小さき花にも
豊島与志雄



 すぐ近くの、お寺の庭に、四五本の大きな銀杏樹がそびえ立っている。そばへ行って調べてみると、三本で、それが見ようによって、四本にも五本にも見える。こんもり茂っているのだ。その樹に、雀がたくさん巣くっている。朝早くから起きて、ピイチク、チュクチュク、ピイチク、チュクチュク、騒がしいったらない。朝日の光りがさしてくると、ぱっぱっと、一群れずつ飛び立ち、四散して、どこかへ行ってしまう。そして夕方また帰ってくる。何をしているのか、ピイチク、チュクチュク、ピイチク、チュクチュク、騒ぎまわって、薄暗くなるとひっそりしてしまう。

 御近所で、たいへん迷惑してる家もある。私の家では、却ってそれを利用している。朝は眼覚時計の代りとなるし、夕方は終業の鐘の代りとなる。

 お父さんが、中風でぶらぶらしていらっしゃるものだから、皆で働いた。御仕立物の小さな看板を出して、お母さんは和裁の針仕事、姉さんは洋裁のミシン。私は外に勤めに出た。二階は間貸しをしている。それでどうにか暮しを立てた。お母さんはもともと体が弱いたちで、お父さんの病気のこともあって、夜分は仕事をなさらない。しぜん、雀の鳴き声で仕事をやめ、おそい夕御飯となる。その代り、朝は早く、雀の鳴き声といっしょに起き上ることとなる。

 その、銀杏樹の雀の群れには、親雀もおれば、今年生れの小雀もいる。みんないっしょになって、ピイチク、チュクチュク、ピイチク、チュクチュク。うるさいな、と私は思ったこともあるけれど……おう、なにがうるさいものか。もっと鳴け、もっと鳴け。胸いっぱいに、声いっぱいに、もっと鳴け。よたよた飛んでる遅生れの小雀も、精いっぱいにもっと鳴け。私だって、もし雀だったら……。

 今は黙っているけれど、センチになってるんじゃない。腹立たしいのだ。怒っているんだ。そしてどうやら、悲しいのだ。

 手塚さんが郷里へ立つ日だった。朝早くの汽車だから、雀よりも早く起き上った。お母さんと姉さんは、手塚さんの幾食分かのお弁当を拵えている。私は二階へ行ってみた。

 手塚さんがなんだかお気の毒で、お可哀そうで、と言っては生意気のようだけれど、どうしていらっしゃるかしらと思ったのだ。どの程度か分らないが、胸の御病気で、それに胆嚢もお悪いとかで、半年ばかり、瀬戸内海に面した郷里へ帰って、療養してくるとのこと。前夜は私、へんなことで帰りが遅くなったが、手塚さんは少しお酒を飲んだとか、ぽーっと頬を赤くしていた。それだけだった。それでいいのかしら。手塚さんとお姉さんは、愛し合っているのだ。そしてこれから半年ばかり別れねばならないのだ。それなのに、何事もなかった。いつもの通りだった。手塚さんが茶の間で話しこんでるだけだった。それきりで、明朝は早く起きなければならないからと、みんな早めに寝た。その、何事もなかったということが、朝になってから、却って私の気にかかった。

 二階は、もう蚊帳も布団も片付けられているのに、電燈がついていなかった。おや、誰もいないところに踏み込んだ気持ち……私は立ちすくんだ。けれどすぐに眼は馴れてきた。東の空の曙光を受けてぼーっと明るかったのだ。植木鉢が三つ四つ並んでる出張り框に腰掛けて、手塚さんは私の方をじっと見ていた。へんに工合がわるくて、私は言葉もなく、微笑も出来なかった。

「こんなに早く、あなたも起きたんですか。」

 手塚さんはいつから起きてるのかしら。

「なかなか夜が明けませんね。まだ星が光っていますよ。」

 そして手塚さんが、向うむいて空を見上げたので、私はほっとして、その側までいった。大気が白んでるだけで、中天はまだ薄暗く見え、星が幾つか、妙に近々と浮き出して閃めいていた。

