金の目銀の目
豊島与志雄
|
まっ白いネコ
九州の北海岸の、ある淋しい村に、古い小さな神社がありました。その神社のそばのあばら屋に、おじいさんとおばあさんとが住んでいました。おじいさんは、神社の神主で、ふだんは、近くの人達のためにお祈りをしてやったり、子供達にお習字のけいこをしてやったりしていました。えらい学者だとの噂でした。
この老人夫婦といっしょに、十二─三歳の男の子がいました。老人達の孫にあたる子供で、早くからふた親に死なれ、ほかに身寄りもないので、ひきとられて育てられてるのでした。上野太郎という名前で、頭が大きく、生まれつき大変りこうで、その上、おじいさんからいろんなことを教わって、深い、広い知恵を持っていました。
おじいさんとおばあさんと孫と三人は、貧乏ではありましたが、楽しく、暮らしておりました。
ところが、冬の寒い日、おばあさんは病気になって、亡くなりました。
悲しみのうちに、お弔いもすみました。
それから毎日、五十日のあいだ、太郎は、おばあさんの墓におまいりしました。雨が降っても雪が降っても、欠かしませんでした。
五十日目の日は、珍しい大雪でした。二、三日前から降り続いていたのが、夜になって急にひどくなり、朝起きてみると、野も山も見渡す限り、一面にまっ白でした。
「あの通りの大雪だから今日は止めたらどうだい」と、おじいさんは言いました。
「いいえ、今日でお終いだから、行ってきます。だいじょうぶです」と、太郎は答えました。
足には、ももひきの上に、きゃはんをつけ、たびを何枚もかさね、ぞうりをはき、手に毛糸の手袋をはめ、大きな頭には、おじいさんの大きな大黒帽をかぶり、そして古いマントにくるまって、まるで人形のようにまんまるくなって、太郎は出かけました。
雪はもう降り止んで、うすく日の光が差していました。どちらを見ても、どこを見ても、まばゆいほど、まっ白に光ってる世界です。誰も通る人もなく、犬の姿も見えず、小鳥の声も聞こえず、ただまっ白で、静かです。太郎は飛ぶようにすすんでいきました。
街道からそれて、せまい坂道をしばらくのぼり、向こうの小高い丘の上、そこにおばあさんの墓がありました。
太郎は墓の前の雪を払いのけ、青柴の枝を折ってきて供え、そして祈りました。
「おばあさん、もう五十日たちました。安らかに眠ってください。おばあさんがいなくて、ぼくはさびしいけれど……けれど……しっかり生きていきましょう」
何度もおじぎして、そして帰りかけました。
手足が冷たくかじかんで、身体がこわばってくるようでした。でも、元気を出して、息をふうふうはきながら、雪を蹴散らして歩きました。
墓地を出て、丘を下りかけ、大きな杉の木が一本立ってる曲り角まで来ましたときに、ばったり前に倒れました。
太郎は自分でもびっくりして、頭をあげて見まわしました。そして、膝がしらで起き上がろうとすると……なおびっくりしたことには、杉の木の根元に、吹き寄せられて積もってる雪が、ひとかたまり、むくむくと動き出しました。おや……と思って、よく見ると、そのまん中に、金色と銀色との二つの玉が、ぴかりと光っています。……それが、猫でした。
太郎は夢中に立ち上って、猫を抱きとりました。──一本の混じり毛もない、全身まっ白な小さな猫で、片方の目が金色で、片方の目が銀色で、長い尻尾の毛がふさふさとして、白狐のようです。
猫は太郎の胸にしがみついて、ニャーオ……と鳴きました。
「おう、よしよし……寒いの……」
太郎は猫をマントの中に入れてやり、上からしっかり抱きかかえて、うれしくてしようがありませんでした。もう寒さも疲れも感じませんでした。一散に家へ飛んでいきました。
「おじいさんおじいさん……猫がいたよ……あの大きな杉の木のところに……とてもきれいな猫ですよ」
おじいさんは、こたつから出てきました。
「ほう、なるほど、これは珍しい、きれいな猫だ」
太郎はマントも大黒帽も手袋もたびも、そこに放りだして、上がってきました。
「おじいさんの髭より、もっとまっ白でしょう 雪より白かったんだもの……」
おじいさんの胸までたれてる白髭より猫の尻尾の長い毛の方が、いっそう白くて光ってきれいでした。
「でも……どこの猫でしょう。うちにおいといて、いいかしら」
「そうさねえ、あんなところに、この雪の中にいたとすれば……ああこれは……おばあさんが、おまえに下すったのかもしれない」
「そうだ、きっとそうですよ」
猫は少しも恐がりませんでした。御飯を食べると、こたつの上へ座わりこんでお化粧をしています。名前がわからないので、白いから、かりにチロとよびますと、ニャーオ……と鳴いて、返事をします。
太郎は、チロを自分のそばから放しませんでした。夜もいっしょに寝てやりました。チロは、おとなしく太郎の腕を枕にして眠りました。
夜中に、太郎は心配になって目をさまし、猫をなでてやりますと、猫もうっとり目を開き、その金の目と銀の目が、大きな星のように光りました。……その猫が、だんだん大きくなり、空いっぱいに大きくなり、長い尻尾が白雲のようにたなびき、二つの目が、金と銀の、まん丸なお月さまとなって、輝やきだします……。
太郎がびっくりして夢からさめると、白い小さな猫は、太郎の腕を枕にして、すやすや眠ってるのでした。
珍しい大雪がとけると、暖い天気が続いて、にわかに春めいてきました。木の芽が出かかり、草の葉が萌えだし、海は平に凪いでいます。
太郎はチロをつれだして、野原や海岸で遊びました。通りがかりの人達は、まっ白な美しいチロを、立ち止まって眺めました。
りんごやなしを籠にかついでる人が、通りかかりました。
「まあ、きれいな猫ですね。どんなものを食べてるんですか」
「なんでも食べるよ」
と、太郎は答えました。
「りんごでもなしでも、食べるよ」
「では、これも、食べさしてください」
そしてりんごとなしを、いくつも太郎にくれました。
みかんをかついでる人が、通りかかりました。
「まあ、きれいな猫ですね。どんなものを食べてるんですか」
「なんでも食べるよ」と、太郎は答えました。
「みかんでも、食べるよ」
するとその人は、みかんをいくつも置いて行きました。
大根や芋や人参をかついでる人が、通りかかりました。
「まあ、きれいな猫ですね。どんなものを食べてるんですか」
「何でも食べるよ」と、太郎は答えました。
「大根でも芋でも人参でも、食べるよ」
するとその人は、大根と芋と人参を、たくさん置いて行きました。
海で地引網をやりますと、いろんな魚がたくさん、ぴちぴち跳ねながら、引き上げられました。
「まてまて……」
と、漁師のひとりが言いました。
「太郎さんの白猫に、御馳走してやろう」
そして大きな鯛や平目を、持って来てくれました。
魚や果物や、野菜が、たくさんたまりますので、太郎もおじいさんも困りました。しまいには、それを近所の貧乏な人達に分けてやりました。
けれどもまた、その美しい白猫を、うらやみねたむ者もありました。
太郎がチロといっしょに野原で遊んでいると、そっと、大きな犬をつれてきて、けしかけておどかす子供がありました。チロはびっくりして、太郎の肩に飛び乗って、せなをまるくして怒っています。太郎はそのチロを胸に抱いて、相手をにらみつけてやりました。
「きみんとこのチロ、弱虫だね」
「何言ってるんだい。りこうだから、やたらに喧嘩しないんだ」
と、太郎は言い返してやりました。
「いざとなったら負けやしないよ。どんな高い木にだって登れるんだ」
「だけど、この犬みたいに水泳ぎはできないだろう」
「できるとも。水も泳げるし、地にももぐれるし、空も飛べるし、何でもできるよ」
言ってしまってから、太郎は、とんだことを言ったと、後悔しました。が、もう取り返しがつきませんでした。相手の子供は突っ込んできました。
「うそばかり言ってらあ。それじゃ、泳がしてごらん。海を泳がしてごらん」
太郎はしばらく考えてから、答えました。
「泳がしてもいいが、濡れて風邪でもひくといけないから……そうだ、水にはいっても、毛のぬれないような薬を、持っておいでよ、そしたら、すぐに泳がしてみせましょう」
相手の子供は困った顔をしました。そして、言いました。
「そんなら、地にもぐらしてごらん」
「いいとも。だけど、地面の中じゃあ、道に迷うといけないから……そうだ、地の中に、いっぱいローソクをつけてくれよ」
相手の子供は困った顔をしました。そして言いました。
「そんなら、空を飛ばしてごらん」
「いいとも。だけど、鳥じゃないから、やたらに飛ぶわけにはいかんよ。ここまでってはっきり、空中に印をつけてくれよ。すぐに飛ばしてみせよう」
相手の子供は困って、黙りこんでしまいました。
「ほんとに、チロはなんでもできるんだよ」と、太郎は言いました。
「だけど、めったにしないだけなんだ」
そして、かれはチロを抱いて、帰って行きました。
そういうことがあってから、太郎はなんだか心配になってきました。おじいさんは笑いました。
「心配することはないよ。猫というものは、なかなかえらいやつで、犬なんかに負けはしない」
それでも太郎は、安心しませんでした。家にいるときでも、始終、眠ってまで、チロのことを気にしました。いっしょに外に出かけるときには、そのそばを離れませんでした。チロは駆けまわって、草の中に隠れたり、木に登ったり、石ころにじゃれたりしました。そのあとを追っかけて、太郎も駆けだし、息を切らしました。そして、チロ……チロ……と呼ぶと、チロはすぐに駆けてきて、彼の胸に飛びつきました。
神社の前の米俵
ある日、太郎とチロは遊びつかれて、海岸の草原の上に寝ころんで、うっとりしていました。日の光がやわらかくさして、海がさーっ、さーっと、優しい音をたてていました。
白い波が巻きかえしてる砂浜が、ずーっと続いてる、その向こうの、松林から、何か黒いものが二つ、ぽつりと出てきました。それが、だんだん、非常な早さで、こちらへやって来ます。
