白木蓮
豊島与志雄
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桃代の肉体は、布団の中に融けこんでいるようだった。厚ぼったい敷布を二枚、上に夜着と羽根布団、それらの柔かな綿の中に、すっぽりとはいっているので、どこに胴体があるのか四肢があるのか、見当がつかない。実は、体躯はそこにあるに違いないが、それも既に、死の冷却と硬直と分解に委ねられているだろう。それは彼女の肉体ではない。──肉体の喪失を、私はそこに感じた。
彼女の枕辺近くに坐った時の、その感じは奇妙なものだった。私は彼女に告別に来たのだが、彼女の肉体はそこになかった。それでも、彼女はそこにいた。彼女の顔がそこにあった。白布をかぶり、髪の毛を解き流しにして、仰向けに、長い枕の上に埋まっている。
その顔の白布を、喜美子はそっとまくった。死顔を私に見せるつもりらしい。だが、彼女はすぐ堪えきれなくなって、白布を元に戻し、涙をほろほろとこぼし、声を立てずに泣いた。雨が降るような自然な泣き方だ。
私は数秒、死顔を見た。殆んど生前通りだった。誰がしたのか、唇には紅がぬってある。眼も凹んでいず、閉じた瞼に、長い睫毛が並んでいる。ただ、頬の肉附が、指で押したらそこだけ凹みそうな工合だ──。急性肺炎で倒れてから三日間、手当のひまもないほど急に、心臓の働きがとまってしまった由である。
「桃代さんが、急に、亡くなりましてね……。」
私の顔色は見ないで、独語のように、加津美のお上さんは言った。
「お別れに、いらっしゃるんでしょう。……様子を見てくるわ。」
喜美子は一人できめて、向う隣りの桃代の家へ駆けだしていった。
そして私は喜美子に案内されて、桃代に別れに行ったのだが、気持ちは、悲しみではなく、なにか大きな喪失感だった。前々日、加津美で、桃代が病気なのを聞いた時、そして一人で飲んでいた時、へんな肌寒さを予感のように感じたものだが、それも心配の種にはならなかった。それから、彼女の寝姿を前にして、ただ、何かがなくなった、という気持ちにぴたりと落着いた。──彼女の肉体がなくなったのだ。
油単のかかってる箪笥、覆いのしてある鏡台……、こまごました器物は取り片づけられてる、簡素な感じの室で、小さな床の間に、香炉が一つ置かれている。そのそば、青銅の花瓶に、真白な木蓮の花が活けてある。──ほのかな香りが漂ってくるのは、香炉からではなく、白木蓮の花からだった。
「あれ、喜美ちゃんが持って来たの?」と私は尋ねた。
喜美子はもう泣きやんでいて、すがすがしい感じの頷き方をした。
「あの花、たいへん好きだったわ。だから、あたし、活けてあげたの。前にも、なんども持ってきたわ。」
それは私も知っている。──加津美の狭い庭に、分不相応とも言えるほど大きな木蓮の木がある。板塀より高く、低い植込みの上に、すくすくと伸びあがり、枝を拡げていて、春先には、真白な大輪の花を一面につけ、あたりに芳香をまき散らす。その花を、喜美子は桃代に持ってってやった。私も二度ばかり、花の小枝を折り取る役目をさせられた。だがこの花、活けるには厄介な枝ぶりで、桃代と喜美子はそのためにずいぶん時間をかけた。
「ご免なさい。お待たせして……。でも、あれ、活けるのに面倒よ。」
一人で待ちくたぶれて、そして飲んでいると、桃代は上気した顔でやって来て、二階の座敷のすぐ前面に馥郁と咲き匂ってる木蓮の方へ、私の方へではなく、笑顔を向けるのだった。
彼女の家に、私は行ったことがない。なぜなら、私は彼女の旦那ではなく、そして彼女には、めったに来ないがとにかく旦那と名のつく人がいた。肉体の関係は当人同士の自由だが、旦那持ちの芸者の家への出入は道義に反する。
