朴水の婚礼
坂口安吾



 朝巻信助は火星人といふ渾名であつたが、それは頭デッカチで口が小さいといふ意味ながら、顔が似てゐるためではなく、内容的な意味であつた。彼は親友が死んだとき、泣いてゐる奥さんの前で「彼の死は悲しむべく然し、それは目出度いことである。さうでもないか。然し、とにかく──」かう言つて絶句してしまふのであるが、それはつまり彼が平常色々の考へごとをしてゐるからで、死といふことに就いてもかねて色々に考へてゐるから、単純に死は悲しいといふやうな表現ができない。生憎彼は非常に表現の下手な生れつきで、精神内容を表現しきれず、事あるたびに奇妙なことを口走る結果になつて、怒られたり笑はれたり蔑まれたりしてゐる。だから火星人といふのであるが、この渾名は好意的な解釈であるから、つまり彼は友達にだけは精神内容の豊富な点を認められてゐるのであつた。尤も彼の奥さんは猛烈なる信助ファンで、彼に表現の才能がめぐまれてゐるなら世界一の文豪になつたであらうと信じてをり、だから詩人の芥中介が口の悪い生れつきで臆面もなく「何だい、信助の頭は蛸の脳味噌と同じだよ。蛸が生ジッカ人間の本など読みやがるから、口をとんがらして飛んでもないことばかり口走りやがる」などゝ言ふから大変な喧嘩になる。

「なんだい、三文詩人」

「ヘヘイ、さればとよ」

 中介は、女が相手でも子供が相手でも真剣に喧嘩をする性質たちであつたが、さればとよ、とか、さもあらばありけれ、などゝ不思議な咒文じゆもんを発するときは、戦意昂揚の証拠なのである。

「ヘヘイ、満場の諸君。余がつとに研究蒐集中の奇怪なる動物を公開するに当りまして、本日は先づ一匹の怒れる蛸の妻君を──」

 突然音がした。中介は上衣を脱いで御丁寧に壁にぶらさげ、おもむろに部屋を歩いて演説中のところであつたが、部屋の中央にひつくり返つてノビてゐた。信助夫人が摺子木棒アタリボーをふりかぶつて、どこだか分らず振り下したのが、どこだか分らず命中したのである。這般しやはんの立廻りの実況に就ては、他に目撃者がゐなかつたから、これ以上のことは分らない。

 信助夫人は良人おつとの店へ飛んで行つた。彼は駅前に本屋を開いてゐたのである。生憎なことに信助は新刊書を売込みに顧客廻りにでかけてをり、店の前には梯子がかゝつてゐて、梯子の上にはペンキ屋の親父が看板を書いてゐた。このペンキ屋は青眠洞主人と号する素人考古学者で、信助の親友であつた。

「あゝさうかい。あんな奴は当分眼を廻した方がいゝよ」

 と考古学者は梯子の上から返事をした。

「時に、丁度よいところへ来てくれたよ。実はね、あんたの処へ使ひの者をださうと思つてゐたところだよ。絵描きの朴水のところで婚礼があるさうでね、あいにく朴水のお母さんが病気ださうでね、料理人が足りないから応援たのむといふわけだが、見廻したところ子供のないのはあんた一人だけだから、直ぐ行つてやつてもらひたいね」

「オヤまあ、どなたの婚礼ですか」

「朴水さ」

「朴水さんは奥さんがお有りでせう」

「あゝ、あの奥さんの婚礼さ」

「あら奇妙ね。あの奥さんなら、もう年頃の娘さんまで有るぢやありませんか」

「それがね。朴水は今まで婚礼を忘れてゐたさうでね。四五年前に思ひ立つたんだとよ」

「ずいぶん長く忘れてゐたのね。よりによつて近頃のやうに物資不足の折にねえ」

「物資不足だから婚礼を思ひ立つたんだよ。かういふ折でもなきや婚礼なんぞは三文の値打もないものさ。とにかく、なんだよ、うちの子供を留守番に廻しておくから、さつそく出かけて下さい。なに、料理なぞは馬の食物でなきや何でもいゝのだからね」

