怒りの虫
豊島与志雄



 欝ぎの虫、癪の種、さまざまなものが、人間のなかに住んで、正常な感情を引っ掻きまわすと言われているが、ここに、木山宇平のなかには怒りの虫がいつしか巣くったと、周囲の人々から見られるようになった。彼は元来、至って温厚な性質だったのだが、近頃、なにかにつけて腹立ちっぽくなったのである。

 外出に際して、玄関で靴をはいた後、ちょっとポケットにさわってみ、小首をかしげ、大きな声で怒鳴った。

「ふきん、ふきん。」

 八重子夫人と女中が、見送りに出ていたが、何のことかよく分らなかった。

「ふきんだ。」と木山はまた言った。

 もっとも、彼は食卓で、必ず布巾を用意させておく習慣だった。茶とか汁物とか、一滴でも卓上にたれると、すぐに布巾で拭いた。然し玄関での布巾は異例だ。それでも女中は駆けだして、布巾を一つ持って来た。木山はそれを受取ろうとしたが、手を引っこめて、怒鳴った。

「ばか。布巾をどうするんだ。ハンケチだ。」

「あら、」八重子夫人が答えた。「ハンケチは出しておきましたが……。」

 いつも、洋服に添えてハンケチは出してあったのである。

 木山は苛ら苛らしていた。

「よろしい。途中で買う。」

 荒々しい見幕で出かけていった。

 後で分ったことだが、ハンケチはやはりポケットにはいっていた。木山自身の、言い違いと思い違いに過ぎなかった。だが、彼が怒ったのは事実だった。怒ってそしてあとはけろりとしていた。

 丁度、その日の夕方のことだが、一ヶ月半ばかりのアメリカ旅行から帰ってきた川村を中心に、懇意な社交仲間だけの集会が、丸ノ内の山水楼で催された。私的な集りだけに、簡単な挨拶があったきりで、あとはあちこちでの勝手な放談となった。木山宇平は酒瓶を前にして、いつまでも飲んでいた。支那料理のこととて、一定のコースがあるが如くなきが如く、料理の鉢はたくさん卓上に残っているし、木山の酒好きは周知のことで、極めて自然な情況だった。

 その木山が、突然、憤慨しだしたのである。

 彼は腕を突き出し、上衣の袖を指し示しながら、大きな声で叫んだ。

「上衣の袖が擦り切れていたって、構うものか。僕なんか、擦り切れてるどころか、破けてると言ってもいい。それだって平気さ。ちっとも恥かしがることはない。」

「勿論、そうだよ。」隣席の者が応じた。

「恥かしがることはない。恥かしいと思うのは、インフェリオリティー・コンプレックスだ。もっとも、御婦人たちは、ここにいる御婦人たちは、着物の袖口が擦り切れてなんかいない。然し、吾々男子は、擦り切れた服で堂々とのし歩いても、一向に構わんじゃないか。」

 初めは、なんのことか、あたりの者も解しかねたが、やがて、不穏な空気がふっと漂ってきた。

 川村が先刻、挨拶の中で、上衣の袖口のことを洩らしたのである。アメリカ旅行中、赤毛布式な失敗はあまりしなかったが、或る招待の宴席に臨んだ時、自分の上衣の袖口がだいぶ擦り切れて見っともなくなってるのに気付き、それからはへんに、内心恥かしい思いをした、というのである。川村は富有な実業家で、いつも、その晩も、きりっとした身なりをしていたし、アメリカ旅行中に果して、袖口の擦り切れた上衣を着ていたかどうかは、疑問だった。それになお、彼の話の調子では、上衣の袖口のことは一種の比喩で、日本の文化や経済などの一般情勢を暗示してるのだと、感ぜられないこともなかった。それを今、上衣の袖口そのものだけを持ち出して、木山は憤慨してるのである。

「なにが恥かしいことがあるものか。僕だったら、この擦り切れた背広で、アメリカだろうとイギリスだろうとフランスだろうと、堂々とのし歩いてやる。それぐらいの気慨は持ちたいものだ。」

 近くにいた洋装の崎田夫人が、まずいことを言った。

「木山さんのお洋服、御自慢なさるほどいたんでいないではございませんか。もしかすると、わたくしのシュミーズの方が、もっと擦り切れてるかも知れませんわ。」

 木山は眉をひそめた。

「擦り切れたシュミーズなんか、打っちゃってしまうんですね。もしあなたの仰言るのが本当なら……ですよ。僕は、ワイシャツはいつも綺麗なのを着る。上衣は破けていたって構わない。御婦人がたは反対だと見えますね。」

