化銀杏
泉鏡花
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貸したる二階は二間にして六畳と四畳半、別に五畳余りの物置ありて、月一円の極なり。家主は下の中の間の六畳と、奥の五畳との二間に住居いて、店は八畳ばかり板の間になりおれども、商売家にあらざれば、昼も一枚蔀をおろして、ここは使わずに打捨てあり。
往来より突抜けて物置の後の園生まで、土間の通庭になりおりて、その半ばに飲井戸あり。井戸に推並びて勝手あり、横に二個の竈を並べつ。背後に三段ばかり棚を釣りて、ここに鍋、釜、擂鉢など、勝手道具を載せ置けり。廁は井戸に列してそのあわい遠からず、しかも太く濁りたれば、漉して飲用に供しおれり。建てて数十年を経たる古家なれば、掃除は手綺麗に行届きおれども、そこら煤ぼりて余りあかるからず、すべて少しく陰気にして、加賀金沢の市中にてもこのわたりは浅野川の河畔一帯の湿地なり。
園生は、一重の垣を隔てて、畑造りたる裏町の明地に接し、李の木、ぐみの木、柿の木など、五六本の樹立あり。沓脱は大戸を明けて、直ぐその通庭なる土間の一端にありて、上り口は拭き込みたる板敷なり。これに続ける六畳は、店と奥との中の間にて、土地の方言茶の室と呼べり。その茶の間の一方に長火鉢を据えて、背に竹細工の茶棚を控え、九谷焼、赤絵の茶碗、吸子など、体裁よく置きならべつ。うつむけにしたる二個の湯呑は、夫婦別々の好みにて、対にあらず。
細君は名をお貞と謂う、年紀は二十一なれど、二つばかり若やぎたるが、この長火鉢のむこうに坐れり。細面にして鼻筋通り、遠山の眉余り濃からず。生際少しあがりて、髪はやや薄けれども、色白くして口許緊り、上気性と見えて唇あれたり。ほの赤き瞼の重げに見ゆるが、泣はらしたるとは風情異り、たとえば炬燵に居眠りたるが、うっとりと覚めしもののごとく涼しき眼の中曇を帯びて、見るに俤晴やかならず、暗雲一帯眉宇をかすめて、渠は何をか物思える。
根上りに結いたる円髷の鬢頬に乱れて、下〆ばかり帯も〆めず、田舎の夏の風俗とて、素肌に紺縮の浴衣を纏いつ。あながち身だしなみの悪きにあらず。
教育のある婦人にあらねど、ものの本など好みて読めば、文書く術も拙からで、はた裁縫の業に長けたり。
他の遊芸は知らずと謂う、三味線はその好きの道にて、時ありては爪弾の、忍ぶ恋路の音を立つれど、夫は学校の教授たる、職務上の遠慮ありとて、公に弾くことを禁じたれば、留守の間を見計らい、細棹の塵を払いて、慎ましげに音〆をなすのみ。
お貞は今思出したらむがごとく煙管を取りて、覚束無げに一服吸いつ。
渠は煙草を嗜むにあらねど、憂を忘れ草というに頼りて、飲習わんとぞ務むるなる、深く吸いたれば思わず咽せて、落すがごとく煙管を棄て、湯呑に煎茶をうつしけるが、余り沸れるままその冷むるを待てり。
時に履物の音高く家に入来るものあるにぞ、お貞は少し慌だしく、急に其方を見向ける時、表の戸をがたりとあけて、濡手拭をぶら提げつつ、衝と入りたる少年あり。
お貞は見るより、
「芳さんかえ。」
「奥様、ただいま。」
と下駄を脱ぐ。
「大層、おめかしだね。」
「ふむ。」
と笑い捨てて少年は乱暴に二階に上るを、お貞は秋波もて追懸けつつ、
「芳ちゃん!」
「何?」
と顧みたり。
「まあ、ここへ来て、ちっとお話しなね。お祖母様はいま昼寝をしていらっしゃるよ。騒々しいねえ。」
「そうかい。」
と下りて来て、長火鉢の前に突立ち、
「ああ、喉が渇く。」
と呟きながら、湯呑に冷したりし茶を見るより、無遠慮に手に取りて、
「頂戴。」
とばかりぐっと飲みぬ。
「あら! 酷いのね、この人は。折角冷しておいたものを。」
わざと怨ずれば少年は微笑みて、
「余ってるよ、奥様はけちだねえ。」
と湯呑を返せり。お貞は手に取りて中を覗き、
「何だ、けも残しゃアしない。」
と底の方に残りたるを、薬のように仰ぎ飲みつ。
「まあ、芳さんお坐ンな、そうしてなぜ人を、奥様々々ッて呼ぶの、嫌なこッた。」
「だって、円髷に結ってるもの、銀杏返の時は姉様だけれど、円髷の時ゃ奥様だ。」
お貞はハッとせし風情にて、少年の顔を瞻りしが、腫ぼったき眼に思いを籠め、
「堪忍おしよ、それはもう芳さんが言わないでも、私はこの通り髪も濃くないもんだから、自分でも束ねていたいと思うがね、旦那が不可ッて言うから仕様がないのよ。」
「だからやっぱり奥様じゃあないか。」
と少年は平気なり。お貞はしおれて怨めしげに、
「だって、他の者なら可いけれど、芳さんにばかりは奥様ッて謂われると、何だか他人がましいので、頼母しくなくなるわ。せめて「お貞さん」とでも謂っておくれだと嬉しいけれど。」
とためいきして、力なげなるものいいなり。少年は無雑作に、
「じゃあ、お貞さんか。」
と言懸けて、
「何だか友達のように聞えるねえ。」
「だからやっぱり、姉さんが可いじゃあないかえ。」
「でも円髷に結ってるもの、銀杏返だと亡なった姉様にそっくりだから、姉様だと思うけれど、円髷じゃあ僕は嫌だ。」
と少年は素気なし。
「じゃあまるであかの他人なの?」
「なにそうでもないけれど。……」
少年は言淀みぬ。お貞は襟を掻合せ、浴衣の上前を引張りながら、
「それだから昨日も髪を結わない前に、あんなに芳さんにあやまったものを。邪慳じゃあないかね。可よ、旦那が何といっても、叱られても大事ないよ。私ゃすぐ引毀して、結直して見せようわね。」
お貞は顔の色尋常ならざりき。少年は少し弱りて、
「それでなくッてさえ、先達のような騒がはじまるものを、そんなことをしようもんなら、それこそだ。僕アまた駈出して行かにゃあならない。」
「ほんとうに、あの時は。ま、どうしようと思ったわ。
芳さんは駈出してしまって二晩もお帰りでないし、おばあさんはまた大変に御心配遊ばしてどうしたら可かろうとおっしゃるし、旦那は旦那でものも言わないで、黙って考え込んでばかりいるしね、私はもう、面目ないやら、恥かしいやら、申訳がないやらで、ぼうッとしてしまったよ。後で聞くと何だっさ、真蒼になって寝ていたとさ。
芳様の跫音が聞えたので、はッと気が着いて駈出したが、それまでどうしていたんだか、まるで夢のようで、分らなかったよ。」
少年は頻りに頷き、
「僕はまた髯がさ、(水上さん)て呼ぶから、何だと思って二階から覗くと、姉様は突伏して泣いてるし、髯は壇階子の下口に突立ってて、憤然とした顔色で、(直ぐと明けてもらいたい。)と失敬ことを謂うじゃあないか。だから僕は不愉快で堪らないから、それからそのまんまで、家を出て、どこか可い家があったらと思ったけれど、探す時は無いもんだ。それから友達の処へ泊って、牛を奢ってね、トランプをして遊んでいたんだ。僕あ一番強いんだぜ。滅茶々々に負かして悪体を吐いてやると、大変に怒ってね、とうとう喧嘩をしちまったもんだから、翌晩はそこに泊ることも出来ないので、仕方が無いから帰って来たんだ。」
お貞は聞きつつ睨む真似して、
「憎らしいねえ。人の気も知らないで、お友達とトランプも無いもんだね。気が違やあしないかと、私ゃ自分でそう思った位だのにさ。」
「でも僕あ帰った時、(芳さん!)てって奥から出て来た、あの時の顔にゃ吃驚したよ。暮合ではあるし、亡なった姉さんの幽霊かと思った。」
「いやな! 芳さんだ。恐いことね。」
お貞は身震いして横を向きぬ。少年は微笑みたり。
「何だ、臆病な。昼じゃあないか。」
「でもそんなことをお言いだと、晩に手水に行かれやしないや。」
「そんなに臆病な癖にして、昨夜も髯と二人連で、怪談を聞きに行ったじゃあないか。」
お貞はまじめに弁解して、
「はい、ですから切前に帰りました。切前は茶番だの、落語だの、そりゃどんなにかおもしろいよ。」
「それじゃもう髯の御機嫌は直ったんだね。」
