或る作家の厄日
豊島与志雄



 準備は出来た。彼女が来るのを待つばかりだ。御馳走が少し足りないようだが、この場合、いろんな物をごてごて並べ立てるのも、却ってさもしい。万事すっきりと、趣味を守ることだ。腹にたまるようなものは避けたがよい。肉類はだいたい下品だ。もし腹がへったら、白いパンにキャビア……パンは白いにきまってる筈だが、その白いパンがなかなか手にはいらない悲しい時代だ。其他、おれはずいぶん配慮した。第一、女中やさよ子の手をかりないで、おれ一人で、いや、彼女と二人で、処理したいのだ。鉢に盛った鶏卵が少し気になるが、彼女には、卵の黄身だけをぬき出してすする癖があるので、その癖を大目に見てもよかろう。酒は豊富にある。日本酒をはじめ、葡萄酒、ジン、ウイスキー、炭酸水も用意してある。

「今日は、たぶん、徹夜の仕事になるだろうから、食べ物は書斎に並べておいてくれ。夕御飯はいらん。」

 そのように、女中に言っておいた。つまり、何の打合せもなく、偶然、相馬多加代さんが訪れてきた、という工合にしたいのだ。それまでは、さし迫った仕事があるからとの口実で、誰が来ても玄関で立ち話だけにし、いよいよ彼女が来たら、居留守をつかって誰にも逢わないことにする。あとは、二人きりの時間であり、二人きりの世界だ。

 どういうことになるか、それだけは見当がつかない。

「あなたの書斎が見たい。あなたの書斎で、お酒に酔いたい。」

 抱擁のなかで、彼女は言った。真剣な語気だった。

 実は、何の特長もない、むしろ見すぼらしい書斎なのだ。然し、画家のアトリエとか、小説家の書斎など、他人には、神聖な場所とも思えるらしい。当人にとっても、時としてはそうなんだから、もっともなことだ。あなたの書斎が見たいとは、三十五歳にもなる人妻の、単なるロマンチックな気持ちからではあるまい。その上、いや最も肝腎なのは、情愛の問題だ。おれだって、彼女の寝室を覗きたいし、彼女の寝室で、お酒に酔ってみたい。彼女は、おれの書斎で……。

 気兼ねのいらない安全な場所がほしかった。相馬邸は人目が多い。旅館とか待合は彼女が好まない。いつでも自由に逢える場所はないものか。おれの方では、スキャンダルなんかは一向に恐れない。彼女の方でも、世間体をそうびくびくしてるわけではない。老いらくの恋で人妻を奪った者さえある。けれど、二人の仲は秘密にしておく必要がある。

 原因は、彼女の主人の吝嗇にある。彼は元陸軍将校で、相当な財産を持っていた上に、終戦後、旧部下の者数名と商事会社を作り、ヤミ物資の売買をして、更に財産をふやした。放蕩はするし、情婦もあるらしいし、妻への愛着は少いようだ。その代り、家庭の経済には監督厳重で、嘗て、妻の品行に聊かの疑惑を懐いた時、嫉妬はせず、その代り、金を殆んど与えなかった、そういうことを、彼女は恐怖している。

 彼女は、映画はあまり見ないが、新旧とも芝居が好きだし、短歌会などにはいって、へたな歌をこねまわし、ダンスはしないけれど、うまいコーヒーやケーキを好み、アルコール類も可なり嗜み、日常が贅沢で派手なのだ。貧乏華族の娘だったとかで、どこかおおまかだ。そういうところに実は、家庭における主人の吝嗇が胚胎してるのかも知れない。彼女はずいぶん金がかかる女のようだ。

