青玉の十字架
THE BLUE CROSS
チェスタートン Chesterton
直木三十五訳



 朝の空を彩る銀色のリボンと、同じように海上を飾る緑色のリボンとの中を、船は進んで、ハーウィッチの港に着いた。すると、人々は蝿の群でもあるかのように、ちりぢりに各々目ざす方へと散って行った。その中に、今我々が語ろうとする男は、別に特別に注意を惹くものではなかったし──というよりも、注意を惹かれまいとしているのだった。彼の身のまわりには、祭りの日のような陽気さの中に、顔に浮んだ役人じみたもっともらしさがあるだけで別に注意すべきものは何もなかった。彼の服装はと言えば、うすい灰白色の短衣に純白のチョッキをつけ、青鼠色のリボンのついた銀色に光る麦藁帽を冠っていた。その対照で、彼の面長の顔は黒味を帯びていたし、スペイン人のような、無雑作な黒い髯をつけているのが、エリザベス朝時代の頸飾を思わせた。彼はいかにも怠け者が重大事件にぶつかったとでもいうような格恰かっこうで巻煙草をふかしていた。要するに、彼の風態ふうていのうちにはその灰色の短衣が装填された拳銃ピストルをかくし、白いチョッキが警察章をかくし、またその麦藁帽が、ヨーロッパ中で最も有力な智能の一つをかくしていることをにおわすような何ものもなかったのだ。しかり、この男こそ別人ならず、パリー警察界のかしら、世界に名だたる検察官、ヴァランタンであったのだ。そして彼は、今、ブラッセルからロンドンへと、今世紀における最大の捕物をするために、乗り込んでくところであったのだ。

 フランボーは英国に居たのだ。三ヶ国(仏、白、英)の官憲は、この大賊を、遂にガンからブラッセルへ、ブラッセルからオランダへと追跡したのだった。そして、その時ちょうどロンドンで開かれていた聖晩餐大会の人目に立ちそうもない混雑に紛れて何か仕事をするだろうと当りをつけたのだ。おそらく彼は、その大会に関係した何か事務員か書記のようなものに化け込んで旅行するに違いないのだった。とは言え、ヴァランタンにおいても、もちろん、それが確実にわかっている訳ではなし、誰しもフランボーをつきとめることは出来なかったのだ。

 この物凄い大賊が、世界中を荒らし廻ることをやめてから、なが年月としつきがたっていた。彼が仕事をやめてからは、ローランが死んだあとで世間で言ったのと同じように、言わばこの地上に大平安たいへいあんの時が来たのだった。しかしながら、彼の最もよく(いやもちろん私は最も悪くと言いたいんだが)栄えていた時代には、フランボーは、カイゼルのように巨大な人物として認められたし、またそれほど国際的な人物になり切っていた。ほとんど毎朝の新聞は、彼が驚くべき犯罪から犯罪へといとまなく仕事をやってきながら、そのたびにうまく遁走していることを報じていた。彼は巨人のような大男で、身をもって放れ業をやることにかけてはガスコン人の魂を持っていた。そして力技りきぎに対する興味が起ろうものなら、予審判事を逆立ちさせて、「こいつの頭をよくしてやるんだ」などと空嘯そらうそぶいたり、両の小脇に警官を抱えて、リヴォリイの大通りを走ったりしたという、乱暴極まる話柄わへいを持っていた。彼の恐ろしい腕力がそうした血を流さない、しかも人を喰った光景に用いられるというのは、彼の偉いところだった。彼の真実の犯罪と言えば、主として、独創的でまた大がかりなものであった。であるから、彼の盗みの一つ一つは皆新式な犯罪であり、それぞれが一つの物語になるようなものである。ロンドンで、大きなタイロリアン牛乳会社なるものを、牧場ぼくじょうもなく、牛もなく、配達車はいたつくるまもなく、もちろん牛乳もなくて、しかも千余のお客をもって経営していたのは外ならぬ彼であった。それは、ただよそのうち門口かどぐちに取りつけた小さい牛乳受けを、自分の顧客のうちの門口へおきかえるという簡単な仕事で出来たのだ。一人の婦人と、無数のしかも密接な文通を、彼の手紙を異常な写真の技術で顕微鏡のガラスの上に微細にうつしておこなったのも彼であった。その婦人の手紙は全部押収されたが、しかしながら遍通自在の簡単さ、これが彼の仕事の特徴である。話によると、彼はたった一人の旅人をわなにひっかけるために、ある真夜中に、一町内の番地札を一つのこらず塗りかえたということである。また、彼が運搬自在の郵便箱を発明して、それを静かな郊外の辻に立て、よその人が為替などを投函するのを失敬したということも確かである。終りに、彼は驚くべき軽業師として知られていた。彼の巨大な体躯にもかかわらず、彼は蟋蟀こおろぎのように飛び、またましらのように樹上に消え失せることが出来たのだ。それゆえ、かの大ヴァランタンがフランボー捜索にかかった時にも、たとえ彼を発見しても、それで、この冒険が片づくまいという事には充分気づいていたのだった。

