決闘
坂口安吾



 妙信、京二郎、安川らの一行が特攻基地へ廻されたのは四月の始めであつたが、基地はきゝしにまさる気違ひ騒ぎで、夜毎々々の兵舎、集会所、唄ふ奴、踊る奴、泣く奴、怒る奴、血相変り、殺気だつた馬鹿騒ぎである。真剣をぬいて剣舞のあげくに椅子を真ッ二ツに斬りこむ男、ビールビンをガラス窓に叩きつける男、さうして帰らぬ征途につく。規律などは滅茶々々、酔つたあげく兵舎の窓をとびだして妓楼へ行く奴、町へくりだし情婦の家へくづれこむのは良い方で、女を押へつけて無理無体に思ひをとげる奴、上官は見て見ぬフリ、士気があがつてゐるからアバレル、血気がなくては敵の軍艦に突ッこめない、まるでもう当り前の顔でかう言つてゐる。

 妙信はこれ幸ひとこの生活になじんだ。彼は浅草のお寺の子供で、お経の方は仕方なしに覚えたけれども、清元と常磐津は師匠について身を入れて習つた。喧嘩は強い方ではなかつたが、ミコシをかついで騒ぎまはるやうなことが大好きだから、戦争は度が過ぎると思つたが、坊主はどうも虫が好かぬ。そんな性質だから、ビンタがなきや兵隊ぐらしも捨てたものぢやないなどゝ内々気楽に思つてゐるところへ、特攻隊、まだ死ぬのは早すぎる、まつたく暗い気持になつたが、ヤケ、ヤブレカブレ、飛行機のりになつた時から時々夜中に淋しさ、やるせなさで、ふいに首を突き起して思ひきり怒鳴りたいやうな気持になることがあつた。愈々来たか、ダメか、と思ふと一両日は時々いはれなく竦むやうな、全身冷えきる心持に襲はれたものであつた。

 だから特攻基地へ廻されてきて気違ひ騒ぎを見ると、ハハア、みんなやつてる、オレだけぢやないんだ、グロテスクきはまる因果物を見せつけられてそれが人ごとでない感じ、思へばわが身にせまる不安は身の毛のよだつものであつたが、それと一しよに妙にゾクゾク嬉しく勇ましくなつてきた。よろし、オレもやるぞ、さつそく夜陰に窓からぬけだす、ビンタがないから大いに豪快で、淫売宿にナジミもできたが、挺身隊の女工の情婦もでき、女事務員とも仲がよくなり、看護婦にも一人いいのができた。

 安川は医者の三男坊で絵カキ志望の男であつたが、この基地へきて、たまたま星野といふ未亡人と知りあつた。星野家はこのあたりでは名の知れた古い家柄のお金持で、未亡人に一男一女あつたが、長男は出征して北支で死に、まだ二十五の秋子といふお嫁さんが後家となつて残され、あいにくのことに遺児がない。妹の方は十九でトキ子といつた。

 星野夫人は自分のせがれが戦死のせゐもあつて、兵隊が好きで、特別特攻隊の若者たちに同情を寄せてゐた。

 そこで行きづりの若い兵隊を自宅へ招いて御馳走するのが趣味であつたが、誰でも招待するのかといふと、さうではなくて、一目見て気に入らなければそれまで、気に入ると、街頭でも店頭でもその場で誘つて自宅へ案内する。さういふわけで星野家へ出入りするやうになつた兵隊が安川もいれて五人ゐた。

 五人の兵隊がみんなトキ子が好きなのだ。元々特攻といふものは必ず死ぬ定めなのだから、夫婦になる、さういふ未来のあるべきものぢやない。だから基地では一人の女を五人六人で情婦にする。さういふ場合はまゝあつたが、未来にどうといふあてのない身は磊落で鞘当ても起らない。

 ハッキリ情婦となつてしまへば却つて鞘当てはないのだけれども、相手が処女、清純楚々たるタヲヤメであるとやゝこしくなる。ヌケガケの功名といふ奴があるからで、そこで五人が相談して、トキ子さんは我々のアコガレなんだから、胸にだいておくだけで汚さぬことにしよう。女のからだが欲しければ商売女があるのだから、と約束したが、そのとき最も年長二十六になる村山中尉が口をだして、然しアコガレを胸に死ぬといへばキレイだけれども、四人死ぬ、最後に残つた一人がどういふことも出来るわけで、さうなつては先に死ぬ者の気持が無慙だ。だから特攻に出発ときまつた者だけその出発までトキ子さんをわが物とする定めにしよう。かう言ひだしたのは彼は中尉で編隊長であり、ほかの者、安川などはまだ一人前とは云へないやうな飛行機のりだから、自分がまッさきに貧乏クヂをひきさうだからで、なるほど然し言はれてみれば先に死ぬ者の気持の暗さは無慙であるから、よろしい、その定めに約束した。これは五人だけの約束で、トキ子も未亡人もあづかり知らぬところであるから、独裁横暴、いかにも勝手だが、眼前に見る祖国の壊滅、わが身の自爆、それを思へば彼らの心中も同情の涙を禁じがたい。

