三十歳
坂口安吾



 冬であった。あるいは、冬になろうとするころであった。私の三十歳の十一月末か十二月の始めごろ。

 あのころのことは、殆ど記憶に残っていない。二十七歳の追憶のところで書いておいたが、私はこのことに就ては、忘れようと努力した長い年月があったのである。そして、その努力がもはや不要になったのは、あの人の訃報が訪れた時であった。私は始めてあの人のこと、あのころのことを思いだしてみようとしたが、その時はもう、みんな忘れて、とりとめのない断片だけがあるばかり、今もなお、首尾一貫したものがない。

 日暮れであった。いや、いつか、日暮れになったのだ。あの人が来たとき、私がハッキリ覚えているのは、私がひどく汚らしい顔をしていたことだけだ。私はその一週間ぐらい顔を剃らなかったのだ。

 私は自分のヒゲヅラがきらいである。汚らしく、みすぼらしいというより、なんだか、いかにも悪者らしく、不潔な魂が目だってくる。ヒゲがあると、目まで濁る。陰鬱で、邪悪だ。

 そのくせ不精な私は、却々なかなかヒゲを剃ることができない。私のヒゲはかたいので、タオルでむす必要があるから、それが煩しいのである。仕事をしながら頬杖をつくと、掌にヒゲが当る。すると私は不愉快になり、濁った暗い目を想像して居たゝまらなくなるのであるが、不精な私はそれをどうすることもできない。鏡を見ないように努め、思いださないように努める。

 私は「いづこへ」の女とズルズルベッタリの生活から別れて帰ってきたのであった。母の住む蒲田の家へ。「いづこへ」の女と私は女の良人の追跡をのがれて逃げまわり、最後に、浦和の駅の近くのアパートに落付いた。そこで私たちはハッキリ別れをつけて、私はいったん私のもと居た大森のアパートへ戻って始末をつけて、母の家へ戻ったのだ。

 すると、その三日目か四日目ぐらいに、あの人が訪ねてきたのだ。四年ぶりのことである。母の家へ戻ったことを、遠方から透視していたようであった。常に見まもり、そして帰宅を待ちかねて、やってきたのだ。別れたばかりの女のことも知りぬいていた。

 私はいったい、なぜだろうかと疑った。あの人に私の動勢を伝える人の心当りがないのである。この不思議は十二年間私の頭にからみついて放れなかった。私が真相を知り得たのは去年の春のことであった。

 山口県のMという未知の人から、私は突然手紙をもらった。次のようなものである。


 突然お手紙を差上げます。その前に、たゞ今不用意に突然と書きましたが、私に致しますと、あなたにお手紙差上げますのは、十年来の願いでありますので、その訳を一言のべさせていただきます。

 昭和十年ごろ(そのころ私は早稲田の第二学院の生徒でした)下落合の矢田津世子さんのお宅で雑誌「作品」の御作拝見しました。たしか、いくつも拝見させていたゞきましたが、その中で題名を記憶していますのは「淫者山に入る」という作品だけでございます。然し、題を忘れたと申しましても、その時の私の印象の強烈さは、とうてい今申し上げても御信じにならないほどでありました。少しキザな表現ですが、戸塚附近の散歩に、あなたのお名前をくりかえして歩いていたこともございます。

 ちょうどそのころ、偶然あなたが私の同郷の知人の所有のアパートに棲んでいらっしゃることを知りました。私の知人とは、佐川という人で、アパートは大森堤方のみどり荘と十二天アパートで、その後者にあなたが居られることを知ったわけです。

 管理人からあなたの御噂をきいたきり、当時の私は怖しくて、御逢いすることが出来ませんでした。その管理人は、あなたに就て、非常に私を怖れさせることを申しますので、いくども御部屋の前でたゝずみながら、断念して戻りました。(中略)

 それから十年、終戦後の御作を読むうち、「戯作について」の日記の記事に、茫然と致したのです。

 あのころの私は毎日のように矢田さんをお訪ね致しておりました。矢田さんの寛大な心に甘えて、私はダダッ子のように黙って坐って、あの方の放心とも物思いともつかぬ寂しい顔や、複雑な微笑の翳を目にとめて、私はみるような澄んだ思いになるのでした。矢田さんは、寂しい人です。どうして、こんなに寂しい人なのだろう、美貌と才気にめぐまれたこの人の心をあたゝめる何物もないのだろうか、私はいつも自問自答していたのです。

 あなたと矢田さんが、あのような関係にあったとは! 矢田さんにも幸福な時があったんだ、私は当時を追憶して、思いは切なく澄むばかりです。(下略)


 手紙の中に同封して、何かのお役に立てば、と、写真が一枚はいっていた。M氏の下宿の窓から矢田さんの部屋の窓をうつしたもので、屋根と窓と空があるばかりの写真であった。

