耳と目
寺田寅彦
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耳も目も、いずれも二つずつ、われわれの頭の頂上からほぼ同じ距離だけ下がった所に開いている。目のほうは前面に二つ並んでほぼ同じ方向を向いているのに耳のほうは両側にあって、だいたいにおいて反対の方向に向いている。もっとも耳たぶがあるために各方の耳が精確にどちらに向いているかという事はそう簡単に言われないが、しかし、この平凡な事実は考えてみるといろいろなおもしろい意義をもっている。
二つずつあるのは空間知覚のためであって、二つの間の距離が空間を測量するための基線になるのである。耳と目とが同じ高さにあるのは視覚空間と聴覚空間との連絡、同格化のために便利であろうと思われる。ところが光線伝播は直線的であるので二つの目が同時に対象に向かっていなければならない。従って、二つが前面に並んでいないと不都合である。これに反して音の場合には音波が頭で回折されるから、一つの耳の反対の側から来る音でもその耳に到達する。しかし正面から来る音よりは弱く聞こえるのである。それで音源の方向を知るにはむしろ両耳が頭の反対の側にあるほうが好都合なわけになるのである。
この事は、トーキーの場合にはそれほど問題にならないようにも思われる。観客はかなりな距離にあって、視角の限定されたスクリーンに対しているから、空間の深さの判断の正確さは始めから断念してかかっている。従って音の出る場所がその音に相当する視像と少しちがった方向と距離とにあってもたいして苦にならない。しかし物を言っている顔の大写しなどの場合には、この耳と目との空間知覚の齟齬が多少は起こるかもしれない。これは少し詳しく実験してみるとおもしろいと思う。
またたとえば映画の中で一人の男が暗殺者のために思いがけなく射殺されるところがあるとする。突然なピストルの音とともにこの男が倒れる。その音が観客の正面の向こうのほうで響いたと思われるのに、ピストルを持った男がずっと横手のほうから現われて来ると思われるのではちょっと理屈に合わないわけである。しかしこういう場合でも、一方では音の方向知覚というものの本来不確実なために、また一方では劇場の複雑な反響のために、なおその上に、視像の暗示にだまされる錯覚のために、実際はたいした不都合は感じないかもしれない。
それはとにかく、もしもわれわれが音源の距離方向を判断する能力が非常に鋭敏であったら、トーキーというものはたいへんやっかいな問題に出会うであろうが、そうでないのは幸いである。しかし上記のような耳と目との空間知覚性の差別は、トーキー製作者の一応記憶していてもしかるべき事であろうと思われる。
耳と目の比較をする時に考えられる著しい差別は、耳が複雑な異種類の音響の複合物をその組成要素に分析する能力をもっているのに、目には視像を分析する能力がないという点にある。たとえば、ジンタ音楽と「いらっしゃいいらっしゃい」とが同時にオーヴァラップして聞こえていても、われわれはきれいに二つを別々に聞き分けることができるが、二つの少し込み合った映像の重合したものはただ混沌たる夢のようなものにしか見えない。たとえ二つのものは判別されても、二つのものの独自の属性は失われる。たとえば人間を通じて景色が見えるのでは、人間はもはや人間でなくて幽霊になってしまう。しかし音の重なる場合には二つのものはそれぞれ単独にある場合の独立性を失わない。
この事実はトーキー製作者の利用のしかたによっては、いろいろの可能性を生み出すであろう。現在でもすでにかなり利用されてはいるようである。簡単平凡な例を取れば、対話中に来訪者のベルを響かせて、次に現われて来る人間を紹介する類である。しかしまだその方面で幾多のおもしろい新しい試みができるであろうと思われる。
普通の発声映画の場合には色彩は問題にならない。カメラの目は全色盲だからである。しかし音の音程や音色は実にヴァイタルな重要性をもっている。ソプラノがベースに聞こえたりうぐいすの声が鵞鳥のように聞こえるのでは打ちこわしである。前述のピストルの場合でも音の強度より音色のほうが大切である。近いピストルの音と遠いピストルの音との差は、単なる強度の差でなくて著しい音色の差である。それは雑音の中に含まれるいろいろな波長の音波が、それぞれ回折や分散の模様のちがうために起こる現象である。
トーキーの場合には、実際の音の音色は決してそのままに記録され複製されない。それは録音ならびに発音器械の不完全から来る欠点である。そのために、ほんとうの音よりも適当な擬音のほうがかえってほんとうらしく聞こえるというおもしろい現象も起こるのである。それでこの録音ならびに発音器械の不完全を利用して、近いピストルを遠く聞かせたり、人声を井戸の底から響くように聞かせたりすることも可能になるわけである。フラスコの中で歌う人造人間の歌を、さもさもそうらしく聞かせるような音響トリックもできていいわけである。これらは器械技術者と監督との協力によってどうにもなることと思われる。