 ところが皮肉なことに、この五人には、いつかな特攻命令が下りない。そのうち出撃もめつたに無くなり、八月をむかへてから、にわかに二編隊十人、その中に安川がはいつた。五人の中で安川が先陣といふことになつたのである。

 この十人の特攻隊には安川たち三人組、死なばモロトモといふ仲良しの妙信と京二郎も含まれてゐた。

 京二郎は他の隊員から変物と見られてゐたが、それは彼が無口で唄もうたはず酔つた素振りも見せない、さういふせゐではなくて、彼が女を知らないといふせゐらしかつた。

 まつたく京二郎は女を知らなかつた。妙信や安川が夜陰に兵舎をとびだして女を買ひに行つたり、町の情婦を誘ひに行つたりするとき、否、この基地へくる前から、京二郎は女の遊びにつきあつたことがない。

 然し、本来は至つてツキアヒの良い奴で、ほかのことには誘はれてイヤだと言つたことがなく、欲しくもない酒、見たくもない映画、なんでもつきあふ。女のことだけが別で、妙信が自分の情婦の友達などを執り持つてやつても、発展したためしがなかつた。

 センチな純情派、偏屈な童貞型、特攻隊の中でも童貞型がまゝあるが、京二郎はセンチでも偏屈でもなかつた。人のことには寛大で、心に柔軟性があり、狭い純情型の正義派ではなかつたが、オレはまア、ともかく女を知らずに死んでやるさ、といふどこか悠々としたところがあつた。

 いつたいが、この男は、人々みんながやることはやりたくないやうな素振りで、ほかにべつに文句はないさ、といふやうな頓狂な飄々たるところが、いかにも間のぬけた感じで、だから変物に見える。

 然し京二郎は心中ひそかに、実は最も女が欲しい、女のからだが欲しかつたのである。

 とはいへ、恋がしてみたいと云つたところで、自分の一生が人まかせで、おまけに、いつ死なねばならぬか、もはや目の先に迫つてゐるのだ。自由もなければ、自然も、意志も、実はない。懐疑すらも有り得ないのだ。

 彼は死ぬのはイヤだ。切なかつた。然しそれをどうすることもできない現実なのだから、酒と女に身を持ちくづして、ときのまの我がまゝ勝手をつくしても、それによつて紛れるよりも、人によつて殺される自分のみぢめさが切なく思はれるばかりに見える。どうせ殺されるなら、ソッと殺されよう、声も立てず、悪あがきもせず、さう思ふと、いくらか心が澄むやうだ。

 どうせ祖国は壊滅する。英雄も軍神もありはせぬ。超人を信じ得ないといふことは、まことに死ぬ身にとつてはつらい。まつたく、もう、人間ではない。軍艦にブツカルためのエネルギーであるほかに全然意味がない存在であるといふこと、この事実がぬきさしならぬことだから、それを思へばグウの音もでず、たゞポカンと、そして絶望に沈んで起き上る由もないではないか。

 とはいへ、彼とても、別に女にこだはることはないではないか、なぜ女にだけこだはるか、さう思ふことは絶間もなかつた。

 すると又、あいにくなことに、最も欲するものを抑へること、せめてそれが満足である、いはゞまアそれだけが人間の自覚のやうな気がして、そんな理窟で間に合ふことも多かつた。

 だから彼はふだんイヤな士官だの司令の奴を、死ぬときまつたらひとつヒッパタイテやらうなどゝいふ気持よりも、誰にでも愛想よくサヨナラと云つて、サッサと死んでしまふ方が気に入つてゐた。

 然し愈々命令が下つたときには目も耳もくらみ、心は消え、すくんでしまつたもので、あゝ、これを絶望といふのだ。絶望とは決して人間の心に棲むものではない。狂気の上にあるものであり、人間に非ざる心に在るものであつた。

 突然京二郎は全宇宙を砕きたい怒りに燃えた。すると又にわかにもはや又絶望、喪失と落下と暗黒と氷結にとざゝれてゐる。すると又、にわかに怒りに狂ひ、又喪失と落下と暗黒。さういふ繰返しの波がひいて現れてきた自分も、然しもう先程までの自分とは違ふやうな、なぜとも知れずハッキリ分る差の感覚が、まことにイヤらしくこびりついてゐるのであつた。


          


 その日のひるまは三人そろつて町へでたついでに、星野家へ挨拶に立ちよつた。妙信と京二郎ははじめての訪問で、ちよッと上つてお茶をのんできたゞけだつた。

 その夜は集会所で送別会がひらかれ、例の如き気違ひ騒ぎ、他の隊員には血相変りたゞならぬ者もゐたが、三人組はふだんの通りで、妙信は清元をうなりカッポレを踊り、次には素ッ裸でヤッコサン、京二郎は例の如く全然黙々たるものであり、安川も途中まではふだんと変らなかつたが村山中尉が酔つ払つてやつてきて酒をさして、

「ヤイ、貴様が先陣とは面白い。立派にやれ。ひとつ、のめ」

 横柄であつた。むろん階級の差も年齢の差もある。無礼講もその差は一応当然でカンにさわる筋はなかつたが、二人のつながりは軍人としてゞはなしに、人間のもので、そのつながりの上だけでの交際なのだから、安川は急にビリビリ緊張した。