「無一文になったら、わたし、死んでしまうかも知れない。」

 冗談でなく彼女は言う。だから、おれとの仲が主人にばれて、小遣銭が全く封じられたら、それは彼女にとって生きながらの死を意味するだろう。だからといって、主人の財産の中から、自由になる金を予めごまかしておくだけの才覚もない。いざとなったら、おれのところへ飛び込んで来て、同棲生活をするという、それだけの勇気もないし、てんで、そのようなこと考えてもみないらしい。彼女は旅を億劫がり、結婚後、主人の任地へも行ったことがなく、いつも東京の邸宅に暮していたらしく、避暑とか避寒とかの旅もしない。おれのところへ飛び込んで来るなどということは、旅行以上の冒険なのだ。

 だが、このおれにしても、物ぐさなことにかけては、彼女と変りない。彼女との同棲生活など、おれも考えたことはない。嘗て妻と喧嘩別れをし、正式に離別した時は、むしろさっぱりした気持ちだった。家の中で一定の地位を持ち権力を持つ女性との生活は、一度だけでもう沢山だ。身辺の多少の不便さなどは、考えようでどうにでもなる。現に、女中と本間さよ子とがいるだけで、何の不便も感じない。

 然し、貧乏なのは、これは困る。金があればありったけ、いつも酒を飲んでしまうのが、悪い癖だ。あとは後悔の連続である。そしてこの後悔という奴、霧のようなもので、たとえあたり一面に立ち罩めようと、再び金が出来れば、音もなく色香もなく消え失せてしまい、何等の痕跡も残さない。

 金がなければ、つまり、自由に使える金がなければ、おれだって、生きながら死んでるのと同じだ。彼女の気持がよく分る。もしも、このようなことを公言する者があったら、今の時勢に何を言うかと、おれはぶん殴ってやるかも知れないが、然し、おれと彼女だけは別だ。別だとは、他人でないということだ。

 この頃、全くの金づまりで困る。一般にそのようだが、殊に出版界は甚しく不景気で、印税は払ってくれず、原稿料さえ後れがちで、前借などは殆んどだめだ。出版界以外からの借金も、ちょっと方策がつかない。それでも、相馬多加代との交際で、おれには余計な金がいる。昨日は、見当をつけて、或る出版社を訪れ、印税の残りを請求してみた。来月の十日まで待ってほしいと、社長からの返事だ。全く現金がないらしい。次に、或る雑誌社を訪れて、原稿料の前借を申し込んでみた。原稿執筆の約束があるのだ。編輯長はひどく当惑そうな顔をして、とにかく、原稿を、たとえ完結しないままでもよいから、持って来て頂けまいかと、逆な頼みだ。原稿さえ頂いたら、社長を説きつけて、御入用の金だけは、責任を以て直ちに出させるとのこと。その好意で、まずまずおれは助かった思いがした。

 ところで、問題は、その原稿だ。暑気のせいもあり、過労のせいもあって、どうも仕事がうまくいかない。仕事が運ばないと、なおさら酒を飲むし、飲んだあとは心身ともに虚脱的になり、仕事はなお出来にくい。いたちごっこで、自分を訶んでるようなものだ。焼酎、日本酒、安ウイスキー、その混合の毒にもあたり気味だし、頭脳を明晰にする筈の薬剤の作用も、重複すれば却って頭を濁らすらしい。だが、これも一時のことだと、自信はある。

 それはとにかく、さし迫って原稿を書かなければならない。而も、時間の余裕はない。相馬多加代との約束は、何よりも重大だ。

 人生、窮すれば通ずで、おれも窮余の策を発見した。ノートにめちゃくちゃに書きつけた小説断片があるのを、思い出したのである。他日何かに利用するつもりのなぐり書きで、単独の使い物にはならない。然し、アプレ・ゲールのデフォルマシオンとして、案外、読者の眼をごまかせるかも知れない。内容が古くさいのは何とも致し方ないが、これとても、一種の皮肉として通用しないとも限らない。一人の男をめぐって、その細君と馴染みの芸者との間の、とんちんかんな変梃ないきさつの事実メモだ。

