花火
坂口安吾
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私はミン平が皮のジャムパーを着てやつてきた時には、をかしくて困つた。似合はなすぎるのだ。ミン平も、いかにも全身これ窮屈です、といふ様子で、てれきつてゐるから、尚へんだ。
「てれるから変なのだよ。気取つてごらん。ねえ、胸をそらして威張るのよ」
「やだなあ。小学校の時から胸をそらした覚えがないんだよ、オレは」
このジャムパーは私が昨日散歩の道でふと目にとめると、むらむらその気になつてしまつて、散々ねぎつて(但し時間的に)買つて、彼の宿へ届けて、今度くるとき着ていらつしやい、と置手紙を残してきたのだ。
まつたくミン平は何を着ても似合はないやうだ。この男の取柄といふのは、さういふところにあるやうだ。
よく見ると、色男なのだ。いつもヨレヨレのブルースに、大きなボヘミアンネクタイをブラつかせてゐる。モジャモジャ頭にパイプをくはへたり手に持つたり、煙のでゝゐることはめつたにない。見るからに、みすぼらしい感じなのだが、よく見ると、可愛らしい。つまり、幼い感じが残つてゐる。むしろ幼さが、全部であつた。
私はアパッシュが好きなのだ。どことなく惹かれるのである。ミン平の一座のキタ助だのサブ郎などゝいふ見るからに六区の役者然とした苦み走つた色男には、思ひきつて正面からジッと向ひ合つて顔を見ると、ブルブル腰のあたりがふるへるやうな気になる。私は女学校の時から、友達にメンクイだといはれ、腹を立てる性分だつたが、実際、オメンクイに相違ない。
私はそのくせ木村のやうなブ男の豚のやうにふとつた年寄と結婚した。それが私の見栄でもあつたのである。私の母だの親類だの友達だの女中だの、みんなそろつてブ男だ、ブ男だといつて笑ふから、私はだんだん彼が好きになつてしまつた。
良いところは、たくさんあつた。請負師の木村は第一にお金持だし、気質がアッサリしてゐて、太ッ腹でもあつた。彼は私にはいくらでもお小遣をくれ、せがむことは何でもきいてくれたが、彼をブ男だといふ母だの友達だの女中には鼻もひッかけず、一文のお祝儀もやらなかつた。だから益々人気がなかつたが、私だけはだんだんひかれたのである。ほだされたのだ。
彼は戦争中、一年半も私の家へ日参した。私の家は待合だ。そして私を口説いて、芸者と泊つて行つたが、どの芸者とも関係したことがなかつた。さういふことが、私の娘心にひどく、こたへた。
私はそのころ、キタ助だのサブ郎などゝいふ六区の役者と友達で、木村からもらつたお金で二人にお小遣をやつたり、着物をこしらへてやつたり入りあげるやうなふうを楽しみに遊んでゐたが、木村はキタ助やサブ郎を座敷へよんでヒイキにしてくれて、ちつともこだはらなかつた。
キタ助だのサブ郎は役者根性で、座敷へよばれてお金をもらつたりすると、すぐヘイツクばつて自然に幇間になつてしまふ。そのくせ蔭で木村の悪口を言ひ、いかにも自分たちが色男で女にもてる性で、自分たちをヘイツクばらせて三文の得にもならず金も女も失ふばかりの木村は馬鹿野郎だとせゝら笑つてゐる。私はさういふ河原者根性に反感をもつた。そして、座敷でヘイツクばつてゐる彼等のみすぼらしさがいやらしくて堪らなくなつてしまつた。
私は周囲のあらゆる反対を押し切つて、急に、押しかけ女房みたいに、私の方から勇みたつて木村と結婚してしまつた。私達の婚礼は戦争中だが盛大極まるもので、私は三十分おきぐらゐに着物を着換へて現れて、満座の注目を浴びるのが、うれしくて仕方がなかつた。みんなの前で木村の首ッたまに抱きついてやりたいぐらゐ、この結婚を誇りにしてゐたものである。
