姑と嫁に就て(再び)
與謝野晶子
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本誌の此號に「與謝野晶子氏に呈す」と云ふ一文が載つて居ります。それは前號の本誌で私が某工學士と云つた中根氏が私に寄せられた私信ですが、私の所感の中にある事實の相違を訂正するのに最も便宜だと思ひますから特に本誌に載せることにしました。私のあの文章を書いた眞意が某學士の家に起つた不祥事を批評するのが主でなくて、其事件を新聞紙上で知つて偶ま私が平生日本の姑と嫁とに就て考へて居る所を述べる機會を得たのであつたことは、中根氏も本誌の讀者も認められることであらうと思ひます、併し私の文章の中に、私が不精確な新聞記事と、更に其記事を讀んで十數日を經た後の朧氣な記憶とに由つて書いたことが、中根氏の指摘されたやうに幾個所も事實の細個條と相違して居て、わざと私が中根氏の母上を曲解し矯誣したやうな結果になつて居ることは、私の深く愧ぢる所であり、併せて幾重にもお詫び致す次第です。私はまた中根氏の私信が少しも激昂の態なく極めて温健に書かれて居るのを讀んで、私の想像して居た某工學士とは非常に相違した性格の紳士であることであることを尊敬します。此私信に比べると、私の前號の文章には、日本の姑根性に對する憤りが一時に勃發した所から幼稚な激昂と誇張とが可なり多く混つて居ました。それに就て私は赤面する外ありません。此私信に由て中根氏の母上が「謂ゆる殘忍な姑根性を悉く備へた婦人」でないことを知ることを得ましたのは私の誤解を正す上に有力でしたけれど、私は猶、中根氏の私信に現れた母上の場合を透しても、日本の大多數の姑が總明でないのと、老年の病的心理とから、若い嫁の心理を味解しかねて、氣の毒にも雙方の生活を陰欝悲慘にして居る事實が窺はれるのであつて、日本の生活に姑と嫁との問題は容易に解決し難い暗黒面であることがしみじみと思はれます。
私の前號の文章が姑の批難に傾いて居たのは、感想の動機が然らしめたので、決して片手落ではありません。若い女の多數が私始めまだまだ驚くべき程無智であり、缺點だらけであることは私が多年論じて居る所です。併し老婦人の無智は概して若い女の無智よりも甚しいと思ひます。老婦人は男子が彼らの都合の好いやうに作つた道徳習慣の制約に盲從して、少しも疑惑を挾まないのみか、却てそれを以て若い女を自分の如く奴隸的に墮落させようとして居ります。私は在來の道徳習慣が其中に男子の爲のみでなく、男女を通じて共に人間としての生活を維持し發展させる上に役立つて居る或物を含んで居ることを認めますけれども、それが概して人間が人間を支配しよう、男が女を支配しようとする精神から出て居るのを見て、私達は出來るだけ人間の平等、男女の對等を實現する生活を營みたいと思ひ、最早私達が幸福と發展とに不用であり、有害である道徳習慣から解放されようと望んで居ります。然るに老婦人は概してまだ子は親の所有物、嫁は良人及び舅姑の所有物と云ふ舊式な觀念に囚はれて、それを道徳として若い女に臨みつつあるのです。老婦人達が無智なために人間としての自己の自由を男子に蹂躙されて悲痛を感じないのは致方がないとしても、自己の精神的頽廢を若い女にも強要しようとするに到つては、其處に兩者の間に壓制と反抗との衝突を見るのは避け難い悲慘な事實です。殊に夫婦の愛が成立つたからと云つて直ぐに舅姑と嫁の間に親子の愛が生じるものとは限らないのですから、舅姑は確かな理性を以て自分達の感情を精練して舊式な道徳的觀念に曇らされないやうに力めなければなりません。我國では太抵の場合に、若い者は老人に自由を奪はれ、女は男に威壓され、嫁は良人と舅姑とに所有されて居るのですが、若し其樣な、人を人と思はずに物として所有する觀念から出た奴隸道徳が破壞されて、個人の自由と個人同志の相愛とを基調とした生活状態に世間が改まつて居たなら、中根氏の姑も嫁も聰明恭謙な女として、何れが威壓することも、何れが盲從することもなく、また兩者の衝突もなくて美くしく健やかにして協立することが出來たであらうと想はれます。今後の人間はさう云ふ時代を早く引寄せるために男も女も幾多の苦い爭鬪を經驗しなくてはなりません。
在來の道徳習慣に何の省慮もなく無條件で從つて行く人は精神的頽廢に墮落しながら氣が附かないで居る人です。在來の道徳習慣を以て嫁に迫る姑は鋭利な刄物にも優る怖ろしい武器を以て嫁の個性を虐殺しようとする人です。日本人が青年の頽廢だけを歎いて、あのやうに多數な老人の頽廢を咎めないのはそれこそ確かに片手落です。老人自身に匡正する聰明を缺いて居るのですから、私は一人前になつた子供が其老父母を慇懃に出來るだけ教育すべきだと思ひます。
