恋をしに行く(「女体」につゞく)
坂口安吾
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谷村は駅前まで行つて引返してきた。前もつて藤子にだけ話しておかうと思つたのである。彼は藤子の意見がきゝたかつた。彼は自信がなかつたのだ。そして藤子の口から自信へのいと口をつかみだしたいといふのである。
谷村は信子に愛の告白に行く途中であつた。彼はかねて肉体のない恋がしたいと思つてゐた。たゞ魂だけの、そしてそのために燃え狂ひ、燃え絶ゆるやうな恋がしたいと考へてゐた。そして彼はさういふ時にいつも信子を念頭に思ひ浮べてゐたのであるが、見方をかへると、信子の存在が常に念頭にあるために、魂だけの、燃え狂ひ燃え絶ゆるやうな恋がしたいと思ひ馴らされてゐたのかも知れない。
けれども、信子とは如何なる人かといふことになると、日頃は分つてゐたのであるが、いざとなると自信がなかつた。
信子も岡本の弟子であつた。岡本は信子を悪党だと言ふ。先天的な妖婦で、嘘いつはりでかためた薄情冷酷もの、天性の犯罪者だと言ふのであつた。岡本と信子は恋仲だとも言はれ、ひところはずゐぶん親密さうにしてゐたものだ。そのころ信子は二十一二、岡本は四十六七で、信子は然しなるべく女友達を一緒に誘ひ、岡本と二人だけでは歩かぬやうにしてゐた。もつとも本当のあひゞきは人目をさけるものであるから、裏のことは分らない。
信子には何十人の情夫があるのか、見当もつかないといふ噂であつた。然し、信子の情夫と名乗つた男がゐるわけではない。ともかく、何十人かの男の友達がゐる。その男達の何人かゞ相当の金をつぎこんでゐることだけは明瞭で、信子の服装は毎日変り、いづれも高価なものである。月々一万ちかい暮しむきだと言はれてゐるが、信子の給料は百円に足らないのである。
信子は構造社といふ出版屋の企画部につとめてゐた。社長の秘書だとか、つまり二号だとかと噂もあるが、社長は六十ちかいお金持で、出版は道楽だつた。高価な画集や、趣味的な贅沢本を金にあかして作つてゐるが、なかに一つ、あまり世間に名の知れない国史家の本をすでに何冊かだしてゐた。この国史家は竹馬の友だ。町田草骨といふ人である。別に大学教授でもなく、いはゞこの人の国史も中年から始めた道楽で、古代の氏族制度などから、ちかごろでは民族学のやうなことに凝りだしてゐるのであつた。
信子は草骨の家に寄宿してゐた。
草骨夫妻には子供がない。変つた夫婦で、信子をお人形のやうに可愛がり、信子の寝台のカバーのために京都までキレを探しに行つたり、自分達はこはれかけた安家具で平気で生活してゐるくせに、信子の居間と客間のために北京から家具を取り寄せてやつたり、西陣へテーブルクロースを注文したり、ずゐぶん大金を投じたものだ。そのくせ、さほどのお金持ではないさうで、地方の旧家の出であるが、田畑も売りつくし、いくらかの小金があるばかり、死ねばいらない金だからと云つて、信子の部屋を飾るために大半投じたといふ話であつた。信子はこの美しい居間で、暇々に、草骨の蔵書整理をやり、目録をつくつてゐた。だから信子の居間には、凡そこの居間に不似合ひな百冊ほどの古風な本が、いつも積まれてゐるのであつた。
信子は二十六になつてゐた。谷村が信子を知つたのは、まだ二十のあどけない時だつた。それから数年、さのみ近しい交りもないが、そのくせ会へば至極隔意なく話のできるのは、二人の気質的なものがあるらしい。信子は時に高価な洋酒などを御馳走してくれることがあつたが、谷村がわざとからかひ半分に、信ちやんはずゐぶんお金持なんだね。金の蔓はどこにあるのだらうね、とあらはに下卑た質問をあびせても、怒らなかつた。もとより返事もしないが、どんな風な様子でもなかつたのである。
谷村はずゐぶんズケ〳〵と信子に話しかけたものだ。
「あんまり美しすぎて誰も口説いてくれないといふ麗人の場合があるさうだけど、信ちやんなんかも、その口かい? でも、ずゐぶん、口説かれたことだらうね。どんな風な口説き方がお気に召すのか、参考までに教へてくれないかね」
「プレゼントするのよ。古今東西」
「あゝ、なるほど。すると、うれしい?」
信子は答へなかつた。
谷村は常に、あどけない少女のやうに信子を扱つてきた。事実なかば気質的に、さう思ひこんでゐる一面がある。そのくせ信子を妖女あつかひに、ズケ〳〵と下卑た質問もするのだが、気質的に少女あつかひにしてゐる面があるものだから、それで救はれてゐるものらしい。
信子は先天的に無貞操な女だと何か定説のやうなものが流布してゐた。そのなかで、岡本の呪咀の言葉は特別めざましく谷村の頭に焼きついてゐた。薄情冷酷、そして、先天的な「犯罪者」だと云ふのである。
谷村には無貞操といふことよりも、犯罪者といふ言葉の方がぬきさしならぬものがあつた。いつたい信子は無貞操なのだらうか。無貞操であるかも知れぬ。然し、凡そ肉慾的な感じがない。清楚だ。むしろ純潔な感じなのである。どこか、あどけなさが残つてゐる。それは、たとへば、香気のやうに残つてゐた。処女と非処女の肢体は服装に包まれたまゝ、ほゞ見分けがつくものであるが、信子は処女のやうでもあり、さうでないやうでもあつた。この疑問をいつか藤子にたゞしたとき、処女ぢやないわよ、藤子は言下に断定した。処女らしくすることを知つてゐるのよ。先天的にさういふ妖婦なのよ、と言つた。