彼女の死は、その道義の関を開いてくれた。私は何の逡巡もなしに、彼女の家の敷居をまたぎ、彼女に別れに行ったが、そこにはもう彼女の肉体は見出せなかった。ただ彼女が、いや彼女の顔があった。白布に覆われたその顔の近くに、白木蓮の花があった。私はその花を眺め、それが心にしみこんだ。そしてはじめて、涙が眼にたまってきた。
節太い枝先にぽかっと出てる、大きな六花弁の白い花、やさしく訴えるような香り、それが、なにかしら淋しいのだ。──じっと見ていると、桃代によりも寧ろ、喜美子に通うものがある。
喜美子は加津美で、仲居ともつかず、養女ともつかずわりに気儘な立場にいる。十七八歳の体躯で、痩せ型の方で、色の白い顔は、肉附きも皮膚も薄い感じがして、清楚でそして淋しい。口を利く時、笑う時、長めの小さな糸切歯が唇から覗き出して、特別に可愛く見える。その全体が、へんに頼りないのだ。──私はいつも、彼女からへんな印象を受ける。このひとは、たいへん不幸な目に逢うことになるかも知れない。長い病気にかかることになるかも知れない。いつまでも消えない悲しみを胸に懐くようなことになるかも知れない。今でもその日々が、淋しい頼りないものであるかも知れない……。もとより彼女はそのようなことを意識してはいない。だが、彼女の存在そのものが私にそのような印象を与えるのだ。
そんなことを私が思うのは、彼女を愛してるからであろうか。いや、私は普通の意味で彼女を愛してはいない。私はただ、その顔のすがすがしい感じが好きだし、その糸切歯の可愛らしい感じが好きなのだ。酔っ払って、自分自身を持てあまして、そして彼女をじっと見ていると、なにかしら胸が切なくなるのだ。
そのために、と言えば理屈に合わないが、私はしばしば喫茶店カツミへも行った。
終戦後、花柳界がどういうことになるやらまだ見通しもつかない頃のこと、加津美ではすぐ近所に、小さな喫茶店を開いていた。喜美子とも一人の女中とが店に出ていて、お上さんもたいていいた。もう五十歳にもなるこのお上さん、宇山かつは、真白に白粉をぬり、時折は丸髷に赤い手絡をかけ、はでな錦紗の着物などをつけて、客に煙草をねだることもあった。粗末な珈琲や蜜豆や菓子の類が表面の看板で、内実は主として酒場だ。ウイスキーやビールはまあ普通の品だが、日本酒はひどく水っぽい。よほど酔ってでもいなければ、まともには飲めない。
「お上さん、こいつは、ちっとひどいよ。」
「そうですか、どれ……。」
しゃがれた太い声で、お上さんは手を差出して、客の杯を受けぐっと一息に味わう。
「なるほど、これは少しひどいようですね。」
それきりで、澄ましこんでるので、話にもならない。──もっとも、酒の品質の責任は、お上さんにはなく、舞台裏にぶらついている調理人にあったのだ。
だが、勘定の方は主としてお上さんがきめた。勝手にきめた。同じ飲食品でも、時によって高低がある。また、例えば三杯飲むと、一杯分の四五倍もの勘定になることがある。つまり、お上さんの計算では、税金の加算がでたらめなのだ。
そういうカツミで、喜美子はいつも、ほのかな笑みを眼元に漂わせ、可愛いい糸切歯をちらちら見せながら、安らかに振舞っていた。客から言葉をかけられると、短い受け答えをするが、自分から話しかけることはない。室の隅には大きな蓄音機があるが、それは殆んど使われなかった。──私は彼女と二人きりになるのが好きで、彼女の顔を見ながら、別に話をするでもなく、静かに杯をなめるのだが、そういう時、なんだか彼女の薄命とか不仕合せとかいう感情が胸に来て、しんみりとした切なさを覚えるのである。