 矢田さんが私の何年かの動勢を手にとるごとく知っていたのはムリがない。あのアパートの私の部屋は管理人室の向いにあった。そこへ毎日、女が通っていた。M氏は私の動勢を、私がたとえば友人には秘密のことまで知っていたに相違ない。そしてそれはすべて矢田さんに語り伝えられていたであろう。

 私はその三年間、あの人のことを思いつめていたのだ。そう云ってしまえば、たしかにそうだ。私の感情はあの人をめぐって狂っていた。恋愛というものは、いわば一つの狂気であろう。私の心にすむあの人の姿が遠く離れゝば離れるほど、私の狂気は深まっていた。

 私はあの人をこの世で最も不潔な魂の、不潔な肉体の人だという風に考える。そう考え、それを信じきらずにはいられなくなるのであった。

 そして、その不潔な人をさらに卑しめ辱しめるために、最も高貴な一人の女を空想しようと考える。すると、それも、いつしか矢田津世子になっている。気違いめいたこの相剋は、平凡な日常生活の思わぬところへ別の形で現れてもいた。

 そして私が「いづこへ」の女と別れる時には、私はどうしてもこの狂気の処置をつけなければならないことを決意していたのである。求婚の形でか、より激しく狂気の形でか、強姦の形でか、とにかく何か一つの処置がなければならぬことだけは信じていた。

 矢田津世子も、たぶん、そうであったらしい。二人は別々に離れて、同じような悲しい狂気に身悶えていたらしい。

 あの人が訪ねてきたとき、私はちょうど、玄関の隣りの茶の間に一人で坐っていた。そして私が取次にでた。

 あの人は青ざめて、私を睨んで立っていた。無言であった。睨みつづけることしか、できないようであった。私の方から、お上りなさい、と言葉をかけた。

 テーブルをはさんで椅子にかけて、二人は睨みあっていた。

 私は私のヒゲヅラが気にかゝっていたのを忘れない。その私にくらべれば、矢田さんは一つのことしか思いこんでいなかったようだ。やがて私をハッキリと、ひときわ睨みすくめて、言った。

「私はあなたのお顔を見たら、一と言だけ怒鳴って、扉をしめて、すぐ立去るつもりでした。私はあなたを愛しています、と、その一と言だけ」

 私はそう驚きもしなかったようだ。はじめから、もう、たゞならぬものがあったから、我々が我々の最も重大なことにふれる日だということを、私はすでに知っていたに相違ない。

 私が最も驚いたのは、一と言だけ怒鳴って、という、怒鳴って、という表現だった。あの人が通常使う言葉ではない。そこには気違いじみた殺気があった。私はあの人がすこし狂ったのじゃないかと思った。

 あの人は目をとじていた。言うべきことを言ったのだ。そして、扉をしめて立ち去らずに、なお私の前にいるだけのことである。

 こうなれば、私自身の言うべきことも、たゞ一つしかないだけのことだ。私は然し、あの人のように一途に決意をこめてはおらず、余裕があったので、愛とか恋という言葉の表現や発音が、間の抜けたバカげたものになりはしないか、気がゝりで、言葉の選択と表現法に長くこだわる時間がすぎた。

「僕もあなたを愛していました。四年間、気違いのように、思いつづけていたのです。この部屋で、四年前、あなたが訪ねてこられた日から気違いのようなものでした。いわばそれから、あなたのことばかり思いつめていたようなものです」

 私がこう言い終ると、あの人がスックと立ち上ったように思ったが、実際は、あの人が顔を上げたゞけなのだ。その顔が青ざめはてて、怒りのために、ひきしまり、狂ったように、きつかったのだ。

「四年前に、なぜ、四年前に」

 変に、だるく、くりかえした。

「なぜ、四年前に、それを仰有おっしゃって下さらなかったのです」

 そして、かすかに、つけ加えた。

「四年間……」

 すると、あの人は、うつろな目をあけたまま、茫然と虚脱し、放心しているのだ。

 私はたぶん色々な悲しいことを思ったであろう。

 何を考え、何を云ったか、あとはもう、私は殆ど覚えていない。

「外へでましょう」

 と私が言って、出たのを覚えている。私は身も心も妙にひきしまり、寒気の抵抗の中で二人で歩きつゞけていなければならないような気持であった。もう日暮れであった。寒い風がふいていた。

 私たちは、蒲田から大森へ、又、大森から大井まで歩いた。


          


 大井町で別れると、その時から、私はもう不安と苦痛に堪えがたい思いであった。たしか三日のあとに逢う約束であったと思う。三日という長い時間が息絶えずに待ちきれるか、私は夜もろくに眠れなかったが、そのような狂気について、私はもはや追想の根気もなければ、書きしるしたい気持もない。

