孤独者の愛
豊島与志雄



 男嫌いだと言われる女もあれば、女嫌いだと言われる男もある。女嫌いの男に対して、天下の女性はどういう感じを持っておられるか、私は知らない。だが、男嫌いの女に対して、男の方では妙に気を惹かれるものだ。

 男嫌いの女が、甚だ醜く、その醜さのために男から顧みられず、復讐的な気持ちから男嫌いになったのだとすれば、これに同情するしないは各人の御自由として、私から見れば、どうも浅間しくてお話にならない。男嫌いの女はまあ十人並の容姿であってほしく、美しければ美しいほどよい。

 そのひとが、なぜ男嫌いになったのか。なにか淋しい薄倖な生れつきなのであろうか。悲しい星の下に生れたのであろうか。或いは、心に深い痛手でも受けてるのであろうか。あまり多くの涙を流しすぎたのであろうか。或いは、高遠な理想、とまではいかなくとも、清純すぎるほどの情操を、胸の奥に秘めてるのであろうか。世の中のこと、男女のこと、すべてが醜くきたなく見えるのであろうか。或いは、あまりに心やさしく、内気なはにかみやで、自分一人だけの世界にとじこもってるのであろうか。

 そういうことが、私の感傷を甘やかすのである。言い換えれば、私の男心をそそのかすのである。男嫌いということを、決定的な、本質的なものだとは、誰も思わないであろう。すべての男が嫌いだ、といっても、この私だけは、そのすべての男の中には含まれていず、もしかすると彼女が心を寄せかけてくる唯一人であるかも知れないとの、自惚れた希望がある。すべての男というのが完全にすべてであればあるほど、そのすべてから除外される私一人が、輝かしいものとなる。だから、男嫌いな女と聞いて、内心にやりとするほど下卑たのは論外として、たいていの者は、心のどこかに頬笑みかけられるような思いをする。あなただってそうでしょう。なにも隠すことはない。実は、私もそうだった。

 さりとて、私は女にかけて図々しい男では決してない。仲間たちからは、むしろ、女嫌いだとされていた。ところが、私のこの女嫌いは、孤独な心根からきたものなのだ。

 現代に於て、孤独などということを言い出せば、人は笑うであろう。誰だってみな孤独なことに変りはない。而も群集の中に於ての孤独だから一層仕末がわるい。電車でも満員、街路でも満員、住宅でも満員、オフィスでも満員、その満員の中で、各自にみな孤独なのだ。嬉しいことがあってにこにこ笑っても、どこか苦しくて眉をひそめても、誰も見向きもしない。大声にわーっと喚いてごらんなさい。誰かいたわってくれるひとがありますか。ただ物珍らしい見ものになるだけで、それもほんの暫しの間にすぎず、誰も彼も無関心に通り過ぎてしまう。感情が通じないのだ。言葉というものに表情や身振りまで含めて言えば、言葉が通じないのだ。人間が一人一人、ばらばらに孤立してしまったのだ。

 なおその上に、私の孤独は、内気な恥かしがりからもきている。人なかで何か意見を述べることが、私には殆んど出来ない。いったい、独自の意見を持ってるかどうかさえ、自分にも分らないのである。それかといって、普通のこと、当り障りのないことも、なにか白々しくて言えないし、第一、場所と機会に応ずる適当な言葉が、頭に浮んで来ないのである。自分自身のそういう無能さ不器用さが、自分にもよく分っているので、自然と、隅っこの方へ引込んでばかりいたくなる。日常生活の場面の一つ一つが、私には劇場の舞台のような気がし、大勢の人から見られてるような気がし、そのたくさんの視線に私は堪えきれないのだ。

 多数の看客の中でも、女の眼は最も意地悪で怖い。だからこちらでは、女に対して冷淡を装わずにはいられない。そういうところから私は、女嫌いだと思われたのであろう。然し、どうして女と限るのであろう。男嫌いと言ったってよいではないか。いっそ、人間嫌いと言ったってよいではないか。

 この、所謂女嫌いな私が、あの、所謂男嫌いな彼女と、愛し合ったのである。男嫌いと言われる女に対して、男の方で、いや実は私自身のことなのだが、私の方でどういう感じを持ったかは、前に述べた通りである。女嫌いと言われる私に対して、彼女がどういう感じを持ったかは、私は知らない。