「まあ、ずいぶん失礼なことを仰言るわ。もっとも、酒に酔っていらっしゃいますからねえ、ほほほ。」

 崎田夫人は真赤になり、強いて皮肉な笑いかたをした。

 あちらの席から、川村が声をかけた。

「木山君、僕の話が君の不興を買ったようだね。然し、真意は、僕も君に同感だよ。破れ服で世界をのし歩いたっていいさ。少しも恥かしいことはない。ただ、日本の文化は、経済は、産業は、破れ服のままではいけない。仕立て直さなくちゃいかんじゃないか。」

「ワイシャツは綺麗なのを着ることだ。」

 木山はそう応じて、それから、酔っ払ってるらしく口ずさんだ。

「年をへし、糸の乱れの苦しさに、衣のソデはほころびにけり……。」

 聞いてた人々は唖然とした。擦り切れた袖口についての現実的な憤慨から、いきなり、古い戦記物語の和歌に入り込んだのである。二つ三つ、拍手が起った。それをきっかけに席を立つ者もあった。

 崎田夫人も立ち上った。

「酔っ払いは、もう相手にしないことにきめました。」

「ええどうぞ。」

 木山はなにか嬉しそうな笑顔をして、また酒杯を取り上げた。毛の薄くなってる顱頂部に汗がにじんで、それをハンケチでくるくる拭いた。それから黙りこんで、彼は雑談の圏外に出た。

 林が彼のところへ立って来て、肩を叩いた。

「ちょっと頼みたいことがあるんだがね。君は東京の新聞社にも知人が多いだろうから、少し力をかしてくれよ。小坂澄子、新進ピアニストだが、来週、晴れの音楽会に出ることになってる。あれが、僕の姪に当るものだから……。」

「あ、切符か、何枚でも引き受けるよ。」

「いや、切符のことじゃないんだ。なにしろ、初めての晴れの音楽会に出ることだから、好評を得さしてやりたいんだ。どの新聞社でもいいから、音楽批評を担当してる記者に、君から、その、適当に口を利いといてくれないかね。」

「ああそうか。そんなことなら、あいつがいい。いつもでたらめな音楽批評ばかりやってる。そら、君も知ってるじゃないか。ええと、そら、あの男さ。」

 木山は額をとんとん叩いた。

「君も知ってるじゃないか。あの若い男さ。ええと、そら、いつもぱちぱち目ばたきばかりしてる、色の白い、髪の毛を長く伸した……。」

「ふーむ、誰だい。」

「君も知ってるじゃないか。あの男……何とかいった……おかしいなあ、喉元まで出かかってるんだが……。」

 木山はまた額を叩き、立ち上って、小首を傾げながら歩きだした。林は苦笑したままそこに残された。

 木山が控室の方にはいりかけると、そこでお茶を飲んでいた数人の中から、塚本夫人がつと立って来て、彼の腕を捉えた。そして囁いた。

「明日、午後、事務所の方へ伺います。待っていて下さいね。」

 木山は頷いた。

「だいじな用ですの。きっとですね。」

「今晩、これからでもいいですよ。」

「いいえ、明日にしましょう。ゆっくりお話したいから。」

 彼女の眼は刺すように光っていた。

「いったい、どんなことですか。」

「塚本のこと。お話しましたでしょう。いよいよ、わたくしの方へ帰って来ることになりそうですの。ゆっくり御相談したいから、考えておいて下さいね。」

 木山は一歩退って、彼女の顔をじっと見つめた。

「明日、二時から三時までの間に伺います。きっと、待っていて下さいね。」

「承知しました。」

 木山は冷かに言い捨てて、さっきの席に戻って行った。酒杯を持つ手先がかすかに震えていた。

 塚本夫人も、木山と同時に足を返して、先程の仲間に加わった。隣りに崎田夫人がいた。その方を塚本夫人は顧みて、にこと笑った。

「木山さん、この頃、どうかなすってますわね。ひどく怒りっぽいし、先程は、あんな失礼なことを言ったりして……。わたくし、ちょっとたしなめてやりましたわ。いい気味だった。」