「別に直ったというでもないけれど、まああんなものさ。あれでもね、おばあさんには大変気の毒がってね、(お年寄がようよう落着なされたものを、またお転宅は大抵じゃアあるまいから、その内可い処があったら、御都合次第お引越しなさるが可し、また一月でも、二月でも、家においでになっても差支えはございませんから)ッて、それッきりになってるのよ。そのかわりね、私にゃ、(芳さんと談話をすることは決してならない)ッて、固くいいつけたわ。やっぱり疑ぐっているらしいよ。」
少年は火箸を手にして、ぐいぐい灰に突立てながら、不平なる顔色にて、
「一体疑ぐるッて何だろう。僕のおばあさんにもね、姉様、髯が、(お孫さんも出世前の身体だから、云々が着いてはなりますまい。私は、私で、内の貞に気を着けますから、あなたもそこの処おぬかりなく。)ッさ。内証で言ったそうだ。変じゃないか、え、姉様、何を疑ぐッているんだろう。何か僕と、姉様と、不道徳な関係があるとでもいうことなんかね、それだと失敬極まるじゃあないか、え、姉様。」
と詰り問うに、お貞は、
「ああ。」
と生返事、胸に手を置き、差俯向く。
少年は安からぬ思いやしけむ。
「じゃあ何だね、こないだあの騒ぎのあった前に、二人で奥に談話をしていた時、髯が戸外から帰って来たので、姉様は、あわアくって駈出したが、そのせいなの? 一体気が小さいから不可いよ。いつに限らずだ。人が、がらりと戸を開けると、何だか大変なことでも見付かったように、どぎまぎして、ものをいうにも呼吸をはずまして、可訝いだろうじゃないか。先刻僕の帰った時も、戸をあけると、吃驚して、何だかおどおどしておいでだったぜ。こないだの時だってもそうだ。髯に向って、(いらっしゃいまし)自分の亭主を迎えるとって、(いらっしゃいまし)なんて、言う奴があるものか。何だってそう気が小さくッて、物驚きをするんだなあ。それだから疑ぐられるんだ。不可ねえ。」
お貞は淋しげなる微笑を含み、
「そういってながら芳さんもあの時はやっぱりそそッかしく、二階へ駈け上ったじゃあないかね。」
少年は別に考うる体もなく、
「そりゃ何だ、僕は何も恐いことはないけれど、あの髯が嫌だからだ。何だか虫が好かなくッて、見ると癪に障るっちゃあない、僕あもう大嫌だ。」
と臆面もなく言うて退けつ。渠は少年の血気にまかせて、後前見ずにいいたるが、さすがにその妻の前なるに心着きけむ、お貞の色をうかがいたり。
お貞は気に懸けたる状もなく、かえって同意を表するごとく、勢なげに歎息して、
「誰が見てもちがいはないねえ。私だってやっぱり嫌だわ。だがね、芳ちゃんは、なぜ好かないの。」
少年はお貞の言の吾が意を得たるに元気づきて、声の調子を高めたり。
「他にね、こうといって、まだ此家へ来て、そんなに間もないこったから、どこにどうという取留めたこともないけれど、ただね、髯の様子がね、亡なった姉様の亭主に肖ているからね、そのせいだろうと思うんだ。」
「そうして、不可いお方だったの。」
少年はそぞろに往時を追懐すらむ、慨然としたりけるが、
「不可いどころの騒じゃない、姉様を殺した奴だもの。」
お貞は太く感ぜし状にて、
「まあ。」
とそのうるみたる眼を睜りぬ。
「酷い人ね、何だッてまた姉様を殺したんだろうね。芳さんのお姉様なら、どんなにか優しい、佳い人だったろうにさ。」
「そりゃ、真実に僕を可愛がってくれたッちゃあないよ。今着ている衣服なんか、台なしになってるけれど、姉様がわざと縫って寄来したもんだから、大事にして着ているんだ。」
「そのせいで似合うのかねえ。」
とお貞は今更のごとく少年の可憐なる状ぞ瞻られける。水上芳之助は年紀十六、そのいう処、行う処、無邪気なれどもあどけなからず。辛苦のうちに生たちて浮世を知れる状見えつ。もののいいぶりはきはきして、齢のわりには大人びたり。
要なければここには省く。少年はお蓮といえりし渠の姉が、少き時配偶を誤りたるため、放蕩にして軽薄なる、その夫判事なにがしのために虐遇され、精神的に殺されて入水して果てたりし、一条の惨話を物語りつ。語は簡に、意は深く、最もものに同情を表して、動かされ易きお貞をして、悲痛の涙に咽ばしめたり。
語を継ぎて少年言う。
「姉様もやっぱり酷いめにあわされるから、それで髯が嫌なんだろう。」
折からぶつぶつと湯の沸返りて、ぱっと立ちたる湯気に驚き、少年は慌しく鉄瓶の蓋を外し、お貞は身を斜になりて、茶棚より銅の水差を取下して急がわしく水を注しつ。
「いいえ、違うよ。私のはまた全く芳さんの姉さんとは反対で、あんまり深切にされるから、もう嫌で、嫌で、ならないんだわ。」
少年は太く怪み、
「そんな事っちゃアあるもんでない。何だって優しくされて、それで嫌だというがあるものか。」
「まあさ、お聞きなね。深切だといえば深切だが、どちらかといえば執着いのだわ。かいつまんで話すがね、ちょいと聞賃をあげるから。」
と菓子皿を取出して、盛りたる羊羹に楊枝を添え、
「一ツおあがり、いまお茶を入替えよう。」
と吸子の茶殻を、こぼしにあけ、
「芳ちゃんだから話すんだよ。誰にも言っちゃ不可いよ。実は私の父親は、中年から少し気が違ったようになって、とうとうそれでおなくなりなすったがね、親のことをいうようだけれど、母様は少し了簡違いをして、父親が病気のあいだに、私には叔父さんだ、弟ごと関着いたの。
するとお祖父さんのお計らいで、私が乳放れをするとすぐに二人とも追出して、御自分で私を育てて、十三の時までお達者だったが、ああ、十四の春だった。中風でお悩みなすってから、動くことも出来なくおなりで、家は広し、四方は明地で、穴のような処に住んでたもんだから、火事なんぞの心配はないのだけれど、盗賊にでも入られたら、それこそどうすることもならないのよ。お金子も少々あったそうだし。
雇いの婆さんは居たけれど、耳は遠いし、そんなことの助けにゃならず、祖父さんの看病も私一人では覚束なし、確な後見をといった処で、また後見なんていうものは、あとでよく間違が出来るものだから、それよりか、いっそ私に……というので、親類中で相談を極めて、とうとうあてがったのが今の旦那なの。
その頃ちょうど高等中学校を卒業したので、ま、宅へ来てから、東京へ出て、大学へ入ろうという相談でね、もともと内の緊りにもなってもらわなきゃあならないというんでさ、わざッと年の違ったのを貰ったもんだから、旦那は二十九で、私は十四。」
お貞は今吸子に湯をばささんとして、鉄瓶に手を懸けたる、片手を指折りて数えみつ。
「十五の違だね。もっとも晩学だとかいうので、大抵なら二十五六で、学士になるのが多いってね。」
「無論さ。」
と少年は傾聴しながら喙を容れたり。
お貞は煎茶を汲出だして、まず少年に与えつつ、
「何だか知らないけれど、御婚礼をした時分は、嬉しくもなく、恐くもなく、まるで夢中で、何とも思やしなかったが、実はおじいさんと二人ばかりで、他所の人の居ない方が、御膳を頂く時やなんか、私ゃ気が置けなくて可かったわ。
変に気が詰まって、他人の内へ泊にでも行ったようで、窮屈で、つまらなくッて、思ってみればその時分から旦那が嫌いだったかも知れないよ。でも大方甘やかされた癖で、我儘の方が勝ってたのであろうと思う。
そのうちお祖父さんも安心をなすったせいか、大層気分も好くなるし、いよいよ旦那が東京へたつというので、祝ってたたしたお酒の座で、ちっと飲ようが多かったのがもとになってね、旦那が出発をしたそのおひるすぎに、お祖父様は果敢なくおなりなすったのよ。私ゃもうその時は……」
とお貞は声をうるましたり。
「それからというものは、私はまるで気ぬけがしたようで、内の中でも一番薄暗い、三畳の室へ入っちゃあ、どういうものだかね、隅の方へちゃんと坐って、壁の方を向いて、しくしく泣くのが癖になってね、長い間治らなかったの。そうこうするうち児が出来たわ。
