氣高い美しい女である。マリヤがふと現はれた樣な思ひもしないではない。化粧室へ行つて顏を洗つて來て髮を結つて着物を着更へても、二度寢をした上の客はまだ起きさうにない。私は書物を持つて廊下へ出た。汽車は溪川に添つて走つて居るのであつた。箱根の山を西へ出た處のやうな氣がする。雪が降つて來た。食堂から歸つてもまだ私の室の戸は閉められてあつた。九時過にそつと寄つて戸から覗くと桃色の寢衣を着た二十四五の婦人が腰を掛けて金髮を梳いて居た。夜明の光で見た通りの美しい人である。長春から來て哈爾賓で後へ二つ繋がれた客車の人をも交ぜて三十人餘りの女の中で此婦人が出色の人である。晝前にはもうどの男の室でも其噂がされて居たらしい。此若い露西亞婦人は令孃が百日咳のやうな氣味である爲め冷たい空氣の入らないやうにと部屋の戸にも廊下の端の戸にも氣を配つて居た。晩餐の卓に就いて居た時、動き出さうとする汽車を目懸けて四羽の雁の足を兩手で持つて走つて來る男があつた。再び汽車が止まると食堂のボオイが降りて其雁を買つた。珍らし相に左の窓際の客が皆立つて見るのを、「何ですか」と日本語で問うた貴婦人があつた。齋藤氏は英語で其人と話をして居た。それは私を女優かと聞いたと云ふ紳士の令孃である。私の同室の人は夜になると母も子も烈しく咳をする。四日目にはバイカル湖が見える筈であると云つて誰も外の景色の變るのを樂しみにして居るやうであつたが、やつと二時頃に白い湖の半面が見え出した。汀に近い處は未だ皆氷つて居る。少し遠い青味を帶びた處は氷の解けて居る處であるらしい。また白い處があつて其向ふに水色の山が見える。幅の廣くない處と見えて山際の家の形が見樣に由つて見えない事もない。一間程の波が立つた儘で氷つて居るのも二三里の間續いた景色であつた。鏡の樣に氷が解けて光つた處には魚が居るらしく、船に乘つて釣をして居る人もあつた。此樣風な渚も長く見て居る中にはもう珍らしく無くなつて東海道の興津邊を通る樣な心持になつて居た。六時に着く筈のイルクウツクで一時間停車して乘替を濟ませたのは十一時過ぎであつた。前の晩には金碧の眩い汽車だと思つたが朝になつて見ると昨日迄のよりは餘程古い。窓も眞中に一つあるだけである。莫斯科まで後がもう五晩あると思つて溜息を吐いたり、昨日も一昨日も出したのに又子供達に出す葉書を書いたりして居た。六日目に同室の婦人は後方の尼樣の樣な女の居る室に空席が出來たと云つて移つて行つた。汽車は玉の樣な色をした白樺の林の間許りを走つて居る。稀には牛や馬の多く放たれた草原も少しはある。牛乳とか玉子とか草花の束ねたのとかを停車場毎に女が賣りに來る。私の机の上にも古い鑵に水を入れて差された鈴蘭の花があつた。乘客係が來て莫斯科から連絡する巴里迄の二等車の寢臺が賣切れたから一等許りのノオルド・エキスプレスに乘つては何うかと云つた。八十圓増して出せば好いと云ふのである。露貨は其樣に持たない、佛貨を交ぜたら有るかも知れぬと云ふと、其でも好いと云ふ。兎に角八十圓を出して仕舞ふと、後は途中の食費と小遣いが十圓も殘るや殘らずになるのである。心細い話だと思つて私は考へたが、二等の寢臺車を待つために幾日莫斯科に滯在せねば成らぬか知れない樣な事も堪へられないと思つて、結局佛貨で三十九圓六十錢出してノオルドの寢臺券を買つた。後四十圓は莫斯科で一等の切符と換る時に出すのだと云ふ事である。男の席はあると云ふので齋藤氏は二等車の寢臺券を買つた。
