肝臓先生
坂口安吾



 終戦後二年目の八月十五日のことであるが、伊豆の伊東温泉に三浦按針祭というものが行われて、当日に限って伊東市は一切の禁令を解除し、旅館や飲食店はお酒をジャン〳〵のませてもよいし、スシでもドンブリでも何を売ってもよろしい、という地区司令官の布告がでたという。

 戦争以来伊東へ疎開している彫刻家のQから速達がきて、右のような次第で、当温泉は全市をあげて当日を手グスネひいて待ちかまえて、すでに今から活気横溢しているほどだから、当日の壮観が思いやられるではないか。ぜひ来遊したまえ、という招待であった。

 終戦二年目の八月といえば、日本カイビャク以来これほど意気消沈していたことは例がない。と云うのは、その年の七月に、料理飲食店禁止令というものがでゝ、一切の飲みもの食べものの営業がバッタリと杜絶した。禁令というものは、かならず抜け道が現れて、裏口繁昌、表口よりもワリがよくて禁令大歓迎というのが乱世の常道だ。アル・カポネや蜂須賀小六大成功の巻となる。これが今日では常識であるが、はじめて禁令をくらった歴史的瞬間というものは、全然の初心者であるから、アレヨ、アレヨと云って途方にくれ、未来のアル・カポネたちも店をたたんで腕を組み天を仰いでいるばかり。真夏の太陽はいたずらにカンカンてりかがやき、津々浦々ゲキとして物音もない寂しい日本となってしまった。

 この時に当って、たった一日でも禁令を解除するというから、きいただけで心ウキウキしてしもう。

 私が大いなる感動をもって招待に応じたのは、云うまでもないところで、ところが私をむかえた友人は浮かぬ顔。

「アレはデマでね。話がうますぎると思ったよ。こんなことがあればいゝと、みんな同じ夢を見ているんだろうな。誰か一人がヤケッパチに思いつきを言ったのが、全市を風靡したものらしいよ」

 温泉町で、酒ものませない、御飯もたべさせない、となると、万事温泉客に依存している町柄であるから、全市死相を呈するのは仕方がない。

 駅前にはアーチをたてて按針祭の景気を煽っているが、電車から吐きだされた旅行者らしきものは私ひとり、いくらか人の肩と肩がすれちがうのは道幅一間ほどの闇市だけで、大通りは、光と影をみだすものとては熱気のこもった微風だけである。常には賑いを独占している遊興街も軒なみに門戸をとざし、従業婦もとッくにオハライバコで、死の街であった。

「しかし、君の旅情を慰めるためには別アツライの席が設けてあるから、落胆しないでくれたまえ。どうやら、君の歩く足が、とみに生気を失ったようだが」

 と、彼は私を慰めて、

「せっかく意気ごんで来てくれたのに、夢の一日は煙と消えて、こんなことを頼むのは恐縮だが、君にひとつ尽力してもらいたいことがある」

「なんだい」

「詩をつくってもらいたい」

 私は返事の代りにふきだしてしまった。生れて以来、一度や二度は詩をつくったことがないでもないが、散文を書きなれた私には、圧縮された微妙な語感はすでに無縁で、語にとらわれると、物自体を失う。物自体に即することが散文の本質で、語に焦点をおくことを本質的に嫌わねばならないのである。

 私がふきだしたのを見て、友人は気分を損ねたようである。

「まア、いゝさ。今に、わかるだろうよ」

 森の魔女がのろいをかけるような穏やかならぬ文句をのべたてて、

「君に見せたいものがある」

 彼は私をアトリエへ案内した。アトリエのマンナカに、なんとも異様な大きな石が、ツヤツヤみがきこんである。

「君に見てもらいたいのは、この石像だが」

「石像?」

「ウン」

「この石でつくるのかい」

「これが完成した石像なんだよ」

 と、彼は私をあわれみの目で見すくめた。

 詩の仇を石でうつとは不届き千万な。シュルリアリズムは拙者若年のみぎりお家の芸、はチト大きいが、アンドレ・ブルトン、フィリップ・スウポオ、ルイ・アラゴン、ポール・エリュアールetcの飜訳があるときいたら、奇妙な石ぐらいで目はくらまされないと知るべきである。事、石神(シャグジとよむよ)道祖神に関しても、拙者年来のウンチクがあって、帝釈様の御神体なぞ、余アマネクこれを知るetcの学がある。

「敗戦以来、アヷン・ギャルドに御転向だね」

 と、ひやかしてやったが、彼はムッとして、とりあわない。

「これは何物の石像です?」

「カンゾオ!」

「カンゾオ?」

「しかり!」

「ケスク・スラ・シニヒ?」(それは何を意味するや)

「スラ・シニヒ・モツ!」(それはモツを意味する)

「モツ?」

「モツ! セタジール(スナワチ)レバー!」

「アッ。ヤキトリ! 肝臓!」

「セッサ!」(しかり!)

 シュルレアリズムのウンチクも及ばないのは仕方がない。探偵小説を書いたこともあるが、解剖を見学したこともなく、ハズカシナガラ、肝臓の形を知らない。しかし、直径一間もある石の肝臓をつくる男はキチガイだ。

「肝臓はこんな形をしているもんかね」

「アイ・ドント・ノオ!」

「アレレ。コレ、肝臓デワ、アリマセンカ」

「余は胃や腸や心臓を見て、これを造った。余の見た書物に肝臓の絵がなかったのである」

「フウム。ききしにまさる天才であるよ。ヤキトリ屋の置物かな。看板にしては入口をふさいでしまうし、庭の石かな。しかし、ヤキトリ屋というものは小ヂンマリとしたもので、なんしろ目の前で焼いて食わせる店だから、庭はないはずだがな」

「シッ!」

 彼は私を制した。まさしく彼はキチガイである。端坐して、と云いたいところだが、椅子にかけているから、キチンと両膝をそろえて、シンミリ私を見つめたと思うと、うつむいて、ポタリと一としずく。驚いたの、なんの。

「わが友よ」

 彼は涙をふりはらって、おごそかに石の肝臓を指した。

「これなる肝臓はわが畏友、わが師、医学士赤城風雨先生の記念碑である。われら同志よりつどい、先生の高徳をケンショウしてそぞろ歩きの人々に楚々たる微風を薫ぜんため、これを目立たぬ街角へ放置せんとするものである。汝が詩を書かねばならぬのは、この肝臓の碑面であるよ」

 私は涙腺がシッカリしているから、とてもキチガイにウマを合わせることができない。

「詩なんてものは、時間の意識が長々とした時世に存在したものなんだな。ボクなんかは、ピカドンというような微塵劫みじんこう的現実に密着しているから、そぞろ歩きに微風を薫じるような芸当はとてもできない」

「まア、いいさ。今に、わかる」

 彼は又、咒文じゅもんをとなえた。

「君がいくらデカダンぶっても、赤城風雨先生の苦難と栄光にみちた一生をきいて、センチにならないはずはないさ。今に、君の涙腺もネジがゆるむから」

 彼はせせら笑って、

「これから君を烏賊虎いかとらさんのお宅へ案内するが、烏賊虎さんは君をもてなすために酒肴の用意をととのえて待っておられる。伊東市は温泉町ではあるが、半分は漁師町だ。烏賊虎さんは南海の名もない漁師だが、最も深く赤城風雨先生の高徳をしたう点に於て、第一級の人間なんだね。戦争中は赤城先生の病院で人手が足りなくて、手伝いに行って、ズッと臨終の瞬間も見とゞけた最も親しい人だ。三四日君を泊めてくれる筈だから、新鮮な魚をウントコサ食べさせてもらって、赤城風雨先生の話をきくがいいや。君の考えはガラリと変るぜ」