それを、太郎はぼんやりながめていました。二つの黒いものは、しだいに大きくなって、海岸の草原をつたって、なおやって来ました……。二頭の馬でした。馬に乗った人達でした。太郎は、夢を見てるような気持ちがしました。もう近くへ来ました。二頭とも立派な、栗毛の馬で、先のには、女が乗り、後のには男が乗っていました。ふたりとも、黒っぽい洋服を着、長い靴をはき、細い鞭を持っていました。鞭や手綱には、何かきらきら光るものがついていました。
馬は足をゆるめて、たったったっ……と、ゆっくり、太郎のそばを通りかかりました。すると、先の女は、そんなところに太郎が寝そべってるのに、初めて気がついて、びっくりしたようすで、ぴたりと馬を止どめました。そして、じろじろ見ていましたが、ふいに、馬から飛び下りて、太郎のそばにやって来ました。
「まあ……」
チロの方を、じっとのぞき込みました。
「まあ、かわいい猫……」
女は後を向いて、何か合図をしました。男も馬から下りて来ました。
太郎はそれまで、ぼんやりそのふたりをながめていました。これまで見たこともないような、立派な馬、よその人らしい男と女、その美しいみなり、ことに、洋服を着てる女……。そのふたりが今、じっとチロのほうをのぞきこみましたので、太郎はびっくりして、そこに座ってチロを抱きかかえました。
「ほんとにかわいいこと。まっ白で、そして、金目銀目で……」
太郎は、なおしっかり、チロを抱きしめました。ふたりの男と女は、何かささやきあって、そして太郎とチロとを見くらべました。しばらくそのままで、誰も黙っていました。馬はのんきに草を食べています……。
やがて、見知らぬ女は、なおのぞきこんできました。
「それ、あなたの猫ですか」
太郎は黙ってうなずきました。
「それでは、ねえ、坊ちゃん、お願いがありますの……。それを、私にくださいませんか。お礼は、どんなにでもしますから……」
太郎はびっくりして、強く頭をふりました。
「私にくださいね。どんなお礼でもしますから」
女はポケットから、手にいっぱい銀貨を取り出して、差し出しました。太郎は頭をふりました。女は次に、きらきら光るナイフを差し出しました。次には、金の鎖のついてる万年筆……次には美しい金時計……。
「いやだ、いやだ、いやだ」
そう叫んで、太郎はいきなり立ち上がって、チロをかかえて、逃げ出しました。
一生懸命に走りました。しばらくして、振り返って見ると、あの男と女が、遠く、海岸の上に、馬の手綱をひかえて、まだこちらを見送っています。太郎はまた走りだしました。
うちに帰って、ほっと息をつくと、太郎はチロの頭をなでてやりました。
「だいじょうぶよ、ねえ、チロ……誰が来たって、どんなことがあったって、ぼくはおまえを、よそにやったりなんかしないよ。おまえも、人に盗まれたりなんかしちゃあいけないよ、ねえチロ……」
チロは頭をすりつけて、ニャーオ……と鳴きました。
けれど、誰も、チロを盗みに来る者もなく、たずねてくる者もありませんでした。
それから、三日目の朝不思議なことが起こりました。家のそばの神社の前に、美しい米俵が十四─五、三角形に積み重ねてあります。米がいっぱい詰まって、きれいにくくりあげられてる、ま新しいものです。
それを見つけて、太郎は、おじいさんを呼んできました。
「ぼく、びっくりしちゃった。誰がしたんでしょう」
「なるほど、奇特なことだ。いまに、その人がやって来るかもしれない……」
神主をしているおじいさんは、手をたたいて、丁寧に拝んで、戻って行きました。
いつの間にか、チロも出てきて、米俵を駆けのぼったり、駆けおりたりして、遊び始めました。それを見てると、太郎も、おもしろくなりました。俵と俵とのすきまからのぞくと、望遠鏡でのぞくようです。俵の山の上にのぼると、いい気持ちで、遠くまで見渡せます。朝日の光が差してきて、新しい俵の匂いがします……。
太郎はチロといっしょに、俵の山を乗り越えたり、周りをぐるぐる廻ったり、隠れんぼうをしたりして、遊びました。
近くの木には、雀がたくさん来ていました。太郎とチロが、俵の陰に隠れていますと、やがて、一匹の雀が、俵の上に飛んできて、チッチッと鳴きます。と、すぐに、後から後から、ほかの雀も下りて来ます。時をはかって、チロをさっと放してやると、チロは俵の上に飛び上がりますが、雀の方が早く、ぱっと逃げたあとです。
遊び疲れると、太郎とチロは、俵の上に寝そべって、うとうととしました。それから、また雀の声に目を覚しては、いろんなことをして遊びました。
「太郎や、太郎や……」
呼ばれて、気がついてみると、おじいさんが、向こうから手招きをしていました。
太郎はチロを抱いて、家に戻って行きました。すると……せんだって、チロをねだったあの女の人が、今日は、しとやかな和服姿で、おじいさんの前に座っています。
おじいさんは話してきかせました。
「この方が、しばらくチロを借りたいとおっしゃるんだよ。お宮に米を供えてくださったのは、この方だ。その気持ちがわしの気に入った。いろいろお話を聞いてみると、チロを借りたいと言われるのも、もっともだ。そして、チロを借りている間、おまえも一緒に来てくれとおっしゃるんだ。チロをやってしまうのではない、貸して上げるんだよ。どうだい、おまえ、一緒に行ってあげますか」
太郎は、おじいさんの顔と女の人の顔とを見くらべて、しばらく考えこみました。
「チロと一緒なら、行ってもいいけれど……なんでも、好きなことをしていいの?」
女の人の目が、ぱっと大きく光りました。
「ええ、よろしいですとも、なんでも、好きなようにしてください。では、来てくださいますね、チロちゃんと一緒に……ね、来てくださいね」
金銀廟の話
太郎とチロが行った家は、さほど遠くではありませんでした。
海岸に沿った広い道を、自動車は飛ぶように走ります。岬を二つまわって、その向こうの町のはずれ、小高い山のふもとに、二階建ての家がありました。
大きな家で日本室や洋室が、いくつもありました。主人の松本さん夫婦のほかに、下女や下男や馬……そして、一番奥の洋室に、変なふたり……。
ほんとに、変な人達でした。太郎はそこに連れて行かれた時、びっくりしました。
かたすみに、立派な長椅子の上に、十歳ばかりの女の子が座っていました。肩のあたりまでの長さの髪を、宝石のついた、留金でとめ、空色の洋服をつけ、白い絹の靴下をはいていましたが、全体が、ほっそりしていて、口もあまりきかず、からだもあまり動かさず、まるで人形のようでした。
反対のかたすみには、支那服を着た、大きな男がいました。顔は平たく、長い口髭をはやしていて、頭がひどく禿げていました。
その男が、チロを抱いてる太郎を見ると、つかつかと立ってきて、低くおじぎをしました。
「おう、よく来ました」
そしてチロの方へ、大きく開いた両手を差し出しました。
「おう、白いきれいな猫……金の目……銀の目……おう、よく来ました」
それからチロを抱きとって、部屋の中を歩きだしました。
「これ、名前、何といいますか」
「チロです」と、太郎は答えました。
「チロ……チロ……よい名前だ……チロチロ……」
そして彼はもう、チロだけしか相手にしませんでした。
部屋の中には人形や毬や汽車や、馬や猿や熊など、いろんなおもちゃがありました。彼はそれをとってきて、チロに見せました。チロはテーブルの上にじっとしていましたが、赤い人形の絵が描いてある大きなガラス玉を見ると、ひょいと片手を出し、それから匂いをかぎ、またちょっと片手を出しました。ガラス玉は、テーブルから落ちてころがり、チロも跳び下りてその玉にじゃれ始めました。
男はひどくうれしがって、ほかのガラス玉やゴム毬などを、いくつも転がしました。
チロはあっちこっち駆けまわっています。
女の子は、やはりじっと座ったまま、チロを見ていました。その長椅子の前に、毛皮のついた小さなスリッパがぬぎ捨ててありました。それに、チロがとびついてじゃれかかりました。
「こら、お嬢さんのスリッパを、なんだ」
男はそう叫んで、追っかけました。チロは逃げました。男はなお、追っかけました。四つばいになって、テーブルの下をくぐったり、椅子の下に頭をつっ込んだりしましたが、チロのほうがすばしこくて、つかまりません。男はいきりたってきて、ぱっととびつこうとしますと、それがちょうど、小さなテーブルの下で、つまずいて転び、テーブルはひっくりかえり、上にのってた花瓶が、大きな音をたててこわれました。
とび起きた男は、ものすごい顔をしていました。チロはもうスリッパも打ち捨てて、部屋のすみっこにちぢこまっていましたが、男はその方をにらみつけて、獣がほえるような声をたて、両の挙を握りしめ、ぶるぶる震えて、今にもとびかかりそうです。
はっとして、太郎はチロの前に立ちふさがりました。じっとしていた女の子も、とんで来ました。
男の顔はしだいにゆるんできました。それから、彼は、がっくりと椅子に腰をおろしました。
「ああ、私悪い、私悪い。チロ悪くない。私悪い」
そして彼は、しょんぼりした目つきをして、何度も頭を下げました。
女の子がにっこり笑って、太郎の方を見ました。太郎も笑って見せました。二人はチロをかばうつもりで、一緒にくっついて立っていたのです。そしてなんだか、急に親しい友達になったような気がしました。
「おじさんの、悪い癖よ、またかんしゃくをおこして……」と、女の子が言いました。
男は何度もうなずきました。そしてチロの方を優しい目で見やって、きまり悪そうに微笑みました。
太郎は、支那服の大きな男と、洋服の少女と、大変仲よくなりました。
ただ、その二人がどういう身分の人か、さっぱりわかりませんでした。松本さんの奥さんにきいても、よく教えてもらえませんでした。ふたりとも中国人だが、日本名前で、男の方はキシさん、少女のほうはチヨ子と、言われていました。
そのうちにお話してあげます、と、奥さんはそう言うきりで、意味ありげに、微笑むのでした。
二人とも、あまり外に出ませんでした。それを、太郎はよく誘い出しました。
広い松林が、庭にとりこんでありまして、そこで気持ちよく遊べました。チロも一緒に遊びました。三人ともチロを大変かわいがりました。
