大震火災記
鈴木三重吉
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一
大正十二年のおそろしい関東大地震の震源地は相模なだの大島の北上の海底で、そこのところが横巾最長三海里、たて十五海里の間、深さ二十ひろから百ひろまで、どかりと落ちこんだのがもとでした。
そのために東京、横浜、横須賀以下、東京湾の入口に近い千葉県の海岸、京浜間、相模の海岸、それから、伊豆の、相模なだに対面した海岸全たいから箱根地方へかけて、少くて四寸以上のゆれ巾、六寸の波動の大震動が来たのです。それが手引となって、東京、横浜、横須賀なぞでは、たちまち一面に火災がおこり、相模、伊豆の海岸が地震とともにつなみをかぶりなぞして、全部で、くずれたおれた家が五万六千、焼けたり流れたりしたのが三十七万八千、死者十一万四千、負傷者十一万五千を出し、損害総額百一億円と計上されています。
東京の市街だけでも、二里四方の面積にわたって四十一万の家々が灰になり、死者七万四千、ゆくえ不明二十一万、焼け出された人口が百四十万、損害八億一千五百万円に上っています。横浜、小田原なぞはほとんど全部があとかたもなく焼けほろびてしまいました。
これまで世界中で一ばんはげしかった地震火災は今から十五年前に、イタリヤのメッシーナという重要な港とその附近とで十四万人の市民を殺した大地震と、十七年前、サンフランシスコの震火で二十八町四方を焼いたのと、この二つですが、こんどの地震は、ゆれ方だけは以上二つの場合にくらべると、ずっとかるかったのですが、人命以外の損害のひどかった点では、まるでくらべもつかないほどの大災害だったのです。
この大きな被害も、つまり大部分が火災から来たわけで、ただ地震だけですんだのならば、東京での死人もわずか二、三千人ぐらい、家屋その他の損害も八、九十分の一ぐらいにとどまったろうということです。
地震の、東京での発震は、九月一日の午前十一時五十八分四十五秒でした。それから引きつづいて、余震(ゆれなおし)が、火災のはびこる中で、われわれのからだに感じ得たのが十二時間に百十四回以上、そのつぎの十二時間に八十八回、そのつぎが六十回、七十回と来ました。どんな小さな地震をも感じる地震計という機械に表われた数は、合計千七百回以上に上っています。
二
災害の来た一日はちょうど二百十日の前日で、東京では早朝からはげしい風雨を見ましたが、十時ごろになると空も青々とはれて、平和な初秋びよりになったとおもうと、午どきになって、とつぜんぐら〳〵〳〵とゆれ出したのです。同じ市内でも地盤のつよいところとよわいところでは震動のはげしさもちがいますが、本所のような一ばんひどかった部分では、あっと言って立ち上ると、ぐらぐらゆれる窓をとおして、目のまえの鉄筋コンクリートだての大工場の屋根瓦がうねうねと大蛇が歩くように波をうつと見るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すはずみに、今の大工場がどどんとすさまじい音をたてて、まるつぶれにたおれて、ぐるり一ぱいにもうもうと土烟が立ち上る、附近の空地へにげようとしてかけ出したものの、地面がぐらぐらうごくので足がはこばれない、そこへ、あたり一面からびゅうびゅう木材や瓦がとびちって来るので、どうすることも出来ずに立ちすくんでいると、れいのたおれた工場からは、もう、えんえんと火が上って来たと話した人があります。
或人は、電車で神田神保町のとおりを走っているところへ、がたがたと来て、電車はどかんととまる、びっくりしてとび下りると同時に、片がわの雑貨店の洋館がずしんと目のまえにたおれる、そちこちで、はりさけるような女のさけび声がする、それから先はまるでむちゅうで須田町の近くまで走って来たと思うと、いく手にはすでにもうもうと火事の黒烟が上っていたと言っています。