「拙者は烏賊虎さんのところへ泊まるのかね」

「あたりまえさ。君の曲った根性をたたきなおすには、そこへ泊めてもらうに限る」

 こんなわけで、私は魚市場から段丘を登ったところにある烏賊虎さんの二階に五日間泊めてもらった。私は、できるなら、五年間でも泊りたいと思ったほどである。

 漁師というものは、実にあたたかくて、親切なものだ。オ早ヨオ、だの、コンバンワ、などゝ月並な挨拶は全然やらない。ほかに気の利いた代用品を用いているわけではない。つまり、ゼンゼン喋らないのである。どんな親しい間柄でも、黙って往来をすれちがう。頭も下げない。彼らは魚に同化して、ムダなことは喋らなくなっているらしい。魚が挨拶したら、おかしなものだ。鯛のような人もいるし、ヒラメのようなジイサンもいる。アンコーにそっくりのオッサンもいるし、イワシのような娘もいる。ヒラメ族というものが、すべて一律にただヒラメであって、太郎ヒラメでも花子ヒラメでもないように、彼らにとって、人間族は一律にただ人間であって、その絶対の信頼感と同族感が漁師町に溢れているのである。

 そして漁師は魚よりも、かしこくて、おだやかである。私は伊東市の半分、温泉町ではよその土地からまぎれこんだ地廻りたちがケンカするのを見たが、あとの半分の漁師町では永久にケンカがないことを知った。若い漁師のたくましい筋骨はあげて風浪との闘いに捧げられ、同族に向って手をあげるなぞは思いもよらないことなのだ。平和な、そして、あたたかい町。

 朝の三時には、もうホラガイが暗い海面をなりわたる。百人あまりの若い人たちが各々の家からとびだしてくる。彼らをのせた十ほどの小舟が親船にひかれて、走り去る。なんの怒号もなければ、劇的な動作もない。荒天のうねりの高く砕け狂う日も同じことで、平々凡々にでかけて行くだけのことである。大謀網だいぼうあみをあげに行くのだ。

 同じころ、あるいは、もう一時間早く、近海へ漁にでる棒受け網が出陣する。

 烏賊虎さんは棒受け網の小頭で、漁期は連日朝の二時にでゝ、夜の十時に帰る。家でねむることはない。黙って家へ戻ってきて、手拭をとって銭湯へ行き、なんとなく四時間たって、だまって出かけるだけである。彼らが魚に同化する理がわかるであろう。遠洋へ漁にでると、一ヶ月、マグロなら二ヶ月の余も、海の上で暮すのである。せいぜい四十トンぐらいの船。たった四畳半ぐらいの一室で三十人ぐらいの人々が眠るのである。水のほかには自分たちの食物として米と塩を積むだけで精一パイだ。彼らはただガムシャラに魚を追う。ひねもす、魚を追う。それが彼らの一生だ。彼らの親も、その親も、その又親も、ズッとそうであった。そして彼らは、海水でといだ御飯が陸上の御飯のくらべものにならないほど美味であることを知り、釣りたての生きた魚には魚の臭気がなくて、かみしめる肉に甘さがこもり、人にたべてもろうための心尽しの数々がこもっていることを知って満足するのである。彼らは帝国ホテルのフランス料理にあこがれない。彼らの日常の食事が、それよりも豊富な妙味に溢れていることを発見し、確認しているからである。

 伊東市の、ちょうど温泉町と漁師町の境界をなしているのが大川で、一名、音無川ともいう。この川では鮎とウナギがとれ、通人の愛好するモクゾオ蟹がとれる。又、その海にそそぐところでは、三百目、四百目の黒ダイがザラに釣れる。

 漁師の子供たちは夏いっぱい川の魚やカニをとって遊ぶが、それを食べることがない。漁師町では、川の魚は子供のオモチャと解して、食用に供することがない。川の魚はイソくさいから、と彼らは云う。イソといえば、海という意に解するのが通常の日本語であるが、彼らの用法は特別で、川魚や黒ダイはイソくさいからと云って、全然ケイベツしているのである。

 潮吹のあたりの岩のある海岸では、私がたった三十分汀をぶらつくだけで、ウニを十も二十も拾うことができる。アワビもサザエもふんだんにいる。彼らはそれを土産物として温泉客に売るけれども、自分たちは食べることがない。彼らの味覚は特別なのである。良かれ悪しかれ、彼らほどガンメイ固陋な美食家はいないのだ。それは鯨が常にイワシだけ追っかけ、甚平ザメがマグロを専門に食うのと同じようなものだ。一言にして云えば、彼らは、どこまでも、利巧で、温和で、心の正しい魚にほかならないのである。

 漁師町のこの性格を知ることは、これから私が語る話に深い関係があるのである。彼らは心が正しいから、心のよこしまな人とつきあうことができる。どんな善良な人とでも、どんな邪悪な人とでも、つきあうことができるのである。

 まったく伊東市は不思議な町だ。温泉町と漁師町と、まったく性格のアベコベのものが一しょになって、とにかく調和しているのである。温泉町では名士だの富豪だのと俗世の評価を後生大事に大さわぎをするが、漁師町では人間族があるだけのことだ。温泉町では戦災で日本中に家と部屋が不足しているところから、五ツ間ぐらいの家が二百万円だったり、二間の貸部屋が、七千円、一万円などゝ吹っかけられたりするが、烏賊虎さんの二階や離れには、どこの何兵衛だかハッキリしない他国の人が全然タダで部屋をかりているのである。部屋があいているから、タダで貸してやる。無い部屋をムリして貸してやるわけではないからタダだというだけのことで、烏賊虎さんのオカミサンの手がすいている時は部屋の掃除もしてやるし、寝床をしいてやったり、たたんでやったりもしてくれる。ただし、手がすいている時だけ。全然ムダがないだけのことだ。

 こんなことを書くと、漁師町のちょッとした善良さを言いはるために、私が途方もない誇張を弄して、架空の善人をデッチあげているように思われるかも知れない。まったく私の友人たちも、烏賊虎さんが風来坊にタダで部屋を貸している話をきいて、それはよッぽど超特別の阿呆だろうと考え、広い世間にそんな人間が一人ぐらいは居ることもあるだろうと渋々承認する程度なのである。漁師町の全部が烏賊虎さんとまったく同じ気分であると云っても信用してくれないのである。しかし私は世間のくだらぬ常識には、こだわらぬことにしよう。

 漁師町では俗世の名士や富豪は問題としないけれども、単純に人間族だけで構成されて、特例がないかと云えば、そうでもない。

 この漁師町の方言では、偉い、ということを、ヅネエ、という。烏賊虎さんはヅネエなア、というように用いる。どういう人がヅネエかというと、それは、まったく魚に関したことで、天下の政治や巨億の富のあずかり知るところではない。そして、その名跡は子々孫々に語りつたえられるのである。

 たとえば、烏賊虎さんが、そうである。今の烏賊虎さんがヅネエわけではなくて、三代前の先祖が、誰もまだ見たこともない一間ほどの足のある烏賊を釣った。釣りあげることができないので、ついに海中にとびこんで組打ちして仕止めた。

