猫捨坂
豊島与志雄
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病院の裏手に、狭い急な坂がある。一方はコンクリートの塀で、坂上の塀外には数本の椎が深々と茂っている。他方は高い崖地で、コンクリートで築きあげられ、病院の研究室になっている。坂の中央に、幅二尺ほどの御影石が敷いてあり、そこが人間の通路で、両側には雑草が生え、石炭灰や塵芥がつもり、陶器の破片が散らばっている。全体が陰湿な感じだ。仔猫や病み猫などがしばしば捨てられている。坂の名は何というのか分らず、恐らく名もないのであろう。俗に猫捨坂と呼ぶ人もある。
この猫捨坂の、病院側の一帯が、戦争中の空襲に焼けてしまった。本建築の病室の一廓が残っただけで、木造の附属建物や附近の民家など、すべて焼けてしまった。そのため、猫捨坂は多少とも明るくなる筈だったが、却って妖気が深まった。
病院側の崖は、二段に築き上げられている。中段は四尺ばかりの広さで、坂の上方から平らに崖地をめぐり、そして上段は焼け跡の広場である。その中段の中ほどに、一種の洞窟があり、上段から見れば地下室となっている。鉄格子に磨硝子の扉が立てきってあるが、硝子は焼け壊れ、扉全体がぐらぐらだ。そこに焼けトタンを押し当て、針金で縛ってある。トタンの隙間から覗けば、洞窟内は、上方の出入口から明るみがさしている。金魚屋に見られるような四角な池があり、その中に、死体が堆積しているのだ。黒焦げに干乾びてる胴体、皮膚が焼け爛れてる頭蓋骨、ばらばらになってる肋骨、折れ曲ってる四肢、所々に、腕や脛がにゅっと突き立っている。アルコールのタンクに火がはいって、浮いていた多くの死体が、じりじり焼かれながらのたうった有様が、そこに再現してるのだ。異様な臭気が漂っている。別の室にも一つのタンクがあり、分厚な蓋がかぶさっている。恐らくそこには、アルコールの中に、幾つだかの死体がぶかぶか浮いてることであろう。
その陰惨な光景を、誰かが覗き見て、噂が立った。わざわざ見に行く者もあった。然し、空襲に常時さらされてることとて、誰も我が身の明日のことさえ保証出来ず、病院の死体貯蔵場の焼け跡など、大した印象は与えなかった。
終戦になってから、その死体貯蔵場には、外から覗けないように古板の囲いがされた。が逆に、附近の人々の頭には、その内部のことが蘇ってきた。もう覗き見も出来ないので、嘗ての噂が一層誇張して想像された。元来が人通りも少なかった猫捨坂は、夜分など、ますます通行人が少なくなった。
坂下の或る門灯の光りが、ぼんやり見えてるきりで、坂全体が薄暗い。洞窟内の異様な臭気が、ふっと洩れてくるらしいこともある。ばかりでなく、焼け爛れた死体の髑髏や肋骨や腕や脛が、ふらりとさ迷い出てくるのだ。
坂は急で、通路の御影石の敷石はすべすべである。或る晩、荒物屋のお上さんが、転んで、足首を挫いた。
噂によれば、お上さんが坂を下りていると、どこからともなく声がしたという。
「早く行け、早く行け。」
おや、と思うと、また声がした。
「早く行け、早く行け。」
ぞーっとして、足を早めた。とたんに、転んだのである。
また或る晩、坂上の近藤さんの女中が、転んで、肱と膝とをすりむいた。
風呂屋からの帰りに、坂を上りかけると、声がしたのである。
「早く行け、早く行け。」
はっと思って、坂を上ってゆくどころか、引っ返そうとした。とたんに、転んだのである。
それらの声は、勿論、慴えた神経から来る幻覚であったろう。だが実は、俺にもそういう経験があるのだ。
母がまた疼痛に苦しみだし、頓服の鎮痛剤があいにく無くなっていたので、夜分ながら、医者のところへ薬を貰いに行った。猫捨坂を通るのが一番の近道だ。俺は平気でその急坂を上っていった。そして薬剤を貰い、帰りにも平気で坂を下りかけた。ふと、あの洞窟めいた地下室の古板囲いに、眼をやった。その中を、以前、俺も覗き見たことがある。嫌な気がして、眼を外らすと、あの時の異臭に似たものが鼻の先に漂ってくる。強い鼻息をして、坂を半ば下りきった時、なんとなくほっとした気持ちの隙間に、聞えたようだった。