 彼女、澄江は、男嫌いだと言われてるからには、もとより良家のお嬢さんなんかではない。小料理屋の女中である。

 その小料理屋の加津美へ、私は同僚の永田と共に社長に連れられて、二度ほど行った。三度目の時に、社長は突然笑い声を挙げた。

「澄ちゃんが男嫌いで、松井君が女嫌い、いい取り合せだ。ただ、喧嘩だけはしてくれるなよ。」

 社長は仕事がうまくいった時はいつも上機嫌なのだ。澄江にも杯をさし、そして永田とむつかしい相談事を続けた。永田と私は、山西証券会社の謂わば社長秘書で、永田は社長のブレーンの役目をし、私はただ書類をいじってるだけである。証券会社は本来ひどく忙しい所だが、山西では重に現物を主として手堅くやっていたし、金融の方面も特別な関係だけに止めていたので、さほど人の出入りも多くなく、殊に私たちの事務はのんびりしていた。永田は頭の中では忙しかったろうが、私の方はただ機械的に仕事をするだけだった。内気で、無口で、気が利かず、隅っこに引っ込んでばかりいたがる私は、社長や永田から見れば、信用出来る男、とまではいかなくとも、少しも気兼ねのいらない男、或る意味で無視出来る男、と思われていたらしい。だから私は、加津美に来ても、二人の談話には加わらず、一人でぼんやり酒を飲んでおればいいのである。

 澄江が男嫌いだということは、私は前から聞いていたし、胸の奥の男心に、ほのかな温かみを呼び起されていた。ひとをそらさぬ女、色っぽく何かと話しかけてくる女は、私にはどうも苦手で、却って逃げだしたくなるのである。

 私はひそかに澄江の様子を窺ってみる。眼眸になにか打ち沈んだ病弱らしい影があり、口許に勝気らしい気味合いがある。丸みがかった顔立で、美人とは言えないが、頬の肉が柔かそうで、化粧のせいばかりでなく色が白い。耳は小さそうで、黒髪に半ば隠れている。縞銘仙の着物をきているが、料理屋の女中というよりは……煙草屋の娘、今はそんなものは無くなったが、昔の小説なんかに出てくる煙草屋の年増娘、そういった感じがある。

 彼女は私に酒のお酌をしながら、じいっと私の顔を見つめて──

「わかったわ。あなたは一人っ子なんでしょう。」

 そしてぱっと頬を紅くした。

 私は心にどきりとした。もし彼女が頬を紅らめなかったら、なにを生意気なこと言うかとむくれるところだったが、その頬の血いろがじかに私の心に映り、私も少し顔をほてらしたらしい。

 然し実は、私は一っ子ではない。兄も姉もある。戦争中は海軍の方に徴用されていたが、其後、生家を離れて、素人下宿の二階に、三十三歳の身を置いている。母や兄や姉など、しきりに結婚をすすめるけれど、家庭生活というものがへんに煩わしく怖いのだ。生理的慾望については、娼婦のところへ行きさえすれば、こちらは黙っていて、少しも気を遣うことなく、極めて自然に満足さしてくれる。何の気苦労もいらず、はにかむようなこともない。だが家庭では、いろいろ恥しいことがあるだろうし、極り悪いことがあるだろう。それで私は結婚については、私には理想がありますし、理想にかなう相手が見つかるまでは結婚はしません、と言い遁れてきた。理想、そんなものは実は一つだってありはしない。考えてみれば、寒々とした淋しい日々だ。

 胸のどこかを金槌でことりと叩かれたような思いで、私は澄江の顔を見返した。

「僕が一人っ子だってこと、どこで分る?」

「なんだか……静かで、そして淋しそうですもの。」

 こんどは、顔色も変えず、精一杯のような真剣さだ。

「そんなことを言えば、君だって……一人っ子なんだろう。」

 言ってから、私は顔が紅くなるのを感じた。

 彼女は返事をしなかった。私も口を噤んで、杯を取り上げた。それから、あまり口は利かなかったが、互に杯のやりとりをしながら、自然に、そして大胆に、何度か眼と眼を見合った。

 これだけのことで、二人が愛し合ったと言えば、なんだかばかげてるようだ。然し、愛情の契機なんて、たいてい些細なものである。一人っ子などと、私たちは下らないことを言ったものだが、どちらも顔を紅らめたのがいけなかった。

 私は澄江に逢いたくて、一人で加津美へ行くようになった。私は内気ではにかみやだし、彼女は無口で胸にだけ思いつめるたちだった。語り合うことは少なかったが、愛情は急に燃え上っていった。

 澄江は私の下宿へもやって来た。私は加津美へしばしば行った。澄江は叔母さんの家と加津美と、両方に寝泊りしていたので、ごまかしがきき、二人でよそへ泊りに行くことも出来た。