 ヒコさん──三代前は鎌田彦太郎と云ったが──ヒコさんはヅネエ、ということになって、烏賊ヒコ、その時以来、鎌田家は、烏賊ノブ、烏賊タツ、烏賊虎と伝承し、虎さんの長男、鎌田吉五郎はやがて烏賊キチとよばれるようになるはずである。

 タイ釣りの名人を先祖にもつ瀬戸家は代々タイ七とかタイ平などゝよばれ、マグロ久やクジラ市やサメ六の先祖はそれぞれこれらの巨大な魚獣を相手に栄光かがやく戦績を残しているわけだ。アジ文、野口文之助は現役で、つまりアジ家を起した初代であり、不漁になやむ晩夏、ヤケ半分にイワシを探して大島方面を回航するうちに、時ならぬアジの大群を発見した。彼は若い者に後事を托してアジを追わせる一方、自らはザンブと海中にとびこみ、約一里の海を泳いで今井の浜にあがり、天城山麓をヒタ走りに走って、急を伊東海岸につたえた。伊東の町が時ならぬアジの大漁に賑ったのは彼の一大功績であり、文さんはヅネエ、アジ文の名が生れることとなったのだ。かくて彼の子々孫々、アジの名を冠してよばれ、長く父祖の功績をつたえることとなるのである。

 私はこれをシテキするのが苦痛であるが、漁師町の人々は若干体質が畸形である。それは第一に彼らがガンメイ固陋な美食家であること──つまり、偏食からきている。小さな木造船(十五トンから四十トン程度)で赤道をこえ(ただし昔の話。戦後は漁区が縮小されている)一ヶ月、二ヶ月の遠洋漁業にでる彼らは生水のほかに米と塩しか積むことができないし、伊東は元来山地であるから、耕作すべき畑に乏しく、陸上の日常に於ても充分に野菜をとることができない。否、充分にあっても、彼らは野菜を好んで食べないかも知れないのだ。実に彼らはガンメイきわまる美食家だから。

 又、彼らの勤労の性質として、主として上体を使う。大謀網をあげるにも、小舟に坐して、エイサ・エイサ満身の力でひきあげる作業であり、概ね、漁業の作業はこれに類している。彼らは魚と同じように軽々と海を泳ぐけれども、彼らの上体が逞しく発達しているにくらべて、下肢が若干退化していることを認めざるを得ないのである。したがって、漁師の体格は健全とは云われない。寒天に於ても水中に作業する勤労の性質から、豪快であると共に不健康でもあり、たとえば戦争する兵士のように、生活全般がむしろ病的傾向を帯びているのである。

 こんなわけで、漁師町でも、温泉町の人々と同じぐらい医薬が必要でもあるのである。したがって、一人の漁師──烏賊虎さんが、一人の医師に深いツナガリをもつに至るのもフシギではない。

 烏賊虎さんは赤城風雨先生を信仰していた。それは医者と患者のツナガリをこえ、人格的な讃美カツゴウに到達していたものであるが、それは友人Qに於ても同じことであったろう。

「赤城先生には、こんな患者がたくさんいました。つまり、信者です。まったく人格によるものでして、中には、先生のミタテはダメだが、お人柄が忘れられないなどゝいう信者もいました。これでは先生も浮かばれません。だいたい医者が、医学上の識見でなくて、人格上の崇敬をうけるなどということは、本人にとって満足なことではありません。別して赤城先生はそうでした。医学者としてのほかには、なんの野心もないお方ですから、私のような信者はアリガタ迷惑だったわけです」

 これは笑えない悲劇である。しかし赤城風雨先生の生涯が全部笑えない悲劇であった。悲痛でもあるし、滑稽でもある。肝臓先生──イヤ、それは信者の云うことで、町一般では、肝臓医者、これが赤城先生のアダ名だ。もって知るべし。

 友人Qがノミをふるって巨大な肝臓を創造し──胃腸と心臓をモデルにつくった肝臓のバケモノが創造中の創造でなくて何物だろう! これを街路の片隅へほッたらかして肝臓先生の高徳をケンショウしようというのは、一見、肝臓医者などゝ言いたてた全市の悪漢どもに復讐しようとの悪趣味が感じられるが、肝臓先生の一生を知るに至って、その然らざるユエンがわかるのである。まったくQはヤケを起したわけではない。胃腸と心臓を見て肝臓をつくったQは、そこに深い感慨と、芸術家の遭遇するコントンとして、又、わりきれた、ある天啓があったのかも知れない。私は今や、そう信ずるのである。

 諸君は伊東市の街路のいずこかに、Qのつくった巨大な肝臓を見ることができるはずだ。伊東市のどこ、どの街角ということをシテキすることはできない。それは名もない片隅だ。それでいゝのだ。そして又、街のいたるところであってもよい。そして、その肝臓の碑面には、ハズカシナガラ、小生の詩がきざまれていることを、小さな声で白状しておこう。詩作の情熱は高鳴っても、詩の体となすべき言句にウンチクがないから、ピカドンの徒は詩はダメです。

 しかり、しかして、肝臓先生とは何者であるか。それを語るべき光栄ある時間がせまってきたが、それは私が語るのではなく、烏賊虎さんが語るのだ。私はそれを私流儀の文章に要約しただけのことだ。以下、文中、私とあるのは烏賊虎さんである。


          


 赤城先生の生国がどこか、市役所の戸籍係にしらべてもらわないと、わからない。伊東の生れでないことだけは確かであるが、この町は旅の人にはなれているし、魚も年中旅をしているものだから、誰も人の生国などを気にかけないのである。

 先生は東京の医者の学校の物療科というところを出た人だ。これだけは、みんなが知っている。なぜなら、その物療科をつくった恩師の大先生を神のごとくに讃えて、万事につけて恩師の高徳に似たいというのが先生の念願だからである。恩師の大先生は大学教授のくせに博士号をもたなかった変り者であるから、先生も医学博士にはなることができない。町医者としては、ここはツライところであるが、恩師に似なければいけないから、仕方がない。

 汝は何者であるか、ときかれると、さしずめ、人々が肝臓医者さと答えてくれるところを、先生は、余は足の医者である、と答えるのである。町医者というものは、風ニモマケズ、雨ニモマケズ、常に歩いて疲れを知らぬ足そのものでなければならぬ。天城山の谷ふかく炭やく小屋に病む人があれば、ゲートルをまき、雲をわけて、走らねばならぬ。小島に血を吐く漁夫があれば、小舟にうちのり、万里の怒濤をモノともせず、ただひたすらに急がねばならぬ。それが町医者というものだ。

 町医者は私人としての生活をすくなからず犠牲にしなければならないものだ。急病人の知らせをきけば、深夜に枕を蹴ってとびだして行かねばならず、箸を投げすてて疾走して行かねばならぬ。病める者の身を思え。病める者を看る者の心を思え。足の医者として誠実に生きたいというのが先生の念願であり、この町の何人かの人々が、先生の存在によって心安きを得たという小さな事実をよろこびとして、つつましい一生を終れば足ると思っていたのである。

 そこへ起ったのが戦争だ。これが先生の運命をかえてしまった。

 それは昭和十二年の末ごろからの話であった。先生は妙なことに気がついた。診る患者のほとんど全部の肝臓が腫れているのだ。あまりのことに驚いて、脚気かっけの患者でも、頭痛の患者でも、容赦なく胸をあけさせて肝臓をしらべると、例外なく肝臓を腫らしている。疑いもなく肝臓炎の症状だ。

