戦争と一人の女
坂口安吾
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野村は戦争中一人の女と住んでゐた。夫婦と同じ関係にあつたけれども女房ではない。なぜなら、始めからその約束で、どうせ戦争が負けに終つて全てが滅茶々々になるだらう。敗戦の滅茶々々が二人自体のつながりの姿で、家庭的な愛情などといふものは二人ながら持つてゐなかつた。
女は小さな酒場の主人で妾であつたが、生来の淫奔で、ちよつとでも気に入ると、どの客とでも関係してゐた女であつた。この女の取柄といへば、あくせくお金を儲けようといふ魂胆のないことで、酒が入手難になり営業がむずかしくなると、アッサリ酒場をやめて、野村と同棲したのである。
女は誰かしらと一緒になる必要があり、野村が一人ものだから、あなたと一緒にならうか、と言ふので、さうだな、どうせ戦争で滅茶々々になるだらうから、ぢや今から滅茶々々になつて戦争の滅茶々々に連絡することにしようか、と笑つて答へた。なぜなら、どうせ女は野村と同棲して後も、時々誰かと関係することを野村は信じて疑はなかつた。厭になつたら出て行くがいゝさ、始めから野村はさう言つて女を迎へたのである。
女は遊女屋にゐたことがあるので、肉体には正規な愛情のよろこび、がなかつた。だから男にとつてはこの女との同棲は第一そこに不満足、があるのだが、貞操観念がないといふのも見方によれば新鮮なもので、家庭的な暗さがないのが野村には好もしく思はれたのだ。遊び相手であり、その遊びに最後の満足は欠けてゐても、ともかく常に遊ぶ関係にあるだけでも、ないよりましかも知れないと野村は思つた。戦争中でなければ一緒になる気持はなかつたのだ。どうせ全てが破壊される。生き残つても、奴隷にでもなるのだらうと考へてゐたので、家庭を建設するといふやうな気持はなかつた。
女は快感がないくせに男から男と関係したがる。娼妓といふ生活からの習性もあらうが、性質が本来頭ぬけて淫奔なので、肉慾も食慾も同じやうな状態で、喉の乾きを医すやうに違つた男の肌をもとめる。身請けされて妾になるだけの容貌はあり、四肢が美しく、全身の肉づきが好もしい。だから裸体になると魅力があるのである。妙に食慾をそゝる肉体だ。だから、女がもし正規の愛情のよろこびを感じるなら、多くの男が迷つた筈だが、一人も深入りした男がない。男を迷はす最後のものが欠けてゐた。
お客の中には相当迷つて近づく男もゐたけれども、女と交歩ができてみると、却つて熱がさめてくるのはそのせゐで、女は又執念深い交渉が嫌ひのたちだから、その方を好んでゐた。熱愛されることがなく、一応可愛がられるだけの自分の宿命を喜んでをり、気質的にも淫奔だが、アッサリしてゐた。
小柄な、痩せてゐるやうで妙に肉づきのよい、鈍感のやうで妙に敏活な動きを見せる女の裸体の魅力はほんとに見あきない。情感をそゝりたてる水々しさが溢れてゐた。それでゐて本当のよろこびを表はさないといふのだから、魂のぬけがらといふやうなものだが、一緒に住んでみると、又、別なよろこびも多少はあつた。女が快感を現さないから野村も冷静で、彼は肉感の直接の満足よりも、女の肢体を様々に動かしてその妙な水々しさをむさぼるといふ喜びを見出した。女は快感がないのだから、しまひには、うるさがつたり、怒つたりする。野村も笑ひだしてしまふのである。
かういふ女であるから、世間並の奥様然とをさまることも嫌ひであるが、配給物の行列などは大嫌ひで、さほどの大金も持たないのだが景気よく闇の品物を買入れて、大いに御馳走してくれる。料理をつくることだけは厭がらず、あれこれと品数を並べて野村が喜んで食べるのを気持良ささうにしてゐる。さういふ気質は可憐で、浮気の虫がなければ、俺には良い女房なのだがな、と野村は考へたりした。
「戦争がすむと、あたしを追ひだすの?」