それにまた、太郎はキシさんから、馬に乗ることを教わりました。厩に馬が二頭いまして、キシさんはその一頭を引き出しては、いろんなことを教えてくれました。何でも知っていました。えらい人のようでした。
ところが、ある日の夕方、松の梢に小鳥の巣を探しながら太郎が歩きまわっていますと、向こうの、椿の茂みの陰から、彼を呼ぶものがあります。行ってみると、キシさんでした。
「太郎さん、これ、よくできた、ね」
どこから取ってきたのか、ねばねばした赤土で、大きな猫をこしらえてるのでした。手を泥だらけにして、にこにこ笑っていました。金貨と銀貨とが一枚ずつ、両方の目に入れてあります。
「金の目……銀の目……ね、よくできた」
そして彼は、さも大事らしく、声をひそめて言いました。
「あなたとチロのおかげで、お嬢さん元気になった。私うれしい。これから、だんだん、願いごとかなう」
「願いごとって、なあに?」
と、太郎はたずねました。
「それ、大事なこと……まあ、見ていてください。この猫、生かしてみせます」
そして彼は、赤土の大きな猫の前に屈んで、両手を胸に握り合わして、何か口の中で唱えました。しばらくすると、急に立ち上がって、両手を頭の上にさし上げ、それからまた屈んで、頭を垂れ、両手を組み、そんなことを何度もくり返し、そしてじっと猫の方を見つめました。
「それ、生きた、動いた。ね、動いた」
太郎は、ばかばかしくなりました。赤土の猫が生きて動く……そんなばかなことがあるものですか。
「動きなんかしないよ」と、太郎は言いました。
「よろしい。今度は動く」
キシさんはまた、前のようなことをくり返しました。禿げた頭が赤く、顔も赤くなって、一生懸命にやっています。もう、うす暗くなりかけていて、松林の中はしーんとしています。じっと見ていると、赤土の猫が……じりじり、前のほうに動きだして……。
太郎は目をみはりました。すると、それはやはり、赤土の猫でした。彼は頭を振りました。無理に言いました。
「明日、明るい時でなくっちゃ、わからないや」
「よろしい、明日、します」
二人は約束しました。太郎はびくびくした気持ちであくる日を待ちました。
──あんな人だから、何か魔法でも知ってるのかもしれない。いや、赤土の猫が動く、そんなばかなことがあるものか。でもさっき、少し動いたような気もした……。
太郎はいろいろ考えあぐみました。キシさんの禿げた赤い頭が、大きく大きくなっていくようなのを、何度か夢に見ました。
あくる朝、太郎はキシさんと一緒に、庭の奥にやって行きました。松林の中は、すがすがしく、朝日の光が差していました。
ところが、まあ……赤土の猫は、むざんにも、何度かに踏みにじられて、ぺしゃんこなひとかたまりの泥となり、金貨と銀貨とが、その中で光ってるだけでした。
キシさんは、呆然とそれを眺めました。そして、よろよろと松の木にもたれかかり、今にも泣き出しそうでした。
太郎もぼんやりたたずんでいました。
そこへ、チヨ子がチロをあやしながら、やって来ました。キシさんは両手を差し出しました。
「おう、お嬢さん、いけないことある。私悲しい」
「どうしたの」
「これ、これ、この猫……」
キシさんは、踏みつぶされてる赤土の猫を指し示しました。
「それが、どうしたの」
「これ、わたくし作って、金銀廟にかけて、占いました……」
「まあ、これがそうなの?」
チヨ子は、じっとキシさんの顔を見ておりましたが、ふいに、わっと泣きだして、キシさんの胸にすがりつきました。
「おじさん、ごめんなさい。ああ、あたしどうしよう……おじさん……。あたしね。さっき、チロをあやして遊んでいるとき、それにつまずいて、それから、踏みつけてみると、赤土でしょう、しゃくにさわったから、踏みつぶしてやったの……。なんにも知らなかったのよ。ごめんなさい。ねえ、ごめんなさい」
「それでは、あなた、踏みつぶしたですか。この猫、ほんとに、あなた、踏みつぶしたですか……。おう、いけない。そんなこといけない。金銀廟の猫……」
「だって、あたし、なんにも知らなかったの。ああ、どうしよう」
キシさんはそこにしゃがみこみ、チヨ子はその膝にとりすがり、そして二人とも泣いています。
太郎には、さっぱりわけがわかりませんでした。赤土の猫じゃないか……それを。
「金銀廟の猫って、なんですか」
キシさんは、初めて太郎に気がついたかのように、びっくりしたようすで太郎を眺め、それから深くため息をついて、そして話してきかせました。
満州に近い蒙古の山奥に、玄王という偉い人がいました。その地方を平和に治めて、立派な国をうち建てようと思っていました。その玄王に、ひとりの小さなむすめがありました。玄王は、まずむすめによい教育を受けさせたいと思って、かねて知りあいの日本人で、大連に大きな貿易店をひらいてる人に、むすめを頼み、李伯将軍といわれる強い人をつけてやりました。その日本人の世話で、玄王のむすめと李伯将軍とは、東京で勉強することになりました。
それから二年たって、玄王のところへ、非常に強い匪賊が襲ってきました。激しい戦がありました。玄王は打ち負けたらしい……というだけで、なにしろ蒙古の山奥のことですから、はっきりしたことはわかりません。がとにかく、そういう知らせが、九州の北海岸の別荘に来ていた日本の貿易商のところに、長くたってからとどきました。そして東京から、玄王のむすめと李伯将軍とは呼びむかえられました。けれど、玄王はどうなったかさっぱりわかりませんし、匪賊がばっこしているという蒙古へ帰られるかどうかも、わかりませんでした。
その玄王のむすめというのが、チヨ子で、李伯将軍というのが、キシさんで、大連の貿易商は、この家の主人の松本さんです。
「そして、金銀廟の猫というのは?」
と、太郎はたずねました。
「おう、金銀廟の猫!」
と、キシさんは叫びました。
玄王の城の中に、金銀廟という宮がありまして、白い塔が建っていて、そこには、金目銀目の猫がまつってあるのです。それが、城の護り神です。何か願いごとがある時には、その猫に祈ればきっとかなうと、言い伝えてあります。
「私、その猫に、一心に祈った。そして、金目銀目の猫、見つかった。それで、私、なお祈った。無事に蒙古へ帰られるかどうか、赤土で猫を作って、占いした。おう、それを、お嬢さん悪い、踏みつぶしてしまった。もう望みない。だめです」
キシさんがうなだれると、チヨ子はまた泣きだしました。
太郎は、どう言ってなぐさめてよいかわかりませんでした。そんなことは、迷信だと言っても、聞きいれられそうにありません。そして、そんな迷信にとらわれてるキシさんが、こっけいでもあるし、泣いてるチヨ子が、かわいそうでもあるし、また二人の身の上が気の毒でもあるし、なんだか胸の中がむずむずしてきました。
「ばかだなあ、きみたちは、泣いてばかりいて……」
と、太郎は言いました。
「チロは雪の中から出てきたんだよ。金銀廟から、とんで来たのかもしれない。そうだよ、きっと……だから、チロを連れて、蒙古に行こうよ。ぼくも行ってやろう。みんなで行こうよ。匪賊なんか、退治しちまやいいんだろう。だいじょうぶだ。みんなで行こうよ」
キシさんと、チヨ子とは、チロを抱いてつっ立っている太郎を、びっくりして見あげました。
「赤土の猫なんか、だめだよ。チロは生きてる猫で、金目銀目だ。これを連れて行こう。ぼくも行ってやるよ。みんなで蒙古に行こう」
キシさんとチヨ子とは、目を輝やかして、太郎の手を握りしめました。
手品使いの少年
太郎は、チロといっしょに、蒙古まで行ってみようとほんとに決心しました。
そのことを聞くと、松本さん夫婦は、心配しました。けれど、太郎のおじいさんはかえって太郎の勇気をほめ、立派なことをしてくるようにと元気づけ、なお薬を一缶くれました。神主をしているおじいさんの家に、昔から伝わってる薬で、どんな病気にも、きずにも、疲れにもきく薬だそうです。
松本さん夫婦、チヨ子とキシさん、太郎とチロ、それだけの人数でした。太郎は立派な服を作ってもらいました。
門司に行き、それから船で、大連へ行くのです。
船は正午に門司を出ました。風のない春の日で、海はおだやかでした。船はすべるように進みました。青い山々がしだいに遠ざかるのを見送って、太郎はちょっとさびしくなりましたが、蒙古のこと、玄王のこと、金銀廟のことなど、いろいろ想像しますと、身うちに元気が満ち満ちてきました。
沖に出ると、船は少し揺れてきましたが、太郎は元気でした。松本さんが船長と懇意なので、船の中をあちこち見せてもらいました。
そのあくる日の夕方、太郎はもうたいくつして、デッキに上がって暮れかけた海原をながめていました。冷たい風が吹いて、デッキには誰もいませんでした。ただ……。
太郎は気がついて、目を見張りました。向こうに、みすぼらしいみなりの十五─六歳の少年が、ぴかぴか光る輪をいくつも持って、それを投げたり受けとめたりして、ひとりで遊んでいました。いや、遊んでるのではありません。一生懸命になって、なにか練習してるのです。輪を一つ受けそこなって、とり落とすと、自分で額をたたいて、歯ぎしりをしています……。
太郎はその方にやって行きました。
「何をしているの?」と、太郎はたずねました。
少年は悲しそうな目付きで答えました。
「練習してるんだよ」
「なんの練習だい」
「輪投げだよ」
「そして、何になるの」
「ぼくの商売だよ。手品をつかうのさ」
「ほう、きみは手品使いかい」
「うん。だけど、まだうまくいかないんだ」
少年はいくつもの輪をがちゃがちゃいわせながら、そこの手すりによりかかって、海をながめました。それから、ふいにたずねました。
「きみは満州に初めて行くのかい」
「うん」
「なにしに行くんだい」
太郎は黙っていました。
「行ったっておもしろいことはないよ。ぼくは小さい時、おじさんに連れられてきて、ほうぼうをまわったが、つまらなかった。いやになって、またちょっと、日本に戻ったけれど、日本でも、あまりおもしろいことはなかった。それに、おじさんが病気をして、手足がよくきかなくなって、手品がうまくつかえないんだ。それで、また満州に行くところだよ」