可笑いじゃないかねえ。」
お貞は苦々しげに打笑みたり。
「妙なものがころがり出してしまってさ、翌年の十月のことなのよ。」
と言懸けてお貞はもの案じ顔に見えたりしが、
「そうそう、芳ちゃん、まだその前にね、旦那がさ、東京へ行って三月めから、毎月々々一枚ずつ、月の朔日にはきっと写真を写してね、欠かさず私に送って寄来すんだよ。まあ、御深切様じゃないかね。そのたんびに手紙がついてて、(いや今月は少し痩せた)の、(今度は少し眼が悪い)の、(どうだ先月と合わしてみい、ちっとあ肥って見えよう)なんて、言書が着いてたわ。
私ゃお祖父さんのことばかり考えて、別に何にも良人の事は思わないもんだから、ちょいと見たばかりで、ずんずん葛籠の裡へしまいこんで打棄っといたわ。すると、いつのことだッけか、何かの拍子、お友達にめっかってね、
(まあ! お貞さん、旦那様は飛んだ御深切なお方だねえ。)サ酷く擽ったもんだろうじゃあないかえ。
それもそのはずだね。写真の裏に一葉々々、お墨附があってよ。年、月、日、西岡時彦写之、お貞殿へさ。
私もつい口惜紛れに、(写真の儀はお見合せ下されたく、あまりあまり人につけても)ッさ。何があまりあまりだろう、可笑いね。そういってやると、それッきりおやめになったが、十四五枚もあった写真を、また見られちゃあ困ると思ったがね、人にも遣られず、焼くことも出来ずさ、仕方がないから、一纏めにして、お持仏様の奥ン処へ容れておいてよ。毎日拝んだから可いではないかね。」
先刻に干したる湯呑の中へ、吸子の茶の濃くなれるを、細く長くうつしこみて、ぐっと一口飲みたるが、あまり苦かりしにや湯をさしたり。
少年はただ黙して聞きぬ。
お貞は口をうるおして、
「児が出来る、もうそのしくしく泣いてばかりいる癖はなくなッて、小児にばかり気を取られて、他に何にも考えることも、思うこともなくッて、ま、五歳六歳の時は知らず、そのしばらくの間ほど、苦労のなかった時はないよ。
すると、その夏の初の頃、戸外にがらがらと腕車が留って、入って来た男があったの。沓脱に突立ってて、案内もしないから、寝かし着けていた坊やを置いて、私が上り口に出て行って、
(誰方、)といって、ふいと見ると驚いたが、よくよく見ると旦那なのよ。旦那は旦那だが、見違えるほど瘠せていて、ま、それも可いが妙な恰好さ。
大きな眼鏡のね、黒磨でもって、眉毛から眼へかけて、頬ッペたが半分隠れようという黒眼鏡を懸けて、希代さね、何のためだろう。それにあのそれ呼吸器とかいうものを口へ押着けてさ、おまけに鬚を生やしてるじゃあないか。それで高帽子で、羽織がというと、縞の透綾を黒に染返したのに、五三の何か縫着紋で、少し丈不足というのを着て、お召が、阿波縮で、浅葱の唐縮緬の兵児帯を〆めてたわ。
どうだい、芳さん、私も思わず知らず莞爾したよ、これは帰って来たのが嬉しいのより、いっそその恰好が可笑かったせいなのよ。
病気で帰ったというこッたから、私も心配をして、看病をしたがね、胃病だというので、ちょいとは快くならない。一月も二月も、そうさ、かれこれ三月ばかりもぶらぶらして、段々瘠せるもんだから、坊やは居るし、私もつい心細くなッて、そっと夜出掛けちゃあお百度を踏んだのよ。するとね、その事が分ったかして、
(お貞、そんなに吾を治したいか)ッて、私の顔を瞻めるからね。何の気なしで、(はい、あなたがよくなって下さいませねば、どうしましょう、私どもは路頭に立たなければなりません。)と真実の処をいったのよ。
さあ怒ったの、怒らないのじゃあない。(それでは手前、活計のために夫婦になったか。そんな水臭い奴とは知らなんだ。)と顔の色まで変えるから、私は弱ったの、何のじゃない、どうしようかと思ったわ。」
「(なぜ一所に死ぬとは言ってくれない。愛情というものは、そんな淡々しいものではない。)ッていうのさ。向うからそう出られちゃあ、こっちで何とも言いようが無いわ。
女郎や芸妓じゃあるまいしさ、そんな殺文句が謂われるものかね。でも、旦那の怒りようがひどいので、まあ、さんざあやまってさ。坊やがかすがいで、まずそれッきりで治まったがね、私ゃその時、ああ、執念深い人だと思って、ぞッとして、それからというものは、何だか重荷を背負ったようで、今でも肩身が狭いようなの。
あとでね、あのそら先刻いった黒眼鏡ね、(烏蜻蛉見たように、おかしいじゃアありませんか。)と、病気が治ってから聞いたことがあったよ。そうするとね、東京はからッ風で塵埃が酷いから、眼を悪くせまいための砂除だっていうの、勉強盛なら洋燈をカッカと、ともして寝ない人さえあるんだのに、そう身体ばかり庇ってちゃあ、何にも出来やしないと思ったけれど、まさかそんなことをいえたものでもなし、呼吸器も肺病の薬というので懸けるんだッて。それからね、その髯がまた妙なのさ。」
とお貞は少年の面を見て、
「衛生髯だとさ、おほほ。分るかえ? 芳さん。」
「何のこッた、衛生髯ッたって分らないよ。」
「それはね。」
となお微笑みながら、
「こうなのよ。何でも人間の身体に附属したものは、爪であろうが、垢であろうが、要らないものは一つもないとね、その中でも往来の塵埃なんぞに、肺病の虫がまざって、鼻ンなかへ飛込むのを、髯がね、つまり玄関番見たようなもので、喰留めて入れないンだッさ。見得でも何でもないけれど、身体のために生したと、そういったよ。だから衛生髯だわね。おほほほほ。」
お貞は片手を口にあてつ。少年も噴出だしぬ。
「いくら衛生のためだって、あの髯だけは廃止ば可いなあ。まるで(ちょいとこさ)に肖てるものを、髯があるからなおそっくりだ。」
お貞は眉を打顰めて、
「嫌だよ、芳さんは。(ちょいとこさ)はあんまりだわ。でも(ちょいとこさ)と言えばこないだ、小橋の上で、あの(ちょいとこさ)の飴屋に逢ったの。ちょうどその時だ。桜に中の字の徽章の着いた学校の生徒が三人連で、向うから行き違って、一件を見ると声を揃えて、(やあ、西岡先生。)と大笑をして行き過ぎたが、何のこった知らんと、当座は気が着かずに居たっけがね。何だとさ、学校じゃあ、皆がもう良人に、(ちょいとこさ)と謂う渾名を附けて、蔭じゃあ、そうとほか言わないそうだよ。」
少年は頭を掉れり。
「何の、蔭でいうくらいなら優しいけれど、髯がね、あの学校の雇になって、はじめて教場へ出た時に、誰だっけか、(先生、先生の御姓名は?)と聞いたんだって。するとね、ちょうど、後れて溜から入って来た、遠藤ッて、そら知ってるだろう。僕の処へもよく遊びに来る、肩のあがった、武者修行のような男。」
「ああ、ああ、鉄扇でものをいう人かえ。」
「うむ、彼奴さ、彼奴がさ。髯の傍へずいと出て、席から名を尋ねた学生に向って、(おい、君、この先生か。この先生ならそうだ、名は⦅チョイトコサ⦆だ。)と謂ったので、組一統がわッといって笑ッたって、里見がいつか話したっけ。」
お貞は溜いきをもらしたり。
「嫌になっちまう! じゃ、まるでのっけから安く踏まれて、馬鹿にされ切っていたんだね。」
「でもなかにゃああ見えても、なかなか学問が出来るんだって、そういってる者もあるんだ。何しろ、教場へ出て来ると、礼式もないで、突然、ボウルドに問題を書出して、
(何番、これを。)
といったきり椅子にかかッて、こう、少しうつむいて、肱をついて、黙っているッて。呼ばれた番号の奴は災難だ。大きに下稽古なんかして行かなかろうものなら、面くらって、(先生私には出来ません。)といってみても返事をしない。そのままうっちゃっておくもんだから、しまいにゃあ泣声で、(私には出来ません、先生々々。)と呼ぶと、顔も動さなけりゃ、見向きもしないで、(遣ってみるです。)というッきりで、取附島も何にもないと。それでも遣ってみても出来そうもない奴は、立ったり、居たり、ボウルドの前へ出ようとして中戻をしたり、愚図々々迷ついてる間に、柝が鳴って、時間が済むと、先生はそのまんまでフイと行ってしまうんだッて。そんな時あ問題を一つ見たばかりで、一時間まる遊び。」
