次郎物語
第一部
下村湖人



お猿さん


しゃくにさわるったら、ありゃしない。」と、乳母のお浜が、台所の上りがまちに腰をかけながら言う。

「全くさ。いくら気がきついたって、奥さんもあんまりだよ。まるで人情というものをふみつけにしているんだもの。」と、かまどの前で、あばた面をほてらしながら、お糸婆さんが、能弁にあいづちをうつ。

「お前たち、何を言っているんだよ。」と、その時、台所と茶の間を仕切る障子が、がらりと開いて、お民のかん高い声が、鋭く二人の耳をうつ。

 お糸婆さんは、そ知らぬ顔をする。お浜は、どうせやけ糞だ、といったように、まともにお民の顔を見かえす。見返されて、お民はいよいよきっとなる。

「お浜、あたしあれほど事をわけて言っているのに、お前まだわからないのかい。きょう一は何と言っても惣領そうりょうなんだからね。どうせあの子を、そういつまでも、お前の家に預けとくわけにはいかないじゃないか。」

「そんなこと、もうわかっていますわ。どうせ御無理ごもっともでしょうからね。」

「お前何ということをお言いだい、私に向かって。……お前それですむと思うの。」

「すむかすまないかわかりませんわ。まるでだましうちにあったんですもの。」

「欺しうちだって。」

「そうじゃございませんか。恭さんをちょっと連れて来いとおっしゃるから、つれて上ると、すぐにお祖母さんに連れ出さしておいて、そのあとで、こんなお話なんですもの。」

「それで、お前すねたというのだね。」

「すねたくもなろうじゃありませんか。私にも人情っていうものがございますからね。」

「すると、恭一の代りに、次郎を預るのは、どうしても嫌だとお言いなのかい。」

 お浜はそっぽを向いて默りこむ。

「何というわからずやだろうね。私に乳がないばっかりにこうして頼んでいるのに、やさしく言えばつけ上ってさ。……いやなら嫌でいいよ、もうお前にはどの子も頼まないから。その代りこの家とはこれっきり縁を切るから、そうお思い。飯米はんまいに困るなんてまた泣きついて来たって知らないよ。恭一にだって、これからはどんな事があっても逢わせるこっちゃない。」

 お民は、そう言ってぴしゃりと障子しょうじをしめた。

「奥さん、そりゃあんまりです。あんまりです。」

 お浜はしめられた障子のそとでわめき立てた。

「何があんまりだよ。」

「あんまりですわ。やっと恭一さんを一年あまりもお育てしたところを、だしぬけに、今度の赤ちゃんのような、あんな……」

「あんな、何だえ。」と、また障子ががらりと開く。

「…………」

「はっきりお言い。」

「まあまあ、奥さん、わたしからお浜どんにはよう言って聞かせましょうで……」と、お糸婆さんが、やっとなだめにかかる。

「言って聞かせるもないもんだよ。年寄りのくせに、お浜にあいづちばかりうっていてさ。」

「へへへへ。」お糸婆さんは、お歯黒はぐろのはげた歯をむき出して、変な笑いかたをする。

 その時、奥の方から赤ん坊の泣き声がきこえた。お民は障子をしめながら、二人をぐっとめつけて、おいて、その方に立って行く。

「どうせお前さんの思う通りにゃなりっこないよ。あきらめたらどうだね。」と、お糸婆さんはお浜に寄りそって小声で言った。

「やっぱり今度の赤ちゃんを預るのさ。飯米のこともあるしね。」

「あたしゃ、飯米のことなんか、どうだっていい気がするんだよ。」

「そりゃ、お前さんの今の気持はそうだろうともさ。だけど飯米もふいになるし、恭さんにもこれから逢えないとなりゃ……」

「ほんとうに逢わせない気だろうかね。」

「そりゃ、あの奥さんのことだもの。……お前さんも随分勝気だが、奥さんにあっちゃかないっこないよ。こうと決めたら、てこでも動くこっちゃないからね。」

「そのうちには、恭さんもわたしたちを忘れてしまうだろうね。」

「そりゃ、何といってもね……だから、やっぱり今のうちに、お前さんの方で折れた方が何かと工合がいいんだよ。」

「でも、恭さんの代りにあんな猿みたいな子を預るのかと思うと……」

「そんなこと言うのは、およし。聞えたらどうする。」

「だって、本当だろう。お前さん、そうは思わないかい。」

「それほどにも思わないよ。そりゃ恭さんとはくらべものにならないけれど。」

「恭さんは、そりゃ生まれた時から品があったよ。」

「今度の赤ちゃんだって、育てていりゃ、そのうち可愛ゆくなるさ。」

「あんなお猿さんみたいな顔でもかい。」

「およしったら。ほんとに聞えたら知らないよ。」

「聞えたら、聞えたでかまわないさ。」

「でも、それじゃ、何もかも駄目になるじゃないかね、第一、恭さんにも一生逢えなくなるよ。それでもいいのかい。」

「ああ、ああ、癪でも、やっぱり預ることにしようかね。」

「そうおし、飯米のこともあるしね。」

「また飯米のことかい。よしておくれよ。あたしゃ、恭さんが可愛いばっかりに、あんな猿みたいな赤ちゃんでも、預ってみようというんだよ。」

「おやおや、えらいご奮発ふんぱつだね。でも、預る気になってくれて、わたしも奥さんに申訳が立つというわけさ、……どうれ、また気が変らないうちに、奥さんに知らしてあげようか。」

 お糸婆さんは、にたにた笑いながら奥に行った。そして、お民にさんざんみつかれながらも、ともかくもうまく話をまとめた。

 そこで次郎はその日から、恭一に代って、お浜の家に里子さとごに行くことになったわけなのである。

 だが、お浜が次郎をいつまでもお猿さん扱いにしてきらっていたかというと、そうではない。三四ヵ月もたつと、彼女の愛情は、もうすっかり恭一から次郎の方へ移ってしまっていたのである。

 お民は、次郎が次男坊なためか、或いはお浜が言ったように、実際猿みたいな顔をしていたためなのか、恭一を預けていた頃にくらべて何かにつけ冷淡だった。お浜にはそれが癪だった。そして、それがかえって彼女の次郎に対する愛着を増す原因のひとつでもあったのである。

 ある日、お浜は次郎の大きくなったのを、お民に見せたいと思って、しばらくぶりでやって来た。するといきなりこんな会話が始まった。

お民──「おかげで、お猿さんも随分大きくなったわね。」

お浜──「まあ、お猿さんですって?」

お民──「そう言っちゃ、いけなかったのかい。」

お浜──「だって、自分の御子様じゃございませんか。」

お民──「でも、お猿さんって言うのは、お前がつけてくれた名だっていうじゃないの。ちゃんと婆さんに聞いて知っているのよ。」

お浜──「あの時は、あの時ですわ。いつまでもそんな……」

お民──「少しは人間らしい顔に見えて来たと、お言いなのかい。」

お浜──「奥さんたち、わたし、くやしいっ。」

お民──「おや、泣いているの、ついからかってみたくなったのだよ。すまなかったわね。」

お浜──「からかうのも、事によりますわ。奥さんがそんな気持でしたら、私にも考えがあります。」

 お浜は、ぷんぷん怒って、次郎を抱いて帰ってしまった。そして、それっきり、お民から何度使いをやっても顔を見せなかったばかりか、月々の飯米さえ受取りに来ようとしなかった。で、とうとうお民の方が根負こんまけして、自分でお浜の家に出かけることになった。

 今度は、無論お猿の話なんか、どちらからも出なかった。それどころか、お民はこんなことを言って、お浜の機嫌きげんをとったのである。

「この子は八月十五夜の丁度ちょうど月の出に生まれたんだよ。だから、きっと今に偉くなると思うわ。」

 お浜は、それですっかり気をよくした。そして、それ以来、「八月十五夜の月の出」が、いつも二人の話の種になった。話の種になっても、それはちっとも不都合ではなかったのである。と言うのは、次郎の生まれた時刻は、実際その通りだったのだから。

 もっとも、その時刻に生まれたことが、果して次郎にとって幸福であったかどうかは、疑わしい。それはおいおいと話していくうちにわかることである。


お玉杓子


 次郎は、お浜の娘のお兼とお鶴とを相手に、地べたにむしろを敷いて、ままごと遊びをしている。場所は古ぼけた小学校の校庭だが、森閑しんかんとして物音一つしない。周囲は、見渡すかぎり、黄金色の稲田である。午後のがぽかぽかと温かい。

 この光景は、次郎の心に、おりおりよみがえって来る、最も古い記憶の一つで、たぶん、彼の五歳頃のことだったろうと思われる。

 お浜一家は、村の小学校の校番をしていた。老夫婦にお浜夫婦、それにお兼とお鶴、都合六人の家族が、教員室のすぐ隣の、うす暗い畳敷の部屋と、その次の板の間とを自分達の住家にしていたのである。そしてそこへ割りこまされたのが次郎であった。

 全体、恭一にせよ、次郎にせよ、何でわざわざこんな家をえらんで預けられたのかというと、それは、母のお民が、子供の教育について一かどの見識家けんしきかだったからである。彼女は、槍一筋やりひとすじの武士の娘であった。そして幼いころから幾十回となく、孟母三遷もうぼさんせんの教というものを聞かされて、それになみなみならぬ感激を覚えていた。で、自分に子供が出来たら、機会を見つけてそれに似たようなことを実行してみたいと、かねて心に期していたのである。

 こうした抱負をもった彼女にとって、お浜一家が学校の中に寝起きしているということが、大きな魅力にならないわけはなかった。この魅力の前には、校番の部屋が狭くて不潔であろうと、お浜本人が、以前三味線しゃみせん門付かどづけをしていた女であろうと、また、彼女の亭主の勘作がどこかの炭坑稼ぎにあぶれて、この村に流れこんで来た者であろうと、そんなことはまるで問題ではなかったのである。

 そこで、三人の日向ひなたぼっこの話にもどる。

 次郎は蓆の中央に殿様のように座を占めて、お兼とお鶴とが、左右からつぎつぎにブリキの皿に盛って差出す草の実や、砂饅頭まんじゅうに箸をつける真似をしていた。しかし、もう同じような遊びを小半時も続けていたので、少しきが来たところだった。厭きが来ると、次郎はいつもお兼だけをのけ者にしてお鶴と二人きりで遊びたい気持になるのであった。お兼は恭一と同い年、お鶴は次郎と同い年で、これが次郎をして自然お兼よりもお鶴の方に親しませる理由だったらしい。が、同時に、色の黒い、藪睨やぶにらみのお兼にくらべて、ふっくらした頬とくるくるした眼をもったお鶴の方が、より大きな魅力であったこともいなみがたい事実であった。

 ところで、次郎にとって、ここに一つの悲しむべきことがあった。それはお鶴のふっくらした左頬に、形も大きさも、お玉杓子たまじゃくしそっくりなあざが一つくっついていたことである。次郎はいつもそれが気になって仕方がなかった。その日も、ままごとに厭くと、お兼にくるりと尻を向けてお鶴と差向いになったが、その時、早速眼についたのがそのお玉杓子であった。

 お鶴は、次郎のそんな仕草しぐさにはちっとも気がつかないで、相変らず草の葉をきざんでは、せっせとそれをブリキ罐の中にためこんでいたが、永いこと陽に照らされて、ピンク色に染まったその頬の上に、鮮かに浮き出したお玉杓子が、次郎の眼には、いかにも血がかよって動いているように見えたのである。

 次郎は変に心が落ちつかなくなった。そして、しばらくの間は、むずむずした気分で、それに見入っていた。そのうちに彼の右手の人差指がいつの間にかそろそろと伸びていって、こわいものにでもれるように、そっとお鶴の頬をかすめたのである。

 お鶴には、次郎が何でそんなことをするのかわからなかった。で、彼女は相変らずお玉杓子を頬にくっつけたまま、きょとんとして次郎の顔をみつめた。

 お兼は、藪睨みの眼を一層藪睨みにして「ひっひっ」と次郎のうしろで笑った。

 次郎は、その笑い声をきくと、何か非常に悪いことでもしたように思って、きまり悪くなった。ところで、男の子供というものは、きまり悪くなると、時として、妙に乱暴な気分になるものである。彼は急に立ち上って、あたりにあるままごと道具を、めちゃくちゃに足で蹴ちらしはじめた。

 お兼がまた「ひっひっ」と笑った。

 すると、次郎は何と思ったのか、今度はいきなりお鶴の方に飛びかかって行って、お玉杓子のくっついている頬をぬじ切るようにつねり上げたのである。

 お鶴は火がつくように泣き出した。

「父っちゃん」と、お兼は金切声をあげて、校番室の方に走り出した。そして、それから一二分の後には、次郎の両手は、勘作の木の根のようなてのひらの中に、しっかりと握りしめられていたのである。

「何しやがるんだい、こいつ。」と、勘作の怒った声。

 同時に、次郎の体は、乱暴らんぼうに宙につり上げられた。手首と肩のつけ根とが無性に痛い。

 次郎は、それでも、泣き声を立てなかった。彼は両足をばたばたさせながら、めちゃくちゃに勘作の下腹をった。

「この餓鬼がきめ。」

 次郎は、いきなりうつ伏せに地べたに放り出された。掌と、唇と、鼻柱と、膝頭とが、その瞬間に、打ちくだかれたような痛みを覚えた。彼は四五秒の間突っ伏したまま、身じろぎもしなかったが、次の瞬間には、地の底で鵞鳥がちょうが縮め殺されるような泣き声を立てた。

 お鶴も仰向あおむけになってまだ泣いていたが、次郎の泣き声を聞くと、一層大きな声を出して泣いた。そしてそれから二人はせり合うように、代る代る泣き声をはり上げた。

 勘作は突っ立ったままじっと次郎を睨めつけていた。

「どうしたんだね。」と、そこへお浜が掃除をしていたらしく、竹箒を持ったままやって来た。

「何だか知らねえが、こいつ、お鶴の頬ぺたを、ひどくつねっていやがったんでね。」

「それでお前さんは、坊ちゃんをなげとばしたとお言いなのかい。」

「そうだよ。」

「そうだよもないもんだ。たかが子供の喧嘩じゃないかね。仕事なしだとは言いながら、大の男が、子供の喧嘩を買って出るなんて、そんな話がどこの世界にあるもんか。」

「お浜、おめえ、自分の子が可愛いくはねえのか、こんな目にあわされても。」

「何言ってるんだよ。ばかばかしい。可愛いけりゃこそ、こうやって私の手一つで、育てているんじゃないかね。お前さんこそ、子供が可愛いくないんだろう。毎日毎日ぶらぶらして、びた一文こさえて来るではなしさ。」

 勘作はそっぽを向いて、默ってしまった。

 それまで、気のぬけた泣き声を出しながら、二人の言いあいに聞き耳を立てていた次郎は、どうやらお浜の方が優勢ゆうせいらしいのを知って、ほっとした。そして、もう一度お浜の同情を求めるために、大きな声を立てた。するとお鶴の方でも、それに負けないでわめき立てた。

「いつまでも泣くんじゃない。」

 お浜は、お鶴をかろくたしなめてから、次郎の突っ伏しているそばにやって来た。

「次郎ちゃん。勘忍かんにんなさいね。」

 お浜は、他の人に向かっては、次郎のことを「坊ちゃん」と呼ぶのだが、次郎本人に対しては、いつも、「次郎ちゃん」と呼ぶことにしているのである。

「次郎ちゃんは、もう大きくなったんだから、お偉いでしょう。さあ、自分で起っきするんですよ。」

 次郎は、しかし、お浜にそう言われて、足をばたばたさせながら、もう一度烈しくわめき立てた。すると、お浜は、うろたえたように、持っていた箒を地べたに置き、彼を抱き起こしにかかった。

「おやっ。」

 次郎を抱き起こしたお浜は、土埃つちほこりにまみれた彼の鼻と唇のあたりに、ほんの僅かではあったが血がにじんでいるのを見つけたのである。

「お前さん、坊ちゃんのお顔に傷をつけたんだね。」

 彼女は、きっとなって、もう一度勘作の方に向き直った。

 勘作は、その時、お鶴の方を抱き起こして塵を払ってやっていたが、お浜の見幕けんまくを見ると、そ知らぬ顔をして、さっさと校番室の方に歩き出した。

「お待ちっ。」

 お浜はそう叫ぶと同時に、竹箒を取りあげて、うしろから思うさま勘作の頭をなぐりつけた。

「何しやがるんだい。」

 勘作も、さすがに恐ろしい眼付をして向き直った。

「何も糞もあるもんか、大事な坊ちゃんの顔に傷をつけやがってさ。」

 お浜は、まるで気が狂ったように、箒をふりまわして、勘作の顔といわず、手といわず、盲滅法めくらめっぽうに打ってかかった。勘作は、突っ立ったまま、しばらく両手でそれを払いのけていたが、お浜の見幕はますます烈しくなるばかりであった。

「ちえっ。」と、勘作は舌打をした。そして、くるりと向きをかえると、校庭の溝をとび越えて、畦道あぜみちの方に逃げ出した。

「ぐうたらの、恩知らずめ。」

 お浜はそう叫びながら、あとを追った。しかし、みぞのところまで行くと、さすがにそれを飛びこしかねたらしく、そこに立ち止ったまま、いつまでも口ぎたなく勘作を罵っていた。

 次郎とお鶴とは、ぽかんとしてこの光景に眼を見張った。

 二人の眼からは涙はもうすっかり乾いていたが、彼らの顔は、涙でねった土埃で真っ黒によごれていた。

 お鶴の頬のお玉杓子もどうやら行方不明になっていた。同時に、次郎も、すっかりそれを忘れてしまっていたのである。


耳たぶ


 ある夏の日暮である。次郎は直吉の肩車に乗って、校番の部屋から畦道に出た──直吉は二十二三歳の青年で、次郎の実家の雇人である。今日はお民に言いつかって、次郎を迎えに来たのであった。

 次郎は肩車が好きだった。このごろ勘作がいよいよ自分をかまいつけてくれなくなり、もう、永いこと肩車に乗らなかったところへ、ひょっくり直吉がやって来て、お浜と何か二言三言ささやきあったあと、肩車にのせてやろうと言ったので、彼は大喜びだった。

 校門を出て一町ほど北に行くと大きな沢がある。そこにはもう毎晩蛍が飛んでいるころだ。次郎はよくそのことを知っている。だから、彼は肩車に乗って、そこに連れて行って貰うつもりだったのである。

 ところが直吉は、校門を出ると、すぐ南の方角に歩き出した。この南の方角というのが、次郎にとっては、あまり好ましい方角ではなかったのだ。というのは、その方角に、彼の父母や、祖父母や、兄弟達が住んでいる家があったのだから。

 お民は、孟母三遷の教にヒントを得て、次郎を校番の家に預けはしたものの、彼がもの心つくにつれて、どうやらお浜に親しみ過ぎる傾向があり、それに、孟子の場合とちがって、学校というものの感化力が思ったほどでない、ということをだんだん知りはじめたので、この頃では、お浜が次郎をれてやって来るごとに、彼女を説きつけて、こっそり一人で帰って貰うことにしていたのである。

 次郎にとって、それが大きな試煉であったことはいうまでもない。彼はそんな時には、きまって、恐ろしい沈默家になり、小食家になり、おまけに不安から来る寝小便をすらもらしたのであった。

 彼にとっては、第一、家があまり広すぎた。狭っくるしい部屋の中で、むせるような生活をしなれて来た彼は、こんな広い家に這入ると、急にすべての人間が自分から遠のいてしまうような気がして、妙なはだ寒さを感じた。お浜がそばについている間ですらそうであったのに、まして、彼女がこっそり姿を消してしまったあとの頼りなさといったらなかったのである。

 むろん、お浜が去ったあとでは、お民をはじめ、みんなで彼を取りまいて、いろいろと言葉をかけてくれた。しかしそれらの言葉は、彼の耳には、学校の先生が教壇の上からものを言っているようにきこえて、何だか身がすくむようだった。とりわけお民の言葉にはそんな調子がひどかった。お民としてはそれはやむを得ないことだったかも知れない。というのは、彼女は、こんご次郎の悪癖をめ、彼に上品な礼儀を教えこむという、母として重大な責務を負っていたのだから。

 恭一は大して恐い兄とは思えなかった。しかし、そのなま白い顔と、いやにしとやかな動作とが、どうも次郎にしっくりしなかった。弟の俊三しゅんぞうはまだ生まれて三年たらずではあったが、末っ子で、はじめから母の乳房ちぶさで育ったためか、誰に対しても無遠慮な振舞いがあり、次郎の眼には、彼こそ第一の強敵のように映った。

 祖父と父とは、遠くから冷やかに彼を眺めている、といったふうであった。祖母は馬鹿に彼にちやほやするかと思うと、すぐ突っけんどんになった。

 こんなふうで、彼の実家はどんな角度から見ても、彼にとって愉快なものではなかった。で、彼がお浜に置き去りを食ったあと、沈默家になり、小食家になり、寝小便をもらすのは余儀ない次第であった。いわばそれは彼の自衛本能じえいほんのうともいうべきものだったのである。そして、この本能の命令に従うことは、いつも事柄を次郎の有利なように展開させたというのは、彼は結局家中の者にもてあまされて、再びお浜の手に引き渡されることになったからである。

 次郎は最近二十日あまりも寝小便もたらさないで、お浜のもとに落ちついていた。そしてそろそろ実家の記憶もうすらぎかけたところであった。ところが、今日はだしぬけに、お浜と一緒ですら嫌いな方角に、大して親しみもない直吉によって、運び去られようとするのである。これは次郎にとっては、全く思いがけない出来事であった。

 直吉の肩の上で、彼の小さな胸はどきどきし出した。

「いやあよ、いやあよ、あっちだい。」

 彼は、彼の両手で、直吉の顔をうしろの方にねじ向けようとした。しかし、直吉の顔は、がんとして南の方を向いたきりで、どうにもならなかった。どうにもならないどころか、直吉の足は、かえってそのために、一層速くなる傾向けいこうさえあった。

 次郎はしくしく泣き出した。泣き出しても、直吉は一向平気らしかった。彼はずんずん南の方にあるくだけで、口一つこうとしない。次郎は泣きながらうしろを振りかえった。学校の建物が夕暮の光の中に、一歩一歩と遠ざかっていくのが、たまらなく淋しい。

 こうなると、次郎はあきらめてしまうか、戦うか、二つに一つを選ばなければならなかった。彼は決然として後者を選んだ。──元来がんらい、次郎の勇気は学校との距離に反比例し、実家との距離に正比例することになっていたので、戦うならなるべく早い方ががよかったのである。

 なお、彼が肩車に乗っていたことも、彼にとっては、有利な条件だった。それは、直吉の髪の毛や耳朶みみたぶを、自由に掴むことが出来たからである。しかも幸いなことには、直吉の髪の毛は相当長かった。彼は早速髪の毛をむしることにした。

「痛いっ。」

 直吉は頓狂とんきょうに呼んだ。しかし、彼の歩いて行く方向は、依然として変らない。従って、次郎の進む方向にも一向変化がないのである。

 今度は思い切って耳朶をつかんだ。少々すべっこくて、頼りない感じがする。次郎は総身の力をその小さな爪先にこめて、直吉の耳朶をもみくちゃにした。

「ひいっ、畜生っ。」

 直吉は悲鳴をあげた。同時に、今まで次郎の足にかけていた両手を思わず放してしまった。

 とたんに次郎の体はうしろの方にぐらついた。次郎の十本の指は、直吉の耳朶をつかんだままだったが、彼の体の重みを支えるには少し弱すぎたらしく、次の瞬間には、彼の体は、砂利じゃりで固まった路の上に、ほとんどまっさかさまに落っこちた。

 彼は、後頭部と肩のあたりに花火が爆発したような震動しんどうを感じて、ぼうっとなった。しかし、この瞬間は彼にとって大事な一瞬であった。彼はまりねるように起き上った。そして、まっしぐらに学校の方に走り出した。

 ものの半丁ばかりは、まるで夢中だった。しかし彼は、直吉が追っかけて来るかどうかを確かめずには居れない気がした。で、走りながら、一寸うしろを振り向いた。すると直吉は、両手で耳朶を押さえながら、うらめしそうにこちらをにらんで立っていた。

 次郎はいくらか安心した。同時に、ちらと見た直吉の様子が妙に恐ろしくなった。そして、急に名状しがたい悲しさがこみ上げて来た。彼は、走りながら、精一ぱいの声を出して泣き出した。

 校門までくると、そこにはお浜が身を忍ばせるようにして、彼を待っていた。彼はもう一度大声をあげて泣きながら彼女に飛びついた。お浜は默って身をこごめながら、彼に頬ずりした。

 次郎の涙は、そろそろ甘いものに変っていった。そして心が落ちつくにつれて、彼はお浜に抱きついている自分の両手の指先が、妙にぬるぬるするのに気づき出した。彼は涙のたまった眼をしばだたきながら、そっと指先をのぞいて見た。血だ。どす黒い血のかたまりだ。

 彼は、それをお浜に見られてはならないような気がした。で、甘ったれた息ずすりをしながら、そっと指先をお浜の着物になすりつけてしまったのである。


提灯


 耳たぶ一件以来、次郎の警戒心けいかいしんは急に強くなった。たといお浜と一緒であっても、もし彼女が校門を出て南の方角に行きそうになると、彼はすぐ握られた手を振り放した。また彼は、それっきり、どんなに誘いをかけられても、よその人におんぶされたり、その肩車に乗ったりはしなくなった。

「もうそんなことをするのが恥ずかしいんですよ。やっぱり年が教えるんですね。」

 お浜は、よくそんなことを得意らしく言っては、次郎の警戒心の言訳をしなければならなかった。

 お民の方からは、それ以来、三日にあげず、いろいろの人が次郎を迎えに来た。中には、お浜が飯米欲しさに次郎を手放したがらないのだ、といったような口吻くちぶりをもらして、彼女を怒らすものもあった。

 お浜にして見ると、次郎を手放すのはつらいには、つらかった。しかし、次郎がさきざき実家でどんな立場に立つだろうかと考えると、内心不安を感じずには居られなかったので、お民からの使いに対しても、ひどく反感を持つようなことはなかった。むしろ、最近では、なぜもっと早く次郎をかえしてしまわなかったろうかと、それを後悔しているくらいであった。

 ことに、飯米欲しさに次郎を手放さない、などと言われることは、彼女の気性として、我慢の出来ないことであった。そんな時には、ついかっとなって、次郎を、使いに来た人の方に無理に押しやるような真似をすることさえあった。しかし、次郎に泣きつかれたり、逃げられたりすると、いつもそのままになってしまうのであった。

 ところが、ある晩だしぬけに、お民自身が迎えにやって来た。これはお浜も全く予期しなかったことであった。

 次郎は、その時、もう寝床に這入っていた。真夏のころで、寝床といっても、茣蓙ござ一枚だった。むれ臭い蚊帳のそとでは、蚊が物すごいうなりを立てていた。

 次郎のそばには校番の弥作やさく爺さんが寝ていた。──爺さんは、人を笑わせるような短い話をいくつも知っていたので、次郎は、この頃、お浜のそばよりも、爺さんのそばに寝るのが好きになっていたのである。

 爺さんは、ゆっくりゆっくり話をすすめながら、おりおり大きな欠伸あくびをした。すると、そのたんびに、しょぼしょぼした眼尻から、ねばっこい涙がたらたらと流れ出して、耳の方にはっていった。次郎は、指先で、自分の好きな方向に、涙に道をつけてやるのが、また一つの楽しみであった。

 その楽しみの最中に、お民がやって来たのである。

 彼女は中には這入って来なかった。しかし、次郎は、声を聞いただけで、すぐそれが誰だか、そして何の用で来たかが、はっきりわかった。彼は小さい胸をどきつかせながら、眠ったふりをして耳をすました。

 話し声は、戸外の縁台から、団扇うちわの音にまじって聞えて来る。

「そりゃ、私だって、今では一日も早くおかえししたい、とは思っていますが……」

 お浜の声である。

「やっぱり帰ろうとは言わないのかい。」

「ええ、ちょいと門を出るのでさえ、このごろでは、おずおずしていらっしゃるようで、そりゃおかわいそうなんですの。」

「でも、私から、じかに言って聞かしたら、納得なっとくしないわけはないと思うのだがね。」

「そうだと結構でございますが……」

「親身の親が言ってきかしても、駄目だとお言いなのかい。」

 と、少しとげのあるものの言いかたである。それが次郎にもよくわかる。

「そりゃ、仕方がございませんわ。」

 お浜の突っ張る声。次郎はそれでいくらか気が強くなる。

「困った子になってしまったわ。」

 次郎は、胸のしんに異様な圧迫を感じた。お浜は返事をしない。しばらくは、団扇の音だけが、ばたばたと聞える。

「とにかく、今夜はどんなことがあっても、つれて帰るつもりでやって来たんだからね。……まだ寝ついてはいないんだろう。」

 急に団扇の音がやんで、誰かが立ち上るような気配けはいがした。

 次郎はつばをこくりとのんで、爺さんの方に寝がえりを打った。そしていびきをかくまねをした。しかし、彼のまぶたはぶるぶるとふるえて、心臓の鼓動が乱調子なのを物語っている。

「明日になすったらどうでしょう。こんなに暮れてからでは、余計おかわいそうですわ。」

「何時だって同じさ。まさか怖いことはあるまいよ。男の子だもの。」

「でも、こんなことは、やっぱり昼間の方がようございますわ。明日になったら、今度こそ本当にご得心とくしんがいくように、私から申しましょうから。」

「駄目よ、お前では。……いつも、あべこべに引きとめるようなことばかり、言って聞かすんだろう。」

「そんなことはありませんわ。とにかく明日までお待ち下さいまし。私もほんとうに腹をきめているのですから。」

 次郎は淋しかった。彼の鼾はふるえがちであった。

「どうだか……」お民は、もう敷居をまたいでいるらしい。次郎の鼾はひとりでに止ってしまった。

「おやおや、奥さんでいらっしゃいますか。」

 爺さんが、ふんどし一つの皺だらけの体をのろのろと蚊帳の中で起した。

「坊ちゃん、おっ母さんだよ、ほら。」

 爺さんの手が次郎の肩をゆすぶる。

「ううん。……ううん。」

 次郎はもう一度寝返りをうって、自分の顔をお民からかくした。彼の耳は、その間にも、鋭敏に周囲を偵察ていさつしている。

 しかし、彼のあらゆる努力は結局無駄に終った。次の瞬間には、お民の手が蚊帳の中に伸びて来て、有無うむを言わせず、彼の体をずるずると板の間に引き出してしまったのである。

「まあ、そんなに乱暴になさらなくても……」

 お浜の少し怒りを帯びた声が、戸口から聞えた。もうその時には、次郎は、まる裸のまま板の間にすわって、眼をこすったり、腕を掻いたりしていた。

 彼は泣かなかった。あきらめとも悲壮な決心ともつかないようなものが、この時、彼の心を支配したのである。

「奥さん、どうなさいますので……」

 そう言って、爺さんは蚊帳の中からのそのそと出て来た。そして次郎にたかって来る蚊を、団扇でおってやった。

 戸外の縁台からは、お浜のあとについて、お作婆さんや、勘作や、お兼や、お鶴が、ぞろぞろと這入って来た。みんな土間に突っ立ったまま、默りこくってお民と次郎とを見くらべている。その中で、お浜の眼だけが、かなり険しく光っていた。ほかの人達は、ただあっけにとられたといったふうであった。

 それからお民は、女教師のような口吻で、何やらながながと次郎に話して聞かした。しかし、それは次郎の耳にはほとんど一言も這入らなかった。彼は、その間、お浜の表情だけを、注意深くうかがっていた。その表情から、彼は彼女が本当に自分を実家に帰してしまう気でいるかを読みたかったのである。しかしお浜の眼は、険しく光って、じろじろと彼とお民とを見くらべているだけで、彼には何の暗示も与えなかった。

「わかったね。」

 と、お民は、長い説教のあとで、念を押すように言った。次郎はそれに対して、無表情にうなずいた。

 彼は心の中で、この時、自分の眼の前に二人の敵を見ていたのである。一人は正面の敵であるお民、もう一人は、裏切者としてのお浜であった。

「裸ではしようがないわ、何か着物を着せておくれよ。」

 正面の敵が裏切者を顧みて言った。しかし、裏切者は、相変らず険しい眼付をしたまま動かなかった。

 次郎は、横目で裏切者の顔をちらとのぞいたが、その顔からは何の合図もなかった。彼は捨鉢のような気になって、急に立ち上ると、蚊帳の隅にくたくたにまるめてあった汗くさい浴衣を自分で着て、くるくると帯をしめた。

「偉いね。」

 と、正面の敵が言った。

 次郎は上り框の下にうつ伏しになって、自分の草履を探しながら、眼がしらの熱くなるのを、じっとこらえた。

 その間に、お民は提灯ちょうちんに火を入れた。

 二人が戸口を出る時、みんなは、芝居の幕が下りるときのように、静かであった。ただ、お作婆さんだけが、両手を腰に組んで、二人のあとを、一間ほどはなれ、校門のところまでついて来て、言った。

「坊ちゃん、さようなら。」

 次郎は、しかし、ふり向きもしなかった。彼はあふれ出る涙を歯でかみしめて、お民のあとに従った。

「怖かあないかい。」

 一丁ほど行った時に、お民が言った。その時次郎はお民の左うしろについて歩いていた。

 次郎は返事をしなかった。やや湿しめりを帯びた彼の草履ぞうりが、闇の中でぴたぴたと異様な音を立てた。

「怖けりゃ、先においで。」

 次郎は、ちっとも怖くはなかった。しかし、言われるままに、小走りしてお民のさきに立った。自分の体が、お民のげている提灯のあかりを路一ぱいに遮ぎって、前が真っ暗になる。左右の稲田が、ぼうっと明るく、両方の眼尻にうつる。眼尻にうつるというよりは、じかに脳髄のうずいに映ると言った方が適当である。

「先に行くなら、提灯をお持ち。」

 次郎は提灯を持った。提灯は弓張りだった。あたりまえに提げると、その底が地べたをこするので、彼は手首を胸の辺まで上げていなければならなかった。

 彼の草履の音がぴたぴたと鳴る。それが、ともすると、お民には妙な方向から響いてくるように思える。

「次郎、お前やっぱり後からお出で、足が速すぎていけないよ。」

 次郎は提灯をまたお民に渡して、うしろから草履の音をぴたぴたと立てる。

「向こうから誰か来るようだね。」

 お民はだしぬけにそう言って立ちどまった。次郎も一緒に立ちどまったが、しんとして人の来る気配はない。

「僕、先に行ってみるよ。」

 次郎は、変に皮肉な気持になって、提灯を母の手からとると、小走りに走り出した。

「次郎っ。」

 お民の声は、少しふるえていた。次郎は二三間先に立って、提灯を上げたり下げたりした。その拍子に、ふっと灯が消えて、闇がのしかかるように二人を圧さえた。

「まあ、次郎。」

 お民の声は、すっかりおびえ切っている。

 次郎は、闇をすかしながら、道の端っこにしゃがんだ。

「次郎、次郎や、どこにいるの。」

 次郎は息を殺した。そして、逃げ出すなら今だと思った。

 しかし、彼は立ち上らなかった。それは、お民が、その時、すぐそばに立っているからばかりではなかった。彼は、お浜のことを思い浮かべてみても、いつものように心が熱くならなかったのである。彼は真っ暗な中に、ぽつんと淋しくしゃがんでいた。

「次郎や、次郎ったら。」

 お民の声は、妙にすごかった。恐怖と怒りとがごっちゃになっているような声だった。次郎はそれでも身じろがなかった。そして、お民の口から漏れる烈しい息づかいに、じっと耳をすましていた。

 そのうちに二人の眼が、だんだんと闇になれて来た。お民は浮き腰で地面をすかしていたが、次郎を見つけると恐ろしい勢いで飛びついて来た。そのために次郎のもっていた提灯は、地べたに押されて、ひしゃげそうになった。

「なんてずうずうしい子なんだろう。……さあ提灯をおよこし。」

 お民は、ひったくるように提灯をとると、その中に手を突っこんで、マッチを取り出した。

 ぱっとともるマッチの火に照らされたお民の顔は、気味わるく硬ばっていた。

 どこかで、煩悩鷺ぼんのうさぎがほうほうと鳴いた。

 提灯をともし終ると、お民は次郎の手を鷲づかみにして、引きずるように歩き出した。その足どりがやけに速い。次郎は、何度も引き倒されそうになったが、息をはずませながら、やっとついて行った。草履の音と、下駄の音とが騒がしく入り乱れる。

 村に這入ると、お民の足どりが急に落ちついて来た。同時に握っていた次郎の手を放した。

 村といっても、一本筋の場末町みたいなところで、駄菓子屋、豆腐屋、散髪屋、鍛冶屋、薬屋、さかな屋などが曲りくねって、でこぼこにつづいている。その間に、種油をしぼる家が、何軒もあって、その前を通ると香ばしい匂いが鼻をうった。

 どの家からも、蚊遣かやりの煙がもうもうと流れ出している。次郎は、それが自分の汗ばんだ顔にこびりつくようで息苦しかった。

 家なみが途切とぎれて、また一丁ばかり闇が続いた。寺である。墓地の一部が、じかに路に沿っている。古い石塔が、提灯の火で煙のように見える。

 次郎は、これまでお浜につれられて、夜ここを通る時には、非常に怖いところだと思っていたが、今日はそんな気がちっともしなかった。むしろ、ほっとしたような気にすらなった。そして、この墓地を通りすぎて明るいところに出ると、間もなく自分の連れて行かれる家があるのだ、と思うと、彼はいつまでも暗いところにじっとしていたかった。彼は急にぴたりと足をとめた。

「おやっ。」

 暗いところに来て、再び足どりがせっかちになっていたお民は、次郎の草履の音が急に聞えなくなったので、ぎょっとして振りかえった。

「どうしたというんだよ。」

 彼女は、提灯をさし上げて闇をすかした。しかし、次郎はすでにその時、路に近い大きな石塔のかげに身をひそめていたので、お民はどこにも彼の姿を見出すことが出来なかった。

「次……次郎っ。」

 お民は、半ばしわがれた声で、そう叫びながら、提灯をさし上げて、一間ばかりのところを往ったり来たりした。しかし、墓地に這入って探してみようとは決してしなかった。次郎は、石塔のかげから、じっとその様子を見守っていた。すると提灯の火は、間もなく、ぶかぶかと闇を走って、一丁ほど先の家なみの明るい中に消えていった。

 次郎の心はしいんとなった。同時に、蚊がぶんぶんと自分の体のまわりにたかって来るのを感じた。

 彼は、しかし、これからどうしていいのか、少しも見当がつかなかった。彼の心からは、すべての人間が見失われて、足をはこぶ目当がなくなっていた。彼は墓石に腰をおろしたまま、じっと闇を見つめた。

 十分あまりの時間が、蚊のうなり声の中ですぎた。

「もう逃げて行ったのかも知れないが、ちょっとそこいらを見ておくれ。」

 お民の声である。

「この中をですかい。まさか子供一人で……」

 直吉らしい。

「でも、いやに押しの強い子供だから、居るかも知れないよ。」

「そうでしょうか。」

 どしんどしんと足音がして、提灯の火が次郎の目の前にゆれて来た。

「あっ、居たっ。」

 一間ほどおいて、提灯はぴたりと止まった。容易に近寄ろうとはしない。声の主はたしかに直吉である。顔はよく見えない。

「居たら、引っぱり出したらいいじゃないかね。」

 お民の声が鋭く路から響く。

「次郎さん、そんなことをして、馬鹿だね。」

 直吉はおずおずと寄って来て、次郎の手をとった。

 それからあと、次郎は何が何やらわからなかった。彼はお民と直吉に両手を握られて、ぐんぐんと明るいところに引っぱられて行った。

 彼が自分を取りもどして、自分の周囲しゅういを見まわすことが出来たのは、広い座敷の真ん中に坐らされて、先生のような態度をしたお民から、さんざん説教をされている時であった。


寝小便


 お民は存分説教をしたあと、少しばかりの駄菓子を紙に包んで、次郎の手に握らせた。それは彼女の教育的見地からであった。しかし次郎は決してそれを口にしなかった。彼が寝床に這入ったあとでも、その紙包は、ぽつんと部屋の真ん中に置かれたままであった。

 お民の右側に恭一、左側に俊三が寝た。次郎の寝床は俊三のつぎにならべて敷かれてあった。

 次郎は永いこと眠れなかった。そのうちに、そろそろ小便をもよおして来た。

 お浜の家では、寝しなには、きっと便所に行く習慣だったが、今夜はいろいろと事情がちがっていたために、ついそれを怠っていたのである。彼は苦しくなるにつれて、多少それを悔いた。しかし、起き上って便所に行く気にはなれない。ここの便所は廊下づたいで少し遠すぎるし、それに、どこかで鼠がかさこそと音を立てていて気味がわるい。

 そのうちに、彼はふと妙なことを思いついた。そしてぱっちりと眼をあいて母の方を覗いて見た。蚊帳の中は真っ暗で見えないが、よく寝ているらしい。彼は寝返りをする真似をして俊三によりそった。そして永いことこらえていた小便を、その脇腹のあたりに少しずつ放射した。

 放射が終るとまたもとの位置にかえって、心地よくぐっすりと眠ってしまった。

 どのくらい眠ったのか、はっきりしなかったが、彼は、だしぬけにお民に両足を掴まれて蚊帳の外に引き出されたので、眼がさめた。部屋の中はまだ真っ暗だった。彼はさかさにつり下げられているような気がして、眼を覚ました瞬間は、まるで世界の見当がつかなかった。

「何という情ない子だろう。もう六つにもなって。」

 同時に彼の腰から下が、どたりと畳の上に落ちた。右足のくるぶしの落ちた辺が、丁度敷居の上だったらしく、ごつんと音がして、かなり強い痛みを覚えた。

 彼はしかし、まだ眼がさめないふりをして、そのまま動かなかった。しばらく沈默がつづいた。

「まあ、あきれた子だね。」

 お民は平手で、三つ四つ彼のしりを叩いた。それでも彼は、小豚の死骸のように転がったままでいた。そのうちに燈火がぱっと灯った。瞼を透して来る赤い光線の刺激で、おのずと眉根がよる。

「ううーん。」

 次郎は寝返りをうつ恰好をして、光線をよけた。

「次郎、お前、寝たふりをする気かい。……よろしい。いつまでもそうしておいで。」

 お民は、燈火をつけ放しにしたまま、そう言って蚊帳の中に這入った。あたりがしいんとなる。蚊のうなり声が、急に次郎の耳につき出した。と思うと、もう体じゅうがちくりちくりとやられている。

 お民は、まだきっと蚊帳の中から自分を覗いているに相違ない。──そう思うと、自由に動くわけにもゆかない。彼はつらかったが辛抱した。

 そのうちに彼はまた一つの智恵を恵まれた。それは、寝返りをうつ真似をしてだんだんと蚊帳の中にころがり込むことだった。彼は蚊帳に近づくまでは、かなり巧みにそれを実行した。しかし、いざ蚊帳のすそをまくるという段になって彼は当惑とうわくした。あまり手を使いすぎると、眼をさましていることが発覚しそうである。彼は先ず頭の方から這入る計画を立てた。しかし、何度転んでみても、いつも頭が蚊帳の裾に乗っかって、うまくいかない。で、今度は足の方から這入ることにした。これも容易には成功しなかったが、それでも頭ほどに不便ではなかった。それは、下駄を穿く時の要領ようりょうで、うまく足指を使うことが出来たからである。

 こうして、ともかくも、彼は腰の辺まで蚊帳の中に這入ることが出来た。蚊の襲撃しゅうげきから完全にのがれるためには、あとわずかな努力が残されているのみであった。彼はその努力の機会をねらって、一息入れながら、かすかに眼を開いて母の様子をうかがった。

 すると、どうだろう、蚊帳の内側では、母がきちんと坐って、眼を皿のようにして自分の方を見つめているではないか。

 次郎はもうこれ以上身動きしてはならないと思った。

 実は母に覗かれているという意識があったればこそ、こんな手も使ったのであるが、こうまともに見られているのだとは、夢にも思わなかったのである。

 しかし、その間にも、蚊は容赦なく彼の上半身を襲って、彼の忍耐力に挑戦した。彼はそのたびに思わず芋虫のように体を左右にまげた。そして最後にとうとう両手を使って、一挙に蚊帳の裾を頭の方に引っぱってしまった。

「次郎や。」

 この時、気味わるく落ちついた母の声が、彼の耳をうった。

「お前、誰にそんな芸当を教わったの。」

 次郎は返事をする代りに、軽い鼾をしてみせた。

「次郎ったら。」

 母の声は急に鋭くなった。次郎はびくっとしたが、今更どうすることも出来なかった。すると次の瞬間には、お民の指が彼の耳朶をつかんで、再び彼を蚊帳の外に引きずった。

 次郎は、かつて直吉の耳朶に、全身の重みを託そうとしたことがあった。しかし、自分自身の耳朶に自分の体を託した経験は、全くはじめてである。彼は思わず悲鳴をあげた。両手は思わず母の手を握った。それで耳朶の痛みはいくらか減じたが、その代りらくらくと蚊帳のそとに引きずり出されてしまったのである。

「そこに夜どおしで、そうしているんだよ。」

 母はあらあらしい息づかいをしながら、寝床に這入った。

 次郎の眼からは、ぼろぼろと涙がこぼれた。しかし彼はのどにこみあげてくる泣き声を、じっと噛み殺した。そして、とうとう夜があけるまで、蚊にさされながら、蚊帳の外を芋虫のようにころげまわっていた。


飯びつ


「ご飯だよ。」

 翌朝次郎が、ぽつねんと人気ひとけのない座敷の縁に腰をかけて、庭石を見つめていた時に、台所の方から母の声がきこえた。しかし、彼は動かなかった。それは、その声が彼を呼んでいるようには聞えなかったし、かりに彼を呼んでいるとしても、そんな遠方からの呼び声に応じて出て行くのが変に思えたからである。

 やがて、家じゅうの者が茶の間に集まったらしく、話し声が賑やかになり、茶碗ちゃわんのふれる音や、鍋をかする音などが聞えて来た。

 次郎は、誰かが気づいて自分を呼びに来るのを、心待ちに待っていた。しかし、呼びに来ても、飛びついて行くようなふうは見せたくない、と思っていた。

 ところが、十分経っても、二十分経っても、誰も彼を呼びには来なかった。そして、そのうちに、恭一と俊三とは、すでに飯をすましたらしく、口端を手でこすりながら彼の方に走って来た。

「ご飯どうして食べない。」

 恭一は次郎のそばまで来るとたずねた。次郎は庭の方を見たきり、振り向こうともしなかった。

「ご飯たべない、ばかあ──」

 俊三の声である。次郎はそれでも默っていた。すると俊三は、ちょこちょこと寄って来て、うしろから片手を次郎の肩にかけ、その耳元で、

「馬鹿やあい。」

 と言った。次郎はいきなり右ひじで俊三を突きのけた。俊三はよろよろと縁をよろけて、敷居につまずき、座敷の畳の上に仰向けに倒れた。

 彼の泣き声は、家じゅうに響き渡った。

 お民が出て来て、恭一に言った。

「どうしたんだえ。」

「次郎ちゃんが突き倒したんだい。」

「次郎が? どうして?」

「僕知らないよ。」

 恭一は神経質らしく、お民と次郎とを見比べながら答えた。

 お民は、しばらく次郎をうしろからじっと睨めつけていたが、何と思ったのか、そのまま俊三を抱き起こして、茶の間の方に行ってしまった。

 恭一もすぐそのあとについた。

 次郎は、また一人でぽつねんと庭を眺めた。

 そのうちに、彼はゆうべの寝不足のため、うつらうつらし出した。そうしてとうとう縁側から地べたにすべり落ちてしまった。

 幸いに大した痛みを覚えなかった。彼は起き上ってあたりを見まわしたが、誰もいなかったので、安心した。そして、跣足はだしのまま植込をぬけて、隣との境になっている孟宗竹の藪に這入ると、そのままごろりと寝ころんだ。

 そこで彼は涼しい風に吹かれながら、ぐっすり眠った。眼がさめたのは昼過ぎだった。腹がげっそりと減っている。それに何よりも喉が乾いて堪えられないほどだ。

 彼は起き上ると、八方に眼を配りながら、座敷の縁に忍びよった。そして縁板に足のよごれをにじりつけてから、足音を立てないように茶の間の方に行った。

 そこには誰もいなかった。もう昼飯がすんだあとらしく、ちゃぶ台の上には薬罐やかん飯櫃おひつだけが残されていて、蠅が五、六匹しずかにとまっている。

 彼はあたりを見まわしてから、薬罐やかんから口づけに、冷えた渋茶をがぶがぶと飲んだ。それから飯櫃の蓋をとって、いきなりそのなかに手を突っこんだ。

「誰だい。」

 だしぬけに台所からお民の声がきこえた。次郎はびっくりして手を引いたが、その五本の指には飯が一握りつかまれていた。彼はあわててそれを口に押しこみながら、座敷の方に逃げ出そうとした。

 しかし、もうそれは遅かった。座敷の敷居をまたぐか、またがないかに、彼は襟首をお民につかまれていたのである。

「お前は、お前は……」

 お民の声は、怒りとも悲しみともつかぬ感情で、ふるえていた。

 それから次郎は、ちゃぶ台の前に引き据えられて、ながいことお民と対坐しなければならなかった。

「ここはお前の生まれた家なんだよ。」

 説教は、彼が昨夜来何度も聞かされた言葉で始まった。

「ここの家はね、こんな田舎に住んでいても、れっきとした士族なんだよ。」

 これも次郎が聞きあきるほど聞いた文句であった。もっとも士族が何だかは、今だにはっきりしない。

「士族の子ともあろうものが、何という情ない真似をするんだよ。……強情で食べないつもりなら、いっそ二日でも三日でも食べないでいたらいいじゃないの。ご飯時には寄りつかないで、竹藪の中に寝たりしているくせに、こっそり忍んで来て手づかみで食べるなんて、思っただけでも、このお母さんはぞっとするよ。」