まったくそうでしょう。最初の震動は約十四秒つづいたのですが、それから、ものの三分とたたないうちに、神田以下十二区にわたって四十か所から発火したのです。本所や浅草では、十二時におのおの十二、三か所からもえ上ったくらいです。それから一分おき二分おきに、なおどんどん方々から火が上り、夕方六時近くには全市で六十か所の火が、おのおの何千という家々をなめて、のびひろがり、夜の十二時までの間にはすべてで八十八か所の火の手が、一つになって、とうとう本所、深川、浅草、日本橋、京橋の全部と、麹町、神田、下谷のほとんど全部、本郷、小石川、赤坂、芝の一部分(つまり東京の商工業区域のほとんどすっかり)が、まるで影も形もなく、きれいに焼きつくされてしまったのです。
その発火のもとは、病院の薬局や、学校の理化学室や、工場なぞの、薬品から火が出たのや、諸工場の工作ろや、家々のこんろなぞから来たものもありますが、そのほかにとび火も少くなかったようです。何分地震で屋根がこわれ落ちているところへ、どんどん火の子をかぶるのですからたまったものではありません。当夜火の中をくぐってにげて来た人の話によりますと、二十間巾ぐらいの往来でも、片がわが焼けて来て、ほのおが風のようにびゅうと、ひくく地上をはったと見ると、向うがわはもうまっ赤にもえ上るというすさまじさだったそうです。かけ出した各消防署のポンプも、地震で水道の鉄管がこわれて水がまるで出ないので、どうしようにも手のつけようがなく、ところにより、わずかに堀割やどぶ川の水を利用して、ようやく二十二、三か所ぐらいは消しとめたそうですが、それ以上にはもう力がおよばなかったのです。大きな工場や、工事中のビルヂィングなぞには、地震でがらがらとつぶされて、一どに何百人という人が下じきになり、うめきさけんでいるところへ、たちまち火がまわって来て、一人ものこらず焼け死んだのがいくつもあります。
多くの人々は、大てい、ソラ火がまわったというので、着のみ着のままにげ出したようです。中には、安全と思うところへ早く家財なぞをもち出して一安神していると、間もなく、ふいに思わぬところから火の手がせまって来たりして、せっかくもち出したものもそのままほうってにげ出す間もなく、こんどは、ぎゃくにまっ向うから火の子がふりかぶさって来るという調子で、あっちへ、こっちへと、いくどもにげにげするうちに、とうとうほりわりのところなぞへおいつめられて、仕方なしに泥水の中へとびこむと、その上へ、後から何十人という人がどんどんおちこんで、下のものはおしつけられておぼれてしまうし、上の方にいた人は黒こげになって、けっきょく一人のこらず死んだような場所もあります。
てんでんにつつみをしょってかけ出した人も、やがて往来が人一ぱいで動きがとれなくなり、仕方なしに荷をほうり出す、むりにせおってつきぬけようとした人も、その背中の荷物へ火の子がとんでもえついたりするので、つまりは同じく空手のまま、やっとくぐりぬけて来たというのが大方です。気のどくなのは、手近の小さな広場をたよって、坂本、浅草、両国なぞのような千坪二千坪ばかりの小公園なぞへにげこんだ人たちです。そんな人は、ぎっしりつまったなり出るにも出られず、みんな一しょにむし焼きにあってしまいました。
そんなわけで、なまじっかなところではとてもあぶないので、大部分の人は、とおい山の手の知り合いの家々や、宮城前の広地や、芝、日比谷、上野の大公園なぞを目がけてひなんしたのです。平生はふつうの人のはいれない、離宮や御えんや、宮内省の一部なども開放されたので、人々はそれらの中へもおしおしになってにげこみました。
