外套と青空
坂口安吾



 二人が知り合つたのは銀座の碁席で、こんなところで碁の趣味以上の友情が始まることは稀なものだが、生方うぶかた庄吉はあたり構はぬ傍若無人の率直さで落合太平に近づいてきた。庄吉は五十をすぎた立派な紳士で、高価な洋服の胸に金の鎖をのぞかせ、頭髪は手入れの届いたオールバックで、その髪の毛は半白であつたが、理智と決断力によつて調和よく刻みこまれた顔はまだ若々しく典雅で、整然たる姿に飾り気のない威厳がこもつてゐた。

 その庄吉が尾羽打枯らした三文文士の落合太平に近づくことも奇妙であつたが、近づき方がいかにも傍若無人の率直さで、異常と思はれぬこともない。初めて手合せをしただけで名刺を差出して名乗をあげて、それから後は入口で太平の姿を探して(太平は毎日のやうに来てゐたから)その横へドッカリ坐る。多忙の庄吉は稀にしか現れないが、その時間を飛びこして、何十日目に現れても昨日の続きでしかないやうに太平の横へドッカリ坐る。碁敵ごがたきに事欠く場所ではないのであるから、太平はその特別の友情を一応訝るのであつたが、庄吉は太平の外の人々には目で挨拶を交すだけの友達すらも作らなかつた。一風変つた男の性格的な嗅覚であらうと、太平も率直に受入れたが、何か大きな孤独の中で特別の人間苦を見つめてゐる男であらうといふやうな想像は、後日になつて附けたしたものであらうと思はれた。

 ある日のこと二人は偶然場末の工場地帯の路上で出会つた。太平のアパートはこの工場地帯にあるのだが、庄吉は機械ブローカーで(彼自身小さな工場主でもあつたが)この土地へ機械の売込みに来たのである。二人は場末の碁席で手合せをして、夜になると酒を飲んだ。もう電車がなくなる時刻だな、とか、家へ帰れなくなるなア、などと口先では言ひながら、庄吉は落着き払つてゐて、帰れなくなることを予期してゐる様子であつた。

 翌朝太平の陋室ろうしつで目覚めた庄吉は、学生時代によみがへつた若々しさで、目を細くして殺風景な部屋の隅々まで見廻して一つ一つ頭に書入れてゐるやうな様子であつたが、その様はなつかしさに溢れてゐた。今日は君が俺のうちへ遊びに来る番だぜ、と庄吉は太平をうながしてわが家へ連れて行つたが、二人のつながりの発端は以上に述べたこれだけである。一度うちへ招待したいと思つてゐたのだ、とその日も庄吉が言つてゐたが、路上で邂逅した偶然を差引いても、早晩二人のつながりは一つの宿命を辿らざるを得なかつたであらう。

 それから数日の後にキミ子(庄吉夫人)からの電話で、集りがあるからぜひ遊びに来てくれといふ。その席で講釈師の青々軒、船長の花村、機関士の間瀬、俳優の小夜太郎、工場主の富永、料亭ヒサゴ屋の主人などと近づきになつた。音楽家の舟木三郎は最も目立たない一人であつた。

 それからは二日目か三日日ごとにキミ子の電話で呼びだされる。同じ顔ぶれがたいがい顔を揃へてゐて、麻雀の者、碁を打つ者、花牌はなをひく者、けんを打つ者、酒を飲む者。庄吉の田舎訛の大きな声はこの部屋の最大の騒音であつたけれども、少しく注意して眺める人なら、実は彼のみが唯一の異国の旅行者で、この席の雰囲気からハミ出してゐることに気づくはずだ。一座の中心はキミ子である。彼女は芸者あがりで、この顔ぶれの半分ぐらゐがその頃からの知合ひだと分かつたのは後日のことであつた。

 ある黄昏に太平は銀座で舟木三郎に出会つた。そこで誘つて酒を飲むと、ふだんは無口で気の弱さうな舟木が妙にからんできて、君のやうな場違ひ者は外の適当な遊び場へ行つてはどうかといふ意味のことを、遠廻しの巧みな表現と品の良い皮肉をこめていひはじめた。

「君は善良な人であり、又、僕などの及ばない芸術家であるかも知れない。然し僕の芸術などは糊口のみすぎに過ぎないもので、僕の情熱は専ら現実の人生を作りだすことに熱狂してゐる。僕の人生の舞台衣裳はダンディといふことで、僕はフランスから帰るとき化粧品だけしか買つてこなかつた。そのころはドーランを塗つて銀座を歩いてゐたものだつたよ。君はそんな男を笑ふだらうな。ところが僕はすべて化粧の施されない世界を軽蔑と同時に憎んでもゐる。一つの小さな言葉ですら常に化粧を施して語られたいといふことを切実に希つてゐるのさ」

 それは太平の人柄が外形的よりも精神的に化粧を施されてゐないことに非難と皮肉を浴びせたものだ。けれども彼の言葉の奥の感情はキミ子をめぐり、そこから立ちのぼる嫉妬の濛気があつた。その嫉妬に値するだけの自惚が贔負目にもなかつたので、太平は呆れて、この男は圧しつぶされた意慾の底で神経の幻像と悪闘してゐる変質者だらうと考へた。

