中支生活者
豊島与志雄
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杭州へ行った人は大抵、同地の芝原平三郎氏の存在に気付くであろう。
杭州は蒋政権軍資の源泉の一つでもあったし、また抗日意識の最も旺盛な土地の一つでもあったし、最近まで軍事上の前線的地域に位置してもいた。然るに今日、この地の治安は美事に確保されている。それには種々の原因もあろうが、芝原氏の力も大に与っているように思われる。
芝原氏は或る要職についてる人であり、其背後関係も見逃してはならないが、然し何よりも、杭州の×××の顧問をし、また××の顧問をもかね、×××の元締であり、且つ街の親分である。
杭州に新世界という謂わば綜合娯楽場があり、各種の娯楽機関が備わっている。この中庭の卓子の一つに腰を下し、芝原氏と共に茶をすすっていると、通りがかりの市民たちが芝原氏に挨拶をしてゆく。それらの人々の中には、町の顔役もあり、与太者もあり、職業婦人もあり、新世界に出入りするあらゆる種類の人がある。
芝原氏が声をかけると、卓子のまわりにずらりと数名の人々が居並ぶ。中には何か用件を耳語する者もいる。さて、立って帰りかける時にも、芝原氏は一銭の茶代さえ置かないし、同行者にもそれを禁ずる。平素何等かの機会に充分の付け届けがしてあるのであろう。
芝原氏に街の娼家へ案内を頼むと、娼家の主婦は一同を控室へ慇懃に導き、茶をすすめ、手あきの美女を侍らしてくれる。但し控室より奥へは踏みこんではいけない、茶代を置いてはいけないことも前と同様である。
たまたま、聚豊園などの一流料理店で結婚式が行われる場合、その有様を見たいと思う者は、芝原氏に頼むがよい。招待客しか入れないその広間に、芝原氏は依頼者を案内してくれる。モーニング姿の新郎と白紗を頭からまとった新婦とが相並んでるのへ、四方からテープや切紙を投げかける賑かな室の中で、闖入者たる芝原氏へにこやかな目礼をなす人が多数である。
すべてそれらのことが、何等気持の上の摩擦もなしに自然に行われる。そして芝原氏自身は、同地に妻女を携行せず、一人暮しではあるが、酒を嗜まず、遊里に入らず、粗末な支那服をまとい、巧みな地方語をあやつり、微髯の丸顔に笑みを浮べ、悠然と歩いている。
芝原氏の斯かる存在は、所謂支那浪人などという概念から遠いものである。また杭州市民間の氏の勢力は、氏の背後関係を割引して考えても、宣撫工作などで得らるるのとは異ったものである。殊に、氏が懇意にしている人々のうちに、幾名かのインテリ女性らしいものを見受けるのは、注目すべきであり、恐らくはインテリ男性も相当にいるだろう。
芝原氏が現在如何なる仕事に力を注いでるかは、茲に省くとして、現在のような地位を杭州市民間に獲得するには、つまり、体当りの骨法でいったことが、氏の言葉によって推察される。体当りの骨法でゆくというのは、茲では、身を以て民衆の中に飛びこんで共存的生活をなすことを意味する。
新支那中央政府が成立した現段階に於ては、宣撫工作などというものも或る微妙な色合を持たなくてはなるまい。周仏海氏は、日本の宣撫工作について、それに助力させる中国人の人物選定の問題に関し、一種の不満を述べていたが、そういう問題はもはや中央政府に返上してよかろう。今は、中国人と共存的生活をなす肚のある日本人が要望される。
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蘇州へ行った人は大抵、蘇州百貨公司の現状に注意を惹かれるだろう。
これは元来、大丸百貨店の支店であり、名称もそうであったのだが、支那風に蘇州百貨公司と改められたのである。そこには、さまざまな地色の絹布に金糸銀糸で模様を浮べた刺繍織物や、透き模様入りの白麻のハンケチなど、蘇州名産は云うまでもなく、多くは日本産のあらゆる品物、凡そ百貨店に普通あるあらゆる品物が豊富に並んでいる。
売子は、蘇州美人の称ある蘇州の町の選りぬきの少女たちである。彼女たちの美貌に心惹かれて余計な買物をする旅行者もあるとかいう。こういう町の少女たちを雇うのに、初めはなかなか困難だったそうだが、現在では募集すれば志願者が多すぎて困るほどあるらしい。
ところで、問題は売子ではなくて、顧客である。日本人がここに来るのは当然であるが、支那人の客が非常に多い。午後になると、蘇州の町の上流中流の人々、殊にモダーン好みの女性たちが、数多集まってきて品物を物色する。やがてここが蘇州の流行の中心となるのも遠くはあるまい。
日本人経営の店でかくも支那人を惹きつけてる所は、他に類が少いだろう。それには種々の原因があろう。この百貨公司が蘇州第一の店であり、品物も豊富なのが、その一つに数えられるだろうし、蘇州は殆んど今次の戦闘がなかった都会で、従って戦禍を蒙ることも殆んどなく、且つは古い文化の都会で抗日意識の比較的稀薄だったことも、その一つに数えられるだろうし、其他いろいろあろう。
然しながら、この蘇州百貨公司の支配人田中正佐氏の努力を見落してはならない。田中氏は中支への物資供給に主要な役目をも勤めながら、百貨店を通じて蘇州の民衆に働きかけ、その文化工作にも意を用いている。そしてこの蘇州百貨公司は、氏の語るところに依れば、月に二千円の損失だという。この損失は、長い目で見れば一種の投資だとの見解も成立するだろうけれど、然し、一個の営利会社でこれを押し切ってるところに注目を要する。