にげるについて一ばんじゃまになったのは、いろんなものをはこびかけている、車や馬車や自動車です。多くのところではそれが往来に一ぱいつづきはだかっているので、歩こうにも出ようにもあがきがとれなかったと言います。そんなところでは、ただぎゅうぎゅうおされ〳〵て、やっと一寸二寸ずつうごいていくだけなので、目ざす広場へつくのに、平生なら二十分でいけるところを、二時間も三時間もかかったと言っていた人があります。ぐずぐずしているうちには後の方の人は見る見るむし焼きになり、横の方からはどんどん火の子が来て、着物や髪にもえつくというようなありさまで、女や子どもの中には、ふみたおされて死んだものもどれだけあるか分らないと言われています。
中でも一ばん悲さんだったのは、本所の被服しょうあとへにげこんだ人たちです。そこは、ともかく何万坪という広い構内ですから、本所かいわいの人たちは、だれもそこなら安全だと思って、どんどん荷物をはこびこみました。夜になってからは、いよいよ多くの人が、むりやりにわりこんで来て、ぎっしり一ぱいにつまってしまいました。ところが、そこも、やがて、ぐるりと火の手につつまれ、多くの荷物へどんどんもえ移って来て、とうとう、三万二千という多数の人が、すっかり黒こげになってしまいました。
その群がりかさなってたおれた人の一ばん下になっていたために、からくもたすかって息をふきかえし、上部の人がすっかり黒やけになったのち、やっともぐり出たという人が二、三十人ばかりあります。そんな人たちの話をきくと、まるで身の毛もよだつようです。或一人は、当夜、火の手がせまって息ぐるしくてたまらないので、人のからだの下へぐんぐん顔をつッこんでうつ伏しになっていたが、しまいには、のどがかわいて目がくらみそうになる、そのうちに、たまたま、水見たいなものが手にさわったので、それへ口をつけて、むちゅうでぐいぐい飲んだまではおぼえているが、あとで考えると、その水気というのは、人の小便か、焼け死んだ死体のあぶらが流れたまっていたのだろうと話しました。
そのほかいろいろの方面のそう難者について、さまざまのいたいたしい話を聞きました。永代橋が焼けおちるのと一しょに大川の中へおちて、後でたすけ上げられた或婦人なぞは、最初三つになる子どもをつれて、深川の方からのがれて来て、橋の半ば以上のところまで、ぎゅうぎゅうおされてわたって来たと思うと、急に、さきが火の手にさえぎられて動きがつかなくなり、やがてま上へもびゅうびゅう火の子をかぶって息も出来ません。婦人はもうこれなり焼け死ぬものと見きわめをつけやっと帯や小帯をつないで子どもをしばりつけて川の上へたぐり下し、下を船がとおりかかったらその中へ落すつもりでまっているうちに、つい火気で目がくらんで子どもをはなしてしまい、じぶんも間もなく橋と一しょに落ちこんで流れていったのだと話していました。隅田川にかかっていた橋は、両国橋のほかはすべて焼けおちてしまいました。
浜町や蔵前あたりの川岸で、火におわれて、いかだの上なぞへとびこんだ人々の中には、夜どおし火の風をあびつづけて、生きた思いもなく、こごまっていた人もあり、中にはくびのあたりまで水につかって、火の子が来るともぐりこみ、もぐりこみして、七、八時間も立ちつづけていた人もあったそうです。
三
こういう話をならべ上げればかぎりもありません。
同時に、一方では、あのおそろしい猛火と混乱との中で、しまいまで、おちついて機敏に手をつくし、または命をまでもなげ出して、多くの人々をすくい上げた、いろいろの人々のとうといはたらきをも忘れてはなりません。たとえば、これまで深川の貧民たちのために尽力していた、富田老巡査のごときは、火の危険な街上にしまいまで立ちつくして、みんなを安全な方向ににがし〳〵したあげく、じぶんはついに焼け死んでしまいました。また、下谷から焼け出された或四十がっこうの一婦人は、本郷の大学病院の後までにげて来ると、火の手はだんだんにそこへものびて来そうになりました。その一角には、地震でこわれかけた家々が、いる人もなく立ちのこっています。その家々へ火がついたら、すぐに病院へもえうつるわけです。婦人はそれを考えて、そこらへにげて来ている人たちをはげまし、綱なぞをあつめて来て、それでもって、みんなと一しょに、今言った家々をたおしておいて立ちのいたと言われています。あんのごとく火はちょうど、そこのところまで来てとまりました。
