鳶と柿と鶏
豊島与志雄
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丘の上の小径から、だらだら上りの野原をへだてて、急な崖になり、灌木や小笹が茂っている。その崖の藪に、熊か猪かと思われるようなざわめきが起り、同時にわっと喚声があがって、一人の青年が飛び出して来、次で子供が三人飛び出して来た。
吉村はびっくりして、小径につっ立っていた。
見ると、青年はたしかに李永泰である。無帽で、運動シャツ、学校の教練ズボンのお古らしいのをつけている。三人の子供は村の者らしい。李は吉村に気がつかないのか、子供たちとふざけながら、片手で栗の実をもてあそんでいた。
吉村がじっと見ていると、やがて先方でもその視線を捉えたか、李は吉村の方をすかし見たが、ほうというように口をあけて、野原をつっきり走って来た。
「吉村先生ですか。こんなとこに、どうしていらしたんです。」
随分久しぶりな筈だが、そんなことはどうでもよいのであろう。吉村が此処に来てふのが、ただ不思議らしい。
一週間ばかり前から、急な仕事をもって、三週間ばかりの予定で、その海辺の粗末な宿屋に来てることを、吉村は微笑みながら話した。
「あんなとこで、仕事なさるのですか。」
「どうして。」
「あすこは、つまらないでしょう。」
その口振が、どうやら、小説家などという者はいつも華かな雰囲気にばかり住んでるものだと、そういう風なので、吉村はただずばりと云ってやった。
「あすこは、秋になると、安直でいいよ。」
気持がはっきり通じなくて、眼をしばたたいてるのへ、吉村はたたみかけた。
「君はまた、どうして此処へ来てるんだい。」
「僕ですか、別荘の監督です。」
「かんとく……。」
「ええ。志田さんの別荘、ご存じありませんか。」
真顔で云ってるのかどうか分らなかったが、よく聞いてみると、志田さんの家族の人たちがその夏来ていて、東京へ帰って行く時、李は雑用の手伝いに来たが、そのまま当分、別荘番のところに居残ってるものらしかった。
「おーい、みんなやるよ。」
李は振向いて、草原で遊んでる子供たちの方へ、手の中の栗を空高く投げやった。秋の午後の陽に栗の実がきらきらと光った。
草の中から栗の実を拾ってる子供たちを残して、吉村と李は海岸の方へ降りていった。
「実は、野心がありました。」と李は云うのであった。「僕は水泳がへたです。何事でも、上達して損はないでしょう。それで、水泳も上達したいと思って、ここに、志田さんの奥さんのお許しで、監督に残ったのですが、だめでした。九月のなかばすぎになると、海の水は冷たくて、身体にいけませんね。それで、水泳より山にいって、栗を取る方が面白くなり、木登りは上手になりました。」
「木登りも、その、野心の一つかい。」
「あとで、そうなりました。」
そして李も笑ったが、ふいに、うまい柿を御馳走するし、紹介する人もあるから、是非ついて来いと云い出した。
「柿はいいが、紹介の方は許してくれよ。僕は仕事に来てるんだからね。」
「ええ、分っています。綺麗な女の人ですよ。先生に逢いたがっていました。」
独りで勝手に呑みこんでいるのである。吉村と其他で逢ったのはその日が初めてだし、逢いたがってるもないものだ、恐らくは李が好きな女ででもあろうかと、吉村はすぐに小説家らしい想像をしながら、苦笑をもらした。
半農半漁の人家の聚落の間をぬけて、もはやどこもひっそりとしてる別荘地の方へはいり、その出外れ近いところで、李は足を止めて云った。
「ちょっと待って下さい。……困ったなあ。」
「どうしたんだい。」
「先生、裏からはいるんですよ。」
「同じじゃないか。別荘なら、裏も表も大してちがやしないよ。」
「そうだった。全くそうです。」
いやに感心して、また歩き出したが、すぐその先の、四つ目垣の木戸を押しあけてはいって行くのである。
吉村はおや、と目を見張った。志田さんとかの別荘へ行くものだと思っていたのであるが、そこはたしかに、上山君枝の家の裏手にちがいなかった。垣根の中のすぐそこに、低く枝を拡げた二本の柿の木が、赤い実を一杯つけていた。李はその柿の木に歩み寄り、手の届く枝を引き撓めておいて、物色しながら幾つかの実をもいだ。
「こちらからいきましょう。」
柿を持って、表の芝生の庭の方へ廻ってゆくのだった。