「そして、これから、何をするつもりだい」
「やっぱり、手品使いさ。ああ、ぼくが早くじょうずになるといいんだがなあ」
「毎日、練習をするのかい」
「そうだよ」
そして彼は、なにか急に思い出したらしく、駆け出して行こうとしました。
「ねえきみ」と、太郎は後から呼びかけました。
「大連に行ったら、ぼくんとこに遊びにこないか」
「ああ行くよ、行くよ」
そそっかしい少年で、それきり向こうに駆けて行きました。太郎はしばらく待ってみましたが、彼はもう出てきませんでした。太郎は船室に戻っていきました。名前もわからず、ところもわかりませんでしたが、その少年のことを、なつかしく考えました。
あくる日、船は大連につきました。太郎は手品使いの少年を探しましたが、見つかりませんでした。
松本さんの店は、大連の賑やかな所にありましたが、別に、住居が山手の方の静かな所にありました。一同は、そちらに落ち着きました。
ところが、大連でも、蒙古の玄王のことは、よくわかりませんでした。興安嶺の奥の山の中で、汽車も自動車も通わず、道もはっきりしないし、いく十日かかって行けるかわからないところです。松本さんとキシさんとは、いろんな方面について、はっきりした事情をしらべにかかりました。
チヨ子は、家の中でチロと遊んでばかりいて、少しも外に出ませんでした。それで、太郎はひとりでよく出かけました。
大連には、いろいろな国の人が多く、いろいろ立派な家が並んでるので、太郎には珍しくおもしろく思われました。
ある日も太郎は、ひとりでぶらぶら歩いていました。すると、港近くの広場におおぜい人だかりがしているので、行ってみました。
広場のまん中にござをしいて、三角の帽子をかぶり、汚い服をつけた少年が手品をつかって見せていました。
「おや、あれは……」
太郎はつぶやいて、なおよく見ますと、確かに船の中で知りあった少年です。
「だいぶ練習したらしいな。うまくなってるよ」
太郎はひとりごとを言って、人の後から見ていました。
少年は、いつかの輪投げの芸を見せていました。今日は、五色にぬった輪を五つ持ち出して、高く宙に投げあげては受けとめ、両手でくるくる使い分けをして見せました。それがすむと、長い竹の先で、皿まわしをして見せました。次には一枚の銀貨を、からだのあちこちに隠したり、あちこちから出したりして見せました。その合間には、しゃちほこ立ちをしたり、とんぼ返りをしたりしました。
だけど、群衆はただぼんやり見てるきりで、喝采する者もなく、お金を放ってやる者もあまりありませんでした。少年は悲しそうでした。
次に少年は、ひと抱えほどある大きな毬を取り出し、玉乗りの芸を始めました。
毬の上に乗って、足でそれを転がしていくのです。それを少しやっているうちに、彼の顔は赤くなり、額に汗が出てきました。危ない! と太郎が思ったとたん、少年は毬から転がり落ち、毬は見物人のひざにはねかえりました。人々はどっと笑いました。少年は起きあがると、夢中で毬をひろいとり、いきおいこんで、再びやり始めました。また、しくじりました。毬は人々の膝や胸にはねかえりました。
「ばか!」
と、叫ぶ者がありました。
少年はいらだって、やり続けました。
「やめろ、へたくそ! やめちまえ」
と、叫ぶ者がありました。
少年はなおさらいらだって、夢中にやり続けようとしました。
「やめろ。ばか、へたくそ!」
人々はどなり出しました。少年はなおいきりたちました。喧嘩ごしで、毬の上に乗ろうとしました。群衆の方もおこりました。どなりつけ、おどかし、石を投げる者までありました。
「やめちまえ。もらった金を返せ」
「こんな奴、追いはらっちまえ」
群衆は騒ぎだしました。少年は毬をかかえ、歯を喰いしばって、ぶるぶる震えていました。石がいくつも飛んできました。
「待ってください、待ってください」
と、するどい声がひびきました。
太郎が、そこに飛び出して、子供ながらも、少年を後にかばって両手を広げて、つっ立ったのです。
太郎はなお大きな声で言いました。
「待ってください、この人はぼくがよく知っています。手品はとてもうまいんです。世界で一番上手です。ただ、きょうはからだのぐあいがよくないんです。きょうは病気なんです。それで、うまくいかなかったんです」
群衆は少し静かになりました。太郎はなお言いました。
「あすはすばらしい芸を見せてあげます。ここで、この場所で、すばらしい芸を見せてあげます。うそだと思ったら、この手品の道具をあずかっておいてください。あすやって来て芸を見せます。逃げも隠れもしません。うそだと思う人は、この手品の道具をあずかってください」
こんな手品の道具なんか、誰もあずかろうという者はありませんでした。太郎は得意気に微笑んで、少年をうながして、道具をかたずけさして立ち去ろうとしました。その時、群衆の中から、大きな男がのっそり出てきました。
「私、その道具あずかる」
太郎はびっくりして、ふりかえって見ますと、それは、労働者のような汚いみなりをしてはいますがまさしく、キシさんです。毎日一緒に暮らしてる、あの李伯将軍のキシさんです。
キシさんは、つかつかと歩み寄ってきました。
「あすまで、その道具あずかる」
そして小さな声で、太郎にささやきました。
「秘密、秘密……。あとで話す」
それから、また大きな声で言いました。
「明日、ここで、すばらしい手品なさい。それまで、この道具、私あずかる。かわりに、私お金あずける」
そしてもうキシさんは、片手に銀貨をいっぱい握って、それを差し出していました。
太郎は困りました。まさか手品の道具をあずかろうという人があろうとは思いませんでしたし、しかもキシさんが出てこようとは思いもかけなかったのです。けれども、キシさんなら、自分が持ってるのと同じことだし、「秘密、秘密」と言われたのは、何かわけがあるに違いありません。それで太郎は、わざと知らん顔をしていました。
「それでは、道具のかわりに、そのお金をあずかっておきます 明日、ここに来てください。そしたら、すばらしい手品をして見せましょう」
キシさんはお金を渡すと、金輪や皿やナイフや大きな毬など、手品の道具を、地面に敷いてあったむしろに包んで、それをかかえて、さっさと立ち去ってしまいました。
おおぜいの見物人も、しだいに立ち去ってしまいました。
広場のまん中で、太郎と手品使いの少年とは、ぼんやり顔を見あわせました。少年は、ただあっけにとられてるようでした。
太郎は言いました。
「きみの道具を持っていったあの人は、ぼくが一緒にいる人だよ。今はあんな汚いないなりをしていたが、偉い人なんだ。心配しないでもいいよ」
「でも、あすはどうしよう」
「ああ、手品か、困ったなあ。ぼくがでたらめ言っちゃったもんだから……だけど、あの人に何か考えがあるんだろう。あとできいてこよう」
そしてふたりは歩きだしました。
少年はふいに立ちどまりました。
「きみとは、こちらにくる船の中で、知り合ったばかりだが、名前は何というんだい」
「上野太郎というんだよ。きみは……」
「ぼくは下野一郎だよ」
ふたりは笑いました。上野太郎……下野一郎……口に中でくりかえすと、おかしくなって、また笑ってそれから仲良く腕を組んで歩いていきました。
ふしぎな地図
太郎と一郎は、料理屋によって、いろんなおいしいものを買い、それを折り箱に詰めてもらいました。そして、一郎のおじさんの、手品使いの老人のところへ行きました。だんだんからだがきかなくなって、もう寝てばかりいるのだそうです。だから一郎はひとりで、下手な手品を使って、働かなければならなかったのです。
町はずれの、汚い小さな宿屋でした。
「そっとはいるんだよ。おじさんはよく眠ってることが多いから……」
と、一郎は言いました。
部屋にはいると、片隅に、薄い布団にくるまって、老人がすやすや眠っていました。一郎と太郎は、そっと窓のほうに行って、そこに座りました。
小さな戸棚が一つあるきりの、がらんとした、さびしい部屋でした。戸棚の上に、剥製の白い鳥がおいてありました。
窓から外を見ると広い荒地で、その先の方に、赤くにごった池があって、柳の木が二、三本立っていました。そのにごり池と、ひょろひょろした木とを眺めていると、太郎はもの悲しくなってきました。
「さびしい所だね」
と、太郎は言いました。
「でも、馴れるとそんなでもないのよ」
と、一郎は言いました。
「あの池ね、どうしてあんなに赤くにごってるんだい」
「まわりが赤土だからだよ」
「魚も何もいないだろうね」
「いないよ」
「つまらないね」
「それでも、水鳥が時々くるんだよ。ああ、おもしろいものを見せようか」
一郎は、そっと立っていって、戸棚の上の剥製の鳥を持ってきました。それは、鷺に似た白い鳥でしたが、不思議に、長いくちばしが頭の横っちょについていました。
「これね、おじさんが大事にしてる鳥なんだよ。そして何度も、おかしな話を聞かしてくれるんだよ」
一郎はその話をしてくれました。
あるところに、くちばしを二つ持ってる鳥がいたんだって。長いくちばしと、短いくちばしと、二つあるんだよ。その鳥が、池のふちに立っていた。おおかたあすこに見えるような、にごった池なんだろう。食べるものがない。鳥はお腹を空かして、池の面をじっと見ていた。けれど、一匹の小さな魚も泳いでいない。それで、長いくちばしは短いくちばしに言ったんだよ。
「おまえ、そのへんのごみの中をつついてみないか。何かいるかもしれないよ」
「いやだ」
と、短いくちばしは答えた。
「こんな汚いごみの中をつっつくのはいやだ。おまえがつっついたらいいじゃないか」
そして二つのくちばしは、喧嘩を始めたんだよ。長いくちばしはお腹が空いて困るから、ごみの中をつっついてみろと、短い方に言うし、短いくちばしは、えてかってなことを言う奴だと、長い方を怒ったんだよ。いつも何かうまいものがあると、長い方が先に食べてしまった。森の中で美しい果物を見つけたり、川の中できれいな魚を見つけたりすると、長いくちばしが先にそれをつっついて、短いくちばしには、皮や骨しかくれなかった。それを、短いくちばしは怒っていたんだよ。