 小説家たる者は、平素の心掛けや勉強が大切だ。何が役に立つか分らない。おれはそのノートを原稿用紙に清書することを、本間さよ子にやらせた。自分ではさすがにばかばかしくて出来ないし、時間もない。

 さよ子は、まあ謂わば文学志望者で、おれの家にいて、家事の手伝いをしたり、原稿や書信の整理をしたりしている。前には或る出版社に勤めていたが、のろまで役に立たなくて持て余されているのを、おれの方に引き受けたのだ。のろまで役に立たないというのが、おれの気に入った。家庭においては、女のきれ者はすべて禁物だ。

 ノートの清書を頼んで、おれは言った。

「君の勉強になることだから、一生懸命にやってごらん。清書をするという気持ちではなく、半ばは自分で創作をするという気持ちで、足りないと思うところは自由に書き足すんだよ。」

 さよ子の態度にも眼の色にも、神妙な意気込みと歓びとが見えた。それが却っておれには不安になった。暫く考えてるうち、大事なことを思い当った。彼女は芸者の言葉など恐らく聞いたこともあるまい。芸者をダンサーに変えたらどうか。ダンサーの言葉なら、彼女がよく識ってる女編輯者の言葉と、大差なくごまかせるだろう。それの方が、作品もモダーンになる。つまり、彼女の無知が却って作品をよくするのだ。──この最後の点は、おれも黙っていたが、芸者をダンサーに変えることについて、懇々と注意を与えてやった。

 さよ子はあちらの室で、熱心に原稿を書いている。それが進捗するに随って、おれの懐にはそれだけ原稿料がころがり込むというわけだ。

 分らない箇所があると、彼女はおれのところへ相談に来る。おれは懇切に教えてやる。それから、尋ねてみる。

「どうだい、この作品、面白いかい。」

「たいへん面白いんですけれど……。」

「けれど……なんだい。」

 彼女は額の汗をハンカチで拭いて、かしこまっている。

「遠慮なく言ってごらん。どこかに発表するというものじゃない。ただ、君の勉強のために清書さしてるんだ。いつも言う通り、物を書くということは、物をはっきり考えることだ。考えることと書くこととを、一緒のものにするのさ。そこで、この作品は、どうなんだい。」

「少し、やさしすぎるような気がしますけれど……。」

「けれど……それから。」

「わたくしにはたいへん勉強になります。」

 相当にうまいことを言う。やさしすぎたり、彼女の勉強になったり、する筈だ。メモに過ぎず、粗描に過ぎないのだ。

「君の勉強になるなら、結構だ。然しね、作品はやさしいほどいいんだ。作家というものは、大衆に奉仕する精神が大切だ。独りよがりは最もいけない。深遠なことを平易に表現する、これが最高の技術だ。」

 彼女は黙って謹聴している。もういいと言うまで、そこに坐りこんでるかも知れない。気が利かないんだ。

「もういい。」とおれは言う。

 それからおれは一人で、酒を飲みはじめた。電熱器を持ちこんで、日本酒の燗をするのだ。考えることも仕事の一種だと、さよ子にも女中にもかねがね言い聞かしてある。こちらから呼ばなければ、誰もサーヴィスに来ない。よく訓練がとどいている。

 相馬多加代は、いったいどうしたのであろうか。いくら待ってもやって来ない。午後、夕方までには、必ず、と堅い約束だった。もう薄暗くなりかけている。


 多加代がおれの書斎にやってくる、そして二人で酔っ払って、それから……その先になにか、宿命的な決定的なものが控えているのだ。おれはそれを肯定し、それを受け容れよう、拒否はすべて卑怯だ。

 おれと同じく、彼女も拒否を知らない。

「自分で自分がわからないわ。」

 彼女は独語のように呟いた。二人がどうしてこんなことになったか、それを指すのだ。然し、理由のないところにこそ、真の愛情があるのだ。

 おれたちは、極めて自然に、初めからそうきめられていたかのように、手を執りあい、互に寄り添い、唇を接した。どうしてそうなったか分らないのだ。相互の牽引力とでも言おうか。いささかの摩擦もなかった。

