高尾ざんげ
──近代説話──
豊島与志雄



 終戦後、その秋から翌年へかけて、檜山啓三は荒れている、というのが知人間の定評でありました。彼が関係してる私立大学では、十月から授業を開始しましたが、彼は一回も講義をしませんでした。家庭では、習慣的に書斎に籠ることが多かったようですが、家人の言うところに依りますと、殆んど読書はせず、漫然と画集を眺めたり、座布団を二つに折って枕とし、朝からうとうと眠ったりして、そしてやたらに煙草ばかりふかしてるそうでした。来客に対しては、すべて無口で不愛想でした。もっとも、それらのことだけでは別に問題ではありませんが、彼はひどく酒に耽溺して、その先が荒れるのでした。日本酒やビールに酔ってくると、あとはウイスキーをあおりました。彼がいつも飲みに行く新橋花柳地区の杉茂登には、二箱ばかりのサントリーが預けてあるとの噂もありましたが、真偽のほどは分りかねます。酔っぱらってからの彼は、ひどく怒りっぽくて、友人たちに対しても女たちに対しても、些細なことで突っかかっていきました。それも、相手に向ってではなく、自分自身に向って腹を立ててるような調子でした。或る時、突然席を立って帰りかけ二階から階段を逆様に匐い降りたことがありました。滑らかに拭きこまれてる階段を、手先と肱で逆様に匐い降りてゆき、終りまでは持ちこたえず、横倒しに転げ落ちました。また、冬には珍らしい大雨のあと、街路の一部に水溜りが出来ていました時、彼はわざわざそこに踏みこんで、最も深いところを選み、膝まで水に浸って、ざぶざぶ渡って行きました。この種の話は他にいくらもあります。消費した金も相当なもので、彼は戦争中に軍報道部の秘密な仕事に関係していて、終戦時に可なりの金額を手に入れたとの噂もありましたが、これも真偽は明らかでありません。

 そういう檜山でしたが、然し、最後に踏み止まる一線をまだ持っているようでした。いくら酔っても、そのままつぶれてしまうことはなく、杉茂登に泊りこむことはなく、遅くなっても必ず自宅に帰ってゆきました。もっとも、これは菊千代の微妙な心遣いによることも多かったようでした。

 飲み疲れても檜山はまだ立ち上ろうとせず、一人ぽつねんと、脇息にもたれ、両腕を組んで、憂鬱そうな溜息をつくことがありました。菊千代はかいがいしく卓上の小皿物などを取り片付け、きれいにウイスキーの瓶だけにして、足附きグラスを檜山の前に差し出しました。