 恋愛の情は同じ一つの狂気とは云え、あの人と私の心は同じものではなかった。

 あの人の心については、私は色々に言うことができるが、そしてそのどの一つもたぶん違っていないと思うが、然し、すべてを言いきることは、むつかしい。

 私の魂は荒廃し、すれ、獣類的ですらあったが、あの人は老成していた。それはなべて女のもつ性格の然らしめる当然であったようだ。

 私はまったく無能力者であった。私の小説などは一年にいくつと金にならず、概ね零細な稿料であり、定収にちかいものといえば、都新聞の匿名批評ぐらいのもの、それとて二十円ぐらいのもので、あとは出版社や友人からの借金で、食わなくとも酒はのむというような生活であった。故郷の兄からも補助を仰いでおり、又、竹村書房からは、時々相当まとまった借金もしていた。苦心の借金も、すべてこれを酒に費したと見て間違いない。

 矢田津世子はそのころすでにかなり盛名をはせていたが、その作品は私を敬服せしめるものではなかったので、私は矢田津世子との再会によって、むしろ発奮の心を失ってしまったようだ。

 矢田津世子に、あなたは天才ですから、威張って、意地を張り通して、くさらずに、やり通さなければいけません。くさって、諦めて、投げてしまうのがいけないのです、と言われるたびに、なにを、つまらぬことを、私はあの人の良妻ぶったツマラナサを冷然と見くびるばかりであった。私はたゞ、むなしかったゞけである。なんとなくバカらしいような落胆を感じた。私は愛人に憐れまれていることの憤りを言うのではない。そのようなとき、彼女の盛名の虚しさを一途に嘲殺していたかも知れない。

 それが彼女にひゞかぬワケはなかった。彼女は突然ヒステリックに言うのであった。

「私、女流作家然とみすぼらしい虚名なんかに安んじて、日本なんかにオダテラレ甘やかされていゝ気になっていたいなどゝ思ってはいないのです」

 私はそのダシヌケなのに呆気にとられてしまう。然し、あの人の顔は血の気がひいて、とがり、こわばっているのであった。

「私が女学校をでてまもないころ、私に求婚した最初の人があったんです。私が求婚に応じてあげなかったものですから、私の住む日本にいるのが堪えられないと、今は満洲に放浪し、呑んだくれているのですけど、私のことを一生に一人の女だといって、世間の常識がどうあろうとも、自分の心には、妻だと言いきっているのです。粗野で、狂暴で、テンカン持ちのように発作的な激情家で、呑んだくれですけど、その魂には澄みわたった光がこもっているのです。日本も、そして全てのものを捨てゝ、満洲へ、あの人のところへ、とんで行きたくなることがあります。あの方の胸には清らかな光が宿っているから」

 あなたの胸には、それがない。光もなければ、夢もない、陰鬱な退屈と、悪意の眼があるばかりである。そう語っているのであろうが、なにを、甘ッちょろい、私の心は波立ちもせず、退屈しきっているのみだ。

 然し、甘くない何物もある筈はない。存外にも、甘そうな見かけの物に、甚だ甘からざる何かゞあるもので、恋をする女の心、その眼の深さ冷めたさ鋭さは、表面の甘っちょろい反射本能的な言動などとは比較にならぬものがあるようだ。

 たとえばあの人は、私のことを、あなたは天才だからなどと言いながら、そんな見方に定着しない意地悪い鋭さで、無慙に現実的な観察を私の全部に行きとゞかせていたのだ。

 たとえば、私の無能力ということ、貧困ということ、世に容れられぬ天才の不遇などという甘い見方とは露交わらぬ冷酷な目で、私の今いる無能力と貧困の実相をきびしく見つめていた。

 ありていに云えば、正体はむしろこうであったろう。

 あの人の本心が私のことをあなたは天才だからと云っているのではなく、私の虚栄深い企みの心が、オレは天才だから不遇で貧乏で怠け者なんだ、そうあの人に言わせようとしていたのだ。あの人はその私の虚栄のカラクリの不潔さに堪えがたいものがあったのだ。

 私は年が代ると、すぐ、松の内のすぎたばかりの頃であった思いがするが、母の住む家をでて、本郷のKホテルの屋根裏へ引越した。

 このホテルは戦災で焼けたということであるが、明治時代の古い木造の洋風三階建で、その上に三畳ぐらいの時計塔のようなものが頭をだしていた。私が借りて住んだのは、この時計塔であった。特別の細い階段を上るのだ。風が吹くと今にももぎれて落ちそうに揺れるから、風のおさまるまで友人の家へ避難するというような塔であった。

 私には母と一しょの日本の古い家という陰惨な生活がたえられなかったのであるが、も一つの大きな理由は、別れた女がくるかも知れぬ。その女に逢ってしまうと、私はまたズルズルと古いクサレ縁へひきこまれるに相違ないという予感があった。

 なぜなら、私は矢田津世子に再会した一週ほどの後には、二人のツナガリはその激しい愛情を打ち開けあったというだけで、それ以上どうすることもできないらしいということを感じはじめていたからであった。

 矢田津世子は、別れた女の人に悪いじゃないの、と言うのであった。そんな義理人情、私はさりげなく返答をにごしているが、肚では意地悪くあの人の言葉の裏の何ものかを見すくめて、軽蔑しきっている。