──「だって、いいじゃないか」
と、長いくちばしは言った。
──「お前とおれとは、一つの腹きり持っていないんだから、おれが食べたって、お前が食べたって、同じことじゃないか」
──「違うさ」
と、短いくちばしは言い返した。
「お前はいつもうまいものを味わってるし、おれはまずいものばかり、味わってる。不公平だ」
──そして、いくら言い争ってもきりがないし、しまいにはどちらも黙りこんでしまった。けれど、やはり食べるものはないし、お腹は空いてくるので、長いくちばしはまた、短いくちばしに向かって、そのへんをつっついてみろと言いだしたんだ。短いくちばしはほんとに怒っちゃって、どうなろうとかまうもんかという気で、ごみの中や泥の中をやたちにつっつきまわしたよ。
──すると、食べるものはなんにもなかったが、泥の中から、大きなものがにゅっと出てきた。よく見ると、亀の首なんだよ。
──「危ない、危ない」
と、長いくちばしは叫んだ。
「もうやめろよ。亀に食いつかれたら、死んじまうじゃないか。危ない」
──「なに、かまうもんか」
と、短いくちばしは言った。
「おまえが無理にさせたんじゃないか。死んだっておれの知ったことじやない」
──そして短いくちばしは、半分やけくそになって、わざと亀の頭をつっつくと、亀は怒って、その短いくちばしをくわえたんだ。大きな亀で、短いくちばしをくわえたまま、鳥全体を、泥水の中に引きずりこんでしまった。そして、両方のくちばしとも、鳥と一緒に、その汚い泥水の中で溺れ死んだんだよ。
──その鳥がこれだと、おじさんは言うんだ。短いくちばしは、亀にくわえられて折れたから、長いくちばしだけが残ってるんだって。だからこのとおり、横っちょについてるんだよ。
そんな話を聞いていると、太郎にはその剥製の鳥がおかしく思われましたし、向こうの泥水の池もおもしろく思われてきました。
「きみのおじさんは、そんな話をたくさん知ってるのかい」
「ああ、いくつも知ってるよ。もっと話してあげようか……。あ、おじさんが起きた……」
薄い布団にくるまって眠っていた老人が、からだを動かして、そして目を開いて、こちらを不思議そうに見ていました。
老人は、薄いどてらをひっかけて、起きあがりました。やせ細っていて、顔や手は日に焼けて赤黒く、髪には白髪が交っていて、みすぼらしいようすでしたが、目だけはきれいに澄んで光っていました。
一郎は太郎を紹介して、これまでのことをくわしく話しました。太郎は自分のことを話しました。玄王の娘のチヨ子のこと、李伯将軍のこと、金銀廟のことなどすっかり打ちあけました。そして、そうしながら、持ってきた御馳走を三人で食べました。
老人はいちいちうなずいて、おもしろそうに一郎や太郎の話を聞きとりました。
「私も手品使いをしてほうぼう歩いたことがあるから、満州や蒙古のことはよく知っていますよ。金銀廟のことも、行ったことはないが、話には聞いています。あんたが金銀廟を訪ねて行きなさるなら、よいものを見せてあげましょう」
老人は、押し入れの中に頭をつっこんでしばらく何かさがしましたが、やがて何枚もの白い紙と、柄のついた大きな眼鏡を、取り出しました。
「さあ、その紙を、その眼鏡でのぞいてごらんなさい」
太郎は不思議に思いながら、その白い紙をひろげて、眼鏡でのぞいてみますと……びっくりしました。ただの白い紙のようですが、その上に、ありありと、いろいろなものが浮かび出てきました。山があります、川があります、道があります、家があります、大きな塔があります、馬車があります、熊がいます……。
「わかったでしょう。それは、地図ですよ。さて、その金銀廟というのは……」
老人は他の紙一枚よりだして、その始めの方を指しました。そこを眼鏡でのぞいてみると……白い塔が立っていて、その上に、小さな白猫が寝ています。よく見ると、太郎のチロとそっくりで、いまにも起きあがって駆け出しそうです。
太郎は驚いてしまいました。ちょうど、窓から夕日が差して、部屋の中がまっ赤になり、まるでおとぎばなしの国にいるような気もちでした。
「一郎がお世話になったお礼に、その地図をあげましょう」
と、老人は言いました。
「金銀廟まで行くには大変だから、李伯将軍でも道に迷うかもしれません。だから、その地図を見ながら行くといいんです。それは不思議なインキで書いたもので、その眼鏡でなければ見えません。けれど、人に見せてはいけませんよ。地図など持ってるところを見つかると、探偵とまちがわれて、ひどい目にあうことがありますよ」
太郎はうれしくてたまりませんでした。もう、すぐにも金銀廟まで行けるような気がしました。白い塔……白い猫……それまでも地図に書いてあるんです。
太郎は何度もお礼を言いました。そして、おじいさんからもらった薬──肌につけて大事にしてる薬を、少し老人にわけてやりました。そして帰って行きました。
一郎がおくってきてくれました。ふたりはまた、腕を組みあわせて歩いていきました。
「きみのおじさんは変な人だね」
「なぜだい」
「変なものばかり持ってるじゃないか」
「そりゃあ、手品使いだからね」
そして一郎は立ち止まりました。
「あ、明日の手品はどうしよう」
「そうだ、これからキシさんに相談してみよう」
ふたりは、あくる日のことを約束して別れました。
奇術くらべ
太郎はすぐに、キシさんの部屋へ行ってみました。不思議な地図のこと、不思議な眼鏡のこと、仲よしになった一郎のこと、明日の手品のこと、いろいろうれしいやら気にかかるやらで、いきなり、キシさんがいる部屋に飛び込んでいきましたが、入口で、びっくりして立ち止まりました。
部屋の中はごったがえしていました。一郎からあずかった手品の道具のほか、はしごだの、縄だの、棒だの、いろんなものが散らかっており、帽子屋や、仕立屋などが来ていて、キシさんとチヨ子とが、手品使いの服装をあつらえているのです。
「よいところへ帰りました」
と、キシさんは太郎に言いました。
「みんな、手品使いになるんです あなたも、すきな服、あつらえなさい」
「みんなで手品使いになるの?」
「そうです、そうです」
そしてキシさんは、太郎を部屋のすみにひっぱっていって、小声で言いました。
「手品使いに化けて、金銀廟まで行けます。あやしむ人、ありません。無事に行けます」
「すてきだ、おもしろいなあ」と、太郎は叫びました。
「すぐに行こうよ」
「しっ、秘密、秘密。うまく化けること、大事です」
そこで、太郎は、五色の縞の服と、ふさのついた大きな帽子……キシさんは、白と黒との市松の服と、尖った三角の帽子……チヨ子は、紫のすっきりした服と、白い羽のついた帽子……そんなものをあつらえました。大急ぎで、あくる日までに作ってもらうことにしました。
「あすから、始めましょう」と、キシさんは言いました。
「私とあなた、芸の競争をしよう。どちらが勝つか……」
「よし、やろう。負けるものか」
「私も負けない」
そしてふたりは、笑いながら握手しました。
太郎はその夜、眠られませんでした。キシさんと芸の競争をすることになってみると、さあ、負けたくはありません。けれど、手品も奇術も、これまでに一度も習ったことがなく、なんにも知りませんでした。キシさんと競争どころか、へたをすると、見物人たちから怒られるかもしれません。下野一郎さえも、見物人たちから怒られたのである。
「困ったなあ……」
太郎はため息つきました。一郎のおじさんから教わろうかしら……とも考えましたが、それでは間に合わないでしょう。
「はて、どうしたものかしら……」
太郎は、額にしわをよせて考えました。長い間考えました。
「あ、そうだ」
太郎は思わず叫びました。よい考えが浮かんだのです。
太郎は起きあがりました。そして、こっそりと練習をしました。どういうことをしたか、それは後で申しましょう。
雲もなく風もない、よいお天気でした。あつらえた服や帽子も届きました。それを身につけると、キシさんもチヨ子も太郎も、見たところだけは、立派な手品使いでした。
三人は、町の広場に出かけました。前の日のことがあるので、もう、おおぜいの見物人が集まっていました。だが、手品を使うのは、今日は一郎ではありません。
まず、キシさんとチヨ子とがすすみ出ました。キシさんは長いはしごを持ちだして、それを両手で頭の上に立てました。すると、チヨ子がキシさんの肩に昇り、それからはしごを一段ずつ、ゆっくり、ゆっくり、昇り始めました。キシさんは足をふんばり、両腕に力をこめて、うん……と力んでいます。チヨ子は、だんだんはしごを昇っていきます……。
見物人たちはささやきあいました。
「えらい、力だ」
「力じゃない、芸だ」
「いや、力だ」
「危ないことをするなあ」
チヨ子は、はしごの一番上まで昇りました。紫の服が、日の光に照り映え、帽子の白い羽がちらちらふるえました。そしてチヨ子は、美しい声で歌いました。
魔法のはしごは、
のびるよ、のびるよ、
天までとどくよ。
天にのぼれば、
五色の花が、
咲いた、咲いたよ、
五色の花が。
歌ってしまうと、ポケットから何かとりだして、ぱっと放りました。それは五色のテープで、五色の蜘蛛の糸のようになって、あたり一面に広がりました。見物人たちは、わっと喝采しました。なんども喝采しました。
今度は太郎の番です。太郎は玉乗りの大きな毬を持ちだしました。それから籠の中から何か取り出しました。見ると、金の目銀の目の白猫のチロです。チロは首に大きな鈴をつけていました。太郎は毬の上にチロを乗せました。そして、ひょいと手を叩くと、チロは毬の上に乗ったまま、その毬をころころ動かし始めました。
チョチョチョン、チョチョチョン、チョチョチョン、チョン……太郎の手が鳴ります。ころころ、ころころ……と毬が転がります。チロはちゃんとその上に乗っていて、チリリン、チリリン、チリリン、チン……と首の鈴が鳴ります。太郎が手を叩くのをやめると、チロは四本の足で毬を止めてしまいます。
実に、見事な猫の玉乗りです。わーっと喝采がおこりました。太郎は目に涙をためて、チロを抱きとりました。