「俺が追ひだすのぢやなからうさ。戦争が厭応なしに追ひだしてしまふだらうな。命だつて、この頃の空襲の様子ぢや、あまり長持ちもしないやうな形勢だぜ」
「あたし近頃人間が変つたやうな気がするのよ。奥様ぐらしが板についてきたわ。たのしいのよ」
女は正直であつた。野村は笑ひだすのだが、女の気付かぬ事の正体を説明してやらなかつた。そして女の可憐さをたのしんだ。
「奥様ぐらしが板についたなら、肉体のよろこびを感じてくれるといゝのだがね」
野村はをかしさにまぎれて、笑ひながらうつかり言つてしまつたのだが、女の表情が変つてしまつた。
表情の変つたあげくに、女はたうとうシク〳〵と泣きだしたのである。
「悪いことを言ひすぎたね。許してくれたまへ」
けれども女は怒つたのではなかつた。女は泣きながら、泪のたまつた目でウットリと野村をみつめて、祈るやうに、さゝやいた。
「ゆるしてちやうだいね。私の過去がわるいのよ。すみません。ほんとに、すみません」
女は野村の膝の上へ泣きくづれてしまつた。野村はその可憐さに堪へかねて、泣きぢやくる女に口づけした。泪のやうに口もぬれ、その感触が新鮮であつた。野村は情感にたへかねて、女を抱きしめた。女は泣き、身もだへて、逆上する感激をあらはし、背が痛むほど野村を抱きしめて離さなかつたが、然し、肉体そのものの真実の感動とよろこびはやはり欠けてゐたのである。野村は心に絶望の溜息をもらしたが、それを女に見せないやうに努めた。けれども女はそれに気付いてゐるのである。なぜなら、亢奮のさめた女の眼に憎しみが閃いて流れたのを野村は見逃さなかつたから。
★
野村の住む街のあたりが一里四方も焼け野になる夜がきた。何がさて工場地帯であるから、ガラ〳〵いふ焼夷弾はふりしきり、おまけに爆弾がまざつてゐる。四方が火の海になつた。前の道路を避難の人々が押しあひへしあひ流れてゐる。
「僕らも逃げるとするかね」
「えゝ、でも」
女の顔には考へ迷ふ翳があつた。
「消せるだけ、消してちやうだい。あなた、死ぬの、こはい?」
「死にたくないよ。例のガラ〳〵落ちてくるとき、心臓がとまりさうだね」
「私もさうなのよ。でも、あなた」
女の顔に必死のものが流れた。
「私、この家を焼きたくないのよ。このあなたのお家、私の家なのよ。この家を焼かないでちやうだい。私、焼けるまで、逃げないわ」
そのときガラ〳〵音がすると、女は野村の腕をひつぱつて防空壕の中へもぐつた。抱きしめた女の心臓は恐怖のために大きな動悸を打つてゐた。からだも怯えのためにかたくすくんでゐるのである。なんといふ可愛い、そして正直な女だらうと野村は思つた。この女のためには、どういふ頼みでもきいてやらねばなるまい、と野村は思つた。そして彼は火に立ち向ひ、死に立ち向ふ意外な勇気がわきでたことに気がついた。
「よろしい。君のために、がんばるぜ、まつたく、君のために、さ」
「えゝ。でも、無理をしないで。気をつけて」
「ちよつと、矛盾してゐるぜ」
と、野村はひやかした。溢れでる広い大きな愛情と落付をなつかしく自覚した。諸方の水槽に水をみたし、家の四方に水をかけた。女もそれに手伝つた。二人はすでに水だらけだつた。火はすでに近づいてゐる。前後左右全部である。大きすぎる火であつたが、いよいよ隣家へ燃えうつると、案外小さな、隣家だけのものであり、火の海の全部を怖れる必要がないといふ確信がわいた。
野村はそれほど活躍したといふ自覚をもたないうちに、隣家の火勢は衰へ、そして二人の家は焼け残つた。一町四方ほどを残して火の海であるが、その火の海はもはや近づいてこなかつた。
「どうやら、家も命も、助かつたらしいぜ」
女はカラのバケツを持つたまゝ、庭の土の上に仰向けに倒れてゐた。精根つきはてたのである。野村も精根つきはてゝゐた。
「疲れたね」
