言葉の不思議
寺田寅彦




「鉄塔」第一号所載木村房吉きむらふさきち氏の「ほとけ」の中に、自分が先年「思想」に書いた言語の統計的研究方法(万華鏡まんげきょう所載)に関する論文のことが引き合いに出ていたので、これを機縁にして思いついた事を少し書いてみる。

「わらふ」と laugh についてもいろいろなおもしろい事実がある。laugh は (AS*.)hlehhan から出たことになっているらしいが、この最初のhがとれて英語やドイツ語になり、そのhが「は」になり、それから「わ」になったと仮定するとどうやら日本語の「笑ふ」になりそうである。ギリシアの gelao もgが gh になり、それからgがとれて、「は」「わ」と変わればやはり日本語になるからおもしろい。(L.)rideo, (Fr.)rire は少しちがうが「ら」行であるだけはたしかである。「げらげら笑ふ」「へらへら笑ふ」というから g+l や h+l のような組み合わせは全く擬音的かもしれない。マレイの glak も同様である。馬の笑うのは ilai でこれは日本に近い。

「あざ笑ふ」の「あさ」は「あさみ笑ふ」の「あさ」かと思うがこれは (Skt.)√has に通じる。一人称単数現在なら hasami だからよく似ている。hāsita は笑うべき事で「はしたない」に通じる。「はしゃぐ」が笑い騒ぐ事で、「あさましい」も場合によると「笑ひ事」であるのもおもしろい。

 セミティックの方面でも (Ar.)basama は「微笑する」で「あさむ」「あさましい」と似ている。しかし「笑ふ」の dahika はむしろ「たはけ」に似ている。(Ar.)fariha は「喜ぶ」で「わらふ」に似ている。

「あさましい」はまた (Skt.)vismayas で「驚く」ほうにも通じるが、それよりも元の smi, smaya で微笑にもなる。

 (Skt.)garh は非難するほうだが軽蔑けいべつして笑うほうにもなりうるのである。これも g+r である。そう言えば「愚弄ぐろう」もやはり g+r だから妙である。

「べらぼう」も引き合いに出たが、これについて手近なものは (Skt.)prabhū また parama でいずれも「べらぼう」の意がなくはない。しかしまた、「強い」ほうの意味の bala から出た balavat だって似ていなくはない。「珍しい」「前例のない」ほうの aprāpya, apurva でも、やはり日本式ローマ字で書くと p+r+b(m) の部類にはいる。これらはサンスクリトとしてはきわめて明白に、それぞれ全く異なる根幹から生じたものであるのに、音のほうではどこか共通なものがあり、同時に意味のほうにも共通なものがあるから全く不思議な事実である。

 英語の brave や bravo も「べらぼう」の従兄弟いとこであるが、これはたぶん (L.)barbarus と関係があるという説がある。そうとすればギリシアの barbaros とも共通に、外国人を軽蔑けいべつしていうときの名であったらしい。しかし「勇敢」では少しぐあいが悪い。また一方で Barbarossa が「赤ひげ」であるのも不思議である。

(Ar.)gharib, ghurabā「異常」は喉音こうおんのgをとると「わらふ」にも似てるし、hをbに変えると「べらぼう」のほうに近づく。すると結局「わらふ」と「べらぼう」も従兄弟だか再従兄弟またいとこだかわからなくなるところに興味がある。ついでに (Skt.)ullasitā が「うれしい」で (L.)jocus が「茶化す」に通じるのもおもしろい。


 barbarus で思いだすのは「野蛮」と (Skt.)yavana である。後者は、ギリシア人(Ionian)であったのが後には一般外国人、あるいは回教徒の意に用いられ、ちょうどギリシア人の barbaros に相当するものになっているからおもしろい。東夷とうい南蛮の類であり、毛唐人けとうじんの仲間である。この「ヤヷナ」が「野蛮」に通じまた「野暮やぼな」に通ずるところに妙味がないとは言われない。

