乾杯
──近代説話──
豊島与志雄



 終戦の年の暮、父の正吉が肺炎であっけなく他界した後、山川正太郎は、私生活のなかに閉じこもりました。訪客は避けず、公式な会合には顔を出さず、という態度です。時に、識り合いの文学者や科学者を訪れたり、焼け跡を彷徨したり、読書に夜を更かしたり、また常に、酒を飲みました。そして父の死後五十日目、突然、自宅でささやかな宴を催しました。

 山の幸、野の幸、海の幸と言えば大袈裟ですが、街頭に栄えた闇市場で普通に手に入る材料の、普通の料理でありました。客は、各層の少壮中堅どころ、と言えばこれも大袈裟で、実は主として山川正太郎の旧知の筋合のもの、某省の局長や某政党の総務が主な公職者で、だいたい普通の中流人でありました。──ただ茲に注意しなければならないのは、彼の比較的新らしい親友、実業家の野島や科学者の曽田や文学者の中田がはいっていないことと、料理よりもむしろ酒類が豊富なことでした。

 三時頃から初まった宴席は、日が暮れると間もなく終りました。他奇ない飲食と雑談でしたが、ただ主人公の山川正太郎だけは、多く語らずに多く飲みました。

 既に、客たちは辞し去り、座席の卓上は取り片付けられ、電灯の光りだけがまじまじと室内を眺めていました。そこにはまだ、ウイスキーの瓶やビールの瓶が数本、中身を一杯たたえて残っていました。つまみ物はチーズにピーナツというところでした。それから、ベランダの小卓に、山川正太郎が片肱をついて、掌に額をもたせていました。その前には、ゲテ物ですが、柿酒と称するもの、麦製の強度な蒸溜酒に乾柿の甘味を配した液体が、把手のついた瓶に重くとろりと静まっていました。

「あちらで、おやすみになりましては……。」

 そういう言葉を、山川正太郎は二度聞きました。けれど、返事もしなければ、身動きもしませんでした。三度めに──

「もうずいぶん、召し上ったようですから……。」

 山川正太郎は顔をあげて、室内の方を見やりました。

 ──そうだ、ずいぶん飲んだ。そして、ずいぶん酔ったようだ。

 だけど、醒めながら酔い、酔いながら醒める、そうした心地は、しんしんと深いものがありました。その深さの故に、いろいろなものがはっきり見えてきました。

 とりわけ、彼が見ていましたのは、もう其処にいない客たちの、それぞれの足跡でした。宴席で、皆が飲み食い饒舌っているうちは、ただ一つの雰囲気を拵えるものですが、やがて、一人去り二人去り、一同が去ってしまうと、そのあとの妙に佗びしい空間に、暫くは、各人の何かが刻まれて残っています。それは面影というほどはっきりしたものではなく、まあ存在の足跡とも言えましょうか。つまり、そこに居たことによってそこに足跡が残る、というわけでありましょう。

 十人余りの客の、そういう足跡を、山川正太郎はじっとうち眺めていました。その観照には、痛いような快さがありました。それは酒の酔いにも似ていました。

 けれども今、肉眼で眺めると、それらのものは消え失せて、ただ一人、加納春子がそこに佇んでいるきりでした。

 彼女は気懸りそうに、山川正太郎の様子を窺っていました。──楕円形の顔、鶏卵を逆さにして少し引き延したのと、そっくりな顔で、頣の尖りにふさわしく口がつぼみ、そして額がふっくらとしていますが、何かに注意をこらす時、両の眉が少しく寄りあうのでした。

 その眉を見て取って、山川正太郎は言いました。

「まあちょっと、ここへお掛けなさい。話がありますから。」

 加納春子は笑みもせず、またわるびれもせず、彼と小卓をはさんで、籐椅子のクッションに腰を下しました。そして彼の顔を見ながら、両の眉がまた少しく寄りあいました。と同時に、ぽっと頬に赤みがさしました。この頬の赤みは、いつも、何かの決意のしるしでした。

 山川正太郎はそれをも見て取りました。

「一杯のみませんか。」

 差し出されたグラスへ、彼女は軽く頭を振りました。

「いいえ、あたくしは……。」

 山川正太郎は一人でぐっと飲みほして、彼女の顔を改めて眺めました。

 近々に見ますと、その額の、時々寄りあう眉の右上に、厚化粧では隠れそうに思われるほどの淡さで、拇指の先ほどの大きさの痣がありました。

 ──ああ、この痣だ。

 まったく、それが機縁でありました。

 だが、どうしてそうなったのか、明瞭でありません。重大な行動の動機が不分明に終ることは、案外に多いものです。山川正太郎自身、あの時のことを追想しても、すべてがぼんやりしていて、ただ、痣の一事だけが中心にはっきりしています。