けれども、信子のあどけなさ、清楚、純潔、それは目覚める感じであつた。それは、たしかに、花である。なんとまあ、美しい犯罪だらうかと谷村は思ふ。まるで、美しいこと自体が犯罪であるかのやうに思はれる。この人は無貞操といふのではない。たしかに先天的な犯罪者といふべきだらう。もしかすると殺人ぐらゐも──その想念は氷のやうに美しかつた。鬼とは違ふ。花自体が犯罪の意志なのだ。その外の何物でもない。
それは谷村の幻想だつた。彼は元来必ずしも幻想家ではない。ところが、信子の場合に限つて、彼は甚しく幻想家であり、その幻想を土台にして、きはめて気分的に、肉体のない、たゞ魂だけの恋といふことを考へてゐた。長々それを思ひ耽り、それが幻想的であり、気分的であることを疑りもせず、そしてたうとう本当に打開けてみたいと思ひたつて、外へでて、歩きだして、やうやく、気がついた。信子はたしかに妖婦なのである。谷村は肉慾を意識しない。然し、信子は、谷村の知り得ぬ方法で、何人からか、莫大な生活費をせしめてゐる女なのである。谷村の歩く足は次第に力を失つた。
彼は藤子に会はうと思つた。先づ藤子に計画を打ちあけて、批判をきかうと思つたのである。
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藤子の旦那の上島といふ株屋が居合せた。彼は目をまるくした。
「そんな素敵な妖婦が日本にゐますかね。え? どうも、信じられない」
「いえ、本当よ。すくなくとも、二十人ちかい情夫があるわ。そして、信子さんは、どの一人も愛してはゐないのよ。あの人は愛す心を持たないのだわ。先天的に冷酷無情なのよ。生れつきの高等淫売よ、口説いたつて、感じないわよ。谷村さん」
「でも、それだつたら、口説きがひがあるぢやないか。え、谷村さん。面白いね。ぜひとも自爆するのだよ」
藤子は信子の情夫の名前を一々列挙した。画家もあれば、実業家もあり、商人もあれば、歌舞伎の名優もあつた。いづれも中年以上の相当の地位と金力のある人ばかり、岡本などに目もくれなくなつたのは当然だといふ話なのである。
「あなたはいつか信子さんは処女ぢやないかと仰有つたでせう?」
藤子の目は光つた。
岡本の弟子に小川といふ青年がある。谷村も知つてゐるが、一本気の気質で、然し、気まぐれな男であつた。この男が信子を口説いた時に、私は処女よ、と信子は言つたさうである。彼はふら〳〵になるまで信子を追ひ廻して、結局崇拝者といふ立場以外にどうなることもできなかつた。信子は青年は相手にしなかつた。青年はたゞとりまいて崇拝することができるだけ、つまり青年は一本気で独占慾が強いから、信子は崇拝者以上に立入らせないのである。それが藤子の話であつた。
「私は処女よ、なんて、処女はそんなこと言はないものよ。言ふ必要がないのですもの」
藤子は益々谷村を見つめた。
「谷村さん。なぜ、私がこんなこと言ふか、分る?」
谷村は答へなかつた。その目には残酷な憎しみがこめられてゐるやうだ。藤子もさすがにてれたのか、目をそらして、くすりと笑つたが、
「谷村さん」
又、目が光つた。
「あのね。信子さんはね、多分、あなたにも言ふと思ふわ。私、処女よ、つて。予感があるのよ。きつと、言ふわ。そのときの信子さんの顔、よく見て、覚えてきてちやうだい。陳腐な言葉ぢやないの。あなたが、そんな言葉、軽蔑できれば、尚いゝのだけれど」
谷村は別のことを考へてゐた。
藤子の邪推からも結論されてくることは、信子の生きる目的は肉慾ではないといふことだ。信子の生きる目的は何物であらうか。男をだますことだらうか。金をまきあげることだらうか。それは目的といふよりも、本能的なものだらう。なぜか谷村はさう思ふ。彼の頭に岡本の天性の犯罪者といふ呪咀の声が絡みついてゐるのであつた。この年老いた破廉恥漢の呪咀の声ほど信子に就いて的確なものは有り得ない。肉慾専一の岡本は信子を犯罪者と見るのだが、谷村の場合に別の意味であるかも知れぬといふことが彼に勇気を与へてゐた。信子に人を迷はす魔力があるなら、迷はされ、殺されたい、と谷村は思つた。
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それは冬の日であつた。冬の訪れとともに谷村の外出の足がとまるのはすでに数年の習慣だつた。素子は彼の外出を訝つたが、それに答へて、本を探しに、と言つたのである。まつたく何年ぶりで冬の外気にふれたのだらう。鋭い北風に吹きさらされてみると、むしろ爽快と、何年ぶりかの健康を感じたやうな思ひがした。彼は襟巻で鼻と口を掩うてゐたが、それを外して吹きつける風にさらされてみたい誘惑すらも覚えたほどだ。
信子に恋がしてみたいとは、だまされたいといふことだらうかと谷村は思つた。忘れてゐた冬の外気が意外に新鮮な健康すらも感じさせてくれる。それも彼にはだまされた喜びの一つであつた。知らなかつた意外なもの、それに打たれて、迷ひたい。殺されてしまひたい、と彼は思つた。長らく忘れ果てゝゐた力が呼びもどされてくるやうだつた。それは外気の鋭さと爽快に調和してゐるやうだつた。
信子の居間には、このやうな女の居間にしては一つだけ足りないものがあつた。ピアノである。谷村は音楽を好まなかつた。音楽は肉慾的だからであり、音楽の強ひる恍惚や陶酔を上品に偽装せられた劣情としか見ることができなかつたからである。素子はショパンが好きであつた。その陶酔と恍惚から谷村も遁れることはできない。谷村は抱擁に就いて考へる。抱擁の素子は音楽の助力を必要としない。然し、抱擁なき時間にも、抱擁に代る音楽を──谷村は音楽にきゝほれる素子の肉体を嫉妬した。そして、そのたび彼は音楽を蔑んだ。音楽は芸術には似てゐない。たゞ、香水に似てゐる、と。
