擬体
豊島与志雄



 退社間際になって、青木は、ちょっと居残ってくれるようにと石村から言われて、自席に残った。同僚が退出した後の事務室は、空気までも冷え冷えとしてきた感じで、眼を慰めるものとてない。壁に懸ってる地図だのカレンダーだの怪しげな版画だの、毎日見馴れてるものばかりだった。受付兼給仕の宮崎がまだ残っていたが、衝立の陰で、何をしているのやら、ひっそりとして物音一つ立てなかった。青木はやたらに煙草を吹かしながら、新聞の綴込をぼんやり読みあさるより外はなかった。

 石村は社長室で、来客と話し込んでいた。前の石村商事、今の石村証券の、彼は社長だったが、どういうものか、社員にも石村さんと呼ばせて、社長と言われるのを嫌った。もと陸軍の退役中佐だったが、終戦当時から中佐と言われるのを嫌ったのと、同じ意味合だったらしい。そして時間を守ることは几帳面で、社長室に来客があっても、社員には遠慮なく退出さした。もっとも、十人に足りない小さな会社なのである。

 ちょっとというのが、三十分あまりかかった。石村は廊下まで来客を送り出して、それから事務室へ顔を出した。

「待たして済まなかったね。」

 青木に声をかけて、それから室内を一通り見廻した。

「宮崎君、君はもう帰ってよろしい。」

 宮崎は直立不動の姿勢をした。

 青木は石村について社長室にはいった。

 中央の大きな円卓をかこんで、長椅子や安楽椅子が並んでおり、壁には大小数枚の油絵があった。卓上には、ウイスキーの瓶や水差やピーナツが出ていた。石村が来客と一杯やっていたものらしい。

「さあ掛け給い。」

 石村は青木に安楽椅子を指し示し、自分は長椅子にかけようとしたが、ちょっと小首を傾げて、事務室のとは別な扉を開けて出て行き、ウイスキーの新たな瓶を持って来た。そこの室には、女秘書の小島がいる筈だったが、それももう帰って行ったらしかった。この女秘書は、石村を直接訪れて来る客を取次いだり、茶を出したり、タイプライターを叩いたりする役目だ。石村はタイプの文書が好きで、それを叩く音がこの室にはのべつにしていた。

 青木は石村と全く二人きりなのを知り、石村の応対が懇切なのを見て、これはいつもと違った用件だと悟った。

「引止めて、迷惑じゃなかったかね。」

「いえ別に……。どうせ酒を飲むぐらいな用しかないんですから。」

「ははは、うまいことを言ってるぜ。」

 石村は二人のコップにウイスキーをついだが、なにやら憂鬱そうだった。煙草の煙の合間に、ふっと眉間に皺を寄せたりした。だが、彼のそういう表情は、何等かの行動的決意に依るものであることを、青木は知っていた。

 石村は青木の顔をじっと見た。

「実は、君に少し頼みたいこともあるんだが、なにか、特別な情報はないかね。」

「情報と言いますと……。」

「いや、そうむつかしく考えんでもいいがね、つまり、日本は今、ひどく緊迫した状態にあるから、各方面の情報を集めておく必要がある。一般與論の動向なんかは、どうでも宜しい。各方面の特別な個々の動き、それを掴んでおくことが大切だ。ところでこの情報というやつは、君も知ってる通り、重大だと見えるものが案外何の役にも立たなかったり、下らないと見えるものが案外に深い根を持っていたりするんだから、よほど細心に取扱わなければならん。むしろ、下らないと見えるものを、注意深く蒐集しなければいけない。現内閣の意向だとか、国警本部の方針だとか、左翼運動の新企画だとか、そういう大まかなものでなく、巷の声、ちょっとした聞き込みが大切で、そういうことについて、何か君が知ってることはないかね。」

 青木は考え込む風を装いながら、内心では、いよいよ来たなと思った。近頃、石村証券の商売の方は至って閑散で、各会社の内情調査が主な仕事となっていたが、その代り、石村のところへの直接訪問客が目立って殖えていた。日本再軍備の問題が各方面で論議されるようになってから、それが殊に甚しかった。石村の室へは、廊下から、事務室の方の扉と女秘書室の方の扉と、二つの出入口があって、直接の訪問客はたいてい後者から出入したので、どういう人物かよくは分らなかったが、主として旧軍人の類であることは想像に難くなかった。第一、ここの主な社員たちにしても、もとを糺せば旧軍人か或は旧軍属だったのである。