 しかし、いかにして彼はフランボーを発見したものだろうか? この点では、大ヴァランタンの考えも、なお決定してはいなかった。

 だが、いかにフランボーが変装に妙を得ていても、ごまかすことの出来ない点があった。それは彼のずば抜けた身長だった。もしヴァランタンの機敏な眼が、せいの高い林檎売の女であれ、また長身な衛兵であれ、またたとえそれがたよやかな公爵夫人であったにしても、彼はきっとその場を去らせず逮捕したに違いない。しかし、彼がハーウィッチから乗り込んでこの方、麒麟が化けた猫を見出せなかった如く、フランボーが変装したと覚しい何物も目につかなかった。船中の人々についてはすっかり得心が行っていたし、ハーウィッチから乗り込んだ人も、途中から乗り込んだ人もすっかりで六人きりということはたしかだった。終点までくつもりの、小柄な鉄道官吏、二つあとの停車場でのった三人のかなり小さい市場商人、それから小さいエセックスの町から乗り込んだこれも小柄な寡婦、最後にもう一人エセックス州の小さい村駅そんえきで乗り込んだローマン・カトリク教の僧侶。最後の場合には、ヴァランタンはあきれ返って、もう少しで笑い出すところであった。その小さい僧侶は、東方人の平民の代表とも言うべきもので、ノーフォークの団子のように円くて鈍感な顔をして、その両眼は北海のように空っぽだった。しかも彼が持っている数個の茶色の紙包みを荷厄介にやくかいにしていたのだった。聖晩餐大会はきっと、沈滞した田舎から、こうした掘り出された土竜もぐらのような、目の見えない、どうにも仕様のない生き物を吸い寄せたのに違いなかった。ヴァランタンは厳しいフランス流の無神論者であり、僧侶に対しては何の愛着も感じなかった。しかし、彼は彼等を憐んではいたのだ。そしてこの僧侶の如きものを見ては、誰だって憐れまずにはいられないだろう。この僧侶は大きな、薄汚ない洋傘こうもりを持っていて、しかもそれをしょっちゅう床に倒していた。彼は、自分の持っている往復切符のどちらがきのかかえりのかさえもわからないらしかった。彼は車内の誰れ彼れに、おめでたい単純さで、自分は注意しなくってはいけない。なぜなら『青玉サファイヤ付き』の純銀製の品物を、茶色の包の中に持っているんだからと説明していた。聖者のような単純さを持ったエセックスの心安い土地風な彼の奇妙な人となりは、フランス人を絶えず楽しませていたが、やがてストラトフォードに着くと、この僧侶は、彼の包を持ち、また洋傘こうもりをとりに戻った。その時、ヴァランタンは、親切に、あの銀器の事を不注意に言わないようにと注意した。が、ヴァランタンは誰に向って話しているにしても、その眼はつねに誰か他のものを見守っていた。彼はじっと、富めるものでも、貧しいものでも、男でも女でも、およそ六フィートたっぷりあろうと思われる人を見つめていた。なぜなら、フランボーはその上六インチばかり大きかったのだから。

 彼はリバプール街で下車した。ここまでは彼は犯人を見逃すようなことはなかったと確信していた。彼はそこでロンドン警視庁へ行って、自分の身分を証明し、いつ何時でも応援してもらえるように手続をした。それからおもむろに巻煙草をつけると、ロンドン市中をぶらつきに出かけて行った。彼がヴィクトリア街の向うの街や広場を歩いていた時、ヴァランタンは突然足をとめた。そこは古風な、静寂な言わばロンドン生粋の場所とも言うべきところで、何か事ありげな静けさがみなぎっていた。その周囲の高い単調な家々は、繁昌しているかとも見え、また住む人もない家かとも見えた。中央にある広場の灌木林は、太平洋上の緑の孤島の如く人気もなかった。四周まわりの一方は、他の三方よりもはるかに高くなって、上座という感じがした。そしてこの一列の建物は、ロンドンの讃嘆すべき出来事のために破られていた。──すなわち貧乏な外国人相手の安料理屋を尻目にかけたような一軒の料理屋があったのだ。それはまったくなぜとはなく注意をひくものだった。鉢植えのひくい樹木があり、レモン色と白のだんだらの窓かけがさがっていた。それはその道路面から特に高く建てられていた。そして普通のロンドンの路面なら階段の一足でちょうど非常梯子が二階の窓にとどくように、ドアの前にかれるのだった。ヴァランタンは立ち止って、その黄と白の窓かけの前で煙草をふかしながら、それらのことについて永い間考えていた。

 奇蹟に関して、一番信じがたいことは、それが起ったというそのことである。空にある雲も寄り合って、にらめている人の眼の形にもなるものだ。一株の木も、たよりない旅に見る風景のうちでは、まるでわざわざつくった疑問符のように立つものだ。私自身この数日のうちにこれらのことを実見した。ネルソンは勝利の刹那に死ぬのである。ウィリアムという男が、ウィリアムソンという男を、あやまって殺しても、それは謀殺(母と共謀で子を殺す。ウィリアムソンのソンは子という意味すなわちウィリアムの子。ここはそれゆえ洒落になっている。訳者註)の一種に思えるだろう。一言にして言えば、人生には奇怪な偶然の一致があり、それをつまらない人間は常に見落しているのだ。ポーの逆説の中にたくみに説明されているように、智慧は予見出来ないものまでも勘定に入れておくものなのだ。

 アリスティ・ヴァランタンは底の知れないフランス人であった。そしてフランス人の智能と来ては、また特別なもので、実際まざりけのないものなのだ。彼は『思考する機械』ではなかった。なぜなら、その言葉は近代宿命論の、また唯物論の無思慮な適用であるからだ。機械はどこまで行っても機械にちがいない。それは思考することは出来ないのだ。だが彼は思考する人間だ、しかも同時に平凡な人間だ。だから彼の驚くべき成功は、うわべはほんのあてずっぽうのように見えても、実はフランス人の明晰な、しかし平凡な思想によって、こつこつと論理を積み重ねて成ったものであった。フランス人は逆説を用いて世間を恐愕きょうがくはさせない。彼等は真理を明るみに出すことによって世間を恐嘆せしめるのだ。彼等は──フランス革命の時におけるように、──真理を持ち出す。だが、ヴァランタンは理性を正しく知っているために、理性の限界をも理解しているのだ。発動機について何も知らない人に限って、揮発油なしに発動機を動かすことを論ずるのだ。また、理性について何も知らない人に限って、強力な、何物にも負けない第一原理なしに、理性について論ずるのだ。今の場合、彼はこの強力な第一原理を持っていなかった。フランボーは、ハーウィッチで見失われてしまった。そしてもし彼が既にロンドンに巣くったとしたら、彼はウィンブルドンの公有地に住む丈の高い無宿者から、メトロポール・ホテルにいる丈の高い宴会の主人公に至るまで、あらゆる人間になりすましているに違いない。こうした盲滅法な状態において、ヴァランタンは、彼一流の目のつけどころと、またその捜査法とを持つのであった。

 こういう事件にぶつかると、彼は思い設けぬものを便りとするのであった。こういう場合、彼は、合理の道順をたどれなくなると、不合理の間道を、沈着にまた用心深くたどるのであった。普通なら真先きにくべき、銀行、警察、密会所等へ這入りこむかわりに、彼はちゃんと順序を立てて、見当違いとも覚しい場所へくのであった。空家と見ると片っぱじからさぐってみたり、袋町という袋町に踏み込んだり、ゴミゴミした小路こみちをうかがったり、結局とんでもないところに出てしまう曲り路に這入りこんだりした。彼はこの狂気きちがい染みた方法をまったく論理的に弁護した。彼の言うところによると、もし我々が何等かの手掛りを持つならばそれは最も悪い道にいるのである。もし何等の手掛りをも持っていないならば、それは最もよい道にいるのだ。その訳は、もしどこかに、追跡者の眼につく様なおかしなものがあるとすれば、それは追跡される者の目についたはずだからである。人はどこからか始めない訳にはかない。だから人が終ったところから初めれば、それだけで大へん有利なのだ。店に上る正面の高い石段の有様や、料理屋のひっそりとした、古風な様子が、何とはなしに、探偵の稀代のロマンチックな想像をかりたて、彼をして何か仕事をはじめさせるようにしたのであった。探偵は階段を上って行った。そして窓のかたえに坐って、ミルク抜きのコーヒーを一杯註文した。

