金銭無情
坂口安吾



金銭無情



 最上清人は哲学者だ。十年ほど前、エピキュロスに於ける何とかといふ論文と、プラトンの何とかといふ論文を私も雑誌に見かけたことがあるが、その後は著作はやらなくなり、講壇に立つたことは一度もないので、哲学専門の学生でも彼の名は知らない。

 先日私のもとに訪れてきた雑誌記者の話によれば、彼の恩師のDD氏は、哲学界の新人は? といふ記者の問に答へて、さて、新人かどうか、彼はすでに旧人だが、と、最上清人の名をあげて、彼の思想はギリシャにもローマにも近代にも似てゐない、たゞ人間に似てゐる。最も個性的な仕事が期待できるのだが、彼は著作しないだらうと答へたといふ。実際彼は記者から執筆の依頼を受けて応じたことは、すでに十年、絶無であつた。

 私は然し他でも彼の評判を耳にしたことがあつた。QQ神父及びLL氏、LL氏は日本の大学では文学史や中世思想史を講ぜられたが、本国仏蘭西フランスに於ては著名な羅典ラテン語学者で、私はこの御両名から、日本に於て本当に羅典語を解する人は最上清人だらうと承つたことがある。彼はそのころある書店で古典の叢書編纂に当つてをり飜訳者を探してゐた。私は彼と中学時代の同窓であるが、彼が羅典語に通じてゐるといふことは、その時まで知らなかつた。

 彼は昔、心中したことがあつた。相手の女は銘酒屋の娼婦で、女は死んだが、彼は生き返つた。警察の取調べを受けて、死んでも生きても同じことだ、と呟いたといふ。私は旧友の名を新聞記事の中に見出しながら吹きだしたのであるが、後日彼と交游を深めるやうになつて、僕は首くゝりを主張したが、女が催眠薬にしようと云つてきかなかつたんだ、僕は自殺は考へてゐたが心中といふ考へはなかつたので、女が催眠薬をのむといふなら、僕は僕で首くゝりをした方がよかつたんだが、僕が先に死んぢやつてぶら下つたんぢや怖しいと女が言ふんでね、万やむを得ず心中的になつちやつたんだ、と言つた。

 彼が著作をやめたのは、その頃からだ。彼は哲学者とよばれると、時にはおつくうさうに否定する。僕は人間しか見てゐない。宇宙を見なくなつたから、宇宙を見なければ哲学者ぢやないんだ、と呟いたこともある。そして、まア、人間観察家とでも言ふんだらう。そのほかに情熱もないんだからと言つたりしたが、近頃ではもう人間観察家とも自称しない。僕は飲み屋の亭主だと答へるのである。彼が自分とは何者かハッキリ答へるやうになつたのは全く近頃のことであり、はじめて彼はいくらか生き生きと自分は何者か、自覚した様子であつた。彼は「タヌキ屋」といふ飲み屋の亭主に相違ない。

 彼は心中をやりそこねるまでは独身だつたが、その後女房を五人かへた。そのうち二人は女の方から逃げだし、二人は彼が追ひだして、五人目は戦争中つとめてゐた軍需会社へ徴用で入つてきた女で、待合の娘であつた。結婚したとき、娘はまだ女学校を卒業したばかり、十九であつたが、清人は四十であつた。

 これはまつたく「幻想的」な結婚であつたと富子は自ら述べてゐる。

 富子は生家の職業によつて幼少から男には馴れてをり、女学校の頃から大学生と映画見物にでかけたり、お客に旅行に連れて行つてもらつたり、然し実の心は芸者や遊客の生態に反感を覚えてゐると思つてゐた。その実さういふ生態に同化して育つてしまつたといふことには気がつかないだけの話であつた。

 芸者は義理人情だの伊達引だてひきだの金より心だの色々に表向きのお体裁はあるけれども、本心はみんな単純な男好きで、美男子好みで、旦那に隠れて若い色男と遊んでゐる。富子も美男子好みで、色男の大学生や若い将校などゝ映画見物や物を食べにでかけるのが好きであつたが、そのうちに、さういふ自分をだんだん軽蔑するやうになつてきた。つまり芸者の世界を軽蔑するやうになり、自分はもつと高尚な別な人間だといふ風に考へる習慣がついたのである。

 だから十八ぐらゐからの富子の書斎をのぞいた人は呆気にとられた筈で、アランだのヴァレリイだのベルグソンだのテーヌだの、小説でもスタンダール、ボルテール、メリメ、プルウスト、ヴァンヂャマン・コンスタン等々、それに美学の本がたくさんある。なんでも表題に美といふ字のある有難さうな本はみんな買つたといふ感じなのだが、まつたく又一生懸命に読んだものだ。

 徴用の会社で清人と同時にまだ大学を出たばかりの美男子の技術家にも言ひよられ、待合へ遊びにきた青年将校にも結婚を申込まれて、これが又絶世の美男子で、顔を見つめるとからだが堅くなつて息苦しくなり胸のぐあいが拳を握りしめるやうな感じになる始末であつたが、富子は美男子などは軽蔑すべき存在だと考へた。美男子を愛すなんて低俗で不純なことであり、高い恋愛はもつと精神的なものだと思つたのだ。

 もとより小娘の幻想的恋愛論などゝいふものは、彼女にまことの恋愛が起つてしまへば一挙に効力を失ふものだが、富子は要するに美男子を見るとマッカになつたり息苦しくなつたといふだけで、恋愛までには至らなかつた。だから結婚は早すぎたので、当人も結婚の慾求などはなかつたのだが、生めよふやせよといふ時代思想で、十九などはもう晩婚の御時世であり、家も焼け会社も焼け、一家は田舎へ疎開といふ時に、なんとなく疎開がいやで、清人と結婚してしまつた。

 然し、清人との結婚までには半年あまりの恋愛的時間があつた。富子はこれこそまことの恋愛なんだとその時は思つたのだから。

 一方清人は四度目の女房に逃げられたあとの一人暮しで、哲学者といふところから富子に物をきかれたり本を貸したりするうちに、これは脈があるなと思ふと、こゝをせんどゝ食ひ下つて口説きはじめた。

 彼は人間観察家などゝ自称はしても所詮は学究で、彼のアフォリズムなど実生活では役に立たない寝言の類ひ、惚れた女はいつも逃げられる始末であつたが、この美少女に成功したのは犬も歩けば何とかいふまぐれ当りで、美男子の競争相手があるのだから、不安になつたり、わくわくしたり、然し案外馬鹿な娘だななどゝ考へて、計画をねつてゐた。

 富子の母親にはお金持の旦那があつて金に不自由がないから、娘を芸者に一稼ぎなどゝいふ考へはなく、然るべき男と結婚させてと大いに高い望みをかけてゐる。だから四十男の貧乏な哲学者など話の外だと思つてをり、無口で陰鬱で大酒のみで礼儀作法を心得ず、社交性がみぢんもなくて、おまけに風采はあがらない。一つも取柄といふものがないから頭から罵倒する。山奥から来て花柳地に住みついた女中共は半可通の粋好みだから悪評は決定的の極上品で、土の中からぬきたてのゴボウみたいだと言ふ。なるほど、うまい。全く孤影悄然、挨拶一つ言はず、頭をペコリとも下げないから土だらけのゴボウのやうだ。

 富子は意地を張つた。周囲の悪評の故に、この恋は純粋高尚だと考へた。俗物どもに分らないから純粋なので、彼が色男でなく、お金持でもないから高尚なのだ。富子は男の高い知性だけを愛してゐる自分がひどく優秀で、俗ならぬ深遠な恋を神に許された特別な女のやうに考へた。

 そこで清人もこれは知識以外の他のすべてをみすぼらしくする方が却つて好かれる方法だと知るに至つた始末で、富子はお金持だから、奢つてくれたり、ウヰスキーを持つてきてくれたり、ネクタイをくれたり、洋服をつくつてくれたり、遂にはお金までくれる。彼は嬉しさうな一本の小皺も見せず面白くもないといふ顔付をしてそれを貰ふ。すると富子は清人が高雅で精神的そのものだと云つてひそかに大満足するといふ寸法で、だから清人は外見はなるべくみぢめ貧弱にして、精神的高さといふものだけ見せるといふ戦法にたよつた。

 元来は十九の美少女と結婚するのもまた面白しといふ発願であつたが、意外やお金持で色々おごつてくれるから、これはもうお金のためにもぜひとも娘をものにしなければならないのだと考へた。金が宇宙の中心だといふのは彼の説で、だから彼は哲学などは馬鹿らしくなつてしまつたのである。

 終戦後、破壊のあとは万事享楽から復興するといふ彼の明察によつて、富子の母の旦那からお金を貰はせて、駅前の横町へバラックをたて、一杯飲み屋を始めた。彼はカントの流儀によつて哲学は又食通だといふ建前で、ソースなどは自分で作れるぐらゐ、昔は相当料理の本を読んで、牛の脳味噌、牛の尻尾、臓モツの料理、雉の腹へ色々の珍味をつめて焼きあげる奴、マカロニ料理からチャプスイに至るまで自ら料理のできるほど色々と通じてゐる。そこで八月十五日正午ラヂオの放送が君が代で終ると、よろしい、もう相手はアメリカだ、進駐軍の味覚を相手に料理の腕をふるつて、大いにお金をもうけ、新日本のチャムピオンとなつてやるんだ、と野心を起した。もとより富子は大賛成で、母の旦那にたのんで大金をだしてもらつた。

 バラックの出来上つたころはもう進駐軍は日本の一般飲食店へは這入れぬ定めになつたけれども、元来がさういふ魂胆の設計だから、ちよつとあちらの一品料理屋といふ感じで、コック場などもあちらのお客の潔癖に応じて安心感を与へるやうに工夫がこらしてあるといふ心掛けである。沈思黙考の哲人たるもの処世に於て手ぬかりはなかつた筈だが、あちらのお客はダメだとなつて、なんだ、日本人か、バカバカしい、彼は料理の情熱がなくなつた。そこであちら名の気のきいた店名なぞ三ツ四ツあれこれ胸にたくはへてゐたのを投げだして、タヌキ屋、これでたくさんだ、お前、お金をもうけろ、もうけたお金は余が飲む、といふやうなわけで、彼はつまり、僕は飲み屋の亭主です、最も一般的な型をとることにしたのである。


          


 富子は結婚してみて、哲学者だの精神的だの、凡そとんでもない、タヌキ屋、なるほど、まさしく宿六は大狸だと気がついた。大狸、大泥棒、まさしく宿六は金銭の奴隷、女郎屋のオヤヂ、血も涙もない、金々々、女房にかせがせておいてお金はみんな自分のふところへ入れ、自分は毎晩大酒をのむが、富子が十円のミカンを買つてたべてもゼイタクだと怒る。二日二晩ぐらゐ怒るのだ。

 哲人は実務にうといなどゝはマッカないつはり、ソロバン勘定にたけ、凡そソツがない、ちよつと料理をしても、富子も相当気転のきく女だけれどもうちの宿六にかゝつてはてんでダメで、庖丁や皿や醤油の壺の置き場所まで無駄足のないやう最短距離の心得によつて並べてあり、なんでもその流儀で、ツと云へばカと云ふ、めまぐるしいほど注意が行きとゞいて、太刀打ちができない。

 そのくせ骨の髄からの怠け者で、たゞもう飲み屋の亭主の一般的な型によつて、麻雀とか碁などで昼を送り、夜は虎になつて戻つてくる。哲学いづこにありや。精神的などゝはもうそんなことを考へたゞけでも富子の方がはづかしくて赤くなるぐらゐ、又、助平なこと、やたらにベタベタ、からんだり吸ひついたり、理想などゝいふものは何一つない。たゞもう守銭奴であり、大酒のみであり、大助平である以外に何もない。

 ベタ〳〵モチャ〳〵いやだつたら、このろくでなしの大泥棒、よその女に好かれるものなら好かれてきてごらん、一度でいゝから、好かれておいで。私はもうお前さんとは寝てやらないから。富子がかう叫んで起き上つて蹴とばしたら、宿六は洟水をたらして半分居眠りながら、人間か。この人を見よ。僕はさう言へる。そんなことを言つた。

 然し富子はうちの宿六はたしかにほんとに偉いんぢやないかと思ふことがあつた。それはつまり、守銭奴で大酒飲みで大助平で怠け者で精神的なんてものは何一つないといふのはつまり人間が根はそれだけのくせに誰もそれだけだといふことを知らないだけなんだ、といふうちの宿六の説がどうも本当にさういふものかしらと思はれるやうな時があるからである。然し本当にさうだつて、本当にさうでは困る。本当にさうだといふことなんか、ちつとも偉くないぢやないか。

 富子は芸者の生態に反感をいだいたことが失敗のもとで、若い美男子の好きなのが自分の本音であり、実際は芸者と同じやうに自分も浮気性なので、だから飜然本然の自分に立ちかへつてやり直してやれ、と考へた。

 そんな考へになつたのは「タヌキ屋」をはじめてお客の接待にでるからで、料理は女中がやる、富子が接待に当る、開店の時は美人女給も一名おいてみたけれども、お客の評判は富子の方がむしろ甚だ好評だから、まんざらではない、結婚して大損した、さういふ気持が強くなつた。

 するとそこへ現れたのは絹川といふ絶世の美男子で二十七になる会社員だ。油壺から出てきたやうなとはこの男で、お酒は一本しか飲まない、お料理は殆どとらない、そして長く話しこんで行く。毎日いらつしやいな、と言ふと、でも貧乏でダメといふから、富子は外のお客から高く金をとつて、値段は書きだしてないから高くとつても分らないので、それで宿六の知らない利潤をあげて、今日は半分にまけてあげるわとか、今日はお金はいらないことよ、とか、だから毎日おいでなさいといふ意味をほのめかしても五日に一度ぐらゐしか来ない。奥さんは美人だなア、とか、教養が高くて僕の始めての驚異の女性だなどゝ嬉しがらせを言つて帰る。然しどうもお酒を安く飲ませて貰う御義理の御返礼といふ感じでピッタリしないけれども、富子はそれを承知の上でなんとなく嬉しい気持になる。

 そこへもう一人現れた。ダンスホールのバンドにゐるというヴヰオリンをひく男で、三十歳、すさみきつた感じだけれども、話してみると子供のやうな純粋なところがある。戦争中は満洲に流れてゐたといふが、まつたく見るからのボヘミアン、内職に闇屋をやつてお金をもうけてゐるなどゝいふのが、信用ができないやうな、何か痛々しいやうな感じがする。病的なぐらゐ透きとほるやうな白い顔で、荒れ果て澱んだ翳の奥に、冷めたい宝石のやうな美しさがたゝへられてゐる。悲しくなるやうな美しさで、よく見るとひどく高雅で、孤独で、きびしい何かゞある。

 瀬戸といふこの楽師は大酒飲みだ。来始めると毎晩きて、とことんまで飲む。かなり収入はあるやうだが、飲む分量が多すぎるから、忽ち借金はかさむ一方だが、そこで富子の心痛がふへた。清人は客の借金を極度に嫌つて、がむしやらに催促させ、借金とりに日参させ、現金でなければ飲ませないと言明せよと脅迫する。まつたく脅迫で、一度でも借金したら、必ずさう言明しろ、借金の支払はれるまでお前の食事を半分に減らせとか、お風呂へ行く小遣ひもくれない。

 けれども富子はなんとかして瀬戸には毎晩来て貰ひたいから、この借金は清人に知らせたくない。清人は深夜に帰つてくるから店のことは知らないが、朝目がさめると前夜の酒の減り方をしらべて売り上げと合はせ、綿密に計算してみぢんもごまかす隙がないから、富子はどうしても外のお客に高く売つてツヂツマを合せたいが、瀬戸の酒量が大きすぎて、とても埋合せがつきかねる。

 スタンドだからチップを置くといふ客もすくなく、おまけに清人が小遣ひをくれず、チップを稼げ、それが腕だ、それで小遣ひをこしらへろ、酒場で働く女のくせに遊んで暮すチップもかせげない奴はバカだと言ふ。一晩に千円のチップを置く奴には接吻ぐらゐさせてもいゝし、一万円おく奴には身をまかせてもいゝ。その代り、接吻と身をまかせたチップは俺が貰ふ。なぜなら俺は亭主だから、女房の貞操を売るのはお前でなくて俺なんだから、と言ふ。清人は相当チップがあるものと考へて、時にはヘソクリを見せろ、少し貸せなどゝ云ふけれども、富子のチップは意外に少く、一月分を合せても瀬戸の一夜の飲み代の半分にも当らぬぐらゐ、そこで万やむを得ず外のお客に法外の代金をつける。それでお客がめつきり減つて、もうゴマカシがつかなくなつた。瀬戸一人の借金を十人ぐらゐの名前にわけて宿六の罵倒脅迫暴力を忍んでゐたが、急に借金の客がふへる一方、売上げがぐんぐん減るから、もとより清人は人一倍鋭敏、これは臭い曰くがあると思ひ、自分は知らぬ顔をして、旧友の一人にたのんで、お客に化けて行かせ様子を見て貰ふ、この旧友が然るに意外のその道の達人で、五日通ひ、瀬戸も絹川の顔も見て、なぜ客が減つたか法外な値段の秘密、みんな隈なくかぎだした。然し胸に一計があるから、すぐさまこれを打ち開けなかつた。

 富子はもうセッパづまつてゐた。宿六には秘密で誰かに身をまかせてお金をかせいでごまかすか、瀬戸とカケオチするか、瀬戸に心がひかれるけれども、絹川の男つぷりも捨てられないところがある、といふやうな気持もある。

 瀬戸はいさゝか酒乱で、泥酔すると、狂暴になるとき、陰鬱になるとき、センチになるとき、皮肉屋になるとき、意地悪になるとき、色々で、然し酔つ払ひはみんな大言壮語、自慢をはじめるものであるが、この男ばかりは自慢といふことをやらぬ。自嘲ばかりだ。その代り人を皮肉り、いやがらせる。そして、必ずエロになり、富子を客席の側へよんで膝へのつかれと言ふ。膝へのつかると、あとはセンチな唄を唄ふばかりで別に何もしないのだが、然し富子は外のお客がゐる前でも、言はれると下のくゞりをくゞつて、膝へのつかりにノコ〳〵出向くから、お客が減るのも当然だ。富子はもうヤブレカブレなのだ。金々々、色だか金だか見当もつかないムシャクシャした気持で、瀬戸さへゐなければ外のお客の膝の上にも乗つかつてチップにありつきたい、然し瀬戸に知れると困る、実際は瀬戸の膝にのつかることではお客は減らず、却つてこれは脈があると、瀬戸のまだ現れぬ時間、なぜなら瀬戸はいつも九時半すぎてくるから、早めに来て、オイ俺の膝にものつかれと言ふ客がたくさんある。お客が減るどころか、却つてそのために一応お客はふへるぐらゐだ。けれど酔つ払ひはブレーキがないから、味をしめて瀬戸のゐる時にもやられると困ると思ふから、大いにチップにありつきたくて仕方がないが、どうにもダメで、やむなく変な風にニヤ〳〵笑つて尻ごみする。そのニヤニヤがなんとなく色好みらしく、その気がある様子に見えてカン違ひをする客もあり、おい泊りに行かうなどゝ札束をみせて意気込んでくる五十男があつたりすると、まつたくもう泊つてやらうか、金のためには何でもするといふやうな気持にもなりかけるほどだつた。恋のためではあるけれども、さしせまつた現実の問題としてはたゞ金で、金々々、まつたく宿六の守銭奴が乗りうつり、金銭の悪鬼と化し、金のためには喉から手を出しかねないあさましさが全身にしみつき、物腰にも現れてゐる感じであつた。

 瀬戸は富子に良人があるかときく。あると答へると、良人ぐらゐあつたつていゝや、俺は口説くんだと言つてみたが、良人は何をする人か、哲学者? え、名前は、そして最上清人ときくと彼の顔は暗く変つた。

「最上清人。その人の奥さんか」

「あら、その名前知つてる?」

「知つてる。尊敬してゐた。僕は高等学校の生徒だつた。エピキュロスとプラトンに就て雑誌に書いてたものを愛読し、今でも敬意が残つてゐる。あの人の奥さんぢや、ちよつと口説いちやいけないやうな気持になつたな」

「あら、瀬戸さんは音楽学校をでたんぢやないの?」

「音楽は世すぎ身すぎといふ奴の心臓もので、元々余技ですよ。おはづかしいが、美学をでたんだ。然しそつちは尚さら余技だな。たゞ一介の放浪者にすぎん。僕の一生には定まる何物もないですよ」

 まつたくこの男は自慢といふことをやらぬから相当つきあつても学歴など知らなかつたので、この時は富子がアッと驚いた。そこでもうこの飲んだくれとカケオチしようか、地獄へ落ちても、あとは野となれ山となれ、一思ひに、にわかに富子はそんな気持にもなつたが、同時に又、するとうちの宿六はやつぱり偉いのかな、さういへばこの放浪者よりはどこかしら自信があるやうに思はれる。

 瀬戸は口では最上さんに悪いななどゝ言ひながち、酔つ払ふと相変らず富子をだきよせる。一思ひに、といふ気持が日ごとにメラメラ燃え立つて激しくなるが、一方にこの放浪者の心の幅が却つて狭く見えてきた。なまじひに学歴などを知り宿六と同列に考へる根拠ができたら、今までモヤ〳〵雰囲気的な観賞だけで済ましてゐられたものが、もつと冷酷に批判的に見る目ができてしまつたせゐで、たしかにうちの宿六よりも幅が狭い。うちの宿六はやつぱり見どころがあるのかな、然し、男つぷりが良きや、それでいゝんだ、カケオチして女給でもして男に酒をのませたり、又、良い男がみつかつたら、それからどうなつたつて構ふもんか、などゝ色々と心が迷ふのである。


          


 清人の依頼で富子の稼ぎぶりを五日にわたつてつぶさに偵察したのは倉田といふこれも哲学くづれの闇屋であつた。この人物は宿六が女房に隠れて浮気をし、女房が宿六にかくれて男をもつのは当り前だと思ひこんでゐるから、タヌキ屋の情勢ぐらゐではビクともせず、これはどうも清人御夫妻どちらも教育の必要がある。教育などゝいふものはこれも愉しみなものだ、などゝ考へた。

 六日目には、彼は昼間まだお客のないうちにやつてきて、

「やあ奥さん、僕はしらつぱくれてゐましたが最上の悪友で倉田といふ者です。最上にたのまれてお店の情勢を偵察といふのが仰せつかつた役目だけれども、どうも奥さんも、まづすぎるな、色男に飲ませてやりたい気持は分るけれども、外の客からあんな法外のお金をとつたんぢや、お客がこなくなりますよ。お金といふものはそんな風に稼ぐものぢやないですよ。社長とか何とかいふ五十男が札束をとりだして口説いとつたぢやありませんか。あゝいふ人物とちよつと昼間かなにか二三時間うち合せておいて、よろしくやつてくるのですな。亭主が疑つたら、そんなこと大嘘と言ひ張るのです。現場を亭主につきとめられて布団の中で二人でねてゐるところを見つけられても、嘘よ、と言ひ張るのです。徹頭徹尾知らぬ存ぜぬと言ひ張るのが浮気のコツなんですな。お金といふものはそんな風にして稼ぐもんです。そして可愛いゝ男に飲ましてやるんですな」

 倉田の忠告はたつた一日遅すぎた。却々なかなか倉田の報告がないので、清人は富子を追及した。富子はムカッ腹をたてゝ、もう堪らなくなつて洗ひざらひ叩きつけて、私はもう瀬戸とカケオチするんだと言つてしまつた。

 よし出て行け、今晩必ずカケオチしろ、さう言ふと富子の横ッ面をたつた一ツだけ叩きつけておいて、いきなり万年筆を持ちだして紙キレへせかせか何か書きだした。おやおや、これが三下り半といふ奴かと思つてゐると、さうぢやなくて、美人女給募集といふ新聞広告の文案だ。これを握つて物も言はず五六杯お酒をひつかけて新聞社へ駈けて行つた。

「そりやまづいな。好きな人があるんだなんて間違つても亭主に言ふもんぢやありませんや。第一あなた、カケオチなんて、こんなバカバカしいものはありませんや。亭主なんてえものは何人とりかへてみたつて、たゞの亭主にすぎませんや。亭主とか女房なんてえものは、一人でたくさんなもので、これはもう人生の貧乏クヂ、そッとしておくもんですよ。あなたも然し最上清人といふ日本一の哲学者の女房のくせに、あの男の偉大な思想が分らねエのかな。惚れたハレたなんて、そりや序曲といふもんで、第二楽章から先はもう恋愛などゝいふものは絶対に存在せんです。哲学者だの文士だのヤレ絶対の恋だなんて尤もらしく書きますけれどもね、ありや御当人も全然信用してゐないんで、愛すなんて、そんなことは、この世に実在せんですよ。それぐれエのことは最上がしよつちう言つてる筈なんだがな。へえ、一日に三言ぐれエしか喋らないですか。もう喋るのもオックウになつたんだな。その気持は分るよ、まつたく。最上も然し酒ばつかり飲んでゐて、なんだつて又浮気をしないのかな。あなたにも最上にも私からそれぞれおすゝめします。そしてあとは私の胸にだけ畳んでおきますから、御両人それぞれよろしく浮気といふものをやりなさい。浮気といふものは金銭上の取引にすぎんですから、まア、ちよつとした保養なんですな。それ以上のものはこの世に在りやしないです。それにしても、かう申上げては失礼だけれど、絹川といふ色男も、瀬戸といふ色男も、どうもあなた、少し役不足ぢやありませんか」