 次郎は、まだ指先にくっついている飯粒を、どう始末していいかわからないで、もじもじと手を動かした。

「それ、その手をご覧、それを見たら、ちっとは自分でも恥ずかしい気がするだろう。」

 次郎は何と思ったか、ぴたりと手を動かすのをやめてしまった。

「お前はね……」

 と、急にお民の声がやさしくなった。

「丁度八月十五夜の月が出る頃に生まれたので、今にきっと恭一よりも俊三よりも偉くなるだろうって、お父さんはじめ、みんなでおっしゃっているんだよ。」

 次郎は、これまでお浜が人の顔さえ見ると、よくそんなことを言っていたのを覚えている。そして彼は、そんな話が出ると、いつも内心得意になっていたが、母の口から今はじめてそれを聞かされて、急にそれがつまらないことのように思われ出した。同時に、彼は校番のむさ苦しい部屋が、無性むしょうに恋しくなって来た。

(偉くならなくてもいい。)

 そんな感じが、はっきりとではないが、彼の心を支配した。一人ぼっちで、しかも、どちらを向いても突きあたるような気持でいるのが、彼にはたまらなく嫌だったのである。

「お浜のところへは、もうどんな事があっても帰さないよ。それも、みんなお前に偉くなって貰いたいと思うからのことだよ。……このお母さんの心が、お前にわかるかい。」

 次郎には、もうお浜のところに帰れないということだけがわかった。

 彼は今更のように悲しくなって、思わず涙をぽたぽたと膝の上に落した。飯粒のついた指が、急いでそれを拭いた。

 お民は昨夜来はじめて次郎の涙を見て、それを自分の説教の効果だと信じた。そこで、簡単に説教のしめくくりをつけると、すぐ立ち上って、次郎のために椀と皿と箸を用意した。

 次郎の涙は容易にとまらなかった。彼は飯をかき込みながら、しきりに息ずすりした。袖口そでくちと手の甲が、涙と鼻汁とで、ぐしょぐしょに濡れた。お副食かずには小魚の煮たのをつけて貰ったが、泣きじゃくってうまくむしれなかったので、一寸箸をつけたぎりだった。それでも飯だけは四杯かえた。

 お民は、その間そばに坐って、次郎のために飯をよそってやった。

 それはむろん彼女の母としての愛情を示すためであった。しかし次郎の方から言うと、それはちっともありがたいことではなかった。なぜなら、もし彼女がそばにいなかったら、彼は四杯どころか、五杯でも六杯でも食べたであろうから。

 何よりも次郎の心を刺激したのは、恭一と俊三とが手をつないでやって来て、縁側から、珍しそうにその場の様子を眺めていたことであった。

「お前たちは、あっちに行っておいで。」

 お民は何度も二人をたしなめたが、二人は平気な顔をして、ちっとも動こうとはしなかった。飯が存分に食べられなかったのは、一つはそのためでもあったのである。

 飯がすむと、次郎はまたしばらくの間、母の説教をきいた。説教をきいている間に、涙がひとりでに乾いて、彼の心は妙に落ちついて来た。同時に、恭一と俊三とに対する憎悪の念が、冷たく彼の胸の底ににじむのを覚えた。


玉子焼


「次郎、また一人でそんな所にいるのかい。ほんとに、どうしたっていうんだね。早くこちらに来て、お父さんにご挨拶をするんですよ。」

 お民に、そう声をかけられた時には、次郎は、暮れかかった庭の木立の間を、一人でぶらつきまわっていたのであった。

 父の俊亮は、猿股一つになって、お民に蚊を追わせながら、座敷の縁で酒をのんでいた。そのそばには恭一も俊三も坐っていた。

 次郎にとっては、彼の父は、まだ何とも見当のつかない存在であった。というのは、父は、この村から三四里も離れたある町で小役人を勤めていて、土曜から日曜にかけてしか帰って来なかったので、次郎は里子時代に、めったに彼と顔をあわせる機会がなかったし、まして、彼に言葉をかけて貰った記憶などほとんどなかったからである。

 次郎は、しかし、父の顔つきだけは、いつとはなしに、はっきり覚えこんでいた。そして、その顔は、たしかに家じゅうの誰のよりも親しみやすい顔だった。むろん、お浜の亭主の勘作などにくらべると、ずっとやさしそうに思えたのである。

 で、次郎は、今日母から、

「夕方にはお父さんが帰っていらっしゃるんだよ。次郎がここに帰って来てから初めてだね。」

 と言われた時には、一刻も早く逢ってみたいような気になった。

 そして、いよいよ夕方になって、父を迎えるために、みんなが庭に打水を始めた時には、次郎は珍しく恭一のあとについて、柄杓ひしゃくで庭石に水をまいて歩いたりしたのだった。

 それでも、彼は、いざ父が帰ったと聞くと、妙に気おくれがして、みんなと一緒に玄関にとび出して行こうとはしなかった。それどころか、彼はその騒ぎの間に、一人でこっそり、庭の植込に這入りこんでしまったのである。そして、父が服を脱いだり、湯殿に入ったり、母がお膳の支度をして、それを座敷の縁側に運んだり、恭一と俊三とがはしゃぎ廻ったりしている様子を、じっとそこから覗いていた。

 しかし覗いているうちに、彼はだんだんつまらなくなって来た。もともと彼は、父に隠れる気など少しもなかったのだが、つい妙なはずみで、こんなことになってしまった。それに、困ったことには、誰も自分が見えないのを気にかけている様子がない。かといって、今更植込の中から、のこのこ出て行くのも変だ。彼は自分が庭にいるのを、何とかして皆に気づかせたいと思った。で、父がいよいよ晩酌ばんしゃくをはじめた頃に、わざと足音を立てて庭をうろつき出していたのである。

 彼は母に声をかけられたときには、しめたと思った。それなら、その声に応じてすぐ出て行くのかと思うと、そうでもなかった。母の言葉は彼が素直に出て行くには、少し強すぎたのである。

 彼は母の声をきくと、すぐ、くるりと座敷の方に背を向けて立木によりかかってしまった。

「次郎ちゃん、父ちゃんが帰ったようっ。」

 恭一が彼を呼んだ。

「父ちゃんが帰ったようっ。」

 俊三がそれをまねた。

 次郎は皆の視線を自分の背中に感じていよいよ動けなくなってしまった。

「すぐあれなんですもの。……全くどうしたらいいのか、私、わからなくなっちまいますわ。」

「なあに、今日は、はじめてなもんだから、きまり悪がってるんだよ。」

「そんなしおらしい子ですと、私ちっとも心配いたしませんけど、なかなかそんなじゃありませんわ。」

「やはり家になじまないからさ。そのうち、おいおいよくなるだろう。」

「そうでしょうか知ら。」

「何しろ、あれにとっては、この家はまるで他人の家も同然だろうからね。」

「そりゃ、そうですけれど。……でも、あんまりですもの、何かお浜に強く言って聞かされて来たんではないかと思いますの。」

「まさか。……かりに言って聞かされたにしても、あんな子供に、そう巧く芝居が打てるもんじゃない。」

「すると、あの子の性質なんでしょうか。」

「性質ということもあるまいが、自然ああなるんだね、これまでのいきさつから。」

「このままでいいのでしょうか。」

「いいこともあるまいが、当分仕方がないさ。」

「まあ、貴方はのんきですわ。あたし、一刻もじっとして居れない気がするんですのに。」

「そんなにやきもきするからなおいけないんだよ。」

「では、どうすればいいんですの。」

「つまり、教育しすぎないことだね。」

「だって、私には放ってなんか置けませんわ。第一あの子の将来を考えますと……」

「将来を考えるから、無理な教育をしないがいいと言うんだよ。」

「でも……そりゃ浅ましい真似をするんですよ。人が見ていない時に、お飯櫃に手を突っこんで、ご飯を食べたりして。」

「何もかも、もうしばらく眼をつぶるんだね。それよりか、差別待遇をしないように気をつけることだ」

「そんな御心配はいりませんわ。」

「形の上だけでは、どうなり公平にやっていても、何しろこんな事は気持が大切だからね。」

「気持って言いますと?」

「つまり親としての自然の愛情さ。」

「まあ貴方はそんなことを心配していらっしゃるの。次郎だって自分の腹を痛めた子じゃありませんか。」

「自分の子でも、乳を与えない子は親しみがうすいって言うじゃないか。」

「私には、そんなことありませんわ。そりゃ教育のない人のことでしょう。」

「そうか。……ところでお祖母さんはどうだね、あれに対して。」

「そりゃ、あの子を家に呼ぶのでさえ、こころよく思っていらっしゃらなかった位ですから……」

「女は何と言っても感情的だからね。」

「すると、私もお祖母さんと同じだとおっしゃるの。」

「お祖母さんとはいくらか違うだろうが……」

「いくらかですって?……貴方は私をそんなに不信用なすっていらっしゃるの。」

「そうむきになるなよ。あれに聞えても悪い。それよりか、もう一度呼んでみたらどうだね。」

「貴方の、公平なお声で呼んでみて下すったら、どう?」

「…………」

 次郎は全身の神経を耳に集中して、二人の話を聞こうとしたが、その大部分は聞きとれなかった。聞えてもその意味をはっきり掴むことは出来なかっただろう。しかし、彼は何かしら、父が自分に対して好意を寄せているような気がしてならなかった。彼は父が今にも声をかけてくれるかと、ひそかに待っていたが、駄目だった。

 で、彼はそっと向きをかえて座敷の方をうかがった。──もうその時には、日はとっぷりと暮れて、向こうから見られる心配がなかったのである。

 父は默りこくって酒を飲んでいる。

 母はそっぽを向いて、やけに団扇だけをばたばたさせている。

「恭一、お前次郎をつれて来い。」

 だしぬけに父の声が、大きく聞えた。

 恭一は、気味わるそうに、しばらく植込をすかしていたが、しぶしぶ立ち上って、次郎の方にやって来た。

「父さんが呼んでるよ。」

 恭一は次郎に近づくと、用心深くその手首をつかんで引っぱった。次郎は、恭一に手を握られるのを、あまり心よくは思わなかった。しかしこれ以上ぐすってみる勇気も持合わせなかったので、引っぱられるままに縁側から上って来た。

 お民はじろりと彼の顔を見ただけで、何とも言わなかった。次郎は自分の坐る場所がわからなくて、右の人差指を口に突っこみながら、しばらく柱のかげに立っていた。

「次郎、ここに坐れ。」

 俊亮は自分のお膳の前をした。その声の調子は乱暴だった。しかし次郎の耳には、少しも不愉快には響かなかった。彼はお民の眼をさけるように、遠まわりをして、指された場所に坐った。

 俊亮は、さかずきをあげながら、三人の子を一通り見較べた。どう見ても次郎の顔の造作が一番下等である。眼付や口元が、どこか猿に似ている。おまけに色が真っ黒で、頬ぺたには、斜に鼻汁の乾いたあとさえ見える。彼は一寸変な気がした。しかし、そのために次郎をいやがる気持には少しもなれなかった。むしろ、かわいそうだという気が、しみじみと彼の胸を流れた。彼はにこにこしながら、元気よく言った。

「大きくなったなあ。体格はお前が一等だぞ。あすはお父さんが休みだから、大川につれて行ってやろう。泳げるかい。」

 次郎は、しかし、返事をしなかった。彼はこれまで、学校の近くの沢で、桶につかまって泳いだ経験しかなかったのである。

「父さん、僕も行くよ。」

「僕もよ。」

 恭一と俊三とが、はたから眼を輝やかして言った。しかし俊亮は、それには取りあわないで、次郎の方ばかり見ながら、

「次郎、どうだい、いやか、いやだったら大川は止してもいい。次郎は何が一番好きかな。明日は父さんは次郎の好きな通りにするんだから、何でも言ってごらん。」

 みんなの視線が一せいに次郎の顔に集まった。次郎はこの家に来てから、何かにつけ、みんなに見つめられるのが、何よりも嫌だったが、この時ばかりは、全く別の感じがした。彼は父に答えるまえに、先ず母と兄弟たちの顔を見まわした。そしてのびのびと育った子供ででもあるかのような自由さをもって、いかにも歎息するらしく言った。

「僕、まだ本当には泳げないんだがなあ。」

 すると、恭一が、

「大川には、浅いところもあるんだよ。僕たち、いつもそこでしじみをとるんだい。」

「ほんとだい。」と、俊三が膝を乗り出した。

「泳げなきゃ、父さんが泳がしてあげる。なあに、じきに覚えるよ。」

 と、俊亮がそれにつけ足した。

 お民はまだ默っていた。次郎はいくぶんそれが気がかりだったが、

「そんなら僕行くよ」と、さっきからの自由さを失わないで答えた。

 そして、自分の一言で、明日の計画にきまりがついた時に、彼はしばらくぶりで、お浜の家にいた頃のような気分を味わった。

 間もなく俊亮は盃を伏せて、軽くお茶漬をかきこんだ。そして庭下駄を突っかけると、体操のような真似をしながら、縁台のまわりを、ぐるぐる歩きまわった。

「もっとお涼みになる?」

 お民がやっと口をきいた。

「うむ、縁台に茣蓙ござを敷いてくれ。」

 お民が茣蓙を取りに奥に這入ると、恭一と俊三とはすぐそのあとを追った。次郎は、まだひとりで縁側に坐ったままでいたが、その時ふと彼の眼にしみついたのは、父のお膳に残された一切れの卵焼であった。

 おおよそ次郎にとって、卵焼ほどの珍味は世界になかった。そして、お浜の家での彼の経験から、彼は、よほどの場合でないと、そんな珍味は口にされないものだと信じていた。ところがこの家では、お祖母さんが離室はなれで、おりおり卵の壺焼をこさえては、おやつ代りに恭一と俊三とに与えている。現に、今日の昼過ぎにも、二人がそれを食べながら、離室を出て来るのに、次郎は廊下で出過でっくわしたのである。彼はその時、つとめて平気を装ったが、二人の口から、温かく伝わって来る卵焼の香気をがされた時には、自分だけをのけ者にしている祖母に対して、燃えるような憎悪を感じ、これから先、どんなことがあっても、離室の敷居はまたぐまい、と決心したほどであった。

 その卵焼が、今彼の眼の前に、誰にも顧みられないで、冷たく皿の中にころがっている。彼は何としても自分を制することが出来なかった。

 しかし、彼は手を伸ばす前に、先す茶の間の方を見た。母が出て来るにはまだちょっと間がありそうだった。それから、庭を歩きまわっている父を見た。父は丁度あちら向きになって歩き出したところである。

 彼はすばやく卵焼を掴んで、口の中に押しこんだ。

「次郎、星が飛んだぞ。ほら。」

 次郎は、だしぬけに父にそう言われて、飛び上るほどびっくりした。そして、父は何も知らないで遠くの空を見ているんだと解ってからも、思い切って卵焼を噛むことが出来なかった。

「うむ……」

 彼は返事とも質問ともつかない妙な声を出した。そして、急いで縁先にうつ伏しになって、下駄を探すような恰好をしながら、忙しく口を動かした。

 彼が下駄をはいて、父のそばに立った時には、彼はもうけろりとしていた。たった今、のどを通ったばかりの卵焼のあと味が、まだ幾分口の中に残っているのを楽しみながら、彼は神妙らしく、父が見ている空の方向に視線を注いだ。

 そこへお民が茣蓙を運んで来て、それを縁台に拡げた。俊亮はすぐ、ごろりとその上に寝て団扇を使いはじめた。お民もその端に腰をおろしながら言った。

「次郎も、みんなと一緒に、就寝やすんだらいいじゃないの。」

 次郎は不服らしい顔をした。すると俊亮が傍から言った。

「まだ眠くはないさ。早いんだから。」

「でも外の子はもう就寝みましたよ。」

「馬鹿に早いじゃないか。……次郎はもう少し父さんのそばで涼んでいけ。」

「まあ、大そう次郎がお気に入りですこと。……では、次郎ここに掛けて、父さんのお相手をなさい。」

 次郎は最初遠慮がちに縁台に腰を下したが、間もなく父と三四寸の間隔をおいて、自分もごろりと横になった。彼はなぜか、父の真っ白な、ふっくらした裸に、自分の体をくっつけてみたくなった。彼の汗ばんだ体は、蚊にさされたところを掻くような恰好をしながら、じりじりと父にくっついて行った。

「汚ないっ。」

 俊亮はだしぬけに、びっくりするような声で呶鳴りながら、はね起きた。──彼は鷹揚おうようでなさけ深い性質に似合わす、一面神経質で潔癖なところがあり、他人の家で畳に手をついたりすると、帰ってから、何度も手を洗わないではいられない性質だった。

「どうなすったの。」

 さっきから、それとなく次郎の様子を見守っていたお民が、いやに落ちついて訊ねた。

「次郎のべとべとする体が、だしぬけにさわったもんだから、びっくりしたんだよ。」

 と、俊亮は、次郎にさわられた横腹のあたりを、団扇の先でしきりに撫でている。

 次郎は、変に淋しい気がした。彼は寝ころんだまま、じっと眼を据えて父を見た。すると、お民が言った。

「まあ、貴方にも呆れてしまいますわ。」

「何が……」

「かりにも、自分の子が汚ないなんて。」

「汚ないものは、汚ないさ。」

「それでも親としての愛情がおありですの。」

「何を言ってるんだ。それとこれとは違うじゃないか。馬鹿な。」

「男の親というものは、それだから困りますわ。いやに可愛がっていらっしゃるかと思うと、すぐそのあとで、子供の心を傷つけておしまいになるんですもの。」

「つまらん理窟を言うな。」

「貴方こそ屁理窟ばかりおっしゃってるんじゃありませんか。」

「いつ俺が屁理窟を言った。」

「ついさっきも、形よりは気持が大切だなんておっしゃったくせに。」

「それが屁理窟かい。」

「屁理窟ですわ。寄り添って来る自分の子を、汚ないなんて呶鳴りつけるような方が、そんなことおっしゃるんではね。」

「うむ……でも、俺には策略さくりゃくがないんだ。」

「おや、では私には策略があるとでもおっしゃるの。」

「あるかも知れないね。……しかし、俺はお前のことを言おうとしているんじゃない。」

 お民は歯噛みをするように、口をきりっと結んで、しばらく默っていたが、

「貴方は、策略さえ使わなければ、子供に対してどんなことを言ったり仕たりしてもいいとおっしゃるの。」

「心に本当の愛情さえあればね。」

「その愛情が貴方のはまるであてになりませんわ。」

「そうかね。だが、こんな話はあとにしよう。この子の前でこんなことを言いあうのは、よろしくない。お互の権威を落すばかりだからね。」

 お民は白い眼をして、ちらりと次郎を見たが、そのまま默ってしまった。俊亮は縁台をおりながら、

「それよりも、寝る前にもう一度行水をしたいんだが、湯があるかね。」

「風呂にまだ沢山残っていますわ。」

「そうか。──おい、次郎、お前も一緒に来い。父さんが綺麗に洗ってやる。」

 次郎は、聞いていて、何が何やらさっぱり解らなかった。ただ母が、自分のために父に対して抗議を申しこんだことだけが、たしかだった。かといって、彼はそのために父よりも母を好きになるというわけにはいかなかった。最初父に「汚ない」とどなられた時には、落胆もし、不平にも思ったが、二人の言いあいを聞いているうちに、やっぱり父の方に何か知ら温かいものがあるように感じた。で、父に「一緒に来い」と言われると、彼は何もかも打ち忘れて、はね起きる気になった。

 彼の心は、しかし、はね起きると同時にぴんと引きしまった。というのは、その時お民が縁側を上って行って、お膳をしまいかけたからである。

 次郎は卵焼のことが心配だった。もし母に気づかれたら、と思うと、彼は身動きすら出来なくなった。彼は、突っ立ってじっとお民の様子に注意した。

「おやっ。」

 お民は小声でそう叫ぶと、けげんそうに振り返って次郎の方を見た。次郎はしまったと思ったが、すぐそ知らぬ顔をして、眼をそらした。

「貴方、卵焼を残していらしったんでしょう。」

「うむ、残していたようだ。」

「それ、どうかなすったの。」

「どうもせんよ。」

「次郎におやりになったんではないでしょうね。」

「いいや……」

「どうも変ですわ。」

「卵焼ぐらい、どうだっていいじゃないか。」

 俊亮はちょっと首をかしげて次郎の顔を覗きながら言った。

「よかあありませんわ。」

 お民は冷やかにそう言って、また庭に下りた。

 そして、つかつかと次郎の前まで歩いて来ると、いきなりその両肩をつかんで、縁台に引きすえた。

「お前は、お前は、……こないだもあれほど言って聞かしておいたのに。……」

 お民は息を途切らしながら言った。

 次郎は、母に詰問されたら、父もそばにいることだし、素直すなおに白状してしまおうと思っていたところだった。しかし、こう始めから決めてかかられると、妙に反抗したくなった。彼は眼をえてまともに母を見返した。

「まあ、この子は。……貴方、この押しづよい顔をご覧なさい。これでも貴方は放っといていいとおっしゃるんですか。」

 お民の唇はわなわなとふるえていた。

 俊亮は、困った顔をして、しばらく二人を見較べていたが、

「お民、お前の気持はよくわかる。だが今夜は俺に任しとけ。……次郎、さあ寝る前に、もう一度行水だ。父さんについて来い。」

 そう言って彼は次郎の手を掴むと、引きずるようにして、庭からすぐ湯殿の方へ行った。

 湯殿に這入ってから、俊亮はごしごし次郎の体をこするだけで、まるで口を利かなかった。次郎は、すると、妙に悲しみがこみ上げて来た。そしてとうとう息ずすりを始めた。

 すると俊亮が言った。

「泣かんでもいい。だが、これから人が見ていないところでは、どんなにひもじくても物を食うな。その代り、人の見ている所でなら、遠慮せずにたらふく食うがいい。ねだりたいものがあったら、誰にでも思い切ってねだるんだ。いいか、父さんは意気地なしが大嫌いなんだぜ。」

 その夜、次郎は父のそばに寝た。無論寝小便も出なかったし、蚊にも刺されなかった。また、夜どおし父に足をもたせかけたりしたが、決して呶鳴られるようなことがなかった。彼はこの家に来て、はじめて本当の快い眠りをとることが出来たのである。


水泳


 翌日、俊亮は、早めに昼食をすますと、恭一と次郎をつれて大川に行った。ちょうど干潮時で、暗褐色の砂洲が晴れ渡った青空の下にひろびろと現れていた。

 三人は、やかましく行々子よしきりの鳴いている蘆間あしまをくぐって、砂洲に出た。そして、しばらく蜆を拾ったり、穴を掘ったりして遊んだ。

 次郎は、のびのびした気分になって、砂の上に大の字なりにた。

 温かい砂の底からしみ出て来る水の感触が、何ともいえない好い気持である。きらきらと光って眼の上を飛んでいく蜻蛉とんぼまでが、今日は珍しい世界のもののように思える。

 彼はうっとりとなって、一心に青空を見つめた。するとそこに、ぼうっと黒ずんだ小さな影のようなものが現れた。お玉杓子の恰好をしている。それがすうっと空を動いては、どこかで消える。眼を据えるとまた現れる。彼は幾度となくその影を逐った。逐っているうちに、いつの間にか夢のようにお鶴の顔が浮き出して来た。

 彼は眼をつぶった。すると、お浜、お兼、勘作と、つぎからつぎへ、校番室の暗い部屋で親しんだ人達の顔が思い出されて来た。彼は、甘いような悲しいような気分にすっかりひたり切って、そばに父や兄がいることさえ忘れてしまった。

「さあ、これから泳ぐんだ。」

 俊亮は立ち上って砂の上に四股しこを踏んだ。

「恭一は、もう随分泳げるだろうね。」

「まだ少しだよ。」

「父さんが見てやる。泳いでごらん。」

 恭一は、用心深そうに、そろそろ深みに這入って行った。そして、水が乳首の辺まで来たところで、彼は浅い方に向かってほんの一間ばかり、犬かきをやって見せた。

 次郎は熱心にそれを見つめていた。

「うむ、大ぶ上手になった……さあ今度は次郎だ。」

 次郎は、父の顔と水を見くらべながら、ちょっと尻ごみした。

「大丈夫だ。父さんが抱いてやる。」

 俊亮は、自分の両腕の上に次郎を腹這いさせて、ぐいぐいと深みにつれて行った。恐怖と安心とが、ごっちゃになって次郎の心を支配した。

「いいか、そうれ。……足をしっかり動かすんだ。手だけじゃいかん。……うむ。そうそう。……おっと、そう頭をもたげちゃ駄目だ。ちっとぐらい水をのんだって、死にゃせん。」

 俊亮はめっちゃくちゃに跳上る飛沫ひまつを、顔一ぱいに浴びながら、そろそろと次郎の体を前進させてやった。次郎は一所懸命だった。そして非常に愉快でもあった。

 しかし、その愉快さは長くはつづかなかった。それは、俊亮がだしぬけに、彼の両手を次郎の腹からはずしてしまったからである。

 次郎は、はっと思った瞬間に、顔を空に向けたが、もう間にあわなかった。彼はがぶりと水を飲んだ。鼻の奥から頭のしんにかけて、酸っぱいものがしみ込むような痛みを感じた。それからあと、彼は全く死物狂いだった。

 しかし、その死物狂いは、ほんの一秒か二秒ですんだ。そこは彼の腰の辺までしかない深さのところで、彼はすぐひとりで立ち上ることが出来たからである。

「わっはっはっ、苦しかったか。」

 俊亮が、すぐうしろで大きく笑った。次郎は声をあげて泣きたかったが、父の笑い声をきくと泣けなくなった。で、げえげえ水を吐き出したり、鼻汁をこすったりして、しばらくごまかしていた。

「沈むと思った時に、口をあいて顔を上げたりしちゃいかん。思い切って、息を止めてもぐるんだ。いいか次郎。ほら、父さんがやってみせる。」

 俊亮は顔を水に突っこんで、そのでぶでぶした真っ白な体を、蛙のように浮かして見せた。

「どうだい。」

 と、彼は顔をあげて、それを両手でつるりと撫でながら、

「じっとしていりゃ、ひとりでに浮くだろう。浮いたら今度は手足を動かしてみるんだ。顔をあげるのは一等おしまいだよ。……どうだい、もう一度やってみるか。」

 次郎は、流石さすがにすぐ「うん」とは言わなかった。そして、父から五六間もはなれた、ごく浅いところに行って、ひとりで頻りに顔を水に突っこみはじめた。俊亮は砂に腰をおろして、にこにこ笑いながら、それを眺めていた。

 最初の間、次郎の息は三秒とはつづかなかったが、だんだんやっているうちに、それが五秒となり、七秒となり、とうとう十秒ぐらいまで続くようになった。

「父さん、僕一人でやってみるから、見ていてよ。」

 そう言って彼は、へそぐらいの深さのところまでゆくと、蛙のように四肢をひろげて、体を浮かす工夫をした。無論父ほどはうまくゆかなかったが、二三回でどうなり浮くだけの自信は出来たらしかった。それからあと、彼はしきりに手足を動かしたり、顔を水面にあげたりする工夫をやり出した。

 俊亮は、背中が真赤にやけるのも忘れて、三四十分間ほども、それを見まもっていた。

 次郎は、しかし、結局顔をあげて泳げるまでにはなれなかった。それでも、顔を浸したままだと、一息に二間近くも進めるようになった。

「次郎、もう止せ。今日はそれでいい。この次には、きっと恭一よりうまく泳げるぞ。」

 俊亮は、次郎の物凄いねばりに、少なからず驚きながら、そう言って彼を制した。

 次郎は止すのがいささか不平だった。しかし、父が恭一をつれてさっさと土堤の方へ歩き出したのを見ると、彼も仕方なしにそのあとにいた。


     *


 夕方の食卓には、珍しく家じゅうの顔が揃った。いつもは離室に膳を運ばせることにしている老夫婦までが、ひさびさでこちらに出かけて来た。この二人に俊亮夫婦、子供三人、それにお糸婆さんと直吉を合わせて都合九人が、風通しのいい茶の間に集まって、にぎやかに食事をはじめた。

 食事中に俊亮は、今日の次郎の水泳ぶりを大袈裟げさ吹聴ふいちょうした。そして最後に、

「今日のようだと、次郎は何をやっても人に負けるこっちゃない。」

 そう言って愉快そうに次郎を顧みた。次郎は話の途中から、すっかり興奮しながらも、みんなのそれに対する受答えがどんなふうだか、知りたかった。彼は肴の骨をしゃぶりながら、始終盗むようにみんなの顔を見まわしていた。しかし彼は、予期に反して、誰からも彼の満足するような言葉を聞くことが出来なかった。

 お祖父さんは、始めから終りまで、無表情な顔をして「ほう、ほう」と言っているだけだった。お祖母さんは、たえず何かほかの話をしかけては、みんなの注意をかきみだした。お民は最後まで熱心に耳を傾けてはいたが、話が進むにつれて、むしろ不機嫌な顔つきになった。直吉は、次郎が水を呑んだ話のところで吹き出したきりだった。ただお糸婆さんだけが、

「まあ、次郎ちゃん、お偉いですね。」

 と言った。しかし、それも次郎の耳には、ほんの口先だけ俊亮にあいづちをうったものとしか聞えなかった。

 夕飯がすむと、間もなく俊亮は町にかえる支度をはじめた。

 次郎は妙に心が落ちつかなかった。で、すぐ表に飛び出して、父が出て来るのを三四町さきの曲り角にしゃがんで待っていた。日がちょうど落ちたばかりで、道はまだ十分に明るかった。

 父の自転車が、ごとごとと砂利道をころがって来るのを見ると、彼は立ち上って、

「父ちゃん!」と呼んだ。

「何だ、お前こんなところにいたのか。」

 俊亮は自転車をおりて、次郎の顔を無造作に撫でながら、

「もう六つ寝ると、また帰って来る。ひとりで大川に行くんじゃないぞ。父ちゃんがつれて行ってやるからな。」

 次郎は、ここで父を待っていたのが無駄ではなかったような気がして、嬉しかった。そして、父が再び自転車に乗って走って行く姿を、立ったまま永いこと見つめていた。


雑のう


 夏が過ぎた。次郎がこの家に来てから、まだやっと一ヵ月そこそこである。しかし、彼はだいぶ新しい生活に慣れて来た。

 慣れて来たといっても、それは決して、彼の気持が愉快に落ちついて来た、という意味ではない。

 彼は、絶えず用心深く家の人たちの動静をうかがった。また彼らの言葉のはしばしから、すばしこくその心を読むことに努めた。その点では、彼は来た当座よりも、ずっと卑怯になったように思える。

 しかし、また考えようでは、恐ろしく大胆になったとも言える。彼は、露見の恐れがないという自信さえつけは、しゃあしゃあと嘘もつき、思い切っていたずらもやった。もっとも、盗み食いだけは、どんなにいい機会に恵まれても、湯殿での父の言葉を覚えていて、断じてやらないことにした。──彼は、父だけは欺いてはならないような気がしていたのである。

 時として彼は、母や祖母の前で、ことさら殊勝なことを言ったり、したりしてみせた。無論そんなことで、母や祖母が、心から自分に対して好意を寄せるようになるだろう、とは期待していなかった。しかし彼らを油断させる何かの足しにはなると思ったのである。

 もし、周到な用意をもって、大胆に事を行うということが、それだけで人間の徳の一つであるならば、彼は、こうした生活の中で、すばらしい事上錬磨をやっていたことになる。しかし、策略だけの生活から、必然的に育つものの一つに残忍性というものがあるのだ!

 次郎は、毎日庭に出ては、意味もなく木の芽をみつぶした。花壇の草花にしゃあしゃあと小便をひっかけた。蜻蛉とんぼを着物にかみつかせては、その首を引っこ抜いた。蛙を見つけては、がさず踏み潰した。蛇が蛙を呑むのを、舌なめずって最後まで見まもり、呑んでしまったところをすぐその場で叩き殺した。隣の猫をとらえて、たらいをかぶせ、その上に煉瓦を三つ四つ積みあげて、一晩じゅう忘れていた。

 尤も、人間に対してだけは、彼は、それほどあからさまに残忍性を発揮することが出来なかった。というのは俊三以外の人間で、彼の手籠てごめになる人間は一人もいなかったし、俊三にしても、うっかり手を出すと、すぐに母に言いつけられるにきまっていたからである。

 ところで、兄の恭一に対してだけは、どうしてもじっとしておれない事情があった。

 恭一は九月になるとすぐ学校に通い出した。彼はもう二年生だったのである。このことは次郎に抑え切れない嫉妬心を起こさした。

(恭一は、毎日お浜に逢って、頭を撫でて貰ったり、やさしい言葉をかけて貰ったりしているのだ。)

 そう思うと、次郎の頭はかっとなる。何とかして、恭一が学校に行くのを邪魔してみたいものだと思う。

 ある晩、とうとう彼は一計を案じ出した。

 翌朝起きるとすぐ、彼は、恭一の学用品を入れた雑嚢ざつのうを抱えて、こっそり便所に行った。そして、大便をすますついでに、それを壺の中に放りこんでしまったのである。

 放りこむまでは、彼は冒険家が味わうような一種の興奮を覚えていた。しかし雑嚢がどしんと壺の中に落ちた瞬間、彼は取りかえしのつかないことをしてしまったと思った。そして、時がたつにつれて、発覚の心配がひしひしと彼の胸に食い入って来た。

 彼は胸の底に、かつて経験したことのない一種の心細さを覚えた。

 彼は、恭一が朝飯を食っている間に、一枚の古新聞紙をふところにして便所につづく廊下を何度もうろうろした。そして、あたりに気を配りながら、もう一度中に這入って、懐から新聞紙を取り出し、それを拡げて雑嚢の上に落した。

 それからあと、彼は落ちつき払って朝飯を食った。朝飯がすむと、裏の小屋に行って、直吉がまきを割っているのを、面白そうに眺めていた。

 ものの三十分も経ったころ、だしぬけに、母屋の方から恭一の泣き叫ぶ声がきこえて来た。お民の鋭い声がそれにまじった。つづいてお糸婆さんが、あたふたと裏口からこちらに走って来るのが見えた。

「どうしたんかね、次郎ちゃん。」と直吉が言った。

「どうしたんかね。」と、次郎も同じことを言いながら、袖口で鼻をこすった。それから、散らかった薪を拾っては、すでに隅の方に整理されている薪の上に積みはじめた。

「恭さんの学校道具を知りませんかな、次郎ちゃん。」

 と、お糸婆さんが、小屋の入口から、せきこんで声をかけた。

「知らんよ。」

 と、次郎は、薪を積むのに忙しい、といったふうを装った。

「恭さんは、ちゃんといつもの所に置いたと言いますがな。」

「僕知らんよ。」

「知っとるなら知っとると、早く言って下さらんと、学校が遅うなりますがな。」

「僕知らんよ。」

「ほんとに知らんかな。」

「知らんよ。」

「そんならそれでいいから、とにかく、お母さんとこまでお出でなさいな。」

「やぁだい。」

「でも、お母さんが呼んどりますよ。」

 次郎はそう言われるのが一番いやだった。彼は、母の命令に対して正面からそむくだけの勇気がまだどうしても出なかっただけに、一層いやだったのである。

 彼は、しかし、仕方なしに、しぶしぶお糸婆さんに手を引かれながら、母屋おもやの方に行った。子供部屋では、お民が気違いのように、そこいらじゅうを引っかきまわして、雑嚢を探していた。

 そのそばで、恭一は足をはだけて、泣きじゃくっていた。

 お民は、次郎の顔を見るなり、例によって高飛車たかびしゃにどなりつけた。

「次郎、早くお出し、どこへかくしたんだね。」

 次郎は、しかし、そうなるとかえって落ちついた。彼は徹頭徹尾とぼけ返って、「僕知らないよ」をりかえした。

 捜索そうさくは、座敷や、茶の間や、台所にまで拡がっていった。しかし、幸いなことに、便所の中まで探して見ようとする者は、誰もいなかった。

 証拠があがらない限りは次郎の勝利である。嫌疑けんぎがいかほど濃厚であろうと、それはかれの知ったことではない。

 時間は刻一刻と経った。彼はますます落ちついた。

 そして恭一は、本がなくては嫌だと言って、とうとうその日学校を休んでしまったのである。

 騒ぎがひととおり片づいてからも、重くるしい空気が永いこと家の中に漂った。

 お民は次郎の顔さえ見ると、ぐっと睨めつけた。そして、幾度となく離室に行ったり、台所に行ったりして、お祖母さんやお糸婆さんと、ひそひそ立ち話をした。恭一は、泣っ面をしながら、たえずその尻を追いまわしていた。

 次郎は、なるだけお民に近寄らない工夫をした。しかし、それとなくみんなの動静を窺うことを怠らなかった。とりわけ便所に出入りする人たちの顔つきに気をつけた。そしておりおりいやに狎々しい声で、恭一に話しかけたりした。

 夕食のあと、お民はもう一度念を押すように言った。

「次郎、ほんとうにお前知らないのかい。」

「僕知らないよ。」

 それから間もなく、お民は恭一をつれて何処かに出かけて行った。次郎はそれで万事けりがついたような気になって、ほっとした。同時に彼は、自分の計画が案外うまくいったのを内心得意に思った。

 尤も、その得意も、ほんの当日限りのものでしかなかった。というのは、その翌日から、恭一は新しい雑嚢に新しい学用品を入れて、いつものとおり嬉しそうに学校に出て行くことになったからである。

 しかも、数日の後には、次郎は、下肥しもごえを汲んでいた直吉の頓狂とんきょうな叫び声で、大まごつきをしなければならなかった。

「あっ。あった、あった。奥さん。坊ちゃんの雑嚢がありましたよ。」

 みんなは直吉の叫び声で、総立ちになって縁側に出た。

 直吉は、肥柄杓こえびしゃくの先に、どろどろのしずくの垂れている雑嚢をぶら下げて立っていた。

 次郎はそれを見ると、すばやく表の方に飛び出した。咄嗟とっさの場合、さすがの彼も、そうすることが彼の罪状の自白を意味するということには、まるで気がつかなかったのである。

 万事は明瞭になった。次郎は、その日じゅう何処かに身をかくしていたが、暮方になっておずおずと裏口から帰って来た。

 お民や、お祖母さんが、その晩彼をどう待遇したか、また彼がどんな態度で彼らに反抗したかは、読者の想像にまかせる。ただ、この事件以来、彼がこれまでより一層大胆になり、且つ細心になったことだけは、たしかである。


一〇 お使い


 大晦日に近いある日のことだった。

「でも、使に行く者がありませんわ。直吉も今日は町に買物に出ていますし。」と、お民はいかにも忙しそうに、立ったままで言った。

「お糸婆さんがいるだろう。」と、俊亮は長火鉢に頬杖をついて、お民を見上げた。

「こんな時に婆さんの手をぬかれたんでは、やり切れませんわ。どうせ正木へは、二三日中に、歳暮せいぼのものを届けることにしていますから、その折、一緒でもよかありませんか。」

 正木というのはお民の実家の姓である。

「だが、これは別だよ。先方からもなるだけ早く届けてもらいたいって、言って来ているんだから。」

「そう早く腐るものではないでしょう。」

「腐りはせんさ、鮭の燻製くんせいだもの。しかし、正木の方でも正月の御馳走の心組があるだろうし、それに、先方へ礼状を出してもらう都合もあるんだから、一日も早い方がいいよ。」

「貴方は妙なところに性急せっかちね、ふだんは、のんきな癖に。」

「お前はそのあべこべかな。」

「まあ! すぐそれですもの。」

「とにかく、誰か使いに行って貰いたいと思うね。」

「誰もいませんのよ、今日は。」

 お民は突っけんどんにそう言って部屋を出ようとした。俊亮は、しかし、相変らず悠然と構えて、

「恭一では駄目だろうか。もうこの位の使いは、やらしてみるのもいいんだが。」

「でも、あれは気が弱くて、まだ正木へ一人でなんか行ったことありませんわ。それに、どうせお祖母さんのお許しが出ませんよ。」

「困るなあ、いつまでもそんなに甘やかしていたんじゃ。……いっそ次郎なら行けるかも知れんね。」

「まさか、なんぼあの子が意地っ張りでも。」

「いいや、あいつなら行けるかも知れんぞ。……そうだ、あれをやろう。しかし、道を知るまいな。」

「道なら、この夏からもう五六度もつれて行きましたから、大ていは解っていると思いますわ。……でも、あんまりじゃありません。恭一と二人でなら、とにかくですけれど。」

「そうだな、二人づれだとお祖母さんにも不服はないだろう。」

「さあ、それはお訊ねしてみませんと……」

「ともかくも、二人をここに呼んでみい。駄目なら駄目でいいから。」

 お民はしぶしぶ出て行った。そして間もなく二人をつれて来て、火鉢の前に坐らせた。

「恭一、お前、正木のお祖父さんとこまで、使いに行って来い。」

「…………」

 恭一は、何のことだかせないと言ったような顔をして、父を見た。

「駄目か、一人がいやなら次郎をつれて行ってもいいが……」

「…………」

 恭一はやはり返事をしないで、今度は母の顔を見た。

「二人でもいやかね。正木のお祖父さんが喜ぶんだがな。」

「…………」

 恭一は眼を伏せて、母によりそった。

「やっぱり駄目か。次郎、どうだい、お前は。」

 次郎はそれまでに何度も恭一の顔をのぞいていたが、「行こうや、恭ちゃん。」と少しはしゃぎ加減に言った。

 恭一は、横目でちょっと次郎の顔を見たきり、やはり、返事をしない。

「恭一がいやなら、次郎一人で行け。どうだい。」と、俊亮は少し笑いを含んで、そそのかすように言った。

 さすがに次郎も、それにはすぐ返事が出来なかった。そして、しばらくは、わざとらしく首をひねっていたが、いかにも歎息するように、

「僕、道を間違えるといけないからなあ、橋んとこまでなら知ってるんだけれど。」

「橋んとこまで知っているなら、あれからすぐじゃあないか。」

「すぐかなあ。」と、まだ不安らしい。

「橋を渡ったら、土堤を右に行くんだ。それから一軒家のてまえで土堤を下ると、あとは真直まっすぐだ。」

「ああ、わかった。僕行こうか知らん。」

「行くか。偉い偉い。もし泊りたけりゃ泊って来てもかまわんぞ。」

 次郎は立ち上って帯をしめ直すと、もう出て行きそうにした。俊亮はその様子を面白そうに眺め入って肝腎かんじんの用事をいいつけるのをうっかりしていた。

「次郎、お前、ほんとに大丈夫かい。」とさすがにお民も気づかわしそうだった。

「僕、平気だい。」と次郎は、すっかり得意になって、室を出かかった。

「まあ、次郎、お父さんの御用事も聞かないで行くのかい。……貴方、どうなすったの、御用事は。」

「おっと、そうだ。次郎、ちょっと待て、これを持って行くんだ。手紙が這入っているから、なんにも言わんでいい。風呂敷ごと誰かに渡すんだ。いいか。」

 次郎は包みを渡されると、それを振廻すようにしてさっさと土間に下りた。お民は、やはり気がかりだったと見えて、恭一の手を引きながら、門口まで出て、何かと注意した。しかし次郎はそれにはろくに返事もしなかった。

 正木の家までは、ざっと小一里もあった。

 次郎が家を出たのは、二時をちょっと過ぎたばかりだったが、冬空が曇っていたせいか、すぐにも日が暮れそうで、いやに淋しかった。刈田には、まだところどころに案山子かかしが残っていた。その徳利で作ったのっぺらぼうの白い頭が、風にゆらめいているのも、あまりいい気持ではなかった。狐が出ると聞かされていた団栗どんぐり林から、だしぬけに黒犬が飛び出した時には、思わず足がすくんでしまった。

 途中に部落が二つあったが、見知らぬ子供たちが、遊びをやめて、じろじろと自分を見るので、次郎はいじめられるのではないかと、びくびくした。彼にとっては、たしかに雑嚢事件以来の緊張した時間だった。やっと正木の家のすぐ手前の曲り角まで来ると、彼はほっとして、思い出したように袖口で鼻汁をこすった。そして、彼の足どりが急にゆったりとなった。

 次郎は、正木の家が何とはなしに好きである。今日、たった一人でやって来る気になったのも、一つはそのためだった。

 正木のお祖父さんは、維新までは、さる小大名の槍の指南をしていたそうだが、廃藩後、すぐろう屋をはじめて、今ではこの近在での大旦那である。上品で、鷹揚おうようで、慈悲深いので誰にも好かれている。それに、お祖母さんが信心深くて、一度も人に嫌な顔を見せたことがないというので有名である。次郎は、いつとはなしに、この二人を、自分の家の人たちとはまるでべつの世界の人間のように思いこんでいるのである。

 なお、この家には、伯母夫婦──伯母はお民の姉で、それに婿むこ養子がしてあった──に、子供六人、それに十人内外の雇人が、いつもいた。人数が多いせいか、非常に賑やかで、食事時など、幾分混雑もしたが、かえってその中に、のんびりした自由な気分が漂っていた。子供たちにも、一体に野性を帯びた朗らかさがあって、次郎はこの家に来ると、彼らを相手に、のびのびとした遊びが出来るのであった。

(みんなで泊っていけって言うか知らん。)

 そんなことを考えながら、彼は正木の門口を這入った。

 土間は餅搗もちつきで大賑わいだった。彼は男たちや女たちの間をくぐりぬけて、やっと上りがまちまで行ったが、餅搗でみんな興奮していたせいか、誰も彼が来たことに気がつかなかった。従兄弟いとこたちは、お祖母さんと一緒に、板の間でやんやんとはしゃぎながら、小餅を丸めている。お祖父さんと伯母さん夫婦は、奥にでもいるのか、姿が見えない。

 次郎は鮭包みを下げたまま、しばらく混雑の中にしょんぼりと立っていた。しかし、いつまで待っても、誰も言葉をかけてくれそうにない。

 心に描いて来たものが、すっかりけし飛んでしまった。彼はたまらなくなって、わっと泣き出した。

「おや。」

「まあ。」

 みんなが一せいに仕事をやめて、次郎の方を見た。

「次郎じゃないか。いつ来たんだね。」

 と、お祖母さんが、手についた粉を払いながら、立って来た。同時に、従兄弟たちも振向いて、みんな呆れたような顔をしている。

 次郎は泣きつづけた。

「まさか一人で来たんじゃあるまいね。母さんと一緒かい。」

 次郎はやはり泣くだけである。

「まあどうしたんだね、この子は。……おや、包みなんか下げて……何を持って来たのかい。」

 次郎は泣きながら、包みを差出した。お祖母さんはそれを受取りながら、

「泣かないで言ってごらん。一人で来たのかい……え?」

 次郎はやっとうなずいたが、泣声は前より一層高くなった。お祖母さんは包みを解きながら、

「ほんとに、どうしたというんだろうね。……おや、手紙がはいってるね。まあ、お前を一人でお使いによこしたのかい。かわいそうに。」

 そこで次郎の泣き声は、また一しきり高くなった。

「もう泣くんじゃありません。さあお上り。今日は餅搗だから、面白いことがあるよ。でも一人でよく来られたね。道を間違えはしなかったかい。」

 次郎は泣きじゃくりながら、お祖母さんに手を引かれて、やっと板の間に上った。

 お祖母さんは、それから、大急ぎで、次郎のため黄粉餅きなこもちを作った。そして、いつになく不機嫌な顔をして、土間の男衆に言った。

「誰かすぐに本田の家に行って、次郎は無事に着いたから安心なさいって、そう言って来ておくれ。今夜はこちらに泊めて置くからってね。……ほんとにこんな子供を一人でよこして置いて、着いたか着かないかも気にかけないなんて、まるで親とは思えやしない。」

 次郎は、ひどく父が非難されているように思って、少し気がかりだった。しかし、餅搗の賑やかさが、間もなく彼にすべてを忘れさせた。そして、従兄弟たちと一緒に、夢中になって小餅を丸め始めた。


一一 蝋小屋


 その日、次郎はむろん正木の家に泊った。そして翌日は朝から蝋小屋の中で、従兄弟達と角力すもうをとったり、隠れんぼをしたりして遊んだ。

 年末のせいで、蝋めは一そうしか立っていなかったが、はぜの実を蒸す匂いは、いつものように、温かく小屋の中に流れていた。炉の中に惜しげもなく投げこまれた蝋糟ろうかすが、ごうごうと音を立てて、焔をあげているのも景気がよかった。

 次郎はこの家に来ると、妙に甘い空気に包まれる。

 そのせいか、ほんのちょっとした事にも、すぐ泣き出してしまう。従兄弟たちは別に意地悪をするわけでもないが、子供同士のことで、たまには口喧嘩をしたり、ぶっつかったりすることもある。そんな時に、きまって泣き出すのは、次郎の方である。それは、彼の実家でのふだんの様子を知っている者には、実際不思議なくらいだった。

 この日も、彼と同い年の辰男を相手に、炉の前に積んであった蝋糟の中で角力をとっているうちに、つい泣き出してしまった。それを年上の従兄弟たちがなだめて、やっと機嫌を直させたところへ、ひょっくり思いがけない人が這入って来た。お浜であった。

「まあ、坊ちゃん、しばらく。」

 次郎はちょっとの間、ぽかんとしてお浜の顔を見ていたが、きまり悪そうに俯向うつむいて、くるりと背を向けた。

「おや、どうなすったの。」

 お浜は、次郎の前にまわって、中腰になりながら、彼の顔をのぞきこんだ。

「まあ、泣いてたようなお顔ね。」

 そう言って、彼女は次郎を抱きすくめるようにしながら、炉の前の蓆に腰をおろした。従兄弟たちは、しばらく二人の様子を珍しそうに見ていたが、間もなく、ぞろぞろと小屋を出て、何処かへ行ってしまった。