 朝も、もう半ばを過ぎていたのに、彼はまだ朝食をしたためていなかった。その辺のテーブルにちらかった朝食のあとを見ると、さすがの彼も空腹が身にしみた。で、さらに「落し卵」を註文して、コーヒーに白い砂糖を面白そうに入れながら、さてフランボーのことを一わたり考えたのである。彼はフランボーがある時は爪取り鋏で、あるときは火事にまぎれ、ある時は切手のない手紙に不足料金を払ってるに、ある時はまたこの地球に衝突するという彗星を見る望遠鏡に人を集めて、遁走したそのやり方を考えていた。彼は自分の探偵的頭脳が、この犯人の頭脳に優るとも劣るとは考えなかった。がそれにしても自分の立場がひどく不利なことを自覚した。「犯人ってやつは独創的な芸術家だ。探偵はただ批評家であるのみだ」彼は苦笑しながら独語ひとりごちた。彼はゆるゆると、彼のコーヒー茶碗を口につけ、今度は急にそれをおろした。彼は思わずも食塩を入れていたのだった。

 彼はオヤッと思ってその入物を注意した。それはたしかに砂糖入れに相違なかった。お酒が徳利に入っているのがきまり切っているように、砂糖は砂糖入れにあるのがあたりまえだ。彼はほかに砂糖入れらしいものがあるかどうかとさがしてみた。他には二つの食塩入れがあるきりだった。しかもそれには砂糖がはいっていた。食塩入れに砂糖を、砂糖入れに食塩を入れるような、風変りな趣味が、もっと他にもありはしないかと彼は料理屋の中を見まわした。が、ただ一方の白壁に何か黒い液体がはねかかって可笑しなしみをつくっている外には変ったところはなかった。彼はベルを鳴らして給仕を呼んだ。

 まだ朝のうちの事とて、髪もくしゃくしゃにし、眠たそうな眼つきをした給仕が急いで出て来た。探偵は(もともとちょっとした冗談のきらいでない彼は)まあこの砂糖をなめてみろ。これが、この店の売り出している特色なのかとたずねた。給仕はその結果睡気ねむけもさめて、口をパックリあけてただ驚くばかりだった。

「君の店じゃあ、お客様に毎朝こんな念入りな冗談をやるのかい?」とヴァランタンは訊ねた。「食塩と砂糖とを入換えておくなんて、まあどんなものかね?」

 給仕も、この真綿で首をしめるような皮肉がはっきりわかったので、どもりどもり弁解し始めた。そして、「そんな心持ちはちょっともございません、それはとんでもない間違いでございます」と言うのだった。

 彼は砂糖入れを取り上げてあらため、また食塩入れもあらためた。彼はだんだん困惑と不可解の表情をあらわし始めた。遂にたまりかねて軽い会釈をすると、あたふたと奥へけて行った。そして、主人を伴ってかえって来た。主人も、二つの入れ物をかわるがわるあらためたが、ひどく困惑した様子だった。

 突然給仕が一生懸命に何か言い出した。

「ああそうです、わかりました」と彼は熱心におどおどとつけ加えた。「あの二人連れの坊さんですよ」

「何だって、二人連れの坊さんだって?」

「ええそうです」と給仕は言った。「あの壁にスープをぶっかけた」

「壁にスープをぶっかけたんだって?」とヴァランタンがくり返した。こいつは妙な話しになったわいと思いながら。

「そうです。そうです」と彼はやや亢奮こうふんして白い壁紙を張りつめた上についている黒い飛沫ひまつを指さしながら、「あの壁にぶっかけたんですよ」と言った。

 ヴァランタンは改めて、主人の説明をもとめるように彼を見た。主人はくわしく話しはじめた。

「その通りでございます。もっとも私には、これが砂糖と食塩との入れ違いに、どんな関係があるかわかりませんですが。今朝ほど早く二人連れの坊さんが、まだ店もあけるかあけない頃、お見えになりまして、スープを召し上がって行ったのです。二人とも大へんもの柔かな相当地位もおありの方のようでした。一人のほうが勘定をして、さっさと出てくと、もう一人のかたは、持物があるので、いつまでもまごまごしていられましたが、やっとのことで出ておいでになりました。その時のろい手つきで、まだやっと半分しか飲んでいないコーヒー茶碗をとりあげて、コーヒーをあの壁にぶっかけたのでございます。私は奥に居りましたし、店のものもあちらに居りましたので、出て来た時には、壁はもうあの通りで、店には誰も居りませんでした。大した損害でもございませんが、いまいましいので、表へ出てふんづかまえようといたしましたが、二人とも大へん足の早い奴等で、もう向うの角を曲ってカーステヤース通りに這入って行っていることだけわかりました」

 探偵は立ち上って、帽子をかぶり、ステッキを握りしめた。彼は自分をとりまく闇の中に、どうやら一道の光明を認めた。だがその光明こそ、まったく怪しげなものだった。勘定を済ますと、彼はガラス戸を邪けんにしめて、向うの通りに飛ぶように這入って行った。

 幸いなことに、彼はこうした亢奮した瞬間にも、なおかつ冷静と敏活とを彼の両眼にたたえていた。一つの店の前を過ぎたとき、何やらパット彼の頭をかすめたものがあった。彼は、踵をかえすとそれに注意した。その店は繁昌しているらしい八百屋兼果物屋で、大道に並べられた品物の上には、果物の名と売値を記した札とがたくさん立ててあった。その中で、密柑みかんと栗の二つの山が一番人目につきやすかったが、その栗の山には、青いチョークで達筆に『最良タンジールス産密柑二個一ペニイ』という札がさしてあった。密柑の方には『最上ブラジル産栗一合四ペンス』と書いてあった。ヴァランタン氏はこの二つの札をじっと見据えた。そして、さっきも可笑しなことに出合ったばかりだのに、またすぐここでこんなことに出合ったことを意味ありげに考えた。彼は仏頂面をして表の往還をながめている赤ら顔の主人公に、そのことを注意した。が、亭主は一言も言わずに、ぶっきらぼうにその札を置きかえた。探偵はステッキに倚りかかりながら、しきりに品物を見廻していたが、最後にこう言った。

