悲しい誤解
豊島与志雄



 陽が陰るように、胸に憂欝の気が立ち罩める時がある。はっきりした原因があるのではない。ごく些細なことが寄り集まって、雲のように、心の青空を蔽うのである。すると私は生気なく、しみじみと物思う気持ちになる。今朝ほどからそうだった。──昨夜、父の友人の相手をして、ウイスキーと焼酎をしたたか飲んだ。父はこの頃少し酒をひかえているし、友人はひどい飲み助なので、私が呼ばれて相手になったのである。それから、ぐっすり眠ったのだが、夜中に、ちょっと眼を覚した。二燭の小さな電燈の淡い光りで、室内は水の中の感じだ。その水中に、娘の小さな頭と妻のもじゃもじゃした毛髪とが並んでいる。なにかもの悲しい気がして、雨戸の方へ寝返りをすると、戸外はしんしんと、露のおりる気配で、こおろぎが一匹鳴いていた。ただの一匹だ。その鳴声に私は聞き入り、また眠った。

 そのことが、朝になって思い出された。まだアルコール分が頭脳の中に残ってる心地がして、煙草もまずく、食事もまずく、ぼんやり新聞の活字を眼で追いながら、夜中のこおろぎの鳴声を心に聞いた。

 食卓の上の幾つかの小皿のものを、妻は自分も食べ、娘にも食べさしていた。まだ三つの娘は箸がよく持てず、匙を使っている。馬鈴薯の煮たのを妻がつまんでやると、娘は頭を振った。

「じゃがいもよ。好きだったでしょう。もういやなの。」

「あっち、あっち。」

 娘は他の皿の方へ手を差し出している。

「じき倦きるのね。こんどは、おいしいおいもが来ますよ。おさつ、さつまいも、知ってますね。あ、それから、やきいも、綾ちゃんはまだ食べたことがないでしょう。おいしいのよ。やきいも屋が出来るそうだから、そうしたら、たくさん買ってあげましょうね。」

 ほかほかした焼芋のことを、妻は説明してやっていた。綾子に聞かせると共に、自分自身にも聞かせてるのである。今年は焼芋屋の商売が許可されると新聞で見たのだ。

 ふっと、私は涙を誘われそうになった。単なる感傷ではない。やきいも、やきいも。そんなつまらぬ物に、何かの楽しみを見出してるらしい妻が、そしてまた恐らく、同様な楽しみを見出すだろう綾子が、憐れなのだ。この母と娘の存在そのものが、憐れなのだ。縁につながる私自身にも、その憐れさがはね返ってくる。

 鞄の中に、小風呂敷包みの弁当をつっ込んで、私は電車までの道を急いだ。やきいも、やきいもだ。今日の弁当はお汁は出ませんよ、と妻は言ったが、何がお惣菜にはいっていることやら。古ぼけたその鞄だって、勤め人の体裁に持ってるだけで、大したものは中にはいっていなかった。

 愚にもつかない事柄だが、思いようではしみじみと身にしみる、それらのことが、私の憂欝の始まりだった。この種の憂欝に沈みこみ、重い頭を強いてもたげて、おずおずと眺めると、人の世が憐れに見え、人間の姿が憐れに見える。なにか重い荷を背負い、なにか重いくさりを引きずって、とぼとぼと歩いている、そうした感じが、我にも他人にも、誰にも、相通ずる。これを称して、ヒューメンな感情だなどと文学者は言うが、一介のサラリーマンにとっては、ヒューメンな感情ほど惨めなものはない。体力の消耗の故であろうか。精神力の消耗の故であろうか。

 身動きも出来ないほど込み合った電車で疲れ、会社の事務でまた疲れた。算用数字がやたらに並んでる紙片を、分類し系統立てて、書記の方へ回すのである。書記は黙々と謄写している。カーボン紙のインクがにじめば主任に叱られるので、ペン先きを機械のように動かしている。衝立の向うからは、タイプの音が断続的に聞えてくる。かすかな笑い声も時々するが、それだって、退屈しきってる笑い方だ。

 不思議な会社である。統計だとか、商事だとか、製作だとか、別々の会社になっているが、同じビルの中に雑居していて、大元は一つのものだ。代理販売部までもある。進駐軍関係の委託の仕事が、最近先方に接収されてしまったので、人員はだぶついている。午の休憩時間は、二時頃までだらだらと延びる。それもまた却って、こういうオフィスでは退屈の種だ。