 然し、塚本夫人のその態度は、少し大胆すぎた。木山と彼女との間になにか情愛関係がありそうだとは、親しい仲間の認めるところだったのである。そして木山の近頃の怒りの虫を、そのことと結びつけて考える者もあった。見ようによっては、最近、塚本夫人も落着きを失いかけてるらしい点があった。

 その晩、塚本夫人は真先に帰っていった連中のうちの一人だった。そして木山は、最後まで居残って酒杯を手にしてる連中のうちの一人だった。


 木山の事務所は、銀座裏の小さな建物の三階にあった。事務所といっても、彼が主事嘱託という名義で関係してる近県の小新聞の、東京連絡所を兼ねたもので、所員には、老若の男二人と、女が一人いた。木山は週に二日か三日、新聞社の方へ出張するので、いろいろと多忙だった。多忙なのを自慢にしてるようでもあった。

 然し近来、なにかしら大儀らしい疲労の色が彼に見えてきた。それが時として、所謂怒りの虫となって爆発することもあり、或いは漠然として瞑想のうちに沈潜することもあった。

 約束通り、塚本夫人が事務所へ訪れて来た時、木山は仕事を放り出してぼんやり考え込んでいたが、ふいに眼が覚めたように立ち上った。

「急ぎますか。」

「え。」

 夫人は聞き返した。

「時間がおありでしたら、春の家へ行きましょう。」

「お伴しますわ。」

 それだけで二人は外に出て、タクシーを拾った。

 春の家は、戦災から復興したばかりのわりに閑静な一廓にあった。山茶花科の常緑樹を主として植え込み、空池をあしらった庭、その一部を袖垣で仕切って、濡れ縁をめぐらしてある奥の室には、まだ炬燵が拵えてあった。二人には馴染みの深い室である。女中も顔馴染みだった。

「お誂えは……。」

「第一に酒、あとは何でもいいよ。」

 木山の眼になにか陰欝な影があった。塚本夫人は障子の腰硝子越しに外を眺めていた。木山は煙草を差出した。

「今日は、煙草はどうなんです。」

 塚本夫人は眼を向けた。

「いや、煙草のことですよ。たくさんお吸いになる時は、御機嫌のよい時で、あまりお吸いにならない時は、御機嫌のわるい時だと、僕が言ったでしょう。今日はどちらなんです。」

「冷淡な仰言りようね。そんなら、やけに吸いましょうか。あなたは、お酒をやけにおあがり下さい。」

 もうここでは塚本夫人ではなく、ただの由美子だった。コートを脱ぎすて、膝を少しく崩し加減に坐り、帯の刺繍がやたらにぴかぴか光っていた。その刺繍と同じように、彼女の視線が、木山の眼を刺戟した。

「なんにも、尋ねて下さいませんのね。」

「尋ねるって、いったい、なんのことなんです。」

「昨晩もちょっと申しましたでしょう、塚本のこと。」

「だって、あなたはまだ、なんにも話して下さらないし……。」

「それでは、お考え下さいましたの。」

「考えましたが、僕には、事情がよく分らないし……。」

「あなたにとって、不愉快な話だってことはわかっております。けれど、愛情がおありでしたら、心配して下すってもよろしいと思いますわ。」

「そりゃあ、心配していますよ。然し、いくら心配しても、どうにもならないし……。」

「成り行きに任せると仰言いますの。」

「いや、なんとか打開しなければなりませんがね……。」

「あなたのお気持ちを、今日は、はっきり聞かせて頂けませんか。」

「それは、前から言ってる通りですよ。」

 陰欝な気分が次第に苛ら立ってくるのを、木山はむりに抑えた。そして酒を飲んだ。由美子も口を噤んで、猪口を手にした。

 もともと、ちょっとした火遊びみたいな軽い気持だったのが、次第に深みへはまり込んだのである。肉体の関係がついたのがいけなかった、青年同志のようにぱっと燃え立つのでもなく、老人同志のように心底から寄り添うのでもなく、ただじりじりと互に喰い込んでいった。そこへ、別居していた塚本が、愛人と別れ、自家へ帰って来るという事態が持ち上った。素人のくせに手を出した漁業に大失敗をして、危く倒産は免れたが、家産の大整理をしなければならなくなったものらしい。帰って来れば、自然、由美子と同棲することになる。由美子と木山との仲は、塚本もうすうす察知しているだろうが、元来女というものを軽蔑しきってる彼のこととて、どういう家庭生活になるか分らないのである。それが怖い、と由美子は言った。塚本が引越してくる期日は、まだはっきりしなかったが、近いうちにとの通告があった。その通告は、由美子に覚悟を強要するものだったのである。

