学位について
寺田寅彦
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「学位売買事件」というあまり目出度からぬ名前の事件が新聞社会欄の賑やかで無味な空虚の中に振り播かれた胡椒のごとく世間の耳目を刺戟した。正確な事実は審判の日を待たなければ判明しない。
学位などというものがあるからこんな騒ぎがもち上がる。だからそんなものを一切なくした方がよいという人がある。これは涜職者を出すから小学校長を全廃せよ、腐った牛肉で中毒する人があるから牛肉を食うなというような議論ではないかと思われる。
こんな事件が起るよりずっと以前から「博士濫造」という言葉が流行していた。誰が云い出した言葉か知れないが、こういう言葉は誰かが言い出すときっと流行するという性質をはじめから具有した言葉である。それは、既に博士である人達にとっても、また自分で博士になることに関心をもたない一般世人にとっても耳に入りやすい口触わりの好い言葉だからである。ただ、これから学位を取ろうとしている少数の若い学者と、それらの人々の学位論文を審査すべき位置にある少数の先輩学者との耳には一つの警鐘の音のように聞こえる言葉である。
しかし、この流行言葉を口にする人の中で、本当に学位濫造の事実があるかないかを判断するだけの資料と能力をもっている人がどれだけあるかは極めて疑わしいと思われる。
学位を受ける人の年ごとの数が大きいということだけでは少しも濫造の証拠にはならない。何とならば、学術を真剣に研究する研究者の数が増加すれば、そのうちで相当立派な成績をあげて学位授与に十分な資格を具備する人の数も増加するのは数理的に当然のことだからである。多数の研究者のうちで、何かしら一つの仕事に成功して学位を得る人の数が研究者全体の数に対する統計的比率を不変と仮定しても、研究者の総数がN倍になれば博士の数もN倍になる。のみならず、競争が劇しくなるために研究者の努力が劇しくなればこの比率も増加しないとは限らない。一方ではまた、審査する方が濫造の世評を顧慮して審査の標準を高め、上記の比率を低下させるようにするかも知れない。しかし比率を半分に切り下げても、研究の数が四倍になれば、博士及第者の数は二倍になるのは明白な勘定であろう。
こういう風に考えてみると、博士濫造の呼び声の高くなるのは畢竟学術研究者の総数の増加したことを意味し、従って我国における学術研究熱の盛んになったことを意味し、我学界の水準の高まったことを意味するのではないか。そうだとすれば濫造の噂が高ければ高いほど目出度い喜ばしいことだと云わなければならないのではないかと思われる。
審査委員が如何に私情ないしは私利のためにもせよ、学位授与の価値の全然ないような低能な著者の、全然無価値かあるいは間違った論文に及第点をつけることが出来ると想像する人があれば、それは学術的論文というものの本質に関する知識の全く欠如している人に相違ないであろう。学術的論文というものは審査委員だけが内証でこっそり眼を通して、そっと金庫にしまうか焼き棄てるものではない。ちゃんとどこかの公私の発表機関で発表して学界の批評を受け得る形式のものとしなければならないように規定されているのである。それで、もしも審査に合格したある学位論文が、多くの学者の眼で見てなんらの価値がないものであったり、あるいは明白な誤謬に充ちたものであったとしたらどうであろう。たとえ公然と表立ってそれを指摘し攻撃する人がないとしても、それを審査し及第させた学者達は学界の環視の中に学者としての信用を失墜してしまわねばならないし、その学者の属する学団全体の信用をも害しない訳には行かない。従って審査委員自身は平気で涼しい顔をしていても、他の同僚が知らん顔をしてはいられなくなるであろう。
今度新聞で報ぜられた事件にしても事実は少しも知らないが、ただ問題となった学位論文が審査を及第通過している以上、その論文がともかくも学術上なんらかの価値あるものであり、少なくも全然無価値ではなく、全部が誤謬ではないであろうということはほとんど疑う余地のないことであろうと思われる。