つぎには、これは築地の、市の施療院でのことですが、その病院では、当番の鈴木、上与那原両海軍軍医少佐以下の沈着なしょちで、火が来るまえに、看護婦たちにたん架をかつがせなどして、すべての患者を裏手のうめ立て地なぞへうつしておいたのですが、同夜八時ごろには病院も焼け落ち、十一時半には構内にある第一火薬庫がばく発し、第二火薬庫もあやうくなりました。それで、患者たち一同を、川向うの浜離宮へうつす外にはみちもなくなりました。川は、ちょうどひき潮ですさまじい濁流がごうごうとうずまき、たぎっています。勇敢な高橋事務員は、その中へ決然一人でとびこんで、ようやく、向うの岸にひなんしていた船にたどりつき、船頭たちに、患者をはこんでくれるようにと、こんこんとたのみましたが、船頭はいやがって、がんとしておうじてくれません。すると幸い、だれも人のいない船が一そう、上手から流れて来たので、高橋さんはそれに乗りうつり、氏一人を見かねてとびこんで来た河田軍医と二人で、岸から岸へ綱をわたし、それをたよりに、わずか一そうの船で、すべての患者を、重病者はたんかへ乗せたまま、一人ものこらず、すっかりぶじに離宮の構内へはこび入れました。
それら全部の救護は、ことごとく、少数の医員たちの外、すべて二十年以下の、年わかい看護婦五十名の、ちつじょただしい、ぎせい的の努力によって、しとげられたのです。
そのとき浜離宮へは、すでに何万という市民がひなんしていました。火の子はだんだんにそこへふって来ます。そのうちに、人の気づかない、離宮の物置小屋にとび火がして、屋根へもえ上りました。向う岸から患者をはこんで来たばかりの看護婦たちのうち、田島かつ子さん以下はそれを見て、すかさずかけつけて、ひっしになって消しとめました。かつ子さんたちはそれから一と晩中バケツで池の水をはこんでは屋根へかけかけして、一いきも休まずはたらきつづけました。その小屋をけしとめなかったなら、火はたちまち離宮の建物にも移ったのです。そうなったら──そこはすでに、両面に火の手をひかえており、後は海なので──何万人というひなん者は、まったく被服しょうのざん死者と同じように、ことごとく焼け死ぬか海へおちてでき死するかして、一人もたすからなかったはずです。
このことは、前に言った高橋さんたちのはたらきとともに、まだ世間につたえられていないのでとくに、人々の傾ちょうをあおいでおきたいと思います。
火災からひなんしたすべての人たちのうち、おそらく少くとも百二十万以上の人は、ようやくのことで、上にあげた、それぞれの広地や、郊外の野原なぞにたどりつき、飲むものも食べるものもなしに、一晩中、くらやみの地上におびえあつまっていたのです。そのごったがえしの群々の中には、そこにもここにも、全身にやけどをした人や、重病者が、横だおしになってうなっている。保護者にはぐれた子どもたちが、おんおんないてうろうろしている。恐怖と悲嘆とに気が狂った女が、きいきい声をあげてかけ歩く。びっくりしたのと、無理に歩いて来たのとで、きゅうに産気づいて苦しんでいる妊婦もあり、だれよだれよと半狂乱で家族の人をさがしまわっているものがあるなどその混乱といたましさとは、じっさい想像にあまるくらいでした。多くの人は火の中をくぐって来てのどがかわいて苦しくてたまらないので、きたないどぶの水をもかまわずぐいぐい飲んだと言います。上野ではしのばず池のあの泥くさりの水で粉ミルクをといて乳のみ児にのませた婦人さえありました。
火はとうとうよく二日一ぱいもえつづき、ところによっては三日にとび火で焼けはじめた部分もあります。官省、学校、病院、会社、銀行、大商店、寺院、劇場なぞ、焼失したすべてを数え上げれば大変です。中でも五〇万冊の本をすっかり焼いた帝国大学図書館以下、いろいろの官署や個人が二つとない貴重な文書なぞをすっかり焼いたのは何と言っても残念です。大学図書館の本は、すっかり灰になるまで三日間ももえつづけていました。