そのとき騒ぎの中で声がした。
「新婦は新郎にセップンしろ。みんなの前でやれ。やれやれ。たのむ」
ミン平であつた。私はそのときまで、ミン平の名前はきいてゐたが、顔は知らなかつた。私はキタ助とサブ郎は婚礼に招かなかつた。その代り、一面識の一座の面々の重立ちを招いたのだ。彼等は酒が飲めるから大喜びで、招かれない四、五人までわりこんできた。ミン平はその一人だ。彼は脚本書きだつた。私は色男然としたキタ助とサブ郎が、招待されずに、口惜しがつたりやいたりしてゐる様子が愉快でたまらなかつた。私は彼等に弱い尻は握られてゐない。私は役者に入りあげる遊びをたのしんでゐたが、彼等と泊り歩いたことは一度もなかつたのだから。
「やつてくれ。セップン。たのむ」
ミン平は執拗につゞけた。彼は酔つて目がすわつていた。
「新婦エレイゾ。ほめてとらせる。今日の新郎も気にいつた。役者なんて、人間ぢやないから。キタ助やサブ郎のイロになつて満足なら、わたしはお前さんを大いに軽蔑するはづだつた」
彼は私たちの前へ坐つて、私と木村に酒をさした。そして
「行末、なんとなく、幸福で、ありなされ」
と、いひ残して、自分の席へふらふらもどつて行つた。
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木村がミン平を可愛がるやうになつたのは、それからだつた。ミン平には気骨があつた。彼はだれの前でも幇間じみることなどはミジンもなかつた代りに、いさゝか、酒癖が悪かつた。きらひな人には面と向つて罵りたてる。
そのくせ腕力がないから、よく、なぐられる。ほゝを三寸もきられたこともある。翌日は氷でひやして、ネドコで、ホータイの中の目と口でクスリと苦笑して、てれてゐた。いつも、てれてゐた。
小男で、貧相で、見るからに風采の上らぬのんだくれの、人生のあぶれ者の感じであつたが、よく見ると、美しいのだ。顔立も薄くすきとほるやうで、リンカクがキリリとしてゐて、幼さと、気品があつた。貧相なくせに、傲慢で、不屈な骨格が隠されてゐた。その美しさをジッと見ると、私はいつも息苦しくなり、からだがキシむやうな気持になつた。
木村から、かういふ興奮を受けたことは一度もなかつた。私はやッぱりオメンクイなのだと思つた。私は結婚に失敗した。否、ひねくれてゐた。ともかく、ながめてゐて息苦しくなるやうな男の胸になぜとびこまなかつたのか、私は自分の性格が悲しくなる時があつた。そして私はミン平と六区の雑沓を歩いてゐるとき、我慢ができなくなつて、ミン平と腕を組んだ。ミン平は棒のやうに堅くなつたが、私の方からぐいぐいもたれかゝつてやると、彼もだんだん私の方にもたれてきた。私の心臓の音がミン平にきこえたら、と恥しさで真赤になつたが、そのくせ遮二無二すりよらずにゐられない動物力の激しさに、そして血の逆流する全身のあつさに、私は酔つぱらつた。
私は不健全な女であるらしい。私は子供の時から芸者達のオノロケだの、肉体のよろこびだの、きゝなれて育つた。そして木村は精力絶倫といふのか年寄のくせに飽きもせず私のからだを求めるけれども、私は肉体のよろこびを感じたことがなかつた。私は木村がうるさくなり、にくゝなるのだ。
「木村さんは、絶倫だらうなあ」
酔つ払つたミン平が、そんなことをいつてニヤニヤすると、私はぞつとしてしまふ。そして、真赤になつてしまふのだ。
「ミン平さんも、やつぱり、女と、そんなことがしてみたいの?」