「さあ、おしまいにもう一杯、元気をつけていらっしゃいよ。それとも、ハイボールにしてきましょうか。」

 眼鏡の下にうすら閉じかけてる眼を、檜山はびっくりしたように見開いて、菊千代を眺めました。

「君、まだいたのかい。」

「だって、僕が帰るまで帰っちゃいけないって、恐ろしい見幕だったわ。いつもそうなのよ。」

「そうなんだ。だから… 感心してるよ。」

「感心はいいけれど……。」

「ちっと、迷惑なんだろう。」

「いいえ。ただね、檜山さん少し心細いわ。」

 菊千代が深々と見入ってくるのを、檜山は避けて、ウイスキーを一息に飲み干しました。そして真摯な眼色になりました。

「君の言うことは分るよ。だが、まあ当分は大丈夫だろう。」

「足がかりが出来てきたの。」

「出来やしないさ。だが、そう易々と滑り出しもしないよ。」

「危いもんね。」

「いよいよの時は、君を足がかりにするからね。」

 菊千代は頭を振りました。

「それは、無理よ。」

「いや、そんな意味じゃない。ただ足がかりだけだ。」

 菊千代はじっと檜山を見て、顔を伏せました。

「あたしも、そんなら、いよいよの時には、檜山さんを足がかりにしようかしら。」

「よかろう。約束しよう。」

 そして、二人は握手をしましたが、菊千代は寒そうに肩をすくめ、檜山はまた溜息をつきました。

 足がかりの話が、いつしか、二人の心の繋がりともなっていました。──檜山は荒れてるという友人間の説が、菊千代にはどうもぴったりこず、檜山さんはただ足をしっかり踏みしめることが出来ないでいるのだ、と感じました。菊千代自身、いくらかそういう状態でした。そして彼女は、むかし、朋輩に誘われて、山王下のスケート場に遊びに行った頃のことを思い出しました。おずおずと、手摺につかまったり、友の手につかまったりして、氷の上を歩いているうちは、まだよかったのですが、独り立ちで滑りはじめる段になると、全然見当がつかなくなりました。足だけが軽く、上体がいやに重く、前後左右いずれへか引っくり返って気絶をするか、或は急速に真鍮の手摺りまで持ってゆかれて大怪我をするか、とにかく無事にはすみそうにありませんでした。リンクの中を燕のように飛んだり舞ったりしてる人々の弧線の中に、彼女は呆然として、両手をついてしまいました。その最初の、危い足で突っ立ってた時の状態、それを彼女は檜山さんにあてはめてみたのでした。酔ったはずみに、二人きりの時、そのことを話してみましたら、檜山さんは急に真顔になって、考えこんでしまいました。普通なら、生意気言うなと怒られるか、豪いことを言うぞと笑われるか、どうせ碌なことにはならないのに、聊か調子違いの結果になってしまったと、菊千代はあとで思いました。

 戦争がすんで花柳界が復活してから、熱海の移転先から戻って来て、我儘なお座敷勤めをしている菊千代から見れば、客筋はたいてい、口先ではいろんなことを言いながらも、戦争のことなどはけろりと忘れてしまってる、心身ともに肥え太った人たちのようでした。彼女が五年間世話になっていた梶さんの、一番親しい仲間の一人だった永井さんまでが、やはりそのようでした。いくら酒席の冗談にしても、あまりにひどすぎることを、彼は平気で言ってのけました。

「ねえ、菊ちゃん、君はまだあいてるんだろう。空家払底の当節だから、用心しなけりゃいかんよ。うっかり人をもぐりこませたら、もう決して立ち退かないからな。」

 それが、大勢の人中でのことでした。菊千代は捨鉢につっかかってゆきました。

「ええどうせあたしは空家ですよ。月ぎめの人でも、年ぎめの人でも、先口に貸してあげるわ。」

 なにか口惜しさがこみあげてきて、たて続けに酒を飲んでやりました。──菊ちゃんなどと、昔通りの呼び方をして貰いたくなかったのです。空家などという露骨なたとえも、浮気封じの底意かと善意に解釈しても、永井さんの口から出るべきものではなかったでしょう。

 梶秀吉がなにか特別の用務を帯びて南方へ渡る途中、台湾沖で乗船を沈められて亡くなったことを、正式に菊千代のもとへ知らせてくれたのも、永井さんでしたし、未亡人恒子さんの旧怨をすてた意向を受けて、告別式に出られるようそれとなく計らってくれたというのも、永井さんでした。菊千代は梅葉姐さんと一緒に、人中に隠れるようにして霊前に焼香しましたが、そのすぐあと、立ち並んでる遺族のなかの未亡人とおぼしいあたりへ、足をとめて頭を下げた時、自分でも思いがけなく涙をほろりとこぼして、それから暫くは顔が挙げられませんでした。

 梶さんは出発に際して、生命の危険を覚悟していたようでした。菊千代にも当分の生活に困らないだけのことをしておいてくれました。だが、南方行きの事情については、梶さんはあまり語らず、菊千代もあまり尋ねませんでした。二人の仲は、互に愛し合ったというのではなく、旦那と芸者との最も普通な水準だったでありましょうか。

 それでも、菊千代の心に深く残ってることがありました。梶さんの出発間際に、公開の舞踊の会がありまして、菊千代は『高尾ざんげ』を出しました。戦争は次第に苛烈さを増して、踊りの会などもそれが最後かと思われました。梶さんは忙しい時間をさいて、永井さんと一緒に来てくれました。

 菊千代は心をこめて高尾の霊を踊りました。塚の出から廓の物語など、自分でも気持ちよいほどみごとに運びましたが、どうしたことか、終りになってつまずきました。照明が変って夜明けの色が漂うあたりで、彼女の心は唄の文句から離れてゆき、稲妻の光りが交叉し、世の人の煩悩につきまとわれるあたりになると、もう彼女は高尾の霊になりきれず、なにか夢を追い求める一抹の気が、責め呵まれる形を崩してしまいました。そして最後に、塚の中へひっこむことが一瞬ためらわれる、そこのところを、別な気持ちから漸く調子を合せました。

