早春
豊島与志雄
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もともと、おれは北川さんとは何の縁故もない。街で偶然出逢っただけのことだ。
牛の煮込み……といっても、おもに豚の腸や胃や食道、特別には肝臓と心臓、そのこま切れを竹串にさして、鉄鍋でぐらぐら味噌煮にしたものだが、その鍋をかこんでアルコールを飲むという、この頃たいへんはやっている安直な飲み屋が、近くの街角に一つあった。
おれも時々鍋をつっつきに寄った。気むずかしそうな大人たちがいない場合は、コップ一二杯飲むこともあった。そこで、初めて北川さんに逢った。帽子はかぶらず、マントにちび下駄の姿で、髪を短かめに刈った頭がへんに大きく見え、浅黒くて艶のわるい顔は善良そうだった。年は三十五六で、飲みっぷりがよかった。鍋の物はあまり食べず、焼酎……つまりアルコールの薄めたのを、二杯ほどあおって、あとは清酒のお燗したのをうまそうに飲んだ。飲みながら店の親爺と話をした。
「身投げのことを、絵や文章には、真逆様に飛びこむように書いてあるが、あれは嘘だよ。男でも女でも、逆様になんかなかなか飛びこみはしない。せいぜい横っ倒しで、たいていは立ったままの姿勢さ。水泳の飛び込みとは違うからね。やっぱり怖いんだな。或る時、寒い所で、女が身投げをしたことがあった。飛びこんだのが池で、氷がはりつめてたもんだから、両足は水にはいったが、大きな尻が氷につかえて、どうにも身動きが出来ず、もがいてるところを救いあげられた、という話があるよ。」
「へえー、ほんとですか。」
「ああ、実話だよ。」
そんな話をする彼を、おれは、文学者か画家かでもあろうと思った。──ところが違っていた。中学校の先生だった。もっとも、ちょっとした読物ぐらいは書いていたんだが。
飲んでしまうと、御馳走さんと大きな声で言って、出て行った。
おれは親爺に聞いた。
「あの人、金を払わないね。」
「今日は持っていないらしいよ。またこんど、と小さい声で言ったろう。持ってる時に、いっしょに払うよ。」
「それはいいなあ。おれもそうしよう。」
「お前なんか、だめだ。あぶなくってね。」
そんなことでおれはどうやら彼を好きになったらしい。そして何度か出逢ってるうちに、彼のところに病人があって生魚に不自由して困ってることを知り、時々生魚を届けてやることにした。牛の煮込み屋から遠くない所で、静かな裏通りの古い小さな家だった。彼は……北川さんは、おれのような小僧っ子を信用して、五十円ぐらいずつ先渡ししてくれた。その五十円も無い時があった。
「今日は金がないよ。二三日して来てくれ。」
それから二三日すると、ふしぎに金が出来ていた。もっとも、おれの方でも、北川さんところでは、口銭はいっさい取らないことにしていたし、煮込み屋の親爺と同じように、掛売りの気前も見せてやった。
或る時、北川さんはおれに尋ねた。
「君は、本を読むことがあるかね。」
「そりゃあ、僕だって、ありますよ。」
「いや、本を読むのが好きかと言うんだよ。」
「好きですよ。」
そんならこれを読んでみろと言って、少年雑誌をおれにくれた。北川さんはへんに嬉しそうだった。道理で、雑誌には北川さんの名前のついてる読物がのっていた。
おれには大して面白くもなかった。だが、その中のちょっとした話には、あとで思い当ることがあった。これは大事なことで、北川さんの文章をそっくり写すといいんだが、雑誌をなくしてしまった。
話というのは、どこか山の温泉のことで、若い娘が一人、坂道の上に立っていた。坂道といっても、そこら全体が山腹で、はるかの谷間まで草原の斜面なのだ。