そのくせ、或はその故か、桃代がやって来ると、私はほっと安心する。こんな所の女にしてはいやに手の太い、すべてが大柄なぱっとした桃代は、その存在で、喜美子をかばいこんでしまうようだ。
桃代は若い妓などを連れて、蜜豆をつっつきに来るのだが、喜美子にやさしい眼差しと言葉を投げかける。白紙に包んだ葡萄糖の大きな塊りを、袂から取り出して彼女に与える。
「これ、なんだか知ってる。」
「あら、こないだも頂いたわ。」
そんな、前のことなどはどうでもいいという風に、桃代はナイフを借りて、小さな一片を切ってやる。
「食べてごらんなさい。うまいわよ。でも、一度にあまり食べると、下痢をするんですって。少しずつ食べるのよ。」
桃代は喜美子だけにしかやらない。それを、若い妓たちも、お上さんも、いつものことと馴れてるらしく、わきから手を出さない。──桃代はなんども葡萄糖の塊りを喜美子に持って来てくれた。
其後、喫茶店カツミを宇山かつはやめて、加津美だけをやるようになると、桃代は葡萄糖の代りに、長唄を喜美子に稽古してやった。喜美子は芸妓になるのではなかったが、一通りの遊芸事は習っていて、桃代が長唄の名取りであるところから、日時をきめず暇に任せて、桃代の方から進んで教えた。
喜美子は私の前で、何のはにかみもなく三味線を手に取ることもあった。技倆はまだ進んではいないが、覚えたものは確実に自分のものとしてるところがある。私の知ってる限りでは、彼女は「小鍛冶」が好きだ。「稲荷山三つの灯し火明らかに心をみがく鍛冶の道…」のその最初から、彼女の明るい顔は白皙とも言えるほどに澄んでくる。それから、剣を鍛える槌の音と麻衣を打つ砧の音と交錯するあたり、彼女の撥音は鮮かに冴えてくる。──そのように私が感ずるのも、酔い痴れた悲痛な心情から、小狐丸の名剣などに憧れる故であろうか。それとも、一片の清純な愛情を喜美子に寄せてる故であろうか。それはとにかく、喜美子は、喫茶店カツミの濁った空気にはふさわしくなかったし、また、加津美の遊蕩な空気にはふさわしくないのだ。
加津美のある一区域の外には、戦災による焼け跡が見渡す限り拡がっている。終戦後まだ一年半あまりで、電車通りなどにはぽつぽつ小さな家が建ってはいるが、だいたい原っぱだ。あちこちに瓦礫の堆積があり、いら草の茂みが冬枯れのままに残り、小さく区切った耕作地には、麦が伸びあがり蚕豆の花が咲きだしている。その原っぱへ出ると、喜美子は、いっそう新鮮に子供っぽくなる。
道路からちょっとはいったところに、腰をおろすのに恰好な石があるので、道で出逢った喜美子を誘うと、彼女はすなおに頷いてついて来る。そして私達は、道路の方に背を向け、地上にただ二人きりのような気持ちで、焼け跡の野原をぼんやり眺めるのである。大気は冷いが、じっと腰掛けていると、夕陽の光りの仄かな温みが肌に感ぜられる。
喜美子は田舎に生れて、幼い両親と共に東京に出て来た。両親はもう亡い。田舎には、伯父さんやずっと年上の兄さんがいるけれど、一度も行ったことはない。記憶には、美しい小川が一つ浮んでくる。
「いつも、水がきれいに澄んでたわ。深いところでも、底まではっきり見えるの。砂があったり、小石があったり、泥があったりして、泥のところには藻が生えてるの。藻の中にいろいろな魚がいて、みんなでしゃくいに行ったわ。魚はなかなか取れないけれど、小蝦はよく取れたわ。大きな蟹に指をはさまれて、泣きだしたこともあるの。」
「喜美ちゃん、そんなにおてんばだったの。」
彼女は頭を振って笑った。
「いいえ、あたしじゃないのよ。だって、まだ五つか六つだったんですもの。」
「時々、田舎に行ってみたいとは、思わないの。」
「でも、行ったって、つまらないでしょう。」