 青木が考え込んでるのを見て、石村は話の調子を変えた。

「君に思い当ることがないとすれば、まあそれでいいさ。酒場での酔っ払いの話なんかは、これは情報とも言えないからね。」

 青木は頭を掻いてみせた。

「まったく、私はいつも酔っ払ってばかりいて、自分でも情けないと思っています。」

「情けないどころか、大した腕前じゃないか。酒ばかりでなく、女にかけてもそうだろう。」

「え。」

 青木は顔を挙げて、石村の眼を見た。

 石村は眼をくるりとさして、揶揄するように微笑した。

「いいことを聞かしてやろうか。君はあれからまた、今西を喜久家に連れ込んだね。」

 青木は口が利けなかった。今西巻子、それは石村証券の女社員だった。

「僕が知らないとでも思ってたのか。迂濶だね。喜久家は僕がよく飲みに行く家だよ。君がいくら内緒にと頼んでも、僕の耳にはいらないわけはないじゃないか。」

「済みません。金が無かったもんですから、つい、あすこを利用する気になったんです。然し、あすこの払いは、ボーナスで済ますつもりでいます。」

「金のことは気にしなくてもいい。僕が払っておいてやった。上海にいた時と同じことさ。然し、大事なのは……。」

 言いかけたままで、石村はウイスキーをなめながら考え込んだ。

 上海にいた時、それは戦時中のことで、石村は特務機関の仕事をやっていた。静安寺路の可なり立派なアパートに住んで、主として隠匿物資の摘発回収に当っていた。白系ロシア人や中国人をも手先に使っていた。その当時、青木も石村の下で働いていたのである。石村はしばしば本国に往来していて、終戦の時には丁度東京に帰っていた。運がよかったのだ。やがて半焼のビルの空室をかり受け、石村商事を開いて、軍関係やその他の闇物資で巨利を得た。彼のところには、旧軍人や旧軍属が集まってきた。青木もその一人だった。終戦直後、北京から朝鮮を迂回して、命がけの冒険旅行をやったのである。闇物資の仕事が少くなって、石村商事は石村証券と看板を変え、人員も次第に少くなり、そして今日に至ってるのであるが、石村は心ひそかに期するところがあって、新たな活動を始めてるようだった。

「青木君。」

 石村は突然呼びかけて、青木の顔をじっと見た。

「率直に言おう。君はあの今西巻子から、何等かの情報を掴むつもりだったろうね。」

 青木にとっては思いがけない言葉だった。そんな意図は全然なかったのである。彼は呟いた。

「それはちと、明察すぎますね。」

「白ばくれなくてもいいよ。或は僕の思い違いかも知れないが、然し、あの時の君の態度は、どうもそうとしか受取れなかったからね。」

「へえー、どんな態度ですか。」

「中国で目下進捗してる淮河の治水工事などを持出して、さんざん今西の機嫌を取ったじゃないか。」

「淮河の治水工事ですって……。」

「そうだ。あれこそ本当の民衆のための建設工事だとかなんとか吹聴して、今西の気に入ろうと努めたろう。なにか下心あってしたことに違いない。」

 青木は額に掌を当てて、回想してみた。あの時も、後で冷汗の出る思いだったが、今になっても、後味の悪さは同じだった。もっとも、すっかり酔っ払ってからのことだったので、詳しくは覚えていなかった。

 あれはたしか、日米安全保障条約による行政協定が締結された頃のことだった。石村は主な社員たちを喜久家に招待して御馳走した。席上、石村一人が主として饒舌った。要旨は、アメリカ一辺倒に対する非難と、再軍備の主張だった。警察予備隊増員の計画もあるが、あのような組織では、たとえ如何ほど増員し、どのような装備をさしたところで、精神がだめだから、国防の万全を期することは出来ない。たとえ徐々にせよ、再軍備を行うことが、真に独立を確保する途である。それによって、たとえ徐々にせよ、アメリカ軍隊を撤退させるべきであって、何もかもそして常に、アメリカにのみ頼ろうとするのは、それこそ亡国根性である……。そのようなことを石村は威勢よく饒舌った。ふしぎに、憲法の改正とか日本共産党の問題とかは、一言も出なかった。皆が彼に相槌を打った。酒の勢も加わっていた。