「早く行け、早く行け。」
俺は坂を駆け下りた。別に恐怖は感じなかったが、醜怪なものがじかに肌に触れた感じだ。
母は苦しそうなうめき声をたてていた。その腰のあたりを姉が撫でてやっている。
「早かったわね。お母さん、頓服がきましたよ。すぐあがりますか。」
母は頷いて、意味のよく分らない声を出した。姉は薬をオブラートに包み、吸呑の水で服用さした。どこかで虫の声がしてる静かな夜だ。五分間ばかりたった頃、母はつぶっていた眼を開いた。
「こんどの薬、よく効くねえ。もうなおったよ。」
そんなに早く効く筈はないと思われたが、姉も私も黙っていた。果してまた疼痛が来た。母は呻り始めた。その声が、やがて、次第に細くなり、消えてしまった。睡ったのであろうか。
いつのまにか、母はぱっちり眼を開いて、俺の方へ瞳を据えていた。見ているという風はなく、全く無関心な眼差しだ。俺は何のたじろぎもなく、じっと見返した。母の眼は、意力も気力もないばかりか、死物のようだった。紗の覆いをした電球の光りが、ぼーっとかすんで、蚊やりの煙が一面に立ちこめてるかと思われた。その朦朧たる中で、母の眼は瞬きもせず俺の方に据えられている。ただ据えられてるだけで、何も見てはいない。眼玉にももう生気はなく、眼玉そのものまで溶けて無くなり、ただぽかっと眼窠だけが口を開いている。あの地下室の髑髏の眼窠だ。それがじっと俺の方に向いている。
「早く行け、早く行け。」
声が蘇ってくる。あの地下室の異臭が、病室の臭気に重なり合う。母はいつも臭いおり物がして、おむつに垂れ流しであり、体にも既に死臭がある。それらの臭いがこもってる病室内の空気は、重々しくて異様だ。髑髏の眼窠が俺の方へ口を開いている。
「早く行け、早く行け。」
どこへ行けというのか。俺にだけ言ってる言葉ではあるまい。病苦の中にある母に向っても、看病疲れの姉に向っても、あのタンクの中に焼け爛れる死骸に向っても、それは言ってるのであろう。世の中に向って、世界中に向って、言ってるのであろう。
姉の手が俺の膝をつっ突いた。それから姉は母の眼を指差した。
その眼はまだ見開いたままである。
「どうしたんでしょう。」
泣くような低い声だ。俺は沈思の中で身じろぎもしなかった。姉は母の方へ顔を寄せた。
「お母さん、どうしたの。」
母は事もなく頷いて、そして眼を閉じた。瞼がすっかり落ち窪んで、よく合さらず、薄目を開いてるようである。頬骨が高くなり、鼻が尖り、唇もかすかに開いている。耳の後ろにはもう全然肉がない。
「眠りなすったようね。」
姉はつぶやいて、太い息をつき、手枕で上体を横たえた。
どうせ助からない病人とは分っていたが、数日前から急に悪化して、食物も殆んど喉を通らなくなった。始終むかむかして嘔気があり、臭いおり物には殆んど自覚がなく、時折、疼痛を訴える。その側に、姉は炊事以外は付ききりなのである。姉自身も痩せて、顔色がくすんできた。せめて半夜交代にでもしようと俺が言っても、姉は承知しない。最後まで自分で看病するつもりなのだ。おむつの世話は男には無理だと言う。病室内の異臭ももう身について、いっこう気にならないらしい。
病室は四畳半。次の六畳に、姉の夫と二人の子供とが寝る。夫はその職場に時間外の居残り勤務までやって、一家の生活費を一人で稼ぎ出さねばならない。母が病臥して以来、彼の体にも無理がたたって、めっきり老けてきた。二階にも一家族、貧しい人々がぎっしりつまっている。至るところ人間臭い筈だが、体臭よりむしろ埃臭く垢臭いのだ。泣くのは子供たちだけで、大人たちは心から笑うことさえもない。
ただ一度、姉が泣いてるのを俺は見た。母のおむつを洗ってるところへ、近所のお上さんが来て、大声で言った。
「たいへんですねえ。大人の赤ちゃんのお世話は、骨が折れるでしょうね。」
そのあとで姉は、縁先でしくしく泣いていた。お座なりの同情にセンチになったのではあるまい。あるいは皮肉を口惜しがったのでもあるまい。母がまるで赤ん坊のように垂れ流しになったことが、悲しかったのであろう。しくしく泣いていて、どうにも涙が止らない様子だった。