「そりゃあ、面白いことはないよ。けれど、町中に住んでると、僕なんか、時々田舎に行きたくなる。焼け跡の原っぱに、こうしてじっとしてても、いい気持ちだからね。ただ野原には、焼け跡でもやはり、水のきれいな川がほしいよ。川の流れが一つあれば、野原がほんとに生きてくる。」
この焼け跡に、今迄見られなかった美しい都会が出現するのは、いつのことやら。まずそれまでは、捨て置かれてる空間で、そこに、麦が伸び、蚕豆の花が咲き、雑草が茂り、灌木の茂みも出来るだろう。それらを眺めるのは楽しみである。だがこの楽しみを充実させるには、一筋のきれいな小川の流れが必要だ。──そのようなことを、私は喜美子を相手に独語するのだ。喜美子は微笑みながら私の言葉を聞いてくれる。ただ聞くだけで、はっきりした反応は示さない。然し彼女自身、田舎について何よりも小川のことを記憶しているではないか。その記憶を嬉しく思い、それに頼って、私は私の独語を続けるのだ。
独語の合間に、振り向いてみると、彼女は小川のほとりにでもいるかのように楽しそうだ。その眼眸の清らかさが、肉附や皮膚の薄い顔の明るさをいっそう際立たせ、片方の細長い小さな糸切歯が、薄い膚の微笑みの可愛さをいっそう際立たせている。その全体が、なにかしら運命に対する抵抗力の弱さ、つまり薄命なものを思わせる。私が庇うようにかき抱いてやったら、彼女はどうするだろうか。
私が口を噤むと、彼女も黙っている。買物袋を膝にかかえ、白いハンケチを持ちそえ、赤い帯をしめ、かすかに化粧の香りをさせてる、都会の娘だ。田舎の娘ならば、石に腰掛けて夕日を眺めるなどは、退屈に違いない。──夕日は薄い雲に包まれ、円盤のようにくるくる廻りながら、速かに沈んでゆく。冷い風が地面に沿って足下を流れる。
「少し歩こうか。」
「ええ。」と彼女は答える。
「もう帰ろうか。」
「ええ。」と彼女は答える。
どちらにしていいか、私の方でまごつくのだ。ただ、そこで彼女と別れてしまうことは、しにくい。私は彼女について行く。加津美までついて行く。
加津美へは、喜美子は裏口からはいるが、私はそうはいかない。表からはいれば、座敷へ通されるし、座敷へ通ればお客さまだ。お島さんが万端の面倒をみてくれるし、お上さんも顔を出すし、黙っていても桃代が呼ばれるだろう。
「ちょっと、一人で考え事をしたいから、酒だけを頼みますよ。」
ぬるい炬燵に半身をもたせて、夕暮の一刻を、とりとめもない感慨に耽るのだが、なにか場違いな心地で落着きがない。逃亡か……酔いつぶれるか……。そこへ、喜美子がお銚子を持って来ると、私はもう他愛なくにこにこしてしまう。
「まあ、電気もつけないで……。」
喜美子は薄暗いのが嫌いだ。そして私は、彼女に電灯をつけてもらうのが好きだ。
「また、考え事をしていらしたの。」
「うむ、ちょっとね。さっき、焼け跡で、だいぶ長く石に腰掛けていたものだから、風邪でも引きはしなかったろうかと思って……。」
「あら、済みません。御免なさい。」
「僕のことじゃないよ。喜美ちゃんが風邪を引きはしなかったろうかと……。」
彼女は眼を二つ三つ大きくまたたいて、私を見た。
「だから、一杯飲むといいよ。」
彼女はちょっとためらって、そして微笑む。
「一杯だけよ。」
その一杯を、幾度にも区切って飲んでから、ねだるように言う。
「桃代姐さん、呼びましょうよ。」
喜美子の口から、桃代姐さんと、桃代さんと、二通りの言葉が、ごく自然に出てくるのだ。これは他の者には普通にないことだ。姐さんがつく方は、お座敷の場合、つまり芸者としての場合であり、それがつかない方は、ごく親しい気持ちで信頼する場合らしい。その二通りの呼名に、私はへんに気持ちがこだわるのだが、それを喜美子へは説明のしようもない。