「えゝそれはうちの宿六はたしかに偉いところもあるけど、あゝまでコチコチに何から何まで理ヅメの現実家なんて、息苦しくつて堪らないものよ。恋愛なんてどうせタカの知れたものですから、どうせ序曲だけでせうけどね、序曲だけだつていゝぢやありませんか。私はかう胸元へ短刀を突きつけられたやうな、そんなふうな緊張が好きなのよ。瀬戸さんは飲んだくれで、弱気で、ボヘミアンなんて見たところちよつと詩的だけど、まつたく、たよりないわね。だけど私はもうヤケだから、苦労はするでせうけど、一思ひにカケオチしてやれと思ふわ。カケオチしてからの生活なんて、私は二人の家庭なんてもの考へずに、私がどこかの酒場かなんかで働いてゐる、そんなことばかり考へてゐるのよ」

「いけません、いけません。それは誤れる思想です。酒場で働くなら、こゝに酒場があります。第一あなた、苦労する、苦労なんていけませんや。この世に最も呪ふべきものは何か、貧乏です。貧乏はいけません。これだけは質に置いてもこの地上から亡さねばならぬものですよ。夢を見ちやいけません。幸福とは現実的なものですよ。こゝはあなた自分の酒場ぢやありませんか。こいつを活用しなきや。こいつを捨てゝよその酒場で働いて男を養ふなんてえミミッチイ思想は、ミーチャンハーチャンにはよろしいけれども、最上清人の女房たるものに、なんですか、あなた。こゝは先づ当分は私の指図通りにやつてごらんなさい。差当つて、恋愛なるものは、これは地上に実在しないものですから、この酒場からも放逐することが必要ですな。ちよつと痛いでせうけれど、心を鬼にして、瀬戸、絹川、この両名の色男に退場を願ふ、代つて千客万来、これが先づ大切なんですよ。つゞいて、恋愛でなしに、浮気、これをやりなさい。面白をかしく、人生とは、人生を生きるとは、これですな。それはあなた最上清人は面白をかしくなんて、面白をかしいものなんて在りやしねえと言ふでせうけれど、それは彼に於て大真理ではあるでせうけれど、これが実在するといふことも真理なんですよ。小真理ですかな。人生は断じて面白をかしく在りうるです。先づ、お金です。金々々。最上先生も常にそれを言つとる筈ではありませんか。金の在る無しによつて、人生は全く別な二つの世界に分れます。然し、なんだなア、最上先生みてえに、金々々つて言ひながら、毎日毎日、たゞもう飲んだくれてゐるてえ心理は分らねえ、先生はどうも偉すぎて、何を考へてゐるんだか、手がとゞかねえ。然し、彼は、実際に於て、日本随一の哲学者です」

 富子もその日は朝から心境がぐらついてゐた。出て行けと言はれて以来ひどく不安になつたので、出て行くことゝ、出て行けといふことは、結果に於ては出るといふ同じ事実に帰するけれども、これを受けとる心持には大いに差があり、出て行けと言はれる、なんとなく不安だ。

 うちの宿六はたゞ金銭の奴隷なのだから千客万来がモットーで、ちらと見た広告の文案も美人女給「数名」とある。こんなチッポケな店へ数名は無茶だが、宿六は実際さう考へてをるので、なんでもかでもエロサービス、ついでに自分も数名から代りばんこにサービスを受けるつもりに相違なく、富子が出て行く方がまつたく万事宿六の方には都合がよい。

 一方よければ一方悪しと云ふ通り、出たあとの富子の方はどうも分が悪い。えい、ヤケだ、とか、どんな苦労でも、とか考へてゐたが、宿六の方に分が良すぎるといふことを思ひ知ると、残念で、不安で、追んだされては大変だといふ気持になる。

 まつたく倉田の言ふ通り、亭主や女房は万人の貧乏クヂで、何度とりかへても亭主は亭主にすぎないだらう。ねてゐる現場を見つかつても知らぬ存ぜぬと言ひはれといふ、なるほど、浮気のコツはそのへんか。こゝは堪へ忍んで、瀬戸に退場してもらひ、千客万来、相手をみつけて浮気する。この浮気は始めはもつぱら金のためで、ヘソクリを十万百万とつみかさねて、それから瀬戸でも誰でも構はない、手当り次第に美男子と遊ぶんだ、もうかうなればこつちも金の鬼なんだ、宿六め、見てゐるがいゝ、さういふやうな気持になつた。

 ところが清人はその晩十時頃酔つ払つて店へ現れた。彼はお客といふものは酒のついでに女を口説きにくるものだと信じてゐるから、宿六の姿を見せては営業成績にかゝはるといふ深謀遠慮で、帰宅は毎晩一時二時、たまに店の終らぬうちに戻つてきても、客席へ顔を見せることがない。

 この晩は出て行け、カケオチしろといふ、その実行を促進、見届け役で、開店以来の宿六初登場といふことになつた。

 ところが店にはちやうど又あつらへ向きに瀬戸と絹川が両端に、その中間に倉田がしたゝかきこし召してゐる。両端に色男が二人ゐるから、清人は富子に、おい、ドッチがドッチだ、あゝさうか、あつちが瀬戸さん、こつちが絹川さんか。彼は瀬戸のところへ歩いて行つた。

「君はもうこの店へ来ない方がよいよ。お金のある時だけ来たまへ。然し今までの借金は必ず払つて貰ふから。毎日誰かを取りにやります。お金のあるとき、ある分だけ必ず貰ふ。全部払ひ終るまで毎日誰か取りにやります。君はこの女から借りたんぢやなくて、僕が貰ふお金なんだ。その代りこの女を連れて行きたまへ。君のところへ行きたいさうだから」

「まアまア最上先生、お待ちなさい。色恋の話はもつと余韻を含めて言ふものだ。あなたみたいに、さう棒みたいに結論だけを言つたんぢや、話にならない」

 倉田がかうとめ役にでたが

「いや、僕のは色恋の話ぢやないんだ。単純な金談だ。女のことは金談にからまる景品にすぎない」

「いや、金談でもよろしい。ともかく、談と称し話と称するものは、あなたも喋れば、こちらも喋る、両々相談ずるうちに序論より出発して結論に至るもので、いきなり棒をひつぱるみたいに話のシメククリだけで申渡すんぢや片手落だな。よろしい、ここはかうしよう。金談の方は、これはもう、借りた金は払ふべきものなんで、序論も結論もいらない当然な話だから、こちらの方は相当無理な稼ぎもして、闇屋もおやりのよし承つてゐるから、よろしく稼いで、こゝはあなたの男の意地ですよ、女の問題がはさまつてるなら、金の方はサッパリしたところを見せなきや。それぢや、この話はこれで終つた。次に、最上先生、そこへいきなり附録みたいに女をつけたして言つちまふのは無理だなア。ともかく今拾つてきた女ぢやない、女房なんだから」

「女はみんな女さ。この女が出て行きたい、この人と一緒になると言ふんだ」

「さうは言つても、それが全部ぢやない。金談とは違ふです。男女の道に於ては、一つの問ひに答へる言葉が常に百通りもあるもんですよ。それぐれえのことは、私が言ふことぢやなくて、あなたの専売特許みてえなもんぢやないか。やつぱり事、女房となると、あなたのやうな大学者でも、子供みたいに駄々をこねるんだな。精神も物質です。これより我々は、私はでゝ行きます、といふ物質がちやうどまア石炭みたいに、胸の中のどういふ地層で外のどんな物質と一緒に雑居してゐるか取調べませう」

「心理をほじくれば矛盾不可決、迷路にきまつてるよ。心理から行動へつながる道はその迷路から出てきやしない。話はハッキリしてるんだ。君はこの女が好きか、連れて行きたいと思つたら連れて行け。それだけさ。女もそれを承知だし、僕も承知だ」

「最上先生、はじめてお目にかゝりますが、僕、瀬戸です。僕は十年ほど前、高等学校の時に先生の論文を愛読して、尊敬してゐたのです」

「そんなことを訊いてやしないよ。自分の言ふことも分らない奴に限つて、尊敬なんて言葉を使ひやがる」

「まアまア最上先生、さう問ひつめたつて所詮無理だよ。好きだなんて、あなた、好きとは何ですか。女が好きだなんて、あなた、好きにも色々とありますがね、連れて行つて同棲するほど好きだなんて、そんなものが、あなた、バカバカしい、この世に在りますか。女房を貰ふとか、亭主を貰ふとか、これ実に悲しむべき貧乏クヂぢやありませんか。だからこれはもう万人等しく諦めつゝあるところで、あなた方だつて、これぐれえのところは諦めなきや。これは色恋の問題ぢやアない、諦めの問題なんで、この人と奥さんと惚れたハレた、そんなことが問題ぢやアなくつて、女房といふものはこれはもう何をしても諦めなきやアならん。あらゆる女房には一人づゝ必ず諦めつゝある男があるもので、あらゆる亭主にも亦一人づゝ諦めつゝある女があるです。こんなことを俺に言はせるなんて、最上先生もひでえな。私はもうイヤだよ。よさうぢやありませんか。最上先生もよろしく浮気をなさい。浮気ですよ、あなた。この瀬戸君なんて人は何かね、美学なんてものをやると、恋愛だの私の彼女などと、そんなベラボーなことが言ひたくなるのかな」

「むろん僕は浮気だけさ。美人募集の広告をだしたのは、そのためだ」

「そんなことはムキになつて言ふものぢやアありませんよ。あなたも今日は子供みたいだなア」

「富子さん、何か言つて下さい。最上先生、誤解ですよ。僕は恋愛でも浮気でもないんです。たゞそこはかとなく一つの気分に親しんでゐるだけなんで、僕はつまり精神的にも一介の放浪者にすぎんですから」

「あなたは何も言はなくともいゝんだ。あなたのことは金談だけで、もう話が終つてゐる。借金だけは無理矢理苦面しても払ひなさい。さア、あなたはもう帰る時だ。すべて物にはその然るべき場所と時とがあるものだ。退場すべき時は退場する。私がそこまで送つて行つてあげるから」

 瀬戸は何か言はふとしたが、倉田は腕をとつて外へ連れだして行つてしまつた。

 清人は絹川のところへ行つた。

「帰りたまへ。もう君もこの店へ来てくれる必要はない。オイ、こちらの勘定はいくら?」

 高見の見物をたのしんでゐた絹川は、仰天して蒼白になり、金を払つて、遁走した。

 清人は富子を五ツ六ツひつぱたいて、くるりと振向いて寝に行つたが、すぐ戻つてきて、

「お客から法外な金をとつて店を寂らせた責任をとれ。二号になれ。そして僕に金を払へ。食事は一日に一合だけ、オカユだ。それ以上たべたかつたら、人にたべさせて貰へ」

 言ひすてゝ、酒をのみに出て行つた。

 倉田が瀬戸を電車に送りこんで戻つてくると、富子はワッと泣きふしてしまつた。倉田はさすがに少しも騒がず、

「まアまア、あなた、私にお酒」

 泣く女に容赦なく酒を持参させて、

「私がついてる。軍師がゐるから大丈夫。安心なさい」

 人生が面白をかしくて堪らない様子で彼は再びメートルをあげはじめた。


          


 倉田ほどの達人でも、人生は然し、彼が狙ふほど面白をかしくは廻転してくれないのだ。第一にお金が足りない。飲みすぎて足をだすから、ピイピイしてゐる毎日が多く、闇屋みたいなこともやるが、資本を飲むから大闇ができず、人に資本をださせ口銭をかせぐぐらゐが関の山で、何のことはない、大望をいだきながら徒に他人の懐をもうけさせてゐるやうなものだ。あそこの赤新聞で紙を横に流したがつてゐるといふ。それ、といふので駈けつけて売値をたしかめ、それから諸方の本屋につてを求めて買手をさがして、東奔西走、忙しくて仕方がなくても、売手買手、両雄チャッカリしたもので、口銭はいくらにもならない。

 彼はどうしても資本家にはなれないといふ性格で、さうかといつて社員には尚さらなれない。諸方の会社や資本家にわたりをつけておいて、儲け口を売りこむといふ天性の自由業、まともなことは何一つできない。

 さすがに然し女はたくさんある。タヌキ屋へ女をつれてきて、御両名の見てゐる前で堂々と口説いて、あつぱれ貫禄を見せたこともあるけれども、浮気などゝいふものはハタで見るほど面白をかしくないもので、何のためにこんな下らないところに金を使つちまつたんだか、せつかく骨身をけづつた金をと後悔に及ぶやうなことばかり、イヤ人生は断じて面白をかしいです、などゝ痩我慢に及んでゐるが、実際のところは、倉田達人の人生も万人なみに大したことはないのである。けれども、浮気なんて、つまらんもんです、と言つてしまふと、首をくゝつて死ぬ外に手がなくなるから、人生面白し〳〵金々々と云つて多忙に働きかつ飲みかつ口説いてゐる。

 そこへタヌキ屋事件が舞ひこんできたから、彼はよろこんだ。彼は元々哲学者で、哲学者などゝいふものは天性これ教育者であるから、実際はつまり、自分がやるよりも人にやらせる方が面白い気質で、御夫婦御両名に浮気を指南する、打込んでみると、面白い。尚又面白いのは、タヌキ屋の軍師となつて千客万来を策す、口銭にお酒は安直に飲ませてもらつて、つまり研究室の演習といふ要領で、指南かたがた浮気の演習をやらせる、それが酒の肴で、これは頗る面白い。あげくにタヌキ屋が破算壊滅に及んでも、こつちの身には関係がなく、人生面白し面白し然し彼は外にも忙しい男だからあつちで儲けこつちで稼ぎ、御自身だつてあちこち浮気もしなければならず、まことにどうも多忙だ。

 美人募集の広告が紙上に現れ、最上先生のテストがあつて及第したのが五人、女の子が二人ゐても有り余る店へ五人ならべる、女の方で擦れ違ふのが大難儀、お客のないときは五人ポカンと一列に並んで、それより外に場所がないので、そこへお客が一人で舞ひこんでくると相当の心臓でもブルブルふるへてしまふから、これぢやアいけねえな、と倉田軍師がオコウちやんといふ呆れるぐらゐ愛嬌がよくてお喋りでチャッカリしてゐる二十の娘をつれてきた。これ又さる待合の娘で、目下軍師自ら熱心に口説いてゐる最中なので、それぢやこつちで手伝つてもらつて、どこで口説くのも同じだといふ軍師の思想だ。この娘を戸口の近いところへ置く。軍師のお目がね違はず、女の子がアクビをせずにゐられる程度にお客が現れるやうになつた。

 こゝに哀れなのは富子で、ある日外出先から戻つてみると、着物が全部なくなつてゐる。アッパッパのやうなものが二着とよれよれのユカタのやうなフダン着が残されてゐるだけ、あとはみんな清人が質に入れてしまつた。だいじな常連を怒らせて営業不振をまねいた責任はとらねばならぬ。着物が欲しけりや二号になつて旦那から出してもらへ、と云つて質札をなげてよこした。

「だつて瀬戸さんの借金は瀬戸さんが払ふ筈ぢやありませんか」

「バカ。瀬戸の借金は瀬戸が払ふのは当りまへだ。そのほかにお客が来なくなつた埋合せはお前がつけなきやならないのだ。二号になりやいゝんだ。五六人ぐらゐの男にうまく取り入つて共同の二号になれ。待ち合の娘のくせに、それぐらゐの腕がなきや、出て行くか、死んぢまふか」

 ひどいことを言ひすてたあとは、いつもプイと出て行つてしまふ。

 着物がなければ客席へも出られず、専らお勝手でお料理作り専門で、くゞり戸から腕だけ差出す、マダムはどうしたといふお客にも顔がだされず、これでは二号になるすべもない。

 けれども宿六は富子の顔を見るたびに、二号になつたか、まだならないのか、バカ、と言ふ。外のことは一切喋らない。美人女給もくることになつた。富子は衣裳もちで戦争中はそれだけ疎開させておいたから質に入れて宿六のふところにころがりこんだ金だけでも大きなもの、この金によつて女給を手なづけて口説かうといふ肚がきまつて、もう宿六の思想は微動もしない。これが分るから富子は口惜しい。彼女が出て行けば宿六の勝利は目に見えてゐるが、出て行かなくともオサンドンではもう我慢がならない。どうしても天下有数の二号になつて見下してやりたい。

 まつたく富子はもう羞も外聞もない気持になつて、アッパッパで飛びだして、会社の社長や、問屋のオヤヂや、印刷所のハゲアタマのところへ途中まで歩きかけてみたが、さすがにすくんで、動くことができなくなつて、倉田のアパートへ行つた。ところが倉田はもう三日も家へ帰らぬといふ話だが、留守居の奥方が七ツと五ツの二人の威勢の良い子供をかゝへて愛嬌があつて親切だ。マアお上んなさいまし、そのうちに帰るでせうと言ふので、上つて話しこんでゐるうちに、夜になり、夜中に倉田が帰つてきて、もう帰れないからとその晩は倉田のアパートですごした。

 ところが、倉田は急にタヌキ屋に興がなくなり、白けきつて、殆ど遊びに行く気持もなくなつてゐた。

 一つはオコウちやんなる秘蔵ッ子を差向けたのが手落ちの元で、才腕はあるが、まだ二十の娘で、女といへば芸者しか知らない。花柳界の礼儀で、待合の娘が芸者を遇する仕来しきたり、芸者が待合の娘を遇する仕来り、ちやんと出来上つた枠の中で我がまゝ一杯ハネ返つて可愛がられたりオダテられたり、かつ又経営上のラツ腕もふるつてきたが、タヌキ屋ではダメだ。タヌキ屋の美人女給は事務員やショップガールあがりの二十三四、四五といふ半分泥くさい連中で、いかにも浮気がしたくてこの道へ志したといふ御歴々ぞろひ、最上先生のテストに及第したのも亦そこを見込まれてのことだ。

 オコウちやんと肌合が違ふから、小娘に派手にやられてきり廻されて何かと言はれると腹を立て、余波はめぐつて倉田軍師も煙たがられてなんとなく反目を受ける。

 倉田は軍師たるの地位により役得は当然あるべきもの、たゞで働くバカはない、勤労に対しては報酬がなければならぬ、と考へてゐる。ところが五名の女給は一丸となり、店側の忠実なる鬼の相を露呈して、自ら特権階級を僭称せんしょうする倉田を軽蔑してはゞからぬ如くである。

 オヤヂが金々々と凝りかたまつてゐるから女房のみならず女給まで忽ちカブれてしまふ、ショップガールだの事務員はソロバン高く仕込まれてゐるから金のことになると善悪を超越して守銭奴たることを恥としない。然し骨の髄から金に徹した最上清人は、金に徹すれば徹するほど勤労への報酬はハッキリする筈で、親の心子知らず、仕方がない、最上に打合けて女給の魂を入れかへて貰はなければ、と、碁会所の彼をよびだして一杯のんで、勤労と報酬に就て一席弁ずる。然し全然手ごたへがない。

「本当に金銭を解する者にはタダ働きといふことはないよ。そもそもお金をもうける精神とは勤労に対して所得を要求する精神で、これこれの事にはいくらいくらの報酬をいたゞきたい、とハッキリきりだす精神だ。靴をみがゝせても三円。金銭の初心者は人にタダで働かせて自分だけ儲けたがるものだが、こいつは金銭の封建主義といふ奴で、奴隷相手の殿様ぢやアあるまいし、現代には孤立して儲けるなんて絶対主義は成りたゝない。この道理を解さなければ、味方といふものが一人もなくなる」

「うん、僕は味方が一人もゐない方がいゝ。僕は金銭は孤立的なものだと信じてゐるんだ。僕は君に女房のこと、店の情勢を偵察してくれと頼んで、それに対しては報酬を払つた筈だが、それから先のことまでは頼んだ覚えがない。頼まないことには報酬を払ふ必要はない。金銭には義理人情はないから、僕の方から頼まないのに靴をみがいたつて、お金をやる必要はないね」

「そんな風に人生を理づめに解したんぢや、孤影悄然、首でも吊るのが落ちぢやないか。万人智恵をしぼつてお金儲けに汲々たるのが人生で、たのまれない智恵も売つて歩く、これがカラ鉄砲なら仕方がないが、当つた時には報酬を払つてやらねばならん。かういふ智恵の行商人、智恵の闇商人といふものを巧みに利用するのが、金銭を解する者といふのだ。信長だの秀吉てえ人々はかういふ智恵の闇商人を善用した大家なんだな。ここの理窟を解さなきやア」

「僕は解さないね。僕には信長や秀吉ほどの夢はないからさ。夢は負担だね。僕の限度と必要に応じて取引するだけで結構ぢやないか」

「だから、それがだよ。限度だの必要に応じてと云つたつて、そんな重宝なものがどこにありますか。失礼ながら、最上先生は必要に応じて取引して所期の目的を達してゐますかな。猿面冠者さるめんかじゃが淀君を物にするには太閤にならなければならなかつたが、むろん太閤だつて蒲生氏郷がもううじさとの未亡人や千利休の娘にふられる、だから本当の限度はきりがない。けれどもともかく狙つた女の何割かは物になるてえ限度はあつて、この限度はつまり国持大名だな。これを今日で言ふと、恒産あり、といふことだ。失礼ながらタヌキ屋の御亭主は未だ一城一国のあるじとは申されませんな。足軽ぢやアねえかも知れねえ。ともかくタヌキ屋てえノレンの亭主なんだから、三四十石とりのサムライかも知れないけど、どうもまだパッとしない貧乏ザムライで、女の苦労よりも暮し向きの苦労が差し迫つてるやうなところだらう。だから、あなた、ともかく、大名にならなきや、ダメですよ。国持大名にならなきやア。あなたが今どうあがいてみたつて、必要に応じて取引して、マル公で通用しやしませんよ。マル公で通用させるにやア、国持大名の格てえものがなきやア、私があなたに入れ智恵するのはその理窟で、あなたは目下三四十石のサムライ、私は足軽。私はあなたを国持大名にして、私はせめて家老ぐらゐに有りつきたい、ねえ、さうぢやありませんか、持ちつ持たれつといふものです」

「君は正統派なんだな。古典派なんだよ。僕はちかごろはやりのデフォルメといふ奴なんだらう。それに現実の規格が生れつき小さいのさ。僕は総理大臣が美妓を物にしようとフラれようと生れつき関心の持てない方で、貧乏な大学生が下宿の女中とうまくやつたり八百屋のオヤジが三銭五厘の大根を三銭にまけてやるぐらゐでどこかの女中やオカミさんとねんごろになつたりするのばかりが羨しいタチなんだよ。だから目下のタヌキ屋の貧乏世帯でやりくり浮気するのが性に合つてるんだ。君とは肌合が違ふんだ」

「いけねえなア、さう、ひねくれちやア。最上先生の思想が如何に地べたに密着して地平すれすれに這ひ廻るにしても、人間が国持大名を望む夢を失ふといふことはない」

 と倉田が慨嘆してみても、彼はアクビひとつせず、俺は貧乏な大学生が下宿の娘とうまくやるのが羨しいのだ、とうそぶくのだから手がつけられない。

 だから彼はもう軍師の情熱を失つて、オコウちやんにも、もう止しなさい、あなたがいくら働きを見せたつてそれに報いてくれる人ぢやアないんだから、ムダですよ、と言つたが、オコウちやんが又奇抜な娘で、いゝえ、私はもうそんなのが目的ぢやアないのよ、五人の女給さんに一泡ふかせてそれからやめるわ、それまで、ゐるから、と言ふ。知らねえや、勝手にしろ、と倉田はもうタヌキ屋の方へはめつたに現れず、東奔西走、持ちつ持たれつ家老の口といふ奴をあちらこちらに口をかけて極めて多忙にとび廻り飲み廻り口説き廻つてゐる。

 倉田は富子の涙話に長大息。

「そいつは、いけないねえ。それでも思ひとゞまつて、しあはせですよ。アッパッパで、小さくなつて、私を二号にしてちやうだいよ、なんて、それぢやア、あなた、闇のチンピラよりも安く値切り倒されてしまふですよ。ともかく着物をなんとかしませう」

 とオコウちやんにたのんで、着物をかしてもらつた。ところが富子が着物を失つてお勝手専門になると、お勝手は二人ゐらない、と女中に暇をやつてしまつた。そこで富子が店へでると、今度は女中の手が足りない。

 するとその晩偶然倉田について飲み廻つて一緒にとめてもらつた青年がある。彼も元来哲学生で、卒業まぎはに召集されて大陸でぶらぶら兵隊生活をして戻つてきたが、闇屋のかたはら小さな雑誌の編輯など手伝つてゐるうちに倉田と相知り、傾倒して彼を先生とよび、始めて偉大なる思想家に会つたと大いに感激してゐる。

 富子の語る一部始終を耳にして、よろしい、そんなら、僕がお勝手をやりませう、と申しでた。

「おい、君も困つたオッチョコチョイだな。お料理なんかできるのか」

「兵隊のとき、大陸でやりましたよ。豚をさいたり、蛇をさいたり、イナゴのテリヤキ、なんでもできますよ」

「そんな荒つぽい料理はいけない」

「いえ、学問の精神は応用の心がまへなんで、わけはないです」

「心がまへと経験は違ふよ。第一君、高級料理から下級料理への応用てえのは分るけれども、蛇とイナゴの方からウナギやエビへ応用をきかせるわけにはいかねえだらう」

「次第に間に合ふものですよ。まア、たべて見てごらんなさい。兵隊は食通です」

「そんなものかな。俺は知らねえけど、危ねえもんだな。それに君、最上先生は君に充分の報酬をくれる筈はないのだから」

「いや、よろしいです。こつちは闇屋渡世でほかに儲けの口はありますから。料理の手腕で、今までのコックが三十円の原料で五十円の料理を作つたものなら、僕は十五円とか十円で五十円の料理をつくる。その差額でタヌキ屋のカストリ焼酎を四五杯のんで引き上げてきて、眠るですよ」