ほんとうに成功でした。思いがけないほどうまくいきました。太郎とチヨ子とキシさんとは、うれしさに涙ぐんで、手をとりあいました。一郎は、見物人が放り出してくれたお金を、拾い集めました。
「お金もうかる、お金もうかる」
キシさんがそう言ったので、三人とも笑いました。
そこへ、一郎のおじさんが出てきました。太郎からもらった薬が、不思議によくきいて、元気になってるのでした。そのお礼に、おじさんは手品の道具をすっかり譲ってくれましたし、なお、キシさんの方は力技だし、太郎の方は猫の芸だからといって、本当の手品使いの芸を、いろいろ教えてくれました。
「これならだいじょうぶだ」
キシさんも、太郎も、そう考えました。そしていよいよ、興安嶺の奥の金銀廟まで、出かけることに決心しました。
三人は、手品使い……というよりも、奇術師になりすましました。松本さん夫婦も、下野一郎とそのおじさんも、ひどくわかれをおしんでくれました。そして、何かことがあったら、松本さんのところに、知らせることに約束しました。
奇術師になった三人は、多くの荷物を持って、大連から船で、山海関に渡りました。山海関から先は、奇術をやりながら行くのです。
鉄の馬車
山海関で、大事な用がありました。奇術をやりながら、興安嶺の山奥まで行くのですから、とちゅうでどんなことが起こるかわかりませんし、道に迷うことがあるかもしれませんので、まず第一に、じょうぶな馬車と馬とがいるのです。
馬は、すぐに見つかりました。たくましい、栗毛の馬を二頭買いました。ところが、じょうぶな馬車が、なかなかありませんでした。馬車屋に行ってききましたが、ふつうの馬車きりありませんし、新しくこしらえさせるには、大変手間どります。自動車ではだめなんです。それには、キシさんも太郎も困りました。
そしてある晩、むだにあちらこちらたずね歩いたのち、宿屋に帰りますと、並木の下のうす暗いところに、ひとりの少年が、しくしく泣きながら、立っていました。
「どうしたんだい」と、キシさんは親切にたずねました。
少年はなおしゃくりあげました。
「なんで泣いてるんだい」
「家から追い出されたの」
と、少年はやっと答えました。
「追い出された……何か悪いことをしたんだろう」
少年は頭をふりました。
「ぼくは、メーソフさんのところに、小僧にあがってるんだよ。すると、この二、三日、馬車に変なことがあるから、そういってやったら……」
馬車と……というのを聞いて、キシさんと太郎とは、顔を見合わせました。太郎はもうだいぶ中国の言葉もわかるようになっていたのです。キシさんは少年を、ベンチのあるところにつれて行って、そしてわけを聞きました。
メーソフさんというのは、年とったロシア人で、古物商をやっているのです。その店にあやしい馬車が一つありました。大きな馬車で、箱は鉄板でできており、車輪も鉄でできてるのです。むかし、あるえらい役人が、旅をするとき、賊をふせぐためにこしらえたものだそうです。それが、メーソフさんの倉の中にしまってあります。
その馬車に、不思議な言い伝えがあります。何か変ったことがあるときには、その屋根がきいきい鳴るというんです。
ところが、この二、三日、少年が倉の中にはいっていくと、なんだか、馬車の屋根がきいきい鳴るようです。始めは気にもしませんでしたが、何度もそれらしい音がきこえるので、少年は気味悪くなりました。馬車の屋根がきいきい鳴りますよ、と少年はメーソフさんに注意しました。メーソフさんは黙っていました。少年はまた注意してやりました。すると、メーソフさんはひどく怒りました。
「そんなばかなことがあるものか。とんでもないことをいう奴だ。けちをつけやがって……今晩はめしを食わしてやらないぞ。出ていけ!」
そして少年は、御飯も食べさしてもらえず、外に追い出されたのでした。
「その馬車を買いましょうよ。ちょうどいいや」
と、太郎はキシさんにささやきました。
「うむ、よかろう」
と、キシさんは答えました。
そこで、ふたりは少年に案内さして、メーソフの古物店に行きました。
大きな店でした。仏像や、陶器類や、いろんな骨董品などが、いっぱい並んでいて、その奥のほうに、年とったがんじょうな男がひかえていました。顔じゅうまっ黒い髭をはやして、目がきらきら光っています。それがメーソフでした。
少年は、ふたりをメーソフの所に連れていって、馬車を見にきた人だと伝えました。
「案内して、お見せしろ」
と、メーソフはぶあいそうに言いました。
裏の倉の中には、石だの像だのが転がっていて、うす暗くて、冷え冷えとしていて、すみの方に、大きな馬車がありました。少年が言った通り、古いけれどじょうぶな鉄の馬車でした。
キシさんと太郎は、メーソフのところに戻ってきました。
「あの馬車は、いくらですか」
と、キシさんがききました。
メーソフは、じろじろふたりのようすを眺めてから言いました。
「あの馬車は、売られません」
「え、売られない……でも、見せてくれたでしょう」
「見せてはあげます……けれど、売りはしません」
キシさんは、しばらく考えてから、また言いました。
「売ってくれませんか。値段のことなら、少しは高くてもいいんですが……」
「いいえ、売りません」
そして、メーソフの髭だらけの顔の中で、目がぎらりと光りました。
「なぜ売らないんですか」
「なぜでも、売りません」
ぶあいそうな、ぶっきらぼうな返事なので、どうにもしかたがありませんでした。
キシさんと太郎は、すごすご出ていきました。
「早くめしを食ってこい」
と、少年にどなってるメーソフの声が、うしろに聞こえました。
馬車を売らないわけが、キシさんにも太郎にもわかりませんでした。見せるからには、売りものに違いありません。値段のことなら、少しは高くてもよいと、こちらから言ったのでした。きっと、メーソフは、なにかかんしゃくをおこしていたのでしょう。
けれどあの馬車なら、金銀廟まで行くのにもってこいです。ぜひとも買わなくてはなりません。何か変ったことがあるときは、屋根がきいきい鳴るなんて、ほんとにせよ、うそにせよ、おもしろいじゃありませんか。どうしたら買えるか、キシさんも太郎も考えました。先方が売らないというのを、無理にも買おうというのです。ふたりとも、知恵をしぼって考えました。
そのあくる朝、太郎はにこにこして起きあがりました。うまい考えが浮かんだのでした。
「まあ、待っていてください」
太郎はキシさんにそう言って、お金を持って出かけました。古物店には、あの少年もおり、メーソフも、昨日の通りひかえていました。太郎は元気よく飛びこんでいきました。
太郎はふんがいしたように言いました。
「メーソフさん、あなたは、世間から誤解されていますよ。みんなあなたのことを、ほらふきのインチキだと言ってますよ」
「ほう、どうしてですか」
と、メーソフはたずねました。
「昨日見せてもらった鉄の馬車ですね、あのことを、人に話したところが、あれはもう古くて役に立たないと、みんな言ってますよ」
メーソフは目玉をぐるっと動かしました。
「あの馬車はすっかりさびついていて、動きはしないと、みんな言ってますよ」
メーソフはまた目玉をぐるっと動かしました。
「あの馬車はただの飾りもので、引き出せば、ばらばらにこわれてしまうと、みんな言ってますよ」
メーソフはまた目玉をぐるっと動かしました。
「あんな馬車を、さも大事そうに飾りたてとくなんて、メーソフはとんだインチキやろうだと、みんな言っていますよ」
メーソフは、また目玉をぐるっと動かしました。
「ぼくがいくら弁解しても、誰もしょうちするものがありません。ぼくはくやしくてたまらないんです。だから、今日一日、あの馬車を貸してください。あれに馬をつけてあちこち駆けまわって、どうだい、メーソフさんの馬車はこのとおり立派じゃないかと、みんなに見せつけてやりたいんです。今日一日、貸してください」
太郎の話を聞いて、メーソフはふんがいしていました。
「よろしい、みんながそんなことを言ってるなら、うんと見せつけてやってください。メーソフの馬車は飾りものじゃない」
そこで、倉から馬車を引っぱり出して、ふくやら、磨くやら、油をさすやら大変働きました。
馬車はすっかりきれいになりました。
太郎はホテルに戻って、キシさんにわけを話し、馬車を占領してしまう手はずを決めました。前から買っておいた二頭の栗毛の馬を引いてきて、馬車につけました。一包みのお金をメーソフにあずけて、安心させました。
馬に鞭をあてると、馬車は勢いよく走りだしました。それを、メーソフは笑顔で見送りました。
馬車は、夕方になっても、夜になっても、戻ってきませんでした。メーソフは、心配し始めました。
あくる朝早く、メーソフは起きあがりました。そしておもてをあけてみると、馬車がそこにありましたので、駆けよって行くとおどろきました。
馬車の中には、変な人が三人乗っていました。白と黒との市松の服をつけ、尖った三角の帽子をかぶっている大男、それはキシさんです。五色の縞の服をつけ、ふさのついた大きな帽子をかぶってる少年、それは太郎です。紫の服に白い羽の帽子をかぶっている少女、それはチヨ子です。チヨ子のひざには、まっ白な金の目銀の目の猫が抱かれています。そして三人は、パンや、焼肉や、果物などをまん中にならべて、食事をしているのです。
そればかりではありません。馬車のかたすみには、かばんや毛布、大きな毬や金輪や、ナイフや棒など、いろんなものが積み重なっています。それに、馬車には馬も二頭ついていて、いつ駆けだすかわからないありさまです。
メーソフはあきれかえって、目をみはりました。
メーソフの姿を見て、太郎は笑いながら飛び出してきました。それから、両腕を組み、首をかしげて、いばりくさったようすで言いました。
「メーソフさん、この馬車はなかなかいいですね。すっかり気に入りました。どうか売ってください。ぼくたちは、このとおり、じつは奇術師なんです。これから、満州中を、いや世界中を、旅して歩かなければなりません。それには、ぜひとも馬車がいるんです。あなたが売ってくださるまでは、いく日でも、この中に泊りこむ覚悟をしてるんです。食べものもたくさんあるし、毛布もあるし、ピストルだって持っていますよ。さあどうです、売ってくれますか、いやですか。売ってくれなければいつまでも、死ぬまで、この馬車の中にがんばってみせますよ」