 彼は酔っていました。友人の旅先での訃報を受けていました。つまらぬことで女中を怒鳴りつけました。ちょっと父と議論しました。いくらか感傷的になっていました。その他、それらのすべてのことも、別に取り挙げるほどのものでないのは、勿論でありましょう。

 そしてその晩、彼は書斎で、東京都の地図を拡げて、町名を辿りながら、空襲による罹災地域を見調べていました。傍から彼女も地図を覗きこんでいました。彼はふと眼を挙げました。眼前に、彼女の横額の淡い痣がありました。電灯の光を直正面に受けて、妖気を湛えてるようでした。

 彼は椅子から立ち上りました。彼女は顔を挙げました。その黒い瞳が、痣の下から彼に縋りついてきました。彼は彼女の肩に手をかけ、抱きすくめて、自分でも思いがけなく、彼女の痣の上に唇を押しつけました。

「あ。」

 声ではなく、全身でそう言うけはいで、彼女は両手で彼を押しのけようとしかけましたが、そのまま両手を顔にあて、泣くような身ごなしで彼にもたれかかってきました。その彼女の全身の、まるで骨のないようなしなやかな柔かさに、彼は驚き打たれ、その柔かさをかき抱きました。彼女全体、彼が知ってる如何なる女性よりも柔かでした。

 それが、凡てでありました。

 其後、彼女はいつでも、求めらるるままに、唇と抱擁とを彼に許しました。然し彼はそれ以上を求めず、彼女もそれ以上には誘いませんでした。

 こういう関係は、若い愛人の間や許婚の間に見られるもので、多くは結婚に至る道程にあるものでしょう。けれど、彼と彼女との間には、未だ嘗て、結婚のことは固より、愛情のことも語られませんでした。ただ暗黙のうちに、自由に抱擁を許し合っただけでした。

 彼は既に四十歳を越していて、幾人かの女性を性的に知っていました。彼女は既に未亡人で、軍属として南方で戦歿した夫との間に、信一という子供もありました。そういう二人が、抱擁だけの一線で踏み止ったのには、何か秘密があったのでしょう。単に、遠慮とか、世間体とか、真の愛情の問題とか、そのようなこと以外に何かがあったのでありましょう。

 そうした彼女の痣から、山川正太郎は眼をそらして、口当りは柔かだが強烈な柿酒をあおりました。彼女はただ静かに控えていました。沈黙は、二人の間では何の差し障りもないものでありましたが、彼女の両の眉は少しく寄りあっていました。

 山川正太郎は唇をかみしめました。

 ──ここにも、俺の決意を待ってるものが一つある。も一回やるか。

 見廻しますと、絨緞からはずれた床板に、まだ、ちらちらと光る細かい破片が散り残っていました。

 それを、彼は彼女にさし示しました。

「あれが分りますか。僕のダイヤです。」

「ええ、存じております。」

 明快に答えた彼女を、彼はふしぎそうに眺めました。彼女はちらちらと微笑みました。

「近くにおりましたのを、御存じなかったのでしょうか。」

 言われてから、彼もそれを思い出しました。


 宴席の間を、塚本老人がしきりに斡旋してまわっていたことは、山川正太郎にとっては、眼に余るというよりもむしろ不愉快でありました。

 この老人、塚本堅造は、若い頃から、山川正吉の傍についてまわっていました。けれど、その智恵袋ともなれず、相談役ともなれず、まあ鞄持ち程度に終ってしまい、老後には、僅かな建物の差配役というところに納ってしまいました。だから却って、正吉の歿後五十日のこの宴席を取り持つのは、当り前だと言えないこともありませんでした。

 けれど、この塚本老人が、山川家のことといえば、余りに何事でも知りすぎているのが、山川正太郎にとっては不快でした。親戚の繋りあいを詳しく知っていたり、資産状態を詳しく知っていたりすることは、便利ではありましたが、その知識のあまり、勝手な計画や策略をめぐらしている様子が、やがて見えてきました。

 父の放漫な暮し方のため、資産状態が可なり危ないことになっているのを、山川正太郎はうすうす知っていました。そしてそのことは、父の死後、塚本老人によって具体的に明示されました。

