娯楽奉仕の心構へ
──酔つてクダまく職人が心構へを説くこと──
坂口安吾
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いつぞや「近代文学」の人たちに、君たちの雑誌は肩が凝つて仕様がないが詰碁と詰将棋を載せてくれないかナ、と言つて、平野謙に叱られた。これは一場の冗談だけれども、又、冗談とばかりも限らず、「近代文学」は詰碁、詰将棋でもなくては退屈千万だ。
たとへば、理学、工学、化学、医学、農学、美術、音楽などのそれぞれ最も専門的な純学術雑誌に詰碁や詰将棋が載つたらどうだらう。別に学術雑誌のダラクだなどと言はず、研究室の休養のひとゝきに気の利いたことだと喜んでくれる学者が多いんぢやないかな。研究室に碁盤や将棋盤があつても、探偵小説の数冊が置いてあつても、学者のダラクなどと言ふ者もなからう。本当に仕事をする者には休養が必要で、尊いものだ。
休養、娯楽を悪徳と見る儒学思想は今日も尚日本の家庭を盲目的に支配してをり、よく働き、よく遊べといふやうな分りきつたことすらも、尚一般的な常識ではないのである。休養、娯楽が家庭化されてゐないから、芸術の鑑賞も亦家庭化せられず、芸術の休養、娯楽性といふやうなものも理解せられてをらぬのである。
人間探求、生活探求、そして魂の糧であるといふこと、それも亦たしかに文学の効用のひとつであるけれども、元々小説は思想の解説書ではなく、人の生活を物語ることによつて、読者の心と通じるもので、面白く語ることによつて先づ読者と友達になる、話術も大切で、半面の休養娯楽性といふものを忘れては成り立たない。話術も小にしては個々の表現法であるが、大にしては筋の構成、この話術は文学の戯作性といふもので、作者の思想が高く、人間通の眼光鋭く深く、かりそめにも人生を遊ばず人の悲痛な宿命に就て慟哭の唄声をかなでるものであつても、同時に話術家としての作者は戯作世界にゐるものなのである。
シエクスピアは傑れた人間通であると同時に傑れた戯作者であり、ドストエフスキイは悩み高き思想家であると同時に途方もない戯作者だつた。ストリンドベルヒも同断であり、モリエールの喜劇の面白さによつてモリエールを咎める史家は先づないだらう。
日本文学は自らの思想性が低いから、戯作性とか娯楽性を許容すると自ら尊厳が維持しきれない。日本文学者の多くの人々に戯作性が拒否せられるのはそのせゐだと私は思ふ。思想が深く、苦悩が深かければそれに応じて物語も複雑となり、筋に起伏波瀾がなければ表現しきれなくなるから、益々高度の戯作性、話術の妙を必要とする。日本の文学者は多く思想が貧困であり、魂の苦悩が低いから、戯作性もいらない上に、戯作者を自覚する誇りも持つことができないのである。
私はだいたい日本の綜合雑誌といふものは奇妙なものだと考へてゐる。専門的な知識は専門家にだけあればよろしく、そのためにその方面各々の専門雑誌があればよろしい。専門的な知識を綜合して、それをみんな身につけた人物が出来上つたにしたところが、そんな人間が何物なのだらう。各人はその道に於て専門家でなければならぬが、各方面に専門家である必要はない。教養として各方面に一応の知識のあることは悪いことではないから、綜合雑誌がそのために存在するなら、もつと通俗性、読ませるものでなければならぬ。現在の綜合雑誌を全部通読する人は小数で、殆んど虚栄的な存在ではないかと疑られる。
だいたい教養としての知識は雑誌的であるよりも単行本的でなければならぬと思はれるが、日本の出版界、学界は不思議なところで、初歩の解説書と専門書はあるが、中間的な手引書がない。初歩からいきなり専門書へ行かざるを得ないから、分つたやうで分らず、本当に消化された知識にならない。語学でもさうで、初歩からいきなり難しい原書へ行く、みんな中間が欠けてゐる。いはんや、ねころんで娯しみながら読んで役に立つといふやうな巧妙な読み物としての学術書、手引書などは殆ど見当らない。
国文学の古典とか、漢学の古典、知れた数だから全部現代語に訳したら、よからうに。女学生の国語の教科書など枕の草子だの徒然草だのと二年三年生に無茶な話で、徒らに時間の空費ではないか。孔子でも孟子でも伊勢物語でもみんな現代語に訳して寝ころんで読めるやうな文庫をつくつて万人に与へてはどうだ。学校の国語や漢文は文字を解釈するところで、鑑賞したり、思想を読むといふことが忘れられてゐる。文字を解釈することなどは学問でも教養でもなく、文学は鑑賞すべきものであり、思想は思想を読むべきもの、かくて文学や思想も知識とか教養となる。