「早く行け、早く行け。」
むしろ世界中がどっかへ行っちまえ。
その猫捨坂にも、体を休めてる女がいた。縞目も分らぬぼろぼろな上衣の、襟や袖口をくつろげ、下半身は黒いモンペできちっとくるみ、素足に片方だけ下駄をはき、片方の下駄は足先にひっくり返り、片腕を枕につっ伏しがちに、粗らな草の地面に寝そべっている。皮膚は泥や埃にまみれ、髪は赤茶けて乱れている。死んでるのかとも思われるが、かすかに息はしているらしい。いつまでもそのまま動かない。行き倒れて、眠りこんでしまったのであろうか。初秋の陽光が足先にだけ当っている。
その日当りの中に、この坂でよく見かけるような仔猫が一匹、黒ぶちの毛並も薄い痩せほうけた体を、よたよたと動かして、女の下駄のあたりを嗅いでいた。鳴いているようだが、その声もか細くて殆んど聞えない。仔猫は下駄のあたりから、女の足先の方まで辿りつき、また暫く嗅ぎまわり、それから草の中にぐったり顔を伏せてしまった。
それだけのことを、俺は正午すぎに見た。夕方、ふと気にかかるので行ってみると、もう女も仔猫もいず、坂は薄ら寒く暮れかけていた。地下室を囲った古板が、暮色よりも一層黒ずんで見えた。
その古板に、あの時は三日月の淡い光りがさしていた。あの女とただ一度のキスをした晩のことだ。
屋台店でアルコール焼酎を飲んで、少しく酔って、帰りかけると、電車から降りてきた彼女に逢った。映画を見に行った帰りだというようなことから、話をするともなく、連れ立つともなく、いっしょに歩いた。果物類の雑貨を商ってる店の娘だ。実の娘ではなく、田舎の親戚から手伝いに来てる者で、年はだいぶ取ってるらしい。
女の方から先に立って、事もなげに猫捨坂へ向うのである。二人だから怖くないと思ってるのであろうか。俺の方は勿論怖くなんかない。風のある温い晩だった。
坂の敷石は、二人並んでは歩けない。女は先に立って下り始めた。足元が薄暗くて危なっかしい。大した風でもないが、椎の木の茂みにさーっと音を立てる。
坂の中途まで行った時、坂下の先方で犬が吠えた。その声はまもなく止んだ。女は立ち止ってしまった。俺は敷石を離れて草の中に出た。肩を並べると、女も歩きだしたが、ぐんぐん俺の方へ体を押し寄せてくる。やがて女も、敷石を離れて、俺の方の草の中にはいってくる。女の体とコンクリート塀との間に俺は挾まれて、歩くことも出来ない。女の腕をかかえると、女は腋をせばめて俺の手をしめつけた。
ふざけた奴だ。その気なら征服してやれと、ばかな敵愾心を俺は起した。立ち止って、あいてる方の手で女の肩を抱くと、女は俺の胸に顔を埋めてくる。それを抱きかかえるようにして、顔を寄せると、女も顔を挙げた。ゆっくりした冷たいキスだった。ゆっくり時間がかかったのは、女が離れなかったからだ。
そのキスの間、俺は女の肩越しに、向うの地下室の古板囲いを眺めていた。そこに、淡い三日月の光りがさしていたのである。その光りが、そしてその奥の地下室が、俺たちの有様を嘲笑ってるようだ。俺はなにか胸がむかついてきた。
俺は女を静かに押しやり、黙って歩きだした。坂を下りきって、女と別れた。
「またね。」と女は言った。
丸顔の肥った女だが、その頬は血色がよいだけで、林檎のような肌ではなく、蜜柑のような肌だ。またね、それが水菓子屋の娘の言う言葉なのか。俺は彼女と別れてから、ぺっぺっと唾を吐いた。
それきり、もう彼女とは逢わないことにしている。何が征服だ。彼女から征服されたに過ぎないではないか。
彼女がいなくなっても、永久にいなくなっても、俺は何等の痛痒も感じない。だが、行き倒れみたいな女が、その足先の捨て仔猫といっしょに、いつしか姿を消してしまったことについては、俺と全く無関係なことではあるが、心にちょっと冷たい風が吹く思いだ。この思いを、地下室は嘲笑いはしないだろう。
地下室の中の死体は、あの焼け爛れた死体も、アルコールの中にぶかぶか浮いてるだろう死体も、病院に買い取られた無縁のものではあっても、嘗ては誰かの血縁の者であった筈だ。その血縁のつながりが、つまり人間のつながりが、深夜になって囁くのだ。
