貞操は道徳以上に尊貴である
與謝野晶子
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私は貞操を最も尊重し、貞操を最も確實堅固な基礎の上に据ゑたいために此一文を書きます。
今年は貞操と云ふことが問題になつて、女子の貞操ばかりでなく、男子の貞操と云ふやうなことまでが論ぜられるやうになりました。識者階級が斯う云ふ問題に眞面目な反省を取るに到つたことは勿論喜ばねばなりませんが、貞操を單に道徳として維持して行かうとすることの可否は容易に決定し難い宿題です。まだまだ之から討議を重ねて愼重に決定すべき事柄です。然るに何の新しい解釋も加へないで、之を昔の儘に道徳として強要しようとする態度の議論が多いのは甚だ宜しくないと思ひます。私達は貞操道徳に對して最も眞面目に幾多の疑惑を感じて居ます。
私達はあらゆる虚僞と、あらゆる壓制と、あらゆる不正と、あらゆる不幸とから脱れて、最も眞實な、最も自由な、最も正確な、併せて最も幸福な生活を實現したいと渇望して居ります。私達はこの實感を基礎として一切の問題を整調して行く外はありません。
たとひ昔は人間の生活に役立つたものでも、今の私達の情意を滿足させないものは最早私達の生活の規律には適合せず、それを強ひて外から適合させようとするのは、虚僞を以て壓制するのですから、私達はさう云ふ無法な道徳を排斥して、私達自身に必要な道徳を新しく制定することに努力しようと思ひます。
道徳は私達の生活のために制定されるので、其れが不必要になり、または私達の生活を害するに到れば漸次に改廢すべきものであらうと思ひます。若し道徳のために人間が生存して居るのであるなら、私達は永久に道徳の奴隸となつて舊い權威の下に屈從せねばなりませんけれど、さう云ふことは飽迄も自由に生きようとする私達の實感が許容しないことです。さうして私達はあらゆる壓制から脱れ、不用な舊思想や舊道徳から自己を解放して行くことが私達の生活に意義あらしめる一つの重大條件だと考へて居ます。
私達が壓制から脱れると云ふ意味は假にも放縱無秩序の生活を送らうとするのでなく、私達の實際生活に必要である限り、聰明な批判商量を經た上で、あらゆる自制律──新道徳、新制度の類──を建設しようとするのです。私達が此に貞操道徳に對して幾多の疑義を挾み、其等の解決を明快に識者から示されるので無くては、貞操を現代の道徳として肯定することが出來ないと言ふ意味も、要するに眞實の道徳を建設して私達の道徳性を何物にも動搖されること無しに生きて行きたいと思ふからです。貞操を最も現代的に道徳として擁護したいからです。
貞操の起原や歴史に就て私達は深く研究する必要を感じて居りません。どうでもいい事だと思つて居ます。私達の知らうとする所は貞操に對する現代人の聰明な解釋と眞率な實行とです。
私の持つて居る疑惑の幾つかを順序無しに次に述べて見ませう。
貞操は女のみに必要な道徳でせうか。貞操は男にも女にも必要な道徳でせうか。
貞操は道徳としてどんな場合にも人間が守らねばならぬものでせうか。またどんな場合にも守り得られるものでせうか。
其人の境遇體質などの關係に由つて守り得る場合と守り得ない場合とがありはしませんか。また甲の人に守ることが出來ても、乙の人には守ることが出來ないと云ふやうなことがありはしませんか。何人にもそれを強要して守らせることが出來るのでせうか。
どんな場合にもそれを守ることが屹度人間生活をより眞實に、より自由に、より正確に、より幸福にするものでせうか。
私達の人間生活の持續と發展とに矛盾なくして役立つものなら新しい道徳として歡迎したいと思ひます。若し女には守らさねばならぬが、男には寛假されると云ふやうな矛盾のあるものなら、それは人間生活を破綻失調させる舊式道徳であつて、私達の信頼することの出來ないものだと思ひます。
また何人にも遍く強要することが出來ず、其人の境遇、體質等に由つて寛嚴の差があり、それを一律に何人にも強要しては却て大多數の人間が虚僞と、壓制と、不正と不幸とに泣かねばならぬと云ふやうなものなら、其れは私達の要求して居る新しい道徳として見ることが出來ません。
貞操は精神的のものですか、肉體的のものですか、愛情のものですか、性交のものですか、また精神的であると同時に肉體的のもの、謂ゆる靈肉一致的のものですか、かう云ふ區別もまだ鮮明になつて居ませんやうに思はれます。