信子のからだから、先づ香水の刺戟が彼を捉へた。ちやうど、ガダルカナルの退却のころだつた。人々は不吉な予感を覚えても、二年の後に東京が廃墟にならうとは夢に思ふ者もない。然し街から最も際立つて失はれたのは先づ香料のかをりであつた。コーヒーの香すらも。バタや肉の焼かれる香すらも。
香水の刺戟は彼をまごつかせた。
「信ちやんのやうな人でも香水などがつけてみたいの? 生地の魅力に自信がもてないのかしら」
「あなたはいつもだしぬけに意地のわるい今日はを仰有るのね。ふと私をからかつてやりたくなつたのでせう。今朝、目のさめたとたんに」
谷村の落着きは冴えてゐた。炭の赤々と燃えてゐる大きな支那火鉢の模様も、飾り棚の花瓶の模様も、本箱の本の名も歴々と頭に沁みて、恋の告白をするやうなとりのぼせた思ひがまつたくなかつた。
谷村はためらはなかつた。これから何かゞ起るのだ。一つの門がひらかれる。ひらかなければならない。彼は先づ身を投げださなければならないことが分つてゐる。門に向つて。
「僕は前奏曲を省略するから。信ちやん。僕は雰囲気はきらひなのだから」
彼の落着きはまだつゞいてゐた。
「僕はね、恋を打ちあけに来たのだよ、信ちやんに。恋といふものではないかも知れない。なぜなら、僕の胸は一向にときめいてもゐないのだからさ。僕はね、景色に恋がしたいのだ。信ちやんといふ美しい風景にね。僕は夢自体を生きたい。信ちやんの言葉だの、信ちやんの目だの、信ちやんの心だの、そんなものをいつぱいにつめた袋みたいなものに、僕自身がなりたいのだ。袋ごと燃えてしまひたい。信ちやん自身の袋の中に僕が入れてもらへるかどうか知らないけれども、僕は信ちやんを追ひかけたいのだ。この恋は僕の信仰なのだ。僕が熱望してゐることは殉教したいといふことだ」
谷村は言葉が大袈裟になりすぎたので苦笑した。
信子は放心してゐるやうな様子なのである。目をつぶつた。何もきいてゐないやうな顔でもあるし、うつとりしてゐるやうでもあつた。
谷村の言葉がとぎれても、信子の様子は変らない。谷村は投げださう投げださうと努力した。つまり、何かを言ひきることによつて、自分を投げだしてしまひたいのだ。心に踏切りのやうなものがある筈だ。突然踏切り、踏みだしてゐるやうな一線が。彼はもどかしくなつてゐた。まだ踏切つてゐない。彼はたゞ信子の様子が意外であり、放心だか、うつとりだか、全くつかまへどころのない複雑な翳の綾が、さすがだと思つた。すくなくとも恋を告白しなければこの翳の綾は見ることができなかつた筈だ。すこし尖つた翳もある。やはらかい翳もある。幼さの翳もあつたが、さうでない翳、つまり、恋の老練を谷村はたしかに認めた。
この女は恋に退屈しないのだ、と谷村は思つた。その考へは彼に力を与へた。
「僕は信ちやんに愛されたいといふことよりも、信ちやんを愛したいのだ。信ちやんが僕の絶対であるやうになりたいのだ。さうする力が信ちやんには有るやうな気がする。そして、信ちやんがさうしてくれることを熱願するのだ。信ちやんが死ねといへば死ぬことができるやうに、とことんまで迷ひたい。恋ひこがれたい。信ちやんのために、他の一切をすてゝ顧みない力が宿つて欲しいのだ。僕はすこしムキになりすぎてゐるやうだ。つまり僕の心がムキでないから、ムキな言葉を使ふのさ。僕は肉体力が弱すぎるから、燃えるやうな魂だけを感じたい。肉体よりも、もつと強烈な主人が欲しい」
喋りながら、断片的な色々の思ひが掠めて行つた。たとへば、退屈といふこと、自己誇張といふこと、無意味といふこと、本心の狙ひから外れてゐるといふこと、自己嫌悪といふこと、もう止したい、眠つてしまひたいといふこと。
けれども、それらが信子の顔と姿態によつて一つづつ吹き消されて行く快さを谷村は覚えた。それはその快さを自ら納得せしめるための彼自身の作意ではなかつた。想念が信子の顔と姿態に吸はれて掻き消えて行く。いつも意識に残るものは、信子の顔と姿態がすべてゞあつた。
それも媚態の一つだと谷村は思つた。最も人工的な、ある技術家の作品だつた。谷村の忘れ得ぬ驚きが一つある。それはその瞬間には気付くことができなかつた。気付き得ぬところにその意味があるのだから。
信子はいさゝかも驚かなかつた。谷村の唐突な口説が始められた瞬間に於てすらも。素朴なもの、無技巧なもの、凡そいかなるかすかなぎごちない気配をも窺ふ余地がなかつた。いつかうつとりと、又、漠然と、放心しきつてゐるのみである。いつか起るかも知れぬ素子の破綻に就いて谷村が不安をいだく必要もなかつた。
なぜ今まで口説かなかつたの。いつでも遊んであげたのに。さういふ意味があるやうな気がする。然し、さういふ形はどこにもなかつた。たゞ、すこしも怖しくないだけだ。すべてが赦されてゐるやうだつた。
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谷村は落着いた気持になつた。今までも落着いてゐたつもりであつたが、まるで違つた落着きが入れかはつてゐるやうな気持であつた。あせりたい心、あせらねばならぬ思ひがなくなつてゐた。彼はたゞこの部屋の波にたゞよふ小舟のやうな思ひがした。やがてどこかの岸へつくだらう。南の島だか、北の涯だか。
彼はもう、あくびをしてもよかつた。煙草をつけて、思ひきり、すひこんでみることもできた。
