わが戦争に対処せる工夫の数々
坂口安吾
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私はこれより一人の男がこの戦争に対処した数々の秘策と工夫の人生に就てお話したい。戦争を見物したいといふ人間なら星の数ほどあるであらうが、兵隊になつて自分自身が戦争するといふことになると、これは誰でも尻ごみする。ところが日本には「兵隊になる」といふ言葉は常識上は存在せず「兵隊にとられる」と称する通り、こつちが厭だと云つても兵隊にさせられるから仕方がない。こればかりは秘策の施し様もないのである。三月十日の浅草本所深川などのやられたやうなことが戦争の始めにあれば、しめた、といふので、死んだふりをしたり、無籍者になつたり、年齢をごまかしたり、余は丁種でござる、といふやうなことを申立てゝ、なんと云つたつて区役所から何から何まで焼けたり死んだりしてゐるのだからビク〳〵することはない。しかしもうあの期に及んでは手遅れで、大概の若い者が兵隊にとられてしまつた後である。けれども、かういふチャンスは人生の正規のコースには有り得ぬので、さういふ場合を待ちもうけて秘策や工夫をたてるわけにはゆかない。だから「兵隊にとられゝば」もう仕方がない。これは工夫の埒外で、諦めざるを得ないのである。
だから戦争と私との関係、第一条は、兵隊にとられゝば仕方なし、といふ絶体絶命の憲章から始まるのである。太平洋戦争の始まつたとき、私は数へ年三十六だ。第二乙だから平時でもまだ兵役の義務はあるので、それに私の地方の兵隊は辛抱づよくて日本でも優秀な部隊だといふ話であるから、私も、もう、兵隊にとられることは免れがたい宿命だと観念せざるを得なかつた。
そこで私の工夫の第一条は、兵隊になつてなるべく死なゝい工夫、といふので、然し、最初に申上げておかねばならぬことは、終戦後みんな急に友好的に太平楽になつて、人道だの敵を愛せなどと云ふけれども、何と云つても戦争本来の性格は殺したり殺されたりすることなので、敵と味方が突貫! といつてぶつかつて、そこでヤアといつて握手したなどゝいふことは決してない。私が如何やうに胸のうちに敵を愛してゐたところで、向ふのトーチカの先様に通じる由はないのだから、どつちの方角から迫撃砲だの機銃だの重砲だの乃至は飛行機の爆弾だの、何が来て、いつ成仏するか分らない。だから、絶対に死なゝい工夫といふのは有り得ないので、なるべく死なゝい工夫。
機械力、これはマア仕方がない。これを差引くと、戦争はやゝスポーツに似てくる。急場々々に敏活な運動性、肉体の反応によつて、逃げたり、穴ボコへ飛びこんだり、これによつていくらか命をもたせることができる。私がかう考へたのは、私は元来スポーツマンで運動神経が発達してゐるから、肉体の敏活なる反応が訓練によつて非常に大きな差を表すことを熟知してゐるからであつた。才能もあるが、又、訓練だ。尤もオリムピック棒高飛の大江選手がフィリッピンの上陸で人のあんまり死なゝいうちから真ッ先に死んでゐるので、だから「絶対に死なゝい」工夫は有り得ない。
昭和十七年、十八年、この二年間、私は六月末から十月始めまで、三ヶ月半も郷里の新潟市へ行つた。私は殆ど帰郷したことがないのだが、なぜこの年に帰郷したかといふと、名目は長篇小説を書きあげるため、といふのだ。南の海に面した東京よりは北の海に面した新潟が涼しさうだから、誰しも一夏新潟で長篇を書くなどゝ称すると本当だと思ふ。そこで出版元の大観堂まで印税を前渡しによこしたが、実際は、新潟の夏ときたら、ひどい暑さだ。東京よりも遥に暑い。気温は低くても感じる暑さがひどいので、湿度が高いのかも知れぬ、それに風がない、特に夜は風が落ちるので、夜と昼の暑さが同じで、夜明けの二時頃からやうやく眠れる涼しさになるのである。東京では日中も裸なら汗のでる日はめつたにないが、新潟では裸でも汗が流れでゝ、それが夜でもさうなのである。だから、仕事などはできる筈はない。私は元々仕事をする気持はなかつた。などゝいふと、いかにも本屋をだまくらがした悪玉のやうだが、万が一にも気がむいて書くことができれば有り難いといふ空頼みの気持はあつたので、大戦争といふ雲の下では万が一でもあればよろしいものだと御承知願ふことにする。