「だから、西岡は何でも一方に超然として、考えていることがあるんだろう。えらい! という者もあるよ。」
お貞は「何の。」という顔色。
「考えてるッて、大方内のことばかり考えてて、何をしても手が附かないでいるんだろう。聞いて御覧、芳さんが来てからは、また考えようがいっそきびしいに相違ないから。何だって、またあの位、嫉妬深い人もないもんだね。
前にも談した通り、旦那はね、病気で帰省をしてから、それなり大学へは行かないで、ただぶらぶらしていたもんだから、沢山ないお金子も坐食の体でなくなるし、とうとう先に居た家を売って、去々年ここの家へ引越したの。
それでもまあ方々から口があって、みんな相当で、悪くもなくって、中でも新潟県だった、師範学校のね芳さん、校長にされたのよ。校長は可いけれど、私は何だか一所に居るのが嫌だから、金沢に残ることにして、旦那ばかり、任地へ行くようにという相談をしたが不可なくって、とうとう新潟くんだりまで、引張り出されたがね。どういうものか、嫌で、嫌で、片時も居たたまらなくッてよ。金沢へ帰りたい帰りたいで、例の持病で、気が滅入っちゃあ泣いてばかり。
旦那が学校から帰って来ても、出迎もせず俯向いちゃあ泣いてるもんだから、
(ああ、またか。)となさけなそうに言っちゃあ、しおれて書斎へ入って行ったの。別につらあてというンじゃあ決してなかったんだけれど、ほんとうに帰りたかったんだもの。
旦那もとうとう我を折って(それじゃあ帰るが可い、)というお許しが出ると、直ぐに元気づいて、はきはきして、五日ばかり御膳も頂かれなかったものが、急に下婢を呼んで、(直ぐ腕車夫を見ておいで。)さ、それが夜の十時すぎだから恐しいじゃあないかえ。何だか狂人じみてるねえ。
旦那を残し、坊やはその時分五歳でね、それを連れて金沢へ帰ると、さっぱりしてその居心の可かったっちゃあない。坊もまた大変に喜んだのさ。
それがというと、坊やも乳児の時から父親にゃあちっとも馴染まないで、少しものごころが着いて来ると、顔を見ちゃ泣出してね。草履を穿いて、ちょこちょこ戸外へ遊びに出るようになると、情ないじゃあないかえ。家へ入ろうとしちゃあ、いつでもさ。外戸の隙からそッと透見をして、小さな口で、(母様、父様家に居るの?)と聞くんだよ。
(ああ。)と返事をすると、そのまま家へ入らないで、ものの欲くなった時分でも、また遊びに行ってしまって、父様居ない、というと、いそいそ入って来ちゃあ、私が針仕事をしている肩へつかまって。」
と声に力を籠めたりけるが、追愛の情の堪え難かりけむ、ぶるぶると身を震わし、見る見る面の色激して、突然長火鉢の上に蔽われかかり、真白き雪の腕もて、少年の頸を掻抱き、
「こんな風に。」
とものぐるわしく、真面目になりたる少年を、惚々と打まもり、
「私の顔を覗き込んじゃあ、(母様)ッて、(母様)ッて呼んでよ。」
お貞は太く激しおれり。
「そうしてね、(父様が居ないと可いねえ。)ッて、いつでも、そう言ったわ。」
言懸けてうつむく時、弛き前髪の垂れけるにぞ、うるさげに掻上ぐるとて、ようやく少年にからみたる、その腕を解きけるが、なお渠が手を握りつつ、
「そんな時ばかりじゃあないの。私が何かくさくさすると、可哀相に児にあたって、叱咤ッて、押入へ入れておく。あとで旦那が留守になると、自分でそッと押入から出て来てね、そッと抜足かなんかで、私のそばへ寄って来ちゃあ、肩越に顔を覗いて、(母様、父様が居ないと可いねえ)ッさ。五歳や六歳で死んで行く児は、ほんとうに賢いのね。女の児はまた格別情愛があるものだよ。だからもう世の中がつまらなくッて、つまらなくッて、仕様がなかったのを、児のせいで紛れていたがね、去年(じふてりや)で亡くなってからは、私ゃもう死んでしまいたくッて堪らなかったけれど、旦那が馬鹿におとなしくッて、かッと喧嘩することがないものだから、身投げに駈出す機がなくッて、ついぐずぐずで活きてたが、芳ちゃん、お前に逢ってから、私ゃ死にたくなくなったよ。」
と、じっとその手をしめたるトタンに靴音高く戸を開けたり。
お貞はいかに驚きしぞ、戸のあくともろともに器械のごとく刎ね上りて、夢中に上り口に出迎えつ。蒼くなりて瞳を据えたる、沓脱の処に立ちたるは、洋服扮装の紳士なり。頤細く、顔円く、大きさ過ぎたる鼻の下に、賤しげなる八字髭の上唇を蔽わんばかり、濃く茂れるを貯えたるが、面との配合を過れり。眼はいと小さく、眦垂れて、あるかなきかを怪むばかり、殊に眉毛の形乱れて、墨をなすりたるごとくなるに、額には幾条の深く刻める皺あれば、実際よりは老けて見ゆべき、年紀は五十の前後ならむ、その顔に眼鏡を懸け、黒の高帽子を被りたるは、これぞ(ちょいとこさ)という動物にて、うわさせし人の影なりける。
良夫と誤り、良夫と見て、胸は早鐘を撞くごとき、お貞はその良人ならざるに腹立ちけむ、面を赤め、瞳を据えて、屹とその面を瞻りたる、来客は帽を脱して、恭しく一礼し、左手に提げたる革鞄の中より、小き旗を取出して、臆面もなくお貞の前に差出しつ。
「日本大勝利、万歳。」
と謂いたるのみ、顔の筋をも動かさで、(ちょいとこさ)は反身になり、澄し返りて控えたり。
渠がかくのごとくなす時は、二厘三厘思い思いに、その掌に投げ遣るべき金沢市中の通者となりおれる僥倖なる漢なりき。
「ちょいとこ、ちょいとこ、ちょいとこさ。」
と渠は、もと異様なる節を附し両手を掉りて躍りながら、数年来金沢市内三百余町に飴を売りつつ往来して、十万の人一般に、よくその面を認られたるが、征清のことありしより、渠は活計の趣向を変えつ。すなわち先のごとくにして軒ごとを見舞いあるき、怜悧に米塩の料を稼ぐなりけり。
渠は常にものいわず、極めて生真面目にして、人のその笑えるをだに見しものもあらざれども、式のごとき白痴者なれば、侮慢は常に嘲笑となる、世に最も賤まるる者は時としては滑稽の材となりて、金沢の人士は一分時の笑の代にとて、渠に二三厘を払うなり。
お貞はようやく胸を撫でて、冷かに旧の座に直りつ。代価は見てのお戻りなる、この滑稽劇を見物しながら、いまだ木戸銭を払わざるにぞ、(ちょいとこさ)は身動きだもせで、そのままそこに突立ちおれり。
ややありてお貞は心着きけむ、長火鉢の引出を明けて、渠に与うべき小銭を探すに、少年は傍より、
「姉さん、湯銭のつりがあるよ、おい。」
と板敷に投出せば、(ちょいとこさ)は手に取りて、高帽子を冠ると斉しく、威儀を正して出行きたり。
出行く(ちょいとこさ)を見送りて、二人は思わず眼を合しつ。
「なるほど肖ているねえ。」
とお貞は推出すがごとくに言う。少年はそれには関せず。
「まあ、それからどうしたの?」
渠は聞くことに実の入りけむ、語る人を促せり。
「さあその新潟から帰った当座は、坊やも──名は環といったよ──環も元気づいて、いそいそして、嬉しそうだし、私も日本晴がしたような心持で、病気も何にもあったもんじゃあないわ。野へ行く、山へ行くで、方々外出をしてね、大層気が浮いて可い心持。
出来るもんならいつまでも旦那が居ないで、環と二人ッきり暮したかったわ。
だがねえ、芳さん、浮世はままにならないものとは詮じ詰めたことを言ったんだね。二三度旦那から手紙を寄越して、(奉公人ばかりじゃ、緊が出来ない、病気が快くなったら直ぐ来てくれ。)と頼むようにいって来ても、何の、彼のッて、行かないもんだから、お聞きよ、まあ、どうだろうね。行ってから三月も経たない内に、辞職をして帰って来て、(なるほどお前なんざ、とても住めない、新潟は水が悪い)ッさ。まあ!