 そういう空気に、青木は反撥を感じたようだった。これにも酒の勢があった。そして淮河の治水工事を持出した。どこで読んだのかはっきり覚えていなかったが、へんに頭の中にこびりついていたのである。

 淮河は、河南、安徽、江蘇の三省にまたがる大河であって、二千年間に約千回もの大汜濫を起している。一九三一年の大洪水には、罹災者二千万人にも及んでいる。そして一昨年夏の大洪水を契機に、中共政府は、淮河の大治水計画を決定した。五カ年内に完成する計画だが、工事参加民工は二百二十万を超えるもので、その流域の五千五百万の人民は永久に洪水の脅威を免かれ、中国の総耕地面積の七分の一に当る田畑が灌漑されることになっている。昨年七月にはその第一期工事が完成され、築堤、浚渫、貯水池、水門など、各種の難工事が克服され、このために移動された土壌の量は、高さ一メートル幅一メートルの土堤に直してみると、長さ二十万キロ、地球赤道を五周するほどだという。これだけの大工事が、中国においては、人民のために人民の手で行われているのだ。日本にあっても、この貧窮のさなかだから、先ず何を措いても国利民福のことを考えるべきではないか……。そういうことを青木は饒舌った。

 この青木の話は、宴果てようとする頃に持出されたもので、石村の説を反駁するという形にはならず、単に話題を転換するものという風に受取られた。二、三の者が彼の相手になり、今西巻子が最も多く口を利いた。青木は巻子の方に向き直って、ますます熱心に饒舌り立て、その説はなんだか彼女に迎合的だった。二人は意気投合してるようにも見え、或は互に酒の肴にしてるようにも見えた。彼女も相当に酒を飲んで、したたか酔っていた。そして二人で饒舌り合ってるうちに、石村はいつしか席を立ち、他の者も相次いで姿を消し、二人だけ泥酔して、喜久家に泊りこんでしまったのである。その前後のこと、青木はよく記憶してはいなかった。ただ、巻子がひどく消極的に、或は全く意志なきもののように、彼に身を任せたという感じだけが青木に残った。青木の方でも恐らく同様だったろう。

 翌朝はひどく気まずかった。飯も食わずに喜久家を飛び出して、すぐに別れた。別れ際に青木は言った。

「昨晩のこと、忘れることにしましょう。石村さんへの面当てだと思えば、それでいいでしょう。」

「ええ、いいわ。」と巻子は答えた。

 愛情でも情慾でもなかった。ただ泥酔したためだった。二人は会社でも、互に親しい素振は見せず、却って白々しい態度をした。だが、さすがに青木は、巻子のことが気になって、落着かない気持ちだった。引緊った細そりした顔立ちに、近眼鏡の奥から眼を光らして、何喰わぬ様子をしてる彼女のうちに、独身の中年女の図々しさを見る気がした。

 それから二週間ばかりたった頃、青木は巻子と連れ立って帰りかける羽目になった。街路に出ると、今晩も飲みにいらっしゃるの、と巻子が聞いた。頷くと、わたしもついて行っていいかしら、と言った。何か話があるのかも知れないと思って、青木は彼女を連れて知り合いの居酒屋へ行った。別に話もなかったが、酒が廻って来ると、巻子は頬笑んで囁いた。

「石村さんへの面当て、あれっきりなの。」

 何を言うか、と青木は思ったが、その憤りのため、却って後へは引けなくなった。

 二人は喜久家へ行って、また泥酔し、泊りこんでしまった。前の時と同様、味気ない一夜だった。翌朝、巻子は言った。

「こういう保養も、たまにはいいわね。」

 その冷淡な言葉に、青木は見事に仇を打たれた気がした。勝気で不感性めいた彼女に深入りしてると、これはとんでもないことになりそうだ、と警戒の念が起った。其後、青木は彼女を避けるようにした。

 それだけの交渉だったのである。然し、石村は執拗だった。

「僕は、君が彼女を丸めこんで、何か情報を得ようとしてるのだと思ったが、違うかね。」

 青木はただ唖然とするばかりだった。

 石村は酔眼を据えて、じっと青木を見つめた。嘗て上海にいた頃、石村はよく相手の顔を凝視した。ぴたりと吸いつくようなその眼光には、人を威圧するものがあった。今では、丸刈にしていた頭髪を長めに伸ばし、白毛もだいぶ交っており、頬の肉は少し落ちていたが、青木にとっては、あの頃の眼光を久しぶりに見出した気がした。