以上の外、火災をのがれた山の手や郊外の町の混雑もたいへんでした。家のくずれかたむいた人は地震のゆれかえしをおそれて、街上へ家財をもち出し、布や板で小屋がけをして寝たり、どのうちへも大てい一ぱい避難者が来て火事場におとらずごたごたする中で、一日二日の夜は、ばく弾をもった或暴徒がおそって来るとか、どこどこの囚人が何千人にげこんで来たというような、根もない流言によって、一部の人々は非常におびえさわぎました。むろん電灯もつかないので夜は家の中もまっくらです。いろいろ物そうなので、町々では青年団なぞがそれぞれ自警団を作り、うろんくさいものがいりこむのをふせいだり、火の番をしたりして警戒しました。
郊外から見ると、二日の日なぞは一日中、大きなまっ赤な入道雲見たいなものが、市内の空に物すごく、おおいかぶさっていました。それは実は、まださかんにやけている火事の烟のあつまりだったのです。
四
しかし、震災の突発について政府以下、すべての官民がさしあたり一ばんこまったのは、無線電信をはじめ、すべての通信機関がすっかり破かいされてしまったために、地方とのれんらくが全然とれなくなったことです。市民たちも、摂政宮殿下が御安全でいらせられるということは早く一日中に拝聞して、まず御安神申し上げましたが、日光の田母沢の御用邸に御滞在中の 両陛下の御安否が分りません。それで二日の午前に、まず第一に陸軍から、大橋特務曹長操縦、林少尉同乗で、天候の観測をするよゆうもなく、冒険的に日光へ飛行機をかり、御用邸の上をせんかいしながら、「両陛下が御安泰にいらせられるなら旗をふって合図をされたい」としたためたかきつけと、東京方面の事情を上奏する書面を入れた報告筒を投下し、胸をとどろかせてまっていると、下から大きな旗がふりはじめられたので、かしこみよろこんで、帰還し 摂政宮殿下に言上しました。
皇族の方々のおんうち、東京でおやしきがお焼けになった方もおありになりましたが、でも幸にいずれもおけがもなくておすみになりましたが、鎌倉では山階宮妃佐紀子女王殿下が御圧死になり、閑院宮寛子女王殿下が小田原の御用邸の倒かいで、東久邇宮師正王殿下がくげ沼で、それぞれ御惨死なされたのはまことにおんいたわしいかぎりです。
第一の飛行機が日光へ向った同じ午前に、一方では、波多野中尉が一名の兵卒をつれて、同じく冒険的に生命をとして大阪に飛行し、はじめて東京地方の惨状の報告と、救護その他軍事上の重要命令を第四師団にわたし、九時間二十分で往復して来ました。それでもって大阪から日本の各地や世界中へ、東京横浜の大惨害がつたえられ、地方からの食糧輸送とうがはじまったのです。同飛行機は、火災地の上空をいきかえりしたので、機体がすすでまっ黒になったと言われています。
摂政宮殿下には災害について非常に御心痛あそばされ、当日ただちに内田臨時首相をめし、政府が全力をつくして罹災者の救護につとめるようにおおせつけになりました。二日の午後三時に政府は臨時震災救護事務局というものを組織し、さしあたり九百五十万円の救護資金を支出して、り災者へ食糧、飲料水をくばり、傷病者の手あて以下、交通、通信、衛生、防備、警備の手くばりをつけました。同日午後五時に、山本伯の内閣が出来上り、それと同時に非常徴発令を発布して、東京および各地方から、食料品、飲料、薪炭その他の燃料、家屋、建築材料、薬品、衛生材料、船その他の運ぱん具、電線、労務を徴発する方法をつけ、まず市内の自動車数百だいをとりあつめて新宿駅につまれていた六千俵の米を徴発し、り災者へのたき出しにあてました。