 おれの方には、骨もあり、筋もあり、爪もあり、角ばったところもある。だが彼女には、そういうものが一切ない。肥満しすぎてるのでもなく、贅肉が多すぎるのでもないが、全体に丸っこいのだ。顔立ちはふっくらしているし、首が短くて肩が丸く、腰つきが丸っこく、踝も丸っこく、乳房は充実しきった球形をしている。その姿態にふさわしく、言葉つきも感情の動きもすべて丸っこく、ふうわりしている。おれが飛びかかっていっても暴れても、どこにも手掛りはなく、真綿の中に転り込んだような工合だ。そしてその真綿全体に、おれは心身とも素っ裸のまま包みこまれてしまう。諦めて、眼をつぶって、甘ったれるより外はない。四十五歳のこのおれが、彼女に対しては、ただ甘ったれるだけの能しかないのだ。

 然し、今日は、いや今夜こそは、おれの方で、彼女を存分に甘えさしてやろう。身を以て、心を以て、情愛を以て、甘ったれるということがどんなことだか、彼女に思い知らしてやらなければならない。

 あとは運命に任せる。生きるか死ぬか、決定的な瞬間が、現出するだろう。

 おれの精神は張り切り、耳はとぎ澄されている。だが、何の気配もない。彼女はまだ来ない。あれほど堅い約束を、どうしたのであろうか。

「きっと、きっと、来ますか。」

「ええ。わたしの方から言い出したことですもの。」

「確かですね。」

 彼女は頷き、柔かな手をおれに差し出し、おれの眼をじっと見つめて、微笑した。その微笑の中におれは、なにか不吉なものを感じたように、今になって思い出すのだが、ああいう場合の不吉な色は、却って、底に決意を含んでるからではなかったろうか。

 彼女は来るだろう。おれは夜通し、明日までも明後日までも、待とう。

 電話……近くの家にあるが、電話をかけてみることなどは下らん。煙草はまずい。酒の方がいい。電熱器の湯はすぐにさめるし、燗をするのも面倒だから、ドライ・ジンの口をあけて、ゆっくりと喉に流しこむ。

 戸外に虫の声がする。

「どうした。」

 突然の人声だ。振り向くと、襖を少し開いて、あやめ模様の白っぽい着物の女が坐っている。

「先生。」

 か細い声で呼ぶ。虚を突かれて、おれはぞっと総毛立ち、顔から血が引いたのを自分でも感じた。

「先生。」

 さよ子だった。

「お食事は、どう致しましょう。」

 つめた息を吸って、平静に戻るのに、ちと時間がかかった。

「食事はいらんと言っておいたんだが、君たちは。」

「お待ちしておりました。」

「ばかだな。早くすますんだよ。」

 へんに腹が立った。なぜかおずおずしているさよ子を呼んで、小皿のもの、たたみ鰯だのすずめ焼だのみず貝だの、なまぐさ物をすべて持ってゆかせることにした。おれにはもうそんな物はいらないんだ。ただ腹立たしかった。

「卑屈な気持ちを持っちゃいかんよ。自主自立、これが文学には最も大切だ。」

 おれの顔をぼんやり見上げてる彼女に、尋ねてみた。

「先達ての下山総裁事件ね、あれを君はどう思うんだい。」

 彼女はぽかんとして、考えてみようともしないらしい。

「あの自動車の運転手だ。下山さんが三越にはいって、ちょっと五分間ばかりと言ったのを、朝の九時半から午後の五時まで、七時間半もぼんやり待つということが、あるものか。大臣とか長官とかいう者は、人を待たせておくのは平気で、そのようなことは始終あるのかも知れないが、然し、待ってる方はばかだね。七時間半もぼんやり待ってるという精神が、滑稽なんだ。滑稽を通りこして、愚劣極まる。そういう奴隷的根性が無くならない限り、人間は救われないよ。」