吉村は躊躇しながら、それでも多少の好奇心も覚えて、わざと後れながらついていった。
縁側で、もう李の声がしていた。
「今日は、私の先生を連れて来ましたから、柿をすこしたくさん貰いました。豪い人ですから、子供と一緒にはなりません。名前はご存じでしょう、吉村先生……あの、むつかしい小説ばかり書いて、自分でも困ってる人です。御紹介しましょう。」
「吉村……なんという人なの。」
「吉村清志……あのこないだも……。」
李がなにか饒舌ってる時、君枝はちょっと小首をかしげがちに、片手をかるく頬に、そして片手で鬢の毛をかきあげる素振りをして、それで李の方へ表情を隠しながら、庭に少し距ってる吉村の方へ、眼を二つ三つ大きくまたたいてみせた。黙っているようにとの合図らしかった。
だが、そのちょっとした悪戯よりも、彼女の素振りのうちに、吉村は意外なものを発見した。肺を病んで、神経質で、痩せて、骨立って、顔色も浅黒く、そればかりか、日常の言語は、へんに精神的だがぽきりと棒ぎれのようだし、挙措動作も、はきはきしてるがぎごちなく、謂わば凡てに女性的な濡いと曲線とが乏しい彼女なのだが、その時の彼女の素振りには、おのずから流れ出た子供っぽいものがあったのだった。その意外な発見に、吉村はなにか虚を衝かれた気持で笑顔も浮ばず、自然と初対面のような態度で、近づいていった。
李はすぐに紹介しはじめた。
「吉村先生です。……こちらは、上山君枝さん、たいへん文学が好きなかたで、いえ、女流文士で、私の先生です。」
「まあ、たいへんなことになりましたね。いつのまにか、女流文士で、李さんの先生で……。」
吉村が一人笑って、云った本人の君枝もまた李も笑わなかった。
君枝はナイフや皿を取寄せて、柿をすすめながら、李との初対面のことを話すのだった──
或る日、夕方、君枝が縁側に腰掛けて雑誌を見ていると、垣根の外から、ボールがはいったから取らして下さい、と子供の声がした。お取りなさい、と君枝は答えた。裏の木戸から人がはいって来る様子だった。それからだいぶ暫くして、もうそのことを忘れた頃、一人の青年が走って来た。手に柿を持っていた。あまり美しい柿だから、ちょっとさわってみると、もう熟して、おいしくなっている。だから、僕たち、一つずつ貰いました。どうぞ下さい。とそう云うのである。眉から眼から鼻立へかけてきりっとした白皙の顔で、それがどこかのびやかなところがあり、それに言葉がぶっきら棒なのがおかしく、(勿論これだけは李の前では彼女は話さなかったが、)何よりも、柿を既に貰ったと云いながら下さいと云うのがおかしく、ええどうぞと彼女はたのしく答えた。すると青年は云った。僕たちは四人だが、一つずつ貰うつもりで、五つもいでしまった。一つ余るから、これは返します。うまい柿だから、食べてみて下さい。そしてこちらから持って来てでもやったかのように、縁側に柿を一つ置いて、走って行ってしまった。──それがきっかけで、時々、村の子供を二三人つれて、三つ四つずつ、柿を取りに来るようになった。懇意にもなったというのである。
「なるほど、李君の面目躍如たりというところだね。」
吉村は愉快そうに云ったが、李は別に悄気るでもなく得意がるでもなく、平然としていた。
柿を食べてから三人で、海辺を少し歩いた。
「先生、お仕事は、お捗りになりまして。」
先刻のことも忘れて、君枝はそんなことを聞くのだった。だが、李は感じているのかいないのか、吉村と君枝とが前から識ってる間であるばかりか、此処でも既に往来してることが、態度や会話に明瞭に現われても、一向気に留めてる風もなかった。
君枝は吉村の宿を訪れるのを遠慮していたらしく、吉村が最初に訪れた後、一度訪れて来、それからちょっと庭先に来たきりだったが、其後は、李と二人で、しばしば吉村の宿に遊びに来たり、散歩に誘いに来たりした。その地で吉村は、ただがむしゃらに、原稿紙に文字を埋めることにかかっていて、構想や夢想に耽ってる場合でなかっただけに、次第に、二人へのおつきあいの時間が惜しまれてきた。