映像の場合にも肉眼と写真カメラとの本質的差違のためにいろいろの問題は起こるが、これはもう周知の事でありこのためにいろいろのおもしろいトリックができるのである。 光の伝播は実用上ほとんど瞬時的であるが、音の速度は常温では毎秒三百四十メートル程度である。それで三百四十メートルのかなたで花火が開けば、その音は光の傘が開いてから一秒後に聞こえる。たとえば薄暮の水楼の欄干に男女が相対して話している。向こうの空に花火がぱっと開く。二人がそのほうを見る。しばらくしてぽーんと弱い爆音が聞こえる。この時間間隔がうまく行けばほんとうに花火らしい感じが出るであろう。また江上の夏の夜の情趣も浮かぶであろう。
小銃弾の速度は毎秒九百メートルほどである。それで約一キロメートル前方の山腹で一斉射撃の煙が見えたら、それから一秒余おくれて弾が来て、それからまた二秒近くおくれて、はじめて音が聞こえるわけである。こんな事もトーキーの場合には問題になりうるであろう。
音と光との回折や透過に関する差違はトーキーでもすでにいろいろに利用されている。酒場で悪漢が密談している間に、隣室で球突きのゲームをとる声と球の音が聞こえている。その音が急に高くなったと思うとドアーが開いて女が現われるというようなのは、これは、光が届かぬのに音の届く場合である。これに反して、ガラス窓の向こうで男女が何か小声で話しているのをこっちから見ているという種類のは、光を透過して音を遮断した場合である。この種類の特殊な効果の可能性もまだ現在のトーキーでことごとくされているとは思われない。
目はまぶたによって任意に開閉され、また頭を動かすことなしにある程度までは自由に左右上下に動かされる。しかし耳は耳だけではそういう自由をもたない。この事実にもいろいろな意味があるが、主要な目的論的意義はやはり光と音との本質的差異と連関している。しかしここではそれは別問題として、単にこの事実とトーキーの関係を考えてみる。
音が聞こえてから、目でその音源を追究する代わりに、カメラを回してそれを追究する。これはよくやる手法である。それがうまく行っている場合には、観客は実際自分の目がそっちへ向くように感じる。しかし実は動かぬスクリーンを見つめているのである。この効果の最も著しく感ぜられる場合は、たとえば茂みの中を鉄砲を持って前進する猟者を側面から映写しながら追跡する場合である。スクリーンと自分の目とが静止しているとは思われなくて、スクリーンが猟者といっしょに進行するのを、絶えず目を横に動かして追跡しているとしか感じられない。おそらく実際眼球が周期的に動くのではないかと思われる。ところが音響の場合には、これに相当するような錯覚を起こすことはむつかしい。それができるくらいなら耳も、目と同じようにクリクリ動かせるようになっているはずと思われる。
目が開閉自在であるという事実に基づくいろいろな現象は、やはりいくらかトーキーに応用されてもいいと思う。たとえばわれわれは音楽を聞きながら目を閉じて聞き入る場合がある。それで、トーキーの場合にも一時スクリーンを暗くして音だけを聞かせることによって効果を高めるということも上手にやればおもしろいに相違ない。
目を閉じるといろいろの「光の舞踊」が見える。これはある程度までは生理的効果でだれにでも共通なものである。この現象はトーキーでなく無声映画でも利用されうるであろうが、しかしトーキーだといっそう有効に応用されうるわけである。たとえば、画中の人物が蒲団を引っかぶる。スクリーンにこの光の舞踊を思わせるものが適当に映出される。そうして枕もとの時計のチクタクだけが高く響く、あるいは枕に押しつけた耳に響く脈搏を思わせる雑音を聞かせるのもいいかもしれない。しかし今のところでは発声器械の不完全なために生ずるいろいろな雑音が邪魔になるので、こういう技巧は当然失敗のほかないかもしれない。
もっともこれらの場合では、観客を一度完全にスクリーンの上の人物の内部へ引き入れてしまわなければならない。換言すれば観客を画中人物のまぶたの内側へ入れてしまわなければせっかくの技巧が意味をなさないことになる。しかし映画監督がそういう魔術を日常駆使しているのは周知の事実であろう。
トーキー製作の監督者は、要するに人間の目と耳とを品玉とする魔術師である。従ってこれらの感官に関する充分な分析的な研究を基礎としてその上に彼らの芸術を最も有効に建設すべきであろうと思う。
匆卒の間に筆を執ったためにはなはだ不秩序で蕪雑な随感録になってしまったが、トーキーの研究者に多少でも参考になることができたら大幸である。もし他日機会があったら、もう少し系統的にこれらの問題を考究してみたいという希望をもっている。
底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
1961(昭和36)年4月7日第1刷発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
1985(昭和60)年
初出:「映画評論」
1933(昭和8)年5月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」です。
入力:Cyobirin
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
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