──その遠い低いところ、草原のはてに、一つぽつりと、黒いものが見えた。何だろうかと、娘はそれを見つめた。黒い一点は、動いていた。だんだんこちらに近づいてくるらしい。たいへんな速さで、こちらへやってくるらしい。次第に大きくなった。馬だった。人が乗っていた。馬も人も黒く見えた。それが、たいへんな勢いで、たいへんな速さで、草原を駆け登ってきた。ますます近づいてくる。ますます大きくなる。下方の谷間を流るる川や、そのあたりの畑地や、杉の木立など、パノラマのような美しい背景のなかに、人馬が大きく浮きだして、それが草原をいっさんに駆け登ってくる。五百メートル、三百メートル……あ、もうすぐ目近に来た。怪物のように大きくなった。それがまっ黒で、機関車のように突進して来た。ぶっつかった……と思ったとたんに、娘は地面に倒れたが、馬はまるで影か霧のように、すーっと通りすぎていった。
こんな話、おれには何のことかよく分らなかった。お伽話でもないし、お化け話でもないし、いささかばからしくも思えた。北川さんもその当座、おれの批評など求めはしなかった。──それが、実は、病人の頭から醸し出されたものだったんだ。
北川さんはまだ独身で、家庭には、年とった母と若い妹がいた。病人というのは妹のことで、その姿をおれが見たのは事件が起ってからのことだ。
おれはただ生魚を時々持っていった。おれは魚屋じゃない。戦災で親たちが田舎へ引き込んだあと、一人東京に残って、まあ謂わば植木屋の手伝いみたいなことをしていた。忙しい仕事もめったにないし、あちこちに手蔓があるものだから、物品の仲立ちも少しはやった。大人でなくて小僧っ子なもんだから、却って便利がられた。けちな仕事だが、金は相当にもうかった。
ところで北川さん……はっきり言えば北川辰治は、ちょっと文学者めいたところのある人だが、それでいて少しも気むずかしくはなく、至極のんびりしていた。どうして中学校の先生なんかしているのか分らなかったが、外になにもすることがなかったからだろう。貧乏なのか金持ちなのか見当がつかなかった。十円札一枚もないこともあれば、新らしい百円札をたくさん持ってることもあった。
おれが識り合ったのは一月の半ばで、それからずっと寒い日が続いた。梅の花の咲くのが後れた。そして三月になった或る日のこと、へんなことが起った。春先のせいかな。
おれはいつものように、生魚を少し北川さんへ届けた。裏口からはいって、台所へ声をかけたが、返事がない。なんども呼んでいると、庭の方から北川さんがやって来た。作業服みたいな姿で、地下足袋をはいている。
「ああ、君か。よく来たね。」
おかしな挨拶だが、その訳はすぐに分った。北川さんは魚をしまってから言った。
「今、君は暇かい。」
「なんか用ですか。」
「よかったら、ちょっと手伝って貰いたいんだが……。」
梅の木を植える手伝いだった。物置小屋を廻ってゆくと、鍵の手になってる建物が、わりに広い庭をかかえている。庭師の手にかけた庭ではないが、百日紅や野薔薇や八手や檜葉や椿などが、広場の向うを限っている。その片端のところに、穴が掘りかけてあり、大きな梅の木が塀に立てかけてあった。背は低いが、手入れの届いたみごとな古木で、散り残った花がまだ少し残っており、根廻りを大きく取ってあって、北川さん一人ではとても扱えそうになかった。そこへ持ち込むにも、板塀を越させたんだろう。
「いい木ですねえ。どうしたんです。」
「貰い物なんだ。」
茶の間とおぼしい方の縁側に、まだ学生でもあろうかと見える青年が腰掛けていた。頭髪を長く伸ばし、ホームスパンの背広を着こんだ、顔の蒼白い好男子だった。
北川さんは鍬を探しに、おれまで物置小屋へ引っぱってゆき、声をひそめて手短かに話した。
「実は、弱ってるんだよ。」