「その思想はよろしい」

 といふので、コックもできた。そこで店には美形が七人居並び、楽屋にはコック一名、このコックが、いつたい哲学者は浮世離れがしてゐるなどゝは、いづこの国の伝説だか、彼が又実に発明、ひどい奴で、よそのうちのハキダメから野菜だの何だの切れはしを拾ひあつめてマンマとお客に食はせてしまふ。そこは哲学者だから、天機もらすべからず、腹心のマダム、女給にも口をぬぐつて、ひそかによろしくやり、毎晩カストリ七八杯傾けるだけの通力を発揮してゐる。


          


 借り着に及んで店へでたが、富子のやうに金銭にやつれてしまふと、借り着まで如何にも借り着といふやうに板につかなくなつてしまつて、心に卑下があるから、その翳がそつくり外形へ現れて、どことなく全てに貧相で落附きがない。

 それになんとか二号の口にありつきたいといふ身にあまる焦りがあるから、いかにも哀れに、いやしく、飢え果てゝガツガツした感じがつきまとひ、昔の颯爽たる面影はなくなつてゐる。

 知らないお客はとてもこれがマダムなどゝは思はれず、最も新マイの半分色キチガヒではないかなどゝ思ふほど、落附きなく、アハヽと笑つたり、オホヽと笑つたり、妙に身体をくねらせてニヤニヤしたり、この人の本来を知る者にとつては、まことにどうも見るに堪へない。

 かうなつては宿六たるもの女房が蛆の如くに卑しく見えるから、顔を見るたびに出て行け、としか言葉がない。五人の女給を代りばんこに口説いてみたが、フゝンと笑つて逃げたり、アラいやよ、すましてくるりと振向いたり、いけませんよ、と叱られたり、見事に問題にならない。

 次には手を代へて、改めて代りばんこに話を大きく持ちかけてみたが、着物を買つてあげるからといつた相手は、アラ、マダムの着物を質においたお金でゞすかと言ひ、お店を持たしてあげやうと言つた相手は、三十万ぐらゐなきやダメよ、とニヤニヤてんで取り合はない。温泉へ行かうと誘つた相手は、私もう温泉へ一緒に行く人あるのよと軽く一蹴されてしまつた。

 世界に女が五人だけしかゐないわけではないから、最上先生、驚きもせず、金さへありやアいゝんだ、倉田の言ふ通り、豊かでないのが知れてゐるからかうなるので、女房の着物をはいでミヂメなところを見せたのなんぞは特別まづかつたが、本当に金も欲しかつたんだから仕方がない。クヨクヨすることはない、奴らが揃つてその気持なら、こつちは奴らに稼がせて儲けて、儲けた上で、美人女給は広告一つで集つてくる。マスターの口説は柳に風のくせに、みんなそれぞれ二三人はいゝ人ができてよろしくやつてゐることが知れてゐるから、そねむ心は仕方がない、それならそれで、いゝ人のふところからしぼつてやるまでだと、

「よそぢや、ビール一本二百円から二百八十円で売つてるから、うちは明日から百九十円にするんだ」

 とそれだけ言ひすてゝ寝てしまつた。富子も困つて女給に相談すると、女給もそれぢや気の毒で客にすゝめられないからと、碁会所から最上にきてもらつて交々たのむが、百九十円ならよそより安いんだと受けつけない。

「だつてそれはカフェーの値段でせう」

「カフェーぢや、お通しづき三百五十円から五百円まであるんだ。女のお給仕のついてる店、小料理屋、ちよつとしたオデン小料理で二百円なんだから、百九十円ならよそより安い。客に悪くて売れないなんて、猫の目のやうに変る相場を知らず、生意気なことを言ふもんぢやない」

「だつて仕入が八十円ぢやありませんか。よその相場の比較よりも、仕入れ相当に売つて、よろこばれたり儲けたり、それが商売のよろこびぢやありませんか」

「相場よりも十円安けりやオンの字だ。仕入れの安価は僕の腕なんだから、それを売るのが君らの腕ぢやないか。僕の腕にたよつて、楽に商売しようといふのは、怪しからん料見だらう。それで厭なら止すがいゝ」

 言ひすてゝプイと消えてしまつた。一同茫然たるとき、調理場でゴミダメのクズを煮込んだり整理してゐたコック先生、そのころはもうどこで手に入れたか白いシャッポに白の前だれなんかをしめて、ヤア、みなさん、とはいつてきた。

「僕が明日から安いカストリを仕入れてくるから、それを主として常連に売つて、売切れたら店の品物を売る。ビールやお店のお酒はお値段を前もつて申上げて御覚悟の方だけ飲んでいたゞくのさ。僕が毎日カストリ五升づゝ仕入れてきて御一同に千八百円で卸すから、それを三千五百円なり四千円也で売つても、あなた方七人で割つて一人あたま三百円ぐらゐのもうけになる。この儲けはワリカンで辛抱しなさい。腕次第のもうけはチップの方でさあ。こゝの大将の儲けなんぞは、そのおこぼれでたくさんだ。店がはやつてくれば、カストリの方は一斗でも二斗でもその他ウヰスキーでも僕が仕入れてきますから。いかゞです、この案は」

 アラ大賛成、と富子がまつさきに喜んだ。三百円でも自分のもうけがあるなどゝは夢のやうだからである。十一時になるとコック先生早目にカストリのカラ缶をぶらさげて引上げてしまふ。彼は五升を六百円で仕入れてくるから、九百円もうかる。然し元値は千五百円で、あなた方なみに三百円しか儲からない、犠牲的奉仕だと言つておく。

「ビール、酒が高すぎる、こゝのカストリも高すぎるてんで、みんなよそで飲んできて、こゝぢや、めてゐるばかりで、もつぱら女を口説いてますな。女で酒を売らうとすると得てしてコレ式になるもんでしてな」

 とコック氏が素知らぬ顔で大将に言ふ。すると女給も富子も大将の顔を見るたびに、

「飲み物、値上げしたら、全然のまなくなつちやつたのよ」

 と、こぼしたり、

「いつそ、コーヒーでも置いたら?」

 などゝ言つてみたりする。

 売り上げは値上げ前の三分の一から良い日でも半分に落ちてゐる。どうせ一本二本しか飲まないなら、百円のお通しをつけて、カストリ百五十円、日本酒二百円、ビール三百円にしろ。御無理御もつとも、困つたな、と顔をしかめて、然し、一同、もう内心は平然たるものである。

 二人づれのお客にはお通しつきを一つだけ無理してもらひ、三人づれには二つ、一人でくるお常連は二日目か三日に一度無理してもらう。あとはカストリのサービス。これが当つて、今日は二つ無理してやるよ、といふ人もあるし、ナニ、俺は三ツ無理してやる、アラいゝわよ、さう無理しなくつても。全く、無理しても女人連は内心よろこばないので、カストリの売れる方がよい。近頃ではコック氏は自転車を新調して一斗五升のカンカラカンをつみこんでくる。お通しの売り上げも十五人前から三十人前ほどもでる時があるが、かうたくさん大将に儲けさせる手はないからカストリのお通しはもつぱらコック氏のカンカラカンから捻出して、大将の所得は平均してお通し十人前、といふところ、これでも昔日の比ではない。

 最上先生ほくそゑんで、まア、これぐらゐにいけば一日に純益千五百ぐらゐあり、女給の給料や諸がゝり差引いて千円は残るから、毎日のんだくれてもカストリで我慢してりや一年に十万ぐらゐ残るだらうと、計算してゐる。

 ところがお店の連中の儲けはそれどころぢやない。先づコック氏はカストリの純益千八百円、女人達は九百円づゝ、これにカストリのお通しが平均して一日に二千円あつて、これをコック氏も入れて八ツに割り、結局コック氏二千円、女人連千円余、それに女人連にはチップがあり、コック氏にはハキダメの屑の上りがあつて、おまけに給料も貰ふのだから、大将よりも利益をあげてゐるのである。

 かうなるとコック氏の人気は素ばらしい。富子は自然お金がもうかつてみると、無理矢理ハゲアタマの二号になることはないのだから、コック氏みたいなたのもしい人物と一緒になつて今の宿六をギャフンと云はせてやりたいと考へた。女人連は女人連で各自浮気にいそしんでゐるが、さて浮気といふものも、やつてみると、さのみのものぢやアない。もつと何か心棒のある生活がしてみたい。この男ならといふので、それぞれコック氏に色目を使ふ。

 然しさすがにコック氏は倉田大達人の弟子であり、浮気などは女房と同じぐらゐつまらぬものだと知つてゐる。目先の浮気などよりも、一城一国のあるじ、国持の大名になるのが大功なんだと、彼は齢が若いから理想主義者で、倉田が自ら考へながら為し至らざる難関を平チャラに踏みこす力量を持つてゐた。

 彼は観察して、オコウちやんの人気は抜群であり、愛嬌もお客のあしらひも、金勘定のチャッカリぶりも、顔も姿も第一等で、浮気心もまだ知らない。そこで白羽の矢をたてゝ談判すると、オコウちやんも彼の手腕に魅了されてゐるところだから、意気投合、然し利巧な二人だから、誰にさとられることもなく、資金ができ、マーケットの一劃に店をかり、大工を入れて万事手筈がとゝのひ、愈々開店となつてお客に発表、手に手をとつて消えてしまつた。

 カストリの卸元が引越したから、残された女人連だけでは、あとが続かない。お店のお通し付きばかりでは元より商売にならない。そこで旬日ならずして、他の店へクラガヘの者、お客と一緒になるもの、五人の女は一時に消え失せ、残されたのは茫然たる富子たゞ一人。

 今まで心を一つに働いてゐた。敵は大将たゞ一人、あとは戦友のやうなもの、うらはらなく打開けてたのしく日々を暮してゐた筈であるのに、たのむコック氏はオコウちやんと手に手をとつてアッといふ早業であり、残る女人連もヒソヒソ五人同志で相談しても富子には相談しかける者もなく、あなたはどうする、と訊いてくれる者もない。自分達だけ話をきめて、さよならとたゞ一言、みんな消え去り、富子だけ置いてきボリをくはされた。

 みんなに裏切られ、置いてきボリをくはされ人情の冷めたさに泣いたあとで、気がついたのは、こゝは自分の家だといふこと、自分の家とはこんなもの、路傍の人情よりはいくらかマシだといふやうなセンチな気持になつた。これが失敗のもとで、一部始終をうちの宿六に打開けたから、いけない。

 宿六はきゝ終ると、静かに顔をあげて

「おい、ヘソクリをだせ」

 富子はアッと顔色を変へて

「アラ、オコウちやんから着物を三枚も買つちやつたわ」

「バカ。あれから四月にもなるんだ。着物の三枚ぐらゐ買つたつて、十万以上残つてゐるはづだ。こゝだな」

 と、箪笥や戸棚のヒキダシやトランクをかきまはし、ナゲシの隙間や畳をめくつてみたが分らない。久しく使はない冬の布団をとりだして縫目を解いて綿の間をしらべても見当らない。

「うちに置いてないのよ」

「どこにある」

「倉田さんの奥さんに預けてあるのよ」

 もとより嘘にきまつてゐる。執念の女がヘソクリを人に預けて安眠できるものではない。

「私の稼いだお金だもの、私のものよ」

「バカ。営業妨害だ」

「だつてあなたの営業方針なら、あなた自身の売上げだつて今より不足で、とつくにお店はつぶれてゐた筈よ。私たちのおかげであなたも儲けてゐたのだから、自業自得ぢやありませんか。口惜しかつたら、あなたもコックさんのやり方で、安直にやり直して、もうけるがいゝぢやありませんか。私たちが心を合せて、新に女給を募集して、うんと儲けてやりませうよ。ねえ、あなた」

「ぢやア、お前すぐ新聞社へ行つてこい」

「あら、あなたよ」

 宿六は委細かまはず、広告の文案を書いて女房につきつけて、

「すぐ行つてこい」

「イヤ」

「行かないか」

 たまりかねて、五ツ六ツ、パチパチとくらはせる。富子がこれだけねばるのだから、ヘソクリはこの家のどこかしらに必ずある。ふと気がついたのは、春先の安値に買つた四ツの火鉢だ。それを押入の奥へ積み重ねてある。あの灰の中が怪しい。

 やにわに押入をあけて火鉢に手をかけると富子が腰に武者ぶりついた。富子を蹴倒しポカポカ殴つて延びさせておいて奥の火鉢をとり下す、とたんに富子が忍び寄つて足をさらつた。ひつくり返る胸の上に火鉢の灰が傾いて札束が見えたのが最後であつた。富子が灰をつかんで宿六の眼の中へ押しこんだ。チラと見た札束を最後にして、宿六の眼は暗闇の底へとざゝれてしまつた。

 富子は着物をきかへる。宿六は七転八倒、途中に正気づいては大変と、もう一つの火鉢の灰を頭からぶちまけて、眼も鼻も口も一緒にグシャ〳〵灰を押しこんでやる。ゆつくり着物をきかへて、奥の二つの火鉢から十万ほどのヘソクリをとりだして、着物や手廻りの物と一緒に包みにした。

 宿六はお勝手へ這ひ下りて、まさに水道をひねらうとしてゐる。出がけにもう一握りの灰を鼻の孔にぶつかけ、オカユのはいつた鍋を頭へグシャリとかぶせて、とびだした。


          


 最上清人は店をしめて、ひねもす飲み暮してゐた。店では一週間用ぐらゐの酒類が、一人で飲むと却々飲みきれない。夜になると外へでゝ、千鳥足で戻つてきて、万年床へもぐりこむ。飲む金がなくなつたら、首をくゝつて死ぬつもりなのである。そのくせ一日に七八回胃の薬を飲み、胃袋を大切にしてゐる。

 死を決して、思ひ当つた思想といふやうなものは、別にない。たゞひつくりかへる灰の下からチラと顔を見せたあの札束が残念だ。富子の奴はあの札束でどこで誰と何をしてゐやがるか、札束だけが残念でたまらない。セッカチはどうもいけない。ハハア、火鉢だなと、気がついたら、素知らぬ顔、長期戦で店の酒をのみ家から一歩も離れずねばつてやる。そのうち富子が便所ぐらゐは行く筈で、その時便所を釘ヅケにしてもよかつたのである。かう思ふと、残念でたまらない。

 店のお客がきて戸を叩いたり、倉田がきて、最上先生、ゐないかね、と怒鳴つたこともあるが、知らぬ顔、戸締りをして、主要なところは釘づけにして、酒をのんだり、万年床にごろついてゐるのだ。

 二ヶ月あまりで店の酒類も飲みほしたが、彼のヘソクリも終りを告げるところへ来てしまつた。然しまだ店を売るといふ最後の手段が残つてゐる。これより、この店を飲みほすと思ふと、なんとなく胃袋に手ごたへのあるやうな爽やかな気もする。その代り、いつたい、どこで首をくゝつたらいゝのかな、とバカなことを心配したもので、街路樹へブラ下つてもいゝではないか。焼跡へ行くと、風呂屋だか工場の跡だか煙突のまはりに鉄骨のグニャ〳〵してゐるところがあるから、あの鉄骨へブラ下つてもいゝ。

 もう冬がきてゐた。彼は皮のヂャムパーをきて、マーケットのコック氏とオコウちやんの店を探し当てた。商用にきたのだ。店を売らうといふのだが、昔のナジミでいくらか高く買ふだらうと思つてゐたのに、どう致しまして、彼が一式居ぬきのまゝ三十万といふのに、コック氏は七万なら、と言ふあつぱれな御返事。するとオコウちやんが横から、あそこは場所が悪いから、いやだわ、などゝ足もとを見て、いぢめぬく。

 ちやうど倉田がきてゐた。

「店を売つちやうのかね。残念ぢやないか。店さへありや、一花さかせるのはワケない筈なんだが、店を売つて何か別の商売やるのかね」

「それを飲みほして、首をくゝるのさ」

「なるほど。それもよろしい。然し、なんだな。ちと芸のないウラミもあるな。芸といふものは、これは人生の綾ですよ。誰だつて、ほつときや自然に死ぬんだから、慌てゝ死んでみなくたつて、どうも、なんだな、お金がないからお金をもうける、女がないから女をこしらへるてえのは分るけど、お金がねえから自殺するてえのは分らねえ。ぢやア、どうだらう。最上先生、私がお店を買ひたいけど、お金がないから、私に貸してくれねえかなア」

「貸してもいゝよ。毎月三万円なら」

「三万円も家賃を払ふぐらゐなら、誰だつて買ひますよ」

「僕は月々三万円いるのだ」

「するてえと、最上先生の言ひ値で店が売れて、十ヶ月の命なんだな。オコウちやんの買ひ値ぢやア、二ヶ月と十日か。人殺しみてえなもんだなア。俺なんざア、一夜にして全財産を飲みほしてあしたのお食事にも困つたり、オコウちやんを彼氏にしてやられても、酒の味がだん〳〵うまくなるばかりで死ぬ気になつたことなんぞは一度もないけど、最上先生の思想は俺には分らねえ。ぢやア、かうしちやアどうだらう。オコウちやんにタヌキ屋の方へ支店をだして貰ふんだな。私を支配人といふことにして、店の上りの純益六割はオコウちやん、二割づゝ、支配人の給料と家賃てえのはどうだね。これはけだし名案ぢやないか」

「だめですよ。先生みたいな支配人、無給だつて雇ふものですか」

「さう言ふものぢやアないよ。それはオレはハキダメから料理をつくる腕はないけど、タヌキ屋の店なら一夜に平均してカストリ二斗、これだけは請合ふ自信があるです。カストリ二斗といふ請負ひ制度で行かうぢやないか。二斗以上の純益は私のもうけ、二斗以下の日は私の給料から差引く。いかゞです」

「お勘定」

「いけねえなア。最上先生、たまに会つて、呆気なく別れたんぢやア、首くゝりに出かけるところを引きとめなかつたみたいで、寝ざめが悪いよ」

「僕は商用にきたんだ」

「相すまん。最上先生の商用を茶化すわけぢやアないんで、あはよくば私も一口と思つたんだが、オコウちやんが相手ぢやア。こんなところへ商用に来るてえことが、最上先生は決定的に商才ゼロですよ。こゝに於て商談は中止に及んで、もつぱら飲みませう。首くゝりも最上先生の商談のうちでせうから、すでに拙者はとめないです。首くゝりも商用てえのは、意気だなア。首くゝりが意気てえわけぢやないけれど、人生、なんでも商用、なんでも金談てえのが、たまらねえな。然し、だんだん身の皮をはいで首くゝりへ近づいて行く商用てえのはあんまりイタダケないやうだけど、これが浅はかな素人考へといふのだらう。私は然し、最上先生には一つだけ足りないものがあると思ふな。それはつまり浮気は宗教である、といふ思想に就てゞすな。即ち浮気は宗教であるですよ。キリストも釈迦も説法をやるです。これ即ち口説くどきですよ。衆生済度しゅじょうさいどといふですな。浮気も即ち救ふといふことです。口説は即ち女人を救ふ道ですよ。浮気によつて救ふ。肉体によつて救ふ。口説のカラ鉄砲といふのは、いけねえな。一万円あげるとか、お店をもたせてあげるとか、嘘をついて女を口説いてはいけないです。金なんかやる必要はない。有りあまるムダな金ならやつてもいゝが、無い金を有るやうに見せかけて女を口説かうなんてえのは、いけない。遊びとか浮気は、それを為さゞるよりは面白い人生なんだから、よつて我々はそれをやりませう、とかう言ふです。私はその真理たる所以を信じてゐるから、私が女を口説き、女がそれに応ずることによつて、女は救はれるといふことを信じてゐるです。即ち私の浮気精神はキリストなんで、最上先生の浮気はキリストぢやアねえな。こゝのところが最上先生に足りねえから、最上先生は首をくゝる。仏教に於ては孤独なる哲人を声聞縁覚しょうもんえんがくと言ふです。彼等は真理を見てゐるが、人を救ふことを知らんです。よつて、もつぱら自分を救ふ。何によつて救ふかといふと、死によつて救ふ。真理をさとる故に自殺するです。それは死にますよ。人間は生きてるんだからな。生きてるてえのは死ねば終るから、真理を見れば、死ぬ。死ぬてえぐれえ真理はねえや。つまらねえもんだよ、真理てえものは。そこで、これぢやアいけねえな、といふので、印度に於ては菩薩といふものが現れた。これは色ッポイものだ。孤独なる哲人はいけねえといふので、菩薩の精神はもつぱら色気です。人を救ふといふのは、これ即ち色気です。人生は色つぽくなきや、いけねえ。色ッポイてえのは何かといふと、男ならば女を救ふ、女ならば男を救ふ、これ即ち菩薩です。浮気てえものは菩薩なんだ。たゞあなた、金をしぼらうとか、女をものにしようとか、それは印度の孤独なる哲人の思想ですよ」

「考へなきや、いゝんだよ。そんな風に考へて、言つてみたいのかね。言葉なんてものは考へるために在るんぢやなくて、女を口説いたりお金をもうけるために在ればいゝのさ。死なんてものは、言葉の上にあるだけだ」

「喋るのがオックウになつちやアいけねえなア。ムダな言葉はいけねえと言つたつて、女を口説くにも、やつぱりあなた、情緒といふものが必要ですよ。女人に向つて、この道は佳き道だから余にしたがへ、と言ふ。真理は明快だけれども、オ釈迦サマなら方便とか、救世軍なら楽隊とか、こゝに芸術てえものがあるんだね。芸術てえものは、ムダなもんだ。あなたはムダがねえから、お金の裏が首くゝりなんだなア。然し、あなた、お金の裏はお金、女の裏は女、きまつてるな、これが生きるといふことだ。生きることには、死ぬてえことはねえな。あゝ、さうさう、この店へは近頃毎晩富子さんが現れますよ。例の彼氏、美学者と一緒にね。目下ダンスホールの切符の売子で、彼氏と同じ屋根の下の伴稼ぎなんだが、近頃はなんとなく、口説いてみたいやうな色ッポサがでゝきたね。あなたと一緒の頃のあの人は口説く気がしなかつたけど、つまりなんだなア、あなたの思想は自分の女房まで色ッポクなくさせてしまふんだから、最も孤独なる哲人は、最もヤキモチヤキのやうなものかな。然し、女房といふものは、万人に口説かれるぐらゐ色ッポク仕込まなきやアいけねえのかも知れねえなア」

 そこへ富子が瀬戸と並んでやつてきた。昔の宿六を見て、アラ珍しい人が来てるわネエ今晩は、と言つたが、富子がこの店へ瀬戸と並んで毎晩くるのは、実は昔の宿六に、二人お揃ひのところを見せつけてやりたいからだ。

 けれども近頃、富子は再び貧乏が身にしみてゐる。十万円握つて瀬戸のところへ駈けつけたまではよかつたが、宿六が追ひかけてきて取り戻されては大変と、温泉へ瀬戸を誘つて豪遊したから忽ちにして文無しとなり、伴稼ぎを始めたが、瀬戸の飲み代で青息吐息、ちつとも面白くない。一緒に飲みにくるのは、昔の宿六に見せつけたい魂胆の外に、三杯ぐらゐで切上げて帰らせるためだが、すると美学者は途中で富子をまいたり、引ずつたり引ずられたり、なぐつたり、なぐられたり、もう一軒、もう一杯と立ち寄つて、とゞのつまり家へ戻ると、ひねもす喧嘩に日を暮してゐるなどゝは、誰も知らないだけの話なのである。富子は肚の中では、どうしてかう宿六運が悪いのだらう、今度はあの絹川といふ色男のところへ押かけてみようか、いつそ社長のハゲアタマの二号に押しかけてみようか、色々と考へてゐる。

 最上清人はポケットから手帳をだして調べてゐたが、顔をあげると瀬戸の方に向つて、

「君の借金がまだ九百六十五円あるから、今日いたゞかう」

「どうも、すみませんでした。今日は実は持ち合せが不足なんで」

「ぢや、外套をぬぎなさい」

「さうですか、ぢやア」

 瀬戸が立上つて外套をぬいだ。

 そのとき私がこの飲み屋に居合せたのである。私は見たまゝ逐一を書く必要はないだらう。馬鹿げてゐるのだ。大づかみに結末だけおつたへしておかう。

「これで千円借して下さい」

 と言つて、瀬戸がオコウちやんに外套を差出した。この外套は彼の満洲生活の記念品だから品物は立派で、千円のカタにはなるからオコウちやんは千円貸した。

 最上清人は千円をポケットへねぢこんで、三十五円のおつりをおいて、そのまゝブラブラと、ポケットへ両手をつッこんで、ゐなくなつてしまつた。倉田が何か言つたが、彼は返事をしなかつた。

 瀬戸が帰るとき、外套をぬぐと寒いな、すると富子が大声で、寒むさうねえ、可哀さうねえ、と云つたが、オコウちやんは一心不乱にオツリを数へてそれをハイ、アリガトウと差出したばかり、瀬戸はクスリと笑つて、ぢやア、又と二人は外へ消え去る。

 要するに私が見たといふのは、たゞそれだけのことなのである。その日から私はこゝで飲むことにした。ところが三日目に、この店でも変つたことが起つた。

 オコウちやんはもうオナカが大きくなつてゐた。すると宿六もすでに一国一城のあるじとなつたから何百年前からの仕来りでダンサーをお妾にしてよろしくやつてゐたのをオコウちやんが嗅ぎだしたから、覚悟をしろと、百万円ほどの札束をさらつて大学生と駈落に及んでしまつたのである。