 いつとなく、二人の仲は周囲に知れていった。私の下宿のお上さんは、澄江を他人扱いしなくなった。加津美では、まるで芸者のように澄江が私の側につききりだった。一方、私は金に困って、永田から会社の金をだいぶ借りた。私と同じ社員である永田に、会社の金が或る程度自由になることを、私は初めて知った。もっとも、社長の黙許があったのだろう。永田は言った。

「金のことは心配しなくてもいい。君たちのことは社長もうすうす知ってるよ。然し、あまり深まにはいるなよ。」

 どの方面にも、大して障碍はなかった。ところが、へんなことが私たち二人の間に起ったのである。


 自分でもはっきり気付かぬまに、私は会社をなまけることが多くなった。澄江の方でも、宵のうちの忙しい時でさえ、店を休むことがあった。そして二人一緒にいさえすれば、それでもう私たちは満足だった。

 私は自分の室に、まだそれほど寒くもないのに、炬燵をおこした。彼女と二人、食卓をはさんで坐っているより、炬燵にでももぐり込んでる方が、やはり気楽だ。そしてウイスキー一瓶に、チーズと塩豆、にぎり鮨、それぐらいなもので充分だ。

 横坐りに炬燵に顔を伏せて、私は思う。埋め火のほかほかした温かみ、布団のしなやかな柔かみ、それが如何に人の心を和らげることか。私にとって、澄江は丁度そのようなものだ。

 然し、澄江は全く別なことを考えていたらしい。

「わたし、くにへ帰ろうかと思うんだけれど……。」

 だしぬけに言う。

 彼女の郷里は秋田の田舎で、父や兄が農業をやってるのである。

「おかしいねえ。どうして、そんなことを思いついたの。」

 返事をせずに、彼女は考えこんでいる。

「お墓参りだろう。そんなことは、若い者がしなくたって、年寄りにさせておくんだね。」

「いいえ、帰りっきりに帰ってしまおうかと思って……。」

 意外、というよりもむしろ、私は呆気にとられた。

「わたしたち、このままでは、いけないんでしょう。」

 そのことなら、私も考えていた。いずれは、結婚しようかとも思っていた。家庭生活についての怖れも、澄江相手ならば少しもなかった。私は彼女によって初めて、羞恥心などを超越した愛慾を知ったのである。私も彼女も情慾については、他人と比較するわけにはいかない、弱い方らしいけれど、弱いなりに何のためらいもなく自然に、二つの肉体は合致して、倦きるということがなかった。これが愛情というものなのであろうか。

「心配しなくてもいいよ。……結婚しようか。結婚してしまえば、何もかもよくなる。そのこと、僕も考えていたよ。」

「結婚……だめよ。わたし、このままでいいわ。このままでいいけれど……。」

 彼女は加津美のお上さんには不義理をするし、叔母さんの方へも工合のわるいことが出来るし、私だって会社に借金をこさえるし、うまくいかないことが分ってると、彼女はぽつりぽつり言うのである。

「だから、結婚しようよ。どうして結婚はだめなの。」

「だって、結婚して、こんど、離婚するのは、いやですもの。」

「結婚して必ず離婚するとは、きまってやしないよ。」

「でも、離婚するようなことになったら、あんまり惨めだもの。いや、わたしあなたと別れるの、いやよ。」

 なにかしら、めちゃくちゃなのである。もっとも、彼女が一度結婚したことを私は知っている。彼女は東京へ出て来て、叔母さんのところから女学校に通い、それから、若くて結婚したが、まだ先方へ入籍もすまさないうちに、夫は召集されて戦死してしまった。彼女は叔母さんの家に戻り、ちょっとした恋愛火遊びめいたこともあったらしいが、それも立ち消え、彼女は加津美の女中になってしまった。過去の痛手がまだ心に残ってるのであろうか。私がそのことにふれると、彼女は私を睥みつけるようにして言った。