 またこの「毛唐」がギリシアの「海の化けもの」kètos に通じ、「けだもの」、「気疎けうとい」にも縁がなくはない。


 話は変わるが二三日前若い人たちと夕食をくったとき「スキ焼き」の語原だと言って某新聞に載っていた記事が話題にのぼった。維新前牛肉など食うのは禁物であるからこっそり畑へ出てたき火をする。そうして肉片をすきの鉄板上に載せたのを火上にかざし、じわじわ焼いて食ったというのである。こういうあんまりうま過ぎるのはたいていうそに決まっていると言って皆で笑った。そのときの一説に「すき」は steak だろうというのがあった。日本人は子音の重なるのは不得意だから st がsになることは可能である。漆喰しっくいが stucco と兄弟だとすると、この説にも一顧の価値があるかもしれない。ついでに (Skt.)jval は「燃える」である。「じわりじわり」に通じる。

 なすの「しぎ焼き」の「しぎ」にもいろいろこじつけがあるが、「しき」と変えてみると、結局「すき」と同じでないかという疑いが起こる。

 steak はアイスランディックの steik と親類らしいが「ひたきのおきな」の「ひたき」を「したき」となまると似て来るからおもしろい。「」くは (Skt.)dah に通ずるがこのほうはよほどもっともらしい。(Ice.)steik は steka と親類で英語の stick すなわちステッキと関係があり、くしに刺して火にあぶる「串焼き」であったらしい。このステッキがドイツの stechen につながるとすると今度は「突く」「つつく」が steik に近づいて来るし、また後者と「く」ともおのずからいくぶんの縁故を生じて来るのである。


 こんな物ずきな比較は現在の言語学の領域とは没交渉な仕事である。しかし上述のいろいろな不思議な事実はやはり不思議な事実であってその事実は科学的説明を要求する。どれもこれもことごとく偶然の現象だとして片付ける前にともかくも何かしら合理的な方法のふるいにかけて吟味しなければならない。しかし従来のように言語の進化をただ一次元的、線的のもののように考えるあまりに単純な基礎仮定から出発した言語学ではこの問題は説明される見込みはない。たとえば自分がかつて提議したような統計的方法でも、少なくも一つの試みとして試みなければならないと思う。上記の諸例はそういう方法を試みるであろう場合に必要な非常に多量な材料の中の二三の例として数えられるべきものであろうと思う。

 もし許さるるならば、時々こういう材料の断片を当誌の余白を借りて後日のために記録しておきたいと思う。

(昭和七年十二月、鉄塔)



 いかりいかり、いずれも「イカリ」である。ところが英語の anchor と anger が、日本人から見ればやはり互いに似ている。「アンカー」と「アンガー」である。

 anchor はラチンの anchara でまたギリシアのアンキユラで「曲がったかぎ」であり、従ってまた英の angle とも関係しているらしい。ペルシアでは lāngar である。サンスクリトの lāngala はすきであるがしかし錨のような意味もあるらしい。同時に membrum virile の意味もある。ロシアの錨はヤーコリである。こうなるとよほど日本語に接近する。「イカリ」はまた「いくり」にも似ている。

 anger はアイスランドの ångr やLの angor などのような「憂苦」を意味する言葉と関係があるそうで、一方ではまたスウェーデンの「悔恨」を意味する ånger に通ずる。このオンゲルは「オコル」に似ている。

 怒りを意味する choler はギリシアの胆汁たんじゅうのコレーから来ているそうで、コレラや gall や yellow なども縁があるそうである。イカリのイが単に発語だと仮定するとこれがやはり似通にかよって来るからおもしろい。ギリシアのカレポス、オルギロス、アグリオスいずれにしてもkまたはgの次にlまたはrの音がつづいて来るのがおもしろい。

 ロシアではgがhに通ずる。日本ではhがfに通ずる。それでgrの代わりにfrを取ってみると英国の激怒 fury, Lの furia, furere に対する。

 九州へんではdがrに通ずる。そこで、grの代わりにgdを取ってみると、アラビアの動詞 ghadiba(怒り)の中に見いだされる。この最後の ba は時によりただのbによって響きを失うことはあるのである。

 名古屋なごやへんの言葉で怒ることをグザルというそうであるが、マレイでは gusari となっている。土佐とさの一部では子供がふきげんで guzu-guzu いうのをグジレルと言い、またグジクルという。アラビアでは「ひどく怒らせる」が ghāza である。