するとまた環がね、どういうものか、はきはきしない、嫌にいじけッちまって、悪く人の顔色を見て、私の十四五の時見たように、隅の方へ引込んじゃあ、うじうじするから、私もつい気が滅入って、癇癪が起るたんびに、罪もないものを……」
と涙を浮め、お貞はがッくり俯向きたり。
「その癖、旦那は、環々ッて、まあ、どんなに可愛がったろう。頭へ手なんざ思いも寄らない、睨める真似をしたこともなかったのに、かえって私の方が癇癪を起しちゃ、(母様)と傍へ来るのを、
(ええ、も、うるさいねえ、)といって突飛ばしてやると、旦那が、(咎もないものをなぜそんなことをする)てッて、私を叱るとね、(母様を叱っては嫌よ、御免なさい御免なさい)と庇ってくれるの。そうして、(あんな母様は不可のう、ここへ来い)と旦那が手でも引こうもんなら、それこそ大変、わッといって泣出したの。
(あ、あ、)と旦那が大息をして、ふいと戸外へ出てしまうと、後で、そっと私の顔を見ちゃあ、さもさもどうも懐しそうに、莞爾と笑う。そのまた愛くるしさッちゃあない。私も思わず莞爾して、引ッたくるように膝へのせて、しっかり抱しめて頬をおッつけると、嬉しそうに笑ッちゃあ、(父様が居ないと可い)と、それまたお株を言うじゃあないかえ。
だもんだから、つい私もね、何だか旦那が嫌になったわ。でも或時、
(お貞、吾も環にゃ血を分けたもんだがなあ。)とさも情なそうに言ったのには、私も堪らなく気の毒だったよ。
前世の敵同士ででもあったものか、芳さん、環がじふてりやでなくなる時も、私がやる水は、かぶりつくようにして飲みながら、旦那が薬を飲ませようとすると、ついと横を向いて、頭を掉って、私にしがみついて、懐へ顔をかくして、いやいやをしたもんだから、ついぞ荒い言をいったこともない旦那が、何と思ったか血相を変えて、
(不孝者!)といって、握拳で突然環をぶとうとしたから、私も屹となって、片膝立てて、
(何をするんです!)と摺寄ったわ。その時の形相の凄じさは、ま、どの位であったろうと、自分でも思い遣られるよ。言憎いことだけれど、真実にもう旦那を喰殺してやりたかったわね。今でも旦那を環の敵だと思うもの。あの父親さえ居なけりゃ、何だって環が死ぬものかね、死にゃあしないわ、私ばかりの児だったら。」
お貞はしばらく黙したりき。ややあり思出したらんかのごとく、
「旦那はそのまま崩折れて、男泣きに泣いたわね。
私ゃもう泣くことも忘れたようだった。ええ、芳さん、環がなくなってから、また二三度も方々へいい役に着いたけれども、金沢なら可いが、みんな遠所なので、私はどういうものか遠所へ行くとしきりに金沢が恋しくなッて、帰りたい帰りたい一心でね、済まないことだとは思ってみても、我慢がし切れないのを、無理に堪えると、持病が起って、わけもないことに泣きたくなったり、飛んだことに腹が立ったりして、まるで夢中になるもんだから、仕方なしに帰って来ると、旦那も後からまた帰る、何でも私をば一人で手放しておく訳にゃゆかないと見えて、始終一所に居たがるわ。
だもんだからどこも良い処には行かれないで、金沢じゃ、あんなつまらない学校へ、腰弁当というしがない役よ。」
と一人冷かに笑うたり。
「何もそんなに気を揉まなくッても、よさそうなものを。旦那はね、まるで留守のことが気に懸るために出世が出来ないのだ、といっても可いわ。
そんなに私を思ってくれるもんだから、夜遊はせず、ほんのこッたよ、夫婦になってから以来、一晩も宅を明けたことなしさ。学校がひければ、ちゃんともう、道寄もしないで帰って来る。もっとも無口の人だから、口じゃ何ともいわないけれど、いつもむずかしい顔を見せたことはなし、地体がくすぶった何しろ、(ちょいとこさ)というのだもの。それだが、眼が小さいからちったああれでも愛嬌があるよ。荒い口をきいたことなし、すりゃ私だって、嫌だ、嫌だとはいうものの、どこがといっちゃあ返事が出来ない。けれども嫌だから仕様がないわ。
それだから私も、なに言うことに逆らわず、良人はやっぱり良人だから、嫌だっても良人だから、良人のように謹んで事えているもの。そう疑ぐるには及ばないじゃあないかね。芳さん、芳さんの姉様がひどくされたようでも困るけれど、男はちったあ男らしく、たまには出歩行でもしないとね、男に意気地がないようで、女房の方でも頼母しくなくなるのよ。
それを旦那と来た日にゃあ、ちょいとの間でも家に居て、私の番をしていたがるんだわ。それも私が行届かないせいだろうと、気を着けちゃあいるし、それにもう私は旦那の犠牲だとあきらめてる。分らないながらも女の道なんてことも聞いてるから、浮気らしい真似もしないけれど、芳さん、あの人の弱点だね。それがために出世も出来ないなんといった日にゃ、私ゃいっそ可哀相だよ。あわれだよ。
何の密夫の七人ぐらい、疾くに出来ないじゃあなかったが……」
といいかけしがお貞はみずからその言過しを恥じたる色あり。
「これは話さ。」
と口軽に言消して、
「何も見張っていたからって、しようのあるもんじゃあないわね。」
お貞は面晴々しく、しおれし姿きりりとなりて、その音調も気競いたり。
「しかしね、芳さん、世の中は何という無理なものだろう。ただ式三献をしたばかりで、夫だの、妻だのッて、妙なものが出来上ってさ。女の身体はまるで男のものになって、何をいわれてもはいはいッて、従わないと、イヤ、不貞腐だの、女の道を知らないのと、世間でいろんなことをいうよ。
折角お祖父さんが御丹精で、人並に育ったものを、ただで我ものにしてしまって、誰も難有がりもしないじゃないか。
それでいて婦人はいつも下手に就いて、無理も御道理にして通さねばならないという、そんな勘定に合わないことッちゃあ、あるもんじゃない。どこかへ行こうといったって、良人がならないといえば、はい、起てといえば、はい、寝ろといわれりゃそれも、はい、だわ。
人間一人を縦にしようが、横にしようが、自分の好なままにしておきながら、まだ不足で、たとえば芳さんと談話をすることはならぬといわれりゃ、やっぱり快く落着いて談話も出来ないだろうじゃないかね。
一体操を守れだの、良人に従えだのという、捉かなんか知らないが、そういったようなことを極めたのは、誰だと、まあ、お思いだえ。
一遍婚礼をすりゃ疵者だの、離縁るのは女の恥だのッて、人の身体を自由にさせないで、死ぬよりつらい思いをしても、一生嫌な者の傍についてなくッちゃあならないというのは、どういう理窟だろう、わからないじゃないかね。
まさか神様や、仏様のおつげがあったという訳でもあるまいがね。もともと人間がそういうことを拵えたのなら、誰だって同一人間だもの、何密夫をしても可い、駈落をしても可いと、言出した処で、それが通って、世間がみんなそうなれば、かえって貞女だの、節婦だの、というものが、爪はじきをされようも知れないわ。
旦那は、また、何の徳があって、私を自由にするんだろう。すっかり自分のものにしてしまって、私の身体を縛ったろうね。食べさしておくせいだといえば、私ゃ一人で針仕事をしても、くらしかねることもないわ。ねえ、芳さん、芳さんてばさ。」
少年は太くこの答に窮して、一言もなく聞きたりけり。
お貞はなおも語勢強く、
「ほんとに虫のいい談話じゃないかね、それとも私の方から、良人になッて下さいって、頼んで良人にしたものなら、そりゃどんなことでも我慢が出来るし、ちっとも不足のあるもんじゃあないが、私と旦那なんざ、え、芳さん、夫にした妻ではなくッて、妻にした良人だものを。何も私が小さくなッて、いうことを肯いて縮んでいる義理もなし、操を立てるにも及ばないじゃあないか。
芳さんとだってそうだわ。何もなかをよくしたからとッて、不思議なことはないじゃあないかね。こないだ騒ぎが持上って、芳さんがソレ駈出した、あの時でも、旦那がいろいろむずかしくいうからね、(はい、芳さんとは姉弟分になりました。どういう縁だか知らないけれど、私が銀杏返に結っていますと、亡なった姉様に肖てるッて、あの児も大層姉おもいだと見えまして、姉様々々ッて慕ってくれますもんですから、私もつい可愛くなります。)と無理だとは言われないつもりで言ったけれど、(他人で、姉弟というがあるものか)ッて、真底から了簡しないの。傍に居た伯父さんも、伯母さんも、やっぱりおんなじようなことを言って、(ふむ、そんなことで世の中が通るものか。言ようもあろうのに、ナニ姉弟分だ。)とこうさ。口惜しいじゃあないかねえ。芳さん、たとい芳さんを抱いて寝たからたッて、二人さえ潔白なら、それで可いじゃあないか、旦那が何と言ったって、私ゃちっとも構やしないわ。」
お貞はかく謂えりしまで、血色勝れて、元気よく、いと心強く見えたりしが、急に語調の打沈みて、
「しかしこうはいうものの、芳さん世の中というものがね、それじゃあ合点しないとさ。たとい芳さんと私とが、どんなに潔白であッたからっても、世間じゃそうとは思ってくれず、(へん、腹合せの姉弟だ。)と一万石に極っちまう! 旦那が悪いというでもなく、私と芳さんが悪いのでもなく、ただ悪いのは世間だよ。
どんなに二人が潔白で、心は雪のように清くッてもね、泥足で踏みにじって、世間で汚くしてしまうんだわ。
雪といえば御覧な、冬になって雪が降ると、ここの家なんざ、裏の地面が畠だからね、木戸があかなくッて困るんだよ。理窟を言えば同一で、垣根にあるだけの雪ならば、無理に推せば開くけれど、ずッとむこうの畠から一面に降りつづいて、その力が同一になって、表からおすのだもの。どうして、何といわれても、世間にゃあ口が開かないのよ。