「ねえ、次郎ちゃん、あれからどうしてたの。」

 と、彼女の言葉は、二人きりになると、少しぞんざいになった。

「病気しなくって? 何だか少し痩せたようね。私、次郎ちゃんのこと、一日だって忘れたことないのよ。でも、お母さんのお許しがあるまでは、次郎ちゃんところへは伺わない約束なんですの。それでね、いつもこちらにお伺いしては、次郎ちゃんのことをお聞きしていましたのよ。でも、今日はよかったわね、お逢い出来て。……昨日いらしたってね。」

 次郎は俯向うつむいたまま、かすかにうなずいた。

「でも、お一人でいらしたっていうじゃないの? 随分ひどいわねえ。母さんのお言いつけ?」

「ううん。」

「では、お祖母さん?」

「ううん。」

「では、どなた。」

「父ちゃんだい。」

「お父さん? まあ。お父さんまで、そんなことを次郎ちゃんにお言いつけになるの? はっきり嫌だとおっしゃればいいのに。お父さんだって誰だって、構うもんですか。」

「だって、僕……」

「だってじゃありませんよ。次郎ちゃんは、いつもびくびくしてるから駄目ですわ。」

「だって、恭ちゃんが返事しないんだもの。」

「恭ちゃんにも行けっておっしゃったの?」

「うん、はじめは恭ちゃんに行けって言ったの。でも恭ちゃんが默ってるから、僕来ちゃったんだい。」

「恭ちゃんがいやなら、次郎ちゃんはなおいやでしょう。小っちゃいんですもの。」

「だって僕、父ちゃんが好きだい。」

「そう? お父さんお好き?」

「大好きだい。うちで一等好きだい。」

「そんなにお父さんは次郎ちゃんを可愛いがって?」

「ああ、ちっとも叱らないよ。」

「そりゃいいわね。……でも、昨日は一人で怖かったでしょう。」

 次郎は急に肩をそびやかして、

「ううん、ちっとも怖くなんかないよ。」

「まあお偉い。」

「だって僕、ここに来たいと思ったんだもの。」

「そう? ここのおうち、そんなにお好き?」

「うちなんかより、うんと好きだい、誰も叱らないんだもの。」

「でも、辰男さんと喧嘩なさるんじゃありません?」

「ううん、角力とるんだい。恭ちゃんや俊ちゃんとは喧嘩するんだけど。」

「いつも負けやしません? 恭ちゃんや俊ちゃんに。」

「…………」

「まけるんでしょう?」

「誰も見てないとこだと、僕きっと勝つよ。」

 お浜は暗い顔をして唇を噛んだ。

「僕、乳母やの家に行っちゃいけないの? 乳母やのうち、一等好きなんだがなあ。」

 お浜は次郎の肩にかけていた手をぐっと引きしめて、ぼろぼろと涙をこぼしながら、

「駄目、今は駄目なの。……でも来年は次郎ちゃんも学校でしょう。そしたら、毎日逢えるんですよ。だから、……」

 次郎はその言葉を聞くと、突っ放すようにお浜の手を押しのけて、立ち上った。そして、さぐるような視線を彼女に投げた。彼は、ふと、毎日学校に通っている、恭一のことを思い出したのである。

 お浜は、次郎がなんでそんな真似をするのか解らなかった。で、すこし変に思いながら、手をさし伸べてもう一度彼を引きよせようとした。しかし次郎は、人に慣れない小猫のように、眼だけをお浜に据えて、じりじりとあとじさりした。

「どうなすったの、次郎ちゃん。学校がおいや?」

 お浜はそう言って立ち上ると、無理に次郎をつかまえた。そして再び蓆の上に坐って、彼を自分の膝に腰かけさせた。

「ねえ、次郎ちゃん。」

 と、次郎の耳に口をよせて、

「学校に行かないじゃ、偉くなれませんのよ。なあに、勉強だって何だって、恭ちゃんなんかに負けるもんですか。……恭ちゃんはね、そりゃ学校では泣虫なのよ。あんな泣虫、乳母やは大きらい。次郎ちゃんはきっと泣かないでしょうね。だって、学校では乳母やがついてて上げるんですもの。」

 お浜の膝の上でぐずついた次郎の尻が、それでやっと落ちついた。

 二人は、それからも永いこと炉の前を動かなかった。蒸桶から吹き出す湯気は、濃い蝋のにおいをかしこんで、真赤にほてった二人の顔を、おりおり包んだ。

 二人は身も心もあたたかだった。

 ひる飯には、正木のお祖母さんが気をきかして、お浜を子供たちと一緒のちゃぶ台に坐らせた。お浜はみんなのお給仕をしながら、たえず次郎に気を配って、彼のこぼした御飯粒を拾ってやっては、それを自分の口に入れた。

 お副食かずは干鱈と昆布の煮〆だったが、お浜はそれには箸をつけないで沢庵たくあんばかりかじっていた。そして、次郎の皿が大方空になったころ、そっと自分の皿を、次郎の前に押しやった。

「ううん、それは、乳母やのだい。」

 次郎はそう言って、皿を押し返した。お浜は顔をあからめて、あたりを見まわしたが、誰もそれに気づいた様子がなかったので、ほっとした。そして今度は急いで自分の皿から、お副食を半分ほど次郎のに分けてやった。

 すると今度は次郎がまごついた。こんな特別な心づかいを平気で受けるようには、彼の心はこのごろ少しも慣らされていなかったのである。彼は盗むように、お浜と従兄弟たちの顔を見た。そしてお浜が与えたものに箸をつけるのを躊躇ちゅうちょした。

「坊ちゃんは何時お帰り? 今日? 明日?」

 お浜は、みんなの気をそらすつもりで、そんなことを言ってみた。しかし、気をそらす必要のあった者は、お浜自身と次郎との外には誰もいなかった。従兄弟たちはお浜が自分のお副食を次郎の皿にわけてやったのを見ながら、ほとんどそれを気にとめていないようなふうであった。

「僕、もっと泊っていきたいんだがなあ。」

 そう言って、次郎はきまり悪そうに、皿に箸を突っこんだ。

「お正月まで泊っておいでよ。ね、いいだろう。」と、久男が言った。──久男は、一番年上の従兄弟である。

「でも、お正月はおうちでなさるものよ。」

 と、お浜はいそいで久男の言葉を打消し、何かちょっと考えるふうであった。

「どこだって同じだい。ねえ、お祖母さん、次郎ちゃんはお正月まで泊ってもいいだろう。」

「そうねえ……」

 と、お祖母さんは、隣のちゃぶ台から、なま返事をした。

「なんでしたら、私、おいとまする時に、途中までお送りしましょうかしら。」

 お浜は箸を持った手を膝の上に置きながら、改まって言った。すると、茶の間で一人だけ別の膳についていたお祖父さんが、

「なあに、構うことはない。本田の方から誰か迎えをよこすまでは、幾晩でも泊めて置くがよい。」

 正木のお祖父さんにしては、かなり烈しい語気だった。白髯はくぜんの間からのぞいている頬が、いつもより赤味を帯びて光っていた。

 お祖父さんにそう言われると、お祖母さんもすぐその気になったらしく、

「そう急いで送って行くこともあるまいよ。よかったら、お浜もゆっくり泊っていったらどうだね。次郎と一緒に寝るのも久しぶりだろう。」

「でも、そんなことをいたしましたら、それこそ本田の奥様が、……」

「なあに、お民の方はこちらに任してお置きよ。今度来たら、お祖父さんからも、よく話して下さるはずだから。」

 お浜はわくわくするほど嬉しかった。彼女は、次郎の耳許に口をよせて囁くように言った。

「乳母やも泊っていきましょうね。」

 次郎は俯向いて、お椀の中に残った飯を、箸の先でいじるだけで、返事をしなかった。次郎がこんなにはにかんだ様子をするのは、全く珍しいことだった。


一二 押入


 その夜は、次郎にとっても、お浜にとっても、まるで思いがけない一夜であった。そして翌朝になると、便所に行くにも、顔を洗うにも、二人は必ず一緒だった。お浜が土間の掃除をはじめると、次郎も何処からかほうきを持って来て手伝った。

「まるで鶏の親子みたいだね。」とお祖母さんが笑った。

 午過ぎに、本田から歳暮のものを持って直吉がやって来た。お浜は、彼に顔を見られないうちに、そっと裏口から抜けて帰ろうと思ったが、次郎がいつも尻にくっついているので、それが出来なかった。

「おや、お浜さんも来ていたのかい。」と、直吉は台所に腰をおろして、にやりとした。

「ああ、ちょいとこちらに用があってね、でも坊ちゃんにお逢い出来るなんて、夢にも思っていなかったのよ。」と、お浜は土間に立って、次郎に袖を握られながら、言訳らしく答えた。

「今日来たのかい。」

「実は昨日来たんだけどね、皆さんで是非泊っていけっておっしゃるものだから、ついゆっくりしちゃったのさ。……でも、奥さんには内証にしておくれよ。」

「ああ、いいとも。」

 直吉の返事は、無造作過ぎて、何だか頼りなかった。

 しかしお浜は、どうせ何処からか知れるだろう、という気もしたので、それ以上たっては頼みこまなかった。

「直さんは、すぐかえるんだろう。」

「帰るとも、ゆっくりなんかしちゃ居れないや。」

「では、坊ちゃんも今日はお帰りになった方がいいんだから、一緒にお連れしておくれよ。お一人じゃ、何ぼ何でも、おかわいそうだから。」

「俺もそのつもりさ。奥さんにそう言いつかって来ているし、それにあのお祖母さんが、恐ろしくやかましいことを言ってるんでね。」

「坊ちゃんのことでかい。」

「そうだよ。歳暮くれの忙しいのに、二日も三日も子供をお邪魔さして置いたんでは、先方様に、義理が立たないとか言ってね。」

「へええ、いやに義理を気にするんだね。」

「なあに、次郎ちゃんがこちらで可愛がられていると思うと、妙にけるんだよ。」

「まさか、お祖母さんが妬くってこともあるまいけれど……」

「いいや、本当に妬けるらしいよ。正木の家では子供を甘やかし過ぎていけないって、飯どきにさえなりゃ、そればかり言っているんだからね。」

「ご自分こそ、恭ちゃんをあんなに甘やかしているくせに。」

「全くさ。それにお祖母さんは、次郎ちゃんにこちらでいろいろしゃべられるのが、何より恐いらしいよ。あの子は全く嘘つきだから、何を言うか知れやしないって、一人でやきもきしているんだ。」

「まあ、呆れっちまうね。……ところで旦那様は一体どうなんだい。やっぱり坊ちゃんをいびるんじゃない?」

「そんなことあるもんか、旦那に限って。」

「でも、坊ちゃんを一人でお使いによこしたのは、旦那様だっていうじゃないの。」

「それはそうらしいね。でも、いびる気なんかまるっきりないよ。第一、お祖母さんや、奥さんとは人柄がちがってらあ。」

「どうちがってるの。」

「どうって……とにかく次郎ちゃんを心から可愛いがっているんだからね。」

「ほんとうかい。」

「ほんとうだとも。そりゃ可愛いがるよ。しかし、可愛いがっても甘やかさないところが、流石は旦那さ。」

「そうだと、私も安心だけれど……」

 お浜は幾分物足りなさを感じながらも、流石に嬉しそうだった。そして、もっと直吉にいろいろ訊いてみたいこともあったので、一緒に連立って帰ることにした。

 ところで、二人が正木に挨拶をすまして、いざ帰ろうとすると、かんじんの次郎の姿が何時の間にか見えなくなっていた。

「次郎ちゃん!」

「坊ちゃん!」

 と、直吉とお浜とが、代る代る呼び立てた。その声に驚いたような顔をして、正木の子供たちが、ぞろぞろと蝋小屋から出て来たが、次郎の姿はその中にまじっていなかった。

 しばらくの間は、お浜と直吉だけが、其処此処と探しまわっていた。

 しかしいくら探しても見つからないので、捜索は次第に大袈裟になっていった。いつも子供たちが隠れん坊をして遊ぶ米倉や、はぜの実倉は無論のこと、納屋や、便所や、床の下まで、総がかりでしらべた。隣近所にも無論たずねてみた。しかし次郎の行方は皆目かいもくわからなかった。

 みんなはさがしあぐんで、だんだんと土間に突っ立ったり、かまどの前にしゃがんだりしはじめた。大して心配なことはあるまい、という気持が、大抵の人の顔に現れていた。

 その間を、お浜だけが、何度も裏口を出たり這入ったりして、落ちつかなかった。背戸せどには大きな溜池があって、蓮の枯葉が、師走の風にふるえていた。お浜は、ちょっと不吉なことを想像した。しかし、それを、口に出してまで言おうとはしなかった。

「次郎ちゃんのことだから、出しぬいて、一人で先に帰ったのかも知れない。」と、直吉が、竈の前で煙草をくわえながら言った。

「そう言えばお前さん達がそこで話しているうちに、一人で表の方へお出でなすったようだよ。」

 と、姉さんかぶりのおんなが、すべての謎はそれで解けてしまうかのような顔をして言った。

 今まで茶の間に坐ったまま、默ってみんなの言うことを聞いていた正木のお祖父さんは、

「ともかくも、直吉は一応帰って見るがいい。こちらはこちらで、心あたりをさがして置くからな。だが、見つかっても、見つからんでも、日暮までにはおたがいに知らせあうことにして置かんと困る。──お浜は、よかったらもう一晩泊ったらどうかの。」

 お浜はちょっと思案していたが、

「私もすぐ帰らしていただきましょう。すこし思い当ることもありますから。」

「まさかお前のところに逃げて行ったんではあるまい。」

「私もまさかとは思いますが……」

 そう言いながら、お浜は直吉と一緒に、そそくさと暇を告げた。

 その後、捜索そうさくは三方で行われたが、どちらからもいい報告はなかった。日が暮れると間もなく、お浜が再び正木の家にやって来た。本田からは、九時頃になって、俊亮と、お民と、お祖母さんとが、揃ってやって来た。お民は這入って来るとすぐ、白い眼をして、じろりとお浜を見た。お祖母さんは、

「あんな小さい子を一人で使いに出したりするものですから、とうとうこんな事になりまして。……第一こちら様に相済まないことだし、それに世間様にも恥ずかしい。」と言った。

 俊亮は、いつもに似ぬ沈痛な顔をして、默って正木の老人の前にかしこまった。

 そのあと、彼らが何を話合い、どんな手段を講じたか。それは彼らに任しておいて、私は、読者と共に、早速次郎のあとをつけてみることにしたい。


     *


 実を言うと、次郎はみんなが心配するほど危険な場所に行っていたわけではなかったのである。

 彼は、門口かどぐちを出ると母屋と土蔵との間の、かびくさい路地に這入って、暫くそこにたたずんだ。それから路を更に奥にぬけて、庭の築山のかげに出た。彼はそこで、永いこと寒い風にさらされながら、座敷の様子を窺っていたが、全く人の気配がないと見て、思い切って縁側から上って行った。そして、次の間の、客用の夜具を入れてある押入をあけて、すばやくその中にもぐりこんでしまった。

 絹夜具の膚触はだざわりが、いやに冷たくて気味が悪かった。おまけに、ひびの切れた手足がそれに擦れるたびにばりばりと異様な音を立てるので、彼はびくびくした。

 夜具にくるまりながら、内からそっとふすまを締めるのは、次郎にとって、かなり骨の折れることだった。が、どうなりそれをやりおおせると、彼はなるだけ体を動かさない工夫をして、遠くの物音に聴耳ききみみを立てた。おりおり男衆の騒いでいるらしい声がきこえて来た。しかし何を言っているのかは、まるでわからなかった。

 眼が、闇に慣れるにつれて、襖の隙間すきまから洩れる光線が、仕切棚の裏にぼんやり扇形の模様を投げているのが見えだした。彼は一心にそれを見詰めて、その中に日の丸や、青い波や、瓢箪ひょうたんや、竜や、そのほか彼がこれまでに扇面で見たことのあるいろいろの画を想像してみた。

 そのうちに、お浜や直吉の顔も浮かんで来た。同時に、彼がかつて直吉の肩車に乗って、その耳朶に爪を突き立てた折のことが、はっきり思い出された。

(直吉はいつも自分を迎えに来るからきらいだ。それさえなければ嫌いではないんだが。……今日はもう帰ったか知らん。──でも、乳母やまでが一緒に帰ってしまったんではつまらない。)

 そんなことを考えているうちに、夜具がいつの間にかぽかぽかと温まって来た。次郎は、その中で体がふんわりと宙に浮き上るような気持になった。そして、間もなく彼はぐっすりと眠ってしまったのである。

 幾時間かの後、彼が眼をさました時には、扇形の光線など、もうどこにも見えなかった。彼は真っ暗な中で、自分が何処に寝ているかさえ、全く見当がつかなかった。寝返りを打った拍子に、足が襖に当って、ぱたりと音を立てたが、それでも彼は、自分のいる場所を急には思い出せなかった。

 ところで、彼が眼をさましたのは、実のところ、ぐずぐずして居れない自然の要求が、彼の下腹部にかなり鋭く迫っていたからであった。で、彼は、自分が今何処に寝ているかを、一刻も早く知る必要があった。

 彼は暗闇の中で幾度も体をひねった。それから、そっと手を伸ばしてあたりを探ってみた。すると、その手にれて、絹夜具がばりばりと音を立てた。その瞬間、彼の記憶が、はっきりとよみがえって来たのである。

 しかし、記憶が蘇ってからの彼は、いよいよみじめだった。出るにも出られない。かといって、下腹部の刺激は刻一刻烈しくなるばかりである。彼は、いっそ思い切って、かつて俊三の横腹に試みた経験を、もう一度繰り返してみようかと思ったりした。しかし、それには夜具が上等過ぎて都合が悪い。しかも、此処は正木のお祖父さんの家だ。そう考えると、思い切ってやってみる気にはなれない。──次郎だって、やはり人間の子である。そう何時も良心が眠ってばかりはいない。

 彼は歯を食いしばり、小さな頭を火の玉のようにして、「自然の要求」と「良心の命令」との間に苦悶くもんした。──一分、二分。──だが、幸いにして、解決は早くついた。

(何だ、つまらない。直吉はもうとっくにかえったはずじゃないか。)

 そう気がつくと、彼は急にはね起きて、襖をがらりと開けた。

 ぬりつぶしたような闇だ。

 彼は両手を前に伸ばして、縁側だと思う方向に、そろそろと歩きだした。寒い。そして下腹部の要求はいよいよきびしい。

 と、何につまずいたか、彼の体は急に前にのめって、闇を泳いだ。同時に彼は、物の破壊するすさまじい音を彼の耳許で聞いた。そして、いばらの中にでも突き倒されたような痛みを覚えて、思わず悲鳴をあげた。

 間もなく燈火がして来た。大勢の人声と足音とが、その光の中にうずを巻いた。


「あっ、次郎だ!」

「まあ、坊ちゃん!」

「これはいけない、早く、早く!」

「無理しちゃいかん、そっと抱えるんだ!」

「まあ!」

「まあ!」

 次郎は障子の骨を二三本ぶち抜いて、頭と両手をその向側に突き出していたのである。

「眼玉を突いてはいないでしょうか。」

「大丈夫、顔の方は大したこともなさそうだ。手首の方にちょっと大きな傷があるんだが。」

「でも、硝子ガラスのところでなくてよかったわ。」

「ともかく、誰か早くお医者を迎えて来なさい。」

 これは正木のお祖父さんの声であった。

 次郎は、手首と額とに、取りあえず白木綿を捲きつけられた。

「おや着物がぐしょぐしょになっていますが、どうなすったんでしょう。」

 お浜は彼を抱えて座敷の方に運びながら言った。

「そうかな、気がつかなかった。……大方倒れたはずみに発射したんだろう。」

 俊亮は、何でもなさそうに言って、笑いながら、次郎を見た。みんなも笑った。次郎はまだ泣いていた。

 ただお民だけが、きっとなって俊亮を睨んだ。

 それから次郎は、汚れた着物を辰男のと取りかえて貰って、しずかに蒲団に寝かされた。

 医者の見立てでは、手首の傷も大したことはなかった。ただ、障子の骨が突き刺さったのだから、傷あとは案外大きく残るかも知れないと言った。

 医者が帰ったのは、十二時ごろだった。

 俊亮は自分から泊っていくと言い出した。お浜はお民の顔色を窺っていたが、正木の老夫婦にすすめられて、これも泊ることにした。本田のお祖母さんは、「次郎を預けたまま帰ってしまってはすまないが、幾人も泊りこんではなおさらすまない。」といったような意味のことを、くどくどと繰返した。で、結局お民が一緒について帰ることになった。

 次郎は、傷が痛んで、よく眠れなかった。しかし、俊亮が自分と床をならべて寝ているうえに、お浜が夜どおし枕元に坐っていてくれたので、彼にとって、さほど不幸な晩であるとはいえなかった。


一三 窮鼠


 年が明けた。愛されるものにも、愛されないものにも、時間だけは平等に流れてゆく。

 菜種の花がちらほら咲きそめる頃には、次郎もいよいよ学校に通い出した。彼は学校に行くのが何よりの楽しみだった。で、毎朝恭一が、みんなに何かと世話を焼いてもらっている間に、さっさと一人で先に飛び出して行くのだった。

 教室は男女一しょだった。次郎は、一番前列の窓ぎわに、偶然にも、お鶴と席をならべることになった。お鶴の頬には、相変らず「お玉杓子」がくっついていた。もっとも、彼はお鶴の右側にいたので、しょっちゅうそれが眼につくわけではなかった。

 授業は初めのうち午前中ですんだ。授業がすむと、二人はすぐ校番室に行って、お浜がいつも用意しておいてくれる握飯と沢庵をたべた。握飯には、きまって胡麻塩ごましおがつけてあり、沢庵は麻縄のように硬かった。その前に坐ると、彼らの唾液は滾々こんこんと流れた。

 次郎はお浜の家で物を食べることをお民に固く禁じられていた。このことは入学の当日、お浜にもきびしく、言い渡されたことであった。しかし、お浜も次郎も、そんなことはまるで忘れてしまっているかのようであった。

「何も飯代をいただこうというのではないし。」

 これがお民から文句が出た時の用心に、お浜が考えておいた理窟であった。

 次郎の帰りが遅くなるので、とかく迷惑するのは直吉だった。

 次郎はすでに、本田と正木と学校との間を、一人で自由に往来することが出来たし、それに、時としては菜種畑の中に、小一時間も押しづよく隠れていたりするので、直吉は、迎えに来ても、捜しあぐんで、ひとりで帰ることが多かった。

 しかし、珍しいことには、次郎は、まだ一度も校番室に泊りこんだことがなかった。それは、お浜が、お民に対する意地から、日暮近くなると、進んで次郎を帰すことにつとめたからだった。次郎は、そんな場合、どうしても家に帰るのが嫌だと、きまって正木の家に行くことにした。そして一度正木の家に行くと、大てい五日や一週間は根がついて、そこから学校に通うのであった。正木では、初めのうちこそ心配もしたが、たび重なるにつれて、それを気にとめる者さえいなくなった。

「次郎のほんとのお家は、いったい何処どこだね。」

 飯時などに、時たま、お祖母さんがそんなことを言って笑ったりするので、みんなも次郎の来ているのに気がつき出すくらいであった。

 本田では、俊亮と、お民と、お祖母さんとが、まるでべつべつの気持で、いつもそれを問題にしていた。お民は、自分の感化がちっとも次郎に及ばないのをくやしがった。そしてその罪をいつもお浜にかぶせた。

 お祖母さんは、次郎の行末ゆくすえなどには、まるで無頓着だったが、口先だけでは、いつも、

「あの子にも困ったものだ。」

 と、いかにも歎息するらしく言い、そして、最後にはきまって、

「ああ何時も何時も、あちらにばかり入浸いりびたっているのを、私という老人もいながら、放っとくわけにもいくまいではないか。」と言った。

 俊亮は、二人が、めいめいに自分の立場だけからものを考えるのを、にがにがしく思った。そして、どうかすると、いっそ次郎を正木に預けてしまおうか、と考えたりした。

「なあに構うことはない。当分、次郎の好きなようにさしておくさ。」

 俊亮は、母や妻がやかましく言えば言うほど、のんきそうに構えて、そんなことを言った。そのくせ、土曜に帰宅してみて、次郎がいなかったりすると、すぐ、自分で正木に出かけて行って、彼をつれて帰るのだった。

 そうした周囲の空気の中で、次郎は、ぐいぐいと彼自身の新しい天地を開拓していった。彼は、本田と、正木と、学校との三カ所を中心に、沢山の遊び仲間をこさえた。そして、どの仲間でも、彼は彼の腕力と、気力と、智力とに相当した地位を占めることが出来た。

 体が小さいせいもあって、腕力では大したこともなかったが、気力と智力とにかけては、彼はたいていの子供にひけを取らなかった。時とすると、年上の子供たちまでを、自分の手下のようにして遊んでいることがあった。ことに彼が、喜太郎を喧嘩で負かしてからは、仲間に対する彼の勢力は、急に強くなった。

 喜太郎というのは、村で魚屋兼料理屋をしている庄八の長男で、次郎より二つも年上であった。背が馬鹿に高くて腕力があるうえに、父の庄八が、ちょっと睨みのきく親分株の男だったので、性来せいらい気の小さいわりに、横暴な振舞ふるまいが多かった。恭一などは、学校の往復に彼と一緒だと、いつもびくびくしていた。次郎も最初のうちは、むろん彼の言いなりになっていた。

 しかし、次郎の忍耐はそう永くはつづかなかった。

 或日、彼がいつもの通り、校番室でお鶴と握飯を食っているところへ、喜太郎がひょっくり窓から顔をのぞかせて、

「おれにも一つくれ。」

 と、その長い手を次郎の方に突き出したのである。

 次郎は、お鶴と顔を見合わせて、しばらく返事をしなかった。鉢には、まだ握飯が二つ残っていた。しかし、その一つは次郎にとって、他の一つはお鶴にとって、どうしてもなくてはならないものだったのである。

「おい、早くよこさんか。」

 喜太郎は、泳ぐように窓から体を乗り入れて言った。

 次郎と、お鶴は、思わず喜太郎の方に尻を向けて、握飯をかばうようにした。

「畜生、覚えていろ。」

 喜太郎は、そう言って、地べたに飛び下りたが、すぐその手で土塊つちくれをつかむと、それを部屋の中になげこんだ。土塊は天井にあたってばらはらに砕けた、そしてむざんにも握飯の表面をまだらにした。

 次郎の眼は異様に光った。彼はやにわに立ちあがって、窓から飛び下りると、うしろから喜太郎の腰のあたりに武者ぶりついた。

 しかし、腕力では、彼は喜太郎の相手ではなかった。次の瞬間には、彼は仰向けに地べたに倒されていた。しかも、彼の胸の上には、喜太郎の大きな膝頭が、丸太のようにのっかっており、両手は、地べたに食い入るように、おさえつけられていた。

 次郎は、足をばたばたさせたり、唾を吐きとばしたりしたが、何のききめもなかった。唾はかえって自分の顔に落ちて来るばかりであった。

 だんだんと息がつまって来る。あせればあせるほど、喜太郎の膝頭が胸をしめつける。次郎は泣き出したくなった。

 しかし、せっぱつまった瞬間に、皮肉な落ちつきを取りもどして、何かの計画を頭のなかから引き出して来るのが、次郎のいつものでんである。彼は四五秒ほど、じっと喜太郎の顔を見つめていた。それから、自分の胸の上に乗っかっている膝頭に、そろそろと視線を転じた。膝頭はまるく張り切って、陽に光っていた。自分の口との距離は、わすか一寸ほどである。

 とっさに彼の頭が上に動いた。顔の筋肉がブルドッグのように引きつった。同時に、まだ飯粒のくっついている彼の味噌っ歯が、喜太郎の膝頭の一角にずぶりとめりこんだ。

 喜太郎は、地の底をモーター・サイレンが走りまわるような悲鳴をあげながら、両手で虚空こくうを引っかきまわした。

 次郎は夢中だった。彼はただ、口の中がしょっぱくなるのを、かすかに感じただけだった。

 彼が自分にかえった時には、彼は、わいわい騒いでいる大勢の子供たちに取りかこまれて突っ立っていた。喜太郎は、地べたにしゃがんで、血だらけの膝頭を両手で押えながら、次郎の方を向いて、犬が鳴くようにわめいていた。

「どうしたんかっ、おい!」

 と、一人の先生が教室の窓から大声で叫んだ。同時に、お浜のいかにもきこんだらしい、かん高い声が近づいて来た。

 次郎は、自分のやったことが急に恐ろしくなった。そしてやにわに子供たちの間をくぐりぬけて、いっさんに校門の方に走って行った。

 彼は、しかし、校門を出ると、すぐ迷った。

(うちに帰ろうか。それとも正木に行こうか。)

 何しろ、血を見るような事件を起したのは、彼としても、全くはじめてである。いずれにしても、今度ばかりは無事にすみそうな気がしない。

 ふと、彼は、今日は父が帰宅する日だということを思い起した。

(そうだ、父さんならきっと何とかしてくれる。)

 そこで彼は、父が帰る時間まで、鎮守ちんじゅもりにかくれていることにした。

 しかし、杜にかくれてみても、彼の心は落ちつかなかった。不思議に今日は一人でいるのが怖い。村中の者が、今にも自分を取りかこみそうな気がする。喜太郎の父の庄八が、出刃でもぶらさげて来たら、どうしようかと思う。

(やっぱり、うちにかくれている方が安心だ。)

 そう思って、彼はあたりに気を配りながら杜をとび出した。


     *


 その日の夕方、次郎は、俊亮と、お民と、お浜の三人が茶の間で話しこんでいるのを、隣の部屋から立ちきしていた。

俊亮──「それで先生はどう言っているんだね。」

お民──「とにかく、庄八の方に、一刻も早くこちらから挨拶をした方がいい、とおっしゃるんです。」

俊亮──「挨拶には、もうお前が行ったんだろう。」

お民──「ええ、でもほんのおわびだけ……」

俊亮──「それでいいじゃないか。」

お民──「でも、向こうに傷を負わしたんですもの、何とか色をつけませんと、庄八も承知しないでしょう。」

俊亮──「庄八が承知しない? 先生がそう言ったかね。」

お民──「ええ。」

俊亮──「じゃ、俺はいよいよ不賛成だ。こちらが本当に悪けりゃ、庄八にだって誰にだって、いくらでもあやまるし、場合によっては、金も出さなきゃなるまいさ。しかし、何といっても、喜太郎の方が年上だからね。」

お浜──「そうですとも、もともと悪いのは、何といっても喜太郎でございますよ。」

お民──「いったい、ほんとうのところはどうなんだい。随分次郎にもきいてみたんだけれど、はっきりしないところがあるんでね。」

お浜──「ええ、……それは、何でも、……お鶴にきくと、喜太郎が坊ちゃんに泥をぶっつけたのが、もとなんだそうでございますよ。」

お民──「だしぬけにかい。」

お浜──「ええ……」

お民──「理由もなしに?」

お浜──「ええ、何でも、校番室で坊ちゃんがお鶴と遊んでおいでのところへ、窓から泥を投げこんだらしゅうございます。」

 次郎は、握飯の話が出るかと思って、ひやひやしていたが、とうとう出なかった。自分もそのことを母に言わないでおいてよかった、と彼は思った。

お民──「校番室なんかで、お鶴と遊ばしたりするからいけないんだよ。」

俊亮──「とにかく、もうすんだことだ。」

お民──「でも庄八は、こちらから相当の挨拶をしなければ、今夜にも自分で出かけて来るとか言ってるそうです。」

俊亮──「来たっていいじゃないか。向こうからも一応は挨拶に来るのが当然だからね。」

お民──「でもそれじゃ、事が面倒ですわ。」

俊亮──「なあに、何でもないよ。俺がよく話してやる。」

お浜──「そりゃ旦那様におっしゃっていただけば、庄さんも納得するとは思いますが、何しろあれほどの傷ですし、やはり坊ちゃんのためには、一応はさっぱりなすった方が……」

俊亮──「次郎のためを思うから、俺はそんなことをしたくないんだ。お前たちは、相手の傷のことばかり気にしているが、次郎としては、命がけでやった反抗なんだ。自分よりも強い無法者に対しては、あれより外に手はなかろうじゃないか。あいつの折角の正しい勇気を、金まで出して、台なしにする必要が何処にあるんだ。」

 俊亮の語気は、いつもに似ず熱していた。次郎には、その意味がよく呑みこめなかった。しかし、自分のしたことを父が悪く思っていないことだけは、はっきりした。

お民──「そんなことをおっしゃったんでは、次郎は、この先いよいよ乱暴者になってしまいますわ。」

俊亮──「まさか、俺も、次郎の前でけしかけるようなことは言わんつもりだよ。あいつを闘犬に仕立てるつもりじゃないからな。」

お浜──「まあ。」

お民──「すぐ宅はあれなんだよ。冗談だか本気だかわかりゃしない。」

俊亮──「とにかく心配するなよ。」

お浜──「でも、坊ちゃんは、これから学校に行くのを嫌がりはなさいませんでしょうか。」

俊亮──「馬鹿な! 万一そんなだったら、庄八の家に小僧に出してやるまでさ。」

 お民もお浜もつい吹き出してしまった。しかし、その言葉は、陰で聞いていた次郎の胸には、ぴんと響くものがあった。

 次郎は、そのあと、父から一応の訓戒をうけて、九時ごろ寝た。──訓戒といっても、母のそれとはまるでちがっていた。

「正しいと思ったら、どんな強い者にも負けるな。しかし犬みたいに噛みつくのはもうこれからは止せ。」

 これが父の訓戒の要点であった。

 次郎は、庄八がいつやって来るかと、多少気にかかりながらも、寝床にはいると、間もなく眠ってしまった。

 それからどのくらいの時間がたったか、ふと、彼は茶の間から聞えて来る大きな声で目をさました。

「じゃ、何ですかい、小さい者が大きい者に向かってなら、どんな乱暴をしたって構わんとおっしゃるんですかい。」

「そうじゃないのさ。さっきからあれほど言っているのに、まだ解らんかね。」

「解りませんね。旦那のような学者のおっしゃるこたあ。」

「じゃ訊ねるが、もし次郎が噛みつかなかったとしたら、一体どうなっているんだい。」

「どうもなりゃしませんさ。」

「どうもならんことがあるものか。あいつは年じゅう喜太郎にいじめられ通しということになるだろう。傷がつかない程度にね。……一体、膝坊主を少しばかり噛み切られるのと、一生卑怯者にされるのと、どちらがみじめだか、よく考えてみてくれ。お前も親分と言われるほどの男だ、これぐらいの道理がわからんこともあるまい。」

 庄八は何か答えたらしかったが、急に声が低くなって、次郎にはよく聞き取れなかった。

「そりゃ、梅干ほどの肉がちぎれているとすると、親としては腹も立つだろう。俺も、次郎が犬みたいな真似をしたことを、決していいとは思わん。」

 また犬だ。次郎は口のあたりを手のひらでそっとなでてみた。

「そこで、実を言うと、俺も最初は、何とか挨拶に色をつけなきゃなるまいと思っていたところだ。が、だんだん話を聞いているうちに、お前の方で、こちらからそうした挨拶をしないと承知しない、とか言っていることがわかったんだ。……いや、それもいい。そういう要求も別に悪いとは言わん。しかし、万一にもそのことが、お前んとこの喜太郎にわかり、それから次郎にもわかったとしたら、いったいどうなるんだ。……ねえ庄八、お互に子供だけは、金でごまかせない男らしい人間に育て上げようじゃないか。」

「いや、よくわかりました。」

「そこでだ、お前に、もし金が要るんだったら、今度のことにからまないで、話してくれ。金は金、今度のことは今度のこと、そこをはっきりして、これからもつき合っていこうじゃないか。」

面目めんぼくございません。ついけちな考えを起しまして。」

「わかってくれてありがたい。……おい、お民、酒を一本つけておくれ。」

 次郎の緊張が急にゆるんだ。そして、明日からの毎日が、これまでよりも、ぐっと力強くなるような気がして、存分に手をのばした。同時に彼は、昨日までの父とはちがった感じのする父を、心に描きはじめた。彼は、親分という言葉の意味をはっきりとは知らなかったが、それが何となく、庄八によりも父にふさわしい言葉のように思えて来たのである。


一四 ちび


 次郎は、学校に通い出してから、木登りが達者になり、石投げが上手になった。水泳にかけてはまるで河童同様であった。蜻蛉釣りや、鮒釣りや、どじょうすくいに行くと、いつも仲間より獲物が多かった。そして真冬のほかは、大てい跣足のまま、何処へでも飛びあるいた。彼は学校に通ったために、文明人になるよりも、かえって自然人になるかのように思われた。

 復習などは、ほとんど彼の念頭になかった。彼の教科書は、手垢で真っ黒になっており、頁がところどころちぎれたりしていたが、それは彼の勉強の結果ではなくて、学校の往き帰りに、意味もなく放り投げたり、なぐり合いに使ったりするからであった。

 もし、母がおりおり恭一のぴんとした教科書と、彼のくちゃくちゃの教科書とを、彼の目の前にならべて、彼にきびしい訓戒を加えることがなかったら、彼はもっといろいろのことに、彼の教科書を利用したかも知れなかった。

 それでも、彼の成績は決して悪い方ではなかった。五十幾人かの組で、彼はいつも五番以下には下らなかった。もし研一という、図抜けて優秀な子供さえいなかったら、彼が一番になるのも大してむずかしいことではなかったであろう。

 もっとも、操行は大てい乙で、一度などは丙をつけられたこともあった。その時には、さすがの彼も、気がひけたとみえて、通信薄のその部分を指先でがして、家に持って帰ったのだった。

 それを見て、腹を立てたのは、母よりも、むしろ父であった。父はいきなり持っていた煙管きせるで次郎の頭をひどくなぐりつけた。

 お浜は通信簿が渡される日には、きまって卵焼をこさえて、次郎を校番室に迎えた。しかし、そのおりの、彼女の顔付は、いつも、あまり愉快そうではなかった。

「恭ちゃんはいつも一番なのに、次郎ちゃんはどうしたんです。」

 これが、次郎が卵焼を食べ終ったあと、きまってお浜の口をもれる小言であった。

 この小言は、ふだんにもしばしば校番室で繰り返された。次郎は、最初のうちはすまないような気もしていたが、たび重なるにつれて、次第にうるさくなって来た。そして彼が校番室に出入することも、そのためにだんだん少くなっていった。

 もっとも、彼が校番室に遠ざかるようになったのは、決してそれだけの理由からではなかった。今では、彼は全く色合の異った三つの世界をもっている。その第一は、母や祖母の気持で生み出される世界、その第二は、お浜や父や正木一家に取り巻かれている世界、そして、その第三は、彼が、入学以来、彼自身の力で開拓して来た仲間の世界である。この第三の世界は、新鮮で、自由で、いつも彼を夢中にさせた。彼が第二の世界を十分に愛しつつも、第三の世界のために、より多くの時間をくようになったのに、不思議はなかった。

 とも角も、彼はこうして二年に進み、三年に進んだ。

 彼の生活は日一日と多忙になった。そして多忙になればなるほど、彼の幸福な時間はそれだけ拡がっていった。時としては、拡がりすぎてかえって彼を不幸にすることすらあった。というのは、何処の家庭でも、子供が学校道具を持ったまま、暗くなるまで遊び暮して家に帰って来た場合、夕飯を食べさせないくらいのことはするのだから。

 ところで、彼が三年に進級すると同時に、彼がせっかく二年越しで開拓して来た自由の天地に、大きなひびの入る事情が生じた。それは弟の俊三が一年に入学したことである。

 お民は、俊三の入学式をすまして帰って来ると、すぐ恭一と次郎を呼んで、昔、毛利元就もうりもとなりが子供たちに矢を折らしたという逸話を、如何にも勿体もったいらしく話して聞かした。そして、

「明日からは、三人そろって学校に行くんですよ、俊三ははじめてだから、二人でよく気をつけてね。」と念を押した。

 次郎にとっては、しかし、それはどうでもいい話であった。彼は、俊三の世話を焼くのは恭一の役目だ、と思ったのである。

(それにしても、僕が学校にあがった頃は、どんなだったかしら。どうも僕には、恭ちゃんに世話を焼いてもらった覚えなんかないのだが。)

 彼は、ぽかんとして窓の外を眺めながら、そんなことを考えていた。するとお民が言った。

「次郎、お前はよそ見ばかりしているが、お母さんの言うことがわかったのかい。お前こそすぐの兄さんだから、今度は恭一よりお前の方が気をつけてやるんですよ。」

 次郎は変な気がした。何が「今度は」だと思った。「すぐの兄さん」だから一体どうだというんだ、とも思った。彼は、この頃、母の言うことがとかく理窟にあわないような気がして、以前のように聞き流しにばかりはしておれなくなっていたのである。

「それに恭一は、もう五年だし、随分おそくまで学校でお勉強があるんです。だから、帰りに俊三をつれて来るのは、次郎の役目なんだよ。」

 お民の言うことはいよいよ変だった。次郎は、これはうっかりしては居れない、と思った。

「僕だって俊ちゃんよりおそいや、俊ちゃんは午までですむんだから。」

 咄嗟とっさにいい口実が次郎の口をついて出た。そして、案外母もぼんやりだな、と内心で彼は思った。

「そりゃ解ってるさ。だから、なるだけ直吉を迎えにやることにしているんだよ。」

 次郎は「なるだけ」が少々気に食わなかったが、それならまず我慢が出来る、と思った。しかし、そのあとがいけなかった。

「だけど、直吉も忙しいんだからね。もしか迎えに行けなかったら、お前がつれて帰るんですよ。俊三はお前のお勉強がすむまで、校番室に待たして置くように、お浜にも話してあるんだから。」

 次郎は、それですっかりぺしゃんこになった。

 むろん彼は、母の矛盾に気がつかないことはなかった。

(僕が校番室に出入すると、あんなにやかましく言うくせに。)

 彼はそう考えたが、それを口に出して言おうとはしなかった。言えば藪蛇やぶへびだと思った。

 で、とうとう次郎は、翌日から、俊三の学校通いのお伴をすることになってしまった。手があいておれば迎えに来るはずの直吉は、ただの一度も来なかった。

 次郎の自由な天地は、それ以来ほとんど台なしになってしまった。彼は時間どおりに家を出て、時間どおりに家に帰ることを余儀なくされた。そして、家に帰ると、すぐ復習をさせられたり、用を言いつかったりした。お民としては思う壺で、いつも機嫌がよかった。しかし母の機嫌がよければよいほど、次郎の心は憂欝になっていった。

 それに、このことは、次郎に、もう一つ、ちがった意味で大きな苦痛を与えた。というのは、彼は元来ちびだったのである。体質なのか、食物のためなのか、或いは根性が強過ぎるためなのか、里子時代から、どうも彼の身長は思わしくのびなかった。学校に通い出してからは、肉付や血色はめきめきとよくなっていったが、身長だけは、同年輩のどの子供よりも低くて、体操ではいつもびりにならばされた。

 恭一をなかにして兄弟三人がならぶと、まるで聖徳太子の画像を見るようだと、みんなが笑ったものだが、実際今では、次郎の身長は俊三と三分とちがっていないのである。

 むろん二人の着物は、同じ長さにたれた。しかも大ていは同じ柄の飛白かすりであった。だから、二人は着物を取りちがえては、よく喧嘩をした。もっとも、喧嘩をしても、母や祖母は少しも困らなかった。というのは、汚れやほころびの多い方を次郎のだときめてしまえば、それで簡単に片がついたからである。

 むろん、この決定には、しばしば誤りがあった。しかし、誤りがあっても、そう決めて置く方が簡単であり、次郎のいましめにもなると、二人は考えていたのである。

 着物の方は何とか諦めがつくとしても、毎日学校の往き帰りに、俊三と並んで歩かねばならないことは、次郎にとって、何としても我慢の出来ないことであった。実を言うと、彼はかなり以前から、自分のちびなことに気がついて、内心それを苦にしていた。それも、俊三と一緒でない場合にはさほどでもなかったが、この頃のように、いつも二人で並んで歩かなければならなくなると、まるでさらし物同然で、何だか身がすくむような気がするのである。しかも、村の小母さんたちは、彼のそんな気持などにはまるで無頓着に、

「まあ、お仲のいいこと。……そうして一緒に歩いておいでだと、どちらが兄さんだか、見分けがつかないようですわ。」

 などと言う。次郎にしてみると、これほどの侮辱はない。こんなことで兄弟がむつまじくなんかなれるものか、思う。

 彼は出来るだけ頭を真っ直にし、足を爪立てるようにして歩くことにつとめた。そして、硝子戸のある家の前を通る時には、いつも自分の影を覗いてみた。しかし、そんなことで、彼の自信が保てるわけのものではむろんなかった。

 で、結局彼は、出来るだけ俊三と離れて歩くことに決めた。これがまた一通りの苦心ではなかった。俊三は、そとでは妙に卑怯な性質で、いつも次郎にくっついて歩きたがった。それを次郎が嫌って無理に二、三間離れると、彼はすぐ地団駄じだんだをふんで泣き出した。

 最初の一週間ほどは、それでも、次郎は母の言いつけをどうなり実行した。しかし、硝子戸にうつる自分の姿は、いつも皮肉に彼自身をあざけった。しかも、その間に、彼の「第三の世界」は、こばみがたい魅力をもって、たえす彼を手招きしていたのである。

 彼は、とうとう、ある日学校の帰りに、地団駄ふんで泣いている俊三を放ったらかして、仲間の二三人と何処かに遊びに行ってしまった。

(父さんは、こんなことで、僕の頭を煙管でなぐりつけたりはしない。)

 彼は、遊びのあい間あい間に、そんなことを考えた。それでも、彼は、自分の家に帰るのが気まずかったとみえて、その日から、また正木の家に行って、しばらくそこから学校に通うことにした。


一五 地鶏じどり


 ある日、次郎は、正木の家の庭石にただ一人腰を下して、一心に築山の方を見つめていた。

 築山のあたりには、鶏が六七羽、さっきからしきりに土をかいてはをあさっている。雄が二羽まじっているが、そのうちの一羽は、もうこの家に三四年も飼われている白色レグホンで、次郎の眼にもなじみがある。もう一羽はそれよりずっと若い、やっと一年ぐらいの地鶏である。その汚れのない黄褐色の羽毛が、ふっくらと体を包んで、いかにも元気らしく見える。

 ところで、この地鶏は、ぽつんと一羽、淋しそうに群を離れて立っている。おりおり頸をすっと伸ばして周囲を見まわし、それからそろそろと牝鶏の群に近づいて行くのであるが、すぐ老レグホンのために逐われてしまう。逐われる前に、ちょっと頸毛を逆立ててはみる。しかしどうも思い切って戦って見る決心がつかないらしい。

 が、そんなことを何度も繰り返しているうちに、地鶏の頸毛の立ち工合が、次第に勢いよくなって来た。次郎はそのたびに息をはずませては、もどかしがった。

 彼は、ふと、喜太郎の肉を噛み切った時のことを思い起した。そして、思い切ってやりさえすれば、わけはないのに、と思った。

 が、同時に、彼の心には、恭一や俊三と喧嘩をする時のことが浮かんで来て、腹が立った。

「次郎、お前は兄さんに手向かいをする気かい。」

 彼は母や祖母にいつもそう言われるので、つい手を引っこめてしまう。では、俊三になら遠慮なくかかっていけるかというと、そうもいかない。

「次郎、そんな小さな弟を相手に何です。負けておやりなさい。」

 と来る。どちらにしても次郎には都合がわるい。そして、何よりも次郎の癪に障るのは、彼が叱られて手を引っこめた瞬間に、きまって相手が一つか二つなぐりどくをして引きあげることである。祖母は、わざわざその撲りどくがすむのを待って、双方を引分けることにしているらしい。しかもぬけぬけと、

「もういい、もうそれで我慢しておやり。」

 などと言う。そんな時の次郎の無念さといったらない。彼は、自分の眼が、熔鉱炉ようこうろのように熱くなり、涙が氷のように瞼にしみるのを覚えるのである。

(一人では学校にも行けない俊三ではないか。喜太郎の前では、口一つきけない恭一ではないか。僕は何でこの二人に負けてばかりいなければならないのだ。)

(母や祖母の小言が何だ。兄に手向かいするのが悪いなら、俊三が僕に手向かいするのを、なぜとめない。弟に負けてやるのが本当なら、恭一が僕を撲るのをなぜ叱らない。二人の言うことはいつもとんちんかんだ。それに二人は僕が損をしてさえいれば、いつもにこにこしている。僕が僕の好きなことをした時に、二人が嬉しそうな顔をしたことなんか、一度だってありゃしない。そして何かと言えば「うじより育ち」と言う。何のことだかわかりゃしない。大方乳母ばあやを悪く言うつもりなんだろうが、乳母やは誰よりも正直だ。僕の好きなことは乳母やも好きだし、乳母やの好きなことは僕も好きだ。学校で一番になることだって、僕は決して嫌いではない。ただ面倒くさいだけなんだ。──一たい二人は僕をどうしようというのだろう。僕が家にいると、二口目には、この子さえいなかったら苦労はないが、と言う。だから僕はなるだけ家にはいないことにしているんだ。すると、今度は、なぜそんなに老人に心配をかけるのかとか、親の心がまだわからないのかとか、まるで、お寺の地獄の画に描いてある青鬼のような顔をして、呶鳴どなりつける。心配なんかせんでおけばいいじゃないか。一たい祖母や母が僕のために何を心配するというのだ。二人の気持は大てい僕にわかっている。わかっているから、僕はなるべく家にいない工面をしているのではないか。)

(学校の先生が修身で話してきかせることなんかも、半分は嘘らしい。第一、親の恩は海よりも深しなんて言うが、そんなことは、父にはあてはまるかも知れんが、母にはちっともあてはまらない。それに先生は、乳母やのようないい人のことを、ちっとも話してくれないのが不思議だ。学校で毎日毎日乳母やの顔を見ているくせに。)