 又Oさんに悪いから。Oさんは自殺するから、と言った。あの人と女流作家のOさんは友人以上に愛人であった。あの人と私のことが判ると、Oさんは自殺するであろう、というのだ。もとより私はそんな言葉は信じていない。

 私は時計塔の殺風景な三畳に、非常に部屋に不似合いに坐っている常識的で根は良妻型の有名な女流作家を見て見ぬようにヒソヒソと見すくめている。

 この女流作家が怖れているのは、私の別れた女への義理人情や、同性愛の愛人へのイタワリなどである筈はない。

 この女流作家の凡庸な良識が最も怖れているのは、私の貧困、私の無能力ということなのだ。殺風景なこの時計塔と、そこに猿のように住む私の現実を怖れているのだ。

 彼女は私の才能をあるいは信じているかも知れぬ。又、宿命的な何かによって、狂気にちかい恋心をたしかに私にいだいているかも知れない。

 然し、彼女をひきとめている力がある。彼女の真実の眼も心も、私のすむこの現実に定着して、それが実際の評価の規準となっている。彼女は叫んだ。

「私は女流作家然とみすぼらしい虚名なんかに安んじて、日本なんかに、オダテラレ、甘やかされて、いゝ気になっていたいなどゝ思ってはいないんです」

 そして、日本も、又、すべてのものを捨てゝ、満洲へ行ってしまいたいのだ、という。

 嘘だ。大嘘、マッカな嘘である。

 私は冷めたく考えた。事実、私は卑屈そのものでもあった。彼女の心は語っている。私の貧困と、私の無能力が、みすぼらしくて不潔だ、と。よろしい。私は卑屈に、うけいれる。じっさい、私は不潔で、みすぼらしい魂の人間なんだ。然し、そういうあなたの本心はどうだ。あなたこそ、小さな虚しい盛名に縋りついているんじゃないか。その盛名が生きがいなんだ。虚栄なんだ。見栄なんだ。その虚栄が、恋心にも拘らず、私の現実を承認できないのじゃないか。

 名声も、日本も、すべてを捨てゝ、満洲へ去りたいなどゝ虚栄児にも時には孤独者の夢想ぐらいはあるだろう。

 だが、すべては、私のワガママであったと思う。私は卑屈であり、卑劣であったが、思い上っていたのである。

 私があるとき談話の中で「女」という言葉を使ったとき、「女の人」と仰有い、とあなたは言った。私はヘドモドして、えゝ、ハア、女の人、うわずって言い直して、あやまったりしたが、私は然し、口惜しさで、あなたを軽蔑しきっていた。

 つまり私が、知り合いのさる女人をさして、その女が、と云った。すると矢田津世子は、その女の人と仰有い、と言うのだ。私の言葉づかいは粗暴無礼であるが、その女が、その女の人に変ったところで、その上品が何ものだというのであろう。

 イヤらしい通俗性、イヤらしい虚栄、それがあなたのマガイのない姿なのだ。そしてそれが、単に虚名をもたないばかりで、時計塔の住人を猿のようなミジメなものに考えさせているのだ。

 私は然し、その後の数年、物を書くとき、気がゝりで困ったものだ。その女、ではいけなくて、その女の人でなければならぬような、デリカシイのない言葉づかいをウッカリやらかしていないかと気がゝりで困ったのだ。

 そして私は、あさましいことに、女という字を書くたびにウッとつかえて、わざわざ女の人と書き直したことが何度あったかわからない。

 私はそれだけの人間でもあるのだ。なぜそれだけの人間として、矢田津世子の凡庸な虚栄につゝましく対処し、うけいれることが出来なかったのだろう。

 私はつまり思いあがっていたのだ。


          


 当時を追憶して私が思うことは、私はあれほどの狂気のような恋をした。然し、恋愛とは狂気なものではあるが、純粋なものではない、ということに就てだ。狂気とか、狂人という、いわば一つを思いつめた世界も、それを純一に思いつめたせいではなく、思いつめ方に複雑で不純な歪みがあり、その歪みが結局、狂気の特質ではないかと私は思ったほどである。つまり、人間を狂気にするものは、人間の不純さであるかも知れぬ、というワケになろう。

 然し、狂気の恋愛は、純粋なものと思われ易い。私とても、それを一応純粋なものと思うのは普通であり、すくなくとも、その狂的な劇しさに於て、これを純粋とよぶことは有りうべきことである。つまり情熱のみの問題としては、一応純粋と言うべきであろう。

 我々は概ね七八歳前後の幼年期に、年長の婦人に強い思慕をよせがちであるが、これは動物的なもので、だからそのために神経衰弱になるような人間的性格をともなわないものである。

