街の少年
豊島与志雄
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一
港というものは、遠く海上を旅する人々の休み場所、停車場というものは、陸上を往き来する人々の休み場所、どちらもにぎやかなものです。その港と停車場とがいっしょに集まると、さらににぎやかでおもしろいものです。
インドのある都会の、港と停車場をむすびつける広場でのことです。港には毎日、船がではいりします。停車場には毎時間、汽車がではいりします。そして広場には、しじゅう人通りがたえません。いろんな人が通ります。世界各国の人が通ります。
その広場のかたすみ、橄欖樹のこかげに、トニイは店をだしています。車のうえに板をわたしたやたい店で、絵はがき、絵本、絵いり雑誌、木や竹のおもちゃ、象牙の細工物など、いっぱいにならべています。そしてトニイは、そのやたい店のよこに、木の箱に腰かけて、本を読んでいます。
トニイは十五歳です。本を読むのがたいへんすきです。けれどその本はもう、絵本や絵いり雑誌ではありません。古本屋からむずかしい本をかりてきて、ひとりで勉強してるのです。
店の前に人がたちどまると、トニイは本をふせ、顔をあげて、にっこり笑います。その笑顔がたいへんかわいいので、たちどまった人は何か買ってくれます。
昼まは、日の光がぎらぎらてりつけます。でも、トニイのやたい店は、橄欖樹のかげのなかにあります。夕方になると、すぐ上の方に、あかるい街灯がともります。
ある晩、その広場の、トニイのところからちょうど向こう側に、一人の少女が立っていました。そまつな麦わらの帽子にそまつな麻の服をつけていますが、片手にいっぱい花をかかえています。そしていつまでもじっと立っています。
トニイは気になって、時々その方をながめました。赤や白や紫の花だけがきれいで、少女はさびしそうで棒杭のようです。誰かを待っているのでしょうか。いつまでもじっと立っているつもりでしょうか。
時々、少女はすこしあるきだします。がまた、うなだれてじっとたちどまります。おおぜいの人々が、目もくれないで通りすぎていきました。
酒によった四五人の水夫が通りかかりました。少女の前にたちどまって、何かがやがやいっていましたが、いきなり、少女がかかえている花束から、二三本花をぬきとって、頭の上でうちふりました。そしてこんどは、みんなで少女をつかまえようとしました。
少女はするりと逃げました。水夫たちはよろよろとした足どりで、そのあとを追っかけました。少女はあちこち逃げまわり、広場をよこぎってきて、トニイのやたい店のかげにかくれました。酔ってる水夫たちは、もう少女にはかまわないで、花をうちふりながら、向こうにいってしまいました。
ぼんやりつっ立っている少女の姿を、トニイはじろじろながめました。
「どうしたんだい」
声をかけられて、急に、少女はしくしく泣きだしました。
「ばかだなあ。泣くことがあるもんか」
少女は泣きやんで、びっくりしたように目をみはりました。ふかぶかとした青い大きな目でした。
「向こうで何をしていたんだい」とトニイはたずねました。
少女はしばらくじっとしていて、それから答えました。
「あたし、花売りにでたの」
「花売り? 君は花売り娘かい」
少女はうなずきましたが、そのひょうしに、またはらはらと涙をこぼしました。
「泣きむしだなあ、君は。泣きむしの花なんか売れるもんか。あんなところに立っていたって、花は売れやしないよ」
少女はトニイを見つめました。トニイはいいました。
「君はまだしんまいだな。今日からはじめたんだろう。そうだろう。よろしい、僕はこの絵はがき屋のトニイだ、僕の店をすこしかしてやろう。君の名はなんというんだい」
「マリイっていうの」
「ふーん、マリイか」
トニイはやたい店のよこの方をすこしかたづけ、そこにマリイのもっている花をならべました。そして木の箱をとりだしました。