「もしもし、まったく失礼な申し分ですが、実験心理学上観念の聯合という事から、ちょっとお訊ねしたいしたいことがあるんです」

 赤ら顔の亭主は、恐い顔をしてヴァランタンを見つめた。が彼はステッキを振り廻しながら愉快げにつづけた。

「ところで、御主人、日曜にロンドン見物に来た田舎者の帽子じゃああるまいし、青物屋の正札が入れ違ってるなあ、一体どうした訳なんです? でなけりゃ、私にもはっきりしている訳ではないが、この密柑と栗の関係は、何か二人連れの坊さん、大坊主に小坊主の関係と神秘的な関係でもあるんですかな?」

 商人の眼玉は、蝸牛なめくじの眼玉のように飛び出した。彼はまったく、この見知らぬ男に今にも飛びかかりそうに見えた。が、遂に怒りながら吃り出した。「お前がどんな関係があるのか知らないが、もし知り合いの間なら、言ってくれ、うちの林檎をもう一ぺんひっくりかえすような事があれば、坊主であろうと何であろうと、あたまをたたき割ってやるからって」

「へへえ? そいじゃあ奴等は君んとこの林檎をひっくりかえしたのかね?」と探偵は、同情してこう言った。

「あいつらの一人がやったのさ」と亭主はポッポッと湯気を立てながら「何しろとおり一ぱいぶちまけちゃったんだ。阿呆め、自分で拾い集めないで行ったら、ふんつかまえてやるところだった」

「その坊主達はどっちの方角へ行ったかね?」

「あの二つ目の通を左へ曲って、広場をつっきって行ったらしいよ」と亭主はすぐ答えた。

「いや、ありがとう」ヴァランタンは、言葉とともに妖精のように姿を消した。第二の広場の片側で巡査を見付けると、彼は早速訊ねた。「巡査君、重大事件なんだが、君、鍔広帽を冠った二人連れの坊さんを見かけなかったか?」

「ハア、見ましたです」巡査はのろのろと笑いながら言った「ひとりのほうは大分酔ってるようでした。往来の真中で、ハテどっちの方角へ行ったものかって言うような腰つきをしましてな──」

「どっちの道へ行った?」ヴァランタンはつっこんだ。

「あの黄色い乗合に乗って」と巡査は答えた。

「あれはハンプステットきです」

 ヴァランタンは警察手帳を示して早口に言った。

「では、至急君の同僚を二人呼んでくれたまえ。僕と一緒に追跡してもらうんだ」

 彼は、伝染病のようにすごい勢力をもって向う側に突っ切った。で、鈍間のろまな巡査も思わず身軽について行った。一分半ばかりで、このフランスの探偵は、イギリスの警部と私服の巡査とを仲間に加えた。

「それで」と警部は重大そうな顔付きに微笑を浮べて言った。「事件は──」

 ヴァランタンはすばやくステッキで指さした。

「あの乗合馬車の二階に乗ってから、お話ししよう」もう彼は激しい往来を縫ってす早く突進していた。三人が息をはずませて黄色い乗合の階上席についた時、警部は「タクシイなら十倍も早いでしょうに」と言った。

「その通り」ヴァランタンは落付いて言った。

行先ゆきさきがはっきりしていればね」

「へえ、それでは我々は一体どっちへくんですか?」と驚きの目をみはって巡査がたずねた。

 ヴァランタンはむずかしい顔をしながら、しばらく巻煙草をふかしていたが、それを口から放すと、彼は言った。「君がある人のすることを知っているなら、前に行けばいいんだ。また何をするか当ててみようというんなら、その人のあとについて行くんだ。その人が道をれたら、自分もそれる。止ったら止るんだ。その人のゆっくり行く通り、君もゆっくり行くんだ。そうすれば、君は、その人の見るものを君も見るし、その人のすることを君もすることになるんだ。問題は、何か奇妙なものにしっかりと目をつけるにあるんだ」

「一たい、どんな奇妙なことなんです?」と警部がたずねた。

「奇妙なものなら何でもいいんだ」とヴァランタンは答えると頑固に口をつぐんでしまった。

 黄色い乗合馬車は、ゆっくりと、北部の道路を何時間も走り歩いた。大探偵はもう何にも説明しなかったし、その助手達は自分の役目について無言の疑惑を増して行ったに違いない。またおそらくは、昼飯ひるはんについて無言の欲求を増して行ったに違いない。なぜなら、普通の昼飯時は、もうとうに過ぎていたのだ。そして、ロンドン北郊の長い長い路が、際限もない遠望のように、つづいていた。それは、人々が、もうこの宇宙のはてに来てしまったかと思うような旅行であった。が、ふと見ればまだタヘネル公園に来たばかりだった。ロンドンは薄汚い居酒屋や、退屈な矮木林わいぼくばやしとなって、もう果ててしまっていた。かと思うとまた、賑かな街路や、繁昌した旅館などが行手にあらわれて、応接にいとまないくらいだった。日足のみじかい冬のたそがれが、いつの間にか襲って来ていた。しかし巴里パリー生れの探偵はむっつりと黙り込んだまま、ただその両眼だけは忙がしげに両側にくばっていた。一行がキャムデン町をあとにした頃おいには、巡査等はもうほとんど眠りこけていた。少くとも、ヴァランタンが突然、つっ立ち上って各々の肩をたたき、更に馭者に向って「止めろ」と叫びかけた時には、彼等は夢うつつから飛び上らんばかりにおどろいた。

 彼等は、何のためにここで下りるのだか、見当がつかなかったが、ともかくも転げるように飛び下りた。見ると、ヴァランタンは勝ち誇ったように、左側にある家の窓を指さしていた。それは金ぴかの宮殿のような構えの料理店の正面になった大きな窓だった。そこは立派な晩餐のための特別席で、『御料理ごりょうり』という看板が出ていた。この窓は外の窓と同様に、模様入りの曇りガラスになっていたが、氷を破ったように、ぽっかりと大きな穴が、その真中にあいていた。