 安川はひるま挨拶に行つてちよッとお茶を飲んできたゞけで一応気持は済んでをり、約束をたてにトキ子のからだを強要できることなどはもはやこだはらずに始末のできる気持であつた。

 然し村山の横柄な態度のうちに、どこか残忍な、我慾のためには他をかへりみぬ性格をよむと、こいつの場合は是が非でもやる、トキ子さんが泣いてイヤがつても捩ぢふせやりとげる奴で、その不安は以前から胸にあつたが、目のあたり見なければそれで済んでゐられたのである。

 安川の眼つきが変つた。酒盃をテーブルへ置く手までふるへて、立ち上るから、

「貴様、オレのついだ酒うけないのか。無礼な奴だ」

「何が無礼だ。オレはこんなカラ騒ぎの席にゐたくないから引きあげるのだ。約束を果してくる用件もあるからな」

 素ッ裸の妙信が、

「おッとッと。待つてくれ。オレも一しよに退散する。オレもひと廻り廻るところがあるのだから」

 軍服をきて一しよにでる。京二郎もあとにつゞいて出た。

 辻へきて、妙信は別の道へ別れるといふので、

「君はどうする。当がないのだつたら、オレと一しよに星野のうちへ来ないか」

「オレが星野のうちへ行つても仕方がなからう。このへんをぶらぶら歩いてみよう。妙になんとなく歩いてゐたいのだから」

「さうかい。なんとなく君にも来てもらひたい気持なんだが、ぢやア、仕方がない」

 二人は右と左へ、京二郎はあとへ戻りかけると、安川がふりむいて、

「おい、くることができないのか。一しよにくる気持にならないかな」

「ならないな、別に当もないけれども、今夜はもう今夜きりぢやないか。思ふやうにしてみるほかに仕方がない」

「さうか」

 京二郎が一しよに来てくれないせゐだと安川は思つた。このまゝで行くと、どうしてもトキ子を手ごめにすることになる。決意とも違つてヤケクソ、捨て身、さういふものだ。それを警戒して誘つてゐるのに京二郎が来てくれないから、どうしても、さうならずにゐないだらう。こんなふうな甘へたやうなヤケな気持で遠い昔に道を歩いてゐたことがあつたやうな気がする。幼いころ、母に甘へ、母に怒り、さういふヤブレカブレで。

 トキ子の母に会ひトキ子に会ふと、気持は別人のやうに落付いてゐた。然しトキ子を散歩につれだして町外れの河原へでると、ふとした情慾の念をきつかけに支離滅裂な逆上が起つた。嫉妬かと思へば絶望であり、あらゆるものへの呪咀と破壊を意志したときには一途の愛惜に目のくらむ思ひもしてゐる。

 安川はトキ子をだいてゐた。

「あなたとこのまゝ別れては、僕は死ぬことができないから」

 どいつもこいつも、こんな言葉でこんなことをするのだらう、と安川はイマイマしく思つたが、もはや何物をも顧慮することができない。そして彼は自分のどこにもブレーキがないので驚いた。否、驚くひまもなく、実際的な行為とそれをやりとげる力だけが、それだけが自然のやうに次々と起り溢れた。それはまるで芸術の至高の調和のやうな充実した力量感と規律的なリズムをみなぎらしてゐるやうであつた。

 トキ子はさからはなかつた。たゞ地の上へ押し倒されたとき、あゝ、といふウツロな声をもらしたゞけだ。安川の悔恨はその声の回想から起つた。恋でもなく行きづりの愛情からでもないのだらう。あなたとこのまゝ別れては死にきれないと云ふ、それだけの呪縛であり、祖国のためにイノチをちらす若者へのこれも祖国のイケニヘの乙女の諦念にすぎないではないか。

 彼はこの思ひをつとめて抑へてゐたが、集会所をとびだして夜道へ降りて以来、なぜトキ子を手ごめに行くか、嫉妬によつてならば村山を叩き斬るべきで、それによつてトキ子を手ごめにすることはない、さういふ声をきいてゐた。

 村山を叩き斬れば祖国のために死ぬことができなくなる。だから仕方がない。トキ子が自分のやうなものとつながりを持つたのも、自分が祖国のために死ぬといふ定めのためによつてゞあり、これだけは如何なる絶望逆上混乱をふみつぶしても為しとげねばならぬ。すべての特攻隊がさうしてをり、村山にしても、彼もやつばりトキ子をすてゝやがては征かねばならぬ、又、征く、必ず征く筈だ。

 さう思へば、どうしても手ごめに行くより仕方がない。約束なのだから、約束を果さないセンチの方が卑怯だなどゝも思つた。

 然し思ひを果して何が残つたかといへば、祖国の名に於て純な乙女をイケニヘにしたといふ後味の悪さばかり、起き上り、立ち離れて茫然と立ちすくんでゐると、トキ子も起き上り精神的な混乱と肉体の苦痛で歩くことも容易ならぬ様子であつた。そこで再び悔恨が胸につきあげて逆上すると、祖国の名に於てイケニヘになるのはトキ子ばかりではない。自分のイノチがさうではないか。トキ子が何物であるか。自分の場合はイノチが自分のすべてのものが。それを思ふと、絶望ばかりであつた。むしりとり、むしりとつても、目をふさぐ絶望の暗幕をはぎとることができないではないか。