男の腕なら知らないこと、女なんざそれを無理にこじあけようとすると、呼吸切がしてしまうの。でも芳さんは士官になるというから、今に大将にでもおなりの時は、その力でいくらも世間を負かしてしまって、何にも言わさないように出来もしようけれど、今といっちゃあたッた二人で、どうすることもならないのよ。
それとも神様や仏様が、私だちの手伝をして、力を添えて下さりゃ可いけれど、そんな願はかなわないわね。
婆々じみるッて芳さんはお笑いだが、芳さんなぞはその思遣があるまいけれど、可愛い児でも亡くして御覧、そりゃおのずと後生のことも思われるよ。
あれは、えらい僧正だって、旦那の勧める説教を聞きはじめてから、方々へ参詣ったり、教を聞いたりするんだがね。なるほどと思うことばかり、それでも世の中に逆らッて、それで、御利益があるッてことは、ちっとも聞かしちゃあくれないものを。
戸を推ッつけてる雪のような、力の強い世の中に逆らって行こうとすると、そりゃ弱い方が殺されッちまうわ。そうすりゃもう死ぬより他はないじゃないかね。
私ももうもう死んでしまいたいと思うけれど、それがまたそうも行かないものだし、このごろじゃ芳さんという可愛いものが出来たからね、私ゃ死ぬことは嫌になったわ。ほんとうさ! 自分の児が可愛いとか、芳さんとこうやって談話をするのが嬉しいとか、何でも楽みなことさえありゃ、たとい辛くッても、我慢が出来るよ。どうせ、私は意気地なしで、世間に負けているからね、そりゃ旦那は大事にもする、病気が出るほど嫌な人でも、世間にゃ勝たれないから、たとい旦那が思い切って、縁を切ろうといってもね、どんな腹いせでも旦那にさせて、私ゃ、あやまって出て行かない。」
と歯をくいしめてすすり泣きつ。
お貞は幾年来独り思い、独り悩みて、鬱積せる胸中の煩悶の、その一片をだにかつて洩せしことあらざりしを、いま打明くることなれば、順序も、次第も前後して、乱れ且つ整わざるにも心着かで、再び語り続けたり。
「いっちゃ女の愚痴だがね。私はさっきいったように、世の中というものがあって、自分ばかりじゃないからと、断念めて、旦那に事えてはいるけれど、一日に幾度となく、もうふツふツ嫌になることがあるわ。
芳さんも知っておいでだ。ついこないだのことだっけ、晩方旦那の友達が来たので、私もその日は朝ッから、塩梅が悪くッて、奥の室に寝ていた処へ、推懸けたもんだから、外に別に部屋はなし、ここへ出て坐っていたの。
お客がまた私の大嫌な人で、旦那とは合口だもんだから、愉快そうに話してたッけが、私は頭痛がしていた処へ、その声を聞くとなお塩梅が悪くなって、胸は痛む、横腹は筋張るね、おいおい薄暗くはなって来る。暑いというので燈火はつけずさ。陰気になって、いろんなことを考え出して、つい堪らなくなったから、横になろうと思っても、直ぐ背後に居るんだもの、立膝も出来ないから、台所へ行って板の間にでもと思ったが、あすこにゃ蚊が酷いし、仕方がないから戸外へ出て、軒下にしゃがんで泣いてた処へ、ちょうどお前さんが来ておくれで、二階へ来いとおいいだから、そっと上ると、まあ、おとしよりが御深切に、胸を押して下すったので、私ゃもう難有くッて、嬉しくッて、心じゃ手を合せて拝んだわ。
おかげでやっと胸が開きそうになって、ほっと呼吸をついた処へ、
(貞はそこに参っておりましょうな。)と、壇階子の下へ来て、わざわざ旦那が呼んだじゃあないかね。
私ゃあんまりくさくさしたから、返事もしないで黙っていると、おばあさんがお聞きつけなすッて、
(階下へおいで、ね、ね、そうしないと悪い)ッて、みんなもうちゃんと推量して、やさしく言って下さるんだもの。
(ここに居とうございます!)と、おばあ様の膝に縋りついたの。
下ではなお呼ぶもんだから、おばあさんが私のかわりに返事をなすって、
(可いから、可いから。)と、低声でおっしゃってね、背を撫でて下さるもんだから、仕方なしに下りて行くと、お客はもう帰っていてね、嫌な眼で睨まれたよ。
空いてる室がないもんだから、そういう時には困っちまう。アレ悪く取っちゃあ困るわね。
何も芳さんに二階を貸しておいて、こういっちゃあわるいけれど、はじめッからこの家は嫌いなの。
水は悪いし、流元なんざ湿地で、いつでもじくじくして、心持が悪いっちゃあない。雪どけの時分になると、庭が一杯水になるわ。それから春から夏へかけては李の樹が、毛虫で一杯。
それに宅中陰気でね、明けておくと往来から奥の室まで見透しだし、ここいら場末だもんだから、いや、あすこの宅はどうしたの、こうしたのと、近所中で眼を着けて、晩のお菜まで知ってるじゃあないかね。大嫌な猫がまた五六疋、野良猫が多いので、のそのそ入って、ずうずうしく上り込んで、追ってもにげるような優しいんじゃない。
隣の小猫はまた小猫で、それ井戸は隣と二軒で使うもんだから、あすこの隔から入って来ちゃあ、畳でも、板の間でも、ニャアニャア鳴いて歩行くわ。
隣の猫のこッたから、あのまた女房が大抵じゃないのだからね、(家の猫を)なんて言われるが嫌さに、打つわけにはもとよりゆかず、二三度干物でも遣ったものなら、可いことにして、まつわって、からむも可いけれど、芳さん、ありゃ猫の疱瘡とでもいうのかしら。からだじゅう一杯のできもので、一々膿をもって、まるで、毛が抜けて、肉があらわれてね、汚なくって手もつけられないよ。それがさ、昨夜も蚊帳の中へ入込んで、寝ていた足をなめたのよ。何の因果だか、もうもう猫にまで取着かれる。」
と投ぐるがごとく言いすてつ。苦笑して呟きたり。
「ほんとうに泣より笑だねえ。」
お貞の言途絶えたる時、先刻より一言も、ものいわで渠が物語を味いつつ、是非の分別にさまよえりしごとき芳之助の、何思いけん呵々と笑い出して、
「ははは、姉様は陰弁慶だ。」
お貞は意外なる顔色にて、
「芳さん、何が陰弁慶だね。」
「だってそんなに決心をしていながら、一体僕の分らないというのはね、人ががらりと戸を明けると、眼に着くほどびっくりして、どきり! する様子が確に見えるのは、どういうものだろう。髯の留守に僕と談話でもしている処へ唐突に戸外があけば、いま姉様がいった世間の何とかで、吃驚しないにも限らないが、こうしてみるに、なにもその時にゃ限らないようだ。いつでもそうだから可笑いじゃないか。それに姉様のは口でいうと反対で、髯の前じゃおどおどして、何だか無暗に小さくなって、一言ものをいわれても、はッと呼吸のつまるように、おびえ切っている癖に。今僕に話すようじゃ、酸いも、甘いも、知っていて、旦那を三銭とも思ってやしない。僕が二厘の湯銭の剰銭で、(ちょいとこさ)を追返したよりは、なお酷く安くしてるんだ。その癖、世間じゃ、(西村の奥様は感心だ。今時の人のようでない。まるで嫁にきたてのように、旦那様を大事にする。婦人はああ行かなければ嘘だ。貞女の鑑だ。しかし西村には惜いものだ。)なんとそう言ってるぞ。そうすりゃ世間も恐しくはなかろうに、何だって、あんなにびくびくするのかなあ。だから姉様は陰弁慶だ。」
と罪もなくけなしたるを、お貞は聞きつつ微笑みたりしが、ふと立ちて店に出で行き、往来の左右を視め、旧の座に帰りて四辺を眗し、また板敷に伸上りて、裏庭より勝手などを、巨細に見て座に就きつ。
「それはね、芳さん、こうなのよ。」
という声もハヤふるえたり。
「芳さんだと思って話すのだから、そう思ッて聞いておくれ。
私はね、可いかい。そのつもりで聞いておくれ。私はね、いつごろからという確なことは知らないけれど、いろんな事が重り重りしてね、旦那が、旦那が、どうにかして。
死んでくれりゃいい。死んでくれりゃいい。死ねばいい。死ねばいい。
とそう思うようになったんだよ。ああ、罪の深い、呪詛うのも同一だ。親の敵ででもあることか、人並より私を思ってくれるものを、(死んでくれりゃいい)と思うのは、どうした心得違いだろうと、自分で自分を叱ってみても、やっぱりどうしてもそう思うの。
その念が段々嵩じて、朝から晩まで、寝てからも同一ことを考えてて、どうしてもその了簡がなおらないで、後暗いことはないけれど、何に着け、彼に着け、ちょっとの間もその念が離れやしない。始終そればかりが気にかかって、何をしても手に着かないしね、じっと考えこんでいる時なんざ、なおのこと、何にも思わないでその事ばかり。ああ、人の妻の身で、何たる恐しい了簡だろうと、心の鬼に責められちゃあ、片時も気がやすまらないで、始終胸がどきどきする。
それがというと、私の胸にあることを、人に見付かりやしまいかと、そう思うから恐怖んだよ。
わけても、旦那に顔を見られるたびに、あの眼が、何だか腹の中まで見透すようで、おどおどしずにゃいられない。(貞)ッて一声呼ばれると、直ぐその、あとの句が、(お前、吾の死ぬのが待遠いだろう。)とこう来るだろうと思うから、はッとしないじゃいられないわね。それで何ぞ外のことを言われると、ほッと気が休まって、その嬉しさっちゃないもんだから、用でも、何でも、いそいそする。
それにこうやって、ここへ坐って、一人でものを考えてる時は、頭の中で、ぐるぐるぐるぐる、(死ねば可い)という、鬼か、蛇か、何ともいわれない可恐ものが、私の眼にも見えるように、眼前に駈まわっているもんだから、自分ながら恐しくッて、観音様を念じているの。そこへがらりと戸を開けられちゃあ、どうして慌てずにいられよう。(ああ、めッかった。)と、もう死んだ気になっちまう!