川は二三町の幅のあるのも一間二間の小流れも皆氷つて居る。積つた雪も其處だけ解けずにあるから、盛上つて痩せた人の靜脈の樣である。七日目にまた一人の露西亞女が私の室の客になつた。快活な風でよく話を仕懸ける人である。ウラルを越えていよいよ歐羅巴へ入つた。山の色も草木の色も目に見えて濃い色彩を帶びて來た。此邊では停車する毎にプラツト・フオオムの賣店へ寶石を買ひに降りる女が大勢ある。私も其店へ一度行つて見た。紫水晶の指の觸れ心地の好い程の大きさのを幾何かと聞くと五十圓だと云つた。ロオズ・トツパアス、エメラルドなどが皮の袋の中からざらざらと音を立てて出されるのは、穀類の樣な氣持がする。夜の驛驛に點る黄な灯の色をしたトツパアスもあつた。其驛から巴里の良人と莫斯科の石田氏とへ電報を出した。動搖の烈しい汽車も馴れては此以外に自身の世界が無い樣な氣がして、朝は森に啼いて居る小鳥の聲も長閑に聞くのである。ボオル大河の上で初めて飛んで居る燕を見た。木の間に湖が見えて其廻りを圍んだ村などが畫の樣である。露西亞字で書いた驛の名は固より私に讀まれない。曇色の建物の中に寺の屋根が金に輝いて居るのが悲しい心持を起させる。十六日の夜になつた。翌朝が待遠でならない。何時に起さうかとボオイが聞くので、六時に着くなら五時で好いと云つた。起される迄もない事であると心では可笑しく思つて居た。同室の人は是も頼んであつたボオイに起されて夜明の四時頃に降りて行つた。莫斯科のグルクスの停車場には朝鮮人の朴氏が來て居て呉れた。電報で頼んで置いたから領事館に來て居た私宛の手紙を持つて居た。此處からビレスト停車場へ行つて其處で乘替をするのである。切符の増金は二十五圓五十五錢で好いと云ふ事である。聞いたのよりも十五圓程少いのを氣にしながら朴氏と馬車に乘つて街へ出た。道路は東京より惡い樣な處もある。浦潮斯徳程ではないが馬車から落ち相な氣がしないでもない。ブラゴウエスチエンスキイ寺院の暗い中に灯の幽に點つた石の廊下を踏んで、本堂の鐵の扉の間から遠い處の血の色で隈取られた樣な壁畫を透かして眺めた。モスコオ河の上に脅かす樣に建てられた冬宮も女の心には唯哀を誘ふ一つの物として見るに過ぎない。白い宮殿の三層目の左から二つ目の窓掛が人氣のあるらしく動いて居た。宗教畫に彩どられた高い門を潛つて賑な街へ出た。朴氏は勸工場へ私を伴れて行つたが、私は汽車賃が何れ又追加される樣な氣がして莫斯科の記念の品も買ふ氣にはなれなかつた。領事館は十時でないと人が來て居ないと云ふので、私は花岡、石田二氏への言傳を朴氏に頼んで復汽車に乘つた。椅子が一つあつて室毎に化粧室が備はつて居るだけで、歐羅巴で最も贅澤だと云はれるノオルドの汽車も其程有難い物とも思はれない。十一時前に發車した。ボオイが來て明日アレキサンドロヺウでもう三圓三十五錢拂へと云つた。未だ追加を後から多くされるのではないかと云つたが、巴里迄それで好いのだと云ふのであつた。食堂のボオイが各室へ注文を聞きに廻るのが私に丈は何とも云はない。食べたくもなく思ひながら時間に食堂へ出て見ると、席が無くやつと田舍女らしいけばけばしい首飾りをした厭な黒い服の婦人の隣で椅子を與へられた。ボオイの顏附が不愉快である。私は昨日迄の汽車を懷しく思はずには居られなかつた。