 そして暫く黙っていたが、突然だった。

「喜久子さん。」と手塚さんは私の名を呼んだ。

 私は振り向いたが、手塚さんは首垂れて眼を伏せていた。

「喜久子さん。僕は黙っていようと思ったんですが、やはり、打明けましょう。郷里へ帰って、身体がなおったら、また出てくるつもりですが、それもいつのことやら分らないので、あなたにだけ、この心の中を打ち明けておきたくなりました。どう思われようと、ただ打ち明けておくだけで、僕の気持ちはさっぱりします。実は、僕はあなたの方を愛していたんです。ほんとに、あなたの方を愛していたんです。今でも、あなただけを愛しているんです。こう言っても、あなたの愛情を求めるつもりではありません。ただ、知っておいて頂きたいんです。はじめからあなたを愛していたこと、今もあなたを愛していること、これからもあなたを愛し続けること。それだけを知っていて下さい。分りますね。喜久子さん、分ってくれますね。」

 私は呆然とした。ばかのような気持ちになった。それから急に、血がかっと頬にのぼるのを覚えた。同時に、恥ずかしいのか情けないのか分らない思いで、唇をかみしめた。気がついてみると、片手を手塚さんの両手で握られていた。身動きが出来なかった。何かで身体を縛られたようだった。ふいに、手塚さんの汗ばんだような生温い掌を感じて身体の縛めが解けた。私は手を引っこめた。二三歩しざった。

 手塚さんは、膝頭に肱をつき、両手を額にあてて、顔を伏せている。

 私は階下へおりて行った。口惜しさが胸にこみあげてきた。何か一言、言ってやりたかったのだ。どんな一言か、それは考えても分らないが、どんなことでもいい、言ってやりたかったのだ。なぜ黙っておりて来たのだろう。私はむしゃくしゃした気持ちになった。汚らわしかった。手を洗った。外に出た。

 冷やかな外気を深呼吸していると……突然、あれがまた、眼の中に蘇ってきた。

 桜の古木がそこにあったのが、いけない。桜の古い幹は、どうしてあんなに醜いのだろう。若木は艶やかだが、古い幹となると、かさかさで節くれだち、垢が鱗のようにつもってるとも言えるし、皮膚病のかさぶただらけとも言えるし、見られたざまではない。散りやすい優しい花がその枝に群れ咲くのが、ふしぎに思える。

 裏口の横手のあらい竹垣の外が、建物疎開跡の空地になっていて、その隅っこに、桜の古木がある。たいへん古い木とみえて、上の方は枯れ朽ち、横枝を少しく茂らしている。その古木のそばに、私はあれを見てしまったのだ。ちょっとした洗濯物を干し忘れてる気がして、夜中に雨でも降るといけないと思い、取り込みにいった。おぼろな月明りだった。洗濯物は見当らなかった。そんな筈はないと思いながら、しばらく貯んでいると、竹垣の彼方の桜の木のところに、何か眼につくものがある。気味わるかったが、竹垣からのぞいてみた。ぞっと背筋がつめたくなった。

 月の光りがささない桜の木影に、その幹によりかかるようにして、ぶら下っている。白い単衣のひとだ。私は息をのんで、走り去ろうとしたが、次の瞬間、見違いだと分った。ぶら下ってるのではなく、二人抱き合って立っているのだ。でも、一人は後ろから首を宙に吊されてるように頭をがくりと垂れ、一人は前から首を宙に吊されてるように頭をがくりと上げ、そしてキスをしていた。背丈がちがうのだ。やがて、二人は離れて、月の光りの中に出て来た。それが、手塚さんと姉さんだ。

 私は恥ずかしかった。キスそのことではない。キスなどは映画でいくらも見ている。恥ずかしかったのは、手塚さんと姉さんとのキスが、醜くてグロテスクだったこと。いくら背丈がちがうからといって、首縊りみたいな真似をしなくてもよさそうなものだ。そしてあんなところで、醜い桜の木のそばなんかで、しなくてもよさそうなものだ。恋人同士のキスにある筈の、清らかさ香り高さなぞ、みじんもなかった。

 そして今、手塚さんは、なんということを私に言ったか。私の方を愛していたと。おう、私の方をだって。そんなことがどうして言えるのだろう。そして、私の愛情を求めるつもりではないと言いながら、私の手を両手に握りしめた。汚らわしい。そして、分りますね、分ってくれますねだと。いったい、何を分って貰いたいのだろう。然し、私にも少し理解しかけたことがある。

