後の業平文治
三遊亭圓朝
鈴木行三校訂編纂
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一
えゝ此の度は誉れ高き時事新報社より、何か新作物を口演致すようとの御註文でございますから、嘗て師匠の圓朝が喝采を博しました業平文治の後篇を申上げます。圓朝師が在世中、数百の人情噺を新作いたしました事は皆様が御承知であります。本篇は師が存生中、筋々を私にお話しになりました記憶の儘を申上ぐる次第であります。そも私が師匠の門に入りましたのは御維新前で、それから圓橘となりましたのが明治二年の五月でございます。まだ其の頃は圓朝師も芝居掛り大道具というので、所謂落語と申しましては一夜限り或は二日続きぐらいのもの、其の内で永く続きましたのが新皿屋敷、下谷義賊の隠家、かさねヶ淵の三種などでございます。それより素話になりましてからは沢の紫(粟田口)に次では此の業平文治でございます。その新作の都度私どもにも多少相談もありましたが、その作意の力には毎度ながら敬服して居ります。師匠は皆様が御存じの通り、業平文治は前篇だけしか世に公にいたしませぬが、その当時私は後の文治の筋々を親しく小耳に挟んで居りました。即ち本篇が師匠の遺稿にかゝる後の業平文治でございまする。さて師匠存生中府下の各寄席で演じ、または雑誌にて御存じの業平文治は、安永の頃下谷御成街道の角に堀丹波守殿家来、三百八十石浪島文吾という者の忰でございまして、故あって父文吾の代より浪人となり、久しく本所業平橋に住居いたして居りましたが、浪人でこそあれ町地面屋敷等もありまして、相応の暮しをして居りました。で、業平橋に住居して居りました処から業平文治といいますか、乃至浪島を誤って業平と申しましたか、但しは男の好いところから斯く綽名いたしたものかは確と分りませぬ。併し天性弱きを助け強きを挫ぐの資性に富み、善人と見れば身代は申すに及ばず、一命を擲ってもこれを助け、また悪人と認むれば聊か容赦なく飛蒐って殴り殺すという七人力の侠客でございます。平生荒々しき事ばかり致しますので、母親も見兼て度々意見を加えましたが、強情なる文治は一向肯入れませぬ。情深き母親も終には呆れ返って、「これほど意見しても肯かぬ気性の其方、行く〳〵は親の首へ縄を掛けるに相違ない、長生して死恥を掻こうより寧そのこと食事を絶って死ぬに越したことはない」と涙を流しての切諫、それを藤原喜代之助が見兼て母に詫入れ、母は手ずから文治の左の腕に母という字を彫付け、「以来は其の身を母の身体と思って大切にいたせよ」と申付けまして、それからというものは一切表へ出しませぬ。さア今まで表歩きばかりしていた者が、俄に家にばかり居るようになりましたから、少しく身体の具合が悪くなりました。母も心配して、気晴しに参詣でもするが宜いと云われて、母と同道で本所の五つ目の五百羅漢へ参詣の帰り途、紀伊國屋友之助の大難を見掛け、日頃の気性直ぐに助けようとは思いましたが、母の手前そういう訳にもまいりませぬから、渋々我家へ帰り、様子を尋ねますると、友之助という者が大伴蟠龍軒と賭碁を打って負けましたので、女房お村を奪られた上に、百両の証文が三百両になっているという、友之助は斯くと聞いて大いに怒り、大伴に向って悪口いたしましたので、蟠龍軒は友之助を取って押え、高手小手に縛り上げて割下水の溝へ打込んだという話を聞き、義憤むら〳〵と発して抑え難く、ついに蟠龍軒の道場へ踏込み、一味加担の奴ばらを打殺し、大伴だけ打漏して、窃かに自宅へ帰ったという処までが、故圓朝師の話でございます。これより私が予て聞きおぼえたる記憶を喚起して、後の文治の伝記を伺います。さて其の翌日は安永五年の六月三十日でございます、蟠龍軒の道場にて何者にか数多の者が殺されたという届出がありますから早速北割下水蟠龍軒の道場へ御検視が御出張になりまして吟味いたしましたが、誰が殺したのか一向分りませぬ。其の頃八丁堀の町与力小林藤十郎という人は、「これは多分蟠龍軒のためさん〴〵恥辱を受けた友之助の仕事であろう」と疑いましたが、誰あって文治の仕事と心付く者はございませぬ。まして百日あまり外出いたしませず、また近所の者は日頃文治を蔭でさえ呼棄てにする者はないくらいな人望家、子供に至るまで、業平の旦那、業平の旦那。と敬って居るのでありますから、文治と疑う者のないのも道理でございます。その明る日、小林藤十郎殿は本所の名主の家へ出役いたし、また其の頃八丁堀にて捕者の名人と聞えたる手先二人は業平橋の料理屋にまいりました。
二
手先の林藏と申します者が立花屋へ参りまして、
林「親方ア宅かえ」
主「これは親分さん、さアどうぞ此方へお上りなさいまし、おい、お火を持って来い」
林「親方、今日来たのは外じゃアねえ、少し大切な事があって来たのだから不都合のねえように云ってくんなよ」
主「へえ大切な御用と云うのは何事ですか」
林「奥に友之助が隠れているな」
主「えっ」
林「やい親爺、とぼけるな、それだから予め不都合のないようにしろと云ったんだ、二三日前から緑町の医者が出入をしているが、ありゃア誰が医者にかゝっているのだ」
主「えっ……」
林「この親爺、何処までとぼける積りだ、えゝ面倒だ、金藏踏ん込め」
金「やい友之助、御用だ」
主「もし〳〵親分え、そんな無慈悲な事を為すっちゃア困るじゃアございませんか、友之助は身体中疵だらけでございますぜ」
林「うむ、少しは疵も付いたろう、自業自得だ、誰を怨むところがあるか、神妙にお縄を頂戴しろえ、これ友之助、大切な御用だぞ、上へお手数の掛らねえように有体に申上げろよ」
友之助は何の為か更に合点が行かず、呆気に取られて居りますと、林藏は屹と睨み付けて、
林「やい友之助、貴様は十五日の晩には何処にいた」
主人は横合から、
主「親方、大切な御用とは何ういう筋かは知りませぬが、友さんは十四日の夕景、蟠龍軒一味の者にさん〴〵な目に遇いましてな、可愛相に身体も自由にならないで、私方へ泊りました、で、十五日には外へも出ませず、終日此処にうむ〳〵呻りながら寝て居りました」
林「黙れ、貴様に尋ねるのじゃアねえ、これ友之助、貴様は十四日は割下水の蟠龍軒の屋敷で、少しばかり打擲されたのを遺恨に思って、十五日の晩に其の仕返しを為ようと云う了簡で、蟠龍軒の屋敷へ切込んだろうな」
友之助は恟り首を擡げて、
友「なゝなゝ何を云いなさる」
林「いやさ友之助、どうせ天の網を免れる訳にゃアいかねえ、あの手際は貴様一人の仕業じゃアあるめえの、相手は何者だ、男らしく有体に申上げた其の上でお慈悲を願うが宜いぞ、己たちも悪くは計らわねえ、ぐず〳〵すると却って貴様の為にならねえぞ」
友之助は怪訝な面持にて、
友「へえ、あの蟠龍軒めが何うぞしましたか」
林「友、しらばっくれるな、あの時アたしか三人だったなア」
友「あなたの仰しゃることは何が何だか一向分りませんが」
林「ふむゝ、貴様は往生際の悪い奴だな、よし此の上は手前の身体に聞くより外はねえ」
主「えゝ親分、一体これは何ういう訳ですか」
林「汝の知った事じゃアねえや」
主「それでも斯様な大病人を何うなさる積りで」
林「おい金藏、この親爺も腰縄にしてくれえ、兎も角も玄関まで引いて往くから……」
この玄関と申しますのは、其の頃名主の邸を通称玄関と申したのでございます。
主「親分、なんで其様な足腰の立たないものをお縛りなさるのです、私ア名主様へ引かれるような罪を犯した覚えはございません」
林「往く処へ往けば分らア、黙っていろ、金藏、この近所に駕籠屋があるだろう、一挺雇って来い」
やがて友之助と立花屋の主人を召捕って相生町の名主方へ引立てゝまいりました。玄関には予て待受けて居りました小林藤十郎、左右に手先を侍らせ、友之助を駕籠から引出して敷台に打倒し、
小「京橋銀座三丁目紀伊國屋友之助、業平橋立花屋源太郎、町役人」
一同「はゝア」
小「友之助、其の方は去る十五日の夜、大伴蟠龍軒の屋敷へ踏込み、家内の者四人、蟠龍軒舎弟蟠作を殺害いたしたな、何らの遺恨あって、何者を語らって左様な無慙なる事を致したか、さア後で不都合のなきよう有体に申立てろ」
立「まア怪しからぬ仰せでございます、余計な事を申すようでございますが、友之助は御覧の通り疵だらけ、十四日夜はさん〴〵打たれて動きが取れませず、私方へ泊り込んだのでございます」
小「黙れ」
林「さア友之助、とても免れるものじゃアない、只今旦那のお尋ねの通り有体に申上げろ」
友之助は暫く考えて居りましたが、
友「へえ、大伴の屋敷へ切込みまして、家内四人の者を殺害いたしましたるは全く私に相違ございません、へえ遺恨あって切込みました」
立「これ〳〵友さん、血迷っちゃアいかねえ、お前は十四日に……」
林「黙れ、其の方の口を出すべき場合でない、さア友之助、貴様一人の仕業でないと云うことは分って居る、何者を同道してまいったか、一つ白状して後を隠しては何にもならんぞ」
友「どの様な御吟味を受けましても、外に頼んだ者はございませぬ」
三
林藏は少しく気を焦立ちて、
林「これ汝がな、私一人の仕事でございますなどとしらを切っても、うむそうかと云って済ますような盲目じゃア無え、よく考えて見ろよ、手前のような痩男に、剣術遣いの屋敷へ踏込み三四人の人殺しが出来る仕事かえ、さアいよ〳〵申上げねえか、旦那に申上げて少し叩いて見ようか」
友「何と云われても私一人の仕業に相違ございません」
立「もし〳〵友さん、お前何うしたんだ、気が違やアしねえか、旦那様え、なか〳〵此の人一人でそんな事の出来る訳はございません、全く大疵のために気が違ったに相違ございません…おい友さん、確かりしなよ」
林「えゝ黙れ、旦那様、此奴はなか〳〵一筋縄じゃア白状しませんぜ、一つ叩きましょうか」
小「まア林藏待て、下手人は友之助と決って居るから追って又取調べるであろう、何しろ三四の番屋へ送って置け」
この三四の番屋と申しますのは本材木町三四丁目の町番屋にて、この番屋には二階があって常の自身番とは違い、余程厳しく出来て居ります。町番屋とは申しながら重に公用に使ったものでございます。尚お小林藤十郎殿は林藏に向いまして、
小「これ林藏、立花屋源太郎の縄を解いて家主へ引渡せ」
林「はゝア、おい差配人、不都合のないように預かり置け、友之助立てえ」
其の儘駕籠に乗せて本材木町の番屋を指して出て往きました。お話別れて、此方は文治の宅、母は九死一生で、家内の心配一方ならず、折から訪れ来る者があります。
「えゝ頼む」
森松「やアこれは〳〵何方かと思ったら藤原様、どうも大層お立派で……お萓様も御一緒ですか宜うおいでゝございます」
藤「お母様は」
森「いやもう、お悪いの何のじゃアございません、何うも今の様子じゃおむずかしゅうございますな」
藤「なに、むずかしい、そんなら少しも早く奥へ」
森「どうか此方へ……旦那え、藤原様と御新造様がおいでになりました」
文「おゝそうか、さア此方へ、やア何うも暫く、お萓か、よくおいでだ」
両人「お母様が大層お悪いそうで、さぞ御心配でございましょう」
文「はい〳〵有難う、今度は些とむずかしかろうよ」
藤「それは何うも、併し私どもの顔が分りましょうか」
文「いや少しは分りそうだ、兎も角も此方へ……お母様、藤原氏がまいりました、お母様、分りましたか、お萓も一緒に……」
藤「伯母様、藤原喜代之助でござる、お萓も一緒に、分りましたか、大層お瘁れ……」
と申しますと、病人に通じたものと見えて、「おゝ」と少し起上ろうと致しますから、
藤「どうか其の儘にして」
母「永いことお世話になりました、此の度はもうこれがお訣れで、お萓は御存じの通り外に身寄もなき不束者、何うぞ幾久しゅう、お萓や見棄てられぬように気を付けなよ、それでも文治の嫁が思ったより優しいので、何の位安心したか知れません、もう是で思い残すことはありません」
此の時台所の方に当って頻りに水を汲んでは浴せる音が聞えまする何事か知らぬと一同耳をそばだてますると、
「南無大聖不動明……のうまく……む……だあ……」
文治はそれと心付きまして、手燭を持って台所の戸を明けますと、表は霙まじりに降しきる寒風に手燭は消えて真黒闇。
文「誰だえ」
一向答えがありませぬ。一生懸命ざあ〳〵と寒水を浴びては「南無大聖不……」
文「おい、誰か提灯を持って来てくれ」
藤原が提灯を持ちまして袖に隠し、燈火の隙間から井戸端を見ますると、お浪が単物一枚に襷を掛け、どんどん水を汲では夫國藏に浴せて居ります。國藏は一心不乱に眼を閉じ合掌して、
「南無大聖不動尊、今一度お母上様の御病気をお助け下さりませ」
文「これ其処に居るのはお浪じゃないか、國藏待て、その親切は千万辱けないが、まア〳〵此処へ来い、お浪や早く國藏に着物を着せてやれ、森松、國藏夫婦は何時の間に来たのだ」
森「へえ、藤原様のおいでの少し前、いつもは蔵前の不動様へまいるんですが、今夜は御門が締りましたそうで」
文「うむ、毎夜此の通りか、寒中といい況して今夜は此の大雨に……國藏、お前の親切は千万辱けないがな、命数は人の持って生れたものじゃ、寿命ばかりは神にも仏にも自由になるものじゃアない、神様や仏様は人の苦しむのを見て悦びなさる筈はないが、人が物を頼むにも無理力を入れて頼んだからって肯くものではない、お前も同じ人に生れていながら、この寒空に垢離など取って、万一身体に障ったら、それこそ此の上もない不孝じゃないか、お前の親切は届いて居る、もう〳〵止してくれよ」
四
文治は國藏夫婦の水垢離を諫めて居りますると、妻のお町が泣声にて、
町「旦那様ア、お早く〳〵」
文「なに、お母様が息を…」
と病間に駈戻り、
文「お母様、お母様、ほい、もういかんか」
町「お母様ア、お母様ア」
文「これ〳〵お町、そう泣悲んでも仕方がない、もう諦めろ」
萓「伯母様え、伯母様え、もう是がお別れか、伯母様え」
藤「お萓、そう呼ぶものではない、文治殿、さぞ〳〵御愁傷でござりましょう」
文「いや永い御苦労を掛けました、あゝ何うも、思えば私も不孝を尽しましたなア」
お町を始め一同顔を揃えて言葉もなく、鼻詰らして俯向く折から、表の方で慌だしく、
「森松々々」
森「おうい、豊島町の棟梁か」
これは亥太郎という豊島町の棟梁でございます。
亥「おゝ亥太郎だ」
森松が立って戸を明けますると亥太郎は息急きながら、
亥「森松、お母様は」
森「たった今……」
亥「えッ、亡りなすったか、道理で新しい草鞋が切れて変だと思った、えゝ間に合わなかったな」
森「昨日からむずかしいから、お前さんの所へ知らせに往くとな、今朝早く成田へ立ったと云うことだから、こいつア必定お百度だろうと後から往こうか知らんと思ったが、家が無人で困っているのに何ぼ信心だからと云って、出先から成田へ往ったら又旦那に叱られるだろうと、こう思って止したのが結句幸いであった、今も國藏兄が成田様の一件で小言まじりに一本やられたところだ」
亥「己アな、昨夜の内にお百度を済まして、何うやら気が急かれるから、今朝早立にして、十八里の道を急ぎ急いでもう些と早くと思ったが、生憎の大雨で道も捗取らず、到頭夜半になっちまった、あゝ何うも胸がドキ〳〵して気が落着かねえ、水を一杯くれねえか」
森「おゝ気の付かねえ事をした」
文「やア亥太郎殿か、成田へお出で下すったそうで、母のために毎も変らぬ御親切、千万辱けのう存じます、母も只た今往生いたしました、さア何うか直ぐに奥へ往って見てやって下さい」
亥「えゝ皆様御免なせえ、えゝお母様、なぜ私が……旦那御免なせえよ、こんな時にゃア何と挨拶して宜いのか私にゃア分んねえ」
藤「これは亥太郎殿、藤原喜代之助でござる、あなたの御親切で伯母も誠に宜い往生を致しました、人の寿命ばかりは何とも致し方がありません」
亥「旦那御免なせえ、私やア物心をおぼえて此の方、涙というものア流したことが無えんですが、いつぞや親子てえものは斯う〳〵いうもんだと、此方の旦那に意見されてから、此の間親父の死んだ時にゃア思わず泣きました、今日で二度目でござんす、御免ねえ」
とわッ〳〵と泣出しました。時に文治は、
文「いつも変らぬ御親切、有難う存じます、さぞお腹が減りましたろう」
亥「なアに、さしたる事もありません」
文「お昼食は何方でやって来なすったね」
亥「なアに昼食なんざア、実は十八里おっ通しで」
文「やッ、それは〳〵昼食も喰べずに十八里日着とは、何うも恐入りましたなア」
亥「云われて始めて腹が減った、そんなら森松、握飯でも呉れや」
森「さア大変だ、昼間からの騒ぎで飯を炊くのを忘れたア」
町「いゝえ、私が炊いて置きましたよ、さア亥太郎さん召上れ」
亥「こりゃア勿体ねえな、やい森公、貴様は相変らず馬鹿だな」
森「こりゃア己の十七番だ」
亥「それも違ってらア、馬鹿野郎」
それから手を分けて仏の取片付をいたしまして、葬式はいよ〳〵明後日と取極めました。藤原喜代之助は明日御登城のお供がありますから、夜の中に屋敷へ帰りまして、翌朝重役へ、
藤「明日お供を致します筈でござりますが、親戚に忌中これあり、如何致しましょうや」
と伺い出でますると、何ういう都合でござりますか、藤原は明後日葬式を菩提寺まで見送ることが出来ませんので、その翌晩通夜をいたし、翌早朝葬式を途中まで見送って、自分は西丸下へ帰り、お葬式は愛宕下青松寺で営みまして、やがて式も済みましたから、文治は※〓(前の「※」は「ころもへん+上」)のまゝ愛宕下を出まして、亥太郎、國藏、森松の三人を伴い、其の他の見送り人は散り〴〵に立帰りました。丁度江戸橋へ掛ってまいりますと、朝の巳刻頃でございますが、向うから友之助が余程の重罪を犯したものと見えて、引廻しになってまいります様子、これは友之助の罪状が定って、小伝馬町の牢屋の裏門を立出で、大門通から江戸橋へ掛ってまいりましたので、角の町番屋にて小休みの後、仕置場へ送られるのでございます。
五
文治が先に立って江戸橋へ向って参りますと、真先に紙幟を立て、続いて捨札を持ってまいりますのは、云わずと知れた大罪人をお仕置場へ送るのでございます。文治は何気なく正面から罪人を見ますと、紛う方なき友之助ですから、はて不思議と捨札を見ると、「京橋銀座三丁目当時無宿友之助二十三歳」と記してありまして、「右の者去んぬる六月十五日本所北割下水大伴蟠龍軒方へ忍び込み、同人舎弟を始め外四人の者を殺害致し候者也」と読むより、左なきだに義気に富みたる文治、血相を変えて引廻しの馬の前に寄付き、罪人の顔を見ますと、今度は俯向いていまして少しも顔が見えませんけれども、友之助に相違ありませんから、文治は麻※〓(前の「※」は「ころもへん+上」)長大小のまゝ馬の轡に飛付く体を見るより附添の非人ども、
「やい〳〵何を為やがる、御用だ〳〵」
亥「やい乞食めら、静かにしろえ」
非「やア豊島町のがむしゃらだぜ」
と怯んで居りますところへ、与力が馬上にて乗付けまして、
与「これ〳〵其の方は何をするのか、御用だ、控えろ」
と制する言葉に勢を得て、非人どもが文治を突退けようと致しますると、國藏、森松の両人が向う鉢巻、片肌脱ぎ、
両人「この乞食め、何を小癪なことを為やがる、ふざけた事をすると片ッ端から打殺すぞ」
さア江戸橋魚市の込合の真最中、まして物見高いのは江戸の習い、引廻しの見物山の如き中に裃着けたる立派な侍が、馬の轡に左手を掛け、刀の柄へ右手を掛けて、
文「さア一歩も動かすことは成らぬ、無法かは知らぬが、此の友之助は決して罪人ではない、その罪人は此の文治だア」
与「これ〳〵何であろうと此の通り当人が白状の上、罪の次第が極ったのじゃ、今となっては致し方がないわ、其処退けッ」
文「いかさま無法ではござるが、狂人ではござらぬ、一寸も放すことは出来ませぬ」
と七人力の文治が引留めたのでございますから、如何とも致し方がございませぬ。馬上なる友之助は何事か夢中で居りましたが、暫くして漸く我に返りまして、
友「えゝ旦那様でござりますか、お久しくござります」
文「友之助、よく生きていてくれたなア、貴様が此の様な目に逢うとは夢にも知らなんだ、さぞ難儀したろうな、此の文治は自分の罪を人に塗付け、のめ〳〵生きて居るような者ではないぞよ、目指す相手の蟠龍軒を討洩らし、心当りを捜す内、母の大病に心を引かれ、今日まで惜からぬ命を存らえていたが、もうお母様を見送ったからにゃア後に少しも思い残すことはない、此の上は罪に罪を重ねても貴様を助けにゃア己の義理が立たない、さアお役人衆、お手数ながら此の文治に縄を打って、友之助と共に奉行所へお引立て下せえ、それとも乱暴者と見做し此の場に切捨てるというお覚悟なら、遺憾ながら腕の続く限り根限りお相手致します、如何に御処分下さるか」
と詰寄せまする。橋の上から四辺は一面の人立で、往来が止ってしまいました。
甲「こゝは往来だ、何を立っていやがるのだえ、さア〳〵歩け歩け」
時に亥太郎國藏の両人口を揃えて、
「静かにしろ、ぐず〳〵すると打殺すぞ」
野次馬「やア豊島町の乱暴棟梁だ、久しく見掛けなかったが、また始めたぞ」
流石の与力も文治と聞いて怖気付き、一先ず文治と友之助の両人を江戸橋の番屋へ締込みましたが、弥次馬連は黒山のようでございます。表に居りました亥太郎、森松、國藏は躍起となって、
「此奴ら何が面白くって見に来やがった、片ッ端から将棋倒しにしてしまうぞ」
と有合せたる六尺棒をぐん〳〵と押振廻して居ります。飯の上の蠅同然、蜘蛛の子を散らしたように逃げたかと思うと、また集ってまいります。其の中に与力の家来は斯くと八丁堀へ知らせ、また一方は奉行所へ訴えますと、諸役人も驚いて早速駈付けました。時に表に居りました亥太郎、國藏、森松の三人は自身番へ這入りまして、
亥「えゝお役人様、蟠龍軒の屋敷へ踏込んで四五人の者を殺したのは私です、何うぞ私を縛っておくんなせえ」
森「亥太郎兄か、そんな事を云っちゃア困るじゃねえか、お役人様、そりゃア私の仕業で」
國「馬鹿をいうな、お前たちは此の騒ぎで血迷うたか、己がやッつけたんだ」
文「一同静かにしろ、兎も角も御用の馬を引留めました乱暴者は私でござります、お手数ながらお引立の上、その次第を御吟味下さいまし」
出張の役人は文治を駕籠に乗せ、外一同は腰縄にて、町奉行石川土佐守役宅へ引立て、其の夜は一同仮牢に止め、翌日一人々々に呼出して吟味いたしますると、何れも私が下手人でござる、いや私が殺したのでござると強情を云いますので、誰が殺したのかさっぱり分らぬように成りました。取敢えず文治には乱暴者として揚屋入を仰付け、其の他の者は当分仮牢留置を申付けられました。
六
さて明治のお方様は、昔の裁判所の模様は御存じありますまいが、今の呉服橋内にありまして、表から見ますと只の屋敷と少しも変った処はありませぬ。只だ窓々に鉄網が張ってあるだけの事、また屋敷の向う側の土手に添うて折曲った腰掛がありまして、丁度白洲の模様は今の芝居のよう、奉行の後には襖でなく障子が箝っていまして、今の揚弓場のように、横に細く透いている所があります。これは後から奥の女中方が覗く処だと申しますが、如何でございましょうか。白洲には砂利が敷いてあって、其の上は廂を以て蔽い、真中は屋根無しでございます。正面に蓆の敷いてある処は家主、組合、名主其の外引合の者が坐る処でございます。文治は今日お呼出しになりまして、奉行石川土佐守御自身の御吟味、やがてシッ〳〵という警蹕の声が聞えますと、正面に石川土佐守肩衣を着けて御出座、その後にお刀を捧げて居りますのはお小姓でございます。少しく下って公用人が麻裃で控えて居ります。奉行の前なる畳の上に控えて居りますのは目安方の役人でありまして、武士は其の下の敷台の上に麻裃大小なしで坐るのが其の頃の扱いでございます。一座定まって目安方が名前を読上げますと、奉行もまた其の通り、
奉「本所業平橋当時浪人浪島文治郎、神田豊島町惣兵衞店亥太郎、本所松倉町源六店國藏、浪人浪島方同居森松、並に町役人、組合名主ども」
と、一々呼立てゝ後、
奉「浪島文治郎、其の方儀去ぬる十二月二十一日、江戸橋に於て罪人友之助引廻しの際、一行を差止め、我こそ罪人なりと名告り出で候う由なるが、全く其の方は数人の人殺しを致しながら、今日まで隠れいるとは卑怯な奴じゃぞ、併し上に於ては吟味の末、友之助が自身白状致したに依って、仕置を申付けた次第であるぞ、上の裁判に一点の曇りは無いわ、何故今日となって左様な事を申出でたか、徒らに上を弄ぶに於ては其の分には捨置かんぞ」
文「恐れながら文治申上げます、不肖なれども理非の弁えはございます、お上様を弄ぶなどとは以ての外の仰せでございます、かく申す文治、捨置きがたい仔細あって蟠龍軒を殺害いたすの覚悟にて、同人屋敷へ踏込み候ところ、折悪しく同人を討洩らし、如何にも心外に存じ候ゆえ、一時其の場を遁れ、たとい何処の果に潜むとも、汝生かして置くべきや、無念を霽らして後訴え出でようと思い居ります内、母の大病、めゝしくも一日々々と看病に其の日を送り、命数尽きて母は歿りましたゆえ、今日母の葬式を済まし、一七日経ちたる上は卑怯未練なる彼の蟠龍軒を捜し出して、只一打と思い詰めたる時こそあれ、どういう了簡で濡衣を着たかは存じませぬが、江戸橋にて友之助の引廻し捨札を見れば、斯う〳〵云々、よしや目指す敵は討ち得ずとも、我に代って死罪の言渡しを受けたる友之助を助けずば、武士の一分相立ち申さず、お上へ対し恐多い事とは存じながら、かく狼藉いたし候段、重々恐入り奉ります、此の上は無実の罪に伏したる友之助をお助け下され、文治に重罪を仰付け下さいますよう願い奉ります」
奉「フウム、然らば其の方が……」
時に横合より亥太郎「恐れながら申上げます」
役人「控えろ」
亥「えゝ、こりゃア私の……」
役「黙れ」
亥「控えろたって残らず私の仕業で」
役「控えろと申すに何を寝言を申す」
亥「だって皆な己が為たんでえ、お奉行様、この亥太郎を御処分下せえ」
國「恐れながら國藏申上げます、その六月十五日夜は私が切込みまして殺したのでござんす、何うぞお仕置き下さいますよう」
森「兄イ、何を云うんだ、蟠龍軒の家へ切込んだのは誰でもねえ、この森松がやッつけたんで」
亥「やい、森松、國藏、何を云やがる、お奉行様、此奴らア気が違ったんです、私に相違ございません」
役「其の方ども控えろ控えろ」
つくばいの同心は赤房の十手を持って皆々の肩を突きましたが一向に聞入れませぬ。お取上げがないので三人とも立上って頻りに罪を背負おうと焦って居ります。時に文治が、「これ一同静かにしろ」と睨み付けられてピタリと止って、平蜘蛛のようになって居ります。