「ねえ、いいでしょう。」
喜美子の言うことには私は逆らえないのだ。私が頷くと、彼女はすぐに立ってゆく。
桃代姐さんが来るとなれば、私はじりじりと追いつめられて、酔っ払うより外はないのだ──。あの時だってそうだった。もっとも、あの時は初めから、私も彼女も酔っ払っていた。雪が降っていて強いのを飲んだのだ。
雪の夜はわりに温いというが、その夜はしいんと底冷えがした。富久子が帰っていってから、お上さんも顔を出し、桃代はもうほかへ廻るのは嫌だと腰を落着け、三人で炬燵にあたりながら、よもやまの話に耽った。丁度カツミをやめたばかりのところだったので、あれの内実は喫茶店だったのか酒場だったのかというようなことから、喜美子のことにも話が及んだ。
「もうとって十八ですものね。ゆくゆくは養子を迎えるつもりですけれど、それまでどうしたものかと迷ってるんですよ。」とお上さんは私に向って相談するように言うのだ。
「いまさら芸者に出すわけにもゆきませんし学問をさせるわけにもゆきませんでしょう。芸事と言えば、あの通りあっちこっち生噛りですからね。」
桃代はウイスキーをぐっと飲んで、じれったそうに言う。
「お上さんて、喜美ちゃんのこととなると、意気地がないわね。今のままでいいじゃないの。」
「そうでしょうか。」
「そうにきまってるわ。ここの娘さんでいいじゃないの。」
「そりゃあね、わたしがこれから十年も二十年も生きてるとすれば、それでいいんだけれど、この節、へんに胃が痛むんでね……。」
お上さんの胃が痛むのは、いつものことで、よく知ってる者には口癖としか聞えない。私は笑いだした。
「胃が痛むぐらいで、死にゃあしませんよ。」
だが、そのあと、私は坐り直して言ったものだ。
「たとい死んでも……お上さんが今日亡くなっても、明日亡くなっても、喜美ちゃんのことなら、僕が引き受けますよ。喜美ちゃんとなら、僕は結婚してもいい。妻が亡くなったあと、僕は断じて再婚しないつもりだったけれど、喜美ちゃんとなら結婚してもいいな。但し、ここの養女じゃあ嫌ですよ。ただ、喜美ちゃんとだけ……。」
私は真面目だかふざけてるのか、自分でも分らなかったが、桃代も私の調子に乗ってきた。
「梶山さん、強がったってだめよ。富久子さんと浮気も出来ないくせに、喜美ちゃんと結婚するなんて……。」
「浮気をしないから、結婚するのさ。」
「だめよ、梶山さんじゃあ。第一、年があまり違いすぎるし、何から何までつりあわないわ。だから、喜美ちゃんと結婚するなんて、それもやっぱし浮気じゃないの。そんな浮気なら、わたしが封じちゃうわよ。石塚さんと同じことよ。」
石塚のことなら、私もだいたい知っている──。大商店の二男坊とかで、年も若く顔立もととのっていて、きれいにとかした髪をポマードで光らしていた。カツミによく現われて、甘いものや辛いものを飲んでいった。しんから酔っ払ってることはないが、いつも適度に酔ってる風をしていた。しばしば、何か手頃なものを、特別な菓子とか特別な石鹸とか、喜美子に持って来てくれ、ゆっくり話しこんでゆき、また、映画や芝居へ連れ出そうとした。その石塚が、喜美子に対して、次第にしつっこく大胆になってきた時、桃代は彼を或る待合へ誘い込んで、小秀という若い妓とくっつけてしまった。それからカツミで、石塚に出逢うと、どうして小秀さんを連れて来ないかと、そんなことから、巧みな言い廻しで、彼と小秀との仲を皆に披露してしまったのだ。小秀の方は、身体で稼いでいる芸者のこととて差し障りはないが、石塚はへんに照れてしまい、やがてカツミに姿を見せなくなったらしい。──そういうことをした桃代の気持ちが、私には分らないのだ。