 楽屋で、お師匠さんは鋭い眼付きで菊千代をじっと眺めましたが、何にも言いはしませんでした。菊千代も、てれたように黙っていました。自分のうちに何かを見出したような心地でした。あすこのところまで高尾の霊になりきるには、すべてを捨て去らねばならなかったでしょう。それが出来なかったのは、やはり、梶さんに対する情愛のせいだったのでしょうか。それよりも寧ろ、梶さんの平安を祈る人間らしい意気、そういう風なものだったのでしょう。

 それらのことすべて、敗戦によって押し潰されてしまいました。菊千代は空家になったばかりでなく、肥え太った人々の間でそれが公言されました。彼女は反撥して酒を飲みました。檜山啓三とはよい飲み相手でした。


 気儘な勤めとはいえ、菊千代はさすがに、永井さんから呼ばれると、故人梶秀吉との義理合いもあって、顔を出さないわけにはゆきませんでした。永井さんははじめ、会社関係の人たちと一緒に来ましたが、次第に、一人で来ることが多くなり、菊千代の身辺のことについて、話の合間にそれとなく、根ほり葉ほり探りを入れました。そうなってくると、菊千代がどうしても胸に納めかねてる空家一件のことも、他を封じて自分に靡かせようとする下心が無意識にせよあったのが、自然と浮き出してきました。

 だが、永井さんの調子は、いつも、本気とも冗談ともつかず、掴みどころがないのを、更に高笑いで覆い隠されるのでした。その上、未亡人梶恒子さんの噂も、時折持ち出されました。

 或る寒い夜、永井さんはへんに真面目に言い出しました。──来年は梶さんの五周忌で、盛大な法事が行われる予定になっていること、その席へは未亡人の希望で菊千代にも出て貰いたいこと、どうやら未亡人は菊千代が好きになってるらしいこと……。

 菊千代は細長い眼を見張りました。

「だって、あたし、まだ奥さんにはお目にかかったことがありませんのよ。」

「ところが、奥さんの方ではあるのさ。葬式の時に一度……それから、梶君が南方へ出発する前、踊りの会で、君が何か……踊ったことがある。あの時に奥さんも見に来ていたよ。それから、まだある筈だ。」

「あら、あの踊りの会に……。」

「そうだ、気がつかなかったろう。」

 そして永井さんは声高く笑いました。

 その笑い声に、菊千代はぞっと総毛立つ思いをしました。──あの舞踊の会に奥さんが来ていた筈はありませんでした。菊千代は公然と座席の方へ梶さんに挨拶に行き、暫く話しこんだことなど、いまだに覚えていました。梶さんとしても、あすこへ奥さんを連れてくるような人ではありませんでしたし、奥さんだってまさか、梶さんに内緒でやって来るような人ではなかったでしょう。それを……そんな分りきった嘘を、なぜ永井さんは言うのでしょうか。

 菊千代は永井さんの顔を見つめました。

 永井さんは杯を取りあげて微笑していました。

「まあ万事、僕に任せておけよ。梶未亡人とも対等に交際出来るようにしてあげよう。実は、未亡人の方では、君と梶君とのことをはっきり知ってはいないんだよ。」

 菊千代は頬の筋肉が震えてくるのを押えつけて、無理に微笑みました。

「お願いがあるんですけど……。」

 永井さんは顔をつき出しました。

「清香さんをかけて下さらない。お義理を返したいのよ。」

 きょとんとしてる永井さんをそのまま、返事も待たないで、菊千代は自分で立っていきました。お上さんに清香のことを頼んで、俥も待たないで外へ出ました。もうこれから永井さんのお座敷なんかへ、出るものか出るものかと、口の中で呟きながら、杉茂登へと急ぎました。街路にはほんのりと白く雪がありました。それを蹴散らして行くのが痛快に思われました。

 杉茂登で、檜山さん一人と聞くと、菊千代は階段を駆け上ってゆきました。

 息を切らして、挨拶もせず、卓上に両前腕をついて、眼をつぶりました。

 僅かな埋め火の炬燵に足を差し入れたまま檜山は黙っていました。菊千代が細そり眼を開くと、檜山は眉根に皺を寄せて、思いを遠くへやってるようでした。菊千代は大きく眼を開いて、吐息をつきました。

「遅くなって、御免なさい。でも、ほんとに、雪を蹴立てて駆けつけてきたのよ。」

「まだ降ってるの。」

「降った方がいいわね。雪見酒、今夜はあたしにも飲まして頂戴。」

 日本酒とウイスキーとのちゃんぽんには、体が温まるのか冷えるのか分りませんでした。銚子を持って来た女中に、菊千代はウイスキーの瓶をさげさせようとしました。檜山はそれを遮りました。