私は新潟の海で猛訓練をするつもりであつた。私は子供の時から日本海へとびこみ、この海で、又、砂浜で、身体をねり運動神経を発達させたので、馬鹿の一つ覚えといふからそれから二十何年もすぎたこの期に及んでも身体の訓練といふことを思ふと古巣へ戻つて鍛へようといふ頭の働きにもなるのだが、又一つは、知らない土地では食糧がない、新潟は穀倉などゝいふ通り、三ヶ月ぐらゐ居候をしても誰も文句を言はぬぐらゐ米があるのだ。
朝、昼、夕、三度づゝ海へ行く。雨が降つても、低気圧襲来大暴風雨狂瀾怒濤といふ時でも、風をひいて熱があつても出掛けて行くので、人ッ子一人ゐない狂瀾怒濤にくる〳〵まかれたり、ぐい〳〵引きこまれたり、叩きつけられたり押し倒されたり、あまり気持のいゝものではないが、他日輸送船がひつくり返つてみんな死んでも自分だけ助からうといふ魂胆だから、かうして人ッ子一人ゐない暴風雨下、暗澹たる空の下に、波にくる〳〵まきつけられて叩きつけられてゐると、いつたい外の日本人は自殺するつもりなのかな、と自分だけひどく頼もしくなつてくるほどだ。いゝ年をして、と笑ふなかれ。四十五十面さげて二等卒で召集される、それが戦争の現実ではないか。
この新潟の海には、昔、村山臥龍先生といふ水泳術の大家がゐて(私は姓名に記憶違ひがあるかも知れぬ。先生の碑は寄居浜の砂丘の上から日本海を見下してゐる)新潟から佐渡まで泳いだ。新潟の海で遠く佐渡の島影を見て泳いでゐると、私などでも、あゝ泳いで行つてみたいな、と泳げもせぬくせに考へるもので、直線距離で三十二哩といはれてゐる。先生は佐渡まで泳ぎついたが、さて、又、新潟まで泳いで戻らうと出発して、そのまゝ先生の消息は地上から消えたのである。私が子供の頃教はつた水泳の先生方はこの臥龍先生の弟子に当られる方々であつた。
私が二十二三の頃であつたが、夏休みで帰省してゐるとき、海軍の水泳教官のたしか岩田とかいふ人物が新潟佐渡間を泳ぐためにやつてきた。臥龍先生の頃と違つてジャーナリズムの時代だから先づ新聞社で挨拶する、講演もする、モータアボートをお供につれて出発したが、朝三時といふ出発が四時半頃で、私も夜明けの浜へ見に行つたが、妾だか芸者だか連れてきて、その女に送られて海へはいつて行つた。十六時間で泳ぐつもりだから、ちやうど夕方暗くなるころ着くだらうと何でもないやうに言ひ残したのを私はきいたが、私は此奴はモグリだと思つた。三十二哩を十六時間で泳げる筈がないではないか。一時間に二哩だ。彼はそれを明に見送りの人々に言つた。素人をだますのもいゝ加減にするがいゝ。自由型競泳にクロールで千六百米(一哩)だけ全速で泳いでも世界記録で二十分以上、大学の一流選手でも二十二三分で泳いでゐる始末だ。私が中学一年のとき、佐渡出身の斎藤兼吉といふ人が始めてオリンピックの水泳に自由型へ出場して片抜手で泳いだ。このときハワイのカハナモクのクロールに惨敗し、クロールといふバタ足の異様な泳ぎを習ひ覚えて日本へ持ち帰つて伝へたので、私達はこの先生からコーチしてもらつてゐたから、日本古来の泳法は速力の点で問題にならぬことを知つてゐた。まして平泳ときては論外で、一哩だけ切り離して全速で泳いだつて世界一の選手でも三十分では危いだらう。三十二哩を十六時間とは出来ない相談で、もし本人がそれを信じてゐるとすれば益々自分の力量を知らない食はせ者だ。
果せる哉、この男は途中十二哩佐渡行の汽船にのり、どういふ量見だか佐渡の手前で又海へとびこんで夕方七時に両津へついた。二十哩しか泳いでをらぬ。途中十二哩も汽船に乗つて、それで尚、十六時間半かゝつているのである。そして彼の曰く、新潟佐渡間は潮流が意外に激しく思ふやうに進まなかつたのだ、と。