 青木は眼を外らして、ウイスキーをなめながら、口籠った。

「私には、何のことだか、よく分らないんですが……。」

「なに、分らない。」

 だいぶ間が途切れた。

「いったい君は、今西を、何だと思ってるのかね。」

「それは、どういう意味ですか。」

「彼女の人物のことさ。」

「ここの社員でしょう。」

「社員は社員だが……。」

 少し間を置いて、石村は打っつけるように言い出した。

「まだ確かな証拠はないが、僕の眼に狂いがなければ、あれは日共の党員だ。少くとも党の同調者だ。そしてここで、何等かの情報を得ようとしているのだ。この頃本社では、諸会社の内情調査を主な仕事としてるものだから、それに関連した情報獲得の便宜もあるし、それから猶、警察予備隊だの、保安隊だの、僕の個人的な関係方面のことについても、知りたいニュースがあろうじゃないか。然し、彼女なんかにそう易々と尻尾は掴ませない。その代り、彼女の、いや日共の、尻尾を掴みたいものだ。君がその仕事をやってくれてるものだと、僕は思っていた。まだやっていないのなら、今からでも遅くはない、やってみないか。下らなく思われるような言葉尻だけでも充分だ。君と彼女の間柄なら、わけはないだろう。」

 青木は顔が挙げられなかった。巻子には聊か自由主義者らしいところがあったが、まさか共産党員だとは思われなかったし、ましてやそのスパイだとは思われなかった。そして今、青木に提出されてる仕事は、スパイに対する逆スパイの行為だったし、而も色情を以てするそれだった。彼はウイスキーをあおった。

「君の淮河治水工事の話なんか、なかなか立派だったよ。」

 そして突然、石村は哄笑した。青木は顔を赤らめ、そして慌てた。

「いえ、あれは、あの時だけの思い附きで、例えば、万里の長城にしても同じことです。」

「なに、万里の長城がどうしたって……。」

「延々と三千キロに近いあの大城壁です。辺境蛮族の侵入を防ぐための大工事ですが、あれだって、淮河の治水工事と……。」

 青木は言葉につまった。

「そうだ、日本にも一種の万里の長城が必要なんだ。たとえ徐々にしても、国防の背骨となるべき軍備が必要だ。ところが、その再軍備の方法について、諸説まちまちで、一向に纒っていない。第一、旧陸軍方面と旧海軍方面との、意見の喰い違いが甚しいし、そのほか各方面で勝手なことを主張しているんだ。国論の統一、万里の長城を築くことが、目下の急務さ。自由主義とか、平和主義とかは、問題にならん。そんな隙間から、敵に乗ぜらるることになるんだ。」

 青木はすっかり腐ってしまった。なんだって今、万里の長城なんか持出したのかと後悔しても、もう追っつかなかった。

「すべて万里の長城のためさ。先程言ったこと、やってくれるね。喜久家の費用は僕が引受けるから、いいかね。」

「とにかく、よく考えてみましょう。」

 それだけ答えるのが、青木には漸くのことだった。


 夜の街路を、青木は飄々乎と歩いていった。通り馴れた途筋で意識せずとも自然に足は一定の方向へ動いた。或る屋台店で、鰻の頭をかじりながら焼酎を飲んだ。それからまた歩いた。地階への狭い入口がぽかりと開いてるのを見定めて、よろよろと降りていった。幾つかの店に区切られてるその一番奥に、壁に沿って白木の卓が並んでる飲屋があった。端っこの隅の卓で、丸田が日本酒を飲んでいた。石村証券の社員である。青木はその前に行って佇んだ。

「あ、いらっしゃい。ここでよく逢いますなあ。」

 青木は黙って彼の顔を見ていた。

「どうかなすったのか。顔色がよくありませんぜ。」

 青木は薄笑いを浮べて、腰を下した。差された杯を受けながら、丸田の顔をつくづくと見た。

「あんたは会計の方の係りだから、知ってるでしょうが、石村証券の経営状態は、今のところ、どうなっていますか。」

「赤字ですなあ。」

「それじゃあ、退職金も出せませんか。」

 五十過ぎた律儀な丸田は、妙な顔をして青木を眺めた。

「退職金について、石村さんは約束したことがありますね。」

 それは事実だった。石村商事を石村証券に切り換える時のことだった。どうせ当分は仕事もあまりあるまいが、諸君の生活は僕が保証する、と石村は社員たちに誓った。そして退職金については、一年間の勤務につき一ヶ月分の給与の割合で出すから、黙って仕事をしていてくれ、と約束したのである。