若し精神的のものだと云ふなら、他の婦を見て情を動かしたものは既に姦淫を犯したものだと云ふ論法通り、或男が或女を見、或女が或男を見て愛情を動かしたことは悉く精神的に純貞を破つたものになります。片戀と言ふのも、失戀と言ふのも、また其れまでに達しない程度の異性に對する淡い愛情も一切不貞不純の事實になります。さうして結婚前に何人の心的經驗にも此種の不貞不純を絶對に犯さないで居られるものでせうか。
人が山中に孤棲でもして全く社會と隔離しない限り、かう云ふ意味に於ての貞操道徳を破らない者は一人も無い譯でありませんか。貞操が精神的のものであるなら其處まで徹底して考へねばならないと思ひますが、道徳が果してさう云ふ内心の機微までを制裁することが出來るでせうか。
其處までは追窮しないでもよい、貞操は結婚した男女の間に守る道徳であると云ふなら、結婚するまでの不品行などは一切寛假されることになるでせう。肉體的には關係したが、精神的には相許したのではないと云へば少しも貞操道徳に背いた人でなくなるでせう。
世間には夫婦として性交を續けながら精神的に冷淡な男女や、また性交も無く精神的にも憎み合ひながら夫婦として同居して居る男女が多數にあつて、其等は明かに精神的の貞操を破つて居る男女である筈ですが、不思議にも貞操道徳はそれを不貞の男女として咎めないのみならず、表面さへ夫婦生活を一生續けて行けば却て貞婦のやうに目されて居るのは何う云ふ譯でせう。
若し肉體的のものとするなら、男も女も絶對に再婚してはならないことになるでせう。のみならず、女が他から暴力で身を汚されても、男が女の誘惑に由つて一時的の性交を遂げても、もう其男女の貞操は破壞されたことになつて、一生結婚は出來ないでせう。親兄弟のためとか、其他一身一家の餘儀ない事情のためとかで娼婦の境遇に在つた女などは永久に背徳者として泣かねばならないでせう。精神的に悔ゆる者は其罪が除かれると云ふやうな美くしい感情は背徳者を曲庇するものとして許されないことになるでせう。また肉體さへ一人の異性を守つて居れば、愛情は他の異性に向つて居ても差支ないと云ふやうな矛盾したことにもなるでせう。
之に反して、貞操は靈肉一致のものとするなら、さう云ふ道徳が現在の社會制度のままで實現されるでせうか。精神的にも肉體的にも唯一を守る結婚と云ふものは戀愛結婚以外には遂げられない譯ですが、戀愛の自由を許されて居ないと共に、戀愛の自由を享得するだけの人格教育が施されて居ない現代に、靈肉一致の貞操を道徳として期待することは蒔かずに刈らうとする類ではありませんか。
現代の結婚は太抵の場合男女の一方が一種の奴隸となり、一種の物質となつて、一方に買はれて居る状態です。男が富家の聟となることの外は、女の方が衣食の保障を得るために一種の賣淫を男に向つて行つて居るのが現在の結婚です。かう云ふ結婚から成立つた夫婦に向つて靈肉一致の貞操を期待するのは夫婦の何れに向つても苦痛を與へ、虚僞を強ひるものではないでせうか。
現在ではまだ奇蹟のやうに思はれて居る戀愛結婚が生活理想の急轉に由つて遍く實行される時代が遠からず來るとしても、人の心は固定して居ないのですから、其戀愛が自然に解體する機會が生じないとも限りません。熱烈な愛情の上に結ばれた夫婦生活が必しも永久に一致を續けて居なかつた例は昔から少くないことです。さうすれば戀愛結婚もまた貞操道徳の巣では無いやうに思はれます。
貞操に對する私の疑惑は大體右の通りです。
道徳は如何なる場合にも矛盾のないものでなくてはなりません。また努力してそれを實踐することに多少の苦痛は伴つて居ても、其苦痛に勝るだけの快感を持ち來すものでなくてはなりません。なぜなら私達の要求して居る今後の道徳が、人間各自の生活をより眞實に、より自由に、より正確に、より幸福にするための自制律であるからです。それゆゑに社會から之を個人に強要することも許されるのです。
併し貞操道徳を徹底的に實踐しようとすると、まだ貞操道徳の解釋が前述のやうに明確になつて居らず、瞹眛な解釋のままで實踐しようとすれば幾多の矛盾が生じて徹底的であることが不可能になります。
再婚者も、また曾て性交を二三にした人も、甚しきは曾て醜業婦であつた人達も、現在の良人に對して唯一の愛情さへ捧げて居れば、過去に於ける他の異性との愛情も性交も現在の貞操を汚す所以でないと云ふ風に解釋されて居る夫婦生活が一方にあるかと思へば、結婚前に一たび性交を經驗した女は、それが異性から誘惑されたのであると、暴力で犯されたのであると、自から招いたのであるとに論なく、貞操的に汚れた女として峻烈に責められる風が一方に勢力を張つて居ます。