吉村がこちらに来て上山君枝を訪れたというのも、実は病気見舞かたがた、といっても彼女の肺患は軽微なもので、まあ謂わば、その心境打診のためもあったのである。君枝の良人の正彦は吉村の旧知で、君枝が随筆風な或は小説風なものを書き綴るようになってから、吉村さんにでも見て貰ったらと口を利いたのが正彦だった。既にその頃から、彼等夫婦の間は面白くゆかなかったらしく、君枝が肺を病んで海辺の別荘に来てからは、正彦は相当な財産があるにまかせて放埓になり、或る恋愛問題にまではまりこんでいた。この恋愛問題については、吉村と上山は明らさまに話し合ったことはなかったが、既に君枝にまでうすうす知れてることが二人の間に了解されていたのである。危い瀬戸際だということが、吉村にはっきり感ぜられ、自分の尽すべき途はないかとまで考えていた。
然るに、君枝に逢ってみると、やはり、手掛りのつけようもないという気持を新たにするの外はなかった。正彦の行動を君枝はかなりよく知ってるらしく、こんなことを云うのだった。
「あの人も、お酒ばかり飲んで、気の毒な人だと思います。」
それも、自分のような病弱な妻を持って気の毒だというのではなく、身を持ち崩しかけてる人だという冷静な批判で、それが良人に対する妻の言葉なだけに、吉村は肌寒い思いがした。肌寒いと云えば、何かにつけて君枝にはそういうところがあった。書いた文章にもそれが現われていた。一体、すぐれた文章なり作品なりが書ける女は、その容姿とか動作とか言葉とか、どこかに女性らしい色艶があるものだということが、吉村の持論だった。顔の美醜や、肉附の多少や、声の清濁や、行儀作法、そういうものとは全く別な、何か自然的な女性的な柔かな香りとでも云えるものがあり、そうした雰囲気を濃く立てる者ほどすぐれた文章が書けるのであり、文章は謂わばその雰囲気から萠え出るのである。とそう吉村は観ていた。勿論、多少の例外はあり、また偉大な創作などについては別問題だが、普通の婦人の普通の文章などについてのことである。然るに君枝は、かなり美貌の方ではあるが、吉村の所謂女らしい雰囲気にひどく乏しかったし、その文章も吉村の持論を裏付けるようなものだった。
君枝の心境を打診する手掛りも得られず、彼女自体にも興味が持てず、ただ時間を取られるだけなので、吉村は凡てを後のこととして、仕事を真正面に押し立て、出来る限り宿の室に引籠った。然し宿屋の庭まで先方からよく散歩に来たし、大抵李が一緒だったし、李には吉村は一種の愛情が持てるのだった。
夕食後など、三人で磯辺を歩いたりすると、へんに話がちぐはぐになった。君枝はすぐに、文学や思想の問題へ話を持ってゆくし、李は貝殻や魚類や樹木や雲の色などに話を持ってゆくし、話し手の男女の性を倒錯したようなその話の間に吉村は挟まり、両方から彼へばかり話しかけてき、彼はただ返事をするだけにしておいた。十月になりかけて、浜にはもう散歩の人影もなく、夕陽を受けた海は赤いが、微風は肌にしみる心地がされた。
吉村は平たい小石を拾って、海面でみずきりをやった。李もそれをした。水面に石を十回跳ねさせることは至難だった。李は殊に下手だった。
ふいに、君枝が笑いだした。吉村がまだこれまで彼女に聞いたことのないような朗かな笑いだった。振向いてみると、石を投げる李の恰好がおかしいというのである。注意してみると、なるほど、李は大きく腕を振り廻しはするが、投げるとたんに、肩口からほうり出す恰好になるのだった。
「李さんたら、まるで赤ん坊みたいよ。」と云って君枝はまた朗かに笑った。
李は吉村をまねようとして、その赤ん坊みたいな動作を何度も繰返した。
その折の君枝の珍らしい朗かな笑いが特別に吉村の心に残ったほど、いつも平凡な散歩にすぎなかった。
吉村は朝から机に向っていたが、頭が疲れてくると、午後など、丘の方へぶらりと出て行った。丘の中腹の小径を辿ってゆくと、初めて李に出逢った野原のところへ出る。それから少しゆくと、丘の先端で、先方の丘との間に盆地をなしてる畑地が目下に見え、右手は海に展けている。
そこの、藪影の草の上で、日向ぼっこをしてるかのように蹲って、雑誌など見てる李を、吉村はよく見かけた。
二度目に逢った時、李はにこにこして、吉村の問いに答えるのだった。
「鳶を捕るんです。」
「え、鳶を……捕れるかね。」
「捕れるつもりです。」
彼が説明するところによると、餌をつけておいて、小鳥がそれをつっつけば、上からぱっと網がかぶさる、あの仕掛の少し大きいのを、向うの畑のなかに設けてある。但し相手が鳶だから、うまく被さるかどうか分らないが、その代り、丁度首をつきこむくらい網の目が大きい。餌は鰯である。