「わたしはこれまで、誰も愛したことはありません。ただあなただけよ。」

 或いは、秋田の田舎に幼な馴染みの男でもあって、世の中を見限り、その男に嫁ぐつもりでもいるのか。

「いいえ、そんなひとは誰もありません。」

 私を睥みつけるようにして言う。

「それでは、結婚はだめだとしても、一緒に暮すことにしてはどうだろう。アパートかなにか見つけて、一緒に住み、僕は会社に勤め、君は加津美で働く……。」

「そんな面倒なことしなくても、わたし、今のままでいいわ。」

「今のままではうまくいかないと、君が言い出したんだよ。」

「だから、くにへ帰ろうかと思ったの。」

「然しね、くにへ帰りっきりに帰るのは、僕と別れることになるよ。まさか、僕まで一緒に連れていくつもりじゃあるまい。」

「あなたに百姓は出来ないわ。わたし一人で帰るの。」

「どうも、君の言うことは分らん。いったい、どうするつもりなの。僕と別れたいんなら、そう言ってくれよ。」

「いや、別れたくないのよ。あなたとは、もう別れたくない。それが、わからないの。」

 炬燵の上につっ伏して、彼女は泣きだしてしまった。

 私はもてあました。全くめちゃくちゃなのだ。何の筋道も立ってやしない。ヒステリー……或いは気が変なのか。然し、これまでそんなことは一度もなかった。彼女はいつも控え目で、内輪にしか物を言わず、駄々をこねることがなかった。それが、どうしたというのであろう。ウイスキーにさほど酔ってるとも見えなかった。むしろ私の方が酔いかけていたのだ。

 突然、一つのことが頭に閃めいた……妊娠。

 私は彼女の肩を引き寄せて、その言葉を耳に囁いた。

 彼女はぎくりと身を震わし、顔を挙げ、袖口で涙を拭いて、強く頭を振った。

「ばか。」

 頬をぱっと紅らめ、それを押し隠すかのように私の胸へ寄り縋ってきた。

 私にはもう到底、理解が出来ない。私の思いも及ばないようなものがあるのであろう。彼女は私の胸へぐんぐん寄りかかってき、全身の重みをぶっつけてきた。乱暴だ。不用意に私は転げ、彼女も転げた。転げながら、私の胸をどんどん叩いた。その手をはねのけて私は起き上った。彼女も起きて、ウイスキーをあおった。

「松井さん!」

 眼に病的とも言える陰を宿して、唇を少し歪めている。

「あなたの頬っぺたをなぐったら……どうなさる。」

 愚問には答えないに限る。私は黙って、ウイスキーを飲んだ。

「わたし、もうくにへ帰るのはやめます。その代り、あばれてやるから。」

 眼にいっぱい涙をためて、洟をすすった。

「癪にさわる。……あなたのおかげで、わたし、だめになっちゃった。……どうして下さるの。」

 いつもとまるで調子が違って、酔狂の沙汰だ。

「いいわ、あばれてやるから。」

 じっと眼を据えて、飲み干したグラスを卓上にころがし、指先でぐるりぐるり動かしている。

 私は仰向けに寝ころがった。

「もうわたしのことなんか、どうでもいいのね。わかりました。そんなら、帰ります。」

 その言葉が、ふいに、私の憤りを誘った。

「愛想づかしなら、もうたくさんだ、帰るなら、帰ったらいいじゃないか。」

 ちょっと、ひっそりとなった。私は腕を眼の上にあてた。何も見たくなかった。

「わかりました。帰ります。」

 こんどはいやに静かな声だ。そしてやはり静かに、彼女は立ち上って、室から出てゆき、静かに階段を降りていった。

 私は寝そべったまま、眼をふさいでいた。体がしきりにぴくぴく震えるのを、じっと我慢した。それから、俄に飛び起きた。耳をすましたが、何の物音も聞えなかった。彼女は影のようにすーっと去ってしまった、という感じだった。待ってみたが、戻っては来ない。

 私はウイスキーの残りを飲み、炬燵の上に寝具を投げかけ、額までもぐりこんだ。もう夜が更けていたが、眠れはしなかった。


 翌日の午前中、私は加津美のまわりを、遠巻きにぐるぐる何度か歩き廻った。まだはっきり決心がつかなかったのだ。とにかく澄江に逢わなければならなかったが、電話をかけるのも気が進まないし、朝から訪れるのもへんなものだし、もし彼女が帰っていなかったら恥さらしだ。

 今日になってみると、なんだか世界が変った感じである。感情も言葉もはっきりとは他人と通じ合わない孤独さ、而も多くの冷淡な視線だけを身に受けてるという佗びしさ、そういうところへ再び突き落された気持ちなのだ。澄江との愛情に包まれて、私はいい気になっていたが、澄江を失ってしまうと、私は以前にも増して一人ぽっちだった。なあに、一人ぽっちだって構うことはない。三十三歳まで生きてきたのだ。年若な女の感傷では、三十三の死を空想することもあるが、私としては……そこが実はぼんやりしていた。