「トキ子さん。立派に死んでお詫びをします」

 それも月並でイヤらしい言葉であつたが、思ふことを言ひきつてしまへば、胸ははれるかも知れない。

「死にたくない、死にたくない、死にたくない。これが僕の本心、全部です。でも、今は、それを乗りきれます。祖国の名に於て、トキ子さんは僕の暴力のイケニヘになつたから、僕も甘んじてイケニヘになるつもりです。祖国なんか、なんだつていゝや。僕はトキ子さんのために」

 トキ子が唇をさしよせた。抱きしめると、胸の中でトキ子は泣いた。

 手を握りあひ、長い夜道を無言で歩いて、トキ子の家の前へくると、トキ子は立ちどまつて顔をすりよせて、

「私、イケニヘぢやないわ」

 全身に熱気がこもり、情感が溢れてゐる。

「あなたを愛してゐました」

 トキ子は全身を安川の胸に投げこみさうであつたが、安川にそれを受けとめる用意がないので、恐怖と羞ぢらひのために、身をひるがへしてわが家へ逃げこんだ。

 安川は追ふことができなかつた。

 それは残酷な言葉であつた。こゝはやつぱり無言のまゝ別れてくるべきであり、さもなければ、例の月並に、立派に死んで、バンザイ、それでよかつたのだ。イケニヘといふことのほかに、人間なんかの在る余地がないのだから。

 安川はノドをしめあげられ、ノドに荒縄をまきつけられて気違ひ馬に引きづり廻されてゐるやうであつた。途方にくれ、益々絶望するばかりであつた。

 何ものゝ喜ぶべきこともない。トキ子の愛情をたよりに、愛情をみやげに、そんな気持の玩弄はできうべきものではなかつた。のたうちまはる思ひだけであつた。

 畜生! 畜生! オレを殺すのはドイツだ。祖国。そんなもの、八ツザキにしてしまへ。

 どうして恋だの愛だのと言ひだすのだらう。日本中が気が違ひ、戦争といふトンマな舞台の人形、たゞ祖国のために飢え、痩せ、働き、死ぬ、ひとつの道具、兵器の一種にすぎないではないか。恋だの愛だのとそんなことを今更言ふとは、ひどい、なんといふことだらう。

 恋は青空、思ひは海、せめてうらゝかな日に自爆したい。そんな気持になりきれないとは切ない。さうなる以外に、手がないのだもの。そのくせ、なれない。空を仰げば、嘘のやうに星があつた。天の川、悲しく汚く、つまらない星空であつた。

 自分とは何だらう。もうそれを考へては立つ瀬がない。ギリギリのところに、ガンヂガラメにつるされ、死神を待つだけだから。


          


 その一夜、三人ながら熟睡したといふのは一人もなかつた。

 然し彼らは翌朝はいくらか気分が落ちついてゐた。仕度をとゝのへ、飛行機を見ると、兵隊なみにひきしまつた心になつた。

 尤も彼らはこれから出撃するわけではなくて、いつたん南端の進発基地へ行き、そこでバクダンを吊して、本格的に海を南へ消え去るわけで、その出撃は更に翌日の予定であつた。

 ところが南端の基地へ来てみると情勢が変つてゐる、敵の大船団が行動を起してゐるといふのはどうやら偵察のまちがひらしい、もう暫く様子を見ようといふことになつてゐた。

 一日生き延る思ひは豊醇きはまるもので、これがあつちの基地であつたらトキ子とひとゝきと思はぬでもないが、さうでなくとも安らかでくつろいでゐられる気持であつた。

 その翌日も、又その翌日も翌日も、命令はない。そして先の大船団はどうやら正体のない幻影だつたといふことになり、まア、お前ら遊んでゐろ、さういふことになつたが、するとそこへ八月十五日、基地は放心した。

 三人はわけが分らなかつた。

 生きた、といふ知覚。それを誰より強く覚えたのは三人であつたかも知れない。オイ、本当か、たまたま彼らは外出を許され、町の民家のラヂオをきいた。民家のラヂオは偽物の放送ぢやないかと思つたぐらゐ、日本が負けた、生きた、はりつめた気持がゆるんで、だるいやうだつた。

 真偽をたしかめに基地へ戻ると、基地ではラヂオをきいてゐない連中が多く、こつちの方が却つて半信半疑、まだ防空壕を掘つてゐる連中がゐる始末であるから、やつぱりまだ戦争か、ヒヤリと心が一時に冷えてしまつたが、まもなく連絡の飛行機の往復がはげしくなる。夕方、食堂へ行くと、泣く奴、怒る奴、吐きだす奴、笑ふ奴、負けたことがハッキリした。