「へえー、鳶が魚を食うかね。」
「動物園の鳶は魚を食べています。」
明瞭な答えに吉村は苦笑した。
だが、鳶がかかったらすぐに馳け出していくつもりで、彼は見張りをしてるのだった。相手は猛禽だからさすがに不安なのであろうか。
「だが、鳶なんか捕って、一体なににするんだい。」
「ただ生捕ればよいのです。」
それきりで、李は空を仰いだ。
空には、鳶が二羽舞っていた。青く晴れ渡ったなかに、或は高くまた低く、二羽の鳶は寄ったり離れたりしながら、殆んど羽ばたきもせず、両翼を真直に拡げて、ただ浮び動き、舞ってるのだった。
「眺めてる方がいいじゃないか。」
「ええ。」
「捕らない方がいいじゃないか。」
「ええ、捕らないでも、よいのです。」
わざわざ穽を仕掛けたというのに、甚だ頼りない返事だった。
二羽の鳶はいつまでも舞っていた。その舞い方は全く蒼空という感じだった。宙にふわりと浮いて而も翔ってるからであろうが、やがて一羽が、ゆるく羽ばたきだしたと見るまに、高く高く、蒼空のうちに昇ってゆき、他の一羽もそれに随い、山の彼方に消えていった。
「先生、柿をたべにいきましょう。」
鳶のあとを見送ってぼんやりしてる吉村へ、李はふいに呼びかけて、立上って歩きだした。それから声を低めた。
「鳶のこと、上山さんには、黙っといて下さい。」
「なぜだい。」
「びっくりさしてやりたいんです。」
捕れるものかと吉村は思ったが、李の言葉をそのまま取って、微笑ましい気持になった。そして君枝のところまでついて来た。
君枝の庭には、裏口に近い一隅に、黒い鶏が二羽飼ってあった。植木屋が黒い鶏の卵は特別に病人によいといって、小屋から鶏まで世話してくれたのだとか、君枝は云っていたが、それが、シャモの雑種なので、吉村は君枝に対するのと同じように親しみが持てない気持だった。ただ雄鶏の方は、黒羽の上に少し首筋にかかってる赤羽が、金色に光って綺麗だった。
李はその鶏の囲いを開いて、鶏を呼びながら連れてきた。鶏は広い芝生のなかを少しかけ廻り、縁側のところまで来て、投げやられた柿の皮をつついたりした。
「鶏のうちで、シャモが一番いかもの食いです。」と李は吉村に説明してから、君枝の方へ云った。「毛虫、まだいますか。」
「そうね、いるかも知れないわ。」
庭の片脇の大きな椿の木へ行って、李はしきりに見上げていたが、やがて巧みに登っていった。
君枝も下駄をつっかけてその方へ行った。
「どう……。あぶないわよ。」
上の方でがさがさやっていたところから、ふいに声がした。
「それ、ほうりますよ。」
「いやあ、だめよ、だめよ。」
びっくりするような甲高い声をあげて、君枝は走って逃げた。逃げながら笑っていた。
ぱらぱらと、青葉のついてる小枝が落ちてきた。ちょっと静かになって、中程の大きな枝に、李はぶらりと両手でさがり、あ、あぶない、と叫んで君枝が胸を押えた時には、李はもう地面に飛びおりていた。
コッコッコッコ……呼ばれて鶏が走ってゆき、椿の葉について虫を食べてるのを、李は満足そうに、君枝は安心したように、眺めてるのだった。
吉村は煙草を吸いながら縁端に腰掛けていた。椿の木の下から逃げだし、危いと叫んだ時までの君枝の様子が、珍らしいもののように眼に映ったのである。それは全く普通の女の動作にすぎなかったが、茶をのむ時の手附からちょっとした身振までが、へんにぎくしゃくした直線的な君枝であるだけに、普通の動作が却って目立ったのである。先日、初めて李と一緒に来た時の素振までも思い出された。先日は虚を衝かれた思いだったが、此度はなんとなく楽しく、彼女のために悦んでやりたい思いだった。
このぶんでいったら、彼女もだんだんよくなるだろうと、吉村は考えた。勿論それは病気のことではないし、何がどうよくなるのか彼にも分らなかったが、とにかく明るい気分が懐かれるのだった。
吉村は仕事を急いだ。仕事がすんだら二三日ゆっくり三人で遊び廻ってみたかった。
そうしたところへ、全然意想外なことが持上った。
ある夕方、食後の散歩に、三人で丘の方から街道へおりかかる時だった。