 私は昨夜、夜通し、妄想に耽った。夢現の界目での妄想だった。そして白々と夜が明けそめる頃、はっと眼が覚める思いに突き当った。澄江のことだ。彼女はどうしてあんなに取り乱したのか。私も彼女も可なり酔っていたようだが、記憶に残ってることを一々跡づけてみると、私は重大なことを見落していたような気がする。男嫌いなどということについて、初めいろいろ甘っぽいことを考えていた私は、浅薄極まる馬鹿だった。澄江は実はぎりぎりのところで生きていたのではなかったろうか。そして昨夜のめちゃくちゃは、最後の抵抗の試みではなかったろうか。肉体を投げ出し心を投げ出した後の、最後の抵抗。そんなものが女にあるかどうか私には分らないが、それより外に解釈の仕様はない。あれは、愛想づかしなんかではなかったんだ。分らなかったものだから、私は腹を立てたものらしい。らしい、と言うより外、私には自分のこともよく分らないのだ。

 とにかく、も一度澄江に逢いたい。澄江なしには、私は生きてゆけないかも知れない。素っ裸にされて、打ち震えてる、私自身の姿が見える。

 加津美の前は通りかね、遠巻きにぐるぐる歩き廻った。十二時になったら、昼食をたべに来たのだと、ごまかせるだろう。まだ一時間ほども合間があったが、ただ加津美のまわりを歩くことだけで気が安らいだ。

 瞬間、私は顔に閃光を受けた感じで、物陰に身を潜めた。澄江なのだ。確かに澄江だ。臙脂色の半コートをき、白足袋の足をさっさっと、わき目もふらず歩いてゆく。なにか一心に思いつめてるらしく、自転車が来てもよけようとしない。

 何処へ行くのであろうか。

 私はその跡をつけた。なにかに憑かれたような気持ちだ。

 電車通りで彼女は立ち止った。電車が来て、彼女はそれに乗った。私は反対側から乗った。あまり込んでいず、彼女に見つかる恐れもあったが、私はもう度胸をきめていた。スプリングの襟を立て、ソフトを目深にかぶり、素知らぬ風を装った。乗換場ではさすがに困ったが、見つからずにすんだ。全然と言ってよいくらい、彼女はわき目をしなかった。彼女の方でも、なにかに憑かれてるかのようである。

 次第に私の胸は騒ぎだした。彼女は私の家の方へやって来るのだ。だが、やがて私は、ふしぎと、平静な気持ちに落着いた。彼女が今朝再び私を訪れてくることは、前から分っていたような思いがするし、私は彼女を迎いに行ったもののような思いもする。

 彼女は電車から降りて、私の家の方へ曲って行く。もう遠慮はいらず、私はすぐ後に随った。

 表の格子戸を開ける前、彼女はちらと振り向いた。私の顔をしげしげと、目ばたきもしないで眺めた。

 突然、私は涙ぐんだ。それを押し隠して言った。

「早く、室へ行きましょう。」

 室へ通ると、彼女はコートを脱ぎ、丁寧なお辞儀をした。

「どこへ行っていらしたの。」

 私は頬笑んだ。

「加津美の近くをぐるぐる歩いていたよ。すると、君の姿が見えたので、跡をつけて来たのさ。」

「そう。」

 彼女も頬笑んだ。眼のうちが凹んで、頬が蒼ざめている。

「とにかく、炬燵に火をいれよう。」

 寒くはなかったが、やはり炬燵の方がよかった。茶をのみ炬燵にもぐって、私は彼女の指先を握りしめた。少し冷りとするその指先が、私の心に釘のように刺さってきて、もうどうにも掌から離せなかった。

 彼女の眼を見入りながら、私は言った。

「出かけようか。」

「ええ。」

「遠くがいいね。」

 彼女は頷いた。

 それは、昨夜ではなく、前々からの、約束事だったらしい。そしてそれより外に、どうにも仕様がない感じだった。

 私たちは平静に簡潔に打ち合せをした。私にも少し金があり、彼女にもだいぶあった。手荷物は彼女の小型のスーツケース一つ。置手紙などすべて無用……。

 打ち合せがすむと、私たちは外に出て、軽く酒を飲み、楽しく食事をした。それから、彼女は加津美へ戻り、私は室に帰ってあちこち整理した。

 その晩、私たちは上野駅で落ち合って、汽車に乗った。ふしぎなことに、なにかこう嬉しくて、もう少しも孤独ではなかった。

底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5・戯曲)」未来社

   1966(昭和41)年1115日第1刷発行

初出:「世界春秋」

   1950(昭和25)年1

入力:tatsuki

校正:門田裕志、小林繁雄

2006年1230日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。