ミン平は考へる顔をして返事をしない。
「私はそんなこと、きらひなのよ、私はからだが不健全かもしれないけれど、快感なんか、感じたことはなかつたのよ。男と女が、そんなこと、しなければならないことが、私には判らないのよ。そんなことをしなくとも、私は幸福だから。今日みたいに、ミン平さんと腕をくんで歩くだけで、胸がギリギリして、全身がボウとしてしまふのよ。私の感覚は十七、八の不良少女よ。それッきり発育がとまつてゐるのだわ。だから、よその奥さんだの芸者さんが肉体の快感のことなどいふのを聞くと、いやらしくて、やけるのよ。そのくせ、私ときたら、電車の中だの往来だので、美男子の顔を見ると、何かにグイグイ押しあげられるやうにボウとしてしまふのだから」
ミン平は不機嫌な顔をして、だまつてゐたが、
「おれは帰るよ」
「うん、まつて。送つて行くから」
私が勘定を払つて出ると、ミン平の姿は見えなかつた。彼の姿を追つて、私は彼のアパートへ行つた。
私はミン平の寝顔を見たことは何度もあつた。私はちかごろ、ミン平にお酒をおごつてやつてアパートへ送つて行くことが、私の生活の第一等のよろこびになつてゐた。彼はからだが衰弱してゐるので、酔ふと、すぐ、眠つた。疲れた顔に、いくらか赤みがさして、安らかな翳がうかんでくる。その寝顔は、私をいつも切なくした、時には、いやらしいやうなてれた顔で、マダム、などゝ、しなだれかゝるやうに私の手を握りかけたりすることもあつたが、ダメよ、そんなこと、といふと、
「フン、フン」
彼はいつも変なふうに苦笑して、ネドコへもぐりこむ。そして、すぐ、眠つてしまふ。私は二三十分、彼の寝顔に見とれて、帰つてくるのだ。
結婚前にキタ助やサブ郎などゝ遊んでゐた時からの習慣で、私が一日の出来事をあからさまに話すのを、木村は面白がつてきいてゐた。
「ふうん。あいつは性慾がないのかな、虚弱だと、色情もないものかなあ。オレには信じられん。でも、お前だつて、ちよつと、しなだれかゝつて手を握られたりすると、内心は放したくないのだらう」
「さうぢやないのよ。いやらしいと思ふときは、どんな好きな人とでも、いやなものよ」
「ふうん」
木村も、二人の結婚は失敗だと思つてゐた。私に好きな男があつたら、結婚しても差支へないと考へてをり、それはつまり、彼自身、ほかのだれかと結婚したくなつてゐるせゐであつた。
「ミン平さんは私を養つて行けるかしら?」
「ダメだらう」
木村は太ッ腹のやうでも、やつぱり出て行く女のことではケチであつた。彼は手切金をくれるなどゝはオクビにもださなかつた。私がミン平のところへころがりこむと、ミン平はたぶん生活できないだらう。なぜなら彼の生活費の大部分は私のオゴリで維持されてゐる状態だつたからである。私が木村と別れゝば、彼は酒も飲めなくなるのだ。
私は然し、この結婚が失敗だつたといふことについても、実のところ確信がなかつた。女は三十ぐらゐになると、だんだん肉体の快感を覚えるやうになるのぢやないか、すくなくとも、私の場合は、と考へることがよくあつた。年齢的なものだつたら、どんな美男子と結婚しても、同じことではないか。目下、結婚に失敗してゐるのは、私ではなくて、木村で、ミン平にお酒を飲ませて寝顔をながめてたのしんで、それを平気でノロケてゐる私の方が悪妻なのかも知れない。然し、結婚前からの行きがゝりで、さういふ我儘に彼の方が私を育てゝしまつたのだから、私だけが悪いわけでもなかつた。
「私は結局浮気なんかできないたちよ。あなたを裏切る度胸がないのよ」
「ふうん」