女はかすかに首を動かすだけだつた。疲労困憊の中では、せつかくの感動も一向に力がこもらない。けれども、ふと、涙が流れさうな気持になつた。それで、ふと、女の顔を見たい気持になつたのだが、のぞきこむやうに女の顔を見ると、
「あなた」
女は口を動かした。死んだやうに疲れてゐた。野村もいつしよに土肌にねて、女に口づけをすると、
「もつと、抱いて。あなた。もつと、強く。もつと、もつとよ」
「さうは力がなくなつたんだよ」
「でも、もつとよ、あなた、私、あなたを愛しているわ、私、わかつたわ。でも、私のからだ、どうして、だめなのでせう」
女は迸るやうに泣きむせんだ。野村が女を愛撫しようとすると、
「いや。いや、いや。私、あなたにすまないのよ。私、死ねばよかつた。ねえ、あなた、私達、死ねばよかつたのよ」
然し、野村は、さして感動してゐなかつた。感動はあつたが、そのあべこべの冷やかなものもあつたのである。
いつも一時的に亢奮し、感動する女なのである。今日の女は可愛い。然し、浮気の本性は、どうすることも出来る女ではない。
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女は遊ぶといふことに執念深い本能的な追求をもつてゐた。バクチが好きである。ダンスが好きである。旅行が好きである。けれども空襲に封じられて思ふやうに行かないので、自転車の稽古をはじめた。野村も一緒に自転車に乗り、二人そろつて二時間ほど散歩する。それがたしかに面白いのである。
交通機関が極度に損はれて、歩行が主要な交通機関なのだから、自転車の速力ですら新鮮であり、死相を呈した焼け野の街で変に生気がこもるのだ。今となつては馬鹿げたことだが、一杯の茶を売る店もなく、商品を売る商店もなく、遊びのないのがすでに自然の状態の中では、自転車に乗るだけで、たのしさが感じられるのであつた。
女は亢奮と疲労とが好きなので、自転車乗りが一きは楽しさうであり、二人は遠い町の貸本屋で本を探して戻るのである。その貸本がすでに数百冊となり、戦争がすんだら私も貸本屋をやらうかなどと女は言ひだすほどになつてゐる。
野村には明日の空想はなかつた。戦後の設計などは何もない。その日、その日があるだけだ。
諸方が占領され戦争が行はれてゐるとき、いくらかの荷物をつみ、女と二人で自転車を並べて山奥へ逃げる自分の姿を本当に考へこんでゐたのである。彼は自転車につむわづかな荷物の内容に就いてまであれこれと考へてゐた。途中で同胞の敗残兵に強奪されたり、女が強姦されることまで心配してゐた。
悲しい願ひだと野村は思つた。すると彼は日本人がみんな死に、二人だけが生き残りたいとヤケクソに空想した。さうすれば女も浮気ができないだらう。
けれども彼はそれほど女に執着してゐるのでもない。然し、事実は大いに執着してゐるのではないかと疑るときがあつた。なぜなら、戦争により全てが破壊されるといふハッキリした限界があるので、愛着にもその限定が内々働き、そして落付いてゐられるのではないか、と思はれたからである。なに、戦争の破壊を受けずに生き残ることができれば、もつと完全な女を探すまでだ。この不具な女体に逃げられるぐらゐ平気ぢやないかと思ふ。
その不具な女体が不具ながら一つの魅力になりだしてゐる。野村は女の肢体を様々に動かしてむさぼることに憑かれはじめてゐたのである。
「そんなにしてはいやよ」
彼は女の両腕を羽がひじめにして背の方へねぢあげた。情慾と憎しみが一つになり、そのやり方は狂暴であつた。
「痛、々、何をするのよ」
女はもがかうとしても駄目だつた。そして突然ヒイーといふ悲鳴をだした。野村は更にその女の背を弓なりにくねらせ、女の首をガク〳〵ゆさぶつた。女は歯をくひしばつて苦悶した。そして、ウ、ウ、ウといふ呻きだけが、ゆさぶれる首からもれた。
