少年文学私見
豊島与志雄
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現今の少年は、非常に明るい眼をもっている、空想は空想として働かしながらも、事実のあるがままの姿を、大袈裟に云えば現実を、じっと眺めそして見て取るだけの視力をもっている。これは、実証主義的精神の、また唯物論的精神の、遺産を得ているからであろうか。更になお、科学的教育を受けているからでもあろうか。とにかく彼等の眼は、架空なものを許容することが非常に少なくなっている。
少年のための文学は、だから、可なり現実的なものでなければなるまい。既に童話に於ても、現在では、妖精や精霊などは死んでしまった。王子や王女なども放逐された。動物たちも殆んど口を利かなくなった。そしてただ子供たちの日常生活のさまざまな様相が、いろいろな香気を立ててるだけのことが多い。童話でさえそうであるからして、まして文学は、人形芝居であることをもう止めなければなるまい。人形芝居というのは、人工的に架空的に拵えられた人物が活躍するの謂である。そういうものでは、少年等の明るい眼を持ちこたえることが出来ないだろう。──これは第一の条件。
次に、現今の少年は、或る精神的な重荷を負っている、というのは私の勝手な解釈であろうか。まず第一に、小学校及び中学校に於ける勉学の負担が非常に重くなっている。或は上級学校への入学準備のために、或は子供の成績についての父兄の見栄のために、或は科目の増加のために、勉学が彼等の重荷となっていることは茲に云うまでもあるまい。次に、そして之が最も重大なことであるが、社会的雰囲気の重みが、少年等の肩にのしかかっている。一言にして云えば、社会組織の問題、経済機構の問題、民族並に国家の問題、平和と戦争の問題、其他の問題が紛糾錯雑して、空中に重々しい暗雲をたれ、考える者と考えざる者とを問わず一般に、或る重圧を加えてることは事実である。敏感な少年等がその重圧を感じない筈はない。斯くして、意識的にせよ或は無意識的にせよ、重荷の下に彼等の額は曇っている。少年というものについて吾々が想像するような朗らかさと溌剌さとの輝きを、その額に見出せるような少年が、果してどれだけいるか。
こういう状態にある少年のためには、如何なる文学が要望されるであろうか。吾々は文学を、或る距離をおいて味い楽しむことが出来る。それ故、他の芸術的条件が具りさえすれば、如何なる現実暴露にも苦悩にもたじろがない。けれども少年にとっては、文学は身近に存在するものであり、その感銘は直接的である。だから文学は面白くなければならないと同時に、前述の通り何かしら或る重荷の重圧の下にある彼等である故、直接に力を与えてくれるものでなくてはなるまい。観念的な支持を差出してくれるものでなくて、生々しい光を放射してくれるものでなくてはなるまい。なお云えば、彼等を面白がらせると共にじかに救ってくれるものでなくてはなるまい──これが第二の条件。
この二つの条件を考えると、少年文学が如何なるものであるべきか大体の見当はつく。そして少年文学というものが非常に困難なものとなってくる。
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実際、少年文学は非常に困難なものである。私は前に二つの条件を述べておいたが、それが、現代の時代においては、互に矛盾するもののようである。即ち、現実的であるということは、極端に云えば救われないことに通ずるものであるし、救われるということは、極端に云えば架空的な空想的なことに通ずるものである。この矛盾を克服して、而も面白いものでなければならない。面白いということは最初の条件であること勿論で、随って殊に云わなかったまでである。
この困難をつきぬけるには、ただ一つの事に頼る外はあるまい。即ち、多少きざな言葉だが──きざと聞えるほど吾々が縁遠くなってることだが──生の喜び。現実に生きてるその生きてることの喜びである。これは少年の心情にじかにふれるものであって、而も山野の神々や種々の理想と共に眠ってしまったものである。後者をよび覚すことはもう困難であるとしても、前者を蘇らすことは不可能ではあるまい。
茲に、現実的ということを再考しなければならないが、少年にとっては、現実の範囲が既に大変拡大されている。知識の普及、殊に実写映画の影響によって、現代の多くの少年にとっては、アルプスの頂上も、深海の底も、北極の氷山も、アフリカの猛獣も……それほどでなくとも、汽車、汽船、飛行機、工場、田地、すべて身近なものであって、空想郷のものではない。魚類や昆虫の生態にまでも、親しみがあろう。斯くて、地上に存在する凡てのものが彼等にとっては現実的であるならば、その中に於て生の喜びを復活させることは、文学技法によって困難ではあるまい。種子の萠芽の驚嘆すべき力のクローズアップも、文学に於て不可能ではあるまい。そして生の喜びが復活されたところに、彼等は救われたことを感ずるだろう。