 あまり世間に聞き馴れない話に気が軽くなり、家へ帰るよりはこの方が都合がよいと、そのまま朴水の家へ行つてしまつた。

 婚礼の廻状は一日前に廻つてゐたが、信助だけがまだ知らなかつた。けれども、隣駅まで電車で行くのであるから、集る場所は駅前の信助の店で、不都合のある筈はないときめてゐたのが間違ひのもとだ。夕方になつて諸方から十名程集つてきて、青眠洞なども家へ帰り一風呂あびてインキを落して紋服を着用して現れたが、二名足りない。信助と芥中介である。中介は酒癖が悪いから当分眼を廻させておく方がいゝだらうといふことになつたが、電車の時刻が来て、信助が戻らぬばかりか、伝言を残して行く筈の小僧の姿まで現れない。この小僧は近頃新開地の喫茶店へ入り浸つてをり、主人が出掛けると、自分も出掛けてしまふ。店には人が居なくなり、頻りに本が盗まれるが、小僧の方も出掛けるたびに何冊かづゝ持ちだして寄贈するので、新開地の姐さんや与太者どもは近頃アンドレ・ジッドだのヴァレリイなどを読んでゐる。頭のネヂが狂つてゐるか、何べん叱つても無駄なのである。

「みんな先に行つてくれ。俺がこの店に居残つて、信助をつれて後から駈けつけるから」

 と言ひだしたのは保坂三平といふ私立大学教授の文士であつた。けれどもこれには条件があるので、三平が先頃から目をつけてゐるのは青眠洞のブラさげてゐる三升の酒であつた。元来三平の神経は特別脆弱で、酒を飲んですら、余程条件が揃はないと気焔が上らない。つまり青眠洞だの中介といふ豪傑と一緒に飲むと先を越されてしまつて、飲めば飲むほど鬱するばかり、どうしても酔ふことができない。彼が気持良く酔へるのは女房だの大学生を前に並べて大いに気取つて飲む時ばかりで、その大学生も多少頭脳名晳なのが現れて批判的な聞き方をしてゐると、彼はもう酔へないばかりか、ヘドを吐いたりするのであつた。まして今夜のやうに小田原屈指の豪傑が十何人も揃つた席ではとても酔へない。そこで出掛ける前に一杯飲んできたのだけれども、まだいけないので、青眠洞のブラさげてゐる三升のうちのなにがしを分捕り、信助の店へ残つて信助か小僧を相手に傾けたなら酔へるだらう。その勢ひで婚礼の席へ乗り込もうといふ企らみを隠してゐる。信助は火星人で口が廻らぬ男だから、この人物が相手なら三平も気焔を上げて酔へるのである。

「どうだい、遅れて行く代り、その酒を一本置いて行つてくれないか」

「そんなずるい手があるものか。それなら三合だけ置いて行かう」

「酒は朴水のところにも用意があるのだから、一升置いて行つてもいゝぢやないか」

「朴水はケチだから、いくらの用意もある筈がないさ。だから、かうして足りない分を用意して来たのぢやないか。酒といふものはみんな寄合つて飲むところに味がある」

 と青眠洞は酒の真理を主張したが、之は三平には通用しない。彼は必死の瀬戸際であるから、

「ぢや、信助のぶんと合せて六合」

「オイ〳〵。もう時間だぜ」

「何か酒を分ける容れ物はないか」

「三平は神経衰弱で永生きはできないのだから一升置いてつてやれ。どうせ俺達がお通夜の酒を飲むことになるのだから」

「容れ物がなければバケツぐらゐあるだらう。掃除ぐらゐはしてゐる筈だから」

「ウーム。バケツは──」

 と三平は顔色を変へて青眠洞の腕に縋りついたが、青眠洞は瀕死の瀬戸際の病人の枕元でも情実によつて動くところのない人物であつた。彼はコップを見つけだし、酒をなみ〳〵とついで先づ自分が一杯飲みほし、次に五六人に飲ませて一升を五合ぐらゐに減らしてから三平に渡した。