それが心配で、心配で、どうぞして忘れたいと思うから、けもないことにわあわあ騒いだり、笑ったり、他所めには、さも面白そうに見えようけれど、自分じゃ泣きたいよ。あとではなおさら気がめいッて、ただしょんぼりと考え込むと、また、いつもの(死ねばいい)が見えるようなの。
恐しくッてたまらないから、どうぞこの念がなくなりますようにと、観音様に願っても、罪が深いせいなのか、段々強くなるばかり。
気のせいか知らないけれど、旦那は日に日に血色が悪くなって、次第に弱って行く様子、こりゃ思いが届くのかと考えると、私ゃもう居ても起っても堪らない。
だから旦那が煩いでもすると、ハッと思って、こりゃどうでも治さないと、私が呪詛殺すのだと、もうもうさほどでもない病気でも、夜の目も寝ないで介抱するが、お医者様のお薬でも、私の手から飲ませると、かえって毒になるようで、何でも半日ばかりの間は、今にも薬の毒がまわって、血でも吐きやしないかしらと、どうしてその間の心配というものは! でもそれでもやっぱり考えることといったら、ちっとも違はない、(死ねば可い。)で、早くなおって欲しいのは、実は(死ねば可い。)と思うからだよ。
ねえ、芳さん分ったろう。もう胸が一杯で、口も利かれやしないから、後生だ、推量しておくれ。も、私ゃ、私はもう芳さんどうしたら可いんだねえ。」
と身を震わしたるいじらしさ!
お貞がこの衷情に、少年は太く動かされつ。思わず暗涙を催したり。
「ああ姉様は可哀そうだねえ。僕が、僕が、僕が、どうかしてあげようから、姉さん死んじゃあ不可いよ。」
お貞は聞きて嬉しげに少年の手をじっと取りて、
「嬉しいねえ。何の自害なんかするもんかね、世間と、旦那として私をこんなにいじめるもの。いじめ殺されて負けちゃ卑怯よ。意気地が無いわ。可いよ、そんな心配は要らないよ。私ゃ面あてにでも、活きている。たといこの上幾十倍のつらい悲しいことがあっても、きっと堪えて死にゃあしないわ。と心強くはいってみても、死なれないのが因果なのだねえ。」
ほろりとして見る少年の眼にも涙を湛えたり。時に二階より老女の声。
「芳や、帰ったの。」
「あれ、おばあさんが。」
「はい、唯今。」
二段ばかり少年は壇階子を昇り懸けて、と顧みて驚きぬ。時彦は帰宅して、はや上口の処に立てり。
我が座を立ちしと同時ならむ。と思うも見るもまたたくま、さそくの機転、下を覗きて、
「もう、奥様、何時です。」
「は。」
とお貞は起ちたるが、不意に顛倒して、起ちつ、居つ。うろうろ四辺を見廻す間に、時彦は土間に立ちたるまま、粛然として帯の間より、懐中時計を取出し、丁寧に打視めて、少年を仰ぎ見んともせず、
「五十九分前六時です。」
「憚様。」
と少年は跫音高く二階に上れり。
時彦は時計を納めつ。立ちも上らず、坐りも果てざる、妻に向いて、沈める音調、
「貞、床を取ってくれ、気分が悪いじゃ。貞、床をとってくれ、気分が悪いじゃ。」
面は死灰のごとくなりき。
時彦はその時よりまた起たず、肺結核の患者は夏を過ぎて病勢募り、秋の末つ方に到りては、恢復の望絶果てぬ。その間お貞が尽したる看護の深切は、実際隣人を動かすに足るものなりき。
渠は良人の容体の危篤に陥りしより、ほとんど一月ばかりの間帯を解きて寝しことあらず、分けてこのごろに到りては、一七日いまだかつて瞼を合さず、渠は茶を断ちて神に祈れり。塩を断ちて仏に請えり。しかれども時彦を嫌悪の極、その死の速かならんことを欲する念は、良人に薬を勧むる時も、その疼痛の局部を擦る隙も、須臾も念頭を去りやらず。甚しいかなその念の深く刻めるや、おのが幾年の寿命を縮め、身をもて神仏の贄に供えて、合掌し、瞑目して、良人の本復を祈る時も、その死を欲するの念は依然として信仰の霊を妨げたり。
良人の衰弱は日に著けきに、こは皆おのが一念よりぞと、深更四隣静まりて、天地沈々、病者のために洋燈を廃して行燈にかえたる影暗く、隙間もる風もあらざるにぞ、そよとも動かぬ灯影にすかして、その寂たること死せるがごとき、病者の面をそと視めて、お貞は顔を背けつつ、頤深く襟に埋めば、時彦の死を欲する念、ここぞと熾に燃立ちて、ほとんど我を制するあたわず。そがなすままに委しおけば、奇異なる幻影眼前にちらつき、𤏋と火花の散るごとく、良人の膚を犯すごとに、太く絶え、細く続き、長く幽けき呻吟声の、お貞の耳を貫くにぞ、あれよあれよとばかりに自ら恐れ、自ら悼み、且つ泣き、且つ怒り、且つ悔いて、ほとんどその身を忘るる時、
「お貞。」
と一声、時彦は、鬱し沈める音調もて、枕も上げで名を呼びぬ。
この一声を聞くとともに、一桶の氷を浴びたるごとく、全身の血は冷却して、お貞は、
「はい。」
と戦きたり。
時彦はいともの静に、
「お前、このごろから茶を断ッたな。」
「いえ、何も貴下、そんなことを。」
と幽かにいいて胸を圧えぬ。
時彦は頤のあたりまで、夜着の襟深く、仰向に枕して、眼細く天井を仰ぎながら、
「塩断もしてるようだ。一昨日あたりから飯も食べないが、一体どういう了簡じゃ。」
(貴下を直したいために)といわんは、渠の良心の許さざりけむ、差俯向きてお貞は黙しぬ。
「あかりが暗い、掻立てるが可い。お前が酷く瘠せッこけて、そうしょんぼりとしてる処は、どう見ても幽霊のようじゃ、行燈が暗いせいだろう。な。」
「はい。」
お貞は、深夜幽霊の名を聞きて、ちりけもとより寒さを感じつ。身震いしながら、少しく居寄りて、燈心の火を掻立てたり。
「そんなに身体を弱らせてどうしようという了簡なんか。うむ、お貞。」
根深く問うに包みおおせず、お貞はいとも小さき声にて、
「よく御存じでございます。」
「むむ、お前のすることは一々吾ゃ知っとるぞ。」
「え。」
とお貞はずり退りぬ。
「茶断、塩断までしてくれるのに、吾はなぜ早く死なんのかな。」
お貞は聞きて興覚顔なり。
時彦の語気は落着けり。
「疾く死ねば可いと思うておって、なぜそんな真似をするんだな。」
と声に笑いを含めて謂えり。お貞はほとんど狂せんとせり。
病者はなおも和かに、
「何、そう驚くにゃ及ばない。昨日今日にはじまったことではないが、お貞、お前は思ったより遥に恐しい女だな。あれは憎い、憎い奴だから殺したいということなら、吾も了簡のしようがあるが、(死んでくれりゃ可い。)は実に残酷だ。人を殺せば自分も死なねばならぬというまず世の中に定規があるから、我身を投出して、つまり自分が死んでかかって、そうしてその憎い奴を殺すのじゃ。誰一人生命を惜まぬものはない、活きていたいというのが人間第一の目的じゃから、その生命を打棄ててかかるものは、もう望を絶ったもので、こりゃ、隣むべきものである。
お前のはそうじゃあない。(死んでくれりゃ可い)と思うので、つまり精神的に人を殺して、何の報も受けないで、白日青天、嫌な者が自分の思いで死んでしまった後は、それこそ自由自在の身じゃでの、仕たい三昧、一人で勝手に栄耀をして、世を愉快く送ろうとか、好な芳之助と好いことをしようとか、怪しからんことを思うている、つまり希望というものがお前にあるのだ。
人の死ぬのを祈りながら、あとあとの楽みを思うている、そんな太い奴があるもんか。
吾はきっと許さんぞ。
そうそう好なまねをお前にされて、吾も男だ、指を啣えて死にはしない。
といつも思っていたんだが、もうこの肺病には勝たれない、いや、つまり、お前に負けたのだ。
してみれば、お貞、お前が呪詛殺すんだと、吾がそう思っても、仕方があるまい。
吾はどのみち助からないと、初手ッから断念めてるが、お貞、お前の望が叶うて、後で天下晴に楽まれるのは、吾はどうしても断念められない。
謂うと何だか、女々しいようだが、報のない罪をし遂げて、あとで楽をしようという、虫の可いことは決して無い。またそうさせるような吾でもない。