「さあ諸君、とうとう手懸りがあった。あの破れた窓のうちだ」とヴァランタンは、ステッキを振り廻しながら叫んだ。

「何ですって、窓が手懸りですって?」と警部はいぶかしげに言った。「ハハア、何か役に立つ証拠でもあるんですか?」

 ヴァランタンは竹のステッキを折らんばかりに癇癪をおこした。

「証拠だって」と彼は叫んだ。「何ってこった! 証拠をさがしてやがる! そりゃあ君、何の役にも立たないってことだって二十回に一回はあるさ。だが、では、一体ほかに我々にどんなことが出来るんだね? 我々はいかにあてにならないような可能性だって、それを追求するか、さもなけりゃ、家にかえって寝るばかりだろうじゃあないか?」ヴァランタンは、転ぶように料理屋へはいって行った。一行はまもなく、ささやかな食卓で、おそい昼食ちゅうじきを喫した。そこでは破れ硝子の星形の穴を内側からよく見ることが出来たのだ。

「窓ガラスがこわれてるじゃないか」とヴァランタンは、勘定を済ますと、給仕に向って言った。

「左様でございます」と給仕は小銭を数えながら答えた。ヴァランタンは少なからぬ心付をそっとそこへ加えてやった。

「はい、左様でございます」と給仕は言った。

「まったくおかしな出来事なんで」

「そうか、俺達に話してくれないか」と探偵は別に何心ない好奇心を装ってたずねた。

「はあ、坊さんがお二人お見えになりまして」と給仕は言った。「二人とも近頃来たらしい外国の坊さんですが、安直なお弁当をお上りになると、一人のほうがお勘定をなさいました。そして先に出て行きました。もう一人のほうがちょうど出てこうとしていました。お金をしらべてみると、勘定の三倍もございます。『ああ、もしもし、これでは多すぎます』と申しますと、坊さんは平気で『ああ、そうか』と言うんです。『へえ』と言って私が勘定の多いのをお見せしようとすると、すっかり面喰いました」

「どうしたんだね」と質問者が言った。

「さあ、私は誓ってもよいんですが、はじめたしかに四シリングと書いたのに、はっきり十四シリングとなっているんです」

「なあるほど」とヴァランタンが叫んだ。そして身体からだをゆるゆると動かしたが眼は異様に光っていた。「で、それから、どうしたね?」

「ところが門口の坊さんときたらすましているんです。『いや、それは失敬。余分のところはこの窓で埋合わせをつけるよ』と言うんです。『なに窓ですって?』と聞き返しますと、『わしが、こわそうというわけだよ』と言ったかと思うと、持っていた洋傘コウモリで、あの通り破ったのです」

 三人の警察官は一斉に叫び声を上げた。警部は呼吸いきをはずませて「では発狂者を我々は追跡してるんかな」と言った。給仕はこの馬鹿げた話を更に大袈裟に話し出した。

「私はもうまるで呆気にとられて、何とするすべも知りませんでした。その間に坊さんは表へ出て、あの角を曲って連れの坊さんのあとを追って行きました。それからバロック街の方へ足早に行きましたが、あんまり足が早いので追っかけてみたがだめでした」

「バロック街」と探偵は言った。そして勘定をおっぽり出すと、二人の怪人物を目差して突進した。

 今や彼等の旅は、トンネルのような、何のかざりもない煉瓦の道の上に来た。燈火もまばらな、いな、窓さえもろくに目につかない町々、あらゆるもの、あらゆる場所のうつろな背景から出来ているような町々だ。夕暮の薄暗うすやみはようやく濃くなりそめて来た。そしてロンドンの警官達にとっては、どこをどう辿ってよいか判らないこの追跡は今までにない不安極まるものであった。ただ、とどのつまりは、ハムステッド公園のどの辺かを襲うのだろうということは警部には幾分見当がついていた。と、突然に、瓦斯があかあかと灯された張出窓が、蒼い黄昏を破って目についた。ヴァランタンはおごそかに、そこの華かな菓子売の小さい店の前に立つとふと立ち止った。しばらくはためらったが、やがて、ずかずかと店の中に這入ると、彼は澄まし切った顔付をして、十三個のチョコレート・シガーを買った。彼はたしかに何か言い出そうと構えていたのだが、その必要はなかった。

 店にいた痩せた、年増の女は、何とはなく物問いたげなヴァランタンの立派な姿に見入っていたが、彼のうしろの入口にいる警部の青色の服に気がつくと、女はよみがえったような眼つきをして言った。

「ああ、もしや、あの小包のことではございませんの? あれならもうとうに送っておきましたわ」

「えっ、小包!」とヴァランタンが鸚鵡返しに言った。

「ハア、あの坊さんの方がお忘れになった小包でございます」

「占めた」とヴァランタンは始めて正直に彼の熱心さを顔に表わして言った。「後生だから、すっかり出来事を話してくれ」

「なあに」と女は少し疑わしげに、話し出した。「たった三十分ばかり前のことですが、二人連れの坊さんがお見えになって薄荷ペパーミントを少しばかりお買いになって行ったのです。それからあのハムステッド公園の方へ行らしったようですが、まもなく一人のほうが引き返して来て『わしは紙包を忘れて行ったと思うが』と言うのです。で私はずい分さがしてみたのですが、どこにもございません。でその通り申しますと、いやかまわぬ。が、もし出て来たら、お気の毒だが、この宛名で送ってもらいたいと言って、番地を書いたものと、少しばかりだが、と一シリングのお金を置いておかえりになったのです。すると私が見落していたのでしょうか、あとからその方の言った通り、茶色の紙包が出て来ましたので、すぐ小包にして送っておきました。けれど、その番地は忘れてしまいました。何でもウェストミンスター区のどこかでした。おぼろにしか覚えておりませんが。でも何だか大切そうなものだったので、それでお役人がお見えになったのだろうと存じましたわ」

「そうです。それで来たのです」とヴァランタンは簡単に答えた。「ハンプステッド公園は近くですか?」

「十五分も真直にけば」と女は言った。「じきにその広場に出ますわ」

 ヴァランタンはその店を飛び出して走り出した。警官達もやむなくそのあとに従った。

 町筋は両側がせばまって家々の影が立ちこめていた。それで彼等が町を出外れて、空っぽな公有地に出た時には、夕映がまだ金色こんじきに照って明るく晴れ渡っているのに目を瞠ったのだった。太陽は黒ずんだ樹木や暗菫色あんきんしょくの遠影のあなたに沈みかかっていた。燃えるような緑色はもうすっかり濃くそまってその間に一つ二つ輝く星がちりばめられていた。昼間からとりのこされた万象は、夕映の化粧として、この広場のはてまで、それから「健康の谷」と呼ばれている、ハムステッド公園の端まで、金色こんじきに満たされていた。この辺をぶらつく休日の散策者の影もまだすっかり消えてはいなかった。まるで一対のように離れない姿が、あちらこちらのベンチにいぎたなく横わっていた。遠くのブランコに乗った少女の叫び声も時々は聞えて来た。天の栄光は人間の暗い厳粛な野生の姿を深めていた。そして、ヴァランタンはと言えば、彼のもとめるものをさがしつつ、傾斜地スロープに立って谷の向うをながめていた。