 彼女は眼を見据えて木山に言った。

「あなたに愛情があるなら、家を出てしまえと、なぜ仰言って下さいませんか。わたしは、その一言が、あなたから聞きたかった。」

「それは、愛情とは別問題ですよ。家を出てから、どうするつもりですか。」

「わたし一人なら、どうにか暮してゆけるでしょう。あなたに御迷惑はかけません。奥さまに御迷惑もかけません。」

「金銭のことを言ってるんじゃありませんよ。人間としての生活のことです。」

「体面のことを仰言るんでしょう。世間の体面と、愛情と、どちらが貴いんでしょうか。」

「そんなこと、今の問題じゃありません。僕ははっきり言っておきますが、あなたを愛しております。だから、あなたの正しい生き方のことを考えてるんです。」

「正しい生き方……。では、塚本と一緒に暮せと仰言るんですね。別れようと仰言るんですね。」

「違いますよ。愛情は育てましょう。然し、その育て方ですが……。」

 彼は口を噤んで、眉をしかめた。窮地に追い込まれた気がしたのである。そして卓上の一点に眼を据え、酒を飲みながら考え込んだ。

《木山は別なことに思いを走らせるのである。近頃彼は身体の違和を自覚しだしていた。殆んど毎夜のように寝汗をかいた。睡眠は浅く、熟睡の気持を味ったことがなかった。そのくせ、昼間でも、物を考えてるうちに、うとうとすることがあった。手指や足指の先に、軽い麻痺を感じた。脈搏が、時に速くなり、時に緩くなった。顱頂部にしばしば汗をかいた。眼がくらんでくる気がして、足がふらつくことがあった。顔の肉や掌の肉に、厚ぼったく脹れた感じがすることもあれば、げっそり萎びた感じがすることもあった。便通が甚しく不整だった。食慾も不整で、而も次第に減退してゆくようだった。飲酒慾だけは常に旺盛だった。物忘れが甚しく、時によると記憶全体がぼーっと陰った。全身にいつも倦怠感があった。注意力が散漫だった。これはいったいどうしたことか。肝臓にでも異変があるのかも知れないぞ。こんな肉体はもうたくさんだ。》