 先生は文献をしらべてみたが、すべての人間は肝臓炎である、というようなことは、どこにも書いてある筈がない。先輩にきいてみると、それは伊東の風土病だろうという返事であった。

 しかし先生の診察を乞う者は伊東市民に限らない。ここは名高い温泉地だから、日本中から観光客があつまる。それらの人々も診察をもとめてくるが、しらべてみると、みんな肝臓を腫らしている。してみれば全国的な現象で、けっして一伊東市のみの風土病ではあり得ないのである。

 先生は、あまりのことに混乱した。一時は我が目を疑ったのである。

 それまでの先生は、特に呼吸器病の医者として自ら任じていた。呼吸器病の侵略たるや、日本に於ては風土病かの観を呈し、あたら有為の人材が業半ばに吐血して去り、まさに亡国病たるの惨状である。この病菌と闘い、伊豆の辺地、曾我物語発祥の地、久須美荘園の故地のみは、自らの必死の力闘によって、この病菌の息の根を絶たんものを! 先生はケナゲにも、かく念じ、かく闘っていたのだ。

 しかるに、なんぞや。

 先生はこう考えた。これはイカンぞ。ひょッとすると、悪魔がこの地に住みついたぞ。オレが呼吸器病のために必死に闘っているのを、からかっているのだ。

 イヤ、イヤ。悪魔などを考えてはならぬ。これは神の試錬であろう。先生は心をとり直して、こう考え直した。

 しかし、神は一介の町医者たる赤城風雨ごとき者に、何を試錬したもうのであろうか。自分は一介の足の医者として全うしたいと希うほかには何も望んではいないはずだ。名声も地位も富も望んではいない。病める者が貧しければ、風雨にめげず三年五年往診をつづけて、一文の料金を得たこともない。むしろ投薬の度に雞卵や新鮮な果実や魚などをひそかに添えて平癒の早からんことのみを祈っていたはずであった。神はこれを偽善として憎みたもうのであろうか。

 一介の足の医者として全うしたいと志をたてた以上は、今さら研究室へ戻ったところで何になろう。そこには有為の人材がよりつどい、日夜うむことなく研究に従事している。足の医者たる者には、足の医者たるの本分があって、個々の患者の治療に従事して、よりすみやかに健康をとり戻してやるのが小さなしかし尊い仕事でなければならぬ。

 しかるに、何たることであろうか。患者のすべてが肝臓を腫らしているとは! 神が特に赤城風雨を選んで、これを与えたもうたのであろうか。

 先生の煩悶は真剣であった。この肝臓炎の真相を究めて天下に公表することが神の意志であるかと思案にくれたからだ。

 しかし、先生はついに自分の行くべき道をとり戻した。肝臓のこの謎を学理的に解明することは自分の任務ではない。それは研究室の人たちが果すべき役割である。

 一介の足の医者として全うすべく志をさだめた上は、あくまで臨床家としての本分のみを果すべきだ。粉骨砕身して治療に当り、病人の苦痛をやわらげ、一日もすみやかな治癒にのみ腐心して、伊豆の辺地の何百人かの人々の手足となってあげることが大切なのだ。

 かく観ずることによって、先生は安心を得た。否、かく観ずることによって、その時以来、さらに逞しい闘志に燃えたち、診察を乞う人々のあらゆる肝臓の苦痛をやわらげんものと堅く心に期するところがあったのである。

 そこで先生は冷静の上にも冷静を重ねて例外なく腫れているモロモロの肝臓をつぶさに観察し、一方に慢性的な進行性と、一方に甚しい伝染性のあることを突きとめた。家族の一人がこの肝臓炎に犯されると、数年のうちに、家族の全員に伝染することも確かめたのである。

 かくて先生はその由って来たるところに結論を得たが、これぞ戦争がもたらしたイタズラ小僧の末弟の一人だ。コロンブスによってもたらされたスピロヘーテンパリーダが忽ちにして全世界を侵略するに至ったのも戦争のせいである。鎖国の別天地、日本を侵略するに最も多くの時間がかかったとはいえ、ヨーロッパの侵略におくれることたッた六十年で、日本人の鼻を落しているのである。

 日支事変によって、日本と大陸とに莫大な人員物資の大交流が行われ、大陸の肝臓炎が輸入されてきたのだ。はじめ先生はこれを大陸カゼとよんだ。スペインカゼが心臓を犯したように、大陸カゼは好んで肝臓を犯すのである。元来肝臓炎は風邪に随伴して起りやすいが、肝臓病者がカゼをひきやすくもあるのである。

 かくて大陸渡来の風邪性肝臓炎は今や全日本を犯しつつあり、赤城風雨先生の診療室に戸をたたく患者のすべての肝臓を腫れあがらせているほどの暴威をふるうに至っているのだ。

 先生はこれを流行性肝臓炎と命名して患者に説明したが、町の人たちにはオーダンカゼと言ってきかせるのが一番わかりやすいことを発見した。

 その時以来、先生は寝食をなげうって流行性肝臓炎の臨床的研究に没頭した。そして数種の手当を工夫したが、患者はそれによって急速に肝臓の痛みがとれるので、これをきき伝えて訪れる肝臓病者が激増し、呼吸器病者はにわかに影をひそめてしまった。

 しかし先生の憂うるところは、自らの肝臓病たることを自覚する人々ではなかった。今や自覚することなく、大半の日本人が流行性肝臓炎に犯されているのである。いかにしてこれを知らしめ、正しい治療を与えてやるべきや。先生はあせりにあせった。

 それは昭和十四年、お正月、某家に於けるお茶の会の出来事だ。

 余興に福引があった。と、一人の娘がひきあてたクジが「赤城風雨先生」というのである。先生が驚いたのもムリはないが、一座の人々も目をみはり、そも何物が当るかとカタズをのんだのも当然だ。読みあげられた答えは四文字。曰く「肝臓先生」。

 その景品は牛肉のヤマト煮のカンヅメ。これを象のひく四ツ車にのせ、長いヒモがつけてあって、ひっぱる仕掛けになっている。

 司会者が立上って、

「さて、この景品には一つの約束がついております。まずクジをお当てになったお方がヤマト煮のカンヅメを赤城先生のオツムに乗せてさしあげます。赤城先生はオツムのカンヅメを落さずに、象をひいて、三べん座を廻っていただかねばなりません」

 クジを当てた娘は、美しくて、しとやかで、この町で評判のお嬢さんであった。事の意外に驚いたのは赤城先生とお嬢さんだが、一座の人々はヤンヤ、ヤンヤと大よろこび、大カッサイ。

 お嬢さんも仕方がない。意を決して、カンヅメを赤城先生の頭にのっけてあげる。サラバと先生も立上ろうとしたが、カンヅメが落っこちそうでグアイがわるいから、かるく手でおさえ、象をひッぱって静々と三度廻った。拍手カッサイ、鳴りもやまず。

 記念すべき一日であった。

 まことにウカツ千万な話だ。赤城先生はこの日に至って、自分が町の人々に「肝臓医者」とよばれていることを、はじめて知ったのである。

 先生は感慨無量であった。

 先生と肝臓炎との出会は、はじめから劇的奇怪性突飛性をはらみ、煩悶、混乱、先生をして右往左往せしめてきた。ために先生は骨をけずり肉をそぎ、したたる汗に血涙のにじむ月日を重ねたのである。しかも尚、力足らず、患者は激増し、流行性肝臓炎は日本全土を侵略しつつある。慟哭したい悲しさだ。

 しかし、この日、鳴りやまぬ拍手大カッサイを耳朶じだにのこして、静坐冥想した先生は、深く心に期するところがあった。これぞ神の告げたもうシルシであろう。慟哭をすてよ。狐疑をすてよ。逡巡をすてよ。汝の力足らざることを嘆くな。肝臓医者とよばれることこそ光栄である。余生をあげ、血涙をしぼり、骨をけずり肉をそぎ、汝の息の限り、肝臓炎と闘え!