私は村山臥龍先生を尊敬してゐるのである。先生はモータアボートどころか小舟のお供もつれてをらぬので、いつたん佐渡まで泳ぎつき、又、泳いで戻らうといふのが愉快ぢやないか。我々にとつて水泳は遊びだけれども、水泳家の先生には職業であり、わが魂魄を打ちこみさゝげた術であり、だから私は、先生が佐渡から戻る途中で永遠に消息を絶つたといふのが、なんとも朗かで、大好きなのだ。たぶん夜であつたらう。私はさう思ふ。夜にかゝらずに泳ぐことはできない。たぶん鱶に襲はれたのだらう、と私は思ふ。悔ゆることはない。私は新潟の浜辺から佐渡を眺めて先生のことを思ふのが愉しい。
私が新潟にゐる期間、もう秋になつてから、檀一雄がやつてきた。ちやうど大詔奉戴日といふ禁酒の日だから仕方がない、こゝならいつでも酒があるといふ親類の病院で酒を強奪して、海へ行き、無理矢理浜の茶屋へあがつて酒は悪いがブドウ酒ならよからうとブドウ酒もだしてもらつて酒をのんだ。そのとき、まだいくらか明るさが残り、西日の沈む彼方にやがて闇へ溶けようとする佐渡が見えた。私が村山臥龍先生に就いて熱弁を弄したのは云ふまでもない。檀一雄が感動したのは論外で、彼は仲秋名月を松島まで出かけて眺めるやうな奇妙に古風な男だから、かういふ千古の美談佳話には全くもろいのである。私が酔つ払つて海辺へ小用に立つと、茶屋の二階の檀一雄が慌てゝ身をのりだして逸まるべからずと叫んだが、彼は私が酔つたまぎれにザンブと海へとびこみ佐渡へ向つてやがて日本海のモクズと消えると思つたのである。
大観堂も遊びにきた。別に原稿の催促はせず、いや、したかな、彼は諦めてゐるのである、何しろ天地は戦争だ、一晩酔つ払つて帰つて行つた。私は荒天の日本海で、泳ぎばかりではない、駈けたり、跳んだり、逃げる用意も、穴ボコへ誰よりも早くもぐりこむ用意もとゝのへてゐた。
昭和十八年の秋から徴用といふ奴が徹底的に始まつてきた。大井広介といふ男が本名は麻生某といつて、彼は元来九州の石炭屋の一族だ。こゝなら徴用が逃れるといふので、井上友一郎が先づ社員となつて九州へ、つゞいて平野謙、荒正人と俄か石炭社員ができたが、どうも坂口安吾といふ呑んだくれだけは社の風紀に関するといつて入れてくれないから仕方がない。尤も私は時々この会社へ宿酔をさましに遊びに行つて社長の空椅子にふんぞりかへつて昼寝するものだから、支店長が怖れをなして入社させてくれないので、尤も入社しなくて良かつた。私は日本映画の嘱託になつたが、こゝは一週間に一度、それも十五分だけ顔をだすと、月給をくれるからで、石炭屋はかうはいかないだらう。
十五分といふのは専務と話をする時間だ。外に仕事はない。そして、その週のニュースと文化映画と、それからよその会社や外国の映画を地階の試写室で見せてもらつて帰つてくるので、そのうちに専務の方もうるさがつて十五分の映画芸術論もやらなくてもいゝやうな顔付だから、これ幸ひと十五分の出勤も省略して、月給日だけ出掛けて行く。尤も、家にゐて脚本を書いた。三ツ書いたが、一つも映画にならなかつた。
昭和十九年になつた。ラバウルから突如としてサイパンがやられる。私は映画屋のともかく片隅の一員で試写室でニュース映画から、専務の部屋で専務から、いくらか時代の空気を見聞して、それだけが私の時代との接触で、あとの一週間の六日間はたいがい碁会所で碁を打つてゐる。けれども日本はもう駄目だといふことは私のやうな者の目にも先づ明かで、やがて日本は廃墟となる、その中で否応なく立籠らねばならないので、軍部の一ツ文句ではないけれども最悪の事態環境の中で困苦欠乏にたへる精神でなくて私の方の考へでは肉体が、ともかく最後まで生き残りうる条件だと考へた。
私は二ヶ年つゞけて海へ入りびたつたので、夏になると水へもぐりたくて堪らない。けれどもその年はともかくレッキともしてゐないが会社員であり、すでにサイパンも落ち、日本中の人間みんな学生女生徒まで工場へ住みこんだのだから、この年ばかりは海水浴の人間などは国賊になりかねない時世になつてゐるのだ。もはや新潟の海で泳ぐわけにも行かないから、そこで私は一法を案出した。