「遅れて来るとき信助に挨拶を述べさせちやいけないぜ。あいつは婚礼の時はきまつておクヤミを言ひやがる。朴水は担ぐんだからね。ぢや、先へ行くぜ」

 一行が立ち去つてものゝ十分とたゝないうちに上りだか下りだかの列車が着いて、駅前の通りを人がぞろ〳〵と通りはじめた。燈火管制でどの店からも火がもれず黄昏の舗道に跫音あしおとだけがゴチャ〳〵してゐる。すると、一人の男が暗い店先へ這入つてきた。

「ヤア、ゐるな。蛸博士」

「イヤ、信助は出掛けてゐるけど」

「なんだい。三平ぢやないか。之は都合が良い。信助を誘つてどうせ、貴公を訪ねるつもりのところだ。今朝まで大和の柳生の道場に泊つてゐたがね、久しく寺を無人にしておいたから、そろ〳〵甲州へ帰らうと思つて。お経が巧くなつたから、読んできかせてやらう」

「イヤ、たくさんだ。俺が死んだときまで、しまつておいてくれ」

 現れたのは富永秋水といふ共産党くづれの坊主であつた。

 黒衣の僧服に振分荷物を担いで杖をついてゐたが、荷物の中からウヰスキーの角瓶をとりだした。

「ヤア、そこにも有るぢやないか。ヘエ、朴水の婚礼かね。丁度よい。俺がでかけて、お経をあげてやらう。暗いのは玉にきずだが、久々に健康を祝すとしやうか。小田原は蒲鉾ときまつてゐるが、この節は売つてゐるかね」

 と忽ち姿を消したのは肴を買ひにでかけたのである。天帝の憐れみたもうた絶好の機会であると考へて、三平は逃げださうと試みた。なぜなら、共産党くづれの生臭坊主が現れたのでは、苦心の計も水の泡で、それぐらゐなら真ッ直婚礼へ行く方がましだ。けれども決心のつかないうちに、もう秋水は蒲鉾をブラさげて戻つてきた。表口からは売らないから、裏口からお経をあげて買つてきたのである。

 ところが不思議なことに、この日の三平は酔つ払つた。出掛けの酒がきいたのかも知れないが、暗闇で秋水の顔も形も見えないのが、彼の神経を逞しくしたのかも知れなかつた。三平は肉体も精神も脆弱で、痩せたチッポケな身体は婦女子の一突きによろける程であつたし、その精神は常に結論を見失つて迷路の中をあがいてゐた。まつたく彼が四十になつてもまだ生きてゐるのは不思議だといふ取沙汰であつたが、然し、彼のチッポケな肉体にも彼なみの烈々たる希望はあつたのである。それは「夢と現実」といふことの派生した一つの解きがたい謎に就ての考察であつた。