木村は苦笑した。そして私にそんな話をさせながら酒を飲み、そして、その報いのやうに私を抱きすくめようとするのであつた。私はそれがにくらしかつた。それはまるで、自分にはない精気や魅力を私にミン平から吸ひとらせて、その借り物で自分がたのしまうとするやうな老獪な魂胆に見えた。そこで私があからさまに彼の腕を押しのけて、そんな老獪な助平たらしい魂胆はイヤダ、とズケズケ言つてやると、
「自分の浮気をうまいぐあひにおれに背負はせやがる」
彼はせゝら笑つて、とりあはなかつた。なるほど、さうかも知れない。私の浮気はいけないことかも知れないが、それをしやべらせて、酒のさかなに、そして、酔つたあげくの遊びの足場にするなんて、見えすいて、いやらしい。
私は腹を立てると、寝床から逃げて、どんな冬でも、寝間着一つで戸外へとびだしてしまふほど、怒つてしまふ。彼の慾情は、いつも、私を苦しめた。
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ミン平の姿を追つてアパートへ行つたが、まだミン平はもどつてゐなかつた。管理人の鍵をかりて、部屋へあがつて待つてゐると、ミン平は、目がすわるほど蒼白に酔つてもどつてきて、入口の扉によろけて、のめりこんだ。
彼は起き上つて、扉に鍵をかけた。
「今日は、奥さん。からだをもらふよ」
彼は上衣のポケットに手をつッこんで、私の前に突ッ立つて、せゝら笑つた。私はすくんだ。恐怖のためではなかつた。彼のせゝら笑ひのアイクチのやうに冷めたい鋭利な刃ざはりの妖しさのせゐであつた。
「怖いか。怖がるのも、是非がない」
彼は又せゝら笑つた。私は女だから、とつさに、びつくり怖れてゐるやうな構へになるのだらうが、私は然し、ミヂンも怖れてはゐなかつたのだ。私はまつたく妖しさにいちづに酔つて堅くなつてゐた。私はむしろ祈つた。彼が、うまく、やつてくれゝばよい、と。
いやらしさや、助平たらしさや、みすぼらしさを表はさずに、堂々と私を征服してくれゝばよい、と。失敗するな、成功して、と。
私は彼がすこしでも、みすぼらしさ、いやらしさを見せると、テコでも彼をつきのけ、つきとばす私の理知を知つてゐた。私は酒には酔へない。男の美しさ妖しさの花火には酔へる。その花火には、私の理知は無力であつた。
「オレは奥さんなんか、きらひだ。奥さんぢやない、ノブ子。ノブ子はきらひだ。然し、半分ぐらゐ、すいてやる。酒をおごつてくれるからさ。改めて、お礼申上げておくよ。今日は、総決算だ。さうぢやないか。オレみたいのノンダクレでも、毎日同じことをしてゐるうちには、いゝ加減、あきあきするよ。地獄へ行かう。散歩に、行つてみたくなつたんだ。オイ。ノブ子。からだをかせ」
ミン平は小さな肩をせりあげて、ポケットへ手をつッこんだまゝ、どしんと体当りした。それからポケットから手を抜いて、私を白々とした顔でにらみながら、抱きしめようとした。
私は胸が痛むほど、すくむほど、悲しいほど、うれしいやうな気がしたのだ。そのくせ私はミン平の傲慢な顔つきに、むらむらした。だつて、さうではないか、傲慢で、いゝのだ。せめて、お前が好きだ、といつてくれなければ。どんなに高慢ちきに私を抱きすくめてくれてもいゝのだ。お前が好きだといふ思ひのたけが、高慢の虚勢の裏から女の心を慰めてゐてくれなければ、ひどすぎる。
私と彼は同じぐらゐの身の丈だつた。酔つ払つた彼よりも、私の方が敏活にきまつてゐた。彼はいきなり接吻しかけた。私は怒りがこみあげた。私は彼をつきとばした。