お貞、謝罪をしちゃあ可かんぞ。お前は何も謝罪をすることもなし、吾も別に謝罪を聞く必要も認めんじゃ。悪かったというて謝罪をすればそれで済む、謝罪を聞けば了簡すると、そんな気楽なことを思うと、吾のいうことが分るまいでな。何でもしたことには、それ相当の報酬というものが、多くもなく、少なくもなく、ちょうど可いほどあるものだと、そう思ってろ! 可いか、お貞、……お貞。」
と少し急き込みて、絶え入るばかりに咽びつつ、しばらく苦痛を忍びしが、がらがらと血を吐きたり。
いつもかかることのある際には、一刀浴びたるごとく、蒼くなりて縋り寄りし、お貞は身動だもなし得ざりき。
病者は自ら胸を抱きて、眼を瞑ること良久しかりし、一際声の嗄びつつ、
「こう謂えばな、親を蹴殺した罪人でも、一応は言訳をすることが出来るものをと、お前は無念に思うであろうが、法廷で論ずる罪は、囚徒が責任を負ってるのだ。
今お前が言訳をして、今日からどんな優しい気になろうとも、とても助からない吾に取っては、何の利益も無いことで、死んでしまえば、それ、お前は日本晴で、可いことをして楽むんじゃ。そううまくはきっとさせない。言訳がましいことを謂うな。聞くような吾でもなし。またお前だってそうだ。人殺よりなおひどい、(死んでくれれば可い)と思うほどの度胸のある婦人でないか。しっかりとしろ! うむ、お貞。」
お貞は屹と顔を上げて、
「はい、決して申訳はいたしません。」
といと潔よく言放てる、両の瞳の曇は晴れつ。旭光一射霜を払いて、水仙たちまち凜とせり。
病者は心地好げに頷きぬ。
「可し、よく聞け、お貞。人の死ぬのを一日待に待ち殺して、あとでよい眼を見ようというはずるいことだ。考えてみろ。お前は今までに人情の上から吾に数え切れない借があろう。それをな、その負債をな。今吾に返すんだ。吾はどうしても取ろうというのだ。」
いと恐しき声にもおじず、お貞は一膝乗出して、看病疲れに繕わざる、乱れし衣紋を繕いながら、胸を張りて、面を差向け、
「旦那、どうして返すんです。」
「離縁しよう。いまここで、この場から離縁しよう。死にかかっている吾を見棄てて、芳之助と手を曳いて、温泉へでも湯治に行け。だがな、お前は家附の娘だから、出て行くことが出来ぬと謂えば、ナニ出て行くには及ばんから、床ずれがして寝返りも出来ない、この吾を、芳之助と二人で負って行って、姨捨山へ捨てるんだ。さ、どちらでも構わない。ただ、(人の妻たる者が、死にかかってる良人を見棄てた。)とこういうことが世間へ知れて、世の中の者がみんなその気でお前に附合えば、それで可い、それで可い。ちっとは負債が返せるのだ。
しかし、これはお前には出来ぬこッた。お前は世間体というものを知ってるから、平生、吾が健全な時でも、そんな事は噯にも出さないほどだ。それが出来るくらいなら、もう疾くに離別てしまったに違いない。うむ、お貞、どうだ、それとも見棄てて、離縁が出来るか。」
お貞は一思案にも及ばずして、
「はい、そんなことは出来ません。」
病者はさもこそと思える状なり。
「それではお貞、お前の念いで死なないうちに、……吾を殺せ。」
と静にいう。
「え、貴下を!」
「うむ、吾を。お貞、ずるい根性を出さないで、表向に吾を殺して、公然、良人殺しの罪人になるのだ。お貞、良人殺の罪人になるのだ。うむお貞。
吾を見棄てるか、吾を殺すか、うむ、どちらにするな。何でも負債を返さないでは、あんまり冥利が悪いでないか。いや、ないかどころでない! そうしなけりゃ許さんのだ。うむ、お貞、どっちにする、殺さないと、離縁にする!」
といと厳かに命じける。お貞は決する色ありて、
「貴下、そ、そんなことを、私にいってもいいほどのことがあるんですか。」
声ふるわして屹と問いぬ。
「うむ、ある。」
と確乎として、謂う時病者は傲然たりき。
お貞はかの女が時々神経に異変を来して、頭あたかも破るるがごとく、足はわななき、手はふるえ、満面蒼くなりながら、身火烈々身体を焼きて、恍として、茫として、ほとんど無意識に、されど深長なる意味ありて存するごとく、満身の気を眼にこめて、その瞳をも動かさで、じっと人を目詰むれば他をして身の毛をよだたすことある、その時と同一容体にて、目まじろぎもせで、死せるがごとき時彦の顔を瞻りしが、俄然、崩折れて、ぶるぶると身震いして、飛着くごとく良人に縋りて、血を吐く一声夜陰を貫き、
「殺します、旦那、私はもう……」
とわッとばかりに泣出しざま、擲たれたらんかのごとく、障子とともに僵れ出でて、衝と行き、勝手許の暗を探りて、渠は得物を手にしたり。
時彦ははじめのごとく顔の半ばに夜具を被ぎ、仰向に寝て天井を眺めたるまま、此方を見向かんともなさずして、いとも静に、冷かに、着物の袖も動かさざりき。
諸君、他日もし北陸に旅行して、ついでありて金沢を過りたまわん時、好事の方々心あらば、通りがかりの市人に就きて、化銀杏の旅店? と問われよ。老となく、少となく、皆直ちに首肯して、その道筋を教え申さむ。すなわち行きて一泊して、就褥の後に御注意あれ。
間広き旅店の客少なく、夜半の鐘声森として、凄風一陣身に染む時、長き廊下の最端に、跫然たる足音あり寂寞を破り近着き来りて、黒きもの颯とうつる障子の外なる幻影の、諸君の寝息を覗うあらむ。その時声を立てられな。もし咳をだにしたまわば、怪しき幻影は直ちに去るべし。忍びて様子をうかがいたまわば、すッと障子をあくると共に、銀杏返の背向に、あとあし下りに入り来りて、諸君の枕辺に近づくべし。その瞬時真白なる細き面影を一見して、思わず悚然としたまわんか。トタンに件の幽霊は行燈の火を吹消して、暗中を走る跫音、遠く、遠く、遠くなりつつ、長き廊下の尽頭に至りて、そのままハタと留むべきなり。
夜はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来を慮りて、諸君は一夜を待明かさむ。
明くるを待ちて主翁に会し、就きて昨夜の奇怪を問われよ。主翁は黙して語らざるべし。再び聞かれよ、強いられよ、なお強いられよ。主翁は拒むことあたわずして、愁然としてその実を語るべきなり。
聞くのみにてはあき足らざらんか、主翁に請いて一室に行け。密閉したる暗室内に俯向き伏したる銀杏返の、その背と、裳の動かずして、あたかもなきがらのごとくなるを、ソト戸の透より見るを得べし。これ蓋し狂者の挙動なればとて、公判廷より許されし、良人を殺せし貞婦にして、旅店の主翁はその伯父なり。
されど室内に立入りて、その面を見んとせらるるとも、主翁は頑として肯ぜざるべし。諸君涙あらば強うるなかれ。いかんとなれば、狂せるお貞は爾来世の人に良人殺しの面を見られんを恥じて、長くこの暗室内に自らその身を封じたるものなればなり。渠は恐懼て日光を見ず、もし強いて戸を開きて光明その膚に一注せば、渠は立処に絶して万事休まむ。
光を厭うことかくのごとし。されば深更一縷の燈火をもお貞は恐れて吹消し去るなり。
渠はしかく活きながら暗中に葬り去られつ。良人を殺せし妻ながら、諸君請う恕せられよ。あえて日光をあびせてもてこの憐むべき貞婦を射殺すなかれ。しかれどもその姿をのみ見て面を見ざる、諸君はさぞ本意なからむ。さりながら、諸君より十層二十層、なお幾十層、ここに本意なき少年あり。渠は活きたるお貞よりもむしろその姉の幽霊を見んと欲して、なお且つしかするを得ざるものをや。
底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店
1942(昭和17)年9月30日発行
初出:「文芸倶楽部」
1896(明治29)年2月
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年7月3日作成
2012年9月29日修正
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