 こんなことを考えながら、次郎はいつの間にか、視線を自分の足先に落していた。

 と、築山の方から、急に烈しい羽ばたきの音が聞え出した。見ると、地鶏が、いつの間にかレグホンに向かって決死の闘いをいどんでいる。燃えるような鶏冠とさかの周囲に、地鶏は黄の、レグホンは白の、頸毛の円を描いて、三四寸の距離に相対峙あいたいじしている。

 向日葵ひまわり白蓮びゃくれんとが、血を含んで陽の中にふるえているようだ。

 とうとう蹴合った。つづけざまに二回。しかし、二回とも地鶏の歩が悪かった。次郎は思わず腰をうかして「畜生!」と叫んだ。

 地鶏は、しかし、逃げようとはしなかった。やや間をおいて、白と黄の羽根が、三たび地上尺余の空に相った。今度は互角である。

 つづいて、四回、五回、六回と、蹴合けあいは相変らず互角に進んだ。

 次郎は、息をとめ、拳を握りしめ、首を前につき出して、それを見まもった。

 闘いは次第に乱れて来た。最初まったく同時であった両者の跳躍が、いつの間にか交互になった。そしてお互にくちばしで敵の鶏冠を噛むことに努力しはじめた。

 こうなると、若さが万事を決定する。レグホンの古びきった血液は、強烈な本能の匂いをかしこんだ地鶏の血液に比して、はるかに循環がにぶい。彼の打撃はしばしば的をはずれた。地鶏が打撃を二度加える間に、彼は一度しか加えることが出来なくなった。そして、どうかすると、ひょろひょろと相手の股の下をくぐって、その打撃を避けた。

 老雄の自信はついにくだけた。

 彼は、黒ずんだ鶏冠に鮮血をにじませ、嘴を大きくあけたまま、ふらふらと築山の奥に逃げこんだ。

 若い地鶏は、勝にじょうじてそのあとを追ったが、やがて、築山の頂に立って大きな羽ばたきをした。そして牝鶏の群を見おろしながら、たかだかと喉笛のどぶえを鳴らした。

 次郎はほっとして、立ち上った。

 そして大きく背伸びをしてから、そろそろと築山の陰にまわって見た。老英雄は、夢にも予期しなかったわかい反逆者のために、そのながい間の支配権を奪われて、ひっそりと垣根に身をよせている。

 築山の上では、地鶏がもう一度勝鬨かちどきをあげた。それから、土を掻いて、くっくっと牝鶏を呼んだ。

 次郎は急に勇壮な気持になった。彼の体内には、冷たい血と熱い血とが力強く交流した。つづいて影のようなほほえみが、彼の顔を横ぎった。

 その夕方、彼は誰の迎えも受けないで、急に正木の祖父母に挨拶して、一人で自分の家に帰ったのである。


一六 土橋


 次郎は、それ以来、学校の往復に俊三のお伴をすることを、断じて肯んじなかった。

 そのことについて母が何と言おうと、彼はろくに返事もしなかった。朝になると、わざとのように、みんなのいるまえを通って、一人でさっさと学校に行った。帰りには、きまって道草を食った。ただ以前とちがったところは、夕飯の時間までには、不思議なほどきちんと帰って来ることだった。

 しかも彼は、母や祖母に尻尾をおさえられるようなことをめったにしなくなった。彼は、父の前では相当喋りもし笑いもしたが、一たいに家庭では沈默がちであった。恭一や俊三に対してすら、自分の方から口を利くようなことはほとんどなかった。そして何かしら、すべてに自信あるもののごとく振舞った。それがお祖母さんの眼にはいよいよ憎らしく見えたのである。

 お民は、さすがに、お祖母さんよりもいくらか物を深く考えた。しかし、考えれば考えるほど、次郎をどうあしらっていいのか、さっぱり見当がつかなくなって来た。そして、おりおり俊亮にしみじみと相談を持ちかけるのだった。

「今のままでいいんだよ。お前たちは、どうもあれをうたぐり過ぎていかん。」

 俊亮の返事はいつもこうだった。しかし、彼とても、次郎のほんとうの気持がわかっているわけではなかった。

 次郎の眼には、正木の家で見た若い地鶏が、いつもちらついていた。しかし彼は、機会を選ぶことを決して忘れなかった。めったなことで兄弟喧嘩をはじめて、また父に煙管でなぐられたりしてはつまらない、と思ったのである。その代り、これなら大丈夫だと思う機会さえ見つかれば、母や祖母がどんなに圧迫しようと、今度こそは死物狂いでやってみよう、という決心がついていた。

 ところで、そうなると、思うような機会はなかなかやって来ない。それに、誰もが、このごろの彼に対して、以前とはちがって警戒の眼を見張っている。恭一や俊三は、お祖母さんの差金さしがねもあって、めったに彼のそばによりつかない。みんなが遠巻きにして彼を見まもっているといったふうである。彼は多少手持無沙汰でもあり、癪でもあった。しかし、それならそれでいい、とも思った。そして相変らずむっつりしていた。

 梅の実が色づくころになった。

 彼は、例によって、学校の帰りに五六人の仲間と墓地で戦争ごっこをはじめていた。そこへ、おくれて馳せつけた仲間の一人が、次郎の顔を見ると、大ぎょうに叫んだ。

「恭ちゃんが、いじめられているようっ。」

 次郎は別に驚いた様子もなく答えた。

「放っとけよ。つまんない。」

 彼は、恭一がおりおり友達にいじめられるのを知っていた。それを彼は別に気味がいいとも思わなかったし、かといって、同情もしていなかった。つまらない、というのが、実際、彼のありのままの気持だった。

「でも、橋の上だよ、危いぜ。」

「恭ちゃんはすぐ泣くんだから、危いことなんかあるもんか。」

 彼は、持っていた棒切れを墓石の上にのせ、射撃をする真似をしながら、そう言って取りあわなかった。

「でも行ってみよう。面白いや。」

 戦争ごっこの仲間の一人が言った。二三人がすぐそれに賛成した。

「誰だい、いじめているのは。」

 次郎は、相変らず射撃の真似をしながら、落ちついて訊ねた。

「二人だよ?」

「二人?」

 次郎は射撃の真似をやめて、ふり向いた。

「そうだい、だから恭ちゃん、かわいそうだい。」

「おい、みんな行こう。」

 次郎は何と思ったか、今度は自分から、みんなの先頭に立って走り出した。

 村はずれから学校に通ずる道路の中程に、土橋がかかっている。その橋の上に、恭一をはさんで、前後に二人の子供が立っていた。次郎の一隊は、橋の五六間手前まで行くと、言い合わしたように立止まって、そこから三人の様子を眺めた。

 恭一は泣いていた。彼をいじめていた二人は、ふりかえってしばらく次郎たちの一隊を見ていたが、自分たちより年下のものばかりだと見て、安心したように、また恭一の方に向き直った。

「女好きの馬鹿!」

 そう言って、一人が恭一の額を指先で押した。

 すると、もう一人が、うしろから彼の肩をつかんでゆすぶった。次郎は、これは大したいじめ方ではないと思った。

 が、この時、橋のむこう半丁ばかりのところに、一人の女の子が、しょんぼりと立っているのが、ふと次郎の眼にとまった。真智子まちこである。本田の筋向いの前川という素封家そほうかの娘で、学校に通い出す頃から、恭一とは大の仲よしであった。学校も同級なため、二人は友達にはばかりながらも、よくつれ立って往復することがある。次郎は彼女が恭一とばかり仲よくするのが癪で、ろくに口をいたこともなかったが、内心では、彼女が非常に好きだった。時たま、彼女の澄んだ黒い眼で見つめられたりすると、つい顔をあからめて、うつむいたりすることもあった。

 彼は、恭一がいじめられているわけが、すぐ解った。そして、真智子の前で恥をかいている恭一の顔を、じっと見つめていたいような衝動しょうどうにかられた。しかし、いじめている二人に対しては、決して好感が持てなかった。ことに、真智子のしょんぼりした姿が、どうしても彼を落ちつかせなかった。彼は次第に何とかしなければならないような気がしだして来た。

 ここでも若い地鶏が彼の眼の前にちらついた。彼は、やにわに橋の上に走って行って、恭一の前に立っている子供を押しのけながら言った。

「恭ちゃん帰ろう。」

 押しのけられた子供は、しかし、振り向くと同時に、思うさま次郎の頬っぺたを撲りつけた。

 次郎は一寸たじろいた。が、次の瞬間には、彼はもう相手の腰にしがみついた。

 横綱とふんどしかつぎの角力が狭い橋の上ではじまった。

「ほうりこめ! ほうりこめ!」

 恭一のうしろにいた子供が叫んだ。しかし次郎は、どんなに振りまわされても、相手の帯を握った手を放そうとしなかった。

 とうとう二人がかりで、次郎をおさえにかかった。次郎は、乾いた土のうえに、仰向けに倒された。土埃で白ちゃけた頭が、橋のふちから突き出している。一間下は、うすみどりの水草を浮かしたほりである。しかし次郎は、その間にも、相手の着物の裾を握ることを忘れていなかった。二人は少しもてあました。そして次郎の指を、一本一本こじ起こしにかかった。

 と、次郎は、やにわに両足で土を蹴って、自分の上半身を、わざと橋の縁からつき出した。

 重心は失われた。次郎の体は、さかさに落ちて行った。着物の裾を握られた二人が、そのあとにつづいた。水草とひしの新芽とが、散々にみだれて、しぶきをあげ、渦を巻いた。

 橋の上では恭一と真智子と次郎の仲間たちとが、一列に並んで、青い顔をして下をのぞいた。

 三人共すぐ浮き上った。最初に岸にはい上ったのは次郎であった。着物の裾がぴったりと足に巻きついて、しずくを垂らしている。彼は、顔にくっついた水草を払いのけながら、あとからはい上って来る二人を、用心深く立って見ていた。

 すぶ濡れになった三人は、芦の若芽の中で、しばらくにらみあっていたが、もうどちらも手を出そうとはしなかった。

「覚えてろ。」

 相手の一人がそう言って土堤どてを上った。もう一人は默ってそのあとにいた。次郎は二人を見送ったあとで、裸になって一人で着物をしぼりはじめた。

「みんなで搾ろうや。」

 仲間たちがぞろぞろと岸に下りて来た。恭一と真智子は、しょんぼりと道に立っていた。

 次郎は、搾った着物を帯でくくって肩にかつぐと、裸のまま、みんなの先頭に立って、軍歌をうたいながらかえって行った。

 彼は、真智子もこの一隊の後尾に加わっているのを知って、たまらなく愉快だった。恭一と喧嘩をしてみようなどという気は、その時には、彼の心のどの隅にも残っていなかった。

 恭一は、もう彼の相手ではないような気がしていたのである。


     *


 その晩は、真智子の母が訪ねて来て、みんなとおそくまで話しこんだ。真智子も無論一緒について来ていた。話は今日の出来事で持ちきりだった。真智子の母は、何度も次郎の頭をなでては、彼の勇気をほめそやした。次郎はぼうっとなってしまった。

 お糸婆さんは、

「お体は小さいけれど、きもっ玉の大きいところは、お父さんにそっくりです。」と言った。

 次郎は体の小さいことなんか言わなくてもすむことだと思った。しかし、いつものようには腹が立たなかった。お民は、

「この子の乱暴にも困りますわ。」と言った。

 しかし、喜太郎の膝に噛りついた時とは、母の様子がまるでちがっていることは、次郎にもよくわかった。

 ただ彼が物足りなく思ったのは、一座の中に父がいなかったことと、真智子が相変らず恭一にばかり親しんでいることであった。


一七 そろばん


「人間というものはね、嘘をつくのが一番いけないことです。嘘をつくのは泥棒をするのとおんなじですよ。ですから、知っているなら知っていると、誰からでも早くおっしゃい。ぐずぐずしてはいけません。早く言いさえすれば、きっとお祖父さんも許して下さるでしょう。」

 お民は、子供たち三人を行儀よく前に坐らして、まるで裁判官のような厳粛さをもって、取調べを開始した。言葉つきまでが、今日はいやに丁寧である。次郎はばかばかしくって仕方がなかった。

 本田のお祖父さんは、昔、お城の勘定方かんじょうがたに勤めていただけあって、算盤そろばんが大得意である。今もその当時使った象牙ぞうげの玉の算盤を、離室の違棚ちがいだなに置いて、おりおりそれを取り出しては、必要もないのにぱちぱちとやり出す。離室に刀掛も飾ってあったが、お祖父さんにとっては刀よりも算盤の方に思い出が多かったし、自然その方に親しみもあった。かといって、お祖父さんに商人らしいところがあるのかというと、そうではない。人柄はあくまでも士族なのである。若い頃は、恐らく、物静かな、事務に堪能たんのうな、上役にとって何かと重宝ちょうほうがられた侍の一人であったろう、と思われる。

 ところで、このお祖父さんの算盤に対する愛着は、年をとるにつれて、だんだんと神経的になっていった。算盤をはじき終ると、右の手のひらでジャッジャッと玉を左右に撫でてから、大事にふたをかぶせ、それをそうっと違棚にのせる習慣であった。そして、もしその算盤が自分の置いた位置から少しでも動いていると、誰かがきっと叱られなければならなかった。お祖父さんに言わせると、蓋をとって、玉の様子を見れば、人がさわったかどうかがすぐわかる、と言うのである。

 この大事な算盤のけたが、いつの間にか一本折れていた。これはまさしく本田一家にとっての大事件でなければならない。お民が厳粛になるのも無理はなかったのである。

 しかし、次郎にとっては、これほどばかばかしいことはなかった。第一、彼は、このごろ離室なんか覗いたこともないし、また覗こうと思ったことすらない。

(それに、算盤が一体何だ。そんなものに触ってみたところで、面白くも何ともありゃしないじゃないか。)

 そう考えると、彼は真面目に母の前にかしこまっているのでさえ無駄なような気がして、一刻も早く仲間のところへ飛び出して行きたかった。

「お祖父さんは、お前たち三人のうちにちがいない、とおっしゃるんですよ。私もそう思います。放りなげでもしなければ、あんなになるわけがないのだからね。」

 そう言って、お民はじろりと次郎を見た。

 次郎は平気だった。しかし、もうその時には随分退屈しているところだったので、眼を天井にそらしたり、膝をもじもじさせたりして落ちつかなかった。

 お民はむろん次郎のそうした様子を見のがさなかった。

「次郎、お前、知ってるでしょう。」

 次郎はにやにやして母の顔を見た。

「ね、そうでしょう。」

 お民はいやにやさしい声をして、たたみかけた。

「僕、お祖父さんの算盤なんか見たこともないや。」

 と、次郎は、わざとらしく天井を見ながら答えた。

「見たこともない? お祖父さんのあの算盤を? おとぼけでないよ。」

「ほんとうだい。」

 次郎は少し躍起やっきとなった。

「そんなはずはありません。お前、そんな嘘をつくところをみると……」

 お民は言いかけてちょっと躊躇した。次郎が恭一のカバンを便所に放りこんだ時のことを考えると、高飛車に出ても駄目だと思ったからである。

 しばらく沈默がつづいた。次郎は、つぎの言葉を催促するかのように、皮肉な眼をして母の顔を見まもっていた。

 お民は大きく溜息をついた。そしてしばらくなにか考えていたが、

「母さんがいいお話をしてあげるから、三人とも、よくお聴き、昔、アメリカというところにね……」

 と、彼女は、ワシントンが少年時代にあやまって大切な木を切り倒したという物語を、出来るだけ感激的な言葉を使って、話し出した。それは恭一と次郎にとっては、もう決して新しい物語ではなかった。次郎は、話っぷりは学校の先生の方がうまいな、と思って聴いていた。

「大きくなって偉くなる人は、みんな子供の時、この通りに正直だよ。解ったかい。」

 話はそれで終った。次郎は、先生もそんなことを言ったが、たったそれっぱかしじゃなかったと思った。が、同時に、彼の頭に、ふと妙な考えがひらめいた。

(自分でやったことをやったと言うのは、当りまえのことじゃないか。その当りまえのことがそんなに偉いなら、やらないことをやったと言ったら、どうだろう。それこそもっと偉いことになりはしないかしら。)

 次郎の心では、算盤をこわしたのは、恭一か俊三かに違いないと睨んでいた。その罪を自分でるのはばかばかしいことではある。しかし彼の胸には、こないだの橋の上での事件以来、一種の功名心が芽を出している。それに、このごろ、妙に恭一が哀れっぽく見えて、彼のためなら、罪を被てやってもいいような気もする。

(もし俊三だったら──)

 そうも考えて見た。すると、あまりいい気持はしなかった。しかし、ワシントン以上の偉い行いをしてみようという野心も、何となく捨てかねた。それに、第一、彼は、いつまでもこうして母の前に坐らされているのに、もうしびれを切らしていたのである。で、彼は、つい、

「僕、こわしたんだい。」

 と、大して緊張もせずに、言ってしまった。

「そうだろう。ちゃんとお母さんにはわかっていたんだよ。」

 お民の口調くちょうは案外やさしかった。

「それでどうして壊したんだね。」

 お民は取調べを進めた。次郎は、しかし、その返事にはこまった。実は、彼もそこまでは考えていなかったのである。

「早くおっしゃい。お祖父さんが怒っていらっしゃるんだよ。」

 お民の声は鋭くなった。しかし見たこともない算盤について、とっさに適当な返事を見出すことは、さすがの次郎にも出来ないことであった。

 と、いきなり次郎の頬っぺたにお民の手が飛んで来た。

「やっと正直に答えたかと思うと、まだお前はかくす気なんだね。何という煮え切らない子なんだろう。……ワシントンはね、……」

 お民は声をふるわせた。そして、両手で次郎の襟をつかんで、めちゃくちゃにゆすぶった。

 次郎はゆすぶられながら、からびた眼を据えて、一心にお民の顔を見つめていたが、

「ほんとうは、僕こわしたんじゃないよ。」

 それを聞くと、お民は絶望的な叫び声をあげて、急に手を放した。そしてしばらく青い顔をして大きな息をしていたが、

「もう……もう……お前だけは私の手におえません!」

 彼女の眼からは、ぽろぽろと涙がこぼれていた。

 恭一は心配そうに母の顔を見まもった。俊三はいつもに似ずおずおずして次郎の顔ばかり見ていた。次郎はぷいと立ち上って、一人でさっさと室を出て行ってしまった。


     *


 その日は土曜で、俊亮が帰って来る日だった。お民と次郎は、めいめいに違った気持で彼の帰りを待っていた。

 次郎は薪小屋に一人ぽつねんと腰をおろして考えこんでいた。そこへ、お糸婆さんと直吉とが、代る代るやって来ては、お父さんのお帰りまでに、早く何もかも白状した方がいい、といったようなことをくどくどと説いた。もうみんなも、次郎を算盤の破壊者と決めてしまっているらしかった。

 次郎は彼らに一言も返事をしなかった。そして、父が帰って来て母から今日の話を聞いたら、きっと自分でこの小屋にやって来るに違いない。その時何と言おうか、と考えていた。

(何で俺は罪を被る気になったんだろう。)

 彼はその折の気持が、さっぱり解らはくなっていた。そして、いつもの押し強さも、皮肉な気分もすっかり抜けてしまった。彼は自分で自分を哀れっぽいもののようにすら感じた。涙がひとりでに出た。──彼がこんな弱々しい感じになったのはめずらしいことである。

 ふと、小屋の戸口にことことと音がした。彼は、またかと思って見向きもしなかった。誰も這入って来ない。しばらくたつと、また同じような音がする。何だか子供の足音らしい。彼は不思議に思って、その方に眼をやった。すると半ば開いた戸口に、俊三が立っている。

(畜生!)

 彼は、思わず心の中で叫んで、唇をかんだ。

 しかし何だか俊三の様子が変である。右手の食指しょくしを口に突っこみ、ややうつ向き加減に戸によりかかって、体をゆすぶっている。ふだん次郎の眼にうつる俊三とはまるでちがう。

 次郎は一心に彼を見つめた。俊三は上眼をつかって、おりおり盗むように次郎を見たが、二人の視線が出っくわすと、彼はくるりとうしろ向きになって、戸によりかかるのだった。

 かなり永い時間がたった。

 そのうち次郎は、俊三にきけば、算盤のことがきっとはっきりするにちがいない、ひょっとすると壊したのは彼だかも知れない、と思った。

「俊ちゃん、何してる?」

 彼はやさしくたずねてみた。

「うん……」

 俊三はわけのわからぬ返事をしながら、敷居をまたいで中に這入ったが、まだ背中を戸によせかけたままで、もじもじしている。

 次郎は立ち上って、自分から俊三のそばに行った。

「算盛こわしたのは俊ちゃんじゃない?」

「…………」

 俊三はうつ向いたまま、下駄で土間の土をこすった。

「僕、誰にも言わないから、言ってよ。」

「あのね……」

「うむ。」

「僕、こわしたの。」

 次郎はしめたと思った。しかし彼は興奮しなかった。

「どうしてこわしたの?」

 彼はいやに落ちついてたずねた。そしてさっき自分が母に訊ねられた通りのことを言っているのに気がついて、変な気がした。

「転がしてたら、石の上に落っこちたの。」

「縁側から?」

「そう。」

「お祖父さんの算盤って、大きいかい?」

「ううん、このぐらい。」

 俊三は両手を七八寸の距離に拡げてみせた。次郎は、いつの間にか、俊三が憎めなくなっていた。

「俊ちゃん、もうあっちに行っといで。僕、誰にも言わないから。」

 俊三は、ほっとしたような、心配なような顔つきをして、母屋の方に去った。

 そのあと、次郎の心には、そろそろとある不思議な力がよみがえって来た。むろん、彼に、十字架を負う心構えが出来上ったというのではない。彼はまだそれほどに俊三を愛していないし、また、愛しうる道理もなかった。俊三に対して、彼が感じたものは、ただ、かすかな燐憫れんびんの情に過ぎなかったのである。しかし、このかすかな憐憫の情は、これまでいつも俊三と対等の地位にいた彼を、急に一段高いところに引きあげた。それが彼の心にゆとりを与えた。同時に、彼の持ち前の皮肉な興味が、むくむくと頭をもたげた。自分でやったことをやらないと頑張って、母を手こずらせるのも面白いが、やらないことをやったと言い切って、母がどんな顔をするかを見るのも愉快だ、と彼は思った。いわば、冤罪者えんざいしゃが、獄舎の中で、裁判官を冷笑しながら感ずるような冷たい喜びが、彼の心の隅で芽を出して来たのである。

 彼はもう誰も怖くはなかった。父に煙管でなぐられることを想像してみたが、それさえ大したことではないように思えた。むしろ彼は、これからの成り行きを人ごとのように眺める気にさえなった。そして、今度母に詰問された場合、筋道の通った、尤もらしい答弁をするために、彼はもう一度薪の上に腰掛けて考えはじめた。

 もうその時には日が暮れかかっていた。小屋は次第に暗くなって来た。そろそろ夕飯時である。しかし、お糸婆さんも、直吉も、それっきりやって来ない。このまま放って置かれるんではないかと思うと、さすがにいやな気がする。かといって、こちらからのこのこ出て行く気には、なおさらなれない。

(父さんはもう帰ったか知らん。帰ったとすればこの話を聞いて、どう考えているだろう。父さんまでが、もし知らん顔をして、このまま何時までも僕を放っとくとすると、──)

 次郎は、そう考えて、胸のしんに冷たいものを感じた。そして、次の瞬間には、その冷たいものが、石のように凝結ぎょうけつして、彼をいよいよ頑固にした。

(二日でも三日でも、僕はこうしているのだ。僕はちっとも困りゃしない。)

 しかし、それから小半時もたって、あたりが真っ暗になると、流石に彼も辛抱しきれなくなった。やはり家の様子が知りたかった。

 彼はとうとう思いきって小屋を出て、そっと茶の間の縁側にしのび寄った。茶の間には、あかあかと燈がともっていた。

「それで恭一にも、俊三にも、よくきいてみたのか。」

 父の声である。

「いいえ、べつべつにきいてみたわけではありませんけど、……」

「それがいけない。三人一緒だと、どうしたって次郎の歩が悪くなるにきまっている。」

「貴方は、まあ! みんなで次郎に罪を押しつけたとでも思ってらっしゃるの。」

「口では押しつけなくても、心で押しつけたことになる。」

「では私、もう何も申上げませんわ。どうせ私には、次郎を育てる力なんかありませんから。」

「そう怒ってしまっては、話が出来ん。」

「怒りたくもなろうじゃありませんか。次郎が正直に白状したのまで、私が押しつけてさせたようにお取りですもの。」

「次郎は、しかし、すぐそれを取消したんだろう?」

「それがあれの手に負えないところなんですよ。」

「しかし、それがあれの正直なところなのかも知れない。」

「貴方、本気で言ってらっしゃるの。」

「本気さ。あれは強情な代りに、一旦白状したら、めったにそれを取消すようなことはしない子だ。それを取消したところをみると、取消しの方が本当かも知れない。」

「おやおや、貴方は、あの子を人の罪まで被るような、そんな偉い子だと思ってらっしゃるの。」

「実は、その点が俺に少ししかねるところなんだ。」

「それご覧なさい。」

「一たいどんなはずみで、白状したんだい?」

「それは、私、ワシントンの話を持ち出しましたの。」

「うむ。」

「そしたら急にそわそわし出したものですから、そこをうまく畳みかけてきいてみたんですの。」

 お民は、少しうわずった調子で、得意そうに言った。

「なるほど。……うむ。……」

 俊亮はしきりに考えているらしかった。しばらく沈默がつづいたあとで、お民が言った。

「ですから、本気で教えてやりさえすれば、いくらかは違ってくると思いますけれど……」

「そうかね。……それで、あいつまだ小屋の中にいるのかい。」

「ええ、いるだろうと思いますけれど……」

「とにかくおれが行ってみる。」

 俊亮の影法師かけぼうしが動いた。

 次郎は、父におくれないように、急いで薪小屋にもどって、じっと息をこらしていた。

「次郎、馬鹿な真似はよせ。」

 俊亮は小屋に這入ると、いきなり提灯を彼の前にさしつけて、そう言ったが、その声は叱っているようには思えなかった。

「算盤のこわれたのは、どうだっていい。お祖父さんには父さんからあやまっとくから。……だが、こわしたと言ったり、こわさないと言ったりするのは卑怯だぞ。」

 次郎は、父に卑怯だと思われたくなかった。卑怯だと思われないためには、やはり罪を被る方がいいと思った。

「僕、こわしたんだい。」

 彼は、はっきりそう答えて、父の顔色をうかがった。

 すると、俊亮は、提灯の灯に照らされた次郎の顔を、穴のあくほど見つめながら、

「父さんに嘘は言わないだろうな。」

 次郎は何だか気味悪くなった。

「父さんは嘘をつく子は嫌いだ。……だが、まあいい、父さんはお前の言うことを信用しよう。しかし、飯も食わないで、こんな所にかくれているのは、よくないぞ。さあ父さんと一緒に、あちらに行くんだ。」

 次郎は、そう言われると急に涙がこみあげて来た。

「馬鹿! 今頃になって泣く奴があるか。」

 次郎は、しかし、泣きやまなかった。俊亮は永いこと默ってそれを見つめていた。


一八 菓子折


 算盤事件は、とうとう誰にも本当のことが解らずじまいになった。

 俊亮とお民とは、それについて、まるで正反対の推測をして、次郎の子供らしくないのに心を痛めた。

 次郎と俊三とは、その後、口にこそ出さなかったが、顔を見合わせさえすれば、すぐ算盤のことを思い浮かべるのだった。次郎の立場は、むろんそのためにいつも有利になった。

 次郎は、いつかは思い切り戦ってみようと思っていた恭一と俊三とが、妙なはずみから、まるで敵手でなくなってしまったので、いささか拍子ぬけの気持だった。しかし彼は、決してそれを残念だとは思わなかった。それどころか、二人を相手に、いくらかでも仲よく遊べることは、彼の家庭における生活を、今までよりもずっと楽しいものにした。

 恭一は、雑誌や、お伽噺とぎばなしの本などをお祖母さんに買って貰って、それを読むのが好きであったが、自分の読みふるしたものを、ちょいちょい次郎に与えた。それが次郎を喜ばしたのはいうまでもない。

 彼ははじめのうちは、挿画さしえだけにしか興味を持たなかったが、次第に中味にも親しむようになり、時には、恭一と二人で寝ころびながら、お互に自分の読んだものを話しあうようなことがあった。その間に彼は、恭一のこまかな気分にふれて、いろいろのいい影響をうけた。

 彼と俊三との間は、それほどにしんみりしたものにはなれなかったが、庭や畑に出ると、二人はいつも仲よく遊んだ。俊三が、このごろ次郎に対して、ほとんど我儘を言わなくなったことが、いつも次郎を満足させた。そして、彼が外を飛び歩くことも、そのためにいくぶん少なくなって来た。

 お民は、次郎のそうした変化を、内心喜んだ。彼女は、自分の教育の力が、やっとこのごろ次郎にも及んで来たのだと思ったのである。そこで、彼女は、この機を逸してはならないと考えて、何かと次郎に接近しようと努めた。これは次郎にとってはまことにうるさいことであった。しかし、この頃では、以前ほど叱言こごとも言わないし、時としては、思いがけない賞め言葉を頂戴したりするので、次郎の母に対する感じも、いくらかずつ変って来た。

 ただ祖母に対してだけは、次郎は微塵みじんも好感が持てなかった。彼女は、お民とちがって、よく食物で次郎をいじめた。お民は、その点では、三人に対してつとめて公平を保とうとした。少なくとも、三人をならべておいて、あからさまに差別待遇をするようなことは決してなかった。ところが祖母は、そんなことは一向平気で、お民の留守のおりなどには、食卓の上で、わざとのように差別待遇をした。

「次郎、お前、どうしてお副菜かずを食べないのかい。」

「食べたくないよ。」

 次郎は決して、自分の皿の肴が、兄弟の誰のよりも小さいからだ、とは言わない。

可笑おかしいね。ご飯はそんなに食べてるくせに。」

 そう言われると、次郎は、それっきりご飯のお代りもしなくなる。

「おや、ご飯も、もうよしたのかい。」

「今日は、あんまり食べたくないよ。」

「お腹でも悪いのかい。」

「…………」

 次郎はちょっと返事に窮する。

「また、何かお気に障ったんだね。」

「そんなことないよ。」

 しかし、そっぽを向いた彼の顔付が、あきらかに彼の言葉を裏切っている。同時に、ちゃぶ台のまわりの沢山の眼が、皮肉に彼の横顔をのぞきこむ。

 こうなると、彼は決然として室を出て行くより、仕方がないのである。

「おや、おや。」

 と、うしろでは嘲るような声。つづいて、

「まあ、どこまでねじけたというんだろうね。」

 と、変な溜息まじりの声。

「放っときよ。ねじけるだけ、ねじけさしておくより仕方がないさ。」

 と、いかにも毒々しい声がきこえる。

 先ず、こういった調子である。

 また、兄弟三人が、珍しく仲よく遊んでいるのに、お祖母さんは、わざわざ恭一と俊三の二人だけを離室に呼んで、いろんな食物を与えたりすることもある。

 そんな時の次郎は、実際みじめだった。彼は、しかし、食べ物を欲しがっていると祖母に思われたくなかった。また、一人だけのけ者にされているのを気にしている、と思われるのも癪だった。で、彼は、つとめて平気をよそおうとして、非常に苦しんだ。それは、彼が負けぎらいな性質であるだけに、一層不愉快なことだった。いつも辛うじて自制はするものの、彼の腹の中では、真っ黒な炎がそのたびごとに濃くなって、いつ爆発するかわからなくなって来た。──およそ世の中のことは、慣れると大てい平気になるものだが、差別待遇だけは、そう簡単には片づかない。人間は、それに慣れれば慣れるほど、表面がますます冷たくなり、そして内部がそれに比例して熱くなるものである。

 ある日、次郎は、お祖母さんが小さな菓子折を持って離室に這入って行くのを見た。何処かの法事にでも行って来たらしく、紋付の羽織を引っかけていた。

 次郎は、今日もまた、恭一と俊三だけがそれを貰うのだと思うと、我慢が出来なくなった。で、お祖母さんの隙を見て、これまでめったに這入ったことのない離室に、こっそりしのびこんだ。

 菓子折は違棚の上にお祖父さんの算盤と並べてのせてあった。彼は、それをつかむと、いそいで裏の畑に出た。そこで彼は、紐を解いて中身を覗いてみたい衝動に駆られたが、すぐ思いかえして、それを放りなげ、下駄で散々にふみつけた。折箱の隅からは桃色の羊羹がぬるぬるとはみ出した。彼はお祖母さんの頭でもふみつけるような気がして、胸がすうっとなった。

 間もなくお祖母さんが騒ぎ出した。むろん、みんなもそれにつづいて騒いだ。「次郎!」「次郎!」と呼ぶ声が、あちらからも、こちらからも聞えた。しかし、次郎はもうその時には風呂小屋のそばの大きな銀杏いちょうの樹の上に登って、そこから下を見おろしていた。

 直吉の頓狂な叫び声で、みんなが畑に出て来た。ふみにじられた折箱を囲んで、さまざまの言葉が入り乱れた。

「まあ、何ということでしょう。」

 お民が青い顔をして言った。俊亮はみんなのうしろに立って、腕組をして考えこんでいた。

「あれ、あれ、勿体もったいもない。」

 お糸婆さんは、いかにも勿体なさそうに、そう言って、ぺちゃんこになった折箱を拾いあげた。しかし、どうにも始末に終えないとみて、お祖母さんの顔をうかがいながら、すぐまた地べたに放りなげた。

 みんなはあきらめて、ぞろぞろと母屋の方に帰りかけた。

「おやっ。」とお祖母さんが銀杏の根元に眼をやりながら叫んだ。次郎の下駄をそこに見つけたのである。次郎はしまったと思った。

「直吉、竹竿を持っておいで。」

 お祖母さんは、次郎を見上げて物凄い顔をした。さすがに次郎もうろたえた。彼は大急ぎで木から滑り降りて、庭の方に逃げ出した。

「直吉、表の方からまわって、次郎をつかまえておくれ、俊亮も、今度こそはしっかりしておくれよ。」

 そう言って、お祖母さんは自分で次郎のあとを追いかけた。次郎はすばしこく植込をぬけ、座敷の縁を上って、家の中に逃げこんだ。座敷と茶の間との間は仏間になっている。そこは、お燈明がともっていないと、昼間でも真っ暗である。次郎は、そこに飛びこむと、平蜘蛛ひらぐものように畳に体を伏せて息を殺した。

 抹香まっこうくさい空気が、しめっぽく彼の鼻を出はいりする。

「どこに失せおった。」

 お祖母さんは、はあはあ息をしながら仏間へ這入って来たが、すぐ、

「なむあみだぶ、なむあみだぶ。」

 と、念仏をとなえた。

 次郎は、なるだけ体を小さくするために、足を引っこめたが、それがついお祖母さんの足に引っかかった。お祖母さんは、枯木のように畳の上に倒れた。

「誰か来ておくれ!」

 お祖母さんは、今にも息の切れそうな声で叫んだ。次郎は、その間にはね起きて、毬のように座敷をぬけると、再び庭に飛び出した。

 しかし、そこには、俊亮が默然もくねんと腕組をして立っていた。次郎は、彼と眼を見あわせた瞬間に、急に身動きが出来なくなってしまった。

「次郎、父さんについて来い。」

 次郎は、おずおずと父のあとに従った。間もなく、二人は二階の暗い一室に向かいあって坐っていた。

 俊亮は、しかし、坐っているだけで一言も言葉を発しなかった。次郎は、はじめのうちは、もじもじと膝をを動かしていたが、とうとうたまらなくなって泣き出した。すると俊亮もそっと自分の眼をこすった。

 小一時間もたったあと、二人は二階から降りて来たが、俊亮の恐ろしく緊張した顔を見ると、お祖母さんもお民も、お互に顔を見合わせただけで、何も言わなかった。


一九 校舎移転


 学校の校舎が古くて危険だという話は、町の人達の間に、大分前から話しあっていたが、やっとこの頃になって新築工事が始まった。場所は現在の校舎から三四丁も離れた川端であった。川には欄干らんかんのついた大きな板橋がかかっており、そのむこうにはこんもりと繁った杉林があった。その杉林を背景にして、新しい柱が、何本も何本も、真っ白に光って立ち並んでいくのを、子供たちは、毎日教室の窓から眺めて、胸を躍らせた。

「今度の学校はすばらしい。」

 休み時間になると、誰言うとなく、そんなことを言い出して、彼らはお互に感激にひたるのだった。

 次郎は、授業が終ると、きっと四五人の仲間と大工小屋にやって来て、仕事の運びを眺めたり木屑を玩具おもちゃにして遊んだりした。彼は自分たちの教室のことよりも、お浜たちの部屋がどの辺になるだろうかと、いつもそれを注意していた。そして何度も大工たちにそれをきいてみるのだったが、誰もろくに返事をしてくれる者がなかった。

 いよいよ落成したのは、その年の暮近くだった。次郎は、部屋という部屋を一わたり歩いてみたが、どの部屋もがらんとしていて、校番室がどれだか、まるで見当がつかなかった。土間につづいた三畳敷の部屋が、それだろうとも思ったが、それにしては少しせますぎた。その次に、もう一つかなりの広い畳敷があった。しかしそれは三畳敷とは壁で仕切ってあり、それに床の間がついていたりして、お浜たちの部屋にしては、少し立派すぎるように思えた。

 明日から冬休みが始まるという日に、三年以上の児童たちは、みんな居残って、旧校舎の道具を、新校舎に運びこむことになった。それは児童たちにとっては、このごろにない愉快な作業だった。霜どけの田圃たんぼ道を、黒板や、腰掛や、掃除道具などの行列が、かまびすしい話し声と共につづいていた。

 次郎は、腰掛を一つと箒を一本だけ運んでしまったらすぐかえってもいい、と先生に言われていた。しかし、彼は、それだけでは何だか物足りなく感じた。六年生などと一緒に、黒板か何か大きいものをかついで、もっとはしゃいでみたい気がした。で、彼は、自分の受持をすましたら、校番室の道具でもいくらか手伝ってやろうと考えていた。

 しかし、彼が新校舎から引返して来て校番室に這入ってみると、そこはもうがらんとしていて箒一本残っていなかった。そして、お浜かたった一人、気ぬけがしたように上り框に腰をかけて、自分の膝の上に頬杖をついていた。彼女は次郎の這入って来るのをぼんやり見ていたが、

「次郎ちゃん、もうおすみ?」

 と、力のない声で言った。

「ああ、すんだよ。これから乳母やのとこのを運ぶんだい。」

 次郎は、そう言いながら、あらためて部屋を見まわした。

「そう? でも、もう何もありませんのよ、ほら。」

 お浜は相変らず頬杖をついたまま、ほんの僅かだけ首を動かして、あたりを見た。

「早いなあ、乳母やは。」

「早いでしょう。」

「今日運んだんかい。」

「いいえ、もう昨日から。」

「昨日からなら、早いの当りまえだい。」

「そうね。」

「今度の学校、いいなあ。」

「ええ。いいわね。」

「乳母やの部屋はどこだい。僕探したんだけれど、わかんなかったよ。」

「そう? 探して下すって? でも、乳母やのいる部屋は、もうありませんのよ。」

「ない? 嘘言ってらあ。」

「本当よ。……あのねえ、次郎ちゃん、あたしたちは、もう学校の校番ではありませんの。」

「嘘だい。」

「嘘じゃありませんの。」

「だって、校番がいなくてもいいのかい。」

「これからは、小使さんだけになるんですって。」

「小使さんだけ? じゃ乳母やがそれをやるんかい。」

「いいえ、小使さんは女ではいけないんですって。」

「可笑しいなあ。じゃ爺さんがなったらいい。」

「爺さんも老人だから、やっぱりいけないんですって。」

「馬鹿にしてらあ。じゃ誰がなるの。」

「今日あちらに誰かいたでしょう。次郎ちゃん、逢わなくって?」

 次郎は、さっき新校舎の廊下を、忙しそうに走りまわっていた背の低い、小倉服を着た四十恰好の男を思いだして、あれが小使だなと思った。同時に、今まで楽しみにしていた新校舎が、急にのろわしいもののように思われ出した。

 彼は、もう一度、古い部屋の壁や天井を見まわした。長押なげしの下の壁の上塗うわぬりが以前から一ところ落ちていて、ちょうど俯伏うつぶせになった人間の顔の恰好をしていたのが、今日はいつもより大きく見える。鼠が騒ぐたびに、よく竹の棒を突き刺していた天井の節穴からは、すすぼけた蜘蛛の巣が下っている。彼は、そうしたものを見ているうちに、以前ここに寝泊りしていた頃のいろいろの記憶を呼びもどして、甘えたいような、淋しいような、変な気持になっていた。

 教室の方からは、先生や上級の児童たちが、大声で叫びかわしながら、がたぴしと物を動かしている音が、ひっきりなしに聞えて来る。

「爺さんはどこにいる?」

 次郎はお浜に寄りそって、腰を掛けながら訊ねた。

「もういませんわ。昨日皆で行ってしまったの。」

 次郎は、この二三日、お鶴が学校を休んでいたことを思い出した。

「どこへ行ったんだい。」

「遠いところ、……石炭を掘る山なの。……次郎ちゃんはそんなとこ行ったことないでしょう。」

「乳母やもそこに行くの?」

「ええ。……でも、……でも、ねえ次郎ちゃん、……」

 お浜は急に鼻をつまらした。

「乳母やは行かなくてもいいんだい。……僕んちに来ればいいんだい。……僕、父さんに……」

 次郎はそう言いかけて息ずすりした。

「次郎ちゃんは、そんなこと出来ると考えて? お母さんやお祖母さんが、きっといけないっておっしゃるわ。」

「…………」

「それに、ほら、こないだも次郎ちゃんは、お祖母さんに大変なことをなすったっていうじゃありませんか。」

「…………」

「ですから、そんなことお父さんにお願いしても、駄目ですわ。……それに次郎ちゃんは、もう乳母やなんかいなくても大丈夫でしょう。」

「だって、僕……」

「いけませんわ、そんな弱虫じゃあ。」

 お浜は急にいつものきつい声になって、おさえつけるように言った。

「違うよ。僕弱虫なんかじゃないよ。」

 次郎は弱虫と言われて興奮した。彼は、このごろ恭一や俊三に決して負けてなんかいないということを、お浜に話したかったが、どんなふうに話していいか、わからなかった。

「そう、弱虫なんかじゃありませんわね。ですから、乳母やも安心していますの。……でも、お祖母さんに乱暴なさるのはおよしなさいね。お父さんに怒られるといけませんから。」

「だって僕、お祖母さんは大嫌いだい。」

「でも、お祖母さんですもの、仕方がありませんわ。こないだのようなことをなさると、お父さんだって、默っちゃいらっしゃらないでしょう。」

「ううん? 父さん何も言わなかったよ。」

「そう? お母さんは?」

「母さんも、何も言わなかったよ。」

「ほんと?」

 お浜は不思議そうに訊ねた。

「ほんとうさ。このごろ母さんは、僕をあまりいじめなくなったんだい。」

「そう? それは次郎ちゃんがお利口におなりだからでしょう。」

 次郎はきまり悪そうな顔をしながら、

「こないだ絵本を買ってくれたよ。」

 お浜は、つい十日ばかり前に、正木のお祖母さんに、「お民もこのごろ少し考えが変って来たようだから、安心おし。」と言われたことを思いあわせて、いくらか明るい気持になった。

 そして、次郎の頭をなでながら、しばらく何か考えていたが、

「では、次郎ちゃん、もうお帰りなさいね。乳母やはこれから、正木のお祖母さんとこにうかがって、それからじき次郎ちゃんとこに行きますわ。お母さんがいいっておっしゃったら、今夜は一緒に寝ましょうね。」

 二人は手をつないで立ち上った。そして、校門を出ると、言い合わせたように立ち止って、校舎を見上げた。

 もうその時は、最後の運搬者たちが引きあげたあとで、物音一つしない古い校舎が、黄色い夕陽の中に、さむざむとしずまりかえっていた。


二〇 旧校舎


 その晩、お浜が別れを告げに来た時には、本田の一家も、流石にしんみりとなった。ふだん彼女の顔を見るのも嫌いだったお祖母さんまでが、みんなと調子を合わせて、十一時近くまで起きていた。そして、俊亮やお民が、お浜に二三日泊っていくようにすすめると自分もはたから口を出して、

「次郎もかわいそうだから、是非そうしておくれ。」とか、

「お正月も、もう近いことだし、どうせそれまでゆっくりしたらどうだね。」

 とか言って、いやにちやほやした。お浜は心の中で、

(ふふん、そのご挨拶の気持も、どうせ明日まではつづくまい。)

 と考えながらも、流石にいつもよりはずっと楽な気分になって、腰を落ちつけた。そして、すすめられるままに、一晩だけ、泊っていくことにした。

 次郎とお浜は、同じ蒲団の中にねたが、二人とも、容易に寝つかれなかった。眠ったかと思うと、すぐ眼をさまして、何度も冷たい夜具の中で、かたく抱きあった。

 しかし、翌朝次郎が眼を覚ました時には、お浜はもう寝床の中にはいなかった。次郎ははね起きて、家じゅうを探しまわったが、彼女の姿はどこにも見えなかった。彼は、昨夜彼女が風呂敷包を持って来ていたことを思い出して、そのありかを探してみたが、やはりそれも見つからなかった。

 彼はかなりうろたえた。しかし、誰にもお浜のことをたずねてみようとはしなかった。人に秘密にしていたものを失くした時のように、一人でそわそわと、家じゅうを歩きまわっていた。みんなは、彼のそうした様子を見ながら、わざとのように口をきかなかった。

 朝飯をすますと、彼はすぐ戸外に飛び出して、仲間を集めた。そして、いつものように戦争ごっこを始めたが、何となく気乗りがしなかった。「進め」の号令をかけて、仲間を前進さしておきながら、自分だけは、ぽかんと道の真ん中に突っ立っていたりした。

「面白くないなあ。」

 とうとう仲間の一人が不平を言い出した。

「学校に行ってみようや。」

 他の一人が提議した。みんながすぐそれに、賛成した。

「前へ進め!」

 次郎はすぐ、彼らを二列縦隊に並べて、号令をかけた。彼はみんなの先顔に立って、今度は非常に元気よく歩き出した。

 むろん、他の子供たちは新校舎の方に行くつもりでいた。ところが、次郎は、別れ道のところまでくると、道を左にとって、旧校舎の方に行こうとした。

「どこへ行くんだい?」

「こっちだい。」

 みんなは列をくずして、がやがや言い出した。それからしばらくの間、彼らと次郎との間に論戦が交された。彼らは、あんな破れかかった学校なんかつまらない、と言った。次郎は、空家になった校舎の中であばれるのは面白い、と言った。議論は容易に決しなかった。

「僕一人で行かあ。」

 とうとう次郎は怒り出して、さっさと一人で旧校舎の方に歩き出した。するとみんなもしぶしぶそのあとについた。

 ところで、空家になった校舎の中で、存分にあばれまわることは、彼らの予期しなかった新しい楽しみだった。第一、床板の反響が、異様に彼らの耳を刺激した。壁の破れ目に、棒を突っこんでこじ上げると、大きな壁土がくずれ落ちて、砲撃の瞬間を思わせるような感じを与えるのも彼らの興奮の種だった。彼らは、ついに、むりやりに数枚の床板をはずして、そこを塹壕ざんごうになぞらえ、校庭から沢山の小石を拾って来て、それを弾丸にした。小石が土壁にあたると土煙が立ち、板壁にあたると、からからと音を立てた。墓地や鎮守の杜でやる戦争ごっことちがって、次から次へと、眼の前に惨澹さんたんたる破壊のあとが現れるので、彼らはいよいよ興奮した。

 次郎は、しかし、彼らが興奮すればするほど、淋しくなった。彼は、間もなく、自分の思いつきを後悔した。そんて、仲間が石投げに夢中になっている間に、一人でこっそり校番室に這入りこんで、昨日お浜が腰をおろしていたあたりに、悄然と腰をおろした。

 小石はおりおり、校番室の隣の部屋にもがらがらと音を立てて、ころげて来た。そのたびに、彼は胸の底を何かで突っつかれるような痛みを感じた。

(この部屋だけは荒らさせたくない。)

 彼は、急に、仲間のすべてを敵にまわして、自分一人で校番室を守ってでもいるような、悲壮な気分になった。

「わあっ!」

 突撃がはじまったらしく、廊下を狂暴に走りまわる音がきこえた。しかし、間もなく誰かが叫んだ。

「おい! 次郎ちゃんがいないぞ。」

「ほんとだ。どうしたんだろう。」

「戦死したんか。」

「馬鹿いえ。」

「弾丸を取りに行ったんだろう。」

「そうかも知れん。」

「おうい、次郎ちゃん!」

「じーろーちゃん!」

 みんなが声をそろえて叫んだ。次郎は、しかし、彼らに答える代りに、そっと床下にもぐりこんで、息を殺した。

 かなり永い間、次郎の捜索が続けられた。最後に、みんながどやどやと校番室に這入って来た。

「いないや。」

「馬鹿にしてらあ。」

「もう次郎ちゃんなんかと遊ぶもんか。」

「そうだい。」

「怪我したんじゃないだろうな。」

「そんなことあるもんか。」

「帰ろうや、つまんない。」

「馬鹿言ってらあ、これから、新しい学校に行くんだい。」

「そうだ、次郎ちゃんも、もう行ってるかも知れんぞ。」

「そうかも知れん。早く行こうよ。」

「行こう。」

「行こう。」

 みんなが去ったあと、次郎は、荒らされきった校舎の中を、青い顔をして、一人であちらこちらと歩きまわった。廊下にころがっている小石が、時たま彼の足さきにふれて、納骨堂で骨がれあうような冷たい音を立てた。壁の破れ目から、うっすらとした冬の陽が、射したり消えたりするのも、たまらなく淋しかった。

(乳母やは、もういない。)