「なぜ、鍵をかけたのよ。コソドロみたいな、三下奴みたいな、口説き方はしないでよ。あなたみたいな青二才にナメられた口説かれ方がされたくて、つきあつてゐるのぢやないわよ。鍵をあけて、ちやうだい。そして、私の下駄をキチンとそろへて、私を送りだしてちやうだい」
「うん。いづれは、あけてやる」
彼はよろめきをこらへて、立止つて、再び手をポケットにつッこんで、うつむいて、目をとぢてゐた。
「オレは、いつぺんいつたことは、やりとげる。これだけ、つきあつたのだから、それぐらゐのことは、お前さんにも分つてゐるだらう」
彼はポケットから、カミソリをだした。不器用な手つきで、刃をあけると、急にづかづかと進んできて、私の胸にハスに一文字にいきなり、ひいた。
私は悲鳴をあげた。むしろ、息をひいたのだ。私は悲鳴をのみこんでゐた。彼の顔にいきなり浮んだ不逞なゆがみは、まさしく全力的な殺気であつた。そして彼はハスに一文字にカミソリをふつた。私の帯は二つにきれてゐた。彼はまた、白い顔で、陰気に私をにらんでゐた。
「オイ。帯をとけ。とけなきや、オレが、もう一度、切つてやらうか。今度切れば、何が切れるか、オレは知らん」
彼の顔は、また、殺気にゆがもうとした。私はふるへて、叫んでゐた。
「とく! どいて。ひどいぢやないの」
「ぢや、とけ」
「だつて、見てゐる前ぢや、とけないわよ。電気を消して」
「電気か。ふん。消してやる。然し、帯だけとけ」
私は帯をといた。私は然し、彼とにらみあつて帯をとく身のひきしまる感動に苦悶のよろこびを感じてゐた。
「よし。上の着物を一枚ぬげ」
「卑怯ぢやないの、男らしく、約束をまもつてよ」
彼の身体がづかづか進んできた。恐しい速度で、大きな男の山のやうな影がおしかぶさるやうに思つた。私はふるへた。恐怖と同時に、めまひのやうな全身的な酔ひがあつた。私のからだを一文字に小さな叫びが走つたが、それは興奮の叫びであつた。彼のからだは私にぴつたりくつついた。何かゞ胸を押した。そして彼が離れると、私のヒモが切れていた。彼は片手で電燈のスイッチをにぎつて、私を見つめた。
「早く、ぬげ。ぬげば、消す」
私はぬいだ。彼は私を見つめていた。急に光が消えた。
「寝床へはいつて待つていろ」
私は万年床へはいつた。はりつめた力がゆるんでゐた。同時に別な緊張が息苦しいほど私の全身を押してきた。彼がどんなふうに私を抱いてくれるのだらうか、といふ、悲しいほどの、よろこびであつた。どんなふうにでも、されてやらう。私は、どんなにされても幸福なのだ、と思つた。一生のうちに今日ほどの幸福な日はあるはづがないのだ。この日を限りに、地獄へ落ちても、如何なる悲惨な運命がひしめきせまつても、この日を悔いてはならないのだ、と思つた。私は彼の何かやさしい小さな一言がかゝつただけでも、嗚咽しさうな気がした。
しばらくの時間がすぎた。彼が何をしてゐるのだか私には分らなかつた。もう彼が何をしてゐても、よかつた。すると、突然、電燈がついた。私は小さな叫びをあげて、蒲団をかぶつた。
彼は私の抵抗を排して、蒲団をはいだ。然し、そこに見出したものは、悄然と坐つた、弱々しい、男であつた。
「奥さん。あやまる。オレは、精いつぱいだつたんだ。こんなムゴたらしいことをせずに、奥さんと、お別れするつもりだつた。オレのことなんか、忘れてくれ。木村さんの良い奥さんになつてくれ。あの人は善良な人だよ。オレなんか、くらべものにならないんだ。オレはどんな女でも一晩ねる以上の興味がもてないやうなヤクザが魂にしみた人間のくづにすぎないよ。奥さんはわがまゝなんだ。木村さんに甘へすぎてゐる。肉体の満足なんて、タカが知れてゐるよ。そんなものクヨクヨしなさんな。奥さん、かんべんして、帰つて下さい。私が仰せの通り下駄をキチンとそろへる。ほんとに、すまん、帯をきつたり、着物をぬがせたり、そこまでするつもりはなかつたのだが、逆上してしまつたんだ。我ながら、これほど、別れぎはが悪い男だとは思つてゐなかつたんだ」