──あの青年は、竹中貞夫といって、知らない間柄ではない。彼から頼まれたということで、一昨日、運搬屋が梅の木を持ちこんできた。そして昨日、彼自身やって来た。北川さんの妹の梅子に、梅の木を贈る約束をしたから、それを果すんだと言う。梅子に聞けば、そんな約束は覚えがないと言う。それでも竹中は約束したと言い張り、あの木を庭に植えるまでは帰らないと、腰を落着けてしまった。とうとう昨夜は泊りこんだ。今朝になると、早く梅の木を植えようと催促する。父や母も来ることになってるから、あの木がここに植えられたのを見たら、喜ぶだろうと言う。ほんとに両親とも来ることになってると言う。
「そんな筈はない。」と北川さんは言った。「少し気がへんじゃないかと思うよ。」
おれには話がよく分らなかった。もっと詳しい関係を聞いてみた。
──竹中のうちは資産家で、昔、北川さんの父がたいへん世話になったことがある。そこの、老夫人が体が弱く、人手も足りないので、暫くの間、梅子が手伝いに行っていた。小間使というところか。そして昨年の秋、夫人は梅子を連れて、伊豆の湯ヶ島にちょっと保養に出かけた。そこの族館の主人と懇意なのだ。すると、あとから貞夫がやって来た。貞夫は馬が好きで、近くに乗馬を一頭見つけだし、天城山麓を乗り廻した。或る日、その馬が狂奔した。低空を飛んでた飛行機に驚いたのか、走り去った数台のトラックに慴えたのか、道を横切った鼬に化かされたのか、とにかく、つっ走った。道の真中で貞夫を待ってた梅子は、貞夫が馬を駆けさせてるのだとばかり思った。目近になって、貞夫の様子に気がつき、慌てて避けようとして転んだ。手をすりむいただけですんだ。馬は飛び越して行った。だが、貞夫は落馬して、さらに崖から落ち、可なりの傷を負った。
そういうことで、おれは北川さんの書いた話を思い浮かべた。
──湯ヶ島から帰っても、貞夫は気分がすぐれず、時々病院に通っていた。そのうち、梅子が病気になって、自家へ戻ってきた。気管支肺炎から肋膜までわるくし、高熱を出した。だが幸に、もう殆んどなおりかけている。貞夫から何度か手紙が来たようだった。然し、二人の間に恋愛関係はないらしく、あっても大したものではあるまい。
「それだけのことだ。」と北川さんは話を打ち切った。
「それでまあ、梅の木は植えることにしたよ。樹木は大切にしてやらなければならんからね。」
「妹さんと仲がいいんですか。」とおれは聞いてみた。
「誰と……。」
「その竹中さんですよ。」
「あまり口数は利かず、静かに応対していた。そうして梅子と話してる時は、少しも変ったところは見えないがね。」
「ほんとにいくらかふれてるんですか。」
「それがどうも、確かには分らない。君もちょっと探ってみてくれよ。まだ若いが、君には、民衆の智慧があるだろう。つまり、健全な常識がある筈だ。」
おれは物置小屋の外におり、北川さんは小屋の中にひっこんで、話をしていた。そしておれはへんな気がした。北川さんも少しどうかしてるんじゃないかと思った。
「とにかく、仕事を片付けましょうよ。」
「そうだ、そうだ。」
北川さんは鍬を探しだして来た。おれたちは仕事にかかった。
庭の土は思ったより柔かで、たやすく穴が掘れた。それへ梅の木を据えこむ段になって、竹中さんも立ち上って来て、加勢をした。梅の木の向きについて、うるさくいろいろなことを言った。それが一々もっともなのが、素人にしては、ふしぎだ。植付けを終えると、梅の木はそこにみごとな枝ぶりを示した。太枝に花が少し残ってるのだけが、却ってぶざまだった。
木を眺めながら、縁側に腰かけて茶を飲んでいると、竹中さんはじっとおれの方を見つめた。いつまでも見つめている。そして言った。
「君は誰ですか。」
丁寧な口の利き方だ。おれがためらっていると、北川さんが答えた。
「僕の従弟ですよ。」
「従弟さんですか。初めてですね。」
おれの方で冷りとした。ジャンパーにゴム靴なんかの姿が顧みられた。だが、彼はもう北川さんと話しだした。
「あの枝は切った方がいいですね。」
「どれですか。」
「あの、こちらへ伸び出してるやつ……。」
「そう。ちと邪魔ですね。だが、若い枝のようだから、実はなるでしょうよ。」