 手塚さんは、郷里に帰っても、私のとこの二階の室は、やはり借りておいて、荷物はそっくり置いてゆくとのこと。いつ戻ってくるか分らないと言いながら、予定通りに半年ばかりで戻ってくるつもりなのだろう。そしてその間、私の心を繋ぎとめておきたいのだ。女を引きつけるには、好意にせよ、敵意にせよ、とにかく何等かの関心をこちらに持たせることが肝要で、無関心の状態に置いてはいけないと、何かに書いてあった。愛情でなくば、むしろ憎悪を、女に懐かせることが肝要だと。手塚さんの言葉は、そのどちらかをどうぞ、というような調子だった。姉さんには時折縁談があり、不在中にどんなことになるか分らないものだから、万一の場合のため、私の心を惹きつけておきたいのだ。いつも独りでは淋しいのだ。戦争のために心情は荒れてしまっておるし、工場に勤めて製図ばかりやり、生活に潤いがないからだろう。

 こんなことを考えるのは、私が冷酷なからであろうか。姉さんはたぶん、私のような考え方はしないに違いない。姉さんは戦争未亡人なのだ。結婚生活は短く、御主人の戦死も公報が来たし、終戦後、実家に戻って来ている。再婚の話も時折ある。その縁談のことなど、手塚さんへどういう風に話しているのかしら。そして手塚さんはどういう風に答えているのかしら。二人は結婚するつもりかしら。手塚さんの病気が故障となってるのかしら。そんなことを、私は考えてみたくないのだ。首縊りのキス、あれだけでもうたくさん。二人の間には肉体の関係まであることを、私はぼんやり知っているが、それも首縊りの必死のキス同然、グロテスクなものに違いない。真の恋愛の清らかさや香り高さは、どこにもあるまい。なぜなら、はじめから手塚さんは童貞でなかったし、姉さんは処女でなかった。

 私は処女なのだ。ヴァージニティーの矜りを持っているのだ。


 あの前の日も、ばかなことがあった。

 私が勤めているのは、或る出版社で、おもに私は校正をやっている。たいていの人は校正の仕事を厭うのだが、私は好きだ。印刷されてる文字を一つ一つ辿って、誤字を直してゆくのは、のんびりしていてよい。文字にはそれぞれ表情があって、怒ったり悲しんだり笑ったりしている。思ったほど単調な仕事じゃない。その代り、私の校正は甚だゆっくりだし、きたない原稿と照合することを怠って、意味さえ通ずれば一句ぐらい落すことも平気だから、編輯の人からよく叱られる。のろまで無能だということになっている。

 そののろまで無能な私も、時には、雑誌の方の原稿の催促にやらされる。この方は、校正よりもっと責任が軽い。編輯者が約束してきた原稿を、期日間際になって、注意喚起の意味で催促に行くのだから、ただ機械的な挨拶ですむ。

 そういう用を、午後に言いつかった。帰りは会社に寄らずに真直に帰宅してよいのだ。

 午後の陽がだいぶ傾いた頃、その作家のところへ行った。期日などは少しも守らないことで有名な先生だ。そんな先生ほど私にとっては却って楽なのである。

 先生は不在だった。近くの飲み屋に行ってるとのこと。そちらへ伺った。

 先生は酒を飲んでいた。三人ほどお友達といっしょだった。開け放しのとっつきの室だ。私が名刺を出して、原稿のことを話すのを、先生は黙って開いていたが、突然言った。

「ふしぎだ。君はよく似ている。姉さんか妹さんか、雑誌社に勤めてるひとがいるだろう。いや、ふたごかな。そっくりだよ。」

 私が先生のところへ来たのは二度目である。初めの時は、先生はそんなことを言わなかった。

「ふたごでない、姉さんも妹さんも勤めていないと、ほんとかね。だが実によく似てる。そっくりだ。誰が見たって間違える。」

 私はへんな気になった。言われるまま、室の隅っこに上りこんだ。

「ね、似てるだろう。」と先生はお友達に言う。

「誰にだい。」

「さあ、名前は忘れたが、やはり雑誌社のひとだ。なんといったかな……。」

 先生は眉根を寄せて考えこみ、それからまた酒を飲みだした。私は雑誌の原稿のことを繰り返し頼んだ。

「明後日の朝までに頂きませんと、たいへん困りますの。もう締切りもすぎておりますから……。」

 少しはかけねがあるのだ。先生はそれは知ってるらしい。

「よろしい。明後日の朝までには、きっと書くよ。だが、君のところは……。」

 先生は私の名刺に眼を落しながら、はたと言葉を切って、私の顔をじっと見つめた。余り長く見つめられ、私は固くなって、顔を伏せた。先生はまだ見つめている。それからふいに笑いだした。