彼女の顔をじっと見ると、彼女もたじろがず見返してくる。
「君はまったく、おかしなひとだよ。」
「どうして。」
「喜美ちゃんのこととなると、すぐ夢中になるからね。」
「妬けるのよ。どうやら、同性愛みたいだわ。」
「ばかなことを言ってる……。」
「いいえ、ほんとうよ。わたしの方が真剣だから、男の浮気から護ってやるの。ねえ、お上さん……梶山さんだって、浮気だからだめよ。」
「浮気でなかったら、どうする。」
「うそ、うそよ。ほかの女とだって、分りゃしないわ。」
「ほかの女と浮気なんか、するものか。」
「決してしないの。」
「しないよ。」
「じゃあ、わたしとなら、どう。浮気しないの。」
「そうね、君となら、そりゃ分らん……。」
「あとで後悔するわよ。」
「君こそ、あとで後悔しなさんなよ。」
お上さんは、空の銚子を持って席を立った。
「まあまあ、お静かに願いますよ。」
食卓に肱をついてふらふらしてる私の肩を、桃代は捉えて、ぐいと引き起すのだ。
「梶山さん、ほんとに喜美ちゃんが好きなの。」
「うん、好きだよ。」
「どんな風に好きなの。」
「どんな風って……別に愛してるわけじゃないが、ただ好きだよ。本当のことを言えば、喜美ちゃんを見てると、今にたいへん不幸なことが喜美ちゃんに起りそうで、なんだか、胸が切なくなる……そんな風でね……。」
「それ、ほんとなの。」
桃代は私によりかかるようにして、そして突然、すすり泣くのだ。私はびっくりして、彼女の肩をかかえながら、喜美子はもしや彼女の身寄りの者ででもあるのかと、尋ねてみたが、彼女はもう泣きやんできっぱり答えた。
「いいえ、全くの他人だけれど、でも、わたし、ほんとに好きなの。」
そして彼女は押っ被せてくるのだ。
「さあ、話して下さい。喜美ちゃんのこと、なんでも話して下さい。わたしも話すわ。」
おかしなことに、喜美子はもうどこか遠くにいて、私達だけがそこに取り残され、酔いつぶれかけていた。お上さんが銚子を持ってくると、桃代はくずれた姿態のままで言う。
「お上さん、許してね。わたしたち、喜美ちゃんに結ばれたのよ。喜美ちゃん、どこにいるの。連れて来てよ。」
来るものか、遠くに行っちゃった、と私は思うのだ。そして桃代が、非常な重さでのしかかってくる。その太い眉、赤い唇、ぶ厚い耳朶、ちょっと毛の乱れてる襟足、そして何よりも、近視らしいくるっとした眼が、それぞれ別々に私の眼の前に廻転する。そしてそれらが一つ所に中心を求めて静まり返ると、彼女はもうそこに投げ出されてる一塊の肉体に過ぎなかった。
その肉体は、ただ柔かく温かくぼってりとして、そして行儀がよいのだ。意志も感情もないもののように、私の前に惜しみなく自分を投げ出している。──その夜から、私は幾度その肉体に取り縋ったことか。強い快楽もなかったが、倦きることもなかった。
桃代はその土地では、顔の売れた姐さん株で、気儘にひらのお座敷だけを勤めていた。私との仲は他へは内緒なのだ。だが加津美では公然のことで、喜美子の前でも遠慮はなかった。喜美子は私達の間を当然とでも思ってるらしく、或は寧ろ喜んでさえいるらしく、にこにこと楽しそうに私達二人を見る。私としては、失恋ではないが、失恋に似た感じだ。喜美子はもう手の届かないところにいるようでもあるし、すぐ掌の中にいるようでもある。なんだか焦れったいのだ。だから、焼け跡の野原に連れだして、夕日を眺めながら、彼女を相手に独語もするのだ。──喜美子はそんなことには頓着しない。梶山さんといえば、すぐに桃代姐さんだ。ああいう独語のあとでも、桃代姐さんだ。
桃代はやって来るのに手間取った。来た時は、少し酔っていた。ちょっと指先をつき、挨拶をして、食卓の横手にひたと坐る、それまではまあ形式だが、それから先もいやにしんみりしている。