そこで、梅はいったい花の方が大切か実の方が大切かという話になって、禅問答のようなことが続いた。
「僕はたくさん実のなる梅が好きですね。」と北川さんは言った。
「僕はたくさん花の咲くのが好きですね。」と竹中さんは言った。
それは議論じゃなくて、別々のことを勝手に言ってるような調子だった。どちらも、相手の言うことなんかまるで気にもとめず、独語をしてるみたいだ。側で聞いていると、おれはおかしかった。気がへんだとすれば、二人ともそうではないかと思われた。
そのうちに、お母さんが帰って来た。北川さんは物蔭でお母さんとなにか話し合った。そこで、おれは帰ってゆこうとしたが、北川さんから呼びとめられた。
「ちょっと、使いをしてくれないかね。」
北川さんは紙幣をおれに渡して、牛の煮込み屋から酒を一升ほど買ってきてくれと言った。ついでに、二百円ほど借りがあるから払ってくれと言った。
「母が金を拵えてきてくれたから、助かったよ。」
北川さんは嬉しそうに笑った。
「借りてきたんですか。」とおれは思わず言ってしまった。
北川さんはおれの顔をじっと見て、それから、さも重大な秘密でも洩らすように囁いた。──小さな貸家を一つ持っていたが、それを、親戚に頼んで、買って貰った。十万円になった。但し、借家人がはいっているので、それが立退いて空け渡しするまでは、月々三千円ずつ貰うことになっている……。
それで、北川さんの暮し向きのことがおれにも分ったが、ちょっと淋しかった。そんな売り食いの仕方は自慢になるもんじゃない。だが、北川さんは自慢そうな笑顔をしているんだ。
おれが眉根をしかめてみると、北川さんは何を勘違いしたか、おれの肩を一つ叩いて言った。
「とにかく、梅の木を持って来てくれたんだから、酒でも出さなくちゃなるまい。それに、両親が来るというから、そうなったら、ちと大変だ。米も足りないし、御馳走はなにもないし……ひとつ奔走してくれよ。」
言うことは道理だが、考えの根本がどうもおかしい。竹中さんにかぶれたのかも知れない。
「万事引き受けますよ。」
安心さしておいて、おれはまず、牛の煮込み屋の用だけは果してやった。だが、それだけで逃げるわけにもゆかない。なんだか気の毒だ。度が少し曲りかけてるお母さんを手伝って、台所の用をしてやった。
ささやかな酒宴がはじまった。竹中さんもいけるたちらしい。酒がまわるにつれて、妙な話題が出てきた。おれは台所の用をすまして、縁側に置いてある電熱器で、手製の煎餅をやきながら聞いていた。
──世の中は隙間だらけだというのだ。原子とか分子とかいうものにも、隙間がある。そういうもので出来てる物質も、隙間だらけだ。──天井にも床にも、壁にも、隙間がある。塀にも隙間がある。──人の注意にも、隙間がある。心にも隙間がある。──だから、そういう隙間をねらえば、どんなことだって出来る。大きな木だって持ち出せる。人間だって持ち出せる。
まあこんな風な、何もかもごっちゃにした話だが、中心はどうやら、あの梅の木にあるらしかった。あれは竹中さんの庭にでも植わってたもので、それをひそかに持ち出す興味と苦心とが、面白かったのだろう。──そんなことを問題にしてる竹中さんは、たしかに気が少しへんだ。話にのってる北川さんも、謂わば共犯者で、ちっとおかしい。
然しその話は、終りまで続かなかった。玄関に人が来て、お母さんは暫く話をし、それから、玄関と茶の間との間を往復して、その人を茶の間に通した。
竹中家のいろんな用をしてる番頭格の、山口という人だった。痩せた小柄な中年者で、禿げあがった額の下に、小さな眼が鋭く光っていた。一目見た時からおれはこの人が嫌いになった。山口さんなどとはどうしても言えない。山口と呼び捨てにするより外はない。
山口は一座に会釈をして、言った。
「これは、お邪魔を致します。わたくしはただ、貞夫さんだけにお目にかかれば宜しいので、外に用はございません。」