 丸田はなだめるように言った。

「会社の方はだめですが、心配はいりませんよ。私にはよく分りませんが、商事時代にたくさん儲けていますし、石村さんの資産は相当なものだと思われるふしがあります。社員の退職金なんか問題じゃないでしょう。」

 青木はもう外のことを考えて黙っていた。

「何を考え込んでいますか。景気よくやりましょうや。」

 丸田は酒を誂えて、青木にもすすめた。

「いったい、何が問題なんです。」

 間を置いてだったので、丸田は眼を丸くした。

「石村さんにとって、何が問題なんですか。」

「そんなことは私には分りませんね。」

「万里の長城です。日本に万里の長城を築こうというんです。だから、ばかげてるじゃありませんか。それを誰が言い出したかと言えば、この私です。だから、ばかげてるじゃありませんか。それもこれも、みな酒のせいです。だから、ばかげてるじゃありませんか。」

 丸田は怪訝な面持ちで黙っていた。

「いったい、ひとをやたらに疑ったり、ひとをやたらに信じたりするのが、間違いの元です。だから、何でもないことがスパイに見えたり、何でもないことがスパイのスパイに見えたり、大間違いの結果になります。ばかげてるじゃありませんか。私は断然嫌ですね。みな酒のせいです。だから、私は酒をやめますよ。」

 そして青木は立て続けに酒を飲んだ。

「まったく、今日はあんたはどうかしていますね。」

 覗き込んでくる丸田の顔を、青木は眼を大きくして眺めた。

「あ、丸田さんでしたか。」

「これは、御挨拶ですね。今迄誰と話をしていなすったつもりですか。」

「え、何か言いましたか。聞き流しておいて下さい。少し気持ちが悪くなったんです。ここは地下室でしょう。だから、掘割の水面より低いんですよ、汚い溝の水より低いんですよ。だから、むかむかするんで……。」

 青木は卓にしがみつき、上体を傾けて、胃袋の中のものをげっげっと吐き出した。


 深夜、青木は泥酔してアパートに帰った。だが、泥酔してるのは体だけで、頭はへんに冴えてる気持ちだった。

 妻の登志子はもう眠っていたが、起き上って来た。青木は和服に着換えると、不機嫌そうに叱りつけた。

「もう起きなくても宜しい。早く眠ってしまうんだ。僕は大事な仕事があるから、それを片附けてから寝る。うるさいから、起きてはいかん。」

 茶の間をはさんで、一方が寝室、一方が四畳半の仕事部屋になっていた。青木は冷えた番茶をやたらに飲んで、仕事部屋にはいって寝転んだ。或る種の蜘蛛や甲虫のことを、彼は頭裡に浮べていた。それらの虫は、大敵が身辺に迫ってくるのを感ずると、頭をすくめ足を縮めて、死んだ風を装うのである。人が指先で突っついても、そうする。そしてずいぶん長い間じっとしている。引っくり返しても、身動きもせずに死んだ真似をしている。敵が遠ざかったと感じてから漸く、這って逃げ出すのだ。

 そんなものをどうして思い浮べたのか、彼自身にも分らなかった。そして一方では、胸の中で繰り返していた。「ひと一人を殺すんだ。多少の出血は止むを得ぬ。多少の出血は止むを得ぬ。」

 可なりの長い間、彼はそうしていた。

 それから起き上った。足音をぬすみ物音をぬすんで、道具立てをした。鋭いナイフ……安全剃刀の刄……アドルムの錠剤……オキシフル……絆創膏……繃帯……。それらのものを室の卓上に揃えた。薬缶に湯を沸かし、洗面器でぬるま湯にして、運んで来た。

 座布団を二つに折って枕とし、仰向きに寝そべって、褞袍を胸元までかけ、左手の肱に書物をあてがい、手先が洗面器に浸るようにした。つまり、手首の動脈を切断して、微温湯の中に出血を続けさせ、安楽な死に方をしようというのである。