文「恐れながら文治申上げます、此の者どもが御場所柄をも弁えず大声に罪を争います為態、見るに忍びず、かく申す文治までがお奉行職の御面前にて高声を発したる段重々恐れ入ります、尚お此の上一言申し聞けとう存じます故、御免を願い奉ります」
奉「ウム」
文「これ一同よく承まわれ一人ならず三四人を一時に殺すというは剣法の極意を心得て居らんければ出来ぬことじゃぞ、技倆ばかりではなく、工夫もせねばならぬ、まして夏の夜の開放し、寝たというでもなし、さア貴様たちは何うして切込んだか、その申し口によっては御検視に御吟味をお願い申そうが、何うじゃ」
森「何うでも斯うでも其の時ア夢中でやッつけた」
と臆面もなく自分の身に罪を引受けようと云う志は殊勝なものでございます。
七
文治は少しく声を荒らげ、
文「これ森松、夢中で人が殺せるか、貴様の親切は辱けないが、人に罪を背負うて貰うては此の文治の義理が立たない、控えてくれ、お役人様、恐れながら申上げます、全く此の文治の仕業に相違ございませぬ、お疑いが有りますなら誰と誰を切りましたのか、一々御吟味の程を願い奉ります」
奉「亥太郎、森松、國藏、其の方どもが上を偽る段不届であるぞ、五十日間手錠組合預を申付ける、文治郎其の方ことは吟味中揚屋入を申付ける」
左右に居ります縄取の同心が右三人へ早縄を打ち、役所まで連れ行きまして、一先ず縄を取り、手錠を箝め、附添の家主五人組へ引渡しました。手錠と申しますと始終箝めて居るように思召す方もあるか知れませぬが、そうではございませぬ。錠の封印へ紙を捲き、手に油を塗ってこれを外し、只吟味に出ます時分又自分で箝めてまいりますだけの事でございます。こゝに松平右京殿、御下城の折柄駕籠訴を致した者があります。これは御登城の節よりかお退りを待って訴える方が手続が宜しいからであります。お駕籠先の左右に立ちましたのはお簾先と申します御家来、または駕籠の両側に附添うて居りますがお駕籠脇、その後がお刀番でございます、これは殿中には御老中と雖もお刀を佩すことは出来ませぬ、只脇差ばかりでございます。それ故お刀番がお玄関口にてお刀を預り、御退出の折に又これを差上げます為にまいりますので、事によるとお増供と申して一二人余計連れてまいる事もございます。其の昔、駕籠訴をいたします者は何れも身軽に出立ちまして、お駕籠脇の隙を窺い、右の手に願書を捧げ、左手でお駕籠に縋るのでございますから、時に依ると簾を突破ることがございます。大概お簾先が取押えて、押えの者を呼んで引渡してしまいますが、屋敷へ帰りましてから其の書面は封の儘に焼棄て、当人は町人百姓なれば町奉行へ引渡すのでありますが、実は願書は中を入替えて焼棄るのでございますから、御老中へ駕籠訴をするのが一番利目があったそうでございます。右京殿が御下城の折に駕籠訴を致しましたのは、料理店立花屋源太郎でございます。さて源太郎は隙を覘って右手に願書を捧げ、
源「お願いでござい、お願いでござい」
と呼わりながらお駕籠の簾に飛付きました。
供「それ乱心者が、願いの筋あらば順序を経て来い」
と寄ってたかって源太郎を取押え、押えの侍に引渡してしまいました。右京殿は御帰邸の後、内々その願書を御覧になりまして、
右京「これ、喜代之助を呼べ」
近習「はゝア、喜代之助殿、御前のお召でござる」
喜「はゝア」
右「喜代之助、近う進め」
喜「はゝア」
右京殿は四辺を見廻し、近習に向い、
右「暫く遠慮いたせ」
お人払いの上、喜代之助にお向いなされ、
右「喜代之助、そちを呼んだのは別儀ではないが、今日予が下城の節、駕籠訴いたした者がある、それは本所業平橋の料理屋立花屋源太郎と申す者であるが、そちは浪人中業平橋辺に居ったそうじゃのうあの辺の事はよう存じて居ろう、いつぞや閑の折に文治という当世に珍らしい侠客があると云ったのう、その文治と申す者は一体何ういう人間か」
喜「申上げます、彼は母の命の親とも申すべきもので、近年稀な侠客でござります」
右「フーム、侠客か、一体文治の平生の行状は何んなものじゃ」
喜「御意にございます、先ず本所にて面前にては申すに及ばず、蔭にても文治と呼棄にする者は一人もござりませぬ、皆文治様々々々と敬うて居ります、これにて文治の人となりを御推察を願います」
右「して、そちの母の命の恩人と申すは」
喜「左様でござります、手前が浪人中、別に一文の貯えあるでは無し、朝から晩まで内職をして其の日〳〵の煙を立てゝ居りました、それが為に手前は始終不在勝でございまして、家内の事は一切女房に任せて置きましたのが手前の生涯の過失でございます、女房のお淺と申します者が、手前の居ります時はちやほや母に世辞をつかいます故、左程邪慳な女とも思いませなんだが、不在を幸いに只た一人の老母に少しも食事を与えませず、ついには母を乾殺そうという悪心を起して、三日半程湯茶さえ与えず、母を苦しめました」
右「フーム、世には恐ろしい奴もあるものじゃの、そちは何か、内職から帰ってそれを知らなかったのか」
喜「何とも恐入った次第でございますが、母は当年七十四歳、手前などと違い余程覚悟の宜い母でございまして、食を絶って死のうという覚悟と見えまして、只病気とのみ申し打臥したまゝ一言も女房の邪慳なことを口外致しませぬ故、一向心付かんで居りました」
右「そちも不覚であったの、それから何う致した」
と膝を突付け、耳を欹てゝ居ります。
八
喜代之助は其の当時の事を想い起したものと見えまして、口惜し涙に暮れながら、
喜「悪事というものは隠す事の出来ぬものと見えます、母は手前にさえ一言も話さぬ位ですから勿論隣家の者などに話す気遣いはございませぬが、何時しか隣家の者が聞付けて、お淺さんも邪慳な事をなさる人だ、あのような辛抱強い年寄を、何が憎くって乾殺そうという了簡になったのだろう、お気の毒な事だ。と云ってお淺の不在を窺い、親切にも粥か何かを持参致しました所へ、生憎お淺が帰ってまいりまして、烈火の如く憤り、いきなり其の食器を取って母の眉間に打付け、傷を負わせました、其の時文治殿は何処で聞付けましたか其の場に駈付けてまいりまして、義理ある親を乾殺そうとは人間業でない、此の様な者を生かして置いては此の上どんな邪慳な事を仕出来すかも知れぬと云って、お淺を取って押えて口を引っ裂き……いや私が其処へ帰ってまいって手討にいたしました」
右「ふうむ、文治が其の毒婦を殺したのか」
喜「いゝえ私が……」
右「おゝ其方か、それは何方でも宜い、文治という奴は余程義侠の心に富んだ奴と見えるな、定めし剣術の心得もあろうな」
喜「はい、真影流の奥許しを得て居りまして、なか〳〵の腕利でございます」
右「天晴な腕前じゃの、それで七人力あるのか」
喜「御意にございます」
右「以前は堀家の浪人と申すが左様であるか」
喜「御意にございます」
右「よし〳〵、それで文治の素性並びに日頃の行状は能く相分った、少し思う仔細があるから、内々にて蟠龍軒と申す者の素性及び行状を吟味いたすよう取計らえ」
喜「畏まりました」
それから段々蟠龍軒の身の上を取調べますると、法外な悪党という事が分りましたので、事細かに右京殿へ言上いたしました。それと同時に此方は文治の身の上、石川土佐守殿は再応文治をお取調べの上、口証爪印も相済みまして、いよ〳〵切腹を仰せ渡されました。併し其の申渡し書には御老中お月番の御印形が据らなければ、切腹させる訳にはまいりませぬ。町奉行石川土佐守殿は文治の口供ばかりではございませぬ、幾枚も一度に持参いたしますると、正面に松平右京殿その外公用人御着席、それより余程下って町奉行が組下与力を従え、その口証を一々読上げて、公用人の手許迄差出します。御老中はお手ずから印形の紐を解くのが例でございます。其の紐の長さは一丈余もありまして、紐の先を御老中が持って居りますと、公用人が静かに印形を取出して奉行に渡し、奉行がこれを請取って捺すという掟ですから中々暇が取れます。其の内にお退の時計が鳴りますと、直ぐ印形の紐を引きますから、捺しかけても後は次のお月番へ廻さなければなりませぬ。それが為に命の助かった例もございます。だん〳〵捺してまいりまして愈々文治の口供に移りますと、まだ公用人が手を掛けませぬ内に御老中が頻りに紐を引きますので、奉行は捺すことが出来ませぬ。再びお印形をと心の中に促しながら公用人の顔を見ますと、公用人も不思議に思いまして御老中のお顔を見上げました。けれどもお駕籠訴の一件がありますから、右京殿は不興気に顔を反けて居りますので、何が何だか一向訳が分りませぬ。暫く無言で睨み合って居ります内に、ちん〳〵とお退のお時計が鳴りました。右京殿は待っていたと云わぬばかりのお顔にて印形を手許に引寄せ、其の儘すっとお立ちに相成り、続いてお附添一同もお立ちになりました。余儀なく奉行も渋々立帰りましたが、何故に御老中が斯様な計らいをするのか一向分りませぬ。何か仔細ある事と土佐守殿も智者でございますから、其の後外御老中のお月番の時は、文治の口供を持ってまいるのを見合せまして、又々右京殿お月番の時に、前の如く文治の口供を持参いたしますると、矢張前の通り手間取って居りますので、到頭印形を捺すことが出来ませぬ。はて不思議な事と処分に困って居りますと、時のお月番右京殿より、「浪島文治郎事業平文治儀は尚お篤と取調ぶる仔細あり、評定所に於て再吟味仰付くる」という御沙汰になりました。この評定所と申しますのは、竜の口の壕に沿うて海鼠壁になって居る処でございますが、普通のお屋敷と格別の違いはありませぬ。これは天下の評定所でございますから、御老中は勿論将軍家も年に二度ぐらいはお成になるという定例でございます、即ち正面の高座敷が将軍家の御座所でございまして、御老中、若年寄、寺社奉行、大目附、御勘定奉行、郡奉行、御代官並びに手代其の外与力に至るまで、それ〴〵席を設けてあります。業平文治が数人の者を殺しながら、評定所に於て再吟味になると云うのは全く義侠の徳でございます。
九
月番御老中を始め諸役人一同列座の上、町奉行石川土佐守殿がお係でございまして、文治を評定所へ呼込めという。
同心「当時浪人浪島文治郎、這入りましょう」
と白洲の戸を明けて、当人の這入るを合図に又大きな錠を卸しました。文治は砂上に畏まって居りますと、町奉行は少し進み出でまして、
奉「本所業平橋当時浪人浪島文治郎、去ぬる六月十五日の夜同所北割下水大伴蟠龍軒の屋敷へ忍び込み、同人舎弟なる蟠作並びに門弟安兵衞、友之助妻村、同人母崎を殺害いたし、今日まで隠れ居りしところ、友之助が引廻しの節、自分の罪を人に嫁するに忍びず、引廻しの馬を止め、蟠龍軒の屋敷に於て数人の家人を殺害いたしたるは全く自分の仕業なりと、自訴に及びたる次第は前回の吟味によって明白であるが確と左様か」
文「恐れながら申上げます、再応自白いたしましたる通り全く文治の仕業に相違ございませぬ」
奉「うむ、何らの遺恨あって切殺したか其の仔細を申立てえ」
文「申上げ奉ります、大伴蟠龍軒なる者が舎弟蟠作と申し合せ、出入町人友之助を語らい、百金の賭碁を打ち候由、然るに其の勝負は予て阿部忠五郎と申す碁打と共謀して企みたる碁でございますから、友之助は忽ち失敗いたしました、然し百両というは大金、即座に調達も出来兼ます処から、予ての約束通り百両の金の抵当に一時女房お村を預けて置きました、それから漸く百両の金を算段して持参いたし、女房と証文を返してくれと申入れました処、その証文面の百という字の上に三の字を加筆いたし、いや百両ではない、三百両だ、もう二百両持って来なければ女房を返す訳には行かぬと云って、只百両の金を捲上げてしまいました、余りの事に友之助が騙りめ泥坊めと大声を放って罵りますと、門弟どもが一同取ってかゝり、友之助を捕縛して表へ引出し、さん〴〵打擲した揚句の果、割下水の大溝へ打込み、木刀を以って打つやら突くやら無慙至極な扱い、その折柄何十人という多くの人立でございましたが、只気の毒だ、可愛相だというばかりで、もとより蟠龍軒の悪人なことは界隈で誰知らぬ者もございませぬ故、係り合って後難を招いてはと皆逡巡して誰一人止める者もございませぬ、ところへ丁度私が通りかゝりましたから、直ぐさま飛懸って止めようかとは存じましたが。予て左様な処へ口出しは一切いたしませぬと誓いました母と同道のこと故、急立つ胸を押鎮め、急ぎ宅へ帰って宅の者を見届に遣わしましたる所、以前に弥増す友之助の大難、最早棄置き難しと心得、早速蟠龍軒の屋敷へ駈付け、只管詫入り、せめて金だけ返してやってくれと申入れましたる所、私に対して聞くに忍びぬ悪口雑言、其の上門弟ども一同寄って群って手当り次第に打擲いたし、今でも此の通り痕がございますが、眉間に打疵を受けました、其の時私は蟠龍軒を始め一同の者を打果そうかとは思いましたが、予て母の意見もあります事ゆえ、無念を忍んで其の儘帰宅いたしました、然る処母が私の眉間の疵を見まして、日頃其方の身体は母の身体同様に思えと、二の腕に母という字を入墨して、あれ程戒めたのに、何故眉間に疵を負うて来たかと問詰められて一言の申訳もございませぬ、母の身体同様の此の身に疵を付けては第一母に対して申訳なく、二つには彼のような悪漢を生け置く時は、此の後どのようなる悪事を仕出来すかも知れぬ、さぞ町人方が難渋するであろうと思いますと、矢も楯も堪らず、彼等の命を絶って世間の難儀を救うに若かずと決心いたし、去ぬる十五日の夜、御法度をも顧ず、蟠龍軒の屋敷へ踏込み、数人の者を殺害いたし候段重々恐入り奉ります」
奉「蟠龍軒が悪人ならば上に於て成敗いたす、悪人だから切殺したと申すは言訳にはならぬぞ」
文「恐入ります、言訳にならぬは承知の上、如何様とも御処分を願います」
奉「其の夜如何致して忍び込み、如何にして殺害いたしたか、詳しゅう申立てえ」
文「其の夜の丑刻頃庭口の塀に飛上り、内庭の様子を窺いますると、夏の夜とてまだ寝もやらず、庭の縁台には村と婆の両人、縁側には舎弟の蟠作と安兵衞の両人、蚊遣の下に碁を打って居りました、よって私は突然女ども両人を切らば、二人の奴らが逃げるであろうと斯う思いまして、心中手順を定め、塀より下り立ち、先ず庭に涼んで居りました村と婆を後へ引倒し、逃げられぬように手早く二人の足に一刀を切付け、それから縁側の両人を目がけて其の場に切伏せ、当の敵たる蟠龍軒は何処にありやと間毎々々を尋ねますと、目指す敵の蟠龍軒は生憎不在と承知いたし、無念遣る方なく手向う門人二三を打懲らし、庭に残して置きました村と婆を切殺して其の儘帰宅致しました、このお村という奴は顔に似合わぬ毒婦にて、二世を契った夫友之助を振捨てゝ、蟠龍軒と情を通じて、友之助を亡き者にせんと企みたる女でございます、いつぞや私を取って押え、痰まで吐きかけた恩知らず、私の遺恨とは申しながら、今に残念に思うて居ります」
と、一点の澱みもなく滔々と申立てました。
十
時に石川土佐守殿、
「其の方の心底はよう相分ったが、左様の義侠心を持ちながら何故其の場を逃退きしぞ」
文「恐れながら申上げます、逃げたとはお情ないお言葉でござります、たとい敵の片割数人を切殺すとも、目指す敵の蟠龍軒を討洩らし、其の儘相果て申すも残念至極でござります故、瓦をめくり草の根を分けても彼を尋ね出し、遺恨を霽した其の上にて潔く切腹いたそうか、斯くては卑怯と云われようか、寧そ此の場で切腹いたそうかと思案にくれて居りますところへ、何処で聞付けましたか下男森松が駈付けまして、母の大病直ぐ帰るようにと急立てられて、思わず帰宅仕りました、ところが案外の大病、母の看護に心を奪われ、思わず今日まで日を送りましたる次第、心から女々しき仕打を致しました訳ではございませぬ、文治の心底、御推量下さらば有難き次第に存じ奉ります」
奉「ふうむ、確と左様か」
文「恐れながら一言半句たりとも上を偽るような文治ではございませぬ、御推察を願います」
奉「うむ、同心、源太郎を引け」
同心「はゝっ、業平橋三右衞門店源太郎、這入りませえ」
奉「源太郎、其の方儀、去る十四日御老中松平右京殿御下城の折、手続きも履まずお駕籠訴申上げ候段不届であるぞ」
源「恐入ります、併し手前は町人の事にて何の弁えもございませぬが、何の罪もない者に重罪を申付くるという御法がございましょうか」
奉「黙れ今日其の方に尋ぬるは余の儀ではない、友之助が北割下水にて重傷を負い、其の方宅へ持込まれたと云うは何月何日じゃ」
源「御意にございます、それは六月十四日の夕刻とおぼえて居ります」
奉「確と左様か」
源「はい」
奉「其の時浪島文治郎は其の方宅へまいったか」
源「はい、もう其の日の暮方でございましたが、急いで手前の宅へまいりまして、友之助は何処に居るかと申しますから、奥に寝たきり正体もございませんと申上げますと、誠に気の毒な事をしたと申しながら奥へまいって、何ういう訳で今日あのような目に遇ったか、事の概略は聞いて来たが、一通りお前の口から聞かしてくれと申しまして、あの悪党の蟠龍軒が無慈悲な為され方を聞いて居りました、そう云う訳では聞棄にならぬ、これから蟠龍軒の処へ往って掛合うて来ると申しますから、手前は彼のような悪人にお構いなさるなと強って止めましたが、日頃の御気象、お肯入れもなく其の儘おいでになりました、其の時は何ういうお掛合をなすったか知りませんが、遇ったら聞こうと思って居りますと、其の翌晩、蟠龍軒の屋敷に四人の人殺しがあったという評判、只今承われば文治様の仕業だと申す事ですが、全く蟠龍軒の屋敷の者を斬殺しましたのは、諸人の為でございます、何卒お命だけはお助け下さいますよう願い奉ります」
と文治のあさましき姿を見ては水洟を啜って居ります。
奉「それに相違ないな」
源「御意にございます」
奉「文治郎、源太郎、追って呼出すゆえ神妙に控え居ろうぞ」
同心「立ちませえ」
是にて吟味落着致しまして、諸役人評定の上、文治儀は死罪一等を減じて、改めて遠島を申付けるという事に決定いたしました。総じて罪人に仕置を申し渡しますのは朝に限ったものですが、尤も牢名主へは其の前夜、明日は誰々が御年貢ということを知らしたものでございます、そうすると牢名主の指図で、甲の者がお召になります時は、外の罪人二人と共に髪を結わせ湯を使わせますから、事実誰がお召出しになるのか分りませぬ。銘々慾がありますから自分ではあるまいと思って居ります。さア其の日の朝になりますと、当人へ今日お年貢という事を申し聞けるや否や、すぐ切縄と申しまして荒縄で縛って連れて行かれるのでございます。此の時は何様な悪人でも、是が此の世の見納めかと萎れ返らぬ者はありませぬ。其の昔罪人は日本橋を中央として、東国の者ならば小塚原へ、西国の者ならば鈴ヶ森でお仕置になりますのが例でございます。で、鈴ヶ森へ往く罪人ならば南無妙法蓮華経、また小塚原へ往く罪人ならば牢内の者が異口同音に南無阿弥陀仏を唱えて見送ったそうでございます。さて文治遠島の次第は重役は勿論、右京殿家来藤原喜代之助も其の前日聞知りましたが、当番の都合にて直ぐ様文治の留守宅へ知らせる事が出来ませぬ。漸く其の日の夕方文治の宅へまいりまして、
喜「えゝ頼みます」
町「はい……おや藤原様でございますか、さア何うぞお上り下さいまし、まア暫くでございました、何うぞ此方へ」
喜「存外御無沙汰いたしました」
町「手前の方でも御存じの通り種々心配がございますので、思いながら御無沙汰いたしました」
という声も涙声、母には死なれ、頼みに思う夫は揚屋入り、後に残るのは其の身一人ですから、思えばお町の身の上は気の毒なものでございます。
十一
喜代之助は云い出しにくそうに、
喜「さて、今日参りましたのは、えゝ……いや、どうも誠に御無沙汰いたした、就きましては……」
町「もし藤原様、あなたは文治の事でお出で下すったのではございませんか」
喜「さゝ左様」
町「さア何うなりました藤原様え……藤原様、文治が命に別状でもありはしませぬか、ねえ藤原様」
喜「いえ、お命に別条はござらぬが、只……」
町「藤原様、何うぞお早く仰しゃって下さいまし、もし文治が遠島にでも……」
喜「左様、これが愈々明日になりました」
町「えッ、いよ〳〵……」
喜「はい」
と暫く二人は俯向いたまゝ思案に暮れて居りましたが、やがてお町は心を取直しまして、
町「藤原様え、明日は何時頃出帆いたすのでございましょう、たしか万年橋から船が出るとか承わりましたが左様でございますか」
喜「左様、あなたも嘸御心配なすったでしょうが、明日こそはお目に懸れます、併し私はお役柄の御近習ゆえ、役目に対して残念ながらお目に懸ることが出来ませぬ、あなたはお名残のためお出でなさいまし、御近所まで私が御案内いたしましょう」
町「はい、何うも致し方がございません、一目……えゝ、もう止しましょうよ」
喜「そりゃまた何故ですか」
町「何故って貴方、叱られますもの」
喜「あゝ成程日頃の御気性をよく御存じでございますな、併し是が一生の……」
町「左様でございますね、会って話は出来ませんでも、せめては……いや思い切りましょう、事に依ると生涯離縁するなどと……もう〳〵諦めましょう」
と云う声さえも涙でございます。
喜「それは御尤ですが、併し……はてな、何うしたら宜かろうか知らん」
と倶に涙に暮れて居りますと、表の方に
「お頼み申します」
町「はい、何方で……おや亥太郎さんでございますか、さアお上りなさいまし」
亥「えゝもう此処で宜しゅうござります、御新造様永々お世話になりましたが、明日私やア遠方へまいります、また長えことお目にかゝれません、へえ、ご、ご御機嫌よう、左様なら……」
町「あゝもし亥太郎さん、まアお待ちなさい」
亥「えゝ、もう」
町「まア〳〵少しお待ちなさい、お顔色もお悪い様子で、何か変事でもございますか」
亥「いゝえ別に」
また、表の方で、
「へえお頼み申します、國藏でございます」
亥「やア國藏か」
國「やア棟梁か、へえ御新造、御機嫌宜しゅうござんす、棟梁にも宜い処でお目にかゝりました、まア当分お目にかゝれませんから、随分御機嫌よう、へえ左様なら、お暇を……」
亥「おい〳〵國藏待て、変なことを云うじゃねえか、己も実は此方へお暇に来たんだ、お前は何処へ往くのだ」
國「えゝ中々遠方でござんすまア当分お別れだ」
亥「手前は明日万年橋へ……」
と云いかけて暫く四辺を見廻し、
「國藏、貴様も遣付ける積りか」
國「棟梁、お前も」
亥「ウム、己も決心した」
國「そんなら頼もしい」
と眼と眼で示し合わして、
両人「御新造様、御機嫌よう」
町「まア〳〵お二人ともお待ちなさい、今一言仰ゃった万年橋というのは」
二人「実は命を棄てましても」
町「まアお二人とも」
喜「こら〳〵お二人ともお控えなさい」
二人「これは〳〵藤原様、お前さんのお蔭様で旦那も命が助かりました、有難うござんした、さア直ぐお暇致しましょう」
喜「まアお二人とも少しお待ちなさい、えゝ只今お二人がお蔭で旦那の命が助かりましたと仰しゃったが、その次第柄は御存じで仰しゃったか」
亥「そんな事を知らねえで済みますものか、ねえ、いろ〳〵お前さんのお骨折で助かったこたア蔭ながら……なア國藏、お礼を申さねえ日は無えなア」
喜「それほど文治殿の助かった事を喜びながら、その文治殿に恥を掻かせる積りかな、それとも殺す気かな」
亥「こりゃア妙な事を仰しゃいますねえ、旦那を殺すの恥を掻かせるのとは何のことでござんす、此方とらア自分の命を棄てゝも旦那を助ける覚悟だ、又一旦思い込んだ事ア一寸も後へ退かねえ此の亥太郎でござんすぜ」
喜「然らばお前さん方は其の恩人の文治殿を、明日の遠島船の出帆の場に切込み、同人を助け出して上州あたりへ隠そうという積りでござろうな、それとも違いましたかね、何うでござりますな、さア其の文治殿は悪人でござるか、乃至泥坊でござるか」
亥「えッ旦那、妙なことを仰しゃいますね、誰が悪人と申しやした、泥坊なんぞ為るような旦那で無えと云うことは誰でも知ってるじゃアござんせぬか」
喜「さア其処です、文治殿こそは日本に二三とあるまじき天晴名士と心得ますが、何うでござるな、その日本名士が上州あたりの長脇差や泥坊が、御法度を犯して隠れている汚れた国へまいりますか、よもや文治殿はそんな拙い者ではありますまい、よしまた往くとしても、生涯山中に隠れ潜んで、埋木同然に世を送るような人物とは些と肌が違いましょうぞ、左程逃げたき文治殿ならば、友之助が無実の罪に服したのを幸いに、のめ〳〵と宅に居て知らぬ顔をしていましょう、友之助を助けようが為に自分の一命を差出して明白に上のお裁きを仰ぐくらいの名士、そんな端たない者ではござりませんな」
と云われて亥太郎と國藏は眼ばかりパチ〳〵やって居ります。
十二
藤原喜代之助は尚も言葉を継いで、
「こゝで文治殿が一度逃出せば、生涯悪人の汚名を負わなければ成らぬ、そんなむずかしい事を云っても分りますまいが、天網恢々疎にして洩らさず、其の内に再び召捕られたら、いよ〳〵国中へ恥を曝さなければ成りますまい、只今お町殿へ明日のことを申上げ、お別れに只た一目お逢いなされてはと申入れましたが、文治殿の平常の気象を御存じゆえ、此の場合未練がましく別れにまいったら、定めし叱られましょう、お目に懸りたいは山々なれども、じッと堪えてまいりますまいと、流石は文治殿の御家内だけ……女ですら斯様でありますのに、あなた方は只文治殿の事のみを思い、お心得違いをなさいましたなア、さア分りましたらお止りなさい、如何でござるな」
これを聞きました両人は頭を下げ、只男泣に歯ぎしりして口もきかれませぬ。
喜「まだ御合点なさいませんか」
両人「それじゃア旦那にお目にかゝる事は出来ませぬか」
喜「いゝえ、何うしてあなた方も明日は是非お見送りを願います、まさか私は役人でござるから、よし義の為にもせよ、一旦罪人と極って遠島申付けられた者に逢うことは出来ませぬ、是非ともあなた方はお出で下すって、私の申した事を文治殿へ宜しく申伝えて下さい」
両「よく分りました、じゃア仰せに従って諦めましょう、けれども御新造様も私どもと一緒に、お別れに只た一目お逢いなせえまし、此の世の名残りに往かっしゃるのに、何ぼ御気象の勝れた旦那だって、人情を知らねえ事アありますめえ、何とも仰しゃる気遣はありゃアしませんや、ねえ旦那」
喜「如何にも……就てはお町殿、せめて遠目でなりとも」
町「万年橋とやら申す橋より船までは余程離れて居りますか」
國「へえ、僅か半丁ばかりしか離れて居りません」
町「それでは其の橋の上から旦那の心付かぬように、余所ながらお別れいたしましょう」
喜「成程、それが宜しゅうござろう、各々文治殿には見知られぬよう気を付けてやって下さい」
両「承知いたしました」