 タイプの音が一番先に初まる。窓際に頬杖をついて、そのがちゃがちゃした音を聞いていると、私はふと、千葉に住んでる姉のことを思い出した。いつか訪れた時、姉は忙がしくミシンを踏んでいた。今年から小学校にあがった男の子があるのだ。その姉の癖まで、まざまざと見えてきた。

「敏夫さん、どう、お元気?」

 口許に大きな然しかすかな笑みを浮かべて、じっと私の方に眼を注ぐのである。

 瞼に浮かぶそういう姉の姿を、今、眺めてみると、しみじみと胸にこたえるものがあって、なにか淋しく頼りないものに思われるのだ。主人は学者であるが、特別な著述もなくて貧しく、これから先、どういう風に暮してゆくのであろうか。病気にだって罹るかも知れない。久子という名前まで、なにか儚ない感じがする。彼女の存在が既に淋しく頼りないとすれば、子供だってそうだ。あの子の今日の弁当のお惣菜には、何がはいっていたのであろうか。

「田代君、なにをにやにやしてるんだい。」

 笠原がふいに声をかけたので、私はぴくりとした。次に、彼の言葉の意味が通じると、私は狼狽した。にやにやなんかしていなかったはずだ。人間の存在の頼りなさ、血のつながりの悲しさ、そういうことをしみじみ味わっていたのだ。それから、姉の子の弁当のお惣菜のこと。私の今日の弁当には、蒲鉾にすずめ焼がはいっており、それは昨夜の酒の肴の残りものではあるが、うまかった。もしも、そのささやかな一時の幸福について、無意識にも私が笑みを浮かべていたとすれば、何たることだろう。

 私は眉をしかめて振り向いた。そして、こんどは意識して、憂欝な笑みを浮かべた。

「原子爆弾なんか、どうだっていいさ。僕には何の関係もない。」

 私はぼんやり、原子爆弾の話を笠原たちがしているのを、耳に入れていた。ソヴィエトが原子爆弾を所有していることが世界に公表され、国際政局に新たな波紋が描かれてきた、そういう新聞記事が一般の話題になってる時だ。然し誰の意見も、新聞記事の埓外には出ず、つまらぬ臆測をこね廻してるに過ぎなかった。そして不思議なことには、原子爆弾を怖れながらも、戦争を望むかのような気分が漂っていたのである。日本は戦争の当事者ではないから、もう原子爆弾は落されない、という想定のもとに、戦争は起るかも知れないと冷淡に忖度してるのである。平和はどこへ行ったのであろうか。

「それでも、戦争はどうなんだい。」と笠原は言う。

「戦争だって、僕には何の関係もないさ。」

 私の憂欝は皮肉になり、私はもうそれきり口を利かず、自分のデスクに戻った。

 横手の席が空いていた。堀田の席だ。専務に呼ばれたきり、長く戻って来なかった。おかしな男である。事務が粗漏でそして怠慢、というのが彼に対する重役連中の一致した意見だ。しばしば叱責されたが、いつも彼は平然としていた。朝の出社に遅れることはあっても、夕方の帰りを急ぐことはなかった。口数が少く、ものぐさで、ひとを喰ったようなところがある。

 その堀田が、ふだんから蒼白い顔を、なおすこし蒼ざめさして、席に戻って来た。卓上に肱をつき、へんな苦笑を浮かべて、煙草を吹かした。

「どうしたんだい。」出しゃ張りの笠原が真先に尋ねた。

「なあに、円満辞職の勧告だよ。」そして彼はまた苦笑した。

 その苦笑が、実に変梃なのだ。私はそのような苦笑をめったに見たことがない。彼は髪の毛を短かめに刈り込み、強度の近眼のため目玉が飛び出してるように見え、頬は蒼白いが肉附が厚ぼったく、頣は円く短い。その頬に、ゆらゆらと震えるような皺を軽く刻み、飛び出てる目玉を据えたまま、一文字に結んだ口を長く引き伸し、鼻下をへんにくしゃくしゃにして、苦笑したのである。そのまま待ち続けても、笑い出しもすまいし、泣き出しもすまいし、ただ屈辱に甘んじてるだけの、卑屈な印象を与える。その苦笑はすぐに消えたが、私の心に暗い影を投げ入れた。