さて、それほどに事柄が明白ならば、一体どうして、そんな不祥な問題が発生し得るか。価値のあるものなら通過し、ないものは通過しないと決まっているのなら、私利私情などというものの入り込む余地はないではないかということになる。正にその通りである。それだのに実際上は事柄がその通り簡単にゆかないのは何故かというと、それは論文の「価値」というものの批判が非常に複雑困難なものであって、その批判の標準に千差万別があり、従って十人十色の批評者によって十人十色の標準が使用されるから、そこに批判の普遍性に穴があり、そこへ依怙の私と差別の争いが入り込むのであろう。
ある学者甲が見ると相当な価値があり興味があると思われる一つの論文が、他の学者乙の眼から見るとさっぱり価値のない下らないものに見えることがあり、また反対に甲の眼には平凡あるいは無意味と映ずる論文が、乙の眼には非常に有益な創見を示すものとして光って見えることが可能であるのみならず、そういう実例も決して珍しくはないのである。
一体どうしてそんなことがあり得るか。この疑問はただに学界以外の世人のみならず、多くの学者自身によっても発せられるであろうと想像する。この疑問の解答が一般に知られていないということが、学位をめぐるあらゆる不都合な事件の発生の胚芽となり、従っては一国の学術の健全な発達を妨害する一つの素因ともなり得るかと思われる。それ故にこの疑問を解くことは我国の学問の正常な発達のために緊要なことではないかと思われるのである。自分などはもとよりこの六かしい問題に対して明瞭な解答を与えるだけの能力は無いのであるが、ただ試みに以下にこの点に関する私見を述べて先覚者の教えを乞いたいと思う次第である。
科学の進歩に伴う研究領域の専門的分化は次第に甚だしくなる一方である。それは止むを得ないことであり、またそういう分化の効能が顕著なものであるということについては今更にいうまでもないのであるが、この傾向に伴う一つの重大な弊は、学者が自分の専門に属する一つの学全体としての概景を見失ってしまい、従って自分の専門と他の専門との間の関係についての鳥瞰的認識を欠くようになるということである。それだけならば、まだしもであるが、困ったことには、各自が専門とする部門が斯学全体の中の一小部分であることをいつか忘れてしまって、自分の立場から見ただけのパースペクティヴによって、自分の専門が学全体を掩蔽するその見掛け上の主観的視像を客観的実在そのものと誤認するような傾向を生ずる恐れが多分にあるのである。平たく云えば、自分の専門以外の部門の事柄がつまらなく、自分の専門だけが異常に特別に重大に見えて来るのである。
さて、このように縮小された各学者の眼界の領域はほとんど十人十色であって、それらのおのおのの領域はある部分では互いに重合して共通していても、残りの部分ではみんな少しずつちがっているわけである。しかもそれらの人々が独創的であり見識家であるほど、その差別の程度も甚だしいのである。
ただ、一番始末のいい場合は、学問の本山であるところの西洋の第一流の大家達の統括の下に開拓され発達させられた一つの明確な区劃内に限られた部門の中で、かの地の誰やかれが既にかなりまでつつき廻した問題の一方面に若干の確実な貢献をしたというような種類の仕事が学位論文として提出された場合である。こういう場合にその同じ部門の専門家が審査員になっていれば、当該方面の文献も手近に揃っており、従って提出された仕事がその方面の領域で占める地位とその幅員も判断されやすい。しかし、こういう代表的なアカデミックな仕事ですらも審査員の眼界があまりに狭くてその部門のその問題の他の方面にまで眼が行届かないような場合には、そこに提出された論文のせっかくの狙い所が正常の価値を認められずに軽視されることも実際にあり得るのである。またこれと反対に、その提出された仕事が問題の各方面を引っくるめた全体の上から見ると実に些末な価値しかないものと他の多くの人からは思われるものであっても、それが丁度、当該審査委員の正に求めている壺にはまり、その委員の刻下の疑団を氷解せしめるような要点に触れている場合には、その審査委員の眼にとっては、その仕事の価値が異常に釣り上げられて見えるのは人情の自然であろうと思われる。