 ロシアの「怒り」gniev はギリシアの動詞 aganaktein の頭部に似ている。古事記の「いごのふ」にも似ている。gn をロシア流に hn にする一方で、「忿怒ふんぬ」から「心」を取り去って、呉音で読めば hnn である。

 英語の gnarl は「うなる」に通じる。「がなる」にも通じる。英語の vex はLの uehere に関係し「運搬」の意がありサンスクリトの vah から来たとある。日本でもオコルとオクルが似ているのと相対しておもしろい。hは往々khまたkに通じるから uehere と uokoru とはそれほど遠く離れていないのである。weigh もやはり縁があるとの事である。vah は「負う」に通じる。

 腹を立てる、腹立つというのはあて字であろうと思われる。サンスクリトの krudhyati のkをhで置き換えるとともかくも hrdt という音列を得られる。これを haradati の子音と比べると同一である。偶然とするとかなり公算の少ない場合の一致である。ロシアの serditi もやはりいくらか似ているのである。苛立いらだつが irritate(L.irritare) に似ていることは明白である。

「あらぶる神」の「アラブル」がLに rabere = to rage に似ていることも事実である。


「床屋」が何ゆえに理髪師であるか不思議である。「髪結床かみゆいどこ」から来たかと思われる。その「床」がわからない。

 マレイ語で頭髪をるのは chukor であり女の髪を剃るのが tokong である。また蘭領らんりょうインドでは「店」が toko である。

 マレイの理髪師は tukang chukor また tukang gunting である。

 アラビアでは「店」が dukkan, ペルシアでも dukan である。ペルシアの床屋さんは dallak である。

 ギリシアで剃るのは xurein でわが suri に通じる。髪を切る意味の cheirein は「切る」「刈る」に通じる。

 Skt. kshura は剃刀かみそり。krit は切るであるとすると不思議はない。

 おもしろいことは、土佐で自分の子供の時代に、紙鳶たこの競揚をやる際に、敵の紙鳶糸を切る目的で、自分の糸の途中に木の枝へ剃刀の刃をつけたものを取り付ける。この刃物を「シューライ」と名づける。これは前記のサンスクリトの「クシューラ」とよく似ている。これはたしかに不思議である。

 床屋も不思議だがハタゴヤもなぜ旅館だかわからない。

 ギリシアの宿屋が pandocheion でいくらか似ているのはおもしろい。パドケヤとハタゴヤである。pan と dechomai, すなわちだれでも接待する意だそうである。衆生を済度する仏がホトケであるのは偶然の洒落しゃれである。


 ラテンで「あるいはAあるいはB」という場合に alius A, alius B とか、alias A, alias B とか、また vel A, vel B という。alius と vel とは別物であるのに、どちらも日本の「アル」に似ているからおもしろい。英語の or でも少しは似ている。Skt. の「または」「あるいは」は athawa である。


 ロシアで「すなわち」というような意味で、znatchiti を使う。日本の snaati と似ている。

 また tak kak というのがいろいろの意味に使われるが whereas の意味では、「それはそうととにかく」の「兎角とかく」に通じなくない。うさぎつのではどうにも手に合わない。


 ドイツの noch(=nun auch) が日本語の naho に似ている。イタリアの eppure は日本の「ヤッパリ」と同意義である。


 因果関係はわからなくても似ているという事実はやはり事実である。

 ことばの事実を拾い集めるのが言葉の科学への第一歩である。玉と石とを区別する前には、石も一応採集して吟味しなければならない。石を恐れて手を出さなければ玉は永久に手に入らない。

(昭和八年四月、鉄塔)



 春(ハル)のラテン語が ver であるが、ポルトガル語の veräo は夏である。ペルシアの春は bahár, 蒙古もうこ(カルカ)語では h'abor である。ドイツ語の Frühling は früh から来たとすればこれはfとrである。かなで書くとみんなハ行とラ行と結びついている点に興味がある。アイヌ語の春「パイカラ」はだいぶちがうが、しかしpをbに、kをhに代えるとおのずからペルシアの春に接近する。この置き換えは無理ではない。