「そこに腰かけて、待っているんだよ。絵本でも見てりゃいいよ。売りものだから、よごしちゃだめだよ」
トニイはまた本をよみはじめました。マリイは箱に腰かけて、ぼんやりしていました。
美しくきかざった男や女が通りかかっては、店の前にたちどまりました。絵はがきや絵本や細工物が、赤や白や紫の花とならんで、たいへんきれいでした。いろいろなものがよく売れました。
「どうだい、売れるだろう」とトニイはとくいそうにいいました。
「ええ」とマリイはにっこり笑いました。
夜おそくなって、トニイは立ち上がってのびをしました。そして、花のうれたお金と残った花とをマリイにわたしました。
「今夜はもうおしまいだ。よかったら、また明日おいでよ」
そして品物を箱にしまい、店をかたづけ、それを車につんで、その車をがらがらひっぱっていきました。
「さよなら」
マリイはそこにたたずんで、じっと見おくりました。
二
トニイは午後の三時頃から広場にやってきて、店をだします。マリイは日がくれてからやってきます。そして二人で仲よく、いろんな品物や花を売りました。ずいぶんよく売れました。
客のない間は、二人とも木の箱に腰かけて、トニイは本をよみ、マリイは絵本などをみ、そして時々話をしました。
マリイの父親は、支那やヨーロッパに通う貨物船の水夫でした。ところが二年ばかり前、その貨物船が行方不明になり、船といっしょに父親も行方がわからなくなりました。たぶん、船は沈み、父親は死んだものと、思われました。マリイは母親と二人で、さびしく暮していました。もとからびんぼうなのが、さらにびんぼうになりました。母親はよその家に雇われて、昼まだけ稼ぎに出ました。アパートの小さな安い部屋へと、なんども引っ越しました。そのうちに、母親は病気になりました。どうにもならなくなって、マリイは花売りになろうと決心したのでした。
「あたしどんなにでも働くわ。そしてお母さんによい薬をのましてあげたいの」とマリイはいいました。
「うむ、もすこししんぼうするんだよ」とトニイはいいました。
「今にこの店を大きくして、たくさん商売ができるようにしてあげよう」
広場のかたすみのやたい店ではなくて、りっぱな建物の一階、きれいなガラス戸がたっていて、明るく電灯がともってる店、中にはいっぱい、花をかざり、いろんな品物をならべる。温室にさいた珍しい花、世界各地からきた珍しい品物、お伽ばなしのような美しい店です。
そんなことを二人は空想し、話しあいました。そして毎日、広場のやたい店にでるのがたのしくなりました。
ところが、ある晩、マリイはやってきませんでした。それから次の晩も、また次の晩も……。病気なのでしょうか。何が起こったのでしょうか。
トニイは心配になりました。夜おそくおくっていったことがあるので、マリイの住居はわかっていました。トニイはたずねていきました。
ごみごみした裏町の、そまつな大きなアパートでした。うす暗い階段をのぼっていって、三階の、奥の部屋です。
トニイはそっと戸をたたきました。ひっそりしていて、何の返事もありません。トニイはまた戸をたたきました。少し強くたたきました。
しばらくすると、しずかに戸が少し開かれました。そしてマリイの大きな目がその間からのぞきました。
「あ、トニイさん……」
マリイはかけだしてきて、トニイの両手をとりました。涙ぐんでいました。
「どうしたんだい」
「ごめんなさい。でも、うれしい。あたし待ってたわ。早く……いらっしゃい……」
マリイはトニイの手をひっぱって、部屋の中にはいりました。
せまいきたない部屋でした。大きなテーブルが一つと、いくつかの小さな椅子、戸棚、炊事場……。マリイは横手の扉をあけて、次の部屋にトニイをひっぱっていきました。そこには、ベッドが二つならんでいて、その一つに、やせた蒼白い女が坐っていました。
「お母さん、トニイさんがきたわ」とマリイは叫びました。「あたしが言った通りよ。トニイさんが来たでしょう。ねえ、トニイさんはいけない人じゃないわ」