 現に、見よ。眼前の暗闇に対座してゐる秋水といふ坊主に就て考へても、彼は生臭坊主であり食ひつめた果の山寺住ひであるにしても、共産党の赤旗を担いだり、山寺へ閉ぢこもつたり、彼には彼なりの夢と現実の交錯があり、その解きがたい綾糸の上をもつれ歩いてゐるのであらう。下根の秋水如きは問題とするに足りない。共産党と坊主そのものに就て考へれば、彼らはいづれもこの現実に彼等の夢を実現し得るものと信じてゐる。前者は共産主義社会を、後者は悟り、法悦の三昧さんまいを。ところで文学はどうであるか。荘子は夢に蝶となり、この夢の中の夢の自分と、現世の人間と、いづれが果して真実の自分であるか、之は一方のみに規定しがたいことであると言ひ、デカルトも亦同じ疑問にとらはれてゐる。だが、かゝる素朴な夢問答はともかくとして、こゝに文学の問題として、共産主義者や坊主の如くに、現世に於て実現し得ると信ぜらるゝ如き夢が実在するか。かゝる夢とは幸福の同義語であらうけれども概ね、文学の問題としては、かゝる幸福の実在を否定し、迷路と混沌、悲哀や不幸や悪徳の上にせめても虚無の仇花を咲かせようとの類ひである。然らばかゝる仇花が文学の現世に於て実現すべき夢であるか。なるほど文学の一面にかゝる悲哀のオモチャとしての性質は不変絶対の相を示してゐるけれども、之のみが全部ではない。──こゝのところで三平の思索は常に中絶し、こゝから先は酒を飲み、気焔高らかに酔つたところで、新らたな出発が始まるといふ具合であつた。だから彼の文学は酒の中に再生することによつて辛くも命脈を保つといふ憐れな状態であり、彼が爽快に酔ふことを如何に熱烈に、又、必死に、欲してゐるかといふことは、これによつて想像される。暗闇の中で声のみを相手に酔ひの廻つた三平が、すでにもうこゝから無限の距離をへだてた夢の世界へ誕生してゐる事実に就ては、秋水は何も知らなかつた。そこへ小僧が帰つてきた。

「オイ、小僧。お前は恋をしてゐるのか。可憐なことだ。こゝへお坐り。お前の悲しみに就て語つてきかせて呉れ。お前はその娘の目が好きなのか。亜麻色の髪の毛だけに恋をして痩せたといふ子供があるのだからな。その娘はお前を見ると今日はを言ふ前にきつと何か意地の悪い仕種しぐさを見せるに相違ない。女は生れたときからもう腹黒いものだからな。ところが、そこが、男の気に入るといふわけだ。男はいつも傷だらけだ。靴となり、あの子の足に踏まれたい、か。お前の娘は、年はいくつだね」

「娘なんか、知らないや」

 と、小僧は腹立たしげに答へた。彼は吹けば飛びさうな三平を大いに軽蔑してゐたばかりか、腕力的にも優越感をいだいてゐて、全く見くびつてゐたのである。

「へん、ここは酒屋ぢやないや。店を締めるから、どいとくれ」

「ヤイ、コラ。無礼者」

 秋水は立上り、小僧の胸倉をとつて二三べんこづき廻した。測らざる伏兵が暗闇から現れたので、小僧はふるへ上つてしまつたが、時々どこからともなく現れる共産党くづれの生臭坊主は彼の恐怖の的であつた。なぜなら彼は共産党時代に牢獄で受けた拷問の実演を見せるために、小僧を後手に縛りあげて柱に吊し、長々と説明しながら「助けて下さい」と言ふと尚高く縄を吊りあげ、ブラ〳〵するとドサリと畳へ落しておいて頭から水をあびせるからであつた。「この吊り下げた足もとのところへ脂汗がタラリ〳〵と落ちるものだ。脂汗といふ奴は普通の汗と違つて粘り気があるから、崩れて流れずに一寸ぐらゐの山の形につもるものだぜ」秋水の説明が小僧の頭に悪魔ののろひの声のやうに残つてゐる。

「お助け下さい。秋水さん」

「お助け下さいとは何事だ。お助け下さいとは、お前が何も悪いことをしないのに、人が鼻先へ刀を突きつけた時に言ふことだ。そもそも拙僧を秋水さんとは不届千万な小僧め。主人の不在のたびに店の品物を盗みだして喫茶店へ通ふとは言語道断な奴だ。天に代つて取り調べてやる。貴様の惚れた娘といふのはいくつになる」