無駄を省くといふことは学問の効用の最大なるものであるのに、日本の学校は無駄を教へる。日本の古語、漢文、外国語は小数の専門家にだけ必要なもので、大衆は決して原語によつて読まねばならぬ必要もなく、原語でなければ分らぬ性質のものでもない。すべてを現代語で読ませる方が、むしろ大衆に「言葉を読ます」、文学を文学として鑑賞し、思想を思想として読ましめ、真実の教養を与へることゝなるのである。分りきつたことではないか。これくらゐ分りきつたことが日本の学校教育の根本に欠けてゐるのだから、日本人の知識教養の地盤がすでにナンセンスで、従つて日本在来の常識伝統、まつたく不健全、矛盾きはまるものだ。
綜合雑誌などいふものはこの不健全な学問的情熱から現れた妖怪変化の一匹で、枕の草子や源氏物語の一端を原書で読まされて言葉の解釈だけで悪戦苦闘して後援つゞかず全然枕の草子も源氏物語も文学として鑑賞しなかつたくせに、その無駄に就て疑ることも知らず、学問はさういふものだと思ひこんでゐる知識人が、そのマニヤックな好学精神によつて知識教養とは読んでも分らぬところに尊厳がある、高遠なるものだ、有りがたいものだ、そんな程度の心がけで、拝読したり陳列したり、そして疑ることがない。綜合雑誌は日本好学精神の生きた見本で、衒学空虚、まことに悲しい存在である。
菊池寛は偉いところがあつた。彼が発案した文藝春秋といふ綜合雑誌は知識とは分らせ読ませ理解させなければムダにすぎぬものと知つた魂の所産で、各方面の相当な知識を面白く読ませ分らせる、さういふところに眼目があつたに相違ない。文藝春秋と朝日グラフは私の好きな雑誌の型だ。
知識は読ませ分らせなければムダにすぎないもので、端坐、ネヂハチマキ、机に向つて読まなければ分らない、それ以外に法がないなら仕方がないが、書き様や表はし様で寝ころんでも読めるやうに工夫のできるものなら、寝ころんで分るやうにした方がいゝ。それは知識の尊厳を傷けることにならないばかりか、知識を万人の物とする尊い工夫であり努力である。これも亦尊敬すべき戯作精神の一つであり、わが思想に自信があり万人のものとしたい一念があれば、自ら戯作者たらざるを得ないであらう。
綜合雑誌の空虚にして不健全、しかも狂的に情熱的な好学精神が、おのづから文学を歪めてきたに相違ない。即ち文学からも戯作性は拒否せられ、全然ユーズーのきかない深刻空虚な献身性が文学の支柱となり、学問同様文学も亦ねころんで読めないやうなところに尊厳ができたり、ユーモアを解さぬところにマヂメさができたり、神聖奇怪な化け物となつてしまつたのである。
文学には定まつた型はないから、形式は何でも構はぬ。私小説はいけないといふ規則はない。身辺雑記のやうなものでも文学はありうる。俳句も短歌も文学でない筈はない。
日本人は然しなぜかくも偏狭なのだらうか。自ら私小説家と号したり、一方では私小説だけをよしと云ひ、一方ではフィクションだけを文学だといふ。
外国にも二行詩も三行詩もあるが、たゞ、二行詩だけしか作らぬ詩人、三行詩だけしか作らぬ詩人、そんな詩人はゐない。俳句も短歌も文学でない筈はない。然し俳人だの歌人などといふのが妙で、詩人であればよい。文学者であればよい。けれども自由詩の詩人は自由詩だけが詩だといふ。そういふキュークツな精神では、自由詩の自由によつてあべこべに自分を縛り空虚な形式を自由の名に於てデッチあげ空転するだけのことで本当の詩、文学は生まれる筈はないだらう。
そして又、俳句だけしか作らぬ俳人、短歌だけしか作らぬ歌人、本当の歌声こそが詩の本質であるのに、十七字や三十一字の形式だけをひねくり廻して、奥儀をとく。俳句の奥儀、短歌の奥儀、そんなものは有るべきぢやない。詩の奥儀がすべてゞ、俳句も短歌も詩であるから文学であり、その詩声(ウタゴヱ)によつて読者の魂につながる、文学が詩がさうである如く、俳句も短歌もさうである以上に何があらうか。
文学は型をきめて判断してはいけないものだ。一般読者は文学の理論などに患はされず虚心に読み、自分の心にふれるものだけに惹かれるといふ読み方だから却つて正しく小説の心にふれてゐることが多く、批評家や文学の専門家は型にきめて判断するから作者の魂にふれることが少いものだ。色々の文学がある。人間が種々様々である如く様々で、あらゆる人の文学などといふものはなく、ある人に愛され、ある人に嫌はれる。それでいゝではないか。ラムプにはラムプの効用があり、椅子は椅子の効用によつて存在する。このラムプは腰かけることができないといふのは暴論だ。
特別日本の文学者批評家の珍論は、この小説は面白いから不マヂメだといふ。面白さ自体には不マヂメなどあるものぢやない。作者の思想や魂が不マヂメだといふことはある。然し面白さが不マヂメだと云ふ人々は、たぶん涙はマヂメで笑ひは不マヂメだと思つてゐるに相違ない。然し涙はマヂメなものでも誠実なものでもなく、大いに偽りのあるもので、屡々軽薄なものでもある。もとより笑ひが涙以上に深刻高遠といふことはないが、一つは目からでる水、一つは口からもれる風声で、どつちがマヂメ、どつちが不マヂメといふ性質のものぢやない。フィガロのセリフに「なぜ私が年中笑ふかですつて。笑はないと涙がでてきやがるからさ」五分々々のものだ。同様に、面白さ自体、マヂメも不マヂメもあるものぢやない。面白さを悪徳と見る人々の魂や生活は何と貧困なものだらうか。誠実な生き方や省察がないから、休養娯楽の正しさが分らない。