トニイは何のことかわけがわからず、ただマリイのお母さんにていねいに挨拶をしました。
マリイはあいてる方のベッドにトニイを腰かけさして、これまでのことを話しました。──先日、アパートの受付の婆さんのところへ、一人の男がやってきて、マリイに届けてくれと、小さな包みをおいていきました。マリイはそれを受け取って、あけてみると、びっくりしました。金貨や銀貨がたくさんはいっていて、ただそれだけです。それを持ってきたのは、どんな男だか、いくら婆さんにきいても、よくわかりませんでした。りっぱなみなりの紳士らしい人……というきりです。婆さんはぼんやりしていて、顔もよく覚えていないんです。何だか気味がわるくて、困ってしまいました。お母さんは心配しはじめました。マリイを誘惑するためじゃないかと思いました。ほかに誰も心あたりがないので、トニイをうたがいました。もう花売りにでてはいけないといいました。もしトニイがそのお金にかんけいがなくて、りっぱな人だったら、こちらにたずねてくるはずだといいました。それでマリイは、トニイが来てくれるのを待っていたのです。
「ねえ、あんたは何のかんけいもないんでしょう。だいいち、そんなにお金をもってるわけがないんだもの……」
マリイは戸棚から紙包みをとりだして、そこにひろげました。金貨や銀貨がたくさんはいっていました。
トニイは腕をくんで考えこみました。それから、金貨や銀貨をつかみとって、それを打ち合わしてみました。
「にせもんじゃない。ほんとのお金だね」
「そうでしょう。かまやしないわね、使ったって……。神さまが下さったと思やいいわ。これだけお金があれば、りっぱな店が出せるわね。二人で話してたでしょう、りっぱな美しい店をだしたいって……。ねえ、そうしましょうよ」
「だが、君の名前をいっておいていったんだから、君を知ってる人にちがいないし……」
「だってあたし、そんな人、知らないわ。神さまよ、きっと。あたしたちのことをあわれんでくだすってるのよ。そう思ったらいいじゃないの」
「うむ……とにかく、ふしぎだなあ」
マリイの母親は、トニイのようすをじっと見ていましたが、もう疑いがはれたようでした。そしてこれまでのことをお礼をいい、これからのことを相談しました。
トニイは考えこみました。腕をくんで、部屋の中をあるきまわりました。そしてふと、立ち止まりました。
部屋の壁に、一枚の写真がかかっていました。トニイはそれをじっと見つめました。
「これは誰ですか」
「あたしのお父さんよ」とマリイが答えました。
「これが君のお父さん……」
「ええそうよ。二年前に、船が沈んで、なくなったの……。話したでしょう」
マリイがふいにとんできました。
「あんた、あたしのお父さん知ってるの」
「なあに……ちょっと、似てる人があったから……」
「どんな人?」
「いや、なんでもないよ……」
トニイは写真の前からはなれて、また歩きだしました。それから、きっぱりしたちょうしでいいました。
「とにかく、そのお金は、もすこししまっておくがいいよ。そして君は、花売りにでないで、家にじっとしておいでよ。僕にいい考えがある。僕に任せといてくれ。今に、はっきりさしてやるから……」
三
トニイはふしぎでなりませんでした。マリイの家にかかってる写真と、あるりっぱな紳士と……それがよく似ているんです。写真の方は、鳥打帽に水夫服の、そまつなみなりです。紳士の方は、中折帽に背広服をつけ、ダイヤかなんかのネクタイピンを光らせ、時計の金鎖を胸にからませ、べっこうぶちの眼鏡をかけています。けれども、眉から鼻から口もとまで、そっくり同じです。
へんな紳士でした。トニイがやたい店にぼんやりしていました時、その紳士が一人で通りかかって、しばらく絵はがきをあれこれ手にとってながめて、一枚も買わずに立ち去りました。それから戻ってきて、笑いながらいいました。