 私は聴いたまゝ見たまゝ有りのまゝ書いたゞけの話で、これからどうなるのやら、幸、不幸、誰の運命も分らない。

 私が小便から戻つてきたら、置き去られの宿六先生、コックと給仕人と両方忙しく立廻りながら、

「これぢやア又、ハキダメからやり直さなきやアいけねえ。気を悪くしねえで、しばらくつきあつて下さいよ。ヘエ、お待ち遠」

 と一心不乱であつた。



失恋難



 オコウちやんに逃げられた落合天童の飲み屋では、さすがに天童いさゝかも騒がず又ハキダメの要領でせつせと再興に乗りだす。オコウちやん狙ひの客は姿を消したけれども、お酒さへ安く飲めりやいゝんだといふ新客が次第にふへて今では昔日の隆盛をとりもどしたから、コックにバーテンに接客サービス、天来の敏腕家も手が廻りかねる。けれども夫婦共稼ぎとか、愛人をサービスにだすとか、お客は酔へば見境ひなく女を口説く性質のもので、家庭とビヂネスの境界線が不明となり、まことによろしくないものだ。美人女給といふものも甚だ月並なもので、御亭主と懇ろになれば店に居つくが、さもなければ、いつ誰と消え失せるか、ヒモがついたり、無断欠勤の温泉旅行等々、わがまゝ無礼、元来この節の日本人の飲み助どもときては、女よりは酒、少しでも安く酒、たゞもう欠食児童なのだから、女などあてがうのはモッタイない。なまじ美女など坐らせておくと、こゝの酒は高いと独りできめて隣りの店へ行つてしまふ、高価な食器を使つたゞけでも、一目見てにはかに面色蒼ざめ盃をもつ手がブルブルふるへだす、昔のお客はオイおやぢなどゝ飲み屋の亭主をよんだけれども、当節のお客は、旦那、甚だ相すみませんけど、などゝ一杯ちやうだいに及ぶ風情、筋骨衰弱し、可憐である。

 そこで落合天童は時代のおのづから要求し落ちつくところを再思三考に及んで、彼の自宅の町内の天妙教支部を訪れた。こゝには身寄りのない貧窮家族、病人を抱へたのや、子だくさんの寡婦、頭のネヂのゆるんだのや、狂信狐憑きのやうなのや、十一家族もゴチャゴチャと虱と共に雑居して朝晩タイコを叩いて踊つてゐる。月給千円、食事づきで雇ひたいと申しでると全員にわかに殺気立つて我も我もと申出るのを押しとゞめ一室をかりて一人づゝ口答試問を行ふ。出張テストといふわけで、狐憑き、三度自殺に失敗したといふのもゐるし、筋骨隆々眼光するどく悪憎の面醜の老婆、ほかの人雇つちやダメよ、みんな手癖が悪いからと声をひそめて忠告してくれる女もゐる、いづれも鬼気をひそめ妖気を放つ独自の風格者ぞろひであるが、天童は心乱れず、にこやかに坐つて、一々おごそかに応待する。

 中に一人ビッコ、三十九歳、ヤブニラミの女がゐた。

「あなた、足がお悪い様子だが、運ぶ途中に徳利がひつくりかへるとかコップのカストリがこぼれやしないかな」

「いゝえ、心がけてをりますから、却つてほかの方よりも事故がないんですよ」

「さうですか、ぢや、いつぺん、やつて見せて下さい」

 そこでお盆をかりてコップになみなみと水をみたして運ばせる。すると目のところへ捧げ持つてお盆のフチを鼻柱へくッつけて静々と徐行してくる。慎重に一足づゝすらせてくるからカタツムリの如くにのろい。

「ハハア、つまり神前へオミキを運ぶ要領ですな。然しお酒やお料理を運ぶとき、いつもその要領ぢやないでせう」

「いゝえ、私オミキなんか運んだことないですよ。物を運ぶとき、いつもかうです」

「するとそれは小笠原流ですか」

「いゝえ。私、目が悪いから、目のところへかう捧げてクッツケないと見えなくて危いからですよ」

「乱視だな。近視ですか」

「いゝえ、弱視といふんですよ。目のところへ近づけないとハッキリ見えないのね。だつてコップは透明ですもの」

「ごもつとも、ごもつとも。ぢやア、これを読んでごらんなさい」

 と手帳をだして渡す。目から一寸五分ぐらゐのところへ押立てゝめるやうに読む。試みにお札を数へさせると、やつぱり目のさき一寸五分のところへかざしてノゾキ眼鏡をいぢくるやうに数へる。タバコが好きだといふからお喫ひなさいと箱を渡すとこれも目の先一寸五分へかざしてフタをひらいて一本ぬく。目玉からタバコをぬきだすやうに面白い。

「お客の顔が分りますか」

「人の顔は分りますよ。目の悪いせゐで耳のカンが鋭敏だから、後向きでも、気配で様子が分るんですよ。空襲のとき軍の見張所でね、聴音機以上だなんてね、特配があつたのよ」

「それは凄い。御主人やお子さんは?」

「私はねえ、以前活版屋の女房だつたけど、離婚して、今はひとりなんですよ」

「なるほど、活版屋の女房が目が見えなくちやア不便だつたんですなア」

「そのせゐでもないんですけどね。いつのまにやら女中が女房になつちやつて私が女中になつちやつたから、バカバカしいから暇をもらつたんです」

「宿六をとッちめて女中を追ひだしやよかつたのに」

「だつてねえ。私はとても大イビキをかく癖があるもんでねえ、お前と一緒ぢや寝られないといふから、うちの人、文学者で神経質だから不眠症で悩んでゐたでせう、イビキのきこえないやうに物置でねてろなんてね、それやこれやで女中になつちやつたもんでね、私の大イビキが癒らなきやアどうせ物置で寝なきやアならないでせう。私しや結婚してビクビク心細い思ひをするよりも、いつそ一人で大イビキをかく方が気楽だからね」

 これは見どころがあると天童は思つた。目はヤブニラミだけれど右と左と大きさが全く違つて、一つは円く一つはやゝ三角に飛びでゝゐる。鼻は獅子鼻、口の片側がめくれたやうにねぢくれて出ッ歯で、そばかすだらけだが、全体としてどことなく愛嬌があつて、見るから無邪気で、暗さがない。生涯ろくな目にあはなかつた筈だが、その魂にも外形にも生活苦の陰鬱な刻印がないのは、頭のネヂのゆるんだところがあるせいで、その代り天真ランマン、近代人に欠乏してゐる人生の希望を具現してゐるところがある。然し、身の丈が低すぎるから、

「セイはどのぐらゐ?」

「エヘヽ。並よりはネ、すこし低い方だネ、ちようどぐらゐだけど、もう長く測らないからネ」

「四尺五寸かネ」

「エヘヘ」

「四尺だな」

「百十五センチね」

 まア、よからう、スタンドの卓から首が出ないこともなからう。首さへ出りや、目の高さに捧げて持つてくるから間違ひはない、とこの人物にきめ、その日から店へ来てもらつて、

「ヤア、いらつしやい。このオバサンはうちのニュウ・フェイスで、高良ヨシ子さんですが、御存知かも知れませんが、戦争中聴音機のヨッちやんとか新兵器のオバサンと申せば東部軍に鳴りひゞいた国宝級で、まことに凜々しい活躍をなされた方です。世を忍ぶ姿で。なんしろあなた、後向きでもお客様の鼻くそをほじる音まで聞き分けるてえ驚きいつた天才でさア」

 酔客のケンケンガクガクずらりと並んだあちら側を、首だけだしたオバサンがお盆を目の高さに捧げ持つてナメクヂの速度で往復してゐる。オバサン早く早くと云つたところで、生涯の失敗身にしみて焦らず、大きな目を最大限にむきだし全精神を目の玉に集中、剣客の真剣勝負のやうにジリジリにぢり進む。低速のおかげで往復に寧日ねいじつなく、呼べば「ヘーイ」と調子の外れた大声で返事はするが目じろぎもせず必死の構へは崩れをみせず、真剣敢闘、汗は流れ、呼吸は荒れ、たまに勝負の手があくと汗をふきふき誰彼と腹蔵なく談論風発、隠し芸まであつて「浜辺の歌」だの「小さな喫茶店」などゝいふセンチな甘い歌が大好きで声もよい。大好評で、ナメクヂ旅行、必死必殺真剣の気合、談論風発、シャンソン、どれ一つとりあげても好ましからぬところがないが、特別なのが必死必殺ジリジリ進む最中に注文を受け「ヘーイ」と答へる気合の一声、剣の極意に達し、涼風をはらみ、まことに俗物どもの心にしみるものがあつて、これをきゝたいばかりに余分の一パイ注文したくなる。

 倉田博文先生も大感服、もう師匠だなどゝとてもお高くとまつてをられぬ。

「見上げたもんぢやないか。これは君、一つの創造、芸術だね。あゝいふ意外な人物が時代の嗜好に適するてえことの発見、バルザックが従妹ベットを創作するよりも新兵器のオバサンの創造登場の方が凄いやうなものぢやないか。イヤ恐れ入りました。なるほどねえ、人間の創造てえのは文学だけの専門特許ぢやなかつたんだな。創作のヒントがきゝたいものぢやないか」

「すべてインスピレーションは偶然でさア。人生も芸術も目的はすなはち一つ、養命保身ですな。そこでタイコをならす」

「なんのタイコ?」

「天妙教ですよ。先生ほどの物知りが知らないのかな。天妙教においては、朝晩タイコをたたいて踊るです。その目的は養命保身、これ天意であり、人生の意味だといふから大真理ぢやないですか。先生は浮気の美徳について金銭の威力について力説するけど、さういふことを考へるのは哲人だけで、一般に人間どもは浮気と金銭は不言実行の世界で、論ぜずして行ふところの証明論説を要せざる真理ぢやないですか。たゞの人間どもには人生の目的は養命保身、これが手ごろで、手ごろといふのは大真理でさア。酒をのむ、養命保身。映画を見る、養命保身。なんでも根はそれだけで、理窟をこねてルル説明に及んだところで、現実に遊楽する境地がなきや納得できやしませんです。戦争と兵隊は養命保身の至極の境地でして、なぜなら戦地における兵隊はあしたの食事の心配がいらない。米もない。酒もない。タバコもない。腹ペコでも、あしたのことは天まかせてえのは宇宙的なる心境でして、雨が降るみたいにお酒の降る日も女の降る日も肴の降る日もあるといふ夢と希望に天地を托す、一向に降る日のためしがなくとも天地を托してをるものでして、戦争と兵隊はまつたく宇宙そのものですな。魔法のラムプとか、ヒラケゴマとか、夢と人生をそこに托す、下の下ですよ。なぜなら所有するものは失ふです。兵隊は何も持たない。魔法も咒文も持たないです。だから宇宙を持つのです。しかるに天妙教が、すなはちその正体は戦争と兵隊でして、持てるものはみんな神様にさゝげる、田を売り払ひ屋敷を売り払ひ全部さゝげる、よつて宇宙を所有する、タイコをたゝいて踊つて、養命保身、深遠なるものですよ。酒店もまた養命保身の神域なんでして、持てるものはみんな酒店にさゝげる、よつて宇宙を所有する、お客様の心境をそこまで高めて差上げなきやいけませんや。けれども人間のあさましさ、一パイごとに女房を思ひ子を思ひ、泣く泣く酔つて、お金を払ふ、悲痛なる心境ですな。この切なさを救ふものは、たゞホドコシの心境あるのみでして、美人女給はいけません、お客がムリを重ねる、もう一杯、チェリオ、たべたくないお料理もとりよせる、涙溜息あるのみでして、禁酒を叫び、出家遁世の心ざし、朝ごとに発狂してゐるやうなものでさ、養命保身どころぢやないです。ホドコシの心境はムリがあつちや、いけませんです。乞食を見る、哀れを催す、お金をやる、するてえとチラとみた乞食のふところに十円札がゴチャ〳〵つまつてるんで地ダンダふむ、もと〳〵哀れを催すてえのがムリなんですな。聴音機のオバサンに限つて、人にムリを強要するところが全然そなはつてをらんのですよ。人間はおちぶれて乞食となりますが、彼女に限つておちぶれることがないから、乞食にもならない。彼女はかつて活版屋の女房でしたが、いつのまにやら女中となつた、しかし、あなた、彼女がおちぶれたわけぢやないんで、もと〳〵がさうあるべきものなんですな、女中は給金を貰ふですが、彼女は無給で、無給の女中、天才がなきややれませんとも。彼女は哀れでもなく、不潔でもなく、つまり、宇宙そのものでさ。どんなお客がどんなに酔つてもどんなムリも起すことがないといふ、宇宙なるかな、偉大なものではないですか。もと〳〵お客は貧乏にきまつたもので、お酒のお代りは、とか、召上り物は、とか、脅迫しちやいけないのです。自分のふところは十分以上に心得て、何杯のめる、残る一円五十銭が電車賃、覚悟もりりしく乗りこんできていらつしやるから、コップがカラにならうと、オカズの皿がカラにならうと、全然見向きもしてはいけません。そのくせ不愛想ぢやア俺のふところを見くびりやがる、ヒガミが病的なんで、全然衰弱しきつていらつしやるですな。だから酒場のオヤヂは目のおき場所からしてむづかしいや。人間業ぢやア、ダメでして、まさしく天才を要するものです。聴音機のオバサンときては、目の玉はどつちを見てるか見当がつかない、ナメクヂの往復で静々と必死多忙、全然お客は脅える余地がないどころか、金満家みたいにせきこんで、オイ早く、カストリ、なんて、これはいゝ気持だらうな。すると、あなた、ナメクヂの方ぢやア必死なもんで、目の玉のゆるぎも見せずヘーイと答へる、お客のハラワタにしみわたりますよ、積年の苦労、心痛、厭世、みんな忘れる、溜飲も下るでせうな。養命保身、当店は宇宙そのものです」

「なるほど、すごい天才を見染めたものだな」

 と倉田博文大感服。

 そのとき居合はしたのが最上清人先生で、これを小耳にはさんだから、なるほど、オレも然らばこのへんで自殺はやめて、幸ひ店はまだ売れ残つてゐるのだから、オレも天才をさがして千客万来もうけてやらう。老いては子に教はれ、真理をうけいれるにヤブサカであつてはならぬ、と考へた。


          


 事は神速を尊ぶ、思案に凝るのは失敗のもとで、最上先生もとより事物のカンドコロにぬかりはないから、模倣は創造発見のハジマリ、ためらふところなく自分の近所の天妙教々会へでかける。なるほど、ゐる、けれども一癖ありすぎて、お客を吸ひよせるよりも追ひちらかす危険が多分にあり、養命保身、天才はざらにあるものではない。

 すると最後に教会のオカミサンが現はれて、一人づぬけた麗人がゐるのだけれども、家政婦なみに扱はれるんぢや、見せてあげられない。とびきりの美人なのだから、店の客ひきの看板娘に絶好で、通ひだつたら夕方五時から十時まで三千円、住みこみ五千円、但しこの金は月々前払ひで本人には渡さず教会へ届ける。戦災者で衣裳がないからタヌキ屋でもつ。それから月給前払ひのほかに保証金一万円ゐるといふ。

「通ひ三千円、住みこみ五千円、と。変ぢやないかな。あべこべぢやないのかな」

「分つてるぢやないの、旦那。とびきりの美人よ、分るでせう」

「ハハア。なるほど。とにかく会つてみなきや」

「ですから旦那、私の方の条件はのみこんで下さつたんでせうね」

「あつてみなきや分るものぢやないですね」

「それは会はせてあげますけどね、とにかくスコブルの美人ですから。でも、ちよつとね、ゆるんでるのよ」

「何が?」

「こゝね、ネヂがねえ、見たつて分りやしないわよ。あべこべに凄いインテリに見えるんですから。だから、あなた、今まであの子にいひ寄つたのが、みんな学士に大学生よ。あの子がまたおとなしくつて、惚れつぽいタチだもんで、すぐできちやつて、結婚して、それでもあなた八ヶ月もね」

「八ヶ月で離婚したの?」

「さうなんですよ。男がよくできた人でね、両親がなくつて婆やがゐたもんだから。そのほかは大概一週間から三日、一晩といふのもありましたけど、でもあなた、みんな正式の結婚よ。親がシッカリ者だから、みだらなことは許しやしません。戦災して教会へころがりこんで親が死んで、それからはあなた、私がカントクして風にも当てやしませんわよ。終戦以来はゼンゼン虫つかずよ」

「いくつなんですか」

「二十四ですけど、見たところハタチね。娘々して、八度も結婚したなんて、どう致しまして、お店のお客には立派に処女で通りますわよ。口数すくなにお酌だけさせといてごらんなさい。しとやかで、上品で、利巧で、男の顔さへ見りや必ずポッとするんですから、目にお色気がこもつてね、全然もう熱つぽい目つきになつてしまふんだから、あの目でかう見つめられてごらんなさい、お客はサテハと思ふでせう。千客万来、疑ひなしだわよ」

 そこでオカミサンにつきそはれて娘は伏目に現はれたが、なるほどゼンゼン美しい。処女の含羞、女子大学生、たゞ目が細い。しかしスーと一文字にきりこまれていかにもうるんで悩ましく、すきとほつた鼻筋とよく調和して、平安朝の女子大学生、うつたうしく、知的である。姿勢はスラリと均斉がとれ、特別、脚線のすばらしさ、レビュウガール、映画女優、これだけの美人がメッタにあるものではない。

 予想外の美人だから、最上清人は茫然、一気に理窟ぬきの世界へとびこんでしまつた。これでネヂがゆるんでゐるとは、大自然といふ奴はまことに意外な細工師ぢやないか! 豪華本とか楽譜とか軽く抱へて街を歩く、上品でうつたうしくて、よほど心臓の男でもなくちや口説くさきに諦めてしまふ。だから八度ぐらゐの結婚ですんだやうなわけだらう。最上清人はとたんにお客といふお客を嫉妬して、いかにして一人ひそかに秘蔵すべきか、むやみに不安になりだした。

 養命保身。これが宇宙そのものでなくて、なんであるか。心臓がブルブル、うつかり喋ると声がブルブルして、心のうちを見ぬかれるから、無言、鑑賞する。見れば見るほどブルブルするばかり、なか〳〵喋ることができない。

「お名前は?」

 第一声。まづこれ以上は喋られない。娘はギクリと顔をあげたが、にはかにポッと上気し、目に熱がこもつて、かすかにほゝゑむ。

「私、西条衣子です。どうぞよろしく」

 ネヂのゆるんだ声ではないから、最上清人は狼狽して、

「あなた、お料理できる?」

 娘はうつむいてしまつたが

「私、家政婦、いやだわ」

 とオカミサンに訴へる。清人は肱鉄砲で射ぬかれたやうにうろたへて、

「いえ、お料理は僕がつくる」

「女中さん、ゐないの」

 ジッと見つめる。まさにテストをうけてゐるのは清人の方だから、問答無益、ポケットへ手をつッこんで財布をとりだしつゝ、

「女中ぐらゐ、志願者がありすぎるのさ。僕のところぢや白米をたべさすから。しかしコックがゐないから。戦争このかた、十年ちかく高級料理がつくれなかつたから、腕のよいのがゐないんだ。僕はお料理の方ぢやパリの一流のレストランで年期をいれたもんで、今の日本のお客ぢやモッタイないけど、人手がなきや仕方がないからさ」

 一万五千円ポンと投げだす。自殺途中の道草のヤブレカブレといふところだが、ヤブレカブレぐらゐで人間気前がよくなりはしない。これはもうゾッコンの思召おぼしめしをバクロに及んでゐるから、天妙教のオバサンありがたうといふのもオックウな顔で、つまらなさうにお札を数へながら、

「女中がゐなきや困るわね。この子が可哀さうだわよ、旦那、うちから誰かひとり、さうしませう。さうしていたゞきませうよ。お気に召したのがをりませんでしたか」

「どれといつて、ゐなかつたね。料理屋ぢやア妖怪変化がお米を炊くわけぢやアないからね」

「その代りみなさん大変な働き者よ。衣ちやん、玉川さんをおよびしておいで。あの方は料理屋向きだよ。四斗樽を持ち上げちやうからね。それに信仰が固いから、ジダラクな連中の集るところぢや見せしめになることもあるでせうよ」

 返事一つで掌中の珠を失ふから、御無理ゴモットモ、仕方がない。するとます〳〵見抜かれてしまつたから、養命保身の神様にソツのある筈はなく、

「ねえ、旦那、教会の新築費用に五千円寄進して下さいな。どうせ旦那の商売はアブク銭だから、こんなところへ使つておくと、後々御利益がありますよ。この際、天妙教の信仰にはいるのが身のためです」

「文無しになつて首が廻らなくなつたら信仰させていたゞきませう」

「えゝ、えゝ、その時はいらつしやい。大事に世話を見てあげます。天妙様に祈つてあげます。人間はみんな兄弟、一様に天妙様の可愛いゝ子供で、わけへだてのない血のつながりがあるのですよ。ですから、お金のあるうちに、五千円だけ寄進しておきなさい。今後のことを神様におたのみ致しておいてあげますから」

「べつに神様に頼んでいたゞくこともないらしいからね」

「ぢや、オタノミは別に、お志をね。もし旦那、お衣ちやんはタヾの娘ぢやありませんよ。天妙教の信仰に生きる娘なんですから、神様のお心ひとつであの子の心がさだまるものと覚えておいて下さらなくちやア。お衣ちやんはこれから神前に御報告してオユルシをいたゞかなくちやこゝを出られないのですから」

「ぢや、オユルシがでたときのことにしませう」

 ケチな性根をだしたばかりに神前へ坐らされ狐憑きの踊りを見せられ、あげくに五千円はやつぱりまきあげられる。口惜しまぎれに、

「そんなにユスラレちやア商売のもとがなくなるよ。モトデの五千円はインフレ時代ぢや十倍ぐらゐにけえつてくるんだから、結局お衣ちやんの後々のために悪くひゞくことになるんだがね」

「アラ、旦那はモトデのお金につまつてるんですか。この節の飲食店に、そんな話、きいたことがなかつたわね。アラマ、ほんとに、どうしませう」

 はからざる大声で悲鳴をあげる。するとお衣ちやんがギクリとして、

「貧乏はいやよ。どうしませう」

「三十万や五十万に不自由はしないよ。しかしモトデは十倍にかへつてくるから五千円でも大きいといふ話さ。商売はさういつたものなんだよ」

 ともかく、お衣ちやんと関取のやうな大女の付添ひをつれて、タヌキ屋へ戻りつくことができた。


          


 ヤリクリ苦面くめんしてアルコール類、食料、調味料をとゝのへて、釘づけの店の扉をあける。更生開店、しかしお衣ちやんを店へさらすわけにいかないから全然一室に鎮座してもらつて、自らコック。コック場の隣が鎮座の一室だから見張りの絶好点で、コック場を離れるたびに心痛甚しい。そこでお客のサービスには玉川関にでゝもらふ。玉川関は五十三だが、見たところは四十五六、五尺六寸五分もあつて、肩幅ひろく、筋骨たくましく、腕は節くれだち、すねに毛が密生の感じ、全然女のやうぢやない。稽古のあとの相撲のやうに乱れ毛をたらして悠々八貫俵を背負つてきてくれる、カストリの一升ビンをギュッと握つてグイとさす、豪快、小気味のいゝ注ぎつぷりだが、口をへの字に結んでランランたる眼光、お客が何か言ふたびにたゞエヘヘと笑ふ、養命保身と申すわけには行かない。

「私やお店はできませんから、幸ひ教会に商売になれたオバサンがをりますから、その方に夕方から来て貰ひませう。私は買出しの方やらオサンドンをやりますから」

 と言ふ。この上教会からオバサンが来ては天妙教の出店のやうでイマイマしいが、玉川関は八貫俵を背負つた上に五升づゝ一斗のお米を両手にぶらさげて足先で裏戸をあけてはいつてくる、女だから隣組の用もたす、米も炊く、お掃除おセンタク、捨てがたい手腕があるから、よからう、なまじ女給などゝ月並な女どもを探すよりも天妙様の御意にまかせて当てずつぽうに御入来を願つた方が、どんな当りをとるか知れたものではない。

 そこで現れたのが痩せてガナガナひからびた小さな婆さんで、日本橋でタコスケといふ小料理屋を二十年ほどやつてゐたがツレアヒが生きてりやこんな不景気な店へオツトメなんぞに出やしない、私や中風の気があつて手が自由をかきお酒をこぼしたりとんだソソウをやらかすことがあるから、娘をつれてきたといふ、娘は水商売に不馴れだから当分後見指南に当る由、娘は二十八、出戻りで、一つも取柄といふものがない。なんの病気か知れないが痩せてあをざめて不機嫌で、額のあたりへコーヤクか梅干でもはりつけて寝てゐたところを顔を洗はせて連れてきたといふ感じ、まだしも玉川関の豪快なお酌の方がお客の尻を長持ちさせる様子であるから

「よした、よした。あなたはお帰り。料理屋は病院ぢやないからね。お客は病み上りの仏頂面を眺めにきやしないから、僕の店をなんだと思つてるんだ。こつちは商売でやつてるんだぜ。天妙教の出店の酒場ぢやないんだから、とつとゝお帰り」

「アレマア、旦那はセッカチだわねえ、この子にや芸があるんですよ。大繁昌疑ひなしの芸だわよ。ふんとに悲しいことだねえ。よその男にや喜ばれるが、一人の亭主にや厭がられる、なさけないと云つたら、ありやしないね。何も、あなた、私やわが子の恥をさらしたくはないけどね、天妙大神のオボシメシなら、是非もないわよ。こちらのお店にや天妙大神の御意が及んでゐるのだから、ふざけちやいけませんやね。うちの子のギセイがあるんだよ。悲しいギセイなんだよ。こつちはイケニエになつてるんだ。罰当りを言つちやア、神罰たちどころに及ぶから」

「僕のところぢやあんた方のゴムリを願つちやゐないんだから、天妙様の御指図は方角が違つてゐるのだらう。この節のお客は特別伝染病をこはがるタチだから、とつとと帰つておくれ。石炭酸をブッかけるぜ」

「アレまア旦那、私や五色の色に光る目玉は始めてだよ。ふんとに旦那は御存知ないことだからねえ、とんだ失礼申しましたよ。それぢやア旦那、お気に召さなきや酒代は私が持ちますから、カストリを一升ほどこの子に飲まして下さいな。見ていたゞかなきや、分りませんわよ」