「信ちやんは自分の絵を覚えてゐるだらうか。僕は妙に忘れないね。あんまり平凡すぎるからだよ。色も形も、そして、作者の語つてゐる言葉もね。歪みといふものがないのだ。信ちやんは好んで二十ぐらゐの娘をかいたね。洋装だの、和服だの、そして、たぶん、裸体はなかつた筈だ。あんまり平凡で、常識的すぎるのだもの。然し、だん〳〵分つてきた。信ちやんの絵はお喋りではない。好奇心がないのだ。ところが外の連中は、たとへばうちの素子のやうな常識的な女でも、ごて〳〵とお喋りで、好奇心ばかりの絵をかくのだね。別段その絵に作者の夢が託されてゐるわけでもない。架空な色彩の遊びがあるだけなのさ。信ちやんにはその架空な遊びが必要ではないのだね。むしろそれが出来ないのだ。信ちやんは絵の中に好奇心を弄する必要がない。信ちやんは生活上に天性の芸術家だから」
谷村は和かだつた。顔には笑ひすら浮んでゐた。然し彼は信子の顔から注意の視線を放さなかつた。この放心の表情と、肩と胸と腕のゆるやかにだらけた曲線の静かさは素晴らしい。けれども、もつと素晴らしいことが起る筈だ。ある変化が。いつ又、いかにして。その瞬間を見逃すまいと彼は思ふ。然し、彼は猟犬ではなかつた。信子の破綻を全く予期してゐなかつたから。すでに彼は信子の技術を疑はなかつた。そして、その万能を信じたいと思つた。
谷村は遊びたくなつてきた。もつとふざけてみたくなつてきた。言ひたい放題に言つてやりたくなつてきた。それは信子に誘はれてゐるやうでもあつたし、誘はれやうとしてゐるやうでもあつた。
幼い頃、こんな遊びをしたことがあつたやうだと谷村は思ふ。柿の木に登つて、柿の実をとつてやる。下に女の子が指してゐる。もつと上よ、えゝ、それもよ、その又上に、ほら。そして、枝が折れ、地へ落ちて、足の骨を折つてしまふ。それは谷村ではなかつた。隣家の年上の少年だつた。生きてをれば、今も松葉杖にすがつてゐる筈なのである。
この部屋には退屈と諦めがない。それは谷村の覚悟であつた。上へ、上へ、柿の実をもぎに登るのだ。落ちることを怖れずに。落ちるまで。
谷村はこのまゝ、こんな風にして、眠ることができたらと思つた。そして、そのまゝ、その眠りの永久にさめることがなかつたら、と思つた。
「今、僕に分るのは、この部屋の静けさだけだ。世の中の物音は何一つきくことができない」
と、谷村は譫言をつゞけた。
「火鉢の火が少しづつ灰になるものうさまで耳に沁みるやうな気がする。僕に自信が生れたのだ。それはね、信ちやんは如何なる愛にも堪へ得る人だといふことが分つたやうに思はれるから。信ちやんは愛されることに堪へ得る人であり、人を愛す人ではない。そして僕は信ちやんを愛すことに堪へ得るだらう。僕は愛されないことを必ずしも意としない。むしろ僕は最も薄情な魂をだきしめてゐる切なさに酔ひたい。信ちやんの心は冷めたい水のやうだ。山のいたゞきの池のやうだ。湖面を風が吹いてゐる。山のいたゞきの風が、ね。そして空がうつるだけだ。たゞ空だけが、ね。孤独そのものゝ魂だ。そしてその池の姿の美しさ静かさで人を魅惑するだけだ。僕はその山のいたゞきへ登つて行く。弱いからだが、喘ぎながら、ね。ところが僕は奇妙に弱いからだまで爽快なんだ。その池へ身を投げて僕は死にたい」
信子の顔はたうとう笑ひだした。まだ目はとぢてゐる。突然、ぱつちりと目をあけた。そして谷村を見つめた。
然し、再び椅子にもたれて、放心してしまつた。たゞ違ふのは、ほゝゑみのかすかな翳が顔に映つてゐるだけ。
★
不思議な目、それは星のやうだと谷村は思つた。ぱつちりと見開らかれ、見つめ、そして、とぢた。微塵も訴へる目ではない。物を言ふ目ではない。あらゆる意味がない。たゞぱつちりと、見つめる目であるだけ。たゞ冴えてゐた。それだけ。
はじめて谷村も目をとぢた。自分の目が厭になつたからである。けれども、目をとぢることに堪へ得ない。信子の顔を失ふことに堪へ得なかつた。
「信ちやん。何かを答へてくれないか。目はとぢたまゝでいゝ。あんな風に僕を見つめるのは残酷といふものだよ。僕の告白に返事をくれる必要はない。たゞ、何か、言葉がきゝたいだけだ」
信子は然し答へない。そして放心は変らない。笑ひの翳はいくらか揺れてゐるかも知れぬ。いつも何かゞ揺れてゐた。形には見えぬ翳のやうなものが。
谷村は信子に甘えてゐる自分を見つめた。然し、不快ではなかつた。そして谷村は気がついた。信子を少女のやうに扱ふ気持が根こそぎ失はれてゐることに。益々勇気がわいてゐた。それはどのやうな愚行をも羞ぢない、如何なる転落も、死をも怖れぬといふ自覚であつた。
谷村は信子の不思議に薄い唇を見つめてゐた。それは永遠に真実を語ることがない一つの微妙な機械のやうな宿命を感じさせた。信子の鼻は尖つてゐたが、その尖端に小さなまるみがあつた。そこには冷めたい秘密の水滴が凝り、結晶してゐるやうに思はれる。人はそこに冷酷、残忍、不誠実を読みとることも不可能ではない。然し又、幼さが漂ふのも、鼻から唇へかけての線である。信子の顔のすべての感じが薄かつた。だが、やはらかさ、ふくらみに気付くとき、信子の気質のある反面が思はせられる。そこには理想と気品があつた。ある種のものには妥協し得ない魂の高さがあつた。
この女は死に至るまで誰のためにも真実を語らない。肉慾の陶酔に於てすら真実の叫びをもらすといふことがない。信子はその不信によつて人を裏切ることはない。なぜなら、真実によつて人をみたすことが永遠に失はれてゐるのだから。