「早く行け、早く行け。」
怪談ではない。悲しい遣る瀬ない心の囁きなのだ。いずこかへ姿を消した行き倒れの女も、同様に囁く。
「早く行け、早く行け。」
あの仔猫でさえも、同様に俺に囁く。
どこへ行ったらよいのか。──俺は死にかけてる母のところへ戻っていった。姉が万事みとってくれるので、俺はただ側についておればよい。
母は疼痛を訴えることが少なくなった。医者は逆に、危機が近づいたと言う。もう苦悩の力さえ失ったのであろうか。痛々しくて見ておられない気持ちだ。
見舞客もすべて、玄関の三畳での応対だけで帰って貰う。この三畳は、俺たち一家と二階の一家との共通のもので、いわば両家の応接室だ。友人が来ると俺はそこで対談する。
中学時代の旧友が、或る晩、一瓶をさげて訪れて来た。玄関の三畳で飲んだ。その酒が彼は自慢なのだ。屋台店などに氾濫しているアルコール焼酎よりも遙かに上等で、アルコール・ウイスキーだと自称する。ちょっと色をつけ、ちょっと味をつけてある。彼自身の考案なのだ。これを飲み屋に卸せば可なりの利益になる。大量に生産して、莫大に儲けるつもりでいる。原料はいくらでも手にはいる、一緒にやらないか、と彼は俺に勧めた。
「非合法な仕事でもなんでも、構うものか。うまい酒を同胞に供給してやるんだ。そして酔っ払わしてやるんだ。」
彼は戦時中に召集されて、関東平野をあちこち歩かせられ、終戦後の復員で戻って来たのである。
彼の話によれば、兵隊としての主な仕事は、ただ地面を働い歩くことだったらしい。出来るだけ体を地面に低くつけ、腕と膝とで、出来るだけ早く匍い進み、背負った爆薬と共に、仮想の敵戦車にぶつかるのだ。出来る限り低く、出来る限り早く、匍ってゆけ匍ってゆけ。それが毎日の仕事だ。
「戦争が終って立ち上ると、俺は眩暈がした。」
「酔っ払った時の眩暈と、同じか。」
「いや、そんなもんじゃない。酔っ払った時は、外の世界がぐるぐる廻る。俺たちのは、頭の中がぐるぐる廻った。」
俺たち、と彼は複数で言った。だが、それは兵隊だけに限らず、更に大きな複数ともなろう。大抵の者が、何等かの意味で、地面を匍い歩いていたのだ。立ち上って眩暈がしたのは、まだいい方で、多くの者は、腹匍いのままぐったりのびてしまった。
そんなのが、上野駅附近に寄り集まって、うようよしている。風に吹き寄せられたのでもない。箒で掃き寄せられたのでもない。腹匍い腹匍い、行きづまって、自然と落ち合ったのだ。そして芥溜のようにつもって、むんむん温気を立てている。
アルコールを振りまいてやるがいい。アルコール焼酎でもよろしい。アルコール・ウイスキーでもよろしい。俺は友のアルコール・ウイスキーに賛成だった。
「協力してやってくれるか。」
「も少し待て。考えてみる。」
戦時中、俺は或る軍需会社に勤めていたが、それが終戦後、解散になって、その時の手当で、姉一家の生活にもさして迷惑をかけず、小遣に窮することも大してないが、このままではやがて切羽つまることは明かだ。何とかしなければならない。然し、どこかに勤めるのは嫌だ。自分の仕事、そう言い切れるようなものが欲しい。さりとて、アルコール・ウイスキーの密造も考えものだ。金は欲しいが、金に執着しちゃあいけない。執着はすべて浅間しい。
その浅間しさを、俺は空襲中にいろいろ見せられた。
隣家の一室に、焼け出された夫婦者が身を寄せていた。荷車を一つ持っていた。空襲警報が鳴ると、その荷車にごたごた物を積んで、三百メートルばかり先、焼け跡の中の防空壕まで、避難する。どんな深夜でもそうだ。警報が聞えるとすぐ、彼等は飛び起きて、荷車に物を積み、しばし様子を窺ってから、車を引きだす。男が柄を引き、女が後押しをして、がらがら、がらがら、深夜の巷に音を立てて、焼け跡へ向う。警報が解除になると暫くたってから、がらがらと、こんどは少しゆっくり戻って来る。そして車の荷を解き、また寝てしまう。車の荷は、つまらないものばかりだ。布団と毛布、鍋釜、皿小鉢の類、小さな行李、米が少量、風呂敷包みなど、かねて用意してあるものらしい。