 成年の恋愛は人間のものである。情熱の高さのみが純粋であっても、人間が、純粋である筈はあり得ない。

 私は然し、当時に於ては、情熱が高ければ純粋なものだ、という考え方を捨てるだけの経験がなかった。だから自己の不純さについて多くの苦しみを重ねもしたし、反面、情熱の高さ劇しさに依存して、それを一途にまもることにも苦心した。その一々を思いだしてみることは、何の役にも立たないだろう。

 今さら矢田津世子に再会したことがいけなかったのだ。私はあの人に会いたいと思いつゞけていた。然し、会わない方がいゝ、会ってはいけないという考えもあった。なぜであるか、当時の私にはシカと正体のつかみがたい不安と怖れであったが、それが正しかったのである。

 あの人と会わない三年間に、あの人は私にとって、実在するあの人ではなくなっていた。

 私は「いづこへ」の女と一緒にくらした二年ちかいあいだ、女と別れること、むしろ逃げることばかり考えていた。そのくせ、このまま、身を捨て、世を捨てる、なぜそれが出来ないのかとも考えた。

 私はたぶん、あのころは、何のために生きているのか知らなかったに相違ない。自殺とか、世を捨てるとか、そんなことを思う時間も多かった。そして私を漠然と生きさせ、生きぬこうとさせた力の主要なものは、たぶん「勝敗」ということ、勝ちたいということ、であったと私は思う。

 勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。

 たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。

 人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。

 けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。

 私は「いづこへ」の女が夜の遊びをもとめる時に、時々逆上して怒った。

「君はそのために生きているのか! そのためにオレが必要なのか!」

 私にとって、私がそのことを怒るべき時期であったに相違ない。あの女とは限らない。どの女であるにしても、その事柄を怒らずにいられない時期であったと思う。

 私は女の生理を呪った。女の情慾を汚らしいものだと思った。その私は、女以上に色好みで、汚らしい慾情に憑かれており、金を握れば遊里へとび、わざ〳〵遠い田舎町まで宿場女郎を買いに行ったりしていたのである。

 私はこうして女の情慾に逆上的な怒りを燃やすたびに、神聖なものとして、一つだけ特別な女、矢田津世子のことを思いだしていた。もとより、それはバカげたことだ。もとより当時からそのバカらしさは気付いていたが、そうせずにいられなかっただけである。

 一つの女体としての矢田津世子が、他のあらゆる女体と同じだけの汚らしさ悲しさにみちたものであることを、当時の私といえども知らぬ筈はない。それどころか、女の情慾の汚らしさに逆上的な怒りを燃やすたびに、私はむしろ痛切に、矢田津世子がそれと同じものであることを痛く苦く納得させられ、その女の女体から矢田津世子の女体を教えられているのであった。

 それにも拘らず、逆上的な怒りのたびに、矢田津世子の同じ女体を、一つ特別な神聖なものとして思いだしてもいるのだ。

 その矢田津世子は、私のあみだした生存の原理、魔術のカラクリであったのだろう。世に容れられず、といえば大きすぎるが、世に拗ね、人に隠れ、希望を失い、自信を失い、何がために生きるか目安を失い果てゝいる私は、私の生命の火となるものを魔術のカラクリに托す以外に仕方がなかったであろう。

 それがカラクリであるにしても、ともかく、その二年間、私は矢田津世子によって生きていた。それを生命の火としていた。そのバカらしさを知りながら、その夢に寄生していたのである。


          


 矢田津世子と再会して、混乱の時期が収ったとき、私の目に定着して、ゆるぎも見せぬ正体をあらわしたのは、矢田津世子の女体であった。その苦しさに、私は呻いた。

 三年間、私が夢に描いて恋いこがれていた矢田津世子は、もはや現実の矢田津世子ではなかったのだ。夢の中だけしか存在しない私の一つのアコガレであり、特別なものであった。

 今日の私はその真相を理解することができたけれども、当時の私はそうではなかった。私の恋人は夢の中で生育した特別な矢田津世子であり、現実の矢田津世子ではなくなっていることを理解できなかったのだ。私はたゞ、驚き、訝り、現実の苦痛や奇怪に混乱をつゞけ、深めていた。

 現実の矢田津世子は、夢の中の矢田津世子には似ず、呆れるほど、別れたばかりの女に似ていた。むしろ、同じものであったのだ。同じ女体であったから。私は然し、当時は、恋する人の名誉のために、同じ、という見方を許すことができなかったから、私の理解はくらみ、益々混乱するばかりであったのである。

 二十七歳のころは、私は矢田津世子の顔を見ているときは、救われ、そして安らかであった。三十歳の私は、別れたあとの苦痛の切なさは二十七のころと同じものであったが、顔を合せている時は、苦しさだけで、救いもなく、安らかな心は影だになかった。

 私はあの人と対座するや、猟犬の鋭い注意力のみが感官の全部にこもって、事々に、あの人の女体を嗅ぎだし、これもあの女に似てるじゃないか、それもあの女と同じじゃないか、私は女体の発見に追いつめられ、苦悶した。