「しかと、方策を立てなければなりますまい。お母上はあの通りでいられますし、あなたの責任が重いというわけでございますよ。」

 ただそういう風に、塚本老人は言いました。

 ところが、その方策の一つがもう、塚本老人自身によって考案され、実行に移されかかっているのでした。

 山川家が所有してる工場が一つありました。規模はささやかなものでしたが、そこに、可なりの資材が蓄積されていました。それは塚本老人の配慮に依るとのことでした。資材のなかの主要なものとして、美製鋼板、俗にミガキ鋼板というのが約八十噸あまりありました。

 そのことを、工場長の上原稔から聞かされて、山川正太郎はちと意外に思いました。ところが、それに関する上原稔の話は、更に意外なものでありました。

 概略しますと、次のような話でありました。この八十噸のミガキ鋼板は、公定価格の三倍ほどの時価で、直ちに引受者がある。つまり、八十万円ほどになる。ところで、今回、山川さんが某政党に領袖の一人として加入するについて、相当の金が必要である。そこで、右の鋼板を売却したいと思うが、如何であろうか。

 それが、塚本老人からの申し込みでありました。

 上原稔は反対しました。

 塚本老人は説きました。──山川家のためだから、まあ我慢して貰いたい。鋼板をそっくり転売してしまっても、職工たちに仕事が不足するわけではあるまい。真鍮の屑物が多量あるから、それを加工すればよかろう。また、たとい鋼板を扱って、各種の器物を製造するにしても、多くの熱量を要することだし、その辺の見通しが困難ではあるまいか。すべて山川家のためだから、よく考えておいて貰いたい。

 その話、大旦那が亡くなったばかりのところではあるし、若旦那にはさし当り内分にとの話を、上原稔は山川正太郎に打ち明けてしまいました。

「私はただ、職工達を存分に働かしてやりたいと思っています。みな、立直った気持で、働きたがっております。鋼板は彼等の手に渡してやって下さい。同額の給与を貰っても、遊んでいるより働く方が本望だと、そういう彼等の意気を、私は涙の出るほど嬉しく思います。それで、お願いに出ました。」

 額が晴れやかで、色が黒く肉のしまった、その上原稔の熱情は、山川正太郎にも伝わりました。けれどその時は、山川正太郎はただ次のように答えました。

「よく分りました。もう少し考えた上で善処しましょう。」

 山川正太郎は眉をひそめました。何か陰謀に似た影を感じました。そして、塚本老人に問い訊してみようと思いながら、その、慇懃な態度にくるまった無表情に当面すると、何も言い出しかねました。

 そういうことのために、宴席で斡旋してまわってる塚本老人の姿は、山川正太郎の心を刺戟しました。そしてますます、決意に似た感慨をそそりました。

 まったくのところ、決意に似た感慨にすぎませんでした。終戦後、民主主義の線に沿う社会革命が、急速に進みつつあるような外観を呈しながら、実は健全に進行するかどうかの見通しは未だつきませんでしたし、殊に経済的には、如何なる混乱が突発するか分りませんでした。その不安定な時勢のなかで彼は、恰も戦争中に積極的に動かなかったように、やはり積極的に動こうとはしませんでした。ただ、飲酒と無為との独自孤高な生活を、これではいけないと思いました。なにか新たな生活を、幻想的に追求しました。資産の危殆も却って快いものに思われました。そして新たな出発線を、亡父の五十日忌に置きました。そういうものに頼ったところに、彼の決意の浅さ弱さがあったとも言えましょうか。

 それでも、決意に似た感慨は、深くそして痛く、ともすると彼はよろけそうになりました。

 新らしい某政党の若い総務の本間利行が、帰りぎわに、彼をちょっと物蔭に呼びました。

「あなたもぜひ、党で大いに働いて貰わねばなりません。自重して下さい。それから、ミガキ鋼板のことは、万事承知していますから、御安心願います。」

 囁いたまま、返事も待たず、玄関の方へ出て行きました。

 それを見送るのに、山川正太郎は苦痛を感じました。そして玄関から引返すと、ベランダの椅子に腰を据え、柿酒の瓶を引きつけ、酔態を意識的に装って、もう誰の見送りにも立とうとしませんでした。