谷村は公園の鋪道の隅の小さな噴水を思ひだした。彼は山で見た滝の大きな自然が厭らしかつた。河は高さから低さへ流れ、滝は上から下へ落ちる。自然のかゝる当り前さが、彼は常に厭だつた。水は上へとび、夜は明るくならねばならぬ。人工のいつはりがこの世の真実であらねばならぬ。人の理知は自然の真実のためではなく、偽りの真実のために、その完全な組み立てのために、捧げつくされなければならぬ。偽りにまさる真実はこの世には有り得ない。なぜなら、偽りのみが、たぶん、退屈ではないから。
谷村は信子によつてだまされる喜びを空想した。彼自身も信子をだまし得る役者の一人でありたいと希つた。そして彼は、ともかく恋の告白自体がわが胸の真実ではないことを自覚して、ひそかに満足した。所詮、偉大な役者では有り得ない。たゞ公園の鋪道の隅の小さな噴水であり得たら。信子は夜をあざむく人工の光のやうに思はれた。
「僕は信ちやんの自信ほど潔癖で孤独なものは見たことがない。芸術は信ちやんには似てゐない。死後にも残るなどといふのは饒舌なことだ。慎しみのないことだよ。死ねばなくなる。死なゝくとも、在るものは、失せねばならぬ。僕がこの世に信じうる原則はそれだけだから」
谷村は自分の言葉に虚偽も真実も区別はなかつた。彼は自分を突き放してゐた。突き放すことを自覚する満足だけでよかつた。
「信ちやんは、たぶん、自分以外の何人をも信じることはないだらう。信ちやんは永遠を考へてゐない。信ちやんは消えうせる自分を本能的な確信で知つてゐる。哲人たちが万巻の書物を読みその老衰の果てに知りうることを、信ちやんは生れながらに知つてゐる。昔の支那の皇帝が不老不死を夢みたやうな愚を信ちやんはやらない筈だ。信ちやんは現実的な快楽主義者ではないからだ。信ちやんは常に犠牲者だから。生れながらの犠牲者だから。哲学や、宗教や、芸術の至りうる最後の果実に、信ちやんは生れながらに即してゐるのだ。信ちやんは自らみたされないことによつてしか、みたされることができない。信ちやんは現に僕をみたしてゐる。その不思議な美しさで。信ちやんは人を魅惑する微妙な機械だ。そして、魅惑によつて人をみたしてやるときだけ、自分もみたされてゐる。機械自体が廻転してゐることによつて」
信子の顔は再び笑ひだした。目は相変らずとぢられてゐた。然しまぶしげな笑ひとも違ふ。ものうげな笑ひでもない。複雑でもなく、深刻でもなかつた。たゞ笑ひといふだけのものだつた。信子といふ顔の上の。
突然再び目がひらかれた。すると同時に一つの言葉が語られてゐた。
「窓をあけて。私は、あつい」
あつい、といふ。音と、発音と、意味の、きはだつて孤立した三つのものゝ重なりの単純な効果のめざましさに、谷村は心を奪はれた。
★
窓をあけて戻つてくると、信子は女中をよび、何かを命じてゐた。そして寝室へ姿を消してしまつた。
緑茶が運ばれ、菓子が運ばれ、蜜柑と林檎が運ばれ、支那火鉢には炭がつがれて湯沸しがかけられた。緑茶の茶碗は谷村のものが一つだけ、信子のものはなかつた。女中が去り、湯がたぎる頃になつて、信子はやうやく現はれた。信子は谷村に緑茶をすゝめた。
「信ちやんはなぜ飲まないの」
「私は欲しくないのですもの」
「理由は簡単明瞭か。いつでもかい?」
信子は笑つた。
「いつでも喉のかわかない人がある?」
「もし有るとすれば、信ちやんだらうと思つたのさ」
「このお部屋ではどなたにもお茶を差上げたことがなかつたのよ。私もこのお部屋では、真夏にアイスウォーターを飲むことがあるだけ」
「なぜ僕にだけお茶を飲ましてくれるの」
「あなたはお喋りすぎるから」
信子は林檎をよりわけて、ナイフを握りかけたが、林檎をむきませうか? お蜜柑? 谷村はしばらく返事をしなかつた。彼は食欲がなかつたから。そして、信子を眺めてゐるのが楽しかつたからである。
「僕は食欲がないよ。かりに食欲があつたにしても」
谷村は笑ひだした。
「信ちやんを口説くかたはらに、蜜柑の皮だの、林檎の皮だの、つみ重ねておくわけにはいかないだらうさ」
信子も笑ひながら、谷村を見つめた。笑ひながらであるけれども、その目は笑つてゐない。ぱつちりと見ひらかれて、たゞ、冴えてゐるだけだ。笑顔と笑はぬ目の重なりから溢れて迫るものは、静かな気品と、無意味であつた。そこにはあらゆる意味がない。静かな気品の外には。
「あなたは謎々の名人ね」
「なぜ」
「愛されるばかりで、愛さない者は誰? 信子。冷めたくて、人を迷はす機械は誰? 信子。永遠に真実を言はない人は誰? 信子」
信子の目は冴えてゐた。そこには更に意味がない。幼さも、老練もなかつた。
目がとぢられた。椅子にもたれた。
「もつときかしてちやうだい。謎々を。まだある? もう、ない?」
再び放心がはじまつた。違つてゐるのは、一つの林檎を手にしてゐることだけであつた。
憤つてゐるのだか、満足してゐるのだか、虚心なのだか、意地悪をしてゐるのだか、さらに掴みどころがなかつた。然し、谷村はひるまなかつた。いかなる破滅も、いかなる恥辱も、意としない自覚があつた。
「信ちやんは岡本先生の信ちやん論を知つてゐますか」
谷村はもう、ためらはなかつた。何ごとをも悔いることを忘れたと思つた。