「三十八です」

「三十八の娘があるか」

「いゝえ、嘘ではないです。ア、ア、痛々。お許し下さい。死にます。死にます」

「その店の名はなんといふか」

「オボロといふオデン屋ですよ」

「フーム。オデン屋か。奇怪千万な奴だ。貴様は毎日何本飲んでくるか」

「僕は酒なんか飲まないですよ。焼芋を食べるだけですよ」

「フーム。オデン屋で焼芋を売るのか」

「いゝえ。姐さんが毎日たべるのです」

「いくらで売るか」

「タダですよ。本を持つてくれば幾つでも食べていゝと言ふのです」

「こんなに暗くなるまで焼芋をたべてゐるのか」

「いゝえ。お風呂へ行つてくるから留守番をしろと言ふものですから、それに僕は近頃憂鬱ですから、店へ帰りたくないです」

「あたり前だ。店の本をチョロまかして焼芋を食はされた時には人は誰でも憂鬱になるものだ。アッハッハ。これは面白い。よろしい。その店へ案内しろ。我々は本を差上げて酒を飲もう。お前は本を担いで行け。姐さんはどういふ本が好きか」

「それは純文学ですよ」

「ナニ。純文学か?」

「えゝ。低級な小説は読まないですよ。とても教養が高いです。僕がジッドやヴァレリイを選んでやるから、お前は目が高いと言つてゐるですよ」

「なるほど、お前は目が高い。本屋の小僧には惜しい男だ。アッハッハ。これは耳よりな話があるものだ。オイ、三平、我々は婚礼をやめて、文学オデン屋へ出掛けようや。世の中の片隅には飛んでもない処が在るものだな。オイ、小僧。お前は高級な本を選んで包め」

「俺はさういふ薄汚い話はきらひなんだ」と三平は抗議した。

「ちつとも薄汚くないぢやないか。さういふ考へだから、お前の小説はいつまでたつても風呂屋のペンキ絵みたいの贋物なんだ。人生の修業をしろ」

「俺は人生の修業はきらひだ。焼芋とヴァレリイの組合せが人生なら、俺は首をくゝつて別の国へ逃げて行かあ。そもそも汝富永秋水は保坂三平を何者と考へるか。余はもと混沌を母とし、風に吹かれて中空をとぶ十粒の塵埃を精霊として生れた博士であるぞよ。書を読めば万事につけて中道を失ひ駄法螺だぼらを生涯の衣裳となし、剣を持てば騎士となつておみなごのために戦ふけれども連戦連敗、わが恋の報はれたるためしはない。されば余は常にカラ〳〵と哄笑し、事あるたびに壁となつたり雞の卵となつて身を隠したり、痩せても枯れても焼芋とヴァレリイのカクテルから小僧のニキビを生みだすやうな下品な手品は嫌ひなんだ。エイ、者共、余につゞけ。嵐が近づいて来たぞよ。余は自ら一陣の風となつて宇宙と共に戦ふであらう。小僧よ。鐘を鳴らせ。貝を吹け。戦へ、戦へ」

 こゝから事態がどうなつたか、之はもう誰にも分らない。

 話は変つて、信助は新刊書の包みを背負つて、とある病院の外科の診察室へ這入つて行つた。外科の先生の南雲稔は読書家で、新刊の高価な本を無雑作に十冊ぐらゐ買つてくれるからである。

「丁度良いところへ来てくれたな。今晩は手術もないし、今すぐ終るところだから待つてゐてくれ。夕飯を食はふぢやないか。待つのも手持無沙汰だらうから、手製の珍品を御馳走しよう。おい〳〵。例の品物をとりだしてくれ。患者の方は構はないから三文堂に御馳走を調合してやりたまへ」

 そこで看護婦は二本の瓶と水差をお盆にのせて現れてきた。一本の瓶は薬用アルコールで、他の一本は何とかいふ風薬からこしらへた代用の砂糖水だと言ふのである。はからざるアルコールの出現に、看護婦がまた目盛のあるコップに薬と同じ要領で調合するから、信助はもう飲まないうちから奇妙な気持になつてゐる。見廻す四方は金属の医療器械と鉄のベッドとメスとピンセットの皿であるから、信助の想念はむやみにふくれあがり、表現に窮して全然喋る言葉がない。思ひつめた顔をしてアルコールを飲んでゐる。すると騒々しい物音が起つて、騒ぐ跫音、バタン〳〵といふ扉の音、金切声が入りみだれて湧き立つてきた。