街道を、彼方から、正服の巡査と労働者らしい男とが、肩と肩をくっつけるようにして歩いて来た。双方から次第に近づいて、男は黒のジャケツに地下足袋で、どうやら半島人らしいと見分けられた。二人の姿は七八木の杉の木立に隠れたが、そこからまた現われかけたとたんに、男は二三歩走りだし、それを片手の捕繩で引戻されたものか、両腕をひろげ横向きになり、そこへ巡査の足払いが利いて、ばったり地面へ倒れた。倒れたが、すぐ四つ匐いになり、突然、吼えるような喚くような声で叫びだした。襟元を捉えて引起されかけても、彼は必死に大地へしがみつくような恰好で、その声は明らかに泣き叫びとなった。泣き叫びながら、片手と両足とで地面に踠いた。
自転車での通行人が立止り、村から人が走り出て行った。そしていつしか男は叫び声を呑み、じっと顔を伏せ、此度は両手を後ろに縛られながら、巡査の先に立って、人々の間を歩いて行った。それが、吉村たち三人のすぐ前をも通りすぎた。
後を見送って、しばらく無言で歩いた時、ふいに、君枝が李に尋ねた。
「あの男がさっき叫びだしたでしょう、あれどういう意味ですか。」
あまりに場合を得ない言葉だった。やや返事がなかった。
「僕は知りません。」
「別に意味はないでしょう。」と吉村も殆んど同時に云った。
「あの抵抗も無意味ですわね。……でも、卑怯ですわ。」
返事がなく、彼女はなお云い続けた。
「先生、そうお思いになりません。言葉の内容は民族によって大変ちがいますでしょう。」
吉村があやふやな返事で打消そうとしてるのを、彼女はお構いなしに考えを続けた。
「あの男だって、捕えられておいて、どうせ空巣ねらいか掻払いか、そんなことでしょうが、引き立てられてゆくところを、逃げ出そうとするなんて、卑怯じゃございません。また支那人なんか、なんでも、見当り次第のものを持ってゆこうとしますが、声をかけられると、そこに黙って置いていきますでしょう。これだって卑怯ですわ。けれど、その卑怯だという感じは、日本人だけのものかも知れませんし、支那や朝鮮にもやはり卑怯という言葉はございましょうし、結局のところ、言葉の意味というか、内容というか、それが違うのじゃないかと思われますの。民族の血の問題でございますわね。」
「そんなこと云ったら、外国人同士は話が出来なくなりますよ。」と吉村は笑ってしまおうとした。
「ええ、本当の話は出来にくいと思います。翻訳にしましても……。」
そして彼女は翻訳の話にはいっていったので、吉村はほっと息をついた。絶対に翻訳のむずかしい作品もあり、また比較的容易い作品もあるが、然し要するに完全な翻訳というものは不可能に近いという悲観論に、吉村はいい加減相槌をうっていた。考えてみると、吉村自身、ちょっと外国文学を日本語に和訳したことがあるのだった。それはよいとして、彼女はまた李の方に尋ねかけたのである。
「あの男が叫んでた言葉は、ほんとにどういう意味でしょうね。」
もう吉村も李も返事をしなかった。そのまま消えた言葉は、なにか残忍な執拗なものを跡に残した。
宿に帰っても、吉村はそのことが変に気にかかった。
その翌日、夜になって、李が一人で吉村を訪ねて来た。
「明日、東京に帰ります。」と李は云った。
その顔を、吉村はじっと見ながら、彼に対して自然と心が開けるのが嬉しく、すぐに云い出した。
「昨日の、あのことだろう。そう気にしなくてもいいじゃないか。」
「気にはしていません。」
そして李はちょっと微笑した。
「損をしたという気がします。」
「へえー、損をしたって、分らんね。」
「よく考えてみると、半月ばかり損をしました。なんだか、上山さんが好きだったから……恋愛じゃありませんよ、ただ好きだったから、うかうか遊んでるうちに、勉強の方を、半月ばかり損をしていました。」
そして李はまた微笑した。
「それに気がついたというんなら、やはり昨日のことを気にしてるんじゃないか。君にも似合わないね。」
「いえ、ちがいます。こうですよ。僕は上山さんが好きでした。鳶を捕ろうとしていたのも、上山さんが鳶を飼ってみたいと云ったからです。先生の邪魔になると思ったが、上山さんを誘ってよく来ましたのも、上山さんと一緒にいたかったからです。御免下さい。」
「そんなの、一種の愛情じゃないか。」