「信ちやんは薄情冷酷もの、天性の犯罪者だと言ふのさ。僕はこれを、信ちやんに捧げられた最大のオマーヂュと信じてゐるのさ。岡本先生は最も貪慾な女体の猟犬だが、信ちやんからは女体の秘密を嗅ぎだせずに、たゞ魂の影だけを掴んだ。先生にとつては、如何ほど貞淑高潔な女体も、秘密のある女体でしかない。尤もそれは僕にとつても、先生と同じ意見だけれどもね。その先生も、信ちやんからは、女体の秘密をつかみ得ず、天性の犯罪者だと言ふのだ。天性の犯罪者とは、どういふことだらう? 僕は先生に訊いてもみず、訊く気持も持たないから、先生の言ふ本当の意味は分らない。たゞ、この言葉の属性で疑ふべからざることの一つは、永遠の孤独者といふことだ。人は誰しも孤独だけれども、肉体の場に於て、女は必ずしも孤独ではない。女体の秘密は、孤立を拒否してゐるものだ。孤立せざるものに天来の犯罪などは有り得ない。だから、僕は思ふ。信ちやんには、女体がない、と。女が真実を語るのは、言葉でなしに、からだでだ。魂でなしに、女体でだ。女体がなければ、女は、永遠に、真実を語らない。信ちやんは、永遠に、真実を語りうる時があり得ない」
谷村はもつと残酷に言ひ得ることを知つてゐた。それは岡本の天性の犯罪者といふ意味に就いてゞあつた。けれども彼は甘い屁理窟と讃辞だけで満足した。そして、それだけで満足し得たことにも、満足した。言ひきることほど、下らぬことは有り得ない。それはこの部屋の真理であつた。
「僕の謎々はもう終つた」
谷村はその体内から言葉を押しあげてくる力を覚えた。
「僕は信ちやんの天来の犯罪性にぞつこん迷つてしまつたのさ。目にも、鼻にも、迷ひはしないよ」
さうでもなかつた。彼は信子の目も鼻も好きであつた。
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信子はいつも、ぱつちりと目をあける。ゆるやかには、あけなかつた。
信子は手にしていた林檎を皮ごと一口かじつた。平然として、かみついた。歯が白かつた。
「あなたも、かうして、めしあがれ」
いくらか谷村をひやかすやうな調子があつた。事実、谷村は林檎を皮ごとかじる習慣をもたないのである。然し、ひやかしは必ずしも林檎に就いてゞはない。谷村は常に意表にでられてゐる。ひやかしはその意味だつた。皮ごとかじりつく歪みと変化の美しさを信子は意識してゐるのである。
信子は二口かじつて、やめた。
なぜ一口でやめなかつたか、谷村は問ひたかつたが、やめた。それはたしかに愚問であつた。二口でも、美しい。三口でも、美しい。むしろ、芯まで食べてもらひたかつた。林檎をかゝへて口に寄せる手つきからして爽かだつた。肩と肘のすくんだ構へも、目に沁みた。
「あなたの謎々は私が必ず悪い女でなければいけないのね」
「あべこべだ。僕は讃美してゐるのだよ」
「だから、悪い女を、でせう」
「悪いといふ言葉を使つた筈はないぜ。僕には善悪の観念はないのだから。たゞ、冷めたいといふこと、孤独といふこと、犠牲者といふこと、犯罪者といふこと」
信子はふきだした。それは林檎にかみつくよりも、もつと溌剌奔放な天真爛漫な姿であつた。
「そんな讃美があつて?」
「信ちやんにだけは、さ。信ちやんだけが、この讃美に価する特別の人だからさ。ほかの人に言つたら怒られるが、それはその人が讃美に価するものを持たないから」
「あなたは私が怒らないと思つてる?」
谷村はためらはなかつた。
「思つてゐる。信じてゐるよ」
「あなたは、私の絵が平々凡々で常識的だと仰有つたでせう。もしもそれが私の本当の心だつたら?」
「芸術は作者の心を裏切ることがないかも知れぬが、信ちやんの絵は芸術ではないのだからさ。お嬢さんの手習ひだから」
信子の顔は、又、変つた。微塵も邪気のない顔だつた。そのほかには、あらゆる感情が表れてゐない。あどけなさがあるだけだつた。
「あなたは驚くべき夢想家よ。でも、面白い夢想家だわ。無邪気な夢想家かも知れないわ。私を辱しめる罪を見逃してあげればのことよ。でも善良に買ひかぶられて取りすまさなければならないよりも、不良に見立てられてその気になつてあげるのも面白いわ。私は遊ぶことは好きですもの」
「それなんだよ、信ちやん。僕がさつきから頻りに言つてゐることは」
「まア、お待ちなさい。あなたのお喋りは」
と信子は手で制したが、心底からハシャイでゐる様子であつた。それは一途に無邪気なものにしか見えなかつた。見様によれば、平凡な、遊び好きの、やゝ熱中した娘の姿にすぎなかつた。
「あなたは全てを適当にあなたの夢想にむすびつけてしまふのですもの。私はそんな風に強制されるのは、いやよ。私は、私ですもの。肉体のない女だなんて、をかしいわ。私は幽霊ぢやないのですもの。それに犯罪者だなんて、被害者に注文されて犯罪する人ないことよ。でも、遊びは、好き。贋の恋なら、尚、好き。なぜなら、別れが悲しくないから。私は犬が好きだけど飼はないのよ。なぜなら、犬は死ぬから。すると、悲しい思ひをしなければならないからよ。私は悲しい思ひが、何より嫌ひなのですもの。私が悲しむことも、いや。人が悲しむことも、いやよ。私は半日遊んで暮したい。半日はお仕事するのよ。私はお仕事も好き。何か忘れてゐられるから。遊ぶことすらも、忘れてゐられるからなのよ」
信子の顔はほてつた。言葉はリズミカルに速度をました。それは、やゝ、狂譟といふべきものだ。顔のほてりが谷村に分るのだから。
「あゝ、あつい」
信子は振り向いて、窓際へ歩き去つた。
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贋の恋の遊びなら尚好き、と信子は言つた。それは告白に対する許しだらうと谷村は思つた。
ところで、谷村は許しに対する喜びよりも、更に劇しい驚きに打たれた。それは信子の顔のほてりであつた。それはまさに予期せざる変化であつた。暴風の如き情熱だつた。顔に現はれたのは、たゞ、ほてりにすぎなかつたが。