三日には東京府、神奈川、静岡、千葉、埼玉県に戒厳令が布かれ、福田大将が司令官に任命されて、以上の地方を軍隊で警備しはじめました。そのため、東京市中や市外の要所々々にも歩哨が立ち、暴徒しゅう来等の流言にびくびくしていた人たちもすっかり安神しましたし、混雑につけ入って色んな勝手なことをしがちな、市中一たいのちつじょもついて来ました。出動部隊は近衛師団、第一師団のほか、地方の七こ師団以下合計九こ師団の歩兵聯隊にくわえて、騎兵、重砲兵、鉄道等の各聯隊、飛行隊の外、ほとんど全国の工兵大隊とで、総員五万一千、馬匹一万頭。それが全警備区に配分されて、配給や救護や、道路、橋の修理などにも全力を上げてはたらいたのです。軍用鳩も方々へお使いをしました。
同時に海軍では聯合艦隊以下、多くの艦船を派出して、関西地方からどんどん食料や衛生材料なぞを運び、ひなん者の輸送をもあつかい出しました。
同日、摂政宮殿下からは、救護用として御内ど金一千万円をお下しになりました。食料品は鉄道なぞによっても、どんどん各地方からはこばれて来たので、市民のための食物はありあまるほどになりました。
赤さびの鉄片や、まっ黒こげの灰土のみのぼうぼうとつづいた、がらんどうの焼けあとでは、四日五日のころまで、まだ火気のある路ばたなぞに、黒こげの死体がごろごろしていました。隅田川の岸なぞには水死者の死体が浮んでいました。街上には電線や電車の架空線がもつれ下っている下に、電車や自動車の焼けつくした、骨ばかりのがぺちゃんこにつぶれています。風がふくたびに、こげくさい灰土がもうもうとたって目もあけていられないくらいです。二日三日なぞはその中をいろいろのあわれなすがたをした人たちがおしおしになって、ぞろぞろ流れうごいていました。いずれも一時のがれにあつまっていたところから、それぞれのつてをもとめていったり、地方へにげ出すつもりで、日暮里や品川のステイションなぞを目あてにうつッていくのです。女たちで、すはだしのまま、つかれ青ざめてよろよろと歩いていくのがどっさりいました。手車や荷馬車に負傷者をつんでとおるのもあり、たずね人だれだれと名前をかいた旗を立てて、ゆくえの分らない人をさがしまわる人たちもあります。そのごたごたした中を、方々の救護班や、たき出しをのせた貨物自動車がかけちがうし、焼けあとのトタン板をがらがらひきずっていく音がするなぞ、その混雑と言ったらありません。
地震のために脱線したり、たおれこわれたりした列車は、全被害地にわたって四十四列車もあります。東京から地方へのがれ出るには、関西方面行の汽車は箱根のトンネルがこわれてつうじないので、東京湾から船で清水港へわたり、そこから汽車に乗るのです。東北その他へ出る汽車には、みんながおしおしにつめかけて、機関車のぐるりや、箱車の屋根の上へまでぎっしりと乗上って、いのちがけでゆられていくありさまでした。
焼け出されたまま落ちつく先のない人々は、日比谷公園や宮城まえなぞに立てならべられた、宮内省の救護用テントの中にはいったり、焼けのこりの板切れなぞをひろいあつめて道ばたにかり小屋をつくり、その中にこごまっていたりして、たき出しをもらって食べたりしていたのです。
震災後、二た月ばかりになりますと、市民の数は、七万の死者と、九十三万の人が地方へ出ていったのとで、二百五十万人が百四十万に減ってしまいました。いきどころをもたないり災者の一半は、そのときも、まだ、救護局が建設した、日比谷、上野、その他のバラックの中に住んでいました。工兵隊は引つづき毎日爆薬で、やけあとのたてもののだん片なぞを、どんどんこわしていました。九階から上が地震でくずれ落ちた浅草の十二階もばく破されてしまいました。こうして片づけられていく焼けあとには、片はしからどんどんかり小屋をたてて、もとの商ばいにかえる人々もあり、十一月末にはすべてで四万以上の小屋がけが出来、十七万人の人々がはいりました。
小学校は全市で百九十六校あったのが百十八校まで焼け、り災した児童の数が十四万八千四百人に上っています。そのうちの四割は地方や郡部にうつったものと見て、あと八万九千の人たちは、十一月にもとのところにかり校舎がたつまでは、どうすることも出来なかったのです。中には焼けあとの校庭にあつまって、本も道具もないので、ただいろいろのお話を聞いたりしている生徒もいました。そのほか公園なぞの森の中に、林間学校がいくつかひらかれていましたが、そこへかようことの出来る子たちは、全部から見ればほんの僅少な一部分にすぎませんでした。