 最上清人の気にかゝるのは、ギセイ、イケニエといふ穏かならぬ文句で、養命保身、天下は広大だから、どこに曲者がひそんでゐるか、偉大なる独創は得てして見落され易いものだ。こゝが大事なところかも知れぬと気がついたから、カストリ一升とりだす。婆さんもいくらか飲むが、娘が大方のんで、旦那もお飲み、と注いでくれたり、旦那私に注いでよ、一升がなくなり二本目を飲みだすころからトロンとして、

「バカにするない、私を誰だと思ふんだい、ヒッパタクヨ」

 ふらふら、やをら立ち上つて正面をきり、手でモゾ〳〵前のあたりを何かしてゐたと思ふと、裾をひらいて尻をまくりあげ、なほも腹の上までゴシゴシ着物をこすりあげる。そして羽目板にもたれて股をひらいて片足を椅子にのせた。

「旦那、々々」

 婆アさんは清人の肩をつゝいて、

「顔をそむけて、気取つちやいけないわよ。ギセイだよ。見てやらなきや、いけないわよ」

 陰毛がなかつた。すきとほる青白さが美しい。局所を中心にして腹部と股に蜘蛛の巣がイレズミされてゐる。腹には揚羽蝶あげはちょうと木の葉がひつかゝり、片足の股の付根にカマキリが羽をひつかけて斧をふりあげて苦闘し、片股に油蝉がかゝつてゐる。中心の局所に蜘蛛が構へて目玉を光らしてゐるのである。

 ちやうどそこへ来合はせたのが、更生開店と知つて二人の友達をつれてきた倉田博文で、ヤア、コンチハ、開店早々にしちや賑かぢやないか、アレ、お客は御主人自らか、新戦術てえところだね、と言ひかけて名題の大達人も立ちすくみ言葉を呑んでしまつたが、娘はそのとき目をあけて新客どもをジロリと睨んで、

「チェッ、バカにするない。拝んで、目を廻すがいゝや」

 やうやく裾を下ろして卓にうつぷして、

「ねえ、旦那、ダンの字、私を馬鹿にしちやいけませんよ。私は一生失恋するんだ。いゝかい、私は承知の上なんだよ。私はね、失恋するために、それを承知で、生きてるんだよ。見損ふな。誰にだつて、ふられてやるから。ネエ、ちよいと、ふつておくれよ。意気地なし」

「ごもつとも、ごもつとも。分ります、その気持は。私も賛成、失恋すなはち人生の目的なんだな。この人は苦業者です。しかし、うらむらくは、苦業者こそホガラカでノンビリしなきやならないものだといふスタイル上の手落ちに就てお悟りにならない。この方のお名前は? ヨシ子さんですか。ヨッちやんだな。ヨッちやんや。あなたは美人だなア。私はさういふ顔が好きなんだ。腹のイレズミも見事だけれども、あなたの顔には及ばない。ネンネはよしませう。オッキして、ホガラカに飲みかつ談じようではありませんか」

 と倉田が肩に手をかけるのを、押しやつて、

「よくしやべる奴ぢやないか。おしやべりする奴、きらひだい。さうでもないや、おしやべりする人、私や好きなんだよ」

 顔を起して倉田を見定めてゐたが、

「あとで一緒にのむからね。ちよつと、ねむるよ。あんた、バカにしちや、だめよ。知つてるからさ。いゝとも、ふられてやるから。ちよいと、あんた、手をかしてよ」

 倉田の手を握つて、ねむつてしまつた。

 ヨッちやんは陰毛がなかつた。そのはづかしさを思ひつめ、強迫観念になやまされたが、友達の話にヒントを得てひそかにイレズミをやつた。結婚して追ひだされ、いつからか酔つ払ふと親の前でも御開帳をやるやうになつたといふ話であつた。

「それは悲痛な話ぢやないか。然しそれ故これをそのまゝ悲痛と見たんぢやいけない。オバサンの曰く、ギセイ、それです。私もまたギセイと見ます。運命のギセイ、その意味ぢやない。その意味では悲劇だけれども、神にさゝげるギセイ、己れをむなしくするギセイ、要するに、あなた、人々の養命保身のために自らの悲劇をさゝげるのです。だから御当人は明朗、自適の境地がなきやいけない。当店のマスターたる最上先生も御母堂もその心得で指導しなきや、第一、どことなく明るさとか、無邪気とか、救ひがなきや、因果物みたいでお客だつて喜びやしねえな。だから私が美人だといふ。喜びますよ。当人自身に救ひがなきや、人を救ふ御利益のでてくる道理はねえからな。だから、あなた、私が彼女は美人だといふ、御当人が信じないといけないから、さういふお顔が好きなんだ、と云ふ、これは口説です。これが大切なんだな。するてえと私のギセイにおいて彼女が次第に因果物の心境をはなれてくるです。これを別して側近にはべるみなさんがやらなきやいけない。このまゝぢやア、グロテスクすぎるよ。それにしても意外な芸があるものだな。日本もそろそろ新人が現れつゝあるんだなア」

「アレまア、旦那はこの子をほんとに美人と思はないの」

「冗談いつちやいけないよ。美人てえものは美しき人とかく、この人は人間の顔からちよつと距離があるからね。ふなに似てるのかな。とがつたところはエビみてえなところもあるな。当人だつて心得てるんだから、むやみやたらに美人と云つたつて疑るよ。だから、私はかういふ顔が好きなんだ。とても可愛いゝ、とかういふのです」

「罪だわよ、旦那、この子は本気にするからね」

「だからさ、この子を本気にさせてやらなきや、因果物の気質がぬけやしないぢやないか」

「この子はノボセ性なんだよ。すぐもうその気になるからね。私や困るわよ。旦那、すみませんけど、ギセイのついでに、この子をオメカケにしてやつて下さいな。高いことは申しませんよ」

「いけません、いけません。芸術は私有独専しちやいけない。この子はすでに失恋に日頃の覚悟もあることだから、天分を育てるために私たちは力を合せる、この子と私がちよッと懇になつたりするのを、オバサンは我が子の天分のためと思つて、ひそかに喜んでくれなきやいけない」

 うまいことをいつてゐる。

 最上清人はもうその場にはゐなかつた。彼はもはや全然ヒマといふものが心にないから、御開帳のオツキアヒなど、もどかしくて堪らない。お衣ちやんの鎮座をたしかめて、コック場でセカセカ、用もないのに、たゞむやみに心が多忙である。


          


 人間の独専慾は悲しいものだ。最上清人はお衣ちやんを誰の目にもふれさせたくないのであるが、人間を小鳥のやうに籠に飼ふわけには行かないもので、朝の御飯をたべてしばらくすると教会へ遊びに行つてくるといふ。なぜ? 用があるの? 用件を具体的に説明するやうなことはなくて、たゞ用がある? 行つてくるわ、さうきめこんでゐる。籠に飼ひならされる精神はミヂンもなく、外出を拒否されるなど想像してゐないのだから、清人の承諾をもとめてゐるのと意味が違ふ。行つてくるわ、といつて立ち上つて黙つてをればそのまゝサヨナラも云はずに行つてしまふから、何時に帰るの? 私時計がないのよ、教会にあるだらう、でも私時計見ないもの、全然たよりない。仕方がないから玉川関にいひふくめて迎へに行つて貰ふ。十一時頃迎へにやると一緒に五時頃帰つてくる。そんなに長く遊んできちやいけない、ひるまへに帰れ、玉川関に断乎申渡して迎へにやると、ひるまへに帰つてきたが、子供を二三人づゝつれたオカミサン連を三人もつれてもどつて昼食をたべさせ、夕方までギャア〳〵バタ〳〵泣いたり糞便をたれたり大変な騒ぎをやらかす。

 サヨナラもタダイマもオハヨウも、その他親しみのこもつた言葉何一つしやべらず、宿六をなんと思つてゐるのだか、同衾どうきんはする、しかしそこから宿六といふ特別な人格などはミヂンも設定の意志がなくて、かうなると宿六も切ない。どんな男でも、男には身をまかすものときめてゐるものにしか思はれないから、どこで何をしてゐるか、男といふ男がみんな恐怖の種、教会の神主、失業オヤヂ、病気のヂヂイもその子の中学生も、みんなおそろしくてたまらない。

「君の結婚した人なんて人だつたの」

「知らないわ」

「何人ゐるの」

「一人にきまつてるわ」

「教会のオバサンは八人といつたよ」

「一人よ。私、失恋したのよ」

 誰に失恋したのだか、八ヶ月の人物だか、一週間の口だか、一晩の口だか、皆目分らない。僕は君の何かね、ときいても、知らないわ、なぜこゝへきたの、神様のオボシメシだといふ。

 着物を買つてくれ、靴を買つてくれ、煙草を買ひだめておくとそれを教会へ持つて行つて誰かにくれてくる、教会と手を切る工夫をしなければ気違ひになりさうだから、絶対男に会はせぬ手筈であつたが、是非もない。倉田博文の手腕にすがつて策を施すほかに思案が見当らないから、事情をうちあけ、お衣ちやんも紹介に及んで、しかしこゝがカンジンなところだから、天妙教の手切りの件が眼目ではあるけれども、お衣ちやんを独専したい苦心の胸のうち説明に及んで釘をさす。

「これは最上先生、そんなふうに私を見損つちやいけないな。そもそも紳士道といふものは、こゝに唯一無二の規約がある。それはあなた男女たがひに誰を口説いてもよろしいけれども、友だちの思ひものだけ口説いちやいけません。あなたが麗人同伴で私の前に現はれる。そのとき私は最上先生の弟子であり忠僕であるごとく己れを低くして最上先生を立てゝあげる。かはつて私が彼女同伴最上先生にであつた時には、最上先生が私よりも薄馬鹿みてえに振舞つて私を立てゝくれなきやいけません。この一つが紳士道唯一絶対の規約なんだな。我々は紳士でなきやいけません。だからもうこと御婦人に関しちや私を絶対に信用してくれなきや、しかし、最上先生ほどの非情冷静なる御方がアノ子のためにはオチオチ眠られぬ、男といふ男が怖い、これはいゝね。まつたくホロリとするぢやないか。よろしい、犬馬の労をつくして差上げませう」

 と、まづビールを五六本きこしめしてから瞑想にふける。

 何よりも店の繁昌、これをブチこはしたんぢや話にならない。お金といふ後楯うしろだてがあつて紳士道も成立つのだから、天妙教と手を切る、そのために店がにはかに衰微しちやいけないから、それとなくヨッちやんの意中をたしかめてみると、ヨッちやんは天妙教など問題にしてゐない。住む家もなく、生活の心当りもないから、オフクロにひきずられてゐるだけのことだ。オフクロがまた我慾一方、人のために我身の損のできないタチだが、天妙教にすがつてゐると野たれ死だけまぬかれる、この目当は老いの身の頼みの綱だから、オイボレ廃人狐つきの集団生活、不愉快きはまるけれども教会を裏切られない。

「お米、醤油、ミソ、塩、油、バタ、砂糖、玉川関は色々とくすねて教会へ運ぶさうぢやないか。さもなきや子供づれのカミサン連が押寄せて食ひちらかして行くてえ話だけど、暴力団でさへ一軒のウチを寄つてたかつて食ひ物にするにはいくらか慎みや筋道はありさうなものぢやねえか。天妙教ぢやア、泥棒ユスリがなんでもねえのかなア、心持が知りたいもんだな」

「ふんとに倉田先生、私や辛いのよ。全くもう人間の屑のアブレ者がそろつてるんだから、礼儀も慎みもありやしないわよ。この子が恥をさらしてギセイで稼いでゐるものを、踏みつけてるぢやありませんか。この子はあなた、かほどの思ひをして、チップを貰ふためしもないのだからさ」

「さうさう。それだよ、オバサン。あなたはヨッちやんを因果物に仕立てる気分だから、いけない。お代は見てのお帰り、親の因果が子に報いてえアレだね、ヨッちやんを見世物にして露骨に稼がうてえ気分を見せちやア、お客は気を悪くします。いくらか置いてきなさいな、この子が可哀さうだわよ、そんなことをいつたんぢやア、これはもう全く因果物で救ひがない。お酒は粋でなきやいけないから、刺戟の強いサービスほど何食はぬ気分が大切なんだな。お店の成績が上りや最上先生からそれに応じて心附けがあるのだから、ヨッちやんのギセイを軽いオペレットに仕立てる心得がなきやいけません。しかしオバサンとしちや見るに忍びざる悲しさ、また口惜しさ、勢ひサイソクがましくもなるだらうからな、よく分る、ムリもないです。だからオバサンはお店へでちやいけない。玉川関のかはりにお勝手をやりなさい。いゝかね、オバサン、ヨッちやんのあの芸は、あれでチップをとらないところに値打がある、さすればヨッちやんも救はれる、養命保身、これでなきやいけませんや」

 お店の第一線で働いてみると、自分の方は案外ミイリがないから、玉川関一味のやり方にはフンマンやるかたなく、利益を独専したい気持がうごいてゐる。これを見抜いたから、仕事は楽だと見極めをつけた。

 グロテスクがグロテスクだけで終始したんぢや魅力にならない。切なさ、明るさ、軽さ、どことなく爽やかなものを残さなくてはならぬもので、第一次大戦後の欧洲の前衛芸術は悲しいグロテスク、明るい軽妙なグロテスクがその主要な相貌であつた。これが近代知性の生活感覚の中軸的相貌でもある。ヨッちやんの芸は前衛芸術の宿命に通じるものがあるから演出次第でピカソやコクトオの芸術的放射能を現実的に発散できる珍品なんだと倉田は高く評価したが、ヨッちやん一つぢやグロテスクも悲痛すぎて暗すぎるから、もう一つピエロ的グロテスクのワキ役が必要だ。

 倉田が目をつけたのは行きつけの飲み屋に食客をしてゐるソメちやんといふ色若衆で、昔は歌舞伎の女形であつたが戦争中は徴用されて工場へつとめ終戦後舞台へもどつたが生活が立たないので、近頃では飲み屋の手伝ひをやりながら、昔のゴヒイキ筋から品物をうけて飲み屋へくるヤミ屋にさばいたり、ヤミ屋の品物をゴヒイキ筋へさばいたり、それでくらしを立てゝゐる。しかし決して多額にむさぼらないのがえらいところで、千円ぐらゐでうけてきた品物が一万五千円ぐらゐに思ひがけない上値で買ひ手があると、三百円とか五百円とか予定してゐた口銭以外はそつくり売り手へ届けてかねての恩儀に報いるといふ心掛けである。ハタから笑はれ、そゝのかされても、いゝえ、義理人情をわきまへなくてはいけません、と言ふ。信念ミヂンもゆるぎがない。

 そのくせ完全な変態で、自分は全く女のつもり、二十三のみづみづしい若衆だから娘の注目をひくけれども、女などは見向きもしない。倉田はかねてソメちやんのキップが好きでヒイキにしてゐるが、ソメちやんもまた、倉田の生き方に筋の通つたところがあるから尊敬してゐる。これに手助けを頼みたいと思つたが、何がさて歌舞伎育ちの粋好み、義理人情に生きぬいてゐる珍品だから、御開帳の露出趣味と相容れず軽蔑するにきまつてゐる。こゝを納得させなければ苦心の演出ゼロになるから、

「これはソメちやん、江戸前の好みによつて悪趣味下品なるものと即断しちやいけません。あるべきところに毛がないてえのを悩みぬいたあげくにイレズミをしてさらに悲歎を深め、わが運命を無限の失恋とみる、悶々の嘆きが凝つて酔へば前をまくつてタンカをきる、この胸の中はせつないね。この悲しさは江戸の通人によつてむしろ大いに尊重せらるべき性質のものだらう。それはあなた田舎ザムライはヨダレをたらしていい見世物にするだらうけど、通人はこの切なさは買ひますよ。酔つ払ひといふものは、いつの世も田舎ザムライそのものなんだから、お客がこれを見世物とみる、その低さを、自分のものと見ちやいけないです。ソメちやんなどもまことに心の悲しい人なんだから、悲しさを血のつながりに、姉妹とみる、いたはりがなきやいけない。お客がこれを見世物と見るなら、その観賞気分が露骨なエログロ低級下品に終らぬやうに、軽妙な気分をつくつてやる。イレズミは構図も彩色も着想も見事な妙味があるのだから、物自体としちや最もユニックな見世物なんで、単にエロ、下品、露骨と見せちやいけないやね。お客の気分を軽妙にとゝのへて下品ならざる境地をつくる、余人ぢやできない、ソメちやんの気品と粋、同情と協力が最も必要な次第ぢやないか」

 ソメちやんも承諾したから、ソメちやんとヨッちやん母子を住みこませ、玉川関に退場して貰ふ。万端最上清人の命令でなく、倉田支配人の指図によつて、これより万事店のことは新任の支配人が執り行ふから旧来の仕来りは一新する、店内の作法は支配人の許可なくして何事も行ふことはできない、天妙大神のゴセンタクも支配人にはミミズのタハゴトにすぎないのだから、と申渡す。

 同時に最上とお衣ちやんは温泉へ出発させ、二三週間ホトボリをさましてこさせる。そのうちにはオバサンを手なづけて、これを逆用して天妙大神とお衣ちやんの防壁にしようといふ、そのためにはヨッちやんと懇ろになることも辞せないといふぐらゐ倉田は悲壮な覚悟をかためてハリキッてゐる。

 倉田は温泉行の最上と別杯をあげて激励して、

「だから最上先生、安心してお湯につかつてきなさい。私の覚悟はいさゝか悲壮なぐらゐこの仕上げに打ちこんでるのだから。考へてもごらんなさい。それは私は色好みだから、ヨッちやんみたいな化け物でも一晩ぐらゐは面白からうといふ程度の心ざしはあります。しかしあなた、私の現在の立場ぢやアこれを一晩であしらふ手だてがむづかしい、九分九厘後腐れ、四谷怪談になりかねないところだから、こゝはつらいところだな。そこを敢て辞せないといふ覚悟のほどを可憐と見ていたゞかなきや。私はつまり天来の退屈男なのだから、生活を芸術と見る、ひとつは芸術の才能に恵まれないせゐだけれども、しかしあなた、生活を芸術と見る、全体の構図のためには貧乏クジは作者自身がひかなきやならない、これがツライところで、しかしまたそのギセイにおいて一つの構図を完成する、この喜び、この没入、この満足、これは私の生来のものです。だから私は厭ぢやない。むしろ大いにハリキッてゐます。しかしあなた四谷怪談は当事者の身になつちやアこれは全くつらいからな。その甚大の苦痛をおして一篇を完成するところに、おのづから報われる満足を人生の友としてゐるのだから、人生芸術家倉田博文先生、この手腕を信じて、心安らかに旅行を味ひ、未来に希望を托しなさい」

 そこで御両名は出発する。

 倉田は自ら調理場に立ちチビリチビリ傾けながらも大根をおろし牛肉をあぶり吸物の味をきゝオバサンと共に大奮闘、策戦よろしく店は繁昌するけれども、ソメちやんの気品と粋は効果を示さず、あべこべに下品を深め、地獄の相を呈する。それといふのが、ヨッちやんの芸が終ると、勢ひの赴くところ、ソメちやんに露出を強要する。歌舞伎の伝統の中で女の躾を身につけたソメちやんだから二の腕を見せてもすくみ羞らふサムライの娘カタギ、それが一そう酔客のイタヅラ心をそゝつて、はては掴へてハダカにする。悲鳴、悲嘆、それを肴にカッサイ、また乾杯、勢ひの赴くところ、次にはヨッちやんをハダカにする、こつちの方は物ともせずタンカをきつて卓の上に大あぐらをかいたり大の字に寝てしまつたり、お客がこれにタバコをさしたり徳利を入れたりイタヅラする、お客同志のケンカとなる、大乱闘、倉田先生、器物を保護し、お勘定をいたゞくに精魂つくし、二ツ三ツ御相伴のゲンコなどもチョウダイに及んで、芸術的才腕の余地などはない。

 これが毎晩のおきまり行事で、それを目当に集る常連だから、ヨッちやんの芸が終る、そのへんで気分が変るやうにと倉田が顔をだして得意の駄弁、ナニワ節、フラダンス、熱演効なく、ひつこめ、あいつもついでにハダカにしちまへとくるから、匙を投げて長大息、お客の身になつたら面白からう、オレもお客になりていなどゝ芸術製作の熱意を失つてしまつた。

「先生、私はとてもこのお店はつとまりません」

 と、ソメちやんは元の巣へひきあげる。

 倉田はヤケクソで、新風を凝らし、新作にとりかゝる気持などはミヂンも持てない。ヤケ酒をきこしめして、これだけはと日頃要心してゐたものを、ヨッちやんや、お前さんは可愛いゝ人だ、からだから心から全体が悲しさそのものなんだな、悲しさを抱きしめて私も一緒に溶けて掻き消えてしまひてえ、などゝセンチになつて、お世辞たらたら喜ばせて契りを結んでしまつた。すさんでゐても、遊女と違つて、悲しみの玉、初心の熱情、むしろ何物にもまして必死なものがあるから、三夜又五夜、倉田が興ざめたころはヨッちやんは夢中で、客席で芸を御披露しなくなり、酔客の所望をせゝら笑つて、

「ナニいつてやんだい。私にはいゝ人があるんだよ。私は可愛がられてゐるんだからね。私のからだはウチの人のものなんだから、もうダメだい。とつとゝ帰つておくれ。水をぶつかけるよ」

 お客が全然なくなつてしまつた。

 女の心は可憐だけれども、無益なセンチはつゝしむところ、最上清人が帰京する、事情を伝へてサヨナラと一言、風に乗つて姿をくらます。オバサンとヨッちやんは鬼になる。お衣ちやんは教会へ戻つてしまふ。

「私たち親子は倉田の悪党めの指金で教会に不義理を重ねたから帰るところがないんですよ。旦那すみませんけど、泊まらせておいて下さい」

「倉田のしたことなんか知らないよ。とつとゝ出て行け」


「ぢや警察の旦那の前で黒白をたゞしてもらひませうよ。私や損害をバイショウしてくれなきや、殺されてもこゝを動きやしないからね」

 そんなわけで、最上先生、ずるずるべつたり親子の妖怪変化と同居を重ねざるを得なくなつてしまつた。



夜の王様



 全国的には七・五料飲休業、東京だけが六・一自粛、一足先に飲ン平は上ッタリになつてしまつた。ところが、こゝに、唯一人、ほくそゑんでゐるのが最上清人先生で、どうせ死ぬんだ、どうにとなりやがれ、ゆくゆく首をくゝる計画だから、右往左往の業者ども、禁令をどこ吹く風、お店の有り酒を傾けてゐると、絶えて客足のなかつたタヌキ屋に六・一自粛の当日から俄に客の往来がはげしくなつたから、物に動じない大先生も、果報は寝て待てと昔から言ふけれども、ハテナ、夢に見た蝶々がオレだか、今のオレが夢だか分るもんかといふ荘周先生の説はこゝのところかも知れないとボンヤリ疑つた始末であつた。

 東京の飲ン平どもは専らマーケットといふところでカストリのゴヤッカイになつてゐる。マーケットは青空市場のなれの果だから、板によつて青空を仕切つて人間共に位置を与へる。何百といふ馬小屋が並び、こゝへ一匹づゝ馬を飼ふのかと思ふと、十人ぐらゐづゝ人間を並ばせてカストリを飲ませる。馬なら一匹だけれども、人間なら十人つめて、この節の酔つ払ひは衰弱消耗して、羽目板を蹴とばす奴もゐないから、小屋もいたまない。当節は百円札が単位だよ、靴の裏皮を張り変へたつて四百五十円、カストリ一杯三十五円ぢやねえか、おまけにノンダクレの勝手のオダにつきあつて、これはあんた商売ぢやアない、社交奉仕だよ、クソ面白くもねえ。馬小屋の旦那は厭世思想家でニイチェなどゝいふ人と同じぐらゐ大胆卒直に思想を吐露するから、お客は益々衰弱する。ところへ六・一自粛、馬小屋には裏座敷がないから、厭世財閥の旦那方が真剣に慌てた。

 財閥の旦那が慌てるのは、持てる者は不幸なるかな、旦那方が慌てなかつたらラクダが針の目をくゞる、予言の書物にあることだから、これは筋が通つてゐる。わけの分らないのは馬小屋に十人づゝ並んでゐた連中で、この連中まで人並に慌てる、慌てふためく、全然筋が通らない。けれども、慌てる。元々いくらも持たないくせに、どんなに高くても飲みてえや、馬小屋の盛なころは黙殺してゐた高級料亭、裏口から一杯ありつきたい、そこでタヌキ屋へも押寄せる。ヤケクソ、高価を物ともせず、決死の覚悟で、血相たゞならぬ様を冷静に見定めたから、なるほど、奴らも追ひつめられてゐやがるな、最上清人が見破つた。

 この国の人間共は戦争以来やたらに追ひつめられる。元々哲学者といふものは常に自らの意志によつて追ひつめられてゐるものであるが、俗物共ときては他によつて追ひつめられるから、慌てふためく。逆上、混乱、可憐なところがない。そんなに高い酒が飲みたいなら、御意にまかせて高く飲ませてあげませう、バカな奴らだ、最上先生はアクビまじりにかう考へて、酒、ビールを買ひあつめてくる。カストリなんて、そんなマガヒモノ、うちにはないね、うちの酒は高いよ、仕入れが高いし、品物が違ふんだ、それでもお客の数が一日ごとにふえるのだから、お客は発狂してゐるのである。

 倉田博文がフラリときて、

「やア、商売御繁昌、結構ぢやないか。私もひとつ、いたゞかう」

「うちは高いぜ」

「お酒はいくら?」

「お銚子二百円」

「ビールは?」

「三百五十円」

「ウヰスキーは?」

「一パイ二百円」

「ぢやア、私はオヒヤ。水道料は闇の仕入れぢやないから、目の玉の飛びでることはねえだらう。然し御直々の御足労ぢやア、サービス料も相当だらうから、私が自分で運びませう。コップもかうして握つてめりや、ラヂウム程度にスリへるだらうから、然し、握らねえで、甜めねえで飲むてえわけには行かねえだらうな。ストロー持参で水を飲みにくるてえことにしたら、一パイ十円で、いかゞでせう」