谷村は信子に就いて極めて精妙な技術のみを空想してゐた。かりそめにも荒々しい情熱などは思ひまうけてゐなかつた。顔のほてりは、たゞそのことを裏切つたのみではない。信子に就いての幻想の根柢を裏切るものだつた。蓋し、顔のほてりに示されたものは、その精神の情熱ではない。むしろ最も肉体的な情熱であつた。それは直ちに肉体の行為に結びつき、むしろ、それのみを直感させる情熱だつた。それは健全なものではなかつた。白痴的なものだつた。精力的なものではなかつた。それよりも更に甚しく激しかつた。病的であつた。そしてその実体は分らない。恐らく無限といふものを想像させる情熱だつた。
私は私ですもの、と信子は言つた。肉体のない女だなんて、をかしいわ、私は幽霊ではないのですもの、と言つた。それは正直な言葉であるのか、技巧的な言葉であるのか、分らない。五分間前の谷村ならば、これを技巧と見るほかに余念の起る筈はなかつた。顔のほてりを見て後は違ふ。むしろ一つの抗議とすらも見ることができた。
然し、又、あらゆる言葉と同様に、顔のほてりすらも、生れながらの技巧であるかも知れないと谷村は怖れた。唐突でありすぎた。激烈でもありすぎた。めざましい奔騰だつた。ともかく一つ真実なのは、告白が許されたといふことだけだ。だが、告白が許されたといふことだけでは、すくなからず頼りなかつた。彼の見た信子の顔のほてりは、あまり目ざましすぎたから。彼の古い幻想は唐突に打ち砕かれてゐた。そして、新たな幻想が瞬時に位置をしめてゐる。それは信子の肉体だつた。彼がそれまで想像し得たこともない異常な情熱をこめた肉体だつた。
なぜ今まで、この肉体を思はなかつたかと谷村は疑つた。思ひみる手がかりがなかつたのか。それもある。然し、肉体のない、魂だけの、といふこと自体が不自然だ。幻想的でありすぎる。その幻想は自衛の楯だと谷村は思つた。信子にふられることを予期しすぎ、飜弄されることを予期しすぎての楯の幻想にすぎないやうな思ひがした。信子の肉体は思はなくとも、その美しさは知つてゐた。そして、たゞ飜弄せられる激情のみを考へてゐた。その幻想の甘さを、彼は今まで不自然だとは思はなかつたゞけである。
疑り得ない一つのことは、かなり遠い昔から、信子が好きであつた、といふことだつた。
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信子は窓際から戻らなかつた。谷村はそこへ歩いて行つた。彼は自分の病弱の悲しい肉体のことを考へた。このやうな悲しい肉体が、その悲しさのあげくに思ひ決した情熱も、やつぱり魂のものではなしに、女体に就いてゞあつたかと思ふ。それを信ずべきかを疑つた。
信子の顔のほてりが、たゞ一瞬の幻覚であつてくれゝばよい。否、すべてが信子の天来の技巧であつてくれゝばよい。谷村はわが肉体の悲しさ、あさましさが切なかつた。その悲しむべき肉体を、信子の異常な情炎をこめた肉体に対比する勇気がなかつた。彼は羞しかつた。そして恐怖を覚えた。無力を羞ぢる恐怖であつた。
そして、かゝる恐怖があるのも、待ちまうける希ひがあつてのことだつた。谷村の心は何、と訊かれたら、彼はたゞ答へるだらう。分らない。成行きが、その全てだ、と。
「信ちやんは、贋物の恋は好き、と言つたね。僕の恋は贋物ではない。偽りの恋といふのだよ。偽りは真実であるかも知れぬ。然し、贋物は、たぶん、贋物にすぎないだらう。信ちやんは骨董趣味に洒落たのかも知れないが、その洒落は僕には良く通じない。然し、僕は思つた。信ちやんは僕の告白を許してくれたのだ、と。それを信じていゝだらうね」
信子は窓を下した。
「冬の風は、あなたに悪いのでせう」
「すぐにも命にかゝはることはないだらうと思ふけれどもね」
「なぜ、窓をとぢてと仰有らないの」
「信ちやんがそれを好まないからさ」
「あなたの命にかゝはつても」
谷村はうなづいた。
信子の顔は燃えた。油のやうな目であつた。
「私だつて、誰よりもあなたが好きだつたのよ」
谷村は、すくんだ。
「私は、今日は、変よ。だつて、あなたが、あんまりですもの。あなたが、意地わるだから」
信子の唇が訴へた。にはかに顔色が蒼ざめた。まるで肢体が苦悶によつて、よぢれるやうに感じられた。
「あなたは、ひどい方。私を苦しめて」
信子は両手を握りしめて、こめかみのあたりを抑へた。
「私を、こんなに、こんなに、苦しめて」
唇がふるへた。目がとぢた。身体は直立して、ゆれた。それは倒れる寸前であつた。谷村が抱きとめたとき、信子はこめかみを拳で抑へたまゝ、胸の真上へくづれた。
谷村は支へる力がなかつた。反射的な全身の努力によつて、自分が尻もちをつき、信子が胸からずり落ちるのに、嘘のやうに緩慢な時間があり得たことを意識した。それにも拘らず、ずり落ちた信子はかなりの激しさで床の上に俯伏してゐた。両手の拳にこめかみを抑へたまゝの姿であつた。
谷村は意志のない身体の重さに困惑した。信子をだきかゝへて、仰向けに寝せるために、その全力をだしつくさねばならなかつた。彼は信子を抱きかゝへたまゝ、自分を下に一廻転して倒れなければ、仰向けに直すことができなかつた。信子のからだをずり落して、その重さから脱けでることができたとき、彼は疲れの苦しさよりも愛慾の苦しさに惑乱した。信子の顔には怪我はなかつた。