「絵はがきの代はいらないのかい」
「どの絵はがきですか」とトニイはたずねました。
「はははは、君はぼんやりだな。これだよ」
彼は上衣のポケットから絵はがきを四五枚とりだしました。みなトニイの店にあったものなんです。
「どうだい、気がつかなかったろう」
「なあんだ、さっきごまかしたんですね。よし、も一度やってごらんなさい。こんどはごまかされやしません」
紳士は絵はがきを手でいじくりまわしました。トニイはその手もとをみつめていました。よろしいという合図で、とったかとらないか、とったならどこにかくしたか、それをあてるんです。ところが、紳士はとても巧妙で、トニイにはどうしても見当がつきませんでした。とったと思っていると、一枚もとっていません。まだとらないと思ってると、四五枚ポケットにしまいこんでいます。カードの奇術と同じことでした。
「おどろいたなあ、あなたは奇術をやるんですか」
「なあに、ちょっとしたなぐさみさ。またこんど寄るよ。これは遊びちんだ。絵はがきなんかいらない」
紳士は銀貨を一枚ほうりだして、行ってしまいました。
それから時々、その紳士はトニイの店にたちよりました。いつも酒によってるようでした。そして絵はがきのごまかしっこをして、トニイと遊びました。トニイもだんだんうまくなりました。二人はもう仲よしになって、したしく握手をしあうほどになりました。
そして近頃、その奇術の紳士が、さっぱり来なくなりました。マリイが店にでるようになってからは、一度も来たことがありませんでした。
その紳士が、マリイの父親と同じ顔なんです。マリイの父親は二年も前に死んでるらしいんですが、どうもふしぎです。それから、マリイのところに誰からともなく届けられたたくさんのお金……。
あの紳士があやしい、あれをつかまえてみよう……とトニイは考えました。
ところで、その奇術の紳士は、どこに住んでるどういう人かわかりませんでした。トニイは困りました。店をだすのもやめて、町の中をあるきまわり、ことに港の方をあるきまわりました。あの紳士がよく海に出るらしいのを知っていたのです。
二三日むだに探しあるいた後、トニイは晩おそく、港のではずれのさびしい海岸にでて、そこのてすりにもたれて考えこみました。
港はあちこちに多くの船がとまっていて、その燈火が海にちらちらうつっていました。その間を、いっそうのモーターボートが、すばらしい速力で走ってきました。まっすぐに、トニイがいるさびしい岸の方へやってきました。
おかしな舟だ……とトニイは感じて、物かげにかくれました。
やがて、ボートは岸につきました。その時、一台の自動車が海岸づたいに走ってきて、ボートがついているところにとまりました。ボートから岸へはしごがかけられて、一人の男がのぼってきました。
あの人だ! とトニイはあぶなく叫ぶところでした。照灯の光にてらされたその横顔、姿、まさしくあの奇術の紳士でした。トニイは息をこらしました。
自動車から運転手らしい男がおりてきて、奇術の紳士となにかささやきあい、二人ではしごからボートの中におりていきました。しばらくして、四五人の男が、大きな箱をかかえてのぼってきて、その箱を自動車にのせ、上から毛布をかぶせ、みんなまたボートの中におりていきました。
トニイはそっと物かげからはいだし、自動車のなかにしのびこみ、箱のそばに毛布の中にかくれました。
奇術の紳士と運転手らしい男とは、ボートからのぼってき、二人とも運転手台にのり、そして自動車は全速力で走りだしました。
四
自動車は町にはいり、大きな建物の中庭にはいり、鉄の戸の前にとまりました。
奇術の紳士と運転手らしい男とは、自動車からおりて、鉄の戸の敷居のところにかがんで、なにか秘密なあいずをしました。やがて、戸が開かれて、四五人の男が出てきました。
「どうだ」
「上首尾だ」
低い声でそれだけささやきあい、そしてみんな、自動車のそばにやってきて、扉をあけ、箱の上の毛布をとりのけました。