「わたくしもそう思います。」彼女はようやく答える。

「それから、ずっと前の、椎名町の帝銀事件だ。都庁の防疫官の指図だと、かりに信じたにせよ、その言いなり次第に、十幾人ものひとが燕の子のように口をそろえて、一斉に薬剤を呑みこむということが、あるものか。お役人の言うことはすべてごもっともと、何の批判もなく服従する、これも奴隷的根性だ。そんなものは根絶しなけりゃいけない。つまり、批判的精神、独立自主の精神、自由な精神、それが大切なんだ。何物にも囚われないことだ、人間の解放というのも、結局は、何物にも囚われない境地へ脱け出すことだろう。」

「わたくしもそう思います。」と彼女はまた答える。

「ほんとにそう思うのかい。」

「はい。」

 彼女は眼を伏せて端坐している。

「君を叱ってるんじゃないよ。ただ、僕の感想を言ってるだけだ。」

 こんどは返事がない。

「もういい。」

 さよ子は足音をしのばして出て行った。

 何物にも囚われるな。そうだ。おれはジンのグラスを置いて、日本酒の燗にかかった。余り早く酔いすぎてはいけないのだ。酔うなら、相馬多加代といっしょに酔いたい。

 彼女はどうして来ないのだろう。何か事変でもあったのではなかろうか。いや、そんな筈はない。きっと来る。来るまで待つんだ。いつまでも待つぞ。


 電燈のあたりに、蝿が一匹飛びまわっている。羽音がうるさい。おれは扇子を取って立ち上り、叩き落そうとするが、なかなかうまくいかない。蝿は電球に滑り滑りくっついたり、笠の奥にはいりこんだり、室内に大きく円を描いて飛んだり、天井に身を休めたりする。長くかかって、漸くに叩き落してやった。紙でつまんで、押しつぶすと、ぐちゃりと大きな音が指先に伝わり、白い臓腑を噴出さしている。汚らわしい奴だ。紙にくるんで、さて、捨て場所に困ったが、構うことはない、便所に放りこんでやった。

 小便をしていると、足がふらついた。

 酔ったのかな。

 両手を頭の下にあてて、仰向けに寝ころんでみたが、瞼が重い感じだ。眠ってはならない。今に彼女が来るだろう。起き上り、整理小箪笥の一番下の抽出を探ると、幾つかの小壜がある。机の上に、数粒の錠剤をころがしてみる。扁平な白い錠剤をもてあそぶのは、童心の喜びだ。おれはそれらを愛用してるのではない。ヒロポニアンでもなければ、アドルマーでもない。ただ必要に応じて、ちょっとかじるだけだ。味のないこともあり、苦いこともあり、甘酸いこともある。いずれにしても後味はよくない。それを消すにはやはり酒に限る。

 考えることがあるのだ。重大な考えごとがあるのだ。少しぬる加減の酒を、思惟の速度に合して、口にふくむだけで、眼を見据えていると、室の天井も四壁も消失して、心気は天地と合体する。微風が音もなく流れ、露が静かに結ぼれてる、晴朗な夜である。

「先生。」

 こんどははっきりした声だ。

「はいってもよろしゅうございますか。」

「ああ、いいよ。」

 さよ子はノートを持ってはいって来る。

「ここのところが、少し分らないんですけれど……。」

「まだ書いてるのかい。明日でいいよ。」

「でも、明日になって、そんなものだめだから、もうやめなさい、なんて、先生に言われますと、困りますもの。」

「大丈夫、気紛れは起さない。だが、今晩、もっと続けたければ、それでもいいよ。」

 彼女が分らないというのは、ノートの中に待合の女将が出てくるところだ。芸者をダンサーに変えたんだから、女将はどうしたらよいかというのである。そんなら、女将は、ダンスホールのマネージャーにでもしたらよかろうし、そのマネージャーには、彼女が識ってる出版社の編輯長でもかりてくるんだなと、おれはいい加減に助言してやった。その言葉を一つ一つ、彼女は噛みしめるように頷いている。憐れな奴だ。