 堀田は煙草を吹かしている。誰も暫く口を利かなかった。やがて笠原がまた尋ねた。

「君は、それを承知したのかい。」

 堀田は笠原の方を向かず、窓の方を見ながら答えた。

「饒舌るだけ饒舌らせて、最後に承知してやった。どうせ、僕が首切られることは分っている。退職金でも貰って、職場転換だな。」

 馘首流行の時代だ。政府の方でも人員整理。民間でも人員整理。そしてこの会社でも既にそれに着手しているし、われわれの室では堀田が槍玉にあがることは、暗黙のうちに分っていた。従業員組合というものが出来てはいるが、規約などもいい加減なもので、この会社のような形体では、経営者側に対しては全然無力なのだ。その上先方には、他の姉妹会社へ転任させて苦境に立たせるという手段もある。この職場転換には、一ヶ月ほど前、同僚の原野がすっかり困却した例がある。堀田はいま、職場転換だとうまいことを言った。

 だが、彼はこれからどうするつもりなのであろうか。退職金とて、五万かせいぜい十万に過ぎないだろう。そんな金で何が出来るものか。彼には妻と二人の子供がある。財産はないらしい。或は前々から何等かの心算があったのかも知れないが、それとて覚束ないものではあるまいか。すべてが覚束ないのだ。もう書類の整理などを彼は始めているが、その彼を、彼の存在を、横目でちらと眺めてみて、覚束ないと私は感じた。

 室全体の雰囲気が、鬱陶しく、そしてもの悲しいのだ。誰の仕業か、窓際の小卓に野菊の一鉢が置いてある。萎れかかった薄紅い花群に、蝿が二つ三つじっととまっている。花はやがて枯れてゆくだろう。蝿はやがて飛べなくなってしまうだろう。

 私は仕事を投げ出して、煙草を吹かした。言い合わしたように、皆が煙草を吹かしていた。そのくせ、誰も黙っていて、互に顔をそむけてるのである。

 一枚の通牒が廻ってきた。主任梅田の署名で、読後に各自サインをしてくれとの注意がしてある。

 ──今日堀田君は、専務から円満辞職を勧告されて、承諾したそうである。今後も、斯かる事態はあり得ることと予想される。就ては、われわれはわれわれのポストを強化するため、明日正午から一時までの休憩時間に、われわれだけの懇談会を開くことにしたい。もれなく出席されるよう希望する。なお、この際、円満辞職を聊かなりとも望まれる向は、考慮の上、明日午前中、小生まで内々申出でを願う。斯くすることによって、不本意なる円満辞職の強制を無くし、各自安心して職務に勉励出来るようにしたいのである。懇談会の儀、お忘れなきよう。以上。

 おかしな通牒だ。これに、堀田もサインして、あの卑屈な苦笑を浮かべたのを、私はちらと見て、眼を外らした。腹が立つよりも寧ろ、情けなかった。

 時間が実にのろのろたってゆく。退出時刻になると、私は待ちかまえていて真先に立ち上った。

 往来に出て、斜陽を浴び、初めて大きく息がつけた。ところが、笠原が私を追っかけてきた。

「ちょっと、一杯つき合わないか。」

 私は眉をしかめて、黙っていた。

「焼酎にしようか、ビールにしようか。金は僕が持ってるよ。」

 彼はいつも奇妙に金を持ってるのである。独りでビヤホールにきめて、途中でウイスキーの小瓶を買った。ジョッキーにウイスキーをたらして飲むけちなやり方を、彼は却って得意がってるのだ。

 秋の凉気に、ビヤホールはすいていた。

「君はどう思う、今日の梅田の通牒を。」

 彼は腹立たしげにビールをあおった。私の無関心な態度に、彼はなおいきり立ったようだ。

「懇談会とは何だい。なぜ組合会議としないのか。円満辞職を聊かなりとも……ばかな、この失業時代に、聊かなりとも望む奴があるものか。何のことはない、退職希望者を無理にも拵え出して、人員整理に協力しようというわけだ。あいつ一人の考えじゃないね。専務と共謀の芝居に違いない。」