「張る」「ふえる」「るる」などもhまたはfにrの結合したものである。full, voll, πλέως なども連想される。

 夏(ナツ)と熱(ネツ)とはいずれもnとtの結合である。現代のシナ音では、熱は jo の第四声である。「如」がジョでありニョであり、また「然」がゼンでありまたネンであると同じわけである。蒙古語もうこごの夏は jün である。朝鮮語ちょうせんごの「ナツ」は昼である。しかし朝鮮語で夏を意味する言葉は「ヨールム」で熱がヨールである。yをjに、語尾のrをtにすると(この置き換えもそれほど無理ではない)シナの現代音になる。ハンガリーの夏は nyár(ニヤール)。コクネー英語で hot は ot であるがこれは日本語の「アツ」に似ている。フランスの夏が été であるのもおもしろい。アイヌの夏 sak は以上とは仲間はずれであるが、しかしアラビアの saif に少し似ているのがおもしろい。語尾のkは kh からhになる可能性があり、日本ではhがfになるのである。

 秋(アキ)は「飽く」や「赤」と関係があるとの説もあるようであるが確証はないらしい。英語の autumn が「集む」と似ているのはおもしろい。これはラテンの autumnus から来たに相違ないが、このラテン語は augeo から来たとの説もある。この aug がアキとは少し似ている。「あげる」「大きい」なども連想される。

 秋(シュウ)が現在の日本流では、「収」「しゅう」と同音である。

 冬(フユ)は「ゆ」に通じ「ひょう」に通じ χιών(雪)にも通じる。露語の zima は霜(シモ)や寒(サム)や梵語ぼんごの hima(雪)やラテンの hiems(冬)やギリシアの cheimon(冬)やまたペルシア語の sarmai(寒い)にも似ている。フィンランド語の kuura(霜)は日本の「こほり」の音便読みに近い。英語の cold は冷肉(コールミート)のコールである。こおるに近い。朝鮮語で冬は「キョーウル」である。ヘブライ語の寒さも「コール」である。

 Winter は日本語の「いてる」とどこか似ているとも言われよう。

 フランス語の冬 hiver はラテンの hibernum であろうがこれを「冷える」と比べてみるのも一興である。


 日本の山には「何々やま」と「何々だけ」とがある。アラビアの山 jabal ペルシアの山 jebel は一見「ヤマ」と縁が遠いようであるがjがyになりbがmになる例は多いようであるから、それほど無関係ではない。(邪はジャでありヤである。馬はバでありマである)

 トルコ語の山 dagh は「だけ」に似ている。アジア中部には tagh のついた山がいろいろある。ターグは「たうげ」に似ている。

 ドイツ語の屋根 Dach は上記の dagh に通じる。「むね」が「みね」に通ずるのと類する。

 アイヌの「ヌプリ」は「登り」に通じ、山頂を意味する「タプカ」も「峠(タウゲ)」に少し似ている。峠が「たむけ」の音便だとの説は受け取れない。

 山(シャン、サン)の仲間はちょっと見当たらないが、しかしアイヌの「シン」は地や陸を意味すると同時にまた「山地」(平地に対する)をも意味するそうである。これに多数を意味する接尾音をつけた「シンヌ」はたくさんな山地でこれが「信濃しなの」に似るなどちょっとおもしろいお慰みである。

 アイヌ語「シリ」はいろいろの意味があるがその中で陸地を意味する場合もある。またこれに他の語が結びついた時には「シリ」が山を意味する事もあるらしい。この「シリ」が梵語ぼんごの山「ギリ」に通じる可能性がある。

 この「ギリ」は露語の「ゴーラ」に縁がありそうに見える。箱根はこね強羅ごうらを思い出させる。また信州しんしゅうに「ゴーロ」という山名があり、高井富士たかいふじの一部にも「ゴーロ」という地名がある。上田うえだ地方方言で「ゴーロ」は石地の意だそうである。土佐の山にも「ナカギリ」という地名がある。

 日本の山名に「カラ」「クラ」のついたのの多い事を注意すべきである。「丘陵」もkとrである。

 一方ではまた露語でgがhに代用されまた時にvのように発音されることから見ると、フィン語の山 vuori やチェック語の hora が同じものになるし、hが消えたりvが母音化するとギリシアの oro や蒙古もうこの oola も一つになって来る。またヘブライの山 har も親類になって来るから妙である。