 ところがそれからの一夜のこと、機関士の間瀬が太平に食つてかゝつて、彼の重い沈黙のためにある時は一座が陰鬱なものになり、又ある時は彼のがさつな哄笑壮語のために一座が浮薄なものとなる。一座の神経を考へず粗雑な自我を押しつけて顧みない。芸術家ぶるな、といつて怒つた。言葉の意味は舟木の非難と共通のもので、二人はたぶん太平に就いて日頃忿懣を語りあつてゐるのであらうと思はれたが、間瀬のいかにも船乗りらしい体力的な忿怒の底にひそむものは、舟木と同じく嫉妬であるといふことを太平は見逃さなかつた。

 なるほど、太平はキミ子の電話によつて呼びだされてくるのだが、それはこの家の習慣で、他の人々も同じことであつたらう。キミ子は太平に特別の好意を示してはゐなかつた。たゞ彼を常に上座に坐らせたが、それは彼が新たに加入した不馴れに対するいたはりと、庄吉が常に太平をわが第一の友とよぶことに対する自然の結果にすぎなかつた。キミ子は一座の人々を、あなたがたスレッカラシとよんで、太平だけを、この方は純粋な方だから、といふことが時々あつたが、悪意も善意もない言葉で、言葉だけの意味からいへば、純粋などとは意気とか粋の反語にすぎず、太平の武骨や粗雑さを確認するにすぎないやうな意味でもあるから、人々の皮肉な苦笑を生むだけのことだ。

 太平の方も、キミ子の魅力に惹かれるところは少かつた。十人並よりは美人であるが、特に目を惹く美しさではない。芸者あがりの立居振舞、身だしなみには流石さすがに筋が通つてゐるが、教養は粗雑で、がさつの性であり、舟木の所謂「化粧された精神」などとは凡そあべこべの低い女だ。二十七の小柄な敏捷な身体に肉慾をそゝる情感は豊かであつたが、概していへば平凡の一語につきるあたりまへの女である。内外ともに顧みて舟木や間瀬の嫉妬をうけるいはれの分からぬ太平であつたが、そのために深く気にとめることもなく、こだはる気持も少かつた。

 ある黄昏、例の電話に呼びだされて出向いてみると、その日は庄吉が十日ほどの商用に出発したとのことで、青々軒とヒサゴ屋だけが姿を見せてゐた。こんな無礼講じみた集りにも党派めくものが生れるもので、青々軒とヒサゴ屋はどちらかといへば太平に好意を示してゐた。今夜は外の連中は来ない筈だから気の合つた人達だけでお酒にしませうよと、男達がほろ酔ひになり、青々軒が浪花節だの清元だのと唸つてゐると、舟木と間瀬と花村が跫音あしおとを乱してドヤドヤとなだれこんできた。彼等は泥酔してゐた。一座はまつたく乱れて連絡のない交驩こうかん、唄声が入り乱れてゐるうちに、わづかのキッカケで間瀬が太平に詰め寄つて、貴様は帰れ、と叫んでゐた。かねて間瀬の人柄を憎んでゐたヒサゴ屋が、太平に対する同情よりも個人的な怒りから立上つて、面白くねえ野郎だ、貴様ののさばるのが俺は何よりきれえなんだ、と威勢はよいがよろけてゐる。同じやうによろけてゐる間瀬を兄貴分の花村が押へて、落合さん、俺は君が好きなんだ。俺は船乗りで海を眺めて暮してきたが、君は海に似てゐるなア。君はいゝ。君の横から太陽がでて沈んで行くのだ。吾は知らず、たゞ茫洋たり、といふやうだなア。間瀬が花村に飛びついたので喧嘩になるのかと思ふと、間瀬は肩に縋りついて泣きだした。その間瀬を花村は抱き起して、モン・ブラーヴ・オンム(好漢)マドロス・ダンスをやらうぢやないか。ハムブルグでもマルセーユでも我等の鋪甃しきいしを踏むところ酒と女と踊は太陽と一しよについて廻つてゐたのだからな、と間瀬をかゝへて立上つたが、間瀬がずり落ちてしまつたので、彼はひとり巧みな身振り腰つきでソロを始めた。宴席は荒れ果てて、各自が各自毎の焦点に拠り、他を見失つてゐる。青々軒が呼びにきて目配せをするので太平がついて出ると、キミ子とヒサゴ屋が玄関にをり、青々軒さんのうちで待つてゐてね、あとから行くわ、とキミ子がさゝやいた。すべてのものを打ち開けた激しい力がキミ子の目と小さなさゝやきの上を走つた。茫然とした太平は咄嗟に言葉を失ひ目で応じたが、するともうキミ子の姿は消えてゐた。

 青々軒は一升瓶を持ちだしてきて茶碗酒をすゝめ、長火鉢でお好み焼を焼きながら義太夫を唸つてゐたが、太平は見合せた目と目のことを思ひつゞけて落附かなかつた。一瞬のためらひもなく即座に応じた自分の目のことを思ひだすと、そぶりにも見せなかつた浅はかな心が見すかされて苦しかつたが、今はもう一途にキミ子を待つてゐる自分の心に気づくのだつた。青々軒がすべてを知らぬ筈がないと考へると、それに関した意味の深い寸言を吐いて心の余裕を示したいと思つたが、実際の彼の心は徒らに空転するにすぎなかつた。