お風呂へ水をみたして、一日に十ぺんぐらゐ水風呂へつかるのだ。もぐる一瞬間は苦しいが、もぐつて五六分ジッとしてゐると、なんとも爽快なもので、これに馴れると、温浴がいやになる。兄の一家が工場疎開でゐなくなり、その留守宅に私が一人で住むことになつて、この水風呂は燃料もいらず、時間もかゝらず、至極いゝ。秋になつた、九月になつた。十月になつた。外気は寒くなつても井戸水の温度は同じことで、もぐつてしまへば、夏の水浴と同じことだ。そのうちに慾がでて、これは面白い、いつまで水風呂にはいれるか、ひとつ冬までつゞけてやらうなぞと考へて、うまくいつたら厳寒をくゞりぬけて来年の夏まで持つて行かうといふ、全く私はヒマ人なので、さうだらう、小さい女の子でも働いてゐるのに、私ばかりは月給日にでかけるだけの勤め人で、然し、あいにく、酒をのむところも、面白い遊び場もなくなつたのだから、ヒマにまかせてつまらぬことを考へる。さすがに一人で考へてゐてもきまりが悪いから、かうして水風呂で身体をきたへておくと、いざとなつて山野に野宿がつゞいても耐久力があると考へた。これは屁理窟ではない。実際私はこの水風呂以来、厳寒に薄着をしても風をひかなくなつたので、今もつてその耐久力はつゞいてゐる。
私は今も歴々と覚えてゐる。私は十二月六日まで水風呂へはいつた。もう東京の街にはサイパンからのB29が爆弾を落しはじめてゐたのである。寒い朝だつた。その前日からくみこんである水風呂へ思ひきつてズボリともぐる。この苦しさの一瞬を通りすぎると、あとは冬でも同じことで、刺す痛たさも無感覚になる。夏だとこの無感覚がむしろ不愉快で、わざ〳〵波を起して冷めたさを感じようとするのだが、冬はさすがにその勇気はない。それでもいくらか手をうごかして水を掻いて、痛む鋭さをヂッとこらへて愉快を覚えるぐらゐの多少のゆとりはあるので、もうちよつと、もうちよつとの間と歯をくひしばつて腹の五臓の底の底まで冷えてくる鋭さを五分間ぐらゐ我慢してゐる。それはたしかに慣れると爽快なものなのだ。
そして私はいつもの通り悠々と立上つて湯ぶねをまたいで出たのだが、そのとき少しふら〳〵した。つゞいて急にぼうとして何も分らなくなつてしまつた。私はその瞬間に心臓麻痺かな、しまつた、愈々成仏かと考へた。そのくせ、とつさに生きることを考へてゐたので、ヘタに倒れずに膝を折つて坐るやうに倒れることを考へた。然し、その瞬間に意識がなかつたので、私は膝の屈折に知覚もなく、したがつて、その屈折のために力を加へることもできなかつた。だが、私は、やつぱり膝を屈折して倒れることに成功してゐたので、私が意識を恢復したときには、坐つた姿勢で前へ俯伏してゐた。怪我はしてゐなかつた。そのとき以来、私は水風呂を断念したのである。尤も毎年夏の間だけはやることにしてゐる。一度慣れると、温浴がむしろ不快になるものである。非常になにか清潔、清純な無自覚にひたるからである。
この訓練は私に自信を与へた。敵が上陸してきて、日本中の家といふ家が吹きとばされて、否応なく野山にまどろむことになつても、観音様の縁の下のルンペンの次ぐらゐには長持ちがするだらうと思つたのである。まつたく、どうも、ひどいものだ。エゴイズムといふものも、こゝまでくると我ながら荘厳にすら感じたほどで、私のやうな怠け者がせつせと防空壕をつくつたのだから、生きたいといふ人の願力は物凄い。
私は然し防空壕について、あまり人々が無関心なので驚いた。私の組の防空群長が隣組のための共同防空壕をつくらせたが、あんまり御座なりなので私は腹を立てた。尤も私の家にはコンクリートの防空壕がある。私は困らないのだが、他の組員は壕を持たないので、第一庭がないところへ、このあたりは一尺掘ると水がでる。コンクリートを使はぬ限り、年中水がたまつてゐて使ひ物にはならないのだ。スコップで掘つてゐるうちに水が湧きだしてくるのだから問題外で、要するに、土地の事情に適応した防空壕の特殊な型を考へず、防空壕は穴を掘るものだと思つてゐる。