 後れて辞し去る上原稔を、彼は呼びとめました。

「君はまだいいよ。も少し飲もう。」

 上原稔はちょっと躊躇しましたが、腰を下しました。

 二人は黙っていました。上原稔は山川正太郎の眼を見ました。山川正太郎も、相手の眼を見返しました。それから視線は分れました。やがてまた視線が合いました。

「飲み給えよ。」と山川正太郎は言いました。

 上原稔もグラスを手にしました。

 そして、飲んでいるうちに、何か光に似たものが、山川正太郎の頭に浮びました。それが何であるかは、まだはっきり掴めませんでしたが、小さな皺を寄せていた彼の額の皮膚は伸び拡がり、眼眸は輝いてきました。

 彼は手を差し出して、上原稔の骨張った頑丈な手を握りました。そして言いました。

「吾々のために乾杯しよう。僕は君の身方だ。」

 上原稔は眼をしばたたきました。

「これが、先日の君への返答だ。」

「分ったね。」

 俄に大きく見開いてじっと見つめた上原稔の眼は、涙にぬれてきました。その眼を伏せて、彼は言いました。

「分りました。」

「鋼板は、明日からでも、どしどし使い給え。君に任せる。僕も、出かけるよ。いいだろうね。」

 上原稔は頭を下げました。

「さあ乾杯だ。あけ給え。」

 飲みほしたのへ、二つとも、山川正太郎はなみなみとつぎました、そして二人一緒に、グラスを挙げて、一息に飲みました。

 上原稔はグラスを卓上に置きました。それより先、山川正太郎は飲みほすなり、グラスを床板に叩きつけました。薄手に彫りがあり足のついた高杯で、微塵に砕け散りました。

 最後まで居残っていた二人の客が振り向きました。茶を出していた女中が急いで来ました。そのあちらに、加納春子の静かな眼がありました。その眼から、何か刺されるようなものを山川正太郎は感じて、顔をそむけ、戯れのように上原稔に言いました。

「これが、ほんとの乾杯の作法だ。」


 その時の加納春子自身、いま、上原稔がいたところに腰を下して、山川正太郎の前にいました。

 山川正太郎は沈黙の後に言いだしました。

「いよいよ、あなたにも、返答をしなければならなくなりましたが……。」

 彼女は心持ち大きく眼を見開きました。その顔は微笑んでいるかのような静けさでした。

「何の御返答でございましょうか。」

「いや、あなたと私と、二人に対する、私自身の返答です。」

 彼女の両の眉が、ちらと寄りあいました。

 山川正太郎は室内をまた見渡しました。もう誰もいませんでした。電灯の光りがまじまじと明るいだけでした。

「塚本さんは、もう帰りましたか。」

「さきほどまでおいででしたが、もうお帰りになったと思います。」

 もっとも、塚本老人は、近くに住んでいましたので、帰り去ってもすぐに再来することはよくありました。それを、山川正太郎が尋ねましたのも、実は、他のことを考えていたからでありました。

 或る時、塚本老人は言いました。

「あの加納さんは、よく出来た方でございますね。万事しとやかで、そして、何事にもよく気がつかれますよ。お母上の従兄筋にあたる加納家の末の娘さんですから、御当家とも深い縁故がおありになります。その故でもありますまいが、お母上には、まるで御自分の娘のように、お気に入っていられますようでございますね。」

 そんなことを、山川正太郎に向って言う塚本老人の真意は、まだ明かでありませんでした。だが、そこにも、なにか陰謀めいたものを、山川正太郎は感ずるのでした。

 山川正太郎はじっと加納春子の顔を見て、言いました。

「あなたは、どういうことになろうと、あの塚本さんを、恐れはしないでしょうね。」

「これまでも、あまり気にかけたことはありませんし、今後とて、その通りだろうと思います。」

 なにか怪訝そうに、彼女は彼の方を見つめました。

「それでは、言いましょう。信一君をこちらへ連れてきて、この家に住みませんか。」

 その問いが、実は返答でありました。

 彼女の子の信一は、鎌倉にある山川家の別荘にいるのでした。はじめは彼女も、そちらにいましたが、彼女の若い叔父さんたち一家が戦災にあって、その別荘に住むようになってから、東京の山川家に事ある毎に、彼女は手伝いに出て来ました。そして次第に、山川家に寝泊りすることが多くなり、殊に、正吉の病気から死去から仏事へかけては、山川家の一員のようになって働きました。そういう状態も、もういずれかへ決定すべき時期になったのでありました。つまり、彼女は信一と共に鎌倉に住むか、山川家に住むか、どちらかにすべき場合でありました。