「ヒヤカシは止して貰ひたいね。うちはショウバイだからね」

「ヒヤカシは止して貰ひたい、ショーバイだから。いけねえなア、最上先生。あなた、その返事はどこの飲み屋のオヤヂでもそんな時に答へるであらうお極りの文句ぢやありませんか。最上先生ともあらう方が遂にそれを言ふに至るとは、私は学問のために悲しいね。それは、あなた、学問なんざ、つまらねえものだけれども、なぜなら腹のタシにならねえからな、然しあなた、芸のないお極り文句を言はねえところに学問のネウチがあるんで、私の思ひもよらない返答をしてくれることによつて私も救はれ先生も亦救はれる。つまり学問てえものはイキなものなんだな。ヤボを憎む、これが学問の精神ぢやありませんか。私みてえなヤボテンはビール三百五十円、お酒一合二百円、驚き、慌て、かつ、腹を立てますよ。よつて、水を下さい、と至つて有りふれた皮肉の一つも弄するやうなサモシイ性根になつてしまふ、然しその時天下第一の哲学者最上先生ともあらう御方が、ヒヤカシはいけない、ショーバイだから、そんな手はないね。ミズテン芸者も気のきいたのは、ウチの水道栓は酒瓶に沿つて流れてゐるからアルコールが沁みてゐるよ、ぐらゐの返事は致しますよ。ビール三百五十円、お銚子二百円、さすがに見上げた度胸だなア。マーケットの俄か旦那の新興精神ぢやアこゝまで向ふ見ずに威勢を張る覚悟はないから、これは学の力です。一朝にして高価のわけぢやアない、昔から高い、益々高い、流行を無視して一貫した心棒のあるところがサスガだけれど、然し、あなた、たまたま私みたいなヒヤカシの風来坊が現れる、これも浮世のならひですから、風来坊に対処してイキにさばく、これも亦学のネウチなんだなア。学問は救ひでなきやいけません。血も涙もないてえのは美事なことだけど、それは精神に於ての話で、表向きのアシラヒはいと和やかでなければならんです」

「イキなんてものが見たけりや待合とか然るべき場所へ行くことさ。僕のところぢや専ら中毒患者とギリギリの餓鬼道で折衝してるんだから、アルコールの売買以外に風流のさしこむ余地有りやしないね」

「なるほどなア。時代はたうとうギリギリの餓鬼道でアルコールの取引をするところまで来たのかなア。するてえと、飲み屋のオヤヂは女郎屋のオヤヂとヤリテ婆アを兼ねたやうなものなんだな。然し最上先生、昔から色餓鬼てえ言葉はあつても、酒餓鬼てえ言葉のなかつたところに、酒と女に本質的な違ひが有るんぢやないかな。然しアルコールも亦餓鬼道の取引だといふ先生の思想ならメチルによつて餓鬼の二三十匹引導を渡してみるのも壮快でせう。私は然し餓鬼てえものは、どうも、やつばり、人間は餓鬼ぢやアねえだらうな」

「人間は餓鬼ぢやないさ。僕と、この店のお客だけが餓鬼なんだよ」

 と最上清人はうそぶいたが、然し、心中おだやかではなかつた。

 最上清人は自らの思想によつて、又、自らの思想の果の行為と境遇によつて、首をくゝるギリギリのところまで追ひつめられてゐた。ところが新日本の建設誕生といふ極めて新鮮健康なるべき第一節に、別に深遠な思想家でもない呑ン平どもの何割かゞ、彼と同じギリ〳〵のところへ否応なく追ひつめられてきた。芸のない同類どもがにわかにボーフラと一緒にわきだして裏通りの裏口をウロウロキョロキョロする、とたんに最上清人の方がこの同類から脱退したのは、即ち彼が礼服をきたメフィストフェレスになつたからで、メフィストフェレスといふものは、厭世家で、同時に巨万の財宝を地下に貯へてゐるものなのである。

 まさしく彼は資本家になつた。資本家といふものは単なる物質上のことではなくて、精神上の位置であり、つまりアクセクお金をもうけやうともしないのに、お金の方が自然にころがりこんでくる。酒さへ置けばお客の方がガツガツ食ひついてくる。ミミズをつけて糸をたれる、とたんに魚がくひつく、苦心も妙味もない、糸をたれゝば食ひつくだけで、たゞもう無限の同一運動の反復があるばかり、面白いよりもイマイマしいぐらゐ。然し、イマイマしいとか、ウンザリするとか、変に厭世的な気持が深まるやうで、内実はその満足が病みつきとなり、いつとなく思想が変つてゐるものだ。

 お店の趣向をこらすとか、美人女給募集の広告をだしたり、あれこれ手段をめぐらしてお客をひきよせる。それと違つて、何の技巧も施さず自然にお客がよつてくるのだから、たゞもう時代の寵児、単なる時代のイタヅラの私生児のやうなものでもあつた。何だい、毎日うるさいほど来やがるなどゝイマイマしがつてゐるうちに、フトコロがふくらむ、その満足の自覚の代りに大いに不安になつてきた。七・五禁止令といふものが解除になればそれまで、ナニ、そのときは首をくゝるさ、といふぐあいに一応は肚に思つても、もう本心はさうではなくて、この繁栄を失ひたくない慾に憑かれてゐた。

 彼はもうナマケ者ではなくなつてゐた。早朝から自転車で闇酒を買ひに走り廻る。ヨッチャン母娘に指図してビールを買ひに駈け廻らせる。自ら店へ出て餓鬼どもにアルコールを配給する。一向に楽しくない。たゞ、いつ客が来なくなるかといふ不安によつて充足してをり、ともかく充足してゐる証拠に、目がさめると自然にビヂネスの日課に応じて動きだす、もう帰つておくれ、警察の目をくゞつてゐる仕事だから、さういつまでもつきあへないから、などゝジャケンに餓鬼どもを追つ払ひ店の扉にカンヌキをかけて、一升ビンを掴みだして極めて事務的に寝酒をのみ、極めて事務的にヨッチャンをだく。それも亦ビヂネスであつた。即ち肉体のつながりによつて、女中ではなく、ウチの者であり、無給にコキ使ふことができ、行動を制限し、命令し、食べ物を制限することもできる。不満なら出て行け、と言ふ。一方がおのづから時代の英雄だから、一方はおのづから奴隷で、近代人の絶えて現実に知り得ない奴隷女といふ無人格な従属物を知るに至つた。それに対して血も涙も意識する必要がない物品といふ意味だ。

 すでに昼すぎる頃からコーヒーといふウヰスキーを飲む餓鬼、ソーダ水の酒を飲む餓鬼、これはもつぱら馬小屋からの落ち武者で、実は単に酒餓鬼の足軽にすぎない。夜になると、奥の茶の間で会社の饗応がある、ブローカーの商談がある、一組小は一万円から大は三万五万ぐらゐ遠慮なくチョウダイする。ウヰスキー一ビン四千円で飲ませるから闇会社の十人ちかい商談になると忽ち五万円ぐらゐになる。高すぎると思つても、二度と来てくれなくていゝよといふ顔付の威厳はテキメンで、時代の英雄、千鬼もおのづから足下に伏す有様である。二週間もたつと又ノコノコ性こりもなく現れて、徒に足下にひれふして引きさがる。苦笑、軽蔑、然しそれよりも虚無と退屈であつた。彼はまつたく不機嫌なメフィストフェレスであつたが、いくつ買つても忽ちふくらんでしまふ大きな財布をどこへ秘めるかといふ最も不機嫌な心労によつて、更にひねもす不快になるのであつた。

 あるとき、この界隈のパンパンの姐御がお客をつれて飲みにきた。それからといふもの、姐御の身内のチンピラ共が時々カモを酔はせに連れてきて、着物をねだつたり、お金をせびる。度重なるうちに、ホテルへしけこむのが面倒くさくなつて、

「ネエ、ちよいと、マスター。奥のお部屋、ショートタイム、百円で貸してよ」

「一枚ぐらゐの鼻紙で魔窟の代用品に使はれて堪るものか。すぐ裏にインチキホテルがあるぢやないか」

「ショートタイムぢや一々ホテルまで面倒よ。あいてる部屋がたゞお金になるんだもの、私たちのカラダだつてその要領だもの、それが時代といふもんだけど、このマスターも案外わからず屋なんだなア。カンサツなしで稼げるものは遠慮なく稼いでおくものよ。どうせあんたの商売はモグリの酒を売つてるんぢやありませんか。ヤミの女もヤミ商売もおんなじこつた。共同戦線をはらうよ」

「よしてくれ」

「ぢや、マスター、三枚ださう」

「いやなこつた」

「フン、あんた、あんたがボルなら覚えておいで。その代り、あんたが私たちに用があるとき、百枚だしても誰一人ウンとは言はないよ。分らないのかなア、共同戦線といふことが」

 なるほど、さうか、と最上清人は考へた。目の玉のとびでる酒を承知でパンパンと共に飲みにくるのは地方から商用できた闇屋とか工場主、事業主、パンパンの心眼、フトコロを知つての上でなければ連れてはこない。着物も買はせ、指環も買はせ、いくらでセビッテも財布のへり目が分らぬやうな上カモに限つて酔はせるために連れてくる。この連中と特別にタイアップする、どうせ危い橋を渡つてゐるのだから、危険は同じこと、太く短くもうけるに限る。彼自身が共同戦線のヨシミによつて安値に遊ぶことができるなら、これ又、特別大いに望むところだと考へた。

「ぢやア、昼だけだぜ。裏口からきて、座敷で静に飲むんだぜ。酒の方でもうけさしてくれなくちやア」

「モチよ。うんと飲んでくれる人だけ連れてくるから。その代り、お食事も出してちようだい」

 六・一自粛と同時に街の暴力団狩り、マーケットの親分乾分こぶんの解散、チンピラ共は上ッたりで、

「やア、こんにちは」

 タヌキ屋へ三人づれの赤いネクタイのアンちやんが来て、

「こゝぢやア酒を飲ますさうぢやないか。オレたちはどうせアゲられるんだから、道づれにならうぢやないか。一年くらひこむのと、一万円とどつちがいゝね」

 最上清人は常に万全の備へをかため、いつ上げられてもいゝやうにお金は隠してある。ヨタモノにたかられるぐらゐならブタバコへはいつてきた方が安上りだといふ計算はハッキリとつくに立てゝあるから、

「あゝさうかい。オレも近々上げられるところだから、ちよッとぐらゐの時間早くつたつて、おんなじだ。ぢやア道づれにならうぢやないか」

 ヨタモノは哲学者につきあひはないから、退屈しきつた顔付一つ変へようとせず、念仏みたいに呟いて今にも一緒に出掛ける気勢に煙にまかれて、

「あれ、なんだい。オヂサン、話が分つてゐるのかい。一年の懲役だぜ」

「それぐらゐ、分つてゐる。覚悟の上だから、ショウバイしてゐるのだ。君たちは何をボヤボヤ慌てゝるんだ。こつちは先の先まで見透して、懲役でひきあふだけの計算をたてゝ覚悟の上でやつてることだよ。いつでも道づれになつてやる」

 全然落付き払つて、退屈しきつて、見たこともないタイプだから、薄気味悪くなつて、お見それしました、と引上げる。

 パンパンと共同戦線、するとパンパンと兄弟分ぐらゐのチンピラが五人ほど、パンパンの紹介でやつてきて、マーケットぢや食へなくなつたから、お酒、ビール、米、醤油でもタバコでも安く仕入れてくるから引取つて下さい、その代りお店のためには血の雨でもくゞるから、と言ふ。取引は市価の闇相場だから、別にこの取引を拒絶することはない。居ながらに取引ができるだけ楽だ。

 最上清人も驚いた。

 オレがもしその気がありや、なんのことはない、自然にアル・カポネになつちまふやうなものだ。これで禁酒令でもしかれた日には、密造密売、酒と女、否応なく夜の国の王様に自然に祭り上げられてしまふだらう。

 目のあたりパンパンの稼ぎぶりを見せつけられるヨッちやん母娘はにはかに思想が一転して、お前も稼ぎな、今こそ時期だよ、パンパンの組へ入れてもらふ。最上清人は万事にわが意を得て、天の時といふものがソゾロになつかしくて堪らない。

 倉田博文もキモをつぶして

「御時世といふものは、独創的なものぢやないか。最上清人先生がおのづからアル・カポネになるなんて、日本歴史のカイビャク以来、人相手相星ウラナイ、物の本にこんな予言のあつたタメシはないだらうな。全く、あなた、われわれ、歴史を読み、哲理を究めたやうな顔付をして、わがニッポンのギャングの親分が国定忠次や次郎長の型から突然最上先生に移つてくるとは、こいつは気がつかなかつたな。政令の結果は驚くべきものぢやないか。然しこれは政治の力ぢやなくて、アルコール、禁酒令といふものゝ独特な性格なのかも知れねえな。最も孤独なる哲人といふものは、どつちみちフランソア・ビヨンか、そいつを裏がへした聖人君子なんだから、ギャングの性格が腕力主義から商業主義へ移る時にはビヨン先生が夜の王様になるだらう。最上先生は深遠偉大そのものなんだな。アルコールの取引はたゞ餓鬼道の折衝あるのみといふ、これが夜の王様の威厳にみちた大性格であることをたゞの今まで気付かなかつたとは赤面の至りです。こゝに至つて、私も新興ギャングの乾分になりてえな。最上先生の片腕とまでは行かねえけれど、小指ぐらゐの働きはあるだらう。新興マーケットの一つぐらゐは預る腕があるだらうと思ふんだがな」

 最上清人は時間を怖れてゐるのであつた。時代の過ぎ去る時間である。この時代たるや、たゞの時代ぢやない。七・五休業令、たつたそれだけの泡沫の如き時間なのだから、たゞその時間のアブクの流れの消えないうちに餓鬼どもをしぼりぬいて地下に財宝を貯へてしまはねばならぬ。夜の王様の寿命もせゐぜゐ半年にすぎないことが分りきつてゐる。アル・カポネの故智を習ふのはこゝのところで、

「ぢやア、どうだらう。この店の名義を君にゆづるから、裏口営業がバレたら、君が刑務所へ行くかね。謝礼は十万はづもう」

「ふざけちや、いけませんよ。十万ぐらゐで臭い飯が食へますか。いくら私が働きがなくつたつて、ひと月に七八万は稼いでゐますよ。女房子供をウッチャラカシに養ふたつて、二万ぐらゐの捨て扶持ぶちはいるだらう。ちよッとオダテルてえと、あなたといふ人はすぐそれだから、宝の山にいつも一足かけながら、隣の谷底へ落つこつてばかりゐるんだな。私だつたら、三月くらひこんで百万、半年くらひこんで二百万、その半分を今、あとの半分はくらひこむ直前にいただかなきや。どこの三下だつて、この節の十万ポッチで刑務所の替玉をつとめますか。然し、あなたが三十万だしや、私が替玉を探してあげる。失礼だが、あなたのやり方ぢやア、とても三十万ぢやア替玉は見つからねえな。嘘だと思つたら、方々当つてごらんなさい」

「三十万だすぐらゐなら、僕が刑務所へ行つてくるね。僕はすこし睡眠不足でくたびれたから、刑務所で眠るのもいゝ時期だと思つてゐるから」

「なるほど最上先生なら、あそこで安眠できるかも知れねえな。然し、あなた、かりに替玉が刑務所へ行つてくれたつて、こゝの営業が停止されちやア、刑務所入りの方が安くつくやうなものぢやないか。そこんところも、手段を考へておかなきやいけない」

「むろん考へてゐるさ。その考へがなきや、替玉なんか探しやしないね」

 と、物事の計画に、思案の数々、深謀遠慮ぬかりのない大哲人のことで、タバコの軽い一服よりもアッサリとした御返事である。

 事実に於て最上先生はこの盛り場から郊外電車で四ツ目のところに、階下が八、三、二畳、階上が六畳といふ借家、二家族十人つまつてゐるのを三万円だかの立退料で交渉をすゝめてゐる。つまり先生はそつちの方へ自宅を移して、タヌキ屋の外に自宅営業、もつぱらパンパンと共同戦線で、特別の上客に限つてホテル兼料理屋、その代りパンパンには昼食をサービスしたり、アブレた時の無料宿泊にも応じ、ゆくゆくはパンパン・クラブの如きものを作つて特別の会員相手にイカサマぬきのルーレットだの、ダンスホールとバスルームづきの大ホテルなどを建設しようといふ、相談相手はパンパン姐御の吹雪のお静といふ睨みのきいた淑女であつた。

「私たちにいくらかづゝ利益がありや、どうせ私たちだもの、契約にのつてあげるわ。その代り、あんまり色気をださないでね。こつちはショウバイだから、ショウバイぬきの色気といふのは止しませうよ」

 吹雪の姐御は単純明快であつた。二十七、妖艶な麗人で、旦那も情夫も、定まる男といふものを持たない。万端色気をショーバイだけで押切り通してきたところに、姐御の貫禄があるのである。マーケットの親分代理といふやうな立派なアンチャンが焼跡へつれこんでピストルで脅迫してもダメ、くんづほぐれつの大格闘に服もシュミーズも破れてハダカになつても反撃ミヂンも衰へず、お金には買はれてやるよ、あんたに限つて洋服代をちようだいするから。アンチャンは洋服代の苦面くめんがつかず、いまだに目的を達してゐない。手下のパンパンが十七人、十八九から二十二三まで、たいがい女学校卒業の家出娘で、住所もなければ配給もない。後顧の憂ひがないから、快活で、個人主義のカタマリで、姐御といつても便宜上の一機関、仁義も義理も尊敬も愛情もない。それはさうにきまつてゐる。住所も係累もないのだから、いつ、どこへでも飛んで行かれる。どこでも開業できるのだから、たまたま郷に入つて郷に従つてるだけの話だ。

 吹雪の姐御はそれでもサスガに「私たち」といふ複数の言葉を用ひることを心得てゐるが、チンピラどもは一人称の複数などは用ひる場合を知らないやうなものだつた。お客と自分をひとまとめに複数にする精神もない。お客などゝいふものは、いつの誰さ? あゝ、あのアレか、彼女等は男を男として観察するのぢやなくて、蟇口がまぐちとして観察し、その重量と使ひッぷりに敬意を表する。

 オイランとは全く違ふ。インチキ・バアのインチキ女給とも違ふ。その違ひを決定づけるものは、住所がない、といふこと。いつ、どこへ行つても天地が同じであるといふ風流の本質に詭弁を弄せずして合致してゐるせゐなのである。

 アルコールの餓鬼取引には六ヶ月の期限がついてゐることを重々承知の上で、最上先生が意外、夜の王様の雄大な構想をくりひろげる。それといふのも、吹雪の姐御にいさゝかの思召おぼしめしが巣食つたからで、配下のチンピラどもにも捨てがたいのが七八名はゐる。肉体を切り売りしてゐる魔窟の姐さんとちがつて、荒んだやうなところはあつても、楽天派で、自然のやうに純粋であつた。

 彼女らは貯金魔だ。もらつた金は貯金して、買ひ物は男にせびる。握つたが最後、自分の金は使はぬといふ頑強な本能をもつてゐる。男に洋服を買はせ、次の男にハンドバックを買はせ、次の男に靴も買はせた。帽子だけが足りない。あすの男に帽子を買はせて揃ふけれども、一時も早く着てみたくて我慢ができぬ。そこで、ちよつとショートタイム、帽子をかせいでくるわ、昼からでかけて、一時間ほど後に帽子を被つて帰つてくるといふ稼ぎ方で、軽快、荒れてるやうで子供のやうな可憐な情感がこもつてゐる。帽子か、帽子は安い、オレが帽子にならう、と最上先生も言ひたいところだけれども、全部がナジミで、夜の王様の貫禄もあることだから、色気ぬきのショーバイだといふ先方の大宣言にも拘らず、全然スタートの恰好がつかないのである。そこで、もつぱら、夜の王様の構図に向つて実際的なスタートを切り、ケチな小パンパンへの情慾を、豪奢な大パンパンへの夢想によつて瞞着する。

「あつちのウチぢや、酒と料理の外に、麻雀、碁将棋、トランプ、花フダ、遊び道具を取り揃へてお客が自分のクラブのやうに寛いだ落つきをもたせるやうにするんだな。お風呂をつくつて朝から夜中までわかすんだ。その代り、特別よりぬきの上客だけに限定して、その連中だけ、とつかへ引きかへ遊びにこなきやならないやうな気分をつくらなきや、いけない」

「アラ、いけないわよ。クラブのやうに心得て勝手にノコノコやつてこられちや、お客がハチ合せしちやうわよ。そこでなきやならないなんて、きまつたウチは窮屈さ。街で拾はれなきや、第一、気分がでやしないや」

 青天井が骨の髄まで泌みてゐる。夜の王様の構図の如き、蔑むべき、卑小きはまる、家庭の模倣にすぎないのである。たぶん彼女らには同じ日の繰り返しが堪へられず、毎日が未知の旅行の期待によつて支へられてゐるのかも知れぬ。

 然し夜の王様は、彼女らがヂオゲネスではないことを見抜いてゐるから、パンパンどもは青天井の明るさと家の暗さを知るだけで、宮殿の生活なぞは知りやしない。王様の構図は夜の宮殿なのだから、無智無学のパンパンどもの臍をまくつたドグマチズムに驚くことはないのだとタカをくゝつてゐる。

 彼は然し思索癖の哲人に似合はず、きはめて現実的な実際家でもあり、富子を口説くときも、天妙教へ乗りこむ時もさうであつたが、かういふシニックな御仁は年と共に浪曼的に若返へるもので、彼が大学生の頃は鼻先で笑殺した筈の夜の王様の想念に、内々極めてリアルな憑かれ方をしてゐる。それといふのが大学生には女の肉体は夢想的なものであるが、四十男の最上清人に於ては的確に想定せられた肉体自体と好色精神の、夢といふものゝミヂンもない現実の淫慾があるのみだ、といふ、さういふ原理によるのであつた。

 そこで彼は夜の王様の現実的な把握のために神を怖れぬ不敵の一歩をふみだしたが、パンパンどものアミだか、配下だか、マネヂャアだか、パンパン共の口添へでタヌキ屋の仕入れ係をつとめてゐる五名のチンピラ、十八から二十二までの赤ネクタイの少年紳士、まつたくこの連中は食ふことよりもポマードだのワイシャツ、靴、靴下などに有金の大部分を投じてゐるとしか思はれない愛嬌のある国籍不明のマーケット人種、その中で最も図体が大きくて、ノロマで、ニキビだらけで、いつもニヤニヤ思ひだし笑ひをしてゐるサブチャンといふお人好しに、最上先生が目をつけた。

「サブちやん、たのみがあるんだがね」

「ヘエ、マスター」

「サブチャンを見込んで頼むのだけど、僕の片腕になつて協力して貰へないかな」

「アハハ。オレなんか、ノロマで、ダメだよ」

 カポネ親分なら、こんな時にカミソリよりも冷酷に死刑宣告的な用件を至上命令的に、きりだすだらうと考へたから、彼も亦、カポネ風にきりだした。

「タヌキ屋の名儀を君にゆづる。名儀料は月々五千円だす。そして、手入れがあつた時は、君が責任を背負つてくれる。罰金だけで済まなくて刑務所へ送られた時は、当座の謝礼に五万円、刑期が終つた時は、この店の月々の利益の半分は君のものだ。同時に君はこの店の支配人であり、僕のあらゆる事業の最高の相談相手、会社なら、副社長といふところだね。承知かね」

「ハア」

 サブチャンは呑みこみが悪いから全然ポカンとしてゐる。そこでユックリ、かんで含めて説明をくりかへす。

「ナルホド、へえ」

「名儀料の月々五千円は今日からあげるよ」

 そのときサブチャンと一緒にノブ公といふ最年少、十八の少年がゐた。五尺そこそこのクリクリした丸顔のいつも陽気で、これ又いつもニコニコしてゐる愛嬌者だが、こつちの方は血のめぐりがよく、商売上手なところがある。

「サブチャン、いゝねえ。アタクシも一口、マスター、オタノオします、ヘエ」

「君はダメだよ。未成年者ぢや、警察が相手にしやしないから」

「でも、マスター、アタクシも支配人の見習ひぐらゐに、ゆくゆくは支配人に取りたてゝいたゞきたいので。刑務所ならアタクシが身替りに参りますよ。御礼なんぞはサヽイでよろしいので。もつぱらアタクシ将来の大望に生きてをりますので、ヘエ。マスター、一本、いかゞ」

 と、胸のポケットからシガレットケースをとりだして、上等なるタバコをすゝめる。追つかけてライターの火を慇懃いんぎんにすゝめる。如才がない。

「君のうちは何をしてたの?」

「ヘエヽ。マスターも人が悪いな。こんな時に身元調査は罪ですよ。アタクシのオトッチャンはたぶん男だらうと思ひますけど、それを訊いちや罪でせう。オッカチャンは洋食屋を営業致してをりました、露店なんで、トンカツ、三十銭、こんなに厚い。でも、隣のトンカツにくらべると、ココロモチ薄いんで、女はなんとなくケチでして」

「オレ刑務所へ行つてきます」

 とサブチャンが決心に蒼ざめて、言ふ。出世の手蔓を人にとられちや大変だから、いさゝか、せきこんでゐる。王様は無言、懐口のズッシリふくらんだ財布から五千円つかみだして、握らせる。

「アレ、目の毒だわよ、マスター。アタクシも忠義したいのよ、イケマセンカ」

「いづれ何か頼む時もあるさ」

 五枚、ノブ公に握らせてやる。

「エヘヽ。健康を祝します。一本、いかゞ」

 チョッキのポケットから別のシガレットケースをとりだす。こつちのケースには更に上等のシガレットがつめこんであつた。


          