最初から角のある言い方だ。おれはどきりとした。だが不思議だった。当の竹中さんも、北川さんも、黙りこんだだけで、平気な顔をしている。
山口は竹中さんの方を向いて、ずばりと言った。
「あなたをお迎えにあがったんですが、お帰りなさいましょうね。」
「ああ帰るよ。」
おれにまで丁寧な竹中さんとしては、これはまた至極ぞんざいだ。山口は大きく頷いた。
「それで安心致しました。御両親もたいそう心配しておられますし、これから……。」
「あ、お父さんとお母さんは、いつみえるかね。」
山口は小さな眼をしばたたいた。
「こちらへ来られることになっていたが……。」
「とんでもないことを仰言います。わたくしが代理でお迎えにあがったんでございますよ。」
両親が来るというような竹中さんの言葉は、山口の憤慨を爆発させたらしい。彼は俄にまくし立てた。言い廻しは丁寧だが語調は荒かった。──昨日から貞夫が帰らないので、家の者は心配していた。貞夫はまだ充分に病気がなおってもいないし、物騒な時節柄だ。気をもんでいると、一昨日、庭の梅の古木を、植木屋が掘り返して、どこかへ運んだことが分った。それが貞夫の指図だ。植木屋をつきとめて、こちらだという見当がついた。それで、迎えに来た。いったい、どういう量見だったのか。梅の木の一本や、二本、惜しくはないが、なんで泥坊みたいな真似をするのか。誰かにそそのかされたのか。来てみると、しゃあしゃあと酒なんか飲んでいる。茶屋小屋ならまだしも、ここがどういう家か、よく考えてみたら分る筈だ。もと邸にいた娘の病気見舞いなら、見舞いのような方法もあろう。こちらだって迷惑だろう。近所に電話がないわけではあるまいし、泊まるなら泊まると、邸に電話でもするのが当り前なのを、いつまでも引き留めて酒のもてなしをするなど、以ての外だと、非難されても仕方がなく、そういう迷惑をこちらにかけては済むまい……。
山口は竹中さんに向ってだけ話したのだが、次第に、北川さんへのあてつけが多くなった。直接に北川さんへは口を利くまいと決心してるようだ。その全体が、特別な話し方で、真綿に針を包んでいる。
北川さんと竹中さんは、黙りこんだまま、知らん顔をして、煙草をふかし酒を飲んでいた。お母さんは奥の室の病人の方へ行った。おれはいらいらしてきた。煎餅をこがした。
庭にはもう夕陽が薄らぎかけていた。山口はそちらへ眼をやって、梅の木を見付けた。
「ほう、梅はやはりこちらへ来ているようですなあ。」
山口は無遠慮に立って来て、縁側の硝子戸を大きく開けて、庭を眺めた。
その時、これもやはり隙間なのか、竹中さんは北川さんに小声で言った。
「お邪魔しました。これで失礼します。」
お辞儀をするとすぐ、竹中さんは立ち上って、実にす早く、廊下へ出てしまった。山口が振り向きかけたとたんに、おれは言った。
「寒いなあ。」
大きく開けてある硝子戸を、力一杯にぶっつけてやった。真鍮のレールで滑りがよかった。その戸をまともに受けて、山口はよろけ、縁外に飛び落ちた。
「乱暴な……。」
山口はおれの方を見たが、おれはそっぽを向いていた。彼は何と思ったか、それきりで、額と腰をさすり、縁にはい上って、足袋底の泥を丁寧にこすり落した。それから席に戻って、室の中を見廻した。誰も口を利かなかった。
玄関の方に竹中さんとお母さんの声がした。山口は出て行った。竹中さんはもう帰りかけていた。
二人を送り出して、お母さんは茶の間に来た。
「おかしな人ですよ。つかつかとはいって来て、梅子の枕もとに坐って、早くおなおりなさい、きっとなおります、そう言って、両手をついてお辞儀をしました。可哀そうに、梅子が、ほろりと涙をこぼしたときには、もう室から出て行きかけていました。どういうんでしょうねえ。」
お母さんは立ったまま話したが、それきりで、病人の方へ行った。
北川さんは黙りこんで酒を飲んだ。そしておれにもすすめたので、遠慮なくおれも飲んでやった。