「いえ、ちがいます。あの人、頭がよいでしょう。それにごまかされたんですね。一緒に遊ぶのが嬉しかったんです。ところが、あの人は、実は、頭がよいどころか、下等ですね。昨日、あの時、じっと僕の様子ばかり見ていました。先生は呑気だから気付かれなかったでしょうが、僕をじっと窺っていました。その視線を、僕は全身に感じました。ひがみではありません。あの人から見れば、朝鮮人はみな同じものだということになるようです。卑怯とかなにか、そういう言葉のことではありません。人間がみな同じになるらしいです。例えば日本人の乞食を見て、日本人はよその残り物を平気で食べるのかと、あらゆる日本人に云ったとします。腹が立つよりも、そんなことを云う人……そんな風に考える人を、下等だとは思いませんか。」
「下等というより……物が分らないんだね。」
「そうです、物が分らない、人間というものが分らないんです。」
吉村はそれに同感された。殊に乞食の話は胸にこたえた。
「それにしても、すぐ東京に帰らなくったって……近いうちに僕も帰るんだし、それまで待たないか。」
「東京でまた伺います。ただ、僕は、下等なあの人が好きで、半月も損をしたのが、残念です。腹を立ててやしませんよ。けれど、なにかはっきり、意思表示をしたいです。」
「そのため、すぐここを引上げるのかね。」
「そうでもありません。意思表示をして引上げたいですが、方法を考えてるところです。」
「それよりか、逆に、鳶でも生捕って、進呈して引上げるんだね。」
「ええ、鳶……鳶はいいですね。」
ぽつりと云われたその言葉が、なんだか淋しい響きだった。李はなにか空想するような眼付で、しばらく黙りこんだ。
やがて、どうしても明朝早く東京に帰るという李を送り出して、吉村は室に寝ころびながら、いろいろ彼のことを考え、また君枝のことなどを考えてるうちに、ふと、彼等二人の間の淡い……恐らくは無意識的な情愛とでも云えるものにぶっつかった。それははっきり捉え難いが、想像したというよりも、ぶっつかったという感じだった。
そして、その翌朝、また意外なことが起った。
九時頃、吉村は君枝からの電話で起されたが、いつもの君枝に似ず、くどくどと、すぐに来てくれないかとの懇願だった。
行ってみると、君枝は庭に出て彼を待っていた。少しく興奮してるらしい、いつもよりなお引緊った彫刻的な顔立に見えた。
「どうしたんですか。」
君枝は黙って、吉村を鶏小屋へ連れて行った。鶏小屋の中には、二羽の黒い鶏が、片隅の藁の上に硬ばって横たわっていた。──女中が起きて、鶏に餌をやろうとすると、鶏は二羽とも死んでいて、今の姿は手をつけないそのままのものだというのである。
「卑怯ですわ。」
「李君の仕業だというんですか。」
吉村は何故となくつっかかるような語調になった。
「李君がしたんだとすれば、そして僕がもし李君だったら、こんなところに寝かしてはおきませんね。……そう、あの庭の木にでも、首をぶらさげますね。」
君枝は心持ち蒼ざめた。二羽の鶏が首に繩をつけて木にぶらさがってるところを想像したのであろう。そしてすぐあちらの縁側の方へ歩きだした。
「李さんじゃないのでしょうか。」
弱々しい声の響だった。吉村は答えなかった。ただ李のことをきくと、急に用が出来て東京へ呼び戻されることになったとかで、昨日の夕方、お別れにちょっと寄ったきりだそうだった。
「まあ、李君が何かに怒って、或は名残りを惜んで、あんなことをしたのだと、しといてはいけませんか。」
君枝はもう興奮もさめて李のことを偲ぶらしく、黙って眼をしばたたいた。
その眼がちょっと涙にうるんでるように見えたのを、吉村は、小説家のばかな癖だと自ら咎めて、空の方へ眼をやった。空には、高く、朝日のなかに、もう鳶が一羽舞っていた。
「そうだ、朝露にひえた柿はひどくおいしいそうだから、ひとつ下さいよ。」
吉村はちょっと君枝のそばを避ける気持で、柿を取りに行った。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説Ⅳ)」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「知性」
1939(昭和14)年11月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年5月6日作成
2016年2月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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