「なあんだ。君か。道理で似てる筈だ。本人じゃないか。」

 何のエピソードかと、お友達が尋ねると、先生はまた笑って、このひとは小杉喜久子に似てると思ったが、その小杉喜久子がこのひとだったと、ばかなことを言う。それも本気で、少しの衒いもないのだから、いっそうばかばかしい。

「よく似てると思ったら、本人だった。これは奇遇だ。一杯飲めよ。祝杯だ。」

 私は飲めないと断ったが、しいてお猪口を持たせられて、祝杯を挙げさせられた。

 一座は陽気に浮き立ってきた。

「君は似てるね。」

「誰にだい。」

「山田にさ。」

「俺が山田だ。」

「それは奇遇だ。」

 そして祝杯。

「君は似てるね。」

「誰にだい。」

「野島にさ。」

「俺が野島だ。」

「それは奇遇だ。」

 そして祝杯。

 おかげで私は、先生以外の三人の名前も覚えてしまった。そして辞し去る機会を失った。

 そんなことをして騒いでいるところへ、三十すぎの女と、まだ学校出たてらしい若い男が、先生をたずねて来た。二人とも雑誌記者だった。

「君は似てるね。」と先生が言った。

「あら、誰に。」と女は言った。

「あら、誰にか。よかろう。こんどは女言葉といこう。」

 そして前の四人で、また始めた。

「あなた似てるわ。」

「あら、誰に。」

「啓子さんによ。」

「あたし啓子よ。」

「まあ、奇遇ね。」

 そして賑かな祝杯。

 私は呆れた。いったいこれが、新時代の苦悩の代弁者と目される中堅作家の、本当の姿なのであろうか。何かの擬態なのであろうか。私には見当もつかず、呆れて戸惑ってしまった。だが誰も、ふしぎがってる様子はなかった。弘田啓子も、私はすぐにその名前を知ったのだが、また学生上りの若者も、やがて話の元を明かされると、奇遇ねの問答を面白がり、声を揃えて騒ぎだし、まけずに祝杯を干した。お銚子が幾本も並んだ。

「小杉さん。」

 ぽつねんとしている私へ、弘田啓子は呼びかけた。

「小杉さん、あんたが種をまいたんじゃないの。なにを真面目くさってるのよ。さあ、祝杯、祝杯。」

 私は仕方なしに、また、祝杯を挙げた。

「その調子。今晩はみんな酔っ払うのよ。なに、大丈夫。ここで、ざこ寝をしよう。」

 いつのまにか、電燈がついていた。私は悲しくなった。もう帰ろうと思い、先生に原稿のことを改めて頼んだ。

「分ってる、分ってる。」と弘田啓子が手を振った。

「書くよ、書くよ、必ず書くよ。」と先生も調子を合せた。

「君は似てるね。」

 皆があとを続けてるうち、どうしたのか、先生は黙りこんでしまった。祝杯がすんでから、先生は言った。

「ちょっと待ってろよ。僕一人でやる。……君は似てるね。誰にだい。犬にさ。俺が犬だ。それは奇遇だ。」

 先生は拳固で食卓を叩いて調子を取った。

「犬だ、犬だ。みんな犬ばかりだ。」

 私は眼を見張った。空気が変ってきたのだ。

「犬でないという自信のある者は、手を挙げてみろ。俺だって犬だ。だが、この犬を、石で打ち得る者はあるめえ。みんな犬さ。習慣の虜さ。いつも同じ道ばかり歩いていやがる。いつも同じ所に小便をひっかけて、それをかぎながら、同じ道ばかり歩いていやがる。自分の小便の匂いがねえと、心細えんだ。酒のねえ一日は、心細えんだ。毎日毎日、酒を飲んでばかりいやがる。だが、原稿は書くよ。おい、小杉君、小杉さん、原稿は書くぜ。書かなけりゃあ、心細えんだ。何か書かなけりゃあ、淋しくてやりきれねえ。だから、安心しろよ。きっと書く。安心して、酔っ払っちまえ。酔っ払って、泊っていけよ。今夜はざこ寝だ。ええと、小杉……きくちゃん。君は似てるね。誰にだい。わんわんさ。俺がわんわんだ。それは奇遇だ。」

 祝杯を挙げると、飲み干したはずみに、先生は倒れかかった。側の者がそれを支えた。先生は坐りなおして、また祝杯を挙げた。

「あなた似てるわ。」

 弘田啓子が音頭を取った。

 私はそっと座をすべって、靴をはき、土間に立った。ふしぎなことに、誰も私を引き留めようとする者がなかった。酔って表の空気を吸いに出る、そんな風に思われたのかも知れない。それとも、もう私のことなど、面白くないので誰も眼にとめないのかも知れない。私はすっと外へ出た。