 それから彼はいろいろなことを饒舌った。組合運動などと言っても、オフィスの中に幽閉されてるわれわれは、まるで虚勢されてるのと同じで、何にも出来はしない。会社全体の実情だって、われわれには何にも分らない。会社全体が赤字かどうかも疑問で、現に、三階の広間は、壁が新らしく塗りかえられ、豪奢な椅子卓子が据えつけられて、会社が新たに何を目論でるのか、われわれには見当もつかない。われわれには……われわれには……。

 彼の話を聞いていると、われわれの連発ばかりで、それが哀訴するように響き、へんにもの悲しくなる。愚痴ではなく、憤慨してるのだが、それならば、彼自身、いったいどう動くつもりなのか。

「明日の懇談会には、僕たちで、爆弾を投じてやろうじゃないか。」

 僕たち……やはり、単数の僕ではなかった。力は団結から出て来るものだが、団結は個々の意志に依るものでなければならない。その根本のものが、私たちには欠けてるようだった。ただ、彼は朗かであり、私は憂鬱だ。憂鬱の底から眺めると、彼の朗かさも人形のそれのようで、同情の念も湧かず、それがますます私を淋しくさせた。

「堀田のやつ、けちな退職金なんかで、どうするつもりかなあ。」

 朗かな笠原には、堀田に同情する余裕があったのだ。

「やきいも屋ぐらい出来るさ。」と私は言った。

「なに、やきいも……。」

「やきいも屋だ、やきいも屋だ。」

 淋しさが毒舌になってゆき、その毒舌が、しみじみと自分の心にしみた。


 ジョッキーを何杯か、そしてウイスキーの小瓶も空になり、私は笠原と別れた。

 暗い夜、掘割のふちを歩いていると、空の星が水面に降ってくるようで、なにか怯えた気持ちになる。

 その都心近くから、国鉄電車に乗り、途中で私鉄電車に乗り換えて、そして家まで、だいぶ時間がかかるのだ。

 乗換え駅の裏口のそばに、よい日本酒を安直に飲ませる家がある。盛りきりのコップでも、銚子に盃でも、どちらでもよい。宵のうちは客が込むが、遅くなると閑散だ。私は中途半端に飲んだ時とか、なにかやりきれない気持ちの時とか、そこに立寄る癖がついていた。

 ふらりと飛びこむと、客は少なかった。

「いらっしゃい。今晩、遅いのね。」

 みさ子はにこりともしないが、声の調子は愛想がいい。

「やあ、しばらく。」

「あら、しばらくだって……もう酔ってらっしゃるの。」

 考えてみると、一昨日も、その前日も、ちょっと寄ったのだった。だが、どうも、しばらくというのが実感なのだ。すべてのことが、遠くにあるように思われた。みさ子だって、さよ子だって、遠くに見える。憂鬱とは、自分と外界とを距てる霧だ。

 みさ子は相変らず、そうだ、一昨日と相変らず、鼻の高い細長い顔で、睫毛の影の濃い眼眸をして、背が高く痩せている。戦争未亡人でこの家の中年のお上さんの片腕となっている。笑顔はあまり見せないが、声は調子がいい。客たちからはみさ子さんと呼ばれる。紫を主調にした縞模様の着物だ。

 さよ子は相変らず、丸い顔で、よく肥っていて、いつもにこにこしている。少し近眼らしい眼眸だが、眼鏡はかけていない。戦争中、埼玉県下から徴用女工として東京に出て来て、そのまま居ついて女給になったのである。客たちからはさよちゃんと呼ばれる。赤を主調にした花模様の着物だ。

 彼女たちを珍しく見るような気持で眺めながら、私はコップの酒をすすった。そして心では、他のものを眺めていた。──今頃、綾子はどうしていることだろうか。妻はどうしていることだろうか。姉はどうしているだろうか。姉の子はどうしているだろうか。堀田はあれからどうしただろうか。笠原はまだどこかで飲んでるだろうか。それから誰それは……。誰それは……。それらの影像が、霧を通してのように、現われては消え、消えては現われる。不思議と、父の姿も姉の家の義母の姿もすべて老人たちの姿は心に写らない。老人と若い者とは縁が遠いのであろうか。いや、老人はなにか生活的にしっかり根を下しているのだ。若い人々こそ、将来の長い生涯が不安定で、頼りなく憐れなのだ。若いサラリーマンは憐れだ。生活的に自立していない人々が、世の中になくならないものか。

