ふざけた読書
豊島与志雄


 某氏ある時、年賀状の返信を書いていた。固より、こちらから先に賀状を出すような人ではない。受取ったものに一つずつ返信を書いてゆくのである。然るに賀状の中には、往々、姓名だけで住所のついていないのがある。某氏は遂に筆を投じて、歎息して云う。「住所を書きこむくらいの配慮はしておいて貰いたいものだ。人に返信を書かせるばかりか、名簿をくって住所を探し出すの労をもとらせる。こんなのは却て礼を失するものだ。」

 そういう気分の時には、賀状を書くべからずである。


 某氏ある時、数冊の寄贈書の中から一冊を選び、炬燵かなにかにあたりながら、その書物を覗こうとすると、折り畳みのまま裁断してないものだった。彼はその紙をぱらぱらとめくって、歎息して云う。「書物の縁を裁つくらいの配慮はしておいて貰いたいものだ。人にわざわざ読ませるばかりか、頁を切るの労をも取らせる。こんなのは読者に親切な所以ではない。」

 そういう気分の時には、書物を読むべからずである。


 縁を裁たないもの、フランス式の仮綴の書物は、昔は甚だ少なかった。現在では非常に多くなった。高価な贅沢なものには殊にそれが多い。──そういう書物の頁を、読むに随って切ってゆくことが、得も云えぬ楽しみだった時代がある。またそういう年齢もある。(雑誌については、読むところだけの頁を切ることが、いつも変らぬやり方らしい。)けれども、読むに随って頁を切ってゆくことは、よほど堅固な製本のものでなければそれに堪えない。また物によっては、それは興味を減損することもある。

 更に、某氏の言がある。「僕は縁を裁たない書物なら、一度にすっかり頁を切ってしまう。それから、先ず扉を見、序文があればそれを読み、次に奥付を見、跋があればそれを読み、そして徐ろに、全体の頁をぱらぱらめくってみる。そういう風にして書物を眺めたり弄ったりしてるうちに、大体の内容は一通りのみこめる。それによって、精読すべきかどうかを決定するのだ。」

 これは、少々ひどすぎる。書物をもてあそんでるうちに、その内容がいくらか分ってくるということのうちには、非常に危険な錯覚が交ってるのは、常識によっても明かである。一つの著述が種々の体裁の書物として出版されている場合には、どうなるであろうか。要するに、目にふれただけの文字とその可能な延長の範囲内に於てしか、理解されてはいないのである。


 某氏ある時、一冊の長篇小説を取上げ、作者が何を本当に云いたかったのか、手取り早く知るために、先ず最後の一章を読んだ。さっぱり分らない。次にその前の一章を読んだ。少し興味が持てる。次にその前の一章を読んだ。面白い。次にその前の一章を読んだ。つまらない。変だなと思って、更にその前の一章を読んだ。……かくして、某氏は遂にその小説を一章ずつ逆に読んでしまったのである。──読後の感想を聞いてみると、極めて正しいそして鋭い意見を述べた。筋の興味に甚だしく引きずられる小説や、筋の興味が殆んどない小説などは、こういう読み方をするのもよいかも知れない。

 一読してすぐ理解されるようなものはつまらない、とは多くの読書家の持論である。順に読んでも逆に読んでも、それに堪え得るような書物は、感想集や日記の類ばかりでもなかろう。

 然し、読書の真の楽しみは、書かれている文字だけを辿ることではないらしい。行と行との間をも味読するということは、そういうところから起ってくるのであろう。更に、如何なることが云われてるかが問題でなく、誰がそれを云ったかが問題だ、ということになると、つまり真意が問題になると、一層むつかしくなってくる。人間のパラドックスは、あらゆることが云われてるが何一つ理解されていないことだ、とアランは書いている。


 私は以前、老子を読んで、自分の虚無的な頽廃的な気分に甘えたことがあった。そういう風に読んだものである。最近老子を読みながら、しきりに文学のことを考え、文学上の種々の問題を考えなおした。そういう風に読んだのである。更に数年後、老子を読みなおすことがあったら、果してどういう風に読むであろうか。

 某氏ある時、夜眠れぬままに、或る難解な書物を取出し、一頁と読まないうちに眠り、そののち幾夜も、同様にして、遂にその書物を二頁とは読まずに終ったが、然しその書物は、彼を眠らせ心身を休めてくれる最も貴重なものとなったという。この話、比喩ならば面白いのである。

底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社

   1967(昭和42)年1110日第1刷発行

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2006年425日作成

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