 ふと、憐愍の情がおれの胸に萠してくる。

「何事も勉強だよ。天才は忍耐だと言うが、忍耐して努力すること、つまり努力し得る能力が、即ち天才なんだ。君も勉強してごらん。」

 彼女は眼をぱちくりさしておれの顔を見た。浅黒い皮膚で、小鼻がしぼみ、耳のわきに薄い痣がある。どう見たって美人じゃない。

「男もそうだが、女はなおのこと、文学をやるには、たしかな覚悟がいるよ。誘惑、どんな誘惑にも、負けないことだ。清貧に甘んじ、謙虚な気持ちで、世に処してゆかなければならない。出版社の重役になったり、顧問になったりして、小遣稼ぎをしてはいかん。」

 彼女は衷心から頷いてる様子だ。頸部がへんに筋張っていて、胸は肋骨が太いに違いない、若いくせに乳房がしぼみ、乳首だけが大きいのが、わかる。

「謙虚な気持ちでなければ、物の本当の姿は見て取れないものだ。文学者に最も大切なのは、確実な明晰な眼を持つことだと言われてるだろう。そういう眼を養い育てるには、あらゆる偏見や先入観を捨て去って、全くの謙虚さに自らを置かなければいけないと、僕は思うよ。」

 彼女は深く頷いてるらしい。前屈みがちに坐っている。赤っぽく野暮ったい帯のしめ方が、へんにだぶついている。胸の肉が薄いかわりに、腹には贅肉がついていて、臍には黒い垢がたまっているのが、わかる。

「謙虚でさえあれば、化粧とか衣裳とか、ばかなことに心を労することもない。外形の美醜は問題じゃないよ。心の美しいことが第一だ。内心の美、それによって、例えば性慾というようなものも克服出来るさ。」

 彼女はちらと眼を挙げておれを見たが、すぐに視線を膝に落した。両膝をきちっとくっつけている。皮膚のかたい両股であり、陰部には、やけにこわい毛が密生してるのが、わかる。

「性慾の対象は、なんといっても、異性にあるし、これがたいていは、暴力的な形を取ることが多い。本当の愛情が世に稀な所以だ。文学がヒューマニズムを旗印とするからには、どこまでも愛の味方であり、暴力の敵であらねばならぬ。」

 彼女はまたおれを見上げた。感激に涙ぐんでるような眼眸だ。おれは突然、憎悪を感じた。彼女の衣服をはいで、彼女の醜い裸体をそこに見た、そのことのために、彼女を憎悪するのだ。再び伏せてる彼女の顔の方へ、手を差し延べて、その頣をぐいと持ち上げた。

「なんだ、下ばかり向くなよ。顔は真直に向けとくものだ。」

 彼女をそこに押し倒してやりたい衝動を、むりに抑えて、眼をそらしながら言った。

「もういい。」

 彼女が出てゆくより前に、おれはそこに寝そべり、眼をつぶった。

 なにか狂暴なものが、おれの身内に頭をもたげている。そしておれの眼前に、忽然と、相馬武彦の姿が現われた。多加代の夫だ。おれは彼を一度か二度、あの文化式な住宅の横手の菜園に見かけたことがある。いろんな野菜を作って、自分で手入れしてるのだ。外浪費で内吝嗇の、そして案外すらりとした恰好の男だ。ちょっと旅行に出てた筈だが、ふいに帰って来るかなにかして、そのために多加代は来られなくなったのかも知れない。彼奴と決闘してやろう。元将校だって何だって、たかの知れた野郎だ。用捨なく殺してやるまでだ。きっと殺してみせる。