 ちきしょう。私はコップをスタンドの上にとんと叩いた。

「もう一杯。」

「そんなに……悪酔いしますよ。お盃になさいよ。」

 みさ子が言い、さよ子が用をして、銚子と盃を私のところへ出し、にこっと笑った。

 私に思いやりを寄せてるのだ。すると、私も憐れなのであろうか。ばかな、彼女たちの方こそ憐れじゃないか。戦争未亡人だの、女工上りだの、いくら取り澄したって、こんなところに働いていて、どこに拠りどころが、頼りどころがあるのか。

「ねえ、みさ子さん、さよちゃんもよ、こんなところやめちまえよ。」

「あら、どうして?」

「いいことを教えてやろう。やきいも屋を初めるんだ。」

「やきいも屋……。」

 みさ子は珍らしく笑った。

「今年は、さつまいもが沢山出来てるんだぜ。あり余るほど出来てる。そこで、やきいも屋も初めるんだ。ほかほかの焼きたて……面白いじゃないか。」

「そんなもの、買う人があるでしょうか。」

 みさ子はもう上の空の言葉だ。分らないのである。

「誰でも買うさ。珍らしいからね。おいしく焼いて、子供たちに安く売ってやれよ。女の子や男の子、小学校の生徒たちに、売ってやれよ。女学生にも売ってやれよ。若いお上さん、若い奥さん、みんなに売ってやれよ。そこから、人生の幸福が初まるんだ。」

 私は悲しくなって、盃の上に顔を伏せた。

「まあ、たいへんな幸福ね。」

「そうさ。やきいもから幸福が初まる。だから僕は悲しいんだ。こんな、酒場なんかやめちまえ。やきいも屋になるんだ。ほかほかの焼きたて、幸福そのものじゃないか。」

 みさ子は気を入れてじっと私を眺めた。私は顔が挙げられない気持ちだ。

「やきいもと、お酒と、なにか関係がありますの。」

「関係なんかあるもんか。酒なんてものは、酒なんて……飲むやつはみんなばかだ。幸福からの落伍者だ。そして、思い上りだ。やきいも……ただやきいもさ。」

 私は一息に盃を干して、あとを銚子からつぐと、酒は溢れて、スタンドの上を流れ走った。その行方を見ていると、そこに、薄茶色のしなやかな革の手袋があって、それに酒が少し触れた。さよ子が駆け寄って手袋の露を払い、スタンドを布巾で拭いた。

 今頃、十月にはいったばかりなのに、手袋はおかしい。手袋を受け取った男を見ると、いつはいって来たのか、黒のダブルの上衣に、赤っぽいネクタイをしめ、色眼鏡をかけた、長髪の若者なのだ。私をじろじろ眺めた。

「焼芋の先生、ひとの持ち物をよごしておいて、何か、挨拶がありそうなもんじゃねえか。」

 まだ酔ってはいないらしい。

「まあ、酒でも飲もうよ。」

「何を。焼芋の肴で酒が飲めるか、挨拶はこうするもんだ。」

 すばらしい早業だった。私は横面に平手の一撃を受けて、椅子から転げ落ち、尻もちをついた。頬に音はしたようだが、痛みはあまり感じなかった。相手が心して殴ったのであろうか。とっさにそのことを思って、私はとても惨めになった。よろよろと立ち上り、スタンドにつかまって、自分でも不敵なと思えるほどの卑屈な微笑を浮かべ、彼の方をじいっと見つめた。彼は一瞥しただけで、私から眼を外らした。みさ子がスタンド越しに彼の腕を捉えていたが、その手を彼は静かにはずし、紙幣を二枚投げ出し、私の方へはもう目もくれずに、悠々と出て行った。