 長い時間は待たなかつた。キミ子は案内も乞はずに上つてきた。洋装に着換へてきたが、自分の家と同じやうな自由さで、外套をぬいで、火鉢に手をかざした。これは凄いやうな外套だね、と青々軒が嘆声をあげたが、キミ子は火鉢の上で焼かれてゐるお好み焼を指で抑へて、これを私にちやうだいよ、といつた。

 ヒサゴ屋の帰る姿が淡白だつた。それが太平に落附きを与へたが、青々軒のおかみさんが二人の寝床を敷いて引上げてしまふと、キミ子が外套を着はじめたので、太平は再び混乱した。それと同時であつた。キミ子は彼の胸の中にとびこんでゐた。「知つてゐたわ。知つてゐたわ」と叫んだ。それは太平がキミ子に思ひを寄せてゐるのを知つてゐた意味であらうと思はれたが、太平はそれを訝るよりも、実際にさうでしかないやうな激情に憑かれた。彼は傍に寝床の敷かれてゐることを意識したが、キミ子はそれを顧慮しなかつた。太平は凄いやうな外套だねといつた青々軒の言葉が意識に絡みついてゐたが、キミ子は外套をぬがず、又、それを意識するいさゝかの生硬な動きもなかつた。愛情のほかの何事をも顧慮しなかつた。

 翌朝太平の頭にはキミ子の脱がなかつた外套のことが絡みついてゐるのであつた。けれどもその外套にはいさゝかの傷みも残されず、小さな皺も、ひとつの埃すらもとゞめてはゐなかつた。太平はもはやキミ子の肉体に憑かれてしまつた自分を知つた。そしてキミ子の肉体が外套にこもつて頭にからみついてゐるのを知つた。昨夜は何事もなかつたやうなキミ子の顔を見るよりも、何事もなかつたやうな外套を見出すことが不思議で、暗い情慾の悔恨と、愛情のせつなさをかきたてられるのであつた。

 この一夜の飛躍の中で、太平には全てが分かつた。舟木も間瀬も花村も小夜太郎も富永も、過去に於て(あるひは現在すら)キミ子と関係をもつ人々なのだ。青々軒とヒサゴ屋だけが、たぶん例外なのであらう。太平は情慾の一夜が庄吉の影によつて殆ど乱されることのなかつたのを思ひだしたが、今となつても庄吉の友情を裏切つてゐる悔恨がさして浮んでこなかつた。それよりも、舟木や間瀬や小夜太郎らの情慾に痛烈な敵意を覚えた。

「みんな知つてゐるよ」

 と太平はいつた。それは非難の意味ではなく、すべてを知つた上での愛情を知らせるための意味だから、彼の顔にはやはらかな微笑があつた筈だつた。けれども、キミ子の顔は曇り、目をそむけた。再び顔をあげて太平を見つめたキミ子の目は、何物をも引きこむやうな一途なにぶい油ぎつた光にみたされてゐた。一途に思ひ決した幼い子供がこんな目附をすることがあるのを太平は思ひだした。

「死なうか」

 顔色がまつしろになり、目が益々はげしく見開らかれて太平の顔に据ゑつけられた。

「死にませうよ」

 太平は当惑した。愛情は常に死ぬためではなく生きるために努力されねばならないこと、死を純粋と見るのは間違ひで、生きぬくことの複雑さ不純さ自体が純粋ですらあることを静かな言葉で説明したいと思つたが、キミ子の心はさゝやかれてゐる言葉以外の何事をも見失つた一途なもので、少くとも感情の水位が太平よりも高かつたから、太平は低い水位から水を吹き上げることの無力さを感じることで苦しんだ。死をもてあそぶ感動の水位などは長い省察を裏切るだけでつまらぬことだと思ひながら、やつぱり水位の低いことがけ目に思はれ、腹が立つてくるのであつた。キミ子は急に目をそらした。

 二人がひと月あまり遊び廻つて太平のアパートへ戻つてくると、庄吉からの手紙が彼等を待つてゐた。キミ子には帰つてくるやうに、太平には何事もなかつたつもりで又遊びに来て欲しいと書かれてゐた。

「死んでちやうだい、一しよに……」

 と再びキミ子が叫んだ。まつしろな顔と、幼い子供のひたむきな目が、再び太平の顔にまつすぐ据ゑつけられてゐた。けれども、その感情のどこかしらに奔放ないのちが失はれてゐた。そのひと月に二人をつなぐ情熱自体がうらぶれたしるしであるにすぎなかつた。

「生方さんに悪いからか」

「生方は本当に善い人よ。はらわたの一かけらまで純粋だけの人なのよ」

 すると太平の顔色が変つて、

「そんな人間がゐるものか!」

 と叫んでゐた。その目には憎悪が光つてゐた。するとキミ子の目も憎悪をこめて太平にそゝがれてゐた。太平はこの動物的な女の情慾の疲労の底から人間の価値が計量せられてゐることに全身的な反抗を覚えてゐたが、それがキミ子への愛情を本質的に否定してゐるものであるのを意識せずにゐられなかつた。二人はもはや愛撫の時も鬼の目と鬼の目だけで見合ふことしかできなかつた。