 向うの遠い彼方に、幾組もの人々が、次第に散って行くうちに、特に黒くくっきりと見える姿があった──二人の僧侶風な装いをした男だった。それは虫けらのように小さく見えるけれども、ヴァランタンの眼には、その中の一人が他の一人よりも更に小さいのが、はっきりとわかった。大きい方の男は背をげて、別に目立つふるまいもしていなかったが、ヴァランタンには、その男が六フィートはたっぷりあることがわかった。彼は歯を喰いしばって、ステッキを性急せっかちにふりながら、近づいて行った。ヴァランタンが二つの黒い姿を、顕微鏡でひろがしたかのように近よって大きく見出した時に、彼は思いがけないものを発見して、思わずもギョッとした。大坊主の方が誰であったにしても、小さい方はたしかにその正体に間違いはなかった。それはハーウィッチからの上り列車に乗り合わせたエセックスから出て来た田舎僧侶だった。そいつには彼が茶色の包について警戒してやったではないか。

 さて、これでやっとすべてがはっきりとまとまりが付いて来た。ヴァランタンはその朝、エセックス州の僧侶、師父しふブラウンというのが大会に出席して外国の僧侶に見せるために青玉サファイヤの這入った銀の十字架を持って出たということ、その十字架は非常に高価な品であるということを調べておいた。それがすなわち「青い宝玉入りの純銀製の品物」なのに違いない。師父ブラウンと言うのは、たしかに、あの汽車中の無邪気な男にちがいない。ヴァランタンに探知出来る事なら、フランボーも既に知ったはずだ。フランボーはどんな事でもかぎ出す男なのだから。そしてまた、フランボーが青玉サファイヤ入の十字架の話をきいて、それを盗み出すことを計画するのも不思議ではない。いや、それどころかフランボーが、あの洋傘こうもりと紙包を持った、間抜面をした僧侶に、まとわりついて行こうとするのは実に明かなことだ。あの僧侶は誰の思いのままにもなりそうに見えるのだから。おそらく北極星のところまでも引張ってかれるだろう。それにフランボーは名うての名優だ。僧侶に変装して、彼をハムステッド公園に引っ張り出すぐらいお茶の子サイサイだ。犯罪のすじ道は既にはっきりしている。それに探偵にとってはあの僧侶も憐れまれてならない。彼はフランボーを面憎く思った。しかし、またヴァランタンは、彼をこの成功にまで導いて来た、今までの出来事を綜合してみると、何が何だか解らなくなって来た。一たいエセックス上りの僧侶から十字架を盗むということと、料理店の壁にスープをぶっかけることと、どういう関係があるのか? 栗を密柑と呼ぶことにどういう関係があるのか? それからまた、先に金を払っておいて、窓をこわすことに何の関係があるのか? 彼は追跡の功を奏し、そのどんづまりまで来た。しかも、いずれにもせよ遂にまた迷路の端に踏み込んでしまった。今までにもし失敗したとしたら(そんなことはほとんどなかったが)それは手懸を握って、犯人を取逃がしたのだ。ところが、今度ばかりは、犯人をしっかりと握りながら、まだ手懸りを握っていないのだ。

 目ざす二つの物影は、はるか向うの丘の地平線上に、黒い蝿のように歩いていた。明らかに彼等は何か話をしているらしかった。そしてたぶんこれからどちらの方にこうかも考えてはいないのだ。が、彼等は次第に淋しい、そして高いところへ登ってきつつあった。彼等の追跡者達は、鹿狩りをする人のような可笑しな格恰をして、灌木林のかげにかくれたり、ながくのびたくさむらの中をざわざわ歩かなければならなかった。だが彼等は次第に目ざすものの後に追迫おいせまっていた。そして彼等の話声がやっと聞えるところまで来た。しかしそれはただ『理性』という言葉だけが、くり返しくり返し高い、子供染みた声で聞えるだけだった。しかし、突然傾斜地になっている、深い藪の茂みの中に来たときに、探偵等はまったく二人の姿を見失ってしまった。それから再び彼等を見出すまでには十分間以上も苦しまなければならなかった。彼等は夕日の照り映えた美しい景色を見下ろしている。円屋根のような形をした物淋しいおかの出っぱりを縫って行くと、とある木立の下に古い、くちはてたような一脚のベンチがあった。僧侶達は、そこに腰を下ろして何事か熱心に話し合っていた。華やかな緑と金とが、なお暗い地平線にかかっていた。が丘の円屋根は、次第に孔雀色の緑から、青い色にかわって行った。清い宝玉でもちりばめたような星は次第にそのすうを増して行った。ヴァランタンは無言のうちに、警官達に合図をして、枝のしなだれかかったその木立の影まで忍び寄った。彼は死のような沈黙の中から不思議な僧侶達の言葉を、今はじめて明瞭にききとることが出来た。

 ヴァランタンは、一分半かそこいら耳を傾けていた後に、悪夢のような疑惑に襲われない訳にかなかった。彼は二人のイギリスの警官達を、何の目的もなく、無駄にここまで引張って来たのかもしれなかった。なぜなら、二人の僧侶の話は、普通の坊さんの話と何の違いもなかったからだ。相当の学識をもってゆっくりと、そして信仰深げに、何か神学上の神秘について話していた。エセックスの坊さんの方が、かえって言うことが単純で、円い顔を星の方に向けたりした。もう一人の方はかしらをたれたままで話している。あたかも自分は星を見るに足らないと言うように。しかしともかくも、伊太利イタリーの僧院に行ったにしても、またスペインの大本山を訪れたにしても、これほど真実に坊さんらしい会話は聞かれそうにもなかった。

 最初ヴァランタンが耳にしたのは、師父ブラウンの話の終りの一節だった。それはこう結んだ。「……諸君の天国と言う言葉によって、中世紀に人々が考えていたのは、全く不滅なものですぞ」

 大きい方の僧侶はうなだれた彼のうなじで、うなずいて見せてから言った。

「御もっともじゃ、近代の不信心者共は、何かと言うと彼等の理性に訴える。だがあの何億という星の世界を見つめて、この我々の住む地上に、人間の理性で推し量られんものがあるということを感ぜぬものがあるだろうかな?」