信子はかすかに目をあけた。谷村は自ら意志するよりも、よほど臆病な遅鈍さで、信子に接吻した。彼はむしろ、その意慾の激しさのために、空虚であつた。信子はその接吻に答へ、目は苦悶にみちて、ひらかれた。両の拳がこめかみを放れて、大きく、高く、ゆるやかに、虚空をうごいた。大きく虚空をだくやうに、そして、ゆるやかに、両腕が谷村の痩せた背にまはつた。その腕に力はこもつてゐなかつた。背をまいて、然し、背にふれてゐなかつた。たゞ何本かの指先が、盲目の指先の意志でなされる如くに、谷村の背の両隅を、緩慢に、然し、かなりの力をこめて、押し、動いた。
信子は突然泣きむせんでゐた。信子の全てのものが、一時に迸つてゐた。力のすべては腕にこもつて、谷村の胸をだきしめた。たゞ狂ほしく唇をもとめた。
谷村は惑乱した。彼の腕は信子の首をだきしめるために自ら意志する生きものであつた。
それから起つた事柄は、彼にはすべて夢中であつた。曾て彼の経験せざることのみだつた。二人は部屋いつぱいにころげまはつた。あらゆることが、不自然でなかつた。そして彼は信子を下に見る時よりも、信子を上に見るときに、逆上的に惑乱した。なぜなら、そのときの信子の顔はあらゆる顔に似てゐなかつた。信子は陶酔しなかつた。たゞ、興奮した。その顔色は茶色であつた。それにやゝ赤みがさしてゐた。頬はふくらみ、目は燃えてゐた。その目は、とぢることがなかつた。
二人は一つであつた。壁にぶつかり、又、もどつた。火鉢にすらも、ぶつかつた。谷村の上に、信子の倒れてゐる時があつた。二人は十の字に重りあつて、倒れてゐた。二人は疲れきつてゐた。谷村はやうやく呼吸を意識するのが全部であつた。然し又信子は緩慢に起き直り、谷村の首に腕をまいてくるのであつた。すると又、新たな力がわいてゐた。谷村はわが肉体のつきざる力に感動した。信子の疲れて倒れるときは、いつも谷村の身体の上に十の字に重りあつて、のめつてゐた。谷村は物を思ふことがなかつた。信子を見つめることだけが、すべてゞあつた。
おのづから二人の離れる時がきた。信子は壁際にころがつて、倒れてゐた。腰から足は露出してゐた。隠さうとする意志もなかつた。額に腕を組んでゐた。
谷村は衣服をつけた。そして信子の腰から下の裸体をみつめた。肉慾の醜さは、どこにも見ることができなかつた。如何なる事務的な動作もなかつた。一枚の紙きれすらもなかつた。全てはその奔放な姿のまゝに、今も尚、投げだされてゐるのみだつた。
信子の腰の細さは、疲れ果てた谷村の心を更に波立たせた。縦の厚さがいくらか薄いだけ、胸と尻への曲線はなだらかで、あらゆる不自然な凸部がなかつた。
谷村は隠されてゐる胸を見ずにはゐられなかつた。かゞみこんで、ジャケツに手をかけて、
「信ちやん。胸のお乳を見せておくれ、こんな細い、丸い、腰の美しさがあるなんて、今日まで考へてもゐなかつたから。僕は信ちやんのからだを、みんな見たい」
「えゝ、見て」
事もない返事であつた。そして、谷村の操作をうながすやうに、額の片腕をものうく外して、まくれあがつたジャケツの端をつかんだ。谷村はその美しい乳を見た。純白な胸を見た。腰からのびるそのなだらかな曲線を見た。見あきなかつた。そして、ジャケツの下にかくした。
醜悪な、暗い何物を思ひだすこともできなかつた。
「信ちやん。僕は今度は君の衣服をつけた姿が怖い。今日も、これから、君の衣服をつけた姿を見るのだと思ふと」
「だつて、いつまでも、かうしてゐられないわ」
「僕はもう君の裸体を見てゐる時しか、安心できなくなるだらう。切ないことだ」
谷村は思はず呟いた。切ないことだ、と。然し彼は爽かであつた。その疲労の激しさ、全力の消耗された虚脱のむなしさにも拘らず。
肉体とは、このやうなものでも有りうるのか、と谷村は思つた。なんといふ健康なものだらう。谷村のすべての予想が裏切られてゐた。然し、いさゝかも、悔いはなかつた。この女は、何者であらうか。果して明日も今日の如くであらうか。
そして、谷村は自分の悲しい肉体に就いて考へた。今日の幸を、明日の日は必ずしも予想し得ない肉体に就いて。思ひめぐらせば、この日のすべては不思議であつた。たゞ一つ悲しい不思議は、彼の情慾のこの一日の泉のやうな不思議さだつた。すると彼はわが肉体に就いてのみ、暗さを感じた。むしろ羞恥と醜怪を感じた。
彼は素子の肉体を考へた。その醜怪を考へた。魂の恋とは、むしろ肉慾の醜怪なこの二人が。彼はさう考へて、その厭らしさに、ほろにがかつた。
魂とは何物だらうか。そのやうなものが、あるのだらうか。だが、何かゞ欲しい。肉慾ではない何かゞ。男女をつなぐ何かゞ。一つの紐が。
すべては爽かで、みたされてゐた。然し、ひとつ、みたされてゐない。あるひは、たぶん魂とよばねばならぬ何かゞ。
底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四四巻第一号」
1947(昭和22)年1月1日発行
初出:「新潮 第四四巻第一号」
1947(昭和22)年1月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
※表題は底本では、「恋をしに行く(「女体」につゞく)」となっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年6月12日作成
2019年5月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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