 ドイツの Berg はだいぶちがうが、しかしgを流動的にし、bをvにすればフィン語に接近し、bを唇音しんおんの m へ導けばタミール語の malai に似て来る。後者は「盛り土」の「盛り」に似る。日本で山の名に「モリ」の多いのが、みんな「森」の意だかどうかわからない。

 ラテン系の mons, monte, montagne, mountain 等は明白な一群を形成していて上記とは縁が遠く見える。これに似た日本語はちょっと思い出せない。無理に持って来れば饅頭まんじゅうが mound に似ている、これはおかしい。

 ハンガリア語の山 hegy(ハヂ)が「飛騨ひだ」に似ているのが妙である。このgはむしろdに似た音であるから。日本語「ひたを」は小山の意である。

 ペルシア語の小山 kuh(クフ)は「きゅう」や「こう」に縁がある。アイヌの「コム」もやや似ている。この「コム」は小山であり、またこぶである。すなわちmをbに代えたのが日本語の「こぶ」である。これと多少の縁のあるのが英語の knob, hump, hummock, ドイツの Knopf, Knauf などである。その他「瘤」の仲間にはマレイの gmbal, ロシアの gorb, ズールーの kuhan, ハンガリアの gomb, csomó 等である。

 オロチは「丘の霊」だとの説がある。「オ」は「丘」で「ロ」は接尾語だということである。この「オロ」がギリシア語や蒙古語もうこごの山とそっくりなのがおもしろい。

「ムレ」は山の古語だそうであるが、これは上記タミール語の malai に少し似ている。朝鮮のモイよりもこのほうが近い。また前述の理由からドイツ語やフィン語とも音声的に縁がある。

 毎回断っているとおり、相似の事実を指摘するだけで、なんらの因果関係を付会するつもりはないから誤解のないように願いたい。

(昭和八年七月、鉄塔)



「ウミ」(海)のヘブライ語が yām である。「ヨミノクニ」は黄泉でもあるがまた「海」だとの説もあったように思う。この「ヤーム」が「ウミ」よりもむしろ「ヤマ」に似ているのがおもしろい。西グリンランドのエスキモーの言葉 imaq は海で imeq は水である。qはいろいろに変化するから ima, ime が「ウミ」であり水である。英語の humid(水けある)の終わりのdをとれば「ウミ」に近くなり、第二綴字てつじだけだと「ミヅ」になる。

 英の sea はチュートンの sæ から来たとある。saiwiz も連関している。これが「ウシホ」(ウシオ)の「シオ」と少しは似ている。

「ワダツミ」「ワダノハラ」の「ワダ」は water や露の voda やその他同類の水を意味する言葉と類し、また「ワタル」という意味の wade(L. vadere) および関係の諸語と似ている。梵語ぼんご udadhi(海)が単数四格で終わりにmがつけば「ワダツミ」に近づく。

「オキ」(沖)はギリシア「オーケアノス」の頭部に似る。

「カタ」(潟)はタミール語の海 kadal に近い。

 朝鮮のパーターはやはり「ワタ」の群に入れ得られよう。

「ナダ」は梵語の川 nadi に似ている。


「カハ」(川、河、カワ)は「ホー」と実際に縁がありそうである。その他にはシンハリースの ganga(川)とわずかばかり似るだけで、他にちょっと相手が見つからない。

「ナガレ」はもちろん「流れ」であるが、ある人の話では「ナガ」は「長」で「ルル」が「流」であろうとの事である。これを「リウ」と読むとギリシアの「レオ」(流れる)と近い。

 トルコの「ネフル nehr」(川)はhを例のgにすると、「ナガレ」に近よる。

 朝鮮の「ナイ」(川)とアイヌの「ナイ」(川、谷)はそっくりであることから見ると日本内地でも同じ言葉で川を意味する地名がありそうに思う。

 土佐に奈半利なはり川と伊尾木いおき川とが並んでいる。おもしろいことには、アラビア語の川は「ナフル」、ヘブライのが「ナハル」「ナーバール」等。フィン語の川は yoki 「ヨキ」である。もちろん、直接の縁があろうとは思われぬ。また上記の川名も川の名が先か土地の名が先か、それもわからない。「なばりの山」もあるから。