 闘え! 闘え! 流行性肝臓炎と!

 闘え! 闘え!

 闘え!


          


 ある日、先生が好古堂という骨董屋で、万暦ばんれき物のニセモノの小茶碗を手にとりあげて眺めていると、道の左右から自転車にのった男が走ってきて、店の前でカチ合って車を降りて立話をはじめた。

「お宅の娘さんが病気だって話じゃないか。よくなったかい?」

「それが、どうも、はかばかしくいかないのでね」

「そいつア、よくねえな」

「それで、まア、これからお医者へ相談に行こうと思ってるんだ」

「フン、フン。何先生に?」

「ウチじゃア、いつも、赤城先生だ」

「なんのこった。あの先生じゃア、肝臓病と云われるにきまってらアな」

 と、男は面白くもなさそうに言いすてると、自転車にのって、お大事に、と走り去ってしまった。先生はガラス戸越しに、それをきいてしまったのである。

 又、ある日、先生が医師会の事務所に立ちよると、二階できき覚えのある二ツの声が話を交しているのがきこえる。二人とも、この町の開業医である。

「この町にも、フランスの医者が現れたな」

「なんのことだね。それは」

「アッハッハ。フランスの医者は、胃腸が悪いことを肝臓が悪いというのが常識になっているのさ」

「フム。ボクのところへ新患が現れてだね。ちかごろはカゼのことを肝臓病と云うようになったんですか、ときくんだね。それで、まア、フム、赤城氏性肝臓炎というのができたらしい。カゼばかりでなく、ロクマクでも子宮病でも、みんな肝臓炎だ。感染しないように気をつけたまえ、とね。アッハッハ」

 先生はムッとしたが、心をとり直した。言いたい者には、言わしめよ。人に対して怒ってはならない。ただ汝の信ずるところを正しく行えば足りるのである。

 先生は二人の医者に気まずい思いをさせては気の毒なので、ソッと跫音あしおとを殺して、姿を消した。

 しかし、あらゆる患者がみんな肝臓を犯されていることは、先生の診察室では動かしがたい事実となっていた。東京の友人や先輩から、先生に宛てた紹介状をもたせて患者を送ってくることがあった。それは、ほかの病気の患者であったが、しらべてみると、例外なく肝臓炎もあるのである。この事実は先生を困惑させ、思わず、こまった、こまった、と心に叫ばしめるのであった。

 そこで先生は仕方なく、

「肝臓も悪いですね」

 と何気なく言おうとしても、どうしても「も」にこだわって、妙に力がこもってしまうのだった。それからの先生は、患者を診るたびに「も」の一語と闘い、自責の苦痛と闘わねばならなかった。すべての患者が肝臓炎でもあること、この動かしがたい事実に、なぜ気おくれするのであろうか。先生はフガイなきことにも懊悩した。

 その時に当って、先生に大きな勇気を与えてくれる出来事が起ったのである。

 昭和十五年、十二月二十日であった。例年のこの日は、恩師の大先生の謝恩会が門下生によって催される日であった。先生のすむ伊東は、汽車も通らぬヘンピなところで、この地へ開業以来、十二年間も謝恩会には御無沙汰していたが、どうやら汽車も開通するようになったので、でかけたのである。

 盛大な謝恩会だ。恩師の大先生をかこんで三百名の門下生があつまっている。天下に知名の学者から医局の若い学者まで、一門の精鋭をすぐった晴れの席、一門の威風は堂々と場にみち、東海の辺地に足の医者をもって自ら任じる先生は、うれしいやら、心細いやら、同門の威風にすくむ思いであった。

 会がはじまると、指名をうけた人々の挨拶があったが、絶えて久しい出席のために、先生も指名をうけて、挨拶しなければならなかった。

「頼朝が流され日蓮が流された離れ小島のようなこの町にも、戦争以来、温泉療養所ができまして、あたかも当物療科の延長の感があり、そこの諸先生方と親しくしていただきまして、まるで医局にいるような気分にひたり、心からうれしい日夜をすごさせていただいております。孤島のようなところに開業しておりましたので、謝恩会にもいつも欠席しておりましたが、温泉療養所の先生方のおかげで医局のなつかしい気分をよびさましていただき、本日は矢も楯もたまらず参りましたが、大先生の晴れやかなお顔を拝し、又、三河教授の日夜お忙しいのに御健康そのもののお顔を拝したり、先輩の先生方や、医局の先生方にもお目にかかれて、私も十五六年は若返った思いにうたれ、今浦島の感なきを得ないのであります。この席から厚く御礼申上げます」

 こう云って先生は一礼ののち、

「さて、次に、ひとつ、お願いがございますが、昭和七年満州事変以来、ポツポツ亜黄疸あおうだんの患者があって肝臓肥大に気付くようになりましたが、その当時はちょッとフシギと思った程度で、たいして気にも留めませんでした。ところが、昭和十二年末ごろから、年々かような患者を見うけることが急速に、かつ、非常に多くなって、殊に感冒患者はほとんど肝臓肥大で圧痛あることが普通のこととなったのであります。そこでこの四五年というものは、アナタも肝臓がわるい、アナタも、アナタも、と言わざるを得ないものですから、あの医者は肝臓医者だ、あそこへ行くと、みんな肝臓にされてしもう、こう言って呆れてほかの医者へ転じてしもう人も多くなりましたが、又一方には、遠路はるばる宿をもとめて肝臓の診察を乞う人もあり、うれしい思いをさせられる折もあります。ちかごろに至りましては流感の患者、肺炎の患者、胃腸の患者の八九十%以上に、肝臓の肥大圧痛が触診されるのでありまして、昭和十二年末から現在まで、二千例あるいはそれ以上かような患者を扱ったのですが、これらを集約して、私は流行性肝臓炎とか流感性肝臓炎とか名づけて然るべき病気ではないかと思っているのであります。支那大陸から持ちこまれた流感に関係があるのではないかと思っております。いずれに致しましても、かように多くの患者に向って、アナタも肝臓である、アナタも、アナタも、と申しましては、患者の中にはインチキと思う人もあり、同業者までインチキ視しまして、あれはフランスの医者であるとか、赤城氏性肝臓炎とか言いふらし、かくては当物療科の名誉を傷け、大先生の御恩にも背き、温泉療養所の先生方の目ざましい功績までも汚すことになるのではないかと心から恐れているのであります。それでお願いと申しますのは、この事実を申上げて篤学の皆様方の御研究の参考になって欲しいと祈るものでございます。謝恩会の席をかりまして、皆々様の御関心御研究をひたすらお願い致す次第であります」