支那現地の人々がこぞって憤慨しているものに、一攫千金を夢みて渡支して来た利権屋や商人の多数が第一に数えられる。これは殆んど常識的な事柄にさえなっている。然しながら、更に一般的に、直接目前の利益を目指す性急さが日本の個人資本及び会社資本の通弊だと、心ある人々から認識され始めてきた。これは、つまり、観念的には支那を食い物にするということになる。それほどでなくても、当面の利益を挙げないことが責任者の無能を表示するものと見る、誤った性急さがなお多かろう。このことに関係があるかどうか私は知らないが、華中蚕糸のような大会社に対する現地の人々の非難は、充分考慮に入れなければなるまい。
こういう現状に於て、蘇州百貨公司のやり方は注目の要があるというのである。これはつまり、一営利会社の立場にばかりでなく、蘇州民衆の立場にも立って営業が続けられているのであり、観念的には日支共存の思想にまで延長出来得る萠芽を持っているものだと、この方面に全くうとい私が想像するのは、行きすぎであろうか。
結局は経済力資本力の問題だと人は云うだろう。然し私はそんなことを茲に取上げるのではない。これを機縁にして、支那民衆の中へ共存生活の気持ではいってゆくか否かを、考えてみたいのである。日本の側に於てこの根本の考察を誤ったならば、揚子江は常に経済的条虫であり上海は常に経済的癌腫だとの状態が、支那から除去されないだろう。
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治安工作の方面や経済提携の方面について、私が以上の如き不馴れな筆を運んだのも、喜ばしい事実に直接触れたからに外ならない。今次の戦争を真の聖戦たらしめ、今次の事変を支那民衆の解放の転機たらしめ、新支那中央政府に愛国運動たるの面子を保たしめ、かくして東亜新秩序を牢固と確立するためには、あらゆる方面に於て、一応支那民衆の側に立って物を考えてみることが必要であり、その上で肚を据えて支那民衆の中へはいってゆく人々が何よりも必要である。殊に文化部面に於てそうであることは云うまでもあるまい。
この意味で、上海に於て大きな役割をしているところの、自然科学研究所の上野太忠氏や内山書店の内山完造氏や、また中華映画の川喜多長政氏や、其他茲にちょっと名前を遠慮したい要職の人々があるのは、意を強うするに足ることである。但しこれらの人々について何かを云うのは、今は差控えよう。
たださし当っての問題として、私が見聞したところでは、各地に幾つかある日語学校の教材について、考慮の余地が充分あるように思われる。杭州の日語専門学校などには中等学校卒業生や専門学校卒業生など集まっており、日語の教授は熱心になされ、学生の進歩も速かなようであるけれど、その教材の不足は同情に価するものがある。
茲に教材の不足という意味は、適正な教材のそれを指すのである。適正な教材とは、偏狭な日本的な何かを上から押しつけるようなものではなく、新東洋文化建設のためにも、一応は学生等の側に立って考究し検討されたもの、そういうものであるべきだと私は理解している。そしてそういう教材が実に不足しているのである。この不足を満すためには、多くの人の協力を必要とするだろう。
更に、小学校に於ける日本語教科書の問題、日本語或は支那語の児童読物の問題など、未開拓の領域は限りなく広い。
信教の方面に於ても、仏教によるいろいろの工作が行われてるようであるけれど、充分の見透しがついているのであろうか。支那のインテリ階級は、日本のそれと同様、殆んど宗教に関心を持っていない。また、今もなお百名や二百名の僧侶が修業してる大寺院があり、由緒ある名刹は至る処にあるが、これらは大抵、所有の不動産からの収入で支持され、一般大衆にとっても、仏教はもはや生きてる信教ではなくなっている。こういう実情に対して、仏教班首脳部の方針は、並びに派遣員の見解は、如何様に建てられているのであろうか。単に名刹の保存のみが目的ではあるまい。
其他、一々挙げれば限りがない。そしてこの枚挙に遑ないほどの各部門に於て、今や、共存の理念を以て民衆の中へ能才のはいってゆくのが待望されてる時期なのである。
眼を転ずれば、中支の風光は日本のそれに甚だ似ている。鎮江郊外の古の竹林の七賢の伝説のある竹林寺などを訪れる者は、松や櫟の立並んでる小山、山裾の竹林、谷間の田畑、小鳥の声、あらゆるものによって、全く日本に在るの感がするであろう。また杭州の町中、掘割の両側に楊柳の立並んでる静かな街路は、新潟の町の裏通りに彷彿たるものがある。また、上野の不忍池を理想的に拡大し美化すれば、中支随一の名勝たる杭州西湖ともなるだろう。が然し、揚子江の水は赤く濁り、沿岸の支那海も赤く濁っている。歎声はそこから起るのである。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月26日作成
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