焼け跡が、そしてそこの防空壕が、果して安全なのであろうか。もっとも、立ち並んでる小さな人家は、焼夷弾に対しては、薪を置き並べてるのに等しく、そこに居ることは、火の下の薪の中に居るようなものである。然し、他人の家に身を寄せてるからには、自分たちだけ逃げ出さずに、そこの家人と協力して、防火や荷物搬出や避難を共にすべきであろう。だが、彼等夫婦は、他を一切顧ることなく、がらがら事を引いて逃げ出すのだ。
車の荷は、つまらないものだが、さし当っての生存必需品には違いない。生存に最も必要なものは、最もつまらない日用品だということは、首肯される。そのことを、彼等夫婦は、罹災の経験によっても知ったのであろう。そして彼等の用心は、至って妥当なのであろう。
それにしても、彼等夫婦のそれら全体のことが、なんだか浅間しいのだ。そんなにして、最小限度にも生きたいのであろうか。
大火災の光景を、俺はむしろ痛快に思い起すのだ。見渡す限り、一面に火の海だった。火の海の中に、木立の幹や電柱が、高く峙って焔を吹いていた。片方は黒煙が濛々として、その末は白っぽく空に流れていた。その空には、火焔の反射を受けて銀色に光る飛行機が、縦横に飛び廻っていた。空も地も明るく、ただごうごうと唸っていた。壮絶だ。この中で死に或は負傷した人々にとっては、その死もその負傷も無意味で、しかも大難だったには違いない。然しその大火が壮絶たることには変りない。
こういう冷酷なことを俺に言わせるのは、あの荷車のがらがらいう音だ。殊に夜更けのその音だ。浅間しかった。情けなかった。
其後彼等夫婦は荷車を盗まれ、それからどこへか立ち去った。
彼等にも、そうだ、アルコール・ウイスキーでも飲ませてやるがいい。
友のその酒は、なるほど、味よく出来ていた。そして強かった。俺もだいぶ酔った。
「金儲けが目的じゃないんだ。なるべく沢山の人を酔わせてやりたいんだ。」と彼は言った。
彼自身、もうすっかり酔っていた。俺のところへ来る前にも、だいぶ飲んだらしい上に、更にぐいぐいひっかけたのだ。
「おい、これからビールを飲みに行こう。この近所に、ビールを飲ませる家があるだろう。案内しろよ。金は持ってる。」
酒の肴が何もなく、海苔と沢庵だけだったので、彼には少し気の毒だ。酒も無くなった。ビールは酔いざめの水だ、と彼は言う。
外に出ると、彼は全くふらふらしていた。酔っ払ったばかりでなく、此奴、まだ眩暈がしてるんだな、と俺は思った。匍い廻ってばかりいたのが、完全敗戦になって、突然立ち上る。眩暈もしよう、ふらつきもしよう、よろけもしよう。彼ばかりじゃないんだ。
俺は先に立って、猫捨坂を上りかけた。彼はあとから、ふーっと大きく息をした。またふーっと大きく息をした。
ひっそり静まったので、振り向くと、薄暗い中に彼は腹匍っていた。石炭灰に交って、厨芥や塵埃がうち捨ててある、その不潔な中に、彼は両手をついているのだ。
「おい、何してるんだ。」
「こいつ、ばかな坂だ。」
彼は起き上りかけて、またよろけて、こんどはコンクリート塀の方へ寄りかかった。そしてそこにまた屈みこんで、げーっと吐いた。背中をひくひくやってるらしく、次にまたげーっと吐いた。
俺は立って見ていた。見ているより外に仕方がなかった。手をつけると却っていけない。
暫くたった。
「大丈夫か。」
「なあに、ばかな坂だ。」
コンクリート塀に手を支えて、彼は徐々に上ってきた。坂を上りきると、意外にも元気にすたすた歩きだした。広い道に出て、それから電車通りへ、彼は迷わず歩いて行った。
俺は少しずつ後れ、彼が電車通りへ出る頃、黙って後に引き返した。これ以上彼とつきあうのは無意味だ。
猫捨坂で彼が嘔吐したことは、俺にふしぎな印象を与えた。嘔吐したのはあの男ではなく、誰か別な奴ではなかろうかと、一抹の疑念が持たれるのだ。いつだったか、この坂のコンクリート塀によりそって、誰かが佇んでいるので、じっと瞳をこらすと、その姿は消えてしまった。また、病院側の中段に、誰かが腰掛けているので、じっと瞳をこらすと、その姿は消えてしまった。忘れていたそういう記憶が、今になって蘇ってくる。確かに、この坂には、目に見えない人影がうろついている。そいつが嘔吐したに違いない。