 先生がこう云って座につこうとすると、言葉も終らないかにスックと立ったのは長崎医大の角尾教授である。この教授はその後原子爆弾で死なれた由である。

「ただ今の赤城先生のお話は感動と尊敬をもっておききしました。人口いくばくもない辺地の診察室で、この事実に着目して診療に当っていられることは、同氏の研究熱心と、深い学識と、医師としての良心を証して余りあるものであります。戦争以来、特に最近年に至って肝臓疾患が激増しつつあるのは事実であり、今や我々は、診療に当って、尿や便を検査すると同様に、あらゆる患者の肝臓を診る必要があるのであります。赤城先生のお話がありましたので、私からも、一言この点を御参考までに申上げる次第です」

 先生は感動に目がくらみ、夢中に立ち上って、

「はからずも角尾先生の御激励のお言葉をいただき、孤島にひとり配所の月を眺めてくらす肝臓医者たるもの、閉ざされた冬の心に春の陽射しの訪れをうけた思いが致します。診療に当り尿や便の検査同様、肝臓を診よとのお言葉は、われわれ臨床家の金言となすべきもの、心に銘記して、終生忘れません。まことに、ありがとうございました」

 こう云って先生が座につくと、又一人、スックと立った人がある。九条武子の建設した「あそか病院」の院長、大角先生である。

「ただ今のお話は、私もこの日頃痛感しておりました事実で、近年の流感患者はすべて肝臓疾患あるものとみてよろしいようです。前にスペインカゼが流行の折も、肝臓肥大ならびに圧痛があって、これが今日残っている人があり、こういう患者に、あなたはスペインカゼをやりましたね、ときいてみれば、先ずこの推定に狂いのないことが分るのであります」

 大角院長はズバリとこう言って席についたが、これは赤城先生の日常最も経験していたことだから、その感動、感謝、涙を流さんばかりである。あまりのことに、感謝すべき言葉もなく、ただ立ち上って、

「まことに、ありがとうございました」

 それが、精一パイであった。

 そのとき恩師の大先生は、破顔一笑、

「今日の座長は私ではなくて、完全に赤城風雨先生だったね」

 と、やさしい目で赤城先生を見られた。赤城先生は穴にはいりたい思いをしたが、長崎医大の角尾教授、あそか病院の大角院長、いずれも肝臓に関する権威者であるから、その賛成と激励を得て、千万の味方を得た思い、心の奥深くよりわきあがる喜びと勇気は、たぐえるものもなかったのである。


          


 この温泉町にも、社会健康保険制度が施行されることになった。全町民加入の国民健康保険組合である。

 先生はこの町のための足の医者として自ら心に期している人であるから、このモウケのない制度にマッ先に全幅の協力を惜しまなかった。したがって、先生の患者はたいがい国民健康保険のモウケの少い患者であり、自然、県へだす国民健康保険報酬請求書類は、ほかの医者の何倍、何十倍と多いのである。

 ところが、この先生の莫大な請求書に記された患者の大部分が、例の通り、肝臓炎だ。デタラメな請求書をよこしやがると、保険課の係員が腹を立てたのはムリもないところで、そこで先生のところへ、次のような公文書がきた。


至急○保第九九二号

昭和十七年四月十五日

静岡県医師会健康保険部


  赤城風雨殿


   社会健康保険組合員三月分報酬請求書の件

 貴医御提出標記請求書中、左記患者に対し頭書の通り葡萄糖注射を行われあるも、右注射使用の理由具体的に夫々それぞれ御回答煩度わずらわしたく及照会候也


         記


┏━━━━━┯━━━━━━┯━━━━━┓

┃葡萄糖回数│病名    │患者氏名 ┃

┠─────┼──────┼─────┨

┃    七│流行性肝臓炎│黒堀八重子┃

┃   二〇│ 〃    │黒堀多吉 ┃

┃    九│ 〃    │落合芳太郎┃

┃   二六│ 〃    │赤木りと ┃

┃    四│ 〃    │炭山八五郎┃

┃   一二│ 〃    │太田太郎 ┃

┃    三│ 〃    │木崎玉太郎┃

┗━━━━━┷━━━━━━┷━━━━━┛


 先生はこれを見て気を悪くした。肝臓に葡萄糖を注射するのは当り前のことなのである。どの医者だってそうする筈だし、かりにも国民健康保険の係員ともあろう者が、それを知らない筈はありえない。それだのに、右注射使用の理由を具体的にそれぞれ回答しろとは、ワケのわからないこと、おびただしい。

 まるで先生の医学知識を疑っているのか、さもなければ、不正をはたらいていると考えている詰問状だ。

 つまり、この係員は、町の人々が先生を肝臓医者とさげすむように、先生の患者がみんな肝臓病だからインチキだと思っているのである。先生はそこに気がついたから、さッそく返事を送った。


 拝復 昭和十七年四月十五日附御照会の件拝読つかまつりました。葡萄糖注射が肝臓疾患治療に欠くべからざるものなることは医者の常識ですから、御照会の件は、小生申告の患者の殆ど全部が流行性肝臓炎なることに御不審なされての上のことかと拝察いたしますので、それについて御答えした方がよろしいかと存じます。

 小生診察の流行性感冒患者に亜黄疸又は中等度の黄疸があって肝臓の肥大ならびに圧痛を伴うことに気付いてから四五年、急激にかような患者が増加いたしております。当地に於ては、赤城氏性肝臓炎とも、オーダンカゼとも流行性肝臓炎とも呼ばれております。まことに流行性肝臓炎の名にふさわしく全国的にビマンしているのですが、小生以外の医師からは、流行性肝臓炎の病名を記載した健康保険報酬請求書が一枚もないのではないかと憂えております。流行性肝臓炎がかくも猛威を逞うしている時に、これに適当した治療が行われていないことは、病人のため、国家のため、まことに寒心すべきことではないでしょうか。この肝臓炎は満州事変頃よりポツポツ内地に侵入、昭和十三年より急速に増加拡散して国民の全階層にシンジュンいたした事が実証されます。まことに国防医学上、天然痘、コレラ、マラリヤ、ペスト等と同等あるいはそれ以上に注意を払うべきことではないかと憂慮しております。かようの事実はいくらも御身近くで御気付きになられる事と確信していますが、是非々々一度当診療所へ来て下さって、実際をごらん下さい。お待ちいたしております。


 こう書き送ったが、県の保険課からは、人も来なければ、重ねて文書もよこさなかった。そしてそれ以後の先生の請求書には、流行性肝臓炎の病名が益々増加拡散して、葡萄糖の使用量も激増したが、それはアテツケにしたことではなく、かくも先生を憂慮せしめる事態が益々深刻となりつつあったというだけのことだ。肝臓炎のボクメツこそ先生のイノチを賭けた念願だ。それにも拘らず葡萄糖の使用量は日毎に増加する一方だ。アア! 溜息をもらし、千丈の嗟嘆を放つ者こそは、先生その人であったのである。

 私は戦争のはじまるころから、先生の病院へ通って掃除をしたり、薪を割ったり、畑を手伝ってあげたりした。というのは、女中が徴用にとられたりして、奥様一人では手が廻りかねたからである。

 先生は看護婦を使わなかった。それは先生の患者に打ちこむ良心が深かすぎるからである。注射器の手入れをするのも先生であるし、薬を調合するのも先生だ。看護婦にまかせると、ツイおろそかになり易いことを怖れて、先生はすべてを自分でやらなければ気がすまなかったのだ。それなら小さな病院かというと、アパートよりも大きいぐらいの建物だ。けれども先生はめったに入院を許さない。その代り、足の医者をもって自ら心に期しているから、どんなに遠いところへでも、深夜をいとわず往診にまわった。