お話分れて、本所大橋向うの万年橋、正木稲荷の河岸は、流罪人の乗船を扱いまする場所でござります。尤も遠島と申しますのは八丈島、三宅島にて、其の内佐渡は水掻人足と申しまして、お仕置の中でも名目は宜いのでござりますが、囚人の身に取っては一番辛い処でありますから、滅多に長生する者はございませぬ。今文治が遠島と極りましたのは三宅島でございます。いよ〳〵船が万年橋から出るという前夜になって、親戚故旧の人に知らせますので、当日は親類縁者は申すに及ばず、友人達は何れも河岸に集って身寄の囚人を待受けて居ります。其の内に追々囚人が送られてまいりますが、中には歩けませんで畚に乗って参る者もございます。文治は成るたけ人に逢わぬように、俯向いて目立たぬように小さくなってまいりましたが、國藏が早くも見付けまして、
國「やア旦那々々」
文「國藏か、よく来てくれたな、皆んな達者で居るだろうな」
國「へえ、皆な達者ですが、旦那、何故私を代りにやってくれねえんです、やい森松、早くお町様をお連れ申せ」
文「こりゃ國藏何故に町を連れて来たか、此の姿を女房に見せて己に恥を掻かせるのか、此処へ連れて来ると女房も貴様も離縁してしまうぞ、此の文治は予て切腹と覚悟して居ったところ、上のお慈悲で助けられ、生恥を曝すことかとなるたけ人に姿を見られぬよう心して来たのに、未練にもお前達まで集まって此の文治に恥の上塗をさせる了簡か、近寄ると生涯義絶するぞ」
國藏は恟り驚いて、
國「何時に変らぬ旦那の気象、悪い気で来たのじゃ無えから勘弁して下せえ、やア森松、御新造を橋の上に置いて手前ばかり来い」
森「だってそりゃア無理というものだ、御新造様、旦那があゝ云っても生涯のお別れですから、彼処までお出でなせえ」
町「いゝえ、私は此処でお顔を拝見してお別れいたします、日頃の御気象はよう存じて居ります」
と橋の上にて手を合せたまゝ、声も出さず、涙一滴流しもせず、一心に夫の無事を祈って居ります。森松は気の毒に思いまして、
森「御新造様、たとい叱られてもお側へ往って一目お逢いなせえまし」
町「未練がましく近寄れば必ず離縁されるに相違ござりませぬ、私ゃアそれが辛うございますから」
國「やア森松、もう時間が切れるぞ、早く〳〵」
時に獄丁の横目と申す者が、
「さア〳〵限りはねえ、早くしろ〳〵、長くなると為に成らねえぞ」
と一々囚人を集めて居ります中に、ブウ〳〵という法螺貝の音、
横「さア〳〵此奴らア何時まで居やがるんだ」
と追々囚人を引立てゝ船に乗込まして居ります。
十三
見送って居ります國藏、森松の両人は
「旦那ア、旦那ア、御新造を始め後のこたア御心配なさいますな」
と男泣に泣出す途端に亥太郎が駈付けてまいりまして、
亥「森松、國藏、旦那は何処に居るんだ」
國「あゝ亥太郎兄イか、旦那は彼処へ」
亥「ど、ど何処に」
森「もう船に乗っていらア」
亥「やア旦那、一寸待って下せえ、遅かった」
役「これ〳〵控えろ、もう時間だ」
亥「時間も糸瓜もあるものか、ぐず〳〵すると打殺してしまうぞ、誰だと思う、豊島町の亥太郎だぞ」
役「やアまた亥太郎めが来やがったな」
亥「やかましい、旦那、何うも飛んだ事になりましたなア」
と鬼を欺く亥太郎も是が一生の別れかと、わッとばかりに泣出しました。附添の同心も予て亥太郎の事は承知して居りますから、
同心「やア亥太郎が始めて泣きやアがったぜ、大きな口だなア、其の癖手放しで泣いて居やがらア、アッハヽハヽ、さア〳〵もう宜かろう」
亥「えゝ未だ何にも云やしねえ、ぐず〳〵しやがると死者狂いだぞ、片ッ端から捻り殺すからそう思え」
文「これ〳〵亥太郎殿、お上の御法を犯しては成りませんぞ、何事も是までの因縁と諦めて、随分達者にお暮しなさい」
亥「お前さんばかり口がきけて私にゃア少しもく、く、口がきけねえ、旦那、達者でいて下せえよ」
此処へ大橋の方から前橋の松屋新兵衞が駈付けてまいりましたが、人ごみで少しも歩けませぬ、突退け撥返し、或は打たれ或は敲かれ、転がるように駈出しましたが、惜いかな罪人はあらまし船に乗って、今一度の貝の音でいよ〳〵出帆するのであります。新兵衞は大声を挙げて、
新「業平橋の旦那ア、業平橋の旦那ア」
役「これ〳〵静かにしろ、控えろ」
と突退けますので、此方から潜って往こうとしますると又突退けられます。向うに亥太郎と文治の姿が見えながら近寄ることが出来ませぬ。新兵衞はふと一策を案じて懐中から金入を取出し、物をも云わず掴出しては横目や同心に水向け致しまするが、同心どもは金の欲しいは山々なれども、仲間や重役の前を憚って顔と顔を見合せて居ります。気が急かれます故、新兵衞は突然一分銀を一掴みパラ〳〵と撒付けますと、それ金が降って来たと、餓虎の肉を争う如く金を拾わんと争う間を駈抜けて文治の前へまいりまして、
新「旦那様、お情ないお姿におなりなさいましたな」
文「新兵衞殿、ようお出で下された、かく成り果るも自業自得、致し方がござらぬ、最早出帆の時刻、お役人にお手数をかけては相済まぬから、早くお帰り下さい」
役「其の方は何者じゃ、控えて居れ」
新兵衞はホロ〳〵涙を流しながら、
新「旦那様、これが一生のお別れかと思うと、何うも此の身体が……申上げたいことは山々ございますが、何から申上げて宜しいやら……これはお餞別でござります、何うか御受納下さいますよう」
と五十両の小判を文治の懐中へ入れようと致しまする。側に居ります同心は一応検めて罪人に渡しまするが掟でございますから、横合から手を出して取ろうと致しますると、亥太郎が承知いたしませぬ。
亥「やい同心、刃物や火道具じゃア有るめえし、引ッ奪るには及ぶめえ、何だと思う金じゃアねえか、さア己が検めて見せてやろう、此の通りだ、何も不都合はあるめえ、旦那、お懐へ入れますよ」
文「新兵衞殿、何よりのお餞別、何時に変らぬ御親切、御恩誼は決して忘却致しませぬ」
と言葉の切れぬ中に法螺貝の音ブウ〳〵〳〵。文治が船に足を掛けるや否や、はや船は万年橋の河岸を離れました。船中に居ります罪人は何れも大胆不敵の曲者でありますが、流石に面に一種の愁を帯び、総立に立上りまして、陸を見上げる体を見るより、河岸に居る親戚故旧の人々はワッ〳〵と声を放って泣叫ぶ。その有様は宛ら鼎の沸くが如く、中にもお町は悲哀胸に迫って欄干に掴まったまゝ忍び泣をして居りまする。さて三宅島は伊豆七島の中でありまして、最も罪人の沢山まいる処であります。先ず島へ船が着きますると、附添の役人は神着村大尽佐治右衞門へ泊るのが例でございます。此の島は伊豆七島の内で横縦三里、中央に大山という噴火山がありまして、島内は坪田村、阿古村、神着村、伊豆村、伊ヶ島村の五つに分れ、七寺院ありて、戸数千三百余、陣屋は伊ヶ島に在りまして、伊豆国韮山郡代官太郎左衞門の支配、同組下五ヶ村名主兼勤の森大藏の下役頭平林勘藏という者が罪人一同を預かり、翌日罪状と引合せて、それ〴〵牢内に入れ置く例でございます、文治を乗せたる船が海上恙なく三宅島へ着きますると、こゝに一条の騒動出来の次第は次回に申上げます。
十四
護送役人の下知に従いまして、遠島の罪人一同上陸致しますると、図らずも彼方に当りパッパッと砂煙を蹴立って数多の人が逃げて参ります。村方の家々にては慌てゝ戸を閉じ子供は泣く、老人は杖を棄てゝ逃るという始末で、いやもう一方ならぬ騒ぎでございます。何事か知らんと一同足を止めて見ますると、向うから罪人が四五十人、獲物々々を携え、見るも恐ろしい姿で、四辺に逃げ惑う老若男女を打敲くやら蹴飛ばすやら、容易ならぬ様子であります。中には刃物を持って居る者もあります。此方は数十人の役人、突棒刺叉鉄棒などを携えて、取押えようと必死になって働いて居りますが、何しろ死者狂の罪人ども、荒れに荒れて忽ち役人も三四人打倒されました。一同何うなることかと顔を見合せて居りましたが、追々怪我人は増えますばかり、義気に富みたる文治は堪え兼て、突然一本の棒を携え、黒煙の如き争闘の真只中に飛込んで大音を挙げ、
文「まア〳〵待て、何事かは知らぬが控えろ〳〵」
と仁王立に突立ちました。此の態を見るより先に立ちたる大の男が、
「やい、汝ゃア何者か、邪魔をしやアがると打殺すぞ」
死者狂いの四五十人が異口同音に、「それ畳め、殺せ」と犇く勢凄まじく、前後左右より文治に打ってかゝりました。
文「よし、拙者の止めるのを肯かぬのか、さア来い」
と二打三打打合いましたが、予て一人でも打据える気はございませぬ、受けつ流しつ数十人を相手に程よくあしらって居ります。「えゝ、こんな奴を相手に手間取るは無益だ」と一人の罪人は烈しく打合う其の中を掻潜って通り抜けようと致しますから、文治は飛退きながら、その一人を引留め、「まア〳〵待った」と声を掛ける途端に、また其の他の者が逃出そうと致しますから、飛鳥の如く彼方へ駈け此方に戻って一々引留める文治が手練の早業に、さしも死者狂の罪人も一歩も進むことが出来ませぬ。隙さず文治は立直りまして大音を張上げ、
文「どういう訳でお前達が挙って騒ぎ立てるかは知らぬが、見れば喧嘩のようでもなし、御法を破るからにゃア何か仔細があろう、何うじゃ〳〵」
罪人「やい、汝ア何者だ、死者狂いの己らを何故止めるか、ふざけやアがると其の分には棄置かねえぞ」
文「まア〳〵静かにしろ、己はの、只た今此の島に流罪の身になって来た罪人だ、仔細を聞いた其の上で共々味方になってやろう、業平橋の文治という者だ」
と聞いて囚人は顔と顔とを見合せて、少しく怯みました様子でございます。先に立ちたる二三の者は、
「やア旦那様か、始めてお目にかゝります、予てお名前は聞いて居りましたがあなたが業平の旦那様ですか、道理で腕に応えがあると思った、仔細というは外でもない、少し訳があって此の島の取締り役人を敲き殺し、一同死ぬ気でございます」
文「その又取締が如何いたした」
罪「日頃罪人一同の喰物の頭を刎ね、剰え年に二度か三度のお祭日に娑婆飯をくれません、余り無慈悲な扱いゆえ、三人の総代を立てゝ只管歎願いたしました処が、聞入れないのみか、上役人の扱いに不服を唱えるとは不届千万な奴だと云って、その三人を庭の樹の枝に縛り上げ、今日で三日半ほど日乾にされて居ります、たとい悪党にもせよ其の三人を助けなきゃア浮世の義理が立ちません、何うぞ業平の旦那様、此の儘我ら一同をお通しなすって下せえまし」
文「ふうむ、そうか、そりゃ宜くない話だ、そういう訳なら斯く申す文治が一身に引受けて、お役人にお詫をして見ようから、まア暫く静かにして下さい」
一同「旦那、そりゃア兎ても駄目でござんす、訳を云ったところが兎ても分る奴じゃアありません、いっその事に」
文「まア〳〵待ちなさい、兎も角も己が往って詫びて見る、己が挨拶をするまでは決して手出しをしては成らんぞ、悪口しても棄置かんぞよ、いよ〳〵肯入れなければ兎も角も、血気に逸って心得違いをいたすまいぞよ」
と一同を制して、其の中の重立ちたる一人を案内に立たせまして、流罪人取締の屋敷へまいりますると、二三の若者が抜刀で立って居ります。そんな事に恐れる文治ではございませぬから表に一同を待たせ置き、身に寸鉄も帯びず、泰然自若として只一人玄関指してまいりますと、表に居ります数多の罪人が、「旦那、危ねえ、危ねえ、抜いてら〳〵、そうれやッつけろ」と気早な連中は屋敷の内へ飛込もうと致します。
文「これ〳〵無礼を致すな、己にも心得があるから暫く静かにしていろ」
やがて文治は抜刀を携えたる若者の面前に膝を突いて一礼いたしますと、
役人「やい〳〵貴様は何者か、ぐず〳〵すると打切るぞ」
文「はい、私は只今江戸表より流罪になりました囚人でござります、只今一同の囚人の大騒ぎを見るに忍びず、一旦鎮め置きまして段々仔細を聞きましたるところ、囚人に有勝の食料のこと、棄置かれませんゆえ、お役人様へお目通り歎願いたしとうござります、宜しゅうお取次を願います」
と落着き払って述立てました。
十五
文治の言葉を聞いて役人は目に角を立て、
役「何だ新入の囚人だ、生意気な奴だ、打据えるぞ」
文「これはしたり、囚人一同の者に代り申上げます事故、御無礼の段は御容赦下さいまして、一度はお聞済の上、お頭様に拝顔の適いまするようお取計らいを願います」
役「小癪な奴だ、新入の癖に一同の総代とは何事だ、えゝ面倒だ、切殺せ」
と一人の役人が抜刀を振上げました。此の時に奥に居りました平林が、「これ〳〵少し待て」と玄関正面に立上り、文治を眼下に見下しまして、
平林「其の方は何者か」
文「恐れながら申上げ奉ります、手前は江戸表本所業平橋の浪人者でござります、此の度流罪申付けられ、只今御島内へ到着いたした者でござります、もとより島内の御様子を知ろう筈もございませぬが、数多の罪人どもが死者狂いの大騒ぎ、何事やらんと取押えまして様子を承わりましたる所、何かお上よりのお手当に就きまして不服を抱き、大勢徒党いたしましたる様子、以ての外の事、不届至極と一応取鎮め置きまして、歎願にまかり出でた次第でござります、承われば罪人の内三人の総代をお留置に相成り候由、非道のおん事も是れ有るまじくとは存じますが、残り一同の罪人どもは、何のような扱いを受けて居るかも知れぬと心配いたして居りますに依って、何卒お留置に相成ります三人の総代をお免し下さいまするよう、さすれば一同の悦び如何ばかりかと存じます、併し一旦騒ぎ立ち候う段は如何にも不届至極の振舞でございます故、御法に照しての御処分は余儀なき次第でございます、くれ〴〵もお慈悲を以て偏に御勘弁の程を願い上げ奉ります」
平「して只今其の方が申したお上よりのお手当とは何事じゃ」
文「はゝア、手前は只今島に着きましたばかり、一向島内の御法は弁えませぬが、何か一箇年に両三度罪人どもへ娑婆飯とか申して米の御飯を下され候由、僅かの事を楽しみに歳月を送ります無気力の囚人ども、お助け下され候わば一同悦ばしく存じます、此の儀偏えにお汲取り下さいますよう」
平「黙れ、それはな、上のお慈悲を以て下さる事ではあるが、本年は囚人どもが平生の不届少からぬに依って、白飯のお手当がないのじゃ、虫けら同然の其の方どもとは云いながら、人間の皮を被って居るからにゃア少しは考えて見るが宜い、然るに上のお慈悲なきは身に罪ある故と知らず、徒党を組んで乱暴いたすとは容赦ならぬ曲者ども、一人も免すことは相成らぬ、皆殺しに致すから左様心得ろ」
文「お言葉に背くは恐入りますが、平生不届の事がございますれば、それ〴〵御処分方もございましょう、お手当を減ずるというは如何かと存じます、お慈悲を以てお改め下さいますようくれ〴〵も願い奉ります」
平「うるさい、いや、貴様も同類だな、者ども縛り上げえ」
文「かくの通りお役人様方抜刀の下に居りますこと故、縛られて居るも同様、此の上お縄を頂戴いたしますとも決して厭いは致しませぬが、何卒右の願いお聞済の上にて……」
平「成らぬ、それ打て」
下役「はっ」
と抜刀を鞘に納め、樫棒を持ちまして文治の脊中を二つ三つ打ちましたが、文治は少しも動く気色もなく、両手を支いたまゝ暫く考えて居りました。何思いけん不図起き上りまして、又打ち来る利腕をピタリと押え付け、
文「無法なことを為さいますな」
役「あいたゝゝ、あいたゝ」
見るより平林は烈火の如く憤り、
「それ、その悪党を切ってしまえ」
役「畏まって候」
と抜刀の両人、文治の後より鋭く切掛けました。其の時早く文治は前に押えた腕を捩上げ、同役二人が振下す刀の下へ突付けました。はっと思って二人が退る途端に身を交して空を打たせ、素早く掻潜って一人の利腕を捩上げ、尚お一人が、「小癪なことを為やがる」と横合より打込み来る其の間に、以前に捩上げたる下役の腕を反して前へ突放したから耐りませぬ、同役同志鉢合せをして二人ともに打倒れました。残りし一人が又々抜刀を取直し、「無礼なやつ」と打掛る下を潜って一当て当てますと、脂を甞めた蛇のように身体を反らせてしまいました。此奴容易ならぬ曲者なりと、平林は手早くも玄関の長押に懸けてありました鉄砲へ火縄を挟み、文治へ筒口を向けましたから、文治は取って押えた両人を玉除に翳し、
文「さア打つなら打って見ろ」
と袖下に忍んで様子を窺って居りまする。流石の平林も如何とも詮方なく、踵を反して奥の方へ逃込みました。何をするか知らぬと思う間もなく、三日半も干乾にして庭樹の枝に縛り付けてあった囚人目がけてズドンと一発放つや否や、キャッという叫び声。最早これまでなりと文治は飛鳥の如く飛上り、平林が振上げて居ります鉄砲の手元へ潜り付き、一当て急所へ当てゝ倒れるを見向きもせず、吊し上げたる三人の縄を解き、疵を検めて見ますると、弾丸は外れたものと見えて身体に疵はありませぬ、尤も鉄砲の音に胆を消したものと見えて、三人とも気絶して居りまする。
十六
樹の枝に縛り付けられて居ります三人の囚人は気絶して居るので、文治は冷水を吹掛けて介抱して居りますると、後の方に当ってわア〳〵という騒がしい声、振向きますと、表に待たして置いた罪人の内七八人の逸雄が踏込んでまいりまして、最早平林を刺殺してしまいました。文治は恟りして、
文「えゝこれ何事じゃ、役人を殺すくらいなら今まで苦労は致さぬぞ、最早これまでなり」
と身支度して切腹の様子でございます。
一同「旦那、何を為せえます、あなたは何も知らねえ事、素々こちとらが始めた仕事です、仮令何の様な事が有ろうとも決して旦那に御迷惑は掛けません、さア斯うなるからは仕方がねえや、遣る所まで遣付けろ」
文「此の上尚お徒党を組んで乱暴な振舞をしては上の御法に対して済むまいぞ、先ず一同控えろ」
一同「何の、何うせ晩かれ早かれ命の無え身体だ、それ遣付けろ」
文「まア〳〵暫く」
と制して居ります処へ、江戸より送りの役人を始め地役人一同表の方へ駈付けてまいりました。切腹と覚悟したる文治は、諸役人の姿を見るより門外に飛出し、後に続く罪人一同を制しながら、ピタリと両手を支えて、
文「え、恐れながら文治申上げ奉ります、只今不法の振舞、皆私が仕業でござります、御吟味の上お仕置を願います」
時に江戸役人は、
「其の方共一同静かにいたせ、文治とやら、只今不法の振舞は其方一人であると申すか」
文「御意にござります」
役「然らば其の方を召連れ吟味致さねばならぬ、一同の者、文治の吟味中、謹んで居ろうぞ、立ちませえ」
と文治一人を連れて役所へまいりますと、続いて地役人一同も引上げました。これは江戸役人の頓智で、死物狂いの囚人を残らず召捕ろうと致しますと、どんな騒動を仕出来すかも知れませぬ故、一時其の場を治めるために態と文治一人を引立てたのでございます。さて江戸役人島役人立会いにて、文治を白洲へ引出し、吟味いたしますと、全く平林が非道の扱いに堪え兼て、囚人一同徒党を組んで暴れ出したという事が分りました。そればかりではございませぬ、平林という奴は誠に横着な奴で、平生罪人の内女の眉目好き者がありますと、役柄をも憚らず妾にするという、現に只今でも一人囲い者にして男児を設けたということでございます。それに引換えて文治の罪状送書を見ますと、下のような裏書があります。
「右の者思召有之候に付、遠島中軽々しく取扱い申すまじく候事、町奉行公用人某印」
としてあります。さア其の頃の事でございますから、町奉行公用人の裏書は中々幅の利いたものでございます。一同顔を見合せましたまゝ別に評議もいたしませぬが、以心伝心で文治に十分の利を持たせ、結句平林は自業自得、殺され損ということに落着いたしました。尚お別席に於て諸役人一同評議の上、文治を呼び出して、「今日より右平林の後役は其の方に申付けるによって役宅に住い、不都合なきよう島内囚人の取締を致せ、下役人一同左様心得ませえ」との有難き言渡しでございます。文治は恐入って両三度辞退いたしましたが、お聞済がございませぬから、余儀なくお請け致しました。文治は上々の首尾にて白洲を引取り、何うなる事かと心配して居りました徒党の囚人一同に向いまして、
文「各々方お悦び下さい、拙者は軽くって切腹、重くって縛り首と覚悟してお白洲へまいりしところ、上のお慈悲を以て罪をお免し下されたのみか、勿体なくも平林殿の後役を不肖文治に仰付けられました、一同左様心得ませえ」
一同夢かとばかり暫し呆気に取られて居りましたが、
一同「え旦那、貴方へお取締役を申付けたのでござんすかえ」
文「如何にも」
一同「それじゃア嬉しいなア、流石にお役人様にゃア眼が有らア、時に私どもが徒党の罪は何うなったのでござんすか」
文「そち達は好んで徒党いたした訳でない、平林の非道に堪え兼て起った事ゆえ、今度に限り其の罪を宥すとの事じゃ」
と聞くより一同雀躍して、
「えっ無罪、え、も勿体ねえ、旦那様お有難う存じます、天道様は正直だなア」
と一同手を合せ大声を上げて泣出しました。文治も共に涙に暮れて居りましたが、稍あって声を和らげ、
文「えゝ各々少し文治がお前達にお頼みがあるが、快く聞済んでくれるか」
一同「そりゃア旦那様、何事かは存じませんが、私どもの命を助けて下すった恩人の仰しゃること、何事によらず承わりましょう」
と一同静まり返って居ります。
十七
文「うむ、聞済んでくれるか、頼みと云うは外ではない、只今御吟味中に一寸小耳に挟んだ事だが、先役人の妾に子供が有るそうじゃな」
と云いかけますと、三四人の荒くれ男が思い出したように立上り、面相変えて駈出しました。
文「これ〳〵待てっ」
三人「何ですか」
文「何だじゃない、仮令夫は非道な扱いをしたにもしろ、女子供に罪はない、その婦人と子供に少しでも手を出す者は棄置かぬぞ、夫が殺されて見れば嘸その女子供が難儀するであろう、義として助けなければ成らんから、拙者を其の妾の宅へ案内してくれぬか」
一同「えっ、旦那、あんな奴を助けるのですか、私やア面を見るのも小憎らしい」
文「いや、坊主が憎けりゃ袈裟までというのは人情だが、そこが文治が一同への頼みじゃ、何うか気を鎮めて聞済んでくれ」
×「然し旦那、彼女め以前江戸にいる時分にゃア、同じ悪党仲間で随分助け合ったものですが、此の島へ来て平林の妾になってからは、一緒になって非道なことを為やがって、義理も人情も知らねえ悪婆でござんすぜ、何うで生かして置いたからって為になる奴じゃアありやせん、寧そ今から往って是までの意趣返しに……」
一同「そうとも〳〵遣付けろ」
文「それをする位なら、こうして一同へ手を下げて頼みはせぬ、まア己に任してくれえ」
×「旦那の仰しゃる事だから一言でも背きたかア無えが、本当に彼奴ア憎らしいからなア」
文「それだから頼むのじゃ、何うぞ其の宅へ案内してくれ」
×「別段案内にゃア及びますめえ、先刻二三人廻して縛って……」
文「何だ、縛り上げて置いた、無法なことをするなア、そんなら仕方がない、兎も角此処へ連れて来てくれぬか」
暫く経ちますると、「助けて〳〵、何うかお慈悲を〳〵」と叫び狂う婦人を連れてまいりました。数多の罪人が揃って居りますのを見て、その婦人は色を失って居ります。文治は遠くより声をかけまして、
文「これ〳〵手荒いことをするな、是れへ〳〵」
お瀧という妾は恐る〳〵文治の傍へ坐りました。
文「お前は何という名じゃ」
瀧「瀧と申します」
文「今日のことは嘸お前も立腹したであろうが、何事も成行じゃ、諦めなさい、さて今日の始末は定めてお聞及びであろうが、お前が夫の平林氏が非道の扱いに堪兼て、一同の囚人が徒党を組んで既に屋敷へ押懸けようと云うところを、此の文治が止めたが、つい過まってお前の夫を殺してしまったのは誠に気の毒の事であった」
一同「なアに、そりゃア己らが殺したんだ」
文「まア〳〵静かにしてくれ、さア私ゃアお前のためには夫の仇、その仇の此の方がお前を呼付けて斯様なことを申したら定めし心外に思うであろうがな、何事も是までの因縁と諦めて、一時此の場の治まりの付くよう勘忍してくれ、然し其の子供が成長して私を仇と狙うなら、其の時は又快く打たれてやろう、それまでは何事も私に任せてくれんか、その内子供が十五歳になって親の後役を継ぎたいという志があるならば、必ず譲るように計らってやろう、それ故お前も昔は音に聞えた悪党、残念では有ろうが善く〳〵謹しんで赦免の日を待つが宜かろう、何うだ」
瀧「えゝ、お有難う存じます、私は決して貴方をお怨みは致しませぬ、何うぞお慈悲をお願い申します」
文「よし、そういう了簡なら、お前の身は此の文治が引受けて助けてやる、これ一同、此の後この婦人に対して少しにても無礼を致すと其の分にゃア棄置かんぞ、さアお瀧殿、平林の屋敷の有金は勿論、衣類其の外入用の品は何なりと持って行きなさい」
もう是までの運命かと半ば諦めて居りますお瀧は、文治の情で一命を取留めた其の上に、只今の情厚き言葉に悪婆ながらも感じたものと見えまして、
瀧「お有難うございます」
と泣伏して居ります。罪人どもは、
「旦那、金や衣類を遣るなんて、そりゃア余りお慈悲が過ぎらア、せめて其れだけは……」
文「あゝ、そう〳〵、気の毒ながら米は其の儘文治が受取ります、明日は後役引受の祝いとして、一同の者へ赤飯を振舞ってやるぞ」
いや罪人どもは赤飯と聞いて悦んだの何の。
一同「へえ〳〵お有難う存じます、旦那様、寿命が延びます、辱なく存じます」
文「一同今日は是にて引取りませえ」
とそれ〴〵役人へ引渡しました。いやもう囚人どもは明日の赤飯を楽しみに喜び勇んで引取りました。思えば罪のないものでございます。此のお瀧と申します婦人はもと八丁堀の碁打阿部忠五郎という者の娘でございます。是にてお話が一寸後へ戻ります。
十八
えゝ、大伴蟠龍軒は丁度秋のことでございますが、自分の屋敷に居りまして、手を拍ち、
蟠「これ〳〵お瀧か、一寸お出で」
瀧「はい、何ぞまた旨い仕事でもありますか」
蟠「いやお瀧今日は御殿女中になって貰わにゃアならん」
瀧「おや、御殿女中とは俄の出世だねえ、まア」
蟠「旨くやると今日こそ金になるぞ」
瀧「そりゃア有難いね」
蟠「緑町の口入屋の婆アを頼んで置いたが、髪は奥女中の椎茸髱に結ってな、模様の着物も金襴の帯も或る屋敷から借りて置いた、これ〳〵安兵衞、緑町の婆アが来たら是れへ通せ」
安「へえ、婆アは先刻から仲の口で独語を言ったり居眠りをしたり、欠伸の十もした時分で」
蟠「そうか、此処へ通せ、おゝ婆アか、久し振だな、何時も達者で結構々々、何うだ近頃は金儲でも有るかな」
婆「いゝえ、此の頃じゃア金儲けどころじゃアございません、不景気なせいか田舎から奉公人が皆無出て来ませんし、また口も好い口がございませんで困り切って居ります、私どもで此の商売を始めてから斯んな商売の閑なことはござんせんねえ」
蟠「時に婆ア、手前は始終屋敷方へ奉公人を入れて居るが、大名や旗下へ女を出すにゃア、髪はどんな風に結うかな、定めしそう云う女中の髪ばかり結う者もあろうな」