面白さはすぐれた効能である。同じものを面白くなく書くよりも面白く書く方がよろしい。文学が娯楽となることによつて文学の価値が低下俗化するわけではなく、思想の低俗、魂の低俗の故に文学は低俗となる。もとより面白をかしい小説に低俗な小説もたくさんあるが、御同様、深刻勤勉面白をかしくもない小説にも同じやうに低俗なものがたくさんあつて、このことでは両々別に変るところはない。まだしも面白ければ面白いといふことで喜んでくれる人があるだけ何かのタシになつてはをるが、尤もそのことのためにそれだから面白ければ文学になるといふ性質のものではない。
然しすぐれた文学ならみんなそれぞれの面白さがあるべきもので、面白さも亦作品の生命の一つである。
文学の生命は何か。悩める魂の友だといふ。それも亦休養娯楽だ、と私は思ふ。人々の休養娯楽に奉仕するだけでも立派な仕事ではないか。棋士は将棋によつて、職業野球家は野球によつて寄席芸人は落語漫才によつて人々の休養娯楽に奉仕する。まことに立派な、誇るべき仕事ぢやないか。よき棋譜により、よき野球により、よき演芸によつて人に負けない好サービスをなし人々をより多くたのしませるために心を配り技をみがき努力する。意義ある生活ではないか。
人々が私を文学者でなく、単なる戯作者、娯楽文学作者だときめつけても、私は一向に腹をたてない。人々の休養娯楽に奉仕し、真実ある人々が私の奉仕を喜んでくれる限り、私はそれだけでも私の人生は意味があり人の役に立つてよかつたと思ふ。もとより私は、さらに悩める魂の友となることを切に欲してゐるのだけれども、その悲しい希ひが果されず、単なる娯楽奉仕者であつたにしても、それだけでも私の生存に誇りをもつて生きてゐられる。誇るべき男子一生の仕事ぢやないか。
人々の休養娯楽に奉仕することが尊い仕事だと知らない人々は貧しい人々だ。休養娯楽が人生に一つの大きな意味ある生活であることを知らないのだから。
休養娯楽の正しい意味が分らぬところに豊かな愛や深い思想や魂は生れてこない。大きな正義も育ちはしない。日本の貧しさの最大なる一つは娯楽を悪徳と見ることで、娯楽が悪いのではなく、娯楽によつて崩れるやうな因習的道徳や教育が悪い。映画が悪いわけでもなく、ダンスホールが悪いわけでもない。悪いとすれば、人間が悪い。
登山の苦痛に堪へて頂上を極める喜び、マラソンの激痛を忍んでゴールに至る喜び、苦痛も亦娯楽なのである。歯をくひしばつて走つて何が面白いのかネ、などと、自分一個の限定以外に知り得ない貧しい魂は悲しい。私は先日パンパンガールと会談したが、彼女らが明朗で自分の人生を呪ふどころか愛し喜んでゐるので、うれしかつた。今までのやうな暗い悲しい娼婦にくらべて、この明朗な娼婦の誕生は、ともかく日本の一つの進歩で、パンパンの出現は決して日本のダラクではない。私はダンスホールは知らないけれども、友達のホールの支配人の話によると、不品行なダンサーの無軌道ぶりもひどい代りに、処女のダンサーが非常に多くなり、このことは戦前のダンスホールに見られなかつた現象だといふ。これも亦一つの進歩ぢやないか。かうして汚辱の中から新らしいものが育つてくる。
たゞれた愛慾、無軌道な放埒の中からも、やがてそこに高い魂が宿るやうになるものだ。たゞれた愛慾はいつの世にもあるもので、娯楽のせゐぢやなく、人間のせゐだ。娯楽が人間の劣情を挑発するといふなら、娯楽を禁止して、娯楽なき健全世界を創るか。これが健全だといふなら、私は不健全、私は不健全を名誉とする。
私は娯楽奉仕の職人たる誇りをもつから、かゝる誇りと努力によつて、奉仕の商品にも自然進歩があり、そのうちには商品に魂も宿るやうになり、いくらか文学らしくなることもあり得るだらう。私の奉仕の精神には、誇りと努力があるから、さうなる見込みもあるといふものだ。奉仕の職人たる心構えと努力にともかく自信があるといふことは、私自身に生きる意味を感じさせてくれる。その自信をもつことによつて、私はともかく、うれしい。
私はそれ以上のものでなくとも構はない。
底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文学界 第一巻第五号」
1947(昭和22)年11月1日発行
初出:「文学界 第一巻第五号」
1947(昭和22)年11月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年1月26日作成
2016年4月15日修正
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