 決闘の場面が、ちらちらと回転する。急いではいけない。ゆっくりと味ってやれ。おれは起き上って、ジンのグラスを取りあげた。

 あたりはしんしんと静まり返っている。深い水底のけはいだ。虫の声もせず、ことりとの物音もなく、大気は淀んでいる。

 煙のようなものが、どこかに渦巻き渦巻き拡がってゆく。

「中根圭次郎。」

 おれの名を呼んだ。誰だ。

 見まわしたが、書棚の硝子戸がぼーっと白んでるだけで、異状はない。違う棚の隅にある二尺ほどの仏像が、にこにこしてるようだ。おれは頬笑ましくなった。

「汝の享楽の……。」

 ちょっと声を途絶える。

「なんぞ卑賤なる。」

 聞き覚えのある文句だ。

「なんぞ卑俗なる。」

 言い直したな。

「なんぞ下劣なる。」

 また言い直したな。

 それきり声は沈黙した。おれはジンのグラスを取り上げた。頭が少しふらつくようだ。やはり日本酒の方がいい。電熱器にスイッチを入れると、ぢぢぢぢと音がする。

「災厄は一日にして成らず。」

 声に答えて、おれは大声で言い直してやった。

「ローマは一日にして成らず。」

「災厄は一日にして成らず。」と声が言う。

「ローマは一日にして成らず。」とおれが言う。

「災厄は一日にして成らず。」

「ローマは一日にして成らず。」

「災厄は一日にして成らず。」

 おれはもう返事をせず、相手にならないことにした。すると、あとはもうめちゃくちゃだ。

「ばか、ばか、ばか。……恥さらし。……くたばっちまえ。……まだ酔わないか。……飲め、飲め、くたばるまで飲め。」

 あの仏像が、口を利いてるらしい。おれは突然、全く意外に、瞬間的な突然さで、かっと腹が立った。唇をかんで、あたりを見ると、アスパラガスの缶詰、梨、チーズ、香味料の壜、いろんな物があり、鶏卵が鉢に盛ってある。卵の黄身をやたらにすするのは、彼女の唯一の悪趣味だ。夫の武彦が教え込んだに相違ない。

「ばか野郎。」

 おれは卵を掴んで、仏像に投げつけてやった。卵は壁にあたって砕け散った。また投げた。命中しない。また投げた。命中しない。めちゃくちゃに投げた。仏像も怒って、おれを睥みつける。おれは笑い出したが、憤怒は笑いと共に高まる。一升壜をひっ掴んで、つめ寄ってゆき、仏像の頭上に叩きつけてやった。

 しいんとしている。水底の感じだ。物のけはいに振向くと、室の入口にさよ子が突っ立ている。おれはぞっとした。まるで幽霊だ。も一人の幽霊が、駆けこんで来た。女中だ。おれよりも力が強い。

 瞬間に、おれは立ち直った。もう憤怒はない。憎悪もない。冷静な態度で、元の座に戻って、あぐらをかき、ジンのグラスを取り上げた。それをすすりながら、アスパラガスの缶詰を指差した。

「これを開けてくれ。」

 誰も返事をしない。女中は屈みこんで、硝子の破片をゆっくりゆっくり拾っている。さよ子は縁側にうづくまり、障子に顔をかくし、ハンカチを眼に押しあてている。二人ともまるで狂人だ。おれは途方にくれて、怒鳴りつけた。

「返事をしないか。これを、これを開けるんだ。」

 缶詰を畳の上に投り出してやった。気が狂うと人は唖になるものなのか。二人とも黙ったままだ。それでも立ってきて、アスパラガスとマヨネーズとを皿に盛ってくれる。おれはジンを飲もう……。

底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5・戯曲)」未来社

   1966(昭和41)年1115日第1刷発行

初出:「群像」

   1949(昭和24)年10

入力:tatsuki

校正:門田裕志、小林繁雄

2006年1116日作成

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