「お怪我はなさらなかったの。あのひと、怖いのよ。」

 みさ子が囁くように言ったのへ、私はまた卑屈な微笑を返した。

「一緒に飲みたかったんだ。あの男の分も飲んでやるぞ。」

 虚勢を張るほど、ますます惨めになるばかりだ。中年の二人連れの客が、素知らぬ顔をして何か話しこんでいた。

 私は腰がふらついて落着けなかった。さよ子が手をかしてくれて、横手の三畳の小室に私はあがった。


 時間が途切れ途切れになったような、明滅する意識のなかで、私はさきほどの、自分の卑屈な微笑を自分で味っていた。今になってみると、もう惨めでもなんでもなく、却って安らかな和らぎさえも覚えるのである。憂鬱の底へと沈み沈み、落着くところへ落着いた感じだ。

 それと共に、ふっと、堀田の卑屈な苦笑が浮んでくる。それが、私の微笑と重なり合ったりずれたりする。いずれにしても、二つは確かに違っていた。彼のは苦笑であった。私のは微笑であった。どこにその違いはあるのか。いくら詮索しても、智慧の輪解きのようなもので、手掛りはない。

 下らないことだ。酔った頭脳の戯れだ。そう気がついて、寝そべってたのを、むっくり起き上ってみた。

 小さな食卓の上に、銚子と盃があり、海苔巻きの鮨を盛った中皿が一つあった。酒の方は分るが、鮨はどうしたのであろう。私が註文したのだろうか。黒く光ってる海苔の肌が、たまらなく淋しく、私は盃を取り上げた。

 突然、びくっとしたほど突然、さよ子が音もなくはいって来た。番茶の土瓶を持って来たのだ。

「お酒はもう毒よ。お鮨をあがるといいわ。」

 茶碗に、湯気のたつ熱い茶をついでくれた。悲しさが突発して、私は身内が震えた。肥った彼女ににじり寄って、その膝に顔を伏せ、更に寄り縋って、その胸に顔を埋めた。静かに坐ってる彼女の肉体が、ぴくりぴくりと動き、それから温く私を包みこんでくれた。

「僕は悲しいんだよ。泣きたいんだよ。」

 言葉と一緒に、ほんとに涙が出て来た。

「君はだれだい。あ、さよちゃんか。」

 私はまた泣いた。

「ね、分ってくれるね。僕は淋しく悲しいんだ。人間てものが、悲しいんだ。胸に何か、愛情みたいなものが、いっぱいたまってきて、それを誰かに訴えたいんだ。」

「いや、大きな声をなすっちゃいやよ。」

「うん、分ってる、分ってる。」

 私は彼女になお縋りついてゆく。

「誰かに訴えたいんだ。この胸いっぱいの愛情を、誰かに訴えたいんだ。でも、誰も彼も、みんな遠くにいて、僕は一人ぽっちだ。君は……あ、さよちゃんか。分ってくれるね。この気持ち、分ってくれるね。」

「また、大きな声をなすっちゃいや。」

 私は声をひそめて言う。

「君は温かいね。ほんとに温かいよ。僕も君のように温かになりたい。僕を温めてくれ、もっと温めてくれよ。離しちゃいけないよ。僕はもう君を離さないよ。」

 私は彼女に縋りつき、その胴を、腰を、抱きしめ、その胸に顔を埋めて、涙を流した。彼女は私の上にかぶさるようにして、じっとしている。その胸の動悸が聞え、呼吸の熱さが感ぜられる。だが私自身は動悸も消えてゆき、呼吸も消えてゆくようで、ただ涙だけが熱いのだ。私は彼女の袖口から手を差し入れて、腕の肌をさぐった。

「冷たい手ね。」

「そうだ、手も冷たいし、体も冷たいんだ。君は温かいよ。僕を温めてくれ。」

 彼女に縋りついたまま、気が遠くなるようだった。

「さよちゃん。」

 みさ子の澄みきった声だ。私は我に返って、身を起した。さよ子は私の手をじっと握って、立って行った。なにか駭然とした思いで、私は酒を飲んだ。さよ子はすぐ戻ってきて、電車の時間のことを言う。そうだった、終電車に後れたら私は帰宅出来ないのだ。夢から覚めたように私は気がはっきりして、靴をはいた。