 彼は、ふと立ち停って、しみじみとそう思った。とたんに、彼の眼から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。


二一 土台石


 お浜の一家からは、その後、到着を報じたくちゃくちゃの葉書が、年内に一通と、年が明けて十日も経ったころ、次郎にてたお鶴の年賀状が来たきり、何の音沙汰もなかった。

 年賀状は、真紅まっかな朝日と、金いろの雲と、真青まっさおな松とを、俗っぽく刷り出した絵葉書であったが、次郎は、何よりもそれを大切にして、いつも雑嚢ざつのうの中にしまいこんでいた。

 そのうちに学年が変って、彼は四年に進級した。そして、新しい校舎からは、木の香がそろそろとうせていった。同時に、お浜たちに関するいろいろの記憶も、次第に彼の頭の中でぼやけはじめた。

 旧校舎のあとには、永いこと、土台石がそのままに残されていた、その白ちゃけた膚を、雑草の中から覗かせていた。次郎はそれを見ると、泣きたいような懐しさを覚えた。彼は、学校の帰りなどに、仲間たちの眼を忍んでは、よく一人でそこに出かけて行った。

 ある日、彼が例のとおり、土台石の一つに腰をおろして、お鶴から来た年賀状を雑嚢から取り出し、じっとそれに見入っていると、いつの間にか、仲間たちが彼の背後に忍びよって来た。

「次郎ちゃん、何してんだい。」

 次郎は、だしぬけに声をかけられて、どぎまぎした。そして、なにか悪いものでも隠すように急いで絵葉書を雑嚢の中に押しこみながら、彼らの方にふり向いた。

「ほんとに何してんだい。」

 仲間の一人が、いやに真面目な顔をして、もう一度訊ねた。

「この石が動かせるかい。」

 次郎はまごつきながらも、とっさにそんな照れかくしを言うことが出来た。そして、言ってしまうと、不思議に彼のいつもの横着さが甦って来た。

「何だい、こんな石ぐらい。」

 仲間の一人がそう言って、すぐ石に手をかけた。石は、しかし、容易に動かなかった。するとみんなが一緒になって、えいえいと声をかけながら、それをゆすぶり始めた。まもなく、石の周囲に僅かばかりの隙間が出来て、もつれた絹糸を水に浸して叩きつけたような草の根が、真っ白に光って見え出した。

 次郎は、大事なものを壊されるような気がして、いらいらしながら、それを見ていたが、

「馬鹿! みんなでやるんなら、動くの、当りまえだい。」

 と、いきなり彼らを呶鳴りつけた。

「なあんだい、一人でやるんかい。」

 みんなは手を放した。

「当り前だい。僕だって一人でやってみたんだい。」

「何くそっ。」

 最初に石に手をかけた仲間が、また一人でゆすぶり始めた。が、一人ではどうしても動かなかった。

「よせやい。動くもんかい。」

 次郎はそう言って雑嚢を肩にかけると、さっさと一人で帰りかけた。

「馬鹿にしてらあ。」

 仲間達は、不平そうな顔をして、しばらくそこに立っていたが、次郎がふり向いても見ないので、彼らも仕方なしに、ぞろぞろと動き出した。

 だが、土台石も、夏が近まるとすっかり取り払われて、敷地は間もなく水田に変った。そして今では、どこいらに校舎があったのかさえ、見当がつかなくなってしまっている。

 お鶴からの年賀状だけは、その後も大事に雑嚢の中にしまいこまれていたが、手垢がついたりするにつれて、それも次第に次郎の興味をかなくなり、いつとはなしに、彼の雑嚢の中から影をひそめてしまった。

 お浜に関する思い出の種が、こうしてつぎつぎに消えていくことは、ある意味では、次郎の心を落ちつかせた。しかし、彼が最も親しんで来た一つの世界の完全な消滅が、彼の性格に何の影響も与えないですむわけはなかった。立木を抜かれた土堤のように、彼の心は、その一角から次第に崩れ出して、一つの大きな空洞を作ってしまった。その空洞は、わけもなく彼を淋しがらせた。そしてその淋しさをまぎらすには、もう戦争ごっこや何かでは間にあわなかった。彼は、ともすると、一人で物を考えこんだ。そして、そろそろと物をあきらめることを知るようになった。それが一層彼の性質を陰気にした。

 しかも彼は、こうした心の変化の最中に、不思議なほど続けざまに人間の臨終というものに出っくわしたのである。六月には正木の伯母が死んだ。九月には従兄弟の辰男が死んだ。そして十一月には本田のお祖父さんが死んだ。

 伯母は、昼間の明るい部屋の中で息を引きとったが、その臨終に大きく見開いた眼と、その蝋細工のような皮膚の色とは、気味わるく次郎の頭に焼きついた。辰男は急病で死んだため、顔の相好そうごうに大した変化を見せなかったが、自分と同い年で、従兄弟たちの中でも一番親しい遊び相手であったということが、次郎の感傷をそそった。しかし、彼の心に最も大きな影響を与えたのは、何と言っても、本田のお祖父さんの臨終であった。


二二 カステラ


 お祖父さんは、胃癌いがんを病んで永らく離室に寝ていたが、死ぬ十日はかり前から、ぼつぼつ親類の人たちが集まって、代り番こに徹夜をやりはじめた。その中には、次郎がはじめて見るような人たちも五六人いたが、とりわけ次郎の注意をひいたのは、何かというと念仏ばかり唱える老人たちであった。お祖父さんは、そういう人たちに特別な親しみを覚えていたらしく、いつも彼らを自分の枕元に引きつけて、いろいろと話をしたがった。

「もう間もなくじゃ。……明日か明後日にはお迎えが来るじゃろう。……お別れじゃな、いよいよ。」

 お祖父さんは、ある日ふとそう言って、みんなの顔を一わたり見まわした。みんなは、顔を見合わせたきり默っていた。するとお祖母さんが、

「なむあみだぶ、なむあみだぶ。」と、念仏をとなえた。

 例の老人たちがすぐそれに和した。お祖父さんも、口の中でそれを唱えながら眼をつぶったが、しばらくすると、また眼を開いて、

「俊亮、きょうは家の見納めがしたい。……未練かな。」

 俊亮は、その意味がのみこめなくて、みんなの顔を見まわした。

「未練かな。」

 と、お祖父さんは、もう一度そう言って、しずかに眼をとじた。

「どうなさろうというんです?」

 俊亮は病人の顔を覗きこんだ。

「戸板、……戸板をもって来い、わけはない。」

 病人の眼がまたかすかに開いた。

 みんなはすぐその意味がわかった。で、正月に餅を並べる時の大きな戸板が、間もなく納屋から運びこまれた。そして病人を敷蒲団ごとその上にのせると、みんなでそれを抱えて、そろそろと家じゅうをまわり歩いた。

 次郎は、恭一や俊三と一緒に、その後について廻ったが、人数の多いわりに、いやに静粛だった。みしりみしり畳をふむ音と、おりおり老人たちの口から洩れる念仏の声とが、陰気な調和を保って、次郎の耳にしみた。

 仏間に這入ると、すでに、新しい蝋燭ろうそくに火がともされていて、仏壇が燦爛さんらんと光っていた。念仏の声が急に繁くなった。次郎は、いつぞやそこでお祖母さんを転がした時のことをふと思い浮べたが、念仏の声に圧せられて、その思い出もすぐ消えてしまった。

 お祖父さんは、どの部屋に這入っても、うなずくような恰好をしてみせた。次郎は、これまで自分に大して交渉のなかったお祖父さんのそうした表情を珍しく思った。そして、それが何となくなつかしいもののようにすら思えて来た。

 二階を除いて、部屋という部屋は、ほとんど一巡された。そして、再び離れの病室に落ちつくまでには、おおかた小半時もかかった。

 病人は疲れてすぐ眠った。傾きかけた日が障子を照らして、室内はいやに明るかった。病人が眠ったのを見ると、みんなはぞろぞろと部屋を出て、あとには俊亮とお祖母さんと次郎とだけが残った。

 次郎は不思議にお祖父さんの顔から眼を放したくなかった。そのくぼんだ眼と、突き出た頬骨と、一寸あまりにも延びた黄色い顎鬚あごひげとが、静かな遠いところへ彼を引っぱっていくように思えたのである。

「次郎は賢いね。」

 お祖母さんは、病人の足をさすってやりながら言った。

 次郎は、お祖母さんにこんな口をかれると、きっとそのあとに、いやな仕事を言いつかるのを知っていたので、いつもなら、すぐ反感を抱くところだったが、今日は不思議に何とも感じなかった。そして、相変らず默って、お祖父さんの顔ばかり見つめていた。お祖母さんも、それっきり、念仏を唱えるだけで何とも言わなかった。

 すると今度は俊亮が、

「次郎お菓子が食べたけりゃ、あそこに沢山ある。」

 と、違棚の方に眼をやりながら言った。そこには見舞の菓子折がいくつも重ねてあった。

「もう口をあけたのが無いんだよ。……今度新しいのをあけたら、恭ちゃんや俊ちゃんと一緒にあげるから、我慢おし。」

 お祖母さんが、はたから、ずるそうな眼をして次郎を見ながら言った。

 次郎は急に不愉快になった。さっき「賢い」と言われたのまでが、皮肉に感じられて仕方がなかった。で、父に気を兼ねながらも、ぷいと部屋を出てしまった。

 彼は、すぐその足で、二階にかけ上って、冷たい畳の上に寝ころんだ。

 畳の上には、柿の枯葉が一枚舞いこんでいた。彼は祖母に対して、彼がこれまで感じていたのとは、ちがった反感を覚え出した。それは、今までのような乱暴をしただけでは治まりのつきそうもない、いやに陰欝いんうつな反感だった。そうした反感の原因が、祖母の言葉にあったのか、それを言った時と場所とが悪かったためなのか、それとも、彼の気持がこのごろ沈んでいたせいなのか、それは誰にも判断が出来ない。とにかく、彼は、今までにない、いやな気分になって、永いこと天井を見つめていた。

 部屋はいつの間にかうす暗くなって来た。

 お祖父さんの顔がはっきり浮かんで来る。ちっとも恐くはない。つづいてお祖母さんの顔が見える。彼は思わずこぶしを握って、はね起きそうな姿勢しせいになったが、すぐまたぐったりとなった。

 しばらくすると、久しく思い出さなかったお浜たちの顔が、つぎつぎに浮かんで来る。不思議なことには、お浜や、弥作爺さんや、お鶴の顔よりも、眉の太い勘作や、やぶにらみのお兼などのきらいな顔の方が、はっきり思い出される。それでも彼は、遠い以前の校番室の夜の団欒だんらんを回想して、いくぶん心が落着いて来た。

 が、それもほんの暫くだった。足にさわる畳の冷えが、また彼を現実の世界に引きもどした。彼は自分が現在何処にいるかをはっきり意識すると、淋しさと腹立たしさとのために、じっとしてはいられなくなって、ごろごろと畳の上にころがり始めた。

(僕は本当にこの家の子だろうか。)

 ふと、そんな疑問が湧いて来た。すると、無性にお浜がなつかしくなって、涙がとめどなく流れた。すっかり暗くなった頃、俊亮が手燭てしょくをともして二階に上って来た。彼はしばらく立ったまま次郎の様子を見ていたが、

「次郎、そんな真似はよせ。風邪を引くぞ。……ほら、いいものを持って来た。一人で好きなだけ食べたらさっさと降りて来るんだぞ。」

 手燭てしょくを畳の上に置きながら、そう言って、何か重いものを次郎の背中の近くにほうり出した。そして、そのまま下に降りて行ってしまった。

 次郎は、動きたくなかった。しかし、知らん顔をしているのも、父にすまないような気がしたので、父が梯子段はしごだんを降りきった頃に、ともかく起き上って、父が置いていったものを見た。それは新しい菓子折だった。そっとふたをとってみると、中にはまだ三分の二ほどのカステラが残っていた。それにナイフが一本入れてあった。

 次郎はむしろあっけにとられた。甘いものが箱ごと自分の自由になるというようなことは、彼の経験の世界から、あまりにもかけ離れたことだったのである。彼は少し気味わるくさえ感じた。そしてちょっと父の心を疑ってみた。が、彼は急いでそれを打消した。それは、さっきの父の言葉が、いつもの快活な親しみのある調子をもって、彼の心によみがえって来たからである。

 彼は急に食慾をそそられた。で、彼はすぐカステラにナイフを入れはじめた。むろんそう沢山食べるつもりではなかった。しかし、食べているうちにやめられなくなって、何度もナイフを入れた。

 そのうちに、彼は、あんまり慾ばって食べたら父に軽蔑されはしないだろうか、と心配し出した。見ると残りがちょうど箱の半分ほどになっている。切口がでこぼこで非常に体裁がわるい。彼はそれを直すために、もう一度うすく切りとって、それを食べた。そしてナイフを箱の隅に入れ、蓋をした。

(やっぱり、僕は父さんの子だ。)

 彼はその時しみじみとそう思った。しかしまた、彼は考えた。

(だが、どうして僕にだけ次郎なんていう名をつけたんだろう。恭ちゃんはお祖父さんの名から、俊ちゃんは父さんの名からとってつけてあるんだのに。)

 尤も、この疑問は、これまでにもたびたび彼の心に浮かんでいたことなので、少しれっこになっていたせいか、さほどに気にはかからなかった。そして、いつとはなしに、彼は、カステラの箱をこのままここに置いたものか、それとも階下に持って行ったものかと、しきりにそのことを考えていた。

 そのうちに、ふと、階下で人々のざわめく気配がし出した。

 次郎は、はっとして、カステラの箱を小脇に抱えるなり、階段を降りて、大急ぎで離室はなれの方に行った。離室は人の頭で真っ黒だった。大ていの人は立ったまま病人を見つめていた。次郎がその間をくぐるようにして前に出た時には、ちょうど医者が注射を終ったところであった。

「大丈夫でしょう、ここ一二日は。……しかし今日のような御無理をなすっちゃいけませんね。」

 と、医者は俊亮の耳元に口をよせて、ささやくように言った。

「よほど静かにやったつもりですが、……」

「どんなに静かでも、これほどの御病人を動かしたんでは、たまりませんよ。」

 間もなく医者は出て行った。みんなも安心したように、ぞろぞろとそのあとにつづいた。部屋には、家の者全部と念仏好きの老人たちだけが残った。

 次郎は、その時まで、まだ突っ立ったままでいたが、急にあたりががらんとなったので、自分もそこに坐ろうとした。そのはずみに、彼は自分がカステラの箱を抱えていることに気がついて、急に狼狽ろうばいした。

「次郎、お前何を抱えているんだね。」

 と、お民が先ずそれを見つけて言った。みんなの視線が次郎に集まった。するとお祖母さんが、

「おや、カステラの箱じゃないのかい。さっきお茶の間においたのが急に見えなくなったと思ったら、まあ呆れた子だね。」

 声はひくかったが、毒々しい調子だった。

「なあに、私が次郎にやったんです。……次郎、まだ残ってるなら、恭一や俊三にもわけてやれ。まさか、みんなは食えなかったんだろう。」

 俊亮はにこりともしないで言った。

 変にそぐわない空気が部屋じゅうを支配した。次郎は箱を恭一の前に置いて、父のそばに坐った。彼の心は妙にりきんでいた。

 永いこと沈默が続いた。そのうちに、次郎の眼は、次第に病人の顔に吸いつけられたが、まだ心のどこかでは祖母と母とを見つめていた。


     *


 お祖父さんがいよいよいけなくなったのは、それから三日目の夜だった。次郎たちはもう寝ていたが、起されてやっと臨終の間にあった。念仏の声が入り乱れている中で、彼も、鳥の羽根で御祖父さんの唇をしめしてやった。

「御臨終です。」

 医者の声は低かったが、みんなの耳によくとおった。次郎は、半ば開いたお祖父さんの眼をじっと見つめながら、死が何を意味するかを、子供心に考えていた。彼はその場の光景を恐ろしいとも悲しいとも感じなかった。ただ、死ねば何もかも終るんだ、ということだけが、はっきり彼の頭に理解された。

 最初に声をあげて泣き出したのは、お祖母さんだった。誰も彼もが、その声に誘われて鼻をすすった。

「三日前から、もう自分の臨終を知って、家の中まで見廻るなんて、何という落ちついた仏様でしょう。」

 お祖母さんは、声をふるわせながら、そう言って、仏のまぶたをさすった。

「ほんとうに。」

「ほんとうに。」

 お祖母さんに合槌をうつ声が、そこここから聞えた。そして、また一しきり念仏の声が室内に流れた。

 次郎は、しかし、やはり悲しい気分にはなれなかった。

(お祖母さんは、きっとまたそのうちにカステラのことを思い出すだろう。)

 彼はそんなことを考えていた。しかしそれは決して、お祖母さんに対する皮肉や何かではなかった。「死ねば何もかも終る」という彼の考えが、「死ななければ何一つおしまいにはならない」という考えに移っていったまでのことだったのである。


二三 蝗の首


 由夫と竜一とは、学用品を入れた雑嚢を路に放り出して、いなごの首取り競争をはじめている。蝗を捕えては、それを着物の襟にみつかせて、急に胴を引っぱると、首だけがすぽりと抜けて襟に残る。それはいかにも残酷な遊びなのである。

「僕、もう五疋だぜ。」

 と、由夫がにやにやしながら言う。

「僕だって、すぐ五疋だい。」

 竜一は額に汗をにじませて、少しあせっている。

「早く十疋になった方が勝だぜ。」

「うむ、よし。」

「僕が勝ったら、何をくれる?」

「ナイフをやらあ。」

「じゃ、僕負けたら色鉛筆をやる。」

「ようし、……ほら五疋。……あっ、畜生、またはずしちゃった。こいつ、うまく噛みつかないなあ。」

 竜一はそう言って、握っていた蝗を気短かに地べたに投げつけた。

「ほら、僕、もう六疋だぜ。」

 と、由夫はますます落ちついている。

「くそ! 負けるもんか。」

 竜一は顔を真赤にして新しく蝗をつかまえにかかった。

 由夫は村長の次男坊、竜一は医者の末っ子である。隣同士なせいで、よく一緒になって遊びはするが、両家の間に変な競争意識があって、それが自然二人にも影響しているためなのか、心からは親しんでいない。性格から言っても、竜一は単純で、無器用ぶきようで、よくおだてに乗る子であるのに、由夫は、ませた、小智恵のきく子で、どうかすると、遠まわしに竜一の親たちの陰口をきいたりする。賭事かけごとではむろん由夫がうわ手である。今日も、彼は、竜一をうまくおだてて、蝗の首取り競争を始めたところなのである。

 そこへ次郎が、ぼとぼとと草履を引きずりながら通りかかった。彼はこの頃、仲間たちとあまり遊ばない。学校の帰りにも大ていは一人である。

「おい、次郎ちゃん、見ててくれ、僕、勝ってみせるから。」

 と、由夫が彼を呼びとめた。

 次郎は、これまで自分にも経験のある遊びではあったが、首だけになった蝗が、いくつもいくつも、二人の着物の襟にくっついているのを見ると、あまりいい気持はしなかった。生物いきものの命を取ることが、このごろの彼の気持に、何となくぴったりしなくなっていたのである。

 彼は、しかし立ちどまって、しばらく二人の様子を眺めていた。

 竜一は、次郎に見られていると思うと、いよいよあせって、無理に蝗を襟におしつけた。蝗は、しかし、そのためにかえって噛みつかない。

「竜ちゃん、僕、もう八疋だぜ。」と、由夫は、横目で次郎を見ながら言う。

 次郎はふだんから嫌いな由夫が、いやに落ちついて、竜一をじらしているのを見ると、むかむかし出した。

「竜ちゃん、よせ、そんなこと、つまんないや。」

 彼は由夫の計画をぶちこわしにかかった。

「いやだい、もうすぐ追いつくんだい。」

 竜一は、しかし、かえってむきになるだけだった。

「よしたら、竜ちゃんが負けだぞ。」

 由夫はずるそうに念を押した。彼はもうその時、九疋目を噛みつかせていたのである。

「そら、九疋。……もうあと一疋だい。」

 そう言って、彼は蝗の胴を引っぱった。胴はすぐちぎれた。そしてあとには、寒天のような白い肉がぽっちりと陽に光って、青い首の下に垂れさがっていた。

 とたんに、次郎の心はしいんとなった。彼は、ふと亡くなったお祖父さんの顔を思い出したのである。しかし、それもほんの一瞬であった。次の瞬間には、彼はもう由夫の胸に猛然と飛びついて、蝗の首を残らず払い落してしまっていた。

「馬鹿野郎、何をしやがるんだい。」

 由夫はよろめきながら拳を握って振り上げた。しかし、その姿勢はむしろ守勢的で、眼だけがいたちのように光っていた。

「竜ちゃん、帰ろう。」

 次郎は、平気な顔をして竜一の方を向いて言った。

 竜一は、まだその時まで、蝗を一疋手に握ったまま、ぽかんとして二人を見ていたが、次郎にそう言われると、すぐそれをなげすてて、

「僕んところに遊びに行く?」

「うむ、行くよ。」

 二人はすぐあるき出した。あるきながら、竜一は、自分の胸にくっついている蝗の首をはらい落した。

「覚えてろ! 竜ちゃんも覚えてろ!」

 由夫は無念そうに二人を見送りながら、何度も叫んだ。


二四 乱闘


 ひえびえと薬の匂いのする薬局の廊下をとおって、突きあたりの土蔵の階段を上ると、そこが子供部屋になっている。一方の壁には何段にも棚が取りつけてあって、絵本や、玩具が、一ぱいのせてある。すこし暗いが、わりに涼しい。

 次郎は竜一とよくこの部屋で遊ぶ。このごろ彼の遊び相手は、ほとんど竜一だけだと言ってもいいくらいだが、それは竜一に親しみがあるからというよりも、むしろこの部屋が好きだからである。戸外での乱暴な遊びの代りに、本を読んだり、絵を描いたりすることに興味を覚え出した彼にとっては、この部屋が一番しっくりする。いろいろの面白い本が読めるうえに、何となく自由で、心から落ちつけるのである。それに、竜一の姉の春子──去年女学校を出て、看護婦がわりに父の手助けをしている──が、おりおりこの部屋にやって来て、二人の相手になってくれるのが、何より嬉しい。春子を見ると、彼は、いつも、自分にもこんな姉があればいいな、と思うのである。

 二人は部屋に這入ると、すぐ、棚からめいめいに好きなものを引きずり出して遊びはじめた。

 竜一は少しきっぽい性質で、一つの遊びをそう永く続けようとはしない。次郎もこの部屋でだけは、大てい竜一の言いなりになって遊ぶのである。で、間もなく、部屋一ぱいに、いろんなものが散らかった。

「まあ、やっと今朝、きれいにしてあげたばかりだのに。」

 と、梯子段から、春子が白いふっくらした顔を出した。

「姉ちゃん、今日、おやつない?」

 竜一は姉の顔を見ると、すぐにたべ物をねだった。

「おやつなんか、あるもんですか、こんなに散らかして。」

 春子は眉を八の字によせて竜一を睨んだが、本気で怒っているようなふうには、ちっとも見えなかった。

 次郎は、こんなふうに姉に叱られている竜一が、うらやましかった。

「ぶつよ、おやつ持ってこなきゃあ。」

 竜一は、絵本をぐるぐると巻いて、振り上げた。

「姉ちゃんをぶったりしたら、次郎ちゃんに笑われるわよ。……さあ、お部屋をもっときれいになさい。そしたら、おやつ上げるわ。」

 春子はそう言って、自分で散らかったものを片づけはじめた。

 次郎は、すぐにもそれを手伝いたかった。しかし何だかきまりが悪くて、半ば腰を上げたまま、竜一の顔ばかり見ていた。

「次郎ちゃんはいい子ね。手伝って下さるでしょう?」

 春子にそう言われると、次郎は、もうぐずぐずしては居れなくなった。彼はいそいそと、玩具やら、春子が重ねてくれた絵本やらを、棚に運んだ。部屋ば間もなくきれいに片づいた。

「ありがと、次郎ちゃん。では、いいものをあげましょうね、お坐り。」

 春子は、半巾ハンカチで口のまわりの汗を拭き拭き、部屋の真ん中にぺったり坐った。

「なあに、姉ちゃん。」と、それまで仏頂面をして突っ立っていた竜一が、春子にしなだれかかって、その白い頸に手をかけた。

「まあ、暑いわよ。いやね。竜ちゃんは。お手伝いもしないで。」

 春子は、口では意地悪く叱りながら、すぐ袂に手を突っこんで、小さな紙の袋を出した。袋には、飴玉が十ばかりはいっていた。三人は、一つずつそれを口にほうりこんで、しばらく默りこんだ。

 窓先の青桐に日がかげって、家の中がいやに静かである。次郎は、まもなく帰らなければならない、と思うと、急に物淋しい気分になった。

「次郎ちゃんは、今日、由ちゃんとどうかしたんじゃない?」

 ふいに春子が真面目な顔をして、二人の顔を見くらべた。

「ううん、何でもないさ。」

 と、竜一が飴玉を口の中でころがしながら答えた。次郎は默っていた。

「でも、さっきから少し変なのよ。」

「どうして?」

「竹ちゃんや、鉄ちゃんが、何度も裏口から覗いて、次郎ちゃんはまだいるかってきくの。何でも、由ちゃんが次郎ちゃんの帰りを待ってて、いじめるんだってさ。」

「由ちゃんなんか、何だい。僕、あべこべにいじめてやるよ。」

 次郎は急に立ち上った。飴玉は、まだ彼の口の中で半分ほども溶けていなかったが、彼はそれをがりがりと噛み砕いた。

「およしよ。由ちゃんはずるいから、お友達を何人もかたらっているらしいのよ。」

「卑怯だなあ。僕、負けるもんか。」

「そうだい。次郎ちゃんは強いんだい。僕、見に行ってやらあ。」

 竜一までが立ち上った。

「およしったら、喧嘩なんかつまらないわ。……次郎ちゃん、ゆっくりしておいで。竜ちゃんと一緒に、夕飯をご馳走してあげるわ。」

 次郎はまだこの家で飯をばれたことがなかった。子供にとって他人の家の食卓というものは、大きな魅力をもっているものだが、とりわけ次郎にとっては、そうであった。彼のいきり立った気分が、春子にそう言われて、急にやわらぎかけた。しかし、すぐ坐りこむのも何だか恥ずかしかったので、彼は立ったままもじもじしていた。

「ね、いいでしょう、お母さんにおねがいしとくわ。」

「次郎ちゃん、ご飯たべていけよ。由ちゃんをなぐるのは、明日でもいいや。」

 竜一も、友達を自分の家の食卓に迎える楽しさに胸を躍らせながら、次郎の手を引っぱった。

「明日になれば、由ちゃんだって、もう喧嘩なんかしたくなくなるわ。だから、今日は外に出ないことよ。なんなら、泊っていってもいいわ。」

 次郎は由夫のことなんか、もうどうでもいいような気になって、すっかり落ちついてしまった。

 夕飯は、茶の間の涼しい広縁ひろえんで、大勢と一緒だった。漆塗うるしぬり餉台ちゃぶだいが馬鹿に広くて、鏡のように光っているのが、先ず次郎の眼についた。金縁の眼鏡をかけた竜一の父が、ちょうど彼の真うしろに、一人だけ膳についていたが、次郎は、たえず背中をみつめられているような気がして、窮屈だった。しかし、春子が何かと気を配って彼の世話を焼いてくれるのが、たまらなく嬉しかった。彼は、正木の家でのように、自由にたらふく食うことは出来なかったが、何かしら、これまでに知らなかった食卓のうるおいというものを、子供心に感ずることが出来た。

 夕食を終えると、竜一と次郎とは、裸になって、庭に出してある縁台の上で、腕押しをはじめた。腕押しでは、竜一は次郎の敵ではなかった。次郎は一度くらい負けてやってもいいと思ったが、竜一の方がすぐやめてしまった。竜一は別に残念そうでもなかった。そして、

「一番星見つけた。」

 と、だしぬけに、西の空を指して叫んだ。そこには金星が鮮かに光っていた。

 それから二人は、縁台に仰向けに寝転んで、じっと大空に見入った。そして新しい星を見つけるたびに、やんやとはしゃいだ。次郎はそのあいだにも、春子が早くやって来ればいいのに、と思っていた。

 空が螺鈿らでんちりばめたようになったころ、やっと春子がやって来た。次郎は、彼女が縁台に腰をかけた時、ほのかに化粧の匂いが闇を伝って来るのを感じた。

「蚊がつくわ。」

 そう言って、彼女は、持っていた団扇で二人をあおいだ。次郎は、ていては悪いような気がして、斜めに体を起した。

「次郎ちゃん、帰りたくなったら、誰か送って行ってあげるわ。」

 次郎は、春子が、来るとすぐそんなことを言い出したので、がっかりした。しかし、帰りたくないとは言いかねて、默って縁台を下りた。

「それとも、泊って行く? お母さんに叱られやしない?」

「僕帰るよ。」

 次郎はそう答えるより外なかった。

「じゃ、誰かに送らせるわ。」

 春子は、次郎の予期に反して、あっさりとしていた。

「一人でいいんだい。」

「いけないわ、由ちゃんの仲間が、まだそこいらに見張っているかも知れないのよ。あの子はしつっこいから。」

「僕、負けはしないよ。」

「勝ったって、負けたって、喧嘩する人、大嫌いだわ。」

「大嫌い」という言葉が、次郎の頭に強く響いた。しかし、送って貰って、由夫に卑怯だと思われるのもいやだった。

「次郎ちゃん、泊っていけよ。」

 竜一が起きあがって言った。次郎は春子の顔をうかがいながら、默って立っていた。

「でも、お母さんに叱られやしない。」

 春子は念を押した。

「叱られはしないけど。……」

 次郎は竜一がもっと何とか言ってくれるのを期待しながら、あいまいな返事をした。

 ちょうどその時だった。二、三間先の庭の生籬いけがきが、だしぬけにざわざわと音を立ててれだした。誰か外の方から揺すぶったらしい。

 三人は一せいにその方に眼をやった。

「だあれ?」

 春子が声をかけた。しかし、それっきりしんとして物音がしない。

「犬かしら。」

 彼女は立ち上って、二三歩生籬に近づきながら呟いた。

「人間だよ。」

 生籬の外からおどけたような子供の声が聞えた。つづいて四五人の子供が、わざとらしく高笑いした。

 そのあと、急に生籬の外がそうぞうしくなった。

「里っ子、ちびっ子、よういよい。ちびっ子、じろっ子、よういよい。」

 この辺の盆踊りの節をまねて、そう唄いながら、子供たちは生籬の外で足拍子を踏んだ。

「まあ憎らしい。……次郎ちゃん、我慢するのよ。」

 春子は、生籬の方を向いたまま、右手をうしろの方で振って、次郎をなだめるような恰好をした。が、もうその時には、次郎は縁台の近くにはいなかった。彼は裸のまま、いつの間にか門の方へ廻って、子供たちの群におそいかかっていたのである。

 生籬の外では、忽ち大乱闘だいらんとうが始まった。

「わあっ。」

 という子供の悲鳴。捧切のふれ合う音。折り重なった黒い人影。

「誰か早く来て!」

 春子は金切声をあげた。

 竜一の家の人たちが飛び出して、みんなを取鎮とりしずめた時には、次郎は四五人の子供たちによってさんざんに棒切れで撲られているところだった。しかし、不思議にも、悲鳴をあげていたのは彼ではなかった。彼は自分の体の下に、しっかりと一人の子供をおさえつけて、その頬ぺたを、両手でがむしゃらにつかんでいたのである。一人の子供というのは、いうまでもなく由夫であった。由夫の顔は、次郎の爪で、さんざんに引っかかれていた。

 しかし次郎の傷は一層ひどかった。彼の裸の体は、方々紫色に腫れ上っていた。ことに後頭部にはかなり大きな裂傷れっしょうがあって、血が背中や胸にいくすじも流れていた。彼が明るい電燈の下に、歯を食いしばった姿を表した時には、春子をはじめ、みんなが顔色を真っ青にしたほどだった。

 傷は竜一の父に二針ほど縫って貰った。春子は繃帯ほうたいをかけてやりながら、半ば独言ひとりごとのように言った。

「私、お母さんにすまないわ。傷が治るまで次郎ちゃんをお預りしようかしら。」

 次郎はそれを聞くと、眼を輝やかした。しかし、まだ繃帯を結び終らぬうちに、廊下にあわただしい足音がして、母のお民が診察室に顔を現した。そして次郎は間もなくつれて行かれた。


二五 姉ちゃん


 次郎の頭に巻かれた繃帯は、学校じゅうの注目のしょう点になった。誰もそれを彼の敗北のしるしだと思う者はなかった。このごろ少し落目になっていた彼の勇名は、そのため完全に復活した。上級の子供たちまでが、学校の往き帰りに、彼にびるようなふうがあった。由夫とその仲間たちは、いつもびくびくして彼を避けることに苦心した。

 次郎は、しかし、みんなのそうした様子には、まるで無頓着むとんちゃくなような顔をしていた。彼はともすると、むっつりして、ひとりで何か考えこんだ。それが子供達を一そう気味悪がらせた。

「打ちどころが悪ければ、死ぬところだったね。」

 彼は、事件のあとで、いろんな人にそう言われたのを、おりおり思い出す。しかし彼は、そう聞いても死ぬのが怖いという気にはちっともなれない。生籬の根もとに、血まみれになってぐったりと倒れている自分の姿を想像してみても、さして痛切な感じが起るのでもない。死ぬなんて何でもないことだ、というような気がする。

 だが、彼は、自分の死骸を想像すると同時に、きっと、その死骸を取り巻いている多くの人々を想像する。すると、彼の心は決して平静であることが出来ない。それは、そのなかに、父や、母や、祖母や、春子などの顔が、さまざまのちがった表情をして現れて来るからである。祖母の顔を想像すると、彼は、何くそ、死ぬものか、という気になる。父や春子の顔を想像すると、哀れっぽい甘い感じになって、死ぬことを幸福だとさえ思う。

(ところで、母さんはどんな顔をするだろう。)

 彼はいつも、一生懸命で母の表情を想像してみるのだが、どういうものか、ほかの人たちの顔ほど、はっきり浮かんで来ない。そして、時とすると、母の顔が、ひょいとお浜の顔に変ったりする。無論それは非常にぼやけている。しかしお浜の顔が浮かんで来ると、しみじみと死んではならないという気になる。そして、想像の世界から急に現実の自分にかえって、お浜の思い出にふけるのである。

 だが、お浜の記憶は、もう何といってもうっすらとしている。そして寂しい。そんな時に、彼の心を明るいところにつれもどしてくれるのは、いつも竜一である。竜一は、別に次郎の気持を知っているわけではなく、むろん自分で彼をどうしようというのでもないが、学校の休み時間などに次郎が一人でいるのを見つけると、すぐそばに寄って来る。すると次郎はすぐ、春子に繃帯を取りかえて貰う時の喜びをひとりでに思い出して、明るい気分になるのである。

 その繃帯も、しかし、十日ほどで必要がなくなった。春子は、その日絆創膏ばんそうこうを貼りながら、いかにも嬉しそうに言った。

「やっと、さばさばしたわね。暑苦しかったでしょう。……もうこれからあんな馬鹿な真似はしないことよ。」

 しかし、次郎は、たった一つの楽しみをもぎ取られたような気がして、変に淋しかった。

「姉ちゃん。」

 と、はたで付替つけかえを見ていた竜一が言った。

「学校では、みんなが次郎ちゃんを怖がるんだよ。僕、次郎ちゃんと仲がいいもんだから、僕まで威張れらあ。」

「まあ、いやな竜ちゃん。」

 春子は吹き出しそうな顔をして、そう言ったが、急に真面目になって、

「次郎ちゃんは、お友達に怖がられるのがお好き?」

 次郎は、春子に真正面からそう問われて、うろたえた。そして、つまらないことを言い出した竜一を、心のうちでうらんだ。

「竜ちゃん、嘘言ってらあ、誰も怖がってなんか、いやしないじゃないか。」

 彼はむきになって打消しにかかった。

「嘘なもんか。ほら、昨日だって、次郎ちゃんが行くと、みんな鬼ごっこをやめて、逃げちゃったじゃないか。」

「いけないわ、そんなじゃあ。」

 と、春子は、絆創膏をり終って、じっと次郎の顔を斜め後から見下した。

 次郎は何とか弁解しようと思ったが、どう言っていいのか解らなくて、椅子にかけたままもじもじしていた。すると、いきなり春子の手が、うしろから彼の肩をつかんだ。

「次郎ちゃん、お願いだからいい子になってね。いいでしょう、ね、ね。」

 春子の頬が息づまるように、次郎の頬にせまって来た。次郎は柔かな光のうずに巻きこまれるような気がして、ぼうっとなった。そして、嬉しいとも悲しいともつかぬ涙が、ぽたぽたと彼の膝に落ちた。

「乳母やさんが聞いたら、どんなに心配するが知れないわ。」

 春子の声が、彼の耳許でふるえるようにささやいた。

 次郎は、それを聞くと、いきなり椅子からすべって春子に抱きついた。

「僕、悪かっよ。僕……僕……」

 彼は、顔を春子の胸にうずめて、泣き声をおさえた。春子は次郎の頭をなでながら、

「そう? 解ってくれて? じゃもういいわ。」

「なあんだ、つまんないなあ。姉ちゃん生意気だい、次郎ちゃんを叱ったりするんだもの。」

 と、竜一は口を尖らしながら、それでも何だか訳がわからなそうな顔をして、立っていた。

「そうね、ほんとに悪かったわね。……じゃ、二人でお二階へ行ってらっしゃい。いいものあげるから。」

 竜一はすぐ次郎の手を引っぱった。次郎は一方の手で涙を押さえながら、まるで、ずっと年上の人にでも手を引かれているかのように、竜一のあとについて、二階に行った。


     *


 傷が治ってからも、彼は毎日のように竜一の家に遊びに行った。

 そのうちに、次郎は竜一にならって、春子を「姉ちゃん」と呼ぶようになってしまった。最初にそう呼ぶ機会を捉えるためには、次郎は一方ならぬ苦心をした。三人で何か取り合いっこをして、大はしゃぎにはしゃいでいる最中、竜一が、

「姉ちゃん、いけないや。」

 と言ったのを、そのまま自分も真似てみたのが始まりだった。真似てみて、次郎は顔を真赧まっかにした。しかし、春子も竜一も、まるで気がつかなかったふうだったので、彼は勇気を得、それから盛んに、「姉ちゃん」を連発した。そして、その日は、とうとう二人にそれを気づかれずにすんでしまった。

「あら、いつから次郎ちゃんは、あたしを姉ちゃんって呼ぶようになったの。」

 そう言って、春子が不思議がったのは、それから随分たってからのことであった。


二六 没落


「貴方、どうなさるおつもり? 恭一も、折角ああして中学校にはいる準備をしていますのに。」

「中学校ぐらい、どうにかなるさ。」

「どうにかなるとおっしゃったって、四里もある道を通学させるわけにはいきませんわ。どうせ寄宿舎とか下宿とかいうことになるんでしょう?」

「そりゃ、そうさ。」

「そうなれば、今のままでは、とてもやっていけませんわ。いよいよ土地が売れたら、小作米だって、ぐっとるでしょう?」

「減るどころじゃない。全くなくなるさ。」

「全く? じゃ残らず売っておしまいになりますの?」

「五段や六段残したって仕様がないし、先方でも、出来るだけまとまった方がいいって言うからね。」

「まあ! それでは仏様に対して申訳ありませんわ。」

「そりゃおれも申訳ないと思ってる。しかし、こうなれば仕方がないさ。」

「仕方がないではすみませんわ。……あたし、正木の父に相談してみましょうかしら。」

「長鹿言え。……おれの不始末は、おれが何とかする。」

「だって、一粒の飯米もはいらなくて、これからどうなさるおつもりですの。」

「食うだけは、おれの俸給で、当分何とかなるだろう。」

「俸給ですって! これまでろくに見せても下さらなかったくせに。」

「これからは、みんなお前に渡すよ。」

「みんなって、いかほどですの。」

「お前、主人の俸給も知らないのか。」

「そりゃ存じませんわ。これまで何度おたずねしても、俸給なんかどうでもいいじゃないかって、いつも相手にしてくださらなかったんですもの。」

「そうだったかな。しかし、これからは、大いに俸給を当てにしてもらうことにするよ。」

「すると、いかほどですの?」

「大たい、米代ぐらいはあるだろう。」

「はっきりおっしゃって下すっても、いいじゃありませんか。あたし、これからの心組もあるんですから。」

「そう心組にするほどのものではないよ。……そのうち俸給袋を見ればわかる。」

「まあ! 心細いこと。とにかく、恭一の学費までは出ませんわね。」

「そりゃ無論出ない。しかし土地を全部売ると、いくらか浮きが出るはずだから、当分のところ何とかなるだろう。」

「そのあとは、どうなさるおつもり?」

「町に出て、小店でも出そうかと思っている。」

「えっ?」

「何だ、変な顔をするじゃないか。」

「だって……だって……あたしには、とてもそんなこと出来ませんわ。それに、正木の父が聞いたら、何と思うでしょう。」

「仕方がないと思うだろう。」

「貴方!」

「なんだ。」

「子供たちの行末も、ちっとはお考え下さいまし、後生ですから。」

「考えているから、商売でもやろうと言ってるんじゃないか。」

「商売なんて、そんな……」

「商売が子供たちのためにならない、とでも言うのかい。」

「知れてるじゃありませんか。……子供たちは、石に噛りついても、学問で身を立てさせたいと思っていますのに。」

「だから、商売で儲けて、大学へでも何処へでも、はいれるようにしたらいいじゃないか。」

「人間は、卑しくなってしまっては、学問も何もあったものではありませんわ。」

「なあるほど、お前はそんなふうに考えていたのか。……だが、もうそんな時代おくれの考え方はよした方がいいぜ。これからの世のなかは、まかり間違えば、子供を丁稚奉公でっちぼうこうにでも出すぐらいの考えでいなくちゃあ……」

「まあ情けない!」

「大学を出たって、丁稚奉公をしないとは限らないんだ。」

「まさか、そんなことが……」

「あるとも、だが、今のお前の頭じゃ、何を言ったって解るまい。」

「…………」お民は横を向いた。

「怒るのはよせ。大事な場合だ。……とにかく、商売でもやるより仕方がなくなったんだから、その覚悟でいてくれ。」

「…………」

「不賛成か。困ったな。……だが、実をいうと、もう何もかも、そのつもりで運んでいるんだがな。」

「すると、この家も引払って、町に引越すんですか。」

「そうだ。いずれ家も売る事にしているんだから。」

「えっ!」

「実は、家だけはそうもなるまいと考えてたんだが、商売をやるとなると、その資本が要るんでね。」

「貴方、大丈夫? やけくそにおなりになったんではありません?」

「そうでもないさ。」

「それで、お母さんには、もうお話しなすったの。」

「いいや、まだ話さん。お母さんはどうせ反対するだろうからな。」

「あたし、何だか恐くなりましたわ。」

「実はおれも少し恐い。しかし、このままでこの村にいたんでは、どうにもならんからな。」

 俊亮とお民とは、子供たちが寝床につくのを待って、ひそひそとそんな話をはじめた。寝間はすぐ次の部屋だったが、次郎はまだ寝ついていなかったので、ついそれを聞いてしまった。そして、父が太っ腹過ぎて困るとか、お祖父さんが死んだら、あとが大変だとか、そういった話を、これまでにちょいちょい耳にはさんでいたので、彼はそれと結びつけて、今夜の二人の話をおぼろげながら理解した。

 彼は、しかし、父が商売人になるのを、大して悪いことだとは思わなかった。そして、この村の荒物屋や、薬屋などの様子を思い浮かべて、頭の中で、自分をそれらの店の小僧に仕立ててみたりした。朝から晩まで父と一緒に仂ける、──そう考えると、彼はむしろ嬉しいような気にさえなった。

 だが、彼の眼には、間もなく竜一と春子の姿がちらつき出した。

(町に行ってしまうと、もうめったに二人には逢えない。)

 そう思うと、彼は滅入めいるように淋しかった。──父と一緒に仂く方がいいのか、毎日竜一の家で遊ぶ方がいいのか。──彼はそんなことを考えて、俊亮とお民が寝たあとでも、永いこと眠れなかった。


二七 長持


 俊亮は、それ以来、土曜日曜にかけて帰って来るごとに、必ず一度は二階に上って、箪笥や長持の中を覗いた。そして、いつもその中から、刀剣類や、軸物じくものや、小箱などを、いくつかずつ取出して風呂敷に包んだ。

 次郎には、それが何を意味するかが、すぐわかった。彼は、そんな時には、いつもそ知らぬ顔をして俊亮のそばにくっついていた。次郎にくっついていられることは、俊亮にとっては、少なからず迷惑であった。しかし、彼は強いて次郎を追払おうとはしなかった。だんだん度重なるにつれて、却って品物の説明などして聞かせることもあった。そして、いつの間にか、風呂敷に包まれなかった品物をもとのところに納めるのが、次郎の役目のようになってしまった。

 これまで、茶棚や、戸棚や、火鉢の抽斗ひきだしぐらいより覗いたことのなかった次郎は、長持や、箪笥の奥から、桐箱などに納められた珍しい品物が、いくつも出て来るのを見て、全く別の世界を見るような気がした。彼は、ともすると、暗い長持ながもちの底を覗きこんで、亡くなったお祖父さん、そのまたお祖父さんというふうに、遠い昔のことなど考えてみた。そして何とはなしに、家の深さというものが、次第に彼の心にしみて来た。そのために、彼はこれまでとは幾分ちがった眼で家の中のあらゆるものを見まわすようになった。

 が、同時に彼は、美しいつばをはめた刀や、蒔絵まきえの箱や、金襴きんらん表装ひょうそうした軸物などが、つぎつぎに長持の底から消えていくのを、淋しく思わないではいられなかった。俊亮は、むろん彼に何も話して聞かせなかったし、彼もまた訊ねてみようともしなかったが、風呂敷に包まれた品物が、その度ごとに、俊亮の自転車にわえつけられて、人目に立たぬように何処かに持ち出されるのを、彼はよく知っていたのである。

 風呂敷包が出来あがる頃には、大てい、お民が足音を忍ばせるようにして、二階に上って来た。そしてその包みの中を一応あらためてから、きまって右手を襟につっこんで、軽い吐息をもらした。

「貴方、その品だけは、もっとあとになすったら、どう?」

 彼女は時おり、力のない声で、そんなことを言った。しかし、俊亮の答は、いつもきまっていた。

おそかれ早かれ、一度は始末するんだ。」

 次郎は、そんな時には、不思議に母に味方がしてみたくなった。そして、長持に突っこんだ顔を、そっと父の方にねじ向けるのだった。

 しかし、彼の視線しせんがまだ父の顔に届かないうちに、それを途中でさえぎるのは、母の鋭い声だった。

「次郎、もういいから、お前は階下したに行っといで。」

 そう言われると、次郎の母に味方したいと思った感情は、一時にけし飛んだ。同時に、長持の中の品物なんかどうだっていい、という気になった。そして、あとに残るのは、父に対する親しみの感情だった。

 だが、こうした秘密な売立うりたても、そう永くは続かなかった。

 ある日次郎は、父が小用か何かに立ったあと、一人で長持の前に坐って、長い刀を、おずおず半分ばかり引きぬいて、その鏡のような刃に見入っていると、うしろに足音がした。何だか父の足音とはちがうと思って、ひょいと振り向くと、そこにはお祖母さんが立っていた。次郎はびっくりして刀をぱちんとさやに収めた。そして、あたりに散らかっている品物を、急いで木箱に収めにかかった。彼は、お祖母さんには万事秘密だということを、はっきり言い聞かされていたわけではなかったが、何とはなしに、秘密にしなければならないような気がしていたのである。

「次郎!」

 と、お祖母さんの声は、物凄いふるえを帯びていた。

「お前は一たい、そこで何をしているのだい。」

 次郎はちらりとお祖母さんの顔を見た。すると、その顔は、蛙が喉をわくわくさせている時のような顔に見えた。

 彼はどうしていいのか解らなかった。で、坐ったまま、視線をあちらこちらにそらした。半ば引き出されたままの箪笥の抽斗や、蓋をあけた長持や、木箱や、金蒔絵や、青い紐などが、雑然と彼の眼に映った。彼はますますうろたえた。

「いつの間に、お前はこんなことを覚えたのだい。」

 そう言って、お祖母さんは、二三歩彼に近づいて来た。次郎は押されるように、窓ぎわににじり寄った。

「次郎!」

 お祖母さんのいきりたった声が、次郎の膝の関節をぴくりとさせた。もしその時、お祖母さんのうしろに、厳粛な、それでいて、どこかに笑いを含んだ父の顔が見出されなかったら、次郎は、あるいは二階の窓から、逃げ出そうと試みたかも知れない。

「次郎のいたずらじゃありません。」

 俊亮は、散らかった木箱をまたぎながら、そう言って、次郎のすぐそばに、どっしりと坐りこんだ。

 次郎は一先ずほっとした。しかし、父と祖母との間に何事か起りそうな気がして、何となく不安だった。

 お祖母さんは、まだ胡散臭うさんくさそうに、次郎の顔と、散らかった品物とを見くらべていたが、ふと思いついたように、長持のそばに寄って行って、その中を覗きこんだ。そして、しばらくは頻りに小首をかしげていたが、そのまま箪笥の方に歩いて行って、開いている抽斗は無論のこと、袋戸棚から小抽斗に至るまで、引っかきまわした。

 俊亮は、その間、默然と坐って腕組みをしていた。

「俊亮や──」

 お祖母さんは、べたりと俊亮の前に坐ると、下からその顔を覗きこむようにした。

「相すみません。」

 俊亮は、しずかにそう言って、やはり腕組みをつづけていた。

 次郎は、一心に、父の様子を見守った。彼はこれまで、父に対してだけは、心からしみじみとした感じになれたのであるが、こうして祖母の前にかしこまりながら、しかも、どこかにゆとりのある態度で坐っている父の様子を見ると、悲しいような、嬉しいような、何とも言えない感じになっていくのだった。