「いやいや」と他の僧侶が言った。「理性は常に正当なものじゃ。わしだとて、世の中の人々が、教会は理性の価値を低めるというて、非難するのはよく知っておりますぞ。だが、これは全然反対じゃ。この地上においてのみ、教会は理性を真に最高のものとするのですぞ。この地上においてのみ、教会は神御自身も理性によって繋がれたもうことを肯定するのじゃ」

 この時、相手の僧侶は、厳粛そうな顔を上げて星空を仰ぎながら言った。

「おお、しかし誰かこの無限の宇宙を──?」

「無限とは、ただ物質的にじゃ」と小さい方の僧侶が彼の身体からだを廻して言った。「真理の法則をのがれると言う意味の無限ではないて」

 ヴァランタンは木かげにいて腹立たしさに彼の指をやけにこづいた。彼はまるで自分の下らない当推量のためにこんな馬鹿々々しい老僧の哲学話をきかされているイギリスの探偵達がうしろであざ笑っているような気がした。

 ヴァランタンは癇癪を起したので高い方の僧侶の答をきき落して、彼が再び耳にしたのは師父ブラウンの話だった。

「理性と正義はあの空のはての淋しい星をもつかんでいますぞ。あの星を御覧なされ。まるでダイヤモンドか青玉サファイヤのようには見えんかな? おのぞみなら一つ気ままな植物学なり地質学なりを応用してはいかがじゃ。磐石ばんせきの幹に宝石の葉のついた有様を考えて御覧じろ。あの月が一個の青い月だと考えてみられい。一つの大きな青玉サファイヤじゃとな。が、しかしじゃ、そうした勝手な天文学が、行為の上の理性と正義の法則と少しでも違うと思ってはならんのだ。あすこの猫眼石オパールの平原にも、真珠でちりばめた断崖の下にも、貴公は必ずや『汝、盗みするなかれ』の禁札を見まするぞ」

 ヴァランタンは、この一生涯に始めての馬鹿げた大失敗から、落ち込んだこの窮屈な姿勢から逃げ出そうと、もう身がまえるばかりだった。が、高い方の僧侶がだまっているうちに、何となくあいつの答えを聞いてからにしようという気になった。遂に彼が話し出した、頭を垂れ両手を膝にのせて彼は簡単にきり出した。

「なるほどな。だがわしはやはり、地球以外の世界はおそらく我々の理性よりずっと高いところにあるものだと考えますな。天国の神秘は量ることが出来ませんて。わしはただかしらを垂れることを知るのみですぞ」

 それから、彼はちょっと眉をよせて、しかし態度や声の調子は少しも変えずに、つけ加えた。

「貴公の青玉サファイヤの十字架を下さらんか。どうだな? 幸いあたりに人も居らん。わしは貴公を藁人形のように八つ裂きにも出来ますぞ」

 少しも変っていないその声や態度は、その話の変化に、かえって奇妙な恐ろしさを与えた。それにもかかわらず、宝物ほうもつの持ち主の方は、わずかに頭を動かしただけだった。そしてどこかぼんやりとした顔を星空の方に向けた。たぶん、彼は、その意味が判らなかったのだろう。でなければ、たぶん彼は腰を抜かしてしまったに違いない。

「左様」と高い方の僧侶は同じような低い声で、同じ態度で言いかけた。「左様、俺はフランボーだよ」

 それから、少し間を置いて、彼は言った。

「さあ、十字架はくれるだろうな?」

「いやだ」と対手あいては言った。そしてこの一言は実に不思議なひびきを持っていた。

 フランボーは今まで被っていた僧侶の仮面をがらりと脱ぎすてた。この稀代の盗賊は、反り身になって、低く長くあざ笑った。

「いやだと」と彼は叫んだ。「くれないと言うのか、大僧正猊下だいそうじょうげいか。くれたくないだろうとも。ちんちくりんのお聖人さん。なぜくれたくないか教えて進ぜようかな? その訳はな、もう俺様がちゃんと、このポケットに持っているんだ」

 小さいエセックス男は、夕闇にもありありと驚愕の色を見せた。そしてまるで『秘書官』が示すようなおどおどしたものごしで言った。

「ホウ! それはまたほんとかね?」

 フランボーは大満悦で叫んだ。

「まったく、お前は道化芝居そっちのけのお人好しだな。たしかだともよ。俺はお前の大切な紙包の偽物をこしらえたのよ。もうお前は偽物をつかんでるんだぜ。それで俺が本物の宝石を持ってるんだ。古い手さ、なあ師父ブラウン──古い手だともよ」

「いかにも」と師父ブラウンは言った。そしていかにも不思議な訳の解らぬ手つきで頭髪をなぜた。「いかにも、わしも以前に聞いたことがあるて」

 この言葉を聞くと大賊は興味を覚えて、田舎僧侶の方に身を寄せた。

「お前が聞いたことがあるって? どこで聞いたんだ!」と彼は問いかけた。

「もちろん。名前は言えないがな。その男は懺悔者で、およそ二十年間も茶色の包をすり替えて、それで立派な生活くらしを立てて来たのだ。ところでじゃ、おわかりかな。貴公を疑い出した時にわしはその男のいつもの手を思いだしたじゃ」

「俺を疑い出したって」と、賊は真剣になってくり返した。「お前は俺がお前をこんな淋しいところに連れて来たので、俺を疑い出したんだな?」

「いやいや」とブラウンは弁解めいて言った。「わしは始めて貴公と会った時から疑ったのじゃ。それは貴公がいぼのついた腕輪をしているので袖のところがふくらんでいたからじゃ」

「畜生」とフランボーは叫んだ「何だってお前は腕輪のことなんか知ってやがるんだ?」

「おお御存知の通りのお仲間からじゃ」とブラウンは意味もなく眉をうごかして言った。「わしがハートルプールで副牧師をしていた時の事じゃ。その時いぼのついた腕輪した仲間が三人居たのだ。だからわしははじめっから貴公を疑ったのじゃ。お解りかな? わしはあの十字架を無事に届けにゃならん。わしは貴公に注意していた。御存知かな。それから貴公が包みをすり替えたのを知ったのじゃ。そこでわしがまたすり替えおったよ。お解りにならんかな? それからわしはそれを途中に置いて来たのじゃ」