このように、最も問題になる憂いの少ない論文でさえも、見る人の眼のつけ処でその価値にかなりの懸隔を生じるのである。それで、なるべく拾うべき長所の拾い落しのないためにはなるべく多数の審査員を選び、そうしてそれらの人達の合議によって及落を決したらよさそうに思われるが、そうなるとまた実行上かなり困難なことが起って来るのである。何故かというと、学者に限らず人間が三人以上も寄合って相談をする場合、特にものの価値を判断する場合となると、物の長所を拾い出す人よりはとかくあらを拾い出し掘り出す人が多くなる傾向がある。それがまた特に合議者間に平素から意思の疎通を欠いでいるような場合だと、甲の持ち出す長所は乙の異議で疵がつき、乙の認める美点は甲の詮索でぼろを出すということが往々ある。結局大勢かかればかかる程みんなが「検事」の立場になって、「弁護士」は一人もなくなってしまうような状況になりやすい。人殺しの罪人でさえも官費で弁護士がつけられる世の中に、効はあっても罪のない論文提出者は八方から虫眼鏡で瑕を捜され叱責されることになるのである。たとえ明白な誤謬は一つもない論文であっても、一人の人間が限りある時間に仕遂げた仕事であってみれば、あらゆる批評家のあらゆる方面から見たとき考え得らるべきあらゆる要求を満足させるようにあらゆる釘と栓を挿しあわせるということはほとんど不可能なことである。その証拠には西洋第一流の大家の最も優れた論文に対してさえも、第三流以下の学者の岡目から何かしら尤もらしい望蜀的の不満を持ち出してそれを抗議の種にすることは比較的容易なことである。白梅の花を見て色のないのを責めるような種類の云わば消極的な抗議が、時と場合によっては幅を利かして審査の標準を狂わせるようなことも全くないとは云われない。審査員というものが神様でない以上これも止むを得ないことである。ましてや論文が独創的なものであればあるほど、疵やひびが多いのは当然であるから、そういうものが大勢の合議にかかれば無事に通過する気遣いはまず無いと云ってもいい。
こんな訳からでもあろう。審査員というものには通例話の纏まりやすい二、三人というところが選ばれ、その親密な合議で事を決するようになっているものらしい。それで多くの場合には各自の意見を参酌し折れ合って大体の価値を決め、そうして皆が十分の責任を負うというだけの自信を得た上で及落を決定する。そうするのが実行上最も便宜であり、結果においても比較的公平を期することが出来るであろう。
こんな工合であるから論文の価値は結局少しも絶対的なものでなく、全く相対的に審査員の如何によって定まる性質のものである。尤も中にはほとんど如何なる審査員にも採用されるもの、また反対にどこへ出してもきっと落第させられるというものも偶にはあるであろうが、その中間のものがなかなかの多数であることは統計学的に考えても明白なことである。さてこそ、そこに依怙や毛嫌いの私情が入り込む隙間があるのである。そういう中間的価値のものであれば、それを落第させたことに対する非難のあったときには、必ずどこかにはあるにきまっている弱味と欠点を指摘し強調すれば一応の申訳は立つであろうし、また及第させたことを責める人があった場合には、これも必ずあるにきまっている長所と美点を示揚し讃美すればそれで始末がつくのである。そういうものであるからこそ学位の売買といったようなことも可能になるのである。
結局は、やればやり得る学位を、無用な狐疑や第二義的な些末な考査からやり惜しみをするということが、こういう不祥事やあらゆる依怙沙汰の原因になるのである。たとえ多少の欠点はあるとしても、およそ神様でない人間のした事で欠点のないものは有り得ないことはあまりにも明白なことであるから、それよりも仕事の長所と美点を明白に認識して、それに対して学位を授けるということにすれば事柄はよほど簡単になるであろうと思われる。学位論文として著者が自信をもって提出するほどのものでなんらか斯学に貢献するポイントをもたないようなものは極めて稀であろうと思われるのである。あらを拾えば切りはない。あらはないが何の取り柄もない論文は百あっても学問は進まないであろう。
学位というものは決してやり惜しみをするような勿体ないものでも何んでもないのであってただ関係学科に多少でも貢献するような仕事をなにか一つだけはした人間だという証明書をやるだけのことであって、その人がえらい学者であり何んでも知っているという保証をつける訳でもなんでもないのである。場合によってはむしろ反対にその専門中のある専門以外のことは何も知らないという免状になることすら可能なのである。