 隊長の中尉が、

「イノチがもうかつたぞ。お前ら、どうする。これから、どうするんぢや、オレは知らんぞ。日本中がみんな捕虜かいな。わけが分らん。基地へ問ひ合せても返事がないから、明日基地へ帰るんぢや。そのつもりにしとけ」

「勝手に帰るんですか」

「蜂の巣をついたやうなものぢやないか。もう血迷つてるんだ。こんなところに命令まつてたら、永久の島流しぢや。向ふぢや死んだつもりにウッチャらかしだらう」

 三人そろつて外へでゝ夕風に当ると、

「オイ、オレは今すぐ基地へ帰る」

 安川は焦燥にイライラしてゐた。

「勝手に帰つちや、ぐあいの悪いことになるだらうぜ」

「どうせ、負け戦だ。とがめられたら、基地へ問ひ合しても返事がないから、隊長が単独行動を許したと言や、すむだらう。後々のことはもう問題ぢやないんだ。オレは是が非でも帰る」

 思ひたつと、つのる焦燥、不安を押へるすべがなかつた。私イケニヘぢやないわ、あなたを愛してゐた、といふトキ子の言葉が徒らに安川の胎内を駈けめぐつてゐる。その言葉をたしかめなければならない。

 イノチがあつた、これからもある、するとまるでガラリと問題が変つてしまふ。まつたく別人の誕生だつた。然し、そんなことに呆れてゐるヒマはない。村山は行動力のある奴だから、情勢の変化と同時に行動を起してゐるに相違ない。

 安川はもう二人の返事をきかず、ふりむいて飛行場へ歩きこむ気勢であるから、

「よし、オレも一しよに行く」

 妙信が覚悟をきめる。

 急に三人ひとかたまりになつて駈けだす、すると安川のみならずあとの二人も無我夢中であつた。人生が変るのだ。どう変るか、何が変るか、当もない期待と興奮、解放された何かゞ、たゞ気の狂つた動物みたいに全身を逆流してゐる。

 生きてゐた。これからも、生きる。これからは自分が生きて、自分が何かをつかむのだ。走れ走れ。もう兵隊も軍律も土足にかけろ。出発。

 然し、京二郎は、わけの分らない不安があつた。いつたい、自分なんか、本当にあるのだらうか。何物だらうか。これから先々、途方にくれるやうな陰鬱な疲れを感じた。そのくせ、やつぱり胸は何かでふくらみ、張つてゐる。解放されたイノチ! 疲労に目がまはるが、走る足をゆるめる気持にもならない。


          


 それから数日、ごつたがへしてゐた基地もあらかた引きあげて後始末の者だけ残り、例のトキ子同盟五名のうち三名は去り、残る者は安川と村山二人、浅草の実家のお寺が焼けて一家不明だといふ妙信とこれも故郷に希望のない京二郎が一しよに残つて、一応部屋のたくさんあいてる星野家へ下宿することになつた。

 ところが村山は安川らが基地をとびたつと、もう我慢ができなくなつた。安川の奴がいつぺん処女を奪つたものなら、トキ子の純潔はもう問題ではない。五人の約束もトキ子を処女としての約束で、いちどケチがついたものならあとは同じこと、早いが勝だと理窟をつけて、さつそく直談判、強要して成功した。

 さういふ関係になつてゐたから、はからざる終戦、母とトキ子は二人の男の膝づめ談判に困却して、なすところが分らない。

 困つたことには、母とトキ子と胸の思ひが違つてゐた。

 トキ子はすでに兄が戦死し一人娘であるから、聟とりといふことになるが、村山は資産家の三男坊で、私大の経済科を卒業してをり、すでに一人前の紳士であるが、安川は医者の三男坊で、絵カキの卵、また二十二の若年で、このさきどんな人間に成長するか、今のところは見当がつかない。

 差当り誰の目にも村山は旧家の主人に申分ない条件を具へてゐるから、母は村山を内々聟にと思つてゐる。

 トキ子は安川が好きだつた。

 二人は胸の思ひを表はさないが、それとなく分ることだから、安川は当のトキ子に一任しようと云ひ、村山は日本の習慣通り親の意志に従ふべきだ、とこれもケリがつかない。母と娘は胸の思ひをあらはすとモツレルばかりだから、安川には安川の気のすむやうに、村山にも同じこと、なるべく当りさわりなく、両方のキゲンをとるから、益々こぢれ、もつれるばかりである。

「当然死ぬ筈の人間、それを前提として出来たツナガリに、死ぬ運命が変つて起つたモンチャクだから、昔のツナガリを土台にしては解決ができない。君がトキ子さんと最初の関係をもつたとか、僕がそれからどうしたとか、かういふ特攻隊員のツナガリは御破産にしよう。僕らは新らたに、全く終戦後別個に現れた求婚者として、正式に争ふべきではないか。我々は直談判をやめて、日本の習慣に従つて、両親の許しを受け、親なり仲介者の手によつて、家と家の交渉、正式に手順をつくして求婚して、正式の返答を貰はふぢやないか」