「置いて来たって?」とフランボーがくり返した。そしてこの時始めて、彼の勝誇った声に何か新らしい調子が加わった。

「左様、まあその通りじゃ」と小さい僧侶はどこまでも落着いて言った。「わしはあの菓子屋へ戻ってな、わしが包みを忘れやしなかったかとたずねてな、もしあったら送って下されと、宛名を置いてかえったのじゃ。実は何も忘れはせなんだ。二度目に行った時に置いて来たのじゃ。今頃は、ウェストミンスターに住んでいる友人の許に送ってくれたことだろうて」それから彼は、むしろ悲しげな口調でつけ加えた。「この手もハートルプールにいた時に、あの可哀そうな連中から覚えたのだ。その男は、停車場で手提袋を、その手でやったものだったが、今はある修道院にはいっとるとか。えらいことを知っとるものだて。なあどうじゃな」それから、彼は頭をかきながら本気になって言訳するようにつけ加えた。「わしらはどうも坊主がやめられんて。皆がやって来ては、こんな話をしてくれるでな」

 フランボーは内ポケットから茶色の包みをとり出して、バリバリと破いた。中には紙と鉛の棒との外には何も這入っていなかった。彼は巨人のような身振りで立ち上った。そして叫んだのだった。

「俺はお前のいう事が信じられねえ。お前のような田舎者に、そんな真似が出来てたまるけえ。お前は肌につけてるに違えねえ。そっくりこっちに渡さなきゃ──あたりに人っ子一人も居ねえ、力ずくでも取ってみせるぞ!」

「いや」と師父ブラウンは無雑作に言うと、彼もまた立ち上った。「力ずくでも取れますまいぞ。第一に本当にわしは持っておらん。それから、わしらだけじゃあない。他にも人が居るんじゃからな」

 フランボーは一歩踏み出して立ち止った。

「あの樹のかげにじゃ」指さしながら師父ブラウンは言った。「しかも二人の強い警官と、この世の中で第一の探偵じゃ。どうして来たと貴公はたずねなさるのか? なに、わしが連れて来たんじゃよ。もちろん! どうしてわしがそんなことをしおったかと言うのか? よろしいすっかり聞かせて進ぜよう。わしとてはじめは貴公の素性は判りはせん。同じ僧侶仲間に盗賊の汚名を着せてよいものか。わしはそこで貴公をためしたのじゃ。誰だって、コーヒーの塩を入れれば変な顔をするじゃろう。もしせんなら、その人は何か静かにしておるわけがあるんじゃ。もし勘定書が三倍も高けりゃ、誰しも文句を言うものじゃ。それをだまって払うからには、何かわけがありそうだ。わしが勘定書を変えたのを、貴公が払ったのじゃ」

 世界はフランボーが猛虎の如く躍りかかるのを待っているように見えた。しかし彼は咒文じゅもんでもかけられたように、たじろいていた。彼は極度の好奇心に呆然としていたのだ。

「さて」と師父ブラウンは重々しい口ぶりで、しかも淀みなく言葉をつづけた。「君は警官に手懸りを残さんようにしたのじゃ。そこで誰かが残さにゃならん。だからわしは行く先々で話の種になるような事を仕出来しでかしたのじゃ。大したこともせなんだが──壁を汚したり、密柑をひっくりかえしたり、窓をこわしたりしましたじゃ。だが大切な十字架はおかげで無事。もうウェストミンスターに着いた頃だて。わしは君が、馬鹿なことをやめたがいいと思いますぞ」

「え、何だって」フランボーが聞き返した。

「聞えなくて幸いじゃ。馬鹿なことじゃ。どうせ君はホイスラアになるには少しお人好し過ぎるんじゃ。わしは、現物を握っていてさえが、悪心を起しはせんて、わしはしっかりしてるんじゃ」

「一たい何の事を言ってるんだ」

「よろしい。わしは君が『現物』ということを知っているかと思いおった」師父ブラウンは、気持よげに驚いて言った。「おお、貴公はまだそんなに深みにおちてはおらん!」

「一体全体、お前は何んだってそんな色んなことを知ってるんだ?」フランボーは叫んだ。

「たしかに、わしが僧侶だからだ。わしのような人間の本当の罪悪を聞きとることより外に能のないものでも、またそれだけに人間の悪事については全く気づかず居られようはずがないのじゃ。貴公にはそれが気づかれなんだか? しかし、わしはわしのもう一つの商売のもう一つの側からでも貴公が僧侶でないことがたしかめられたのじゃ」

「それは何だ?」盗賊は開いた口がふさがらぬというように、たずねた。

「貴公は理性を攻撃したでな」師父ブラウンは言った。「それは悪い神学じゃ」

 師父ブラウンが持物を集めるために傍らをむいた時に、三人の警官は薄暗うすやみの木蔭からおどり出た。フランボーは芸術家であり、またスポーツマンであった。彼は跳び退いてヴァランタンに叮嚀ていねいにお辞儀をした。

「友よ、私にお辞儀したもうな」ヴァランタンの声は銀鈴ぎんれいの如く澄み渡っていた。「さあ、われわれの先生に御挨拶申し上げよう」

 かくて二人はしばらくは帽子をとって立っていた。一方小さなエセックスの僧侶は、彼の洋傘こうもりをもとめて、眼をしばたたいていた。

底本:「世界探偵小説全集 第九卷 ブラウン奇譚」平凡社

   1930(昭和5)年310日発行

※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。

その際、以下の置き換えをおこないました。

「有難う→ありがとう 或る→ある 如何→いか・いかが・どう 於いて・於て→おいて 於ける→おける 恐らく→おそらく 凡そ→およそ 難い→かたい 且つ→かつ 兼ねる→かねる かも知れ→かもしれ 位→くらい・ぐらい 呉れる→くれる 斯う→こう 此方→こっち 併し→しかし 然り→しかり 直ぐ→すぐ 即ち→すなわち 其→その 丈→だけ 唯→ただ 度→たび 多分→たぶん 給→たま 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと (て)居→(て)い・(て)お (て)置→(て)お (て)了→(て)しま (て)見→(て)み (て)貰→(て)もら 疾うに→とうに 何処→どこ 何の→どの 飛んでもない→とんでもない 猶→なお 勿れ→なかれ 何故→なぜ 成程→なるほど 許り→ばかり 筈→はず 程→ほど 殆んど→ほとんど 又→また 迄→まで 侭→まま 間もなく→まもなく 目出度い→めでたい 若し→もし 勿論→もちろん 以て→もって 矢張り→やはり 故→ゆえ」

※底本中の「ハンプステット」「ハムステッド」「ハンプステッド」、「燈」「灯」の混在はそのままにしました。

※底本は総ルビですが、一部を省きました。

入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(荒木恵一)

校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)

2009年89日作成

青空文庫作成ファイル:

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