 そのくせ、二十七の矢田津世子はむしろ軽薄みだらであり、三十の矢田津世子は、緊張し、余裕がなかったのだ。

 二十七の矢田津世子は、私に二人だけの旅行をうながし、二人だけで上高地をブラブラしたいとか、尾瀬沼へ行ってみたい、などと頻りに誘ったものである。それは時が夏でもあったが、薄い短い服をきて、腕も素足もあらわに、私はそれを正視するに堪えなかったものである。然し、当時のあの人はむしろ無邪気であったのだろう。

 三十の矢田津世子は武装していた。二人で旅行したいなどとは言わなかった。私も言わなかった。二十七の私たちは、愛情の告白はできなかったが、向いあっているだけで安らかであり、甘い夢があった。三十の私たちは、のッぴきならぬ愛情を告白しあい、武装して、睨み合っているだけで、身動きすらもできない有様であった。

 私も、あの人も、大人になっていたのだ。私は「いづこへ」の女との二年間の生活で、その女を通して矢田津世子の女体を知り、夢の中のあの人と、現実のこの人との歴然たるへだたりに混乱しつゝも、最も意地わるくこの人の女体を見すくめていた。

 矢田津世子も、彼女の夢に育てられた私と、現実の私との距りの発見に、私以上に虚をつかれ、度を失い、収拾すべからざるものがあったのではないかと私は思う。矢田津世子が何事を通してそのような大人になったか、私には分らぬけれども、彼女が私の現身うつしみに見出し、見すくめ、意地わるくその底までもシャブリつゞけていたものは、私が見つめていた彼女の女体よりも、もっと俗世的な、救いのないものではなかったかと私は思った。その当時から、そう思っていた。

 さきに私は、当時の私を生かすもの、ともかく私の生命の火の如きものが、勝敗であったと云った。思うに私は少年の頃から、勝利を敗北の形で自覚しようとする無意識な偏向があったようだ。

 私はすでに二十の年から、最も屡々しばしば世を捨てることを考え、坊主になろうとし、そしてそのような生き方が不純なものであると悟って文学に志しても、私が近親を感じるものは落伍者の文学であり、私のアコガレの一つは落伍者であった。

 私は恋愛に於ても、同じことを繰返したようである。その繰返しは、私の意識せざるところから、おのずから動きだしていたものであるが、それが今日の私に何を与えたであろうか。私には分らない。恐らく私の得たものは、今日あるもの、そして、今書きつゝあること、今書かれつゝあるこのことを、それと思うべきであるのかも知れない。

 私は然し、今日、私がこのように平静でありうるのも、矢田津世子がすでに死んだからだと信ぜざるを得ないのである。

 思えば、人の心は幼稚なものであるが、理窟では分りきったことが、現実ではママならないのが、その愚を知りながら、どうすることもできないものであるらしい。

 矢田津世子が生きている限り、夢と現実との距りは、現実的には整理しきれず、そのいずれかの死に至るまで、私の迷いは鎮まる時が有り得なかったと思われる。

 矢田津世子よ。あなたはウヌボレの強い女であった。あなたは私を天才であるかのようなことを言いつゞけた。そのくせ、あなたは、あなたの意地わるい目は、最も世俗的なところから、私を卑しめ、蔑んでいた。

 又、あなたは私が恋人であるように、唯一の良人たる人であるように、くずれたような甘い言葉や甘い身のコナシを見せようと努力していた。そんな努力を払ったのは、後にも先にも、私一人に対してゞあったかも知れない。然し、努力であったことに変りはない。そうしながら、あなたは、私を憎み、卑しみ、蔑んでいたのである。変なくずれた甘さを見せかけるために、あなたの憎しみや卑しめや蔑みは、狂的に醗酵して、私の胸をめがけて食いこんでいた。

 あなたとても、同じことであったろう。然し、私はあなたを天才だなどとは言わなかった。才媛とすらも言わなかった。私には、余裕がなかった。然し、あなたを唯一の思いつめた恋人であるということは、たしかに言った。全ての心をあげて、叫ぶように言った。たしかに、そうだと信じていたのだから。そのくせ、それを叫ぶ瞬間には、私はいつもそれがニセモノであることに気がついて、まごつき、混乱し、その間の悪さ、恰好のつかなさ、空虚さに、ゲンナリしてしまったものだ。その間の悪さは、何か私が色魔で、現にあなたをタブラカシつつあるように、私自身に思わせたりしたが、それはつまり私が役者でなかったせいで、あらゆる余裕がなかったせいに外ならない。然し、それがあなたに与えた打撃は、ひどかったに相違ない。あなたは、私に、最も大きな辱しめを受け、卑しめられていると思ったであろう。あなたはすでに大人ではあったが、私のそれが、私が役者でないせいで、余裕のないせいであるということを見破るほどの大人ではなかった。あなたも、恋の技術家ではなかったのである。

 私が必死であったように、あなたの変に甘えたクズレも必死で、あなたが役者でなく、余裕のないせいであったかも知れない。その判断をつける自信は、今もなければ、未来もないに相違ない。