トニイは度胸をきめました。目がさめたばかりのようなふうをして、起きあがってのびをしました。
男たちはどよめきました。一人はトニイにピストルをさしつけました。
トニイは目をこすりながら、自動車から出てきて、あたりを見まわし、奇術の紳士に目をとめ、うれしそうに走りよりました。
「なあんだ、絵はがき屋の小僧か。どうしてこんなところにいたんだ」
「ああおじさん、助けておくれよ。誰かへんな奴が、僕をつけねらってるんだよ。一生けんめい逃げだして、海岸のところに自動車があったから、その中にかくれているうちに、眠っちゃったんだけれど、ここまで追っかけてくるかも知れない。ねえおじさん、助けておくれよ。おじさんなら大丈夫だ。もうおじさんをはなさないよ。そいつが来たら追っぱらっておくれよ」
そしてトニイは紳士の胸にしがみつきました。
みんなあたりを見まわしました。
「どんな奴だい?」と紳士はたずねました。
「へんな奴だよ。めっかちで鼻がつぶれていて、口が耳までさけてるんだよ。せいの高さは二メートルか三メートルもあって、にぎり拳が犬の頭くらいあるんだよ」
「まるで化け者じゃないか」
「うん、化け者だよ。角もあるかも知れないよ。そいつが、しじゅう僕をつけねらってるんだ。助けておくれよ」
トニイはなおしっかと紳士の胸にしがみつきました。
一同は困ったようでした。何かひそひそささやきあいました。紳士はいいました。
「じゃあ、今夜はおれのところに泊めてやろう。そして明日の朝おくっていってやるよ」
「ああそうしてね。おじさんのそばなら大丈夫だ」
一同は自動車のなかの大きな箱をかかえて、鉄の戸から中へはいりました。階段があって、それをおりていくと、地下室の広間でした。
大きなテーブルがならんでおり、ぜいたくな椅子がならんでいました。テーブルの上には、酒瓶やコップやトランプの札などがちらかっていて、壁には銃や剣などの武器がかかっていました。
次の部屋にはいくつもベッドがならんでいました。まるで寄宿舎のようでした。トニイはすぐそこに寝かされました。
広間の方では、さっきの男たちが、酒をのんだり、トランプをしたりして、おそくまで起きていました。
トニイはわーっと大きな声で叫び立てました。奇術の紳士がはいってきました。
「どうしたんだ」
「おじさん、ついててくれなくちゃいやだよ。あいつが来そうで、僕こわいんだ」
「化け者か」
「いつやってくるかも知れないんだよ」
「しょうのない臆病者だね」
奇術の紳士は出ていって、やがてまたやってきて、トニイのそばのベッドにねました。
「おじさんは、ほんとにこわいと思ったことがあるの」
「そりゃあるさ」
「どんな時がいちばんこわかったの」
「そうだなあ……二年前、おれの乗ってた船が暴風にあって、沈んでしまい、おれは海の上にほうり出されて、まっ暗な夜、板一枚にしがみついて流された時は、こわかった」
「それから、どうしたの」
「救いあげられたよ」
「誰に?」
「今いっしょにいる人たちさ。お前はおれたちを何だと思ってるんだい」
「さあ、何だろうなあ……盗賊か、海賊か、密輸入者か、むほん人か……」
「はははは、あたったよ、実は海賊なんだよ。人にいったら、生かしてはおかないから、いいかい」
「大丈夫だよ。いいやしないよ。海賊っておもしろいだろうなあ」
「そのかわり、命がけだからね、あぶない仕事さ」
「じゃあ、やめたらいいじゃないの」
紳士は何とも返事をしませんでした。なにか深く考えこんだらしく、トニイが話しかけても相手になってくれませんでした。
五
翌朝、トニイは早く目をさましました。そしてそばの紳士を起こしました。
「僕を家までおくってきてくれる約束だったでしょう」
「だって、昼まなら、一人で帰れるだろう」
「いやだよ。あいつが、化け者が、また出てくるかも知れないんだもの」
「ばかだね、お前は」
それでも、紳士はいっしょについてきてくれました。