「こないだから、すこし可笑おかしいとは思っていましたが、……ま……まさか、一周忌もすまないうちに、こ……こんな……」

 お祖母さんは、俊亮の前に突っ伏して、声をとぎらした。

「次郎、お前は階下したで遊んでおいで。」

 俊亮は、やはり腕組みをしたまま、わずかに顔を次郎の方にふり向けて言った。

 次郎はすぐ階下に降りたが、何だか気がかりで、梯子段の近くをうろうろしていた。そのうちにお民が二階にあがって行った。三人の話し声はいつまでも続いた。次郎は、祖母と母の泣き声にまじって、おりおり聞える父の簡単な、落着いた言葉に耳をそばだてたが、何を言っているのかは、少しもわからなかった。


二八 売立


 大っぴらな売立が始ったのは、それから間もなくであった。

 ある日、朝早くから、洋服を着た人や、角帯を締めた人たちが、五六人やって来て、目ぼしい品物をすっかり座敷に並べて、大声で叫んだり、小さな紙片に何か書いて、ボール箱の中に投げこんだりした。村じゅうの人たちが、庭一ぱいに集まって来て、それを見物した。中には、洋服や角帯の人たちと一緒になって、紙片を投げこむ者もあった。

 人だかりの割に、変にぎごちない空気が、全体を支配した。めったに誰も笑わなかった。角帯の人たちは、おりおり下卑げびたことを言って、みんなを笑わせようとしたが、村人たちは顔を見合わせて、かえってにがい顔をした。女の人もかなり来ていたが、中には、そっと眼頭をおさえている者すらあった。ただ俊亮だけが、いつも微笑を含んでいた。

 次郎は、そうした人達の表情を、ほとんど一つも見逃がさないで見ていた。俊亮のほかに、家の者でその場に顔を出していたのは、次郎だけだった。彼は、しばしば茶の間から、母に呼びつけられて、

「子供の見るものではない。」

 と叱られたが、どんなに叱られても、彼は、また、いつの間にか座敷にやって来ていた。

 彼の心をひかれた品物が誰の手に渡るのか、そして、その人がどんな顔付をして、品物を受取るのか、それが、無性に見たくて仕方がなかったのである。

 売立が始まってから、二時間もたった頃、竜一の父が診察着のままで、あたふたとやって来た。そして、俊亮に何かこそこそと耳打ちした。しかし俊亮は、

「御好意は有難う。だが、いずれ一度は始末をつけなければならんのでね。……いや、全くどちらにも相談なしさ。」

 竜一の父は、軽くうなずいた。そして、すぐ角帯や洋服の間に割りこんで行って、どの品にも札を入れた。

 眼ぼしい品がつぎつぎに彼の手に渡された。角帯や、洋服は、変な眼付をしておたがいに顔を見合わせた。次郎は、それが何を意味するのか、ちっとも解らなかった。彼はただ、いい品物がたくさん竜一の家にいくのだと思うと、いくらか安心した。

 売立は夜の十時頃までつづいて、眼ぼしい品は大てい片づいた。残ったのは、虫の食った挟箱はさみばこや、手文庫、軸の曲った燭台しょくだい、古風な長提灯ながちょうちん、色のせたかみしもといったような、いかにもがらくたという感じのするものばかりであった。

 みんなが引上げたあと、俊亮と竜一の父とは、座敷に残って、何かひそひそと話し出した。俊亮は、次郎が、まだ、残っていたがらくたを眺めながら立っているのを見て、

「何だ、お前まだ起きていたのか。馬鹿だな。早く寝るんだ。」

 と、いつになく、きびしい顔をして叱った。

 次郎が、茶の間に這入って驚いたことは、いつの間に来たのか、正木のお祖父さんが、白いひげをしごきながら、端然たんぜんと坐っていることであった。お祖父さんの前には、お民とお祖母さんとが、悄然しょうぜんと首を垂れていた。次郎は、正木のお祖父さんの顔を見ると、急に、今まで売立を見ていたのが、何か非常に悪いことのように感じられだした。で、後の方から、いそいでお辞儀をして、すぐ寝間に行こうとした。するとお祖父さんは、

「次郎は相変らず元気じゃな。」

 と、彼の方をふり向きながら、眼元に微笑をたたえて言った。

「ええ、ええ、もう元気すぎて、さきざきどうなるものでございますやら。うちがこんなになるのも平気だと見えまして、一日じゅう、ああして売立を見物しているのでございますよ。」

 お祖母さんは、そう言って、いかにもわざとらしい、ふかい吐息をついた。

「ほほう、見ていましたか。……どうじゃな、次郎、面白かったのか。」

「面白くなんかありません!」

 次郎は憤然ふんぜんとして答えた。

「面白くない?……ふむ。」

 と、正木のお祖父さんは、静かに眼をつぶって、また顎鬚あごひげをしごいた。

「でも、見るものではないって、あれほどあたしが言うのに、よく一日見て居れたものだね。」

 お民が白い眼をして言った。

「僕、刀やなんかが、誰んとこにいくか、見てたんだい。」

 次郎の言った意味は、誰にもはっきりしなかった。三人は言いあわしたように、次郎の顔を見つめた。

「でも、竜ちゃんとこに沢山いったから、いいや。」

 正木のお祖父さんは、ほっと吐息をもらした。それから静かに手招てまねきして、

「次郎、ここにお坐り。」

 次郎が気味わるそうに坐ると、

「人を恨むんじゃないぞ。買って下さる方は、みんな親切な方じゃ。……なあに、要らないものを売って、要るものに代えるんだから、ちっとも構わん。いいかの、次郎。」

 次郎は、そう言っているお祖父さんを、妙に淋しく感じた。彼は默っていた。すると、お祖父さんは、また言った。

「刀が欲しいのか。刀なら、このお祖父さんのうちに行けば沢山ある。」

「僕、欲しくなんかないけれど、僕、なんだかいやだったよ。」

 次郎は、自分の気持を言いあらわす言葉に困って、やっとそれだけを言った。

「いやなのに、見ていたのかい。」

 お民がすぐ問いかえした。

「恭一なんか、いやがって覗こうともしなかったのにね。」

 と、お祖母さんが、それにつけ足した。

 正木のお祖父さんは、にがりきって、また顎鬚をしごいた。

 そこへ俊亮と竜一の父とが、晴れやかな笑い声を立てながら、這入って来た。俊亮は、正木老人を見ると、急にあわてて、

「やっ、これは……」

 と、いかにも恐縮したらしく、その前に坐って両手をついた。

 次郎の眼には、父のそうした姿勢が全く珍しかった。彼は、ゴム人形の膝を無理に曲げて坐らしたときの恰好を心に思い浮かべて、可笑しくなった。

「もうすっかりすみましたかな。」

 老人は、いかにも物静かに言って、俊亮と竜一の父とを見くらべた。

「全く面目次第もないことで……」

 と、俊亮はその丸っこい膝を何度も両手でさすった。

「いや、どうも、実は私も今日はじめて、承りまして、おどろいているような次第で……」

 と、竜一の父は、俊亮の助太刀すけだちでもしているかのような口調くちょうだった。

「皆さんにご心配をかけます。」と、老人は丁寧に頭を下げた。それから、しばらく何か思案しあんしていたが、急に俊亮を見て、

「ふいと思いついたことじゃが、次郎をしばらくわしの方に預からして貰えませんかな。」

 みんながてんでに顔を見合わせた。次郎は先ず母を見た。次に父を見た。それから祖母をちらっと横目で見て、視線しせんを正木のお祖父さんに移した。

「次郎、どうじゃ、当分わしの方から学校に通うては。」

「……………」

 次郎は返事をする代りに、再び父の顔を見た。

「いや、よく解りました。どうかお願いします。」

 と、俊亮は、ちらっと次郎を見ながら言った。みんなは変におし默っていた。

 もう随分おそかったが、正木の老人は、その晩のうちに次郎を連れて帰ることにした。次郎は、何のために自分が正木の家に預けられるのか解らなかった。しかし、彼は、それを決して不愉快には思わなかった。むしろ、何もかも忘れて、いそいそと出て行った。ただ真っ暗な路を、村はずれまで歩いて来た時に、彼は、ふと、竜一と春子とのことを思い出して、急に泣きたいような淋しさを覚えた。

 その後、彼の足の下で、ぴたぴたと鳴る草履の音が、いやに耳につき出して、彼の気持はいつまでも落ちつかなかった。


二九 北極星


「星がきれいだのう。」

 正木の老人は、ゆったりと歩を運びながら、独言ひとりごとのように言った。秋近い空はすみずみまで晴れて、ぎ切った夜の海のように拡がった稲田の中に、道がしろじろとかわいていた。

 次郎は空を見上げただけで、返事をしなかった。彼は、正木のお祖父さんに十分な懐しみを感じ、二人きりで夜道を歩くのをほこらしいとさえ思いながらも、ふだん正木の家に行く時のように、朗らかにはなれなかった。彼は、まだ、老人の気持を計りかねていたのである。

(なぜだしぬけに、僕を預るなんて言い出したんだろう。)

 この疑問は、一足ごとに深まっていった。竜一や春子に遠ざかる淋しさが、それにからみついた。そして家の没落ということが、次第にはっきりした意味を持って、彼の胸にせまって来るのだった。

 彼の眼のまえには、売立の光景がまざまざと浮かんで来た。散らかった品物の間から、いろんな表情をした人たちの顔が現れて来る。そして、時おり、微笑を含んだ父の顔が糸の切れた風船玉のように、彼の鼻先に近づいて来る。彼は、父の微笑の中に、ついさっきまで気づかなかった、ある淋しい影を見出した。そして、彼の気持は、いよいよ滅入るばかりだった。

「次郎、あれが北極星じゃ。」

 正木の老人は、ふいに道の曲り角で立ち止まって、遠い空を指さした。

 次郎は、指さされた方に眼をやったが、どれが北極星だが、すこしも見当がつかなかった。彼の眼には、まだ父の顔がぼんやりと残っていて、その顔の中に、星がまばらに光っていた。

「学校で教わらなかったかの?」

「ううん。」

「ほうら、あそこに、柄杓ひしゃく恰好かっこうに並んだ星が、七つ見えるだろう。わかるな。あれを北斗七星というのじゃ。」

 次郎は、やっと自分にかえって、老人の説明をききながら、一つ一つ指さされた星を探していった。そして最後に、やっとのこと、北極星を見出すことが出来たが、その光が案外弱いものだったので、彼は何だかつまらなく感じた。

「海では、あの星が方角の目じるしになるのじゃ。あれだけは、いつも動かないからの。」

 老人はそう言って歩き出した。次郎はこれまで星が動くとか、動かないとかいうことについて、全く考えたこともなかったので、老人の言うことを、ちょっと珍しく思った。

「外の星はみんな動いています?」

「ああ、大てい動いている。あの七つの星も、北極星のまわりを、いつもぐるぐる廻っているのじゃ。一時間もたつと、それがよくわかる。」

 いつまでも動かない星、──それが、ふと、ある力をもって、次郎の心を支配しはじめた。彼は歩きながら、ちょいちょい空を仰いで、北極星を見失うまいとつとめた。そして、これまでに経験したことのない、ある深い感じにうたれた。「永遠」というものが、ほのかに彼の心に芽を出しかけたのである。

 彼は、本田のお祖父さんの臨終のおりに、ちょっとそれに似た感じを抱いたことを、記憶している。しかし、それはほんの瞬間で、しかもその時の感じは、お祖母さんのいきさつのために、ひどくにごらされていた。今夜の感じには、それとは比べものにならない、澄みきった厳粛さがあった。

 しかし一方では、彼の草履の音が、ぴたぴたと音を立てて、たえす、彼の耳に、彼自身の運命を囁いているかのようであった。

(恭ちゃんや俊ちゃんは、何があっても、平気で家に落ちついていられるのに、自分だけが、なぜ乳母やの家から本田の家へ、本田の家から正木の家へと、移って歩かねばならないのだろう。一たい、何処が自分の本当の家なのだ。)

(父さんはこれから、何処へ行くのだろう、そして何をするのだろう。乳母やとは、あれっきり、一度も逢ったことがないが、父さんにもこれっきり、逢えなくなるのではなかろうか。)

 そうした疑問が、次から次へと、彼の頭の中を往来した。むろん、永遠とか、運命とかいうようなことを、はっきりと意識する力は、まだ少年次郎にはなかった。ただ、彼には、ふだんとちがった、厳粛な淋しさがあった。そして、星の光と草履の音との交錯こうさくする中を、默りこくって老人のあとについて歩いた。

「眠たいかの。」

「…………」

こけるといけない。手をつないでやろう。」

 次郎の手を握った老人の掌は、しなびていた。しかし、その皮膚の底から、柔かに伝わって来るあたたか味にふれると、彼はしみじみとした喜びを感じた。そして、急に明るい気分になって訊ねた。

「僕、お祖父さんとこに、いつまでいるの?」

「いつまででもいい。」

「いつまででも?」

 そう言った次郎の心には、再び不安と喜びとがもつれあっていた。

「早く帰りたいかの。」

「ううん。」

 次郎は首を横に振った。しかし、思い切って振れないものが、何か胸の底に沈んでいた。

「帰りたくなったら、いつでも帰っていい。だが…」

 と、老人はしばらく考えてから、

「お前の家には、誰もいなくなるかも知れない。」

 この言葉は次郎の胸におもおもしく響いた。動かぬ星と草履の音とが、ひえびえと彼の心を支配した。彼は泣きたくなった。

「しかし、心配することはない。人間というものは、心が大切じゃ。心さえ真っ直にして居れば、家なんかどうにでもなる。」

 次郎には、その意味がよく呑み込めなかった。そして彼の前には、再び父の淋しい顔があらわれた。

(お祖父さんは、父さんの心が真っ直でない、と言うのだろうか。いや、そんなわけはない。父さんほど真っ直な人はないはずだ。これまでだって、僕が悪くない時に、僕を叱ったことなんか一度だってないんだから。)

 が、次郎は、その時、ふと、父が非常に酒好きなことを思い出した。


 父は一人で飲むだけでなく、よくいろんな人を呼んで来ては、相手をさせるのだったが、ある晩の如きは、近在のごろつき仲間と言われた五六人の若い者を呼んで来て、次郎にお酌をさせながら、晩くまで飲んだ。何でも喧嘩の仲直りらしかったが、次第に酒がまわるにつれて、ほんの一寸した言葉のゆきちがいから、また喧嘩になってしまった。最初に啖呵たんかを切り出したのは眉の濃い、眼玉のどんよりした、獅子っ鼻の大男だった。彼は子供のころ、饅頭まんじゅうの売子をしていたため、「饅頭虎」と綽名あだなされていた。彼が食ってかかった相手は、「指無しのごん」だった。小指を一本切り落されていたので、そういう綽名がついていたが、青い顔の、見るからに辛辣しんらつそうな、痩ぎすの男だった。

「旦那をおいて、貴様のその言い草は何てこった。」

 といったようなことから始まって、口論は次第に烈しくなった。饅頭虎が、咄々とうとつしゃがれ声で物を言うのに対して、指無しの権は、ねっちりした、しかし、突き刺すような皮肉な言葉をつかった。父は、はじめのうちは、默って二人の口論を聴いていた。しかし、それが次第に険悪になって、今にも立ち廻りが始まりそうになると、急にいずまいを正して、

「虎! ……権!」とつづけざまに大喝だいかつした。そして、いきなり両肌をぬいで、

「それほど喧嘩がしたけりゃ、斬り合うなり、突き合なり、勝手にするがいい。だが、おれも一旦仲にはいったからには、おれの眼玉の黒いうちは困る。先ずおれの方を片づけてからにして貰おうかな。」

 そう言って、父は自分の胸を拳でぽんと叩いた。二人は父にそうどなられると、すぐべたりと坐って、平身低頭した。

 次郎は、父のすぐ横に坐って、その光景を見ていたが、一面恐怖を感ずると共に、父の英雄的な態度に対して身ぶるいするような感激を覚えた。そして、彼自身が仲間と喧嘩をする場合の、すばしこい、思い切った遣口やりくちが、こうしたことに影響されていなかったとは、決していえなかったのである。


     *


 だが、正木の老人と手をつないで、静かな星空の下を、今こうして歩いていると、そんな思い出が、何となくつまらないことのように思えてならなかった。

(父さんは、あんなことを真面目な気持でやったのだろうか。第一、あんな人たちと酒を飲んだりするのは、いいことだろうか。もしかすると、あんなことのために、家がだんだん貧乏になってしまったのかも知れない。)

 次郎が、父に対してこんなふうな考え方をするのは、これが初めてであった。これまでにも、父が酒を飲むのを、多少うるさいとは思っていたが、その善悪などを、本気で考えてみたことは全くなかった。むしろ、父のすることなら、何でもいいことのように思えて、母に叱られながらも父のそばにくっついて、よくお酌をしたりしたものである。で、彼は、考えてはならないことを考えたような気がして、何となく父にすまなく思った。しかし、一度きざした考えは容易に消えなかった。父を大事に思えば思うほど、いよいよそのことが気になって来た。

「次郎は何になるつもりじゃ。」

 正木のお祖父さんが、ふと、そんなことを訊ねた。

 次郎はお祖父さんも、自分と同じように、父のことを考えているような気でいたのに、ふいにそう訊ねられたので、変な気がした。それに彼は、さきざき何になるなどということを、これまで一度だって考えたことがなかった。彼の友達の中には、よく大将になるとか、大臣になるとか言って、得意になっている者もあったが、彼としては、そんなことを考えるよりも、彼に親切な人が誰だかを知ることの方が、よほど大切だったのである。

「返事をせんところをみると、まだ何も考えていないのじゃな。」

 老人は非難するように言った。

「お祖父さんは、小さい時に、何になろうと考えたの?」

「うむ……」

 老人は逆襲ぎゃくしゅうされてちょっと返事に困ったふうであったが、

「お祖父さんの子供の頃は、親のあとをぐ気でいればよかったのじゃ。」

「今はいけないの?」

「いけないこともないが……」

 と、また老人は返事に困った。

「僕の父さんは役人でしょう。」

「うむ……」

 老人はますます窮した。

「僕、役人になってもいいんだが、父さんは、すぐ役人をよすんじゃありません?」

「父さんがよしたら、お前もよすかの?」

「僕、父さんと、なるたけ一緒の方がいいや。」

「ふむ。」

 正木の老人は、闇をすかしてそっと次郎を見おろしたが、そのまま默って歩を運んだ。

「お祖父さん。──」と、次郎は急に改まった調子で、

「ねえ、お祖父さん、父さんは心が真っ直なんでしょう?」

 老人は、次郎が何を言い出すのかと思って、ちょっと思案した。が、すぐ、

「そりゃ真っ直じゃとも、どうしてそんなことをきくかの。」

「父さん酒飲むの、悪かありません?」

「うむ、……そりゃ、酒はのんでも、心が真っ直ならいいだろう。」

 次郎は満足しなかった。しかし、それ以上、強いて訊ねてみたい気もしなかった。そして暫くは、二人の足音だけが、闇に響いた。

「次郎──」

 正木の老人は、村の入口に来たころに、やっと再び口をひらいた。

「世の中で一番偉い人はな、お前の父さんのように、どんな人でも可愛がってやれる人じゃ。父さんが、今日、いろんなものを売ったのも、困っている人たちを、これまでに沢山助けたため、金が足りなくなって来たからじゃ。お前、父さんのように偉い人になれるかの。嫌いな人が沢山あったりしては駄目じゃが。」

 次郎の頭には、すぐ祖母と母との顔が浮かんで来た。そして老人の言葉を、自分に対する訓戒と考える前に、父と彼ら二人とを心の中で比べていた。

「母さんも、お祖母さんも、だから偉くないや。」

 次郎は吐き出すように言った。

「そうか。……では次郎はどうじゃ?」

「僕も偉くないや。」

 次郎の答は、老人の予期に反して、極めて率直だった。

「偉くなりたくないかの?」

「なりたいけれど、僕……」

「駄目かな。」

「だって、僕……乳母やと一緒だといいんだがなあ。きっと偉くなれるんだけれど……。」

 老人はぴたりと歩みをとめた。そして次郎の両手を握って、彼を自分の方に引きよせながら、闇をすかして、その顔を覗きこんだ。

「お前は、まだ乳母やのことが忘れられないのか。」

 老人の声はふるえていた。次郎は叱られていると思って、握られた手を、無理に引っこめようとした。

「叱っているんじゃない。乳母やに逢いたけりゃ、このお祖父さんが今に逢わしてやる。だから、きっと偉くなるんじゃぞ。」

 次郎はしゃくり上げそうになるのを、じっとこらえてうなずいた。

 二人が、正木の家の門口に近づいたころ、北方の空を二つに割って、斜に大きな星が流れた。

「あっ。」

 次郎は、声をあげてそれを仰いだが、その光が空に吸いこまれると、彼の眼は、いつの間にか北極星を凝視ぎょうししていた。

 しかし、彼が「永遠」と「運命」と「愛」とを、はっきり結びつけて考えうるまでには、彼は、まだこれから、いろいろの経験をなめなければならないであろう。


三〇 十五夜


 次郎が正木の家に預けられてから、十四五日の間は、ほとんど一日おきぐらいに、お民が訪ねて来た。もっとも、それは次郎の顔を見たいためではなかった。彼女がやって来るのは、いつも次郎が学校に出たあとだったし、たまたま顔をあわせることがあっても、

「おとなしくするんだよ。」と、通り一遍の、冷やかな注意を与えるぐらいで、大ていは、正木の老夫婦と、ひそひそと相談ごとをすますと、すぐ大急ぎで帰って行くのだった。

 次郎は、しかし、別にそれを気にもとめなかった。この家の賑やかな空気が、もう十分に、彼の心を幸福にしてしまっていたのである。

 だが、ある日、本田の一家が、打ちそろって正木を訪ねて来た時には、彼もさすがにはっとした。もう夕飯に近い時刻だったが、彼らが門口を這入ると、急に家じゅうが忙しそうになった。台所からは、黒塗のお膳が、いくつもいくつも座敷に運ばれた。座敷の次の間には、長方形のちゃぶ台が二つ続きに据えられて、そこにもいろいろの御馳走が並べられた。次郎は、それが何を意味するかを、すぐ悟った。

 大人たちは座敷で、子供たちは次の間で、正木と本田の両家が打ちそろって、食事をはじめたのは、夕暮近いころであった。座敷の方は、正木のお祖父さんと、俊亮の二人が、何のこだわりもなさそうに高話たかばなしをするだけで、ほかの人たちは、いやに沈んだ顔をしていた。次の間は、これに反して、おそろしく賑やかだった。ただ、次郎だけは、いつも座敷の方の様子に気をとられていた。彼は、食うだけのものは、誰にも劣らず食ったが、みんなと一緒になってはしゃぐ気には、どうしてもなれなかった。

 食事がすんで、お膳が下げられると、大人も子供も座敷に集まって、菱の実をかじった。尤も俊亮の前だけには、正木のお祖母さんの気づきで、小さなお盆に、かん徳利と、盃と、塩からのはいった小皿とが残して置かれた。しかし、俊亮は、一二度お祖母さんにお酌をして貰ったきり、ほとんど盃を手にしなかった。次郎は、何度も自分でついでやりたいと思ったが、きまりが悪くてとうとう手を出さなかった。

 二升ほどもあった菱の実は、三四十分もたつと、うず高い殻の山になっていた。

「もう菱も、そろそろ出なくなります頃ね。」

 お民は、淋しそうに、菱の殻に眼をやりながら、言った。

「これだけでもらせるのは、やっとだったよ。……でも、恭一や俊三が、これからはめったに食べられないだろうと思ってね。」と、正木のお祖母さんも、何だか心細そうであった。

 すると俊亮が笑いながら、

「なあに、菱なら町の方がかえって多いくらいでしょう。毎晩、近在の娘たちが、何十人と売りに出るんですから。」

「ほう、それは……」と、正木のお祖父さんが、俊亮を見て何か言おうとした。

 すると、本田のお祖母さんが、

「俊亮、お前何をお言いだね。せっかくこちらのお祖母さんが、ああして気をつかっていて下さるのに。」

「いや、こいつは大しくじり。わっはっはっ。」

 俊亮はわざとらしく笑いながら頭をかいた。しかし誰も笑わなかった。みんな妙に顔をゆがめて、本田のお祖母さんから、眼をそらした。

 子供たちは、菱の実がなくなると、すぐ縁側に出て腕角力うでずもうじゃんけんをはじめていたが、次郎は、その方に心をひかれながらも、大人たちの席から、遠く離れようとはしなかった。彼は、畳と縁との間の敷居に尻を落ちつけて、庭の方に向きながら、耳の神経を絶えずうしろの方に使っていた。

 庭の隅に一本のえのきの大木があった。その枝の間を、まんまるい月がそろそろと昇りはじめた。初秋の風が、しのびやかに葉末をわたるごとに、露がこぼれ落ちそうだった。次郎はいつとはなしに、それにも眼をひかれていた。彼の心は子供たちの騒ぎと、うしろの話し声と、美しい月の光との間にはさまれて、しょんぼりと淋しかった。

 話は、いつの間にか、ひそひそした声になっていた。それが、ややもすると、子供たちの騒ぎにまぎれそうであったが、次郎の耳の神経は、そうなると、かえって鋭く仂いた。話は彼自身に関することであった。

お民──「一人だけ、わけへだてをされたように思って、ひがんでも困りますので、やはり一緒につれて行く方が、いいのではないかと思いますの。」

正木の祖父──「ふむ……」

正木の祖母──「それは、何といってもね。……でも、本人さえこちらにいる気になれば、その心配もなかりそうに思うのだがね。」

正木の祖父──「本人は大丈夫じゃ。元来あれは、ここが好きなのじゃからな。」

本田の祖母──「まあ、さようでございましょうか。それにしましても、今度の場合は、本人にとくときいてみませんと、……」

 本田のお祖母さんの声だけが、わざとのように高い。

正木の祖父──「それは、わしの方で、もうきいておきました。」

本田の祖母──「やはり、こちら様にご厄介になりたいと、そうはっきり申すのでございましょうか。」

正木の祖父──「左様。はっきり、そう言って居ります。」

本田の祖母──「まあ、まあ、厚かましい。……そして、何でございましょうか、本人に何か考えでも……」

正木の祖父──「本人には、考えというほどのこともありますまい。何しろ、まだ子供のことでしてな。」

本田の祖母──「でも、訳もなしに、こちら様にご迷惑をおかけ致しましては、私共といたしまして……」

正木の祖父──「いや、わけはあります。つまりその……いつかもお宅で申しました通り、わしが当分預かってみたいのでしてな。はっはっはっ。……それとも、わしの考え通りにはさせんとおっしゃるかな。」

 正木のお祖父さんの声も、次第に高くなって来た。

本田の祖母──「いいえ、滅相めっそうな。わたくし、そんなつもりで申しているのではございません。それはもう、貴方様のお手許でしつけていただけば、何よりでございましょうとも。でも、私の方から申しますと、あれも同じ孫でございますし、一人残して置いて、変にひがみましてもと存じましたものですから、ついその。ほ、ほ、ほ。……お民さん、どうだね、せっかくああおっしゃって下さるんだから……」

お民──「ええ、でも、今度は、あたし、ほんとにあの子にすまない気がしてならないんですの。永いこと里子にやったり、置きざりにしたりしたんでは、一生親とは思われないんじゃないかしら、などと考えたりしまして……」

 お民の声は、いつになく、しんみりしていた。

 次郎は、思わずうしろをふり向いた。すると、ぱったりと俊亮の眼に出っくわした。俊亮は、さっきから彼を見ていたものらしい。

 次郎は、うろたえて眼をそらすと、すぐ立ち上って一人で庭に下りた。素足すあしでふむ飛石がひえびえと露にぬれていた。

「次郎ちゃん、どこへ行く?」

 他の子供たちがじゃんけんをやめて、つぎつぎに飛石をつたって、彼のあとを逐った。次郎は、池にかけてある石橋の上まで来ると、立ち止まって、うしろをふり向いた。

綺麗きれいだぜ、月が。」

 彼は水を指さしてそう言ったが、眼は庭木をすかして座敷の方を見ていた。座敷では、四人がまだ額を集めて話しこんでいる。

 子供たちは、それから、池に小石を投げたり、樹をゆすぶったり、唱歌をうたったりして、遊んだ。次郎もいつの間にか、彼らと一緒になってはしゃぎ出した。そうなると、もう飛石も地べたもなかった。彼らは跣足はだしでめちゃくちゃに走りまわった。

「次郎! 次郎!」

 二三十分もたったころ、俊亮の声が縁側からきこえた。そのまるまるした体が、室内の燈火を背にうけて、黒々と立っている。次郎は、飛石に足のうらをこすりこすり父のそばに行った。父は縁側に腰をおろしながら言った。

「どうだい、父さんたちは、もう明日からみんな町の方に行くんだが、お前も一緒に行きたいか。それとも、ここにいたいのか。お前のすきなようにしていいんだから、思うとおりに言ってごらん。」

 座敷の方から、みんなの視線が、一せいに次郎に注がれた。次郎は返事に困った。

 彼は、これまで、どうせ自分はこちらに残されるものだと決めていたし、またその方を喜んでもいたのであるが、いざとなると、変に物淋しい気持が、胸の奥からこみあげて来る。それは、父に対する愛着からだとばかりはいえない。みんなが打ち揃って出て行くのに、自分だけあとに残されるということが、予期しなかったいやな気持に、彼を誘いこんでいくのである。それに、さっきのしんみりした母の言葉が、妙に彼の頭にこびりついて、彼の心を一層悲しくさせた。出来るなら、一緒について行きたい、とも思う。

 しかし、魅力みりょくは何といっても正木の家にある。ついては行きたいが、いざ正木を離れると思うと、温かいふとんの中から急に冷たい畳の上に放り出されるような気がする。せめて本田のお祖母さんさえいなければ、と思うが、現にその蛇のような眼が、自分を見つめている。やっぱり、ついて行くのはいやだ。

「どうだい、一緒に行くか。」

「…………」

「やっぱり、ここにいたいのか。」

「…………」

「どうした? 默ってちゃわからんが。」

「…………」

「母さんは、お前をつれて行きたいって言うんだ。」

 次郎は、伏せていた眼を、ちょっとあげて父を見た。しかし、返事はしない。

「ところで、お祖父さんは、お前をこちらにおきたい、とおっしゃるんだ。」

 次郎は、正木の老人の方をちらりと見た。が、またすぐ眼を伏せてしまった。

「困ったな。そうぐずぐずじゃあ。……だが、まあいい。今夜は、みんなこちらに泊るんだから、明日の朝までによく考えておくんだ。いいか、お前の好きなようにしていいんだからな。」

 俊亮は、そう言って縁側を去ろうとした。すると、次郎が、

「父さんは、どっちがいい?」

 俊亮は、予期しなかった問に、ちょっとまごついた。そして、しばらく次郎の眼を見つめていたが、

「父さんか。父さんはどうでもいい。次郎の好きなようにするのが一番いいと思っているんだ。」

 次郎は、首をかしげて、右手の指先で、縁板をこすりはじめた。十秒あまりの沈默がつづいた。蚊が一疋、弱々しい声を立てて、次郎の耳元で鳴いた。次郎は、手をふってそれを追ったが、すぐまたその手で、縁板をこすりはじめた。

「次郎や──」と、その時、本田のお祖母さんが、少し膝を乗り出して、声をかけた。

「私も、お母さんと同じ考えなんだよ。そりゃあ、もう、こちら様のご親切は、よくわかっていますが、何といっても、兄弟三人そろっていて貰う方が、私も気が安まるのでね。一人残して置いたんでは、夜もおちおち眠れまいと思うのだよ。」

 みんなの次郎を見ていた眼が、気まずそうに畳の上に落ちた。次郎は、じろりと本田のお祖母さんを見たが、すぐその眼で俊亮を見あげながら、きっぱりと言った。

「父さん、僕、ここに残るよ。」

 誰も、しばらくは、一語も発しなかった。俊亮も、少しあきれたように、次郎の顔を見ていたが急にわれにかえって、

「そうか。うむ。それでいい。それでいいんだ。……なあに、町までは、たった四里しかないんだから、わけはない。土曜から泊りに行くんだな。」

 正木のお祖父さんは、その場の気まずい空気をふり払うように、つと立って縁に出た。

「おお、いい月じゃ、お茶でも入れかえて貰おうかな。」

 正木のお祖母さんは、顔を畳にすりつけるようにして、座敷から空をのぞいていたが、

「そうそう。今夜は、ちょうど十五夜でございましたよ。」

「あら。すると次郎の誕生日ですわ。あたし、かまけていてすっかり忘れていましたの。」

 と、お民がいそいそと立ち上って、月を見た。すると、本田のお祖母さんが、

「私、気づかないでもなかったんだがね。こちら様で、そんなことを言い出すものでもないと思って。」

 それでまた、あたりが変に気まずくなった。次郎は、しかし、もうその時にはそこにはいなかった。彼は、彼が物ごころづいて以来、しばしば聞かされてきた、「八月十五夜」が、ちょうど今夜だということなど、まるで思いつきもしないで、遠慮深そうにしている恭一や俊三を尻目にかけながら、わが物顔に庭をあちらこちらと飛びまわっていた。


三一 新生活


 翌日は本田の一家が出発する日だったにもかかわらず、次郎は、平気で学校に行った。みんなも、いっそその方がよかろうというので、強いて休ませようともしなかった。帰って来てみんなの姿が見えなかったら、きっと淋しがるだろうと、正木では気をつかっていたが、別にそんなふうにも見えなかった。

 それ以来、彼の日々は割合平和に過ぎた。気持がのびのびとなるにつれて、喧嘩をしたりすることも、割合に少なくなった。

 土曜から日曜にかけて、正木のお祖父さんや、お祖母さんにつれられて、おりおり本田の家にも訪ねて行った。しかし、彼が帰りをしぶるようなこととは一度だってなかった。ただ、町の賑やかさは、彼にとって新しい刺戟だった。──町は、人口三四万の、古い城下町だったのである。

 俊亮夫婦は、この町の、割合賑やかな通りに、店を一軒借りて酒類の販売を始めていた。店は間口も相当に広く、こもかぶりや、いろいろの美しいレッテルをった瓶などを、沢山ならべてあって、次郎の眼にはまばゆいように感じられたが、奥は、以前の家とは比べものにならない、狭い、汚ならしい部屋ばかりだった。恭一と俊三とが机を並べている部屋は、ちょうど店の二階になっていた。そこは物置同様で、鉄格子の小窓がたった一つあいているきりだった。庭もあるにはあった。しかし、それは、隣家の苔だらけの土蔵で囲まれた、ほんの五六坪ほどのもので、そこからは、湿っぽい土の匂いが、たえず室内に流れて来た。次郎は、その匂いをかぐと、すぐ滅入りそうな気になるのだった。ことに、昼間でも真っ暗な、狭くるしい便所に行かなければならないのが、何よりもいやだった。正木の家でなら、もっと明るい、ゆとりのある便所がいくつもあったし、それに小用ぐらいなら、自由に野天で放つことも出来たのである。

 このような陰気な家の中で、顔を合わせる本田のお祖母さんが、次郎にとって、いよいよ不愉快な存在になって来たことは、言うまでもない。家が手狭なだけにお祖母さんの言うこと、することが、始終彼の頭を刺戟した。一緒に食卓につくと、どんな好きなものでも、気持よく腹に納まらないような気がするのだった。

 母の方は、しかし、訪ねるたびに、次第にやさしくなっていくように感じられた。気のせいかうす暗い部屋の中で見る母の顔に、何かしら、しっとりしたものが流れていて、それがそろそろと彼の心にせまって来るのだった。彼女は、時として、絵本や、美しい箱入の学用品などを買って、町はずれまで、彼の帰りを見送ってくれることがあったが、そんな時には、彼は、お浜に逢っているような感じにさえなるのだった。

 恭一や俊三に対する彼の気持は、別れる前から、いくらかずつよくなって来てはいたが、この頃、たまに逢うせいか、二人共、自然次郎本位に遊んでくれるので、そのたびごとに、親しみをまして来た。以前、彼が二人に対して抱いていた反抗心などは、もうこのごろでは全くなくなってしまった、三人一緒に町を歩いたりするのが、本田を訪ねる彼の楽しみの一つになって来たのである。

 だが、本田の家に対して彼が感ずる最も大きな魅力は、何といっても俊亮であった。俊亮は格別彼をちやほやするのでもなく、どうかすると、公園につれて行ってやる約束をしておきながら急用が出来たと言っては、彼をすっぽかしたりするようなこともあった。しかし、そんな時に、次郎は、淡い失望を感じこそすれ、欺かれたという気持になることなどは、一度だってなかった。彼は父に、「ほう、来たな。」と、ごくあっさり言葉をかけられたり、忙しい合間にも、ちょいちょい顔を覗かれたりするだけで、父の気持を十分に知ることが出来た。そして、もし自分に出来ることなら、恭一や俊三との遊びをやめても、父の仕事の手伝いをしてみたい、という気にさえなるのであった。で、町の魅力と、母や兄弟に対する親和の情とが、かなり強いものになっていたとしても、もし彼に、父に逢えるという大きな楽しみがなかったとしたら、彼はわざわざ四里もの道を、陰気臭い家までやって来て、祖母の顔を見る気には、まだなかなかなれなかったであろう。

 正木の家では、彼はほとんどあらゆる場合に自由であった。そこでは次郎の神経を刺戟するような、冷たい、とげとげした言葉など、全く聞かれなかった。むろん、祖父や祖母が、次郎に全然叱言を言わないわけではなかった。しかし、その叱言は、少しも彼の苦にならない叱言だった。それに、だい一、この家の生活には、いろいろの変化があった。はぜの実を俵に入れて沢山積んである大きな土蔵の中で、かくれんぼをしていると、山奥で洞穴の探検でもやっているような気分が味わえた。また、広い土間に払げられた櫨の実を、から竿で打ち落したり、蒸炉むしろ焚口たきぐち櫨滓はぜかすを放りこんだり、蝋油の固まったのを鉢からおこしたり、干場一面の真っ白な蝋粉に杉葉で打水をしたりする男衆や女衆にまじって、覚束おぼつかない手伝いをするのも、誇らしい喜びだった。ことに「灰汁あく入れ」作業の手伝いは、次郎が学校を休んでもやりたいと思う仕事の一つだった。

 この作業の日には、附近の農家から、手のあいた女たちが凡そ二十人近くも手伝いに来た。その中には、婆さんも居れば、若い娘も居た。それらの人たちに、家内うちおんなたちや、子供たちも交えて、三十数名のものが、土間に蓆をしいてずらりと二列に並ぶ。めいめいの前には、擂鉢型すりばちがたの浅い灰色の鉢に、一本の擂古木をそえたのが一つずつ置いてある。やがて、蝋油を溶かした黄褐色の液体が、一定の分量ずつ、男衆によって鉢に注がれる。注がれた人は、すぐ擂古木をとって、それを掻きまわさなければならない。掻きまわしているうちに、はじめさらさらした蝋油が、次第にさめて、白ちゃけたどろどろの液になって来る。適当の時期を見はからって、男衆はそれに一柄杓の灰汁あくを注ぎこむ。この時、まぜ手は油断してはならない。精一ぱいの速度で擂古木をまわさなければならないのである。灰汁が注がれると、鉢の中の蝋油は、忽ちのうちに真っ白に変り、同時に、擂古木が少々の力ではまわせないほど、ねばっこくなって来る。すると男衆は、すばやくその鉢を抱えて、予め水を打ってある他の鉢に、その中身をうつす。蝋はそこで徐々に固まっていって、かんなをかけられ、干場に出されるのを待つのである。

 こうした作業が、毎日夜明けから日暮まで、二三日もつづけて繰りかえされる。その間には、婆さんたちの口から、腹をよらせるような面白い話も出れば、娘たちの喉から、美しい歌も流れる。食事以外には定まった休憩の時間はないが、一鉢あげるごとに、随意に渋茶も飲めるし、また薩摩芋さつまいもや時には牡丹餅ぼたもちなどの御馳走も、勝手にいただけるのである。

 次郎もそうした中にまじって擂古木を廻すのであったが、それがちょうど日曜日ででもあると、彼は終日厭きもしないで坐り通すのであった。

「本田の坊ちゃんは、何て辛抱強いんでしょう。」

「全く珍しいお子さんだよ。」

「坊ちゃん、ちっと遊んでおいでよ。」

 もし、こうした声が、一座の中から聞えて来ようものなら、次郎はいよいよ嬉しくなって、あくまでも頑張りつづけようとするのであった。

 ただ、次郎にとっての困難は、灰汁入れの瞬間だった。この大事な瞬間になると、さすがに彼の細腕では、どうにもならなかった。で、彼は、その時になると、いつも隣の誰かに擂古木を廻して貰うことにした。しかし、それは決して彼の恥辱にはならなかった。と、いうのは、ごく年上の婆さんたちや、若い娘たちの中にも、次郎と同じように、灰汁入れの時に人手を借りる者が、必す何人かは居たからである。

 次郎の野外における楽しみも、屋内のそれに劣らず、変化に富んでいた。彼は、男衆に教わって、天竺てんじく針をかけることや、どうけを沈めることを知った。日暮にかけておいた天竺針には、朝になるときっとうなぎなまずがかかっている。どうけというのは、舌のついた目のあらい竹籠の底の部分に、焼糠やきぬかをまぜた泥をぬり、それを、この附近によくある溜池の浅いところに沈めておいて、鮒や鯉を捕るのであるが、これも日暮に沈めておくと、朝には大てい獲物がはいっている。次郎は、その季節になると、よく夕飯におくれたり、まだ暗いうちから起き上って、戸をがたぴしいわせたりして、みんなに叱言を食うのであった。大川が近いので、男衆はちょっとした際を見ては投網とあみに行って、すずきなどをとって来るのだったが、そんな場合、次郎が一緒でないことは、ごく稀であった。

 大川の土堤を一里あまり下ると、もう海である。ちょうど、同じくらいの距離を上手かみてに行くと、旧藩暗代の名高い土木家が植えたという杉並木がある。次郎は、そのどちらも好きであった。彼は、別に面白いことが見つからないと、仲間を誘っては、よくそのどちらかに出かけて行った。海では、干潟で貝を捕り、杉並木では木登りや、石投げをやった。

 いつの間にか、彼は小船を漕ぐことを覚えた。また近所の農家で馬にも乗せてもらった。従兄弟たちと一緒に、この村の祭りに加わって、若衆組の下仂きもさせてもらった。本田の家では許されなかったようなことが、ここではほとんど自由であった。こうして、次から次へと新しい楽しみがえて来た。その間に、農家の生活がどんなものだかも、次第にわかって来て、ちょっとした手伝いぐらいは、彼にも出来るようになったのである。

 しかし、次郎の新しい生活は、単にこうした方面ばかりではなかった。竜一とは毎日学校で顔を合わせるにもかかわらず、わざわざ葉書を書いて、自分が正木に来ていることを報じたりした。それが春子への通信を意味したことは、言うまでもない。また、恭一の仲よしであった真智子のお伽噺とぎばなしの本が一冊、どうしたはずみか、次郎の机の中にまぎれこんで正木に届けられていたのを、これも、学校では返さないで、わざわざ郵便で送り返した。これは真智子の返事をもらいたかったからであったことは、その後しばらく、日に一回の郵便配達があるのを、非常に注意して待っていたのでもわかる。むろん彼に、恋心というようなものが、すでに湧いていたわけではない。彼が郵便を愛したことは、お鶴からの年賀状を大切にしまいこんでいたことでもわかるし、また父や兄に、おりおり手紙をかいて、その返事が来ると、従兄弟たちの前で、声たかだかと読みあげたりするのでもわかる。しかし、春子や真智子からの郵便を待つ心に、ある特別の感情が伴なっていたことも、やはり否めない事実であった。

 彼はまた、一心に水を見つめたり、雲をながめたり、風の音や鳥の声に耳をかたむけたりすることもあった。ある日など、大川の土堤の斜面にねころんで、赤いかにあしの茎を上ったり下ったりするのを、一時間あまりも一人で眺めていて、自分でも不思議に思ったことがある。しかし、あとで考えると、そんな時には、大てい、校番室を思い出し、お浜や、弥作爺さんや、お鶴や、お兼や、勘作や、それからそれへと、正木の家に来るまでのことを、一巡思い起していたことに気づくのである。

 彼は、以前の悪癖がなおらないで、このごろでもしばしば生きものを殺した。しかし、殺したあとでは、いつも変に気味わるい感じになるのであった。そんな時に、彼がよく思い出すのは村はずれの団栗どんぐり林だった。そこには小さなほこらが祭られていたが、その祠の真うしろの、一番大きい団栗の幹に、大釘が五本ほど打ちこんであるのを、かつて彼は見たことがあった。村の人達の話では、誰かが人を呪って、その両眼と両耳と口とを利かなくしようとしたものだ、ということだった。なるほど、そう聞くと、釘の位置が、ちょうどそんなふうになっていた。次郎には、運命というようなものを考える力はなかったが、思わぬ敵や、わざわいが、どこにひそんでいるかわからぬ、といったような感じが、そんなことから、いつとはなしに、彼の胸に芽生えはじめていたのである。

 彼は、学校で、綴方はいつも甲をもらった。先生に教室でそれを読み上げて貰ったりすることも稀ではなかった。しかし、彼の綴方は、勇ましい活動的な方面を書いたものよりも、むしろ、そうした沈んだ感傷的なものの方が多かった。

 こうして、彼の正木の家における新生活は、一見すらすらと流れているようで、かなりこみ入った内容を持ちはじめていたのである。


三二 土蔵の窓


 正木の家での次郎の自由な生活に、ごくかすかではあったが、暗い影を投げている人が一人だけあった。それは先年亡くなった伯母の夫に当る人で、名を謙蔵といった。次郎はこの人にだけは、最初から何とはなしに気が置けていたのである。

 正木の老人には、末っ子に男の子が一人あった。しかし、彼には学問で身を立てさせることにしていたので、総領娘──お民の姉──に早くから謙蔵を迎えて、蝋屋の仕事一切を任せて来たのだった。ところが、その男の子は、東京に遊学中病気になり、若くて死んでしまったので、謙蔵が、自然、この家を相続することになったわけなのである。

 謙蔵は、村内のさる中農の次男だったが、性来実直で、勤勉で、しかもどこかに才幹があるというので、正木の老人の眼鏡にかなったのだった。尤も、彼は小学校きり出てなかったので、その点では、この家の相続人として不似合であり、彼自身でも、人知れずそれにひけ目を感じていたらしかった。しかし、櫨の実の買つけから、蝋の売捌うりさばきにいたるまでの商売上の駈引かけひき、その他、日々の一家の経営にかけては、人にうしろ指をさされたことがなく、それに、すでにその頃には、子供が二人も出来ていたので、正木の相続人としての彼の資格に、もうどこからも文句の出ようはずはなかった。

 正木の老人に対する彼の態度は、ほとんど絶対服従と言ってもいいくらいであった。また老人の方でも、命令ずくで彼に対するようなことは決してなく、むしろ、ちょっとしたことにも、なるべく彼を立てていく、といったふうがあった。今度次郎を預るについても、むろん二人の間には、いつの間にか相談が出来ており、謙蔵の方に、次郎をいやがるような気持など、少しもなかったのである。

 次郎は、しかし、謙蔵の前に出ると、何となく気づまりだった。食事の時など、彼が近くにいるのといないのとでは、坐り方からいくぶんちがっていた。謙蔵は、元来無口で、めったに笑顔を見せない性質だったが、次郎にとっては、それが自分に対する時だけのように思われてならなかった。で、彼は、なるべく謙蔵に近づかない工夫をした。謙蔵の方では、別にそれを気にもとめず、かといって、進んで次郎を手なずけようとする努力も払わなかった。こんなふうで、二人の間には、いつまで経っても、伯父甥らしい親しみが生まれて来なかったのである。

 謙蔵に対して、ちょうど次郎と同じ気持でこの家に寝起きしている子供が、もう一人いた。それは、お延という次郎の叔母──お民の妹──の一人子で、次郎より一つ年下の誠吉だった。

 お延は、ある官吏の妻になっていたが、誠吉がまだお腹にいたころ、夫に死別れて、正木に戻り、ここで誠吉を生んだのだった。男の子が生れれば先方の籍に入れる、ということになっていたが、いよいよ生まれてみると、だい一お延が手放したがらないし、それに、先方でも喜んで引取るような様子がなかったので、正木の老人は、いろいろと考えた末、謙蔵夫婦に相談して、表面その実子にして籍に入れて貰うことにしたのである。

 謙蔵夫婦は、別に誠吉を愛しもせず、さればといって憎みもしなかった。一たいに二人共、自分たちの実子に対しても、こまかな心づかいなどしない方で、いつも商売や家庭の切盛きりもりにかまけている方だった。だから、あたりまえなら、誠吉は、他の子供たちにくらべて、そう不幸なはずもなく、謙蔵に対して変な気など起す理由は少しもなかったのである。

 罪はむしろ母のお延にあった、彼女は、必要以上に自分の境遇にひけ目を感じていた。その結果、自分だけが遠慮深く振舞うだけでなく、誠吉にもそれを強いた。謙蔵の目の届くところでは、ことにそれが甚しかった。台所の方のことは、大ていお延に任されていたが、彼女は誠吉を偏愛するとみんなに思われたくないところから、わざわざ誠吉の食物を他の子供たちよりも悪くしたり、何かの都合で、肴などが人数に足りないと、誠吉だけに我慢させたりした。また、誠吉が従兄弟たちと一緒に何かいたずらでもすると、叱られるのは、いつも誠吉だけだった。しかも彼は、しばしば謙蔵の前で謝罪を強いられるのだった。謙蔵は、そんな場合、深く取りあいもしなかったが、悪戯いたずらの性質上、それが一番年下の誠吉の罪でないと見ると、彼は自分の長男の久男や、二男の源次を呼んで、ひどく叱った。お延は、そうなると、ますますうろたえて、自分は自分で、誠吉にうんと叱言を言うのだった。