「身体には毒でも、精神には薬さ……飲んでしまうことがね。」

 終戦間際に、も少しのところで、檜山は北京へ行くことになっていました。東京在住の或る有力な回教徒に連絡がついており、それと同行して北京へ行き、蒙古から北支へかけての回数徒等に、特殊な働きかけをなす予定だったのです。上層部の講和運動、本土決戦の一般宣言など、後に明らかになった支離滅裂な動きのなかの小さな一つに、その回教徒工作がありました。回教徒の解放独立という純真な主旨だけ抽出して、それに尽力しようとした檜山は、終戦後次第に暴露されてゆく当時の日本の現実にすっかり圧倒されてしまいました。その上、北京行きの手当の金の一部を、既に彼は受け取っていまして、それは返還の仕方がない事情にありました。なお、多量のウイスキーまで分与されていました。それらのものを、彼は杉茂登で消費にかかったのでした。──そういうことを、檜山はしみじみと語りました。

「君によく分るまいけれど、男の世界というものは、浅間しいものさ。」

「そうでもないわ。檜山さんのお気持ち、立派だったと思うわ。」

「どこが立派だい。ばかばかしい。金はもう殆んど使ってしまったが、酒はまだ残ってるらしい。使いはたし、飲みつくして……。」

「それから、どうなさるの。」

「それが、危いものさ。」

 気弱に言いながら、檜山は眼鏡の奥からへんに眼をぎらぎら光らして、菊千代を見つめました。毒気……とも言えるものを菊千代は感じて、ちょっと身を退きかけましたが、瞬間、別な力に引き戻される心地で、それを、ウイスキーの瓶に踏み止めました。

「そんなら、飲んでおしまいなさいよ。あたしもすけてあげるわ。」

「飲めなかったら、打ち割るまでさ。」

 床の間に、花は活けずにただ青銅の花瓶が置いてありました。それをめがけて、檜山は酒瓶を振りあげました。とたんに、菊千代は両袖でその手首を抱きかかえました。

「ばかだね、身振りだけしてみたんだよ。」

「あたしも、お芝居をしてみたのよ。」

 なにか面はゆく、菊千代は立って硝子戸を開けました。月はないのに仄明るく、いつしか雪が降りだしていました。

「また降ってきたね。」

 返事がないので、振り向いてみますと、檜山は涙ぐんで眼をしばたたいていました。菊千代は驚いて、席に戻りましたが、言葉が出ませんでした。大きな感動に似たもので、頭がふらふらしました。

「僕は、どうも駄目らしい」

 ぽつりと言われたのへ、菊千代は押っ被せました。

「檜山さん、眼をつぶって二階から飛び降りる……そんなこと、考えなすったことがあって……。」

 檜山はうるんだ眼で、菊千代を眺めました。

「あたし、ほんとに酔っ払うわ。どうなっても知らないわよ。」

 菊千代は立ち上って、あわただしく階下へおりてゆき、帳場にいるお上さんのそばに、ぴたりと坐りました。

「お上さん、お願いよ。今晩、お頼みするわ。検番ぬきに、あたしもお客さんなみにね。」

 お上さんはゆっくり頷きながら、小首をかしげて、菊千代の様子をじっと眺めました。

「それから、お銚子をどうぞ。」

 事務的な調子で言い捨てて、菊千代は二階へ足早にのぼってゆきました。


 檜山と菊千代との仲は、急に深くなってゆきました。スケート・リンクの真中に足がかりが出来たようなものでしたが、それも、あちこちへ滑りだす危険が無くなったというだけのことで、踏んまえた場所がずるずると深く沈んでゆく感じでした。