彼は女を突き放したり、ころがしたり、抱きすくめたりした。女は抵抗しなかつた。呻き、疲れ、もだえ、然し、むしろ満足してゐる様子でもあつた。けれども女の快感はやつぱりなかつた。そして情慾の果に、野村を見やる女の眼には憎しみがあつた。そして情慾とは無関係な何かを思ふ白々しい無表情があつた。
野村はその無表情の白々とした女の顔を変に心に絡みつくやうに考へふけるやうになつた。一言にして言へば、その顔が忘れかねた。その顔に対する愛着は、女の不具な感覚自体を愛することを意味してゐた。
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戦争の終る五日前に野村は怪我をした。
原子爆弾の攻撃がはじまつたので、愈々死ぬ日もまじかになつたらしいな、と思つた。けれども生きたい希望は強かつた。そこで防空壕の修理を始めた。焼跡の土台石を貰つてきて防空壕の四周に壁をつくりたしてゐたのである。その石が五ツくづれて野村の足の上へぢり〳〵圧してきた。上の一つだけ手で抑へたが、下から崩れてきたので防ぐ法がない。怺へると足が折れると直覚したので、出来るだけ静かにぢり〳〵と後へ倒れた。足は素足であつた。石は膝の骨まで食ひこんでゐた。経験したことのない激痛の中に絶望しようとする心と意志とがあつた。塀の外を人の跫音がしたので救ひをもとめようとしたが、その人が何事かと訊きかへし、了解して駈けつけてくれるまでの時間には足が折れると思つた。彼は一つづゝ石をはねのけ始めた。石は一ツ十五貫あり、尻もちをついた姿勢ではねのけるには異常の力が必要だつた。全部の石をとり去ることができたとき、彼はめまひと喪失を感じかけたが、意志の力が足の骨折を助けたことに満足の気持を覚えた。それと同時に、歩行に不自由では愈々戦争にやられる時も近づいたやうだと思つた。そして、始めて女を呼んだ。そして、リヤカーにのせられて病院へ行つた。
終戦の日はまだ歩くことができなかつた。
生きて戦争を終り得ようとは! 傷の苦痛が生々しいので、その思ひは強かつた。けれども、愈々女とはお別れだな、この傷の治らぬうちに多分女はどこかへ行つてしまふだらう、と考へた。それはさして強烈な感情をともなはなかつた。
「戦争が終つたんだぜ」
「さういふ意味なの?」
女はラヂオがよくきゝとれなかつたらしい。
「あつけなく済んだね。俺も愈々やられる時が近づいたと本当に覚悟しかけてゐたのだつたよ。生きて戦争を終つた君の御感想はどうです」
「馬鹿々々しかつたわね」
女はしばらく捉へがたい表情をしてゐた。たぶん女も二人の別離について直感するところがあつたらうと野村は思つた。
「ほんとに戦争が終つたの?」
「ほんとうさ」
「さうかしら」
女は立つて隣家へきゝにでかけた。一時間ほども隣組のあちこちを喋り廻つて戻つてきて、
「温泉へ行きませうよ」
「歩けなくちや、仕様もない」
「日本はどうなるのでせう」
「そんなこと、俺に分るものかね」
「どうなつても構はないわね。どうせ焼け野だもの。おいしい紅茶、いかが」
「欲しいね」
女は紅茶をつくつて持つてきた。野村が起きようとすると、
「飲ましてあげるから、ねてゐてちやうだい。ハイ、めしあがれ」
「いやだよ、そんな。子供みたいに匙に半分づゝシャぶつてゐられるものか」
「かうして飲んで下さらなければ、あげないから。ほんとに、捨てちやうから」
「つまらぬことを思ひつくものぢやないか」
「病気で、おまけに戦争に負けたから、うんと可愛がつてあげるのよ。可愛がられて、おいや」
女は口にふくんで、野村の口にうつした。
「今度はあなたが私に飲ましてちやうだいよ。ねえ、起きて、ほら」
「いやだよ。寝たり起きたり」
「でもよ、おねがひだから、ほら、あなたの口からよ」
女はねて、うつとり口をあけてゐる。女は小量の紅茶をいたはるやうに飲んで口のまはりを甜めた。まぶしさうに笑つてゐる。