 かう言ひだしたのは村山で、この提案の計画をたてると、彼はいちはやく、両親に依頼の手紙を発した形跡があつた。この提案は母と娘と四人同座の席でだされ、正式の交渉、もとより女たちはそれを望むのが当然、三対一、反対してもムダだから安川も同意した。然し、安川の親の医院は焼失し、両親がどんな暮しをしてゐるやら手紙ぐらゐで納得するやら、二十二の特攻小僧の嫁ばなし、相手にもしてくれない不安ばかりで、たよりない話だけれども、ひくわけに行かない。

 すると村山は、さう話がきまれば自分の勝と考へたから、あとは時間の問題、この際トキ子の身をまもることが大切で、話がきまつた以上、求婚者が娘の家に同居するのは間違ひが起り易いから、解決までフェアプレー、ほかの家へ宿をとらうと巧みに話をもちかけて、二人は星野家の真向ひの長屋へ隣同志に別れて下宿した。二人は四六時中相手の行動を見張りあひ、一方が星野家の門をくゞると、忽ち一方もあとを追ふ、片時も目をはなさぬといふ忙しいことになつた。

 変つた事情で、それまでは赤の他人の星野家へひとり残された妙信と京二郎、妙信は色々と情婦があるから、そつちのつきあひで外泊が多く、いつも無口の京二郎がたつた一人とり残されて、話のツギホに困りきつてゐるやうなことが多かつた。

 信子(トキ子の母)は未亡人のつれづれ、死にゝとびたつ特攻隊員をねぎらつて、まぎれてゐたが、敗戦、一時はどうなることやらヤブレカブレの気持にもなる。京二郎が酒と女のヤケ暮しの特攻隊で、死にゝ行くその日になつても女を知らなかつた。知らうともしなかつたといふ、そんな子供と遊んでみたいやうな気持になつた。

 妙信の帰らない夜、酒をもてなして、京二郎を自分の寝床へつれこんでしまつた。

 京二郎はまつたく何も知らなかつた。はじめ彼のなすまゝにまかせると、いはれの分らぬトンマなことばかりやり、四肢の配置、そんなことすらも、どこへどうとも知らない様子で異体の知れないことをやるから、信子もだんだん大胆にかうして、あゝしてと教へるうち、ふと忽ちに、それはもう子供でもなく、何も知らないウブな若者でもなく、まつたく傲慢、ふてぶてしい粗暴無礼な男であることが分つてきた。たつた一つ最初の手口をさとつたゞけで、あとはもう全てを知りつくした男であつた。彼女の夫はもつと弱々しく、控え目で、神経がこまかく、やさしかつた。この男は唸り、挑み、つかみ、打ち倒すやうな荒々しい男であつた。男は充分に満足すると、残される女のことなど眼中になく立上つて、それでも、オヤスミとだけ言つて立ち去つた。

 翌朝、京二郎は全然ふだんと態度が変つてゐなかつた。それは女を征服した男の態度よりも、もつと傲慢不遜なものに、それはつまり信子が眼中にないといふ様子に見えた。信子は怒りと憎しみに燃え、驚異に打たれ、又、惹きこまれる力に酔つた。思へばそれもこの粗暴な男の影をめぐつてゐる自分の一人相撲にすぎない。まだやうやく二十二といふ若者のこの傲然たる男の位、これを男らしさといふのであらうか、それは不可解、又、神秘的ですらあり、襟首を押へつけられてゐるやうな圧倒的な迫力があつた。

「童貞なんて、嘘でせう。あなたぐらゐ、スレッカラシの男はないわ」

「童貞なんか、何ですか。僕が今まで女を知らなかつたのは、童貞なんかにこだはつてゐたわけぢやないのです。僕は何より女が欲しかつたのですが、自分の意志で人生をどうすることもできない戦争の人形にすぎないのだから、一番欲しいものを抑へつけて、せめて自尊心を満足させてゐたゞけですよ」

 まつたく京二郎は戦争中は女を遠ざけながら、実は女のからだに最もこだはり、それを求めつゞけてゐたことを、思ひだすのであつた。信子のからだを知る時間まで、さうだつたかも知れなかつた。

 然し今はもう、女のことなど、問題にしてゐないことが分つてゐた、なにをアクセクすることもないではないか。戦争は終つた。自分の力で、自分の道を生きて行くことができる。卑小な何物にこだはることもない。卑小なものは踏みつぶして進め。どんな理想も可能であり、その理想のために、自ら意志してイノチを賭けることもできる。

 女がもし必要ならば、理想の女をもとめるがよい。つまらぬ女はみんな道ばたへ捨てゝしまつていゝではないか。気兼ねも、気おくれも、後悔もいらない。

 然し、理想は何か。理想の女はいかなる人か。それはまだ京二郎には全く見当がつかなかつた。たゞ彼は現実的に、それを握つて不満なものは、すべて捨てゝ不可なきものと信じることができるだけだつた。

 戦争がすんだ。そして人間が復活した。彼は先づ人間の復活からはじめる、生れたての人間に一人前の理想など在る筈もないではないか。

 戦争未亡人の秋子は若くて、初々しく、美しく、情感にとみ、京二郎の情慾をそゝるに充分だつた。彼は秋子と通じることに罪悪感を覚えるので、一さうそれを敢てして自分を、そして人間を、罪悪をためしてみたいと思つた。自分の意志を行ふことを怖れるのは人間的ではない。強制されて行ふことが気楽だといふバカバカしさに腹が立つた。