坂の上に立つと、彼方の門灯の明りがかすかにさしてるだけで、御影石の敷石がほんのりと白み、コンクリート造りの崖とコンクリート造りの塀との間に、陰湿な気が深く淀んでいる。
俺は立ち止った。
すぐそこに、椎の木の茂みが闇の中に更に影を落してる中に、ぼんやりと何かの姿がある。誰だ。見つめると、姿は消えてしまった。
俺は眼を外らした。すると、またその姿が現われてきた。見えるのではなく、感ぜられるのだ。それをじっと見ると、姿は消える。眼を外らすと、また現われる。
俺は眼をよそへ向けたまま、其奴の方へ近づいていった。見られるのをきらってるようだから、見てはいけない。
「お前は誰だ。」
「お前は誰だ。」と同じことを言う。
「人に見られるのが、嫌なのか。」
「お前こそ、人に見られるのが嫌だろう。」と逆襲してくる。
「嫌なものか、俺の方をじっと見てみろ。」
「さっきから見ている。なぜ顔をそむけるのか。」
俺は言葉につまった。眼を向けたら、其奴は消え失せてしまうに違いない。俺がそっぽを向いてるのをいいことにして、俺の方をじっと見ているのだ。どうしてくれようか、と考えながら、俺はじりじりしてきて、眼を据えた。視線の真正面に、地下室の古板囲いがある。
焼け爛れた死体の堆積の中から、白骨の手が一本にゅっと突き出ている。白骨の足も一本にゅっと突き出ている。手はどこかへ伸び出そうとしてるようだ。足はどこかへ駆け出そうとしてるようだ。どこへか、その方向がちぐはぐだ。
「早く行け、早く行け。」
囁いたのは骸骨じゃない。すぐ側につっ立ってる姿だ。俺は其奴の方を見てやった。其奴も俺の方を見ている。眼が空洞だ、髑髏の眼窠だけの眼だ。
「あ。」
母の眼じゃないか。俺の方へ無心に向けられていた母の眼じゃないか。
「お前は……。」
言いかけたとたん、其奴の姿は消えてしまった。俺は全身に冷い戦慄を覚えた。不吉な予感がした。母の死が感覚される。
異臭が漂ってくる。地下室内の死体の臭いだ。また、母の病室内の臭いだ。母。この俺を、この肉体を、胎内ではぐくみそして産んでくれた母が、どうしてあのような臭い汚物を垂れ流すのか。子宮癌、それはただ病気で、そのためだということは分っている。だが、あの腐爛は、情けない、悲しい。母……ばかりではない。俺の周囲のすべても異臭にまみれている。ここに行き倒れていた女を嗅いでみろ。捨て猫を嗅いでみろ。友人が、いや誰かが、嘔吐したものを嗅いでみろ。病室に寝起きしてる姉を嗅いでみろ。荷車をがらがら引っぱってた夫婦者を嗅いでみろ。俺があすこでキスした女の歯糞を嗅いでみろ。ありとあらゆるものを嗅いでみろ。
いつしか、彼奴の姿がまた現われて、傍にぼーっと立っていた。
「なんだ。」
「早く行け、早く行け。」
「どこへ行くんだ。」
「好き勝手なところへ行け。」
見返すと、姿は消えてしまった。好き勝手なところ、そんなところがあるものか。たといあったにせよ、逃避は嫌だ。意力で開拓する方向を俺は辿りたいのだ。猫捨坂の異臭を、風よ、吹き払ってしまえ。
俺は一歩一歩足をふみしめて、坂を下りて行った。もう振り向きもしなかった。
母はうとうと眠っていた。半ば昏睡だった。
その翌早朝、母は死んだ。姉はがっくり気を落して、何をする力もない。義兄もぼんやりしている。俺が先に立って葬儀に念を入れた。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4)」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「新文学」
1948(昭和23)年12月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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