「もうあなたには会ひたくないわ。私の目のとゞかないところ、満洲へでも行つてしまつてちやうだいよ」

 やがてキミ子はさう言ひ残して庄吉のもとへ帰つて行つた。


          


 その日から太平の懊悩が始まつた。キミ子の肉体を失ふことが、これほどの虚しい苦痛であることを、どうして予期し得なかつたであらうか。夜更けの外套を思ひだすとき、太平の悔恨は悶絶的な苦悶に変るのであつた。あの夜更けキミ子はなぜ外套を着けはじめたのだらう? なぜ外套を脱がなかつたのだらう? 飛びついてきたキミ子は狂つた白痴のやうだつた。うつろであつた。泣いてゐた。キミ子のまつしろな肉体を思ひだすとき、それがいつか外套になり、外套を思ひだすとき、まつしろな肉体になるのであつた。訪れる夜ごとに眠れなくなり、暗闇が悔恨と苦悶にとざされてゐた。

 十日ほど経て庄吉からの手紙がきて、キミ子も待つてゐるから遊びに来いといふことが粉飾もなく書かれてゐた。その寛大な友情に太平は感動するのであつたが、その友情が極めて異常なものであり、庄吉の生活と性格が奇怪なものであることを、極めてかすかにしか意識してゐなかつた。舟木だの小夜太郎だの花村だの間瀬だの富永の顔をうそ寒い憎悪をこめて思ひ描くことはあつても、その憎悪と同じぐらゐの激しさで、庄吉の友情を裏切ることの切なさを嘆いたことは殆どない。太平の心は極めて自然に庄吉を黙殺してゐるばかりでなく、たぶん庄吉は愛人なしにゐられないキミ子の性情を知つてゐて、好ましくない男達の玩具になるより、自分の好む男と遊んでくれることを欲するために太平を選んだのであらうと考へてみたりするのであつた。その考へはうがち過ぎて厭だつたが、そんなことにもこだはる必要がなかつたほど彼は庄吉を忘れてゐた。そして庄吉の友情のこもつた手紙を読むと、その寛大さに涙ぐむほど感動しながら、庄吉に打ち開けてキミ子を正式に貰ひたいと思ひふけり、庄吉の悲痛なる人間苦を思ひやつてはゐなかつた。

 庄吉からキミ子を貰ひ受けたいといふ考へはだんだん激しくなるのであつた。けれども庄吉のことよりも、キミ子自身の返答に就いて考へると、絶望的になるのであつた。太平の甘い考へはキミ子自身を思ふたびに氷化して、永遠に突き放された思ひのために絶望した。

 太平は病者のやうに彷徨して、青々軒を訪れた。

 青々軒は過ぎ去つた話に就いては一語もふれず、たゞ、キミ子さんが昨日も来たぜ、今日も来たぜ、おひるごろだつたね。それから一週間前ぐらゐにも二三度来てゐるんだ、といつた。それをきくと、見る見る眼前に一縷の光が流れこんでくるやうに感じた。俺の消息をさぐりに来るのだ、と思つたが、さりげない風をして、

「何か用があるのかい?」

「さあね」

 青々軒の顔色からは予期したかすかな感情も読みとることが出来なかつた。彼はお勝手の奥さんの方を向いて「あの人は何の用で来たんだつけね」ときいたが、何か間の悪い物音にさへぎられて奥さんの耳にとゞかないのを知ると、再び訊ねようとはしなかつた。

 雪が降つてきた。青々軒の家には傘が一本しかなかつたので、その傘で駅まで送つてくれたが、二ツの子供をおんぶして長靴をはいた青々軒の異様な姿は往来の人目を惹いた。一瞬憐れむやうな翳が走つたが、青々軒は困りきつた顔をして、

「あの人は善い人だがね、然し、君が深入りするほどの人ぢやないんだがな。やつれたぢやないか」

 太平は答へることができなかつた。すべてが再び暗闇へもどり、空転だけが感じられた。彼はいつか傘からハミだして雪にぬれて歩いてゐた。

「濡れてみたいのかい。アッハッハ」

 青々軒の瞳にも濡れたやうな小さな善良な愛情が光つてゐたが、それらが急に縁のない遠い彼方のものにしか思はれなくなつてゐた。

 ある朝、太平は何物かに押される力で庄吉を訪ねた。庄吉に会ひキミ子を貰ひたいといふだけの、気違ひじみた決意だけしか分からなかつたが、おう、よく来てくれたな、と庄吉が書生のやうな大声で現れてくると、鬱積したものが霧消して、彼の顔にも和やかな微笑が浮んだ。