 駅のフォームに駆け上ると、急に酔いがぶり返して、ふらふらした。電車の時刻までにはまだだいぶ間があった。フォームの先端まで行き、屈みこんで息をついた。

 高架線になっていて、レールがそこの地面と共に宙に浮き上った感じである。赤や青の信号燈が点在して、大きな星が地上に降りてきたかのようである。それから先は空漠たる闇夜だ。見つめていると、巨大な物象が浮び上る。それが、近くまで迫ってきては、煙のように消える。偉大な車輪か、壮大な歯車か、広大なベルトか、強力なモーターか、飛行機のプロペラか、いやそれらのすべてだ。逞ましい速度で回転しながら、しかも音は立てず、ずずっと押し寄せてきては、跡形もなく消えてゆく……。眩暈に似ている。

「田代さん。」

 たしかに声がして、振り向くと、さよ子が立っていた。幻影ではない。

「どうしたんだい。」

「あぶないから、ついて来たのよ。」

 そんなはずはないのだが、然し、眼の前に立っているのだ。

 何とも口が利けなかった。

 彼女は私のそばに、寄り添って屈み、私の肩に身をもたせかけた。

「明日にでも、また来てね。今晩はだめだけれど……いつだっていいわ。ね、どこかに連れていって。旅行したいわ。」

 いったい、何を言ってるのか。何を考えてるのか。私は薄暗い中に眼を見張って、彼女の方を顧みると、彼女はにこりともせず、真剣な面持ちだ。

「でも、悪いかしら。あなたには、奥さまもあるのでしょう。あたしはかまわないけれど……。いいわ、あなたを信じます。あたしも信じてね。」

 何ということだろう。私は自分をも、彼女をも、殴りつけ踏みにじりたかった。

 彼女の体温が心に蘇ってきた。然し、それは誰の体温でもよかったのだ。彼女の体温とは限らないのだった。ただ然し、孤愁の底に沈んでる心の思いを打ち明けるのには、彼女が最も恰好な相手だったろう。あのようなことを、誰に向ってよく言えたであろうか。妻にも、みさ子にも、姉にも、男性には勿論、会社のタイピストにも、そのへんのパンパンにも、言えるものではない。言えばばからしくなるばかりだ。それを、さよ子には泣きながら言えた。酔いつぶれていたから、なんかではない。やはり、彼女の体温が誰のものでもなかったと同じく、彼女は私にとって誰でもなかったのであろう。誰でもない、それはいったい何を意味するのか。私がキス一つ求めなかったのは、何を意味するのか。彼女は私にとって、ただ人間だったに過ぎない。

 それだからと言って、彼女にとっては、私はただ人間だけではなかった。田代敏夫という一個の男だったのだ。

 私は立ち上った。

「大丈夫だよ。心配しないでもいい。」

 そして彼女の手を握って打ち振ってやったが、その手もすぐに離した。

 ばかな、なにが大丈夫なのか。私の気持ち、彼女に話したって到底理解されまい。

 わーっと叫びたいのを押えて、大きく息を吐いた。何度も息を吐いた。自分ながら酒くさい。鞄ごと両手を大きく打ち振り、大股に歩き廻った。

 フォームに電車が来た。発車間際に私は飛び乗って、窓硝子越しに、さよ子を見た。そこに佇んでこちらを見上げてる丸い顔は、まるで表情を忘れたもののようで、ただ仄白く浮き出していた。

 電車はわりにすいていた。私は腰掛けに身を落して、両腕を組み顔を伏せた。

 誤解、ということで私は責を遁れようとは思わない。然し、誤解とすれば、なんと悲しい誤解だろう。どうしたら解決がつけられるか。

 私の憂鬱は深まるばかりだ。これは人間そのものの憂鬱のようだ。これを追い払うには、人間を廃棄するか、それとも、それとも……。あ、駅のフォームで見た闇の中の巨大な幻影、あんなものに乗っかって、自分を新たに造り直すことだ。

 考えてるうちに、私は酒くさい欠伸が出て、自分でも呆れた。けれど、それさえ普通のと違って、憂鬱な欠伸だった。極りがわるく、情けなく、自分で自分が頼りなかった。

 電車を降りて、私は真直に家へ帰らず、その辺を歩き回り、野原につっ伏して泣いた。たしかに今日はどうかしている。しかしこんな時こそ、心がむき出しになるのだ。私は自分のむきだしな心が痛々しかった。

底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5・戯曲)」未来社

   1966(昭和41)年1115日第1刷発行

初出:「女性改造」

   1949(昭和24)年11

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:門田裕志、小林繁雄

2006年1116日作成

青空文庫作成ファイル:

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