私は非常に怒つてしまつて、この土地で穴を掘るのが間違つてゐるので、イザとなれば水があつても飛びこむ筈だなどゝ考へるのは大間違ひだ。生命の危険は予告のあるものではないから、やられる時は外でウロ〳〵してゐるうちにやられるので、水があつては壕の中へはいり得ず爆撃の危険は防げない。かういふ土地では金をかけても穴を掘らずに多くの材木と砂を使つて外壁の厚い露出した防空小屋をつくる以外に手はないものだ、と群長につめよつたが、それだけの木材がないといふ。すると呆れたことには隣組の面々が私の意見に反対で、この燃料の不足の時に、それだけの木材は壕よりも燃料に廻した方がいゝ、といふ。私は自分だけが特別生命の危険を怖れてゐるやうで切なかつたが、後日爆撃が始まつてみるとさうではないので、ふだん用意のない人ほど現実の恐怖に直面するとふるへあがつてしまふ。彼等の強いのは知らないからで、無知のせゐで、いつたん知ると恐怖に対するとりみだしただらしなさは論外だ。
私は防空壕には困らなかつた。始めコンクリートの池を改造して防空壕をつくつたが、そのうちドラム缶をもらひ、蛸壺壕をつくつた。日本鋼管のエライ人から貰つたもので、鉄の蓋が工夫よくつくられてあつて頭からスッポリかぶせると、直撃を受けない限り大丈夫、理想的なものだつた。
私は友人縁者から疎開をすゝめられ、家を提供するといふ親切な人も二三あつたが、それを断つて危険の多い東京の、おまけに工場地帯にがんばつてゐた。私は戦争を「見物」したかつたのだ。死んで馬鹿者と云はれても良かつたので、それは私の最後のゼイタクで、いのちの危険を代償に世紀の壮観を見物させて貰ふつもりだつた。言ふまでもなく、決して死に就て悟りをひらいてゐるわけではない私が、否、人一倍死を怖れてゐる私が、それを押しても東京にふみとどまり、戦禍の中心に最後まで逃げのこり、敵が上陸して包囲され、重砲でドカ〳〵やられ、飛行機にピュー〳〵機銃をばらまかれて、最後に白旗があがるまで息を殺してどこかにひそんでゐてやらうといふのは、大いに矛盾してゐる。然し、この矛盾は私の生涯の矛盾で、私はいつもかういふ矛盾を生きつゞけてきたのであり、その矛盾を悔む心はなかつた。死ねば仕方がないといふことは考へてゐた。私は兵隊がきらひであつた。戦争させられるからではなしに、無理強ひに命令されるからだ。私は命令されることが何より嫌ひだ。そして命令されない限り、最も大きな生命の危険に自ら身を横へてみることの好奇心にはひどく魅力を覚えてゐた。私は好奇心でいつぱいだつた。そこで又、私は特殊な訓練を始めなければならなくなつた。言ふまでもなく、これも亦、最大の危険の下で、如何にして、なるべく死なゝいやうにするか、といふことだ。
私は然しさういふことがバカげてゐることを感じてゐた。戦争といふ奴ばかりは偶然だ。どこからそれ玉がとんでくるか、こればかりは仕方がないので、私はともかくドラム缶に差当り必要な食糧と寝具をつめて土の中へ埋めておいて、生き残つたときの役に立てるつもりであつた。そこで私は裏の中学の焼跡で機械体操の練習を始め、脚力と同時に腕の力を強くする練習を始めて、毎日十五貫の大谷石を担いで走る練習を始めたのだが、もう夏になつてゐた、私はパンツ一つの素ッ裸でエイヤッと大谷石に武者ぶりつき荒川熊蔵よろしく抱きあげるのだが、おかげで胸から肩は傷だらけ、腕はミヽズ腫れが入り乱れてのたくり廻つてゐる勇しさで、全くどうも、頭の上にはB29がひどくスマートな銀色をピカ〳〵させて飛んでゐるといふのに、地上の日本は戦国時代の原始へもどつて、生き残る訓練だといつて、大谷石に武者ぶりついてゐる。環境が退化すると四十年間せつせと勉強した文明開化の影もなく平然と荒川熊蔵になり下つて不思議がつてもゐないので、なぜに又十五貫の大谷石に武者ぶりつくかといふと、決して物を担いで逃げようなどゝいふサモしい量見ではないので、物はドラム缶に入れて地下に隠してある、逃げる私は飛燕の如く身軽なのだが、穴ボコに隠れて息をひそめてゐて、爆風で穴がくづれた時に外の人間が圧しつぶされても、私だけはエイエイヤアヤッと石や材木をはねのけて躍りださうといふ魂胆。六月始めから終戦まで訓練おさ〳〵怠りなかつたのだから大したもので、近所の連中は気が違つたかと思つて呆気にとられてゐるが、私は心に期するところがあつて俗人共を軽蔑してゐる。