晩餐の時は初に私を女優かと問うた英國の老紳士の隣へ坐つた。日本語をよく話す人である。明治六年から三十八年間横濱に居る人だ相である。汽車賃はもう十圓位追加されるだらうと其人が云つた。今夜初めて私は上の寢臺で寢た。日本に居る頃から心配して居たワルシヤワの乘替は十八日の午前十一時頃に無事に濟んだのであるが、ボオイが來てもう二十八圓出さなければ成らないと云はれた時私は胸を轟かした。三圓三十五錢はもうワルシヤワの手前で拂つたのである。莫斯科で朴氏にした禮と馬車代とを使つた後で、佛貨や獨逸の錢を交ぜても二十五圓足らずより持合せがない。間違ではないかと云つて見たが何うしても二十八圓要ると云ふ。不愉快な思ひをして食堂へ出る事はしないでも好いから其れは食べない事にするとしても、何うも巴里迄は行けさうにない。かうなると何處で降ろされるかも知れないと思ふので少しでも遠い距離に伴れて行かれたい心で汽車の走るのが嬉しい。考へ拔いた揚句今夜私は伯林で降りるとボオイに云つたが不可ないと云ふ。何うしても伯林で降りるのだと云つても頑として不可ないと云ふ。荷物の關税の關係などの事でさう云ふのである。私は伯林の松下旅館で一晩泊つて翌日普通の二等車にさへ乘れば樂に巴里へ着かれると思ふのであるが、其れが出來ない事なら何うすれば好いかと、向ふ任せの氣にもなれないで胸を痛めて居た。もうアレキサンドロヺウに來て居るのである。ふと目を上げると窓の外のプラツト・フオオムを横濱の英人が運動に歩いて居る。倫敦行の汽車は別のかと思つて居たのであるが、前と後になつて居る丈で未だ兩方繋がつて居る事に此時初めて氣が附いた。私は其人の傍へ下りて行つて伯林で降りる事をもう一度交渉して見て下さいと頼んだ。紳士は直ぐ來て呉れてボオイにさう云つて呉れたが矢張駄目だと云ふ。一日位は好いではないかと云つても好くないと云ふ。私が途方に暮れて居るのを見て紳士は私に、あなたが金の事で心配するのなら何程でも私が出して上ると云つて呉れた。二十圓もあれば好いでせうと云つて私を自身の室へ伴れて行つて二人の令孃に紹介した。私は思ひ掛けない事に遇つて感極まつて涙が零れた。用意に三十圓もお持ちなさいと云つて露貨で出して呉れた。此人の名はマリウス・レツセル氏である。露西亞の役人が旅行券を返しに來たが、令孃が「ヨサノ」と云つて私のも受取つて呉れた。私は今日は晝も夜も何も食べなかつた。獨逸の國境でボオイは私を伴れて行つて十五圓程の増切符を買はせた。マウリス氏は此時も其影を見て又何か事が起つたかと降りて來て呉れた。税關吏は鞄の中は見なかつた。私が心配しながら通つた波蘭から掛けて獨逸の野は赤い八重櫻の盛りであつた。一重のはもう皆散つた後である。藤の花蔭に長い籐椅子に倚つて居る白衣の獨逸婦人などを美しく思つて過ぎた。伯林へ着く前に私は寢臺を作らせて寢た。十九日の朝佛蘭西の國境で汽車賃を十圓追加された。ボオイの獨逸人が物柔かな佛人に代つて初めて私は悠やかな氣分になつた。茶とパンを室へ運ばして食べた。昨日から餘程神經衰弱が甚だしくなつて居るので、少し大きな街、大きな停車場を見ると何とも知れない壓迫を感じるので、私は成るべく外を見ない樣にして居た。窓掛の間から野性の雛芥子の燃える樣な緋の色が見える。四時と云ふのに一分の違ひも無しに巴里の北の停車場に着いた。プラツト・フオオムには良人の外に二人の日本畫家と二人の巴里人とが私を待つて居て呉れた。(五月十九日)
底本:「定本 與謝野晶子全集 第二十卷 評論感想集七」講談社
1981(昭和56)年4月10日第1刷発行
入力:Nana ohbe
校正:今井忠夫
2003年12月15日作成
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