「梶山さん、わたし今日はあやまるわ。御免なさい。」
私の方は見ないで、眼を伏せている。
「すこし、喜美ちゃんをいじめすぎたらしいのよ。」
「そんなことなら、僕にあやまることはないじゃないか。」
「そうだけれど、梶山さんにも関係があってよ。昼間、焼け跡で、梶山さんと何の話をしてたかと、いくら聞いても、何の話もしなかったと言うんでしょう。長い間二人でいっしょに腰掛けていて、口を利きあって、それで何の話もしないなんて、そんなことがあるもんでしょうか。でも、どうやら喜美ちゃんの言うのがほんとらしいわね。」
「ああ、あれか。なるほど、喜美ちゃんはうまいことを言うね。野原のことや、川のことを、僕が独りで饒舌ってたんだ。喜美ちゃんは聞いてたかどうかも分りゃしない。まったく、何の話もしなかったわけだ……。君も見たのかい。そんなら、声をかけてくれたっていいじゃないか。」
「しばらく立って見てたわ。でも、声をかける隙がないんですもの。」
「声をかける隙がない……なんだい、それは。」
「何と言ったらいいかしら……。まあね、二人で、心中の相談をしてるとか、そんな風で、声をかける隙がないのよ。」
「ばかだね、そんなことを……。」
「でも、わたしが男なら、喜美ちゃんと心中するかも知れないわよ。」
「ますます怪しからん。」
然し、桃代の言葉に、私はなにか不安なものを感じた。私の方についてではない。桃代の方についてであり、更に喜美子の方についてである。
私が黙って考えこんでると、桃代の方から打ち切るのだ。
「もうやめましょう、こんな話。……喜美ちゃん、どうしたのかしら。連れてくるわ。」
私は一人で飲むだけだ。
桃代は三味線を持って、喜美子を連れてくる。
「さっきのお詫びに、お稽古をしてあげるわ。梶山さんだから、いいでしょう。お座敷じゃないと思うのよ。でも、ほかのお座敷でなら、決していけないわよ。このお師匠さんが承知しないわよ。……何がいいかしら。梶山さんの……好きなもの……小鍛冶でもやりましょうか。」
喜美子はいつも、明るい顔で、明るい眼眸だ。糸切歯の笑みが消えると、桃代と向き合って、ぴたりと体勢がきまる。
桃代は三味線の調子を合せて、ちょっと間を置く。それから掛声と共に、爪弾きだが、二の絃と三の絃がいっしょに、チャンと響くと、喜美子の美しい声が謡いの調子をこなしてゆく。──稲荷山三つの灯し火明らけく。
そんなことが、私の心にしみるのだ。浅墓な感傷だろうか。私は涙を眼にためながら、なにか堪え難い気持ちで、立ち上って硝子戸を開く。すぐ眼の前に、白木蓮の大きな花が咲いている。もう暮れてしまった夜の闇に、青みを帯びて仄白く、造花のようにも見えるし、何かの化身のようにも見える。冷たい大気に漂ってるその香気が、やさしく私の肌を撫でる。私は何かに憑かれたような心地で佇んだ。
その白木蓮の花が、今、桃代の死体のわきに活けてある。桃代の死体は、柔かい布団の中にすっぽりと埋まって、形体も見分けがつかない。彼女はその体躯ごとにどこかへ脱け出してしまったかのようだ。
ちょっとひっそりとした一刻の合間だった。婆やさんがお茶をいれてくれるだけの時間に、私は告別をすました。身寄りの者だという中年の女が出て来て、言葉少なに挨拶をした機会に、私は席を立った。玄関に訪れて来た数人のわきを、私はすりぬけて、表に出た。喜美子はあとに居残ったらしい。
そして加津美の二階の室で、私は桃代の死をはっきり感じ、同時に、彼女の姿をまざまざと思い浮べた。私にとっては、彼女はそこにしか存在しないのだ。──そうだ、ほかの何処にも彼女はいない。その室にだけ、つまりお座敷にだけ、彼女はいるのだ。