それなら男も結婚前に性交を經驗した者は不貞を以て問はれるかと云ふと、斯樣な質問をするのが非常識である程それは全く道徳上の問題となつて居りません。男は結婚後と雖も他の異性を抱擁することを公認されて居ります。男には貞操道徳の自發的要求も社會的強要も行はれて居ないのです。その反對に女は一旦妻となつた以上、良人との愛情の交感がなくても、唯だ良人との抱擁さへ續けて居ればそれが貞婦であつて、さう云ふ意味の貞婦たることを社會から強要されて居ります。甚しきは愛情も性交も斷えて居て、それに由來する絶大の苦悶を續けながら、幾十年の間良人と同棲して家政を取り、小兒を養育して居ると云ふ女が貞婦として稱讃され、或は愛情は他の男に向つて居ながら性交を良人以外に許さないと云ふだけで、貞操ある妻として世間から目されて居ると云ふやうな事實が無數にあります。
貞操は女にのみ守ることが出來る道徳で、男には生理的關係がそれを許さないと云ふやうなことも聞きます。男に守れないと云ふことは貞操が人間共通のものであるべき道徳としての資質を最初から備へて居ない一證ではないでせうか。
若し生理的關係を云ふなら、女にも性欲衝動のために危險な時期がないとは云へないでせう。また生理的關係ばかりでなく、男も女も愛情のためからは勿論、再婚して新しい境遇を開くと云ふやうな關係から却つて處女として寡婦としての貞操を守らない方が幸福な場合も現に多いのです。
如何なる場合にも一律に實踐しようとすると幾多の矛盾が生じます。實際生活と矛盾するのはそれが道徳として現代の人を律するだけの正確な基礎を持つて居ないからではないでせうか。其矛盾を補綴するために幾多の除外例を設けて、結婚前の不純不貞は問題ではない、再婚後の靈肉の純貞を要求するのであると云ひ、或は戀愛結婚は理想であるが、愛情のない夫婦生活の持續も貞操の一種として強要せねばならぬと云ふ風であれば、貞操道徳の内容ほど不純、不正、不自由、不安なものは無く、私達の生活を裏切つて不幸に導く在來の壓制道徳から一歩も出て居ないものになります。私達はさう云ふ瞹眛なものを安心して自分の生活の自制律にしたくありません。
私達はまた在來の意味での結婚其物を疑つて居ます。儀式、同棲、戸籍上の屆出と云ふやうな形式關係に重きを置かれる結婚にどれ丈の權威があるでせうか。結婚の前後を以て貞操を區劃し、結婚以前の不品行を寛假するのも道理のないことであり、結婚さへ續けて居れば貞操の全いものであるとすることも形式的な解釋です。
また今日までの社會では結婚して同じ家に住むことが出來ましたけれど、今後は經濟上または其他の事情から戸籍上の屆もせず、同じ家にも住まないで夫婦關係を結ぶ男女が次第に殖えて行くでせう。歐洲ではさう云ふ夫婦關係の人達がどの階級にも多數になつて行く傾向があります。之は學者の道徳論などで制し難い社會事實です。さう云ふ夫婦關係に於ては結婚と云ふ形式的なものが何でもないものになります。愛情が合へば協同關係を結び、愛情が破裂すれば別れてしまふ外ありません。さう云ふ社會事實と貞操道徳とは何うして一致されるでせうか。男女は必ず結婚すべきものと云ふ理想が動搖して居るのに、貞操の永久性と云ふものが何に由つて保證されるでせうか。
私は曩に「太陽」誌上で、私の貞操は道徳でない、私の貞操は趣味である、信仰である、潔癖であると云ふ意味のことを述べました。趣味や信仰や潔癖は他に強要すべき性質のものでありません。さうして私が私の貞操を絶對に愛重して居るのは藝術の美を愛し學問の眞を愛するやうに道徳以上の高く美くしい或物──假りに趣味とも信仰とも名づくべきものだと思つて居ます。若し貞操を道徳と云ふ名の下に實踐しようとするには、前述の疑惑を解決して何人に強要しても矛盾の無いことが徹底的に明白になつた上でなければ私は十分に滿足が出來ません。重ねて申します、私は貞操を尊重することを何人にも讓らないために敢て此一文を書きました。(一九一五年十一月)
底本:「定本 與謝野晶子全集 第十五卷 評論感想集二」講談社
1980(昭和55)年5月10日第1刷発行
初出:「太陽」
1915(大正4)年
入力:Nana ohbe
校正:Juki
2004年1月28日作成
2014年1月17日修正
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