 先生は最も熱心な愛国者であったが、医学上の信念から、はげしく軍部と対立する事件が起った。

 戦争がタケナワとなって、町の一流の温泉旅館八ヶ所が徴用され、傷痍軍人や治療所関係者の宿舎にあてられた。その中でも一番大きい旅館が紫雲閣であるが、そこに宿泊していた傷痍軍人たちにチブスが発生した。軍医がしらべてみると、女中の一人が保菌者とわかり、そこで全従業員を隔離することゝなったのである。

 ところが紫雲閣の主人がつらつら打ち見たところ、素人目とは云いながら、女中は顔も不健康とは思われず、動作におかしなところもなくて、どうもチブスらしく思われない。

 そこで主人は女中をつれて赤城病院を訪れた。主人はわざとチブスのイキサツを隠して、ただなんとなく様子がすぐれないようだから、徹底的に調べていただきたいと申出たのである。

 赤城先生は乞われるままに、シサイに全身を診察した。そして、病気は流行性肝臓炎ひとつだけで、他にどこも悪いところがないと見究めたので、

「しばらく注射と服薬して、食事に気をつけていれば、まちがいなく治りますよ」

 と言ってやると、

「そうですか。本当に肝臓だけでしょうか」

 紫雲閣の主人は、心配そうというよりも、真剣そのものの顔である。

「たしかに肝臓だけですとも。心配なさることはありません」

「チブスや赤痢ではないでしょうね」

「絶対に大丈夫」

「チブスや赤痢じゃないかと心配したのですよ」

「その御心配はありませんよ」

「そうですか。ありがとうございます」

 主人はホッとしながらも、まだ、なんとなく心に疑念がとけないらしく、

「チブスになったら、どんな風になるものでしょうか」

「イヤ、絶対に大丈夫ですよ。肝臓以外にはどこにも悪いところがありません」

 そこで主人は女中をつれて立ち去った。

 これが事件のはじまりだ。

 主人と女中の報告をきいて、全従業員は結束して、隔離反対を陳情した。赤城先生がシサイに全身検査をして、チブスの疑いなしと診断したのだから、隔離をうけるイワレはない。これが従業員の言い分だ。

 けれども軍医がチブスと診断して隔離を命じたのだから、そんな陳情は通らない。一同は隔離されたが、赤城先生がシサイに診察してチブスでないというものを、隔離室にいられるものかと、一同は勝手にぬけだして、毎日町へ遊びにでゝしもう。カンカンに怒ったのは軍部である。

 軍の命令に服従せず、威信を傷けた憎ッくき奴。その元兇こそは赤城風雨という亡国の肝臓医者だ。ただではおかぬ。見ておれ。

 そこで全従業員の便をとり、毎日毎日、風雨ニマケズ、これを執拗に東京の軍医学校へ送る。軍の威信にかけても、どうしても従業員の便の中からチフス菌を出そうというのだ。

 赤城先生は毎日毎日全従業員が検便されていることを知ったが、自分に対する報復の一念からだとは気がつかない。軍医たちの研究熱心がさせる業と思い、それほど研究熱心なら、モッケの幸い、ともに手をとりあって肝臓炎の正体をきわめたいと思った。

 そこで一日、軍の治療所を訪れて、軍医部長に会い、

「毎日全従業員の検便しておられるそうですが、御熱心な研究態度には、まったく敬服いたしております。医者がみなそのようであれば、病人はどんなに幸福でありましょうか。また一国の健全な発達も、それによって、どれぐらいソクシンされるか分りません。しかし私の診断しましたところでは、便から病菌はでないように思われます。けれども彼らが、たしかに伝染病であることは疑いのない事実で、私はこれを流行性肝臓炎と名づけております。それは流行性感冒に随伴して起る肝臓炎で、肥大と圧痛をともない、伝染力をもっていますが、その病源菌はまだ分っておりません。私は昭和十二年末から、この特異な肝臓疾患に気がつきましたが」

 と、今までの研究をくわしく打ちあけて物語り、

「軍の全盛時代に当って、軍医の方々がかくも仕事に良心的で研究御熱心の態度を拝見して、感激の極に達するとともに、かくも御熱心な皆様方の御協力を得ることができれば、流行性肝臓炎の正体を解明することもできようと、勇躍してお願いに上った次第です。軍医学校の全能力をあげて検査に当ったなら、いかなる医大の全能力も遠く足もとへ及ばない大成果を上げるに相違ありません。なにとぞこの願いをいれて、流行性肝臓炎の研究に当っていただきたいものです」

 と、誠意をヒレキして申出たのである。

 それに対する軍医部長の返答は、威丈高に先生を睨みすくめて、ただ一言、

「検査はできるだけ厳重にします」

 叩きつけるように、言いきっただけであった。何事か期するところがあるらしく、今にみろ、夜逃げ同様ここに居られなくしてやるから、と底に薄気味の悪い勝利の確信をただよわせている。

 先生は呆気にとられて、ひきさがらざるを得なかった。

 かくて軍医達は寝てもさめても検便又検便、いそがしいのは衛生兵、鼻をつまんで便をとり、便をあつめて、毎日の二番列車でせッせと東京の軍医学校へ運んで検査する。これをつづけること五十余日。ついにチフス菌は現れなかった。軍の威信をもってしても、健全なる人体からチフス菌をとりだすことは不可能だという平凡な事実が証明されただけである。おかげで肝臓先生は夜逃げしたり、牢屋へブチこまれずにすんだ。

 ところが軍との悪因縁はどこまでも附きまとう。

 先生の無二の心の友であった老いたる女傑が、軍を恨んで自殺して果てたのである。この女傑は蔦づるという待合の女将で、先生の為人ひととなりを知り、これを遇すること最も厚い人であった。

 肝臓医者とさげすみをうけることこそ、先生の栄光であることを、彼女は最もよく知っていたのだ。先覚者の悲劇である。また、予言者の宿命でもある。真理を知るものは常に孤絶して、イバラの道を歩かねばならないのだ。

 二人は茶の友であり、又、詩歌の友でもあった。

 彼女は豪腹であったから、敵も多かった。彼女を密告する者があった。B二十九が通るたび、物干へでゝハンケチをふって合図しているというのである。

 彼女は憲兵隊へ呼びだしをうけた。身の覚えのないことであるから、疑いは晴れたが、怒り心頭に発してその無礼を咎める彼女に向って、憲兵の親玉はセセラ笑い、キサマのようなロクでもない商売で金をもうける奴は、国賊だ、サッサと死んでしまえ、と怒鳴りつけたのである。

 最も熱烈な愛国者の一人であった女将の痛憤や、いかに。身にうけた侮辱の数々を遺書に残して、彼女は即夜、なつかしのふるさとの海にとびこんで死んだ。

 肝臓先生に遺書一首。


おみなごの身にしあれば怒りに果てむ

肝臓先生は負けたまはず


 その遺作に山吹の花が添えてあった。花は咲けども実のらぬ悲しさを伝えたものであろうか。それをいだいて、先生は慟哭した。

 折しも女将の葬儀がこれから始まるという時であったのである。常の日ならば、この町に稀な盛葬であるべきものを、彼女の慈愛をうけた多くの人々は、あるいは戦地に、あるいは工場に去り、軍を恨んで身を果てた女傑の最後を葬う人は少かった。