 もう暮れていた。都心から遠い雑草のある道を、とぼとぼ歩いていると、眼に涙が出てきた。なんというでたらめな、そして悲しい人たちだろう。先生はじめみんなそうだ。スカートの裾にまつわる宵の風には、もう秋の気があった。私は思いに沈んで、涙が眼にいっぱいたまり、ハンケチで拭いた。

 ところが、省線電車の駅近く、賑やかな街路の明るい灯を見ると、私はふと、騙されたような気持ちに変った。誰が騙したんでもない。先生やあの人たちが騙したんでもない。ただ私の方から騙されたんだ。つまり、すべてが嘘だったんだ。先生はじめ皆が言ったこと、したこと、すべて嘘だったんだ。それでは真実はどこにあるのだろうか。私の方だけにある。どこにもなく、ただ私の方だけにある。

 その思いは、奇異なものだった。私はまだ嘗てそんな思いをしたことがなかった。謂わば、外部の世界がすべて拵え物になって、自分一人が曠野の中に残された感じだ。

 それでも、またふしぎなことに、私は淋しくなかった。小さな小さな、光るものが心の中にあって、それが力となり喜びとさえなった。

 今にして私ははっきり思い当る。あの人たちすべて、ヴァージニティーを失っているのだ。精神的なことを言うのではない。単に肉体上のことだ。男たちはもう童貞を失っているし、女たちはもう処女を失っている。肉体のことだ。饐えた匂いがしていた。ざこ寝だってなんだって、平気で出来るだろう。

 だが私は、私の肉体は、処女の純潔さを保っている。年若い雛妓のそれとは、同じ肉体でも、香気が違うのだ。饐えた匂いなぞ、みじんもありはしない。

 私は一種悲壮な気持ちで、おそく家に戻った。手塚さんを加えた貧しい晩餐は、もう終っていた。私はみんなの平凡な世間話を聞きながら、こそこそ食事をすました。それきり何事もなかったのだ。何事かあるだろうと思っていたのは、私の処女の肉体の空想だ。童貞処女を失った肉体にとっては、たいていのことが可能であろう。しかもその可能性は、四方八方に拡がり得るとしても、つまりは浅薄なものに過ぎない。童貞処女の肉体にとっては、可能性は純潔のカテゴリーの中に制限される。制限されながらも、それは無限に遠く、無限に高く、無限に深く、伸長され得るのだ。生意気でもなんでもない。これが童貞処女の肉体の矜りではあるまいか。私はこの矜りによって、手塚さんへ、あの作家先生へ、その他のあらゆる饐えた肉体へ、抗議を提出しよう。


 東の空は、見る見るうちに明るくなっていった。その明るみが中天に差して、星の光りが消えてゆき、却って大気のなかに薄闇が淀んでくる。お寺の銀杏樹がくっきりと姿を現わし、その重畳した緑葉の一枚一枚が、浮き上って、その中に、雀がもう囀りだした。声は声を呼んで、チイチク、チュクチュク、チイチク、チュクチュク、潮のように高まってくる。もっと鳴け、もっと鳴け。雀、雀、お前たちも童貞処女ではないか。胸の張り裂けるほど……。

 ああ、私は思念の息の根をとめた。雀が、あの鳴き騒いでる雀のすべてが、なんで童貞処女なものか。童貞処女は今年生れの小雀だけだ。それと親雀と、どうして区別出来よう。肉体、肉体そのものの心だ。

 大空に光りが、日の出の紅い光りではなく、盲いたようなただ白い光りが、いつしか漲って、その反映で物影が消えていった。私は眩暈に似たものを感じた。家にはいって、頭痛がすると母に言った。昨晩遅くなって、風邪をひいたのかも知れない、という口実で、布団にもぐりこんでしまった。手塚さんを駅まで見送りに行くことになっていたが、誰が行くものか。姉さんだけ行くがいい。首縊りのキスのお伴なんか御免だ。