 檜山の親友の山田さんの話では、檜山は少しずつ勉強を始めたようでしたが、まだ全く本気にはなれないでいるとのことでした。菊千代の方では、他のお座敷に出ることがひどくばかばかしくなってきました。それに丁度、預金の支払制限と封鎖、流通紙幣の新旧切替えとなり、杉茂登にも二人名義の不義理が重なってゆきました。檜山は多少の株券を売却し、大切な蔵書にも手をつけかけてる様子でしたが、外泊が度重なるにつれて、妻子のある家庭では紛議がもちあがりかけてるようでした。菊千代の方でも、梶さんの一種の戦死のあとのことゝて、さすがに朋輩間の蔭口も聞き捨てにならぬものがありました。新小松の菊千代といえば、相当に意気と張りとで立ったもう姐さん株でありましたが、その沽券も崩れかけてきたようなひがみ心が、彼女自身のうちに芽を出しかけてきました。そこへまた、熱海で堅気になってる梅葉姐さんから、熱海へ戻って来ないかと熱心な勧誘がありました。──東京の焼け残りの狭い家に、幾人ものひとたちと同居してるよりは、熱海の静かな家に住んだ方がよかろうということ、どうせ花柳界はまた閉鎖になる運命にあるらしいこと、熱海には今のところ、長唄と踊りの適当な師匠がないので、菊千代が来てくれれば、皆が喜ぶだろうし、長唄を教え踊りの手ほどきなどして、充分に生活も出来るだろうということ……。梅葉姐さんは東京まで出て来て菊千代に説きました。

「あの、先生とのことも聞きましたよ。だけど、末長く続くものでもありますまい。それとも、別れられないというのなら、熱海にいても、逢えるではありませんか。芸者稼業なんかより、遊芸の師匠の方がりっぱでよくはありませんか。田舎のお母さんや兄さんたちも、その方を喜んで下さるに違いありませんよ。」

 菊千代は長い間うつむいていましたが、やがてきっぱりと眼を挙げて答えました。

「よく分ったわ。もうちょっと、考えさしてね。」

 然し、考えることなどありませんでした。ただ気持ちの問題だけでした。眼をつぶって二階から飛びおりたようなあの気持ち、それをどうすればよいのでしょう。また、檜山さんは或る時、船を焼くという話をしたことがありました。昔のこと、遠い国のこと、知らない土地を占領に出かけた勇敢な人々は、海を渡って来た自分の船をそこで焼き捨てて、帰りの退路を自分で絶ち切ってしまったとか。それと同じ気持ちだと檜山さんは言いました。その檜山さんの気持ちをどうすればよいのでしょう。

 菊千代はその頃、俥が嫌いになって、はでなお座敷着でないのを幸に、考えながら歩いて杉茂登へ行きました。堀割の水に灯がちらほら映っているのを、我知らず足を止めて眺め入ることもありました。すぐ向うは焼け跡で、五月の青草の匂いが風に乗ってきました。戦争はもう遠い過去に追いやられていましたが、しかし、あとには、ただむなしい空虚が残っていました。

 ひしと胸にせまる悲しさを懐いて、菊千代は何の喜びもなく杉茂登のいつもの室にはいってゆきました。

 檜山はへんに酔っぱらって寝そべっていました。

「やはり、歩いて来たの。」

「ええ。」

 にっこり笑おうとしたのが、頬にこびりついてしまって、菊千代は項垂れました。

「ちょっと、そのまま立っておいでよ。」

 腑に落ちないで佇んでる菊千代の足先を、いきなり、檜山は両腕に抱きかかえて胸に頬に押しあてました。

「あら、そんなこと……。」

 折り重なって倒れたのを、檜山はたすけ起して、自分もきちっと端坐しました。

「君の足に感謝したんだよ。僕はどうしても、君と別れられそうもない。」

「そんなら……。」

 言いかけて菊千代はやめました。やはり、檜山も別れることを考え悩んでいたのでしょう。けれどその時、檜山は眼を異様に光らして、別な意味にとりました。

「ねえ、死ぬ気かい。」

 菊千代は頭を振りました。

「こんどは、生きるのよ。」

「こんど……。」

「二階から飛びおりたり、船を焼きすてたりして、もう死んだのよ。だから、こんどは……。」

「それもよかろう。」

 から元気か本当の元気か、そのけじめもつかない気持ちで、二人は酒を飲みはじめました。話もとぎれて、気がめいりそうなので、菊千代は小唄を口ずさんで微笑しましたが、ふと、清香さんを呼んでみる気になりました。

