漫画と科学
寺田寅彦



 漫画とは何かという問に対して明確なる定義を下す事は困難であろう。また漫画とそれ以外の絵画との間に截然せつぜんたる区劃線を引く事も容易ではない。漫画家自身でもおそらく人によってこれに関する所見を異にするに相違ない。今ここで私がせっかく苦心して定義をこしらえても、それは結局甲某の定義にしかなりそうもない。それで以下に漫画として論ずるものも結局私の頭の中にある漫画というものの概念に過ぎないから、それがどれだけ普遍的であるかは私自身には分らない。

 私のいわゆる漫画の対象材料となるものはほとんどすべて人間あるいは人間化されたる非人間である。猿であろうが摺子木すりこぎであろうが、それが純粋な猿や摺子木として取扱われている間は漫画の領域に這入はいり得ないように思われる。次にその対象の見方および取扱いの上に如何なる特徴があるかと考えてみると、その対象の形態的ないし心理的の現象の中である特別な部分を抽象してその部分を誇大しあるいは挙揚して表示するというのが一つの顕著な点である。例えば鼻の大きい人の鼻を普通の計測的の大きさの比以上に廓大かくだいして描いたり、喜怒の感情の発現を誇張した身振りで示すがごときは、最も月並な慣用手段である。もう少し進んだのになると、鼻や小鼻の曲線のあるデリケートな抑揚をつかまえて、これを少しアクセンチュエートする事によって効果を挙げ、あるいは手足の機微な位置によって複雑な感情を暗示するものもある。猿が馬に乗っているにしてもその姿勢なり態度なりが、乗馬者のある特異な、しかし言葉では云い表わせない点を巧みに表わす事によって、漫画としての価値がきまるように思う。

 以上のようなものは、私の考えている漫画の中で最も純粋なものである。そうしてこの種の漫画によって表現された人間の形態並びに精神的の特徴は、一方において特異なものであると同時に他方ではその特徴を共有する一つの集団の普遍性を抽象してその集団の「型」を設定する事になる。こういう対象の取扱い方は実に科学者がその科学的対象を取扱うのと著しく類似したものである。

 例えば物理学者があらゆる物体の複雑な運動を観察して、これを求心運動、等加速運動、正弦運動などに分解してその中の一つを抽出し他を捨象する事によって、そこに普遍的な方則を設定する。物理学教科書にある落体運動は日常生活において目撃するあらゆる物体の落下にそのまま適用するものではない。空気の抵抗や、風の横圧や、周囲の物体より起る不定な影響を除去した時に始めて厳密に適用さるべきものである。そしてこれらの第二次的影響の微少なる限り近似的に適用するものである。それでこの種の方則は具体的事象の中から抽象によって取り出された「真」の宣言であって、それが真なるにもかかわらず、実際に日常目撃する現象その物の表示ではない。

 優れた観察力をもった漫画家が街路や電車の中で十人十色の世相を見る時には、複雑な箇体が分析されて、その中のある型の普遍的要素が自ずから見出される。そしてその要素だけを抽象し、それを主として表現するために最も有効な手段を選ぶのであろう。その表現の方法は「術」であるかもしれないが、この要素をつかみ出す方法は「学」の方法に近いものである。

 科学上の業績は単に分析にのみよって得られるものと考えるのは、有りふれた、しかし大なる誤謬である。少なくも優れた科学者が方則を発見したりする場合には直感の力を借りる事は甚だ多い。そういう場合には論理的の証明や分析はむしろ後から附加されるようなものである。また一方において漫画家の抽象は必ずしも直感のみによるとは考えられない。たとえ無意識にしろ、直感で得た暗示をだどって確かなある物を把握するまでの道筋は確かに一種の分析である。それでこれらの点における両者の精神作用の差違はあっても僅少なものである。

 漫画の目的とするところはやはり一種の真である。必ずしも直接な狭義の美ではない。ただそれが真であることによって、そこに間接な広義の美が現われるように思う。科学の目的もただ「真」である。そして科学者にとってはそれが同時に「美」であり得る。

 漫画が実物に似ていないにかかわらず真の表現であるという事は、科学上の真というものに対する多数の人々の誤解をとくために適切な例であるように見える。漫画が実物と似ない点において正に実物自身よりも実物に似るというパラドクシカルな言明はそのままに科学上の知識に適用する事が出来る。

 ただ科学は主として物質界の現象に関係しているために、換言すれば人間の能知と切り離された所知者自身の間の交渉に関しているために、科学上の方則は科学者の個性と切り離され、従ってその表現は単義的普遍的なものになっている。これに反して漫画家の対象は人間に関係したものであるために、このような分離が困難になり、表現は十人十種になって作者の個性の香が高くなるのは止むを得ない。しかしあらゆる可能な漫画家を一団として見る時には、各画家を微分とした無限項の和としての積分は渾然たる一つの定まった極限値を有する「真の」一面と考えるに不都合があるだろうか。