我國では人間として姑と嫁と、又は男と女との差が非常なのですから、言ひ換へればどちらも後者が前者に殆ど人と物との關係で權利を無視されて居るのですから、兩者の間に何か問題が起れば太抵の場合兩者を對等に批判してはなりません。後者は常に壓制され、凌辱され、常に卑下し、忍從して居るものであると云ふことを念頭に置いて、同じ過失と罪惡にしても、男を批難することは七分、女を批難することは三分と云ふ割合で對せねば公平を得られないでせう。後者には其れだけの斟酌をすべきいろいろの情状があるのです。其情状と云ふものは女自身の無智から、又は生理關係、心理關係に由るのもありますが、大部分は男子の横暴と、男子自身のために作った道徳習慣が勢力を張つて居る不完全な社會状態とから餘儀なくされて居るのです。女の無智と云ふのも女の先天性ではなくて社會の習慣が女を教育しなかつたからです。
例へば姑が嫁の髻を掴んで打擲したり、燒火箸や刄物で傷害したり、毒を呑ませようと謀つたりする事實が昔から日本の家庭に存在して居ます。それは日本の道徳習慣では大した罪惡と認められて居ません。さう云ふ事實があつても姑根性として寛假されます。それが假にも姑を離縁し若くは別居せしめる理由にはなつて居ません。姑は如何なる場合も尼將軍として若夫婦に臨む權利を持つて居ます。嫁に危害を加へ、又は嫁と不折合のために親族會議が其姑を離別する決議を實行した例を知りません。之に反して嫁は姑の下にあつて常に實家の生母に對するよりも幾倍の柔順と忍從を餘儀なくされます。さうして姑の意を迎へないでする嫁の言行はそれが過失であり、不孝であり、罪惡であるらしく殆ど寸毫も假借されないのが普通です。其れが過失と云ふ程のものでなくても、姑の機嫌に逆へば、良人の愛の有無や良人の意見に頓着なく、また勿論嫁の辯解を取り上げること無しに、それを直ぐに離縁の理由として姑は息子に迫り、息子は已むを得ず其妻に離別を宣告する結果になります。姑が或理由を附して嫁を離別させるのはまだ好い方であつて甚しきは理由が無いと唯だ無茶苦茶に苛め通した擧句、姑の一存で嫁を追ひ返してしまふ例さへ珍しくないのです。嫁がさう云ふ不法な姑に對して正當な自由を主張することは在來の道徳習慣が全く許しません。まして反抗の態度にでも出たら姑からばかりでなく社會からも不貞不孝の惡名を着せられますから、太抵は嫁の方で生きた死骸になつて諦めてしまひます。
私は問ひたい、女に對する公平な批判と云ふものが日本の何處にあるのですか。私は今の場合、男を批難することは七分、女を批難することは三分の割合でせねば公平を得られないと思つて居ますが、かう云ふ意見を誰に同意して頂くことが出來るでせうか。姑と云ふものは女でありながら男の横暴を其同性の若い人間に加へる者です。さうして今日では第一に教育者が其姑の味方です。女學校の倫理は、妻は良人と姑に對して獨立しながら共に生活に協力せよと云ふので無くて、唯だ良人と姑に沒我の柔順──盲從を以て奴隸的、物的、器械的に役立つことを教へて居るばかりです。女もまた人間である以上個人の獨立自存に必要な權利を何人に向つても遠慮なく正當に主張せよと云ふ、近代生活の太切な根本義を教へることを忘れて居ります。かやうな學校の倫理で教育せられた多數の女は、他日また今の姑達の多數が平氣で若い嫁に加へて居るやうな暴虐を一廉の賢母振つて繰返すことになるでせう。
私はまた識者に問ひたい。例へば中根氏の舊夫人が姑に加へたやうなヒステリイ的な狂的な、刄傷を同じやうな動機や事情から反對に姑が嫁に加へたとしたら、日本の裁判官は中根氏の舊夫人を罰したやうに八年と云ふ永い期間の體刑を其姑に宣告せられるでせうか。私は恐らく私の考へとは反對に、嫁を罰する場合には七分、姑を罰する場合には三分と云ふ割合で裁斷されることであらうと想ひます。私がかやうな想像をするのは法律もまた其保守的な性質から姑の味方であるらしく考へられるからです。もつとも日本の法律は近く作られたものだけに、世界で最も進歩した新思想をも含んで居ると云ふことであり、また近頃の法官達には政界、教育界、宗教界などよりも聰明正義の士に富んで居ると云ふことですから、保守思想に侫した判決を下されることなく、少くとも嫁の場合と同じだけの刑罰を加へられるかも知れませんが、若し其樣な判決が下されたとして、一般の姑達はどう考へるでせう。彼等は自分達を反省し悔悟する教訓としてそれに對するでせうか。私は恐らく善惡の觀念の固定して居る一般の姑達は、其中心に嫁が惡いから姑が狂的に刄物沙汰を引起したので、姑がそんなに罰せられる譯はないと云ふ不滿を感じることであらうと想ひます。私はさう云ふ無智な姑根性から脱することも、婦人が自己を解放して公明な天地に跳り出す具體事實の一つだと思ふのです。中根氏のやうな教育ある紳士は其母上に對して既往は問はず、此度の災厄を機會に、今後の内省と發憤とを勸告するを以て孝養の意義を全くせられるでせうが、之は決して中根氏一家の問題でなく、すべて教育ある子女が其母に向いて思ひ切つて自覺を促さねばならぬ問題だと思ひます。(一九一五年九月)
底本:「定本 與謝野晶子全集 第十五卷 評論感想集二」講談社
1980(昭和55)年5月10日第1刷発行
入力:Nana ohbe
校正:土屋隆
2005年3月16日作成
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