婆「そうね、只の髪と違って御殿女中の椎茸髱は六かしいんですよ、幸い此の婆アは年来結いつけて慣れていますから、旗下は斯う大名は斯うと、まア婆アぐらいに結分るものは有りませんね」
蟠「お前は一体器用だからな、婆ア少しお前に頼みがある、今日はまア緩り遊んで往くが宜い」
婆「有難う存じます」
蟠「こりゃア誠に少しばかりで気の毒だが、これで酒の一口も飲んでくれ」
婆「まア、何うも済みませんね、毎度有難う存じます」
蟠「礼にゃア及ばねえ、頼みというのは外じゃねえがな、此女を今度或る大名へ奉公に出すのだが、余り下方風も安ッぽい、手数であろうが御殿風に髪を直してくれまいか」
婆「そんな事なら何の造作も有りませんが、少し道具が入りますから、一寸宅へ帰って持ってまいりましょう、奉公先はお大名ですか、お旗下ですかえ」
蟠「大名よ」
婆「それなら其の様に道具を持ってまいりましょう」
蟠「宅へ帰るのは宜いが、己の宅で斯う〳〵斯様なんて事を云っちゃア困るぞ」
婆「へゝゝ、そんな入らざる口をきくような婆アじゃアございません、何か外に御趣向が……」
蟠「いや別に」
婆「そんなら一寸往って参じます」
蟠「なるたけ急いでな」
と出て往く婆を見送りまして、
蟠「お瀧ッ」
瀧「はい、今日は何んな狂言をするんですかね」
蟠「これは何処其処の御殿女中でござると云って、それ彼の松平の屋敷へ往ってな、殿様の碁の相手をするのよ、己は御近習衆と隣座敷へ退って、一杯飲みながら折を見て寝た振をして居る、やがて御近習が居眠りを始めたら、己がエヘンと咳払いをするから、それを合図に宜いか、旨くやってくれ」
瀧「だって、そんな事は私には……」
蟠「何の出来ぬ事があるものか、遣りそこなったら斯う斯う」
とひそ〳〵囁いて居ります処へ、
婆「只今往ってまいりました、さアお髪を解きましょう、まア好い恰好に出来ていますねえ、ほんに毀すのは勿体ないよ」
瀧「まだお前、昨日結うたばかりだもの」
婆「椎茸髱は、何うしても始めて結う時は、油を沢山塗けないと旨い恰好に出来ませんからね、お心持は悪うございますが、我慢して下さいまし、少しお痛うございましょう……さア出来ました、まア〳〵好くお似合い申しますよ、全体お人柄でございますから、本当に好く似合いますねえ」
蟠「やア何時の間にか出来上ってしまったな、ウム、旨い、併し婆ア近所へも極内々にしてくれえ」
婆「大丈夫でございますよ、序でに召物もお着せ申しましょうか」
蟠「宜しく頼む」
婆「まアすッぱり出来上りました、左様ならお暇申します」
蟠「くれ〴〵も内々にしてくれよ」
婆「はい、宜しゅうございますとも、左様なら」
蟠龍軒はお瀧を連れて松平某の中の口へまいりまして、
蟠「頼む〳〵」
中小姓「どーれ……これは〳〵大伴先生」
蟠「お殿様は御在邸でござるかな」
小姓「はい〳〵丁度御前様もお屋敷でござります、暫くお控え下さいまし」
暫くして近習が出てまいりまして、
近習「これは〳〵先生、よくおいでになりました、さア何うぞ此方へ、おうこれは〳〵予てお話しの御婦人様でござりますか」
蟠「はい、左様にござります」
近「御前様もお待兼でいらせられます、直ぐお通り下さりませ」
蟠「然らば御免を蒙ります、さア何うぞお先へ」
近「どう致しまして、先ず〳〵先生、お通り下さいますよう」
蟠「これは恐入ります、仰せに従いまして失礼を致します」
と先立って御殿へ上る其の様子は、如何にも事慣れたものであります。
十九
このお瀧という女が、先に申上げました阿部忠五郎という碁打の娘で、碁は初段の位でございます。諸家へ奉公致して居りました故、なか〳〵多芸な娘でございますが、阿部の悪心から終に島流しになるような不運な身になったのでございます。御殿女中というものは苦労のない割合に、身体を動かしますから、大概は栗虫のように太りかえって、其の上着物に八口がありませんから、帯が尻の先へ止ってヒョコ〳〵して、随分形の悪いものであります。お瀧は其れとは打って変って成程眉目形は美しゅうございますが、丈恰好から襟元までお尻の詰った細そり姿、一目見ても気味の悪くなるような婦人でございます。
殿「宜う先生おいでたな」
蟠「これは〳〵御前様、此方は予て申上げました御殿女中瀧村様でござります」
殿「おゝ左様か」
とにこ〳〵御機嫌の態。
蟠「さア瀧村様此方へ、御当家の御前様であらせられます、お近附に」
瀧「はい左様でございますか、始めて拝顔を得まして辱けのう存じます、私は瀧村と申します不束者、何うか宜しゅう」
という挨拶振の芝居掛りなるに蟠龍軒は笑いを洩らして、
蟠「はゝゝ、奥女中の御挨拶は些と芝居めきますな、さて御前、お約束のお碁でございますが、私は瀧村殿に二目置きますから、丁度御前様とはお相碁でございましょう」
殿「いや、それは〳〵、なか〳〵強いの」
蟠「何うも御前、世の中には種々の気性の方もあったもので、瀧村殿には僅に三日や四日のお宿下りに芝居はお嫌い、花見遊山などと騒々しいことは大嫌いで、只緩々と変ったお方と碁を打つのが何よりの楽みとは、お年若に似合わぬ御風流なことでござりますな」
殿「風流を好む女子には、時として然ういう者もあるの」
蟠「時に御前、始めてのお手合せでござりますから、何か勝ちました者に御褒美を出すとしては如何でございましょう」
殿「それも宜いの」
蟠「御前が万々お負けなさる気遣いはありますまいが、万一お負けなすったら、えゝ斯うと……金子……金子は些と失礼なようではございますが、外に是れという心付きもござりませんから、矢張金子がお宜しゅうござりましょう、また瀧村殿が負けました時は、金子という訳にもまいりませず、はてな其の外の品々を差上ぐるも失礼、こうと、困りましたな、何か御前また御所望もござりましょうから、何なりお好みにお任せ申すとして、其の辺は取極めぬ方がお宜しゅうござりましょう」
殿様は婦人の珍客ですから余程悦に入って居ります様子。
蟠「何うも御前様、毎度まいります度に御酒の馳走は恐入りますな、これは〳〵千万辱けのう存じます、さア〳〵御近習衆、お側で御酒はお碁のお邪魔だ、ちょっとお次で戴くとしましょう、何れもさア〳〵」
近「さらばお次で」
蟠「えゝ御前一寸御免を蒙ります」
と其の場を外して次の間へ退り、胸に企みある蟠龍軒は、近習の者に連りと酒を侑めますので、何れも酩酊して居眠りをして居ります。蟠龍軒も少しくいびきを掻きながら、様子を窺って居りますと、
瀧「おゝ昼の中に帰ろうと思いましたら、図らず夜に入りまして恐入りました、御前様それはいけませんよ、いゝえ私は其処へ打ちましたのではございません、此方へ伸びたのでございます、お寄せなすッちゃア御無理ではございませんか、御前様お止し遊ばせ、手前は碁のお相手に……」
頃合を計って蟠龍軒、
「ウーイ、余り御酒を過したので御前をも憚らず、とろ〳〵と睡って大きに失礼いたした、おや、お燈火が消えましたな、御近習お燈火を」
と御前の座敷へ踏込み、何やら難題を吹掛けましたので、松平の殿様も弱り果て、
殿「何事も内済に致せ、これ誰そある、金子を遣わせ」
近「はゝッ」
とまご〳〵して居ります処へ、後の襖を押開けて、当家の老臣妻木數馬という者が入り来りまして、
數「その金子は手前どもが遣わします、御前様にはお奥へ〳〵、これ御近習衆、御前をお奥へお連れなさい」
近「はゝア」
と殿様のお手を取って奥へ連れ込んでしまいました。老臣數馬は容を正し、
數「これ大伴氏、いや先生もう少しお進みなされ、さて先生、この婦人は何れからお連れなすった、御殿女中なら御宰(下供)を連れべき筈なるに、男一人同道するとは如何にも不審と承わりましたゆえ、御殿へまいり、篤と様子を取調べました処、左様な女はござらぬという、さア何処の奥からお連れになりました、大伴氏如何でござるな」
と問詰められて、流石の悪漢も返す言葉なく、
蟠「えゝ〳〵これはその何でござる、実は先日朋友がまいりまして、八丁堀辺の侍の娘で、御殿奉公を致して居る者であるが、至って碁好な娘、折があったら御前へととと取持を頼まれまして」
と苦しまぎれの出鱈目を云って居りまする。
二十
時に妻木數馬は、
數「いやさ、御殿女中とは真赤な偽りでござろう、尤も衣類簪の類は好う似て居るが、髪の風が違いますぞ、これはお旗下か諸役人衆の女中の結い方、御城中並びに御三家とも少しずつ区別があると申す事故、其の道の者に鑑定致させたる処、よく出来ては居るものゝ御殿風ではないという、察するところ、囲碁の心得ある何者かの娘を御殿女中風に仕立て、御前を欺いて金銭を貪る手段でござろう、さればこそ衣類と髪の不似合な装いをしたのでござらぬか、さりとは不届至極な為され方、さア此の上は両人とも当家を引立て、大目附衆へ差出さねば成らぬ、其の上当家に越度あらば寺社奉行の裁判を受けるでござろう、とは申すものゝ罪人を作るも本意でない、何も言わずに此の儘お帰りなさるか」
とすっかり図星を指されて何と言い紛らす術もなく、
蟠「ウウッ、ウーム、これは全く、へえ〳〵何も言わずに此の儘……」
數「然らば免し遣わす、併し大伴氏、今日限り当家へお出入は御無用でござるぞ」
と追立てられまして、蟠龍軒、お瀧の両人は目算がらりと外れ、這々の体で其の儘逃帰りました。悪事千里とは好う申したもの、何時しか此の事がお上の耳に伝わりまして、お瀧は忽ち召捕となり、続いて遠島を申付けられました次第でございますが、如何にも島人に珍らしき美人でありますから、平林が勝手に引出して、妾にいたして置きました処、前回に申上げた騒動が起って、夫平林は殺されてしまったのでございます。お話変って町奉行石川土佐守は、ある日御用があって御老中松平右京殿のお役宅へまいりました。さて御用済の上右京殿は土佐守に向いまして、
右「いかに御奉行、唐土から種々の薬種が渡来いたして居るが、その薬種を医者が病気の模様に依って或は緩め、或は煮詰めて呑ませるというのも、畢竟多くの病人を助ける為で、結句御国の為じゃの」
土「御意にござります」
右「日本の島々に居る者でも随分用いように依ると、国の為になる者もあろうの」
土佐守は御老中が突然の問に、はて奇妙なお尋ねも有るものかなと暫く考えて居りましたが、もとより奉行でも勤めるくらいのお方でありますから、それと心付きまして、
土「御尤もにござります、思召し通り取計らいましょう」
とお受を致しました。別段申上げませずとも、文治を赦免いたせと云う思召であると云うことは皆様もお察しでございましょう。奉行は役宅へ帰りまして、「三宅島罪人小頭浪人浪島文治郎儀、流罪人扱い方宜しく且又当人島則を厳重に相守り候段、神妙の至りに付、思召を以て流罪赦免致すもの也」という赦免状を認めまして、その赦免状の三宅島に着きましたのは、天明の前年即ち安永九年初夏の頃でございます。さてまた本所業平橋の文治留守宅におきましては、主人が流罪の身となりましたので、お町は家計を縮め、森松を相手に賃仕事などして、其の日〳〵を煙を立てゝ居ります。松屋新兵衞を始めとして亥太郎、國藏も文治の恩誼を思い、日々夜々稼ぎましては幾許かの手助けをして居ります故、お町は存外困りませぬ、或日友之助が尋ねてまいりまして、
友「へえ、お頼み申します、友之助でござります」
森「やア友さん、よく来たなア、大分暑くなったじゃアねえか、さア上らっしゃい」
友「時に御新造様は御機嫌宜しゅうござりますか」
森「あゝ別に変った事もねえね」
友「それは何より結構、へえ御新造様、おや今日はお土用干でござりますか、これは皆旦那様のお品々、思い出すも涙の種、御新造様世の中には神も仏もないのでございましょうか…これも旦那様のお品でございますな」
町「それに就ていろ〳〵お話があるのでございます、丁度私が当家へまいって二日目でございますが、亥太郎さんのお父さんが歿りました、其の時に亥太郎さんが葬式金にお困りなすって、これを抵当に金を貸してくれと申してまいりました、旦那は彼アいう気象ですから、金は貸すが品物は預からぬと云って、暫く押問答して居りますと、亥太郎さんが何と云っても肯きませんので、そんなら私も少し考える事があるから、兎も角も預かって置くと申しまして、その儘預かりました、ところが彼アいう訳で良人が島流しになりましたから、何ういう仔細があって預かったかは知りませぬが、何時までも人の物を預かって置くのも不実と思いまして、今日にもお出でがあったらお返し申そうかと思って居るのでございますよ」
友之助は不審の眉を顰めまして、
友「はてな、亥太郎さんが此品を持っていると云うのは不思議でございますな、この煙草入は皮は高麗の青皮、趙雲の円金物、後藤宗乘の作、緒締根附はちぎれて有りませんが、これは不思議な品で、私が銀座の店に居りました時、手掛けた事のある品物でございますぜ」
と噂をすれば影とやら、表の方から亥太郎がやってまいりました。
二十一
亥太郎は門口に立ちて、
亥「えゝお頼み申します、亥太郎で、滅相お暑くなりました」
と云う声を聞付けまして、
友「これは〳〵豊島町の棟梁、さアお上りなさいまし」
森「さア〳〵棟梁お上んなせえな」
亥「御免よ」
友「いや棟梁、一寸お聞き申しますが、此の煙草入は貴方がお持ちなすっていたのですか」
亥「持ってたと云う訳じゃアありませんが、実はこりゃア桜の馬場の人殺しが持っていた品です、左様さ、御新造が此方へ縁付いてから二日目のこと、丁度三年以前の五月三十日の晩ですが、水道町の仕事の帰りに勘定を取って、相変らず一口やった揚句の果、桜の馬場の葭簀張、明茶屋でうと〳〵寝入ると、打ちまけるような大夕立にふと気が付いて其処らを見ると、枕元でキャッという叫び声、さては人殺しと寝ぼけ眼で曲者の腰の辺へ噛り付いたが、その曲者も中々堪えた奴で、私へ一太刀浴せやがった、やられたなと思ったが、幸いに仕事の帰りで、左官道具をどっさり麻布の袋に入れて背負っていたので、宜い塩梅に切られなかった、振放す機に引断った煙草入、其の儘土手下へ転がり落ちた、こりゃ堪らぬと草へ掴まって上って見たら、何時の間にか曲者は跡を晦ましてしまう。翌日聞けば殺された奴は盲目の侍だそうで、其の時図らず取った煙草入だが、持っていちゃア悪かろうとぐず〳〵している中に親父の大病、医者に掛けるにも銭はなし、脊に腹は代えられねえから、一時の融通に旦那へお預け申しましたが、其の儘になっているのでさア」
町「亥太郎さん、それは確かに五月三十日のことですね」
亥「えゝ、勘定取った帰りがけで」
町「その殺された侍は盲目でございますか」
亥「いかにも」
友「もし棟梁、その煙草入は私が銀座の店で蟠龍軒に売った品、御新造の敵は確かに蟠龍軒でございますぞ」
お町は恟りして、
町「え、父の敵はあの蟠龍軒ッ」
亥「御新造、あなたのお父さんの敵が蟠龍軒と知れて見れば、この敵討をせざアなりませんよ」
友「そうとも〳〵、此品こそ何よりの証拠、私が確かに証人でござります」
と一同歯がみをなして居ります処へ、家守の吉右衞門が悦ばしそうに駈けてまいりまして、
吉「皆な悦んで下せえ、今日お奉行所よりのお達しで、旦那様が御赦免になりました、もう直ぐにお帰りでございます」
亥「えッ、旦那が赦免だ、そりゃア有難え」
國藏と森松は気も顛倒して、物をも云わず躍り上って飛出し、文治の顔を見るより、あッと腰を抜かしてしまいました。
亥「そんな処で腰を抜かしてくれちゃア困るじゃねえか」
と大騒ぎ。近所では火事と間違えて手桶を持って飛出すもあれば鳶口を担いで躍り出すもあると云う一方ならぬ騒動でございます。只見ると、文治は痩衰えて鬚ぼう〳〵、葬式の打扮にて、裃こそ着ませぬが、昔に変らぬ黒の紋付、これは流罪中上へお取上げになっていた衣類でございます。お町は嬉しさ余って途方に暮れ、手持無沙汰に狼狽えて居りましたが、文治の姿を見るより玄関まで出迎えまして、両手を突き、
町「旦那様、御無事で……」
と云ったきり、後は口がきけません。文治は落着き払って、
文「これは皆さん、ようこそお出で下さいました、流罪中は万事お心に懸け、よくお世話下さいました、千万辱けのう存じます、おゝ町か、留守中さぞ苦労しなすったろう、よう達者でいてくれた、文治も皆さんの助力と天の助けで、再びお前に逢うとは此の上の喜びはない、さア皆さん奥へお出で下さいまし、ゆるりとお礼を申しましょう、いや皆の衆、予て覚悟とは申しながら、何とも彼とも申しようのなき心配をいたしました、いっそあの時死んだら此のような苦労は致すまじきに、皆々様に余計な心配を掛けまして、飛んだことを仕出来しましたなア、併しこれも男の役か知らんて」
亥「私やア嬉しくって〳〵」
森松も國藏も胸一杯になって嬉し涙を流しては、文治の顔ばかり見詰めて居ります。
喜「頼みます、藤原喜代之助でござる」
森「あッ、藤原様が来た……いや今日は裃で」
喜「お喜びにまいりました、宜しくお取次ぎ下さい」
森「えゝ旦那様、藤原様がお喜びにまいりました」
文「さア何うぞ是れへお通り下さりませ、宜うこそおいで下さいました、定めし其許様のお執成しとは存じますが、何から何まで御配慮下さいまして、千万辱のう存じます」
喜「どう致しまして、此の上の喜びはございません、お町様、こんなお目出度い事はござりませんな、お喜び申上げます」
町「はい、有難うございます、あなた様が万事にお執成し、何ともお礼の申そうようもございませぬ」
とお町は気も軽く、取っときの茶を仕立てゝ親切に扱うて居ります。
二十二
この時亥太郎は、
亥「えゝ旦那、まことに面目次第もごぜえません、旦那が万年橋から島流しになりやす時、國藏と二三の奴らを頼み合い、飛んだ事をやろうと為やしたところを、お前さんに叱り付けられて思い直したお蔭で、旦那を始め私らまで今日の喜び、実に面目次第もござんせぬ、有難う存じます」
喜「併しあの時は宜くお止り下すった、そのお蔭には此の通り文治殿にも表向きで、お目に懸れるような仕合せになりました」
文治はそれと悟りまして、
文「ハヽア、それじゃア流罪になります時、あの万年橋で、多分そんな事だろうと思って、それとなく叱りましたが、藤原氏何かに付けて穏便なおあつかい、有難う存じます」
亥「えゝ旦那、もっと目出度えことが有りやすぜ、おい友さん、此方へ来ねえ、あの桜の馬場の人殺し一件よ、あの時取った煙草入を旦那に預けて置きましたが、ありゃア友さんが蟠龍軒に売った品だという、して見りゃア御新造様のお父さんを殺した奴は、あの蟠龍軒に相違ござんせぬ」
文「フーウム、友之助、ちょっと此処へ、今棟梁が申した通り、あの煙草入は確かにお前が蟠龍軒に売った品か」
友「えゝ、こりゃア私が仕立てました、高麗青皮の胴乱、金具は趙雲の円形、後藤宗乘の作、確かにも〳〵外に二つとない品でござります、口惜しい事をしましたな、それと知ったら早くお上へ訴えて、敵を取ってやるのに、神ならぬ身の知るよすがもなく、皆さんに苦労を掛けたのは口惜しいなア」
森松と國藏は膝を叩いて
「こいつア話が面白くなって来た」
喜「いや文治殿、その蟠龍軒なら少し聞込んだことがござる、拙者主家の御領分越後高田よりの便によれば、大伴蟠龍軒似寄の人物が、御城下に来りし由、多分越後新潟辺に居るであろうと思われます」
文「さて〳〵悪運というものは永く続かぬものじゃなア、然らばお国表の様子を聞合せ、直ぐさま出立いたすでありましょう」
喜「それなら此方に伝手がありますから、早速屋敷へ帰り、お国表を調べた上、お知らせ申す事に致しましょう」
文「それは辱ない、何分宜しく」
一同「さア、いよ〳〵面白くなって来たぞ」
と皆々腕を撫って居りまする。さて中山道高崎より渋川、金井、横堀、塚原、相俣より猿が原の関所を越えて永井の宿、これを俗に三宿と申しまして、そろ〳〵難所へかゝります。三国峠へ差しかゝりました文治と妻お町の二人連れ、
文「漸うのことで國藏、森松、亥太郎の三人を言い伏せて出立いたしたが、いや藤原は身内のこと、まして侍だが、町人三人の志、実に武士も及ばんなア、さぞ〳〵後で怨んでいようが、苟めにも親の仇討に出立する者が、他人の助力を受けたとあっては、後日世間の物笑いになるからな」
町「はい、実にお留守中も貴方がおいでの時と少しも変りなく、朝夕まいりまして一方ならぬお世話をして下さいました」
文「左様かな、併し今日は霜月の中日、短日とは云いながらもう薄暗くなったなア」
町「はい、少し雪催おしで曇りました」
文「山中は寧そ人に逢わぬ方が心安い、眼前に大事を控えた身でなくば、さぞ此の景色も佳いであろうがな」
町「左様でございます、併し今夜はお寒うございますから、早く泊りへまいり度いものでございます」
文「そう〳〵三国峠を越えれば浅貝宿、三里で泊るのは少し早いが、浅貝宿へ泊るとしよう」
と話しながらまいりますと、二人の舁夫が、
舁「えゝ、もし〳〵旦那え、私どもは三俣まで帰るものですが、尤も駕籠は一挺しか有りませんが、お寒うござんすから、奥様ばかりお召になったら如何でござんす、二居まで二里八丁、いくらでも宜しゅうございます、空荷で歩くと却って寒くて堪りません、女中衆一人ぐらい何の空籠より楽でござんす、ねえ旦那、乗って下せえな」
文「いや、もう私は浅貝で泊る積りだ、折角だがいらんよ」
舁「えゝ、旦那え、今日は雪空のようでございますが、此の峠は冬向は何時でも斯様な天気でござりやす、三里でお泊りも余りお早うござんす、二居までお供を致しやしょう、えゝ旦那、失礼ですが二百文下さいまし、後の宿で一口やって最早一文なしでござりやす、えゝ、もう向うへ浅貝が見えます、それから只た二里八丁、今までのような山阪ではござりません、えゝ奥様え、お足から血が出ましたね」
と二人の舁夫は煩さく附纒うて勧めて居ります。
二十三
文治はお町の足から血が出ると聞きまして、
文「町、何うした、足が冷るから一寸躓いても怪我をする、大分血が出るな、足袋を脱いで御覧」
町「いゝえ、少しも痛みはしません、何の貴方、長い旅に是しきの事で然う御厄介になりましては、思ったことが遂げられませぬ」
文「これ〳〵舁夫、駄賃は幾許でもやるから浅貝の宿までやって呉れ」
舁「へえ〳〵、なアに駄賃なんざア一合で宜しゅうござりやす、さア奥様お召しなせえ、駕籠の中でお足を御覧なせえまし、大した疵じゃアございやせん」
と急いでまいりますと、程なく浅貝宿。
文「御苦労々々もう宿へ来たの、此処で下してくれ」
舁「旦那え、余りお早いじゃアありませんか、此の通りの道で只た二里八丁、二居宿まで遣りましょう、それとも日のある中にお泊りなせえますか、ねえ奥様、如何で」
町「旦那様、貴方さえ宜しくば私は一宿も先へまいる方が宜しゅうございます」
舁「えゝ旦那え、二三日中に大雪かも知れませんぜ、雪の無え中に峠を越した方が宜しゅうござんしょう」
文「左様か、二里三里思案したところで足しにもなるまい、舁夫、急いでやるかな」
舁「へえ、有難う存じます、さア此の肩で棒組、確かりしろよ」
棒組「よし、どっこいさ、旦那少し急ぎましょう」
文治は二居までに峠はあるまいと思いますと、此の二里八丁の路は山ばかりで中々登るに骨が折れます。さりとて途中で引返すことも出来ず、駕籠に附いてまいります中に、吹雪が風にまじって顔へ当ります。舁夫は慣れて居りますから、登るに従って却って足が早うございます。やがて火打坂と申す処へ来かゝりますと、向うから一人の旅人、物をも云わず摺れ違いました。文治は心にも懸けず遣り過しましたが、二三丁まいりますと、一人の旅人が素ッ裸体で杉の樹に縛り付けられ、身体は凍えて口もきけず、がた〴〵震え上って居る体を見るより、舁夫は、
「やア大変だ、旦那〳〵」
文治もこれを認めまして、
文「これ〳〵舁夫、その駕籠は二三間先へ置けよ」
舁「成程、女中衆にこんな物を見せては」
と云いながら五六間先へ駕籠を下しまして、一人が附添い、一人が帰って来まして手を合せ、
舁「旦那様、何うぞ助けてやって下さいまし」
文「山賊の仕業と見えるな、何しろ恐ろしい奴もあるもんだな、これ舁夫、駕籠は何うした」
舁「へえ、直き其処へ下しまして棒組一人を附けて置きました、御安心なせえまし」
文「そうか」
と文治は手早く差添を抜き、その縄を切解きまして、
文「おい舁夫、水はないか、そこらに水溜りがあるなら手拭を霑して来い」
舁「御覧の通り此処は山の上で、水は少しもありませんが、一体何うしたんでしょう」
文「知れた事、追剥よ、何とかして水を見付けてくれんか」
舁「地蔵様の前に水がありますが、凍り切って居りやす」
文「その氷を持って来い」
文治は懐中より薬を取出し、旅人の口へ入れて氷を含ませ、
文「旅人々々」
と呼ばれて漸く気が付きました。
旅「ウ、ウ、ウーム」
文「旅人、気が付いたか、確かりしろ」
旅「有難う存じます」
文「定めし山賊の仕業であろうな」
旅「ウヽヽヽウ、おゝ苦しい」
文「金子も衣類も取られたか」
旅「皆取られてしまいました、今しがた二三の山賊が其処らに居りました」
文「山中とは申しながら、日中旅人の衣類金銭を剥ぐとは恐ろしい奴だなア」
旅「私もこんな目に遇おうとは夢にも思いませんでした」
舁「これ旅人、その追剥は何方へ逃げたか知らねえか」
文「いやさ舁夫、知れたところが己が追掛けて往って捕まえるという訳にも往かぬ、併し其方も素ッ裸で、嘸寒かろう、あの舁夫、其方も裸体同様だが、今の駕籠の中に少しの包があるから持って来てくれんか」
舁「私も寒さが身に泌みて、動けそうもござりやせん」
文「そうか、それじゃア気の毒だ、そんなら一寸己が往って来よう」
半丁ばかりまいりましたが、駕籠は何処に在るのか影も形も見えませぬ。
文「お町や、お町」
と呼べども一向応えはありませぬ。
文「何処へ駕籠を下したのか知らん、あの舁夫に聞いたら分るだろう」
と気遣いながら元の処へ引返してまいりますと、何れへ行ったか旅人も舁夫も居りませぬ。
文「さては奴らは山賊の同類か、して遣られるとは浅はかな、汝、この分には棄置かぬぞ」
と又取って返してお町の乗りました駕籠の跡を追掛けてまいりましたが、いくら往きましても姿が見えませぬ。それも其の筈道が違いますので、駕籠は五六間先へ下すや否や、待伏して居りました一人の盗賊が後棒を担ぎまして、
舁「えゝ御新造さま、旦那様は泥坊を捕えると云って後に残っておいでなさいます、駕籠は二居の宿まで遣って置けと仰しゃいましたぜ、さア棒組、急げ〳〵、少し雪がやって来たようだぜ」
と頻りに急いでまいりまする。
二十四
お町は舁夫のいうことが能く分りませぬから、
町「舁夫さん、旦那様は何う為されたと云うのです」