 清香が来るのを待つ間に、菊千代は檜山に劣らず酒をあおり、酒の勢いで梅葉姐さんからの話をしてみました。

「誰がそんなことを考えたんだい。」

「だから、梅葉姐さんよ。」

 檜山は両手で頭をかかえて、卓上に眼を据えました。まるで殴られでもしたかのようでした。

「だけど、そんなことになったら、なんだか違うわね。」

「なにが……。」

「今と違うわ。」

「そりゃあ、違うけれど……。」

「その方がいいの。」

「よくはないよ。だけど、ためしに、半月ばかりやってみるか。」

「ためしに半月ばかり……。」

「いや、一週間でよかろう。僕もついていくよ。」

「ほんとに行きましょうか。」

 然しそれが、温泉へ遊びに行くのか、生活を立て直しに行くのか、まだはっきりしないうちに、菊千代は突然、胸がつまって涙を落しました。

「え、どうしたの。」

 檜山は菊千代の手を執りました。菊千代はその手を握り返してにっこり笑いました。

「もっと飲みましょうよ。」

 そして、清香が来た時には、菊千代はもうすっかり酔っていました。

「あたし酔ってるのよ。あんたも酔いなさい。」

 清香は善良な笑みを浮べました。

「たいそうな元気ね。」

「そうよ。酔ってもね、気は確かよ。」

 菊千代はふらふらと立ち上りました。

「心は確かよ。」

 そのまま出て行って、暫くすると、三味線をかかえた女中を連れて戻ってきました。

「あんた弾いてよ。あたし踊るから。」

 爪弾きで、『高尾ざんげ』を清香は弾きだしました。

「はや持来ぬと……あすこからでいいわ。」

 枕屏風を塚に見立てて、菊千代は高尾の霊になりました。するりとはいりこむことが出来たのを、自分でも感じて、振りが自在に運びました。細長い眼が心持ちつり上り、頬の肉が痛そうなまでに引き緊り、上体も足もすらりと伸びて弾性をもって撓みました……。そして踊りぬいて、中途で息を切らし、そこに屈みこんでしまいました。

「もういいわ。」大きく息をつきました「分ったわ。生き身を捨てた気持ち、分ったわ。」

 いつまでも凝視し続けてる檜山の前に来て、菊千代は淋しそうに微笑みました。

「熱海のこと、大丈夫よ。ね、分って下さる。分ったら、もっと飲まして。」

 清香は怪訝な面持ちで、二人に酌をしてやりました。


 それから一ヶ月ほど後、菊千代は正式に芸妓の廃業をして、熱海へ引き移りました。家は梅葉姐さんの持ち物で、こじんまりした洒落た構えでした。万事のこと梅葉姐さんが世話してくれて、小女を一人使い、長唄と踊りの手ほどきに出稽古をすることになりました。


 それからまた一ヶ月ほどたった頃、ちょっと、檜山がやって来ました。互にまじまじと顔と顔を見合ったほど、なんだか二人とも変っていました。菊千代はいくらか肥って健康そうになり、そのくせどこか老いこんだ様子に見えました。檜山は少し痩せて、その代り精力的な様子に見えました。

 檜山は旅館へ案内されるものと思っていましたが、菊千代の住居の方へ連れてゆかれました。

「あたしの旦那ってことになってるのよ。宿屋なんかに行くより、その方が、人目にもつかないし、あたしの貫祿……おかしいわね、梅葉姐さんそう言ったわ……貫祿のためにいいんですって。」

 梅葉姐さんの配慮が、幾重にも菊千代を包みこんでいるようでした。

 然し、その菊千代の住居の座敷、各種の箪笥や鏡や人形やこまごました什器類が数えきれないほど沢山、しかもそれぞれ処を得て、置き並べてある中に、檜山は招じこまれて、なんだか自分だけが余計なもののように感ぜられました。家具什器に対してばかりでなく、菊千代の生活にとっても、自分だけが余計なもののように感じられました。

 その思いが、いろいろな話の間にも消えないで、檜山は突然言いました。

「君の生活がりっぱにうち立てられたせいか、ここにいると、僕はなんだか余計者だって気がするよ。」

 菊千代はちょっと淋しそうな顔をしました。

「あたしの方こそそうなの。せめて、お便りだけでも自由に出来るといいわ。山田さんを通してでは、なんだか頼りないし、遠慮もあるし……。」

 言いさして、菊千代は意外にもにっこり笑いました。

「でも、それでいいの。あんまり自由だと却って長続きがしないんですって。」

「梅葉さんが言ったのかい。」

 菊千代は笑って、戸棚からウイスキーの瓶を取り出しました。

「感心でしょう。口も開けないであるのよ。」

 二三杯のんで、そして二人で海辺へ散歩に出ました。残照がまだ明るく海の上に映えて、初島がたいへん近く見え、その先は茫漠と暮れかけていました。

底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4)」未来社

   1965(昭和40)年625日第1刷発行

初出:「新生」

   1946(昭和21)年11

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:門田裕志、小林繁雄

2006年427日作成

青空文庫作成ファイル:

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