私がこゝまで落ちぶれたのも仕方がない。近所へ落ちた爆弾のために防空壕の七人が圧死したことがある。見渡す焼野原にも雑草が生えかけた頃で、もう人間の死んだのなどは誰も珍しがりはしない。私がたま〳〵手紙をだしに行く途中通りかゝると、二人の男が屍体七ツつみ重ねて火をつけるところだ。見物してゐるヒマ人もをらず、鼻唄まじりで呑気なもので面倒がつてドッコイショと屍体を投げすてゝ、次の屍体をとりに行きかけて、ヒョッと気がついたのは何かといふと屍体が戦闘帽をかぶつてゐる。これは勿体ないといふので、戦闘帽をぬがせて横ッちよへ投げた。あとで誰にいくらに売つたか知らないが、私は然しチラと横目にこれを見て、別に厭な気はしなかつた。青空の明るい夏であつた。すべては健康であつた。野武士といふものも、こんな風な、健康なものであつたに相違ない。人間の健康さだか、森の狸や狢のやうな健康さなのだか知らないが、私は今でも忘れない。ヒョイと帽子をつかみとつて横へ投げすてた。だいたい屍体に対する特殊な感情や態度が微塵もないので、罪悪的な暗さは全くない。開放的で、大らかで、私が健康を感じたのは私が落ちぶれたせゐではないのである。私をとりまく環境が、かういふ風になつてゐた。
近頃では立小便は罰金をとられるけれども、あの当時は、焼け残つた家の便所で尤らしく小便するのが奇怪なほどで、遊びにきた人に、オイ〳〵、君、外へ行かなくつても家の中に便所があるよ、と言つても、イヤ、面倒だよ、と云つて、わざ〳〵下駄をはいて外へでゝシャア〳〵やつてゐる。
だから私が荒川熊蔵になつても、自分では別に落ちぶれたとも思つてゐないので、これを笑ふ俗人どもは馬鹿な奴だ、今に穴ボコの中で石と材木に圧しつぶされて死ぬのも知らないで、などゝ得意になつてゐる。
負けいくさの戦争は全く小気味がいゝほど現実に幻想的だ。工夫に富めるラ・マンチャの紳士ドン・キホーテと云ふけれども、私の方では一向に笑ひ話ではないので、戦争中の私を通観すれば、あんまり工夫に富んではゐなかつたが、然し、ともかく、サンチョ・パンザよりはいくらかましな工夫をめぐらして、それが一向にをかしくもなんともない。一方、頭の上にB29といふ厭にスマートな文明の利器がすい〳〵空をとんでゐるだけ、セルヷンテス以上に奇怪な幻想的風景なのだが、それが微塵もフィクションではない、ギリ〳〵の生活だから笑はせる。
おかげで私は丈夫になつた。筋骨隆々、さうはいかないけれども、何しろ栄養がよろしくないのだから、肉体の重量は一オンスもふへてはをらぬのだが、妖怪的な強さがましたので、つまり私は観音様の縁の下とか上野公園で浮浪児になつても、めつたなことで同僚のおくれをとらない程度に、男の子は風の子といふのかな、そんな風に考へれば、まア、私も立派な男の子になつたのだらう。私も、さう、考へておかう。これはもつぱら水風呂のせゐだ。今も尚、水風呂にもぐりこんでゐるのである。
尤も私は精神的にも、この戦争といふものから近代知性と戦争との交るところの結論は知り得ずに、四五百年前の野武士の心境に就て、もつぱら自得するところがあつたのである。
底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文学季刊 第三輯」
1947(昭和22)年4月20日発行
初出:「文学季刊 第三輯」
1947(昭和22)年4月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:oterudon
2007年7月15日作成
2016年4月15日修正
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