「久しぶりに一戦やらうぢやないか」

 日当りの良い二階の廊下へ碁盤を持ちだして二人は向ひ合つたが、太平の心は碁盤をみると片意地に沈んで、再び重い鬱積がひろがつてゐた。庄吉は二目まで打込まれてゐたことを忘れず黒石を二つ並べたが、太平はしばらくその石を見つめてゐたのち、とりあげて庄吉の碁笥ごけの中へ投げ入れた。そして思ひ決した顔を庄吉に振り向けようとしたが、すると同時に、碁盤の上をふッと庄吉の腕がのびて、両手が彼の喉首をしめつけてゐた。

「この野郎」

 庄吉の目は三白眼であつた。そして細い目であつた。その目がその時もやつぱり小さく、そして、まつしろに見えた。太平は抵抗してはいけないといふ厳しい声をきいたやうに思つたが、実際は、庄吉の手が急所を外れてゐることを意識しつゞけてゐたのであつた。庄吉はまつたく下手糞なやり方で夢中に太平の喉を突きあげた。

「この野郎! この野郎! この野郎!」

 太平は仰向けに倒れ、その上に庄吉も重なつてゐたが、太平の顔を濡れた熱いものが流れるので、庄吉の涙が彼の顔に落ちてくるのだと思つたが、実は自分が泣いてゐた。庄吉の眼もうるんでゐるやうに思はれたが、彼は泣いてゐなかつた。

 しばらくの後、二人は碁盤をはさんで元の位置に向き合つてゐた。

「碁をやらうか」

 今度は太平の方からいふと、庄吉の目にやはらかな光がさして、

「落合さん、俺は君が憎めないのだ。俺は君が好きだ。君だけは今でも信頼してゐる。ごうといふものだなア」

「業?」

「フッフッフ」

 そのときになつて、庄吉の細い目から一しづくの涙が流れた。太平は慟哭したい気持をこらへで、かすかに身がふるへてゐた。

 その日太平が帰るとき、キミ子が待つてゐるから又昔のやうに遊びに来てくれといふことを庄吉は繰返し言ふのであつた。その言葉を思ひだすと(否、その言葉は二六時中彼の耳から離れずに響いてゐた)二つの全く逆な心が同時に動きだすのであつた。一つはもう行くまいと思ふ心で、一つは行かずにはゐられない力であつた。

 するともうその夕方にはキミ子の電話がかゝつてきた。太平は幸福のために羽ばたく鳥であるやうな慌たゞしさで出かけるのだ。覚悟してゐた人々の悪意の視線は殆ど彼にそゝがれず、キミ子は以前と同様に床の間の席を彼にすゝめ、その席を占めてゐた間瀬がすこしもこだはらず立上つて、自ら太平にすゝめるのだつた。その朝太平が訪れた時はその沈鬱な顔色を一目見て姿を消して再び現れてこなかつたキミ子であるが、何事もなかつたやうな自由さで今は語り笑つてゐる。その凡庸な魂に巣食つてゐる一きは小癪こしやくな動物的な嗅覚を太平は憎まずにはゐられなかつた。太平の再度の現れを平然と迎へてゐる人々は、キミ子の心が再び太平に向けられないといふことを見抜いたからではあるまいかと思ふと、太平の心はすくみ、おだやかに席を譲つた間瀬の様子が彼を斬る最も鋭利な刃物のやうに思ひだされてくるのであつた。

 太平が便所へ立ち、濡縁へ出て、冬庭の暗闇の冷たさを全身に吸つてゐると、便所へ降りてきた花村が見つけて、

「落合さん。君は純な男だなア。僕は君が好きなんだ」

 花村は彼の手を握つて、大胆な率直さで、

「落合さん、あの女はてんで君の純粋な魂に値する立派なしろものぢやないんだよ。あんなものにこだはりたまふな。たゞ、遊びだよ。ネ、落合さん。人生は朝露の如し。ネ、たゞ遊びあるのみ。さうではないかね。遊びながら我等は死ぬのさ。いざ諸人もろびとよ、おゝ、さらば愛さんかな、唄はんかな、それだけさ」

 さうさゝやいて帰りかけたが、戻つてきて、腕つきで太平を抱くまねをして接吻の音だけさせて、アッハッハと笑ひながら階段を登つて行つた。太平が座へ戻ると、それを迎へた花村が、

「落合さんは純情だよ。彼は濡縁にしよんぼり立つてゐるのさ。濡縁にしよんぼりなどとは古風な芸者かなにかにあるが、ところが落合太平にはそれが場違ひぢやないんで、僕は惚れ直したといふわけさ」

 すると片隅の舟木が開き直つて、

「彼には古風なところがあるのさ。然しそれは純粋といふことではないね。いはば田舎者なんだな。木綿のゴツゴツした着物かなんか着て、つまりそこのところに芸者の姿と対照的にマッチするものはあるがね。田舎風な律義さが一応の文化的教養を背負つてゐる奇妙な効果で人目をはぐらかしてゐるだけのことぢやないか」

 その憎悪は決定的であつた。そこにも嫉妬はあつたが、下からの嫉妬でなしに、上に立つて、見下しながら憎んでゐた。そして、その時から、彼の態度は一座の中で最も積極的なものになつた。彼は以前と同じやうに決して多くは喋らなかつた。けれども、彼の無言の態度が常にキミ子を追ひ、キミ子にさゝやきかけてゐた。