「こゝは内科ですよ。いけない、〳〵。そつちは婦人科ですよう。どうしたの。酔つ払つてゐるの。そんなところで上衣を脱いぢやつて、アラ〳〵第一、この人は靴をはいてゐるよ。あなたはどこが悪いんですか。精神病科はこの病院にはありませんよ」

 と一人の看護婦が叫んでゐるうちに、外科室の扉が押しひらかれて、蒼白な顔をした芥中介がフラ〳〵と扉につかまつて崩れこんできた。彼の最初に発した声は「やられた!」といふ一語であつた。

 南雲稔はかねて芥中介の詩を愛読して一個の鬼才を認めてゐたから、町では名題のこの悪童を相当なる敬意を払つて遇してゐる。けれども中介は人が才能を認めてくれるとそれが当り前だと思つてつけ上るばかりであるから、稔も一方に腹を立てゝもゐるのである。

「さては喧嘩をしたね」

「ジャコビン党の手先にやられた。あの奴らは暗殺の常習者だから、胸のポケットに毒針まで隠してゐやがる」

 中介は鉄のベッドに縋りついて、全身からの太息をもらした。

「俺の命は明日の朝まで危いのだ。注射をたのむ」

「どこをやられたね」

「身体中を探してくれ。血管の中も調べてくれ」

「どこで誰にどうされたのだ。見れば酔つ払つてもゐないぢやないか」

「ヤヤヤ」

 中介はこのとき鉄のベッドの後側に目盛のコップを握つてゐる信助を認めて、悲痛な叫び声をあげた。彼の蒼白な顔は絶望と驚愕のために紙の面のやうになつた。

「あゝ、余は敗れたり矣! お前はこゝへ先廻りをしてゐたか。敵ながら賢明なるジャコビン党よ。見かけによらぬ強敵だ。吾あやまれり矣! 敵の智謀を見損つてゐたのだ」

「はてね。君は信助君と喧嘩をしたのか」

余は実に彼の女房の女ジャコビン党員に毒殺されたのだ」

「フーム。その毒は飲まされたのか、それとも注射か」

「分らない」

「なぜ」

「気がついたときは部屋のまんなかに倒れてゐた。全身が毒にしびれ、頭が火のやうに焼けてゐる。俺の命も今夜限りだ」

「どれ、お見せ」

 そこで稔は中介を裸にさせて全身をしらべ、舌をださせたり、目蓋の裏をひつくりかへしたり、最後に頭を調べて、中介が悲鳴をあげて飛びあがると、やうやく万事が分つたのである。

「女ジャコビン党員は後方から棒でもつて殴つたらしいな。さもなければ、何かのハズミに君がひつくりかへつて後頭部を打つたのだらう。相当な打撲傷はある。だが、傷ができて血も流れたから、大したことはない。テロリズムの被害のうちではカスリ傷といふものだらう」

 稔は中介の髪の毛を切り、わざと手ひどく痛む薬をぬりつけた。中介は歯を喰ひしばり、陰々たる苦悶の呻きをあげて鉄の椅子にしがみついてポロ〳〵と涙を流したが、泣きながら信助のコップを指して訊ねた。

「お前の飲んでゐるのは何か」

「薬用アルコールと風薬のカクテルださうだよ」

「俺にも飲ませろ」

「明日の朝まで命の危い病人がアルコールを飲む手もなからう」

 と稔がとめたが、中介は言ひだした以上はきかないのである。かういふ男は猛獣なみの生理と心得てよろしからうと、稔もあとは見ぬふりをしてゐると、中介は飲みほして、ハイ、お代り、看護婦を女給と心得てコップを突きだす。看護婦は怒つて振り向きもしない。けれども中介はいさゝかも弱らず、瓶を一つづゝ鼻にあてゝ嗅いでみて、心得顔に目盛に合せて注いでゐる。