二人は歩いていきました。きれいに晴れた日で、朝日がうつくしく照っていました。紳士は煙草をふかし、トニイは口笛をふいていました。
トニイはとくいでした。うまくごまかしてしまったのです。紳士をつれて、マリイの家の方へやってきました。
マリイが住んでるアパートの前まで来ると、紳士はびっくりしたように立ち止まりました。
「お前はここに住んでるのか」
「そうですよ。階段や廊下があぶないんだ、いつあいつが出てくるかわからない。僕の部屋までおくってきて下さいよ」
せまい階段を三階までのぼって、奥の部屋まで行き、トニイはいきなりその扉を開いて、紳士をつれこみました。
音をきいて、マリイが出てきました。
紳士とマリイとは、顔を見合わして、そこに棒のように立ちすくみました。マリイはふいに、紳士の胸にとびついていきました。
「お父さん、お父さん……生きていらしたのね。お父さん……帰ってきて下すったのね。お父さん……」
マリイは泣きながら、次の部屋にとびこんでいきました。
「お母さん、お父さんがいらしたわ、お父さんが……」
母親はベットからとびおりてきました。父親の方も、その部屋にとびこんでいきました。そして三人で、涙を流しながら抱きあいました。
父親は力つきたように、そこにひざまずいて、ベットに顔をふせました。
「許してくれ。せんだって、おれはマリイの姿を見かけたが、たずねてもこなかった。おれは海賊の仲間にはいっているんだ。船が難破して、沈んでしまった時、海賊に救われてから、その仲間にはいってしまったんだ。こちらにやってきた時、ずいぶんお前たちの行方をさがしたが、わからなかった。それに、海賊の約束として、家族の者にあってはいけないことになってるんだ。家族の者にあってると、秘密がもれたり、勇気がくじけたりするからだ。そんなわけで、マリイの姿を見かけても、声もかけなかった。許してくれ、おれが悪いんだ。おれの胸は煮えくり返るようだった。せめての思いに、金の包みを届けておいたが、受取ったろうね。それより外に、どうにもしようがなかった。一度海賊の仲間にはいると、それからぬけ出すことは、一同を裏切ることになるもんだから……。ああ、おれはどうしたらいいか。どうしたらいいか……」
彼はむせび泣いていました。母親も泣いていました。マリイも泣いていました。
トニイは顔をそむけて、窓から外をながめていましたが、その時、わざと笑いながら朗らかにいいました。
「とうとう僕の計略にかかりましたね。化け者のことなんか、みんなうそですよ。泣いたりなんかしないで、しっかりするんですよ。どうせもう、家族の者にあって、海賊の約束をやぶったんだから、思いきって、ぬけ出したらいいじゃありませんか。汽車にでものって、遠くに逃げちゃうんですね。あとは僕が引き受けます。絵はがき屋のトニイだ。街のトニイだ、海賊なんかごまかすのはわけはありません」
マリイの父親は、涙をふいて、立ち上がって、トニイの手をにぎりしめました。
マリイもトニイの手をにぎりしめました。
トニイはみんなと握手していいました。
「すぐに汽車で逃げてしまいなさいよ。あとは僕が引き受けます。……どれ、今日からまた、広場へに店でもだそう。さようなら」
みんなからひきとめられるのをふりはらって、トニイは出ていきました。
外に出ると、トニイはちょっとさびしくなりました。でも、口笛をふいて元気に立ち去りました。一人者の街の少年です。広場にやたい店を出しに出かけるのです。
底本:「豊島与志雄童話集」海鳥社
1990(平成2)年11月27日第1刷発行
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年4月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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