 ある日、その部屋には太平と舟木とキミ子だけしかゐなかつた。

「明日、熱海へ行かうよ」

 舟木は押しつけるやうにキミ子にいつた。舟木は太平の存在を問題にしてゐないといふ露骨な態度を見せてゐた。けれどもそれがキミ子にもいさゝか唐突すぎたので、かすかな当惑と怒りが走つた。

「ピアノのお弟子さんはどうしたの? あの方といつしよに行きなさいな」

「あんな小娘は厭さ。右を向けといへば右を向くんだよ。いつしよに芝居を見に行つたんだ。芝居を見ながら話しかけると、俯向いて返事をするんだぜ。髪の毛で芝居が見えやしないにさ。僕は小娘は嫌ひだね」

 その言葉は毒々しいほどふてぶてしかつた。太平は顔をそむけたかつた。

 数日の後に、又奇妙に三人だけの機会があつた。

「明日、熱海へ行かうよ」

 まつたく同じことを舟木はいつた。数日間同じことをいひつゞけてゐる執拗さでなく、熱海へ行くまでは、たとひ死んでもいひつゞけてゐる執拗さであつた。

 それから間もなく舟木とキミ子は実際に行方をくらました。二人が服毒自殺をして、二人ながら命はとりとめたといふ新聞記事を見出したのは幾日かの後であつた。


          


 太平は毎日ねむつてゐた。眼をさましてゐたが、眼をさまして眠つてゐた。そして食事のためにだけ外へでる。億劫になると一日に一度しか食事にも出なかつた。

 ある日外へでて、もう春も終らうとしてゐることに気がついた。まだ冬のつゞきのつもりでゐたのである。すべての樹々はまぶしいほどの新緑にあふれてゐた。

「驚いたなア」

 彼はむせぶやうに新緑の香気を吸つた。彼の部屋には、まだ真冬の万年床が敷かれてゐた。

 すると、唐突な初夏と同じやうに、突然キミ子が訪ねてきた。小型のトランクを一つぶらさげて。

「しばらく泊めてちやうだいよ」

 キミ子は男が狂喜することを知つてゐた。その男を冷然と見下してゐる鬼の目がかくされてゐた。二人をつなぐ魂の糸はもはや一つも見当らず、太平はキミ子の肉体を貪るやうに愛撫して、牝犬を追ふ牡犬のやうな自分の姿を感じてゐた。キミ子の肉体すらもすでに他所々々よそよそしかつたが、太平は芥溜ごみためをあさる犬のやうに掻きわけて美食をあさり、他所々々しさも鬼の目も顧慮しなかつた。陰鬱な狂つた情慾があるだけだつた。

 庄吉が訪ねてくると困るからとキミ子は運送屋をつれてきて別のアパートへ引越させた。そこから多摩川が近かつた。キミ子は太平をうながして、二人は毎日釣りに行つた。

 キミ子の腕はむきだされてゐた。キミ子のスカートは短かつた。靴下をつけてゐなかつた。キミ子の釣竿は青空に弧を描いたが、それはまつしろな腕が鋭く空をることであり、水面に垂れたまつしろな脚がゆるやかに動くことであつた。二人は毎日ボートに乗つた。キミ子は仰向けにねころび、上流へ上流へと太平に漕がせた。上流へさかのぼるには異常な精力がいるのである。喉の渇きと疲労のために太平の全身は痛んでゐた。苦痛と疲労のさなかから目覚ましく生き返るのは情慾のみであつた。キミ子は髪の毛の上に両手を組み、目をとぢてゐた。まつしろな脚が時々にぶく向きを変へた。それを見すくめる太平の目は、情慾の息苦しさに、憎しみの色に変るのだ。乱れた呼吸が上体の屈折ごとに呻きとなつて歯からもれ、額の汗が目にしみた。河風が爽かであつた。

 太平はキミ子のまつしろな脚と腕とに小さな斑点をさがしもとめた。なぜなら太平はひと月あまり虱に悩まされてゐたからだつた。夜毎の痒さに堪へがたく、たぶん皮膚病であらうと思ひ薬をぬつた。ある日一匹の虱を見つけた。生れて初めて虱を見た。シャツや猿股を日向で見ると、日陰では認めがたい小さな虱が無数にゐた。卵も産みつけられてゐた。太平はそれをつぶすのが毎日の仕事であつた。太平は虱を咒つてゐた。けれどもキミ子の脚と腕には太平のさがす斑点がなかつた。