舁「あの、樹に縛られて居た旅人の着物や金を取返してやると云って、盗人の跡を追掛けて行かしった、もう今頃は浅貝あたりへお帰りになりましたろう、旦那の云うにゃア、奥様に斯んな物を見せちゃア悪いから、一足先へ二居までやってくれろと、こう仰しゃいました」
町「いえ〳〵、旦那より先へ往くことはなりません、どうぞ後へ返して下さい」
舁「まア折角旦那が先へやれと仰しゃってたものを、後へ帰ると泥坊が居りますよ」
町「いえ〳〵何が居ても構いません、後へ〳〵、何故そう急ぐのです、私はもう飛降りますよ」
舁「やい女郎、静かにしろ、もう後へ往くも先へ往くもねえ、此処は道が違わい、二居ヶ嶺の裏手の方だ、猪狼の外人の来る処じゃア無えや、これから貴様を新潟あたりへばらすのだぞ」
町「さては汝らは山賊か、無礼いたすな、たとい女であろうとも武士の女房、彼是いたすと棄置かんぞ」
と懐剣の柄に手を掛けるより早く、「どッこい、然うは」と後から抱締めました。
町「あいたゝ」
舁「虎藏、其の手を確り押えて居ろ」
と二人掛りでとうとうお町を押え付けました。最前からの山冷にて手足も凍え、其の儘に打倒れましたが、女の一心、がばと起上り、一喝叫んでドンと入れました手練の柔術、一人の舁夫はウームと一声、倒れる機に其の場を逃出しました。ところが一人の舁夫が追掛けて参りますので、お町は女の繊細き足にて山へ登るは適いませぬから、転げるように谷へ下りました。続いて後から追掛けて来ました盗人は、よう〳〵追付いて、ドンとお町の脊中を突きましたから、お町はのめる機に熊の棲んでいる穴の中へ落ちました。穴は雪の為に入口を塞がれて居りますから、表からは見えませぬが、手を突くはずみに、土の盛ってある処を突破り、其の儘穴の中へころ〳〵〳〵。熊の棲む穴にはいろ〳〵種類がありまして、また国々によって違いますが、多くは横穴でございます。縦に深く掘ろうと思いましても土を出すことが出来ませぬから、横へ〳〵と深くなりますので、或は天然の穴を利用するのもありますが、これは大きな井戸の如き穴を利用したのでございますから、深さは十四五間あります、底にはいろ〳〵な柔かな物が敷いてありまして、其の上に熊の児が三四匹居りました。親熊は其の物音に驚き、落ちた女に構わず、一散に飛上って件の盗人を噛倒し、尚お驚いて逃出そうとする一賊の後から両手を伸して噛り付き、あわや喰殺し兼まじき見幕、山賊も九死一生の場合ですから、持合しましたお町の短刀、熊を目がけて打付けましたが、短刀は外れて熊の穴へ落ちました。熊は二人の旅人を谷底まで打落しまして、子が気に懸ると見えて、すぐと穴の中へ飛んで帰りました。此方のお町は隅の方に蹲まり、両手を合せて一心に神仏を念じて居りますと、何か落ちて手の甲に当りました。何かしらんと取上げて見ますと、自分が所持の懐剣、幸いに柄の方が手に当りましたので怪我も致しませぬ。お町は胸中に
「こりゃ私が所持の短刀、これを持って熊か猪かは知らぬが殺して出よという、神様のお告か知らん、あゝ有難し有難し、いや併し此の穴の深さは何のくらいあるか知れぬ、殊に獣も沢山いる様子ではあり、迂濶な真似をして此の身を害ってはならぬ、いよ〳〵一命が危いという時にこそ、この短刀を持って突殺してくれよう、それまでは獣の様子を見ましょう」
と短刀を懐中に隠して、隅の方へ小さくなって居りますところへ、熊が飛返ってまいりまして、正面からお町の顔を見て居る其の物凄さ、両眼烱々として身を射らるゝの思い、普通の婦人なら飛掛って突くのでございましょうが、流石文治の女房、胆力も据って居りますから、じっと堪えて此方も熊を見詰めて居りまする。熊はだん〳〵近づいて、今度はお町の顔となく手となく嗅ぎ始めました。お町はいよ〳〵気味が悪くなって突こうかと思いましたが、この時は日の暮方で、穴の様子も確と分りませんから、じっと辛抱して、いよ〳〵となったら突いてくれようと身構えて居りまする其の恐ろしさは何に喩えようもございませぬ。暫くして熊は後へ退り、しず〳〵と児の側へ往きましたから、お町も少し心を落着けまして、人に物をいうような静かな声で、
町「これ、そちは私を何と思うぞ、くれ〴〵も猟人ではない、また悪人でもないぞよ、山賊のために追掛けられ、過って此の穴へ落ちたのじゃ、決して其方に手出しはせぬ、どうぞ私を助けてくれ、これ熊よ、私は此の通りの扮装で居るぞよ、夜が明けたら穴の様子を見て、どうぞして此の穴を出るゆえ、心あらば助けてくれよ」
と両手を合せて頼みました。
二十五
無心の熊もお町の言葉を聞分けしか、児を抱いたまゝころりと寝た様子でござります。お町は漸く安堵して、其の夜は神仏へ願掛けて、「八百万の神々よ、何卒夫文治郎に逢うて敵を討つまで、此の命を全うせしめ給わるように」と瞬きもせず夜の明くるまで祈って居りました。其の中に冬の夜の明方と見え、穴の口より少し日が映して居りますが、四辺はまだ暗がりで未だ能く見えませぬ、まるで井戸の中へ這入ったようでござります。恐る〳〵四方を捜って見ましたが、少しも足掛りはなし、如何せばやと胸騒ぎいたしましたが、余り騒いで熊が目を覚し、噛付かれてはならぬと思案に暮れて居ります中に、もう夜は明けたに相違ござりませんが、何処から上ろうという足掛りもございませぬ。
町「あゝ、世に私ほど不幸なものはあらじ、図らずも夫文治が赦免という有難き日に親の敵を知り、多年の欝憤を霽らさばやと夫と共に旅立ちして、敵討の旅路を渡る山中にて、何の因果か神罰か、かゝる憂目の身となりしぞ、たとい此の身は何うなるとも夫に逢わで死すべきか」
と思わず独語した其の物音に熊は起上り、暫く四辺を見廻して居りましたが、何思いけん、また穴の入口を目がけ、ひらりと飛上りました。
町「いや、熊が私に噛付かぬは神仏のお蔭か、但しは友を呼びに往き、帰って私を殺す気か、いよ〳〵噛付く様子なら、私が命のあらん限り突いて〳〵突殺してくれる、それまでは何事も」
と少しも体を崩さぬよう身構えて居りました。文治は其の夜二居ヶ峰の谷々まで根限り尋ねましたが、少しも足が付きませぬ。その筈でございます、雪は益々降頻り、いやが上に積りまして、足跡とても見えぬくらい、谷々は只真っ白になって少しも様子が分りませぬ。其の中に長き夜の白々と明渡りまして、身体はがっかり腹は減る、如何せばやとぼんやり立縮んで居りましたが、思い直して麓の方へ下りました。二居ヶ峰の中の峰より二里半、三俣という処まで来ますると、宿はずれに少しばかり家はござりますが、いずれも門の戸を閉切って焚火をして居ります様子、文治はその家の前に立ちまして、
文「もし〳〵、少々お願い申します、私は旅人でござるが、大雪に難儀を致します故、お助けを願います」
と戸を叩きますと、内より一人の老人、
「あゝ旅の衆か、この雪で御難渋なさるとは、そりゃ気の毒だ、さア明きますからお明けなせえ」
文「はい、有難う存じます」
老「やれ〳〵此のお寒いのに宜くお一人で峠をお越しなさいましたな、さア〳〵火の側へ其の儘お出でなせえまし、やア貴方はお武家様でござんすな、これは御無礼、御免下せえましよ」
文「何うぞお構い下さるな」
と炉端に両手を出したまゝ、暫く口もきけませぬ様子。
文「当家には鉄砲が掛けてあるが、猟人ではござらぬか」
老「はい、左様で、忰が只今出掛けましたがな、此の辺では猟人でなくても鉄砲が無くちゃア一夜でも寝られやアしません」
文「何方を向いても山ばかり、恐ろしい獣でも来ますかな」
老「左様さ、獣も折節来ますが、第一泥坊が多いので困るでがす」
文「はゝア、そんなに盗人が来ますかな」
老「併し私どもには金も衣物もないと知って居ますから、金を取りに来やアしませんが、火打坂や二居ヶ峰あたりで、旅人を殺したり追剥をしたりしちゃア此処まで来て、真夜中に泊めてくれと云って時々戸を叩くでがす、さア明けねえと打毀すぞなんて威しますからな、其の時にゃア此の鉄砲を一発やるだね」
文「はゝア、して見ると此の辺は盗人の往来と見えますな」
老「時々女が担がれたり、旅人が裸体で逃げて来るでがす」
思わず文治は、
文「さては其奴らにやられたか、えゝ残念」
と聞いて老人、
老「旦那様、お連れの方でもやられましたか」
文「はい婦人を一人」
老「道理で昨夜、曲者らしい奴が二三人、往ったり来たりして居やした様子」
文「その人体はどんな者でありました」
老「なアに戸を締めて置きやしたから分りやせんが、また何か仕事をしやがったと思いました」
文「その曲者は何方へ往った様子ですか」
老「いやそれは確と分りやせんが、多分下手の方へ往ったかと思いやした」
文「然らば長岡か新潟辺かな」
老「先ず六日町から十六里、船に乗って長岡か新潟あたりへ持って往きましてな、それから着物は故買屋へ売り、女は女郎町へ売るそうだが、早くお殿様から手を廻して捕まえて下されば宜いが、時々取逃すので困るでがす」
文「此の辺は矢張榊原式部殿の領分でござろうな」
老「いや此の辺はお代官持で、公方様から沙汰が無えば手え入れられねえでがす」
文「何と御無心だが飯はありますまいか、昨夜はまんじりともせず、食事も致さぬ故、如何にも空腹で堪らぬが、一飯助けてくれまいか」
老「へえ、お安いことで有りやすが、飯を炊きかけて居ります、少し有った飯はな、忰が皆猟に持って往ったでな、少しも無えだ」
二十六
この時文治は、
文「御子息が猟師ならば、此の辺の山道は委しく存じて居りましょうな、今から御子息を尋ねて往って、今一度此の辺を捜して見たいが、御子息は何方の方へお出でか、分って居りましょうな」
老「さアとても分りやせん、分ったにしたところで、この雪じゃアとても尋ねて往くことは出来ねえだ、雪解けまで待たざアなりますめえ、幸いお女中が無事で居なさりゃア、此の辺に居る気遣は無えね、越後か上州へ連れて往かれたに違えねえだ」
文「成程、それも尤も、何しても腹が減って堪らない、飯が出来たら一飯売ってはくれまいか」
老「えゝ旦那様、麦飯ですが宜うござりやすかね、とても不味くって喰えるもんじゃア無えだ、それよりか此の先へ半里ほど往きやすと、三俣という町があって、宿屋もあるし飯もあるべえから、我慢して其処まで往きなせえまし」
文「いや大事ない、ひもじい時に不味い物なし、是非一飯売って貰いたい、大分身体も暖まって来た」
と御飯の出来るのを待って居りますと、
老「旦那様、お飯が出来やしたが、菜は何もありませんぜ、只玉味噌の汁と大根のどぶ漬があるばかりだ」
文「何でも苦しゅうない、そんなら一飯頂かして下さい」
と文治は漸う飢を凌ぎまして、
文「これ〳〵親父殿、これは些かであるが、ほんのお礼の印だ」
老「やア旦那様、こんなに頂いちゃア済まねえな」
文「どうか受納して貰いたい」
老「はい〳〵恐入ります、有難う存じます」
文治は支度そこ〳〵猟師の家を立去りまして、三俣へ二里半、八木沢の関所、荒戸峠の上下二十五丁、湯沢、関宿、塩沢より二十八丁を経て、六日町へ着しました。其の間凡そ九里何丁、道々も手掛りの様子を聞きつゝまいりますこと故、なか〳〵捗取りませぬ。夕景漸く六日町に着しますと、松屋仙次郎という商人宿がございます、尋ね物をするには斯ういう宿に若くはないと考えて、宿の表に立ちかゝりますと、
下女「お早うござりやす、お寒うござりやす、只今お湯を上げやす、えゝ内の旦那どん、お客あはアお侍様だが、此間見たように座敷が無えとって、グザラしっても困りやすのう」
文「いや〳〵、皆々と同席でも大事ない」
女「はアそうけえ、お湯へ這入りますけえ」
文「都合で何うでも宜い」
女「さア此処えお上んなせえまし、お荷物を持ってめえりやしょう」
文「もう宜い〳〵……これは皆さん御免下さい、御一同お早いお着きですな」
旅人「これは〳〵旦那様、さア上座へお坐りなせえ」
文「何う致して、後からまいって上座は恐入る、私は何分にも此の寒さに耐えられないから、なるたけ囲炉裏の側へ坐らして貰いたい、今日の寒気は又別段ですなア」
旅「旦那様、お一人でごぜえますか」
文「はい、連れがありましたが、途中ではぐれて誠に心配して居ります、もしや貴方がたは女を一人お見掛けなさいませんか」
旅「へえ旦那様もお女中連かね、やっぱり女ア連れて逃げてござらしったのけえ」
文「これは怪しからぬ、連れと申すは私の女房でござります」
旅「あゝ左様かね、その女あ泥坊に勾引されて新潟へ売られてしまいましたよ」
文「さては貴方は其の女を御覧になりましたか」
旅「知ってますとも、年の頃二十五六で……」
文「左様々々」
旅「江戸っ子で色の白い、好い女でありやした、だん〳〵話を聞いたところが、今こそ斯様な零落れているが、昔は侍の娘だと云って大変溢していやした、余り気の毒だから、私ア別に百文気張って来ました」
文「それは何時のことですか」
旅「先月十日頃、新潟で遊んだ女です」
文「いや、それは違います、私の申すのは昨日のことです」
旅「はゝあ昨日、また其様な事がありましたかね、何方の方へ連れて行って何処へ売ったのでしょうか」
文「これはしたり、それが知れぬからお前さんに尋ねるので……」
旅「はア左様けえ」
文「外のお客様にお尋ねしますが、此の辺では左様なことが度々あるのでござりましょうか」
乙「どうも此の辺は物騒な処で、冬向女連や一人旅では歩けませぬ、折々勾引しや追剥が出ます」
文「成程、その品物や女は何処へ売捌くのですか、御存じありますまいか」
旅「まア重に新潟へ捌くそうで、何しろ新潟は広いから、一寸気が付きませんからな」
丙「此の間新潟の者の話に、海賊の大将が沖にいて、その子分達が女や金を奪って持ち運ぶとかいうことで、それで此の頃御領主様から船頭の達者なものと剣術の先生を欲しいと云って、江戸屋敷へ御沙汰になったそうでございます」
文「成程、これから新潟へ往くには船で往く方が便利でしょうな」
旅「はい、これから船で十六里、長岡へ着きまして、それから又船で十五里、信濃川を下って新潟へ着くのでございます」
文「左様か、それは千万辱けない」
と翌日は意を決して新潟へ往く支度をして居ります。御案内でもございましょうが、十六里、十五里とも川舟で、夜に掛って往くのでございます。
二十七
さて文治は漸く新潟に着きまして、古手町秋田屋清六方へ泊り、早速主人を呼びまして、
文「御主人外の事ではないが、自分は仔細あって当地の海辺を見物したいと思うが、船の都合は何ういうものであろうな、それに就て途中で様子を聞くと、海賊が船中に忍んで居って此の辺を荒すということだが、そんな事もあるものかな」
主「左様さまでしけえ、そんな噂をしやすもんな有りやすが、誰も是だアと云うものを見たもんが無えすけに、まア分りやしねえ」
文「併し、そんな噂をいたす者もあるかなア」
主「いえはアえらく有りやす、お上様でもえれい船頭と剣術遣いが有らば宜いと、尋ね居るだてえ話がありやした」
文「噂があれば尚更のこと、海辺見物の船を出して貰いたいが、何うじゃな」
主「いえ、それが往けやしねえ、二三日沖は荒れ通していやす、まア一降り降りやすか風が変らねえば、とても沖へ出ることはなりやせん」
文「はゝア、然らば舟子が出ぬのかな」
主「いくら銭を出しても命にゃア替えられねえと云って、往く者がありやせん、まア二三日逗留なさるが宜いね、また海でなくともへえ見物場アえらく有りやすでえ」
文「そういう訳では何うも致し方がない、事によると二三日厄介になるかも知れぬ、兎も角も御飯の支度をしてくれんか」
主人はにこ〳〵笑いながら、
主「へえ御機嫌宜しゅう、こりゃアお客様に飯を上げろえ」
後の襖を開けまして、年の頃四十前後の飛脚体の者、旅慣れた拵えにて、
旅「えゝ御免下せえまし、只今隣で聞いて居りますと、海辺を御見物なさりてえと亭主へお頼みなさりましたが、宿屋てえもなアいやはや狡いもんでしてね、三四日御逗留を願えてえもんだから、あんな事を申しやす、私は此の辺を歩きます旅商人で、こゝらの船頭に幾干も知った者がありやすから、直ぐに頼んで上げましょう、併し旦那ア、こりゃア亭主に云わねえ方が宜うござりやすよ」
文「それは御親切な事で、併し今も亭主から聞きましたが、大分此辺に盗人が居って、婦人などを勾引すとか申しますが、全く左様な事があるのでございましょうか」
旅「専ら然ういう評判を致す者があります、併し私は年来此処らを歩いて居りやして、大抵の事は知って居りやすが、まア新潟には無えようでございますね、尤も海岸は広うござんすから、確とお請合は出来ませぬが、まア此辺は天領でござんしてな、存外御政治も行届いて居りやすから、そんな事アありそうもござんせぬ、何なら舟人を頼んで上げましょうかね」
文「併し見ず知らずのお前様に、御苦労を掛けるも気の毒でござるな」
旅「なアに直き其処でございます、ちょっくら序でもありますから、じゃア往ってまいりましょう」
文「それはお気の毒な、宜しくお頼み申します」
出て往く後姿を見送って、文治は手を鳴らし、
文「これ〳〵亭主」
亭「へえ、何御用で」
文「今出て行った客は当家へ折々泊る客か」
亭「よく見掛ける人でござりやす」
文「ふうむ、聞けば旅商人ということじゃが、渡世は何だか知っておるか」
亭「左様、どうも能う分りませんね、旦那何かお頼みなら、まア止すが宜うござりやす」
文「ふうむ、分らぬか」
亭「へえ、どうも世間じゃア余り好く申しやせんが、お客様ゆえ断る訳にも往きやせんで、お泊め申して置くとは云うものゝ、実は持余して居るんでやす、後が恐うござりやすからなア」
文「なに、後が恐い、ふうむ何だ、恐いというのは」
亭「意趣返しが……はア今に帰るべえに、私が此処にいたら、又酷え目に逢わねえとも云われやせん、まアお気をお付けなせえまし」
文「はゝア、彼奴は譬えにいう護摩の灰か、よし〳〵承知した」
と心の中に頷いて思案して居ります処へ、例の旅商人が帰りまして、何か主人と話をして居りましたが、それから直ぐ奥へまいりまして、
商「旦那え、舟人たちに聞合せますと、陸と沖とは余程違ったものだそうですが、二人頼んでまいりました」
文「違うと申して幾ら呉れというのか」
商「一日一貫文、其の代り御祝儀には及びません」
文「それは〳〵千万お手数であった、これ〳〵亭主」
亭「へえ」
文「いよ〳〵明日は見物に出掛ける所存だ、これは誠に少々だが、お茶代じゃ」
亭「へえ、有難う存じます、併し旦那、明日はまだ沖合が何うでございましょうかな」
商「あ、これ〳〵主人、旦那が往こうと仰しゃるのに何だ、入らざるお世話をして、引込んで居れ」
亭「へえ〳〵、旦那お支度をなさいまし、随分お支度を……」
と心ありげに立ち去りました。文治はそれと悟り、蛇の道は蛇とやら、此奴を楷子にしたらお町の様子が分らぬ事もあるまい、また敵の様子も知れるであろうと十分に心を用いて、翌日船に乗込む事に取極めましたが、これぞ文治が大難に逢うの基でございます。
二十八
さて文治は船頭を二人雇うて乗出しますると、
舟子「旦那、心配しなさるな、私らが二人附いていりゃアどんな風でも大丈夫でがす、陸を行くよりも沖の方が宜いくらいで、やい吉い確かりしろ」
吉「よし、やッ、どっこいさア」
だん〳〵漕いでまいりますと、俄かに空合が悪くなりまして、どゝん〴〵と打寄する浪は山岳の如く、舟は天に捲上げられるかと思う間もなく、ごゝゝゝごうと奈落の底へ沈むかと怪しまるゝばかり、風はいよ〳〵烈しく、雨さえまじりてザア〳〵〳〵ドドドウという音の凄まじさ、大抵の者なら気絶するくらいでございます。
文「もう斯うなったら仕方がない、二人とも確かりやれ」
と文治も一生懸命であかを掻出して居ります。烈風ます〳〵猛り狂って、黒雲の彼方此方は朱をそゝいだようになりました。船頭はこれを赤じまと申します。何方が西か東か一向見分けも付かぬくらいで、そこらに船でもあれば、船は微塵と砕けるは必定、実に三人の命は風前の燈火の如くであります。流石に鉄腸強胆な文治も、思わず声を挙げまして、
「不幸なる我が運命、何卒敵を討つまでは、文治が命をお助けあれ、神々よ武士の一分立てさせ給え」
もう斯うなっては何人も神仏を頼むより外に道はございませぬ。二人の船頭も大声を挙げて思い〳〵の神々を祈って居りますが、風雨は一向歇む模様はございませぬ。
吉「もう兎てもいけやせん、日頃悪事の報いか、魚の餌食となるは予ての覚悟だ、仕方が無え、南無阿弥陀仏〳〵」
庄「えゝ縁起の悪い奴だ、何を云ってやがる、手前や己ア生れて此方悪事を働いた覚えは無え、確かりしろえ、舟乗稼業は御年貢だ、旦那アまだ宜しゅうごぜえやす、どうぞ神様をお頼み申して下せえやし」
と三人とも手に手を尽して漕いだ甲斐もなく、とうとう日は暮れて四方八方黒白も分らぬ真の闇、併し海は陸と違いまして、どのような闇でも水の上は分りますが、最早三人とも根絶え力尽きて如何とも為ん術なく、舟一ぱいに水の入った其の中へどッかり坐って、互に顔を見合せ、只夜の明けるのを待つのみでございますが、そうなると又長いもので、中々夜が明けませぬ。運を天にまかして船の漂うまゝに彼方へ揺られ、此方へ流されて居ります内に、東の方がぼんやりと糸を引いたように明るくなりました。さては彼方が東か知らん、夜が明けたら少しは風も静まるであろうと思いの外、明るくなっても風は止まず、益々烈しく吹いて居りまする。三人とも心付いて見ると、櫓櫂も皆吹流されてしまいました。
船頭「やア、これじゃア風が止んだって何処へも往かれることじゃねえ、情ねえな、吉、もう是までの運命と諦めろ」
文「まア〳〵待て、決して短気な事をしては成らんぞ、今にも大船が通らぬとも限らぬ、又異国の船でも此の難儀を見れば助けてくれるは人情だ」
と云って居ります中に、風は漸く凪いでまいりました。
文「やア大分風が静かになって来た、これで天気になったらば、また助ける風も吹くであろう、死ぬも生きるも約束だ、各々確かりしろよ」
船「有難うござりやす、旦那の方が気が丈夫だ、こうなっちゃア人間業で助かる訳にゃア往かねえ、どうか旦那、神様を信心して下せえ」
文「そち達も信心が肝要だぞ」
吉「なアに此方とらア信心したって神様が……」
庄「やい何を云うんだ、確かりしろよ、気が違ったか、心を改めて信心するが肝心だ、ねえ旦那」
文「そうとも〳〵、それ天気になった、風も止んだぞ」
庄「やア、こりゃア有難え、これと云うのも信心のお蔭だ、何しろあかを掻かざアなるめえ」
吉「だって、あか掻も何も流されてしまったじゃアねえか」
時に文治は、
文「よし〳〵、こゝに宜い物がある」
吉「へえ、宜い物って何ですか」
文「宿屋から持って来た弁当箱がある」
吉「何処に」
文「此の通り腰にぶら下げて居る、飯も菜も沢山あるが、これを明けてから気長に掻い出そうじゃないか」
吉「旦那、飯をお棄てなせえますか、そりゃア勿体ねえ、これから何日食わずに居るか知れやしねえ、旦那、勿体ねえじゃ有りませんか」
文「いや私は食べとうない」
吉「旦那、棄てるのなら私に下せえまし、弁当も何も此の暴風で残らず流してしまったア、旦那が上らねえなら私どもに下せえな」
文「いや〳〵これは食わぬ方が宜かろう」
両人「なアに勿体ねえ、少しぐらい汐が入っても此の場合だ、飯と聞いちゃア食わずには居られねえ、何うか下せえな」
文「そんなら上げもしようが、中てられるなよ」
吉「大丈夫、さア庄、あかは後にして先ず二人で遣付けようじゃねえか、成程こいつア中々旨え」
と二人とも十箇ばかりの握飯と菜まで残らず食してしまいました。
二十九
吉「さア重箱が殻になった、これから気長にあか掻をするんだ」
文「これ〳〵重箱の毀れぬよう静かにやってくれよ」
暫くすると船の底の見えるように掻い干しました。
吉「さア、これから船を動かす道具だ、何も彼も皆な流して始末に往かねえな、えゝ旦那え、此の木をお刀で割って下せえな、少し柄の方を細く削って下さいまし」
文「櫂をこしらえるのか、成程手頃の棒だ」
と文治は脇差を抜きまして、
文「こうか、これで宜いかな、これ〳〵手を出しては危い、さアこれで宜いだろう」
庄「旦那ア、貴方ア些たア道具ごしらえをやった事があると見えますな、それで結構でござりやす」
文「これ〳〵船頭、遥か向うに黒く見えるものがあるが、ありゃ国か島か」
両人は飛上って、
「やア有難え、島だ〳〵」
文「あの島は何処だろう」
庄「昨夜から大分暖かになりましたから、余程南へ流されて来たに違えねえ、何しろ新潟の河岸を離れてから昼夜三日目、事に依ったら唐まで流されて来たかも知れねえなア」
文「ウム、そうかも知れぬ、併し何処の国でも人鬼は居らぬ、こういう訳で難渋するからと頼んだら助けてくれぬ事もあるまい。さア一生懸命でやれ〳〵」
文治も手伝って船を漕ぎますが、どうも手ごしらえの櫂といえば櫂、棒同然な物で大海を乗切るのでありますから、虫の匍うより遅く、そうかと思うと風の為に追返されますので、なか〳〵捗取りませぬ。其の内に何処かの岸へ近づきました。
文「やれ〳〵信心のお蔭でいよ〳〵命が助かったぞ、おい船頭、何うぞしたか」
庄「ウム〳〵ウーム、旦那々々……旦那……苦しい、薬があるなら早く〳〵」
吉「これ庄藏、確かりしろえ」
文「これ、庄藏とやら、気を確かり持てよ」
と云いながら、手早く印籠より薬を取出して、汐水で庄藏の口に含ませましたが、もう口がきけませぬ、其処ら辺へ取付きまして苦しむ途端に、固まったような血をカッと吐きまして、其の儘息が絶えた様子。
文「吉公、可愛相なことをしたの、とうとう死んでしまった、折角骨を折って此処まで漕付けて、もう一丁も行けば国か島かへ上れるものを、一体何うしたのか知らん」
吉「今、私どもが喰った弁当は宿屋から呉れましたか、それとも小頭か、いやさ彼の相宿の者がくれたのですか」
文「飛脚体の旅人が折角くれると云うから貰って来た」
吉「えッ、あの相宿の飛脚から……やアしまった、秋田屋の印の重箱だから、腹の減ったまぎれに油断して喰ったのが……」
文「なに、油断して喰った、それじゃア相宿の飛脚は怪しい者か」
吉「旦那、これが因果応報というのでござんしょう、何だか私も腹が痛くなりました、済まねえが旦那気付を一服下せえまし」
文「やア其方も腹痛か」
吉「旦那、大変な事をいたしました、真ッ平御免下せえまし、実は私らは海賊の手下でござんす、あの旅人に姿を扮していたなア小頭の八十松という者で、貴方を親船へ連れて往って、懐中にある百両余りの金と大小衣服を剥ぎ取って、事に依ったら貴方をば手下にするか、殺すかしてと相談しましたが、一昨日宿屋を出る時に手強い奴と思ったかして、弁当の中へ毒を入れたのでござんしょう、それとも知らず自分の弁当は流してしまい、旦那の持って居なさる弁当箱には秋田屋の印がござんすから、二日二夜さの飢じさに浮かり喰ったのが天道様の罰でござんしょう、旦那、宥して下せえまし」