 ボロシャツ一枚、水にぬれて駈けこんできた女があった。遠く沖にかすむ小島から、先生の往診をもとめて小舟を漕いできた娘であった。彼女の父が病んでいるのだ。すでに数日食物をとらず、全身黄色にそまり、痩せはてて明日をも知らぬ有様であるという。

 先生は嗟嘆した。

 この淋しい葬儀よ。一人かけても、せつないではないか。しかし孤島からはるばるとヒタ漕ぎに漕いで来たであろう娘を待たせ、孤島に肝臓を病んで医者を待つ病人を待たせ、どうして、ここに止まり得ようか。

「どうしてズブ濡れに濡れたのかね」

「ハイ、敵機が見えるたびに、海にとびこんで隠れていました」

 その日は艦載機が、しきりにバクゲキをくりかえしていた。空襲警報が間断なく発令されていたのである。

「よし。わかった。すぐ行ってあげるよ」

 娘の肩に手をかけて、こう優しく慰めると、先生は棺の前に端坐して、冥目合掌し、

「島に病人が待っています。行ってやらなければなりません。あなただけは、それを喜んで下さるでしょう。肝臓医者は負けじ」

 深く深く一礼を残すと、あとはイダテン走りであった。病院へ駈けつけると薬をつめたカバンをとり、私をしたがえて、一散に海へ。

 三人は小舟に乗った。私は櫂をにぎった。海上で、かなた陸上の空襲のサイレンをきく。それは淋しく、怖ろしいものである。見渡す海に、一艘の舟とてもない。浜に立つ人影もない。

 風よ。浪よ。舟をはこべ。島よ。近づけ。

 先生は舟中で娘の掌をきつく握って、手の色をみた。それは先生が肝臓疾患の有無をしらべる時の最初の方法なのである。

「やっぱり、あなたもあるようだ。どれ」

 もはや、先生は肝臓の鬼だ。慈愛の目が、きびしい究理の目に変っている。

 先生は肝臓に手をあて、強く押して診察した。

「流行性肝臓炎だ。しかし安心するがよいよ。おうちへつくと、じきに治る薬をあげますよ」

 ちょうど先生がこう言った時だった。爆音がきこえた。にわかに、ちかづいた。こっちへ来る!

 アッと思った瞬間に、私は施すすべもなく、ただ、すくんで、待つばかりであった。

「伏せ! 伏せ!」

 先生は叫んだ。伏すことのできない私を、怒りをこめて、にらんだ。その先生は伏さなかった。

 飛行機は私たちの舟をめがけて急降下する。先生はそれをジッとにらんでいる。耳を聾する爆音。すべてが、メチャ〳〵にひっくりかえった。

 気がついたとき、私は海上を漂っていた。かたわらに、小舟が真二ツにわれている。娘が歯をくいしばって、浮いている。しかし、先生の姿はなかった。

 そして先生の姿は永久に消え、再び見ることができなかった。遺品の一つといえども、浜に打ちあげられてこなかったのだ。

 壮烈なる最期である。しかし、あまりにも、なさけない。どうして私が死に、先生が助かることが出来なかったのだろう。

 思えば地上にすら人影ひとつ動くもののないとき、一艘の小舟のみが海上を漂うことのいかに冒険であったことか。敵機がこれを軍事的な何物かと誤認することは当然だった。

 私は茫然として為す術を失い、ただ先生の姿を待って海上に漂うのみであったが、やがて、夕頃、警報も解除となり、救助艇に助けあげられた。娘は腕に負傷していたが、ケナゲな娘で、よく最後まで、私とともにがんばってくれた。

 人々に助けられても、娘はうつむいているのみで一言も喋らなかったが、自分のために先生を殺したことの自責に、あらゆる言葉を失っていたのであった。


          


 こうして肝臓先生は相模湾の底深く無と帰してしまったのだ。

 私は烏賊虎さんから先生の生涯の事蹟をきき終ると、感無量であった。このような仁者を、このような粉骨砕身の騎士を、業半ばにして海底のモズクと化した悲しさよ。しかし、また、なんたる壮烈な最期よ。

 私は、今見下している南海の夏の太陽のギラギラした海に、無と帰した先生の何かが、たとえば放射能のように残り、漂っていると思うと、そのなつかしさに、たまらなくなるのであった。

 私は腸からほとばしる涙を感ぜざるを得なかった。そして私は、私の無力を知りながら、この偉大な先生のために碑銘を書きしるすことの光栄に感奮し、筆も折れよと握りしめて、そして書いた。


 この町に仁術を施す騎士住みたりき

 町民のために足の医者たるの小さき生涯を全うせんとしてシシとして奮励努力し

 天城山の炭やく小屋にオーダンをやむ男あれば箸を投げうってゲートルをまき雲をひらいて山林を走る

 孤島に血を吐くアマあれば一直線に海辺に駈けて小舟にうちのり風よ浪よ舟をはこべ島よ近づけとあせりにあせりぬ

 片足折れなば片足にて走らん

 両足折れなば手にて走らん

 手も足も折れなば首のみにても走らんものを

 疲れても走れ

 寝ても走れ

 われは小さき足の医者なり走りに走りて生涯を終らんものをと思いしに天これを許したまわず

 肺を病む人の肝臓をみれば腫れてあるなり

 胃腸を病む人の肝臓をみれば腫れてあるなり

 カゼひきてセキする人の肝臓をみればこれも腫れてあるなり

 ついに診る人の肝臓の腫れざるはなかりけり

 流行性肝臓炎!

 流行性肝臓炎!

 戦禍ここに至りてきわまれり

 大陸の流感性肝臓炎は海をわたりて侵入せるなり

 日本全土の肝臓はすべて肥大して圧痛を訴えんとす

 道に行き交う人を見てはあれも肝臓ならむこれも肝臓ならむと煩悶し

 患者を見れば急いで葡萄糖の注射器をにぎり

 肝臓の肥大をふせげ! 肝臓を治せ!

 たたかえ! たたかえ! 流行性肝臓炎と!

 かく叫びて町に村に山に海に注射をうちて走りに走りぬ

 人よんで肝臓医者とののしれども後へはひかず

 山に猪あれども往診をいとわず

 足のうらにウニのトゲをさしても目的の注射をうたざれば倒れず

 ついに孤島に肝臓を病む父ありて空襲警報を物ともせずヒタ漕ぎに漕ぎいそぐ

 海上はるか彼方なり

 敵機降り来ってバクゲキす瞬時にして肝臓先生の姿は見えず

 足の医者のみかは肝臓の騎士道をも全うして先生の五体は四散して果てたるなりき

 しかあれど肝臓先生は死ぬことなし

 海底に叫びてあらむ

 肝臓を治せ! 肝臓を治せ! と

 なつかしの伊東の町に叫びてあらむ

 あの人も肝臓なりこの人も肝臓なりと

 肝臓の騎士の住みたる町、歩みたる道の尊きかな

 道行く人よ耳をすませ

 いつの世も肝臓先生の慈愛の言葉はこの道の上に絶ゆることはなかるべし

 肝臓を治せ

 たたかえ! たたかえ! 流行性肝臓炎と!

 たたかえ! たたかえ!

 たたかえ! と

底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房

   1998(平成10)年920日初版第1刷発行

初出:「文学界 第四巻第一号」

   1950(昭和25)年11日発行

※底本のテキストは、著者の直筆原稿によります。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:砂場清隆

校正:土屋隆

2008年48日作成

青空文庫作成ファイル:

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