「ねえ、あなた。この紅茶に青酸加里がはいつてゐたら、私達、もう死んだわね」
「いやなことを言はないでくれ」
「大丈夫よ。入れないから。私ね、死ぬときの真似がしてみたかつたのよ」
「東条大将は死ぬだらうが、君までが死ぬ必要もなからうよ」
「あなた、空襲の火を消した夜のこと、覚えてゐる?」
「うん」
「私、ほんとは、いつしよに焼かれて死にたいと思つてゐたのよ。でも、無我夢中で火を消しちやつたのよ。まゝならないものね。死にたくない人が何万人も死んでゐるのに。私、生きてゐて、何の希望もないわ。眠る時には、目が覚めないでくれゝばいゝのに、と思ふのよ」
野村には女の心がはかりかねた。語られてゐる言葉に真実がこもつてゐるのか皆目見当がつかなかつた。彼はたゞ、なぜだか、女との激しい遊びのあとの、女の白々と無表情な顔を思ひだしてゐた。あのとき、何を考へてゐるのだか、きかずにゐられなくなつてしまつた。
「君はそのとき、白々とした無表情の顔をするのだよ。僕を憎む色が目を掠める時もある。君は僕を憎んでゐるに相違ないと思ひはするが、そのほかに、まるで僕には異体の分らぬ何かを考へてゐるのぢやないかと思つてゐたのだがね、あのとき何を考へてゐるのか、教へて貰ふわけに行かないかね」
女はわけが分らないといふ顔をした。そのあとでは、てれたやうに、かすかに笑つた。
「そんなこと、きくものぢやないわ。女は深刻なことなど考へてをりませんから」
そして、まじめな顔になつて、
「あなたは私を可愛がつて下さつたわね」
「君は可愛がられたと思ふのかい?」
「えゝ、とてもよ」
女の返事は素直であつた。
女は例の一時的な感動に亢奮してゐるだけなのだと野村は思つた。そして感動の底をわれば、いづれは別れる運命、別れずにゐられぬ女自身の本性を嗅ぎ当ててゐることのあらはれではないかと疑つた。
「僕は可愛がつたことなぞないよ。いはゞ、たゞ、色餓鬼だね。たゞあさましい姿だよ。君を侮辱し、むさぼつたゞけぢやないか。君にそれが分らぬ筈はないぢやないか」
彼は吐きだすやうに言つた。
「でも、人間は、それだけのものよ。それだけで、いゝのよ」
女の目が白く鈍つたやうに感じた。驚くべき真実を女が語つたのだと野村は思つた。この言葉だけは、女の偽らぬ心の一部だと悟つたのだ。遊びがすべて。それがこの人の全身的な思想なのだ。そのくせ、この人の肉体は遊びの感覚に不具だつた。
この思想にはついて行けないと野村は思つた。高められた何かが欲しい。けれども所詮夫婦関係はこれだけのものになるのぢやないかといふ気にもなる。案外良い女房なのかも知れないと野村は思つた。
「いつまでも、このまゝでゐたいね」
「本当にさう思ふの」
「君はどう思つてゐるの?」
「私は死んだ方がいゝのよ」
と、女はあたりまへのことのやうに言つた。まんざら嘘でもないやうな響きもこもつてゐるやうだつた。淫奔な自分の性根を憎むせゐだらうとしか思はれなかつた。死ねるものか。たゞ気休めのオモチャなのだ。そして野村は言葉とはあべこべに、女とは別れた方がよいのだと思ひめぐらしてゐた。
「あなたは遊びを汚いと思つてゐるのよ。だから私を汚がつたり、憎んでゐるのよ。勿論あなた自身も自分は汚いと思つてゐるわ。けれども、あなたはそこから脱けだしたい、もつと、綺麗に、高くなりたいと思つてゐるのよ」
言葉と共に女の眼には憎しみがこもつてきた。顔はけはしく険悪になつた。
「あなたは卑怯よ。御自分が汚くてゐて、高くなりたいの、脱けだしたいの、それは卑怯よ。なぜ、汚くないと考へるやうにしないのよ。そして私を汚くない綺麗な女にしてくれようとしないのよ。私は親に女郎に売られて男のオモチャになつてきたわ。私はそんな女ですから、遊びは好きです。汚いなどと思はないのよ。私はよくない女です。けれども、良くなりたいと願つてゐるわ。なぜ、あなたが私を良くしようとしてくれないのよ。あなたは私を良い女にしようとせずに、どうして一人だけ脱けだしたいと思ふのよ。あなたは私を汚いものときめてゐます。私の過去を軽蔑してゐるのです」