 然し、クズレた甘さというものは、キチガイめくものがあった。滑車が、ふとすべりだして、とまらなくて、自分でどうすることもできないようなダラシなさがあった。それは瞬間であった。その次には、もう、あなたは私を更に狂的な底意をこめて、憎しみ、卑しめ、蔑んでいたのだ。

 あなたのクズレた甘さときては、全然不手際な接木つぎきのように、だしぬけに猫の鳴声のような甘え方を見せるのだ。その白痴めく甘さと、キチガイの底意をこめた憎しみ卑しめ蔑みに、私はモミクチャに飜弄された。あなたに飜弄の意志はなくとも、私の受けるものは飜弄のみであった。

 同じことを、あなたは私に対しても、言い、叫びたいであろう。あなたも、私を呪ったに相違ない。

 私たちは、三十分か、長くて一時間ぐらい対座して、たったそれだけで、十年も睨みあったように、疲れきっていた。別れぎわの二人の顔は、私は私の顔を見ることは出来ないけれども、あなたのヒドイ疲れ方にくらべて、それ以下であったとは思わない。あなたはお婆さんになったように、やつれ、黙りこみ、円タクにのって、その車が走りだすとき、鉛色の目で私を見つめて、もう我慢ができないように、目をとじて、去ってしまう。

 別れたあとでは、二十七のあのころと同じように、苦痛であった。然し、対座している最中の疲れは、さらにヒドイものであった。会うたびに、私たちは、別れることを急いだものだ。


          


 矢田津世子と最後に会った日は、あの日である。たそがれに別れたのだが、あのときはまだ雪は降っていなかったようだ。

 その日は速達か何かで、御馳走したいから二時だか三時だか、帝大前のフランス料理店へ来てくれという、そこで食事をして、私は少し酒をのんだ。薄暗い料理屋であった。

 私は決して酔っていなかった。その日は、速達をもらった時から、私は決意していたのである。

 私は、矢田津世子に暴力を加えても、と思い決していた。むしろ、同意をもとめて、変にクズレた、ウワズッたヤリトリなどをしたくはなかった。問答無用、と私は考えていたのだ。

 食事中は、そのことは翳にも見せず、何やら話していた筈であるが、もともと私たちの話はいつも最も不器用にしか出来ないところへ、そういう下心があっては、それが相手に感づかれずにいるものではない。

 下心を知り合って、二人は困りきっていた。私は矢田津世子が私の下心を見ぬいたことを知っていたし、それに対して、色々に心を働かせていることを見抜いていた。

 私は矢田津世子と対座するたびに、いつも、鉄の壁のような抵抗を感じていた。彼女も、同じものを私から感じていたであろう。

 鉄の壁の抵抗とは、矢田津世子が肉体を拒否しているということではない。その点は、むしろ、アベコベなのだ。

 私たちはお互に、肉体以上のものを知り合っていた。肉体は蛇足のようなものであった。

 私たちはすでに肉体以上のものを与え合っていた。肉体を拒否するイワレは何もない。肉体から先のものを与え合い、肉体以後の憎しみや蔑みがすぐ始っていたのだ。

 私はすでに「いづこへ」の女を通して、矢田津世子の女体を知りつくし、蔑み、その情慾を卑しんでいた。矢田津世子も、何らかの通路によって、私の男体を知りつくしていたに相違ない。

 私たちは、慾情的でもあった。二人の心はあまりに易々と肉体を許し合うに相違なく、それを欲し、それのみを願ってすらいた。それを見抜き合ってもいた。

 お互の肉慾のもろさを見抜き合い、蔑み合う私たちは、特にあの人の場合は、その蔑みに対して、鉄の壁の抵抗をつくって見せざるを得なかったであろう。二十七のあの人は、気軽に二人だけの愉しい旅行を提案することができたのに、そして、なぜ、あのとき、それを実行しなかったのであろうか。惜しみなく肉体を与えるには、時期があるものだ。矢田津世子はそれを呪っていた。その肉体に、憎しみや、卑しめや、蔑みの先立っている今となっては、あまりに残酷ではないか。

 矢田津世子が、それをハッキリ言ったのは、この日であった。

 下心を知りあって、そのためにフミキリのつかなくなった私は、よけいに苛々いらいらジリジリと虚しい苦痛の時間を持たねばならなかった。だから私が、出ましょう、とうながして、私の部屋へ行きましょう、と誘うと、矢田津世子はホッとした様子であった。それは、なんとまア、くだらない疲れを重ねさせたじゃないの、と云うようにも思われた。