北川さんがへんに考えこんでるので、おれは気を利かせて、やがて出て行った。北川さんとなにか話したいことがあるようだったが、それも諦めて、忘れた。
それでも、やはり気になって、翌朝、行ってみた。
台所で、お母さんが食事の仕度をしていた。おれは梅の木を見に行った。朝日がいっぱいさしてるあちらの縁側の、硝子戸の中に、北川さんと妹さんが何か話していた。
おれは梅の木を見上げた。いろいろな思いが絡んでるので、身内のような気がした。
北川さんが硝子戸をあけて、おれを呼んだ。
「よく来たね。」
昨日と同じ挨拶だ。はればれとした顔をしていた。
だが、それよりも、おれはびっくりした。梅子さんがとても美しかった。近くで見たのは、いや、ほんとに逢ったのは、初めてだ。梅子さんは日向にひきずりだした布団の上に、脇息にもたれて坐っていた。髪はおさげにして編んでいる。縕袍にくるまった体はひどく細そりしている。ほんの少女という恰好だ。でも顔は一人前の女で、朝日の光りを受けてるせいか、肌が透き通ってるように見える。眼が黒々として底が分らない。下頬にぽつりと肉のふくらみがあって、小さな受け口だ。その全体がおれにはびっくりするほど美しく思われた。兄さんには殆んど似ていない。しいて探せば、額と耳が似てるぐらいだろう。
おれがびっくりして梅子さんを見ていると、北川さんは言った。
「梅子は、君を医者よりも頼りにしてるよ。薬より魚の方が好きだからね。」
おれは顔が赤くなるのを感じた。
「ほんとに、いつも有難いと思っていますの。」
そう言って、梅子さんは黒々とした眼でじっとおれを見た。おれはへんに口が利けないで、眼を伏せた。
「その代り、お前の、童話を読ませてやったよ。」と北川さんは言った。「そら、お前が考えて、僕が書いたやつさ。」
梅子さんはただ笑っていた。
おれはそこにばかのように突っ立ってるのがつらくなって、お辞儀をして去ろうとした。すると、北川さんから呼びとめられた。
「実は、君にまた頼みたいことがあるんだがね。」
「ええ、なんでもしますよ。」
「おかしなことだが、あの梅の木なんだ。」
北川さんは暫く口を噤んだ。
「あれを君にあげるから、いいように始末してくれないかね。薪なんかにしてしまうのは可哀そうだから、どこかに植えて、やはり生かしといて貰いたいんだ。とにかく、あれをまた掘り起して、ほかへ移すんだ。費用は出すから、頼むよ。」
「あすこに置いといては、いけないんですか。」
「折角のものだから、貰い受けるつもりだったが、あんなことがあっては……。あの嫌な奴さ、あんな奴に汚されては、僕はもう嫌になった。話をすると、梅子も嫌だと言う。どこか遠くへ持って行ってくれよ。」
おれは首垂れてしまった。初めは意外だったが、その意外が意外でなくなり、北川さんや梅子さんの気持ちが、おれの中にもはっきり伝わってきた。
「分りました。」
おれはそれだけ言って、くるりと向きを変え、梅の木を眺める風をした。そして眼を手の甲でこすった。涙が出てきてこらえきれなかった。
なんで悲しいのか、おれにもよく分らなかったが、胸がつまって涙が出るんだ。梅子さんがあまり美しかったからだろうか。春先の感傷のせいだろうか。
おれはそこらを歩きまわって涙をごまかした。それから、梅の木はおれが貰ってやろうときめた。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4)」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「苦楽」
1947(昭和22)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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