 私は夢をみてるような気持ちで、それからほんとにうとうと眠ったらしい。眼がさめると、涙が出ていた。

 お母さんは、もう裏口で洗濯をしている。お父さんは、縁側でぽかんとしている。中風といっても、手足や言葉が自由にならない程度の軽いもので、ただひどく泣き上戸だ。

 私は顔を洗い、泣いたらしい眼をよく洗って、さっと髪をなでつけ、お父さんのところへ行ってみた。

「おう、おう、起きたか。」

 私は笑顔をした。

「よかった。風邪が、なおったか。」

 お父さんはもう泣いている。

「淋しかろ。手塚さんが、いってしまった。がまんしな。」

 お父さんて、何を言うんだろう。お父さんこそ、むかしは、工場の庶務課で、手塚さんの父親と同僚だったし、手塚さんを好きだったんじゃないか。

「わたしじゃないわ。お父さんが淋しいんでしょう。」

 お父さんは頷いて、鼻をすすった。

「姉さんも、きっと淋しいわ。」と私は言ってみた。

 お父さんはまた頷いて、しくしく泣きだした。何を考えてるのか、ちっとも分らない。嬉しくて泣くのか、悲しくて泣くのか、それさえも分らない。

 横手のかなたに見える銀杏樹には、雀の声がもうしなかった。一群れずつ、ぱっぱっと四散して、どこかへ行ってしまったのであろう。

「あら、もう雀がいなくなったわ。すっかり明るくなったから、どこかへ出かけてしまった。」

 黙っているのが辛くて、分りきったことを言ったが、そこで、私は真面目になった。

「お父さん、あの銀杏樹の雀ね、うるさいの、それとも楽しいの、どちらなの。雀がすっかりいなくなった方が、およろしいの、それとも、たくさんいた方が、およろしいの。」

「ほう、雀ね。好きかい。」

「好きよ。うるさい時もあるけれど。」

「そうだ、そうだ。」

 お父さんは一つ大きく息をしたが、雀のことは要領を得ず、きょとんとしている。私は追求した。

「秋になって、銀杏の葉が散ってしまったら、雀はどうするんでしょうね。」

「同じだよ。」

「やはりあすこに住むのかしら。」

「住むね。」

「そんなら、わたしたち人間も、雀みたいだといいわね。空襲で家が焼けたって、焼け跡に住めばいいし、毎日あくせく働かなくてもいいし、一日中、ピイチクピイチク、鳴いておればいいし、わたし胸が張り裂けるほど鳴いてやるわ。」

 半ば自分の気持ちをこめ、半ばお父さんを慰めるつもりで、言ってみたんだけれど、お父さんはもう鼻をつまらしていた。

「わたしが、働けないからね。お前たちにも、苦労をかけて、済まん。」

 言ってるうちに、お父さんはもうしくしく泣きだしてしまった。雀のことなんか、お父さんにはどうでもいいんだ。ただ人間のこととなると、すぐに泣きだしてしまうのだ。私もふいに、涙ぐましくなった。

「大丈夫よ、お父さん。働くのは嬉しいことだわ。……あ、お母さんはお洗濯かしら。」

 私は立ち上って、茶の間の方へ逃げて行った。もし涙を見せようものなら、お父さんは声をあげて泣きだすにきまっているのだ。

 私は茶の間で、ちょっとお茶をのんだが、食事はやめた。食べたくなかった。お母さんの方へは行かずに、表へ出た。散歩するというわけでもなく、行くところもないので、裏の空地へ行ってみた。あのいやな醜い桜の木がある。通りすぎて、お寺のなかにはいっていった。銀杏樹がすくすくと茂りそびえている。その幹によりかかって、私は泣いた。

 悲しいのではない。悲しいといえば、誰も彼もみな悲しい。お父さんも、お母さんも、姉さんも、手塚さんも、作家先生も、みな悲しい。だが、私だけは、ちっと違う。いとおしいほど自分が大切なのだ。大事な大事なものが、自分の肉体にあるのだ。処女……。私はそれを護り通そう。その名において、すべてのものに抗議をしよう。一寸の虫にも……と言われているが、大事なのは五分の魂じゃない。一寸の……いや、虫はいや。処女は虫じゃない。花みたいなものだ。たとえ小さくとも、何の役にも立たなくとも、清らかで香り高くさえあれば、必死に護り通してやらなければいけない。童貞処女を喪失してる世の中だ。反抗してやれ。

 私は泣いた。うれしくて泣いた。銀杏樹には、今は雀はいない。小雀、小雀、帰ってこい。チイチク、チュクチュク、チイチク、チュクチュク、騒ぎまわってくれ。胸の張り裂けるほど囀ってくれ。

底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4)」未来社

   1965(昭和40)年625日第1刷発行

初出:「光」

   1948(昭和23)年12

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2008年116日作成

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