 彼は暫くの間、寝たまま眼をつぶっていた。それから身を起して、安全剃刀の刄を取った。勿論、アドルムを服用したりナイフを使ったりする必要はなかった。再び元のように寝て、用心しながら左手首に形ばかりの傷をつけた。ずきりとしただけで、殆んど痛みは感じなかった。細い静脈が切れて、血が流れだしてきた。その手首を洗面器の中に浸して、眼をつぶった。

「ひと一人を殺すんだ。多少の出血は止むを得ぬ。多少の出血は止むを得ぬ。」

 時間をはかっていると、思わぬ時に、襖がすーっと開いて、登志子が顔を出した。幽鬼のような気がして、青木は全身ぞっとし、髪の毛が逆立った。青木は飛び起きてそこに坐り、卓上の品々を体で隠すようにした。もうその時には、寝間着に褞袍をはおった登志子が、彼に取縋っていた。

「あなた、なにをなすってるの。あなた……。」

 青木は黙って彼女を押しのけた。それから落着いて、手首を洗い、オキシフルをふりかけ、絆創膏をはり、繃帯を巻き、その端を登志子に結わかせた。登志子は真蒼な顔をして、口も利けないほど怯えていた。

「ばか、なぜ起きて来たんだ。」

 彼女に見られたのが、青木にはひどく不満だった。

 洗面器の微温湯の中には、薄く血の糸が引いていた。それをじっと見やって、青木は漸く心が和やいだ。

 彼は突然言った。「お前は、僕みたいな酒喰いが、好きか嫌いか。」

 登志子は静かに頭を振ってみせた。ふっくらとした頬に寝乱れた髪の毛が幾筋か垂れ、切れの長い眼がもう笑ってるように見えた。

「よろしい。今のは単にお芝居さ。然し、道具立てがなければ、本当の決心はなかなかつかない。僕は酔いどれの僕自身を殺してやったんだ。」

 ところが、その喜劇のおかげで、青木は風邪をひいて、二日間寝込んだ。


 風邪がなおってから、青木は石村証券へ出かけて行った。途中で鮨屋に寄って、酒を飲み、昼食をした。もっとも、酔うほどは飲まず、ただ決心を堅めるために過ぎなかった。

 階段を昇ってゆき、廊下を一曲りすると、磨硝子に石村証券という金字が浮き出してる扉があった。その前を青木は通りすぎて、次の扉の方へ行った。その扉には、石村という金字がはいっていた。青木は小首を傾げた。三日前には無かった文字である。ちょっと佇んでから、彼はノックした。女秘書の小島が扉を開いた。青木の姿を見て、おや、という表情をした。青木は構わず言った。

「石村さんはおいでですか。」

「はい、おいでになります。」

「来客ですか。」

「いいえ。」

「それでは、取次いで下さい。」

 青木は中にはいって待った。やがて、小島に案内されて、社長室に通った。石村は窓際の事務机の上を何か片附けて、立ち上った。

「どうしたんだ。あちらからはいればいいじゃないか。」

「いえ、今日は、会社に来たのではなく、あなたにお目にかかりに来たのです。」

 石村はじっと青木の顔を見つめた。

「扉にお名前がはいりましたね。」

「うむ、いろいろ客が多いものだからね。まあ掛け給え。」

 それだけの応対が、青木にしては実は強硬な態度に出たつもりだったが、少しも手応えがなく、自分の方が滑稽にさえ思えてきた。彼はいきなり内ポケットから辞職願を取出して、石村に差出し、それから椅子に掛けた。石村は紙片を一読して、相手の顔にぴたりと吸いつくような視線を投げた。

「よろしい。願いとあれば、叶えてあげよう。だが、一身上の都合というのは、どういうことかね。」

「まあ私の、心情に関することと申した方が正しいでしょうか。つまり、平静な心境に自分を置きたいのです。」

「すると、なにかね、この会社にいては、心境が乱されるとでもいうのかね。」

「そういうわけではありませんが、どうも私は我儘で、あなたの意向にも添いかねることがあるでしょうし、また酒飲みで、ふしだらなことを仕出かしそうです。そのようなことが重なったら、あなたはきっと私を馘首なさるでしょう。」

 石村は笑った。「まあそうだろうね。」

「だから私は、いつ首になるかと、始終びくびくしていなければなりません。」

「よく分った。そう遠廻しに言わなくてもよかろうじゃないか。上海以来の知り合いだし、この会社でも六年になる。直接の理由は、先日のことだね。今西の一件、情報云々のこと、あれだね。」