「君は虱に食はれなかつたか? 僕の寝床に虱がゐるんだぜ」

「虱ぐらゐ平気よ」

 キミ子は薄目をあけて平然と答へた。

「私は虱のいつぱいゐる家で育つたのよ。身体も、髪の毛も、虱だらけだつたわ。熱湯をそゝぐと、すぐ死ぬわ。いつか洗濯してあげるわね」

 太平は「可愛いゝ女」を見た。それは果実のやうな情慾を一そうそゝるのであつた。

 ボートを岸へつけて、二人は上流のくさむらに腰を下した。漕ぎ疲れた太平は全身がだるく、きしんでゐた。彼の掌は肉刺まめが破れ、血と泥が黒くかたまりついてゐた。その肉刺の皮をむしりとり、泥をぬぐひ、痛さを測つてゐるうちに、憎しみと怒りに偽装せられた情慾がもはや堪へがたいものになつてゐた。彼はもう白日の下であることも、見通しの河原であることも怖れない気持になつた。見渡すと、ひろい河原に人影がなく、小さな叢が人目をさへぎる垣になつてゐることを悟つた。太平はキミ子を抱きよせた。ふはりと寄る一きれの布片のやうな軽さばかりを意識した。キミ子は待ちうけてゐたやうだつた。優しさと限りない情熱のみの別の女のやうだつた。キミ子は強烈な力で太平を抱きしめ、黒い土肌に惜しげもなく寝て、青空の光をいつぱい浴びて、目をとぢた。

 太平は再びキミ子の魔力に憑かれた不安でおののいた。冬の夜更に脱がなかつた外套と同じやうに、青空の下で、キミ子は全ての力をこめて太平をだきしめ、そのまゝ共に地の底へ沈むやうな激しさで土肌に惜しみなく身体を横たへた。その強い腕の力がまだ生きてゐる手型のやうに太平の背に残つてゐた。

 いつ頃のことであつたか、あるとき花村が情慾と青空といふことをいつた。印度の港の郊外の原で十六の売笑婦と遊んだときの思ひ出で、青空の下の情慾ほど澄んだものはないといふ述懐だつた。すると舟木が横槍を入れて、情慾と青空か。どうやら電燈と天ぷらといふやうに月並ぢやないかな、といつた。その花村や舟木や間瀬や小夜太郎らは庄吉も一しよにキミ子を囲んで伊豆や富士五湖や上高地や赤倉などへ屡々旅行に出たといふ。キミ子が彼等の先頭に立ち、短いスカートが風にはためき、まつしろな腕と脚をあらはに、青空の下をかたまりながら歩く様が見えるのだつた。すると花村も舟木も間瀬も小夜太郎も、一人々々が白日の下でキミ子を犯してゐるのであつた。陽射のクッキリした伊豆の山々の景色が見え、その山陰の情慾の絵図が鮮明な激しい色で目にしみる。その絵図を拭きとることが出来ないのだつた。悔いと怖れと憎しみがひろがり、その情慾の代償がたゞ永遠の苦悶のみにすぎないことを知るのであつた。

 その翌日は、すでに太平は青空の情慾を意識して多摩川へ急ぐ自分の姿に気づいてゐた。キミ子の腕や脚を見ると、色情のムク犬のやうにただその周りをあさましく嗅ぎめぐる自分の姿が感じられて、憎しみが溢れてくるのであつた。

 彼は思ひきつて上流までさかのぼつた。そのための肉体の苦痛が、こみあげる怒りと共に、近づく情慾のよろこびを孕み、奇怪な亢奮を生みだしてゐた。そこは見知らぬ土地だつた。飛ぶ鳥の姿もなかつた。太平は破れかけた納屋を見つけた。彼は無言でキミ子の腕をとり、ぐいぐいと納屋へ歩いた。太平はキミ子を抱きすくめた。するとキミ子は彼よりも更に激しい力をこめてそれに答へ、思ひがけない数々の優しさのために、太平は気違ひになるのであつた。気がつくと、彼等は埃だらけになつてゐた。太平の手足も、キミ子の腕も脚も、あたりの材木や枯枝のために無数の小さな傷となり、血が滲んでゐた。

 ボートは何事もなかつたやうに川を下る。太平は舵をとるだけで、いくらも漕がずにすむのであつた。キミ子は何事もなかつたやうに仰向けにねて額に両手を組合せ目をとぢてゐる。その肌は陽にさらされて、赤く色づきはじめてゐた。太平はその肉体に縛りつけられた自分を知り、それを失ふ苦痛に堪へられぬ自分を知つて、そのあさましさに絶望した。太平は肉慾以外のあらゆるキミ子を否定し軽蔑しきつてゐた。ひときれの純情も、ひときれの人格も認めてをらず、憂愁や哀鬱のべールによつて二人のつながりを包み飾つてみるといふこともない。たゞ肉慾の餓鬼であつた。

 彼はもはやキミ子が情死を申出ないことを知つてゐた。太平は肉慾の妄執に憑かれてゐたが、情死に応ずる筈はなかつた。彼は死の要求を拒絶するばかりでなく、拒絶につけたして、人格の絶対の否定と軽蔑を目に浮かべるに相違ない。キミ子はそれを知つてゐた。太平はたゞ肉体に挑む野獣で、人格を無視してゐるが、肉慾のみの妄執が人格や偶像を削り去ることにより、動物力の絶対的な執念に高まるものであることをキミ子は嗅ぎつけてゐる。その妄執は生ある限り死ぬことがなく、肉体に慕ひ寄り威力に屈した一匹の虫にすぎないことを見抜いてゐた。