 落合天童は六・一自粛、政府の決意たゞならぬことを見とゞけたから、裏口営業などゝいふケチな稼ぎは考へない。

 ちかごろマーケットに養神道施術といふアラタカな仙術使ひが現れて、占ひもやる、病気も治す、身の上相談にも応じる、尚その上に宗教の信心を説いて、教理がまことに的確深遠であるといふ。大へん評判が高くなつて、遠いところから遥々はるばるくる人もたくさんある。身のふり方、お金もうけ、商売繁昌、神様の心にふれると、色々の方面にわたつて、惜しみなく御利益を下さる。

 こゝのマーケットは半分店を閉ぢてゐるが、その中の馬小屋を三ツ占めて、先づ上ると、待合室、その次が、伺ひの間と云つて、こゝで神様の高弟が人間と神様との中間的な仙境から冷酷無慙な反射鏡をさしてらして過去の罪障にカシャクなく迫る。すべて罪障が明るみへさらけだされて、自ら痛悔が行はれ、心も洗はれ改まつて赤子の無心に戻ることができたとき、愈々奥の間で神様に対座することができる。

 最上清人もそのたゞならぬ御利益を伝へきいたから、未来の運勢、夜の王様の構図に就て、神様の助力を仰ぐことにした。待合室から伺ひの間へ通されると、真ッ白な筒袖の着物をきた背の高い若い男が自然の愛嬌のこもつたニコニコ顔で迎へてくれる。これが神様の高弟で、人間と神様の中間の仙境から反射鏡をさしてらすといふ仙術者、つまり落合天童なのである。

 ヤア、しばらく、と最上清人が対座して、タバコをとりだして火をつける。

「あ、いけません、いけません。こゝでタバコをすつてはいけません。この部屋では虚心と充心といふものを行ひますから、あなたはもう外界の生活からカクリされなければいけません。ちよッと、あなた、手相を拝見いたしませう。なるほど、この線が成長してゐる、この外の線は目下停止してゐますな。そちらの手は? こつちぢやこの線が活動してゐる。だいぶん活動がたくましい。危険が多い。人の運勢は精神で見ちやいけません。たゞ物質として判断する。手相の示すまゝに物質として解くのです。この線の動き、これは慾望です。慾望の線なら誰でも動いてゐるにきまつてゐさうなものですが、案外なもので、六割かた、この線は停止してゐるものですな。あなたのこの線には色々の線が複雑に交錯関係してゐる。まるで、少年みたいに生長してゐるんだな。そのくせ根本が薄い。根の小さな植物がどんどん生長する。この線がさうです。あなたの現在を語つていたゞけますか。あなたが助言をもとめてをられることは?」

「僕は事業を考へてゐるんだけどね。僕は然し、それに就て、直接神様の判断をきかなくともいゝんだ。きく必要もないね。たゞ、君たちが僕の何かから何かを感じとつて、なんとか云ふのをきいて、参考にするつもりなんだらうな。君の方で何か、なんとでも、やつて下さい」

「ハア。それは的確に、もう、全然、究めて下さるです。私なんか、まだ全然人間の知識からぬけきれないから、運命といふものに物的に即す、さういふ世界ぢやないですな。たとへば、あなたのこの手相でも、手相自身が語つてゐる、私はそれを人間的に読む、ですから、いけない。然しですな、私が見ても、この手相はよろしくないです。ツギ木に花がさいてる。季節ぢやなしに、狂ひ咲きです。あなたは、とんでもないことをしてますね。それは小さな無理です。然し、結局とんでもないことだ。さうなるのです。あなたは何か、たとへば、こんな、たとへばですよ、こんな風な無理をしたことはありませんか。たとへば十円の料金の何かゞある。あなたはそれに二十円払つて、まアとつときな、と言ふ。とんでもない無理だ。それに、あなた、こゝに一つ生長の反対、消えつゝある線がある。智能線の分脈したもので、つまり知性に当る線です。あなたは没落してゐるのです。あなたは学問を信用しちやいけませんよ。学問なんか、手の線に現れやしません。手の線に現れるのは、五円もうけるところを十円もうける人、十五円もうける人、さういふ智能が現れる。あなたの智能は、だんだん消えてゐる。いゝですか。あなたは今、どんどんお金がもうかつてゐるかも知れません。然しですよ、お金をもうける智能は消え衰へてゐる、こんな手相はルンペンなんかにある手相で、ルンペンだの失業者だの生活能力のない人間は、みんなこれと同じやうな智能線でして、あなたの手相が示してゐるものはルンペンにすぎないのです。その上、無理をして、損をする、ルンペンであり、更に又、没落の相がある、ルンペンの相と没落の相と両方あるといふのは、いかにもヒネクレた手相だなア。これは奇怪なまでに悪の悪、これほど下等な手相は殆どない。私は始めてゞす。全然無智無能、人間の屑、屑の屑、ルンペン以下、いつたい、そんなのが現実的に在りうるのかな。これは奇怪そのものだ。ちやうど番がきましたから、見ていたゞきませう。さア、どうぞ」

 奥の間に羽目板にもたれて、ウツウツと居眠るやうに坐つてゐるのが、聴音機のオバサンであつた。明るい花模様のヒフをきてゐる。

「あなた、たゞ、坐つてらつしやい。何も仰有おっしゃる必要はない。用件も、万事わかつてゐらつしやるのです。すでにもう、あなたと同化してゐらつしやる、お告げがあるまで、お待ちになつて、ゐらつしやい」

 と、仙境の人は、神の坐にはたまらぬ如くにソソクサと引き下る。

 聴音機のオバサンは一メートル一五しかない。ビッコだけれど、坐つてゐれば分らないやうなものだが、坐つてゐてもビッコのやうな坐り方で、ヤブニラミだけれど、これも目を閉ぢてゐるから分らないやうなものだが、目を閉ぢてゐても両の目の大きさが違ひ、一つは一の字、一つはへの字の形をしてゐる。獅子鼻の下に、出ッ歯の口をあけて、その歯の汚らしいこと。神様になつても、髪の毛をモヂャ〳〵たらしてゐる。深刻めいたところが全然なく、無智無能、たゞポカンと目を閉ぢてゐるだけで、二分ぐらゐで、目をとぢたまゝ、

「いやになつちやうね」

 と、すこし、首をふつた。

「いやになつちやうね」

 又、しばらくして、

「いやになつちやうよ」

「何が?」

「バカは死なゝきや治らないよ。お前はバカだらう」

「さうかも知れないね」

「お前はもう、いゝ。お下り。ムダだよ」

「何がムダなんだい」

「バカは仕方がないよ」

「バカか。バカがお前さんよりもお金をもうけてゐるか」

「女に飢えてるよ。アハヽ。いけすかないバカだ。助平バカ」

「お前も男に飢えてるだらう」


 最上清人は立上つて、ノッソリ伺ひの間へ戻つてくる。別のお客と対座してゐた仙境の人が、最上を目でまねいて、

「あなた、ちよッと」

「もう、いゝよ、分つたよ」

「ちよッと、手相を」

 今度は天眼鏡で、つぶさに見究はめて、

「下の下だ。仕方がないんだなア。あなた、お告げに見捨てられたのは、あなた御一人ですよ。さうなる以外に仕方がない。あなた、然し、どうでせう。養神道の道理に就て、すこし、心をみがゝれては。私が手ほどき致しますが、養神様からも毎日一言二言おさとしがある筈です。このまゝぢやア、あんまり、お気の毒です」

「養命保身かい?」

「それもあります。一言にして云へば、クスリ、すべてを治す、ですから、クスリ、養神様はあなたを見捨てたけれど、あなた、見捨てられちや、いけません。もう一度伺つてごらんなさい。伺ひなさい。あなたに伺ふ心が起れば、見捨てられない証拠です。伺ひますか。いかゞですか」

「ふん」

 清人はひやかしてやる気持になつた。それで、ふらりと、再び養神様の前に立つ。

「お坐り」

 清人はあぐらをかく。

「よい子になつた。今にだんだん坐るやうになるよ。今日はお帰り。又、おいで。信心のはじまりは、そんなものだよ。叱りはせん」

 清人は外へでゝ背延びをしたが、養神様はほんとに何か通力があるのかも知れないといふ気持もした。


          


 最上清人は近ごろ人間の顔の見方が違つてきた。

 以前は小数の「不可能型」といふものを愛してをり、つまりこれは哲人の顔なのである。その他は資本家も政治家も貴族も、ましてボンクラ共は、みんな一まとめにその他大勢の有象無象といふわけで、オヒゲのピンとはねてゐるのが陸軍大将だらう、などゝ俗でない見解にアッサリ万事を托して落付きはらつてゐたのである。

 近ごろは、さうはいかない。

 資本家顔、政治家顔、貴族顔、彼はさういふ通俗な型には今更驚きもしなかつたが、とるにも足らぬその他大勢の有象無象に「現実顔」とでも言ふべきものを発見して、一方ならず讃嘆した。哲学者はさすがにエモーションの出方が違つて、彼は即ち、これを讃美したのである。

 その顔は三万円や五万円をポイと払つて行く顔だつた。そのくせに商人のやうに如才がなくてインギンで、つまり彼等は抜目のない商人なのである。彼等は現物を見た上でなければ取引しないといふチャッカリ屋で、カラ手形といふものが全然きかない現実家であつたが、そのくせ彼等は現物を見ずに取引してゐるのである。

 これはいつたいどういふカラクリによるのだらう。つまり彼等自身が骨の髄からのチャッカリ屋で、現物を見ずに取引する不安の心理を知りぬいてゐるから、逆に現物を見せずに取引する手段、コツ、無限の工夫を案出することもできるわけだが、要するにサギ師なのである。然し彼等も現物を見ずに取引するから面妖で、平気でサギにかゝるのである。といふのは、自分もサギにかゝる代りに、そのネタによつて更に多額のサギをはたらく見込みをつかんだからで、サギ師とサギ師の取引といふものは禅問答以上に専門的で不可解きはまるものであつた。

 世耕情報といふものがある。彼等はそれと直接何の関係もないけれども、それをキッカケに無数のカラクリを案出して儲ける手腕をもつてをり、サギにかゝつた本人をのぞけば、彼らは誰に対してもインギンで、親切で、善良だつた。

 彼らはみんな若かつた。二十七八、三十前後、どこの馬の骨だか分らない通俗的な顔をしてをり、事業家の顔でもなければ政治家の顔でもない。サギ師の顔でもないのである。そして千差万別だつた。

 木田市郎はいかにも身だしなみのよいセールスマンといふ様子で、女性的なざらに見かけるタイプであつたが、シサイに眺めると讃美すべき新時代の個性がある。これは私の説ではない。最上清人の発見なのである。

 タヌキ屋のお客にエロ出版の社長がゐて、木田市郎から二百連ほどの紙をまはしてもらつたことがあつた。その話を耳にした、これもお客の一人の出版屋が木田市郎が来た折に紙をたのんでくれと言ふので、承知しました、最上清人も近ごろは言葉がインギンなものである。大商人ともなれば、おのづから、さうなる。木田市郎に話を伝へると、

「えゝ、今はありませんけど、近いうちはいりますから、まはして上げませう」

「失礼ですが、イントク品を払下げていらつしやるのですか」

「いゝえ、テキハツ屋ぢやありませんよ。私はたゞのセールスマンですから、つまり私は製紙会社へ品物を納めるお代に紙で支払ひを受けるのです。先方で現金よりも紙で支払ひたがるから、私が自然ガラにもなく紙のヤミ屋もやるやうになるだけの話なんです。私は紙は門外漢ですから、その時の取引のお値段で譲つてあげますから、あなたがそれで御商売なすつたら」

「それも面白いでせう」

 最上清人はエロ出版の社長などゝいふ当り前の実業家は眼中に入れてゐない。政治屋も大会社の社長も陳腐で馬鹿らしく見えるのである。筋のないところで魔法的なビヂネスを愉快にやりとげ、たのしく遊んでゐる新時代の新人だけがたのもしく見える。政治屋だの社長などゝいふ型通りの商売人は家庭でヤリクリ算段の女房みたいなもので、闇ブローカーといふものは定まる家もなく定まる商売の筋もないパンパンガールのやうなもので、人生到るところ青山、青空、愉快な人間に見えるのである。

 最上清人と哲学との関係はこゝに到つて全てが明白となつたが、まつたくこれはたゞバカバカしいものであつた。彼はたしかに哲学者であつた。彼が哲学者であるとは、人間を裏切るといふことであつた。

 彼は昔は貧乏であつた。だから哲学者であつた。富も権力も持たなかつた。だから哲理といふ代用品で間に合せてゐたわけで、彼の哲学は彼のゐる場所とか位置のものであり、彼といふ「人間」のものではなかつたのである。

 だから場所や位置が変ると、哲学も変る。人間によるものぢやない。

 貧乏してクビをビクビク安月給で働いてゐたころは、人間は孤独なものだと考へ、死にや万事すむんぢやないか、さう考へてゐたのはツイ先日までのこと、だから内心ビクビクしても案外傲然空うそぶいて課長を怒らして常に後悔に及び恐怖に悩みながら、ともかくウハベはいつも空うそぶいてゐられたのである。近頃はさうはいかない。

 彼はもう孤独ではなかつた。多少の富と権力を握つたからで、死にやいゝんだと今までの口癖通りイノチの方をアッサリ突き放したつもりで空うそぶいてみても、富と権力を突き放すことができないから、もう哲学だの思想だのと、そんな悠長な世界ぢやない。思想が変つたなどゝいふ生やさしい話ぢやなくて、人間が変つてしまつた。変らざるを得ないのだ。つまり彼の哲学は、彼の人間によるものぢやなくて、もつぱら彼の境遇によるものであつたせゐなのである。

 彼は昔、課長や重役にやられたよりも、もつと冷めたく命令し、コキ使ひ、怒鳴りつけ、口ぎたなく罵つた。弱者に対して全然カシャクするところがないのである。

 昔は弱者には同類の親しみを寄せ、強者に空うそぶいてゐたが、近頃はあべこべで、強者に同類の親しみを寄せ、揉手もみでをしてオアイソ笑ひを浮べる。昔はまつたく笑つたことのなかつた顔だが、自然にほころびて、今日はいつもにくらべてお若く見えますね、だの、そのネクタイは好ましいです、などゝモンキリガタのお世辞を使ふ。

 昔弱者に同類の親しみを寄せたころは、実際は彼は孤独で、親しみなどは寄せてはをらず、貧しく弱い己れをそのやうに眺めることによつて、なつかしんでゐたのであつた。

 強者に親しむ今となつては、そのやうな自分を眺めてなつかしむ余裕などは、もはやない。揉手をする、オアイソ笑ひを浮べる、すると先方もいとインギン丁重に如才なくお返しするけれども、実はこつちを突き放して通りいつぺんの御愛嬌にすぎない。最上清人はさうぢやなくて、強者に同類を発見する、さうすることによつてしか自分を発見することができないといふ動きのとれないギリギリの作業を営んでゐる次第。同じオアイソ笑ひも品質が違つて、自分の方の貧しさが分らぬ男ではないから、近頃は無性に怒りつぽくて、弱い奴にはのべつ怒鳴りつけ罵つて蹴飛ばしかねない勢ひ。そのくせ新円階級に会ふと、まるでもうダラシなく自然に揉手をしてオアイソ笑ひを浮べてしまふ。

「実は最上先生、今日はお願ひの筋によつて参上したのですが」

 と倉田博文が現れて、

「御承知ぢやないかも知れないが、ちかごろは世間にお金がなくなつたんだなア。近頃はあなた、巷に物がダブついてゐるけれど、買ふお金がないんだね。買つて売れば、もうかる。けれども買ふお金がない、その一つが紙なんだな。紙はある。どこにもある。これを買つて本にして売れば、もうかる。けれども紙を買ふお金が出版屋の金庫になくなつたといふから、深刻であるですよ。この時あなた、こゝに大資本を下してごらんなさい。先づ紙を買ふ。現品で紙を持つてる本屋なんぞは、もう日本にはないんだからな。次に漱石でも西田哲学でも何でも買ふ。買へますとも。金さへ有りや、何でもできる。さういふ時世なんだから、そしてあなた、こんな時世といふものは今まで一度だつて有つたためしがないんだから、話はそこのところなんだな。伝統も権威も看板もシニセもありやしない。みんなお金でヒックリかへる時世なんだから、それをヒックリかへさなきや、この着眼の問題なんだな。闇屋さんなんぞは、もうあなた、ありきたりのものですよ。三井、三菱、くさつても鯛、一時はヒッソクしても潜勢力、横綱のカンロク怖るべし、なんて、そんなあなた、きめてしまつちやいけないなあ。闇屋さんなんぞは新円景気、自ら時代の王者でありながら、内心は、三井三菱、今に必ず盛り返す、なんて御本人がさう考へてゐらつしやるのだから、お里が知れるといふものです。たゞ着眼の問題です。自らヒックリかへすものが、真実ヒックリかへすことができる。一流の作家と作品を買ひ占めて強引に押切つてごらんなさい。一年のうちに、日本出版界の王者はあなた、誰も疑る者がない。昔の記憶といふものは、これを亡す者の在ることによつて、忽ち必ず消滅する。不思議な時代を看破したものゝ勝利です。実はね、私の友人に西田哲学でも三木哲学でも漱石でも、一流中の一流はなんでもちやんと筋の通つた方法でとれるといふ稀な人物がをるです。こんな優秀なる人物は天下に二人とゐませんや。元伯爵、今も伯爵かな。新憲法てえのを知らねえから分らないけど、藤原氏の末席ぐらゐにつらなつてゐるオクゲサマで和歌だか琴だか、みやびごとの家元かなんかに当る古風なお方であらせられるのです。兄小路キンスケと仰有る。明晩つれて参るけど、いかゞでせうか、新円を死蔵しちやアいけないなあ」

「君は古風だよ。見当違ひばつかり言つてるぢやないか。だからウダツが上らないんだよ。著作者とかけあつたり印刷屋とダンパンしたり、何ヶ月もかゝつて紙を本にしたつて、くたびれもうけさ。現品を買つて、右から左へ動かして、もうかる。この方が利巧にきまつてるぢやないか。ありきたりの闇屋さんが、数等利巧なんだよ。君にはアリキタリがいけない仕組になつてるのさ。ひと理窟ひねつて、何かしらホンモノらしい言ひ方をみつける。それだけだ。然し、種がつきないね。尤もらしく、巧妙なものぢやないか。然し、君自身、一度だつてもうけた例がないやうに、君が退屈したためしがないのが、不思議だね。ナンセンスだよ。ハッタリのバカらしさ、無意味さ、君は古風そのもの、古色蒼然、まつたく退屈そのものだね。もう、よしてくれ。君の時代はすぎ去つたのだ。いつの時でもアリキタリなのがその時代の真理なんだよ。アリキタリにもうける奴が、ほんとにもうけてゐるんぢやないか。第一、物はあるけどお金がないなんて、どんなにチャチな闇屋にしても、この節それほど手管のない口説はやらないものだよ」

「これは驚いたな。物はあるけど、お金がない。紙はあるけど、お金がない。これを御存知ないのかね。インフレ時代といふものは川が洪水になるみたいに、同じ情勢が激化するだけのモンキリ型のものぢやアないです。昨日までは鐘や太鼓で探しても無かつたものが、今日は津々浦々に有り余るほど溢れでゝゐる。買ひ手がない。すると又、いつのまにやら無くなつて、鐘と太鼓、お金を山とつんでもお顔を拝ませてくれなくなるといふわけです。紙がない。いくら高くても買ふ、それはあなた、一ヶ年以前の話ですよ。タヌキ屋の裏口の御常連はもつぱら天下の闇屋さんの筈だといふのに、これは又不思議な話があるものだ。闇屋さんなら専門がちがつてゐても出廻りの品を知らないといふ筈がないけど、然し最上先生は悪運の強いお方だなア。なんにも世の中を知らないくせに、お金がころがりこんでくるんだから、街道筋のお百姓と同じやうなものなんだね。それはあなた、右から左へ物を廻したゞけでも、もうかる時は大いにもうかるです。然しあなた、インフレ時代すぎ去れりとなつた時にはそれまでのこと、そこを地盤に何もできやしないぢやないか。現在は時代といふものぢやないからな。流れの泡です。インフレが終つたときに泡が消えて流れの姿が現れる。この流れは然し昔の流れぢやない。今にしてよく志す者だけが自ら次の流れの主流をかたどることができる。あなたがもし今にして志すなら忽然として次の日本の出版王者、泡が消えると、いやでもさうならずにはゐないといふ、歴史稀なるこの時コンニチの特異なところが看破できないのかなア。失礼ながら、現在のあなたなんぞは、たゞのアブクにすぎないよ。最上先生ともあらうお方が、なにがしのお金を握るとかうまでヤキが廻るものかな。それはあなた、マグレ当りにしろ、大金をもうけることは、ともかく偉大なる行跡ですとも。然し、ふざけちやいけませんよ。要するにマグレ当りといふものはマグレ当りさ、何もあなたが時代の赴くところを看破した眼力によるところはないぢやないか。こんな時代ぢや、落語の与太郎がもうけますよ。満員列車にのしこんでお米を担いでくりや、重役の月給の何倍ぐらゐもうかる仕組みにできてる、力づくだね、芸のねえ時世があるものだ。失礼ながら最上先生裏口営業の荒かせぎは与太郎の力業と異るところはないだらうな。与太郎の荒かせぎ、そんなものは時代ぢやないです。たゞ一場のナンセンス。今を時代とよぶならば、たゞナンセンスの時代、それ以外に裏も表もありやしないよ。戦争中は哲学界の御歴々が「日本的」なんとかだなんて、ナンセンスのおツキアヒを御当人はシンからマヂメにやつてゐたけど、軍需会社の重役や陸軍大将でも腹の底ではフキだしたいのを噛み殺して拍車を鳴らしたりしてゐた様子にくらべて、哲学者てえのは誰よりもマヂメに打ちこんでおツキアヒをしてしまふから怖しい。つまり何だね、ロゴスだの宇宙だのと、とてもボンクラの手のとゞかないことばかり思索しながら、実は目先の現実にツヂツマを合せるだけの能しかねえのぢやないかなあ。現実の権勢に盲目的に崇拝ツイヅイなさるのは、そしてそのために宇宙のツヂツマまで合せておしまひになるといふ、哲学者ぐらゐ安直重宝な方々はゐないな。三年前までは日本的なるものゝ発見、今日ビは与太郎の発見、色々と発見なさるですよ。然し今日にして真の明日を看破して杭を打つ者が来るべき日本の王者であるといふ、たつたそれだけのことが分らねえとは。いえ、分りました、与太郎の発見これまた趣向だアね。ともかく発見が好きなんだア。けれども今在るものを発見、それは発見てえんぢやあねえな。与太郎の方は与太郎自身を発見したかも知れねえけれども、最上先生の方が発見したてえことにはならねえだらう。発見させてもらつたんだな。それも亦、発見か」

 と倉田博文、例になくオカンムリで頭から一時は湯気のたつ様子であつたが、いつまでもコダハルやうな御方ぢやない。

「いや、相分りました。その話はもう止しませう。時に先生、私にもお酒とかビールぐらゐは売つて下さいな。たまには世にめずらしい高価な酒も飲んでみてえな」

「売らないね」

「アレ、ひどいな、この人は。いつごろから、そんなことも言へるやうになつたのかな。稼ぎといふものはコマカク稼ぐところにも味があるもんだけど、こんなことを言ふから、私はもう新時代ぢやないてえことになつてしまふんだな。然しあなた、野武士時代といふものは今日始めてのことではないです。野武士の中から新時代の新人もたしかに現れてくるけれども、極めて小数の心ある人物だけで、荒稼ぎッぱなしの野武士といふものは流れの泡にすぎないです」

 倉田は立上つて、

「ぢやア、最上先生、先刻の話、例の元伯爵、兄小路キンスケを明晩つれてくるてえ話は中止としませう。ぢやア、また、近いうちに、いづれ。ハイ、ゴメン」

 と帰つて行つた。

 するとそれからものの三日もたつたころ、おひるすこし廻つたころ木田市郎がトラックで乗りつけて、

「とつぜん仙花がはいつたから六百連ほど持つてきましたけど、どうなさいますか。ザラもあつたんですけど、これを所持してウロツいてると、つかまつてしまふから。こんなに汗をかきましたよ。それ急げてんで運搬のお手伝ひまでするもんですから、逃げ足もいる、ヤミ屋渡世は一に筋肉労働で。市価は二千五百ださうですけど、二千四百でお譲りします。もう御用は済みましたか。なにしろ、いつはいるといふ予定のたつ仕事ぢやないから、皆さんに御迷惑をおかけしますよ。では、先を急ぎますから、いづれ又、後ほど」

 最上清人は、まア、ちよッと、と引きとめて、

「六百連ですね。こんなチッポケなウチぢやア、置き場所の始末がつくかな。ともかく譲つていたゞきませう」

「さうですか。かうして現物がちやんと横づけになつてるなんて取引は当節めつたに見かけない珍景です」

「どうもありがたうございます」

 居合せたサブチャン、ノブ公その他それといふので運びこむ。居間につみあげ、残りを座敷と土間の客席の隅へもつみあげる。

「アラマ。百四十四万円。電光石火、アレヨアレヨといふヒマに稼いで消えてしまつたわヨ。アタクシもヤミ屋のハシクレだけど、ピース十個握りしめて、イヤンなつちやうな。せめて自転車一台ぶんのピースをまとめて売つてお金が握つてみたいワヨ。アタクシの切なる胸のウチ」