メーソフが怒りだすかと思って、太郎は内心びくびくしていましたが、メーソフはしばらく太郎のようすをながめて、それから、髭だらけの顔にしわをよせて大きく笑いました。
「ほう、あんたがたは、奇術師だったのか。そして、この馬車が、そんなに気に入ったんですか。よろしい、わたしの負けだ、売ってあげましょう。きのう、あずかった金がいくらだかわからないが、あれだけでよろしい。そのかわりに、この馬車をあげましょう。この馬車なら、世界中まわったって大丈夫だ。安心していらっしゃい」
「え、本当、本当ですか」
メーソフは何度もうなずきました。太郎はその胸にすがりつきました。キシさんも馬車から出てきて、メーソフとしっかり握手しました。
匪賊のなかへ
いよいよ金銀廟に向かっての旅です。
始めのうちは、のんきでした。奇術師といっても、それはひと目をごまかすためのもので、時々奇術のまねごとみたいなことをやるだけで、旅を急ぎました。キシさんが二頭の馬を御し、太郎とチヨ子とは、馬車の箱の中で、白猫のチロと遊びながら、奇術のけいこでもするだけでした。馬車の中には、用心のために、食べものもたくさん積んでありますし、武器もありました。太郎が持ってる不思議な地図をたよりに、町から町へ、村から村へと、進んでいきました。ところが、十日たち、二十日たつうちに、旅はしだいに困難になってきました。
村がだんだんなくなってきます。見渡す限りひろびろとした荒野の中や、いつ通りぬけられるかわからない森の中などに、いくにちも迷いこんだり、けわしい山のすそを遠くまわったり、雨が降って旅ができなかったり、いろんなことがあるうえに、夜はいつも馬車の中に寝なければなりませんでした。けれどもみんな、チロも馬も元気でした。キシさんは歌をうたったり、おかしな話をしたりして、太郎とチヨ子を笑わせました。
それから、カラマツの森の中に、また迷いこんで、四─五日も出られなかった時は、さすがのキシさんも弱ったようでした。一番困るのは、水がなかなか見つからないことでした。そしてある夕方、思いがけなくその森から出ると、すぐそこに、ひとかたまりの家がありまして、その先には、青々とした野原が広がっていました。
「村だ、村だ」と、キシさんは叫びました。
馬を駆けさせて、村にはいりました。
村といっても、十二─三軒の家だけで、その家はみんな、低い土壁に瓦屋根をのせて、入口が一つついているきりでした。そして不思議なことには、その入口はみな、がんじょうな戸が締めきってありました。
キシさんは馬車から下りて、家の戸を一つ一つ叩いてまわりましたが、誰も開けてくれる者はなく、返事もなく、家の中には人のけはいもありませんでした。
「おかしい。誰もいない」
太郎も馬車から下りて、家の戸を叩いてまわりました。
「どこにも、誰もいませんね。どうしたんでしょう」
キシさんと太郎とは、なお村の中を見てまわりましたが、やっぱり人の気配はしませんでした。それから村の横手には、大きなにごり池がありまして、その岸に、亀が幾匹かいて、きょとんと頭をあげて空を見ていました。
「はっはっは……」
キシさんは笑いました。
「人間のかわりに亀がいる」
亀はその声に驚いたように、どぶん、どぶんと、池の中に滑りこんでいきました。その時、太郎はふと思いだしました。一郎のおじさんが持っていた剥製の鳥のこと、その二つのくちばしの鳥と亀の話……それがどうやら、この池であったことかもしれません。こんな北の国に亀がいるのは珍しいことです。
太郎はキシさんを引っぱっていって、馬車に戻りました。そして、一郎のおじさんからもらった不思議な地図をだし、眼鏡をのぞいて調べました。すると、鳥と亀とが書いてあるところがあって、しかもそれが金銀廟のすぐ近くなのです。
「あ、これだ、これだ」
キシさんも眼鏡でのぞきました。
「おう、金銀廟は近いぞ」
チヨ子も、眼鏡でのぞきました。そしてにっこり笑いました。
確かに、二つのくちばしの鳥と亀との話の池です。金銀廟もそう遠くはありません。みんな急に元気になりました。
人のいない、変な村……そんなことはもうどうでもよくなりました。
夕方でしたから、食事をして、その夜はそこで、馬車の中ですごすことにしました。
その夜遅く、太郎は目をさましました。馬車の屋根がきいきい鳴るような気がしたのでした。何か変ったことがある時には、馬車の屋根がきいきい鳴ると、そう聞いていたからかもしれませんし、また実際に鳴ったのかもしれません。そして太郎が目をさましてみると、チロが起きあがって、肩をいからし、馬車のそとにじっと気をくばっていました。
太郎は耳をすましました。あちこちの家の戸口にかすかな音……それから人の足音……そんなのが聞こえるようです。馬車の屋根がきいきい鳴ってるような気もします。
太郎は、そっとキシさんを起こしました。
「人の足音がしますよ」
キシさんも耳をすましました。
「うむ何か音がしてる」
昼間は、誰もいなかった村です。それがこの夜中に……確かに音がしています。キシさんはピストルを手にとりました。そして馬車の窓を引きあけると同時に、叫びました。
「誰だ?」
外は、しーんとして、もう何の音もしませんでした。
しばらくすると、キシさんはあわててあかりをつけて、出ていきました。そしてすぐ、木の下につないでおいた二頭の馬を引っぱってきて、馬車につけました。
「馬を盗まれたら大変だった。こうしておけばだいじょうぶだ」
そしてキシさんはまた眠ってしまいました。奇術師になりすましてはいますが、やはりだいたんな李伯将軍です。太郎もチヨ子も、それに安心してやすみました。
それから長くたって、馬車が激しくゆれて、みんな目をさましました。馬が足で地面をしきりに蹴っていました。
キシさんはむっくり起きあがって、窓を開きました。外はほの白く、夜が明けかかっていました。そしてすぐそこに、まるい帽子をかぶった大きな男がふたりじっと立っています……。
向こうも黙っていました。こちらも黙っていました。黙ってにらみあっていました。
やがて、ふたりの男の内のひとりが、まっすぐに手を上げて、森の方を指しながら言いました。
「すぐに立ちのけ」
「なぜですか」
と、キシさんはとぼけたように言いました。
「すぐたちのくんだ」
と、男はくり返しました。
「何かあるんですか」
「なんでもよろしい。すぐ立ちのけ」
と、男はくり返しました。
そのようすにも、声のちょうしにも、なにか力強いものがこもっていて、命令するのと同じでした。
しかたがありません。キシさんは御者台に上りました。馬は走りだしました。
けれども、キシさんが馬を進めたのは、男から指し示めされた森の方へではなく野原の方へでした。そちらが金銀廟のほうにあたるのです。
そして野原の中を、三十分ばかり進んで、それから馬車をとめて、みんな外に出て、朝の食事を始めました。
その時、向こうの地平線のあたりから、何かぽつりと黒いものが出てきました。見ているうちに、それがだんだん大きくなります。近寄ってきます……。馬にのった一隊の人々です。銃や剣が朝日にきらきら光っています。全速力でやってきます……。
キシさんをまっ先に、太郎もチヨ子も立ち上がりました。そして馬車に乗りましたけれど、もう逃げるひまはありませんでした。
百人あまりの匪賊でした。風のように襲ってきました。十人ばかりの者が、銃や剣をさしつけて、馬車をとりまきました。ほかのものは、叫び声をあげ、ひとかたまりになって、向こうの村へ進んでいきました。
人のいないひっそりした村のようでしたが、村人達は家の中にひそんでいたのでしょう。そこへ、襲いかかったのです。そしてもう、激しい銃声がおこっていました。
その遠い銃声を聞きながら、十人ばかりの匪賊に囲まれて、キシさんと太郎とチヨ子は、馬車の中にじっと息をこらしていました。ただチロだけが、チヨ子の膝の上にきょとんとしています……。
匪賊共は、馬車をとり巻いたまま、中のようすをうかがっていました。
やがて、匪賊のひとりが声をかけました。
「お前達は、何者だ」
「ごらんのとおりのものです」と、キシさんが落ちつきはらって答えました。
二、三人の匪賊が、そっと馬車の中をのぞきこんで、みんなのようすをじろじろ眺めました。
「ほほう、手品か奇術でも使うのか」
「そうです、手品もやれば奇術もやります」
と、キシさんは言いました。
「あちこち旅してまわっているうちに、道に迷って、困っているとこです。どこか金もうけができるところへ案内してくださいませんか。手品や奇術にかけては、世界一の名人ですよ」
匪賊たちはしばらく、互いに何か相談しあいました。
「よろしい。それでは、おれたちのところへ来い。おれたちはな、金銀廟の玄王の手下の者だ。安心してついて来るがいい」
キシさんはもとより、太郎もチヨ子も、内心はっとしました。金銀廟の玄王……チヨ子の父、李伯将軍キシさんの主人……その玄王をたずねて、苦しい長い旅をしてるのです。けれど、玄王は、匪賊にうち負けて、行くえがわからなくなっているとのことですし、今こやつたちは玄王の手下だと言っていますし、どうも不思議でなりません。
キシさんは、太郎とチヨ子にめくばせしました。そして匪賊たちに答えました。
「金銀廟の玄王……噂に聞いたことがあるようです。それでは、そこへ案内してください」
匪賊が案内してくれるので、道に迷う心配はありませんでした。そのかわり、山坂になってる野原を駆け続けるので、つらい旅でした。そして二日目の夕方、金銀廟の城につきました。
キシさんとチヨ子にとっては、なつかしい故郷でした。白い塔はもとより、山にも木にも草にも、あらゆるものに見覚えがありました。
馬車のまま城の中にはいって、長く待たされて、それから広間に通されました。
荒くれた人たちがおおぜい、酒盛をしていました。