 太平は死に得ぬことのあさましさと肉慾の暗さに絶望し、その憎しみと愛慾の未知の時間の怖れのために苦悶した。

 けれどもキミ子は立ち去つた。小さなトランクを置き残して。友達を訪ねてくるからといひ、今夜は帰らないかも知れないわ、といひ残して。そのとき彼はチラと不安に襲はれたが、それをどうすることもできなかつた。三日たち、五日たち、十日たち、キミ子は帰らなかつた。


          


 太平はさうせずにはゐられない力に押されて庄吉を訪ねた。もしやそこにキミ子がゐるかも知れぬといふことが希ひであつたが、同じ苦悶を見つめてゐる庄吉の顔を見ることがせめての希ひの一つでもあつた。キミ子はそこにもゐなかつた。

「生方さん。外を歩いてみないか。歩きながら話したいこともあるのだが」

 庄吉はついでに仕事に行かうといつて、洋服に着換へ、カバンを下げて出てきた。芝浦の岸壁の方へでて、太平はキミ子が彼のもとにゐた顛末を打ちあけた。

「その引越したあとへ俺は一度君を訪ねて行つたのだ」

 それから庄吉は長いあひだ無言に肩を並べて歩いてゐた。

「あゝ!」

 たまりかねた小さな呻き声が庄吉の口からもれた。庄吉は緩かに片手を顔に当てた。庄吉の腸をつきぬけて出る棒のやうな何物かがあつたやうな気がすると、彼の顔には壮烈に涙が走り、彼は鞄を落してゐた。

 庄吉は狂つたやうに太平にとびかゝつた。太平の喉を押へて両のこぶしでグイグイ突きあげた。

「この野郎! この野郎! この野郎!」

 太平は倉庫のコンクリートに押しつけられて、拳にあごを突きあげられてゐた。その痛さに一瞬気を失ひさうになりかけたが、その時チラと見た泌みるやうな青空の中に、キミ子の真白な腕と脚を見たのであつた。

 庄吉は手を放すと、今度は倉庫のコンクリートを両手で押してゐるやうな姿で身体を支へて、呼吸ををさめながら暫く茫然としてゐた。太平は青空の中に見たキミ子の肉体を反芻しながら、あの肉体はすでに去つたといふことを妙に爽やかに思ひつゞけてゐるのであつた。

 太平はひと月あまりトランクを眺めて暮した。奇妙に虱はもうゐなかつた。そのことが時々変な気がするのであつた。虱の中に可愛い女が棲んでゐた。いつか洗濯してあげるわねと言つたが、洗濯などはしてくれなかつた。

 このトランクを庄吉に返してやらうと太平は思つた。なぜなら、トランクを眺めて暮してゐる太平の姿を、キミ子の目が見てゐることを太平は感じるからだつた。キミ子がトランクを取りに来て、それが庄吉にとゞけられてゐることを知つた時のキミ子の当て違ひを考へて、太平は満足を感じた。けれどもキミ子がそのために怒ることを考へると、不安と満足と対立するので苦しんだ。

 太平はトランクをぶらさげて庄吉を訪ねた。

「どうだい。温泉へでも行つてみないか」

 と庄吉がいつた。

「どこへ行つても同じことぢやないかな。我々は」

「ハッハッハ」

 庄吉は箪笥の戸棚から幾つかの人形をとりだしてきた。それは綿をつめて作つた布の人形で、みんな女体であるが、頬紅をぬつたり大きな眼が油つぽく澱んでゐたり、腹だの脚だの腕だのが変にぶよぶよと肉感的で、腕をまげたり腰をくねらせたりして見てゐると生物に見えてくるのであつた。

「みんなキミ子の作品だ」

「こんな芸がある人かねえ」

 それらはたしかに相当の作品だつた。どこかしらキミ子に似てゐるやうに思はれた。どの人形も理智よりも肉体の情慾ばかりであつた。絡みつくやうなしつこさと、狙つてゐる肉慾の目があつた。

「好きなのを取りたまへ。部屋の飾り物には不向きかも知れないがね。変に息苦しいやうなところがあるなア」

 と庄吉がいつた。

 けれども太平は人形を貰はずに戻つてきた。いとまを告げるまでは矢張り貰つて帰らうかと思ひ迷つてゐたのであるが、外へでるとその迷ひは消えてゐた。低俗な魂への憎しみが高まつてゐた。暗闇を這ひずるやうな低い情痴と心の高まる何物もない女への否定が溢れ、その暗闇を逃れでた爽かさが大気にみちて感じられた。あの人形もずゐぶん奇妙な肉感に溢れてゐたが、そして、どこかしらキミ子に似てゐたが、と、太平はゆとりの籠つた追想に耽つた。だが、冬の夜更けの外套と青空の下の情熱はさすがに見当らない。あの外套とあの青空がなければ──そしてその外套もその青空もすでに戻らぬことに思ひ至ると、鋭い痛苦が全身を砕き、太平はたゞ千丈の嘆息のみを知るのであつた。

底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房

   1998(平成10)年522日初版第1刷発行

底本の親本:「中央公論 第六一年第七号」中央公論社

   1946(昭和21)年71日発行

初出:「中央公論 第六一年第七号」中央公論社

   1946(昭和21)年71日発行

入力:tatsuki

校正:宮元淳一

2006年55日作成

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