 木山が呼鈴を押すのを見て、由美子は心配げに眉根を寄せた。

「またお酒でしょう。もうこれぐらいになすったら。お身体がわるいとか仰言ってたじゃありませんか。」

「なあに、大丈夫ですよ。日本酒だけなら、いくら飲んだって……。」

《お前が要求するのは、酒、酒、ただ酒だけなのか。》

「それでは、ほんとに愛情を育てていって下さるおつもりですね。」

「そうです。いま言った通りです。」

「それでも、わたしが塚本と同じ家に住むとなると、やはりおいやでしょう。」

「そりゃあいやですね。」

「では、どうすればよろしいの。」

「あなたの決心次第です。」

「わたしの決心はもうきまっていますの。あなたさえ許して下されば、家を出てゆきます。」

「家を出て、どこへ行くんです。」

「どこでも、あなたのおよろしいところへ。」

「よろしいところって、そう急には見つかりませんよ。」

「しばらくの間なら、宿屋住居だって、ホテル住居だって、構いませんわ。それぐらいのお金は、わたし持っていますから。」

「然し、その先が問題ですよ。」

 由美子はきっとなって、木山を見つめた。

「木山さん、わたしの眼をじっと見つめて下さい。そして、本当のことを言って下さい。」

 木山は彼女の眼を見つめて言った。

「僕はあなたを愛しています。」

「それだけ。」

「それ以上に何がありますか。」

「あなたの仰言るのは、言葉だけですわ。」

「では、どうしたらいいんです。」

 彼女は上目がちに眼を宙に据えて、内心に思いをこらしてるようだった。それは暴風の前兆のようだった。木山は炬燵布団に顔を伏せた。

《俺がいま、彼女を抱きしめてやったら、彼女の心はすぐに和らぐだろう。然し、そのことがいったい何だ。俺自身、自分の肉体に愛想がつきてるじゃないか。彼女を抱いて寝ながら、俺は夜中によく汗をかいた。かりに、アルコールが体内にぱっと燃え立つ、そのせいだとしても、見っともなく、薄汚いじゃないか。汗の臭気ほど下等なものはない。彼女だって、汗をかくことがあるし、心臓をどきつかせる。なんてざまだ。いや、俺はもっとひどい。ふだんでさえ、ぶるぶる震える手で酒杯を持ち、頭の天辺から湯気を立て、動悸を早めてる。なんていやらしい肉体だ。お前のようなものは、もうたくさんだ。別れようじゃないか。さよならだ。お前ときっぱり訣別したら、俺はどんなにか清々するだろう。ざまあ見ろ。これでさようならだ。お前がいくら追っかけて来ようと、俺はもう振り向きもしないぞ。穢らわしい奴だ。お前ばかりか、由美子の肉体だって、八重子の肉体だって、穢らわしさに変りはない。由美子のは、腋臭めいた臭気がするし、八重子のは白髪染めの臭気がする。いくら香水をふりまいてもだめだ。ざまあ見ろ。さようならだ。》

 由美子は木山の肩を捉えて揺った。

「木山さん、起きて下さい。そして、はっきり言って頂きましょう。」

 木山は黙って、彼女の顔を眺めた。

「あなたの御本心は、私にじっと塚本のところで辛棒せよと、そうなんでしょう。」

 木山はまだ黙っていた。

「そうしてるうちに、自然と別れることになると、それをお望みでしょう。」

 木山は返事をしなかった。

「よく分りましたわ。もう御心配はかけません。わたしはわたし自身で仕末をつけます。」

 木山はふいに叫んだ。

「勝手になさるがいいでしょう。」

 そして立ち上り、室の中をぐるぐる歩き廻った。暴風の前兆は彼の方にあった。頭がくらくらし、やたらに腹が立った。

「僕の気持ちは前に言った通りです。あなたはいつまでも後戻りばかりしている。別れようと僕に言わせたいんでしょう。そんならそれでよろしい。御随意になすって下さい。」

 ぐるぐる歩いて、それから炬燵に半身を入れて仰向きに寝そべった。

《俺は何を言ってるんだ。肉体に訣別して、そしてなにかしら精神的な愛情を求めて、あっぷあっぷしてるんじゃないか。それがどうして言葉に言い現わせないのか。なぜ率直に彼女に言えないのか。》

 由美子の手が伸びてきて、彼は引き起された。

「別れるなら別れると、はっきり致しましょう。ふてくされた真似は、わたしいやですわ。」

「僕もいやです。」

「そんなら、どうなんですの。」

「理屈も僕はいやです。同じことを繰り返すのもいやです。あなたと別れるのもいやです。何もかもいやです。僕は自分自身までいやになってるんです。腹を立てさせないで下さい。」

 めちゃくちゃだった。ただもう酒を飲むより外はなかった。

「それでは、今迄通りでよろしいんですね。」

 話は少しも進展せず、また同じようなことが繰り返された。するうちに、木山はふいに言い出した。

「僕は決心しています。塚本さんに逢ってみるつもりです。」

 由美子は顔色を変えた。

「あなたが、まあ、そんなことを……。」

「逢ったっていいじゃありませんか。僕たちのことは、どうせ塚本さんにも知れてる筈です。逢った上で、きっぱり話をつけましょう。」

「いけません。わたしいやです。第一、奥さまをどうなさるつもりですか。」

「誤解しないで下さい。家内とは関係のないことです。ただ、塚本さんに逢って、僕たちのことをはっきりさしておきたいんです。」

《また、何を言ってるんだ。腹立ちまぎれの出たらめな思いつきに過ぎないじゃないか。果して実行の意志があるか。彼女からそれを言い出されたとすれば、お前はきっぱり断ったに違いない。出たらめを言うな。ばかなことを言い出して、ますます話をこんぐらかすばかりじゃないか。お前はいったいどうしようというんだ。》