文「成程、分った、新潟を出る時に怪しい奴と思わぬでもないが、それ程の奴とは心付かなんだ、そう貴様が懺悔するからは其方の罪は宥して遣わす、さア今少し薬を呑んで助かれ、庄藏とやらはとても助からんぞ」
吉「旦那ア、私も最早いけません、眼が眩んで旦那の顔さえ見えなくなりました」
文「これ、吉とやら宜く聞けよ、生前に何の様な悪事を働いても、臨終の際に其の罪を懺悔すれば、慈悲深き神様は其方の未来を加護し給うぞ、さらりと悪心を去って静かに命数の尽るを待て」
吉「あ、あ、有難うがす、私も今更発心しました、死ぬる命は惜みませぬ、何うか楽に成仏の出来ますよう、念仏の一つも唱えて下せえまし」
文「ウーム、殊勝な心掛じゃ、時に吉とやら、そちの親方という新潟の沖にて親船に乗って居る奴は何という名で何処の国の者か」
吉「私も根からの海賊じゃアござんせぬ、新潟在の堅気の舟乗でござんしたが、友達の勧めに従って不図した事から海賊の手下となり、女でござれ金品でござれ、見付け次第に欺したり剥取ったりして親船へ持運びして、女の好いなア頭の妾、また頭の気に入らぬ女は寄って群って勝手にした其の上に、新潟の廓へ売飛ばすという寸法で、悪事に悪事を重ねる中、去年の秋から一人の剣術遣いが来て、頭を毒殺して其の子分を手下に従え、以前に優る悪業、今じゃア其の侍が頭でござりやす、悪事に悪事を重ねた私ども、此の苦しみを受けるのは天道様の罰でござりやす、おゝ苦しい、旦那様早く殺して下さいまし」
と両手を合せたまゝ悶え苦んで居ります。
三十
文治は吉藏が懴悔話を聞いて、そゞろに愛憐の情を起し、共に涙に暮れて居りましたが、二度目に来た剣術遣いと聞いて、
文「待て〳〵確かりしろよ、今いう二度目に来た剣術遣いの名は何というのだ、また幾人ばかりでまいったのか」
吉「確か、今頭になっているのは大伴蟠龍軒といいました、今一人はもと医者だそうです」
文「その名は何と申したぞ、これ〳〵今一人の名は何と……」
吉「あゝ苦しい、いゝゝゝ今一人は確か秋田……」
文「これ吉藏、吉藏」
と呼べども答えはございませぬ。
文「はて、これも縡切れたか、自業自得とは云いながら二人の舟人に死別れ、何処とも知れぬ海中に櫓櫂もなく、一人にて取残されしは何たる不運ぞ、今この吉藏が臨終の一言、海賊の頭を殺して再び其の跡を受継ぎしは大伴蟠龍軒、医者は秋田と聞くからは、こりゃ滅多には死なれぬわい、何処の島かは知らねども最早岸には一二丁、夜の明けるのを待った上、命限りに助けを得て、新潟沖の親船に賊窟を構えたる敵大伴蟠龍軒、秋田穗庵の両人、やわか討たずに置くべきか、此の日本に神あらば武士たる者の一分をお立てさせなされて下されまし」
と其の夜一夜を祈り明かし、夜の白々と明くるを幸い、板子を割いたる道具にて船を漕ぎ寄せようと致しますると、一二丁は遠浅で、水へ入れば腰のあたり、
文「いよ〳〵神の助け給うか、有難し、辱なし」
と漸う陸へ上りまして、船を引上げ、二人の死骸は人目にかゝらぬようにして、島の入口二三丁往けども〳〵人家はなし、只荒れ果てたる草木のみ、人の通りし跡だになければ、流石の文治も暫し呆気に取られて、ぼんやり彼方此方を眺めて居りましたが、小首を捻って、
文「いや、これほどの島に人の上らぬ事はあるまい、何処にか住居があるに違いない」
と心を励まして或は上り或は下り、彼是一里余も捜しましたが、人の居そうな模様はございませぬ。もとより用意の食事は無し、腹は減る、力は抜ける、進退こゝに谷まって、どっかと尻を据えまして、兎やせん角やと思案に暮れて居りまする。
文「最早十二月の中旬、妻は何処に何うしている事やら、定めし今頃は雪中に埋もれて死んだであろう、さなくば色里に売られて難儀をして居るか、救いたきは山々なれども、此の身さえ儘ならぬ無人島の主、思えば我が身ほど不運な者はない、いや〳〵愚痴を溢すところでない、海上にて彼の難風に出会い、幸に船は覆りもせず、此の島に漂い着いたというのは……それのみか海賊の口から敵の在処の知れしは是ぞ神の助けであろう、あゝ無分別な事をしては第一神様に対しても相済まぬ」
と心を取直して又々一里ほど行けども〳〵人の足跡さえござりませぬ。
文「はて変だな、此の通り草木の生い立って居る処を見ると、余程暖かい島に相違ない、何処にか人里があるであろう」
と一番高い樹に登って四辺を見廻しましたが、眼に遮るは草木ばかりで人家のあるべき様もござりませぬ。
文「さては愈々話に聞いていた無人島か」
と力なく樹を降り、根尽きて其の儘其処へ気絶いたしました。お話分れて、此方は信州二居ヶ峰、中ノ峰の谷間の熊の穴に落ちましたお町が成行でございます。前に申上げました通り、お町は隅の方に小さくなって居りますと、穴の外へ飛出した親熊が帰って、我子の寝て居ります側に蹲まって居ります様子、お町は薄気味悪く、熊の正面に向いまして、人間に物いうように、
町「これお前、先刻も申す通り私は決して悪人ではない、賊の為に災難に逢うて逃げる機に此の穴へ落ちた者、其の時お前が追掛けて出た彼の二人の者こそ泥坊じゃぞえ、私は仔細あって夫と共に此の山へ来かゝりしに、山賊共に欺されての此の災難、今頃夫は何処へまいられしか、定めし所々方々とお尋ねであろう、どうぞ夫に逢うまでは不憫と思って助けて下さいよ」
と後へ退って小さくなって居りますと、件の親熊はのそり〳〵とお町の前へまいりました。
町「さては是ほど頼んでも聞分けなく、私に噛付く了簡か、そんなら斯うよ」
と懐剣に手を掛けながらも、心の中に業平天神を祈り、どうぞ夫に逢うまではお町の一命をお助け下さいますようと、油断なく熊を見詰めて居りますと、熊は何やらお町の前へ持って来まして、又元の通り子の寝ている処へ帰りました。お町も少しは安心いたしましたが、さりとて眠ることもならず、其の儘にして居ること一日二日、いよ〳〵熊も囓付く様子がありませんので大分気も落着きました。さア腹が減って堪りませぬ、ふと心付いて見ると、毎日熊が持って来ましたのは胡桃の実やら榧の実やら、乃至芋のような物であります。
三十一
お町は余り腹が空きましたから、前に積んである胡桃を取上げましたが、さア割ることが出来ませぬ、懐剣を出して割ろうかとも思いましたが、いや〳〵熊が見て自分を殺すと思い違い、万一の怪我でもあっては成らぬと気遣いまして、歯に掛けて見ますけれども頓と割れませぬ、二つ持ってカチ〳〵叩いて居りますると、熊はむっくり起き上って、のそり〳〵とお町の前へまいりまして、その胡桃を取ろうとする様子でありますから、お町は震え上って、思わず持っていた胡桃を投出しました。熊は一向騒ぐ気色もなく、静かに其の胡桃を取上げて二つ三つ口へ入れましたが、忽ちぽり〳〵と二つに割って、それを両手に乗せてお町の前に出しました。さては私に食べろということかと、そっと一つ取りまして熊の顔を見ながら食べました。又二つ三つと其の通りにして食べますると、熊も安心の様子にて我子の側にころりと寝転んで、児に乳を呑まして居ります。お町は漸く胸を撫でおろして、
町「この猛獣までが私を助けてくれるか、あゝ有難い、これと云うのも日頃念ずる神様が此の熊に乗り移って我身を守護して下さるのでありましょう、此の上ともに首尾好く穴を脱け出で、夫文治殿に逢わして下さいますよう祈り奉ります」
と一心不乱に祈りまして、
町「どうしたら此の穴を出ることが出来るか知らぬ」
と足掛りのする処へ足を掛けて立上っては見ますが、前にも申す如く此の穴は熊が自身に掘ったのでなく、天然の穴を用いたので有りまして、さながら井戸の如き切立て、深さも二三丈はありまして、其の穴からまた横に掘ったのでございます。熊は慣れて居りますから自由に出入いたしますが、人間殊に女子の身では熊のように自在に飛上ったり飛下りたりする事が出来ませぬ。居るともなしに此の穴の中で余程の日数を費しました。熊は折々雪の塊を持って来ては児にも食ませ、自分にも喰い、またお町の前へも持ってまいります。ところが段々その雪も解けて失る時分になりますと、穴の隅からたら〳〵と清水が垂れてまいります。さア然うなると一日々々とだん〴〵寒くなってまいりまして、もう穴の中に居耐らぬ位になりました。獣類とは申しながら熊は誠に感心なもので、清水が滴るようになったので、熊の児を穴の途中まで出しました様子、お町の心配は何程か知れませぬ。さては神様が我身を見殺しにする思召か、情ないと思って居りますと、親熊が頻りにお町の前へ来て、後向に脊中を出して居ります。お町も始めの内は心付きませぬが、
町「はて是れは、熊が私の脊に取付けというのか知らん」
と恐々熊の脊中を撫でて見ますと、いかにも温順しくジッとして居りますから、思い切って熊の脊中へ確かり取付き、一生懸命神々を念じながら目を瞑って居りますと、件の熊は一飛びで穴の入口へ飛上りました。お町はホッと一息、四辺を見れば谷間々々に少しずつ花が咲いて居ります。始めて蘇生の思いをなして、
町「あゝ辱けない、夢ではないか、それとも今までのが夢であったか知らん」
と心を定めて四辺を見廻しますと、後の方に例の熊がジッと守って居りまする。
町「まだお前は私を守護してくれるのか、人と見たら囓付くべき猛獣が、私の命を助けるとは此の上の恩誼はない、辱けない〳〵、さア熊よ、お前はもう宜いから早く元の穴へお戻り、うか〳〵して居ると猟人のために撃たれるぞよ、必ず〳〵お前の恩誼は忘れませぬ、早くお帰りなさい」
と熊の頭を撫で〳〵、「さア〳〵」と熊を後に向けて促しますと、のそり〳〵歩き出しましたから、其の後姿を見送り、手を合せて、
町「あゝ有難い、辱けない」
と熊の影の見えなくなるまで暫く休みまして、又々一丁程登って後を見ますと、横に熊が来て居ります。
町「えゝ、まだお前は安心せぬか、此処まで来れば大丈夫じゃ、何うぞ帰って下さいよ」
と頭を撫でて居りますと、
猟「やア女郎、脇へ寄れ、その熊を撃つのだ、早く〳〵」
と声掛けられてお町は恟り驚き、
町「なゝゝゝなゝ何と仰しゃいます、この熊をお撃ちなさると、そりゃアまア惨たらしい」
と熊の惣身に抱付きました。此の体を見るより猟人は益々大音に、
「汝え其処退かねえか、そんな真似をして居ると共に打放すぞ」
町「いゝえ、この熊は私が命の恩人でございます、何うぞ助けて下さいませ、今頃熊をお取りなさいましても、左程のお徳にもなりますまい、どうぞ〳〵助けて下さい」
と熊の前に立塞がり、両手を合せて拝んで居りまする。
三十二
一人の猟人は他の猟人に向いまして、
甲「おい、あの女め、熊に抱付いたぞ、ありゃア只者じゃアあるめえ、魔法使か化物だろう、いっそ人ぐるみ撃殺してしまおうじゃアねえか」
と鉄砲を向けますと、
乙「これ〳〵人間を撃つと又名主殿へ呼付けられて酷い目に遇うぞ、まア待て〳〵」
甲「それもそうだな、やい女郎め、其の熊ア汝え縛って引いて来いやア」
乙「おい〳〵そんな無理な事を云うなってば……女郎に熊ア連れて来られるもんか、何か仔細があるに違えねえだ、汝ア此処に只鉄砲を向けて見張っているが宜い、己ア名主殿へ往って話して来べえ」
甲「そんなら早く往って来いよ、これ女郎、その熊ア逃がすと汝え撃つぞ」
と暫く山と山、谷を隔てゝ睨み合って居りました。
町「それ見なさい、お前は今更逃げる事も出来ない、あの猟人が万一お前を撃つならば、私も共に命を棄てましょう、必ず〳〵お前ばかり撃たせはせぬ、世にまします神々よ、たとい獣類なればとて、命を助けし大恩あるもの何うぞ助けて給われかし」
と熊の傍に寄り添いまして、
町「さア穴の方へ往けよ、さア〳〵」
と追いやる如く引立つれば、熊は頷く様子にてお町の顔を一度見て、一散走りに谷間の方へ駈け出します。
町「それ撃たれなよ」
と云う間もあらばこそ、一発ズドンと打放しました。お町は熊を見返りまして、
町「やれ撃たれしか」
と云う間にまた一発放ちました。さてお話変って、文治の漂い着きました無人島は、佐渡を離れること南へ何百里でございますか、島の大きさも確とは分りませぬが、白鳥、鸚鵡、阿呆鳥などいう種々の鳥が沢山居ります。文治は尋ねあぐみて殆ど気絶の体でございましたが、暫くして我に返り、
文「あゝ天何故に我を斯くまで懲らしめ給うか、身に悪事をなしたる覚えなきに、如何なれば斯く我を苦しめ給うぞ、世にある時は人を助け、人のために人を懲しもし、また彼の友之助を助けるために蟠龍軒の屋敷へ踏入り、悪事加担の奴ばらを切殺したりとは云いながら、これ私慾のためならず、世のため人のため、天に代って誅戮を加えたるに過ぎざれど、其の職其の身にもあらぬため却って罪となりつるか、かゝる無人島に彷徨いて徒らに乾殺され、後世人の笑いを受けるより、寧そ此の場に切腹して潔く相果て申さん」
と覚悟いたしましたが、また思い直して、
文「いや、見す〳〵蟠龍軒似寄の者が、新潟の沖なる親船に忍んで居ると聞きながら、武士と生れて一太刀怨みもせず、此の儘死ぬるも残念至極、また女房とても生死の程も分らぬ中に、空しく無人島の鬼と化したる其の後に、それと知ったなら嘸かし我身を恨むであろう、さぞや蟠龍軒が笑うであろう、こりゃ土を喰っても死なれぬわい、よし〳〵二人の舟子の衣類を剥いで、船の修覆の材料となし、獣類魚類さては木の実を捜して命を繋ぐ工夫が肝腎、ウム、向うに見えるは鳥なるべし」
とやおら身を起して腕に覚えの一礫、見事に中って白鳥一羽撃留めました。やれ嬉しやと切石を拾うて脇差の柄に打付け、袂にあり合う綿に火を移し、枯枝にその火を掛けて焚火をなし、また樹の枝を折って樹から樹を柱に、屋根をこしらえて雨露を凌ぐの棲家となし、先ず其の日暮しの用意は出来ました。
文「これで先ず露命を繋ぐ趣向が出来たというもの、此の上は一日も早く此の島を脱け出でて、再び蟠龍軒に廻り合い、武士の嗜み思う存分に敵を討たなければならぬ、あゝ〳〵我は斯かる無人の島に漂うて辛うじて命を継ぎ居るに、仇は日々夜々に歓楽を極めて居ることであろう、實に浮世とは申しながら、天はさま〴〵に人を操るものかな、蟠龍軒よ、此の方が再び廻り合うまでは達者で居れよ、我妻もまた此の世に居らば何うぞ無事で居てくれよ」
と心の中に祈らぬ日とてはござりませぬ。別に話し相手というもなく、只だ船を繕うことにのみ屈托して居りまする。折々木を切り魚を捕りますごとに、思わず、
文「汝蟠龍軒、切って〳〵切殺しくれん」
と大声に呼わりましては又我に返り、
文「これで思いが届かねば、人と生れた甲斐もなし、蟠龍軒達者で居れよ」
と云う折しも、木蔭に怪しき声ありて、「達者で居れ」という。文治は暫く四辺を見廻しまして、
文「さては何者か、我が哀れ果敢なき境涯を見て笑うものと見えるわい」
と体を潜めて様子を窺って居りましたが、別に怪しい様子もござりませぬ。
文「はて、不思議なこともあるものだ、達者で居れと己の口真似をしたのは何者か知らん、まさか夢ではあるまい」
と段々山深く入込んで、彼方此方を尋ね廻りますると、高き樹の上に一筋の矢が刺さって居りまする。
三十三
文治は端なくも樹の上に征矢を認め、
文「はて、彼処に矢の刺さっている処を見れば、今は人が居ないにしても、我のように漂うて来た者があるに違いない」
と独語をいいながら其の樹に攀登り、矢を抜いて見ますと、最早竹の性は脱けて枯枝同然、三四年も前から雨曝しになっていたものと見えて、ぽき〳〵と折れまする。文治は窃ッとこれを抜取りまして、
文「チエ…有難や、これこそ確かに人の造りし征矢、案に違わず此の島は折々四辺の島人の訪い来る島に相違ない、たとい其の島人が鬼であろうが蛇であろうが、事を分けて話したら、よもや頼みにならぬ事もあるまじ、やれ嬉しや、やッ……それ〳〵、今達者でおれと口真似をしたのは其の島人にはあらざるか、但し心の迷いかは知らぬが、かゝる矢種のあるからには、何時しか人の来るに相違ない、あゝ有難い〳〵」
また木蔭に声ありて、
「あゝ有難い〳〵」
文「いや、今のは確かに……」
と四辺を見ますと、一羽の鸚鵡がつくねんと樹の叉に蹲まって居りまする。文治は心中に、「さては鸚鵡でありしか」と我ながら可笑しさに耐えず、
文「達者で居れ」
鸚「達者で居れ」
文「馬鹿野郎」
鸚「馬鹿野郎」
なか〳〵よく人の真似を致します。
文「やッ、これは面白い」
と其の鳥を押えますと、平生人の居りませぬ島でありますから、少しも人を恐がる様子もなく、馴々しく手の上へも止ります。
文「これは好い鳥を見付けたわい」
とそれから二三の鸚鵡を押えて、住居へ持帰りまして、「旦那様か、お町でございます」などと口真似をさせるのが何よりの楽み。日々鸚鵡を話相手同様にして其の日〳〵を送って居りましたが、何分にも島には虫が多く居りまして、少しも火を絶やすことが出来ませぬ、昼夜とも焚火をして其の側に寝起して居りまする。虫が多いくらいですから、夏は随分暑うございますが、冬は案外暖かく、寒中でも四月頃の陽気であります。月日の絶つのは早いもので、早くも一箇年を過ぎました。待てど暮せど人も来ず、身の上にも別に変りたる事もなく、食物を漁るの外は日々船繕いに余念なく、無事に大海へ乗出すことの出来るようにと工夫する外には何の考えもございませぬ。此の島へ上ってから最早一年余になりますから、着物は切れ、髯はぼう〳〵として、何う見ても人間とは思われませぬ。今日も船繕いに疲れて、夜に入り木の実などを食べて、例の通り焚火の端に打倒れて一寝入りいたしますると、何者にや枕元に立って揺り起すものがあります。文治はがばと撥起き、
文「いや、其の方は何人じゃ、おゝ、お町ではないか」
町「はい旦那様、ようお達者でおいで下さいました、お懐かしゅうございます」
文「ウム、町や、そちも達者でいてくれたか、まア何うして斯様な処へまいりしぞ、して能く私の居る処が知れたの」
町「はい、あの峠で端なくも貴方にお別れ申してから、さま〴〵の艱難辛苦をいたしましたが、それでも神様のお助けで、虎の顎を遁れまして、再び貴方にお目に懸ることが出来ました、これと云うのも矢張神様のお助けでございます」
文「まア何は扨置き、明暮其方のことを案じぬ日とてはなかった、宜く達者でいてくれた、人も通わぬ無人島、再び其方に逢うというのは斯んな嬉しいことはない」
町「はい、貴方もお達者で」
と後は涙に物云わせ、暫し文治の顔を見詰めて居りますと、文治も堪え兼て熱い涙を流しながら、お町の手を握って引寄せますると、足もとから長さ三尺にも余ります蛇がのたりを打ってずる〳〵〳〵。お町は驚いて、「あれッ」と夫に凭れかゝりますと、
文「町や、こんな事は毎日の事じゃ、何うも致しはせぬ、お町々々」
と呼べども答えはございませぬ。文治は眼をこすりながら、
文「えゝ、また夢か、馬鹿々々しい」
総身の汗を拭いまして、
文「もう夜が明けたのか、誠や聖人に夢なしとか、心の清らかなる人に夢のあるべき筈はない、我は夜となく昼となく夢現に心を痛め、さながら五臓を掻きむしらるゝの思い、武士の家に生れながら腑甲斐なし」
と我と我が心に愧じて、焚火の辺にてほッと息を吐く折しもあれ、怪しや弦音高く一枝の征矢は羽呻りをなして、文治が顔のあたりを掠めて、向うの立木に刺さりました。
文「やア今の夢といい、また矢の飛び来りしは此の身の助かる前兆か知らん、此の身が彼のまゝ寝ていたら、或は此の矢のためにあたら命を失ったかも知れぬ、妻の夢のため眼を覚せしところを見れば、定めしお町が八百万の神々に此の身の無難を祈っているのであろう、あゝ辱ない」
人情の常として、何に付けても思い出すのは女房子でございます。
文「あゝ危かった」
と思う間もなく、また二の矢がブウンと羽響きをなして飛んで来ました。文治はハッと身を拈り、矢の来た辺へ眼を付けて、
文「やア〳〵拙者は決して怪しい者ではないぞ、漂流いたして難儀の者、助けたまえ」
と声を限りに手を合せて助けを乞いましたが、弓取る人は、聾か但しは言葉の通ぜぬためか、何程手を合わして頼み入っても肯入れず、又も飛び来る矢勢鋭く、殊に矢頃近くなりましたから、憫れむべし、文治は胸のあたりを射通されて其の儘打倒れました。
三十四
文治は図らずも二の矢を射られて倒れたまゝ、身動きもせず様子を窺って居りますると、弓を提げたる島人が、小石を拾って打付けましたけれども、文治は少しも動かぬものですから、死んだと思うてか、いよ〳〵側に寄りまして、文治の胸元に刺さりました矢に手を掛け、引起そうと致しまする其の手をむんずと掴んで起き上りますと、島人は恟りして、
島人「あゝ、あゝ」
文治は手を取った儘、胸元に刺したと見せた矢を片手に持ち、
文「これ島人、最前から怪しい者ではない、助けてくれと申した言葉は其許の耳に通じないか、我は難船した者でござる、頼りなき漂流人でござるぞ、お聞入れなすったか、宜しいか」
と手を放しますると、又々腰に差したる木刀様の物を持って文治に打ってかゝる。その小手下を掻潜って又も其の手を確と押え、
文「はて、此奴は言葉が通ぜぬと見えるわい、何時まで問答しても無益なり」
と考え直して、手真似口真似して「己は決してお前に仇をなす者ではない、漂流人で難儀して居る者である」ということを知らせますると、少しは分ったものと見えまして、強いて手向いする様子もございませぬ。
文「あなたは何処からお出でになりました、何と申すお国のお方でございます」
島人「これ、己え島だ」
文「成程、何と申す処からお出でかな」
島人「これ、己え島だ、彼方からカノーで来ただ」
文「左様でござるか、どうぞ貴方の島へ御同道して下さいまし」
と手真似かた〴〵申しますると、
島人「己え此の島で鳥を捕るだ」
文「左様ならば私も同道して鳥を捕るお手伝いをいたしましょう」
文治はもう此の島人を逃がしては此の島を出る機会がないと思いまして、いろ〳〵上手を使って、話も確と分りませぬが、片言まじりで交際いながら、彼方此方を経廻って、さま〴〵の鳥を撃取りました。最早日暮になりましたが、島人は夜に入っても帰る気色がございませぬ。勿論無人島は虫や獣が沢山居りまして、慣れぬ身には安心して泊ることが出来ませぬから、島人は夜に入って一夜を明かす所存と見えます。併しこう何か思案して居りますから、文治は、
文「さア〳〵」
と急き立てゝ海岸へ出て見ますと、舟がございます。只今申上げましたカノウと申しまするは舟のことであります。これは丸木で彫上げました物で、長さは凡そ三間、幅は二尺五寸ぐらいあります。只今考えて見ますと、大阪の博物館にあります、古風の独木舟のようなもので、何の木か一向分りませぬ。舟といえば舟、人の二人も乗りますると、外に何も置く処はございませぬ。さア何うか此の舟へ乗せて連れて往ってくれと申しますと、島人は何だか未だ文治を疑って居ります様子、飛乗る途端に文治を陸へ突き放し、自分一人が飛乗りまして漕ぎ出そうと致します。併し海岸は遠浅で、岩角が沢山有りますから思うように舟が出ませぬ。是幸いに文治は突然海へ飛込み、カノーの小縁に取付きました。その手を件の島人が木刀を振上げて打とうと致しますから、文治は手早く其の手を取って押え、其の儘舟へ飛上りまして、
文「やい最前から是ほど申しても分らぬか、いかに言葉が碌々通ぜずとも、あれ程手を合わして頼んだじゃないか、いよ〳〵肯かずば打殺すぞ、さア何うだ、これでもか」
と手を捩上げますると、
島「ウーム、負けろ〳〵」
文「分ったか」
島「大隅明へ……」
文「その大隅明と申すのは其許の名か」
と指さし致しますると、
島「えッ〳〵」
と親指を出しましたので、
文「さては此の島人の居る島に大隅明という島司が居ると見えるわい、其の人ならば必ず分るであろう、召使同様な此奴が分らぬのも無理はない我が舟に乗るのを拒んで手向いしたというのも、我が同類を殺しはせぬかと疑っての事であろう、尤も千万、併し我が強力に恐れてか、温順しくなったとは云うものゝ、油断はならぬわい」
と文治は不図思い付きまして、提物を取出して島人に遣わしますると、島人は嬉しそうに繰返し〳〵見て居りまする。又文治が胴巻の中より金を取出し、一分銀一枚を与えますると、島人は然も嬉しそうに之を押戴きました。掌の上に乗せて、ためつすがめつ見る様は、始めて手にしたものとは思われませぬ。
文「こう喜ぶところを見ると、金ということを知って居るものと見え。併し島司が有って見れば、この金を遣ったところで、自分の物にするという訳には行くまい」
と感付きましたから、又々銭を出してやりますと、島人は両手を支き、頭を下げて喜んで居りまする。
三十五
さて文治は島人の喜ぶ様子を見まして、
文「漸く心が解けたと見えるわい、さア舟を漕ぐように」
と手真似で知らせますると、島人は頷き、箆のような物を出しまして、ギュウ〳〵と漕ぎ始めました。只今の短艇のようなものと見えます。始めの内は風もなく、誠に穏かな海上でありましたが、夜の更るに従って浪はます〳〵烈しく、ざぶり〳〵と舟の中に汐水が入りますのみか、最早小縁と摩れ〳〵になりまして、今にも覆りそうな有様でございます。文治は心の中に、
「又も難船か、何たる不幸の身ぞ、八百万の神々よ、どうぞ一命を助けたまいて、一度蟠龍軒に邂り逅いますよう、又二つには女房お町に逢いまして、共々に敵討の出来まするよう、助けたまえ護らせたまえ」
と思わず声を放ちて祈りますると、島人は不思議そうに文治の顔を見ては、何うかされるのかと怪んで居りまする。文治はそれと心付きて、島人を励まし、自分も力を添えて舟を操りましたが、
文「いや待てよ、何処の島へ往くのか知らぬが、磁石も無ければ的もない、何方の方へ往く所存か知らん、困ったものだ」
と思いまして、
文「これ〳〵島人、何処まで往っても見当が知れぬではないか」
と真似をして見せますと、
島「風暑い」
と申します。さては南の方へ往くのかと少しは安心いたしましたが、兎角する内に東の方が糸を引いたように明るくなりました。
文「はゝア、東は彼方の方だな、途方もない見当違いをして居るものだ、大分浪も静かになったようだが、こうして居る内には何れかの島へ着くであろう」
と夜の明けるに従っていよ〳〵安心いたしました。よう〳〵其の日の巳刻頃になりますと、嬉しや遥か彼方に当り微かに一つの島が見えまする。これぞ当時は八九分通り開けて居りますが、小笠原島でございます。文治は盲亀の浮木に有附きたる心地して、
「正直の頭に神宿るとは宜く申した、我は生れて此の方、不正不義の振舞をした例はない、天我を憐みたまいてお救い下さるか、あゝ有難し辱けなし」