現在日本に於て行われてる少年小説もしくは少年物語は、右の線に沿って発展させられてるかどうか。これは甚だ疑問である。いな反対でさえあるものが多い。大抵面白い作品であることは事実であるが、その面白さ、その興味は、冒険的なもの、怪奇的なもの、感傷的なもの、頓知的なもの、其他勇壮も悲愴も悉く、偶然の機会にかかってるといってもよい。そしてこの偶然の機会そのものが、それらのものを、たとい現実的な道具立の中に置かれていようとも、軽薄なもの人為的なものとして浮上らせる。それは作品を人形芝居となすだけである。
なおその上、この人形芝居に、教訓的な道徳的な意図が加えられる。そしてこの意図は、人はかく生きなければならないということから発したものでなく、人はかく行わなければならないということから発したものである。即ち、真実に生きることを示したものではなくて、或る観念を以て、或る規範を以て、行為を規定したものである。だからその教訓や道徳は、外から少年の心情を束縛することにだけ役立って、決してそれを明朗に活溌に躍り立たせはしない。
それらのことは、云わずとも分ってることであって、私は一言概括したにすぎないが、然しここに重要なのは、その由って来る原因である。なぜそうなったか、その原因を考察する時に、少年文学の大事な問題につき当る。
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少年文学は、一体、大人が見てそして感じたものを少年に示すという立場で書かれるべきものであろうか、それとも、少年として──というのが無理ならば、少年のそばに身を置いて──書かれるべきものであろうか。云いかえれば、大人の頭脳に映ったものを少年にも分るように再現されるべきものか、それとも、少年の頭脳に映ったものの再現であるべきか。──私は躊躇なく後者だと答える。
少年の頭脳に映ったものの再現ならば少年自身の手でしか書けるものではない、などという理窟はやめよう。私はただ魂の据え方精神の持ち方をいうのである。例えば寓話に於ては、その理知は大人のものであってもその情意は子供のものである。童話に於ては凡て子供のものである。少年文学に於ては、凡て少年のものもしくは少年に転位されたものであろう。
然るに、現在行われてる多くの少年小説とか少年読物とかは、大人の立場から書かれたもののようである。大人の頭脳に映ったものをただ少年にも分るようにという工夫だけのもとに書かれたもののようである。だからそれは、大人の文学──而も興味中心の低俗な大人の文学──の延長もしくは歪曲にすぎなくなる。随って少年にとっては、如何に道具立に苦心が払われていようと、つまりは人形芝居であり、如何に道徳や教訓がもりこまれていようと、つまりは模型であって、生きた血の通ってるものとはならない。
固より、大人の立場から書かれた少年文学でしかも立派なものが、ないとは云えない。然しそれは大人にとって立派なのであって、少年にとってもそうであるかどうか疑わしい。大人にとっても少年にとっても真に立派なものがあるとすれば、それは中性的なもの、なお云い得るならば神性的なものであって、それこそ凡そ芸術の極致であろうが、茲ではそういう最高のもののことを云ってるのではない。
一体世間では、嬰児は嬰児として大切にされるけれど、次に早くも子供の時から、そしてなお少年になるに及んで、あらゆる点で、大人的なものを如何に多く押しつけられてることか。彼等の眼が早期に大人的となり、彼等の情意が早期に大人的となり、即ち彼等が早熟することが、如何に多いか。之を称して躾がよいとか賢明だと云うのもよかろう。然しその反面には、心の底に或る窒息されたものがあろう。少くとも少年文学は彼等のうちの何物をも窒息さしてはならない。小児の魂を失わない者、大人的な種々のものを獲得しながらも子供的なあらゆるものを大きく生長さしていく者、そういう者のことを考える時、或はそういうことの出来る社会のことを考える時、云い知れぬ愉悦を覚ゆるのは私ばかりであろうか。
なお少年文学については、一種の理想、即ち少年の精神の嚮導となりそれに方向を指示してやるようなもの、それから一種のヒロイズム、即ち少年の精神を刺戟してそれに力を与えてやるようなもの、其他いろいろのものが要求されるだろうけれど、要するに、最高の極致にあるものは別として普通には、少年のそばに身を置いて書かれるということが最も大切であって、大人の立場からいろいろのものを押しつけるのは、彼等の何物かを窒息させることであり、彼等に生きてる喜びを与えるものでは決してない。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月25日作成
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