 朝鮮の「ムール」は蒙古語もうこごらしい。カルカ語の川は mürën である。


 人間の頭部「かうべ」「くび」に連関して「かぶと」「かむり(冠)」「かぶり」「かぶ(株)」「かぶ(頭)」「くぶ(くぶつち)」「こぶ(瘤)」「かぶら(蕪菁)またかぶ」「かぶら(鏑)」「こむら(腓)」「こむら(樾)」などが連想される。これに対して想起される外国語ではまず英語でもあり、ラテンの語根でもあるところの cap がある。青森あおもりの一地方の方言では頭が「がっぺ」である。ラテンの caput はかぶととほぼ同音である。独語の Kopf, Haupt も同類と考えられる。ギリシアの κεψαλή, マレイの kpala は「かむり」「かぶり」の類である。

 和名鈔わみょうしょうには「 和名加之良乃加波長わみょうかしらのかはら 脳蓋也のうがいなり」とあるそうで「カハラ」は頭の事である。ギリシアやマレイとほとんど同一である。

 アラビアの頭骨 qahfun は「カフフ」で「かうべ」に近い。

 英語の円頂閣 cupola はラテンの cupa(たる)から来たそうであるが、現在の流義では同一群に属する。

 英語の head はチュートン系の haubd といったような語から来ているが、音韻法則によるとLのカプトとは別だそうである。しかしこの「ハウプト」は、そんな方則を無視するここの流義では、やはり兜の組である。

 頭部を「つむり」とも言う。これはLの tumuli(堆土たいど)と同音である。cumuli(積雲)は「かむり」のほうである。

「あたま」も頭部である。梵語ぼんご ātman は「精神」であり「自己」である。「たま」は top に通じる。

 敵の首級を獲ることを「しるしをあげる」と言う。「しるし」が頭のことだとすると、これは梵語の siras(頭)、sirsham(頭)に似ている。

 八頭の大蛇だいじゃを「ヤマタノオロチ」という。この「マタ」が頭を意味するとすると、これはベンガリ語の māthā(頭)やグジャラチの māthoonやヒンドスタニ語の mund に縁がある。これが子音転換すれば「タマ」になる。

 髑髏どくろを「されかうべ」と言う。この「され」は「れ」かもしれないが、ペルシア語の sar は頭である。

唐児からこわげ」を「からわ」という。日本紀にほんぎに角子を「あげまきからわ」と訓してあるそうで、もしかすると「からわ」また「からは」は初めには頭を意味したかもしれない。とにかくロシアの golova, glava(セルボ・クロアチアも同じ)、チェッコの hlava, ズールの inhloko(in は接頭語)等いずれも「カラワ」と音が近い。

 またこれらは子音転換メタテシスによれば前述のkhrの群になるのである。

 かんむりの「イソ」というのは俚言集覧りげんしゅうらんには「額より頭上をおおう所を言う」とあるが、シンハリース語の isa は頭である。ハンガリアでは esz がそうである。もっとも「イソ」はまた冠の縁や楽器の縁辺でもある。海の縁でもあるから、頭と比較するのは無理かもしれない。しかし「上」は「ほとり」とまれることがあるのである。

「かうべ」の群中へ、かりに「かみ」と「かみ」も「かみ」も入れておく。

 朝鮮語「モーリ(頭)」は「つむり」の「むり」と比較される。「つ」はわからない。蒙古もうこカルカ語の tologai はタミール語の taläi に通じる。

「かしら」に似たものがちょっと見つからなかった。ところがLの capillus はもとは cap(頭)の dim. だそうで caput や、ギリシアの「ケファレ」も同じものである。そうして、この「カピラ」は「毛髪」の意に使われている。これが「カヒラ」を経て「カシラ」になりうるのである。言海によると「カシラ」は「髪」の意にも使われているからちょうど勘定が合うのである。そうすると「かしら」も結局「かむり」「かぶり」の群に属する。

(昭和八年八月、鉄塔)

底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店

   1961(昭和36)年47日第1刷発行

初出:「鉄塔」

   1932(昭和7)年121

   1933(昭和8)年41日、71日、81

※初出時の署名は「吉村冬彦」です。

入力:Cyobirin

校正:松永正敏

2006年713日作成

2012年610日修正

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