と喜んで居りますると、俄然一陣の猛風吹き起って、忽ち荒浪と変じました。見る〳〵中に逆捲く浪に舟は笹の葉を流したる如く、波上に弄ばれて居る様は真に危機一発でございます。取付く島の見えぬ内は案外胆も据っておるものでございますが、微かなりとも島が見えますると、頼りに想う心が出ますので、何うしても気が焦るものでございます。文治も島人も一生懸命になって居りますが、何分櫓一挺しかござりませぬから、何うすることも出来ませぬ。浪のまに〳〵揺られて居ります折しもあれ、大きな岩と岩との間に打込まれました。其の儘にして風の止むのを待って居れば宜しいのでございますが、其処が気が焦って居るものですから、
文「やッ、こりゃ大変、もし此処に斯うして居て、今に波が被って来ると、岩間の鬼と消えなければ成らぬ、それッ」
と島人を励まして、岩と岩との間に櫓を挟んで舟をこじり出そうと致しましたのが運の尽、すわと云う間に櫓は中程よりポッキと折れてしまう。その機みに舟は再び海上に飛出しました。もう如何ともする事が出来ませぬ。どう〴〵と寄せ来る波上に車輪の如く廻りながら、彼是二三十丁も押流されましたが、又も大きな岩角へ打付けられて、無慙や両人とも打ち処が悪かったと見えて、其の儘絶息いたしました。不思議にも文治が命の助かります次第は後のお話といたしまして、扨此方は二居ヶ峰の麓、こんもり樹茅の茂れる山間には珍らしき立派な離家があります。多分猟人の中の親方でございましょう。
猟人「やア喜右衞門どん、今なア二居ヶ峰にえれえ事がありやしたア、己アとな彌右衞門と二人での、帰るべえと思ったら、えれえ熊ア出やした、撃つべえと思うと、側に女さア附いているだて撃つことが出来ねえだ、己ア大え声で、女郎退けやアと喚っても退かねえでな、手を合せて助けてくれちッて泣くでえ、女郎退かねえば撃っ殺すぞと云っても逃げねえだ、彌右衞門め腹ア立って、彼奴は化物だんべえから熊と一緒に撃つべえと云うだ、そんだから己ア後でまたお前におっ叱られると詰んねえだから、一走り往って喜右衞門どんに聞いて来べえと云って、此処へ来る途中で鉄砲が鳴りやした、多分彌右衞門め、己の帰りを待たねえで撃ったんだんべえ、何ぼ何でも喜右衞門どん、人間を撃っちゃア悪かんべえな」
喜「悪いとも〳〵、たとい間違いでも人を撃っ殺すと、自分の首さアおっ飛ぶぞ」
猟「やア、そりゃ困った事が出来たな」
と両人は顔をしかめて居ります。
三十六
猟人二人が案じて居りますところへ、見馴れぬ女が尋ねてまいりまして、
女「はい、御免下さいまし」
一人の猟人は消魂しく、
猟「やアあの化物がやって来た」
喜「馬鹿野郎、そんなに騒ぐもんじゃア無え」
流石に猟師の親方だけあって落着いたもの。言葉静かに、
喜「一体お前様は何でがすえ」
女「はい、私は仔細あって昨年夫婦連にて旅行の途中、二三里あとの山中にて山賊に逢いまして、連合の者は行方知れず、私は二人の山賊に追われます途端、幸か不幸か、思いがけなく熊の穴へ落ちまして、其の熊に囓み殺されることかと思いの外、却って熊のために助けられまして、今まで命を存えて居りました、不憫と思召して何うぞお助け下さいまし」
喜「何しろ怖かねえ姿だなア、化物じゃアあるめえなア」
女「決して怪しい者ではござりません」
喜「はア、そんじゃアお前は何処の国の者で、名ア何ちゅうのか其処え書けて見なせえ」
猟「成程、喜右衞門どんが云わっしゃる通り、字イ書くが一番宜いだ、さア化物、字イ書けやア」
喜「紙イ無えが、六郎どんが置いて往った筆えあるから、これで書かっせえ」
女「私は江戸の者で」
喜「まアそんな事は後で宜いから早く字を書かっせえ」
女「はい」
と筆を執りまして古今集の中の
我が恋は行方も知らず果もなし
逢ふを限りと思ふばかりぞ
本所業平橋際某と書きました。
猟「それが汝が名けえ、馬鹿に長え名だなア」
女「いゝえ、これは私が子供の時習いおぼえました古い歌でございます」
猟「やア歌きゃア、そんなら汝え唄え、己ア踊るべえ」
喜「馬鹿野郎、汝が踊るような歌とは違わア、汝イえれえ字イ書くだなア、これじゃアはア人間だんべえ、こんな字イ書くもなア己が村に無えだ、名主どんに見せべえ」
喜右衞門が其の書いた物を持参しまして、其の村の名主に見せますと、
名主「やアこりゃア能い書じゃア、喜右衞門、なぜ其の女を連れて来ねえか」
喜「己はア連れて来べえと思っただが、出し抜けに連れて来てほざかれると詰らねえだから、連れて来ねえだ」
これからお町を同道致しまして名主の宅へ連れてまいりますると、
名「さア此方へお上りなせえ、さぞ難儀しなすったんべえ」
町「これは御丁寧な御挨拶で恐入ります」
喜「ひやアこれ女子、こりゃ此の村の名主の紋左衞門様で、よく頼まっしゃい」
町「有難うございます」
紋「お前らが熊女先生でがすかねえ、何処の者にしろ、金がねえば仕様がねえで、村でも何うかしべえから心配しねえで居るが宜いだ、此の村の奥へ十丁べえ参りやすと寺があるだ、此の頃尼が死やして子供らア字イ書くことがなんねえで、手におえねえが、淋しかんべえが旅金の出来るまで子供らに字イ書くことを教えてくんろ」
町「御親切に有難うございますが、人さまに字を教えるなどという手前ではございません」
紋「そうでねえ、この界隈にお前ぐれえ書くものはねえだ、まアその形じゃア仕様がねえだ、これ婆アどん、女の着るもんが有るなら出してくんろ、さア熊女、この着物を着るが宜いだ」
町「はい、有難う存じます、そのお寺と申すは余程山奥でございましょうか」
紋「なアに、山ア一つ越すべえで、そうさ、これから十丁もあるかな」
町「そうでございますか、私は其の山奥が大好でございます」
喜「ひやア山奥が好きだてえぞ、それい〳〵化物だんべえ」
町「なるたけ人の目に掛らんのが宜しいのでございます」
田舎殊に山間の僻村では別に手習師匠もござりませんので、寺の住持が片手間に教えて居ります。その住持も近頃居りませんので、お町は日々子供を相手にして、せい〴〵仮名尽や名頭ぐらいを指南して居ります。偶には歌などを書くことも有ります。何しろ熊女が書いたというので土地では大評判、新潟あたりへ聞えることもござります。一日名主紋左衞門が寺へやってまいりまして、
紋「ひやア御免下せえまし」
町「これは〳〵名主様、ようお出でなさいました、さア何うか此方へお通り下さいまし」
名「夕方、人の家へ来るでもねえが、急用あってめえりました」
町「急用とは何事でございましょう」
紋「先ず話をしねえば分らねえだ、此の間中新潟の沖に親船が居りやしたが、それが海賊だという事でな、その船の側に来る船は矢鱈に鉄砲を撃掛けたり、新潟あたりの旅人を欺しちゃア親船に連れだって、素ッ裸体に剥ぎ取って、海に投り込むてえ話だ、さア御領主様も容易ならねえ海賊だてえんで、御人数を出しても、海の中から飛道具で手向いするもんだに依って、何うにも手に負えねえてんだ、そこで御領主様から誰か船の中へ忍び込んで討取る者へは褒美を出すてえ触が出ただ、すると此の頃江戸から武者修行だと云って来ていた二人の侍が、その親船へ乗込んで海賊の親方を叩ッ切って、船へ火イ掛けやして、泥坊を根絶しにしただ、何と強え侍じゃねえか、大層お役所から御褒美を貰ったそうだが、その剣術の先生が今日わざ〳〵己ア処へやって来ただ」
町「へえ、江戸表の剣術の先生でございますか」
と首を傾けました。
三十七
紋左衞門は一服吸って煙草盆を叩きながら、
紋「その剣術の先生様がな、お前様の字イ書くのを見て、此の女ア只者じゃア無えちゅうて、わざ〴〵越後からお前様に会いにござらしって、私が家にいるだ、悪い事アあんめえから、ちょッくら私が家へござらっしゃい」
お町は暫く考えて居りましたが、
町「えゝ其の先生と申すのは、まったく江戸のお方でございますか」
紋「言葉の様子では全く江戸のお方に相違ねえだ」
時にお町は、
「その剣術の先生というのは若しや蟠龍軒ではないか知らん、まこと蟠龍軒にしたところが、夫の誡めもあるゆえ我身一人で手出しはならぬ、また蟠龍軒にあらずとも、江戸のお侍に此の今の姿を見られるのも心苦しい」
と思いまして、
町「はい、あなたの御親切はまことに辱のうございますが、零落れ果てたる此の姿、誰方かは存じませぬが、江戸のお侍に会いますのは心苦しゅうございます、何卒お断り下さいまし」
紋「いや、それは宜くあんめえ、たとえ昔は何様な身分だっても今は今じゃねえか、海賊を退治して御領主様から莫大の御褒美を頂きなすった位の大先生だ、会って悪いこともあんめえから、会うが宜いじゃねえか、事に依って金でも呉れさしったら、その金で路用も出来るてえもんだ、二つにはまた我が亭主の居所も知れるかも知れねえだ、そんな因業なことを云わねえで、私と一緒に往かっせえ」
町「いゝえ、思召は有難う存じますが、お断り申します」
紋「まア然う云わねえでござらっしゃい」
町「此の儀ばかりは何うぞお免し下さいまし」
と押問答して居りますると、表の方にて大伴蟠龍軒外二人が、
「えゝ、そんな事であろうと思って、表に立って聞いていた、御免よ」
と押取刀で入ってまいりました。お町は素より顔を知らぬものですから、蟠龍軒とは心付かず、
町「いゝえ、お恥かしゅうござんす」
と裏口から逃出しました。
大「それッ」
と云うより早く、遠見に張って居りました門弟一人、一筋道に立塞がり、
門人「どッこい、そう肯くはいかんぞ」
と取押える後から追い来りし蟠龍軒、お町を取って引据え、と見ると心の迷いか、小野庄左衞門の娘の顔だちと少しも違いませぬ、心の中に、
大「はて、よく似た女子もあるものだ、併し彼がこんな山奥に来よう訳もない、寧そ打明けて蟠龍軒と云おうか、いや〳〵桜の馬場でお町の親父庄左衞門を殺し、脛に疵持つ此の身、迂濶なことは云えぬわい、他人の空似ということはあるが、真実庄左衞門の娘かも知れぬ」
と思いました故、さあらぬ体にて、
蟠「これ〳〵女中、お前は何処の者だか知らんがな、拙者の眼には都の者としか見えぬ、拙者も元は江戸の者だ、難儀なことがあるならば何処までもお貢ぎ申そう、これ〳〵女中、そんなに力を出しても……これ門弟、えゝ気の利かぬ奴らだな、手伝えというのではない、何をまご〳〵して居るのだ、予て貴様たちに言付けて置いたではないか」
門弟二人は頷きまして、
「左様々々、まア名主、そなたも我らと一緒にまいれ」
と無理に連立って此方へまいりました後で、
蟠「これ女中、もう其許が何程〓(「※」は「あしへん+宛」)いても逃すもんじゃアない」
町「あなた、何うぞ御免下さいまし」
蟠「分らん奴だな、えゝ面倒な、じたばたすると斯様いたすぞ」
とお町を其の場に押倒し、其の上に乗し掛って、
蟠「さア何うだ、今更何うも斯うもねえ」
今はお町も一生懸命、用意の懐剣を取出そうと致しますると、
蟠「やア此奴め、刃物を持って居やがるな」
ぎゅッと其の手を押え付けました。
町「あいたゝ〳〵」
蟠「さアこれでもか、何うだ〳〵」
と無理強談、折柄暮方の木蔭よりむっくり黒山の如き大熊が現われ出でゝ、蟠龍軒が振上げた手首をむんずと引ッ掴み、どうと傍に引倒しました。思いがけなき熊の助勢にお町は九死の境を遁れ、熊の脊に負われて山奥深く逃げ延びました。何時まで経っても先生が帰って来る様子がございませんから、二人の門人は気遣いながら、名主同道にて引返してまいりますると、こは如何に、先生が樹の根方に倒れて居ります。恟り驚いて、
門「やア先生が倒れて居る、先生々々、何うなすった、やッこりゃ大変、先生が気絶して居る、これ名主、水を、早く〳〵」
二人の介抱で蟠龍軒は漸く心付きました。
門「先生、お気が付きましたか」
蟠「いや何うも飛んだ目に逢うた」
門「何うなさいました彼の女は」
蟠「とうとう逃げられてしまった」
門「馬鹿々々しいなア、併し先生、あの婦人は全く船中でお話のあった庄左衞門の娘お町と申す者でございましょう」
蟠「まったくお町に相違ない、相違ないが、何うして斯様な山奥へ来て居るか、それが分らぬ、併し筆蹟と云い顔形といい、確かにお町に相違ない」
門「そりゃア惜いことをしましたなア、やア先生、大層お手から血が出ているじゃア有りませんか」
蟠「実はこれがために気絶したのじゃ」
門「あのお町が喰付いたのですか」
蟠「いや〳〵何か其処らに居りはせぬか」
と云われて門人二人は、「何が〳〵」と云いつゝ五六間先へまいりますと、山のような真ッ黒な物がむず〳〵〳〵。
門「やゝッ〳〵……やゝッ……熊だ」
と叫びながら一同其の場を逃去りました。
三十八
お町は熊に助けられて山深く逃げ延びましたが、身を寄せる処は勿論、食物もございませんから、進退いよ〳〵谷まりました。その辺を打見ますと、樵夫の小屋か但しは僧侶が坐禅でもいたしたのか、家の形をなして、漸く雨露を凌ぐぐらいの小屋があります。
町「たとえ此の山奥で餓死するとも野天で自殺は後日の物笑い、何者の住いかは知らぬが、少々お椽を拝借いたします、南無阿弥陀仏〳〵」
と静かに坐を占めまして、何方が江戸か分りませぬが、
町「亡き御両親様、此の身が此の世に出でし幼き時より、朝夕の艱難苦労あそばしてお育て下さりました甲斐もなく、無事で亡き魂をお弔い申すことも適いませず、人も通わぬ山奥でむざ〳〵相果るとは、何たる不孝でございましょう、くれ〴〵もお許し下さいまし、たま〳〵御両親のお鑑識にて、末頼もしき夫を持ちましても、運拙くして重なる不幸、今頃何処に何うしておいでなさるやら、但しは山賊のためにお果てなされしか、私は不幸にも斯かる深山に流浪の身、一粒の米もなければ居所もなし、此の儘餓死いたすでございましょう、不孝な娘とお叱りなきよう、くれ〴〵も願いまする、先程無法な振舞をした剣客者というは、面は素より知りませぬが、江戸の者といい、又大伴……万一敵ではないか知らん……たとえ敵であればとて、先程の手並では迚も及ばぬ女の悲しさ、寧そ辱しめられぬ其の内に、おゝ左様じゃ左様じゃ、此の身を汚しては其れこそ自害にまさる不孝不義、旦那様お免し下さいまし」
と覚悟の折柄、がさ〳〵音がしまするので、瞳を定めて見ますると、例の大熊でございます。
町「おゝ、そちは何時ぞやの熊であったか、先程は宜う加勢をしてくれやった、其方と私と何ういう因縁か知らぬが、去年の冬から我身を助け、今又此処に来合わして、既のこと辱しめを受けようとする危急を救うてくれるとは辱けない、有難い、よう聞分けてくれよ、かく申す私は親の代から浪人の身とは云いながら、武士の娘で武士へ縁付き、夫の出世大事と身を粉に砕きて辛労の甲斐もなく、又我が夫とても数多の人を助けた事こそあれ、塵ほども我が心に愧ずるような行いをした事はない、それに如何なる因果の廻り合せか、重ね〴〵の不幸続き、いよ〳〵今日という今日は死なねばならぬ事に成り果てました、今までの恩誼はたとえ彼の世へ往こうとも決して〳〵忘れはせぬ、此の上は其方も山奥へ帰り、くれ〴〵も用心して猟人や無法者に出会わぬよう、無事で達者で長生してくれよ、思えば〳〵、人間を助けるほどの情深きお前をば、何故天は人にしなんだか、世はさま〴〵とは申しながら、甲斐なく思うぞよ」
と熊の頭を撫でて暫く有難涙にくれて居りますると、熊も聞分けてか、悄然と萎れ返って居りまする。お町は涙を払いながら、
町「さア〳〵、もう覚悟の我が身、何の怖いこともない、早く帰ってくれ、さゝ帰ってくれ、まだ私を慕っていますか」
と思わず熊の首のあたりに飛付きまして、よゝとばかりに泣き沈んで居りましたが、暫くして我に返り、
町「さゝ、夜でも明けて猟人に見付けられては其方が危い、早う帰ってくれ」
と両手を合せて伏し拝み、懐中より取出したる夫文治より譲りの懐剣を抜放ち、
町「旦那様、御免遊ばせ」
とあわや喉笛へ突き立てようと身構えました。さて文治が再度の難船に舟人諸共気絶いたしました次第は前回に申上げました。天義士を棄てず、あたりの船頭がこれを見付けまして、
「やア〳〵彼処に旅人が倒れてらア、それ難船人々々々、確りしろよ、おゝ気が付いたか」
文「これは〳〵何処のお方か存じませぬが、お助け下さりまして有難う存じます」
船頭「とても駄目だと思ったが、よく気が付いたなア」
文「有難う存じます、今一人の舟人は如何致したか、御存じありませぬか」
船「此処にいるじゃねえか、見なせえ、此の通りの打傷、いろ〳〵介抱もしたが、とても駄目だ、諦めなせえ」
と聞いて文治は舟人の亡骸に縋り。
文「これ島人、これ島人」
もう冷え切って居りますから、いくら呼んでも甦りは致しませぬ。
文「さて〳〵不憫なことを致したわい」
船「どうも仕方がねえだ、諦めなさるが宜い」
文治は夢を見たような心地、
文「一体こゝは何処でござりましょう」
船「何処ッて大変な処だ、己ア新潟通いの船頭だが、昨日の難風で、さしもの大船も南の方へ吹付けられ、漸う此処まで帰る途中、毀れた小舟に二人の死骸、やれ不憫なことをした、定めし昨日の風で難船したのだろうと、幸いに風も静かになったから、手数を掛けてお前がたを助けてやったのだ」
文「何ともお礼の申そうようもございませぬ、こゝは越後の新潟近所でございましょうな」
船「どうして〳〵、これから新潟までは何百里という海路、三日や五日で往かれるもんじゃアねえ」
と聞いて文治は今更呆気に取られて居りまする。
三十九
文治は暫し呆気に取られて居りましたが、
文「新潟通いの船とあれば、定めし此の船は新潟へまいるのでございましょうな」
船「へえ、新潟へ往く船でがす、見受けるところお前様はお武家様のようだが、一体何処のお方かね」
文「私は江戸の者でござります、故あって越後新潟へまいります途中、信州二居ヶ峰、中の峠にて山賊に出会い追い往く中、女房を見失い、彼方此方と尋ねますと、新潟沖に大船があって、其の船に海賊が……」
と云いかけて四辺を見廻し、
文「多分その大船に居るであろうと人々のいうにまかせ、取急ぎ新潟へまいりまして、旅宿にて船の様子を尋ねて居ると、こう〳〵いう奴の勧めに従い、二人の舟人を雇うて沖へ乗出したところが、図らずも難風に出会い、その二人の舟人は途中に於て相果てました、一人の舟人が死際の懴悔話を聞きますると、旅宿で船の世話をしてくれた商人も其の二人の舟人も同じ穴の貂、やはり海賊の手下であったそうでございます、察するところ私の女房も同じ仲間の奴に勾引され、海賊船に取押えられて居りはせぬかと案じて居る折柄、こゝに死んで居る島人が、私の漂うて居った無人島へ来りしゆえ、辛うじて其の舟に乗込み、一度新潟沖に着いたし、女房の在所を尋ねようと思って小舟を乗出したところが、又も難船して此の始末、お救い下さいまして有難う存じます、只今貴所方より此の船は新潟行と承わって、恟りするほど喜びました、此の上の御親切に何うか私を新潟までお連れ下さいまし、此の御恩は死すとも忘れませぬ」
船「まア〳〵お前さん、安心して目でも眩すといかねえ、薬でも飲まっせえ」
文「何から何まで辱のう存じます」
船「お前らが連の死んだ人ア何うすべえ」
文「ほんに心付かなかった、只今まで船の中で死んだ者は何ういう扱いを致すものでしょう」
船「陸が近けりゃア伝馬へ積んで陸へ埋るだが、何処だか知んねえ海中じゃア石ウ付けて海へ打投り込むだ」
文「左様ですか、永く置いては船の汚れ、此の儘何うぞ」
船「おゝ合点だ、客人成仏さっせえ、それ〳〵江戸の客人危ねえぞ」
文「はい、有難う存じます、南無阿弥陀仏〳〵」
さて文治は船頭の介抱にて身体も以前に復し、それ〴〵金を出して礼をいたし、日を経て無事に新潟沖へ着船いたしまして、伝馬で陸へ上り、一同無事を祝して別れを告げました。これより文治は彼方此方と尋ね廻りまして、漸く此の前泊りました旅籠屋へまいりました。
文「はい、御免下さい」
女「入っしゃいまし」
文「一昨年中はいろ〳〵お世話になりました」
と云われて主人は暫く文治の顔を見詰めて居りましたが、漸く思い付いたと見えまして、
主「やア旦那様、よくまア……ほんにマア宜く御無事でお帰りなさいましたなア、何うして助かりやしたえ、あの時私があれ程お前様に、ありゃア海賊の手下だと申しやしたのに、何でもお前様ア見物に往くだってお出でなさりやしたが、それきりお帰りが無えから、いくらお侍でも殺されたんべえと思っていやしたが、宜くまア帰ってござらしった、お目出度う存じます」
文「いや、あの二人の舟人と親船までまいらぬ内に難船してな」
主「へえー難船しなすったかえ」
文「どうせ魚の餌食と覚悟して船の漂うまゝに任したのが、却って幸いとなって無人島へ着きましてな」
主「へえ、無人島、それから何うしなすった」
文「いやはや無人島でさん〴〵難儀いたしました」
主「まア、そりゃア飛んだ事でござりやした、お同伴の船頭二人は何う為せえましたね」
文「お前のいう通りあの二人も海賊の手下であった」
主「それ御覧なせえ、それだから私があんなに止めたのに到頭強情をお張りなさって」
文「今更そんな事を云っても追付かない」
主「その二人は何うしやした」
文「天罰は恐ろしいもので到頭船の中で死にました」
主「旦那様がお殺しなすったのでやすかえ」
文「いや左様ではない、彼ら二人は毒を喰って死にました」
主「へゝえ成程、因果ちゅうものは恐ろしいもんでやすなア」
文「御主人、話は変るが、この貼付の中にある短冊は何者の筆蹟でござるな」
主「へえ、こりゃ熊女が書きやした」
文「その熊女と申すのは誰でござるな」
主「何だか知りましねえが、信州の山の中で熊に助けられたとかいう女でござりやす」
文「はてな、この歌といい筆蹟といい好く似た者もあるものだな」
と暫く首を拈って居りましたが、
文「こりゃア正しくお町の筆蹟に相違ない……この女はまだ生きて居りますか」
主「生きて居るにも何も此の通り字を書きます」
文「何処に此の女は居りますか」
主「此の間まで二居峠、中の峰の寺に居りやしたそうで、これを其の先頃当所で海賊を退治しやした江戸の剣術の先生が聞付けやしてな、美人だてえので態々逢いに往きやしたところが、その熊女が逃出したそうで、けれども先生だから免さねえ、山の中へ追ッ掛けてまいりやすと、何処を何う嗅付けたか、大きな熊がむく〳〵と出て来やして、先生様の腕を押えておっぽり出しやした、それきりさア、誰もその熊が怖かねえッて其の山へ往く者アありやせんよ」
と伝聞の儘を物語りました。
四十
文「御亭主、それは何時頃の事ですか」
主「なアに直先月のことでありやす」
文「左様か、どうも有難い、就ては御亭主中食の用意をして下さい、今から夜へ掛け、その二居峠中の峰まで往かにゃアならぬ」
主「へえ、あなたも熊女に逢いたいのでがすかえ、兎角剣術の先生は熊女が好きと見えますな」
文「そんな事は何うでも宜い、早く中食を」
主「今から何うでも往かっしゃるか、十里べえありやすぜ」
文「次第に依っては一晩ぐらい途中へ泊っても苦しゅうない」
主「さア駄目でがす、雨え降ってまいりやした」
文「ウーム、何処まで天道様は此の文治をお憎みなさるか、これしきの雨、何程のことやある、それッ」
と身軽に打扮ち、夜に入るも厭わず出立いたしますると、途中から愈々雨が烈しくなりましたので、余儀なく一泊いたしまして、翌日二居峠の三俣村という処へまいります。日はとっぷりと暮れて足元も分らぬくらいになりました。地の理は宜く聞いてまいりましたから、岐路に迷いもせず、足元を見ては歩一歩山深く入ってまいりますると、大樹の蔭からのっそりと大熊が現われ出でました。流石の文治も恟りして、思わず二三歩後へ退り、刀の柄に手を掛けて寄らば突かんと身構えましたが、更に飛付く様子もなく、先に立って後を振向き〳〵心ありげに奥深くまいります。
文「さては噂に聞いたお町を助けし熊はこれなるか、併し遥々越後から雨を冒して此の山奥まで尋ね来て、お町で無かった日にゃア馬鹿々々しいな、何うかお町であってくれゝば宜いが」
と心中に神々を祈りながら熊に尾いてまいります。やがて半道も来たかと思いますと、少し小高き処に一際繁りました樹蔭がありまする。何か知らんと透して見れば、樵夫が立てましたか、但しは旅僧が勤行でもせし処か、家と云えば家、ほんの雨露を凌ぐだけの小屋があります。文治は立止って表から大声に、
文「えゝ、お小屋に何方かおいでなさるか、はて、人のいそうな家だが、御免下さい」
と中へ入って見ましたが、暗がりで少しも分りませぬ。懐中から用意の火打道具を取出しまして、附木に移し、四辺を見ますと、何時か熊は何処へか往ってしまいました。
文「何うも人の住んだような跡があるが」
と又附木を出して隈なく見廻しますと、柱とおぼしき処に何か書いてあります。それも木の燃えさしで書きましたのですから、はっきり分り兼ます。その内に附木は燃え切ってしまう。
文「やア、こりゃ困ったわい」
と其処らの木屑に火を移して読みますると、「我が恋は行方も知らず果てもなし」までは読めましたが、後は確と分りませぬ。これは古今集の恋歌でございますが、筆蹟は消し炭で書いたのですから確と分りませぬ。
文「全くお町の成れの果ではないか知らん、旅宿で見た短冊といい、今また此の歌といい、何うもお町らしい、お町であってくれゝば何れ程嬉しかろう、神よ仏よ、早く此処に居合す人に逢わせ給え」
と祈って居りますと、積る木の葉を踏分け来るは正に人の足音でございます。
文「はてな、今其処へ人が立止った様子、もしやお町では無いか知らん」
と燈火を翳して見ようとする途端に火は消えてしまいました。何か口の中で云うて居る言葉は確かに女の声であります。もう文治は耐り兼て、「やアお町か」と駈出そうと致しましたが、心を静め、
文「待てよ、先刻から表に佇んだまゝ近寄らぬ処を見れば、日頃女房に恋い焦れている我が心に附け入って、狐狸のたぐいが我を誑かすのではないか知らん、いや〳〵全く人かも知れぬ、兎も角も声をかけて見よう」
と度胸を据えて、
文「表においでなさるのは何方でござる、私は此の山中に迷うて居る女子を尋ぬる者でござるが……」
と云いながら静かに立って女の側に立寄ろうと致しますと、件の女は二三歩後へ退りまして、
女「おのづから涙ほす間も我が袖に」
文「露やは置かぬ秋の夕暮」
町「えッ、そんなら貴方は旦那様か」
文「おゝ、お町であったか」
町「旦那様ア、御免遊ばせ、おゝ嬉しい、おゝ嬉しい」
と馳せ寄って文治に抱き付き、胸に顔当てゝ、よゝとばかりに泣き悲んで居りまする。文治も拳にて涙を払いながら、左手に確かりとお町の首を抱えて、
文「町や、よう達者でいてくれた、よもや此の世の人ではあるまいと思うた、よう達者でいてくれた、こんな嬉しい事はないぞ、さぞ難儀したであろう、さぞ困苦艱難したであろう、この文治もの、そちに劣らぬ難儀はしたが、天日に消ゆる日向の雪同前、胸も晴々したわい、おゝ斯様な悦ばしい事は……」