政府は東京や、その他の被害地を再興するために復興院という役所を設けました。東京市のごときは、まず根本に、火事のさいに多くの人がひなんし得る、大公園や、広場や大きな交通路、その他いろいろの地割をきめた上、こみ入ったところには耐火的のたて物以外にはたてさせないように規定して、だんだんに再建築にかかるのですが、帝都として、すっかりととのった東京が再現するまでには、少くとも十年以上はかかるにそういありません。
最後にこの震災について諸外国からそそがれた大きな同情にたいしては、全日本人が深く感謝しなければなりません。米国はいち早く東洋艦隊を急派して、医療具、薬品等を横浜へはこんで来ました。なお数せきの御用船で食糧や、何千人を入れ得るテント病院を寄そうして来ました。その病院は横浜と東京とにたてられて、のちには日本人の手で活動しました。その他、ニューヨーク市では、「一分早ければ一人多くたすかる」という標語をかかげて、市民の間からたちまちに一千万円以上のお金をつのっておくりとどけました。サンフランシスコ市では、少年少女たちが日本への義えん金を得るために花を売り出したところ、多くの人が一たばを五十円、百円で買ったと言われています。
英国でも、皇帝、皇后両陛下や、ロンドン市民から寄附をよこし、東洋艦隊や、カナダからの数せきの船は食糧を満さいして来ました。
支那では北京政府が二十万元を支出して送金して来た外、これまで米殻輸出を禁じていたのを、とくに日本のために、その禁令をといたり、全国の海関税を今後一か年間一割ひき上げて、それだけを日本へおくることを発表しました。もと支那の皇帝であられた宣統帝は、今では何の収入もない境ぐうにいられる中から、手もとにありたけの一万元を寄附された上、今後の生活費として売りはらうつもりでいられた高貴な宝石、道具二十余点を売って十五万元のお金をよこされました。
そのほかロシヤでも、よゆうの少い沿海州の市民たちでさえも、全力をあげて日本を救えとさけび、フランス、イタリー、メキシコ、オーストラリヤでは、日をきめて興行物一さいをさしひかえ各戸に半旗を上げて、日本の不幸に同情を表し、義えん金を集めました。
いうまでもなくこの大災害は、精神的にも物質的にも、全日本そのものの心臓をつきさされたにひとしい大被害です。単に物質だけの百一億円の損害でも、日露戦争の費用の五倍以上にあたり、全国富の十分の一を失ったわけです。われわれはおたがいに協同努力して一日も早くこの大負傷をいやすことにつとめなければなりません。これまで多くの人々はふだんの平和に甘えて、だらけた考におち、お金の上でも、間違った、むだのついえの多い生活をしていた点がどれだけあったかわかりません。この大変災を機会として、すべての人が根本に態度をあらためなおし、勤勉質実に合理的な生活をする習慣をかため上げなければならないと思います。
底本:「鈴木三重吉童話集」岩波文庫、岩波書店
1996(平成8)年11月18日第1刷発行
底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第六巻」文泉堂書店
1975(昭和50)年9月10日発行
初出:「赤い鳥」
1923(大正12)年11月
※「御滞在中の 両陛下の御安否が分りません。」および「帰還し 摂政宮殿下
に言上しました。」の空白は底本のままです。
入力:鈴木厚司
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
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