 由美子は黙りこんでしまった。それからふいに、彼にキスを求めた。

「分りましたわ、あなたのお気持ち。わたし安心して時期を待ちましょう。」

「時期ですって……。」

「いよいよの時まで、静かに待っておりますわ。」

「よろしい、僕に任せておいて下さい。」

 そしてまた、約束のしるしの冷いキスをした。

 それだけで、そして酒を飲むだけで、温い情愛は湧いてこなかった。

《俺はまったくどうかしてるようだ。なぜ彼女をやさしくいたわってやれないのか。自分自身をやさしくいたわってやれないのか。これはまさしく肝臓のせいだ。肝臓がどこか悪いのだ。肝臓の悪い肉体なんか、ちきしょう、打っちゃってしまえ。》

 木山は不快な気分に陥っていった。女中が風呂のことを聞きに来たが、彼は一言で断った。

 由美子ももう言葉少なになり、へんに打ち沈んでいた。

「今日は、これで帰ることにしましょうか。ちょっと、用もありますから。」

「そうですね。僕も、もうちょっと飲んでから、そうだ、出かけることにしよう。」

 あやふやな話のまま、自動車を呼んで、由美子は先に帰っていった。

「二三日のうち、またお目にかかれますかしら。」

「ええ、いつでも、明日でもよろしい。お電話下さい。」

「こんどは、のんびりとお目にかかりましょうね。」

 彼女の最後の言葉を、木山は炬燵にもぐり込んで反芻してみた。

《のんびりと、ゆったりと、たのしく……初めのうちはそうだったが、どうして今日のようなことになったのか。彼女の態度も悪いが、原因は俺にもあるらしい。肝臓だ。肝臓が悪いんだ。》

 彼は他にちょっと廻ろうかと思いついたが、疲労を覚えたし、酔ってもいたので、やめてしまい、改めて、芸者を二人呼んで酒を飲み続けた。意識が中断し、時間も停止し、何をどうしたか判然とせず、いつ自宅に帰ったかも分らず、翌朝遅く眼を覚して、初めて人心地がついた。


 木山は朝から酒を飲んだ。夜明け頃ふと眼を覚して、ぐっしょり寝汗をかいていたのに、気持ちを悪くしていたし、起き上って顔を洗う時、洗面所に歯磨粉が散らかっていたので、女中を叱りつけ、叱りつけたことで却って気持ちを悪くしていた。そして酒を飲みながら、顱頂部に汗がにじんできたので、気持ちは少しも直らなかった。

 そこへ、八重子夫人が下らない話を持ち出してきた。

 彼女は元来体が弱く、消化不良に悩んでいた。医者にかかるほどではなく、売薬で間に合せていたが、近来、按摩を毎日のように呼んでいた。いつもきまった按摩で、眼も見え、わりに小綺麗な中年の女だった。その按摩が、昨日は差支えあって、代りに婆さん按摩が来た。その婆さんの話である。

 奥さまはなるほど胃がお悪うございますねと、仔細に首を傾けながら、胃病の症状を幾つか話した。その中で、一つへんなのがあった。もう六十あまりの老夫人で、長年胃病に悩み、あちこちの医者にかかったが、どうしても治らなかった。ところが近頃、おかしな症状が起ってきた。物を食べると、胃袋の中のどこかに閊えるのである。汁物までが閊えるのである。そして暫くすると、その閊えたものが、胃袋の底へ、ごっとん、ごっとん、さがってゆく。そして初めて胸が開ける思いをする。柔かい物ばかりでなく、汁物までがそうだから、おかしい。どこに閊えるのか分らないが、確かに閊えて、そしてやがて、ごっとん、ごっとん、下ってゆくのである。医者にみせても原因は分らないし、この節ではもう諦めて、ごっとん、ごっとんを、却って楽しみに待つのだった。

 その話を、按摩はただ座興にしたらしいが、自分で胃弱を悩んでる八重子には、へんに気味悪く響いた。

「いやですわ、胃の中でごっとんごっとん音がするなんて。胃袋が瓢箪みたいにくびれたんでしょうか。」

 八重子は眉間に皺を寄せていた。

 木山は頭を拭きながら言った。

「ばかな。神経のせいだろう。」

「神経のせいにしても、そうなったら、どうなんでしょうね。わたくし、ぞっとしますわ。」

「だから、医者にみせなさいと、いつも言ってるじゃないか。」

「あなたがおみせなさるなら、わたくしもそうしますわ。あなたの方こそ、きっとどこかお悪いんですよ。寝汗をおかきなすったり、頭から汗をお出しなすったり……。」

 木山はいやな顔をして口を噤んだ。何度も繰り返されたことだったのである。木山が医者にかかるなら、自分も医者にかかる、さもなければ……と八重子は主張した。主張というほど強いものではなかったが、繰り返されると、なにか頑迷なものに感ぜられた。そしてそのつど、寝汗だの頭の汗だのが持ち出されるのである。