 青木は黙っていた。

「君がそうこだわるなら、君の気の済むようにしたがよかろう。僕にしても、一旦言い出したことを引っ込めるわけにはいかないからね。」

「私はスパイ根性が大嫌いです。スパイのまたスパイ、そんなものには虫唾が走るんです。」

「現在の君としては、そうだろうね。」

 青木は眉根を寄せた。なんだか予期に反するのだった。話があまり通じすぎるのである。石村は静かに言った。

「君も変ったねえ。」

 青木は石村の眼を見た。

「つまり、なんというか、インテリになったということだよ。時勢が変り、緊迫が次第に激しくなると、僕も変った。君と反対に、次第に野蛮になってゆくよ。どうも、君と僕とは反対の方向に歩いてるようなものだね。」

 青木はまた眉根を寄せた。話があまり通じすぎるのだった。ふと、疑念が湧いた。

「私があのようなふしだらをしたから、退職の口実を造ってやるために、冗談を仰言ったのではありますまいね。」

「冗談というと……。」

「スパイ云々、情報云々……あのことです。」

「違う。絶対にそんなことはない。その証拠には、君に約束しよう。いつでもまた復職したかったら、やって来給え。その代り、君の方からやって来ない限り、僕の方からは手を差伸べないからね。その点ははっきりしておこう。」

「よく分りました。」

 もう言うべきことはなかった。石村は辞職願を仕事机の抽出しに納めた。

 青木は暫く考えてから、切り出した。

「お願いしたいことが、二つあります」

「ああ。遠慮なく言ってくれ。」

「あの、今西巻子は、共産党員でもシンパでもありません。ましてスパイではありません。このこと、了解して頂けましょうか。」

「君はそう信ずるかね。」

「ええ、信じます。」

「それでは、僕も君の言葉を信ずるとしよう。ところで、君はあの女を愛してるのかね。」

「そんなことはありません。酒の上の過ちです。私には妻があります。」

「だが、あの女はどうも、君の側の陣営の者で、僕の側の陣営の者ではなさそうだね。」

「それは、私にはむしろ逆ではないかと思われますが……。」

 石村は首をひねった。その時、青木ははっきり気附いた。今西巻子に事よせて、二人ははっきり絶縁したのだった。気持ちに何の後腐れもなくさっぱりとした。

「最後のお願いですが、お約束通りの退職金を、今日頂けますまいか。」

「ばかに気が早いね。惜別の宴でも、一夕、社員たちと一緒に設けたいんだが、どうかね。」

「そのようなこと、気が進みません。」

「いやにはっきりしてるじゃないか。」

 石村は仕事机の方へ行って、何か帳簿を調べ、それから小島を呼んで、丸田の方へ紙片を持たせてやった。

 暫くして、丸田がやって来、青木を見ると、びっくりしたように佇んだが、石村へ封筒を差出し、青木へは会釈しただけで出て行った。

 石村は青木の前へ戻って来た。

「では、これは今月分の手当。これは退職金。退職金の方は小切手になってるが、いいだろうね。調べてみてくれ。」

 青木は金を調べ、前に置かれてる受領書へ捺印した。

 石村は仕事机から戻ってきてから、まだ突っ立ったままだった。青木は金を納めてから立ち上った。

「長々お世話になりました。」

「いや、御苦労さまだった。」

 石村が手を差出したので、青木はその手を握った。その時の石村の凝視の眼光と頑丈な硬い掌とに、青木はぞっと身が凍る思いをした。その感じが、あの喜劇のさなかを妻の登志子に覗かれた瞬間の感じと、ふしぎに相似たものがあって、青木は更にぞっとした。

 青木は反抗的に言葉を探して、ばかなことを口走ってしまった。

「私は今西巻子を少しも愛してはいません。然し、あの女は、あなたと気が合いそうです。ほかのことに使ってごらんなすったら、屹度役に立つだろうと、私は思います。」

 余計なことを言って、失策ったと思い、青木は唇をかんだ。石村は冷かに答えた。

「ああ、考えておこう。」

 青木はくるりと向き返って、扉から出て行った。そして証券会社の扉の前で、ちょっと躊躇したが、只今の失策がまた胸に来て、中へははいらず、足早に通りすぎてしまった。

底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5・戯曲)」未来社

   1966(昭和41)年1115日第1刷発行

初出:「新潮」

   1952(昭和27)年6

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:門田裕志、小林繁雄

2007年223日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。