「エッヘッヘエ。お前は何度ジャコビン党に殴られたか」

「俺はまだ殴られたことがない」

「アッ、さうだ。今夜は朴水の婚礼だ。今頃はみんなお前の店先へ集つて出掛ける時刻ぢやないか。出掛けないと遅れるぞ」

「そんな話はきかないよ。お前は脳震盪を起してボケたのだらう」

「さては、さういふ事の次第かな。然し、待てよ。青眠洞がたしかに廻覧をまはしてよこして、娘が持つてきた筈だが」

「だから、それが幻覚といふものなんだ。第一、朴水の婚礼などが有る筈があるものか」

 ウームと中介は目をまるくして考へこんでしまつたが、気を取直して景気よく飲みはじめた。けれども酔ひがまはるにつれて、彼の意識はいくらか常態にもどつてきた。吾は目覚めたり! と彼は叫んで突然立上つてゐた。

「朴水の婚礼は幻覚ではない。先づ我等は青眠洞を訪ねてみよう。さうすれば万事は分る。けれども、もし幻覚だとこのアルコールが残念だから、この瓶にかう蓋をつめて之をポケットに入れて持つて帰らう。このコップも目盛があつて便利な仕掛であるから、之は紙につゝんで手に持つて行かう。水はどこかのウチの水道があるから、之は多分いらないだらう」

 中介は手際よく始末して信助をうながして病院をでた。病院から青眠洞まで長い道のりであるから、二人は時々見知らぬ家の水道をもらつて目盛をはかつて酒もりをした。青眠洞の店の奥では幽かな燈火の下でオカミサンがスルメを焼いて子供達に食事をさせてゐた。中介は挨拶の代りにスルメをつまみあげてものゝ五分間もかゝつて呑みこんだ。

「このアルコールには殺気が含まれてゐる。メスの刃のしたゝりだ。スルメによつて、この毒を消すことができる」

「あんたは朴水さんの婚礼に行かないの」

「ヤ、ヤッ。見よ。まさに、それだ! さあ、停車場へ急がねばならぬ。とはいへ電車の時間があるから、おい、今度の発車は何時だ。電車の中のオカヅにはこのスルメが調法だから、之を紙につゝんで」

「駄目だよ。ウチのオカヅがなくなるよ」

「俺のオカヅもなくなるよ」

 と中介は無理無体にスルメをポケットへねぢこんで、停車場へ向つて駈けだした。


 朴水の家ではてんで花嫁が顔を見せずに、然し、婚礼は盛大に進んでゐた。田舎の農家であるから燈火管制などは全然黙殺されて燈火は煌々とかゞやいてゐる。酒のために照りかゞやいた朴水は花聟の喜びに満悦して鼻ヒゲまでが生き生きと酔つぱらひ、一座の面々も大いに酔つてゐるけれども、まだ乱れてはゐないのである。之には多少の理由があり、朴水はともかく帝展の審査員であるから、一同も十分の一目ぐらゐは置いてゐる。保坂三平と芥中介の二人だけが、あいつは背延びをしてやうやく一人前らしい絵をかいてゐやがるなどゝ言つて罵倒するけれども、外の連中はなんとか陰では言ふものゝ十分の一目ぐらゐは置いてゐる。それも時間の問題だ。酒はすべてを平等にする液体なのである。