彼の顔に弱々しい苦笑が浮んだ。
「オレはさつき、暗いうちに、クビをかき切つて死なうかと思つてたんだ。然し、奥さんをねせておいて、悪趣味な芝居気も気がさしたからな。まつたく、悪夢だつた」
「ぢや、もう死なないの」
「どうだか、分らん。だが、芝居気は、もうない。オレの死ぬのは自然なんだ。もう生きてもゐたくなくなつただけだから」
私は興奮のために、みるみる冷めたく堅くなつて、ふるへた。私は起き上つて叫んだ。
「私を殺してよ。そして、あなたも死んでちようだい」
彼は目をとぢて薄笑ひをうかべた。私はむらむら逆上した。いきなり飛びかゝつて彼のポケットからカミソリをつかみだして刃をぬいた。すると彼は深い目をして、沈んだやうに、私を見てゐた。こんな表情を、たれの場合も、私は見たことがなかつた。ヤケのドン底なのだらうか。死神がのりうつつてゐたのだらうか。私は息がとまつた。私は彼が何かいつてくれなければ大変なことになると閃くやうに思つたのだ。然し、彼の目は、あまりにも美しすぎた。
「あなたが私を殺さなければ、私が殺すわよ。それでいゝの。あなたが先に死んでも」
彼は返事をしないのだ。深い目で、なんだか、そ知らぬやうに、私を見つめてゐるのだ。私は悲鳴をあげさうだつた。何か、いつて。一言。言つてくれなければ、もう、ダメぢやないか。
「殺すわよ。いゝの! 殺して」
彼の深い目が、私を、ゆつたり見つめてゐた。私の方が先に叫んだ。ギャッといふ叫びが私ののどから走つた。そして私はカミソリを彼のクビに押しあてゝ力いつぱいひいてゐた。
彼はグラグラして私の方へ倒れた。
「よし、ひいてくれ。力いつぱい」
彼はたしかにさういつた。然し、それが、どの瞬間に叫ばれた声であつたか私はもう思ひだせない。彼のクビから一時に血がふきだした。その血は私の胸にもとびかゝつたが、まるで大きな噴水の柱にたゝかれたやうに強くて重い力がこもり、私はそれが彼の愛情のすべてのあかしであるやうな、なつかしさに激動した。
私は彼を仰向けにした。彼はまだ苦悶してゐた。口をあけて、息をしてゐた。
「ミヅ……」
私は見廻して水をさがした。彼の最後ののどの乾きを医さずにゐられやうか。私は然し一つの閃く考へのためにピリピリした。私は彼を見つめた。苦しげであつたが、どこか安らかな翳があつた。私の胸はみちたりてゐた。私は私のクビを切つた。私はうつぶした。私のクビのきり口が彼の口に当るやうに。私の血の噴水が彼ののどの乾きをみたす楽しさに、私はうれしかつたのだ。私の胸は燃えてゐた。そして冷めたく、冷静だつた。そして、すべてが、分らなくなつた。
底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「青鬼の褌を洗ふ女」山根書店
1947(昭和22)年12月刊行
初出:「サンデー毎日 臨時増刊号」
1947(昭和22)年5月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年4月20日作成
2019年12月25日修正
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