学位に関するあらゆる不祥事を無くする唯一の方法は、惜しまず遠慮なく学位を授与することである。一日何人以上はいけないなどという理窟はどこにもない。百人でも千人でも相当なものであれば残らず博士にすればよい。それほど目出度いことはないのである。そうすれば学位に対する世間の迷信も自然に消滅すると同時に学位というものの本当の価値が却って正常に認識されるであろうと思われる。
大学でも卒業した人間なら取ろうと思えばおそらく誰でも取れる学位である。取るまでの辛抱をつづけるかつづけないかの相違で博士と学士の区別が生じる。それだからこそ恐ろしく頭の悪い博士もあれば、図抜けて頭のいいよく出来るただの学士も捜せばいくらでも居るであろう。本来博士号は一つことを数年根気よく勉強したという身元保証書の一行である。人殺しをしようが詐偽をしようがそんなことは最初から誰も引受人はないのである。
学位の出し惜しみをする審査員といえども決して神様でない限り、その人の昔の学位論文が必ず完全無欠なものとは限らず、ノーベル賞に値いするほどの大発見でもないのであろう。しかし人間は妙なものである。姑にいびられた嫁が後日自分で姑の地位に立った場合には綺麗に昔の行届かなかった自分を忘れてしまうように、自分が審査員になる頃にはたちまち全能の神のような心持になる、ということも全然この世にないとは限らない。これは各自の反省すべき点であろう。可笑しいことにはある第三者から見ると被審査者の方が審査員よりもずっと優れた頭脳の持主であって、そうして提出された論文が審査員諸氏の昔の学位論文よりもずっと立派だと思われる場合においてすらも、審査員諸氏がその論文の短所だけを強調して落第させようと思えば落第させることが立派に出来、しかも落第させたことについて立派に責任をもち、立派に申開きを立てることが出来るのである。そうして更に面白いことには、良い論文を落第させればさせるほど、あたかもその審査員並びにその属する学団の品位が上昇するかのごとき感じを局外者に与えるらしく思い込まれる場合もあるようである。生徒に甘い点をつける先生は甘く見え、辛い点をつけるほどえらい先生らしく見えるかというと、あながちそうでもないのであるが、学位の場合は少しちがうものと見える。しかし、審査の重責に在る者は、あまりに消極的な考えから、ひたすらに欠点の見落しを惧れるよりも、更に一層長所と美点に対する眼識の不足を恥ずべきではないかと思われるのである。
学位売買事件や学位濫授問題が新聞雑誌の商売の種にされて持て囃されることの結果が色々あるうちで、一番日本のために憂慮すべき弊害と思われることは、この声の脅威によって「学位授与恐怖病」の発生を見るに到りはしないかという心配の種が芽を出すことである。細心にして潔癖なる審査員達は「濫授」「濫造」の声に対して敏感ならざるを得ないのである。授与過剰の物議よりは、まだしも授与過少の不平の方が耳触わりの痛さにおいて多少の差等があるのである。
学位を狙う動機がたとえ私利や栄達のためであろうが、ともかくも我邦で一人でも多く学問の研究に志し従事する人が多ければそれだけ我邦の学術は発達を刺戟される。屑のような論文が百も出るうちには一つくらいは少しはろくなものも交じる確率があり、万人の研究者の中には半人くらいは世界的の学者を出すプロバビリティーがあるかも知れない。それで、何かしら一つ仕事をすれば学位が必ずとれるとなれば志望者も自ずから増すであろう。あの男が取れるならおれでも取れるという人もあるかもしれない。その結果は研究者の増加を促し翻っては一国の学術研究熱を鼓吹することになるであろう。これに反して、五年も十年も一生懸命骨を折って勉強をした人の、外目にはともかくも相当なコントリビューションにはなるであろうと思われるものが些細な欠点のために落第させられたり、二十年も事務室の金庫に秘蔵されるようでは、先ずよほどの自信家でない限り論文提出について逡巡せざるを得ないであろう。提出を控えるだけならば誠に結構であるが、論文を書くまでに必要な肝心の研究を見合せて転向を想うようになる人の数が幾分でも多くなって来るのであったら、これは少し考えものではないか。