 次郎が正木に預けられる少し前、お延は、亡くなった姉のあとに直って、謙蔵と結婚することになったが、そうなると、彼女はいよいよ、人前で誠吉に叱言を言ったり、差別待遇をしたりすることが多くなった。そして、おりおり彼を陰に呼んでは、母らしい情愛をもって彼を抱擁し、同時に、その幼い頭に、義理ある父に対する従順の徳を説き、義兄弟たちに対して、すべてを譲るように、因果をふくめるのだった。

 村人たちにとっては、腹をいためた子以上に義理ある子を愛するということは、まさに驚異に値する婦徳の一つであった。

「お延さんは、さすがに正木の娘さんだ。」

 そうした賞讃の声が、あちらでも、こちらでも聞かれた。それはお延自身の耳にも謙蔵の耳にも、正木老夫婦の耳にもはいった。お延はいよいよ自分を引きしめた。謙蔵は自分の妻をほめられて悪い気持はしなかった。そして、誠吉を愛するのは自分の役目かな、と考えてみたりした。彼はしかし相変らず、どの子供に対しても、自分から進んで気を使おうとはしなかった。正木老夫婦は、安心とも心配ともつかぬ気分で、謙吉とお延と孫たちを眺めていた。

 次郎の耳には、世間の噂など、そう多くははいらなかったかも知れぬ。しかし、彼は、こうしたことには誰よりも敏感であった。以前から、誠吉の立場が、他の従兄弟たちといくらかちがっていることには、ぼんやり感づいていたが、今度来てみて、しばらく一緒にくらしているうちに、はっきりそれがわかって来た。そして誠吉が、食事のときなど、ちょっとのび上ってみんなの皿を見まわしたり、なんでもないことをするのにも人目を避けたり、必要もないのに自分から言訳をしようとしたりする気持が、次郎にはよく呑みこめた。

 次郎は、最初、以前自分が母に対して抱いていたと同じような感じを、お延に対して抱きはじめた。しかし、時が経つにつれて、自分の場合と誠吉の場合とは、かなり様子がちがっていることに気がついて来た。そして、誠吉本人がいつも警戒しているのは、お延でなくて謙蔵であることが、次第にわかって来ると、彼は、お延と誠吉と自分とで、内密に攻守同盟でも結んでいるかのような気になってしまった。

 誠吉は気の弱い子で、次郎の遊び相手としてはすこぶる物足りなかった。しかし、次郎は、いかなる場合にも誠吉の味方になることを忘れなかった。学校の往きかえりはもとより、戦争ごっこや、鬼ごっこや、隠れんぼなどで、誠吉が不利な立場に立っていると、何とかして彼を助けてやろうとした。また時としては、正木老夫婦や、謙蔵や、お延の前で、こまちゃくれた口の利きかたをして、誠吉の過失を弁護したりすることもあった。そんな場合、お延は迷惑そうな顔をして、次郎の出しゃばりをたしなめ、一層きつく誠吉を叱るのだった。次郎は、しかし、それはお延の本心ではなく、内心ではかえって自分に感謝しているのだと、一人ぎめに、きめてしまっていたのである。

 次郎のこまちゃくれたおせっかいも、この程度でとまって居れば、大したことにはならなくてすんだのであるが、あるはずみから、とうとう彼は、取りかえしのつかない失敗を演じてしまったのである。

 ある日次郎が、みんなより少しおくれて、学校から帰って来ると、土蔵と母屋との路地に、誠吉がしょんぼりとたたずんで泣いていた。わけを訊ねてみると、土蔵の白壁に鉛筆で落書きをしているところを謙蔵に見つかって、叱られたというのである。恐らくそれは、謙蔵が通りがかりに一寸注意した程度のものだろうと思われるが、かりそめにも、謙蔵に直接叱言をくったということは、誠吉にとって気味のわるいことだったに相違ない。次郎もむろん無関心では居れなかった。彼は、彼の頭に映っている謙蔵と、目の前にしょんぼり立って泣いている誠吉とを結びつけて考えながら、一種の義憤ぎふんにかられて来た。しかし、自分が全然知りもしないことを、いつもの通り誠吉のために弁解するのも変だ。また、かりに弁解するとしても、どう弁解すればいいのか、誰のところに持っていけばいいのか。これまでは叱り手が必すお延だったので、言い出しやすかったが、謙蔵に直接では、すこし勝手がわるい。──次郎はそんなことを考えているうちに、ますます謙蔵が悪い人のように思われて来た。

「次郎ちゃん、あやまっておくれよ。」

 誠吉は、口に指をくわえながら言った。次郎は、しかし、誠吉の弱々しい言葉をきくと、一層力みかえった。

「何だい? あやまることなんか、あるもんか。」

「だって、僕、見つかったんだもの。」

「見つかったって、何だい。久ちゃんだって、源ちゃんだって、みんな落書きしてらあ。」

 誠吉は、それはそうだ、と思った。しかしそう思っただけで、心はやはり落着かなかった。

「あやまらないと、僕母さんにも叱られるんだよ。」

「だって、叔母さん、まだ知らないだろう。」

「もう知ってるかも知れないよ。」

「叔母さんにも、言いつけるだろうか、あいつ。」

 誠吉は、次郎の「あいつ」と言ったのに、眼を見張った。次郎は、しかし、平気で言いつづけた。

「僕、あいつ、きらいだい。いつも叔母さんにばかり誠ちゃんを叱らすんだもの。」

 二人は、しばらく默りこんだ。次郎はやがて、何かふと思いついたように、

「誠ちゃんは、あいつを、いつも父さんって言うんだろう?」

「…………」

 誠吉は、いよいよ変な顔をして、次郎を見た。彼は、正木で生まれ正木で育ったので、従兄弟たちと一緒に、少しの無理もなく、謙蔵を父さんと呼びならわして来ている。彼が実の父でないことを、はっきり知っている現在でも、それだけは、彼にとって、ちっとも不自然には感じられないのである。

「父さんでもない人を、父さんなんていう馬鹿があるもんか。」

 次郎は、平気でそんなことを言った。彼はそれがいかに毒のある言葉であるかを、まだよく知らなかったのである。誠吉は、しかし、何となく恐ろしくなった。

 彼は心配そうに訊ねた。

「じゃ、何て言うの?」

「何とも言わなくったっていいや。僕だってもうこれからは伯父さんなんて言わないことにすらあ。だから、誠ちゃんも、父さんって言うの、よせよ。」

「だって、用がある時、どうする?」

「用なんかあるもんか、用があったら、僕、お祖父さんに言わあ。誠ちゃんも、お祖父さんに言えよ。」

「僕はお祖母さんが一等いいんだがなあ。」

「そんなら、お祖母さんでもいいさ。僕はお祖父さんにするから、誠ちゃんはお祖母さんにしろよ。」

「でも、母さんは、何でも父さんにきかないと、いけないって言うよ。」

「馬鹿にしてらあ。お祖父さんが一番の大将だよ。あいつなんか、他所よそから来たんだい。」

 次郎はそう言って、得意らしく顔をあげた。すると、驚いたことには、すぐ鼻先の土蔵の窓から、人の顔がのぞいていた。

 それは、ちらっと見えてすぐ消えたが、謙蔵の顔らしかった。次郎は急にそわそわし出した。彼は、何か言おうとする誠吉を、手で制しておいて、土蔵の窓に注意を払いながら、及び腰になって、路地の入口まで忍んで行った。

 土蔵の戸口には、果して謙蔵が、大福帳をぶらさげて石のように突っ立っていた。次郎ははっとして後じさりしようとした。しかし、もうその時には、異様な輝きをもった謙蔵の眼が、青ざめた額の下から、ぐっと次郎を睨んで放さなかった。

 次郎はすぐ地べたに眼を落した。しかし彼は、自分の右の頬に、いりつくような謙蔵の視線をいつまでも感じていた。

 あたりはしいんとしていた。路地の奥では、誠吉が、次郎が何をしてるかを心配しながら待っていた。

 やがて、土蔵の戸口から足音がして、次郎の首垂うなだれている顔の前をゆっくり通りぬけた。その足音は、一つ一つ、次郎の鼓膜こまくを栗のいがのように刺戟した。

 次郎が、やっと自分を取りもどして、誠吉のところに帰って行ったのは、それから二三分も経ってからであった。彼は、誠吉に何をきかれてもはっきりした返事をしなかった。彼は何とかごまかしながら、そのまま誠吉を誘って、村の中を、あちらこちらと日暮ごろまで遊びまわった。

 その後、この事件がどんな結果になったかは、謙蔵と次郎だけが知っていた。謙蔵は誰にも次郎の不届きなことを話さなかった。次郎もまたあくまで沈默を守った。誠吉は、次郎との会話を謙蔵に聞かれたとは思っていなかったし、また次郎の言ったことが、人に知られてはならないことのように思われたので、やはり口をつぐんで母にも言わなかった。

 謙蔵と次郎の視線は、それっきりめったに出っくわすことがなかった。万一出っくわしても、次郎の視線は、謙蔵の剣のような視線によってすぐはじきとばされた。弾きとばされたのは、彼の視線ばかりではなかった。次郎は謙蔵の眼をさけるために、いつも自分の体の置きどころを考えなければならなかった。──以前からも、彼は謙蔵を避けるふうがあったが、その当時とは意味がまるでちがって来たのである。──彼はなるべく学校のかえりをおくらす工夫をした。出来るだけ魚釣に出た。近所の農家が忙しくて遊び相手がないと、進んでその手伝いもやった。しかし日暮になって家の近くまで帰って来ると、彼の胸には、いつも鉛のような重いものが、のしかかって来るのだった。

 彼は、謙蔵を伯父さんとは決して呼ばなくなった。しかしそれは、そう呼ぶのがいやだったからというよりは、呼びたくても、もうそうは呼べなかったからであった。謙蔵に何か言わなければならない用を、老夫婦やお延に言いつかると、彼はいつもそれを、巧みに誠吉や他の従兄弟たちに譲った。そして、彼らが──誠吉もまた──謙蔵を「父さん」と呼んで、こだわりなく用をすましているのを陰で聞きながら、自分一人が、彼らにまで、のけ者にされているような感じになるのだった。

 かように、正木の家の明るい空気の中で、謙蔵の胸には次郎が、次郎の胸には謙蔵が、いつも黒いかたまりになって、こびりついていた。だが、それはあくまで二人きりの問題であった。老夫婦も、お延も、しばらくは、まるでそんなことには気がついていないらしかった。誠吉ですらも、自分以上に次郎が謙蔵を窮屈がっているとは、ちっとも考えていなかった。

 こうして正木の家も、次郎にとって、完全に幸福な家ではなくなってしまったのである。


三三 看病


 そのうちに、一年半の歳月が流れて、次郎もいよいよ六年生になった。

 学校では、上級学校入学志望の子供たちに対して、学年始から、特別の課業が始められた。次郎も、その教室に出入りする一人だった。彼は、雲雀ひばりさえずる麦畑の間を歩きながら、竜一たちと、ほのかな希望を語りあったりするのであった。

 次郎と謙蔵との間の黒い影は、その後、時がたつにつれて、いくらかずつぼかされていった。そして、ごく稀にではあったが、次郎の唇からも、「伯父さん」という言葉が洩れるほどになった。しかし、何もなかった以前の気持にかえることは、むろん望めないことだった。それに、永い間には、二人の間の感情が、老夫婦や、お延の眼に映らないでいるはずがなかった。で、黒い影は、ぼかされていく一方、そろそろと家じゅうの人たちの胸に薄墨のようにしみていくのであった。

 しかし、誰の心にも、次郎がこの家にいるのも、もうあと一年だ、という考えがあった。そして、謙蔵はしゅうとしゅうとめに対する義理合から、お延は姉のお民に対する思わくから、老夫婦は、次郎本人に対する愛と俊亮に対する面目から、それぞれあと一年を我慢することにした。もっとも、老夫婦はただ我慢するというだけでなく、これからの一年間にいくらかでも次郎の性質を、め直して、謙蔵にもよく思われ、俊亮夫婦にも喜んで貰いたいという気持で一ぱいであった。

 次郎は、そうした間にあって、いよいよませて来た。

 そして、世間というものがいくらかずつわかり出すと、もう自分の家と親類の家とをはっきり区別して、自分が現在どんな位置に居るかを考えずにはいられなくなって来た。

(自分はこの家で生まれた人間ではない。誠吉なら威張ってこの家の飯を食って居れるが、自分はそういうわけにはいかないのだ。)

 こんなことに気がつき出した彼は、変に何事にも用心深くなった。そしてこれまで謙蔵に対してだけ感じていた窮屈さを、この家のすべての人に対して感じるようになり、祖父や祖母に対してすら何かと気兼きがねをするようになった。また、雇人たちが彼に向かって軽口をたたいたり、ちょっと手伝いを頼んだりすると、何だか侮辱されたような気がして、以前のように気軽にそれに受答えすることが出来なくなってしまった。

 それに、何よりも、彼に変に思われ出したのは、このごろのお祖父さんやお祖母さんの素振そぶりに、何か彼にかくし立てをしているようなところが見えることであった。二人共、最近しげしげと本田を訪ねるのに、いつも次郎には知らさないで出て行ってしまった。帰って来ても、本田の話をするのを、なるだけ避けようとするふうがあった。

「町になんか行くひまに、うんと勉強して、お前も来年は中学生になることじゃ。」

 これが、彼を町につれて行かなかった場合の、お祖父さんのいつもの口癖であった。するとお祖母さんも、すぐそのあとについて、

「恭一は優等で二年になったそうだよ。」

 と、きまり文句のように言うのであった。

 次郎は、そんなふうに言われると、いよいよ疑ぐり深くなった。彼は、本田と正木との間に、自分のことについて、何かこそこそと相談しあっているのではないかと疑ったりした、こうして彼の幼いころからの孤独感は、ますます色が濃くなっていくのであった。

 そろそろ夏が近づいて来た。ある日、彼が学校から帰って来て、子供部屋になっている二階に上ろうとすると、座敷の方から、思いがけない俊亮の声が聞えて来た。彼は、はっとして梯子段を上りやめて、そっと声のする方をのぞいてみた。すると、そこには、老夫婦に、謙蔵、お延、俊亮の五人が真面目くさった顔をして坐っていた。彼らは、次郎が梯子段はしごだんを上る音で話をやめ、一せいにこちらを見たらしかったが、誰の顔も石像のように固かった。ひさびさで逢った俊亮ですら、じっとこちらを見ているだけで、言葉をかけそうな気配さえ見せなかった。

 次郎は、どうしていいかわからなくて、しばらく梯子段に釘づけにされたように突っ立っていたが、みんなが彼の姿の見えなくなるのを待っているとしか思えなかったので、不安な気持に襲われながら、そのまま二階に上って行ってしまった。

 二階に上ると、彼はいつになく机の前に坐って、教科書をひろげた。むろん勉強する気には少しもなれなかった。彼はぼんやりと教科書を見つめながら、耳を階段の下にすました。

 話し声は、しかし、まるで聞えなかった。いつもの彼なら、ひさしから庭木を伝ってでも下におりて盗み聞きするのだが、今日は不思議に手足まで固くなったような気がして、机の前に坐ったきり、小一時間も動かなかった。

 窓の外では、廂の上に伸びでただいだいの木に、蜜蜂が何疋もたかって、白い花をほろほろとこぼしていた。次郎は、見るともなしにそれを見つめていた。すると、梯子段の下から、だしぬけにお延の声がきこえた。

「次郎ちゃん、お勉強?」

 次郎は、なぜか、すぐには返事が出来なかった、彼は、急いで筆入の中から鉛筆を一本取り出し、しきりにそれを削りはじめた。

「おや、いないの?」

 お延の足音が梯子段を上って来た。次郎が、鉛筆と小刀を持ったまま、あわてて立ち上ると、もうお延の顔が覗いていた。

「まあ、返事をしないものだから、どうしたのかと思ったわ。……父さんが呼んでいらっしゃるから、すぐおりてお出で。」

 次郎は、異様な緊張を感じながら、お延のあとについて階下におりた。

 座敷には、もう謙蔵の姿は見えなかった。俊亮と老夫婦とは、相変らず硬い顔をして坐っていた。次郎は、俊亮にお辞儀をして、窮屈そうにその前に坐ったが、その眼は、みんなの顔を見くらべては、すぐ畳の上に落ちていくのであった。

「次郎、お前には、これから、母さんにしっかり孝行をして貰わねばならんが……」

 俊亮はかなり永い間次郎を見つめてから、いつもに似ぬおもおもしい口調で言った。

 次郎は、そう言われただけでは、むろん返事のしようがなかった。彼はただ、自分のことについて、父が何か重大なことを言い出そうとしていると思って、いよいよ固くなるばかりであった。

「母さんも、もう二三日すると、こちらにご厄介になることになったんだよ。」

 次郎はわけがわからなかった。しかし、自分の予想していたこととは、話が大ぶちがっていそうに思えたので、いくらか安心した。そして、まじまじと父の顔を見た。

「お前にはまだ知らしてなかったが、母さんは病気になってね。」

 俊亮の声はいやに淋しかった。彼はまだ何かつづけて言うつもりらしかったが、それだけ言うと急に默りこんでしまった。すると正木のお祖母さんが、すぐそのあとを引きとって、愚痴ぐちっぽくいろいろと話をした。それによると、お民の病気は肺で、町の狭くるしい、陰気な家にいては、ますます重くなるばかりだから、お祖父さんの発意で、こちらでゆっくり養生することになった、というのであった。

 むろん、俊亮の経済的な窮迫とか、本田のお祖母さんの病人に対する仕打とかについては、一言も話されなかった。しかし、次郎は話をききながら、そうしたことについても、大ていは想像してしまった。

 ひととおり話が終ると、俊亮が言った。

「実は、母さんがそんな事になったので、お前まで御厄介になるというわけにはいかんから、今日にもお前を町につれて帰ろうかと思っていたんだ。ところが、お祖父さんは、お前が母さんに孝行するのはこんな時だ、どうせ小学校を出るまでこのまま置いたらどうだ、とおっしゃって下さる。どうだ、お前に母さんの看病が出来るか。」

 次郎は、母の看病のことを考える前に、町の陰気な部屋をひとりでに思い浮かべた。そして、その中で本田のお祖母さんに何もかも世話を焼いてもらう自分を想像してみた。彼は、その想像だけで、もう何も考えてみる必要を感じなかった。謙蔵伯父のことがちょっと頭にひらめかぬでもなかったが、母の看病をするという理由がある以上、これからはかえって誰にも気兼なしに、正木の家に居れるような気さえした。彼はむしろ勇み立つようにして答えた。

「僕、きっと母さんの看病が出来るよ。」

「そうか。では、どんなことをするんだい。」

 俊亮はかすかに微笑しながら言った。

「看病ぐらい、わかってらあ。」

「わかってる? じゃ言ってみたらいいじゃないか。」

「薬をついでやったり、体をさすったりするんだろう。」

「それっきりか。」

「氷で冷やしてやることもあるよ。」

「それっきりか。」

「まだいろいろあるさ。」

「いろいろってどんなことだい。」

 次郎は、父が変に皮肉を言っているような気がして、少し腹が立った。で、それっきり返事をしないで、そっぽを向いてしまった。

 俊亮は、しばらくその様子を見まもっていたが、急におさえつけるような口調で、

「次郎、そんなことじゃ、お前にはまだ母さんの看病は出来ない。お祖父さんがせっかくああおっしゃって下さるが、やっぱり父さんと町に帰ることにしたらどうだ。」

 次郎は驚いて父を見た。それから正木老人を見た。しかし、二人共恐ろしく真面目な顔をして、彼を見つめているだけだった。彼はますますうろたえて、祖母とお延を見た。しかし、この二人もにこりともしないで口を結んでいる。

 こんなことは、次郎にとって全くはじめてであった。これまで彼が困った場合、彼を救ってくれるのは、いつも俊亮であり、正木の老夫婦であった。お延にしても、謙蔵に対する気兼から、際立きわだって彼に味方をすることはなかったが、心の中では彼の肩を持ってくれている一人に相違なかった。それが今日は申し合せたように、冷たい眼をして彼を見守っている。

(これはただごとではない。)

 彼はそんな気がした、しかし、どうしていいのか、さっぱりわからなかった。どんな場合にも、抜け道を見出すことにかけては本能的である彼も、自分の味方だと思っている人達に、こうおし默って見つめられていたのでは、手も足も出なかったのである。

 彼は生まれてはじめて、本当の行詰りを経験した。箱の中に入れられて、押詰められるような感じである。たまらなくくやしい。しかも、そのくやしさの奥から、わけのわからぬ恐怖が入道雲のように押し寄せて来る。反抗も出来ない。皮肉な態度には無論なれない。かといって、この場を逃げ出すきっかけも見つからない。彼は泣くより外に道がなかった。

 涙というものは、よかれあしかれ、大抵のことを結末に導いてくれるものである。次郎の涙は全くわけのわからぬ涙であったとしても、四人の心を動かすには十分であった。ことにこの場合は、次郎の涙は彼らによって待たれていたものだとも言えるのであった。

「泣くことなんか、ありゃしない。」

 お祖母さんが先ず口を切った。

 お祖父さんが、すぐそのあとについて、慰めるとも叱るともつかぬ口調で言った。

「ここにいたければ、いてもいい。じゃが、もっと素直な心になって貰わんと、みんなが困る。父さんもそれを心配していられるんじゃ。」

 それを聞くと、次郎の頭には、すぐ謙蔵の顔が閃めいた。彼だけがこの席をはずしているわけも、どうやらわかるような気がした。しかし、それならそれで、はっきりそう言ってくれてもよさそうに思えた。何で父は、母の看病のことなんかで、あんな意地悪を言ったんだろう。そう思うと、やはりわけがわからない。次郎は、しくしく泣きながらも、頭の中は、かなり忙しく仂かせていた。

「お祖父さんのおっしゃる通りだ。」と、今度は俊亮が言った。

「もうお前も六年生だ。少しは道理もわかるだろう。少しのことにすねたりして、お祖父さんやお祖母さんに、いつまでも心配をかけるんじゃない。それに第一、──」と、少し間をおいて、

「伯父さんや叔母さんのご苦労は、これからなみ大抵じゃないんだ。何しろ病人を世話して下さるんだからね。この上、お前に変にひねくれた真似なんかされたんでは、この父さんが全く申訳がない。母さんだって落ちついて養生が出来ないだろう。お前は、母さんの看病ぐらい何でもないように言っているが、本当の看病はね、病人に気をもませないことなんだ。ことに母さんの病気は気分が何より大切だからね、もしこちらにいたけりゃ、第一、皆さんの言いつけを素直にきくこと、それに勉強、それから学校がひけたら、さっさと帰って来て、さっきお前が言ったように、母さんのお世話をすることだ。いいか。次郎。」

 次郎はこれまで、こんなに立てつづけに、しかも厳しい口調で、父に教訓された経験がなかった。彼は、父特有ののんきな調子を、どこにも見出すことが出来なかったばかりか、かえって言葉のはしばしに、何かしら深い苦しみがにじみ出ているようにさえ感じた。

 彼はやはり泣きつづけていた。しかし、もう彼の涙は、決してわけのわからぬ涙ではなかった。彼は父の立場を考えた。彼自身の立場を考えた。そして、何かしら非常に重たいものが、彼の五体にのしかかって来るような感じがした。

 彼はむせびながら言った。

「父さん、悪かったよ。僕……僕……」

 彼のこの謝罪には、少しの偽りもなかった。かといって、それは純粋な感情の表示でもなかった。この言葉の奥には、感情と共に理性と意志とが仂いていた。彼はもう一個の自然児ではなかった。複雑な人生に生きて行く技術を意識的に仂かそうとする人間への一転機が、この時はっきりと彼の心にきざしていた。それほど、彼は、彼自身と周囲との関係をおもおもしく頭の中に描いていたのである。


三四 牛肉


 正木の家の離室が、お民の病室になったのは、それから三日の後であった。その三日間を、次郎は、深くものを考えるような、それでいてそわそわと落ちつかないようなふうで暮した。

 お民は見ちがえるほど痩せていた。蒼白い額の皮膚が、冷たく骨にくっついて、その下から眼だけが澄みきって光っていた。次郎が学校から帰って来てはじめて彼女の病室に這入った時には、彼女はしずかに眠っていたが、間もなく眼をさまして彼の顔を見ると、いかにも淋しく微笑した。その微笑が、遠い世界からの不思議な暗示のように次郎の心を捉えた。そして蝋細工のような血の気のない唇の間から、真っ白に浮き出した歯が、生々しく次郎の眼にしみついた。

 病室には、ほとんど正木のお祖母さんがつききりだった。で、次郎には大して用もなかったが、彼は、学校から帰ると、なるだけ病室を遠く離れないように努めた。そして、母の方からよく見える次の間の片隅に机を置いて、おさらいをしながら、お祖母さんが何か用を言いつけるのを待っているようなふうであった。

 彼は、学校の帰りに道草を食ったり、一人で遊びに出たりすることはほとんどしなくなった。遊びに出るにしても、それは大てい従兄弟たちに誘い出される場合に限られていた。そして、そうした場合でも、彼は必ず病室にいるお祖母さんの許しを得てからにするのであった。で、あとでは、従兄弟たちも、次第に彼を特別扱いにするようになり、彼を誘い出すのを遠慮したり、忘れたりすることが多くなった。

 だが、彼のこうした態度には、まだかなりの無理があった。病気の母に対する子として自然の感情からというよりは、この場合そうしなければならぬという義務的な気持の方が強かった。だから、従兄弟たちだけで自由にはしゃぎまわっている声がきこえたりすると、彼は変に落着かなかった。そして病気の母に対して淡い反感をさえ抱くことがあった。しかし、その反感を、少しでも、顔や言葉に表すようなことは決してなかった。

 彼の変化は、むろん誰の目にもついた。そして、それがあまりいちじるしいので、みんなを驚かせもし、涙ぐましい気持にもさせた。

「何といういじらしい子だろう。」

 そう言って正木のお祖母さんは、おりおり袖口で目尻を拭いた。

「次郎のことだけが心残りだったんですけれど、こんなふうだと安心して死ねますわ。」

 お民はよくそんなことを言っては、みんなを泣かした。

 お延は、むろん、誠吉を戒める材料に、しょっちゅう次郎を引合いに出した。謙蔵ですら、子供たちがあまりそうぞうしいと、

「少し次郎ちゃんに見習って、勉強するんだ。」

 とどなることがあった。

 正木のお祖父さんだけは、不思議に何とも言わなかった。言っているのかも知れなかったが、次郎の耳には少しもはいらなかった。次郎にとっては、それはたしかに物足りないことの一つであったが、しかし、そのために彼は決して悲観はしなかった。なぜなら、この家で、お祖父さんは彼の第一の味方であり、その第一の味方が、他の人たち以上に彼をめていないわけはない、と彼は確信しきっていたからである。

 ところで、そうした讃辞さんじは、次郎にとって大きな悦びであると共に、また強い束縛そくばくでもあった。彼はいつも人々の讃辞に耳をそばだてた。そして、一つの讃辞は、やがて次の新しい讃辞を彼に求めさせた。彼は、彼自身の本能や、自然の欲求に生きる代りに、周囲の人々の讃辞に生きようと努めた。それも彼の本能の一つであったといえないことはないかも知れない。しかし、そのために、彼が次第に身動きが出来なくなって来たことはたしかだった。しかも、時としては、彼は、そのために、心にもない善行にまで逐いつめられることさえあったのである。

 ある日彼は、おりおりこの村にやって来る顔馴染の肉屋が、近所の農家の前に目籠めごをおろして、肉を刻んでいるのを見た。その時は、ちょうど学校の帰りがけで、村の仲間たちと一緒だった。仲間たちは、肉屋を見ると、すぐそのまわりを取り巻いた。巧みな出刃の動きにつれて、脂気のない赤黒い肉が、まないたの片隅にぐちゃぐちゃにたまっていくのを、彼らは一心に見入った。空がどんよりと曇って、むし暑い空気の中を、肉の匂いがむせるように漂った。

 次郎も、一緒になって、しばらくそれを見ていたが、ふと彼は、母が毎日飲む肉汁すうぷの事を思い起した。「鶏の肉汁にはもうあきあきした。何か変ったものはないかしら。」……そう言って眉根をよせながら、肉汁をすすっている母の顔が眼に浮かんで来た。「今度肉屋が来たら、一度牛肉にしてみようかね。」──祖母のそうした言葉も同時に思い出された。

 彼の机の中には五十何銭かの貯金があった。それは学用品代として俊亮に貰ったもののあまりや、近所に牡丹餅を配ったりした場合、先方から使賃として一銭ずつ貰ったのを貯めておいたものである。彼はこの貯金のことを思い出すと、急に胸がどきどきし出した。そして大急ぎで家に帰ると、珍しく病室にも顔を出さないで、すぐ自分の机の抽斗をあけた。そしてその中の小箱から、音のしないように十銭白銅三枚をつまみ出すと、すぐまたこそこそと家を出て、肉屋のいるところへ走って来た。

 肉屋は、ちょうどまないたと出刃とを目籠の中にしまいこむところだった。子供たちは、まだみんなその周囲に立っていた。そして、次郎が息をはずませながら帰って来たのを見ると、その中の一人が、見物事はもうすんだといったような顔をして言った。

「次郎ちゃん、もっと早く来ればよかったのに。」

 次郎は、勢いこんで走って来たものの、妙に気おくれがして、みんなのいる前で、肉屋にもう一度目籠の蓋をあけさせる勇気が出なかった。買いにやられたことにすれば何でもないはすだったが、彼は自分の手に握っている金で、どのぐらいの分量の肉が買えるものか、その見当がまるでつかなかったのである。彼は、友達の顔と肉屋の顔とを等分に見くらべながら、しばらくぐずぐずして立っていた。そのうちに肉屋は、彼に頓着なく、目籠をかついで、正木の家とは反対の方向に歩き出した。同時に、仲間たちもばらばらに散ってしまった。彼らがまた肉屋のあとについて歩くのではないかと心配していた次郎は、それでほっとした。

 仲間たちの姿が見えなくはると、彼は急いで肉屋のあとを追った。彼が追いついたのは、どの家からもかなり離れた畑の中の道だった。幸い近くには人影が見えなかった。彼は何度も躊躇ちゅうちょしたあとでとうとう思いきって声をかけた。

「肉屋さん、肉まだある?」

「ええ、ありますよ。」

 肉屋はふりかえってそう答えたが、目籠をおろしそうなふうには見えなかった。

「少うしでも売る?」

「ええ、いくらでも売りますよ。」

「じゃ、これだけおくれ。」

 次郎は思いきって、握っていた手をひろげて突き出した。三枚の白銅がびっしょり汗にぬれて、掌の上に光っていた。

 肉屋はけげんそうに次郎の顔を見て、金を受取ったが、すぐ目籠をおろして、幅一寸長さ三寸ぐらいの肉片を俎の上にのせた。

 次郎はそれをみんな刻んでくれるのかと思って見ていると、秤にかけられたのはその半分ほどだった。それでもはかりおもりの方がはね上った。すると肉屋はまたそれを俎の上におろして、ほんの少しばかり端っこを切りとった。そしてもう一度秤にかけた、今度は錘の方がやや低目になった。すると、切りとった端っこの肉を、更に半分ほど切りとって秤の肉につぎ足した。それで秤は大たい水平になった。肉屋はその肉を俎において刻み終ると、からからになった脂肪の一片をそれに加え、竹の皮に包んで次郎に渡した。次郎は、牛肉というものについて、ある新知識を得たような気持で、それを受取った。

 彼は受取るとすぐ、周囲を見まわしながら、それを懐に押しこんだ。そして恥ずかしいような、誇らしいような変な気分を味わいながら、母の病室に這入って行った。

 病室には正木の老夫婦の外に、ついさっきまでいなかったはずの謙蔵がいた。次郎はお祖母さん一人の時の方が工合がいいように思ったが、思いきって竹の皮包みをみんなの前に出した。

「何だえ、それ。」

 お祖母さんがたずねた。

「牛肉だよ。」

「牛肉? どうしたんだえ。」

「買って来たのさ。」

「買って来た? どこで?」

「村に売りに来ていたんだよ。」

 みんなは変な顔をして、竹の皮包みと次郎の顔とを見くらべた。

「誰かに言いつかったのかい。」

「ううん。」

「お金は?」

「僕持っていたんだい。」

「お前のお小遣い?」

「そう。」

「何で牛肉なんか買って来たんだえ。」

「母さんが、鶏のスープはもう飽いたって言っていたからさ。」

「まあ、お前は……」

 お祖母さんは急におろおろした声になって、ぼろぼろと涙をこぼした。お民の眼にも涙が浮いていた。謙蔵は微笑しながら言った。

「そいつは感心だ。で、どれほど買って来た?」

「三十銭だけど、たったこれっぽちさ。」

 次郎はそう言って竹の皮を開いて見せた。お祖母さんがそれでまた涙をこぼした。

「いや、今日は牛肉のご馳走が沢山に出来るぞ。叔母さんも、さっき一斤ほど買ったようだから。はっはっはっ。」

 謙蔵は、以前のいきさつなどすっかり忘れているかのように朗らかだった。次郎は、しかし、それを聞いてちょっとがっかりした。小さな竹の皮に、薄くぴったりと吸いついている赤黒い肉が、彼の眼にはいかにもみじめだった。

「次郎、ありがとう。じゃ叔母さんに買っていただいたのと一緒にしてお貰い。」

 次郎は、母にそう言われて、少しきまり悪そうに、もとどおり竹の皮包みに紐をかけた。そして立ち上りしなに、はじめてちらりとお祖父さんの顔を見た。すると、驚いたことには、お祖父さんは、彼がこれまでにまだ見たことのないような渋い顔をして、彼を見つめていた。次郎の誇らしい気持は、その瞬間にすっかりけし飛んだ。

(生意気なことをする奴だ。)

 お祖父さんの眼が、そう言っているような気がしてならなかった。そして、彼の手に持っている竹の皮包みからは、いやな匂いがぷうんと彼の鼻をついた。

 彼はその後お祖父さんの前に出ると、妙に手も足も出ないような気持がするのであった。


三五 薬局


 正木に来てからのお民の主治医は竜一の父だった。

 薬は三日に一度貰うことになっていたが、その使いをするのは、いつも次郎の役目だった。それが次郎にとって何よりの楽しみだった。薬局にはたいてい春子がいた。──親孝行の名において、しかも竜一をおとりに使う面倒もなく、極めて自然に「姉ちゃん」の顔が見られ、声が聞かれる。何という恵まれた機会を次郎は持ったことであろう。

 最初の一回だけは、彼は薬局の窓口から薬壜くすりびん薬袋くすりぶくろとを差出した。すると、美しい眼がすぐ窓口から次郎をのぞいた。そして、

「あら、次郎ちゃんじゃない? こちらにおはいり。」

 次郎は、むろん躊躇しなかった。そして第二回目からは、案内も乞わないで、さっさと薬局の中に這入りこんだ。たまには足音を忍ばせて春子を驚かしたりすることもあった。

 調剤の時には、春子はいつも真っ白な上被うわぎをかけ、うぶ毛のはえた柔かな腕を、あらわに出していた。次郎にはその姿が非常に清らかなもののように思われた。彼は春子が仕事をしている間は、自分からはめったに話しかけなかった。そして、ガラスや金属のふれあうひそかな音に耳をすましながら、一心に彼女の手つきを見つめた。

 春子は、ガラスの目盛をすかして見たりしながら、よく次郎に母の容態ようたいをたずねた。そんなときには、次郎はいかにも心配らしく、かなり大ぎょうな調子で、自分の直接知っていることや、祖母たちの話していることを伝えた。そして、春子が眉根をよせたり、眼を見張ったり、「まあ、まあ」と叫んだり、或いは笑顔になったりする表情を、自分自身に対する深い同情のしるしとして受取り、甘い気分になってそれに陶酔とうすいするのであった。

 彼が薬局に来ているのを知ると、竜一がすぐ飛んで来て、彼をほかの部屋に誘い出そうとした。次郎は、しかし、それをあまり喜ばなかった。そして、心の中で、自分の来ていることが竜一に知れなければいい、などと思ったりすることがあった。で、学校などで、竜一に、今度はいつ来るかときかれても、あいまいな返事をすることが多かった。

 しかし、竜一の存在は、彼にとっていつも邪魔であるとは限らなかった。ほかに薬を貰いに来ている人がないと、竜一はきまって自分と次郎とのために、春子におやつをねだり、それを二階の子供部屋で一緒に食べるのだった。春子も手があいているかぎり、必ず二人の相手をした。次郎にとってはおやつも嬉しかったが、春子に相手になって貰うことが、それ以上に嬉しかった。もしおやつも春子も一緒であれば、それが最上だったことはいうまでもない。

 しかし、あまり永く次郎が遊んでいるのを、春子は決して許さなかった。薬壜を渡されてから、三十分以上も次郎がぐずぐずしていると、春子はきまって言った。

「お母さんが待っていらっしゃるわ。もう帰らないと。」

 次郎は、そう言われないうちに立ち上りたいとは、いつも思っていた。しかし思っているだけで、それに成功したことは一度だってなかった。彼は最後の十分間ほどを、いつもはらはらしながら過した。そして春子のその言葉を聞くたびにいつも後悔した。しかし、一旦、そう言われると、彼はもうぐずぐずはしなかった。いかにも「うっかりしていた」というような顔つきをして思い切りよく立ち上った。この時の彼の「さようなら」は、決して元気のない声ではなかった。

 次郎は脊は低かったが、同じ年配のどの少年にも負けないほど、足の速い子であった。ことに竜一の家で三十分以上も遊んだ場合には、おどろくほどの速さで帰って行った。一方は櫨並木なみき、一方は芦のしげった大川の土堤を、短距離競走でもやっているかのように走って行く彼の姿を、村人たちはしばしば見るのであった。それは、「お使に行っても決して道草を食わない子だ。」という正木の家でのこのごろの定評を裏切るのは、彼としてあまり好ましいことではなかったからである。

 ところで、こうした定評などにかまっていられない、一つの重大な、彼にとっては恐らく最も不幸だと思われる事件が、彼に近づいて来た。それは春子の身上に関することであった。

 暑中休暇が始まるのもあと二三日という、ある日の朝、竜一は学校で次郎の顔を見ると、いかにも得意らしく言った。

「僕、休みになったら、すぐ東京見物に行くよ。次郎ちゃんは東京に行ったことある?」

 次郎は侮辱されたような気がして、ちょっと不愉快だった。しかし、怒る気にはなれなかった。それに好奇心も手伝って、もっと委しい話をきかないわけにはいかなかった。

「いいなあ。東京に親類があるんかい。」

「ううん。まだ親類はないんだけれど、すぐ親類が出来るんだい。」

 次郎にはわけがわからなかった。彼は竜一の顔を問いかえすように見たが、竜一はにやにや笑っているだけだった。

「誰がつれて行くんだい。」

 そうたずねた次郎の心には、もし竜一の父だと、その留守中、母の病気は誰がてくれるだろうか、というかすかな心配があった。

「大てい母さんだろうと思うけれど、はっきり決ってないや。僕は父さんの方がいいんだがなあ。」

「でも病人をほったらかしちゃいけないんだろう。」

「だから、父さんはどうしても行けないんだってさ。でも、姉ちゃんは、母さんがついて行く方が好きなんだよ。」

「姉ちゃんも行くんかい。」

 次郎は、薬局から当分春子の姿が消えるんだと思うと、急に淋しい気がした。

「姉ちゃんが行くんだよ。だから僕らもついて行くんだよ。」

 次郎の頭には、竜一が「すぐ親類が出来る」と言った言葉が、電光のように閃いた。そして、急に竜一の顔がにくらしくなり、もう相手になって話したくないような気にさえなった。しかし、一方では、いつまでも竜一にくっついて、どんづまりまできいてみないではいられないような気もした。

「いつ帰るんだい。」

「学校が始まるまでに帰るよ。」

「母さんもかい。」

「うむ、だって僕一人では帰れないんだもの。」

「姉ちゃんは?」

 次郎は何でもないことをきいているように見せかけようとして、竜一と肩を組んだが、その声は変に口の中でねばっていた。

「姉ちゃんも一緒に帰るよ。」

 次郎はほっとした。同時に、竜一の肩にかけていた彼の腕が少しゆるんだ。しかし、竜一はつづけて言った。

「だけど、またすぐ東京に行くんだろう。東京にお嫁入りするんだから。」

 次郎は、木の枝から果物をもいだ瞬間、足をふみはずして落っこちたような気がした。

 まもなく始業の鐘が鳴った。次郎は教室に這入っても春子のことばかり考え続けた。竜一の言ったことは、まるで出たらめのような気もした。しかし、それにも拘らず、春子が遠くに消えていくたよりなさが、一秒一秒と彼の胸の奥にしみていくのだった。春子のお嫁入り、それは次郎にとって少しも悲しいことではない。彼は、村の娘たちの嫁入姿をこれまで何度も見たのであるが、そんな時に春子の場合を想像しても、それは美しいまぼろしでこそあれ、決して苦痛とは感じられなかった。また春子の相手が、何処の誰であろうと、それも次郎にとって、ほとんど問題ではない。その人物を想像してそれに対して、敵意を持つというような気には少しもなれないのである。彼には、ただ春子が薬局から姿を消すのがたまらなく淋しい。それもこの近在にでもいて貰えばまだいい。夏休み中だけで帰って来るのなら、辛抱も出来る。しかし、竜一の言うのが本当なら、彼女は遠い東京に去るのである。もう一度帰って来るにしても、結局は永久にこの村から姿を消すのである。あれほど自分を可愛がっておきながら、どうしてそんな遠いところに行く気になれたのだろう。自分が幼いころからほしいと思っていた「姉」、やっと平気で「姉ちゃん」と呼びうるようになったその「姉」が、どうしてこんなに無造作むぞうさに自分から離れて行くのだろう。

 彼の心には、お浜に別れた時のかすかな記憶があらたに甦って来た。その時のこまかな事実は、もう大てい忘れているが、言いようのない淋しさのために、地の底にでも吸いこまれるように感じたことは、今でもはっきり覚えている。その感じが再び彼の胸にうずきはじめた。むろんその頃とは年齢もちがうし、お浜と春子との彼に対する関係が同じでないことぐらいは、よくわかっている。春子はただ友達の姉というに過ぎない。薬を貰いに行くたびにどんなに親しみをましていようとも、お浜に期待したものを春子にも期待していいとは決して思わない。道理の上では、それは十分納得のいくことである。しかし、それにもかかわらず、春子に対する彼の気持の上での期待は、お浜に対するのとあまり変らない。否、それが当面の生々しい問題であるだけに、遠い過去のそれよりも一層痛切であるとさえいえる。お浜はいわばもう絵に描いた乳母である。それがものを言わないのは淋しい。しかし、その淋しさは諦めのつく淋しさである。思い出してその絵を見る時だけの淋しさである。忘れていることも出来る淋しさである。期待と名のつくほどのものが彼の心に動くには、お浜は、あまりにも古い絵になり過ぎている。だが春子はまだ決して絵ではない。彼女のいかなる部分も生きて動いている。眼が笑い、唇がものを言い、髪が揺れ、白い指が薬壜をふっている。しかも、次郎にとっては、喜び以外の何者でもない唯ひとりの「姉」である。かりに彼女とお浜とが、同時に次郎の生活に飛びこんで来て、彼に対する愛情の競争をやるとしたら、多分「姉」は「乳母」に勝をゆずらなければならないであろう。しかし、「姉」が生きた人間で、「乳母」が絵でしかない場合、次郎でなくとも、「姉」を失うことこそ、より大きな不幸と感ずるであろう。

 授業はひるですんだ。その間に何度も鐘が鳴って、彼は教室を出たり這入ったりした。しかし彼が学校に居ることをはっきり意識したのは、ほとんど鐘が鳴り出す瞬間だけであった。それほど彼の心は春子のことに集中していたのである。

 集中したといっても、何かを頭の中で工夫していたのではなかった。彼はただ美しい「姉」の姿を追った。それが汽車に乗って遠くに運ばれて行くのを見た。地図で想像する東京の近くまで来ると「姉」の顔も、列車も、一つの点に消えうせた。あとは、何もかもがらんとしていた。それは光でもない、闇でもない、灰色の音のない世界であった。その灰色の世界には、いつの間にか再び「姉」の顔が浮かび出した。そしてまた東京の方に消えた。彼の頭の中には、何度も何度もそれがくりかえされた。教室では先生の指図さしずに応じて、本を開いたり、鉛筆を動かしたりはした。しかしそれは全く機械的だった。運動場ではボール投もやり、角力もとった。しかし、彼は何度もボールを取り落し、角力ではすぐ押し出された。

「次郎ちゃんは、今日は真面目にやらないんだから、駄目だい。」

 仲間たちは、何度もそんな不平を言った。次郎は、しかし、力のない微笑をもらすだけだった。

 彼は竜一ともほとんど口をきかなかった。しかし、いよいよ最後の授業が終って教室を出ると、彼はすぐ竜一をつかまえて言った。

「一緒に君んとこへ行ってもいい?」

 竜一はむろん喜んだ。二人はすぐ並んで歩き出したが、校門を出ると、次郎は急に立ちどまって何か考えるようなふうだった。

「どうしたい。早く行こうや。」

 竜一がうながした。すると次郎は、

「君、さきに帰っとれよ。僕すぐ行くから」

 彼は午飯のことを思い出したのだった。午退けのために弁当を持って来ていないのに、竜一の家に行くのが気まずかったのである。

「どうしてだい。」

「どうしてでもいいから、さきに帰っとれよ。」

 彼はそう言って、さっさと門内に這入ってしまった。竜一は不平そうな顔をして、しばらく彼を見ていたが、仕方なしに、他の仲間たちと一緒に帰って行った。

 次郎はしばらく、教員室に最も遠い校舎の角の、日陰になったところに、一人でぽつねんと立っていた。そして掃除当番のがたぴしさせる音が少ししずまったころ、再び校門を出た。

 強い日照の路を、彼はかなりゆっくり歩いた。そして竜一の家についてからも、しばらく内の様子をうかがってから、敷居をまたいだ。敷居をまたぐと、すぐ左側は薬局の窓だったが、中はしいんとしていた。彼はいつものように自分勝手に上りこむ気になれず、いかにも遠慮深そうに、「竜ちゃあん。」と呼んでみた。どこからも返事がない。遠くの方から、食器のふれるような音が、かすかに聞えて来る。彼はもう一度呼んでみる勇気が出なくて、そのまま上り框に腰をおろした。

 彼は少しつかれていた。戸外のぎらぎらした光線が、汗ばんだ彼の顔を褐色に光らせていた。彼は気が遠くなるような、息がはずむような変な気がした。

「あら、次郎ちゃんじゃない? 今日はお薬の日だったの?」

 だしぬけに春子の声がうしろにきこえた。次郎はうろたえて立ち上りながら、

「ううん、竜ちゃんは?」

「竜一? いるわ。たった今学校から帰って、ご飯たべたところなの。次郎ちゃんも学校のお帰り? ご飯まだでしょう?」

「うん、僕たべたくないや。」

「どうかしたの?」

「ううん。」

 次郎は首をふった。春子はちょっと変な顔をして彼を見つめたが、

「じゃ二階に上ってらっしゃい。すぐ竜ちゃんを呼んで来てあげるわ。」

 春子はそう言って奥へ行った。次郎には彼女がいつもよりよそよそしいように思われて仕方がなかった。来なければよかったというような気もした。しかし、そのまま帰るのも工合がわるくて、またぽつねんと立ったまま戸外をながめていた。

 竜一が間もなく走って来た。二人はすぐ二階にあがった。次郎はつとめていつもの通りに振舞おうとしたが、やはり気が落ちつかなくて、二人の遊びはしばしば間がぬけた。春子が二階に上って来たのは、それから三十分も経ってからであった。

 彼女は、父が病家から持って帰ったらしいお菓子の紙包を、二人の前にひらきながら、

「ほんとに次郎ちゃん、今日はどうしたの。学校の帰りにより道なんかして。」

「…………」

「何かまたいたずらをしたんじゃない?」

「ううん。」

「お母さんが心配なさるわよ。」

「…………」

「おかしいわね。默ってばかりいて。」

「…………」

「ほんとに、どうしたのよっ。」

 春子は、めすらしく真剣に怒っているような声を出した。すると次郎は、それとはまるで無関係のように、真面目な顔をして、だしぬけにたずねた。

「姉ちゃんは、東京に行くの?」

「あらっ。」

 春子の顔は、瞬間に真赧まっかになった。そしてすぐ竜一の方を見ながら、

「竜ちゃん、もう喋ったのね。いいわ、もうこれからなんにも上げないから。」

 春子は菓子の包みをひったくるようにして、さっさと下に降りて行ってしまった。

 竜一と次郎とは、ぽかんとして顔を見合わせた。しかし次の瞬間には、次郎はもうそわそわし出した。彼は、幾日かの後に失わるべき春子が、すでに彼から全く姿を消してしまったように思った。そして何よりも彼をうろたえさせたのは、春子を怒らしてしまったことであった。

 竜一は、しかし、憤慨した。

「馬鹿にしてらあ。東京に行くの大喜びのくせに。……お菓子くれなきゃ、くれないでいいや。僕とって来るから。」

 そう言って竜一はすぐ下に行った。

 次郎はいよいようろたえた。彼は竜一が菓子をもって再びやって来るのを待っている気がしなかった。で、自分もすぐ下におりて、足音を忍ばせながら、大急ぎで外に出てしまった。

 正木の家に帰ると急に空腹を感じて、しきりに飯をかきこんだ。そして誰もたずねもしないのに掃除当番でおそくなったのだ、と何遍も言訳をした。むろんそれにしては時間がおくれ過ぎていたが、別に誰も怪しむものはなかった。