 ノブ公はポケットからピースをだして

「誰か買つてくれないかな」

 最上清人は一枚やつてピース一箱、一本をぬいて口にくわへてチンピラ共の傍を去り、ひとり居間に立ち倉庫の如くにギッシリつみあげられた紙の山に見いる。

 彼は満足であつた。

 かういふ満ち足りた思ひを経験した記憶があつたであらうか。子供のころは、もつと有頂天の歓喜があつた覚えがあるが、今、彼は落付いてをり、まるで平チャラのやうで、水の如くに淡々として、そのくせズッシリふくらんだ蟇口の手応へのやうな、極めて現実的な感覚が精神について感じられる。

 金を持つ喜びといふものは、貧乏のころからでも心当りのない人間といふものはない。然し、物を持つ喜び、充実、満足、彼はつい三十分前までそれを予想もすることができなかつた。

 最上清人は先刻木田市郎がトラックをのりつけ話をもちこんで今にも帰りかけたとき、ま、ちよつと、それでは譲つていたゞきませう、と思ひ決して言つた。まつたくあの瞬間には目をつぶつて穴ボコへ飛び降りるほど思ひ決してをり、考へる余裕がなくて、トッサにヤケクソにサイコロをふつた態であるが、実際は甚しく不安であつた。

 彼はまつたく素人であつた。闇ブローカーの取引といふものを盲目的に怖れたのである。然し、かうして現物を握るといふこと、そこに不安のあるべき何物もある筈がないではないか。円価は日々に低落するが、紙は日々値段が高くなるばかり、一年前には百五十円でも高いなどと二の足をふみ、仙花などはたゞの五十もしなかつたものだ。一年間に五十倍の値上りであり、金の方はそれだけ値打が低落しつゝあるのである。

 山の如くに物をもつといふこと、現に山の如くにあるではないか。なんといふ充実感であるか。蟇口のズッシリとした重さとふくらみが現に彼の精神そのものではないか。

 闇屋にとつては物は彼等の所持品ではない。それを動かすことによつて金にかへる性質のもので、彼らはこれらの物、山の如き物を所持したといふ充実感は多分いだいたことがない。最上清人は、さう思つた。

「まつたく。闇屋なんて、泡のやうなものなんだな」

 彼は倉田の言葉を思ひだして、むしろまつたく愉快になつた。

 オレはヤミ屋よりも上の位のものなんだ。つまりヤミ屋は単にオレの宿命的な手先のやうなものぢやないか。

 泡は消えるが、紙が残る。そして、やがて、夜の王様が残る。然り、単に紙の山だけではない。今にやがて、あらゆる物の各々の山がズッシりとすべて彼の所有となつて残ることになるだらう。

 彼はフンといふ軽蔑しきつた顔をして、クルリとふりむいて紙の山に訣別した。たかがこれしきの紙の一山! 考へることの一々があんまり豪放なもので、彼はてれて、クツクツ笑つた。そしてひとつ退屈さうに背延をして、裏口をあけて一人コツコツ街へ消える。マーケットでコーヒーのお酒をのんで、いつまでもクツクツと喜悦の笑ひが心持よくつゞいてゐる、まつたく、どうも、物質の充実、これは驚くべき充実だ。

 彼はウットリした。


          


 翌朝、仙花紙の山の谷間のやうなところでグッスリねむつてゐると、朝つぱらからヤケにドカ〳〵戸をたゝいて、はてはどうやら蹴とばしてゐる奴がゐる。

 起き上つて、表へ廻つて戸をあけると、もう初秋だといふのに、まだヘルメットをかぶつて鼻ヒゲをたくはへたふとつた男がヌッと現れ、

「ヤア、コンチハ」

 言ふと同時に土間につんだ仙花紙を見つけて、ヤヤと叫んで、ふりむいて、

「あゝ、ある、ある。やつぱり、こゝだぜ。みんな、こい」

 見ると表にトラックが横づけにされ、大男が五人とび降りてきて、

「やあ、ある、ある。なるほど。これつぱかしぢやない筈だ。こゝかな。ヤッ、こゝにも在る。まだ、ある筈だな。こつちかな。や、あるぞ、あるぞ」

 誰一人、てんで最上清人にペコリと挨拶はおろか、目をくれた奴もゐないのである。まるでもう倉庫を自由に歩き廻るやうに、勝手に奥へのりこんで戸をガラガラあけ、お勝手で水をのんでゐる奴、遠慮なく便所で小便たれる奴、乱暴狼藉、すると次には入りみだれて仙花紙をセッセとトラックへつみはじめるから、

「もしもし、あなた方は何者ですか」

「アア、さうさう、私たちはね」

 ヘルメットの鼻ヒゲはポケットから役人の肩書の名刺をだして見せて、

「こんな風な者さ。なんしろ、君、あの野郎、木田市郎といふヤミスケ先生ね、あの野郎は君、とんでもないことをやりやがるよ。この紙は動かしちやいけない物なんだ。いづれはヤミスケ先生の手に渡る品物かも知れないけれども、目下は君、いと厳重に封印された倉庫の中の預り物ぢやよ。あの野郎め、スバシコイヨ、白昼これだけの品物を堂々と運びだしやがつたからな。私は君の方の話のことは知らないよ。それはいづれ木田の野郎をとッつかまへて、ダンパンしたまへ」

 それから、ドタバタ、店中をひつかきまはして紙を全部つみこんで、ヤアとも言はず立ち去る気配だから、

「オットット、お待ち下さい。いつたい木田さんは警察にあげられてゐるのですか」

「別に警察にあげられやせんよ。なぜ?」

「なぜつて、ぢやア、あなた方、なぜ私の買つた紙を持ち去るのですか」

「だから君も、わけが分らない男だな。闇の紙をシコタマ買ひこむ狸のくせに、いゝ加減にしろ。さつきから言つてるぢやないか。この紙は売つたり買つたり出来ない性質の紙なんだ。あの野郎、人の目をチョロまかして持ちだしやがつて、だから君はあの野郎とダンパンすりやいゝんだ。どうせヤミスケの動かす紙は曰くづきにきまつてらアな。それぐらゐのこと、君も覚悟がなくちやア、だらしのない男ぢやないか」

 叱りとばされ、目玉を白黒するまもなく、トラックは角をまがつて消えてしまふ。皆目わけが分らない。

 するとその日の暮方になつて木田市郎がタクシーでのりつけて、

「どうも、あなた、すみません。実にどうも、とんでもない手落ちで。なに、あなた、あれでどこへ売つちまつたか売先が分らなきや、話はそれなりになつたんですよ。万事ヤミの品物はたいがいそんな物でして、あいにく、あなた、運転手に鼻薬がなかつたもんで、そこからバレちやつたのですよ。まつたく一代の失策です。いえ、必ず、紙は又、おとゞけします。いえ、紙ぐらゐ、どこにでも、何方連、山とありますから、そのうち、ちよいと、又、トラックで横づけに致しますから。それでは今日は急ぎますから、いづれ三日ほどあとに、いえ、お詫びにくるわけぢやありません、現物をつみこんで横づけに致しますから。どうも、本日は、すみません。では」

 待たしておいた車で、風の如くに消え去つてしまつた。お金を返してくれといふヒマなどは全然ない。サギだか過失だか、見当をつける余地がないから、万感胸につまり、アレヨと見るまに取り残された自分の姿があるばかり。

「ラツワンだね、マスターは。紙の山がもう消えちやつたワヨ。気にかゝるワヨ、百四十四万円すると、マスター二百万ですか。アタクシは二十個のピースがまだ昨日から売れ残つてをりますんで、ヘエ」

「昼間は当分店をしめるからチンピラ共はどこかで遊んでゐろ」

 パンパンやチンピラをしめだして鍵をかけて、たゞ一人、黙々とウヰスキーを飲んでゐる。三日たち五日すぎても木田市郎は現れない。

 木田の名刺をたよりに商会を訪ねてみると、そこのマーケットはとつくに火事に焼き払はれて、今はキレイな原つぱになり、人々がキャッチボールをやつてゐる。

 失恋の苦しみなどゝいふ月並なものと話が違ふ。失恋などはたゞ夜がねむれない、不安、懊悩、タメイキ、まことに平和でよろしいものだ。最上清人の胸の不安、絶望感、それは類が違つてゐる。失恋などはせゐぜゐクビでもくゝつてケリであるが、最上清人は人のクビをしめつけて殺したい。木田やヘルメットの鼻ヒゲばかりぢやない、人間といふ人間どもをみんな殺して木にブラ下げてやりたいのだから、ピストル強盗などといふチンピラ共の荒仕事とは違つて沈鬱である。

 黙々とのむウヰスキーに血の絵画がうつる。どいつも、こいつも、しめ殺す。のこぎりビキ、火アブリ、牛ざき、穴つるし、水責め、なんでもやる。

 昔はいざとなりや自分の首だけしめつけてオサラバときまつてゐたが、今はもう、むやみやたらに人の首をしめ殺すことを考へて、頭が殺気でゴムマリのやうにふくれ上つて後頭の痛むこと。後頭へ二ヶ所ほど風孔かざあなをあけて、充満の重い殺気をだしたいやうな気がする。五分と枕に頭をつけてゐられず、いくら枕をとりかへてもダメ、枕の中に小石がまじつてゐるやうな堅い突起の手応へであるが、起き上つて枕をしらべると、枕のせゐぢやない。後頭のせゐなのである。後頭はとりかへるわけに行かない。

 戸をたゝく奴がゐる。昼間戸をたゝく音をきくと、一時に血が頭へ上つて、ハズミに身体が宙へとびたつ思ひがするのは、木田を待つ思ひの強さが胸にかくれてゐるせゐで、然し、やつてきたのは倉田博文であつた。

「ナンダ、君か」

「ナンダ、君かつてアイサツはないでせう。まさか、ヘエ、私です、と言ふわけにもいかねえだらうな。然し、そんなとき、ヘエ、私です、と答へるのも面白えかも知れねえな。時にゴキゲンは相変らずで、実は小々本日は話の筋があつて」

「もうダメだよ。元伯爵には用はないんだ。僕はもう、スッテンテンにやられちやつたんだから」

「スッテンテンとは、何事ですか」

 思へば倉田博文はかういふ時にはチョウホウな男であつた。忘れてゐた感情がふと胸によみがへつて最上清人はなんとなく涙もろい気持になつたが、一度大名となつた以上は、おちぶれても、おちぶれられない。逆に却つて、位の意識といふものが、にわかに激しく角をだす。

「実は紙を六百連買ふ約束をしたんだ。もう今日にもトラックが来る筈なんだが」

「ハハア。するてえと、あなたは六百連の紙代をヤミ屋さんに渡した、然し、得でども、いまだ紙来たらず、といふわけなんだな」

 カンのいゝ奴だ。一応の急所は忽ち見破る。然しトラックで運んできて、又それをトラックで持ち去られたといふ面妖なイキサツまでは気がつく筈がない。

「マア、さうだね。然し、そのうち、くるだらうさ。現品がちやんと在ることは分つてゐるのだから」

「それはあなた、現品はちやんと在りますよ。紙屋の倉庫にや、いつだつて紙は山とつまれてゐるにきまつてるぢやありませんか。然し、あなた、その紙は紙屋の物ではないですか。ヤミ屋の物ではないですよ。古い手ぢやないか。終戦以来、ヤミ屋の最古の手口だからね。狸御殿といふ殿様の手口ぢやないか。あの殿様の御乱行以来、紙に限つて、まさか日本に、同じ手口にかゝる御仁があらうとは、私は夢にも思はなかつたね。なるほど、こゝの店もタヌキ屋てえ名前だけれど、してみると紙と狸は因縁があるのかな。それは、あなた、洋服だの、キャラコだの、砂糖だのといふものは、まだ殿様の先例がないから、殿様の手口にかゝる御仁のタネはつきないけれど、紙に限つて、これはもう、きかない手口ときまつてるんだがな。だから、あなた、ヤミ屋さんも、紙に限つて、近頃はもつぱら新手できますよ。ヤミ屋さんには紙が有り余つてゐるんだからな。そこであなた現品を山とトラックにつみこんで、ピタリと亡者の店先かなんかへ、これを横づけにするです。現品取引だから、安心しますよ。よつてお金を渡して品物を受取る。するてえと、あなた、翌日カラのトラックへ役人みてえな奴が五六人乗りこんできて、昨日の紙をそつくり持ち去つてしまふです。つまりその紙は売買の品物ぢやアない、封印された品物で、世耕指令だか何だか知らないけれども、テキハツのきかない物品だとか何とか言ふんだな。むろん、これは一組のサギ団ですよ。サギてえものは、サギを封じる手段を弄すると、そいつが逆にサギの手段にされちまふから、これはあなた古今東西、かくの如くにして文明の進歩はキリがないです。私の知りあひの喫茶店と古本屋と質屋を営業して今度出版屋を狙ほふてえ新興財閥のイナセなところが、見事にこれにかゝつたです。かういふ新手にかゝるのは仕方がないけれど、狸御殿の殿様の手口にかゝるとは、哲学者てえものはヨクヨク貪欲で血のめぐりの悪い先生方のことなのかな」

 最上清人は必死にこらへてゐるけれども、百度以上と思はれるフットウした熱血の蒸気が全身を駈けめぐつて、全然フラフラ、あとは何一つ分らない。うつかり動くと、耳だの鼻の穴から蒸気がふきさうに思はれる。つまり精神肉体ともにパンクしたといふのだらう。

 まもなく全身蒸気が消えて、ひどく静かになつてきた。真空状態がきたのだらう。何もない。骨のシンまで、何もなくて、たゞ冷めたいといふ心細い意識しか分らない。死刑執行といふ時に、こんなふうに竦んでしまつて歩くことができなくなるのかも知れない。

「顔色が悪いぢやないか。クヨクヨしたつて、済んだことは仕方がないぢやないか。だから、あなた、今にして言へば、あなたみたいな世間知らずが然るべき軍師も持たずに単独で闇屋の親方みたいなことをやらうといふ大それたコンタンが迷ひの元と言ふものです。まつたく、あなた方をだますぐらゐ訳のないことはないのだからな。戦争中は軍需会社の親玉でも文士の先生でも、それはあなた、総力戦、ハイ総力戦、日本的、ハイ日本的、そんなこともやりましたけど、根はチャラッポコで、軍人さんの言ふことなんぞマにうけてゐる者は先づゐませんや。日本のインテリの中で本格的に軍人にだまされたのは哲学の先生ばかりで、日本的なんとかなんて、これはあなた、この先生方ばかりはまつたくムキなんだな。ムキになるのもいゝけど、ムキになつて、それでちやんと、宇宙と日本のツヂツマが合ふんだからネ、日本の大学校の哲学てえものは自在チョウホウな細工物なんだなア。いつたい、あなた、思索する、物理学とは違ふからね。人間を思索する、人間の世界を思索する、思索だけで間にあふから、どんな細工もきく代りに、実は全然根も葉もない、といふことを、それぐらゐのことに気がつくだけのゴケンソンも御存知ないといふのだから、これはあなた、だまされますよ。しかも御本人は、宇宙の元締、人間をだましたつもりでゐるのだから、可憐なる英雄です。失礼ながら、最上先生は御自分のブンを知らなければいけません。いつたいあなた、まかり間違へば自殺するからすむといふ、その心得ほど貧困きはまる古代的思想はないです。人間はいつも生きてゐなきやア。生きる、是が非でも生きる、生きるといふことが分らなきやア、第一人間の理想てえものが分る筈がないではないですか。生きるからには愉快に生きなければならん、よつて工夫が行はれる、文明開化の正体はそれだけのものなんだけど、そこんところが、どうして先生に分らねえのかなア。ともかく一杯のもうぢやありませんか。こんなことを喋りながら、何も飲まねえてえことは、それがつまり、文明開化の精神に反するものだといふことを、私なんぞは骨身に徹してゐるんだがな」

 倉田はコップをとつてきて、チャブ台の上の最上の飲みかけのウヰスキーをなみなみとついで、一息に先づ一パイ、再びなみなみと半分ほどのんで、

「ウム、これはいける。久しくタヌキ屋で飲まないうちにタヌキ屋の品物は高級品になつたものだな。これは飛びきりのニッカぢやないか。こんなゼイタクなお酒をのんで陰鬱であらせられるといふ心持が分らないね。私なぞカストリていふ新日本の特産品をのんで、毎日面白をかしく世渡りができるんだから、人間の心持てえものは、実に工夫がカンヂンではないのかなア」

 最上清人もやうやく心を取り直して、

「君の知り合ひがやられたといふヤミ屋は木田といふ男ぢやないの?」

「さて何といふ御仁だか、私は昔から犯人の住所氏名は巡査の手帳にまかせておくから、私の手帳につけてあるのはモッパラ愉快な人間の住所姓名に限るんだなア。そんな、あなた、犯人の名前なんぞ、何兵衛でもいゝぢやないか。だまされてから、捕へたつて、手おくれだよ、あなた。こんなに豪華なお酒があるのに、もつと何か、シンから楽しくなるやうな、何か工夫を致しませう」

「ふン、なれるものなら、するさ。僕は一人でゐたいのだから、愉快な御方は引きとつていたゞきませう」

「まアまア、あなた、人間も四十になつたら、ヤケだの咒ひだのといふものが全然ムダなネヅミにすぎないといふことを、理解しようぢやありませんか。よつて新しく工夫をめぐらす。私のやうな害のない単に愉快なるミンミン蝉を嫌つてはいけないでせう」

 最上清人は返事もせずにフラリと立ち上つて、そのまゝ外へでてしまつた。そつちが出なきや、こつちが出る、といふ流儀なのだらう。

 出る者は追はず、無抵抗主義は倉田の奥儀とするところで、おもむろにひとり美酒をかたむける。これも悪いものではない。

 そこへサブチャン、ノブ公、パンパン嬢などが顔をだす。

「おや、パンちやんかい。さあ、アンちやんも上んなさい。美酒を一パイ差上げませう。こゝの先生は深き瞑想の散歩にでられたから、今日は俗事はおやりにならないでせう」

「アレ、御手シャクは恐れ入りますワヨ」

「アレ気のきいたことを言ふアンチャンぢやないか。アンチャン、いくつだい」

「エヘン、一本いかゞ。召しあがれ」

 ノブ公、シガレットケースをとりだして上等なるタバコをすゝめる。

「これは恐れ入つた。行きとゞいたアンチャンだね。アレ、なるほど、つゞいてライターなるもので火をすゝめる。フム、これは、エライ。あなたは出世するよ。かほどの若ザムライを召使ひながら、最上先生も人間の使ひ道を知らねえんだな。よろしい。本日は最上先生に代つて、私があなた方にサービスしてあげる。大いに飲み、かつ談じ、かつ歌ひませう。遠慮なくおやんなさい」

 といふわけで、酒宴がはじまつた。


          


 最上清人はマーケットでソーダ水の酒だのオシルコのカストリだのと飲み歩いたが、頭の痛みがいくらか鈍くなつたといふ程度で、アルコールの御利益といふものが現れてくれない。

 酒をのんでゐると、却つて、いけない。坐つてゐると、いけないのだ。ふと、あのズッシリと山積みの充実した量感を思ひだす。すると急に、その量感になぐられたやうにパンクして、恐るべき真空状態に落ちこむのである。

 ピストルがあるなら、いきなり、街角へとびだして乱射して有象無象をメチャ〳〵にバタバタ将棋倒しにしてやりたい。

 結局、歩いてゐるに限る。

 すると、養神道施術本部の前へきたから、急に中へすひこまれた。

 上つて、いきなり次の間へ行かうとすると、

「モシモシ、順番ですよ。あなたは、どなたですか。御用の方なら取次の私に仰有い」

 そんな言葉には耳もかさず、次の間へはいる。仙境の人は今しも一人の年増の女に養神道の奥儀をといてゐるところだ。

「やつてるネ」

「あゝ、いらつしやい。ちよッと、そこへ坐つてゐらして下さい。今、すぐ、すみますから」

「さうかい。なるほど、見物も面白いな。君のところに、お酒かビールはないかね」

「ぢやア、それでは、あなたを先にやりませう。奥さん、ちよッと、お待ちになつて下さい。最上先生、どうぞ、こちらへ」

「ハッハッハ。又、手相か。君のアツラヘムキにでてるだらうさ。どうだい、君のところぢやずいぶん溜つたらうけど、紙を廻してあげるから、出版屋でもやらないかね」

「フム、なるほど、これは最上先生、大変手相がよくなつてをりますよ。ちよッと、こゝをごらんなさい。こゝのところ、これね。先日はこの枝がありません。たゞ延びきつてゐたのです。まだ、その外にも、色々変つてきたところがあります。そちらの手を拝借。フム、やつぱり、さうです。然し、この前はヒドかつたですね。あれはあなた、ルンペン以下、まつたく僕もそんな手相があるなんて、ルンペン以下とは何ですかネ。今日はあなた、一段上つてをりますよ。今日の手相が、まあ普通のいはゆるルンペンの相ですね。先日は根のないところに大枝をはつて危いところでしたが、この通り、枝が切れて、つまりあなたは安定してをります」

「つまり、僕の本性はルンペンといふわけだネ」

「ひがんではいけませんよ。ルンペンの本性といふ固定したものはありません。手相は動くものですが、それは運命が動く、運命は又、性格であり、本性です。この手相なら養神様に見放されはしませんから、今日はゆつくり対座して、お話を承つてごらんなさい。では御案内いたしませう」

 養神様は相変らず額に乱れた髪の毛をたらして、髪全体シラミの巣のやうにモヂャ〳〵、ヤブニラミの目を半眼に、口をだらしなく開けて、退屈しきつたやうなネボケ顔をしてチョコナンと膝をくづして坐つてゐる。

「コンチハ。又、来たよ。神様はお化粧しちやいけないのかな」

「アハハ」

 神様はなぜだか、だらしなく笑つた。馬が笑つたみたいな音だつた。

「今曰くることが分つてゐた」

「分るだらうさ。来てゐるからな」

「アハハ」

「だいぶ神様もイタについたね」

「人を恨むでない」

「アッハッハ」

「もう、よい。今日は、よいよ」

 養神様は目をとぢた。目をとぢると、それだけでヒルネの顔になる。

 最上清人はポケットからタバコをだして火をつけた。タバコをパク〳〵やつてるうちに、ひどくイライラしてきた。みんな殺してやりたいやうな殺気があふれて、やにはに逆上してしまつた。

 いきなり養神様の手を掴んで、タバコの火をギュッと押しつけた。

 養神様はブルブルふるへたやうだつたが、抑へられた手をふりほどこうとしない。アッといふ声はもれたが、悲鳴はあげなかつた。存分に火を押しつけて、顔をあげて、養神様の顔を見ると、最上清人は、水をあびたやうにゾッとした。

 養神様は歯をくひしばつてゐるのである。出ッ歯だから、猿が歯をむいてゐるやうだ。そして、必死の目の玉で最上清人を睨んでゐる。けれども、怒る目ではない。憎む目でもない。たゞ、必死、懸命、全力的な目の玉なのである。

 最上清人は最後の仕上げに養神様の手にタバコの火をこすりつけて火を消して、手を放して、立ち上つた。

 養神様はハリツメタ力が一時にゆるんで、グラグラくづれるやうだつたが、

「それで、気がすんだかい」

 フラフラしながら、さゝやいた。

「もう、よいよ。今日はおかへり」

 最上清人は茫然外へでた。

「ちよッと、あなた。最上先生」

 次の間で仙境の人物が何か言ひかけてきたが、彼はそれには目もくれず、だまつて外へ出て来たのである。

 彼は何か、怖しかつた。

 必死に歯をくひしばつて、たゞ懸命に必死にこらへてゐる乱れ髪の猿のやうな汚い顔が怖しかつた。

 彼は然し、いくらか、たしかに、落付いてきたのが分つた。それは、たしかに、もう人を殺さなくてもいゝといふやうな、落付きであつた。そういふ力がみんなくづれた思ひであるが、なにがしの小さな驚異が残つてゐた。

 彼は養神様に、神様を見なかつたが、人間をたしかに見た。ヤミ屋のサギのカラクリよりも、もつと人間は複雑で偉大なものかも知れないといふ、何かを見たやうな気持がした。

「マア、よからう。何でもいゝさ」

 冷静で、厭世的で、皮肉な、昔の彼の考へ方が戻つてきた。

「サギ師のイカサマにかゝつて有り金をフンダクラレ、養神様の懸命必死な救世主の身替り精神によつてホロリとするか。してみると、オレといふ奴は、よくよくウスノロかも知れないな。アッハッハ。この人生にも、シャレたことがあるものだ」

 いさゝか自嘲的ではあつたが、さして不快といふわけでもない。

 ねぐらへ戻つて飲み直して、今夜は熟睡してやらう、連日睡眠が足りないから、養神様のお手並で今夜は熟睡できるなら、これも御奇特な次第さ、と、わがタヌキ屋の店先へくると、中の賑やかなこと。

 パンパン、アンチャン、入りみだれて、大陽気、ダンスホールと変じ、倉田博文の浪花節によつてタンゴを踊つてゐる。

 最上清人は眉をしかめたが、すぐ、ふりむいた。

 腹を立てるハリアヒもないやうな気持であつた。よそで一人で飲み直さう、彼はブラブラ、マーケットの方へ戻りはじめた。たしかに、いくらか心が澄んでゐるのが分つた。

底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房

   1998(平成10)年620日初版第1刷発行

底本の親本:「金銭無情」文藝春秋新社

   1948(昭和23)年2

初出:金銭無情「別冊文藝春秋 第二巻第三号」文藝春秋新社

   1947(昭和22)年61日発行

   失恋難「月刊読売 第五巻第八号」

   1947(昭和22)年81日発行

   夜の王様「サロン 第二巻第八号」

   1947(昭和22)年91日発行

   王様失脚「サロン 第二巻第一〇号」

   1947(昭和22)年111日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。

※「夜の王様」の初出時の表題は「夜の王様」と「王様失脚」です。「王様失脚」は(最上清人は近ごろ人間の顔の見方が違つてきた。)以下終わりまでです。

入力:tatsuki

校正:深津辰男・美智子

2009年618日作成

2016年415日修正

青空文庫作成ファイル:

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