その彼女は、いつも髪をきれいに結っている。どんなに乱酔してもその髪を乱さない。顔から肩にかけて、いつも白粉がぬられていて、決して素肌を見せない。水で洗ってもそれは落ちないだろう。眉が太く、眼が近視らしく、大まかな顔立だが、なにか巧妙な糸で操るような微妙な表情をしながらも、決して相好を崩すということがない。大きく衣紋をぬいた着附だが、襟元はきっちり合さって、帯は常に寸分の狂いもない位置に定着している。上半身は反り加減に、胸も背も板ででも出来てるようで、腰だけでしか屈伸しない。ぴたりと端坐する膝は、蝶番のようで、横坐りには片手を畳につかなければならない。その全体が、いつも香水の仄かな匂いをつけ、それが肌身にまでしみこんで、体臭というものがない。寝床にはいるにも、長襦袢に伊達巻をきりりと胸高にしめ、肉附の多い体躯を軽やかに横たえ、そしていつもきまった姿態を崩すことがない。──すべてが、一定の型にはめられている。
喪失したのは、そういう肉体だ。一定の型に訓練され馴致された肉体だ。それは桃代であろうか。いや誰でもよいのだ。それならば、あの桃代はどこにいるのだろうか。
さむざむとした思いで、一人考えこんで、飲んでいると、いつのまにか喜美子が来ている。じっと見返すと、喜美子も私の方をじっと見ていたが、ふいに、涙をはらはらとこぼす。声も立てず、肩も震わせず、ただ涙だけが流れる。自然に雨が降るような泣き方だ。桃代の枕頭にいた時と同じだ。
その涙がやむのを待って、私は尋ねた。
「喜美ちゃん、桃代は亡くなる時に、何か言いはしなかったの。」
喜美子は頭を振る。
「何にも言わなかったの。」
「ええ。だけど、その前に、しんみり言ったことがあるわ。」
「どんなこと。」
「男のひとに、決して肌身を許してはいけないって、そう言ったわ。一人のひとに許すと、また、二人めのひとに許すようになる。二人めのひとに許すと、また、三人めのひとに許すようになる……。」
そして彼女は宙に眼を据えて、何かを思い出そうとする様子で、言い続ける。
「それから、たしかなひとと結婚なさいと言ったわ。そしてまた言いなおしたの。一人のひとと結婚すると、また、二人めのひとと結婚するようになる。二人めのひとと結婚すると、また、三人めのひとと結婚するようになる……。」
「それで。」
「それだけよ。そして桃代さんは笑ったの。だけど、あたし、なんだかへんな気がして、忘れられないわ。」
「なあに、冗談だったろうよ。」
私は心にもないことを言ったものだ。桃代は喜美子を本当に愛していたのかも知れない。誰の手にも渡したくなかったのかも知れない。然しそれならば、喜美子を抱きすくめるとか、頬ずりをするとか、そんなことをどうしてしなかったのだろう。手を握られたこともないと、喜美子は言うのである。或は、肉体と肉体との接触などを桃代は極度に蔑視したのでもあろうか。
私は桃代の肉体を失った。だが、桃代はいつもまだその辺にいるような気がする。その桃代のために、喜美子に対してはただ、夢のような空しい愛情だけを持つことにしよう。喜美子はそれに丁度ふさわしい。白木蓮の花のような女だ。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4)」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「芸術」
1947(昭和22)年10月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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