 科学上の真を言明するために使用する言語や記号は純化され洗煉されて、それぞれ明確な意味をもっている。換言すれば有限な数の言語で説明し尽さるべき性質の概念である。漫画家の言語たる線や点や色はこれに反して多次的な無限の「連続コンチニウム」を形成するものである。それで漫画家は言語では到底表わす事の出来ない観念の表現をするための利器を持っている。その利器の使い方の巧拙はその画家の技能を評価する目標の一つになるが、それよりも重大な標準は、それによって表わすべきものの、真の種類や程度にある事は勿論である。科学者がその方則を述べる字句の巧拙や運算の器用不器用は必ずしもその方則の価値と比例しないのと一般であろう。

 むしろあまりに悪達者な漫画家の技巧がその内容と反比例を示す場合も少なくないように見える。それは技巧が跳躍して科学的真の圏外に逸出するためである。

 こういう意味で私は本当の漫画と低級なポンチあるいはくすぐり画とを区別したい。後者の実例は場末の玩具屋おもちゃやの店頭で見られる安絵本のポンチなどがそれである。そこには尊い真は失われて残るものは虚偽と醜陋しゅうろうな悪趣味だけである。美しい子供の頭にこういうものの影を宿す事は一つの罪悪であらねばならぬ。

 私は滑稽という事がここにいわゆる漫画の本質的条件とは考えていない。もし私の考えているすべての漫画を滑稽であるとすれば、それは畢竟人間の真その物が滑稽な分子を含んでいるという事になるだろうと思う。同時に滑稽というものは極めて真面目な悲痛なものだという結論も生れるだろう。

 そうはいうものの私は例えばミレーの田園風俗画とスタンランの漫画との間に或る区別を感じない訳ではない。しかしその二つの世界の限界を定めようとする時にドーミエーやゴヤやロートレークの或る作物をいずれの領分に配していいかを決定するのに迷うのである。ただ極端と極端とを対照する時に、「美」に専らなものと、「真」に忠なるがために狭義の美の境界線の内外に往還するものとの区別を認めて、後者を特に一団として考えるに過ぎないのである。

 他の人間精神の所産物と比較して広義の芸術的科学的ないし功利的の価値を考えてみたときに、特に漫画を低級なものと考えるべき必然な根拠を見出す事は困難である。劣悪な美術と優秀な漫画を比較してみた時には困難を感じさせられる。その感じはちょうどおめでたい新聞小説と恐ろしい罪悪を主題とした傑作とを読み比べる時のそれとよく似たものである。

 私は鳥羽僧正の戯画を見る時に、そこに描かれた動物の群から人間の痴愚をさしつけれれる。北斎漫画を見る時に封建時代の社会の不思議な心理を教えられる。ホガースやドーミエーからは享楽の影に潜む恐ろしさを味わわされる。ハインリヒ・クライの怪奇画からは文明の背後に隠れた災厄の悪魔の呼吸を感じさせられる。バンベリーの「新兵」の絵を見ていれば可笑おかしいよりは泣きたくなる。ジャン・ヴェヴェーの「銭投げ」を見れば感情と姿勢の対訳を教えられる。そしてそれらは単に見る人の知識となるばかりでなく、一つ一つの生きた体験になるのである。もし聖賢の教えがわれわれの衣服の表になるものであれば、漫画の作品はその裏地の一片にはなる。前者が健胃剤ならば後者は少なくも下剤ぐらいにはならない事はない。

 漫画と称すべきものの中でいわゆる時事漫画と称するものがある。新聞雑誌に出るのは主としてこれである。これは私の考えている漫画としてはやや純粋を欠くものである。時代と場所の限られたる範囲の興味が高唱されているだけに普遍性を損じやすい傾向がある。ことにそれが作者のある特別な政治的社会的の意見を表明する手段として使用されている場合には、その客観的真実性は著しく限定されて、むしろ一つの標本としての価値に堕落しやすいように思われる。しかしその作者が優れた作者であれば、自然にそこに時代や階級の特性が印象されていると同時に、人間というものに普遍な何物かが記録されない訳には行かないであろう。古来の漫画の名家の作品は正にこれを証明する。

 一般絵画に対する漫画の位置は、文学に対する落語、俳句に対する川柳のそれと似たところがないでもない。本質の上からはおそらく同じようなものであり得ると思われる。ただ落語や川柳には低級なあるいは卑猥ひわいな分子が多いように思われており、また実際そうであるのは、これらのものの作者が従来精神的素養の乏しい階級に属していたためにそうなったので、それは必ずしも必然な本質的な理由あっての事ではないという事は、ほとんど自明的な事と思われる。そうでなかったらユーモアーというものが美学の対象などになりようはない。しかしそのような問題はここに云うべき範囲外である。ただ落語や川柳にも前述のごとき意味の科学的要素を中心として発展し得べき領域のある事をこの機会に注意しておきたいと思うのである。

(大正十年三月『電気と文芸』)

底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店

   1997(平成9)年44日発行

底本の親本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店

   1985(昭和60)年75日第3刷発行

初出:「電気と文芸 第二巻第三号」

   1921(大正10)年3

※初出時の署名は「藪柑子」です。

入力:Nana ohbe

校正:松永正敏

2006年713日作成

2016年225日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。