と鬼を欺く文治もそゞろに愛憐の涙に暮れて、お町を抱えたまゝ暫く立竦んで居りまする。お町は漸く気も落着いたと見えまして、
町「旦那様、私は……」
文「もう宜い、もう宜い、何も云うてくれるな、敵の手掛りも薄々知れて居るゆえ、今に満足させるぞよ」
町「はい、旦那様、あの蟠龍軒めは……」
文「よし〳〵、左様に心配してくれるな、おゝ悦ばしい」
とお町の手を取って小屋の内に一休み、言わず語らず涙にくれている、互いの心の中は思いやられて不憫でござりまする。
四十一
文治夫婦は深山の小屋にて、島に一年蟄居の話、穴に一年難儀の話、積る話に実が入りまして、思わず秋の夜長を語り明しました。
文「もう夜が明けたの」
町「おや、もう夜が明けたのですか」
と云って居りますところへ一人の男がやってまいりまして、
「やア旦那様」
文「おゝ、そちは國藏ではないか」
國「旦那様、漸うのことで尋ね当てました、これは御新造様御無事で」
町「おや、國藏さんですか」
國「まア何うしてお二人が斯様な処に、夢じゃアありますまいなア、私やア嬉しくって耐らねえ」
文「まア其方は何うして斯様な処へ来たのか」
國藏は涙を払い、
國「話しゃア長えことですが、一昨年の秋中、旦那が越後へお出でなすったと聞きやして、後を慕って参りやして、散々此処らあたりを捜しましたが、さっぱり行方が分りませんので、到頭越後まで漕付けやした、だん〳〵尋ねたところが、斯う〳〵いう方が何処其処へ泊ったと云いやすから、其処へ往って聞きますと、二三日前に沖見物をすると云って船に乗り出したと聞いて、私アどの位がっかりしたか知れやせん、まご〳〵している内に生憎病気に罹りやして、さるお方の厄介になって居ります中に、江戸の侍が海賊を退治したという噂、幸い病気も癒りやしたから、もしや旦那ではないかと様子を聞きやしたところが、確かに大伴蟠龍軒、どうか旦那方を捜してお知らせ申したいと思っている内に、その手柄か何か知らねえが、江戸においでなさる御領主様がお抱えになるとか云う事で、先月末に蟠龍軒めは江戸を指して出立しやした」
文「それは宜い事を聞いた、それにしてもお前は何うして此処へ」
國「さア、その御不審は御尤ですが、越後にいる時分この山中に迷っている美人があると云うことを風の便りに聞きましたから、江戸に帰る途中、もしやと思って昨日から捜した甲斐あって、此処でお二人にお目に懸るとは神様のお手引でござんしょう、私アこんな嬉しい事はござりやせん」
文「あゝ、つい話に紛れて忘れて居ったが、お前は何うして蟠龍軒の顔を知って居るか」
國「私ア一向存じやせんが、女房のお浪が浅草の茶屋にいる頃から宜く知って居りまして」
文「左様か、お前は女房まで連れて私の跡を慕って来たのか」
國「へえ、ところが今いう通り、越後で病気に罹りやしたが、私ア一文も銭がねえから可愛想だとは思ったが、お浪を稼ぎに……」
文「なに、お浪を勤めに出したと」
國「へえ、旦那の為にゃア命を助けられた私ども夫婦でござんす、身を売るくれえは当り前の事です、さア今からお支度なさいまし、江戸へお供を致しやしょう」
文「そうするとお前は、お浪を越後へ置去りにして来たのだな」
國「そんな事は何うでも宜いじゃ有りやせんか」
文「いや左様でない、幸いに文治は二度も難船して、九死一生の難儀をしたが、肌身離さず持っていた金は失わぬ、さアこの金子でお浪を請出し、そちは後からまいれ、礼は江戸で致すぞよ」
國「そんなら旦那様、折角の御親切を無にするも如何、このお金は有難く頂戴いたします、御新造様、随分危険な山路ですからお気をお付けなせえまし」
町「有難うございます、早くお浪さんを連れて江戸へお帰り下さいまし」
文「國藏、心置なく緩りと後からまいれ、さアお町、もう斯うなったら一刻も早く里へ出て支度をせねばならぬ」
と衣類其の他の支度をなし、江戸表をさして出立しまして、先ず本所業平を志して立花屋へまいりますと、何時か表は貸長屋になって、奥に親父が隠居して居ります。
文「御免下さい、立花屋の御主人は御在宅かね」
主「はい何方様で、いや、これは〳〵旦那様、よくお達者でおいでなさいました」
という言葉も涙ぐんで居ります。
主「よくまア旦那様、おや、これは〳〵御新造様でございますか、ようまアお揃いで、何方からおいでになりました」
文「いや永々御心配をかけまして有難う存じます、何から申して宜しいやら、何うも江戸を経って後はさま〴〵な難儀に逢いました」
町「伯父さん、あなたも宜うお達者で」
主「さア〳〵お上りなさいまし……おい、婆さん、お茶を持って」
婆「これはまア旦那様、御新造様、何うしてまア」
主「婆や、御挨拶は後にしろ」
主「えゝ旦那様、私も御覧の通りの老人、料理屋を止めまして、只今では表長屋を人に貸しまして、忰は向島の武藏屋へ番頭と料理人兼帯で頼まれて往って居ります、旦那様はお宅をお払いになりまして、差当り御当惑なさいましょう、実は婆さんと二人で淋しく思っているところでございますから、おいで下さいますれば却って好都合でございます」
と老人夫婦は下へも置かず懇にもてなして居ります。
四十二
文治も悦んで、
文「実は差当り居所に当惑いたしましたので、お頼みにまいりました、何分よろしく、お町丁度宜かったなア」
町「まア何より有難う存じます」
文「友之助や森松は相変らず折々遊びにまいりましょうか」
主「えゝ、もう皆さんが代り〳〵お尋ね下さいます、いつも森松さんが来なさると、貴方のお話をしちゃア帰りには泣別れを致します、それからつい十日ばかり以前でございますが、友之助と豊島町の亥太郎さんが落合いまして、旦那様方が無事に蟠龍軒を討って来れば宜いがと、大層心配しておいでなさいました」
文「はい、手前どもゝ其の決心で江戸表を立ってまいったのでござりますが、行違いまして、又ぞろ江戸へ引返してまいるような事になりました、此の上は松平公の御家中藤原氏を頼み、手続きをもって尋ねましたなら、蟠龍軒の居所の知れぬことも無かろうと思います」
主「それは〳〵、何うかまア此の老爺の生きて居ります中に、敵が討てますれば、もう私は外に思い残すことは有りませぬ、何うか一刻もお早く」
町「他人の貴方様までそう思召して下さるのは誠に有難う存じます」
ところへ亥太郎がぶらりと遣ってまいりました。文治夫婦を認むるより狂気の如く飛上って、
亥「やッ旦那、よくお帰りなせんした、御新造嬉しい、私ア亥太郎でござんす」
と互の挨拶も済んで、それから主客数人、久々の逢瀬に語り尽せぬ其の夜を明しまして、一日二日と過ぎます内にはや三月の花見時、向島の引ける頃、混雑の人を掻退け〳〵一人の婦人が立花屋へ駈付けてまいりまして、
女「はい御免下さいまし、此方は立花屋の隠居でござりますか」
主「何方でございますえ」
女「はい私は向島の權三郎方から」
主「あゝ忰がまいって居りますから其の使にでもおいで下さいましたか、それとも忰めが何か馬鹿な事でも致しましたか」
女「いえ〳〵私はそんな忌らしいことで参ったのではありませぬ」
主「へえ、これは失礼な事を申しました、貴方は年を取っておいでゞもお美くしいから、万一忰が夫婦約束でも致しはせぬかと邪推して失礼を申しました、へえ御免下さいまし、へえ〳〵何の御用でござりますか」
女「ちょっと貴方の息子さんにお聞き申したい事がありまして」
主「それいよ〳〵、いえ忰は一寸」
女「いゝえ、そんな事ではござりません、此方に文治様がおいでなさいましょうか、ちょっとお伺い申します」
主「一体あなたは何方からおいでになりました」
女「私は当時權三郎方に居ります下女でござりますが、何と申したら宜うござりましょうね、あの何でござんすよ、三宅島からと申して下さいまし」
主「えッ、島から、さア大変、旦那様ア女嫌いだとばかり思っていたが、島においでなすったらお気が変ったと見えて、飛んだ事をやらかしなさいましたなア」
女「御老人様、あなたは何を仰しゃるのでございます、私はそんな浮気なことで参ったのじゃア有りません、ちょっとお目に懸って大事な事を」
主「大事な事とは何事で」
女「まア取次いで下さいまし」
主「えゝ旦那様、島から女が来ました」
文「はてな、無人島から来る訳はないから定めし三宅島でありましょう、何方か知らんがお通し下さい」
女「これは〳〵旦那様、暫く」
文「さア此方へ、何うも見覚えはございませんが何方でございましたろう」
女「はい、お忘れは御尤でございます、私は三宅島に居りまして、いろ〳〵お世話どころではございません、一命をお助け下さいました八丁堀阿部忠五郎の娘お瀧でございます」
文「やアお瀧さんでしたか、まるで見違いました、赦免の後は此の辺へまいって居るのですか」
女「はい、向島の權三郎というお家に下女奉公を致して居ります、旦那様が島においでの時分、折々お話のございました大伴蟠龍軒」
文「えッ」
女「その大伴がまいりました」
文「えッ、そゝそゝそれは何方へ」
女「花見がてら權三郎方へまいりました」
文「それは何時の事で」
女「今日のことでございます、此の十四日に松平様とかのお役人様方をお連れ申すから、八九人前の膳部を整えて置くようにというお頼みでございます」
文「ウム」
女「私は他事とは云いながら、命の恩人の敵、すぐに飛びかゝろうかと思いましたが、先は剣術遣い、女の痩腕でなまじいな事を仕出来して取逃すような事がありましては、御恩を仇で返すようなものだと思い直しまして、何うしようかと案じて居ります矢先、御当家の御子息さんから、近頃私の家の隠居所に島から帰った侠客がいると聞いたことを思い出しまして、それとなくかまを掛けて聞きますと、確かに旦那様のようでございますから、直ぐとは存じましたが、ひょッと途中で蟠龍軒に気取られるといかぬと思いまして、日の暮々に出かけてまいったのでございます」
という知らせ、情は人の為ならずとは宜う申したものでございます。
四十三
文治はお瀧の注進を聞きまして、飛立つばかり打悦び、
文「フーム、この十四日に蟠龍軒が權三郎方へ来るとな、辱けない、その大伴は十四日の何時頃来ますか、定めし御存じでしょうな」
女「多分昼前からまいるように申して居ったように聞きました、お帰りは確かに夕方と申しました」
文「この御親切は決して忘ませんぞ、さゝ、お前さんは人に心付かれぬように早くお帰り下さい、お礼は後で致します」
女「何う致しまして、そんなお心遣いには及びません、左様なら旦那様、追ってまた私からお礼をいたします」
文「それこそ無用、これが何よりの礼だ、この文治は生れてより是れ程悦ばしいお礼を受けた事はござらぬ、千万辱けのう存じます」
と両手を支いて居ります。
女「旦那様、それでは恐入ります、何うぞお手をお上げ下さいまし」
文「御主人……御主人」
主「はい〳〵、すっかり聞きました、さアお使なら何処へでもまいります」
文「御老人を使うは心ないようでござるが、大切の使、外の者に頼むわけにまいらぬから、御苦労でも一寸松平右京殿のお屋敷まで」
主「はい、あの藤原喜代之助様のお屋敷」
文「左様、この手紙を御持参下さい」
主「へえ〳〵畏りました」
ところへまた亥太郎が参りまして、
亥「へえ、亥太郎でございます」
文「おゝ、亥太郎殿か、さア〳〵此方へ」
亥「まア御機嫌ようござんす」
文「亥太郎殿、一寸奥へ……さて亥太郎殿、文治が改めて申入れる」
亥「へえ、何事でござんすか」
文「これまで永らく兄弟同様の縁を結びまして何から何までお世話にあずかりましたが、此の後この文治の頼むことを屹度お聞済み下さるか」
亥「さりとは又改まった御口上、へえ旦那のいう事なら何でも聞きましょう、命に懸けても」
文「千万辱けのう存じます、さて亥太郎殿、かく申す文治は此の度一生に一度の悦ばしい事が出来ました」
亥「そいつア有難え」
文「その悦びと申すは外ではない、敵蟠龍軒が壮健で居りますぞ」
亥「へえ、それは〳〵」
文「一両日中に此の近辺で対面致します」
亥「あの蟠龍軒に、そいつア有難え、野郎め、其の時こそなぶり殺しに」
文「それでござる、其の時お助太刀は誓って御無用でござりますぞ」
亥「やッ、それ計りは旦那聞かれません、今まで彼奴の為に何の位苦労をしたか知れやしねえ」
文「いやさ、其処がお頼みだ、武士の敵討に他人の力を借りたとあっては後世の物笑いになります、今まで文治が苦労をした甲斐がありません、さア此の道理を聞分けて、御心情はお察し申すが必らず助太刀して下さるな」
亥「へえ〳〵分りやした、そんなら宜うござんす、併し唯見ているだけなら宜うござんしょう」
文「それは御勝手、成るべく遠くへ離れて御覧下さい」
亥「併し先方に助太刀があれば」
文「いや、それも御無用」
亥「それじゃア旦那余りじゃアねえか」
文「はい、痩ても枯れても文治は侍でござります」
亥「そりゃア云わずと分って居ます、それじゃア皆に断らずばなるまい」
文「どうぞ宜しく頼む、なるたけ人に知れぬよう、万一逃がしたら百日の何とやら、そう事が分ったら一盃やりましょう、これ町や」
亥「いや、私ア酒は絶って居りますから」
文「はて、それは又何故に」
亥「それだから少しゃア手伝わして下さいと云うんです」
文「いや、それ程に思ってくれる御親切は辱けないが、武士の面目に関わるから」
亥「えゝ宜うがす、御機嫌宜う、十四日にゃア一生に一度の楽み、早朝から見物にまいりやしょう」
文「左様なら」
亥太郎は表へ出まして、
亥「あゝ、いつに変らぬ武士の魂、当世に二人とねえ男だなア」
入れ違いに藤原喜代之助が入って参りまして、
喜「文治殿、藤原でござります、先程から亥太郎殿がおいでの様子ゆえ少々控えて居りました、数年御苦労の甲斐あって此度の悦び、お察し申上げます」
文「ようこそお出で下さいました、是に過ぎたる悦びはござりません、今日までの御助力有難うぞんじます」
喜「時に文治殿、予てお話の小野氏の脇差、中身は確か彦四郎定宗と覚え居りますが、拵えは何でござりますか」
文「縁頭は赤銅魚子、金にて三羽の千鳥、目貫は後藤宗乘の作、鍔は伏見の金家の作であります」
喜「承知いたしました、様子に依ったら御主人へ申上げて置きましょう」
文「いや、それは余り大業です、時の御老役のお耳に入れるまでの事はございません」
喜「併し御前へ上りますと折々文治は何方に居るのであろうというお尋ねがござりますゆえ」
文「いつに変らぬお情、切腹を御免になり、又流罪を御赦免下さいましたのも、皆其許のお執成と右京殿の御仁心による事、文治は神仏より尊く思うて居ります」
喜「いや、それと申すも、其許の日頃の行状が宜ければこそ、我らは真に世の中の鑑と信じて居ります、時に御家内様、敵の行方が知れまして嘸々お悦びでござりましょう」
と一通りの挨拶をして、大分夜も更けましたゆえ藤原喜代之助は暇を告げて、一先ず我家へ帰りました。
四十四
喜代之助は一旦我家へ帰りましたが、夜の明くるを待兼て、其の夜の中に奥の女中に、
喜「夜更にて恐入りますが、文治夫婦のお物語を申上げとうござる」
と取次を願いました。右京殿はお側の者を相手に一口召上っておいでの所へ、女中のお取次、早速御面会、喜代之助が
喜「予てお話のござりました文治事、来る十四日夕申刻頃、向島に於て舅の敵大伴蟠龍軒を討ちます」
と申上げますと、
右京「本来ならば早速町奉行を呼んで取鎮め方を申付くべき筈であるが、予て義侠の心に富みたる業平文治が、舅の敵を討つとあっては棄置く訳にも行くまい、承まわれば蟠龍軒とやらは宜からぬ奴じゃそうな、討たせるが宜い」
と仰せられて、其の夜密書を藤原に持たせ、「文治の身の上に万一の事なきよう忍びやかに警固致し候うように」と御老中お月番松平右京殿より南町奉行石川土佐守殿へ御内達になりました。委細承知の趣を申上げて、それ〴〵手配りを致しました。此方文治は其の夜から湯を沸かさして身体を浄め、ゆる〳〵十四日を待って居ります。またお町も例になく磨き立て、立派に髪を結上げまして、当日は別して美しく化粧を致しました。只さえ人並勝れた美人、髪の出来たて、化粧のしたて、衣類も極々上品な物を選みましたので、いや綺麗の何の眼が覚るような美人であります。殊に貞女で、女の業は何でも出来るというのでありますから、文治とは好一対の美夫婦であります。頃は向島の花見時、一方口の枕橋近辺に其れとなく見張って居りますので、往来の人は立止りますくらい、文治は遥か離れて向島より知らせの来るのを待受けて居ります。そこら辺に八丁堀の同心がちら〳〵見えるは、余所ながら文治夫婦を警固して居るのでござります。それから又權三郎の入汐から三囲渡し、竹屋の渡しは森松、國藏が持切りで見張って居ります。其の頃は今と違いまして花見の風俗は随分下卑たもので、鼻先の円くなった百眼を掛け、一升樽を提げて双肌脱ぎの若い衆も多く、長屋中総出の花見連、就中裏店の内儀さん達は、これでも昔は内芸者ぐらいやったと云うを鼻に掛けて、臆面もなく三味線を腰に結び付け、片肌脱ぎで大きな口を開いて唄う其の後から、茶碗を叩く薬缶頭は、赤手拭の捩り鉢巻、一群大込の後から、脊割羽織に無反の大小を差し、水口或は八丈の深い饅頭笠を被って顔を隠したる四五人の侍がまいりました。確かにそれと思いましたが、顔は少しも見えませぬ。文治は扨はと身固めをして、件の侍の近寄るを待って居ります後から、立花屋の忰が予ての約束に従い、渋団扇をもって合図を致しました。ところが、ずぶろく酔うた亥太郎が横合からひょろ〳〵出かけまして、突然侍の笠に手を掛け、力まかせに引きますと、二人の侍は笠を取られて輪ばかり被り、真ッ赤になって、
侍「やい待て、無礼だ」
亥「やア人違えだ、そんなら此奴か」
とまた側に居る侍の笠を取ろうと手を掛けますと、一人は其の場を外して逃げようとする後から、立花屋の忰が怖々ながら渋団扇で合図をいたしました。
亥「それッ」
と亥太郎は飛び掛って笠へ手をかける、其の手を取って捩上げようと致しましたが、仮にも十人力と噂のある左官の亥太郎、只今でも浅草代地の左官某が保存して居るそうですが、亥太郎が常に用いました鏝板は、ざっと一尺五六寸、軽子が片荷程の土を其の板の上に載せますと、それを左に持ちまして、右の手で仕事をすると申します。斯程の大力ある亥太郎、なか〳〵一人や二人の力で腕を捩上げるなどという事の出来るものではござりません。
亥「この三一め、生意気なことをするな」
と忽ち其の手を捩返しました。ところへ文治が駈せ寄って亥太郎の腕を押え、
文「亥太郎殿、こんな事があろうと思えばこそ、あれ程頼んだではないか、お控えなさい」
亥「へえ〳〵」
文「御免」
と其の侍の笠に手をかけ、ぽんと〓(「※」は「てへん+毟」)り取りました。
文「いや大伴蟠龍軒、久々で逢いましたな」
はたと睨み付けますると、後に笠の輪ばかり被って居りました四人の侍、「汝、無礼者」と刀に手をかける其の横合より、八丁堀の同心体の人、
「これ〳〵お控えなさい、舅の敵討でござるぞ、それとも尊公達はお助太刀なさる思召か」
侍「いや、助太刀ではござらぬ」
同心「左様ならお控えなさい」
亥「やい三一、ぐず〳〵しやがると豊島町の亥太郎が打殺すぞ」
同「其の方の出るところではない、お控えなさい」
亥「何だと」
文「おい亥太郎殿、お役人様だぞ、控えろ、さア大伴、もう斯うなったら致し方はござらぬ、侍らしく名告って尋常に勝負なさい」
侍「何事かは知らぬが、人違いではござらぬか、よし又拙者が大伴にもせよ、敵といわれる訳はござらぬ」
文「卑怯なことを云うな、過ぐる年三十日の夜、お茶の水にて小野庄左衞門を切殺し、定宗の小刀を奪い取りし覚えがあろう、論より証拠、その差添は正しく庄左衞門の差添、然らずと云うならば出して見せえ、小野の娘お町は今は斯く申す文治の妻なり、お町〳〵、これへ参れ」
と云われて大伴蟠龍軒は顔色土の如く、ぶる〳〵震えて居りまする。
四十五
お町は敵討の支度かい〴〵しく現われ出で、
町「おのれ蟠龍軒、眼さえも見えぬ父上様を、よくも欺して引出し、無慚にも切殺したなア、さア汝も武士の端くれ、名告って尋常に勝負せい、さア〳〵悪党、いかに〳〵」
時に友之助、
友「やい蟠龍め、この煙草入は覚えが有ろう、この友之助が其方へ売った煙草入、お茶の水の人殺しの時、亥太郎さんに取られたであろう、さア何うじゃ、えゝ、この意気地無しめが」
いかに卑怯な蟠龍軒でも、もう斯うなっては逃げる訳に参りませぬ。
蟠「ウーム、かく申す大伴の道場へ夜中切込んで、泥坊同様なことをしたのは其の方どもだな、よし、片ッ端から切伏せくれん、さア支度いたせ」
と言いながら四辺を見ますると人一ぱい。國藏、森松、亥太郎始め、皆々手に〳〵獲物を携え、中にも亥太郎は躍起となって、
亥「さア人面獣心、逃げるなら逃げて見ろ、五体を微塵に打砕くぞ」
文「大伴氏、最早逃げようとて逃すものでない、積る罪業の報いと諦めて尋常に勝負せい、お町、其方少し下って居れよ」
相手は大勢、蟠龍軒は隙あらば逃げたいのは山々でござりますが、四辺は一面土手を築いたる如く立錐の余地もなく、石川土佐守殿は忍び姿で御出馬に相成り、与力は其の近辺を警戒して居ります。尚お右京殿の使者も忍び姿にて人込みの中に紛れ込み、藤原其の他二三の侍も固唾を呑んで見張って居りまする。文治は静かに太刀を抜放ち、
文「さア大伴氏、其許は舅の敵の其の上に、よくも此の文治が面部に疵を負わし、痰唾まで吐き掛けたな、今日こそ晴れて一騎討の勝負、疾く〳〵打って来い」
蟠龍軒はぶる〳〵総身に震いを生じ、すらりと大刀抜くより早くお町の方を目がけて一太刀打込みました。
文「何をするッ」
と文治は横合より打込む太刀を受け止め、
文「女を相手にしようとは卑怯な奴じゃな、さア此の文治が相手だ」
時に見物一同声を挙げて、
「馬鹿野郎、卑怯な奴だ、叩ッ切ってしまえ」
乙「どうだえ、女が切られなくって宜かったなア」
丙「どうも美い女だなア、あの後姿の好いこと、桜の花より美くしいや、ちょっと姉さん、此方を向いて顔を見せておくれ」
丁「気楽なことを云うな」
同心「これ黙れッ、やかましい」
甲「見ろ〳〵八丁堀が見張っているぞ、併し今日の花見は宜い日だったなア、雨が降出さねえと好いがな」
乙「馬鹿野郎、こんなに日が当って居るじゃねえか」
甲「でも己の頭へ露が垂れたぞ、やア今日の雨は腐っていると見えて馬鹿に臭いなア」
と後を振向いて見ますと、糞柄杓を担いだ男が居ります。
甲「この野郎め、途方もねえ野郎だ」
同心「これ百姓、静かにしろ」
見物「何だ箆棒め、糞の掛けられ損か、それ打込むぞ、やア御新造危え〳〵、此方へお出でなせえ、やアれ危えッてば」
こゝぞと文治は打込もうと隙を窺って居りますと、蟠龍軒は其の切っ先に怖れてか、じり〳〵後へ退ります。
見物「やア親爺、後は川だぞ、もう一足で川だ、馬鹿野郎」
と口々に呶鳴り立てられて、元来卑怯未練な蟠龍軒、眼が眩んだと見えまして、五分の隙もないのに滅茶苦茶に打込みました。文治はチャリンと受流し、返す刀で蟠龍軒の二の腕を打落しました。やれ敵わぬと逸足出して逃出す後から、然うはさせじと文治は髻を引ッ掴み、ずる〳〵と引摺り出して、
文「さアお町、親の敵存分に怨め」
町「はい……おのれ蟠龍軒、よくも我が父を殺せしよな、汝如き畜生のために永い月日の艱難苦労、旦那様は入牢まで致したぞよ」
と胸元目がけて一太刀打込みますると、
文「お町待て、これ蟠龍軒、よくも今まで達者で居てくれたの、斯うなるからは最早怨みはないぞ、静かに往生しろよ、死後には必らず香華を手向けて遣わすぞ」
と申し聞けまして、お町に向い、
文「さアお町、十分に止めを刺せ」
町「はい、大伴、親の敵思い知れッ」
とずぶりと突き通されて息は絶えました。見物一同、山の崩れる如くわッ〳〵という人声、文治は取急ぎ血刀を拭い、お町に支度を改めさせて与力に向い、
文「いずれお役人様が御出役になりましょうが、市中を騒がし御法を犯せし我ら夫婦、お縄を頂戴いたします」
と大小を投出しました。
与力「いや御浪士、縄には及ばぬ、併し大小はお預かり申す、ゆる〳〵お支度なさい」
文「有難う存じます、お町支度は宜いか」
同心「大分お疲れの様子、こゝに薬が有りますが、同役、水を」
文「何から何までお手数をかけまして恐入ります、私は気付には及びませぬ」
法は法、抂げる訳になりませぬから、文治お町の両人を駕籠に乗せて奉行所へ引立てました。花時の向島、敵討があると云うので土手の上は浪を打ちますよう、どや〳〵押掛けてまいりまして、蟠龍軒の死骸を見ては唾を吐くやら蹴飛ばすやら弥次馬連が大騒ぎをして居ります。此方は奉行所、一応吟味の上、
奉行「悪漢無頼の曲者、殊に舅の仇を討つは武士の嗜み、天晴な手柄」
というお誉め言葉がありまして、早速帰宅を許されました。此の事がパッと世間に広まりまして、さア諸家から召抱えにまいること何人という数知れず、なれど文治は、
文「手前は主取りの望みはござらぬ、折を見て出家いたす心底でござる」
と一々断りましたが、旧主堀丹波守殿よりの仰せは拒むに拒まれず、余儀なく隠居同様として親の元高三百八十石にてお抱えになりました。近頃まで御藩中に浪島という名跡が残って居りました。又女房のお町は長命でありまして、文政年間の人でお町と知合の者も大分あったそうでござります。後の業平文治の敵討、これにて終局といたします。
(拠時事新報社員速記)
底本:「圓朝全集 巻の四」近代文芸・資料複刻叢書、世界文庫
1963(昭和38)年9月10日発行
底本の親本:「圓朝全集 巻の四」春陽堂
1927(昭和2)年6月28日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号はそのまま用いました。
また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。
底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」は、それぞれ「其の」と「此の」に統一しました。
また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。
※誤記等の確認に、「三遊亭円朝全集 第三巻」(角川書店、1975(昭和50)年7月31日発行)を参照しました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。
入力:小林 繁雄
校正:かとうかおり
2000年2月25日公開
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