博士がえらいものであったのは何十年前の話である。弊衣破帽の学生さんが、学士の免状を貰った日に馬車が迎えに来た時代の灰色の昔の夢物語に過ぎない。そのお伽噺のような時代が今日までつづいているという錯覚がすべての間違いの舞台の旋転する軸となっている。社会の先覚者をもって任じているはずの新聞雑誌の編輯者達がどうして今日唯今でもまだ学位濫授を問題にし、売買事件などを重大問題であるかのごとく取扱うかがちょっと不思議に思われるのである。学位記というものは、云わば商売志願の若者が三年か五年の間ある商店で実務の習練を無事に勤め上げたという考査状と同等なものに過ぎない。学者の仕事は、それに終るのではなくて、実はそれから始まるのである。学位を取った日から勉強をやめてしまうような現金な学者が幾人かはあるとしても、それは大局の上から見ればそう重大な問題ではないであろう。少なくもその日まで勉強したことはまるで何もしなかったよりはやはりそれだけの貢献にはなっており、その日から止めたことは結局その人自身の損失に過ぎないであろう。
学位授与恐怖病の流行によって最も損害を受けるものは、本当に独創的な研究によって学位を請求する人達であろう。独創的なものには玉もあるが疵も多い。疵を怖がる眼には疵ばかり見えて玉は見えにくい。審査者に十分の見識がないと、そういうものの価値の見当はつけにくいものである。そういうものは消極主義の審査官の安全第一という立場から云えば保留した方が無事である。西洋の学者がそれについて何とかいうのを待ってその鼻息を窺ってから決定した方がいい、ということになる恐れがある。ところが西洋では東洋人の独創などはよほどなものでないと見遁されやすい。不幸なのは独創性をもって生まれた研究者である。
日本の学術が進歩したとはいうもののまだまだ十分とは云われない。試みに世界における物理化学に関する研究論文の文献を集録した『フィジカリッシェ・ベリヒテ』及び『ケミカル・ニュース』の最近のものについて日本人の論文の数を検して見ると約三プロセントくらいのものである。少数な世界の強国の中の日本としてはあまりに少ない比率である。軍艦の比率を争うのも緊要であろうが、科学戦に対する国防がこの状況では心細くはないか。
繰返して云うが、学位などは惜しまず授与すればそれだけでもいくらかは学術奨励のたしになるであろう。学位のねうちは下がるほど国家の慶事である。紙屑のような論文でも沢山に出るうちには偶にはいいものも出るであろうと思われる。
金を貰って学位を売るのはよくないであろうが、これより幾層倍悪い事があるまじき処に行われている世の中である。しかし、悪いことを咎めるのが大切であると同時に善いことを勧めるのもなおさら肝要である。議会でも暴露の泥仕合にのみ忙しくして積極的に肝要な国政を怠れば真面目な国民は決して喜ばないであろうと同様に、学位授与の弊害のみを誇大視して徒らにジャーナリズムの好餌としていては、その結果は却って我邦学術の進運を阻害するようなことに多少でもなる恐れがありはしないか。この点を深く自ら考慮しまた識者の教えを乞いたいと思うのである。
この問題に関しては述ぶべき事はこれに尽きないが、与えられた紙幅が既に尽きたから、これで擱筆する外はない。執筆の動機はただ我邦学術の健全なる発達に対する熱望の外には何物もない。ただ生来の不文のために我学界に礼を失するがごとき点があるかもしれないが、これについては単えに読者の寛容を祈る次第である。
底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
1997(平成9)年4月4日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 第四巻」岩波書店
1985(昭和60)年11月5日第3刷発行
初出:「改造 第十六巻第五号」
1934(昭和9)年4月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」です。
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2005年3月16日作成
2016年2月25日修正
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