 そのとき台所の方に大きな物音が起つた。物の倒れる響、女の悲鳴、皿の割れる音。

「男らしくもないね。さすがに男の出来そこなひの三文詩人だ。今度は向ふ脛をお見舞ひするから覚悟はいゝね。ものゝ一ヶ月は窓の外の景色も見られなくなるよ」

 と叫んでゐるのは信助夫人で、相手の声はきこえない。スハと一同が立上つて駈けつけてみると、信助夫人は鳶口とびぐちを下段に構へてヂリ〳〵とつめより、片隅には芥中介が一斗釜を楯にしてボクシングに身構へてゐる。信助夫人には余裕があつたが、中介はすでに連戦連敗の相をとゞめ、顔は凄惨な敗色によつて歪み又衰へ、息づかひは荒々しく乱れてゐる。信助夫人との間には三間ほどの距離があるのに、目をとぢて、右のアッパーカット、左のフック、左右のストレート、なにぶんフットワークを忘れてゐるから勢ひ余つて前によろめき、よろけたハズミに向きが変つて、全然方角の違ふ虚空に向つて、必死必殺のアッパーカットやフックやストレートを間断なく繰りだしてゐる。たゞ一人影を相手に戦闘を展開して、悶絶一歩手前の疲労状態に近づいてゐた。信助夫人が横手の方から忍び寄つて一押し肩を突きとばすと、中介はよろけて羽目板にぶつかり、ヘタ〳〵と崩れて動かない。全身が呼吸の波を打つてゐる。

 彼はポケットのアルコールの瓶を探したが、上衣を脱ぎすてたことに気がつくと、上衣、々々、信助はゐないか、たのむ。然し、信助はすでにそのアルコールを左手に、右手には目盛のコップを握つて、これも一方の羽目板にもたれて、戦闘などには目もくれず飲みしれてゐた。彼はもう四辺の騒音も耳にとゞかず、羽目板にもたれてゐても足がふらつき、右に左にフラ〳〵ゆれてゐるのであつた。

「怖るべきアマゾンだ。俺は遂に敵ではない」

 中介は感嘆の呻き声をもらして敗戦を明にし、もはや歩くことが出来ないので、這ひながら台所をでゝ、暗闇の外へ消えて行つた。一同は座敷へ戻つて再び酒宴がひらかれたが、俄に乱酔が始まつて、主客入りみだれて全員たゞゴチャ〳〵ともつれてゐる。そして敗残の中介などを思ひだす者はなかつたが、まして暗闇の奥に中介をいたはる者がゐようなどゝは気づく筈があり得ない。

「中介よ。我々は所詮女の敵ではあり得ないのだ。彼等は腕力すぐれ、常に悪智恵をはたらかし、事あるたびに人をだまし、陥入れ、人の目の玉へ指を突つこんで掻きまはし、人が水に溺れた時は石をぶつけ、一円借せば百円の利息を強奪し、年中ひそかに食べすぎて所きらはず吐いてゐる獣だからな。あゝ、気の毒な中介よ。お前だけはたつた一人の人間らしい人間だ。天帝よ。雷となつて俄に落ちよ。べッ、べッ。あの下劣、不潔なる酒宴を見よ。彼らはムク犬の尻尾を生やした呑んだくれ共だ。お前と俺だけが地上の二人の人間なのだからな」

 と中介の背中をさすつてゐるのは三平であつた。彼は立廻りの始まる時に辿りつき、一部始終を暗闇に立ちすくんで、同情の涙を流して見とゞけたのである。

「いざ、孤独なる魂の古巣へ帰らむ。あゝ、道は闇い。風は冷めたい。然し、余は常にカラ〳〵と哄笑し、駄法螺を吹き、歌を唄ひ、身に危急の迫る時には一陣の風となつて打ちむかひ、かなはぬと見れば壁となり、又は蛙の卵となつて素早く難を避けるであらう。中介よ。余等は之より高らかにバルヂンを唄つて引きあげよう。いざ、嵐よ吹け。獅子よ吠えよ。戦へ、戦へ」

 中介は起き上つて、再び台所へフラ〳〵と戻つて行つた。羽目板にもたれた信助はすでにウツラ〳〵としてゐる。中介は右手の瓶と左手の目盛のコップをとりあげた。信助は薄目をひらいて中介を見たが、すぐ目をとぢて再び眠りはじめてゐる。

 三平は歌を唄ひ、中介は目盛のコップにアルコールを注いで、各々勝手な方角へ暗闇の底へ消えてしまつた。

底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房

   1998(平成10)年522日初版第1刷発行

底本の親本:「新女苑 第一〇卷第三号」

   1946(昭和21)年31日発行

初出:「新女苑 第一〇卷第三号」

   1946(昭和21)年31日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:小林繁雄

2006年118日作成

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