「君の過去を軽蔑してはゐないよ。僕はたゞ思ふのだ。君と僕との結びつきの始まりが軽卒で、良くなかつたのだとね。僕たちは夫婦にならうとしてゐなかつた。それが二人の心の型をきめてゐるのではないか」
女は大きな開かれた目で野村を睨んでゐた。それから、ふりむいて、ねころんで、蒲団をかぶつて泣きだした。
野村はなほも意地わるく考へてゐた。
女はなぜ怒りだしたのだらう。それも要するに、自分の淫奔な血を嗅ぎ当てて、むしろその毒血自体がのたうつてゐる足掻きであり、見様によつては狡猾なカラクリであり、女はそれを意識してゐないであらうが、まるで自分が淫奔なのは野村が高めてくれないせゐだと言ふやうな仕掛けにもなつてゐる。
なんと云つても野村には女の過去の淫奔無類な生活ぶりが頭の芯にからみついてゐるのだ。それを女にあからさまには言へないが、それはたしかに毒の血の自然がさせる振舞で、理知などの抑へる手段となり得ぬものだと見てゐるのだ。
戦争は終つた。
戦争の間だけの愛情だといふことは、二人の頭にこびりついてゐた。敵の上陸する日まで、それは二人の毎日の合言葉であり、言葉などの及びもつかぬ愛情自体の意志ですらあつた。その戦争が終つたのだ。
女はほんとに一緒に暮したい気持があるのかな、と、野村は考へてみても信じる気持がなかつた。
淫蕩の血が空襲警報にまぎれてゐたが、その空襲もなくなるし、夜の明るい時間も復活し、色々の遊びも復活する。女の血が自然の淫奔に狂ひだすのは僅かな時間の問題だ。止めようとして、止まるものか。高めようとして、高まるものか。
終戦になつてみると、覚悟はきまつたやうだ。なに、女だつて、さうなのだ。野村に食つてかゝつた女は、二人の愛情の永続を希むやうな言葉のくせに、見様によつては野村よりも積極的に、すでに二人の破綻のための工作の一歩をきりだしたやうなものだ、と野村は思つた。
女はいつでも良い子になりたがるのだ、自分の美名を用意したがるものなのだ、と、急に憎さまでわいてきた。
女は一泊の旅行にでも来たやうな身軽さでやつて来たのに、出る時はさうも行かないものなのか。なに、しばらく淫蕩を忘れて、ほかに男のめあてがないから今だけはこんな風だが、今にこつちが辟易するやうになるのは分りきつてゐるのだ、と野村はだん〳〵悪い方へと考へる。女のわがまゝを見ぬふりをして一緒に暮すだけの茶気は持ちきれないと思つた。
「もう、飛行機がとばないのね」
女は泣きやんで、ねそべつて、頬杖をついてゐた。
「もう空襲がないのだぜ。サイレンもならないのさ。有り得ないことのやうだね」
女はしばらくして、
「もう、戦争の話はよしませうよ」
苛々したものが浮んでゐた。女はぐらりと振向いて、仰向けにねころんで、
「どうにでも、なるがいゝや」
目をとぢた。食慾をそゝる、可愛いゝ、水々しい小さな身体であつた。
戦争は終つたのか、と、野村は女の肢体をむさぼり眺めながら、ますますつめたく冴えわたるやうに考へつゞけた。
底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「新生 臨時増刊号第一輯」
1946(昭和21)年10月1日発行
初出:「新生 臨時増刊号第一輯」
1946(昭和21)年10月1日発行
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年6月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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