 ところで、二人の情愛の問題につきましては、山川正太郎が多年守り通してきた独身主義と、加納春子の子の信一と、両方を互に尊重して、結婚は最初から問題でありませんでした。それを前提として考えますれば、彼女が鎌倉に住むことは、或は情愛を通じ合う途があるかも知れぬことになりますし、彼女が信一と共に公然と山川家に住むことは、情愛を封殺することになるのでした。それが、彼等の人間としての道義でありました。この点も、暗黙の間に理解されていました。

 山川正太郎の返答を聞いて、加納春子はぽっと頬に赤みをさしました。そしてじっと宙に眼を据えました。

 彼女の頬の赤みが引いてしまう頃、山川正太郎は涙ぐんで感傷の底に沈んでゆきました。その底から泳ぎ上ろうとするかのように彼は言いました。

「この決心は、いけないでしょうか。」

 彼女は大きく息をついて、静かに言いました。

「あたくしも、それより外に途はないと思っておりました。」

 彼女は両の眉が心持ち寄りあったまま、微笑みました。

「乾杯して頂けますかしら……。」

 山川正太郎は立ち上りました。そして二三歩あるいて、言いました。

「あなたのその額の痣は……どうして出来たのか、聞かして下さい。」

 彼女は、彼が驚いたことには、ほんとににっこり笑って、話しました。

 けれど、彼女のその話も、すこぶる曖昧なものでした。或る時、亡夫と諍いをしたというのです。──良夫がもう酔っ払って、正体もなくなっているのに、まだ、到来物の鹿児島の本場の焼酎をあおろうとしたから、彼女はそれをとめた。むりにとめると、お銚子をやにわに投げつけられた。それが、額に当って打撲と裂傷とになり跡が残ったものらしい……。

「それからは、あたくし、男の方のお酒には、もう口を出さないことにしました。」

 憤懣とも自嘲ともつかないものが、山川正太郎の胸うちにこみあげてきました。

 ──あれほど気にとめていた彼女の痣は、ただそれっぱかしのものであったのか。それぐらいのことさえ、俺は彼女についてまだ知らなかったのか。

 彼はじっと彼女の卵形の顔を眺めました。

「乾杯しましょう。」

 とろりとした茶色の液体をなみなみと満したグラスを、彼女は静かに手にしました。

 二人は同時にグラスを挙げました。

 彼女は眼を細めて飲みほし、グラスを卓上に戻しました。それを、彼は見定めてから、手にある空のグラスを、床板に叩きつけました。音はわりに小さく、微塵に砕けて、光燿の破片が散乱しました。

 憤りと悲しみと一緒になった感傷が山川正太郎を囚えました。涙が流れました。

「ちょっと、こちらへ……。」

 彼は室内の襖かげ、外から覗き見られない片隅へ、彼女を連れてゆきました。

 彼は彼女の肩へ手をかけました。

 彼女は頭を振りました。

「乾杯のあとで……いけません。」

 それを上から押っかぶせて、彼は彼女を抱擁しました。彼女の柔かな身体を抱いた両腕に、ぐいぐいと力をこめました。彼女は片手を彼の胸にあて、とんと二度ほど叩きました。彼が腕を離すと、彼女は息絶えたように畳の上にくずおれましたが、やがて、一息、肩が動きました。

 その息の根を見定めて、彼はそこから去りました。

 中廊下に出て、曲り角を経て、茶の間へ行こうとしますと、そこに意外にも、塚本堅造が立っていました。壁の表面とすれすれに、殆んど壁にめいりこんでるかと思われるほどでした。そして、軽く頭を下げていました。

 山川正太郎は、なにか寒けがして、立ち止りました。白髪の多い小さな頭、皺だった額、足があるとも思えないほど細そりと垂れしぼんでる和服の下半身、それだけを、山川正太郎はじっと眼に入れました。

 塚本老人は更にまた、頭を下げました。

 山川正太郎は、くるりと向きを変えました。そして、階段を上って、書斎へはいりました。まだ身体はひどく酔いながら、精神はもう酔いがさめたような、冷熱の合間にある心地でした。

 彼は煙草に火をつけました。それを吸いながら、窓を開きました。白布を敷きのべたような月明の夜でありました。

底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4)」未来社

   1965(昭和40)年625日第1刷発行

初出:「世界文化」

   1946(昭和21)年3

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2007年1127日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。