 然し、私の宿への道を、無言に、重苦しく歩いていると、とつぜん、矢田津世子が言った。

「四年前に、私が尾瀬沼へお誘いしたとき、なぜ行こうと仰有らなかったの。あの日から、私のからだは差上げていたのだわ。でも、今は、もうダメです」

 矢田津世子は、すべてをハッキリ言いきったつもりなのだが、その時の私は、すべてを理解することは出来なかった。

 私は、もっと、意地わるく、汚らしく、考えた。

 私はまず、四年前に、自らすゝんでからだを与えようとしたことを、執念深く、今となって言い訳しているのだという風に考えた。つづいて、下心を見ぬき合い、その一室へ歩きつゝある今となって、自らすゝんで肉体のことを言いだすのは、それもテレカクシにすぎないのだ、ということであった。

「なぜ、ダメなんです」

 と、私はきいた。

「今日は、ダメです」

 と、答えて、言いたした。

「今日は、ダメ。また、いつかよ」

 まるで、鼻唄か、念仏みたいな、言い方であった。

 私は、もう、返事をしなかった。私は一途にテレカクシを蔑み、下品な情慾をかきたてゝいたにすぎない。

 私はどんな放浪の旅にも、懐から放したことのない二冊の本があった。N・R・F発行の「危険な関係」の袖珍本で、昭和十六年、小田原で、私の留守中に洪水に見舞われて太平洋へ押し流されてしまうまで、何より大切にしていたのである。

 私はこの本のたった一ヶ所にアンダーラインをひいていた。それはメルトイユ夫人がヴァルモンに当てた手紙の部分で「女は愛する男には暴行されたようにして身をまかせることを欲するものだ」という意味のくだりであった。

 私はそのくだりを思いだしていた。そして、そこに限ってアンダーラインをひいていたことを、その道々苦笑したが、後日になっては、見るに堪えない自責に襲われ、殆ど、強迫観念に苦しむようになったのである。


          


 私の部屋はKホテルの屋根の上の小さな塔の中であった。特別のせまい階段を登るのである。

 せまい塔の中は、小型の寝台と机だけで一パイで、寝台へかける外には、坐るところもなかった。

 矢田津世子は寝台に腰かけていた。病院の寝台と同じ、鉄の寝台であった。

 私は、さすがに、ためらった。もはや、情慾は、まったく、なかった。ノドをしめあげるようにしてムリに押しつめてくるものは、私の決意の惰性だけで、私はノロ〳〵とにじりよるような、ブザマな有様であった。

 私は矢田津世子の横に腰を下して、たしかに、胸にだきしめたのだ。然し、その腕に私の力がいくらかでも籠っていたという覚えがない。

 私は風をだきしめたような思いであった。私の全身から力が失われていたが、むしろ、磁石と鉄の作用の、その反対の作用が、からだを引き放して行くようであった。

 私の惰性は、然し、つゞいた。そして、私は、接吻した。

 矢田津世子の目は鉛の死んだ目であった。顔も、鉛の、死んだ顔であった。閉じられた口も、鉛の死んだ唇であった。

 私が何事を行うにしても、もはや矢田津世子には、それに対して施すべき一切の意識も体力も失われていた。表情もなければ、身動きもなかった。すべてが死んでいたのであった。

 私は茫然と矢田津世子から離れた。まったく、そのほかに名状すべからざる状態であったと思う。私は、たゞ、叫んでいた。

「出ましょう。外を歩きましょう」

 そして、私は歩きだした。私について、矢田津世子も細い階段を下りてきた。

 表通りへでると、私はたゞちに円タクをひろって、せかせかと矢田津世子に車をすゝめた。

「じゃア、さよなら」

 矢田津世子は、かすかに笑顔をつくった。そして、

「おやすみ」

 と軽く頭を下げた。

 それが私たちの最後の日であった。そして、再び、私たちは会わなかった。

 私は、塔の中の部屋で、夜更けまで考えこんでいた。そして、意を決して、矢田津世子に絶縁の手紙を書き終えたとき、午前二時ごろであったと思う。ねむろうとしてフトンをかぶって、さすがに涙が溢れてきた。

 私の絶縁の手紙には、私たちには肉体があってはいけないのだ、ようやくそれが分ったから、もう我々の現身はないものとして、我々は再び会わないことにしよう、という意味を、原稿紙で五枚くらいに書いたのだ。

 翌日、それを速達でだした。街には雪がつもっていた。その日、昭和十一年二月二十六日。血なまぐさい二・二六事件の気配が、そのときはまだ、街には目立たず、街は静かな雪道だけであったような記憶がする。

 一しょに竹村書房へも手紙をだした。数日後、竹村書房へ行ってみると、その手紙が戒厳令司令部のケンエツを受けて、開封されているのだ。

 してみれば矢田さんへ当てた最後の手紙も開封されたに相違ない。むごたらしさに、しばらくは、やるせなかった。

 矢田さんからの返事はなかった。

底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房

   1998(平成10)年720日初版第1刷発行

底本の親本:「文学界 第二巻第五号」

   1948(昭和23)年51日発行

初出:「文学界 第二巻第五号」

   1948(昭和23)年51日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:小林繁雄

2007年724日作成

青空文庫作成ファイル:

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