 然し彼はいかにも尤もらしく屁理窟でツヂツマを合せてゐたが、実際はたゞ情慾に憑かれた餓鬼であり、可愛いゝ女をもてあそびたい一念だけが生きてゐる自分の心だといふことを知つてもゐた。

 京二郎は深夜に秋子の寝室を襲つて、思ひを遂げた。秋子はやゝ抵抗したが、恥のために声を忍んで屈したやうな、無感動なむくろといふ様子であつた。然し次の機会からは、すでに拒まないばかりでなく、快楽に酔ひ痴れ身悶える肉体であつた。

 こんなものかと京二郎は思つた。秋子の肉体が憎くなるのであつた。人間はたつたこれだけのものであらうか。まさしく、これだけのものではないか。このほかに目をさまして顔を洗ひ、掃除をし、食事をし、洗濯をし、料理をつくり、知人と挨拶し、もてなし、話をし、それが人間の生きる目的でないとすれば、この肉体のほかに何があるのだらうか。人間はこれだけではない筈だと彼は思つた。然しそれはトキ子を手ごめにするための階段の役目を果してゐる屁理窟のやうなものであつた。

 彼はトキ子が抵抗することを考へた。安川や村山に知れて、彼らの刃物に対してゐる自分のことを空想した。そして、そこまで、やつてしまはなければいけないのだと自分を納得させることに成功した。

 京二郎はトキ子をゆり起した。

「僕ですよ。起きて坐つて下さい」

 トキ子は起きて坐つた。トキ子は彼の空想の中で激しく抵抗してゐるやうな女ではなかつた。空想の中とは別に、京二郎はそれをハッキリ知つてゐた。

「僕は安川でも村山でもありませんよ。あなたと結婚したいなどゝは申しません。僕はたゞ遊ぶために来たのです。その代り、あなたがイヤだと仰有おっしゃつても、ダメです。僕は遊ぶことにイノチをかけてゐるのですから。ホラ、僕の心臓に手を当てゝごらんなさい。いゝですか」

 京二郎はトキ子の手頸を握つて自分の心臓に当てさせた。どうすることもできない様子で、その腕は抵抗せずに、木ぎれのやうにタワイなく持ちあげられてきた。

「僕の心臓は全然ふつうと同じやうに、ユックリ、規則たゞしく打つてるでせう。あなたの心臓と音をくらべてごらんなさい」

 京二郎は別の手頸をにぎつてトキ子の心臓に当てさせた。そのために二人の膝は密着して、二人の体温がみるやうにふれてきた。

「つまり、僕はすこしも怖くないのです。何も怖れるものがないのです。なぜなら、今は、僕の時間だから。分りますか。あした、あなたが目を覚す。するともう、それは僕の時間ではないのです。あなたの時間、あなたと安川や、あなたと村山の時間なのです。その時間の中では、僕とあなたは何のツナガリもない赤の他人だ。然し今、これは僕の時間だから、僕は時間と、そして僕にからまる人、あなたを支配しなければならない。だから僕は冷静です。僕の心臓の静かさが分るでせう。あなたの心臓はどうですか」

 京二郎は握つた手頸をはなし、トキ子の当てた掌の代りに、自分の掌をトキ子の心臓に当てた。その心臓は音がハジキでゝくるやうに打つてゐた。京二郎はいつまでも手を当てゝゐた。そしてトキ子の肩をかゝへて、いつかトキ子を腕の中に抱いてゐた。

 唇をよせた。トキ子はさからはなかつた。すべてが終つたとき、

「安川さんや村山さんに仰有つてはイヤ。誰にも秘密だわ。私たちだけの秘密」

 とトキ子がさゝやいた。

 京二郎は唇をむすび、又、溜息をもらし、あらゆる悩ましさに捩れからんだ肢体を追憶しながら、

「一生秘密にしてゐられる?」

「むろんだわ」

「こんな秘密をいくつも、いくつも、つくりたいと思つてゐるの?」

 トキ子は答へなかつた。みづ〳〵しい裸体を惜しみなく投げだしたまゝ、隠さうともせず、目に両手を組んでゐた。

 京二郎は秘密といふものが女の一生の目的であるやうな思ひにふけつた。なぜかトキ子の肉体は憎くゝはなかつた。秘密をたくはへる、それを目的にする女、秋子とても、信子とても、さうではないか。

 然し、トキ子は可愛いゝと思つた。


          


 トキ子と京二郎の関係に先づ気づいたのは妙信であつた。

 京二郎は妙信が同じ部屋にねてゐる夜も、トキ子への情慾を抑へることができなかつたから、血のめぐりのいゝ妙信は、相手が誰でもなくトキ子であることも見破ることができた。