「ほんとに、医者におみせなすったら……。」

 木山は腹が立ってきた。

「それより、胃袋の中のごっとんごっとんの方が先だろう。僕も、動悸がどっきんどっきんしたら、医者にみせるよ。」

 言ってしまってから、木山はますます不快になった。実際、脈搏が早くなっていたのである。白髪染めの八重子の髪の臭いが、気のせいか鼻についてきた。

 彼はいい加減に酒を切り上げて、外出の仕度を始めた。

 そこへ、事務所から、というより地方新聞の出張所から、電話がかかってきた。

 その地方の神社の一つに、みごとな松並木を持ってるのがあった。その松のうち、二本ほど、昨年から枯れかかっていた。県の技手の調査によると、松食虫の害らしいとのことで、伐採の議が起ったが、古老たちの反対で、まあもう暫く様子を見てみようということになっていた。ところが、どうも生き返る見込みがなさそうだから、暑くならないうちに切り倒して、害虫の蔓延を防ごうということになったが、有力な反対が起った。なにしろ一種の神木に関することであり、慎重を期する必要があるので、も一度、専門の博士に鑑定を仰ぎたい。ついては、木山宇平がこんどあちらへ行く際に、その博士を同道願えないものだろうか。そういう頼みだった。

 木山は忘れていたが、明後日、彼は出張する予定だったのである。

 木山は聞いていて、かっとなった。事務員を怒鳴りつけた。

「予定はあくまでも予定だ。僕があちらへ行こうと行くまいと、それは僕の勝手じゃないか。僕の方にだって都合があるからね。」

 彼は由美子のことを思い出していた。

「松の木のことなんか、今明日にさし迫った問題じゃあるまい。」

 くどくどと、弁解の言葉が受話器に伝わってきた。

「だいたい、ばかげた話だ。何が神木かね。まだそんな迷信が残ってるのか。さっさと切り倒せばいいじゃないか。」

 くどくどと、また弁解の言葉だった。

「そんなこと、取り合うのがばからしい。電報を打つんだ。松食虫に相違ないから、切り倒せと、電報にするんだ。」

 なおくどくどと、弁解の言葉だった。

「そんな下らない用は打ち切ってしまえ。僕は今日は行かないからね。」

 二十分ほども怒り散らして、木山は電話口を離れた。

 彼は書斎に上ってゆき、茶の間に下りてき、庭をぶらつき、それからまた酒を飲みだした。眉をしかめながら、黙々として飲んだ。

 女中を呼んで、すぐに風呂をわかすように言いつけた。

 そして時折、小刻みに頭を震わしてるのだった。

 八重子は慴えたように、彼の様子をひそかに見守るばかりで、口が利けなかった。

 彼はなんだか皮肉な笑みを浮べて、八重子に言った。

「僕はやはり、お前を愛していたようだ。勘弁なさい。医者にもかかる。お前も医者にかかれよ。胃袋のなかの、ごっとんごっとんか。」

 彼はまた黙りこんで、酒を飲んだ。それから、少し気分がわるいから昼寝をすると言って、布団を敷かした。

「風呂がわいたら起してくれよ。」

 八重子は暫くそばについていたが、寝息の音が聞えてきたので、そっと室から出た。

 一時間ばかりたった後、風呂がわいたので、八重子は木山を起しにいった。木山は少しく布団から乗り出し、半眼を見開き、片手を畳に投げ出して、もう息絶えていた。

 呆気ない最期だった。医者の診断は脳溢血だった。

 後になって、八重子は言った。

「怒りの虫にとっつかれたと言うひともありましたが、それにしては、安らかな死に顔でした。」

底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5・戯曲)」未来社

   1966(昭和41)年1115日第1刷発行

初出:「群像」

   1951(昭和26)年5

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「《」(非常に小さい、2-67)と「》」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。

入力:tatsuki

校正:門田裕志、小林繁雄

2007年12日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。