 翌日は薬を貰いに行く日だった。次郎は何となく行きづらいような、それでいて早く行ってみたいような気がした。薬局の外には、六七人の人が待っていたが、彼が敷居をまたぐ音がすると、すぐ窓から春子の眼がのぞいた。そして、

「次郎ちゃん? ここでも二階ででもいいから、しばらく待っててね。今日は、ほら、こんなに沢山待っていらっしゃるから。」

 次郎はほっとした。そしてすぐ薬局の中に這入って、例のとおり春子の調剤の手つきを見まもった。

「次郎ちゃんは、昨日默って帰っちゃったのね。あたしが怒ったからでしょう。堪忍してね。」

 春子は微笑しながら言った。しかし東京行きのことは、みんなの調剤が終るまで一言も言わなかった。そして次郎が薬壜を受取って、部屋を出ようとすると、

「あたしがお薬をこさえてあげるの、これでおしまいよ。」

 と言った。その声は少しさびしかった。次郎はふりかえって、じっと春子の顔を見た。春子も彼を見つめた。

「いつ東京にたつの?」

「五六日してからだわ。でも、今夜あたしの代りをする人が来るんだから、明日からはその人にやっていただくの。」

 次郎は默って歩き出した。すると春子は、

「ちょっと待っててね。」

 そう言って奥に走って行った。そして紙に包んだものをもって帰って来ると、

「今日は竜ちゃんがいないから、これ、帰ってから食べてちょうだいね。」

 次郎は泣きたくなった。彼はほとんど無意識に紙包を受取ると、默って外に出た。

 午後の日は暑かった。彼は大川の土堤に来ると、斜面の櫨の木の陰にねころんだ。そして紙包から菓子を出して、むしゃむしゃたべながら、青空の中に春子の顔を描いていた。


三六 火傷


 村の夏祭が近づいて、大川端で行われる花火の噂が村人の口に上るころになると、子供たちも薬屋から硝石と硫黄とを買って来て、それに木炭の粉末をまぜて火薬を造り、毎晩小さな台花火だいはなびなどをあげて、楽しむのだった。彼らは「しだれ桜」だとか、「小米の花」だとか「飛雀とびすずめ」だとか、そういった台花火のいろいろの名称を知っていたが、むろん彼らにそんな巧妙なものが出来ようはずはなかった。彼らはただ小さな竹筒に手製の火薬をつめ、それをいくつも竿に結びつけて水際に立て、下から順々に火を点じてさえいけば、それで満足したのである。もし、一筋の糸が張ってあり、それを伝って一つの花火が突進し、それを導火にして、一番下の竹筒が火を吹きはじめ、あとは次第に上に燃え移るように口火がつながっており、それに最上端の花火が廻転する仕掛にでもなっていれば、それは彼らの工夫としては、最上のものであった。中には、火薬の中に鉄粉をまぜて、青い花火を出して見せようと試みる者もあったが、それに成功するものは極めてまれであった。

「次郎ちゃん、買って来たよ。」

 ある日、次郎が例のとおり病室の次の間で、憂欝な顔をして机の前に坐っていると、誠吉が縁側から這いあがって来て、こっそり耳うちした。それは春子が東京に去ってから数日後のことであった。

 彼は相変らず、「いじらしい子」ではありたかった。しかし、春子が去ったあと、彼が心にもない善行をつづけていくには、彼の心はあまりにも淋しかった。それでなくてさえ、花火の誘惑は、このごろ日ごとに彼の心を刺戟して、もうじっとしては居れなくなっていた。で、今日はとうとう誠吉に例の貯金の中から銅貨を何枚か渡して、誰にも秘密に、硝石と硫黄とを少しばかり買って来てもらったのである。

 彼は誠吉を手真似で制しておいて、そっと病室の方をのぞいてみた。母はしずかに眼をとじている。敷布の上をはっていた蠅が、彼女の額に飛びうつったが、彼女はかすかに眉をよせただけである。蠅はすぐまたどこかへ飛んでいってしまった。祖母も茣蓙をしいて向うむきにねている。夜中に眼をさますことが多いので、午後になると、大ていぐっすり昼寝をする習慣になっている。ことに次郎が近くにいると、祖母は安心してねるのである。

 次郎は、お祖母さんが眠っている時に出て行くのは悪いような気がして、ちょっとためらった。しかし、正木の家では、花火は危険だからと言って、なるだけ子供たちには作らせないことにしている。お祖母さんが目を覚ましている時だと、何とか口実を作らなければならないが、それも面倒だ。眠っている間に火薬の調合だけでもすましておく方が都合がよい。そう思って彼はすぐ立ち上った。そして、誠吉を顎でしゃくって先に行かせ、その後から、足音を立てないように、縁側を降りると、いっさんに築山のかげに走って行った。

 そこには、もう蝋鉢と擂古木すりこぎと消炭の壺とが、誠吉によって用意されていた。二人は先ず硝石しょうせきを擂り、次に硫黄を擂った。擂られた硝石と硫黄とはべつべつの紙に包まれて、大事に石の上に置かれた。最後に消炭を擂るのだったが、それは分量が多いだけに骨が折れた。二人は代る代る擂古木をまわした。一人が擂古木をまわしている時には、もう一人は鉢が動かないようにそのふちをおさえていた。消炭は、指先で揉んでも、少しもざらざらした感じがしないまでに擂らなければならなかった。そのために、二人は、汗がしばしば顎をつたって鉢の中にしたたり落ちたほど、一所懸命になって擂古木をまわした。

 消炭が十分擂れたところで、硫黄と硝石との粉が、適当の割合に、鉢の中に加えられた。あとはよくまぜれば、よかったのである。しかしよくまぜるには、やはり擂古木で擂る方が一番よかった。

 で、次郎が先ず擂った。次に誠吉が擂った。次郎は、両手で鉢をおさえ、出来るだけ顔を鉢に接近さして中をのぞきながら、

「もういい、もういいよ。」と言った。

 その時誠吉がすぐ手を休めさえすれば、何事もなくてすんだかも知れなかった。しかし誠吉はおまけのつもりで、しかも最後だというのでうんと力を入れて、急速度に擂古木をまわした。

 とたんに火薬は一度に爆発した。音は高くはなかった。それはぼっとした夢のような音だった。しかし、鉢の縁とすれすれに顔を近づけていた次郎は、その音にはじかれたように、草の上に突っ伏してしまった。

「次郎ちゃん、次郎ちゃん。」

 誠吉の緊張した、しかし、人をはばかるような声が、次郎の耳元できこえた。次郎は気を失っていたわけではなかった。しかし、その声をきくまでは、彼は泥水の底に沈んでいるような気がしていた。

 起きあがって眼を開けると、まつ毛がじかじかした。顔がほてって、皮膚が変に硬ばっていた。彼は誠吉を見ながら、心配そうに訊ねた。

「僕の顔、どうかなってる?」

「まっ白だい。煙がくっついているんだろう。」

 次郎はそっと手で顔をさわってみた。ぬるぬるしたものがくっついているような気がする。さほどひどくはないが、ぴりぴりした痛みを覚える。

「早く水で洗っておいでよ。」

 誠吉が言った。

 次郎は離室や座敷の方をそっとのぞいてから、池の水を両手ですくって、顔にもっていった。が、それと同時に彼は悲鳴に似た声をあげ、再び築山のかげに走って来た。彼の顔は、ところどころまぐろの刺身のように真赤だった。誠吉は眼を皿のようにして立ちすくんだ。

 次郎は草の上に仰向けに寝ころんで、ふうふう息をした。顔全体から炎が吹き出しているような感じだが、どうすることも出来ない。彼はただ手足をばたばたさして苦痛をこらえた。誠吉は全身をぶるぶるふるわせながら、しばらくそれを見ていたが、急に声を立てて泣き出した。そしていっさんにどこかに走って行った。

 間もなくお延が子供たちと一緒に走って来たが、次郎の顔を見ると、

「あれえっ。」

 と、けたたましい叫び声をあげた。

 つづいて雇人たちがどやどやとやって来た。すこしおくれて謙蔵が来た。最後にお祖父さんが来た。そしてお祖母さんは、離室はなれの縁から、

「どうしたのだえ。どうしたのだえ。」

 と、もどかしそうに何度も叫んだ。

 しばらくはただ騒がしかった。次郎はその間じゅう、眼をつぶってうめいていた。彼の苦痛は実際ひどかった。が、彼はうめきながらも、みんなの驚きや、心配や、同情の程度をひそかに測定することを忘れなかった。そして、彼のむごたらしい面相と、苦痛を訴えるうめき声とによって、彼の悪行──少くとも大きな過失に対する非難は、とっくに帳消しにされてしまっているらしいのを知って、内心ほっとした。実際彼には、言訳をするだけの心のゆとりがなかった。また言訳をしようとしても、証拠があまりに歴然としていて、全くその余地が残されていなかった。そんな場合に、彼が自分の過失からうけた災害が、みんなの同情をひくほど大きかったということは、彼にとって何という仕合わせなことであったろう。

 彼はみんなにいたわられ、慰められながら、母屋の方に運ばれた。そして取りあえず卵の白身を顔一ぱいに塗られ、その上に紙を張られた。その時になって彼自身も気がついたことだが、手頸から親指にかけても、かなり大きく皮膚がただれていた。そこにも卵の白身が塗られた。

 それから一時間あまりもたって、竜一の父が来た。そして今度は変な匂いのする黄いろいものをべたべたと塗りつけ、眼と口だけを残して、ほとんど頭全部に繃帯をかけた。彼は繃帯をかけながら言った。

「ほんの上皮だけだから大したことはない。しかし、笑ったり泣いたりして、顔をゆがめちゃいかん。」

 そのくせ、彼自身はそう言いながら笑っていた。

 次郎は、寝ているには及ばない、と言われた。しかし起きれば母の部屋に顔を出さないわけにはいかない。それは気づまりで、彼はもう大して痛みを感じなくなってからも、じっと寝ていた。いろんな人が彼をのぞきに来たが、誰も彼も、

「案外大したことでなくてよかった。」とか「もう痛みはとれたのか。」とか、そういった同情的な言葉だけを残して行った。

 誠吉はお延にひどく叱られたらしい。彼も実は、右手の小指から手首にかけて、細長く火ぶくれがしていたが、それを誰にもかくしていた。夜になって、こっそり次郎にだけそれを打ちあけ、枕元にあった黄いろい薬を少し貰って塗りつけながら、彼は母に叱られた話をした。

「お祖父さんに叱られやしない!」

 次郎は、祖父にだけまだ言葉をかけてもらえないでいるのが、非常に気がかりだった。

「ううん、何にも言わないよ。」

 誠吉は無造作に答えた。しかし次郎は、そう無造作に言われると、かえって胸が重たくなった。彼は、祖父の自分に対する愛がこのごろ衰えたとは決して思っていない。だが、その愛には何かおかしがたいものがあって、うっかり飛びついて行けないような気がする。牛肉一件以来彼はそうした気持になっているのである。その意味で、祖父に愛されていることは、彼にとって一つの重荷でさえあると言える。しかし、それだからといって、彼は祖父の愛から逃げ出したい気持には少しもなれない。何といっても、祖父は正木の家では他の誰よりも大きな魅力を持っている。もし祖父の彼に対する愛が少しでも冷めかかったと知ったら、彼は恐らく、春子に別れた時とは全くちがった、あるどす黒い絶望を感じたかも知れない。それほどの祖父でありながら、いざ自分から近づいて行こうとすると、何となく気おくれがする。それはちょうど大海の真青な波に心をひかれながら、思いきって飛びこめないのと同じ気持である。で、彼はいつも遠くから、祖父の本当の気持をそれとなく探ろうとする。ことに今日のようなことがあると、それが一層ひどい。そして、うまくそれが探れないと、彼の気持はみじめなほど憂鬱になって行くのである。

 翌日は、彼はもう我慢にも寝ていられなかった。そして起きあがると、お祖父さんの目につくようなところを何度も行ったり来たりして、何とか言葉をかけて貰うのを待っていた。しかしお祖父さんは、いつもちらりと彼の方を見るだけで、容易に口を利こうとはしなかった。次郎は、あとでは、口を利いてさえ貰えばそれがどんな烈しい叱言であってもいいような気にさえなった。しかし、お祖父さんの口は依然として固かった。

 次郎は絶望に似たものを感じながら、母の病室に行った。彼は、そこでは、最初から母の叱言こごとを予期していた。ところが、母はただまじまじと彼の繃帯でくるんだ顔を見つめるだけだった。そして、かすかな溜息をもらすと、すぐ眼をそらしてしまった。

「お坐り。」

 お祖母さんがやさしく声をかけてくれた。彼はやっと救われたような気になって、彼女の横に坐った。

「そのぐらいですんだからいいようなものの、眼でもつぶれてごらん。それこそ大変だったよ。これからはもう花火なんかこさえるんじゃないよ。」

 次郎はおとなしくうなずいた。

「お祖父さんにはもうあやまって来たのかい。」

 次郎ははっとした。彼は、これまでみんなが彼に同情的な言葉ばかりかけてくれていたため、自分の方から誰にもあやまって出なくてもいいような気になってしまっていた。しかしお祖母さんにそう言われてみると、やはり自分の方からあやまって出るのが本当だ。お祖父さんが口を利いてくれないのも、或いは自分があやまって出ないためではなかろうか。そう思って彼はお祖母さんの顔を覗きながら答えた。

「ううん。」

 お祖母さんは、しかし、それっきり默ってしまった。そしてお民と眼を見合わせた。お民はお祖母さんからすぐ視線を転じて次郎を見たが、やはり口を利かなかった。

 次郎はすぐ一切を悟った。

(みんなは自分がお祖父さんにあやまって出るのを待っているのだ。それは彼らの間に、もうすっかり話し合いが出来ているらしい。)

 そう気がつくと、彼はすぐ立ち上った。むろん彼はこれまで、叱言を言われない先に自分から進んで誰にも謝罪をした経験がなかった。だから、ちょっと勝手がちがうような感じだった。しかし彼は、もう一刻もぐずぐずしている時ではないように思ったのである。

 お祖父さんは、座敷の縁で、謙蔵を相手に何か話していた。次郎は思いきってそばに行き、窮屈そうに坐った。そして何にも言わないで手をついて、お辞儀をした、すると、お祖父さんはすぐ言った。

「ほう、あやまりに来たのか、それでいい、それでいい、それでいい気持になったじゃろう。どうじゃ。」

 次郎の眼からは、ぽたぽたと涙が縁板にこぼれた。

「泣くことはない。泣くと、繃帯がぬれるぞ。それに、顔がゆがんでしまったらどうする。はっはっはっ。」

 お祖父さんの笑声につれて、謙蔵も笑った。次郎は、しかし、いつまでもうつむいて、鼻をすすっていた。


三七 母の顔


 真夏に、顔全体を繃帯で巻き立てているのは、かなりつらいことであった。また、そのためにかえって化膿かのうしたりする恐れもあったので、二三日もたっと、薬だけが紙にのばして貼られることになった。

 繃帯をかけない次郎の顔は、まことに見苦しかった。自身鏡をのぞいて見て、ぞっとしたほどであった。黄いろい薬の間から、ところどころに赤黒い肉がのぞいていて、眉のところがのっぺりしている。彼はおりおりこの村に物貰いにやって来るらい病患者の顔を思い出した。そして、どんなに暑苦しくても繃帯を巻いている方がいいとさえ思った。

 東京に行っている竜一から、ある日絵はがきが来た。それには、春子からも「お土産を待っていらっしゃい」と書きそえてあった。次郎は非常に喜んだ。しかし、すぐ自分の顔の見苦しさを思った。そして、二人が帰って来るまでに、あたりまえの顔になれるだろうかと心配した。

 夏休みもあと十日ほどになったころには、薬を塗らなければならない部分は、鼻がしらと頬の一部だけになった。しかし、治った部分も、赤く、てかてか光っていて、当分は普通の色にもどりそうになかった。次郎自身には、薬を塗っている時よりも、かえって無気味にさえ思えた。

 彼の火傷やけどが治って行くのとは反対に、お民の病気は次第に重くなって行った。喀血かっけつがないので急激な変化は見せなかったが、暑気がひどくこたえたらしく、衰弱が日ましに加わって行くのが誰の眼にも見えた。

 俊亮は、これまで大てい一週に一度は顔を見せていた。しかしどういうわけか、恭一や俊三をつれて来ることはめったになかった。夏休みになったら、すぐにもつれて来てゆっくりさせるのだろうと、次郎も期待し、正木一家でもそう噂していたが、やっと二人が父につれられて来たのは、次郎が火傷をしてから五六日もたった頃であった。

 次郎の火傷が三人を驚かしたことはいうまでもない。しかし、俊亮は正木一家から一通り説明をきくと、

「いやどうも、いつまでっても仕様のない奴で。ご心配をおかけして申訳ありません。」と言ったきり、すぐ話をお民の病状にうつしてしまった。お民の話になると、みんなの調子ががらりと変った。半ば笑いながら火傷の話をしていたみんなの様子が急に沈んで行った。そばで聞いていた次郎は何だか置きざりにされたような気がした。そこで彼は恭一と俊三とを別のところにつれて行って、しきりに火傷の話をした。

 次郎はそれから二人を母の病室につれて行ったが、お民は、二人の顔を見ると、力のない微笑をもらしたきりだった。三人は手持無沙汰でしばらくそこに坐っていた。するとお祖母さんが、

「あちらで遊んでおいで、騒がないでね。」

 そう言われると、次郎はすぐ二人を庭につれ出した。

 そして自分の火傷をした現場を二人に説明した。

 俊亮は二人を残してその日のうちに帰った。帰りがけに彼は次郎を呼んで言った。

「お母さんに見えるところで、兄弟喧嘩をするんじゃないぞ。」

 次郎は、自分はどうせ喧嘩をするものだときめてかかっているような父の口吻こうふんが、ちょっと不平だった。そして、

(母さんに見えるところでなくったって、喧嘩なんかするもんか。父さんは、このごろ自分がどんなだかちっとも知らないんだ。)

 と思った。

 火傷のことは、俊亮はもう何とも言わなかった。次郎は安心したような、物足りないような気持で、父に別れた。

 火傷をしたあと、母の薬を貰いに行く役目は、従兄弟たちが代ってやってくれた。春子にあえる楽しみもないし、かりにあえても、彼女に見苦しい顔を見られたくなかったのだから、次郎としては大助かりだった。それに、恭一や俊三がやって来てからは、うまい口実が出来たような気がして、めったに病室にも落ちつかなかった。彼は誠吉と一緒に二人を近くの溜池につれ出してよく鮒を釣った。

 四五日して、珍しく本田のお祖母さんがやって来た。今度は火傷のことが大ぎょうに問題にされた。彼女は、お民の病気よりその方の話により多くの興味を覚えるらしかった。彼女は幾度も幾度も、

「親不孝の天罰というものでございます。」と言った。そして次郎に対して、

「お母さんの病気が重くなるのも無理はないよ。それでお前は看病をしている気なのかい。」

 と、いかにも、みんなの前で自分が責任を以て次郎を戒めている、といったような調子で言った。次郎はその時そっぽを向いていた。すると、本田のお祖母さんは、正木の老人の方を向いて訴えるように言った。

「ほんとに、どう致したらよいものでございますやら。すぐにも私の方に引取らなくてもよろしゅうございましょうか。」

 誰も、しかし、真面目になって受け答えするものがなかった。次郎にもよくその場の空気が呑みこめた。だから、彼はあまり腹もたてず、かえって、それ見ろ、といったような気にさえなるのだった。

 本田のお祖母さんが来たのは、午少し前だったが、三時ごろまで病室に坐りこんで、正木のお祖母さんを相手に、病人を預けておく言訳やら感謝やらを、くどくどと述べたてた。むろんその間には、次郎のこともしばしば話の種になった。そして、彼女はとりわけ調子を強めてこんなことを言った。

「お民さんにせよ、次郎にせよ、遠く離れていますとよけいに気にかかるものでございまして、わたくし、このごろ毎晩のように二人の夢を見るのでございます。」

 次郎たちは、次の間からそれを聞いていた。

 しかし、三時をうつと、彼女は急にそわそわし出した。そしていかにも言いにくそうに、

「わたくし、一晩ぐらいは看病もいたさなければなりませんが、今日は俊亮もちょっと遠方に出ていますし、店の方が小僧任せにしてありますので、日が暮れないうちにお暇いたしたいと存じます。まことに勝手でございますが……」

 お民も、正木のお祖母さんも、ほっとしたらしかった。しかし、本田のお祖母さんはすぐには立ち上らなかった。そして、次の間にいた子供たちの方に眼をやりながら、言った。

「ああして大勢ご厄介になっているのも、かえって病人の邪魔になるばかりでございましょうから、一先ず、わたくし、つれて帰りたいと存じます。次郎も、もし火傷の薬さえきまって居りましたら、一緒でもよろしゅうございますが……」

 次郎は、それで自分も一緒に行くことになりはしないか、などと心配する必要はすこしもなかった。しかし、恭一や俊三に帰ってしまわれるのは、いやだった。まだ一度だって喧嘩もしていないし、それに、恭一には、中学校の入学の参考になることを、これからもっと聞きたいと思っている。第一、母さんの病気が重いのに、帰ってしまうのはよくないことだ。今は休みなんだから。──彼はそんなことを考えて病室の様子をうかがっていた。

「邪魔なんてことはちっともございません。お民も毎日三人のそろった顔が見られるのが楽しみのようでございますから。」

「それはさようでございましょうとも。でも、私どもといたしましては、病人をお預けしたうえに、みんなで押しかけて参っているようで、まことに面目がございませんし、やはり行ったり来たりということにさせていただきたいと存じて居ります。」

「そんなことは、こちらでは何とも思うものはございませんが……」

「そりゃもう、こちら様のお気持はよくわかって居りますし、いつも俊亮ともそう申しているのでございます。でも、やはり世間の眼もありますので……」

「世間など、どうでもよいではございませんか。それを言えば、第一、病人をお預りすることからして間違っていましょうから。」

 正木のお祖母さんは、別に皮肉を言うつもりではなかった。しかし、それは本田のお祖母さんにとっては、何よりも痛い言葉だった。正木のお祖母さんも、言ってしまってから、はっとしたらしかった。

 いやな沈默がつづいた。庭では蝉がじいじい鳴いていた。

「恭一、──俊三、──」と、お民は次の間の方に顔を向けて二人を呼んだ。二人がやって来ると、力のない声で、

「お祖母さんがお帰りだから、今日はお前たち一緒にお帰り。またすぐ来ていいんだから。」

 そう言って彼女は眼をとじた。眉根にはかすかな皺がよっていた。

 本田のお祖母さんは、不機嫌な顔を強いて柔らげながら、丁寧に正木のお祖母さんに挨拶した。お民にも何かと親切そうな言葉をたてつづけに言った。そして二人の孫をうながして立ち上った。

 実をいうと、本田のお祖母さんは、恭一や俊三に病気をうつされるのが恐かったのである。それをていよくごまかそうとして、妙な羽目になったので、病室を出てからも、正木一家の人達に対して、よけいなあいそを言わなければならなかった。そんなわけで、彼女はいよいよ正木の家を辞するまでには、大方小半時もかかった。

 次郎は見おくっても出なかった。彼は畳の上にねそべって、母の青い顔を見つめていた。すると、母の眼尻から、彼の全く予期しなかったものが、ぼろぼろとこぼれ落ちた。それは不思議なかがやきをもって彼の心にせまった。

「母さん、どうしたの?」

 次郎は、はね起きて母の枕元によって行った。母は、しかし、もうその時には、うるんだ眼に、微笑をたたえて、次郎を見ていた。そして、

「次郎だけは、いつもあたしのそばにいて貰えるわね。」

 次郎は、彼の五六歳ごろから見なれて来た母の顔を、もうどこにも見出すことが出来なかった。そこには全くちがった母の顔があった。そしてその顔から、お浜にも、春子にも、正木のお祖母さんにも見出せなかったある深い光が、泉の底の月光のように、静かにふるえて流れ出しているのを、次郎は感ずることが出来たのである。


三八 再会


 九月の新学期が始まるころには、次郎の眉も可笑しくないほどに伸びていた。皮膚の色はまだまだらだったが、人に気味悪がられるほどではなかった。次郎はむろん学校に行くつもりでいた。しかし、お民の病気は、すでにその頃は危篤に近い状態だったので、引きつづき休む方がよかろうということになった。

 次郎は、実は一日も早く竜一に会ってみたかった。会って東京の様子もきき、また春子がいよいよ本式に上京するのはいつ頃になるのか、それも知りたかった。で、彼は、学校は三十分もかからないところだし、出来れば一寸でも出てみたい、と思わないではなかった。しかし、お民はこの数日、次郎の姿が見えないと、不思議なほど寂しがった。そして彼に薬をのませて貰ったり、手を握っていて貰ったりするのを、何よりの楽しみにしているらしかった。飲みたくない薬でも、次郎の手からだと、喜んで口にするというふうだった。

 次郎にしても、母のその気持には、こみあげて来るような喜びを感じた。彼は、母を看護することによって、彼がかつて知らなかった純な感情を昧うことが出来た。彼の行為は、少くとも母の枕頭でだけは、偽りも細工もない、ひたむきなものになっていた。で、竜一に会ってみたいという気持も、彼を何時間も病室から引きはなしておこうとするまでには強く仂かなかった。

 お民は、いよいよいけなくなる四五日前、枕元に坐っていた次郎の顔をまじまじと見ていたが、その眼を正木のお祖母さんの方に向けて言った。

「お浜の居どころはわかりましたか知ら。」

 次郎は、このごろ、お浜のことはほとんど忘れていた。彼には「お浜」という言葉が、全く耳新しくさえ響いた。それに、彼の記憶に残っている限りでは、母とお浜とは、仲のいい間柄ではなかった。だから、母のその言葉を聞いた時には、彼は喜ぶというよりもむしろ不思議に思ったくらいであった。お祖母さんは答えた。

「ああ、そうそう、まだお前には言わなかったのかね。何でも、駐在所の方に頼んで調べて貰ったので、よくわかったんだそうだよ。やっぱり今でも炭坑で仂いているんだとさ。」

「では、呼んで貰いましょうか知ら。」

「そうかい、是非会いたけりゃ、すぐにでも呼べるんだがね。でも、お前大丈夫かい。ひさびさで会って、気が立ったりしては、病気に悪いんだがね。」

 実は、お浜には二三日前に、すでに正木の老人から手紙が出してあり、まさかの時には電報を打つから、すぐ来るようにと、必要な旅費まで送ってあるのだった。お祖母さんはそれをお民にかくしていたのである。

「大丈夫ですわ。」

 お民はにっこり笑って、また次郎を見た。

 電報がすぐ打たれた。次郎はそれから妙に浮き浮きしだした。しかし、それは嬉しくてたまらないからではなかった。嬉しいには嬉しいが、その奥に不安とも、好奇心ともつかぬ、えたいの知れないものが動いていた。彼は自分の落着かない気持を自覚して、それを母に見せまいとつとめたが、彼の動作はいつもそれを裏切った。彼は用もないのに、部屋を出たり入ったりした。薬の時間でもないのに、ひょいと薬壜くすりびんをとり上げ、その目盛をすかして見たり、栓をぬいてみたりした。また、ぽかんとして庭を見つめていて、急に気がついたように母の顔をのぞいたりした。お民は彼のそんな様子を見ながら、いつも微笑していたが、彼はその微笑にでっくわすと、よけいにそわそわした。

 お浜は、電報を受取ってすぐたちさえすれば、翌日の夕方までには着くはすであった。次郎はお祖母さんの言葉でそれを知っていた。しかし彼は、その時刻になっても病室に落ちついていて、お浜のつく時間なんか忘れているかのように見えた。そのくせ、彼の言ったり、したりすることは、とんちかんなことが多かった。彼の頭の中は、もうお浜で一ぱいであった。眼の前にお浜の顔が始終現れたり消えたりした。それはさほど鮮明ではなかったが、かえってそのために、彼はまぼろしの中に吸いこまれるような気持だった。

「次郎ちゃんの乳母やが来たよう。」

 誠吉が跣足で庭をまわって来て、そう言うと、またすぐ走って行った。

 次郎は思わず立ち上りそうにしたが、強いて自分を落ちつけた。

「早く迎えておいでよ。」

 祖母と母とがほとんど同時に言った。次郎はそれですぐ立ち上ったが、さほどせきこんでいるふうには見えなかった。それでも、母屋に行くまでの彼の足が宙に浮いていたことは、彼自身が一番よく知っていた。

 お浜はもう茶の間に坐って、正木の老人とお延を相手に話していた。誠吉やそのほかの従兄弟たちは、土間に立って、珍しそうにその様子を眺めていた。次郎がはいって行くと、お浜は持っていた団扇を畳に置いて、中腰になりながら、

「まあ。」と叫んだ。その叫声には、ほとんど喜びの調子はこもっていなかった。それは異様なものを見た驚きの叫びだった。次郎の火傷のあとのまだらな皮膚の色が、彼女をびっくりさせたのである。

 お延がそれに気がついてすぐ説明し出した。説明をききながらも、お浜は何度も次郎の顔に目を見張った。次郎はお祖父さんのそばに坐って、まぶしそうにその視線をよけていた。

 説明を聞き終ると、お浜は眉根をよせて次郎の方に膝をのり出しながら、

「以前からおいたでしたが、今でも相変らずね。でも、大したことにならないで、ようございましたわ。」

 彼女は、次郎と自分との間に二三尺の距離があるのがもどかしそうであった。次郎は、しかし、お客にでも行ったように行儀よく坐って、固くなっていた。彼のこの時の気持は実に変てこだった。彼の前に坐って物を言っているのは、なるほど三年前に別れた乳母やにはちがいない。しかし、同時に全く別人のような気もする。それはちょうど、着なれた着物を一度しまいこんで、久方ぶりにまた取り出して着る時のような感じである。

 お浜は、たてつづけにいろんなことを彼にたずねた。彼は、しかし、ただ「うん」とか「ううん」とかいう簡単な返事をするだけであった。その簡単な返事ですら、いつものように自然には出なかった。時とすると、はじめて人に対するような、ていねいな返事をしそうになることさえあった。

「お民も待ちかねているようだから、では、ちょいと顔を見せておいてくれ。次郎、お前乳母やを母さんのところへつれておいで。」

 お祖父さんは、ひととおり二人の問答がすんだところで、言った。二人はすぐ立ちあがった。

 病室に行く途中、お浜は次郎のかたいだくようにして歩いた。

「すいぶんお脊が伸びましたわね。」

 次郎は、急に以前の気持がしみ出て来るような気がした。そして、自分の方から何か口を利いてみたいと思ったが、急にはうまい言葉が見つからなかった。

 病室にはいると、お浜はお祖母さんには挨拶もしないで、いきなり病人の枕元まくらもとに坐った。やはり次郎の肩に手をかけたままだったので、次郎も一緒に坐らなければならなかった。彼女は坐ったきりうつむいてしまって一言も言わなかった。次郎は彼女の膝にぽたぽたと涙が落ちるのを見た。

「まあ、よく来てくれたね。」

 お祖母さんの方からそう挨拶されて、お浜は、急いで涙をはらいながら、笑顔を作った。そして、

「ほんとに申訳もないご無沙汰をいたしまして。……ご病気のことなど、ちっとも存じませんものですから。」

 二人の間には、それからしばらくいろいろのことが話された。お民もちょいちょいそれに口を出した。話は大ていお互いのその後のことについてであった。次郎はそれによって、弥作爺さんが死んだこと、お兼がもう奉公に出て、いくらかの金をみつぐこと、お鶴が学校で優等賞を貰ったことなどを知った。次郎は、古い校舎の片隅の校番室の様子を思い出しながら、それをきいた。本田の引越しの理由や、次郎とお民が正木に来ているいきさつなどは、ごくあいまいにしか話されなかった。お祖母さんは、

「子供がだんだん大きくなって、中学にはいるようになると、何かにつけ町に住む方が都合がよさそうだよ。」

 とか、

「次郎は、お前の手をはなれてから、半分はここで育ったようなものだから、お祖父さんが手放そうとなさらないのでね。」

 とか、

「お民の病気には、何といっても田舎の空気がいいのだよ。」とか言って、すべてをぼかしてしまっていた。しかしお浜には何もかも推察がついたらしく、彼女はおりおり溜息をついて、次郎の顔を見た。次郎はそのたびに、何か知ら窮屈きうくつな感じがした。

 双方の話が一段落ついたころに、お民はふとお浜の方に顔をむけ、しみじみとした調子で言った。

「お浜や、わたしお前に会えて、すっかり安心したよ。」

「まあ勿体ない──。」と、お浜はもうあとの言葉が出なかった。お民はしばらくしてから、

「次郎も大きくなったでしょう。」

「ええ、ええ。さっきもびっくりしたところでございます。」

「あたし、この子にも、お前にも、ほんとうにすまなかったと思うの。」

「まあ、何をおっしゃいます。」

「子供って、ただ可愛がってやりさえすればいいのね。」

 お浜には、お民の言っている深い意味がわからなかった。しかし、気持だけはよく通じた。

「あたし、それがこのごろやっとわかって来たような気がするの。だけど、わかったころには、もう別れなければならないでしょう。」

「まあ、奥様──」

「あたし、死ぬのはもう恐くも何ともないの。だけど、この子にいやな思いばかりさせて、このままになるのかと思うと……」

「そんなことあるものでございますか。」

「あたし、このごろ、いつもこの子に心の中であやまっているのよ。」

「まあ、──まあ、──」

 次郎は、もうその時には、うつむいて涙をぽたぽた落していた。

「でもね、この子もどうやらあたしの気持がわかってくれているようだわ。あたし、何となくそんな気がするの。それでいくらかあたしも安心が出来そうだわ。……でも、お前にも一度あやまっておかないと、気がすまなかったものだからね。」

「まあ、とんでもない。」と、お浜は袖口を眼にあてて、

「坊ちゃん……まあ何て坊ちゃんはお仕合せでしょう。お母さんにあんなに思っていただくんですもの。外に坊ちゃんを可愛がっていただく人が、だあれもいなくても、もうこれからは大丈夫ですわね。……たった一人ぽっちになっても、きっと、きっと坊ちゃんは誰よりも正直な、お偉い人になれるでしょう。」

 次郎はだしぬけにお浜の膝にしがみついて、顔をおしあてた。惑乱わくらん寂寥せきりょうとが、同時に彼の心をとらえていた。「ひとりぽっち」という言葉が異様に彼の胸に響いたのである。

 お民の眼からも涙が流れていた。

 お浜は、次郎の背をなでながら、

「でも一人ぽっちになんか、なりっこありませんわね。お父さんがいらっしゃるし、こちらのお祖父さんやお祖母さんもいらっしゃるんですから。それにあたしだって、遠くからいつも坊ちゃんのこと神様にお祈りしていますわ。」

「次郎や、──」と、お民はぬれた眼をしばだたいて、じっと何かを見つめながら、

「あたしは、乳母やよりもっと遠いところから、きっと次郎を見ててあげるわよ。だから、……だから、……腹が立ったり、……悲しかったりしても、……」

 そのさきは息がはずんで、誰にも聞きとれなかった。お祖母さんは、さっきから鼻をつまらせて二人の話をきいていたが、

「今日はもう話すの、およしよ。そう一ぺんに話して疲れるといけないから。」

「ええ、よしますわ。……ああ、あたし、これでせいせいしました。」

 そう言ってお民は眼をとじた。

 その晩は、むろん次郎とお浜とは同じ蚊帳の中に寝た。お浜は、暑いのに、夜どうし次郎の肩に自分の手をかけては、引きよせた。次郎は、自分の手先がお浜のたるんだ乳房にさわるごとに、はっとして寝がえりをうった。彼はよく眠れなかった。それはお浜に引きよせられるからばかりではなかった。このごろ彼の胸にはっきり映り出した母の澄みとおった愛と、ひさびさでよみがえった乳母の芳醇ほうじゅんな愛とが、彼の夢の中で烈しく熔けあっていたからである。


三九 母の臨終


 お浜に会ってからのお民は、不思議なほど静かに眠った。それは、興奮のあとの疲労というよりは、すべてを処理し終ったあとの安心から来る落ちつきであった。しかし、それと固時に、冷たい死は刻々に彼女に近づきつつあったのである。

 翌日は、医者の注意で、電報や使いが方々に飛ばされた。午すぎには、本田から俊亮が恭一と俊三とをつれてやって来た。その日は、しかし、幸いにして何事もなかった。お民は、眼をさましては周囲を見まわし、三人の子供が並んで坐っているのを見ては安心するらしかった。口はほとんど利かなかった。ただ俊亮に対して、

「こんなにたびたび店をおあけになっては、あとでおこまりではありません?」と言った。それをきくと俊亮は、周囲の静かな空気に不似合な声で、大きく笑った。それは誰の耳にもわざとらしく響いた。しかし、お民はそれに対してもさびしく笑ったきりだった。

 その後二日間は同じような容態ようだいがつづいた。そのうちに遠方の親類も来るものは大てい来た。広い正木の家も、さすがに、病室以外はそれらの人たちでごったがえしだった。謙蔵はふだんの無口にも似ず、ほとんど自分一人で、食事や夜具のことなどを、てきぱきと指図していた。次郎は食事のたびごとにその様子を見て、いつもの謙蔵とはちがった人のように感じた。彼にとって、謙蔵はもう決して不愉快な存在ではなかった。相変らず無愛想であったが、無愛想なままに次郎には何となく頼もしく思えた。

 母の枕元に坐って、その死を予想する次郎の気持には、恭一や俊三とは比較にならないほど深刻なものがあった。しかし一方では、彼は不思議なほど落ちついていた。それは永らく母の病床に附添って、そうした気持を毎日くりかえして来たせいもあったが、もっと大きな理由は、彼が母の心をしっかりと握りしめているような感じがしたからであった。母に別れるのはたまらなく悲しい。ことに、懺悔ざんげに似た心で彼に最後の愛を示してくれてからの母は、彼自身の魂そのものにすらなっている。それはもはや彼から引き放せないまでに固く結ばれているという感じそのものが、彼にある深い安心と落ちつきとを与えたのである。

 それに、彼の周囲に対する気持は、この二三日急角度に転回をはじめていた。彼はこれまで、お浜をのぞいては、ほとんどすべての人に対して、多少とも警戒して来た。俊亮や正木老夫婦に対してすら彼は心から素直にはなり得なかったのである。こうして彼は、自分を愛する者に対しても、愛しない者に対しても、常に何らかの技巧を用いた。技巧はいわば彼の本能というべきものになってしまっていたのである。ところがこの数日彼は全く技巧を忘れたかのようになっている。彼はもはや何人に対しても警戒していない。謙蔵に対してすらも、彼は何のこだわりもなく話しかけることが出来るのである。すべての人が、今や彼と彼の母にとって親しみ深い人のように思える。それはみんなの眼が母の寝顔に集中して、そのかすかな一つの動きにも一喜一憂しているからばかりではない。彼はかれ自身で知らない間に、彼自身の心から永い間の猜疑心さいぎしんをとりのぞいていたのである。そしてその奇蹟が、彼の生命の根である母の、真実のこもった、わずかの涙と言葉との結果でなかったと誰が言い得よう。

 お民の臨終は、俊亮たちが来てから四日目の午前九時ごろだった。それは極めてしずかな臨終だった。誰もさほどはげしい動揺を見せなかった。かすかなため息と、すすり泣きと、念仏の声とが、あるかなきかに吹き入って来る初秋の風の中に、しずかに漂った。

 臨終の少し前に、次郎たち兄弟は年の順に死水をとってやった。次郎は鳥の羽根を母の唇にあてながら、母がかすかにうなずくのを見るような気がした。彼は不思議に涙が出なかった。左右に、恭一と俊三とが、しきりに鼻をすすっている音を耳にしながら、彼はただ一心に母の顔を見つめていた。彼は母のすべてを深く心に刻みつけて置こうとするかのようであった。彼の両腕は棒のように彼の膝の上につっ張っていた。

 いよいよ臨終が宣言されて、周囲がざわめき出しても、彼はやはり石のように坐っていた。恭一と俊三とが両方から彼の顔をのぞいて立ち上ったのにも、彼は気がつかなかったらしい。

「次郎──」

 正木のお祖父さんが、うしろから、そっと彼の肩をたたいた。彼はやっと自分にかえって、眼を母の顔から放した。そして、その時はじめてすべてを諒解したかのように、彼の眼に涙がこみあげて来た。彼はいきなり畳の上につっ伏して声をあげた。

「次……次郎──」

 お祖父さんのふるえを帯びた声が、頭の上にきこえて、その手が再び彼の肩にさわった。

「坊ちゃん──。」

 悲鳴に似たお浜の声がつづいてきこえた。そしてその瞬間に、彼の顔はお浜の膝に、お浜の顔は彼の背中に、ふるえながらつっ伏していた。

 周囲から嗚咽おえつの声がくずれるようにきこえ出した。その声の中を、次郎はお浜に抱かれるようにして部屋を出た。

 死体は間もなく座敷にうつされた。次郎は、お浜や俊亮や正木の老夫婦に慰められて、やっと涙がとまると、むせるように線香の匂いのする母の枕元に、默々として坐りこんだ。そして帷子かたびらの紋附をさかさにかけられた母の死体を、一人でじっと見つめていた。彼には、ともするとそれがかすかに息をしているかのように見えた。しかし、弔問ちょうもん客が来て、その顔の覆いが取りのけられるごとに、彼の眼にまざまざとうつるものは、まぎれもなく、氷のような死顔であった。

 本田のお祖母さんは、やっと午後になってやって来た。そして死人の前に坐るなり、いかにも絶え入るような声で、いろいろとくどき立てた。臨終の間にあわなかった詫びが、先ず最初だった。それから、

「何という美しい仏様におなりだろう。」とか、

「子供を三人もこの老人に投げかけて、一人で先に行ったのがうらめしい。」

 とか、

「どうして世の中には、こうさかさま事が多いのだろう。」とか、いったようなことを、次第に芝居じみてわめき立てた。俊亮は、それを聞きながら、眼のやり場に困っていたが、とうとうたまりかねて、

「お母さん、──お母さん──」と声をかけた。それでもまだ彼女が死人のそばを離れそうにないので、彼はいきなり立上って、彼女の肩をゆすぶり、叱るように言った。

「そんなに泣かれては、仏が迷います。それより念仏でも唱えてやって下さい。」

 するとお祖母さんは、

「ほんとうに、まあ、老人甲斐もなく、取りみだして申訳もない。なむあみだぶ、なむあみだぶ。」と、けろりとした顔をして死人のそばを離れた。そしてそれからは、「なむあみだぶ」の連発だった。

 次郎はむろんお祖母さんの闖入ちんにゅうによって、ひどく気分をみだされた。しかし彼はもう、彼がこれまで彼女からうけていたような強い圧迫を感じなかった。「意地の悪い敵」としての彼女が、いつの間にか「みじめな、一人ぽっちの老婆」に変りかけていたのである。

 少し落ちついたころ、葬式をどこから出すかが問題になったが、町の方にはまだ大して近づきもないし、それに、本田の墓地がこちらにあるのに、わざわざ死体を町に運ぶまでもあるまいということになった。しかし、正木の家から葬式を出すのも変だというので、この近在では例のないことだったが、途中葬列を廃して、寺で告別式だけを行うことになった。この事についても、本田のお祖母さんは、しきりに世間体を気にしていたが、寺での告別式なら正木から葬式を出したことにはならないし、正木の家はただの病院だったと思えば何でもない、と言いきかされると、彼女はそれでやっと納得なっとくがいった、といったような顔をした。

 まだ暑い季節だったため、入棺はその晩のうちにすまされた。子供たちは、代る代る石で棺の蓋を打ちつけたが、次郎は、力をこめてそれを打ちおろす気には、どうしてもなれなかった。釘の頭に石がふれた瞬間、彼は全身が弾きかえされるような気がした。

 入棺が終ると、彼は、何もかも最後だという気がして、急に力がぬけた。彼はもう何も見たくなくなった。真暗なところに一人でいたいような気がした。で、そっと座を立って庭におりた。木立をくぐって築山のうしろまで行くと、そこから星空が広々と仰がれた。彼は、かつてお祖父さんに教わった北極星、──「いつまでも動かない星」──をその中に見出した。彼は一心にそれを見つめた。見つめているうちに、その光は次第にうるんだ母の眼の輝きに似て来た。そして母の顔全体が、いつの間にかその周囲にはっきりとあらわれた。お浜の顔がおりおりそれにかさなった。同時に、彼の頭の中には、校番室以来の彼の記憶が、つぎつぎに絵巻物のように繰りひろげられはじめた。

 だが、この時彼の心を支配したものは、悲しみでも憤りでもなかった。彼の心はふしぎに静かだった。

 彼は、「運命」によって影を与えられ、「愛」によって不死の水をそそがれ、そして「永遠」に向かって流れて行く人生のすがたを、彼の幼ない智恵の中に、そろそろと刻みはじめていたのである。


「次郎物語」は一先ずここで終る。しかし、次郎の一生がそれと同時に終りを告げたわけではむろんない。彼のほんとうの生活は、実はこれから始まるであろう。彼の家庭生活や学校生活はどう変って行くか。異性との交渉はどうなるか。そして、結局この大きな社会と彼はどう取っくみあって行くか。これらをくわしく物語りたいのは、筆者の心からの願いである。しかし、次郎は今母に死別したばかりである。彼のこれからの生活を知っているものは神様だけしかない。で、もし何年か、何十年かの後に、この物語を読んだ誰かが、幸にして次郎と相る機会を得、そして彼の生活に興味を覚えるとしたら、恐らくその人がこの物語のつづきを書いてくれるであろう。


あとがき


 私は、これまでに、何冊かの本を書いたが、もし、一生のうちに一冊だけしか本が書けないものだとしたら、私は恐らくその一冊にこの「次郎物語」を選んだであろう。それほど私はこの本が書いてみたかったし、書いて置かなければならないような気がしていたのである。

 なぜか、とむきになってたずねられると、答えに困る。困るというのは答えられないからではない。答えたくないからである。答はこの物語の中に書いてあることだけでもう十分だし、それ以上に何か言えば、それは理窟になって、私の気持からは、かなり遠いものになってしまうからである。

 ただ次のことだけは言っておいてもいいように思う。それは、もし私が、子供をもった親たちを集めて、何か話をしなければならない場合があるとしたら、私は話をする代りに、默ってこの物語を差し出したい気になるだろう、ということである。

 ところで、この物語が、まだ原稿のままだった頃、幾人かの知人にそれを読んでもらったら、その一人は、読んで行くうちに、「これは愉快だ。」と言って、しばしば哄笑こうしょうした。私は淋しかった。他の一人は「これは君の自叙伝なのか。」と、根掘り葉掘り、詮議せんぎしはじめた。私は苦笑するよりほかなかった。更に他の一人は、「次郎は変質者だね。」と言った。これには私はかなり考えさせられた。そして、もしも次郎が、その人の言うとおり、変質者として描かれているならば、彼を広く一般の親たちに引きあわせるのは、大して意味のないことだと思いはじめたのである。

 で、その後、私は何回となく原稿を読みかえしてみた。しかし、私自身には、次郎が変質者であるとは、どうしても思えなかった。次郎は、誰が何と言おうと、他の多くの子供たちと同様に、食物をほしがり、大人の愛をほしがる子供に過ぎないのである。ただ、他の子供たちにくらべて、いくぶん勝気な点があるかも知れないが、それとても病的だというほどではない。もし彼に、何かそうした病的な点が発見されるとすれば、それは、すべての子供が、否、すべての人間が、本能的に求めている最も大切なものを、拒んではならない人によって拒まれているからだ、というの外ない。世の中には、どんな健全な人間をでも、一見変質者らしく振舞わせる二つの大きな原因があるが、その一つは食物の飢餓であり、もう一つは愛の飢餓である。──そう私は私自身で次郎を弁護したい。そして、彼を多くの親たちに引きあわせることは、やはり決して無駄ではないと思うのである。


     *


 この物語の原稿を見た知人の中には「君は、その年になって小説を書きはじめたのか。」と、私の顔を穴のあくほど見つめながらたずねた人がある。私には、それが驚歎の言葉のように聞えたし、また非難の言葉のようにも聞えた。

 若いころ、ちょっぴり詩や歌をひねり、その後二十年間も地方をまわって学校教育に没頭し、五十近くになってから東京にまい戻って、尓来じらい十年間、社会教育方面の仕事のために、南船北馬している私である。その私が、今更小説に野心を持ち出したとしたら、なるほど驚歎にも値するだろうし、また無論非難されるのが当然であろう。ところで、実をいうと、私自身としては、小説を書く気でこの本を書いたのではないのである。万一にも、この物語の形式が、小説というものの規準に合しているとすれば、なるほど私は小説を書いたことになるだろう。しかし、私にとっては、それが小説になっているか否かは全く問題ではない。私は、ただ、私の書きたいことをそれにふさわしい形式で表現してみたいと思っただけなのである。それに、元来私は、何かの規準を設けて、小説と小説でないものとを区別しようとする考えを、全く無用だとさえ思っている。だから、私が小説に野心があるとか、ないとか、或いは、私の書いたものが小説になっているとか、いないとかいう理由で、私をほめたり、くさしたりする人があっても、それは私にとって全くかかわりのないことなのである。

 私の願いは、私の書いたものを、一人でも多く読んでもらいたいということだけである。私は、この本を世の親たちに読んでもらいたいばかりでなく、また児童相手の教育者や、児童心理の研究者にも読んでもらいたい。そして、もし文芸作家、乃至文芸批評家に読んでもらって、私の表現技術が、この物語の内容に適当であるか否かについて教えてもらうことが出来れば、それこそ望外の仕合わせである。


昭和十六年二月十日
著者

底本:「下村湖人全集 第一巻」池田書店

   1965(昭和40)年710日発行

※「黒+犬」は、「默」で入力しました。

入力:tatsuki

校正:松永正敏

2005年129日作成

2015年37日修正

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