 勇み肌の妙信は、当の安川や村山よりも義憤に燃えて、京二郎に決闘を提議したのも彼であつた。

 そのころ村山の両親からは使者がきて、こつちの様子を見定めた上、聟養子になるならなにがし財産も分けてやる。正式の交渉が始まつてゐた。安川の家からは音沙汰がなかつた。安川はもう敗北だと思はざるを得なかつたので、ヤケクソになりかけてをり、村山にしてやられるものなら、京二郎でも同じこと、却つて村山にいゝ気味だと思つたほどで、さほど熱はなかつたが、寝とつた京二郎はやつぱり憎い。思ひつめれば喉を割いてやりたいぐらゐで、ともかく決闘の聯合軍に加はつた。

 京二郎は申出に応じ、三人の誘ふまゝ町外れの河原の方へ歩き去つた。

 信子と秋子は寝耳に水であつた。彼女らは各々京二郎がたゞ自分とだけ関係があるだけだと思ひこんでゐたのだ。

「あなたは何とまア気違ひですか。村山さんからはもう正式に使者の方が何度も足を運んで下さるといふのに。京二郎さんなどゝいふ粗暴な礼儀知らずの低級なろくでなしは、御三方に頭をわられて半殺しになるといゝ」

 トキ子はうなだれてゐたが、シッカリした顔付で、返事をしなかつた。

「あなたは、まさか京二郎さんが好きなわけではないでせう。あの人はあなたを手ゴメにしたのでせう。それは私に分ります。なぜそのとき私に打ちあけて下さいませんか」

 トキ子は答へなかつた。

「皆さんが戻つていらしたら、あなたは村山さんにお詫びをしなければいけません。できますか。それはできるでせう。しなければならないのです。然し、許して下さらなければ、あなたはどうなさるつもりですか」

 長い沈黙のあとで、たまりかねて信子がつぶやいた。

「今ごろはあのろくでなしは血まみれにヒックリかへつてゐることでせう」

「一人に三人ですものね。でも、妙信さんはオセッカイではないかしら。あの方の知らないことだわ」

 と、秋子が呟いた。

「正義ですもの、それが当然ですよ。何がオセッカイですか」

 そこへ四人が荒々しく戻つてきた。服は破れ、血がにじみ、顔は腫れ、目だけ吊りあげて疲れきつてゐる。

「ムチャクチャですよ。安川の奴なんざ、京二郎を殴つておいて、急に方向転換して村山に武者ぶりついてゐるんですから。思へばケンカはヤボですよ。四人で話をきめてきたのです、トキ子さんに、三人の色男から一人指名していたゞくのです。三人異存はないさうですから、さつそく、たのみます」

 しばらく無言であつた。トキ子はいくらかシカメッ面をして、四人を代る代る眺めてゐたが、

「怪我の浅いのは、どなたとどなた」

「さてネ。みんな同じやうなものですよ」と妙信が答へた。

「そんなら皆さんで、ウチにある皆さんの荷物を、安川さん村山さんの宿へ運んでちようだい。あんまり威張らないで下さい。もう戦争がすんだんですから。一度はクニへおかへりになるのがいゝわ。私のオムコさんは私がそのうち探しますから」

 そこまで一気に言つて、

「サア、早く、早く、荷物を運びなさい。あんまり威張らないで」

 四人は荷物を運んで下宿の一室でボンヤリ額をあつめてゐた。結末が意外で腑に落ちない思ひであるが、アンマリ威張らないで、と二度も言つた、その意味が誰にも見当がつかないのであつた。

「分らないことはなからう。お前さん方、存分威張りかへつてゐたゞけのことさ」

 妙信に言はれて三人は腑ぬけのやうに薄ボンヤリ、笑ひ合つた。

 翌朝、四人の起きたころ、トキ子さん三人家族は早朝すでにどこかの温泉へ姿を消してゐた。その日の夜、四人が駅で東京行の汽車を待つてゐると、星野の女中がきて、お嬢様から皆さんへの御手紙忘れてゐました、と届けて行つた。ひらいてみると、

「おかげさまで強くなりました」

 と書いてあるだけだつた。わかつたやうで、わけが分らない。

「元々、あのお嬢さんは左マキなんだよ」

 と妙信が言つたが、この手紙と昨日のトキ子の言葉に最も深く思ひこんでゐるのは京二郎であつたらう。

 京二郎はまつたくトキ子に負けた思ひがしてゐた。トキ子は三人を見放したではないか。それだけでタクサンだ。

 すでに女は進軍してゐる。肉体だけで進軍してゐる。男の奴が感傷や屁理窟で手まどるうちに、女は時間を飛躍して行く。

 女を軽蔑してハジをかいたから、こんどは女を尊敬してやらう。女の方がハジをかくぐらゐ尊敬してやらう。然し女はハジをかくだらうか、などゝクサ〴〵のことを考へて、ともかくトキ子は可愛いかつた。ふと、そんな風に考へらると、どうやら胸がチクリと痛むやうな珍妙なぐあいになつてゐた。

底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房

   1998(平成10)年620日初版第1刷発行

底本の親本:「社会 第二巻第九号」

   1947(昭和22)年111日発行

初出:「社会 第二巻第九号」

   1947(昭和22)年111日発行

※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。

入力:tatsuki

校正:深津辰男・美智子

2009年84日作成

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