正面にあぐらをかいてる、首領らしい男が、大きなさかずきをおいて、三人のほうをじっとにらんで、いいました。
「手品とか奇術とかをやるというのは、お前達か。ひとつやってみせろ」
キシさんは、ていねいではあるが、きっぱりしたちょうしでたずねました。
「あなたが玄王というお方でございますか」
「なに、玄王だと……玄王はいま病気だ」
「それじゃあ、奇術はまあやめましょう。金銀廟の玄王のところへといって、連れてこられたのですから、玄王の前でまずやらなければ、奇術の神様が怒ります」
「奇術の神様とはなんだ」
「奇術の神様です。私共の奇術は、その神様からさずかった、とうとい術ばかりです。神さまにうそをつくようなことをしてはいけません」
匪賊の首領は、言葉につまってうなりました。そしておこりました。
「ふらちなことをいう奴だ。よし、奇術をしないというなら、ちょうど、五十人ばかりの捕虜がきているから、明日の朝、その首きりの役をさせるぞ」
キシさんは考えこみました。
ところが、キシさんのかわりに、ニャーオと……猫が鳴きました。太郎が上着の中にかくして抱いていたチロが、外に出たくて鳴きだしたのです。そしてあばれだしたのです。しかたがないので、太郎はチロを出してやりました。チロは喜んで、広間の中を駆けまわりました。
匪賊たちはびっくりしたようでした。それから、不思議そうにチロをながめて、ささやきあいました。
「まっ白な猫だ」
「金目銀目だ」
「金銀廟に祀ってあるのとそっくりだ」
太郎はチロを追っかけました。
「チロ、チロ……おいで、チロ……」
匪賊の首領はチロにひどく心を引かれたらしく、立ち上がってきてチロを捕まえようとしました。太郎はすばやくチロを胸に抱きあげました。
「いやだよ、これ、ぼくたちの大事な猫だよ」と、太郎は言いました。
「奇術の神様のお使いだよ。そまつにすると、ひどい罰があたるよ」
首領は座に戻って、腕を組んで、三人の奇術師のようすをながめました。
「どうも、不思議なやつらだ。とにかく、明日の朝、首きりの役を言いつけるぞ」
キシさんは平然と答えました。
「ひきうけましょう。奇術でやってみましょう。五十人の首ぐらい、またたくまに打ち落としてみせますし、お望みなら、その首をまたつなぎあわしてもみましょう」
チロの国
その夜、奇術師に化けてる三人は、城の中のせまい一室に、とめおかれました。
三人は、ひそひそ相談しあいました。いろいろ危急なことがかさなっています。そしてまず第一に、玄王のことをさぐりださねばなりません。
夜遅く、城の中の匪賊達が寝しずまったころ、太郎とチヨ子は起きあがって部屋から出ていきました。チヨ子は城の中のことをよく知っていますので先に立って進みました。
奥の方の部屋に行って、大きな声でチヨ子はいいました。
「もしもし、金目銀目の猫が、どこかへ行ってしまいました。こちらに来ませんでしたか」
「チロ、チロ、チロや……」
と、太郎は呼びました。
そして二人で、部屋の中を探しました。
「うるさいな。猫なんかいないよ。ほかを探してこい」
二人は、ほかの部屋に行きました。
「もしもし、金目銀目のネコが来ませんでしたか」
「チロ、チロ、チロや……」
寝ていた匪賊達は目をさましました。
「うるさいな。ネコなんかいないよ」
そして二人は、あちらこちら探しまわりました。
奇術師の子供達が猫を探しているので、誰も怪しむものはありませんでした。
けれどじつは、玄王のことを探偵しているのでした。
あちらこちらはいりこんで、それから、金銀廟の方へ行ってみました。
「もしもし、金目銀目の猫が来ませんでしたか」
小さなランプのついてるきりの、うす暗い中から、二─三人の男が起きあがりました。
「うるさいな。猫なんかいないよ。病人がいるきりだ」
「いいえ、確かにチロが、こっちへ逃げて来たんです」
ふたりはどしどし、中にはいっていきました。
奥の方に祭壇があって、金銀の厨子の中に、猫の像が金目銀目を光らしており、いろんな不思議な器物が並んでいました。そしてその前に、病人らしい男が寝ていました。
その病人の側に、チヨ子は立ち止まって、じっとその顔を見ていましたが、石のようにかたくなって、それから、ぶるぶる震えだし、そこにかがみこんでしまいました。
そのとき、病人はふいに、はね起きました。
「猫のことは、私が知っている。みんなしばらく外に出ていてくれ」
それを聞いて、ほかの男たちは、外に出ていきました。太郎は入口の見張りをしました。
そして、太郎がふり向くと、病人とチヨ子とはもうしっかりと抱きあって、泣いていました。病人はそのやせた手で、チヨ子の頭や背中をなでさすり、チヨ子は病人の胸に顔をおしあてて、どちらも黙ったまま、涙を流しています……。
その病人こそ、玄王だったのです。チヨ子の父だったのです。おたがいに話したいことが、どんなにたくさんあったことでしょう。また、どんなに涙が流れたことでしょう。
太郎は両腕をくんで、脇の方を向いて、じっと立っておりました。
金銀廟の中の部屋で、あたりは、しーんとしていました。
何もかもすっかり、はっきりしました。
匪賊の首領は、玄王のふいを襲って、その城をのっとりましたが、負傷した玄王を人質にとって、金銀廟の中におしこめ、自分は玄王に仕えてる者だ、と、勝手にいって、ふきんの土地を治め、やがてはその王になるつもりでした。けれど、玄王の部下たちがあちらこちらにいて、なかなか思うようになりませんでした。
しじゅう戦いがおこりました。けれど玄王の部下達も、玄王が人質になっているので、思いきって攻め寄せることもできませんでした。
そのことを知っていますので、匪賊達も、玄王をそまつにはあつかいませんでした。玄王のきずはなおりました、けれども、次には病気で寝つきました。それでも匪賊のうちには、だんだん玄王になついてくるものが出てきました。金銀廟で玄王の側についてる者たちは、今ではもう玄王の味方でした。
そこへ、チヨ子が来たのです。玄王は力がつきました。そのうえ、どんな病気にもきくという薬を、太郎がすぐに飲ませておきました。まもなくじょうぶになるに違いありません。
キシさんは、おどりあがって喜びました。
朝早く、キシさんは大きな刀を打ち振り、太郎はピストルをポケットにしのばして、捕虜の首きり役に出かけました。だけど、捕虜というのは、みな玄王の味方の者です。どうするつもりなのでしょうか。
城の中の広場です。匪賊の首領は数人の手下をつれて、見物に出てきました。向こうには五十人ばかりの捕虜が、荒縄で縛られ、棒杭に結びつけられて、もう覚悟を決めたらしく、うなだれていました。あの不思議なふたりの男も、その中に交っていました。
「見事にやってみせるか」と、首領はキシさんに言いました。
「奇術の法でやってみます」と、キシさんは答えました。
「目にも止まらぬ早技です」
キシさんは静かに進んでいきました。そして捕虜達の側に立ち止まって、大きな刀を二─三度打ち振りました。その時にはもう、奇術師のみなりこそしていますが、目は鋭く輝やき、勇気が全身に、みちみちて、勇ましい李伯将軍に変っていました。
匪賊達は、何かはっとして、ものにおびえたようでした。
「えー、やーあ……」
腹の底から、恐ろしい声を立てて、キシさんは刀を振りかぶりました。その刀がひらりと動いたかと思うと、一人の捕虜の縄が、ぱらりとたち切れていました。キシさんはおどりたちました。見事な手練と早技とで、捕虜達をしばっている荒縄を、ぶつりぶつりとたち切りました。
匪賊達はどよめきました。混乱がおこりました。
キシさんは、つっ立って叫びました。
「匪賊ども、静かにしろ。今こそ名乗ってやる。玄王のもとの部下、李伯将軍とはおれのことだ。降参すれば命は助けてやる。さもなければ、みな殺しだ。覚悟して、返事をしろ」
太郎もピストルをとりだしました。
捕虜達は李伯将軍の名を聞いて、一度に、わーっと歓声を上げました。たちどころに、匪賊の数人は打ち倒されました。
匪賊の首領は、ただ、あっけにとられていましたが、やがて、うなだれて、地面に両手をつきました。
「すみませんでした。ぞんぶんにしていただきましょう」
さすがに首領です。立派な覚悟でした。そこへ玄王が現われました。太郎の妙薬で病気も治ったらしく、晴れやかな気高い顔をしていました。側にチヨ子がついており、前からつきしたがっていた匪賊達が、後にひかえていました。
キシさんは走りよりました。
「おう、李伯か」
「玄王、御無事で……」
あとは言葉もなく、玄王は頭を垂れ、李伯将軍は膝まずき、互いに手をとりあって涙にくれました。
匪賊の首領は降参して、心から玄王に仕えることになりました。が、まだあちこちに、玄王の元の部下もおれば、匪賊達もいます。李伯将軍が万事指図をして、それらをみな治めることになりました。
チヨ子は、父玄王の国を見せるために、太郎を金銀廟の塔の上につれて行きました。太郎はチロを抱いて、チヨ子の後について、高い塔の中の、うす暗い階段を昇って行きました。塔の一番上のところは、せまい部屋になっていて、四方に窓がありました。
遠くまで、目のとどくかぎり、見渡すことができました。山があり、森があり、野原があり、川があります。野放しにした羊や馬なども、遊んでいます。
「そんなに悪いところではないでしょう」と、チヨ子は言いました。
太郎は黙って、淋しそうな顔をしていました。九州のおじいさんのことや、大連の松本さんや一郎のことがなつかしく思いだされるのでした。チヨ子にもその気持ちがよくわかりました。
「ねえ、帰っていっちゃ、いけませんよ」
太郎はふり向いて、微笑んで、チヨ子の手を握りしめました。
「そうだ、不思議な地図があったろう、あれを便りに、この国を立派なものにしていこうよ」
「ええ、立派な国にしましょう。そして、チロの国と名をつけましょうよ」
ふたりは一緒に金目銀目のチロを抱きかかえて、かたく握手をしました。
底本:「豊島与志雄童話集」海鳥社
1990(平成2)年11月27日第1刷発行
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。